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2012年08月哲学130: 理解のためにヘーゲルの言葉だけを書くスレ (423)
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理解のためにヘーゲルの言葉だけを書くスレ
1 :2010/10/28 〜 最終レス :2012/11/19 絶対者は精神である。・・・・これが絶対者の最高の定義である。 この定義を発見し、この定義の意味と内容とを概念によって理解すること・・・ あらゆる宗教、哲学はこの目標をめざしてひしめき合った。 世界史はただこの渇望からのみ理解されるべきである。
2 : 真理が現実に存在するためにとりうる真の形態は、学問としての体系の他にない。 ・・・いいかえるならば、真理が現実に存在するのは、概念というエレメントにおいてのみである。
3 : 真なるものを、実体としてばかりでなく、まさに主体として把握し、表現すること。 ・・・生きた実体は、存在と言っても、真実には主体であるところの存在である。 ・・・生きた実体とは、その実体が、自分自身を定立する運動であり、みずから他者 となりつつ、そのことを自分自身に関係づけ媒介するという、このかぎりにおいてのみ 真に現実的であるところの存在である。
4 : 真なるものは、それ自身になりゆく生成としてある。それは円環、すなわち、 前もって目的として立てた自分の終わりを始めとし、そして、それを実現する 過程と終わりによってのみ現実的であるところの円環である。 神の生命と認識については、自分自身との愛のたわむれとして語ることも出来よう。 しかし、そこに否定的なもののきびしさと痛みと忍耐と労働が欠けているものならば こうした考え方はたんなるお説教に堕し、気の抜けたものにさえなってしまう。
5 : 表象を分析するということ・・・ この分析のいきつくところは、それ自身既知の、固定し静止した諸規定であり、思想に すぎない。しかし、この分割されたもの、非現実的なものこそ、本質的な契機をなしている のである。なぜなら具体的なものは、それが自分を分割し非現実的なものとなすことに よってのみ、みずから運動するものとなるのだからである。 分割の働きは、悟性というあのなにより驚嘆すべき偉大な、いや絶対的ともいうべき威力の わざである。
6 : 本の引用元表記もお願いしますよ
7 : >>6 「精神現象学」序文 最初で最後のサービス。引用元は表記する必要はない。ヘーゲルの文章はこういうものであふれてるから。 ・・・分割された諸規定のあの非現実性を死と呼ぶとして、死こそ最も恐るべきものであり、死せるものをしっかり とらえることは、最大の力を必要とする。無力なる美は悟性を嫌悪する。美がなしえないことを、悟性は要求するからである。 しかし、死を忌避し、破壊から免れてあろうとする生でなく、死に耐え、死のなかで自分を維持する生が、 精神の生である。
8 : ・・・現存在は質である。それは自己同一的に規定されており、規定された単純性である。・・・言いかえれば、 規定された一般性、すなわち種としてである。・・・現存在が種として規定されるという、まさにこのことにおいて、 現存在は単純な思考である。・・・思考の単純性とは、自分自身を運動させ区別してゆく思想としてのあり方であり、 それ自身の内面性のことであり、純粋な概念にほかならないからである。 ・・・存在するもののこの本性、すなわち、その存在において自分の概念であるということ、これが、およそ論理的必然性 なるものが成り立つことの根拠である。この必然性こそ理性的なものにほかならず、有機的な全体のリズムである。 すでに内容そのものが概念であり本質であるように、この必然性は同時に、その内容を知ることでもある。言いかえれば、 この必然性のみが思弁的なものなのである。
9 : 学問の研究において大切なことは、概念の労苦を自分に引き受けることである。そこで要求されるのは、概念そのものに、注意を 集中することである。・・・判断あるいは命題は、一般に、主語と述語との区別を内に含むという本性をもっている。しかし、この本性は 思弁的命題によって破壊される。・・・一つの例として、「現実的なものは一般的なものである。」と言われる場合、「現実的なもの」という主語は、 述語の中で消滅してしまう。ここで「一般的なもの」というのは、述語としての意義しかもたないのではない。すなわち、この命題は、 現実的なものは一般的だといってるのではない。そうではなくて、一般的なのものが現実的なものの実在を表し、現実的なものの本質が一般的 なものとして現れる、というのである。そこで思考は、主語としての主体において対象的にもっていた固定した地盤を失い、同時に、述語において 主体の方に投げ返される。そしてこの述語において思考が帰ってゆくのは、もはや自分の中へではなく、内容の主体へである。
10 : 写経してれば、いつか悟りがひらけてくるかもね。 西洋版の仏典だな。
11 : 基本中の基本だもんな、ヘーゲル。
12 : しかしまあ尋常ではない。なんというか・・・ヘーゲルさんどうしちゃったの?てかんじ。 カントの難解さとか、分析哲学や数学の難解さとはまったく別。
13 : >>12 かといって、まったくわからんわけではない。 おそらくあのこといってるんじゃないか、と想起しながら読んでるうちに また抽象的な霧の中に迷い込む。あたまが良くなるような悪くなるような。
14 : ヘーゲルの中程度の適度な解説書ってないんですか? コジェーヴの講義とかは無しでお願いします。(解釈片寄ってるし専門的すぎて重い)
15 : >>14 「ヘーゲル辞典」弘文堂 平成4年 12000円 99人の現代ヘーゲル学者が執筆。 731ページ
16 : 訂正:「ヘーゲル辞典」→「ヘーゲル事典」
17 : >>14 「ヘーゲル論理学研究序説」 海老澤善一著 梓出版社 2002年 「大論理学」本質論・現実の章が大事。カルケドン信条・三位一体の論理化。
18 : やはり言葉の信用度のために引用先を書くことにした。 >>1 「精神哲学」(上)岩波文庫 船山信一訳 p42 >>2 「ヘーゲル」世界の名著44 中央公論 (精神現象学 序論)p92,93 >>3 同 p101 >>4 同 p101,102 >>5 同 p112,113 >>7 同 p113 >>8 同 p132,133,134 >>9 同 p135、138、139,140
19 : ヘーゲル、臨終の際の言葉 「私を理解してくれた弟子は一人だけだった。しかも彼でさえ本当には理解していなかった。」
20 : >>17 カルケドン信条・三位一体の論理化 やっぱりキリスト教神学か・・・。当時のプロイセンにとっては、すべての 要素を「国家」と矛盾なく体系づけたということだろうけど、現代の日本人で哲学研究者でない いまの自分には神学なんてどうだっていい(むしろ苦痛)・・・経験論やカントまででよかったんじゃ と思うがもう読み始めてしまって収まりがつかない...
