2012年09月戦国時代145: 【家親】備中三村氏について語ろう【元親】 (501) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【家親】備中三村氏について語ろう【元親】


1 :2007/06/25 〜 最終レス :2012/10/03
悲運の家親意地の元親、熱烈なファンもいるだろ?
岡山の戦国史スレに書きすぎた気もするので独立させた。
質問があれば分かる範囲答える。全国的にはいまいちマイナーな
三村氏だが、みんなで語っていこう。

2 :
うん、俺ファン。
明善寺の合戦では宇喜多勢の4倍の軍勢を動かして敗北したがな

3 :
ずれんでくれっ、三村氏系図、清和源氏で新羅三郎義光の出、

源義光―義清―清光―遠光―長清―長経――長時―親時―親屯―能実―親家┐
                  <三村氏祖>                     |
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
|               ┌元祐<庄為資養子> 
└時親―┬宗親―┬家親―┼元親――勝法師丸
     |    |    ├元範
     |    |    ├実親
     |    |    ├女[上月隆徳室]
     |    ├親頼 ├女[楢崎元兼室]
     |    |    ├女[石川久式室]
     |    ├政親 ├忠秀
     |    |    └阿西入道
     |    |       
     |    └親成―┬親宣―┬角助
     |         ├親亮 └斎院
     ├為親――貞親├親威
     |         ├親良―┬親安――(以下歴代)
     |         |    ├清庵
     |         └元高 |
     └親房――親重――親当├伊右衛門
                    └親義

4 :
少しずれてるけど分からなくはない

5 :
源義光―義清―清光―遠光―長清―長経―長時―親時―親屯―能実―親家┐
                                          <三村氏祖>              │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
|                      ┌元祐<庄為資養子> 
└時親―┬宗親―┬家親―┼元親――勝法師丸
        |      |      ├元範
        |      |      ├実親
        |      |      ├女[上月隆徳室]
        |      ├親頼  ├女[楢崎元兼室]
        |      |     ├女[石川久式室]
        |      ├政親  ├忠秀
        |      |     └阿西入道
        |      └親成―┬親宣―┬角助
        |              ├親亮  └斎院
        ├為親――貞親  ├親威
        |              ├親良―┬親安――(以下歴代)
        |              |      ├清庵
        |              └元高  ├伊右衛門
        └親房――親重――親当  └親義

6 :
備中兵乱記には三村元親だけでなく、その弟三村元範や、 三村実親の死に際についても詳しく書かれてる。
興味のある人は岡山在住なら図書館で見るか、
買うか出来るだろう。

7 :
親成にも裏切るだけの事情があっただろうが・・甥を最後まで守ってやってほしかった。

8 :
>>7
あまり三村家については詳しくないのだが…
真田みたいに、二つに分かれてどちらかが生き残るとかそういうのでは無いの?

9 :
>>8 横から悪いが、三村一族は宇喜多家に対して尋常ではない
恨みがあった。先代家親が直家により暗殺されたためである。
三村一族は毛利方についていたのだが、その宇喜多家が
毛利家臣となり、もはや恨みを晴らす機会がなくなった。
しかしこれを聞いた織田信長は、これを理由に三村を毛利から
離反させようと考えた。三村当主元親は父の仇を討たんと
この誘いに賛同したのだが、先代家親の弟三村親成だけが
反対した。しかし受け入れてもらえず、身の危険を感じた
親成は三村家を去って、毛利方に翻ったのであった。
説明下手ですまぬ

10 :
そうだった…去年松山城詣でしたのに忘れていた…

11 :
他スレで俺が書いたやつのコピペ

三村勝法師は三村元親の子で三村家親の孫でわずか8歳であったが、三村一族の篭もる
備中松山城が宇喜多直家、小早川隆景らの軍勢により落城したため、石川久式に連れられ
落ち延びていたが、いつしか石川とも逸れ、ついに1人となった。

「備前軍記」「宇喜多・小早川和睦して備中を攻め三村元親切腹する事」
…先に落ちて行った勝法師も、途中で伊賀左衛門尉に遭遇してとらわれの身となった。
空は当時わずか八歳であったが、生まれつき大層聡明であった。
伊賀左衛門尉は「暫しの暑さ凌ぎに」と、勝法師に扇を与えたが、その扇には、
 夢の世に幻の未の生まれきて露に宿かる宵の稲妻
という古歌一首が記されていた。
 これを読んだ勝法師は涙を流し、「自分は城内で自害して果てるべき身でありながら、
ここまで生きながらえ、かえってこの憂目をみることよ」と悔やみ、
また彼の見張りの侍どもに、「その方どもの中には、三村の旧臣で降参した者もあるが、
今では余を見て見ぬ振りをしている。まるで畜生にも劣る振る舞いではないか」
と物語ったが、その態度たるや大の大人にもまさる堂々たるものであると、
見張りの者は顔を見合わせて驚き入った。
「僅か八歳にしてこの態度、とても尋常な児とは思えませぬ」
と隆景のもとへ告げたから、やがて井山の宝福寺で首を刎られた。
しかしそのとき勝法師は少しも騒がず見事な最後であったという。

以上だが、なんという早熟な八歳であろうか。慈悲深い小早川隆景が斬れ、と
命じたぐらいであるから、成長してれば大変な人物になったかもしれぬ。

12 :
>>11
たまに勝法師丸が生きていたら…と思うことがある。
まあ毛利は元親を切腹させてるわけだし、生かせてもらえなかったのは分かるが…

13 :
>>3よく知らんが阿西入道って川西(河西)氏のことではないの?
家親の娘の一人(系図には無い)が讃岐の由佐秀盛に嫁いで、後に三村一族の川西之秀が落ち延びたとか。
三村家は親の代から毛利家と同盟を続けた一方、親族関係では昔から児島・四国方面の細川・三好系と関係が深いっぽい
(近いところでは家親の正室が阿波三好氏)から、1570年代前半は毛利と三好の対立した時期で微妙な立場だったんだろうね。
三好家から援軍は来なかったものの、滅亡後には之秀以外にも親族が讃岐阿波に落ち延びて行ったらしい。

14 :
天正の備中兵乱ごろの主要城主
三村
松山城(高梁) 三村元親
国吉城(高梁) 三村政親
楪城(新見) 三村元範
鬼身城(総社) 上田実親
美袋城(総社) 三村忠秀
荒平山城(総社) 川西之秀
金黒山城(井原) 三村為親
猿掛城(矢掛) 三村兵部?
佐井田城(真庭) 三村兵部丞(左京?)
矢倉城(吉備中央) 田中直重 三村家臣。
幸山城(総社) 石川久式
鬼邑山城(総社) 三宅徳久 上野隆徳の妹婿。
常山城(玉野) 上野隆徳
湊山城(倉敷) 山田源次郎 上野家臣。
毛利
成羽城(高梁) 三村親成 毛利方の城に出奔。
穴田城(高梁) 赤木忠房 三村家に属していたが親成とともに毛利方に寝返り。
月田城(真庭) 楢崎元兼 家親の娘婿だが毛利方に。弟の豊景は猿掛城を攻撃。
伊與部山城(総社) 明石兵部小輔 三村家臣?
野山城(吉備中央) 野山益朝 当初は三村方だが交戦せず本領安堵。
高松城(岡山) 清水宗治 石川家を裏切り毛利方に。
長良山城(総社) 禰屋七朗兵衛 石川家臣。幸山城の留守を任されるが寝返る。
経山城(総社) 中島元行
丸山城(真庭) 庄勝資 為資の孫。一族の植木秀資らと共に佐井田城を攻略。
塩城山城(新見) 多治部景春 三村元範を討取る。

15 :
レス数は大したことないが、地味に凄いスレだな

16 :
確かに地味に凄いスレですな

17 :
 6
良かったら、元範、実親の死に際について教えてくれ。かいつまんででも良いから。お願い。

18 :
>>13
今日、図書館行って川西之秀について調べてきた。
中国兵乱記巻の二、「備中国荒平山城主川西三郎左右衛門の事」の項を一部
参照してみる。
『城主川西三郎左右衛門之秀は三村元親の親類であった…』
『川西は「某は数代にわたる三村の親類であり小早川に味方は出来ぬ…」と…』
『川西は讃岐の由佐左京の元へ落ちていった…』

これ見ると、「数代にわたる三村の親戚」と言っていることから、
元親弟の阿西入道とは別人な気がする。
ほかにも資料探したのだがこれしかなかった。おそらく川西之秀について言及されているのは
中国兵乱記だけと思われる。
詳しい人いたら補足頼む。

19 :
>>17 遅れてすまん。まず元親弟の三村元範の死に際から。
中国兵乱記巻の二、「備中国の三村持ちの城城を明け退いた事」参照。
『天正三年(1575)正月五日には、芸州勢は新見の城へ押し寄せた。
城主三村宮内少輔元範は、元親公の舎弟であった。楪城は名城であって、
元範は落城するとは思ってもいなかったが、譜代の郎党富屋大炊介・曽袮内蔵・
八田主馬に中島元行が謀反を勧めたところ、
「籠城の諸勢の命を助け、その知行地を間違いなく宛がって下さるなら、
元範に腹を切らせよう」と申してきた…』
これで謀反成立したわけだ。この後、郎党七十騎ばかりが城を出て、小早川配下の
宍戸備前守の元へ去ったと言う。

備中兵乱記巻の上、「新見の楪城落ちたこと」参照。
『郎党多数が敵に寝返り、正月八日城攻めを始めるも、元範は少しも屈せず、
「おのおの方、我に忠義を尽くそうと思う者は、今この時ぞ」
と言うと、勇士七十騎ばかりが出て入って、城を攻める芸州勢と戦ったが、
多勢に無勢。元範の郎党は勇戦するも傷つき、その大半が討たれてしまい、
残る兵は十人ばかりとなってしまった。

20 :
この後、伊勢入道という男が獅子奮迅の働きをして寄せ手の芸州軍を苦しめるも、
ついにその入道も討たれ、元範の目の前まで敵兵が迫ってきた。
備中兵乱記巻の上、「新見の楪城落ちたこと」参照。
『…寄せ手は我先に攻め寄って来た。元範は近づいてきた兵を一人切り伏せ、
三人に手傷を負わせ、隙をみて切腹しようとしていたところ、遠矢に射た敵の
矢が咽輪の外れに当たり、倒れたところを備後の住人東江平内に討たれた。
なんとも痛ましいことであった』
この時、後日談としてある話が伝わっている。
『元範は籠城中ある夢を見た。翌日、八日の早朝(落城当日)、元範は近習の者にその夢を話した。
「今朝、明け方に自分の首を自分が実験してる夢を見た。不思議な夢である。
聖人に夢はないと言うが、自分は聖人ではない」
と言いつつも、少々気になるとみえて、禅僧らにも夢について尋ねられた。
その上で、これは戯れだと言い、
「どうなろうと、生きながらえるのも長くはあるまい」
と大笑いし、家臣を集め、最後の酒宴を開いたのであった…』
『さて、元範の首は毛利輝元のもとへ送られた。しかし輝元は元範の首を鬼身城に籠城する
弟の実親の元に送った。これは、実親の悲しみにつけ込み、籠城してる敵を弱気にさせ、
実親に力を落とさせんためであった。
やがて、元範の首が鬼身城近くまで送られてきた時、実親は、
「兄元範も存命の時は勝れた武将であり、孝悌の道を尽くしていた。
死んだ今となっては、せめて弔ってあげたいものだ」
と言い、花光寺の下で使者を追い返し、壮大な葬式を執り行ったという』

長くなりすぎたが元範の死に際の様子を、中国兵乱記、備前軍記、備中兵乱記の
一部を元にして書いた。長くなりすぎたのと訳し方が下手なのはご了承を…

21 :
>>11
凄い8歳だな。

22 :
ageる

23 :
>>9
 質問ですが、元親死後の三村親成についてですが
 毛利傘下で成羽城主だったのは理解できますが、その後寄食した
 水野勝成と娘を結婚させ、勝成が福山藩主になった際家臣になった
 と言われてますが家親の弟にしては活動時期が長すぎる気がするのですが(信長
 の野望では1580年代に死ぬ設定になっている)
  また福山藩の家臣云々では親成の死亡年が1609年と推定されてますが、これでは
 勝成の福山移封以前に死去したことになり矛盾が生じます。
 このあたり詳しい人いらっしゃいませんか?

24 :
宇喜多直家信者さん、どうもありがとうございました。こんなに詳しく書いていただいているのに見るのが遅れてすみません。
自分は直家、松永弾正みたいな武将も嫌いじゃないんですが、やはり元範、実親兄弟のような生き様の武将が好きですね。

25 :
このスレ地味にすごいな

26 :
>>23
まず水野勝成が浪人してた間加藤清正とか佐々成政に仕えたとされてるが、
どれも長続きせず、備中成羽城主の三村親成の元に身を寄せたとされる。
親成は勝成が気に入り、自分の養女(元は兄三村家親の娘)を娶らせた。
しかしあろうことか勝成は親成の侍女に手を付け、慶長3年(1598)勝俊を生ませた。
この後勝成は徳川家康の仲介の元、父親と和解、茶坊主を斬り三村家を逐電する。
大坂の役での功により出世し郡山6万石を与えられ、元和5年(1619)には
備中・備後福山10万石を与えられることになった。
前置きが長すぎたが、この時勝成は家老として浪人時代世話になった三村親成を
家老職にすえたという。
しかし三村親成は1609年死去しているはずであるから、矛盾が生じる。
だが、三村親成が召抱えられていることは複数資料より明らか。
この疑問を解決するべく考えてみたんだが、
子の三村親宣も家老職務めているから混乱したのではないか?
というのしか思いつかんかった。
あるいは、福山藩のかつての恩人に対する慈悲深さを示すための捏造か?
しかしこれはさすがに考えにくいと思う。
やはり子の親宣と間違えたのではないか。どちらも名乗りは紀伊守である。
しかしこれは、あくまでも個人的な意見なので正しいかどうかは分からん。
なお親成の生年は、兄元親の生年が1517年なので1520年頃と推定すると、
1609年死去時にはちょうど90歳ということになります。
これならありえる範囲内と思われます。
結論分からず長々と申し訳ない。         
                        「高梁史」とか参照

27 :
>>23
親成は系図によっては家親の甥とされてるものもある。父親(家親の弟)の名前は親頼とか長親とかあってはっきりしない。
この場合は元親の従兄弟なので平均寿命的には自然になる。
もちろん家親の弟として、家親と年が離れていたとも考えられるし、年が近くても長寿過ぎるわけではない。
福山藩の方は>>26と同じく混同したため?ウィキペディアでは長男でなく次男親良が家老職を継いだとあるし
親の遺産は親宣が継いで親良は亡き親の縁で水野勝成に仕官したとか?

