2012年09月戦国時代114: 【六分一殿から】戦国山名氏【交代寄合】 (550) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【六分一殿から】戦国山名氏【交代寄合】


1 :2006/07/01 〜 最終レス :2012/10/12
中国地方東部の覇者、山名氏のスレッドです
但馬山名氏、因幡山名氏どちらの話題も桶

2 :
山名豊国は悲惨

3 :
今名古屋にいるのはどちらの家系?

4 :
六分一殿も満幸さまと氏清さま、御所さまの悪巧みに乗らはったのが運のつきどしたなあ。

5 :
>>2
餓死するよりよっぽどましでは?
悲惨なのは勝算のない鳥取城に送り込まれ、
飢餓地獄を味わった吉川経家の方でしょう

6 :
豊国ってヘタレ武将扱いされてるけど
戦績は何にもないのか? 守護家として親父から家督相続しただけなん?

7 :
お前`ンついてるのかっていわれた豊国たんハァハァ

8 :
細川の子孫の有名人はたくさんいるのに、山名はさっぱりですな。

9 :
豊国はけっこういろんな意味で出来る武将なんじゃない?
運だけじゃ生き残れないだろあの時代は。
てか祐豊−堯煕−堯政−恒豊の資料って少ないんだなぁ。
いちおー但馬山名家の宗家なのに。

10 :
>>1
中国地方なんて表現を用いる国賊が山名スレを立てるな!!
中国だ。豊葦原中国。

11 :
やまなっちは、滅亡しなかっただけでも
かなりの能力はあるね!

12 :
四職の勝ち組度
細川 S
山名 B
斯波 E
赤松 E
結局時流に乗れるか乗れないかだな
山名は江戸時代以降も存続してるしいいほうだろ

13 :
四職の組み合わせがおかしい

14 :
>>6
権臣の武田高信を暗殺したり、武将としてもそれなりにしたたかだよ
>>12
名前すら出てこない一色はFかな
庶流はけっこう残ってるけど

15 :
>>12
三管領=細川、畠山、斯波
四職 =京極、山名、赤松、一色
覚え方は京都の山は赤一色ダ!!

16 :
>>14
岩松城主時代には毛利軍の侵入を撃退して
自ら敵兵の首を取ったりしていると伝えられる。
尼子、毛利、織田と時流を見るに敏なるは戦国大名向きだが
家臣団編成が守護大名的なままだったのだろう。

17 :
だれか秀吉時代の豊国たんの領地どこだか知らない?

18 :
一日も早く、雅子が皇室から駆除されるを希求す。
皇太子の妻である雅子は、跡取りを作ろうとせず、精神病を装ってぐうたらな生活をし、
挙げ句の果てにはオランダで療養するときた。
バカ面の娘の授業参観に行く体力があるなら、夜な夜な励んで男を産め。
音楽会に出て行く暇があるなら、まじめに公務しろ。
皇太子が繁殖能力を有しているうちに、新しい皇太子妃を迎え入れなければ、
我が国の「天皇制」は根幹から揺るがされることになる。
この期に及んでも、雅子は、ありもしない色気を駆使して、
女性に免疫のない皇太子をたぶらかしたり、娘の養育を盾に取って、
お心優しい皇太子を言いくるめるなど、実に罪深い悪女である。
日本国民は、この歴史上最も怠惰な皇太子妃・雅子を徹底的に糾弾し、
一日も早く皇室から追放すべきである。
なお、この際、万が一、皇太子が雅子の肩を持って、我が国のあり方を脅かす場合、
皇太子も皇籍を剥奪し野に追放されることやむなしとする。

19 :
誰か真の山名厨はいないのか?            


20 :
豊国は寛永三年(1626)まで生き残ってるんだよね
交代寄合として但馬村岡六千七百石を領したんだから、完全に滅亡した家よりましでしょ
細川?
幽斎は京兆家ではなく、和泉上守護を継いでうまく時流に乗った存在
京兆家は跡形もなく消え去っちゃったし
京極没落していたのを信長に助けられ、更には松丸殿のお陰で大名になっただけだし
畠山は高家、斯波は完全にさよならだし、赤松は関ヶ原でさよなら
一色の分家は旗本になったが数代で没落
山名結構マシだ

21 :
ちなみに但馬山名家も旗本で残ってるよ。
でも祐豊や堯煕って影薄いよなぁ〜。やはり凡将だからかな?

22 :
>>21
祐豊は本来の因幡守護家の誠通を、攻め滅ぼしてるけどね
豊国の父豊定が因幡守護になれたのは、兄祐豊のお陰
だから他国と比べればなんとも言えないが、只の凡将ではないような
堯煕、堯政は大坂方についた先見性のなさ(言いすぎかな?)はどうなのかな

23 :
堯煕、堯政親子は当時秀頼の家臣だったから仕方ないんじゃない??
まぁ堯政の子の恒豊君が家康に取り立てられただけでも幸せだよな。
実は豊国が家康に働き掛けたらしいけど。

24 :
ちょっと言ってみたかっただけです、申し訳ない
>実は豊国が家康に働き掛けたらしいけど
そうなんですか、豊国は堯煕の従兄弟ですからね
ありそうですね

25 :
豊国って結構いいヤシだよな。
但馬山名をタヌキに頼んで再興させてるし、
村岡に6700石もらったときは昔鳥取城から自分を追い出した旧臣たちを呼び寄せたりしてるしさ。

26 :
徳川は大事にした=名門
由良新田なんかもあるし

27 :
特に源義国から出た、清和源氏の没落名門を厚遇したね
吉良なんか、世良田の系図を出した功で高家に列した

28 :
>>25
それどころか武田高信の息子まで呼び寄せちゃってるから
人がよいのもほどがある。

29 :
山名のブランドが通じる範囲がそれこそ落ちぶれた
旧家臣相手程度になっちゃってたってことでは

30 :
山名四天王
垣屋続成
南条宗勝
田結庄是義
八木豊信
徳川四天王や武田四名臣には負けません。

31 :
山名家があんな状態で家名を残せたのは凄い事だと思う。

32 :
豊国の江戸期に入ってからの逸話
コピベだけど許して頂戴
ある日、豊国が古い所々破れた羽織を着て家康の前に出ます。
家康の「禅高(豊国の号)、物持ちが良すぎるのも考え物だぞ」との言葉に、
豊国は「これはかつて足利義晴様よりいただいた物なのです」と答えました
家康はこれを聞き、「禅高は古い恩義にも背かない律儀者だ」と関心したといわれて

家康自身もすごい節倹家なんですけどね

33 :
山名四天王って
垣屋
太田垣
田結庄
八木
じゃなかったっけか?

34 :
そうみたいだね
垣屋に田結庄は対立してるし、
主君を守り立ててる感じはないね、この四天王

35 :
祐豊と堯煕のときには但馬山名家は分裂状態だったらしいしね。
てかタヌキもケチだよな。
どーせ与えるなら村岡みたいな僻地じゃなくてせめて出石とか豊岡を与えてあげればいいものを…

36 :
このサイトいいですよ
↓オススメ
http://www.geocities.jp/wainsann_1985/

37 :
>>35
天正三年(1575)の垣屋と田結庄の野田合戦ですか
織田派の田結庄是義はこの戦いで敗死したと伝えられる
ちなみに当時の毛利派は主家を含め、垣屋、太田垣、八木
その垣屋も豊続に続き、光成も主君に先んじて、秀吉に降っている
八木も同様
太田垣は比較的後まで秀吉と戦うが、居城が落城し没落

38 :
宗全以降豊国まで山名って全然語られないね
細川の方は結構いろいろなエピソード語られてるのに

39 :
垣屋続成は長生きでえらく現役期間が長いのな

40 :
政豊・俊豊・致豊・誠豊・祐豊・誠通・豊定

41 :
>>38
すごく簡略にいうと、播磨、美作、備前を巡り赤松氏と激しく争い、最終的には破れ、
但馬と因幡に籠もっちゃったということ
中央に影響力があったのは、政豊まで
応仁の乱時には他に備後や石見、安芸などの守護でもあったがここらはあっさり失い
比較的後まで勢力があった伯耆もやがて失う

42 :
豊国と家康とのエピソードといえば、日之本六分の一を失った太主と称されたのがあったね

43 :
そのエピソード知らないので、良ければ教えてください

44 :
>>41
山名澄之はがんばったほうかな?

45 :
澄之は尼子経久に追われちゃうな

46 :
山名澄之はどうなったの?

47 :
不明だね、因幡にでも逃げたのかな?
ちなみに澄之の子に豊興、豊隆

48 :
一時は出雲進攻もしてるのに、山名方
49 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

50 :
侍所頭人(所司)は足利義稙の時代に終わってしまったみたいだ。
四職というが幕政に関与してた期間はわずかなんだな

51 :
但馬山名家で
祐豊〜堯煕〜堯政〜(清水)恒豊
の続きが分かる人いない?
あといつから山名に復姓したとか

52 :
ごめんわからない
旗本としてはずっと存続したのかな?

53 :
武田高信って清和源氏?

54 :
安芸武田の庶流でしょ
家系図体系には載ってないけど

55 :
おれは但馬豊岡の出身だが、
小山の上に城あとがあるが、ここの城主は山名一族か?

56 :
俺は豊岡市日高町の人間だけど、小山って今の豊岡高校裏の神武山のこと?
それとも新田小あたりのこと?

57 :
>>54
稲葉民談記には
若狭武田の庶流と書かれている

58 :
山名豊弘っていたなぁ

59 :
>>57
そうですか、ありがとうございます
>>58
但馬守護祐豊の弟、最初仏門に入り、後に出家
因幡道竹城主となるが、因幡守護家と対立し、毛利家と結ぶ
永禄七年(1564)因幡の山名豊数に急襲され、討死
60 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

61 :
山名が衰えた原因は、政豊が赤松に敗れたからかな?

62 :
吉岡定勝が小さい城で秀吉から3回防衛したらしいんだが
図書館で兵庫県史見たけど見つからなかった(もしや兵庫じゃない?)
このスレにも名前が見つからなかった(もしや山名家臣じゃない?)

63 :
吉岡定勝 よしおかさだかつ ?〜?
因幡の国人。吉岡春斎の男。通称将監。因幡丸山城主。定は山名豊定の偏諱か。
1581年の因幡鳥取城攻めにおいては防己尾(つづらお)城に籠城し、
毛利方として激闘して秀吉軍を悩ませたが、糧道を断たれて自落した。
ここまでコピぺ
山名→吉川に移ったらしい

64 :
石見亀井文書の秀吉書状に三度の敗戦を伺わせる記述がある(歴博所蔵)
取り敢えず、地上戦で推論できるのは
設楽原の馬防柵とか、九州攻めの根白砦での島津、宮部戦と似た攻防があったと十分に創造できる遺構が残っている。
質問は受け付けんから、学べ教えて君はくず、、、

65 :
>>63
どこのサイトもそんな感じで簡略化して書かれている
どう防衛したんか知りたいところだ罠
恐らく豊国が毛利についたから毛利方として、と考えられる
>>64
別に追撃して敗走させた訳じゃないし、最終的に落城させてるわけで
「敗戦」とはならんのだろう
因みに信ヤボでは生没年1932-1606とはっきり書かれていた

66 :
待って、豊国は毛利に降ってないんじゃ?