21 : 絶対知は啓示宗教を止揚して成立するから、絶対知、すなわち哲学は宗教より上といえる。 しかし、絶対知そのものは頂上から全体を概念によって把握するが、 歴史上の精神現象の一つではないだろう。ヘーゲルの頭の中の観念の産物。 歴史上の精神現象の一番上の契機は啓示宗教。 ヘーゲル哲学はこれだ、というような一つの判断をヘーゲル哲学から取り出す試みは、 ヘーゲルから一番遠い考えだろう。神学に還元しようとした右派、 無神論に還元しようとした左派、皆正しいと同時に間違ってる。
22 : >>21 お詳しいようで。初学者なもんですから助かります。言葉だけ書くスレで申し訳なかったですが。 それと、保守革新の一方、あるいは神学の枠組みだけをとってヘーゲルを読むのは浅薄だとはわかります。 でも、西洋の宗教・神学も段階のひとつとしてきっちり押さえないとわからない....きついなヘーゲル。
23 : 人間の本性は、他の人々との一致を求めて進むことにあり、多くの意識の共同が成立するところにのみ、 人間性は実現されるのだからである。反人間的であること、・・・それは、感情にとどまり、感情によって しか心を伝えあえないということにほかならない。 (「ヘーゲル」世界の名著44 精神現象学 序論 p145)
24 : ・・・感覚的確信はもっとも真実な確信であるように見える。なぜと言って、この確信はまだ対象から まだ何ものをも取去っているのではなく、対象をあますところない完全な姿において己の前にもっている からである。しかし、この確信は・・・極めて抽象的な・・貧弱な真理であることを表明してる。すなわち この確信が・・・言っているのは、ただ、「それが存在する」ということだけであり、また意識のほうでも、 ・・・ただ純粋な自我(私)としてあるにすぎない。・・・この単純な直接態こそはこの確信の真理をなしている。
25 : 感覚的確信自身に向って「このものとはなんであるか」と問い、・・・「我々」が「このもの」をその存在の二重の形態において、 「今」として、また「ここ」として解するならば・・・「今とはなにか」という問いに「今は夜である」と答えるのであるが、・・・ この真理を今、この真昼にもう一度、見てみると、それは気の抜けたものになっている。・・・今はむしろ存在しない・・ 今そのものは持続するが、しかし、持続するのは否定的なもの一般・・昼と夜がこの今の存在でないのと全く同じように、この 今はまた昼でも夜でもあり、自分のかかる他的存在によってはまったく影響せられない。かく否定によって存在し、「このもの」 でも「かのもの」でもなく、このものならぬものでありながら、それでいて全く一様に「このもの」でも「かのもの」でもあるところの 単純なもの、我々はこれを普遍的なものとよぶのである。だから普遍的なものがじっさいには感覚的確信にとっての真なるものなのである。 (「精神の現象学」上 金子武蔵訳 p98,99) >>24 (同上 p95,96)
26 : なにがしたいんだ?自分のノートじゃだめ?
27 : 「このもの」のいまひとつの形式についても、即ちここについても事態は同一・・ここは例えば樹であるが、しかし私が後ろを向けば、ここは家である。 ここそのものは消失せず、家や樹が消失しても、持続的に存在し、・・・だからこのものは再び媒介された単純態ないし普遍態である・・・ 対象は感覚的確信にとって本質的なものであるはずであったが、今や非本質的なものである。・・今や確信が現にあるのは、反対のもののうちに、即ちさきには 非本質的なものであった知のうちにである。確信の真理は対象のうちにあっても、この「対象」は私の対象としての対象であり、・・・確信は私念のうちにあり、 対象は自我がこれについて知るから存在するのである。・・感覚的確信はむろん対象からは追い出されはしたが、・・ただ自我のうちに押し戻されただけである。 (同上 p100)
28 : こういうのも嫌いではないので、自分がマーカーをしたところと比較し、 訳文の違いを楽しみながら読んでます。 『精神現象学』 平凡社ライブラリー 樫山欽四郎訳での該当ページを書いておきます。 嫌ならいってもらえれば、書き込みはやめるので言ってください。>>1 >>2 上P20,P21 >>3 上P32,P33 >>4 上P33,P34 >>5 上P48 >>7 上P49 >>8 上P75,P76 >>9 上P78,P84, >>23 上P91 >>24 上P122,P123 >>25 上P125,P126 >>27 上P127,P128,P129 >>24 のページが違っていませんか? というより、同上ではなく、「精神の現象学」上 金子武蔵訳では? たしか世界の名著は序論だけだったはずなので。
29 : >>28 >>>24 のページが違っていませんか? ゴメン、こっちの間違いでした。
30 : 真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく。・・・真なるものは、決して早く現れるすぎることも、 未熟な公衆しか見出さないということもない。・・・現代では、精神の一般性の側面が極めて強力になり、それだけ 個別性は、当然のことながら、だんだん重要でないものになって来た。しかも一般的精神は、自分の全領域と そこに築かれた富に手を広げ、それを要求してる。このような時代においては、精神の仕事全体のうちで個人にかかってくる 持分は、わずかでしかありえない。・・・いまや個人はいっそう自分を忘れる必要がある。・・・個人にあまり 多くのことが求められてはならないのと同じく、個人自身も、自分に多くを期待しすぎたり、自分のために多くを 求めすぎたりしてはいけないのである。 (「ヘーゲル」世界の名著44 精神現象学 序論 p147)
31 : 大いに参考になってます。よろしくね。
32 : ・・・いまや・・・我々が私念するところの個々の今とこことの消失が阻止せられるのは、私がこれらを固持することに よっている。私が樹をもってここであると主張するのであるが、しかし他の私は家を見て、ここは樹ではなくしてむしろ 家であると主張する。両方の真理は同一の確証を、即ち見ることの直接態と両者それぞれが自分の知についていだく自信と 「断言」とをもっているけれども、しかし一方の真理は他方の真理において消え失せる。このさい消失しないのは、普遍的 なものとしての私(自我)であり、・・・(実例)に対して単純に没交渉に己を保っている。・・・私がこのここ、この今、 あるいはひとつの個別的なものと言うとき、・・すべてのこのもの・・すべてのここ、すべての今、すべての個別的なもの のことであるが、これと全く同じように私が私、この個別的私というときにも、私の言ってるのは総じてすべて私のことで あって、各人が私の言うところのもの即ち私であり、この個別的私なのである。 (「精神の現象学」上 金子武蔵訳 p101,102)
33 : >>32 訂正:総じてすべて私→総じてすべての私 だから感覚的確信は自分の本質が対象のうちにあるのでも、私(自我)のうちにあるのでもないことを、・・・経験する。 ・・・わたしの私念するところのものは、・・存在するのではない・・かくして、感覚的確信の全体そのものをもって確信の 本質として定立すべき・・・ 今が、この今が指示される。ところで今、それは指示されるときには、すでに存在することをやめている。存在するところの今は 指示された今とは別のものであり、・・・今とは存在するそのときにはもはや存在することをやめるものにほかならぬ・・・ だから、今が存在したということは、たしかに真ではあるが、しかし、存在したものは、じっさいにはなんら本質(実在)ではない。 ・・・こうして今の否定を否定し、今が存在するという最初の真理に帰ってゆく。・・・と言っても、かく己のうちに帰還した 最初のものは・・・最初にあったもの即ち直接的なものとは・・同一なのではなく、まさに自己内に帰還したひとつのものであり、 言いかえると、他的存在のうちにおいても己たることにとどまるところの単純なものであり、即ちひとつの今でありながら絶対に 多くの今であるところの今である。・・この今こそ真実の今であり・・もろもろの時間という多くの今を含んでる・・・ 今を指摘することそれ自身運動であり、・・・集合された今の数多性である・・そこで指摘するということは、今が普遍的なもの であることを経験するゆえんである。・・・ここも・・・指摘されると・・・多数のここの単純な複合である。・・私念されるここは 点でもあるであろうが、点は存在するのではない。この点が存在するとして指摘されるとき、この指摘自身が自分が直接的な知ではなく 私念された当のここから多くのここを通じて普遍的なここにまで至る運動であることを示す。 (同上 p102〜106)