28 :
>>27
「高梁史」見ると親成は家親弟の親頼の子と推定してるな。ただ根拠が分からん。
ちなみに親成が家親の弟とされる資料は、
備前軍記の、「家親公弟三村孫兵衛殿…」ぐらいしかない。
確か長男の親宣は、松山攻め以降成羽親宣と名乗ってる事ぐらいしか知られん。
次男の親良が家を継いでいるから亡くなっていたのかもしれん。
>>26は親宣じゃなく親良だったな。すまん     

29 :
>>26−27
丁寧な返事ありがとうございます。
 ある程度の状況がわかり納得できました。
 親成系が元親以後、実質三村家の本筋と
 思われるのに情報が少ないですね。

30 :
>>29
親成子孫は親成を「親重」と伝え、嫡流筋は岡山県倉敷市勇崎に住まうという。
分流は福山や京都・大阪・兵庫など。
福山の系統以外は、いずれの系統も「武士は二君にまみえず」という家訓が伝わっているという。

31 :
>>30
補足しとくと、倉敷へは同じく小笠原家子孫の係累である赤澤氏を頼って移住したそうな。

32 :
>>30 >>31
補足の補足だが、曹洞宗馬乗山海徳寺に三村氏の菩提寺があるよな。
この海徳寺は、三村氏に頼られた赤澤久助が開いたという。

33 :
このスレほど勉強になるスレはないですな。

34 :
>>32
海徳寺は菩提寺ではなく、親成曾孫で水野福山藩家老の三村親澄の位牌があるだけらしい。
親成流三村氏の菩提寺は飽くまで福山城北の龍興寺で、親澄の墓もそこにある。
親成の子親良・孫親安の墓も然り。
ただし、親成の墓は龍興寺にはないらしい。
この辺は結構謎かもしれない。

35 :
>>32
海徳寺は菩提寺ではなく、親成曾孫で水野福山藩家老の三村親澄の位牌があるだけらしい。
親成流三村氏の菩提寺は飽くまで福山城北の龍興寺で、親澄の墓もそこにある。
親成の子親良・孫親安の墓も然り。
ただし、親成の墓は龍興寺にはないらしい。
この辺は結構謎かもしれない。

36 :
すんません。2回もカキコしてしもうた。。

37 :
>>34
元禄11年(1698)福山水野藩は断絶し、三村親澄は備中玉島に住んだといわれている。
今も残る曹洞宗馬乗山海徳寺には、親澄以降の三村氏の菩提寺がある。
あと、備後福山の慈雲山龍興寺に三村親成、親良、親安、親澄の位牌があるらしい。
ただ曹洞宗馬乗山海徳寺にも親澄の位牌はあるという。
親成の墓は、あると言われていた備中成羽源樹寺にもないようだ。
結局どこにあるのかは分からん。確かに謎である。
ちなみに、福山龍興寺の三村親成には、
「源樹院殿天勝宗運大居士 三村紀伊守親重 慶長十四年十月十九日」
と、あるようだ。           
                            市史参照

38 :
なんか繰り返したようになってしまった。すまぬ。

39 :
>>37
ホント親成は謎だらけの人物だ。
でも、何百年も前の人物だし、分からんことだらけなのも仕方がない。
ここは謙虚になって、推測を楽しむべき…かな。
ちなみに親澄は「水野落家後備中勇崎牢人(=浪人)」とあり、
その子は「平内」「藤七」「孫太夫」としか名乗りをあげていないことから、
親澄は完全に帰農したものと思われる。
でも、平内は浅野家に、孫太夫は安部家に出仕したとある。
藤七の系統が勇崎で地主のようなことをしていたため、
この系統が親成流の嫡宗とみなされているようだ。
でも、親澄の弟親興は京都で水野家分流に改めて仕えたみたい。
親澄とは喧嘩したとも伝わっているらしいが、よう分からん。

40 :
>>39
藩士として生き残ったのは四国の系統だけらしい。親興の系統は断絶したのだろうか。
曹洞宗馬乗山海徳寺には親澄以降の位牌があるらしいが、真実は不明。
「戦国宇喜多一族」見ると、…親澄―藤七―藤八…とあるな。これが嫡流か。
あと、親成ほどの武将の墓地が不明というのは確かに不思議。謎多き家である。

41 :
>>40
海徳寺は昨日書いたように正式な菩提寺ではないらしい。
その理由は藤七以降は苗字帯刀を許されていなかったからではないかという。
海徳寺って格の高い寺なんかな?
ただ、備中三村氏の係累として地元ではさすがに特別扱いされてみたい。
それと、江戸後期には、安部福山藩に仕える同じく親成流三村氏が、
系図を売ってくれと勇崎まで来たらしい。
お伴連れの立派な武士だったそうな。
飽くまで伝承だけどな。


42 :
スレ汚して申し訳ないのだが、かの大石内蔵助が城明け渡しの立ち会いをした備中松山藩は三村家とは一切関係ないのですか?

43 :
>>42
ないと思う。
ただし、後世の板倉家備中松山藩には三村家親の子孫が活躍している。
三島中洲(毅)といい、賢かったみたい。
この人もやっぱり倉敷の人だ。

44 :
岡山では、三村氏の子孫を語る人は結構いるよな。

45 :
>>44
そおなの?

46 :
自演臭いスレだな

47 :
じゃ、さげとこう

48 :
間違えた

49 :
つっか、おじさん酔った

50 :
あげ

51 :
ふむ。

52 :
糞スレ晒しage

53 :
なんだこの流れ。
>>43
調べたら、三島中洲は鬼身城主で家親4男の、
上田実親の系統らしい。
鬼身城落城の時、実親は確か20だから、遺児がいてもおかしくはないな。
「吉備郡司」など参照

54 :
>>17 
実親の死に際について書くの忘れてた。ネタ投下兼ねて書くか。
実親は元親の弟で、鬼身城主の上田家に養子として入っていた。
『備中兵乱記』「山田の鬼身城が没落した事」
『正月二十三日、芸州勢は鬼身城へ押し寄せ、七重八重に取り囲んで鹿垣を結い、
昼夜四十日間にわたって息もつかせぬほどに攻め戦った。
この時、明石与次郎という家臣が大敵に驚いたのか、芸州勢と結託し攻め入る気配を見せたため、
城中に動揺が走った。実親はこれを見て、
「もはや制することは出来ない。この上、時がたてばさらに明石と同じく
芸州勢に内通するものが出るだろう。自分が一命を捨て万人の命を助けねばならぬ」
と思い、敵方に使者を立てその旨を伝えた』
中国兵乱記には、この時実親義祖父上田近江守が孫の実親の腹を斬らすので、
自分と城兵の命は助けてくれ、と懇願したと見える。
『齢八十に及んでも命を惜しみ、孫の若い実親に腹を斬らせようという上田近江守の
心根を憎まないものはなかった』と書かれている。
『…実親は兄元親に遺書を記し、その他にも別れの手紙を書いた。
正月二十九日辰の刻(午前八時)遺言として、実親は検使に向かい、
「このたびのことは、毛利家に別心あってのことではない。宇喜多和泉守に対し
深い鬱憤があったため、織田信長の廻文にまかせ、細川真之・三好左京大夫らの
助力を持って本意を遂げようとしたのである。
しかし運足りず、このような結果となった。このことを隆景卿へ伝えて欲しい」
と語った…』

55 :
『…自害の為本丸に上がった実親は諸兵士に対し、
「この度の各々方の粉骨の働きはあの世までも忘れない。武運が開けた際には
恩賞を与えるつもりであったが、今となっては仕方ない。他家に仕えて俸禄を
受けるのもよいであろう」
と声をかけ、周りに近習の者達を集め、
「長い間よく仕えてくれ、この度もよく戦ってくれたが、その功に報いることが
出来なかった」
と、お詫びの言葉を述べた。
実親は一礼して西へ向かい、手を合わせ、
「南無西方極楽教主の如来、亡き父の為に腹を斬るのであり、どうぞ父の元へ
渡り迎えたまえ」
と声高に念仏を唱え、大脇差を抜いて左の脇腹に突き立て腹を十文字に切ったところで、
古老の荒木右京之進という者が首を打ち落とした。
実親はいまだ二十歳、春の花もつぼみのまま散ったことで悲しまぬものはなかった。
この時、生年十六になる藤若という小者が主君の死に様を見て、涙を流していたが、
「お供をするものは一人もいないのか」
といい、敵陣に駆け込み敵の将二三人ばかりに手傷を負わせ、本丸の実親の
死骸に寄りかかり、腹を掻き切って果てた。
誰一人として藤若の心底を思わないことはなかった…』  
備中兵乱記の著者は不明だが、作者はこの話に感動したのか、かなりの文字数を
使っている。それにしても、三村兄弟は最後、皆父上の元へ参ると言ってるのがいい。
『備中兵乱記』『中国兵乱記』(訳してある方)『陰徳太平記』参照。長文すまぬ。

56 :
>>55
いやはや勉強になりまする

57 :
最後の城となった常山城も悲惨だったね
戦に負けるというのは本当この世の地獄だな〜。
三村氏は時流が読めないというより、運がなかった印象

58 :
>>56
ありがたい。
>>57
上野高徳か。勝ち目がないなか籠城して戦った。
最後は、一族家臣妻子(妻は三村家親の娘)と共に自害。

59 :
>>57
>>58
本になってる?聞いたことあるかも

60 :
鶴姫が自らも武装して討死した話、自分は『女甲冑録』で読んだよ。
他にも書籍はたくさん出てるはず。

61 :
>>59
ttp://www1.harenet.ne.jp/〜tuta22/kogima/tuneyama.htm
ここなんか参考になるかも
これ関連の書籍は読んだ事ないから、面白い読み物があったら読んでみたいな

62 :
>>59
軍記物なら「備前軍記」「中国兵乱記」「備中兵乱記」「常山軍記」とか。
このうち、常山軍記以外は山陽新聞社の現代語訳がある。
考証本なら、「備前児島と常山城」という上月氏についても書かれた本がある。
どれも岡山県内の図書館ならあると思う。

63 :
三村一族はもっと評価されていい。

64 :
勝法師丸は元親が14、5歳の時の子かー。

65 :
>>64
俺は精通が14歳だったな。
当時は結婚自体が早かったし、姉さん女房なら十分にありうるのか!?

66 :
>>65
十分ありえます…が…
元親って何年生まれ?

67 :
>>66
元親は従来天文22年(1553)生まれで、天正3年(1575)23歳で死去とされていましたが、
上月隆徳に嫁いだ妹(鶴姫)が33歳で死去(備中兵乱記など)とされているので、
元親の生年を見直す考えも出ている。
ソースは分からんが、最近は生年不評か、天文15年(1546)生まれ30歳で死去とする事が多いようです。
ただこれでも、鶴姫を元親の妹とする備中兵乱記と矛盾が生じる…
あるいは備中兵乱記が間違っているのだろうか。

68 :
詳しいですなあ。

69 :
けっこう家親が年取ってからの子なんですね
それに対して息子は…いやはや…

70 :
備中松山城に行ったら三村マンセーだった…

71 :
俺は小四で精通して十四では出しまくりだったから、元親の気持ちはよくわかる。
確か正室は三好?

72 :
昔とある歴史サイトの掲示板で、三村氏の子孫の人がいて、
三村家親が宇喜多直家に合戦の最中に、暗殺者によって殺されたことに
激怒しているのを見たな。

73 :
家親が殺されず1590年前後まで生きてたら岡山の歴史は大きく変わっていただろうな

74 :
>>73
こねんことーして しょうがねーのー岡山は
  ハヨ-シネェヤ!   ヒィ  \ノ||:|   | |::|\瀬戸大橋     /
  ∧岡∧    ∧_∧    \:|___|_|::|‖\    .     /        岡山ッテ??
 <丶`∀´>   (´Д`;)     \__:::::|‖‖\    .  / 津山30人殺しダヨ
 (    つ (つ  つ      \|::|::|‖‖‖\  . /   ∧_∧  ∧_∧
   汚い言葉遣い .        ..\:|‖‖‖‖\./   ( ・∀・) (・∀・ )
  イネ!!  ウルセェ,アンゴゥガ!!          ∧∧∧∧     (   つ  (
  ∧岡∧  ∧岡∧             <大都会 >  / ̄旦~ ̄旦~ ̄/
 <丶`Д´> <`Д´ >             <     > ∧_∧ ∧_∧ /
 (   ○ 凸    )             <    岡 >(.岡山;)(.    ;)
─────────────    <    山 >────────────
日本     ヽ(  )/ ホモが集まる  < 予 県  >   .  ∧____∧
三大奇祭   ( * )   西大寺会陽   <       >  .  /::::::::::::::::::..ヽ、  OHKのマスコット
  ..∧_∧  ノ ゝ (はだかまつり) ..< 感    > ..  /、-''" ̄~"'''-、l   OH!くん
(ヽ(    )ノ)      .. ∧_∧     <    の >   |  ● , ● ..l
  ヽ ̄∧_∧/    (ヽ(    )ノ) ..< !!!!    > ... 'l   人    /      糸冬
  (ヽ(    )ノ)    ヽ ̄ l  ̄ ./  ...<       > .  \___ _/   製作著作 OHK
   ヽ ̄ l  ̄ ./     | . .   |       ∨∨∨∨\
   ∧|_∧  |      ∪  ; 丿       / 人 アヒャ!! \~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (ヽ(    )ノ)        ∧_∧       / ノ桃ヽ、     \    ∧_∧ ∧_∧
  ヽ ̄ l  ̄ ./     (ヽ(::::::::::::::::)ノ     ./ ( ゚∀゚ )       \  (::::::::::::::)(:::::::::::::::
   | . .   |       ヽ:: ̄ー ̄./     / (ヽ、人/).        \(::::::::::::::)(::::  

…ってならなかったかもね。

75 :
>>74
流れおかしい…

76 :
>>74
日本三大一覧
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E4%B8%80%E8%A6%A7
では三大奇祭
御柱祭(諏訪市)、なまはげ(男鹿市)、吉田の火祭り(富士吉田市)
となってるんだが?