67 :
何かその時代は毛利織田尼子残党とかに囲まれて流れが読めん

68 :
>>66
山中らの尼子残党を追い出すために毛利と結んだ。
降ったわけではない。

69 :
豊国と尼子勝久は結んでいると思うのだが
もちろんそれ以前は、尼子と山名は仇敵だけど

70 :
豊国は、尼子、毛利、秀吉と時流にあった勢力とうまく結んでいる。
先を見る目はあるのに、人望がまったくなく、人がよすぎるのが残念。

71 :
田結庄是義
烈風伝の顔グラや低能力から
農夫っぽい印象

72 :
かつて自分を裏切った旧臣呼び戻したり同族を再興させてやったり…
ここまで人のいい大名っていないよなW


73 :
>>70
秀吉ってさ、勢力の名前なんだ。

74 :
吉岡 定勝(よしおか さだかつ、天文元年(1532年) − 慶長11年(1606年))は因幡国山名氏の家臣。将監・安芸守との記録もある。
吉岡氏は南北朝以来、湖山池西岸を本拠とした国人領主で、代々因幡山名氏に仕えたが、定勝の代である1573年(天正元年)に因幡国に進出した吉川元春により本領を安堵された。
1581年(天正9年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際は毛利氏に与し、居城・防己尾城に拠って羽柴軍を迎え撃っている。
秀吉軍の防己尾城攻撃は合計3回行われたが、定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法で、いずれの時も秀吉軍を撃退している。
特に2度目の攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。しかしその後は秀吉軍の長囲による兵糧攻めにあって落城する。
城を出た吉岡氏一族は帰農したとも、毛利氏を頼って安芸国へ去ったとも伝えられている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E5%8B%9D" より作成

75 :
>>72
元大名、今は気のいいお爺さん

76 :
なぁなぁ、だれか但馬山名家を語ろうよ↓
堯煕、堯政、恒豊の三代ってそんなにマイナーかな?

77 :
祐豊の方が豊定の兄だし、二人の父致豊は但馬守護なんだから、
本来豊国じゃなくて堯煕の方が本家なんだけどね

78 :
じゃ本家である但馬山名はどーなった?
豊国チャソのおかげで堯煕の孫の恒豊が大阪の陣後に旗本になったらしいが…
だが清水とかいう旧臣の養子という形で石高は僅か300石にも及ばない程度。
のちに山名に復姓したらしいがそこからの情報誰かしらね?
詳細キボンヌ

79 :
江戸幕府旗本人名事典. 石井良助監修 ; 小川恭一編著 原書房 1−4巻+別巻
でも入手(図書館でもいいけど)しないと、わからんかも

80 :
ところで時代は遡るけど、宗全の評価ってみなさんどう?

81 :
宗全はよく頑張ったほうだな。
祐豊も頑張ったほうだが運と先見の明がなかった。

82 :
赤松に負けたのが痛かった
勝ったからって、勢力を伸ばせるとも思えないけどね

83 :
祐豊が信長裏切ったのが痛す

84 :
山名は応仁の乱後は赤松と細川にネチネチやられた上、内部崩壊で衰退ってとこか

85 :
いやぁ〜でも交替寄合で生き残れたんだからいいじゃん

86 :
細川は畠山より、山名が目障りだったでしょね
赤松を上手にけしかけたかな?

87 :
なぁなぁ、話変わるんだけど豊国が村岡に封地された頃には
どんな家臣がいたわけ??

88 :
三上氏や田結庄氏がいたらしい

89 :
三上って確か親族衆だよな?
垣屋氏の末裔は脇坂氏の家臣になってるけど他はどーなんだ?太田垣や吉岡や八木とか。

90 :
山名家って分家かなりあるよな?丹波夜久野とか。
みんな消滅したのか?

91 :
 (..................................................... ..........\
  /........../ノ........ノ........ヽ.人..........ヽ...............)
  (........../  )...ノ....ノ ) ソ ヾ............丶....ヽ
 (........./    ノ   ノ  ..  ./)) ..........)
(........../                   ...........)
( .......// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |.........)
 | =ロ   -=・=-  ‖ ‖ -=・=-   ロ===
 |./ ‖    / /ノ  ヽ \     ‖ ヽ|ヽ
 |/  ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ.   ..| |
.( 。 ・:・‘。c .(●  ●) ;”・u。*@・:、‘)ノ  /
( 。;・0”*・o; / .....l l... ... \ :。・;%:・。o ) <カイオウの毒ガスをなめたらあかんで
(; 8@ ・。:// ̄ ̄ ̄ ̄\.\.”・:。;・’0.)   \
.\。・:%,. )....|.  ̄ ̄ ̄ ̄  | ....(. o`*:c/
 \ ... o .........\____/  ..........   /
   (ヽ  ヽ.... _- ..... ⌒.. ........ -_    ノ
    \丶\_.._....._.... ....._/.... /
     | \ \ ........... .......... ... ..__/|

92 :
たしか真田氏の配下に山名氏が居たと思うんだが、
やっぱり一族なのかな?

93 :
今ググったら出てきた
山名義季 やまなよしすえ ?〜?
真田氏家臣。上野下川田城主。1582年川田衆は多く北条氏に味方したため、その責任を取らされて所領を三分の二に減ぜられた。息子主水は1584年北条氏邦の沼田城進撃の際に禰津幸直に所属して戦ったが戦死した。
戻る

94 :
山名家って但馬山名家が宗家にあたるんだね。

95 :
>>93
山名氏って上野国山名郷が起源らしいから、古い時代に分かれた庶流かもね

96 :
幕末の時点で本家以外の庶流の家ってどんなのがあったんだ?

97 :
>>95
山名宗家が山名郷から出たのは、時氏のころ、即ち南北朝期
時氏は初め新田義貞に従い、中先代の乱以後尊氏に従う
最初の守護職補任は、暦応元年(1338)の伯耆守護
このとき本拠を移した

98 :
山中幸盛を主人公にしたコミックが雑誌に載っていたが、
山名豊国が登場してないぞ! 不満だ。

99 :
100ゲットしちゃうよ。

100 :
100

101 :
NHKのニュースに大阪の天満警察署の署長出てたけど山名の子孫か?
名前が山名康晴だってさ

102 :
それ芸名。

103 :
但馬山名家も誰か話題に出せよ
一応宗家なんだし旗本として数家残ってるんだし

104 :
豊国も血でいえば、但馬守護家だけどね
本来の因幡守護家(氏冬流)は誠通が但馬守護家に敗れ、
豊国の父豊定にとって替わられたかたちだから

105 :
但馬守護家も旗本として何家か生き残ってるんだな
山名マンセーの俺としては嬉しいよ(泣)

106 :
祐豊の所為で、因幡を支配しきれませんでした。

107 :
生野銀山は祐豊が掘り出したんだね

108 :
でも銀山見つけたせいで信長の糞野郎に…

109 :
まぁまぁいいじゃん。祐豊の子孫は武家として残ってるんだし。

110 :
山名マンセー(≧▽≦)ゞ

111 :
こんにちは。
私は山名宗全の子孫なんですが、こんなスレがあったなんてビックリです!
ちょっと嬉しい…

112 :
>>111
家の家紋とかどんな感じ?

113 :
111です。
家紋ですか…
家系図ひっぱりだして見てみたんですが、何がなんだか私にはよく分かりませんでした…
桐とか、他にも色々載ってました。

114 :
家系図?
どの辺りとつながっているんだろう
持豊から5、6代くらいの人物名を書いてくれないか?

115 :
持豊┬師豊
    ├教豊
    ├是豊
    ├勝豊
    ├政豊
    ├時豊
    └豊久
どぞ。

116 :
山名家衰退の原因は応仁の乱ですか?

117 :
>>116
それもあるけど山名氏は乱後は中央から手を引き領国に帰ったから
うまくいけば戦国大名として成長する余地があったかも。
でも被官、国人をまとめきらないまま、赤松と抗争を繰り返して弱体化した。

118 :
伯耆山名家はどうなったんだ?五月崩れで滅んだのか?

119 :
応仁の乱では西軍の総大将であった山名家が、なぜ地方勢力に
落ちぶれたのか、詳しい方御教授お願いします。

120 :
>>119 詳述はされてにないけど、このスレで触れられてるのは下記のあたり、かな
>>41
>>61
>>80-82 >>84

121 :
>>120

122 :
山名堯煕マンセ(´□`)

123 :
足利義晴に陣羽織を貰ったと聞きましたがそのとき何か幕府に貢献してたんですか?

124 :
今夜はヤーマナ!
本屋はヤーマナ!

125 :
赤松は嘉吉の乱で一度滅んだはずなのにしぶといな。
いつの間に山名と力が逆転したのか。

126 :
>>125
滅んだ? その認識は間違ってないか?
赤松貞村の一族もかなりの勢力だよ

127 :
>>123
豊国の母に由来がありそうな感じ?
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x028.htm

128 :
>>127
義材からもらったとwikiにはあるが
義晴からの方が自然だね
高国の娘といえば、北畠晴具の室がいる

129 :
>>125
応仁の乱後に赤松に敗れたのが山名にとって決定的な打撃

130 :
質問!!
1600年に最盛期の山名一族がいれば関が原で徳川の東軍に勝てたか?

131 :
>>130
大将が豊国ならたぶん無理w

132 :
誰だったらいいの?

133 :
歴代の山名一族でも無理だよw

134 :
西陣南帝なら勝てたかもね。

135 :
>>133
六分一殿でも無理か…

136 :
西陣南帝に最盛期の山名一族がいれば勝てるはずだ。

137 :
時代が違うからなんとも言えないと思うよ

138 :
>>130
自称一族の得川家はどちらにつくのでしょうか?

139 :
てか豊国さんは東軍に従軍して功を上げたらしいがいったい何人の兵を率いたわけだ?
当時の所領なんて無きに等しいだろ?

140 :
応仁で敵対した山名細川が関ケ原では轡を並べて戦ったわけだ
ご先祖様もびっくりだなこりゃ

141 :
>>140
細川元勝って関ヶ原出てたの?

142 :
関が原の件ですが山名宗全(持豊)や宗詮(祐豊)が大将だったら?
徳川勢は島津や大阪の陣の真田のように直線的に攻められるともろい面がある
山名勢は赤松討伐戦でみせたとおり、攻めだしたら直線的な猛攻が得意。
関が原では島津のわずか1000名ほどの軍勢に崩されそうになった徳川軍だが、
六分の一殿の山名であれば少なくとも1万5千、多ければ3〜4万ほどの軍勢が
家康の本陣に猛攻をかける。そうすればワンサイドで終わったかもしれない。
えっ、その前に家康は謀略を使うだろうって?・・・大丈夫!田舎者の山名勢には
謀略は通じない。
最盛期の山名勢は野戦では徳川勢に負けないと思う。

143 :
>>141
大坂城にいたんじゃないか?

144 :
山名は本当に強かったの?

145 :
強さは上杉並みか?