34 : ヘーゲルの止揚の原理って 面白いよね テーゼ アンチテーゼ ジンテーゼ 理性的なものは現実であり 現実とは理性的なものである。
35 : 以上の様な次第で(現実の歴史によって)精神は(絶対的な)知ることにおいて、意識のまだ克服せられていない区別を・・ 自分の形態化の運動を完結させた。精神は自分が「そこ」に存在するための純粋な境地を、即ち概念を獲得してしまったのである。 内容はこれの存在することという自由からいえば、自分を外化している自由のことであり、・・・自分自身を知ることという 無媒介の統一態である。・・・こうして精神は学である。・・この学において表現せられるのは、もはや意識・・ではなく、 ・・限定された諸概念としてのことであり、またこれらの有機的で、それ自身のうちに根拠をもった運動としてのことである。 ・・学の抽象的な諸契機の各々には、現象してる精神一般のひとつの形態が対応してる。 (「精神の現象学」下 金子武蔵訳 p1160,1161)
36 : ところで学は純粋な概念という形式を外化し放棄せざるをえぬという必然性を、また概念から意識へと移行することを自分自身の うちに含んでいる。なぜなら、自分自身を知るところの精神は自分自身を把握しているということ、まさにこの理由によって、 自分自身との無媒介の同一であるが、かかる同一はその区別においては無媒介のものについての確信であり、言いかえると、感覚的 な意識だからであるが、この意識は「我々」が出発してきた初めである。このように精神が自分の自己という形式から 放免するということは、精神が自分について知ることの最高の自由であり、また知ることの最大の安寧さである。 ところで知ることというのは・・自分にとって否定的なものをもまた識るのであり、・・自分を犠牲にするのを知るということである。 この犠牲にすることという「外化」においては、精神は自分が精神となる生成を自由な偶然的な「出来事」という形式において 表現しており、そうして表現するのは、(一方では)自分の純粋な自己のほうはこれを自分の外に時として、そうして (他方では)自分の存在のほうは・・自分の外に空間として直観しつつである。精神のかかる(二つの)生成の内で、後のほうは 自然であり、精神の生ける無媒介の生成である。 (同上 p1162、1163)
37 : しかるに精神の生成の今ひとつ別な側面と言うのは、歴史のことであるが、この側面のほうは知りつつ、自分を媒介 しつつ行われる生成である。時へと外化せられた精神である。・・・この生成が表現しているものは、・・精神が ・・・「自分のうちへ行くこと」であり・・・自分の「そこ」の存在を見捨てて自分の持っていた形態を内面化し 憶(むね)のうちに委ねるのである。・・しかし精神の消え失せた「そこ」の存在は・・保存せられており、・・ そこでこの・・止揚されている「そこ」の存在が新しい「そこ」の存在であり、ひとつの新しい世界であるり、精神の ひとつの新しい形態である。・・この精神が始めているのは、同時に一段と高い形式においてのことである。 ・・これらの「精神の国」はひとつの継起を形づくり、・・先立つ精神から「世界の国」を引き継いだのである。 ところでこの継起の目標は(精神の)深底が顕わになるという啓示であるが、この深底とは(精神の)絶対的な把握のこと 絶対的な概念のことであるから、右の啓示はまた精神の深低を止揚することであり、・・精神を広げることであり、・・ この「自分のうちに存在する」ところの自我を否定することである。・・かくこの啓示は・・また精神の時でもある。 (同上 p1163,1164)
38 : かくて目標は「絶対的な知ること」であり、・・「自分が精神であるのを知るところの精神」であるが、 この精神は目標に達するまでの道程として、もろもろの精神が各自それ自身において・・想い出を持っている。 これらの精神を保存することは、・・偶然性の形式において現象してくる各自に自由な「そこ」の存在という側面 から見れば歴史であり、・・・概念的に把握せられた組織という側面から見れば現象している知ることの学である。 両者を合わせたものが概念的に把握せられた歴史であるが、両者は絶対精神の想い出を、「頭蓋の場」を形づくっている。 言いかえると、この絶対精神ももし王座の権を欠くときには、生命のない孤独なものであるであろうが、 右の両者はこの王座にとっての現実性と真実性と確実性とを形づくっているものである。ただ・・・ もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ 絶対精神に泡立つは その無限 (同上 p1165、1166)
39 : ・・・内容は、それ自身のなかに形式をもつものであり、また形式によってのみ生命と実質とがあたえられる。のみならずまた、 内容としての仮象に転化するとともに、また仮象(内容)に即して存在する外的形態としての仮象(形式)に転化するものも、 実にこの形式そのものにほかならない。このように、内容を論理的考察の中に導入するとともに、論理学の対象は物ではなくて、 事柄、即ち概念となる。 ・・・現代の関心の過剰と多面性によって否応なしに散漫になっている外面的必然性の事情の下では、のみならず世の喧騒と、 こういう現代の関心のみに汲々として麻痺し切った空想の饒舌が果たして思惟に専念する認識の冷静な寂境に耳を貸す であろうかという疑惑の下では、この現在出来あがっているような形で満足するほかなかったのである。 1831年11月7日 ベルリンにて (ヘーゲル絶筆) (「大論理学」 上の一 武市健人訳 p18、22)
40 : 『精神現象学』 平凡社ライブラリー 樫山欽四郎訳での該当ページ >>30 上P93,P95 >>32 上P129,P130 >>33 上P130,P132,P134 >>35 下P403,P404 >>36 下P405 >>37 下P405〜P407 >>38 下P407
41 : >>40 キンちゃんの訳は要らんよ。 部学生レベルの訳じゃもん。
42 : 正直、難解な哲学書ほど訳書に対する警戒感があるんだが。。。 これって、原語話者が原文で読むのとどれくらいズレてるんだろうと思うとさ。 かといって付け焼刃の語学で原文読んで理解した気になるのもアレだし。
43 : でも、つたない独語ではあるが、キーポイントの部分、独語で読むと、すんなり心に落ちることが多い。 Hegel和訳がもつあの漢字単語特有の「おどろおどろしさ」が消えて、極めて日常的に把握できるところがある。 ただし、キーワードについては、必ず、語源に当たる必要あり。
44 : 訂正、できれば、関連性の高いと思われる全ての単語について語源的把握の努力が必要かと。
45 : >>20 > >>17 カルケドン信条・三位一体の論理化 > やっぱりキリスト教神学か・・・。 神学抜きにヘーゲルとかwカントが俺達には三次元しかないのだと言って、 神学締め出しつつ裏から四次元イコール神持ち込んでw近代哲学独立させたのを否定して、 表だって堂々と神持ち込んだのがヘーゲルの主体イコール実体だろ。 但し神は神でもあくまで意識イコール三次元の外には出ないという約束で。 ヘーゲルの精神や概念は神の言い換え。但し四次元から三次元に閉じこめられた形の。
46 : ヘーゲルに限って言えば、ヘーゲルの使う概念は、ヘーゲル体系の中にその本当の意味があるわけで、 語源的にたどっていってもヘーゲルが語源を忠実に反映してその概念を使ってるか疑問。 ハイデガーのように語源を自分の哲学の核にするような哲学者じゃないし。 ヘーゲルの場合、体系が概念の辞書の役割してるんじゃないかと思う。ただそれでも体系全体を理解して はじめて個々の概念も理解できるような仕組みになってる。 日本語で物を考える日本人がドイツ人の哲学を理解しようとするには言葉の背景(ヘレニズムとヘブライズム) を理解することのほうが遠回りのようで逆に近道では。 ヘーゲルが難しいのは、カントならキリスト教を悟性的に把握すれば理解できるが、ヘーゲルの場合、理性的、 すなわち信者になるぐらいじゃないと理解できないからじゃないだろうか。
47 : 概念て英語だとconceptあるいはnotionかな 前者ならconceiveで妊娠みたいな意味もあるから それ自体として発展するという意味にもなるね