77 :
>>74
何だこの流れ、スレ荒らすな。
関係ないが、三村元親は細川幽斎と仲が良かったらしい。
松山城籠城の際、細川幽斎が元親に「八雲集」を届けたことが備中兵乱記に見える。
また自害する際、幽斎に一首送っている。
「一度は都の月と思ひしに我待つ夏の雲にかくるゝ」「備中兵乱記」参照。

78 :
age

79 :
>>72
いたいた、そんな人
三村親成って名乗ってた?

80 :
そういえば、三村家親だか親成って水野勝成の舅じゃなかったか?

81 :
>>80
>>23->>30のあたり参照して下され。

82 :
意外と三村氏って本になってると思うんだが…

83 :
本かよ!

84 :
本とかよ!

85 :
>>82
不覚にも題名忘れたが、三村家親の生涯を書いた小説があった。
5年前ぐらいに図書館で読んだんだが、今もあるかな?
あと三村元親とか上田実親の奮戦を描いた本もある。
しかし、三村氏を研究したとかいう本は見たことがない・・・

86 :
誰か三村氏を研究して本にしてたもれ

87 :
マイナーだが頑張った三村氏のスレage

88 :
>>83-84
三村マサカズかよっ!

89 :
備中兵乱はもう少し評価されてもいいよな

90 :
>>89
名族三村氏最後の光だしな・・・
関係ないが、成羽町史から三村家親の記した書状を見つけた。
長くなるので止めておくが。

91 :
>>90
長くなっても桶

92 :
五月十九日附 禰屋七郎兵衛外一名宛 三村家親状
今度は至龍口城、敵及行既二三丸迄伐入候處、薬師寺殿、與七郎殿、
以御粉骨被代退、剩可然衆數人被討捕之由、一味中面目之至、大慶不過之候、
最前之衆御油断、不粉候、外聞不可然候、仍岡權右衞門、此方へ被罷越、
一昨十七日歸路候、直に可被参旨候、津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、御爾所迄可申之覚之儀、
無左と御請被成を、掟可被申、内證と聞へ候、於員敷之樣體は、被仰理堅固御請被成候て可然候。
直々も此旨申候、猶以御被露専一候。急候て具に不申入候、恐々謹言。
                             家親     
 五月十九日
   禰屋七郎兵衛殿、土屋四郎左衛門殿

93 :
今度は至龍口城、敵及行既二三丸迄伐入候處、薬師寺殿、與七郎殿、
以御粉骨被代退、剩可然衆數人被討捕之由、一味中面目之至、大慶不過之候、
最前之衆御油断、不粉候、外聞不可然候、仍岡權右衞門、此方へ被罷越、
一昨十七日歸路候、直に可被参旨候、津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、御爾所迄可申之覚之儀、
無左と御請被成を、掟可被申、内證と聞へ候、於員敷之樣體は、被仰理堅固御請被成候て可然候。
直々も此旨申候、猶以御被露専一候。急候て具に不申入候、恐々謹言。
                             家親     

94 :
>>93
何なんだ、おい。
とりあえず、何年の文書か分からんので今は備前軍記とか見て年を推定してる。

95 :
中国兵乱記にある、永禄四年五月と永禄七年七月の二回の龍の口城合戦のどちらか関係でしょうね。
永禄四年は備中から加勢で祢屋与七郎・薬師寺弥五郎が龍の口城に籠城し、城主のさっ所治部が計略で討ち取られた後
浦上勢六千が包囲攻撃したけど、備中勢の後詰九千余騎との野戦に敗れて撤退。この時は岡権右衛門はまだ浦上方に名前がある。
永禄七年は祢屋与七郎・薬師寺弥五郎・土屋四郎左衛門ら千二百余騎が守る龍の口城を浦上勢(大将は直家?)一万余騎で包囲し
備中からは三村家親七千余騎石川久智八千余騎穂田元祐七千余騎が三手に分かれて後詰めするが、
初戦では裏切りもあって石川勢が壊走し、二度目で何とか城に兵糧を運び入れることに成功して備中に退いたとか。
その後はよく分からんが、明禅寺合戦で三村勢が龍ノ口山の麓を進んでるし明禅寺崩れまで三村方が維持してた?

96 :
ふむふむ。子孫として出来る範囲で情報提供させて頂きます。

97 :
>>95
永禄四年の龍ノ口城落城には、「備前軍記」には宇喜多直家の策謀とあるが、
「中国兵乱記」には三村方の謀略により落城、とあるのはどういうことか?
どちらも〓所元常が討たれているが、意味分からん…
>>96
やはり、三村親成の系統ですか?

98 :
>>97
そうです。
でも昔色んな掲示板で三村親成って名乗ってた人ではないですよ。
IDかわるんで俺もコテハンにしようかな。

99 :
>>98
ちなみに備後の人?

100 :
>>99
備後人の血も入ってるけど、一応備後人ではない

101 :
何年か前にうちの親戚(先祖が三村氏の家臣だったらしい)が、「三村氏本家のかたがいらした」とかって集まりがあって出かけていったんだけど、
本家のかたがたは神奈川から来たそうだ。
どういう流れで神奈川にうつりすんだんだろう。

102 :
>>97
キモイageかたすんなやボケ!

103 :
>>101
常陸とか信濃なら分かるが、神奈川とは不思議だな。
本家とは信濃三村氏の事なのだろうか。
>>102
たかが上げ方ぐらいで、何怒ってるんだ…

104 :
>>97
地元が浮田なので贔屓めもあるが・・・
備前軍記の美少年戦略のほうがおもしろいので
こっちの説の方が好きだ
三村氏が須々木氏とか金光氏を超えて東岡山まで
来たとは考え難いし・・・

105 :
>>104
三村氏がこの時期に須々木氏と金光氏を降参させているのは備前軍記にも書かれている。
両者の降参が元常の死の前か後かまでは分からないけど
中国兵乱記では永禄四年の段階で船山城の須々木氏は備中勢とされている。

106 :
>>95
三村家親の書状についてあれこれ調べてたら、こんな記述を見つけた。
「ここに登場する人物のうち、家親は三村家親、薬師寺殿は弥五郎、与七郎は禰屋七郎兵衛久秀の嫡子
である。
 また、土屋四郎左衛門の名も見える。また、本来浦上方だった岡權右衞門(将監)らが備中方についた
という内容もあり、『中国兵乱記』に「沢田城守岡将監・中村次郎太夫・寺尾久五も龍口で相随し、近
城へ相働候節者、先陣を承る」と記されていることと符合している。これらのことから、この資料は『
中国兵乱記』のいう龍ノ口城合戦の直前の永禄七年五月上旬に起こった小競り合いを伝えているのでは
ないかと推定される。」    
                       「備前児島と常山城」参照。

107 :
age

108 :
何だか話が細かくなってきたな…

109 :
確かに話題がマイナーすぎるのがつらいところだ…
なので、話題作りも兼ね三村氏に関する質問・疑問あれば歓迎します。
分かる限り答える。

110 :
三村氏についてほとんど知りません。
その興亡についての略歴みたいなのを教えてください。

111 :
三村氏は備中の戦国大名である。
鎌倉幕府の御家人から発し、1575年に滅亡してしまった。
〜完〜

112 :
>>111
もっと詳しく!!

113 :
>>110
備中の成羽城主三村紀伊守家親
 ・毛利元就の麾下で対尼子要員として働く
   【毛利・三村vs尼子・松田vs浦上・宇喜多】
 ・尼子が衰え松田が宇喜多と和睦
   【毛利・三村vs松田・浦上・宇喜多】
?年 備前侵入 金光・須々木らを降参させる
1565年 三村美作侵入
1566年 三村美作再侵入
1566年2月 宇喜多刺客を送り鉄砲で家親を暗殺
1566年4月 弔い合戦 70人vs3000人 宇喜多勝利だが被害も大きい
 ・宇喜多氏増長
 →浦上宗景は、宇喜多誅罰の為、毛利輝元へ援兵の使者
 →三村家、「宇喜多は敵」から毛利家へ御加勢の使者
 →宇喜多、上記の動きより浦上・三村を捨てて宇喜多につく様に
  小早川に使者
 ・毛利家は、評議の結果宇喜多氏と組むことを判断

114 :
家親の次男修理亮元親、三男孫二郎実親、
家親の弟三村宮内少輔
金光・須々木・中島と三村勢は、磐石の態勢
1566年秋 宇喜多氏 三村勢に対抗する為、沢田村明禅寺山に城を築く
1567年春 三村勢 宇喜多を破り 明禅寺城を奪取
 宇喜多 金光・須々木・中島へ賄賂を贈り内通させる
 宇喜多 明禅寺城の根矢・薬師寺へ降伏勧告
 根矢・薬師寺 三村へ援軍依頼
三村修理亮元親ら1万余騎の大軍で出撃
宇喜多も5千余の軍で出撃
宇喜多 備前の地の利を生かし三村をフルボッコ
   →明禅寺崩れ
金光・須々木・中島らは、宇喜多方へ降参

115 :
岡山の名刹西大寺周辺は誰が治めてたの?

116 :
>>115
宇喜多氏と思う。
宇喜多の前と云うことであれば、
浦上、松田の勢力と思う。

117 :
三村元親 阿波の三好氏と同盟
 宇喜多 毛利との友好UP
 毛利 三村を追討
  【三村・(三好)vs毛利・宇喜多】
1567年5月〜8月 宇喜多 備中国の諸城を奪取
  (撫川城、庭瀬城、猿掛城・斉田城など)
1566年 宇喜多・尼子密約
1568年 浦上 宇喜多・尼子の密約を手土産に毛利と和睦を図る
1569年 毛利勢 宇喜多方の諸城(備中斉田城)を攻める
  三村、宇喜多打倒の為、毛利の先手に加わる
 【毛利・三村・浦上vs宇喜多・(尼子)】
  宇喜多 備中斉田城の救援に成功
  三村修理亮元親討ち死に

118 :
>>117
訂正
×三村修理亮元親討ち死に
○三村実親 討ち死に

119 :
1574年 将軍足利義昭 織田に破れ西国に落ち再起を図る
 →毛利・宇喜多 和睦
 →宇喜多 織田・尼子と絶縁
・宇喜多 小早川隆景へ「三村は三好と結んでいるので注意」
1574年11月 三村の家老 三村親成が備中を退去 
 小早川隆景へ「主君は、三好に加勢を乞い、毛利を討つ計画です」
1574年12月 小早川隆景 三村討伐へ 出陣。宇喜多も呼応
 【小早川・宇喜多vs三村】 
1575年1月 持ち城を次々陥落させる。三村氏備中松山城のみとなる
1575年4月 間者を使い松山城も落城させる
   三村修理亮元親 松連寺で切腹
   勝法師(元親の子)と石川久式は、四国へ落ちようとするが、
   捕まり、勝法師は、宝福寺で首をはねられ、三村氏は終る

120 :
うまくまとめてくれてる。
>>113
弔い合戦はあの有名な三村五郎兵衛か。

121 :
>>110
備前・備中・美作での
三村・毛利・宇喜多・浦上・尼子・松田の場所関係は、
下記のサイトが参考になる
http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_07.html
>>120
そうです。

122 :
このサイトも三村氏ついてよくまとめてあるので
参考になると思います。
http://sengoku_.at.infoseek.co.jp/B_mimura.htm

123 :
>>110
ググれカス

・・・も覚悟してました
激しく亀ですが110です
>>113-122
とても分かり易いです、ありがとうございます
郷土ゆかりと最近興味を持ちまして
調べもしないくせに、絶交の機とばかりに書き込みました
紹介いただいたサイトもおもしろかったです
この辺りの当時の有力者は関東から来たの御家人が多いんですね
なんか意外でした

124 :
>>123
備前軍記を元に書いているので多少宇喜多よりです。
wikiなどで備中兵乱や三村家を調べると三好でなく
織田の誘いにより、毛利を裏切る状態なったみたいです。

125 :
>>124
そのあたりの三村氏については、備中兵乱記とか中国兵乱記に詳しく書かれている。
それによると三村親成は、毛利氏を裏切るという事ではなく、信長の残虐性を指摘し
主君元親を諌めた…とある。

126 :
>>124,>>125
三村氏ってマイナーだけどいいですね。
滅びっぷりも、雪辱への一途な感じも泣けます。
謀略家宇喜多直家の見事な仇っぷり、
毛利はじめ群雄との複雑な外交状況、
結局周りも見ずに滅亡へと突っ走る子供っぽさ、
いい物語になりますね
備中兵乱記読んでみます

127 :
三村元親元範実親3兄弟の散り際は涙もの…
岩屋城玉砕の高橋紹運に通じるな。
元範については>>19>>20参照。
実親については>>54>>55参照。