146 :
なんで因幡山名と但馬山名は争い続けたのか…

147 :
どこの家でも一族ってのは後継者の座をめぐって争うもんだ

148 :
武田信玄と戦ったらどっちが強かったのだろうか?

149 :
>>146
不仲だったのは豊治(因幡)vs誠豊(但馬)、誠通(因幡)vs祐豊(但馬)の2代だけだろ?
それ以外の時代は特に不仲でもなかったと思うが。
誠通の子の豊成も仇である豊定の子豊数が武田高信に追われたときも保護してるし。

150 :
>>148
山名四天王VS甲陽四名臣
武功・名声・忠誠いずれにおいても山名四天王の敗北です
本当にありがとうございたした

151 :
武功は後付け多いから差っ引いてやってよ。

152 :
>>150
武功も名声も忠誠も山名四天王のほうが負けてるのに主家の存続に成功してるのは山名なんだよな。
こうしてみると甲陽四名臣って全然名臣じゃないよなぁ。
大名自身も、信玄・勝頼に比べて豊国が優れているとはどうみても……w

153 :
運も実力のうち

154 :
鳥取城が豊国が城主の時は豊臣方の兵糧攻めを持ちこたえて吉川経家が城主の時は落ちた。

これも豊国が先を見越して備蓄をしておいたんじゃ無くて実はただの運だったんじゃ・・・w

155 :
>>154
豊国は普通のことをしただけだぞ。
豊国の運がよかったのではなく、むしろ経家の運が悪かった。
主家の命令ではるばる鳥取城までやって来てみりゃ食糧が無えっつーんだから。
すぐに食糧の調達を部下に命じ、毛利家にも輸送を依頼したが、間に合わず……
合掌、というわけ。

156 :
何だかんだで上手いこと死地を脱した事は確か

157 :
>>156
豊国の鳥取城篭城のことか?
なら秀吉は降伏させることが目的だったから、
生死の境目ではあったが死地とは言えない。
降伏後も鳥取城主の地位に変わりはないし、
秀吉に豊国殺害の意思は無かったと言える。
しかし豊国はツイてたっていうこと自体は否定しないw

158 :
>>142
そうなのかな?

159 :
関が原では徳川との直接対決の前に黒田やら加藤やら福島やらが
立ちはだかるからそんなに簡単にはいかんだろう。

160 :
黒田,加藤,福島は最盛期の山名軍の敵じゃない!

161 :
そういや山陰の兵って強いのか?
越後や三河は強兵、尾張は弱兵 みたいな話はよく聞くが

162 :
山陰の兵って強いと思う。
秀吉が侵入してきたときも小競り合いでは山名のほうが優勢だった。
当初は何回か撃退してるみたいだし。

163 :
じゃあ多少、将の資質がアレでもまとまった兵団として活用できれば
>>160の妄言もあながち嘘じゃなくなるかもなw

164 :
>>163
だから、最盛期の山名軍団を関が原の西軍にもっていきたかったのよ。
けっこう強いと思うよ。

165 :
山名四天王ってどんなにすごいの?

166 :
【四職家】一色一族を語る【丹後・若狭】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183829686/

167 :
鉄砲など聞いたこともない連中がいきなり関ヶ原に出現したとしてどうなるのかね。

168 :
山名VS徳川
山名のほうが強かった!

169 :
>>165
俗にいう山名四天王は実は五家ある。
太田垣・八木・田結庄・田公・垣屋の五氏。
致豊・誠豊兄弟の家督争いの時、誠豊を奉じたのが垣屋を除く四氏。
垣屋は致豊を推戴したが誠豊派に敗れたため、1510年頃〜1560年頃は逼塞状態。
永禄頃より田公が衰退し、これに代わって垣屋が台頭した。
従って、16世紀前期の山名誠豊時代の四天王は太田垣・八木・田結庄・田公の四氏、
16世紀後期の山名祐豊時代の四天王は太田垣・八木・田結庄・垣屋の四氏となる。
太田垣…親毛利派。領内にある生野銀山を巡って一時山名祐豊と戦っている。
八木…親毛利派。垣屋氏と田結庄氏の抗争では垣屋を支援した。
田結庄…親織田派。垣屋氏と対立し、合戦に及ぶが敗北した。
田公…毛利氏と組んで因幡山名氏を苦しめた武田高信を矢田氏らと共に支援した。
垣屋…続成が没落した後は低迷。光成の時代に復興し、親毛利派として活躍した。
全然凄くないかもしれん。

170 :
雑兵(足軽)の集団・集中活用を初めて本格的に行ったのは
山名氏だという説が有るけど本当?
そういえば赤松討伐戦などではそんなような気もするし・・・・
本当なら山名はすごい・・・・・

171 :
山名祐豊の子の氏政って堯煕ってゆう別名あるけどなんて読むんだ?
てか名前としてはどっちが正しいんだろ?
エロい人教えて

172 :
>>171
常考して「たかひろ」だと思う。どっちでも正しいんじゃないか?
2つ3つ諱が伝わってるなんて珍しい事でもないし

173 :
山名って江戸期になってからかなり分家出してるよな?
豊国系で3家、祐豊系で3家くらいが旗本として分家したと思う。
ただ祐豊の子の堯煕、孫の堯政って秀吉に降ってから江戸期まで何をしてたんた?
調べようにも調べようがないんだけど

174 :
山名ってそんな有名な人っていた?
山名氏の地元なんだが、あまり有名な武将を知らない。
いたら教えてほしい。

175 :
山名持豊とか、豊国とか・・・
あとは近代だが山名義鶴も有名かな

176 :
豊国は代表的な御伽衆だったそうだけど、あまりいい評判がないそうなんだよね。

177 :
山名本家のお膝元、旧出石町での山名氏の知名度は皆無
山名祐豊や氏政親子なんてほとんど知られてない
江戸期の小出や仙石はそこそこ知られてるけどな

178 :
豊国は好きだなぁ。
毛利と組んで兄豊数を追放したり一族の豊次らをブッコロにした武田高信の子を召抱えたり、
やはり毛利と組んで豊国を鳥取城から追い出した中村春次の子を召抱えてるからな。
いくら戦国の世の倣いとはいえ、肉親の仇・反臣の子を、
平和になったからって再び家臣に招いたりするかァ?w
お人よしすぎだろ……。

179 :
まぁ一説には鳥取城籠城戦も娘を人質に取られた豊国が
「家族が大事」
とか言って単身降伏しちゃったって話だし
まぁある意味戦国一のお人好しだな

180 :
>>179
織田信雄(常真)と気が合いそうだなw

181 :
今川氏真、織田信雄、山名豊国は暗愚だけどお家は残してるよな
ただ豊国ってそんなに暗愚?

182 :
豊国はもうちっと評価されてもいい気がする。
鳥取への侵攻を一度は食い止めてるわけだし、時代の流れに上手く
乗る力もそうだし、足利将軍から拝領した羽織を着て参上した逸話
も、彼の状況を把握するちからとも言えるのでは?
ただ、其の割に情けないエピソードが多い感じはするがw

183 :
豊国はおひとよしなだけで、暗愚とまではいえないと思う。
尼子、毛利、織田、豊臣、徳川と時流をみる能力は確か
ただ主君としての人望がなかった

184 :
豊国にもう少し野望があれば城持ち万石大名になるのも夢じゃなかったはず
子孫は大名になれたけど
ただ尼子に始まって毛利、織田の二大勢力に挟まれた状態でよく家名を残したもんだ
近隣の丹後一色や丹波波多野は完全滅亡したんだから

185 :
そうかな?野望がなかったから生き残れたんじゃないかな〜

186 :
山名家って元々応仁の乱で有名だった家なんだ。知らなかったわ。
宗全の時の山名家って鳥取?兵庫?
スレ違いだけど、敵対した細川家は愛知?

187 :
源頼朝の頃から有名じゃボケ
少しは自分で調べろ

188 :
鎌倉時代は新田のほうが山名より有名だからしかたない気もするが
室町時代は山名ぬきには語れないだろ。山名知らないのが
この板にもいるんだな。

189 :
新田氏は頼朝挙兵時の去就を誤ってしまい、以後冷遇されてしまうが、
頼朝をはじめ源氏の年長者が死んだ後、義重は長老格として扱われた
しかし義貞の代には既に無位無官の小豪族
一方の山名氏は頼朝に積極的に協力し、
大内・平賀・加賀美らとともに御門葉として遇されている

190 :
おわ。我が祖先のお名前。なんだか嬉しい。
女系ですが吉岡将監定勝の子孫です。確かつづらお城が陥落し、一度毛利氏を頼って岡山?or広島?方面へ落ちたのですが、当地での扱いを不服として故郷へ帰って帰農したらしいです。
で、帰農した村で娘を嫁に行かせた先が、僕の母親の実家というわけでした。
もう博物館へ寄贈しましたが、昔は蔵に具足刀剣一式が揃っていたようです。槍だけは今でも居間に飾ってあります。刃の部分は錆びてボロボロになっちゃってますが。
吉岡家の墓守もうちがやっているはずです。
最近帰ってないので、お参りに行こうと思います。。。

191 :
ああ、そういえば吉岡家の一族は落城後県外(藩外)を移ったから鳥取には吉岡性が少ないんだっけ。

192 :
山名って宗全世代で兵庫にいた頃はかなり大物だったけど、
鳥取に移った頃はかなり落ちぶれてるよな。細川はずっと大阪なのに。
山名豊国だって、同じ中国の大名である毛利や尼子、宇喜多に比べると影が薄い。

193 :
>>192
そりゃ分家の豊国が本家のように見られるんだから、落ちぶれてるに決まってるだろ。

194 :
但馬系の堯政が大阪の陣で戦死して子の煕政?が旗本の清水家を継いだ時点で山名嫡流は豊国系になったはず
煕政の子の中には山名姓で旗本に取り立てられたのもいたけどな

195 :
保守

196 :
>>20
熊本の細川は細川奥州家の細川
藩祖の忠興が細川輝経の嗣子となり、家系上は幽斉とは別家となった

197 :
>>196
>>20自身わざわざ別者扱いしてるじゃねーかw

198 :
あげ

199 :
南北朝時代に、山名時氏(墓所は倉吉市)は西国にある旧北条氏の守護地をうまく引き継いだ。
これを元に”六分一衆”と呼ばれるまでに勢力を伸ばす。
が、天皇家の謀略により味方同士で戦さを起こし、但馬・因幡・伯耆まで勢力を減退する。
室町時代に入り、嘉吉の乱の功績により、但馬山名氏は播磨も治める。特に、嘉吉の乱の張本
人・赤松氏の首を獲った伯耆山名氏は美作・備前を直接治めることにな
った。さらに山名時氏の時から侵略により事実上の領地であった出雲、同じく山名時氏の時か
ら関係の良好であった備中・備後・安芸も間接的に治めた。
伯耆山名氏の伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後・安芸の支配は、その後、戦国期には
伯耆山名⇒尼子氏⇒毛利氏へ引き継がれることになる。
(伯耆山名氏の菩提寺は米子市日下)
毛利氏と尼子氏の対立は、結局、伯耆山名氏が造った国の支配権(=中国地区の覇権)をめぐるもの。
最近、地元で出版されたの歴史研究の資料によると、伯耆には戦国期に必要な守護代が西伯耆・
東伯耆・日野に南北朝(山名時氏)時代には既に他の地域に先駆けて存在していた、らしい。
ここからは想像だが、山名時氏が伯耆で始めた戦略的(侵略的)政治が戦国時代の始まりではないかと。
(ちなみに、日野は出雲から奪い獲ったものらしい)
そして、他の地区が戦国に入る頃には伯耆では戦国期は終わり、戦争をメシのタネすらする経済発展期
に入ったと考えられる。