48 : ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。 以下、同じ箇所を引用してみました。 ///////////// 「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結したものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの根拠)を観じている。」 金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上p166 「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」 樫山欽四郎訳、平凡社上p203 「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたちで超感覚的世界とつながっている。」 長谷川宏訳、作品社p117 「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものという]背景を覗き見るのである。」 牧野紀之訳、未知谷p311 "Raised above perception, consciousness exhibits itself closed in term of appearance, through which it gazes into this background [lying behind appearance]." "HEGEL'S Phenomenology of Spirit"translated by A.V.Miller,p103 "Erhoben ?ber die Wahrnehmung stellt sich das Bewu?tsein mit dem ?bersinnlichen durch die Mitte der Erscheinung zusammengeschlossen dar, durch welche es in diesen Hintergrund schaut." G.W.F. Hegel"Ph?nomenologie des Geistes" http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap3.htm
49 : 追加:精神の章の冒頭。 「理性が精神であるのは、あらゆる実在性であるという確信が真理にまで高められ、そうして理性が自分自身を自分の世界として、また、世界を自分自身として意識しているときである。」 金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』下p731 「全実在であるという確信が真理に高められ、理性が自己自身を自己の世界として、世界を自己自身として意識するようになったとき、理性は精神なのである。」樫山欽四郎訳、創文社『ヘーゲル精神現象学の研究』p388 「物の世界すべてに行きわたっているという理性の確信が真理へと高められ、理性がおのれ自身を世界として、また、世界をおのれ自身として意識するに至ったとき、理性は精神である。」 長谷川宏訳、作品社p296 「理性は[今や]精神となっている。[自分は]全ての実在であるという[自己意識の主観的]確信が[客観的]真理にまで高まり、その確信が自分の世界との一体性を自覚するに至ったからである。」 牧野紀之訳、未知谷p618 "REASON is spirit, when its certainty of being all reality has been raised to the level of truth, and reason is consciously aware of itself as its own world, and of the world as itself. " "THE PHENOMENOLOGY OF MIND "Translated by J. B. Baillie(先出とは違うmindバージョン。) http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hegel%20Phen/hegel%20phen%20ch%20VI.htm http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/Hegel%20Phen%20ToC.htm "Die Vernunft ist Geist, indem die Gewi?heit, alle Realit?t zu sein, zur Wahrheit erhoben, und sie sich ihrer selbst als ihrer Welt und der Welt als ihrer selbst bewu?t ist." G.W.F. Hegel"Ph?nomenologie des Geistes" 追記:『精神現象学』に関して 概念を把握でき、読みやすく、本の造りもいい(高価だが金子訳ほどではない)という点で牧野訳が一番推薦できると最近は考えています。金子訳と長谷川訳の長所短所をふまえ ているという部分も評価できます。
50 : >>49 わかる、とはいえないが、おもしろいね、 翻訳の比較。
51 : 金子訳のすごいとこは本文をはるかにしのぐその膨大な訳者注
52 : にっほん教養主義の、最後の、そして最大の牙城が、金子武蔵訳『精神の現象学』では。 1970年、岩波講座『哲学』全18巻出版の頃の、マルクス主義、実存主義、分析哲学がバランスよく勢力争い していた、哲学に皆が熱い期待をもっていた時代、金子訳はその三者の源流であるヘーゲル『精神の現象学』の訳者として あがめられていたような。神棚にあげて、いや御神体として拝んでいた時代。 そのあとは日本が豊かになるにつれ、急速にっぽん教養主義は没落して行って、哲学してる奴は変人扱いされるようになった。
53 : 訂正:訳者として→訳として
54 : >>46 > ヘーゲルに限って言えば、ヘーゲルの使う概念は、 例えば概念という概念は、ヘーゲルの場合、三次元の個々の事物配列して見通す遠近法の消失点。 精神も主体も実体もそうだが。 カントやフッサールはあくまで三次元の目の前の事物しか人間は捉えられないという立場。 しかし、自由だ目的だと他者との妥当性だ間主観性だの四次元の未来見通す視点、神を持ち込んいるのは明らか。 ヘーゲルはそんなまやかしせずに四次元の未来見通す視点が地上に降りてきてうろうろする。 それがヘーゲルの弁証法。精神、概念。 これわかってないといくら写経したって全文何度も書いたって何もならない。
55 : カントは言うまでもないがフッサールも三次元の今ここの視点で本質直観するとか言うが、 その人間の感ずる赤が他人の感ずる赤と同じか否か誰にもわからない。 なのに、他者にも妥当するものとかいろいろおかしい。理論的に誤謬がある。 三次元の個人の視点が他者の四次元の協働でうまく行くのか根拠ない。 ヘーゲルははっきり共同主観だと、主と奴の弁証法の相互承認だとはっきり言ってる。 四次元の神、それが死をかけた相互承認、有限な時間に区切られた存在として地上の人間に降りて導く。 四肢的構造とか廣松渉の著作参考に。
56 : ヘーゲルが神とか永遠や歴史持ち込むのは気の迷いでも宗教勢力への迎合でもなく、 理論的要請なんだよな。 カントやフッサールが三次元の今ここの個人的視点で把握したものが、 個々人の内面の外に出ない意識で直観したものが、 何故万人に妥当し目的を自由を実現できるのか論理的におかしいけど、 ヘーゲルのようにすべてを見通す神、歴史の位置にいるなら文句つけるの野暮だな。 誰がお前にそんなもの認めたんだって言うのは別な話だが。
57 : >>46 「概念Begriff」; begreifen;掴む、握る、わかる。ゆえに「掴まれたもの」。
58 : ここからの出発。
59 : or 「掴むこと」
60 : greifen;他動詞で、掴む、握る、捉える。「be-」が付くと、be≒bei、 「を回って、に関して、」、空間的、および時間的な近接、包括/所有、目標に向かっての「作用、成就」などを意味する(相良;大独和)。
61 : greifen=grasp(英)
62 : >>55 Hegelは、>>60 から出発して、+1次元したのですね? この次元(基底)の名前は簡単に言うとどうなりますか?
63 : >>62 「歴史」という名の、時間軸の次元なのかな。
64 : >>63 原義は、「空間的、および時間的な近接、包括/所有、目標」。 時間軸が2重になるのは、scaleが関係するのでしょうか。そうだとすると、空間軸についても、scalingの問題発生?