128 :
突っ込み禁止↓

129 :
もうちょっと簡単に直してみた
備中成羽城主 三村紀伊守家親
・備中国をほぼ治め、美作・備前侵攻をはじめる
・1566年 宇喜多の刺客により鉄砲で暗殺される【三村家親 死亡】
備中松山城主 三村修理亮元親
・1567年 三村vs宇喜多 明善寺合戦 【三村 大敗】
・1574年 仇敵の宇喜多が毛利と和睦、三村は、毛利から織田へ
 →三村の家老 三村親成が備中を退去
 →毛利(小早川隆景)が三村討伐をはじめ、備中の諸城を攻め落とす(備中兵乱)
・1575年 備中松山城落城【三村元親 死亡】

130 :
じゃ俺がもう少し手直しするとだな、
1566年 三村家親射殺される
1575年 滅亡

131 :
三村氏の謎はいくつかあるが、家親長男の庄元祐死去年についても異説がいろいろある。
・明善寺合戦の際、能勢修理に徳与寺近辺で打たれる。[備前軍記]
・明善寺合戦で破れ、敗走するも備中にて討ち死に。[陰徳太平記][備中兵乱記]
・元亀元年(1570)宇喜多勢との戦いで佐井田城にて討ち死に。[大江系譜]
・天正三年(1575)備中兵乱の際、佐井田城に篭もるも宇喜多直家に討たれる。[三村家系図]
従来は上の2つ(明善寺合戦の際討ち死に)が通説とされているが、近年否定説も出ている。
元亀二年一月二十八日付の毛利元就・小早川隆景書簡には、備前児島に元祐を
渡海させるよう命令が書かれているから、やはり備中兵乱の際討ち死にとするのが
正しいと思われる。
しかしそうなると、「備中兵乱記」などに見える、この時松山城に篭っていたと
される三村兵部之丞は一体どうなるのだろうか。
元祐について書きたいことはまだあるが、長文になったのでここらでやめるが…
毛利元就・小早川隆景書簡は、『県史編年』に収められている。

132 :
>>131
×松山城に篭っていたとされる三村兵部之丞
○佐井田城から落ちのび松山城に篭ったとされる三村兵部之丞
間違いがあった、すみません…

133 :
いやはや勉強になるスレだ。
ざっと見てみたけど三村氏には謎が多いんだな。
住人の皆さん頑張れ。

134 :
>>131
ちなみに庄「元資」が正しいそうな
三村家から養子に入った際に元祐→元資と
「資」は庄氏の通し字

135 :
庄実近の養子になっているからな。軍記物とかだと元祐のままなんだが。
庄元資でもいいんだが、少し前に庄氏に同姓同名がいるから紛らわしい。

136 :
>>135
そうそう
よくご存知で!!

137 :
>>117
>>118
上田實親は備中兵乱で自害
誤りです

138 :
>>137
ホントだ・・・備前軍記の中に同名があって紛らわしいww
斉田城救援のこと・・・上田実親討ち死に
備中兵乱の鬼身城攻略・・・上田入道が、養子の孫二郎実親を切腹させる

139 :
http://tinyurl.com/2v7f3c
>>138までを変換してみた

140 :
>>139
なんだこれw

141 :
三村とか言うから、「〜かよっ」とかのレスが飛び交ってるかと
思って覗いてみたが
意外とまじめなスレでがっがりした

142 :
「宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c」さんはなんでそこまで三村氏に詳しいの?
宇喜多家信者なら宇喜多万歳・備前万歳・岡山市万歳(≒アンチ三村・アンチ備中・アンチ倉敷市)で、
三村家についてはとってもイイ加減な知識しかないってのが相場だが…

143 :
Y   Y
(・∀・) <こらえてつかぁさい

144 :
>>142
別にそこまで詳しくはないんだがな…
まずは「備中兵乱記」読んでそれからかな。
三村一族の生き様に感動して、資料を少しずつ調べてみるようになった。
きっかけは、小学生のとき授業で三村氏について調べさせられたことだろうか。
今は>>131にも書いたように庄元祐についてあれこれ考えてる。
しかし、資料が少ないのがなあ…。スレ違いすまん。

145 :
>>144
高梁の人?

146 :
>>145
スレ違いなので答えるのもあれなんだが、9歳ぐらいまでは笠岡。
その後は県内のあちこち、決まったところにずっといたことがあまりない。
高梁には2ヶ月いた事もあるが、今は旧備前国内在住。

147 :
三村氏とは直接関係ないかも知れんが、「北房町史」見たら庄氏について、
まあまあ詳しく説明されてた。
岡山県内在住なら、図書館に行けばあるだろう。

148 :
>>147
備後・備中のほぼ境目在住。真備(現倉敷市)、矢掛図書館はよく行きます。
今度探してみます。

149 :
最近三村スレおとなしいな

150 :
上がってたので質問です。
ウィキ見ると三村家親は三好氏の娘を妻としていたらしいんですが、
この娘は三好氏の中の誰の娘になるんでしょうか?
三好氏系図を作成しようとして思い当たりました

151 :
>>150
倉敷市史にある系図では三好長輝と家親が結ばれており、
これから家親の妻は三好系図の三好之長(長輝)の娘二人のうち一方と推測している本もある。

152 :
長慶と家親がほぼ同世代なのに、曾祖父之長の娘と家親で年齢的に釣り合いがとれたのか?
男がずっと年上の例は珍しくないけど女が年上ってあんま聞かないな。

153 :
之長五十代晩年のときの娘とすれば一応は同年代になる。三好元長より10年以上遅い生まれで不自然になってしまうけど。
ちなみに1575年の元親自刃時に老母は存命らしい。
家親が生まれた永正から天文初めにかけては、三村を含む備中国人の一部が大内氏の上洛に従ったり、
将軍側近の上野氏二階堂氏伊勢氏が下向してきたり、備中守護が阿波細川氏と備中伊予細川氏(細川高国の実家)
の間をいったりきたりと、備中は中央の抗争に完全に巻き込まれている模様。
家親の娘鶴姫が1536年頃生まれ(備前軍記等では1543年頃生)で婚姻はこの数年前か。
もし1530年頃だとすると備中の高国派(と高国を援助した尼子)に対抗する意味合いもあったかも。

154 :
鶴姫について『常山軍記』とか『備中兵乱記』には、33歳で自害とあるんだが、
般若院文書では天文23年(1554)に19歳と書かれている事から逆算して、生年は
>>153さんも書かれているように、天文5年(1536)生まれと推定される。
これを考えると、天正3年(1575)常山落城の際鶴姫は40歳。
元親の母は三好氏であり、鶴姫は同母の子とされている。
先に書いた天正3年(1575)鶴姫40歳で自害から、この時母は60歳代であったと思われる。
鶴姫を、三好氏系図に嫁ぎ先が記されていない三好之長の2女のうちの1人とすると、
三好之長(長輝)死去は永正17年(1520)だから、1575−60=1515+1=1516年前後の生まれと
推定される。
60歳仮定で考えるとこうなるが、実際はもっと歳だった可能性もあるし、まあ
許容範囲内かと思います。
このあたりは、「備前児島と常山城」に詳しく書かれている。

155 :
>>150で質問したものです。
長輝の娘に推定されるのですか。
皆さん詳しい説明ありがとうございます。
勉強になりました

156 :
石川氏について書くと清和源氏で備中守護代、

157 :
備中の在国守護代と言えば、石川氏と庄氏か。

158 :
このThreads勉強にナル!!!!!!!!!!
>>157
いちおう備中上野氏(備前常山城主上野高徳もこの系統とされる)も備中守護代

159 :
    家親を消しにきますた 
スチャ             ●
  ∧、      ●    ∧))∧     
/⌒ヽ\  ∧))∧ (´<_` ) 何か揉めそうだが俺達は依頼通り動くだけ
|( ● )| i\( ´_ゝ`) /   ⌒i
\_ノ ^i |ハ    \    | |  
 |_|,-''iつl/  / ̄ ̄ ̄ ̄/  |
  [__|_|/〉 ._/  地図  / .| .|____
   [ニニ〉\/____/ (u ⊃  
   └―'


160 :
ネタ投下兼ねて、応永14年以降空白の70年後、再び活動を始めた戦国時代の
三村氏についての資料を出してみる。
「将軍義晴御時代上野一助満元書状写」(三村文書)
今度御覚悟対御国御忠節無比類候、然間井原井森より下可有御知行候、兎
角儀申方々共為我等可致其調候并那須跡式事、御知行候而人躰可有御仕立
候是又上意相調可申候間可御心安候          恐々謹言
                                      上野一助
   天文元十月十六日                            満 元 判
      三村左衛門大輔殿

『陰徳太平記』巻2の「義稙卿防州御帰洛に付き将軍再任の事」に、
永正4年(1507)当時の備中国人として庄氏、石川氏と共に三村備中守宗親の名が
見えるが、それ以降また25年程の空白のあと、天文元年(1532)に再び三村の名が表れる資料。
上の資料には、三村左衛門大輔が上野一助満元と同盟を結び、井原の井森?辺りまでを
領地にしたことが見える(那須氏の領地も受け継いだのか)。
しかし、三村左衛門大輔って三村一族の誰に当たるのかなあ…
当時の当主なら宗親なんだろうが。

161 :
那須氏とかマイナーすぎるだろ・・・
しかし宗親?についての書状は貴重だな

162 :
那須氏って中新井(中新)に改名したんじゃなかったの?あれは庶流だっけ?

163 :
>>162
一応、政高が足利尊氏により改姓はしているが、>>160の文書などにも見られる通り、
それ以後も備中荏原庄を領し、那須姓をそのまま名乗っていたようです。
中新井(中新)姓を名乗ったのは庶流じゃないかなあ…
良く分からないので、今度調べてみます。
ちなみに、那須朝資が荏原三郎を名乗ってることから、政高はこの系統と思われる。

164 :
ほんと勉強になるスレだこと

165 :
>>163
那須氏についてだが、与一の墓が備中にあるんだっけ?
下向したってこと?

166 :
下向はいいけど地縁に疑問がなくはないかと。

167 :
>>165
>>166
岡山県井原市には那須与一のものと伝わる墓があります。
那須氏系図などによると、文治3年(1187)源頼朝から恩賞として全国五ヶ庄を賜り、
備中荏原庄(井原)に下向したとされている。
ただ、与一が備中に下向したという他の記録は無く、伝わる墓は怪しいかもしれない…
しかし、このすぐ後に、与一に変わって弟の那須小太郎(宗晴)が下向しており、
代々那須氏の居城となる小菅城を築いたことは文献に見える。
また、1387年に那須資道、資英父子が荏原荘才児に曹洞宗能登総持寺の実峰良秀を招いて
永祥寺(与一が扇の的を射た際に破り捨てたといわれる片袖がある)を開山したとされており、
この資道、資英が、戦国期の備中那須氏の祖先にあたるとされています。
戦国時代の動向については、天文元年(1532)あたりまで那須氏が荏原荘を
支配しており、近隣の三村氏とは何度か争った事が『三村穣家』などに見え、
『陰徳太平記』にも、那須氏の名が見えたと記憶しています。
現在分かってる範囲で簡単に表すとこうなる。長文すまん。
与一宗隆=小太郎宗晴…朝資…宗次…資道―資英……(戦国備中那須氏)
         与一弟 荏原三郎

168 :
>>167
与一が備中に下向したとの説は確かに疑問ですね。
ちなみに井原には今でも那須姓の方が結構いらっしゃいます。

169 :
井原から高梁にかけて多いね。

170 :
三村家に話を戻す
子孫は結局どうなったのだろうか?
本では分からない子孫もいると思うが…

171 :
阿西入道とかが、讃岐の由佐左京に落ち延びたとされてるね。
親類だし三好氏を頼った一族もいたかも。

172 :
>>167
戦国備中那須氏とあるけど、少しは活躍してたのかい?
全くの無名な気がするんだが…

173 :
さっき国吉城址行ってきたんだが例によって誰もいなかったw

174 :
>>173
三村政親の?

175 :
>>174
そうです。
ちなみに備中松山、鶴首、国吉界隈によく出没しております。

176 :
高梁市に存命していそうな三村サンって子孫じゃないの?
歴史疎いんでただの思いつきだけど。

177 :
同級生に三村・須々木・金光がいて
何か因果を感じたが、ただの偶然かも・・・

178 :
村山忠重先生が『写録宝夢巣』により調査されたところによると、
岡山県内に三村さんは約3900人か。
須々木姓は、『太平記』に備前の北朝方の武将として、松田氏の家臣第一に
須々木高行の名が記されている。
戦国期『備前軍記』『中国兵乱記』などに名が見える舟山城主須々木豊前は
末裔になるのだろう。
現在でも岡山市には100軒近い須々木姓の方がおられるから、
子孫という方もいるでしょうね。スレ違いですまん。

179 :
>>178
三村氏配下の須々木氏は中国兵乱記によると、
たしか龍口城攻めで動員されてますね。
須々木豊前は明禅寺で宇喜多に内応した張本人か。

180 :
>舟山城主須々木豊前
あの辺り須々木さんいるけど子孫じゃないのかなぁ

181 :
>>178
三村さんって岡山県に3900人もいるの?
漏れもその一人なんだが…。
倉敷じゃ見村さんの方がメジャーなんで寂しい。。

182 :
三村家臣時代の清水宗治について知っている人教えて下さい。
どのくらいの立場だったのでしょうか。

183 :
>>182
清水宗治(長左衛門)が記録上確認できるのは天正の備中兵乱の頃に小早川隆景が高松城主の宗治に
送った書状が最初で、それ以前石川家臣時代の清水家は
父宗則(備後守)と兄宗知(六郎兵衛・備後守?・月清入道)が中心に活動しているらしい。
備後守は明禅寺合戦、経山合戦、虎倉合戦などに参加。
経山城では備後守は千百余人を率いて城を攻める雲州勢の背後を総社からついたりしている。
この戦いは石川を含む備中勢の多くが毛利の遠征に従っていた時で、
清水家は留守を任されていたのかあるいは誰か一族が遠征に加わっていたのかは知らない。
備中兵乱が起こると宗治は石川家を裏切り兵乱後も毛利家から高松城主として認められ、兄宗知は出家した。
以上主に『清水宗治の戦略』から。

184 :
宗知(月清入道)がなぜ出家したのかについては詳細は不明だが、
183さんも挙げられてる同書を参考にすると、
「性格が弦のように強情」(陰徳太平記)であったためとされている。
さすがにこれは信じにくいので多田士喜夫先生は、
備中兵乱の際、三村方の主君石川氏を裏切り毛利家に翻った幸山城主友野石見が抜けた後の
城の守備兵に、当時は石川家臣であったはずの月清入道の名が見えないことなどから、
月清入道もこの時主家を裏切り毛利方へ翻ったのではないか、
そのため、戦後月清入道は滅亡した主家への弔意のため出家し、
家督を弟宗治に譲ったのではないかと推定されている。
多田士喜夫先生の言われているように、毛利家への忠義に篤かった清水家が、
実は毛利家に背いていたとは書けなかった、ということなのだろうか。

185 :
宗治は始め、総社宮の宮司であった可能性もあるとのことです。

186 :
清水宗治について質問した者です。
皆さん大変詳しい解説ありがとうございます。
途中で裏切ったとまでは知りませんでした。
「清水宗治の戦略」ですか、図書館にあったと思うので、今度読んでみます。
個人的に地元なのもありますが、このスレは大変勉強になります。
直接三村氏とは関係ない質問にも答えて頂き感謝しています。ありがとうございました。

187 :
>>186
このスレは住人がマトモやし、本当勉強になる!!