200 :
>>199
日野はそもそも日野衆で独立的土豪集団っぽいから、
出雲から奪ったというより味方につけたって感じかもな。

201 :
吉岡さんが湖山池一帯を領したのは、天神山から久松山に移転してからなの?
吉岡さんの父、春斎さんまでの居城丸山を蓑上山に移転って書いてあるから、
防巳尾城は羽柴勢との戦いで籠城に使ったんかね?
湖山池とか吉岡温泉はわかるけど、防巳尾城の鳥取市福井とか六反田とか、
どこやねん?思って調べたら、旭国際の湖山コースらへんだったのね。

202 :
吉岡さんは戦闘班で育つよ!鷹狩りで教育係にもなるよ!今103。
豊定さんは政治班だけど、いつも早死にする…。南条宗勝さんは早く命令回数3になり易い。
譜代で即戦力で使えるのは、この三人と垣屋続成さんかなぁ。
あと、豊国タソは政治の成長めっちゃ早いよ!政治が100越えてから
鷹狩りとかでビシビシ鍛えたり櫓を何回も取らせたりしてたら、
大名になるころには命令回数5になってたりするw
中村春続さんも政治は成長が早い。垣屋光成タソは地道に政治を重点的に。
二上山城の石垣が可愛いよねハァハァ

203 :
武田高信って武田信玄の遠い親戚の一族?

204 :
>>203
ググレカス

205 :
そんな事も知らねえのか馬鹿!甲斐武田の分流じゃ。

206 :
>>203
一般的には若狭武田氏の庶流とされるから、信玄の遠い親戚と言えなくも無い。
一応通字は上総・甲斐・若狭・安芸の各武田氏と同じく「信」。

207 :
高信の話は>>57にも出てるね

208 :
家柄的には主人より上なのか

209 :
>>208
どう考えても主人のほうが家柄は上。

210 :
山名が急速に勢力を落としていったのは、赤松政則の策謀なんだって?

211 :
どうだろう?
赤松と山名は仇敵同士だから山名の凋落は赤松の活動のせいと言えなくもないが……。
政則自身は真弓峠の戦いの敗北で有馬・浦上といった重臣から一時的にとはいえ見放されてるし。
むしろ各地域の国人をまとめられず(備後や伯耆で顕著)、
その上因幡家と但馬家の内訌で勝手に自滅していったって観が強いけどな。
内訌そのものに赤松が具体的に加わったって話は聞かない。
内訌の発端は政豊が後継者であった俊豊を嫌って致豊を寵愛し、俊豊を廃嫡したこと。
俊豊派の重臣が致豊の弟である誠豊を擁立した連中と思われる。
要するに、山名の自滅じゃね?って話w

212 :
まぁそれでも豊国チャソが交代寄合になれたから結果オーライだよね
但馬の山名家も旗本として復活は出来たんだから

213 :
豊国が毛利にずっと付いて行ったらどうなったか、興味のあるところですね
あのタイミングで秀吉に降ったのは、良い判断だったと思いますよ

214 :
>>20
跡形もなく消え去ってないよ京兆家。
足利義昭に仕え、細川昭元の名を賜り
のちに織田信長の妹を室にむかえ信長の義弟になっている。
そのさい細川信元(信良)の名を賜った。
自身も子も、織田豊臣政権家で山名豊国と同じような地位にあったと思われる。
江戸期は小藩とはいえ、家老なんだから
旗本の山名と比べても
そう遜色はないと思う。

215 :
>>20
斯波も完全にさよならしていないよ
信長の主人だった斯波義銀は、津川義近と名を改め
秀吉の御伽集になってるし
最上斯波氏は大大名じゃん

216 :
>>20
有馬赤松氏は大大名だし
京極高知は福島、黒田級の猛将

217 :
>>215>>216
もっともだ。山名一族で江戸期の大大名は、いないよなあ。

218 :
南部、伊達、佐竹、最上、結城(松平)、上杉、京極、小笠原、細川、島津
などなど室町の守護大名は近世大名になったのも多いよね
山名は旗本でしょ?

219 :
東北はぬるま湯だったから下剋上自体がごくわずかだったから名門が生き延びたって感じ。
そんな中では戦国期においては最上が一番滅亡の危機が高かったね。山形城のまわりは敵だらけ…最上義光がかなりがんばったな!

220 :
>>218
その中で正真正銘の三管領・四職は京極ぐらいでしょ

221 :
分家では細川が一番大きいかな。

222 :
和泉上守護家だね

223 :
でも豊国の判断は良かったと思うな

224 :
豊国は連歌が上手だったらしいね。保身にもうまく使えた。

225 :
高家待遇ぐらいはあってもよかったがな

226 :
新田流だから邪魔だったというのは?

227 :
高家になってる顔触れを見ても 山名が一枚落ちるとは思えないな。

228 :
赤松政則はなかなかの策士だね。
因幡では毛利二郎に反乱を起こさせ 伯耆でも国人を蜂起させと
裏で糸を引いているんだから。
山名政豊は逆に播磨を攻め 一時制圧するが 最終的には敗れてしまう。

229 :
赤松との争いで力を落としたと思う=山名。

230 :
>>228
>因幡では毛利二郎に反乱を起こさせ 伯耆でも国人を蜂起させと
>裏で糸を引いているんだから。
これって裏付け史料あったっけ?
山名氏が京都から自分の領国に移るのは応仁の乱以降だから、
領国支配の強化を目指す守護とそれに反発する国人のよくある対立構図だと思うが。

231 :
史料はわかりませんが 藤岡大拙という方の著作からです。

232 :
「地域別日本の名族 中国編」?

233 :
政豊が煮えきれないせいだな
中途半端に幕府に忠実だったから結局細川と組んだ赤松に一歩先いかれたし、
力のある分家潰しもそこそこに息子廃嫡しようとして分裂を決定的にした

234 :
山名豊国の息子・豊政について
現在wikiに掲載されている事以外のことがわかりましたら
教えて下さい。

235 :
>>231
藤岡大拙は論文書くときと、通俗本書くときで内容の正確さが全然違うからなぁ。
一般書店に並ぶような本は適当に書き散らしてるので鵜呑みにするのは危険。

236 :
>>232 とも言います。
>>235
いろいろ教えて頂きありがとうございます。

237 :
>>234
マルチポストする奴に答える義務も義理も無い。
自分で調べろボケ。

238 :
>>237
こういうこと書く奴に限って糞の役にも立たないんだよな
スルーもできんのか

239 :
>>238
マルチポストの対処がスルーなわけないだろ。
荒らしと同じ対処してどーすんだ。

240 :
山名の末裔ですが・・・・
こんなスレあったんですね

241 :
>>240
名前に「豊」の通字があるの?

242 :
>>239
どこにマルチポストしてあんの?

243 :
豊が通字といっても 持豊(宗全)が最初なんだけどね。
それ以前は氏や時が多いかな。
だが持豊の子孫は豊ばかり それだけ影響力があった方なんでしょね。

244 :
山名は新田源氏なの?それとも足利家の血筋なの?両説あるようだが。

245 :
>>244
男系としては山名だが、母系として足利の血を引く、というのがよく見られる説だと思う。
多くの系図では山名の家祖義範は新田義重の子とするが、
足利義清(義康の子、義重の甥)の子とする系図もあったはず(「尊卑分脈」はどっちだっけか)。
山名氏は新田源氏とはいえ新田氏の総領権には服していなし、
足利義兼と行動を共にして頼朝から御家人に任じられているから、
新田源氏だけど足利氏一門扱いってことでいいんじゃなかろーか。

246 :
>>245
なんとも複雑なのねー。
まあ足利と新田も同根つーたらそうだけど。

247 :
山名はずっと足利に従っていたということかな

248 :
そうなるのかな

249 :
明徳の乱で叩かれたのに再浮上したのはすごい

250 :
持豊のおかげだな
持豊が死んだ後はやっぱりパッとしなかった

251 :
山名豊国と今川氏真におんなじ香りがするのは俺だけ?
・凡愚な武将として描かれる
・しかしその裏ではいい方針や判断を行っている
・一見滅亡したかに見えて生き残っている
・教養関係に長けている

252 :
>>250
その通りだね

253 :
豊国はどうしようもない愚人と書かれてることもあれば、
義晴からもらった家宝を大事にしてる話とかもあるし、よく分からん人だ。
晩年は御伽衆をやってたんだっけ?

254 :
豊国はやや有能レベルだけど節操のなさだけは一流というか

255 :
愚鈍なのかそれとも生き方が上手いだけで影が薄かったのか
豊国はどちらかのパターンなんだろうな

256 :
人となりまでは流石に分からんよなぁ。
いい判断したと好意的にも取れるし運が良かっただけと切って捨てる事も出来る。

257 :
時流に乗るのは上手かったといえるんじゃない

258 :
祐豊の家系ってどんな感じなの?

259 :
みんな豊国チャソの事ボロクソに言うけどさ、あの状態で家名残せたのは奇跡に近いだろ。
西に毛利、東に織田がいてどちらも動員兵力は数万。
対して豊国チャソは因幡の一部分で動員4千(うち半分は農民)←第一次鳥取城攻城戦
周囲の丹後一色、丹波波多野、因幡の武田、出雲の尼子なんかは完全滅亡したのに対して因幡山名家は
お伽話衆→交代寄合→幕末には大名
と家名残せたんだから上出来だよ。
但馬山名家も豊国のお陰で旗本で数家残ったんだし。

260 :
>出雲の尼子
完全滅亡はしてませんがなにか?
毛利の客分として幕末まで残ってました。

261 :
>>260
しかも尼子の嫡流なんだよなw
佐々木さんに戻ってるけど。

262 :
>>260
すまん、「独立した武家として」っていれるの忘れてた。
したら波多野や越前朝倉や武田信清系なんかも生き残ってるしね。

263 :
>260
こういう細かい屁理屈馬鹿にはホトホトうんじゃりするわ
リアルでもKY極みなんだろな

264 :
>>261
上月城で滅亡したのは傍流の人だったんだよなー
>>262
案外みんなしぶといのです
>>263
>KY
豊国と似たような感じで生き残っていたのでつい

265 :
山名は交代寄合で毛利客分の尼子とはちょっと違うけどね。

266 :
旗本としては大身でも、財政状況は厳しかったろうね。江戸まで遠いし。

267 :
参勤交代はしなかったんじゃないかな

268 :
>>265
>>267
参勤交代の有無はどっちが正しいの?