65 : 概念(Begriff) (ヘーゲル事典 弘文堂 p55) T 形式論理学上の概念 我々が、なにかについて判断する際に、主語ないし述語として用いる普遍的観念であって、普通名詞で表現される。 そして、その概念の内容は、類概念に種差を結合する定義によって規定されている。たとえば、「人間は理性的 動物である。」という定義においては、人間という概念の普遍的内容が、動物と言う類概念に理性的と言う種差を 結合することによって規定されている。したがって、人間と言う概念は、形式論理学の上では、我々が、現実に 存在する個々の人間を、総括して理解するために用いる普遍的な考え。注意すべきは、概念と、その内容を規定したり、 その概念を用いて判断を能動的に行う我々と、個々の現実のものとの三者は、それぞれ別個になっていることである。
66 : U ヘーゲルの概念 (同上 p56) ところが、ヘーゲルのいう概念では、周知のように、この三者が一体になっている。むろん、ヘーゲルの概念も 規定された概念というかたちで、類、種の秩序にしたがって規定され、判断をする際に用いられる。 しかし、その規定を能動的に行うのは、判断主観ではなくて、純粋概念自身であり、しかも、判断において主語と 述語が区別されるのは、概念の根源分割であるとされる。さらには、そのような規定や分割は、現実の個々のものを 概念自身が思考し、それに浸透することによってなされ、場合によっては、たとえば国家や生命そのものが、理念の 言い換えでもある具体的な個別者であるとされる。・・・ヘーゲルのいう概念の特質は、概念自身に、現実の個々の ものに浸透し、それらを包み込むことによって自己を規定し分割する否定性としての自由が付与されていることである。 ・・これはヘーゲルが通常の用法にあえて逆らって、概念の用法の中心を理論的普遍概念でなく、道徳や法といった 実践概念に移したことに由来する。これは begreifen が(何かを知性で理解する)と言う意味以前に、(何かを自己の うちに包み込むないし総括する)と言う意味を持っていたことを考えれば、実は、決して異例な用法ではない。ヘーゲルは むしろ、 begreifen の原義に立ち返っているわけである。ただ、その概念の極限を突き詰めて絶対性を付与することに よって、無限性さらには否定性を見抜いた点にヘーゲルのいう概念の真の固有性がある。
67 : OK、従来の「概念」を、その「発現態」で捉えたような、ですね。 大論理の概念論での「概念(概念としての概念)」を、カント的な述語としての「カテゴリー」と呼ぶのでなく、 あえて「論理規定」と呼ぶ理由ですね。
68 : あえてのつけたし。 >>67 の「規定」=Bestimmung。 このStimme、「声、音声、特に調子の合っている声」。 潜在的に発話の意識があるよう。
69 : >>63 本質的、固定的な時空軸に加えて、real timeな「「実時間軸」」の追加と言うところでしょうか。
70 : ところで、エジプト人の精神そのものがエジプト人の意識に対して一個の課題の形式を掲げて現れたということについては、 我々はザイスにある女神ネイート神殿の有名な碑銘を、その証拠として挙げることができる。すなわち、そこでは「今ある ところのものであり、かつてあったところのものであり、また将来あるであろうところのものであり、何人も我がヴェールを 取ったものはなかった」といわれている。じっさい、この銘の中ではエジプト精神の本性が言い表わされている。 ・・・だがプロクロスは、これにさらに、「我が生んだ実ははヘリオスである」という文句を追加した。つまり、それは自分 自身に明晰であるものが、その課題の結果であり、解決だということなのである。
71 : ところでこの明晰なものこそ、隠れた夜の神ネイ―トの子であるところの精神にほかならない。 ・・ギリシアのアポロンこそその解決であって、その箴言は即ち「人間よ、汝自身を知れ」という ことなのである。・・・この命令はギリシア人に向っていわれた。そこでギリシア精神の中で 人間性が明晰な形で表わされることになり、人間性が完成された形で表現されることになるのである。 ・・・かつて、スフィンクスがテーベに現れて、「朝は四足で歩き、昼は二足で、夕には三足で歩く 者は何か」と問い、オイディプスが「それは人間だ」と解いて、スフィンクスを倒したという神話。 東洋精神はエジプトにおいて課題にまで高まったのであったが、その東洋精神の解決と解放とは実に 次の点にあった。それは即ち、自然の核心が精神であって、その精神はただ人間の意識の中にのみ 存在するということだったのである。・・・ギリシア人こそ、精神が自分の中に深く沈潜し、それ ぞれの特殊性に打ち勝ち、もって自分自身を解放することによって、これらのそれぞれの要素に、 はじめて一貫性をあたえることのできた民族だといわなければならない。 (>>70 も含めて『歴史哲学』中 岩波文庫 武市健人訳 p95,96,99)
72 : 訂正:「今あるところのものであり〜」→「我は今あるところのものであり〜」 「我が生んだ実ははヘリオス〜」→「我が生んだ実はヘリオス〜」
73 : 思惟のうちには直接に自由がある。なぜなら、思惟は普遍的なものの作用であり、したがって、抽象的な自己関係であり、内容からいえば、 実在とその諸規定のうちにのみありながらも、主観からいえば、無規定な自己安住であるからである。・・・思惟は、その内容から言えば、 実在のうちへ沈潜するかぎりにおいてのみ真実なのであり、また形式から言えば、主観の特殊な存在や行為ではなく、個人的な諸性質、状態、 等々のあらゆる特殊性から解放された抽象的な自我としての意識の態度であり、すべての個人と同一であるところの普遍的なことのみを 行うような意識の態度であるからである。ーーアリストテレスもこのような品位のある態度を要求しているが、その場合彼の言う品位とは まさに、個人の意見をすてて、実在そのものを自己のうちに君臨させることにあるのである。 (『小論理学』上 岩波文庫 松村一人訳 p115)
74 : 経験的科学の方法は次の二つの点で不十分なところを持っている。その一つは、経験的科学が含んでいる普遍、累、等々は、 それだけを取ってみると無規定で、特殊との関連を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互いに外的であり偶然的である ということであり、また結合されている諸特殊もそれ自身としては、互いに外的で偶然的であるということである。もうひとつは、 経験的科学は常に直接的なもの、与えられたもの、前提されたものから始めるということである。 この二つの点から言って、経験的科学の方法は必然性の形式を満足させないものである。こうした要求を満足させようとする思惟が ・・思弁的思惟である。・・それは・・独自の諸形式を持っており、・・この・・普遍的な形式は概念である。 (同上 p75)
75 : 楽チンなスレだな。書き写すだけか。 いっそ、大論理学あたりを最初から写しゃいいじゃんかよ。
76 : 原文読解をやるとか。
77 : 結構役に立ってますよ。 でも、選択の大凡の根拠くらい、毎度、簡単に書いて欲しい。
78 : >>77 >>結構役に立ってますよ。 おい、大丈夫か? つか、初心者ってこと?