188 :
しかし話題が少ない。

189 :
三村家親は子沢山ですが、室は三好氏(之長)の娘だけなのでしょうか。

190 :
>>189
家親の子と一部系図だけで記されているものを全て考慮すると、
子の数は最大で9男5女となるから、側室がいたことも考えられる。
ここで、備中平川村の領主平川氏の系図を見ると、
平川親実の娘は家親の室であると記されている。
しかし、「この女性の父親実が嘉吉の乱(1441)に討ち死にとあるのに、
兄景親が元亀年間(1570−73)に在世していたりと疑問が多すぎる」とも、
『備前児島と常山城』では指摘されている。
ただ、備中の有力家であった平川氏なら、妻をもらっても不自然ではないと思います。

191 :
平川氏なら釣り合わない事もないね

192 :
備中三村氏と信濃三村氏では前者がメジャーですが、
戦国時代や江戸時代の両者に同族意識は残っていたのでしょうか?

193 :
>>192
同族?で家紋通字が同じなのは普通か…
他には、「大彦族の研究」の著者安倍三郎氏は、
「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」と言われている。

194 :
>>193
うちのばあちゃん(美星在住)が三村家は諏訪湖の近くから岡山に来たと話していた
三村家はマイナーなので岡山でも色んな説があるみたいだけど、
すくなくとも高梁とか倉敷とか備中地域において
「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」とする説は聞いたことがない。
長野県朝日村の村長だった三村さんが同族を表敬訪問とか言って
美星に来たこともあったみたいだし同族なんじゃないの?

195 :
正確な出自は微妙ですが、同族の確率は高いでしょうね。
>「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」
この発言には異論を唱える人もおられ、「鎌倉幕臣三村氏とその一族」の著者、
小野淑夫氏などが否定されています。
>「一時信州に移り住んだ」
これは、信濃、備中の両三村氏の関係を伺わせる発言なので記したのですが、
ソースが不明+聞いたことが無いので、自分はこの説を信じてはないです。

196 :
カープの三村は関係あるんかね

197 :
ここの住人的にこお言うのはどうなんでしょう?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E6%B0%8F
所詮Wikipediaだから何処までほんとなのかわからないけど、
結構こまかいのでどんな人がどんな資料で何処まで調べてんのかは
ちょっと興味ぶかいというか面白く思うけど

198 :
地方大名の割には良く出来てるんじゃないだろうか。

199 :
三村氏は備中兵乱の凄絶な滅亡でなかったら、ここまで有名ではないと思う
わたしだけ?

200 :
家親が直家と手を組んでいれば違う形で有名になれただろうか。
でも直家は結局暗殺しそうだしなあ。
直家いなかったら毛利に飲み込まれるって事はないのかな?

201 :
毛利の一家臣として続いただろうね。

202 :
三村家親てなにしたの

203 :
三村といい阿南といい小早川といい、カープの贅沢さは異常。

204 :
>>202
ググれ

205 :
今日は星田界隈を散策してきましたが…特にゆかりの場所(と思われる所)は確認できませんでした。
というよりわかりませんでした。美星の図書館にも行ってみました。

206 :
>>205
応永14年の長講堂荘園目録に、三村氏本拠の三村庄の名が記されていますが、
美星町星田・三山の地域にあったとも推定されているようです。
美星には他にも、三村氏屋敷跡や、備中兵乱の時は三村為親が城主だった金黒山城、
あと、作家の遠藤周作氏が小説で取り上げてる小笹丸城などがあります。
個人的に、金黒山城は一見の価値有りと思っています。

207 :
>>206
その金黒山城址と法雲山城址を捜し回ったのですが、事前のリサーチ不足もありまして発見に至りませんでした。
小笹丸城址(黒忠)は町内の観光案内所でも地図に表示があり看板もあちこちにあるので、以前容易に現地に到着できました。
金黒山城が星田で、その支城の法雲山城が蔵光で間違いありませんかね?(或いはその逆?)
当方近隣の備後人ですのでまた近々行ってみます。

208 :
>>207
逆ですよ。
金黒山城が蔵光で、法雲山城が星田です。
法雲山城には行った事ないんで地理は良く分かりませんが…
対策としては、岡山県内の書店に置いてある「岡山県万能地図」には、
各市町村の地図が記されており、城の位置も書かれています。
自分が持ってる1995年版で3900円と結構高いですが…
あとは、図書館で町史を見るという手もあります。

209 :
那須氏とか出てきて気になった
たしか北条早雲の備中伊勢氏は荏原が所領だったんですよね
早雲は宗親よりも世代が上だし、なんか関東行っちゃったけど
遡れば両氏にはなんらかの関係があったのかな、と
荏原と星田はかなり近いよね、成羽なら山越えるが…
というか
三村氏全盛期、備中にはもう伊勢氏の関係者はいなかったの?

210 :
>>207
子供の頃、親に連れられて行ったことがある。
確か蔵光だったと思うけど(親は星田蔵光と呼んでいたが)、
木だか石だかで出来た細長い碑が立ってて、
「三村氏居館跡」だったか「備中三村氏発祥の地」だったか
とにかく三村氏ゆかりの地であることが書かれてあった気がする。
20年以上前の記憶なんで定かでなくて申し訳ない。

211 :
恐らく法運山城でしょうね。
三村家親は始めこの城を本拠にしていたようです。
庄為資が上野氏の松山城を攻め滅ぼした際、
どさくさにまぎれて本拠を鶴首城に移したと思われます。
しかし、>>209の両城の位置が疑問に思えてきた。
どうも法雲山城を蔵光としている本が多いです。
参考にした「岡山の城を歩く」では、金黒山城が蔵光になっているんですが…
両城は1キロに満たない距離なので、間違えたのか。

212 :
209じゃなく>>208だった

213 :
>>211
法運山城なんですかね?
何か道沿いに立ってた気もしてきました
まむしの季節なんで確認に行くのは怖いですね

214 :
松山城歴代の城主を詳しい方教えて下さい。
秋庭氏が築いたようですが、
それから戦国期の三村氏までがよくわかりません。

215 :
>>214
三村元親戦死までなら多分こんな感じだと思う。
仁治元年(1240)地頭の秋庭重信が築城。
一部資料に庄氏三代目城主として見える庄高資の子勝資は除いた。
秋庭重信→秋庭信村→秋庭重連→秋庭義継→秋庭重知→高橋宗康→高橋範時→高橋光貞→
高橋秀光→高師秀→秋庭重明→秋庭頼重→秋庭頼次→秋庭元明→秋庭元重→上野頼久→
上野伊豆守(頼氏?)→庄為資→庄高資→(城代吉田義辰)→三村家親→庄高資→三村元親…(以下略)

216 :
>>209
伊勢又五郎(五郎、左京亮、高平)が16歳の時出雲で戦死したらしい。
若死にした彼の後は名のある武将はいないみたいですね。

217 :
>>209
天文9年(1540)尼子晴久が大内義隆配下の備後国比叡尾城三吉備後入道を攻めた際、
大内義隆が救援として送った兵の中に、備中国からは伊勢左京亮の名が見えます。
この左京亮は、永正6年(1509)将軍足利義稙が近侍を備中に送った際の、
伊勢左京亮貞信(のち高越山城主)と同一人物だろうか。
左京亮は続いてるし、空白が開きすぎだし違う気もするが。
他の伊勢姓の人物では、毛利元就の月山富田城攻めで尼子義久が降伏した後、
祝宴に毛利の各将に交じって伊勢左京助が参加してたり、
備中兵乱の時楪城の三村元範(元親の弟)を守って討ち死にした
伊勢入道という人物も見えます。

218 :
>>215
詳しくありがとうございます。
上野信孝は城主ではなかったんですね。
高梁に住んでたんで気になってたんですが良く分かりました。
松山城には一度行ったことはあるんですが、
機会があればまた知識を増やしてから行ってみたいと思います。

219 :
『中国兵乱記』によると、鬼邑山城主にはなったようだ。
松山は子の頼久か。

220 :
いやはや、レベルの高いスレだ

221 :
風林火山を見ていてふと思った。
武田家に対する矢崎平蔵と
宇喜多家に対する三村家

222 :
なるほど、伊勢氏も大内→毛利って事は三村氏と同じか…
斉田城の戦いとやらでは毛利方で揃って戦ってるみたいだし
まったく思い至らなかったけど、伊勢入道も伊勢氏の関係者とすれば
やはり両家はお隣同士、浅からぬ交流があったのかもしれませんな
ところで>>216の伊勢又五郎
月山冨田城攻め(1566)で戦死とされているみたいだけど
>>217では祝宴に参加してる?

223 :
>>222
いや、参加してないですね。
伊勢氏からは左京助だけのようです。
↓ちなみに、ウィキに三村元範のページが出来てたので貼っときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%85%83%E7%AF%84

224 :
下向してきた伊勢氏とか上野氏とか那須氏とか二階堂氏とか面白そうだ。

225 :
>>210-211
本日再びかなり時間をかけて蔵光及び周辺を彷徨いました。
が、またしても両城(もしくは居館跡)とも発見できませんでしたorz
地元の農夫も知らないと。20年の時は標をも朽ち果てさせてしまったのでしょうか…
ところで地名なんですがどうも『星田』は大字で『蔵光』は小字のようです。
ですから>>211氏の言われるように星田蔵光という呼び方が正確なようです。
つまり両城とも所在地は『星田蔵光』、『星田○○』というふうになるんじゃないでしょうか。あくまで推定ですが。
更に地名についてなんですが町内北部の『洗場』もウィキにあるようにゆかりの地名なんですかねぇ。
万能地図はまた機会があったら閲覧してみます。
しかしまあ美星町内のあの迷路ような細道は探索しがいがありますねw

226 :
↑間違えた。>>210氏の言われてるようにだった。

227 :
詳しい説明ありがとうございます。
自分もあれこれ調べてみましたが、
確かに大字と小字の違いだったようです。
位置については、地図で確認したところ、
法雲山城の近くにはお寺があり、
その500m範囲内に城もあるようです。
参考になるかは分かりませんが…

228 :
ちなみに、参考にした地図は>>208の、「岡山県万能地図」です。

229 :
>>227
寺!?それらしきものすら気付きませんでした。
確認できたのは農家、田圃、営業していない星田(簡易?)郵便局のみ…
大変参考になります。後日再々度行ってきます。

230 :
法雲山城位置について追加報告
「岡山の山城を歩く」によると、星田地内にある
「西星田公民館」左脇の道を登りきった右手に「中興禅寺」があり、
その寺の東側の小山が法雲山城の登城口だそうです。
中興禅寺が、恐らく>>227の寺か。

231 :
俺も法雲山城行ったことあるけど見つからなかったうえ、田舎すぎてワロタ
松山城は立派だったけどね

232 :
金黒山城
ttp://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=34/39/43.272&el=133/30/21.960&scl=25000&bid=Mlink
法雲山城
ttp://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=34/38/51.072&el=133/30/06.696&scl=25000&bid=Mlink

233 :
>>231

234 :
金黒山城は三重堀切とかあって見ごたえありましたね。
ただ登山口が見つかりにくくて引き返してしまう人が多いみたいです。

235 :
おっ三重堀切あるのか
城郭体系には単郭としか記述がなかったけど、いってみるか

236 :
>>234
ノシ
金黒山城址、標柱と説明書きの立て札やっと見つけましたがその通りになりましたwどっから登っていいのか全くわかりませんでした…
そのうち日が暮れかかってきたんで法雲山城址は中興寺の場所だけ確認してまた後日行くことにしました。
スレ違いになりますが道中の荏原で高越山城址にも立ち寄ったんですが、
こっちは早雲の生誕地という事を全面に押し出してかなり整備されてます。
照明の柱の礎石の部分も三ツ鱗の形にするほどの懲りようw

237 :
三村氏ってやっぱマイナーだよなあ

238 :
作州月田山にハ、元親妹聟楢崎弾正忠元兼居城す、
月田山ってどのあたり?