269 :
旗本は基本的に江戸常在で、自身の領地に入ることなど
一生に一度あるかないかという場合も少なくなかったような

270 :
交代寄合は旗本としては別格で、領地に滞在できたとか。
けど、あくまでも旗本なんで参勤交代で武威を示す必要が無いから、というか、譜代よりも明確な徳川の家臣だから華美にしたらまずいってのもあったのか、交代して江戸に上る時も普通に数人程度供を連れたくらいでサクサク来てたとか。
というわけで、一〜三万石程度の大名よりかは内所は良かったんじゃないかな?
ただ、役には就きにくそうだけど。

271 :
>>270 くわしくありがとうございます

272 :
交代寄合家って婿入ってて男系断絶ってマジ?

273 :
>>272
立花家・間部家から都合2回婿養子(娘婿)を取っているが、
血統断絶してしまった後北条氏などとは違い、
幸いにも女系で繋がっているので気にすることはない。


274 :
豊国がタヌキ爺から七味郡に領地を貰う時
「但馬国気多郡国分寺か因幡国岩井か但馬国七味郡のうちどこがいい?」
って言われたのはマジ?
村岡の法雲寺で行われた山名奉賛会で聞いたんだけど。

275 :
>>274
○→七美郡
×→七味郡
すまそ

276 :
>山名奉賛会で聞いたんだけど
何か凄いね。

277 :
>>274
因幡岩井ってのは豊国に与えるって話じゃなかったような…
ただ家康から但馬気多郡を、って話あったのは確かだね。
仮に気多郡入封なら国分寺地区か国府駅あたり(旧水生城、現長楽寺?)に陣屋を建てるなんて計画もあったようだし←加陽氏宛ての手紙
なんで村岡を選んだのかは不明だけど、もしかしたら但馬気多藩なんてのも出来てたかも。

278 :
斯波家が滅んだて書いてるけど、最上は斯波系統の家系
源義国の家系で足利氏の一門斯波家兼
長男・大崎
次男・最上・・・義光など
三男・天童 新田系の里見家に養子に入り天童を名乗る。

279 :
旗本の方はあれからどうなったんだろう・・・

280 :
>>279
どの旗本だよ?

281 :
>>278
それを滅んだと一般的に言うんじゃないの

282 :
守護大名家としての斯波は間違いなく滅んでいるしな。

283 :
>>281
多くの名門が滅んでいる中、実力で戦国時代を生き残った。
江戸時代に、お家騒動で改易は戦国大名の軍事力と関係ない。

284 :
>>283
もういいや

285 :
>>278但馬山名の旗本とか。調べてみたけど幕末まで存続してるかどうか怪しいし。

286 :
>>278
それでいうなら、武田も北条も滅んでないし、「平家滅亡」もないことになる。

287 :
鮭厨はマジ自重しろ

288 :
新田にいたっては征夷大将軍にw

289 :
>>286
俺が言いたいのは、戦国時代を生き残れたかどうか

290 :
誰かこいつに説明できる強者はおらぬか

291 :
>>290  >>286
いずれ滅びるんだよ。徳川家だって明治維新で滅んでる。
タイトルに戦国山名家て書いてるだろが。

292 :
最上がいるから斯波は滅んでないと言ってたり
突然スレタイは山名と言ってみたり
真性なのか

293 :
訂正
>>280但馬山名の旗本とか。調べてみたけど幕末まで存続してるかどうか怪しいし。

294 :
>>293
但馬山名系統だけで5家くらいに分裂してるからな
ただ今でも存続してる系統もあるにはある
山名一族会発行の本に但馬山名家の現当主さんが出てるし←村岡のお寺で買える

295 :
>>294
仮にどれかでも男系で途中養子無しで存続してたら神
本当に会ったら畏れ多いですな

296 :
鎌倉以来の名家だからなあ。歴史を考えるだけで気が遠くなりそうだ。

297 :
>>296
天皇家の遠縁にもなるにね

298 :
>>297の修正
×:なるにね
○:なるしね

299 :
山名禅高が出てるんだが読めない
ttp://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/syouzou/yz01/html/d01yz01a.htm

300 :
続英雄百人一首は誰がまとめたんですかね?
>読めない
読めませんよね。

301 :
>>300
最後は何とか読めたんだが
春乃うらなり ですか

302 :
春乃うらなみ か?
昔少し習ったが全く忘れた

303 :
埒があかないので話を変えますが
高信の子を召抱えてますがいつごろでしたっけ?

304 :
たぶん数千石の交代寄合が下の武士や百姓はもちろん
上の大名将軍よりも絶対豊かでかつ地位もそれなり上手くいけば明治に立藩して華族の仲間入り
江戸時代でも領地の場所は相給などでもなくはっきり「ここは俺のもの」って明記
そのうえ立場上わりと自由に行動可能で大名のように経済的に無理して人数常に揃える必要もなし
さらには天下のお直参と江戸300年弱ではもっとも勝ち組だったと思う
次点は大商人だがこっちは打ち壊しや大名貸しの踏み倒し献金
はては押し込み強盗による皆殺しなどの危険がつきまとう
交代寄合にはその心配は一切ない
山名氏大勝利

305 :
斯波→武衛→滅亡
   →最上→改易→交代寄合5000石
   →大崎→滅亡
細川→京兆→秋田家臣
   →典厩→滅亡
   →阿波→滅亡
   →和泉→熊本54万石
   →備中→毛利家臣
   →淡路→滅亡
   →奥州→和泉が吸収合併
畠山→河内→高家5000石
     能登→高家3000石
山名→交代寄合6700石
京極→高次系→丸亀5万石
     高知系→大名とか高家とか
一色→丹後→完全滅亡
     丹羽→三草1万石
     崇伝→旗本
赤松→旗本5000石
    有馬→久留米21万石
室町の名族ってこんなもん?

306 :
丹後一色と赤松嫡流以外はどっかの藩士におさまってるよ
細川の分家はホント分からんけど

307 :
チラ裏失礼。俺の先祖、某藩の藩士。
貧乏芋郷士だけどね(´・ω・`)
山名時氏のように立身して一族を繁栄させたいものだ。

308 :
>>303
典拠史料は不明だが、wikiには1601年とあるな。
藩士目録系の史料に載ってんじゃね?
正確に知りたいなら、全国山名氏一族会と連絡を取ってみるのもいいかもしれん。
これまたwikiだが、「山名家加封之時藩士格録人名」(明治元年1月)に子孫の名があるらしい。
wikiが正しいとは限らないが、史料名があるから調べやすいんではないかな?

309 :
豊国は逸話豊富だけど豊定祐豊兄弟の逸話って何かある?

310 :
祐豊は死のタイミングが・・・

311 :
>>310
討死説と病死説ですね、分かります

312 :
オラの先祖は山名家の馬術指南役だお

313 :
山名氏オチ無し意味無し

314 :
武田高信の子は案外長寿だな
仕官したほうだけど

315 :
ところで山名豊国の本は法雲寺HPから買える?
最近忙しくてそっちにいけない

316 :
菩提寺がHPやってんだね

317 :
流石名門

318 :
豊国は1580年から1600年まで20年ほど所領を貰ってたか怪しい
もしかして猿公御伽衆時代は所領ゼロ?

319 :
但馬は海がキレイで温泉も良い

320 :
山名や尼子が江戸期まで数カ国の大名やってたら
裏日本なんて呼ばれなかったかもね

321 :
>>320
裏日本って昭和になってからの呼ばれ方だろ。江戸期でも日本海航路は
重要な海運ルートだったし。

322 :
>>321
確かにそうだな、じゃあ山名や尼子がいても
結局裏日本か

323 :
>>320->>322
そしてその裏日本ももはや死語状態・・・
ところで山名豊国の本書いた人って鳥取城(久松山)の麓の高校で教師をしてたんだよね。
小坂博之氏は出版から30年以上たった今でもご健在でしょうか?
ついでにその山名豊国の本をネットで買えた人っています?

324 :
海運からみれば主流だったよね 日本海側が。

325 :
>>324
明治に入るまでの、日本海側の港湾都市の繁栄はすごいよね。

326 :
話ぶった切って済まんが
山名豊国って結局何人子作ってんの
名門新田源氏の出身で同族の里見は滅亡に対しこっちは今でも生き残ってる
豊臣の家臣だった一族を滅亡後旗本に仕立てたんだし
国に帰ることなく江戸で死んだんだっけ
はぬけとは決して言えない
神号も貰ってる凄い人

327 :
>>305の山名の部分を増補してみた
山名→因幡→豊定送り込み→交代寄合6700石
   但馬→旗本
   伯耆→滅亡

328 :
血筋は但馬系なんだよね

329 :
山名四天王
垣屋・・・元毛利系。田結庄と散々争うも後に織田方に。
    岩井郡1万石を所領とするも関ヶ原で改易。ただ真田さんちみたいに
    子供は別々に戦ってたので三男は旗本。    
太田垣・・毛利系。芸但和睦の立役者。のち没落。
田結庄・・・織田系。垣屋親子と争い正福寺で自害。
八木・・・表面上は毛利系。豊国篭城時に秀吉の一隊となって戦う。のち旗本。

330 :
>>328
昔から但馬が本家&最大勢力じゃないの?

331 :
第一次鳥取城攻めの時の篭城費用が豊国持ちだったんだね。

332 :
>>330 惣領家は但馬守護家だけど、勢力的には因幡家も大差ないのでは

333 :
因幡は戦国時代通じて分裂状態の上に、
但馬守護家に侵略されたりしてるが

334 :
>>332
因幡守護家は16世紀前期は但馬守護家と対立し、後期は武田高信の台頭で勢力は沈滞してる。
因幡に援軍送ったり丹波国衆と戦うなどしてる但馬守護家とは雲泥の差があるかと。

335 :
因幡守護家って結局全滅したんだっけ?それとも一部が残ったのかな?

336 :
>>335
血筋云々はさて置くとして、名門の山名家を存続させた豊国は因幡守護家だぞ。

337 :
>>336
ところで豊国のオヤジを見てくれ、こいつをどう思う?

338 :
すごく…祐豊の弟です…

339 :
というか山名祐豊が戦国大名として、
尼子をはじめとする周辺諸国と渡り合ってた事実が軽視されすぎ。
あと、山名豊定や豊数は但馬山名の先兵としての役割が強いため、
因幡地生えの武将とは言い難い。
ぶっちゃけ戦国期の因幡は、但馬山名と出雲尼子の草刈り場。

340 :
>>339
祐豊が戦国大名化していたというのはどうして?
守護大名として国人層に支えられていただけではないの?