79 : Yes、興味深深の初心者。
80 : ・・・アブラハムがよってもってある国民の始祖となった最初の行為は、共同生活と愛の紐帯を、彼がこれまで人間および自然と結んで生きて 来た関係の全体を破砕してしまう分離断絶である。・・・アブラハムは愛するつもりはなかったし、したがって自由であろうともしなかった。 ・・・彼は地上の異邦人であった・・・ユダヤの国民性の魂、すなわち人類への憎悪・・・ソロモンの統治のはかない、しかも重苦しい栄華が 消滅した後に、・・・ユダヤ民族はなおしばらくの間、屈辱の中で一種の哀れむべき国家を維持したが、遂にとどのつまりは、完膚なきまでに 蹂躙されて、再起の力も残さないほどになった。・・・人々は理念の中に慰藉を求めた。・・普通のユダヤ人は、来るべき救世主の希望の中に 慰めを求め・・た。・・・ユダヤ民族の偉大な悲劇は決してギリシア悲劇ではない。それは恐怖も同情も喚起することはできない。 というのは両者とも美しいものの必然的な蹉跌の運命からのみ生ずるのであるが、前者は嫌悪の情しか喚び起こさないからである。 ユダヤ民族の運命はマクベスの運命である。 (『初期神学論集U』以文社 中埜肇訳 p114,115,133,135,136,137,138)
81 : ・・掟というものは対立者を概念の中に統一したものであり、したがって概念は対立者を対立のままにしておくのであるが、しかも概念そのものは 現実的なものとの対立において成り立つのであるから、概念は当為を表現することになる。・・・概念は人間によって作られまとめられたものだと 考えられる限り、命令は道徳的である。これに反して・・当為が概念の性質から由来するのではなくて、あるかけ離れた権力によって主張される 限り、命令は市民的である。・・・前者は生命体と生命体との対立に限界を与えるのに対して、後者はひとつの生命体のひとつの側面、ひとつの力 と、まさしく同一の生命体の他の諸側面、他の諸力との対立に限界を与えるのである。そしてこの限りにおいてこの存在者のひとつの力は、それの 他の力の対して支配的であるということになる。市民法となり得ない純粋道徳律、すなわち対立するものとそれらの合一とが互いに他者であるという 形式を持ち得ない純粋道徳律は、その活動が他の人間に対する活動や関係ではないような諸力を制限することに関わるものであるといえよう。 (同上 p144,145)
82 : イエスは道徳的な命令の実定性に対して、つまり単なる適法性に対して戦ったのであり、イエスが示したのは、いかなる当為、いかなる命令も 一方では異質のものとして現れはするが、他面では概念(普遍性)として主体的なものであり、そのことによって当為や命令は人間的な力、 普遍性の能力、理性の産物として自らの客体性、実定性、他律性を失い、命令は人間的意志の自律の中に基礎をもつものとして姿を現わすよう になるから、法的なものは一般者であり、その拘束力はすべてその普遍性の中にあるということであった。 (カント流の)道徳性を越えたこのイエスの精神は、山上の垂訓において立法に真向から反抗して現れる。・・義務命令がひとつの断絶を前提 しており、当為の中には概念の支配が自らを告知しているのに反して、こういう断絶を越えたものは存在であり、生命の様態である。これは客体 と関わって考えられる場合にのみ排除的であり、したがって制限されている。というのは排除ということは客体が制限されて初めて与えられて いるのであり、客体にのみ関わるものだからである。 (同上 p145,147,148)
83 : 訂正:>>82 立法→律法 イエスが律法に対立させ、律法の上に置くものを命令の形で言い現わすとしても(われ律法を廃棄せんとすと思うなかれ。汝らの言葉は かくかくなれ。われ汝らに告ぐ、抵抗するなかれ云々と。神と汝の隣人を愛せよ)、こういう言い回しは義務命令の当為とは全く違った 意味で命令なのである。これは生命あるものが考えられ、語られ、それに異質の概念という形式で与えられるということの帰結にほかな らない。というのはこれと反対に義務命令はその本質から言って、ひとつの普遍者として概念だからである。このようにして生命体が反省 されたもの、語られたものという形で、人間に向って現れるとすれば、「すべてにまさりて神を愛し、汝自らよりも隣人を愛せよ」という 生命あるものにふさわしくないような表現を、カントが、愛を命ずる律法に対する尊敬を要求するところの命令と見なすのは、甚だしく 不当なことである。 (同上 p148)
84 : そして彼が命令と称するもの、すなわち「すべてにまさりて神を愛し、汝自らより隣人を愛せよ」を、−−彼の義務命令に還元したのは深い思慮 によるものであったとはいえ、このことは概念と現実との対立のうちに成り立つ義務命令と、生命あるものを語る全く見当はずれの仕方とを混同 したためである。そして愛は、あるいはカントがこの愛に与えなければならないと考える意味で、−−すべての義務を喜んで果たすということは ーー命令され得ないものであるというカントの注意はおのずから消失する。何となれば愛の中ではすべての義務観念は消失するからである。 そして彼が上述のようなイエスの言葉を、いかなる被造物によっても達せら得ない神聖性の理想とみなすまでに、それに捧げるのに吝かでなかった 栄誉も、やはり無益に費やされたことになる。というのは義務とは喜んで果たされるものだと考えるような理想は自己矛盾であるから。 何となれば義務というものは対立を要請するのであり、喜んでするということは何らの対立をも要請しないものだからである。そして彼が自分の 理想の中で統一のないこういう矛盾に耐えることが出来るのは、彼が理性的な被造物(奇妙な合成語)は堕落することはできても、あの理想に 達することは出来ないものだと言明するからである。 (同上 p148,149)
85 : ・・「汝Rなかれ」という命令は、いかなる理性的な存在にも妥当するものと認められ、ひとつの普遍的な立法の原理として妥当し得る原則である。 このような命令に対してイエスは和解性(愛のひとつの様態)といういっそう高度の精神を対立させる・・・和解性の中では律法はその形式を喪失し、 ・・和解性は現実的なものを排除するのではなくて、考えられたもの、つまり可能性を排除するのである。そして概念の普遍性の中にはこういう豊かな 可能性があるとしても、命令の形式そのものが生命の破砕であり・・命令の中で禁止されている唯一の非行以外の他のすべての非行を許すことになって しまう。これに反して和解性の前では憤怒もひとつの犯罪である。しかも憤怒は抑圧感情の急速な反作用であり、抑圧しかえそうとする心の昂ぶりで あって、これは一種の盲目的な義であるから、平等性を、しかし敵対する者の平等性を掟とする。これと反対に和解性の精神は他人の敵意をなくして しまおうと努めるものであって、敵対的な心持を自分の中に全く持っていない・・自分の兄弟に向って「悪党」と罵ることも愛にとっては犯罪であり、 しかも憤怒よりも大きな犯罪である。しかし悪党も・・人々に敵意をもって対立し、こういう錯乱状態を・・持続しようと努めるものであるから、依然 として何ものかであると認められるわけで、彼は憎まれているからには、まだ価値を持っていることになる。そして大悪党が賞賛されることもある。 だから他人を愚者と公言することのほうがもっと愛に遠いものだということになる。それはその人とのすべての関係ばかりか、本質上のあらゆる平等、 あらゆる共同性を廃棄し、彼を観念の中で完全に抑えつけ、無に等しいものと見なすことだからである。 (同上 p151,152)