239 :
月田だの星田だの三村氏は宇宙からやってきたのかね

240 :
うきたなんかよりは三村の方が共感はできる

241 :
良いスレだなあ〜

242 :
しかし、宇喜多が流した三村が三好と通じてるとの流言?に釣られる小早川の間抜けさは・・・。

243 :
>>242
そうだね。
現に毛利でも吉川元春は「宇喜多に警戒せよ」「宇喜多に乗せられるな」みたいなことを
早い時期から言ってたみたいだしね(確か宇喜多氏子孫の著書でも紹介されてた)。
で、毛利が宇喜多と手を結んだ際には
「忠義を尽くしてきた三村を粗末にすると内外に宣言したようなもの」
「これで毛利の天下統一などあり得ないことがはっきりした」
「いかに戦国の世といえども毛利は義を大事にすべき」って感じで嘆き、
三村に大変同情したらしい。
ちょっと個人的な潤色が入ってるかも知れんが、許せ(汗)。。

244 :
備中兵乱記とかでも分かるが、吉川元春は宇喜多直家を嫌ってるな。
弟の小早川隆景は寛容だったけど。

245 :
>>243-244
「備中兵乱記」が三村家を扱ったものだから、
三村贔屓の吉川に好意的に書かれているのは分かるけど、
仁将知将と言われる小早川のイメージがガラガラと崩れていくw
元就が生きてたら、三村も粗略に扱われなかったろうと思うと不憫でならんよ。

246 :
隆景も迫り来る強力な織田に対処するには、
三村より宇喜多を味方につける方が得策と考えたんだろうな。
冷酷かしかし現実的な判断ではある。
実際にはその後宇喜多が裏切ったからあんまり意味が無かったか。

247 :
三村元親の心中からすれば、毛利憎しじゃなかったからね
隆景もそれを承知した上で討伐したんだろうし、イメージは悪くなるなw

248 :
関が原後に毛利を改易から救ったのも吉川家だし、
元春といい広家といい、吉川家はスゴイな

249 :
>>248
広家の場合は、彼の内通が毛利家を危機に追い込んだので、功罪相殺。

250 :
三村はゲームでは弱いが

251 :
地方の小豪族(失礼!)スレがここまで伸びている事に驚き

252 :
>>251
備中兵乱が戦国史ではそこそこ大きな出来事だからねえ。

253 :
>>251
汚れの宇喜多に対して余りに三村がまっとうだからな
意外と人気あるんじゃないの?

254 :
井山の宝福寺も三村に加勢して僧兵出してる。
昔はどのくらい大きかったんだろう。

255 :
>>254
へ〜っ、そうなんだ
井山って総社だっけ?
僧兵云々の情報ソースを御教示頂けると嬉しいのですが…
宜しくお願いします

256 :
たしか宝福寺の本堂の解説版だったと
おもう。

257 :
>>256
そうですか
今度行ってみます
ありがとうございました

258 :
行くのだったらついでに図書館に行って
総社市史「中世」を読んでくればいいと思うよ。

259 :
>>258
ちょっち図書館いってきます

260 :
今年の春に備中松山城の天守閣近くの休憩場所で三村氏の備中兵乱ビデオを見ましたがよいですね〜悲しさと無常感…そして城からの風景。

261 :
備中松山城は交通の便悪いですか?
来週会社休んでいこうか迷ってます。

262 :
やっぱり一時間あたりの電車数は少なかったですから時刻表で確認してください。
スケジュールの関係で時間的に厳しかったので駅からはタクシーで一気に上がりました。
中腹の駐車場から登りましたが、この山の下から中腹まではシャトルバスが出てましたので帰りはバスで下まで降りました(下と言っても、バス降りた後も15分くらい歩いて下にある城下町?までいく)。
城下町から駅まで徒歩で25分くらいでしょうか?
バスに関しては運行期間があるかも知れないのでチェックしてください。

263 :
ご親切にありがとうございました

264 :
野生のニホンザルがよくいるから気を付けてな
万が一(実際はもっと確率高いが)遭遇したら目を合わさないように。

265 :
私は4月上旬に行きましたが意外と登る観光客が多かったのでシャトルバスが出てました。
あと津山城跡も石垣がすごく立派でかなりオススメです!

266 :
今日、法雲山城址→金黒山城址→蔵光の三村氏居館址と探訪して、その後美星・川上・芳井界隈を徘徊してましたら
芳井の種地区に南北朝期の『刈谷左衛門太夫居城・小屋の山城跡』なる標柱を見つけました。一面畑でしたが。
その後三村氏の勢力下に取り込まれたのか、或いは滅んでしまったのか‥
ところで金黒山城址は道なき道を掻き分けてどうにか諏訪神社のある本丸跡まで辿り着きました。
それから本丸北面にあるという三重堀切の確認を試みたんですが、倒木と生い茂った雑木に阻まれて、
それらしき地形は確認出来たものの三重構造までは確認できませんでした。
美星町、もとい井原市には是非定期的な整備を願いたいものですな。
長文失礼しました。

267 :
よく場所わかったね

268 :
>>230の『岡山の山城を歩く』を参考にさせてもらいました。
ただし法雲山城址から金黒山城址の最短ルートはもう長いこと(現在も)工事中で
かなり大回りをしないければなりませんでしたが。

269 :
備中松山城主の三村家親・元親を顕彰 源樹寺(成羽)に墓整備

三村家親・元親父子の墓を整備し、法要を行う関係者ら
戦国時代の備中松山城主三村家親(いえちか)・元親(もとちか)父子の墓が、
菩提寺の源樹(げんじゅ)寺(高梁市成羽町成羽)に整備された。
地元住民でつくる「顕彰する会」(官尾雅彦会長)が、同寺内で別々の場所に
建っていた父子の五輪塔を同じ場所に移し、説明板などを設けた。
成羽城主だった家親は備中松山城を攻略するなど備中一円に勢力を広げ、
岡山城主・宇喜多氏の軍勢と対決。現在の久米南町での軍議中に射殺されたと
いわれる。
後を継いだ元親は毛利・宇喜多氏連合軍との間に備中兵乱(1574〜75年)を
戦い、松山城落城後に自害した。
源樹寺は1567年、元親が家親を弔うために創建。
家親の五輪塔は成羽城跡の旧成羽高グラウンドで発見され、1988年に同寺の
無縁墓地に移されていた。
同寺の別の墓地に元親の五輪塔があったため、親子二代の墓を一緒に安置しよう―
と住民有志が「顕彰する会」を今年5月に発足。
家親の五輪塔を元親の横に移し、竹垣で三方を囲むとともに、銘板や親子に関する
説明板を設置した。
その過程で「家親の五輪塔は江戸初期に備中国奉行として成羽を治めた小堀遠州が
造った可能性が高い」(細川寿美雄・市文化財保護審議会委員)と判明した。

【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】
(2007年11月14日掲載)

270 :
勝法師丸も一緒にしてあげてほしいものだ。

271 :
グラウンドで発見て…

272 :
>>270
高梁市の頼久寺には家親、元親、勝法師丸の墓が一所にありますよ。

273 :
歴史に触れて 高梁・成羽 鶴首城跡 住民が道整備31日登山会
長年放置されていた高梁市成羽町下原の中世山城・鶴首(かくしゅ)城跡を
保存しようと、地元住民グループ「鶴首城へ登ろう会」が城跡への登山道や
案内看板を整備した。
歴史学習や散策コースとして活用を呼び掛ける方針で、メンバーたちは
「地域の歴史に影響を与えた貴重な史跡だけに、関心を寄せてほしい」と
話している。
城は1189年、成羽の地頭・河村四郎秀清が築いたとされる。
戦国時代には、三村家親が城を補強。備中松山城攻略(1561年)の拠点
にした。17世紀前半に廃城となり、その後放置されていた。
標高338メートルの鶴首山頂付近に郭(くるわ)が7個所残るほか、
馬を待機させる「馬場」や敵の侵入を妨げるために掘られた溝「掘切」
もある。
今後は、定期的に草刈りを実施。31日には、初の登山会を開く。
官尾雅彦会長は「道が荒れていたので、城跡を訪ねたことがある人は地元
住民でも少ないはず。積極的に参加してほしい」と話している。
問い合わせは成羽文化センター(0866−42−2525)。
【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】
(2007年3月11日掲載)


274 :
山陽新聞はさすがに地元ネタに強いなww

275 :
『成羽町史 史料編』に三村氏関係の文書が多数収録されていて
なかなか参考になる。
興味のある人には面白いと思います。

276 :
良スレ

277 :
>>276
たしかに

278 :
>>277
H大杉

279 :
>>278
たしかに

280 :
>>279
たしかに

281 :
追悼墓参オフキボン

282 :
>>281
じゃ、美星→成羽→高梁めぐりOFFでもすっか?
もっと盛大に常陸(三村)→信州(洗馬)→美星→成羽→高梁めぐりとかは??
WWWW

283 :
家親が長生きしてたら毛利の後援を受けて織田軍団と激戦してただろうな…。

284 :
>>282
ヤリタス

285 :
>>283
そこで織田方に内通…いや、無い。そんな事は三村家に限って無い。

286 :
雪の中ただいま国吉城址にやってきましたよ。
大晦日に落城したんですね、ここ。


やばい、積もりそうw
早々に退散します。

287 :
>>286
ほう、大晦日に
無事に帰れましたか?

288 :
備中松山城に三村氏関連本が販売してなくてガッカリしますた。

289 :
>>288
高梁市は行政としては昔から余り三村氏に興味を持っていないようです。
今は高梁市の一部ですが、旧成羽町なんかは三村氏への関心は高い。
さらに今は井原市になった美星町なんかは役場をあげて三村氏への関心が高いようです。
備中兵乱なんか、大々的に宣伝すれば歴史観光にもつながるでしょうに、
高梁市の態度はなぜなんでしょうね?

290 :
旧川上町もふるさとプラザに備中兵乱の漫画とか売ってたり(漫画の町興しがらみ?)、
国吉城址の整備の気合いの入れようといい三村氏への関心はなかなか高いみたいね。
ただ川上町は地質ヲタのほうに有名だわね。

291 :
>>289-290
美星と成羽と川上が合併して備中三村町になればよかったのに!
後月郡か下道郡復活でw

292 :
信長の野望(天下創世)で三村、尼子の家臣になっとる。なんで?
大名のはずなのに・・・尼子家の家臣の時期があったの?
ニワカですんません。自分三村という名字(祖父は成羽出身)なんで
三村家でプレイしようと思って買ったけどできねぇ
ガックシ・・・ 〇| ̄|_

293 :
>>292
三村が尼子の家臣であった時期は短期間・形式的とはいえ、あったと思います。
三村さん?
今はどちらにお住まいですか?
当方三村親成(成羽→福山)嫡系統ですので、色々委細をお伝え出来るかと存じます。

294 :
この前、備中松山城行ったけどセイント星矢の十二宮殿思い出した。

295 :
>>293
292です レスどうもです
尼子の家臣の時期があったんですね・・・

自分は高松在住です
親成の子孫とはウラヤマシス

296 :
>>295
293です。
高松?高松藩士子孫の方ですか?
もしそうなら三村家親の子孫に当たる可能性もあると記憶しております。

297 :
上田実親の系統でしょうか

298 :


299 :
寝たないの?

300 :
三村氏の所は有能な部下は居ないの?

301 :
大河で水野勝成をやってくれんかな。で、話の中で三村氏を重要なファクターとして登場させてほしいんだがどうよ?

302 :
>>292
尼子が8カ国守護を名乗った頃(1552年頃)に備中もその中に入ってたから、形式的に三村も支配下にあった。
でもすぐ毛利について、尼子に反抗したけど。
ちなみに北部の新見はほぼ尼子に従属し、南部の庄氏は友好的中立関係だったらしい。

303 :
>>300
居ないんじゃない?
もとい、三村親成とかは?

304 :
応仁の乱で大活躍した三村親勝・親春兄弟は最強

305 :
>>300
宇喜多軍のように直臣で戦ってきたのとは違いますからね。
直臣の宇喜多、国人衆の三村、この差が明善寺合戦での三村軍の敗退を招いたと言う説も。

306 :
美作の国人、後藤美作守って本当に実在したの?
何かちょっとスレ違いっぽい気もするが三村の圧迫を受けてたらしいのでここで聞いてみる。
直家の2人目の妻の父とか言われてるんだが全然資料が無い。
あと、直家の姉婿って言われてる谷川久隆も情報が全然見つからん。

307 :
>>303-305
d
所詮は一介の国人か…残念だね

308 :
>>300
三村親成とかは?
一門だけど…

309 :
>>306
婚姻関係にあった後藤勝基とか伊賀久隆とごっちゃになってる様な気がする。

310 :
>>308
ワシ>>300だけど、結局は裏切ってるからなぁ、俺は三村氏も水野も毛利も普通に好きだから三村親成は人を見る目がずば抜けていると評価出来るけど、
本当の三村氏ファンから見たら違和感があるんじゃないかな?
って配慮してみた。

311 :
一門なら弔い合戦で有名な三村五郎兵衛

312 :
>>310
なるほど。
漏れは「きこくのしろ」(?)を読んで三村に興味を持ったんだが、
あの絶版小説を読むかぎり三村親成を憎めんのだよ。
でも、三村元親とか上田實親とか嫡流からすれば親成は許せんし、
本当の三村家ファンも同じでしょう。
>>311
なるほど。でも、なんか小者っぽくって、微妙ではないかと…(汗)。

313 :
>>312 その小説kwsk!黄泉隊
俺も三村親成が単純に悪い人間だったとは思えない、兄(叔父?)家親の娘をちゃんと引取って面倒みているし、勝成の実家帰還時にはちゃんと御供をつけて送出してるとある。
更には身寄りの無い藤井氏の娘・於登久(勝成の側室で勝俊の実母)も引取ってるしね。
家親亡き後は一族の存続を優先しての判断と思う、毛利に下ってからの親成は裏切りを阻止出来なかったとして余り優遇されてない所を見ると、美化する気は無いけど血筋を守る(於柵や一派を引取る)為に嘆願した結果だと思われる

314 :
部下ではないし親成と一緒に裏切ってるけど楢崎元兼とか。
元々備後の人だから毛利についたのは仕方ない。
美作方面や備中高松、使者としてなどそれなりに働いている。

315 :
それなら上野隆徳の方じゃない?