341 :
捉え方は人それぞれだと思うが、祐豊が生きてたうちは丹波に出兵してたぐらいだし。
守護はもらってたが、実質は戦国大名に近かったのでは?
豊国だって土豪娶ってるし(餅が詰まったほうの)
話はズレるが
10年ぐらい前、社会のドリル(のようなもの)に各地の戦国大名の位置が載ってて
因但の位置にちょうど山名って書いてあったな。

342 :
守護大名からは一皮剥けてたわけか。

343 :
某スレ(逸話紹介関係)では豊国がやる夫になってるんだがww

344 :
>>343
エイプリルフールだおね?わかってるお

345 :
>>299
画像が不鮮明で一部文字が読みにくい箇所もありますが・・・
山名豊国は因幡国久松の城主にて毛利家に属してありしかど
羽柴秀吉中国攻の時同意せしかば家人ども毛利氏を放れしをうとみて
離散せしゆゑ 其身も頓て世を遁れ山家に住し法躰して禅高と号す
ある夜中 盗人大勢乱入して禅高を討んとせしを
鑓おっ取て老法師が手並を見せんと大勢にわたり合いどみ戦ひし所
禅高が妻 心利たる者ゆゑ物陰に身をひそめ衣服を多く持出し
賊の剣戟に投かけて□ふこと度々なれば 賊どもはたらき自由ならず
ただよふ所を禅高踏込で賊多く打取二人生捕て市中に引ければ
皆人 山名夫婦の者を誉恐れけるとなん
此哥は秀吉九州攻の時同伴にて長州あみだ寺においてよめり
山名禅高
名ばかりは沈みもはてぬうたかたのあはれながとの春のうらなみ

346 :
>>344
ごめん、嘘じゃないんだ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237483814/336-361
>>345
解読乙。
当時は相当な武勇の持ち主だったのかもしれないね。
しかし老法師も侮れないな。

347 :
世にレキジョが増えてきたとはいうけれど、山名豊国を
オタクっぽく語る女はいないと断言できるな

348 :
そもそも山名豊国の存在を知ってる時点でレキジョじゃなくてもはやマニアレベルだしな
先祖は教科書に出てるぐらい有名だけど

349 :
宗全さん一人だね。著名なの。あと明徳の乱。

350 :
山名時氏、氏清もそれなりに有名かと

351 :
大内弘世と同レベルの教科書には載ってる程度。

352 :
宗全はわりかし有名

353 :
山名義鶴もそれなりに有名

354 :
山名は民社や共産の設立に貢献し、細川はわずか8ヶ月ながら首相に。

355 :
ていうか、室町時代に分数があったのか?

356 :
古代からあるがな

357 :
戦国ちょっといい話9より
153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/01(金) 11:14:07 ID:4bOhHmy1
織田有楽斎の述懐
あれは忘れもしない天正10年のこと。
6月2日未明、妙覚寺の外が騒々しい。
小者の喧嘩かと思うと、やがて木がはぜる音が地を這うように響いてきた。
何事かと外に出ると、本能寺の方角が火の海である。
仰天しておると、村井定勝からの知らせ。
惟当日向守謀反、攻め寄せられた兄信長は火の中で自刀したと。
本能寺に向かおうにも大軍にはなす術もない。
茫然とする間もなく手狭な妙覚寺では適わぬと、二条御所に慌てて逃げ込んだ。
10歳年下の主君で甥でもある信忠、その一党は、評定となる。
逃げ出そうにもすっかり囲まれている。信忠から尋ねられたが、
腹を切るとしか言いようもない。
寄せ手の光秀軍に手向かいながら、信忠は切腹、側近旗本、弟の長利までも皆後を追った。
遺体は御殿と共にすぐに火に呑み込まれていった。
自分も腹を切るつもりであった。遺体は燃やすつもりで薪を寄せ集めた。
ところがそこに敵兵がなだれ込んできた。
腹を切るいとまもない。とっさに薪の中に身を隠した。
誰も気づかない。助かってしまった。
薪の中で考えたのであるが、織田一族、皆が死に絶えてどうなろうか。
それこそ光秀の思うつぼである。
一人でも生き残れば、また運はめぐってくるというものである。
それにわしは兄からそれ程目をかけてもらった、というわけではないからな。
生き残ったおかげで陰口も散々叩かれたが、茶という瑞々しい世界が
わしには開けつつあったし、現に今花開いておる。
今思えば死に損なって良かったぞ。
ところどころ豊国さんとダブるのは俺だけ?

358 :
豊国は腹は据わってそう。

359 :
腹以外が

360 :
そうはいっても長益は庶子だし気楽だろ。
豊国や氏真は名門の当主の立場だったし、
実際一国を仕切っていたからな。

361 :
>それにわしは兄からそれ程目をかけてもらった、というわけではないからな
生き延びて信包と同格に昇っちゃったもんだから信長の同母弟扱いになってるな。

362 :
>>361
有楽の母さんって不明なんだよね確か
早死にした兄さんからそれほど目をかけてもらったわけでもないし
確か豊国は三男って聞いてるけど次男には誰が入るの?

363 :
豊数は分かるけど。

364 :
田結庄って結局村岡にいっても家臣になって
江戸にいる豊国の代わりに領国の政務を仕切ってたらしいけどホントか?

365 :
執事って書いてあるね。

366 :
山名七郎、山名家嫡男の座から父ちゃんの尻拭いとして
傀儡城主に立てられて経家入ったらポイ。
そして経家死んだら一応負けたことになるので出雲に逃亡。
その後は実質知れず・・・悲しすぎるよこの人

367 :
豊政の兄なのか?

368 :
そーいえば豊定→豊国→豊政の順にそれぞれ次男が家継いでるんだよな

369 :
豊定 豊数はどちからというと但馬なのか?

370 :
>>369
以下宗全以降の前提での話。
血統的には一応但馬系(政豊系)になる。
因幡は本来勝豊系だが、誠通の跡を政豊系の豊定が継いだ。

371 :
>>369
豊定は但馬系、嫡男の豊数はバリバリ因幡だな。

372 :
そこらがちょっと分りづらい

373 :
2006年7月ってハルヒ(アニメ版)が終わった頃か。
そしていまはけいおん!が終わった頃(一部では続いてるけど)。
このスレも過疎りまくる割には落ちずに3年持つもんだな。

374 :
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7560293
ところでこの動画を見てくれ、こいつをどう思う?

375 :
     

376 :
因幡も但馬系になったという事。

377 :
山名は他にも系統あるよね?

378 :
>>377
主要な系統は但馬を本国とする系統で、
派生として守護系の因幡山名・伯耆山名・美作山名・備後山名などがある。
系統不明だが庶流と思われる複数の山名某は応仁の乱関係の記録に出てくる。
あと確か古河公方の家臣にも山名(上述の山名と同祖)がいたはず。
氏姫の供奉衆一覧で見た記憶がある。
他に各地にある「山名」という地名を基にした土豪級の山名氏も勿論いる。

379 :
山名って江戸時代以降養子入りまくりで男系でつながってるのは傍流ぐらいって聞いたけど本当?

380 :
>>379
豊国−豊政(豊国子)−矩豊(豊政子)−隆豊(福島正長子)−豊就(山名義豊子)−
豊暄(豊就子)−義徳(立花貞俶子)−義方(義徳子)−義蕃(間部詮茂子)−
義問(義蕃子)−義済(義問子)−義路(義済子)−以下略
このうち隆豊は血が繋がっていないが、他はすべて女系で繋がっている。
義徳・義蕃は共に妻を山名家の女子とする婿養子で、
それぞれの後継者である義方・義問の生母はその山名氏女である。
また四代隆豊は血の繋がりが無いが、隆豊を継いだ豊就は三代矩豊の弟の子なので、
結果的に幕末の山名氏も女系において豊国の血を引いている。
日本は伝統的に男系のみではなく女系による血統の存続も重視しており、
男系断絶をもって家系の終焉とすることの多い西洋とは血統の見方が異なる。
儒教の影響の強い中国・韓国でも日本と違って女系は軽んじられている。
日本人なら女系で繋がっている血統も男系同様尊ぶことを心がけよう。
歴史を学ぶ者ならなおさらにね。

381 :
>>378
有道姓山名氏なんてのが

382 :
元豊って名前が毛利元就にあやかった名前だと思わざるを得ない
豊国って名前が細川高国にあやか(ry
・・・俺この先大丈夫かな?

383 :
山名があやかるのは本来将軍なのにな。

384 :
>>383
ex)持豊→義持
他にもあるだろうけど今は時間が無いのでここまでにしておく

385 :
山名さんのところは政豊以降は幕府からお声がかからずだったと思う
義昭との関係はどうだったか今ひとつ分からんけど

386 :
但馬本家が包囲網に加担してるがその裏では因幡は織田に寝返る準備を始めていた・・・

387 :
但馬旅行行った時、山名関連史跡がぜんぜんわからんかった。
兵庫県は姫路と赤穂があるからなあ。

388 :
>>386
因幡山名氏(豊国)にとって織田方(尼子含む)は味方で、
毛利は実の兄貴を殺した武田高信の後援者なんだから元々敵だ。
寝返るのも当然だわな。

389 :
>>387
村岡とか行ってみるといいかも
>>388
毛利に降伏するのも仕方なくっていう感じだな
高信は結局捨て駒にされて殺されちゃったんだけどね

390 :
山名豊国本の在庫ってどれぐらいなんだろうな?
品薄で後数冊かお寺のどこかに山積みのどっちかしか想像できないw

391 :
お寺の廊下に山積みに一票

392 :
そして1年当たり何冊売れてるのかも気になる

393 :
その噂の本ってどれだっけ?

394 :
山名宗全の本でたけど、
戦国山名にまで言及されてるのかな

395 :
何て本です?

396 :
山名宗全 (人物叢書) (単行本)
川岡 勉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E5%B7%9D%E5%B2%A1-%E5%8B%89/dp/4642052526/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1251970662&sr=8-1

397 :
取り扱えないくせに山名豊国の本があるのが謎だ

398 :
山名豊国ってかなり異色の武将だよな。
「可愛い娘が大事だから降伏しまつ」
って現代のサラリーマンか!!と。
それでいて秀吉や家康に気に入られて小禄ながらも幕末まで家名を長らえさせたのはすげーよ。
歴史は豊国をもっと評価すべきだな。

399 :
>>398
ちなみに新作天道では
統率21
武勇52
知略12
政治30
だそうです
道路建設のお仕事があって良かったなw

400 :
>>398
まあ、毛利と織田、下賎の出来星の間で、名門山名が玉砕して何になる?と醒めたんだな。
同時に絶対に織田が勝つとわかっていた、ということでしょう。
ここらへんは、代々中央に関わってきた山名当主の眼というか。
別所長治や清水宗治も、カッコいいと言えばそうなんだけど…死ぬのはねえ。

401 :
>>400
吉川経家なんかもっとかっこ悪い。
権力を見抜いて流れ、うまいもんを食うのがいいか
義を貫いて餓死するのがいいのか。
家臣も大変だったろうなw

402 :
あれは経家が城に入ったときには半ば勝負がついてたし、
何より経家自身は大名でないし、家族は国許に残していただろう

403 :
>>400
松っちゃん忘れるなw
>>402
家族宛に「この一戦で吉川家の名誉は上がるでしょう」
っていう手紙を残したんだっけ?

404 :
>>403
養子の吉川広家宛の手紙だね。
>>402
鳥取城に着いて兵糧蔵開けてびっくりしてすぐに兵糧くれって頼んでたもんな。

405 :
そういえば円楽師匠のご先祖様は吉川経家と伺いましたが
>>403
と思ったら別だった

406 :
>円楽師匠のご先祖様は吉川経家と伺いましたが
円楽さん江戸っ子だよね

407 :
鳥取藩士になった後明治に東京に移ったのこと

408 :
豊国はわずかな供を従えて降伏したらしいが
城内にまだ親織田派はいたのかな?