86 : ヘーゲル「討論テーゼ」 以下、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770- 1831)が1801年、大学で講義資格を 得るための討論に際して事前に提出した12ヶ条からなる「討論テーゼ(Dissertationi philosophiae. De orbitis Planetarum dec?a en su segunda tesis)」(あるいはドイツ語で"Hegel's Habilitationsthesen")。 参考サイト: http://books.google.co.jp/books?id=uY4OAAAAQAAJ&pg=PA253&dq#v=onepage&q=&f=false 1. 矛盾は真理の規則にして、非矛盾は虚偽の規則なり 2. 推論は観念論の原理なり 3. 四角形は自然の法則にして、三角形は精神の法則なり 4.真なる算術にては、一を二に加うるほかに加法はなく、三より二を引くほかに滅法はなし。また三は和と考うベからず、一は差と考うベからず 5. 磁石が自然の梃子であるように、太陽に向かう諸惑星の重力は自然の振り子である 6. 理念は有限と無限の総和にして、全哲学は理念のうちにあり 7. 批判哲学は理念を欠くがゆえに懐疑論の不完全なる形式なり 8. 批判哲学の樹立せる理性の要請なるものは、まさしくこの哲学そのものを破壊し、スピノザ主義の原則なり 9.自然状態は不義にあらず、さればこそこれより脱れ出でざるべからず 10. 道徳学の原理は運命に捧げられるべき畏敬なり 11. 徳は能動および受動いずれの無罪潔白をも排除す 12. すべてにおいて絶対的なる道徳は徳と矛盾す (『ヘーゲル哲学の基本構造』中野肇308頁参照)
87 : 愛は上に述べた義務が禁じなかったもの、つまり欲情をも排除し、また上述の義務に背反していたこの(離別)許可をもひとつの場合を除いて 取り消してしまう。こうして一方では愛の神聖性が、姦Rを禁じた律法の補完となる。そしてこの神聖性はそれだけで、人間の多くの側面の ひとつが自らを全体にまで高めたり、全体に反抗しようとする場合に、それを押さえつける能力を与える。全体の感覚である愛のみが本質の 分散を防止することができる。・・・まだ愛が残っている妻に対する愛を止めることは、愛をして自らに不誠実ならしめ、罪を犯させることで ある。愛の情念を他へ移すことはそれの過誤に他ならず、それを愛は良心の呵責によって償わなければならない。この場合に愛はもちろん自ら の運命をまぬがれることはできない。そして婚姻というものはそれだけで分かたれている。しかし夫が権利や律法から助けを借りて、それに よって自分の方が合法的で当然のことをしたのだと主張するならば、それは妻の愛情を傷つけるばかりでなく、さらに卑劣で過酷な仕打ちを 付け加えることになる。イエスが例外とした場合、すなわち妻が愛情を他の男に向けた場合にのみ、夫はその僕のままでいなくてもよい。 (同上 p153)
88 : 義務すなわち普遍者が特殊者から得た勝利についての他人の喝采は、・・観られた普遍性と特殊性である。つまり、前者は他人の観念の中にあり、 後者は現実者として他人そのものの中にある。そして義務を果たしたという孤独な意識と名誉とが違うのは、種類の点ではなくて、名誉の中では 普遍性が単に一般的に妥当し得るだけでなく、現に一般的に妥当するものとして認められるという限りのことにすぎない。義務を果たしたという 自分自身の意識の中で、個人は自分で自分に普遍性の性格を与える。個人は自らを普遍者として、つまり特殊者である自分自身を越えたもの、・・ 要するに個人の集合を越えたものとして眺める。というのは普遍性の概念が個人に適用されるように、特殊性の概念も諸個人とのこういう関係を 獲得し、自分自身は普遍性に合致し、義務を果たしているのだと認識する者と個人性を対立させるからである。そしてこういう自意識は、人々の 喝采と全く同じように、行為にとって外的なものである。 (同上 p156,157)
89 : 自分の義務を果たしたというパリサイ人の意識にしても、あらゆる律法の忠実な遵守者であったという青年の意識(『マタイ福音書』19-20) にしても、このように良心に疾しいところが無いということは偽善である。何となればそれは、一方ですでに行為の意図と結びついている 場合には、自分自身に関する、また行為に関する反省であり、行為にとっては不必要な不純なものであるし、さらに他方でもしそれが、 パリサイ人や上述の青年に見られるように、自ら道徳的な人間だと考えた自分自身についての観念であるならば、それは範囲が与えられ、 素材が限られ、したがって全部を集めても不完全なものでしかない徳、すなわちかぎられたものを内容とするものであるのに、しかも疾しく ない良心、つまり自分の義務を果たしたという意識は、自分が全体であるかのように自らを偽るからである。 (同上 p157,158)
90 : 財富の所有は、それと結びついたあらゆる権利ならびに心労とともに、人間の中にもろもろも規定性を持ちこみ、それらの持つ枠が徳に限界を 設け、条件と依存性を与える・・こういう条件や依存性の内部では・・全体的なものや完全な生命は許されない。というのは生命が客体と結び つけられたら、自分の条件を自分自身の外側に持つことになるからであり、生命に対しては決してそれの所有とはなり得ないものさえも それ自身のものとして認められているからである。財富はひとつの権利であり、さまざまな権利の中に含まれているということによって、 自分が愛や全体性に対立することをただちに暴露する。けだし一方では財富と直接に関係する徳である正直が、他方ではそれの範囲で可能な 他の諸徳が必然的に排斥ということと結びつき、いかなる徳行もそれ自身においてひとつの対立者となるからである。折衷主義とか二君に仕える ということは考えられない。何となれば無限定なものと限定されたものとは、自分の形式を保持する限り結びつけられることはできないからで ある。イエスは愛と対立する領域を粉砕してしまうために、諸義務の補完のみならず、これらの原理の客体である義務の領分の本質をも 提示しなければならなかった。 (同上 p158,159)
91 : 良心、すなわち自分が義務にかなっているかいないかという意識に対応するのが、判決において律法を他人に適用することである。イエスは 語る。「汝ら裁くなかれ。汝ら裁かれざらんために。汝らの測る尺度もて、汝ら測られん。」こうして律法の中に明示されたひとつの概念の もとに他の人々を包摂することは、ひとつの弱さと呼ぶことができる。というのは判決を下す者が他の人々全体に対して耐えるのに充分なほど 強いわけではなく、彼らを分割するからであり、彼らの独立性に対して抵抗することが出来ず、彼らをあるがままにではなくて、 あるべきように考えるからである。こういう判決によって彼は彼らを思想の中で自分に屈従させたことになる。というのは概念つまり普遍性が 彼のものだからである。しかしこの裁きで彼はひとつの律法を承認し、自分自身をこの律法に隷従せしめ、裁きの基準を自分自身に対しても 設定したわけである。そして兄弟の眼から塵を除いてやるという愛に満ちた心情を抱きながら、彼自身は愛の王国の下に沈んでしまったのである。 (同上 p160)
92 : 実定的な人間は、彼にとって勤めであり、また彼の中で勤めであるところの特定の徳に関しては、道徳的でもなければ不道徳でもないし、 またそこにおいて彼が一定の義務を遂行するところの勤めは、直接的には、これらの義務に背反する不徳ではない。しかし別の面から見 れば、・・彼の特定の実定的な勤めには限界があり、彼はこれを越えて出たことがなかったのだから、この限界の彼方で彼は不道徳だと いうことになるからである。・・・実定的なものに主体性を対立させると、勤めの無記中立性やその限界は消失する。・・・律法と愛とが 対立していたのは・・その形式によるものであったから、律法は愛の中に吸収されることができたのであるが、この吸収の中で律法はその 形態を失った。これと反対に、犯罪と律法は内容からして対立している。律法は犯罪によって排除されてはいるが、やはり存在する。 というのは犯罪は自然の破壊であるが、自然は一なるものであるゆえに、破壊者の中でも被破壊者の中でと同じだけのものが破壊されている ことになるからである。もし唯一のものが対立しているとすれば、対立者の合一は概念の中にしかない。そこで律法が作られたわけである。 対立するものが破壊されてしまうと、概念、つまり律法が残ることになる。しかしその場合には、律法は欠けたもの、すなわち欠陥を表現する にすぎない。というのはその内容は実際には廃棄されているからである。そしてこれが刑罰法と呼ばれる。 (同上 p162,163)