316 :
>>313
携帯からですまんが。
これだろ↓
ttp://www.amazon.co.jp/gp/aw/d.html/ref=ms_a_2_p1/250-3297733-9068206?ie=UTF8&uid=NULLGWDOCOMO&edi=lefGOPlWT%2BTVqvf%2F%2FJOlWe91YdcGHclw%2BzoIkY%2FF5ho%3D&a=4404018444

317 :
清水宗治
こいつも三村からみると裏切りもの

318 :
瀬戸の軍狼という小説もある

319 :
>>316-318
ありがとう。それに俺も携帯だから別にいいですよw
もう一個の方も面白そうですね!どちらも評価が無いのが哀しい、やはりマイナーな武将なんだなぁ…
探して読んで見ます。

320 :
あげ

321 :
>>319
アマゾンのレヴューに書いてみては?

322 :
新・備中戦乱記だっけか三村家親の小説は。
10数年前に読んだよ。

323 :
と思って調べたら
三村家親 小説 
で 新備州戦国記 難波聖爾 が出てきた。

324 :
関連スレ
岡山県(備前・備中・美作)の戦国史
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171890434/

325 :
>>321
亀でスマンが
読むの遅いから何時になるか判らないけどそのうちね

326 :
常陸が本貫地というのは本当?

327 :
恐らく

328 :
>>326
赤穂浪士の三村は常陸国出身で、家紋が備中や信州の三村氏と同じケンカタバミ。
これは関係ないのかな?

329 :
>>328
本貫地に残った一族がいたんじゃないの?

330 :
常陸稲田藩って何?もしかして赤穂の前の笠間藩の事?

331 :
稲田藩が洲本の稲田家の事?

332 :
>>329
ありうる話だね

333 :
元親は日本で初めて銃で狙撃され死亡した人物なの?

334 :
>>333
元親じゃなくて家親な

335 :
>>334
これは失礼しました。もう少し調べてから書きます。

336 :
狙撃したのは遠藤又次郎・喜三郎か。宇喜多直家の命で。

337 :
国内において『初めててつはうによる暗殺をされた人物』ってのは間違いだろうね。
記録が残っておりかつそこそこのVIPとしては初のスナイパーによる暗殺ってことだよね。

338 :
鉄砲による暗殺未遂の初の被害者は信長?

339 :
>>337
誰か他にいるの?
武将以外ならあったとしても、記録には残ってないだろうし、三村家親が実質初と言っても差し支えはないと思うよ。

340 :
三村家親でいいんじゃないかな

341 :
良スレ

342 :
狙撃の件は勉強になりました。

343 :
流石直家 なかなかやりおる・・・。

344 :
このスレまだあったんだね

345 :
三村親成の系統は結局水野家改易と共に、歴史に埋もれてしまったのかな?

346 :
鬼ノ身城はマイナーな割には、規模が大きく、またくるわの跡もよく
残っていると思う。
昔なら、旧登山道がまだあり、途中に石垣の跡もあって
よかったのですが、今では誰も通らなくなり道の跡もなくなって
しまいました。
中国兵乱記には毛利に攻められたこと、城主の切腹の話がなまなましく
活写されており、登城するたびに感慨が起こる。
毛利の軍勢は実際どのくらいの兵で攻めたのか?
城中には2千?の人々が立て籠もっていたらしいが、あの頂上部の
すべてのくるわに避難?していたのか?
(だとしたら城中は人で一杯だったのでは?)
毛利の調略により寝返った武将は、あの本壇(本丸)から一番正反対の
東側のくるわを守っていたのではないか?
などなどいろいろ想像を巡らしております。

347 :
親成の子孫は備後福山藩水野家の家老職を受け継ぐ嫡流を中心に繁栄し、
幾流かに分かれた。
現在に至る子孫の中でも系譜の上で嫡流とされるのは、
備後福山藩水野家中に於いて大寄合(1,000石)を務めていた親成より3代後の親澄が
水野家改易後に「牢人」(=浪人)となり、
備中勇崎村(現在の岡山県倉敷市)へ土着して以来続いている系統である。
その子孫は苗字帯刀までは認められていなかったようだが、
多数の田畑を所有し、名主と同等の扱いを受け、明治期を迎えた。
現在の福山市東川口町周辺にも親成の子孫は多く残り、
これらは三村親澄の叔父親義の係累にあたる。
明治期の甲州身延山日蓮宗管長大僧正三村日修上人や
現代の俳人で神戸山手大学人文学部教授三村純也も親成の子孫である。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90" より作成

348 :
ネタなさそう

349 :
中世備中の歴史

350 :
『鬼哭の城』どうでした。

351 :
>>350>>319に対して言ってるの?

352 :
>>337家親はやっぱり、狙撃不可能なはずの場所から眉間に一撃だったんかね?

353 :
鬼哭の城がアマゾンであったから買おうかな思ったんだけど
在庫ないから発送まで1カ月かかるらしい
お盆休みに読もうと思ってたのに・・

354 :
>>353
図書館R

355 :
>353
鬼哭の城かいな。。
俺は先日読んだけど、面白くなかった。
史実を忠実に小説化しただけだよ。
何か特別な作者の発想とか展開を期待したのだが、何もなかった。
岡山が舞台で読むのなら遠藤周作の『反逆』だな。
美星町の小笹丸城と岡山市の冠山城がでてくる。
あ、スレとは関係ないか。

356 :
>>355
上田實親バンザイ

357 :
史実に忠実過ぎても歴史小説はつまらないが創作が過ぎてもついて行けない。

358 :
>>301
NHKに投書してくれ

359 :
『反逆』は面白いよね。

360 :
備中と備後は文化的に近いのかな?

361 :
安芸とは言葉も違う備後。

362 :
備後も備北と備南で違うしな

363 :
水野が江戸から職人や町民を引っ張って来たのが備後の喋りに影響してるらしい

364 :
宗治マンセー

365 :
三村氏?

366 :
三村がどうかした?

367 :
三村は結構強い。

368 :
毛利と結ぶことで備中で押さえたのか。

369 :
濃い目の良スレですね。
スレの最初の方でも紹介されていた「中国兵乱記」の内容の確かさはどうなのでしょう。
現代後訳版を流し読みしていて、後世の作だと思っていたら、
同時代の記録と知ってちょっとびっくりです。
気になったのが、まさに作者の中島元行が活躍した備中兵乱で毛利側で出てくる宍戸備前守ですが、
備前守なら1563年生まれの元続ということになるので備中兵乱で活躍することはないと思うのですよね。
その後の上月合戦ではきちんと宍戸安芸守となっているので宍戸隆家ということに
なるので問題はないと思うのですが。
数十年か前のことを思いだしつつ書いての記憶違いではあるのかもしれませんが、
元行と宍戸備前守の活躍がかなり書かれている備中兵乱部分でそこまで間違うのかと。
人名の正確さなどはやはりこの程度なのでしょうか?
あと、実は知りたいのが三村氏後の鬼身城主となった宍戸氏の下で在城したとされる
宍戸善左衛門のネタを探しています。
中国兵乱記と同様の記述が総社市史の通史編にあることは確認しました。
県史とか総社市史の史料編はまだ見ていないのですが、毛利、宍戸時代の鬼身、あるいは備中について
よい史料、資料があればご教示ください。

370 :
>>363
水野は元々は三河出身だけどね。

371 :
三河や尾張の商人みたいだよ。

372 :
愛知と福山は言葉が似てる?

373 :
大河化したらなぁ

374 :
毛利元就の時は?

375 :
>>374
備中自体にもカスりもしなかったよ。
やっぱり現実的なのは『水野勝成』での一エピソードとしてしか登場のさせようがないよなあ…
マイナーダイミョーの宿命よ。

376 :
備中と言えば、尼子経久の貝合わせシーンに名前だけでてきたなー

377 :
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%AE%9F%E8%A6%AA
ウィキに上田実親の項目がたったが、天正3年1月29日と1575年1月29日が全く違う日だということを理解していないらしい。

378 :
前、中、後
あきらかに手抜きで国名を決めた、と思うのは俺だけだろうか?






379 :
もともとはまとめて吉備国だったからなー
古墳時代の大勢力

380 :
筑紫なんかもそうだね

381 :
羽は明治まで出羽
こしのくにとひのくにか

382 :
毛野というのもありますね。

383 :
美作は別なの?

384 :
私は三村一族の子孫ですがだれが先祖だったかわかりません 先祖は大名だったてことは代々伝えられています 家親の子孫は滅亡してるんですよね てことは私は親成の子孫なんでしょうか 気になります

385 :
>>384
子孫ですって断言するのは確固たる証拠を持ってからにしような。
〇〇の子孫ですって代々伝えられるなら裏付ける品物そのものが本家にはあるはず。
刀や鎧などの遺物とか家系図とか書状類とか位牌とか肖像画とか。
それらが一切ないなら出任せだ。
あと著名な家祖の300回忌とかしていなくてもデタラメ。
自称三村家じゃなく誰もが認める三村家末裔なら先祖顕彰は必ず行う。
各地にいた国人の子孫なんかも藩士として正統な末裔を誇示している場合、
先祖の供養のための祭礼儀式を現在でも欠かすことは無い。
ぶっちゃけ誰の子孫かわからんってことは祖先への祭祀を一切見たことが無いってことだから、
十中八九自称だろうな。
分家だから祭祀をしないって可能性はあるが、その場合本家に連絡すればわかるはず。
本家で親成ではなくても明確に名前が判明しているなら、実際に末裔なのかもしれん。
調べる価値がぐっと高まる。

386 :
>>384
家紋は?
何代か前が三村氏ゆかりの地にいたとか、
もう少し分からんもんかな?
情報キボンヌ

387 :
うちは分家だった 本家は美星

388 :
wikiを見ると、
三村親澄系(親成子孫)…元備後福山藩家老職。備中勇崎村の豪農で、親成流としては本家。
三村親義系(親成子孫)…備後福山在留系。
この二つが備中三村氏の系統のようだね。
上田実親の子孫と称する三島中洲の家もあるが、
実親は数え20歳で戦死しているので、血統的には非常に胡散臭い。
他に、元親の兄である庄元祐の子孫もいると思われる。

389 :
384=387?

390 :
そうだと思う

391 :
福山藩の家老といっても何家の?

392 :
>>391
1619-1698の備後福山藩水野家。

393 :
どうやら家親弟の三村政親の系統もあるようです。
系図上だと、友梅政貞の弟親友から始まっているもの
 宗親――政親―┬友梅
               ├政貞
               └親友――九郎右衛門……

394 :
この水野家は除封になってるんだ

395 :
三村氏はもっと評価されていいはず

396 :
何か評価される種ある?

397 :
庄高資の勢力拡大を踏まえないと
三村家親の評価も始まらないと思うんだぜ

398 :
群馬の三村について、知っている人がいれば教えてください、
家紋はまるに三つ引き、先祖の言い伝えでは、もともと三浦半島
で三浦姓を名乗っていたらしいが、北条氏に破れ群馬に逃げて行き
三村の姓に変えたということです。

399 :
剣方喰じゃないのね

400 :
けんかたばみ。

401 :
このスレまだ続いてたのか

402 :
三浦氏だったの?マジで?上野国に逃げたとか里見氏の真逆展開だな。

403 :
え?三浦氏?

404 :
常陸出身だよね。

405 :
現代でも常陸には三村さんが結構いる。

406 :
つか今でも美星や成羽周辺にたくさん居るよ

407 :
ありがちなのかな

408 :
>>406
岡山県で三村姓が多いのはやはり備中。
美星・井原・矢掛・成羽・高梁・新見・倉敷など。
こうしてみると田舎の苗字だな。
広島県では福山。広島市内にも三村姓はありけど、無関係らしい。

409 :


岡田外務大臣キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
h‍ttp‍:‍/‍/‍q‍b5.2‍ch.net/t‍est/rea‍d.cgi‍/sak‍u2ch/1256‍630318/1

早く記念カキコしないと埋まっちゃうwww

410 :
まだスレ続いてたのか?
ネタも無さそう…
三村氏の人物を一人づつネッチリ語ってみてはどうよ?

411 :
元カープの選手・監督の三村氏が亡くなったね。
備中三村氏と無関係かな?

412 :
>>411
どうなんでしょ?
いずれにしても惜しい人材を球界は失ったと思う

413 :
広島出身だそうだ、岡山だったら関係あったかもな

414 :
三村家の子孫の方々は結局今どこにいらっしゃるのでしょうか?
スレを読み返させて頂いたんですが確かな情報は無い気がします。
今は親成子孫の方が三村家嫡流なんでしょうか?
上田實親子孫の方が嫡流なのでしょうか?
何か伝わっているものはあるのでしょうか?

415 :
いるにはいるんでしょうが

416 :
三村家って最盛期には何万石くらいだったんだろうか。
20万石くらい?

417 :
最盛期は備中一国と美作の一部だったよね、一国以上
だから30万近くあったんじゃない?

418 :
備前国の一部もだね。児島郡、津高郡、御野郡、上道郡。

419 :
30近くもあればなかなかの大名だな。
マイナーすぎるのが惜しい。

420 :
そのへん、葛西氏あたりと境遇似てるな。
葛西なんて対大崎戦全勝なのに、あのマイナーさ。

421 :
備中松山城と鶴首城いつか行ってみよ・・・

422 :
>>421
備中松山・鶴首・備中猿掛・鬼ノ身・金黒山・法雲山・国吉・撫川&庭瀬・美星の屋敷址は制覇しましたよ。
楪は手強そうでまだアタックしてないです。だれか一緒に行かない?