409 :
尼子の残党とか鳥取近辺にもいたんだ

410 :
>>409
豊国の兄豊数が毛利派の武田高信に追い出されて以後、
因幡山名と尼子は毛利を共通の敵とする盟友関係だったからな。
尼子残党が豊国を頼って鳥取にやってきたのも当たり前っちゃ当たり前。

411 :
でも仕方なく毛利に降りちゃう辺り(悪い意味で)人の良さが出ちゃったよな
強豪には従順忠実翻弄も重々承知といったあたりか

412 :
秀吉キター! 娘が人質に取られたー! 降伏しよう……。
元春キター! 家臣「降伏しましょう」 降伏しよう……。

413 :
世渡り上手とみてあげよう。

414 :
>>32
足利将軍下賜の陣羽織は現在に伝わってないの?

415 :
>>414
確か法雲寺にあるはず

416 :
法雲寺って博物館みたいだ

417 :
>>416
まあリアル博物館があるぐらいですからね山名蔵っていう名前の

418 :
山名蔵ですか
機会があれば行ってみたいです

419 :
毛利家に関しては渋々従ってたということでおk?

420 :
>>419
おk
毛利はかつては敵対した因幡山名氏に対して無碍な扱いも出来ず、
豊国が仇敵の武田高信の断罪を要求した際、
高信の救済を依頼しにいった塩冶氏の要求をのらりくらりとかわし、
豊国による高信誅伐を見てみぬ振りをした。
山名家臣らは芸但和議(毛利と但馬山名の同盟)もあって毛利に靡いたが、
豊国個人は毛利を信頼できない連中と思っていたんだろう。

421 :
山名スレで毛利という名前を聞くとどの毛利さんかちょっと迷うな

422 :
>>421
毛利といえば
@因幡の土豪
A元就一族
B豊臣家臣
こんなかでもAが確定的だな

423 :
武田はどう?

424 :
>>423
因幡武田氏ですね、分かります
謀殺された奴の子供がちゃっかり家臣になったことで有名

425 :
安芸武田氏は山名にからむほどの勢力がなかったしな。

426 :
>>424
ちゃっかりとかゆうなw
本人は難色を示したが豊国のたっての願いで帰参した。
豊国のお人よしぶりを示す話だっつの。

427 :
Wikipediaに面白い文章発見
>弘治2年(1556年)に山名豊国(母が細川高国の娘)が妙心寺(右京区花園)山内に移し、現在の「東林院」と改名した。
年 齢 考 え ろ

428 :
>>427
天文17年生まれだから、数え9歳か

・・・しかし、豊定とか祐豊が何らかの理由で豊国名義でそういう事業をしたかもしれんぞ

429 :
>>427がデマかどうかはわからんが、
寺伝の類ではわりとそういった無茶な話が公式設定にあったりもする

430 :
・上田原の戦いで信玄敗北
・長尾景虎春日山入城
・信長帰蝶と婚姻
・義輝と晴元が和睦して義輝入京
・榊原康政誕生
・本多忠勝誕生
・山名豊国誕生
・斎藤竜興誕生
・田中吉政誕生
1548年いろんなことが起こりすぎw

431 :
豊国若いのね

432 :
経家の子孫の円楽が死んだが息子の名前が寛家(ひろいえ?)って言うんだな

433 :
経家は満25歳で自殺したのに、子供なんかいたのか?

434 :
>>433
嫡男には経実がいるが、庶子も含めれば2、3人いてもおかしくはない。
円楽師匠は三男の家好の子孫とのこと。
鳥取池田なら藩士録もありそうだし確認できそうなもんだが、どうなんだろうな?
藩士じゃなく名主とかか?
一応吉川経家の子孫というのはあくまでそう自称しているだけみたいだが。
>>432
円楽師匠の家柄の通字は「寛」ぽい。祖父が寛雅・本人が寛海・息子が寛家。

435 :
東京大空襲を契機に埼玉の農業高校に行ったのは有名な話
・・・となるとスレチになるので
武田高信の逸話でも探してみるか

436 :
なるほどそうなんだ。

437 :
吉川なのか

438 :
江戸期も山名家中に残った一族いるの?

439 :
>>438
おそらく居ないかと
山名氏全体で何だかんだいって1万石ぐらい石高ありそうだな。散在してるし。

440 :
山名さんって東大医学部卒の医者いるけど末裔?

441 :
>>440
某サイトによると山名さん自体日本には9500人居るらしくそのうちの末裔はせいぜい数百人程度だから末裔じゃない可能性が高い

442 :
豊国もそろそろネタ切れか・・・

443 :
そういや京都に山名某という層化系の元国会議員がいますね

444 :
>>426
山名家の家中には、垣屋とかもいたみたいだな。
>>441
山名氏には一族の会があるし、そういう繋がりが有る人ならば子孫なんだろうな。

445 :
そういや層化には北条某という伊達系の末裔がいましたね

446 :
>>445
小田原北条氏から出て、江戸時代に陣屋大名で生き残った
あの家系ですね。最後は仙台の血筋だったとは知りませんでした。

447 :
>>445
伊達家の子息が堀田家に入り、その子孫が幕末北条氏を継いで明治天皇の側近になっているんだっけ。
で、その子孫が・・・ということだっけ

448 :
家名を汚すにも程があるな。

449 :
>>445
4代目会長だった故人のことか?

450 :
3代目会長がアレなのは有名だよなw>層化

451 :
垣屋、太田垣、八木、田結庄の四家はスレ違いすか?

452 :
スレ違いじゃないと思うが、田公も入れてやれ

453 :
>>451
ややこしいが八木は朝倉(高清の息子新大夫安高)から分かれた一族。
その八木から越前朝倉(八木三郎高吉の息子九郎左衛門高景)が分かれた。

454 :
山名の家臣とかで鳥取に残ったのって吉岡ぐらいしかいない?

455 :
>>941
垣屋も山名家中にいたようで、山名義鶴の弟が垣屋家の養子になっているな。

456 :
>>455
誰に当たるんすかね?垣屋家は越前守家(嫡流、筆頭)、越中守家、駿河守家の三つに分かれますが。

457 :
垣屋って西軍について改易した後に傍系が幕臣になってるんだっけ?

458 :
そうなの?

459 :
山名豊国の辞世の句ってあるの?

460 :
全盛期の山名豊国伝説
・3日間で5人登用は当たり前、8人登用も
・先代の小姓登用を頻発
・豊国にとっての引き抜きは登用のしそこない
・あまりに登用しすぎるから女子も家臣扱い
・その女子も登用
・三回の登用で家臣がやっと一人増えたように見える
・豊国は本気を出したことが無い
・浪人を一睨みしただけで浪人が城内に飛び込む
・登用しても納得いかなければ知行あげないで帰した
・織田に降伏するだけで祐豊が泣いて謝った。心臓発作を起こす元春も
・篭城3ヶ月兵力1万人差家臣全員反対の状況から一人で降伏
・一向宗徒のヤジに流暢な鳥取弁で反論しながら「家 臣 や ら な い か」
・鳥取城篭城戦が始まった理由は豊国の浪人登用
・勝鬨を上げただけで5人家臣が増えた
・豊国は店先で日本刀を欲しそうに見ている子供に知行を与えた

461 :
Wikipediaに新着ページができたようです。
山名豊数
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E6%95%B0

462 :
日本史史料研究会から「中世後期戦国山名氏の研究」が
頒布されてますよ。おいらも最近購入しました。
本誌代2,000円でした。

463 :
豊国が秀吉時代に賜ってた領地は摂津のどこあたりで石高はどれくらい?
山名氏政(堯熈)は播磨の加古郡だっけか? 

464 :
実は新田と足利のハーフなんだよな禅高は
摂津国内数百石とかそんな感じじゃね?

465 :
>>462
日本史史料研究会研究選書3
渡邊大門著『中世後期山名氏の研究』 序 (9〜18頁)
第一章 戦国期山名氏権力と守護代(19〜57頁)
第二章 戦国期山名氏の発給文書について(59〜89頁)
第三章 戦国期山名氏の内書と副状(91〜121頁)
第四章 戦国期山名氏の官途授与と将軍(123〜138頁)
第五章 南北朝期における但馬守護  
        ― 長氏の動向を中心に ―(139〜157頁)
第六章 『山名家譜』所収の但馬国「円通寺文書」について(159〜171頁)
  
第七章 文明十五年における山名氏の播磨国侵攻について
        ― 十五世紀における守護権力の一考察 ―(173〜197頁)
    
付論一 山名是豊関係文書について  
        ― 花押形状の分析を中心に ―(199〜207頁)
 
付論二 早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵
        山名氏関係史料について(209〜215頁)
    
付論三 宿南保『城跡と史料で語る 但馬の中世史』(217〜221頁)

結(223〜238頁)
     

初出・原題一覧(239頁)
     

あとがき(241〜242頁)

人名索引(T〜W頁)



466 :
>>465
おおーこりゃ詳細そうだ

467 :
−特別展−
戦国時代の守護 山名氏の城と戦い
開催期間 201年04月23日(金)〜2010年06月27日(日)
会場 兵庫県立考古博物館 特別展示室 概要 ◆主な展示品◆
T 山名氏と但馬
  山名時煕画像(県立歴史博物館・複製)
  山名持豊書状(東寺百合文書・京都府立総合資料館蔵・国宝)
  山名持豊願文(個人蔵・豊岡市指定文化財)
  山名持豊寺領安堵状(新温泉町楞厳寺・県指定文化財)
U 山名氏の城と城下 
  宮内堀脇遺跡出土品(館蔵)
  入佐川遺跡出土品(館蔵)
  袴狭遺跡出土品(館蔵)
V 山名氏の戦い
  坂本城跡出土品(姫路市教育委員会蔵)
  八木御里遺跡・殿屋敷遺跡出土品(養父市教育委員会蔵)
  場市遺跡出土品(館蔵)
  布勢天神山城出土品(鳥取市教育委員会蔵)
  山名誠豊立願状・山名政豊妙見社領寄進状(養父市・日光院蔵・県指
   定文化財)
  竹田城跡出土品(朝来市教育委員会蔵)
  出石城三の丸跡出土品(豊岡市教育委員会)


468 :
行きたいけどこの頃忙しい・・・

469 :
渡邊大門の「中世後期戦国山名氏の研究」は、優れた研究内容だった。
それに、このボリュームで、たったの2,000円(別に送料290円)とは安い。
山名氏のファンならば、ぜひ読んでほしいものだと思うな。
日本史史料研究会HP⇒http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/index.html

470 :
>>468
おいらは来週行ってきます!

471 :
>>470
レポよろ

472 :
レポートと言うほどでもありませんが、「戦国時代の守護
山名氏の城と戦い」を見てきましたのでいくつか箇条書きに。
・JAFの会員証の提示で入場料が安くなるようです。
・図録は受付の向かいの喫茶店?のレジ横に平積み。
 税込999円(消費税の切り捨て計算なんでしょね)
・展示物は文書4〜5点くらいと人物像1点以外はほとんど
 発掘された遺物の展示。壁4面のうち1面はパネル展示。
 2つの城郭のジオラマがあったが、ちょっとお粗末。
 戦国史を考古学的に興味を持たない方は少々詰まらないかも。
 しかし「東寺百合文書」の山名宗全・国宝文書はなかなかお目に
 かかれないので見るチャンスだと思います。
・評価は中世城郭や考古学的には興味の無い方ですと5〜60点、
 興味のある方で75点くらいか。展示物も想像よりは少なかった。
                        以上


473 :
豊国が村岡に所領を得た時期に一門衆ってどんなのがいたんだ?
三上って確か一門衆だけど後に断絶してるし...