93 : 律法は犯罪者によって破られたのであるから、その内容はもはや彼にとって存在しない。彼はそれを廃棄してしまったのである。しかし 律法の形式である普遍性は彼を追求し、彼の犯罪に密着して離れない。彼の行為は普遍的となり、彼が廃棄した権利は彼にとっても廃棄 されていることになる。こうして律法は持続し、刑罰の妥当性も持続する。ところが律法と結びついた権力を持つ生命体、概念において 失われた権利を現実に犯罪者から奪う執行者、裁判官は抽象的な正義ではなくて、生きものであり、正義というのはその様態にすぎない。 刑罰に相当することの必然性は確定しているものの、正義の実行は決して必然的なものではない。というのは正義は、生命体の様態と してならば、推移することもあるし、他の様態が現れることもあるからである。こうして正義はある偶然的なものとなる。普遍者つまり 考えられたものとしての正義と現実的なものすなわちある生命体の中に存在するものとしての正義との間には、矛盾があり得る。 復讐者が相手を赦し、復讐を放棄することも・・裁判官が・・赦すこともある。しかしだからといって正義が満足させられたのではない。 律法が最高のものである限り、正義から逃れる道はないし、個体は普遍者に犠牲として捧げられなければならない。 ・・だから律法が多くの犯罪者の代表を罰することによって満足させられ得るなどと考えることも矛盾してる。 (同上 p164,165)
94 : というのはこの代表者において他の連中も罰を受けることになるという限り、彼は他の連中の普遍者であり概念であるし、命令し 刑罰を与えるものとしての律法は、特殊者に対立して初めて律法であるからである。律法はその普遍性の条件を、行為する人間 もしくは行為が特殊者であるという点に持つ。そして行為が特殊者であるのは、それが普遍性つまり律法との関連において 考えられ、律法にかなっているとか、それに背いてるとかいう限りにおいてである。そして・・その特殊なあり方は何の変化をも 蒙らない。行為は現実的なものであり、現にあるとおりのものである。いったん起ったことを未然の状態にすることはできない。 罰は行為に続く。その連関は不壊のものである。ある行為が未然にする道がなく、その現実性が永遠のものであるならば、いかなる 和解も不可能である。よしんば罰を受けることによっても不可能である。律法はなるほどそれによって満足させられはするだろう。 というのは律法の明言する当為と犯罪者の現実との間の矛盾、犯罪者が普遍性から得ようとした例外は廃棄されているからである。 しかし犯罪者は律法(これが犯罪者にとってある外的な存在者であろうと、彼の中にある良心の疾しさとして主観的なものであろう と)と和解しているわけではない。 (同上 p165,166)
95 : 前者の場合には、犯罪者が自分自身に対するものとして作りだし、武装させた外的な威力、この敵意ある存在は、罰し終われば、犯罪者に 働きかけることを止める。犯罪者が働くのと全く同じ仕方でそれが犯罪者に対して反作用を及ぼしてしまえば、それは働きを止めはするが、 威嚇的な姿勢に戻ることになる。その形態が消失したり、友好的なものに変わったのではない。また後者の場合に、疾しい良心、つまり悪い 行為をしたという意識、自分が悪人だという意識については、罰を受けたからといって何も変わるわけでではない。というのは犯罪者は 自分を常に犯罪者として眺めてるし、現実である自分の行為に何の威力を及ぼすわけではないし、こういう彼の現実は自分の律法意識と矛盾 しているからである。 (同上 p166)
96 : ・・人間はこういう不安に堪えることができない。悪の恐るべき現実と律法の不変性とから彼は恩寵へと逃れることしかできない。 疾める良心の重圧と苦痛とが再び彼を駆り立てて、自分自身と同時に律法から逃れ、それによって正義から逃れようとする不誠実 に赴かせることもある。彼は抽象的な正義の主宰者の善意を蒙ろうとそのふところへ身を投じ、この善意が彼のことに眼をつぶって くれて、実際の彼とは違ったふうに彼を見てくれるようにと希望する。彼は自分では犯した罪を否認しないが、善意のほうが彼の 過ちを否認してくれるという不誠実な願いを抱き、他の存在者が彼について抱く考えのうちに、つまり真実でない観念のうちに慰藉 を見出すのである。こうなると不誠実な物乞い以外に、純な道によって意識の統一性へ還ることも、刑罰や威嚇的な律法や疾める 良心を止揚することもできなくなってしまうであろう。もし罰が単にある絶対的なものと見なされなければならず、またそれがいかなる 条件の下にも立たず、またそれが条件次第で自分を越えたいっそう高い領域を持てるという側面も無いとするならば。 律法と罰は和解され得ないが、運命との和解の中で止揚されることはできるのである。 (同上 p166,167)
97 : 運命において罰は敵対する威力であり、ひとつの個体であって、その中では普遍者と特殊者とが、そこでは当為とこの当為の実行とが律法の 場合のように分かれていないという意味でも、合一されてる。・・犯罪者は自分が他人の生命を相手にするつもりであった。ところが彼は 自分自身の生命を破壊しただけのことである。というのは生命というものは一なる神性の中にあるゆえに、生命が生命から分かれて別なもの となることはないからである。そして犯罪者が傲慢から破壊したものの、それは生命の親しみを破壊したに過ぎない。かれは生命を敵に変えて しまったのである。・・そして彼が虐待したように、彼を虐待する。こうして運命としての罰は犯罪者自身の行為の、つまり彼自身が武装を 与えてやった威力の、彼自身が自分で敵にしてしまった敵の、等しい反作用なのである。 (同上 p167,168)
98 : 運命と和解するためには、絶滅というものが止揚されなければならないように見えるから、運命との和解は刑罰法との和解よりももっと 考え難いように思われる。しかし運命は和解性に関して刑罰法よりも次の点で優れている。つまり運命は生命の領域の内部にあるが、 これに反して律法と刑罰の下にある犯罪は克服できない対立、絶対的な現実の領域にあるということである。後者において罰が止揚せられ 悪しき現実に関する意識が消え失せるという可能性は考えられない。何となれば律法は生命を臣従せしめる威力であり、いかなるものも、 神性でさえも、それを支配し得ないからである。というのも神性は最高の思想の権力に過ぎず、また律法の管掌者に過ぎないから。 現実はただ忘れることが出来るだけである。すなわち表象されたものとして、別の弱さの中で消え去ってしまうことが出来るだけであるが、 それでもなおそれの存在は持続するものと考えられるであろう。ーーしかし運命としての罰においては、律法は生命より後にくるものであり、 生命より低いものである。それは生命の欠陥であり、力として現れた欠けた生命に過ぎない。そして生命というものは自分の傷を再び癒し、 分離した敵対する生命を再び自分自身の中に戻し、犯罪が作り出した律法と罰とを止揚することができる。 (同上 p169)
99 : 犯罪者が自分自身の生命の破壊を感じ(罰を蒙り)、自分が(良心の疾しさの中で)破砕されたと識ってから、彼の運命の作用は始まる。 そして破砕された生命のこの感情は、失われた生命への憧憬とならざるを得ない。欠けているものはその部分として、つまりその中にある べきであるのに、実際にはその中に存在しないものとして識られる。この欠陥はひとつの非存在ではなくて、あらざるものとして認識され 感ぜられた生命である。可能なものとして感ぜられたこの運命は運命への恐怖である。そして罰への恐怖とは全く違った感情である。 前者は分離に対する恐怖であり、自分自身への恐れである。後者すなわち罰への恐怖はある異質無縁のものへの恐怖である。というのは たとい律法が自分自身の掟と認められても、罰への恐れの中では、罰は異質無縁のものとなるからである。 ただしその恐れがふさわしくないことに対する恐れと考えられるのであれば別である。 (同上 p169,170)
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