423 :
ゆずりは城はそんなに手ごわくないですよ。
道も整備されてるし、裏からだと10分かからずに本丸までいけます。

424 :
マニアックな…

425 :
>>414
三村の末裔です。本家では無いですが血は繋がっていると聞いています。
家系図等に関しては伝わっていません。墓も明治からのものしかないです。
第二次世界大戦の終わりまでは地主として裕福に暮らしていました。

426 :
>>425
失礼ですがお宅はどこですか?

427 :
瀬戸の軍狼を読んでみたけど面白くなかったな・・・
こういう小説にありがちな歴史を辿るのに精一杯で主人公の家親・元親や脇役の人物像が中途半端。
ただ単に名将だ猛将だと書かれても、それらしいエピソードもないし。
「瀬戸の軍狼」
井瀬伴 著
この男だけは許せない―戦国乱世とて。
大内・尼子・毛利・宇喜多…名将・謀将・梟雄渦巻く瀬戸を舞台に、智と勇の限りを尽くし死闘する備中の
三村一族の興亡を活写。
20年をかけての執念の大作。
叢文社 定価¥2,940(本体¥2,800+税)
ttp://www.soubunsha.co.jp/sofind.cgi?isbn=7947-0426

428 :
俺は流れを追えるってところだけでも面白いと思ったけどなあ
手軽に読めるような三村氏関係の本はかなり少ないし

429 :
>>428
一部禿げ同

430 :
>>425
地主をしていたとなると系図とかあるんじゃないんですか?
身内のご老人に今一度尋ねてみては?
426の方も訊いてましたがご自宅はどこなんですか?
やはり岡山県内ですか?
家紋とか辿って行っても手掛かりが見つかるかも知れませんよ

431 :
>>430
東備地区です。祖父が郷土史が好きでかなり詳しかったようですが、10年前に
他界しており詳細は分かりません。本家は50年ほど前に血筋が途絶えた結果(?)
違う土地に出て行きました。ほとんど顔を合わすことは無いです。
僕自身は歴史に興味は無いのですが、家親にちなんだ名前を祖父につけてもらったので
興味があり検索したらこのスレに辿りつきました。
今度実家に帰ることがあれば調べてみたいと思います。

432 :
私も三村の子孫ですが本家は美星にあると聞いております 自分自身も小さいころに行った覚えがあります

433 :
東備地区ってどのへんですか?

434 :
431です。家系図はありませんでしたが三村家親の短刀が残っていました。県立美術館に保管されていて、ちょうど今展示されているようです。岡山の戦国武将フェアらしいです。

435 :
>>434
倉敷在住の親成子孫の者です
家親公の短刀?県立美術館?
すごいじゃないですか
家親公の子孫は脈々と家系を繋いでおったのですね!?
ちなみに元親公の係累になるのですか?

436 :
私も総社在住の親成の子孫です けっこうこのスレ子孫が見てるようですね

437 :
>>436
そうですか。
もしや親澄公の御子孫ですか?
私は親澄公の裔です。
おっしゃるように、
結構子孫の方見てるんでしょうね。

438 :
私は分家でしてそういうのは本家にいかないとわかりません; 親成とはわかってるんですが

439 :
>>438
ウチも分家です
後学のために教えて頂きたいのですが、
家紋は何を使ってらっしゃいますか?
ウチは丸に三つ柏・丸に梅鉢を使ってます
親成流の定紋は何のか興味があります

440 :
さまーずの三村は関係ないのかよ

441 :
推定子孫の方々はどこに消えた

442 :
苗字が三村。
もし子孫だとしたら信濃三村氏のほう
信濃三村は洗馬というとこにいたらしいんだけど自分の先祖が代々近くの朝日村出身。
ちなみに江戸末期は平民。
三村一族滅亡してるのに子孫とかいるの?

443 :
>>442
いるみたいよ
信濃と備中は同系統じゃないの?

444 :
高校の同級生に三村っていたな
>>388
>三村親澄系(親成子孫)…元備後福山藩家老職。備中勇崎村の豪農で、親成流としては本家。
出身校的にここの系統だろうな

445 :
>>444質問
その人ってやっぱり三村親○って感じの名前だった?(もちろんフルネームで答えなくて可)

446 :
>>445
違いましたよ
勇崎付近の三村本家がどちらのお宅か存じませんが、おそらく本家ではないと思います

447 :
三村家子孫の者です
と言いましても苗字は違いますが…
>>444は従兄弟(三村)かも知れませんね
亡くなった祖父によれば親成流の本家は「親」の字は使用していないようです
江戸時代後半には地主になっていたようなので代々「親」は使用してないのでは?
ただ本家のことを昔は「ちかさん」=親○さんの意?と呼んでたそうです
今でも墓参りに勇崎に行くことがありますが、
本家といっても墓地が立派なだけで今に伝わるものはなさそうです
長子⇒長子が血脈を受けついでいかれてるんでしょうが、、、

448 :
夏の晴れの日の灘崎をドライブしてたら常山城の鶴姫のお墓にお参りに行きたくなるよね
山頂にアンテナ基地があるせいか細いながらクルマの通れる道があって、
あれだけの山城なのに頂上までクルマでいける

449 :
>>446
そうですか〜、ありがとうございます。
なんにせよ規制解けて返事できる今で良かったw
また今日辺りから2〜3ヶ月喋れなくなるかねぇ?

しかしそれはそれとして水野好きとしては三村氏も大いに興味深いっすな

450 :
元範公の末裔@岡山市です。
三村元範公が城主であった楪城の見学会と特別講演会が2010年8月29日(日)に開催されます。
詳細や参加方法については、以下に公開されているPDFをご覧ください。
http://www.city.niimi.okayama.jp/files/20100726151359annai.pdf
「楪城を守る会10周年記念イベント」
参加費は無料
日時 2010年8月29日(日)
日程
楪城址見学会(8:00〜11:30)ふもとの駐車場より、登頂
特別講演会(13:00〜16:00)会場:上市小学校体育館
楪城址見学会のみ、特別講演会のみの参加可

新見市観光情報
楪(ゆずりは)城跡(地図あり)
http://www.city.niimi.okayama.jp/web-page.php?ID=12749

451 :
へ〜行ってみようかな
と思ったけど朝早いからあっさり諦めた

452 :
三村って意外と広島側で、宇喜多は兵庫側だった
岡山県の両端から進んできた両勢力が岡山のど真ん中で決戦に至ったわけだな

453 :
先祖が元親に最後まで仕えた24人の一人だったらしい。
本家は三村姓を名乗り、家紋は長剣かたばみ。一族の者が
失われた家系図を復元するために調べたようだが、主君の
三村氏との血縁関係は不明。血縁なくても三村姓名乗れた
んでしょうか?

454 :
三村家は事実上元親で滅んだわけだよね
ご先祖が三村を名乗ったのはそれ以前と捉えてるの?
主家滅亡後に遺臣が惜しんで名乗ったというのがありがちなパターンな気がするけど

455 :
>>453
蒲生みたいに、褒美で三村の名をもらったのかも?

456 :
三村家子孫のマサカズです。お笑いやってます。

457 :
岡山県でも西の端の笠岡とかにいくと小早川と吉川って姓が多いよね
やっぱ毛利の両川の影響かしらん

458 :
しかしこの一族は最盛期でもたかだか備中一国を領していた
程度なのに、なぜ明善寺では20000以上の兵を動員できたんだ?

459 :
>>458
そりゃ岡山県に西半分が全部味方につけば2万ぐらい楽勝だろ

460 :
>>459
備中一国なんてたかだか25万石程度だろ>多く見積もっても
動員兵力は1万石で多めに300人としても8000がいいとこだろ
農民総動員したのか?

461 :
なんか当時毛利が三村を支援していたんじゃなかったけ 兵力をわけてもらったりとかちがうか

462 :
備中一国と美作も少しは占領してたんじゃなかったっけ?

463 :
美作国は数年後に美作中央部の豪族が三村に付いて九州まで行ってるし、
備前国は旭川流域と児島支配で約1/3は三村方

464 :
となると三村家の最盛期の版図はだいたい40万石前後ってことか
それでも12000がせいぜいだな>動員兵力。
毛利からの援軍でもあったのか
それとも戦国時代恒例「勝とうが負けようが敵の兵力は多く書く」なのか。

465 :
『中国兵乱記』の著者中島元行は、父中島輝行が三村家の武将として合戦の当事者だったんだけどね。
元行自身は当時元服したかどうかの若者で正確な情報は知らされてなかったのかもしれないし、
宇喜多家に加え、三村家まで後の主君毛利家の敵になってしまったのも関係あるのかな。

466 :
中島さんの片島城は高梁川の土手から見えるお寺の所にあったんだよね
いかにも城向きな名残がある

467 :
>>466
あれがそうですかw いや、二号線の橋をわたってるときになんか城みたいな寺があるなあって
思ってたんですよね

468 :
三村氏の地元に住んでるものですが
三村氏は戦国大名なの

469 :
美星とか成羽あたりの人ですかね
戦国大名だよ
規模とか独立性とかの意味で疑問系なんだろうか

470 :
備中国有数の強力な戦国大名ですよね 毛利氏の外様武将ですが家臣じゃないような気がします
実際毛利氏が宇喜多氏と手を組んだことに腹を立て、織田氏と結んで毛利と手を切ることになりますし
まあそれが寿命を縮めることになりますが 
信長公はいろいろ忙しくてこのあたりの大名には援軍を送ることが出来なかったんですよね

471 :
信長からすれば三村も対毛利の捨て駒の一つくらいにしか思ってなかったんじゃない。

472 :
それは浦上もだな。

473 :
南条くらいの粘りを…さすがに山陽じゃ無理だよなあ

474 :
 

475 :
三村氏が戦国大名か毛利の家臣か、って当事者の三村と毛利で意識の差があったのでは
特に備中兵乱への過程を見るとそう思える
三村:家親以来、備中の支配者という矜持がある
毛利:三村を立ててやったのは毛利だし、家臣なんだから毛利の方針には従うのが道理
山陽道担当の隆景からすれば、独立心の強い三村氏は扱いにくかったのかもね

476 :
三村家末裔のものです。
どうやら結婚もできず子もなせぬため私の代で家が滅びそうです。
三村家ゆかりの皆様どうぞ私のためにお祈りください。

477 :
三村家はあんたの家だけじゃないから平気だよ

478 :
専ブラ対応テストちょっと失礼

479 :
 

480 :
三村家にとって水野勝成は何だったのか・・・

481 :
勝成のところの家老になれたんだから、いいRだったと思うがw

482 :
三村家が毛利軍団から離反した戦い、備中兵乱も本読んでるといろんな説があるねえ
おもしろいわー ある説では大友宗麟の毛利包囲網のひとつであり、毛利大ピンチ!
とも言うし、逆に小早川隆景が三村家のことを弱いと多いに不満をもち、自分が直接
備中を支配しようと思って宇喜多直家といっしょに攻めたという説もある

483 :
結局は毛利の都合だろ、この時期に三村が叛いてピンチとかないんじゃね

484 :
灘崎のトンギリ山城どこにある?、城主が三村氏なんだが、常山城に次ぐ規模らしいが

485 :
ここだね
http://www.gis.pref.okayama.jp/map/map/map.asp?dtp=15&mps=40000&mtp=6&msz=0&mtl=60&fid=4070-60
平坦地が四段とあって、14郭の常山城とは比べられないような。

486 :
水野家筆頭家老
ミムラ

487 :
>>476
私の知り合いの三村家末裔は、若くして大学准教授になって彼女もいるから安心していい

488 :
485 そうか、挑戦したが登山道がわからない。歴史資料は皆無だが、近場に武将の墓や勝負谷と地名を残し、なんらかの合戦の跡を残す。

489 :
448 常山城は三村氏時代から毛利ー宇喜多ー米軍の駐屯地、と何度も改築されてるが無名の片岡城、トンギリ山城は知られてないがゆえ、皮肉な事に三村氏時代を今に伝える

490 :
皆、資料だけで語るから城跡など現場からの声が少ない、これは専門家にもいえる、現場を無視して資料だけでの机上の議論は、安易で真実が抜けてる思うのだがどうだろう?

491 :
総社の荒平山城、近くの士良計城、資料はないが、かなりの高さの石垣もあり(山城の範囲で)重要な城なのがわかる。資料がないというだけで、我々は多くの事を見落とす。資料は改ざんや記憶違いなどにより容易に信じていいものなのか?

492 :
せっかく資料にこだわらず現場を確認したなら、そこで得たものを資料として形にしていただかないと残りませんよ
「資料ばかりアテにしてるやつは馬鹿だなぁ」と言いつつ現場を見て終わりなら、ただの自慰行為で、あなた以外に価値はありません

493 :
私も資料を馬鹿にはしてません(頼りにしてます)。ただ皆さん資料のみで語る方が多いので、資料はある角度からしか見えないといいたいのです。もう少し現場からの声が増えれば、定説が崩れ面白い。

494 :
著名な著書を出す専門家でも現場の地域、城跡に訪れず、紙の上だけで歴史が正しい、間違いと判断するやり方をする人が多いらしい、ここもそうだが現場から発信する人間が増えればよいのだが

495 :
城好きの人「岡山の戦国の城について語ろう」にいらっしゃいませ

496 :
奥さんの実家が三村元範さんの末えいですね。美星の三山に代々のお墓がたくさんありますね。

497 :
永禄9年(1566年)2月5日、美作国の興善寺に滞在して重臣一同と評議中、直家の命を受けた遠藤秀清、俊通兄弟に短筒の火縄銃で打たれて死亡した。享年50。当時としては珍しい鉄砲による暗殺である。

498 :
城跡は生きた資料。史書と現場を照らし合わせながらの作業が強く望まれる。

499 :
そういえば前に、教習所で徳川って名前のおじさんがいた。下の名前も昔風だし。あれは御三家の子孫だ。聞けばよかったな。

500 :
三村氏?  それだけのことか

501 :2012/10/03
センゴク一統記で親成がアホ扱いされとる
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