474 :
但馬系の本流は豊臣家臣だったが豊国のおかげで復興
数家に分かれた後断絶したところもある
豊国の子供は何家かに分かれたがよく分からん
江戸時代の山名といえば婿養子で女系でギリギリ繋がってるというイメージしかないから細かいところは不明

475 :
>>299の被り物が気になる

476 :
豊国ちゃんは関ヶ原で手柄を立てたらしいけど具体的にどんな手柄ぞ?
しかも秀吉政権下での所領って数百石だろ?
動員数が1万石で250人程度だから、豊国は出せて数人?

477 :
>>476
内応工作や情報・物資の提供、取り次ぎ役も立派な手柄でしょ?

478 :
カンベエをけん制したのが大きな功績

479 :
>>474
分家が旗本になったのは知ってる

480 :
>>478
禅高が(家康に)派遣された意図を見抜いた如水にからかわれたってだけでしょw

481 :
>>480
ほんと、人がよすぎるよなw

482 :
六分一殿……11ヶ国だけど、どこどこよ? 但馬と因幡しか分からんw

483 :
但馬因幡美作備前備中備後伯岐
出雲石見播磨隠岐

484 :
時義系以外の山名はどうなったの?

485 :
>>483
ありがとう。

486 :
でも豊国ちん、なんで村岡なんて山奥に…
確か家康から因幡岩美(岩井)か但馬七美郡か但馬気多郡(国分寺)から選べって言われたんだろ?

487 :
>>486
但馬国気多郡国分寺だと気多郡南部約4000石だけど、宵田城(岩中城?)の再建・引き継ぎが条件だったみたいで財政的に厳しくなる。
(ただ水上城、別名長楽寺城を再建してもおkって話もあったみたい)
因幡国岩美郡岩井も郡内の内約5000石で岩井城(又は道竹城)の再建・引き継ぎが条件で、こちらも財政的に厳しい。
他に家臣の賀陽氏(もしくは加陽氏?)や同門の三上氏宛の書状(村岡の山名資料館蔵)だと、但馬国八木城4500石や竹田城5100石なんて提案もあったみたいだね。
大名ではないけど名族故に城(城全体なのか、居館部分だけなのかは知らん)を与えるっていうのは家康なりの気配りなんだろけど、5000石前後で城の再建・維持なんか厳し過ぎる。
5000石っていったら家臣数、末端含めても僅か125人だぜ?
だから城の維持が条件になく、築城なんかの必要もなかった七美郡にしたんだろ。

488 :
財政苦しいのに、かつて裏切られた武田の遺族とかまで召抱えるって・・・・
豊国自身は結局村岡の陣屋には入らなかったんだっけ?

489 :
>>488
秀吉時代の摂津に所領持ってた時から、財政難って訳ではなかったみたいだぞ。
たださすがに家康から所領宛がわれる時に
「数千石程度で城を再建・維持するか?」
ってなりゃ話は別だな。
豊国自体は国入りしてないみたいだな。
国は三上や植松とかの一門家老に任せて、自身は但馬山名や旧臣の取り立てに必死だったんだろ(笑)
まぁ人が良かったのは間違いないね、豊国さん(笑)

490 :
>>489
摂津には所領どれくらいあったわけよ?

491 :
>>487
宵田城は垣屋一族の城でもあったみたいすね。
楽々前城が本城みたいですけど。てか、あの谷一体
(弥布城、国分寺城、篠ヶ森城など)は垣屋の城だらけ
みたいですね。

492 :
>>491
旧竹野町の轟城も垣屋一族の城だね。
気多郡一帯が垣屋一族の縄張りだったから当たり前といえばそうなんだけど。

493 :
山名氏に限らず室町時代の有力氏族の末路は悲惨すぎる

494 :
>>484
伯耆山名氏は時義流とはちがうとおもう。

495 :
武田息子は拾われるまで何していたの
報復と勘違いして逃げてもよさそうなのに

496 :
>>493
細川「呼んだ?」

497 :
>>485
小早川秀包のところにいたっぽい

498 :
地元の人間ではないので詳細は分からないんですが、山名氏の本拠
此隅山城に行かれた方、またはご存じの方いらっしゃいますか?
何か城の名残を示すようなものが遺っているんでしょうか?
夏場に可能なら訪ねてみたいと思っております。

499 :
>>387
姫路と赤穂は山名氏の遺構なんて無い。
あるのは但馬地区だ。

500 :
>>498
此隅山城は、子盗山城や子盗城とも呼ばれてたようです。後に子守城ともなりました。
子盗みの響きが悪かったんでしょうな。
ところで因幡の布施屋形(誠通)の方に但馬の祐豊がちょっかい出してたんでしたっけ?
布施屋形の弱体化に伴い家来衆の鵯尾城主武田豊後守高信が主家と対立、合戦に及んだ
とも訊きましたが。

501 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E5%9F%8E
宗全が築城した竹田城は凄いなw

502 :
最近再評価の兆しがある豊国さんだが運はやっぱり無いよね
いや、ある意味悪運は凄い気もするが

503 :
生き残るだけの運は確かにあったけど一国一城の主になるのはなあ・・・

504 :
武田高信を潰すまでで戦国大名としての運は使い果たしたのね
いや、高信潰すだけでもすごかったと思うよ

505 :
四天王筆頭の垣屋氏は結果的に駿河守家が毛利方、越前守家と越中守家が織田方に分かれて
対立するようになってしまいましたね。同族争いは戦国の習いですが、まあこの場合は家を遺すための
「方便」なんでしょうけど。

506 :
>>504
武田豊後守によって布施屋形(誠通)は絶えさせられちゃいましたが、
但馬の本家(祐豊)的にはおいしかったんでしょうかね?

507 :
武田高信は山城守でした。お詫びして訂正いたします。

508 :
三河守じゃなかったっけ?

509 :
交代寄合から寺社奉行になった山名因幡守豊就

510 :
>>508
上総真里谷武田氏は代々三河守ですね。因幡の高信もそういう時期があったのかも。
詳しくないんですみません。ちなみに武田氏の嫡流は代々伊豆守(頼朝公より賜りました)で甲斐は
途中までそうでした。
伊豆守を継いだのは、その後安芸→若狭になりました。若狭が甲斐源氏武田氏の本家と呼ばれるのは
このためだと言われています。山名氏のスレで武田は脱線でした。申し訳ありません。

511 :
>>509
近代の山名義鶴といい、時々面白い人物が出るな

512 :
>>508
武田三河守(右馬助)信長
武田三河入道恕鑑(三河守信保)
いずれも上総家ですね。

513 :
豊国以外の逸話ってあるの?

514 :
祐豊、豊弘とか…

515 :
>>513
政豊あたりは話題に出来るかもだが
誰も話題にはセンナ。

516 :
豊国さんの嫡男は城主に担がれた後結局どうなったんだろ?

517 :
隣国(赤松とか一色とか)との関係はどうだったのよ?

518 :
>>501
竹田城を改修したのは、龍野赤松氏。
山名は関係ない。

519 :
結局、福岡合戦で家が傾いたのかな山名は。
あれだけ長期間遠征かけて赤松を倒しきれなかったどころか最後、連敗で領地から叩き出される有様で。

520 :
>>517
赤松とはかなり不仲だったw

521 :
つーか赤松と山名の対立が、同盟関係にあった山名宗全と細川勝元の仲を引き裂き、
それが応仁の乱の試合開始のサイレンになったようなもんだからなw

522 :
赤松とは最悪、では一色とはどうだっただろう?

523 :
なして武田の息子引き取ったんだろ
殺しても晴らしきれない怨みあるろうに

524 :
山名豊定って案外空気

525 :
ノブヤボで四天王全員がなかなか揃わないのは残念

526 :
豊国って本当に因幡出身なん?

527 :
ノブヤボDS2で新武将作成で山名軍団を作りたいんだが
誰をどのぐらいのパラメータで作っていいかわからない・・・
このスレの山名ファンのみんなちょっと知識を貸してくれ

528 :
>>522
西軍同士だけど、ほとんど因縁めいたものはないんじゃないかな
明徳の乱あたりまで遡れば何かあったかもしれないけど

529 :
>>523
HEIWAのためだよ

530 :
>>527
火間虫入道ってところで各作品の武将検索が出来るよ

531 :
山名豊国 慶應卒

532 :
豊国って黒官とは結構仲良かったんだっけ?

533 :
調べれば調べるほど有能だった山名豊国

534 :
>>533
研究の成果を列挙してみてくれ

535 :
しかし山名でまともに史料があるのが宗全とこの人だけってのもなあ・・・

536 :
家康の山名家優遇は異常
ただし石高を除く

537 :
まあ新田源氏だしな

538 :
じゃあ里見も優遇してやれよ…

539 :
安房里見氏って地元の名族でも何でもない、足利成氏がどっかから連れてきた、
何処の馬の骨ともしれない里見氏だしなあ。

540 :
その点、落ちぶれていても四職家の家格を持つ山名は、
厚遇しておけばそれだけ相対的に徳川家の株が上がる。

541 :
>>498
此隅山城
ttp://www.hb.pei.jp/shiro/tajima/konosumiyama-jyo/
確か秀吉に壊されてその後放置

542 :
山名氏が詳しく載ってるサイト
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamana.html
ttp://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/yamana.html
山名時氏、時義なんて知らなかった
やっとスレタイの意味がわかった

543 :
時義は山名氏の全盛期の当主だが、知名度がひくすぎるな。

544 :
戦国大名山名祐豊も、織田信長の勢力が伸張してくると、1580年(天正8年)信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に取り囲まれ降伏後死去。祐豊の子山名堯熙は
降伏前に因幡へ逃げ助かる。その後堯熙は馬廻衆として秀吉に仕えることとなり、後播磨に所領を与えられた。
因幡では、山名豊定の子、山名豊国が秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡に所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。

545 :
延享にはいり因幡守豊就は、大番頭という将軍の警護隊長の役職に就いたことから、
ここに山名豊国以来の汚名をそそいだとみることができるのである。
のち、寺社奉行。大岡忠相の同僚

546 :
落城してしばらくの間は鳥取周辺を納めてたみたいだけど
本能寺〜関ヶ原あたりまではどうだったっけ?
俺が見た本では摂津に200石って書いてあったけど・・・

547 :
お情けとはいえ、但馬で村岡藩として幕末まで残ったのは名家だったからなんだろうな

548 :
山名分国は室町時代ですら「領土確保は実力次第」なんて嘯かれる、修羅の国だったらしいな。

549 :
官兵衛大河決定で、豊国登場はあると思いますか?

550 :2012/10/12
NHKが豊国ごときザコキャラ拾い上げるとでも思ってんの?
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