2012年09月戦国時代93: 上杉謙信は戦国最強【信玄,信長,氏康,盛氏を圧倒】 (749) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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上杉謙信は戦国最強【信玄,信長,氏康,盛氏を圧倒】


1 :2012/04/20 〜 最終レス :2012/10/17

戦国最強・上杉謙信の主な戦歴
天文13年 上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年 上杉謙信 ○・・・《黒滝城の戦い》・・・● 黒田秀忠
天文20年 上杉謙信 ○・・・《広瀬郷の戦い》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年 上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文23年 上杉謙信 ○・・・《北条城の戦い》・・・● 北条高広
天文24年 上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄
弘治02年 上杉謙信 ○・・・・《駒帰の戦い》・・・・● 大熊朝秀
弘治03年 上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄03年 上杉謙信 ○・・・《富山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄04年 上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康
永禄04年 上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直)
永禄04年 上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄05年 上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄06年 上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱
永禄07年 上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治
永禄07年 上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱
永禄07年 上杉謙信 ○・・・《菅名荘の戦い》・・・● 芦名盛氏
永禄07年 上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄
永禄08年 上杉謙信 ○・・・《関宿城の戦い》・・・● 北条氏康
永禄11年 上杉謙信 △・・・《放生津の戦い》・・・△ 越中一向一揆
永禄11年 上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長
元亀02年 上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤
元亀03年 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田信玄
元亀03年 上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 越中一向一揆
天正元年 上杉謙信 ○・・《朝日山城の戦い》・・● 越中一向一揆
天正02年 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△北条氏政
天正04年 上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張
天正05年 上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連)
天正05年 上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)

2 :
まぁ確かに信玄と氏康が力合わせて謙信と互角ってイメージ

3 :
信玄も氏康も単独ではコテンパンにやられてたからなぁ。
信玄なんてライバルと言う風評だけど、謙信よりずっと多い軍勢で篭城とかってビビリまくりだしね。
城に篭ってやりすごせば、そのうち去っていく。
台風みたいな武将だよな謙信って。

4 :
信玄も氏康も単独ではコテンパンにやられてたからなぁ。
信玄なんてライバルと言う風評だけど、謙信よりずっと多い軍勢で篭城とかってビビリまくりだしね。
城に篭ってやりすごせば、そのうち去っていく。
台風みたいな武将だよな謙信って。

5 :
当時、台風たる謙信をやり過ごすのは城に篭って時間を稼ぐしかなかった。
できれば小田原城みたいな巨大な城が良い。
信長が安土城を作ったのも謙信対策という説がある。

6 :
謙信に命乞いの為にケツを差し出した信玄
謙信に息子を差し出し臣従した氏康
謙信に媚を売りまくり謙信の威を借る狐の信長
クズしかいねーな

7 :
謙信は野戦が無敵すぎる
信玄は布施の戦い八幡の戦いで謙信と初めて戦い野戦で敵わぬことを悟り以後は調略に切り替えてる
氏康は寡兵の上杉先遣隊に苦戦し謙信に敵わぬと見て以降一度も野戦せず逃げ回った
氏治は地の利を生かして謙信を沼地に誘い込めば勝てると野戦挑み壊滅的打撃受けて居城捨てて逃げた
越中一揆は坂の上から数万の大軍で迎撃すれば有利だろうと謙信に野戦を挑み付近流れるびや川が一揆兵の血で真っ赤に染まる大敗を喫した
謙信には誰も敵わん

8 :
軍神謙信 一人で3万の北条倒した男 

9 :
一人で侵入 斥候しまくった男
そりゃ誰も勝てないわ

10 :
世界で史上一番一騎掛けした男
最強すぎる

11 :
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4_2.html
大軍なのに篭城でやり過ごそうとした孫子の具現者、武田信玄。
しかし、謙信は寡兵で敵地に奥深く入り込み絶対的不利な状況に身を置く。
信玄それを見て「もしかしたら勝てるんじゃん?」と台風に手を出してしまいコテンパンにノサレる。
上の動画は、もはや神領域の采配。さすが軍神、孫子の研究者たる海上智明が日本史で最も芸術的な戦いをする武将と推すのも理解できる。
海上曰く、信長では絶対に信玄には勝てない。
ましてや謙信とガチでやりあったらあっさり粉砕される。


12 :
北条でも潰されずに済んだから信長なら余裕。
要は信長から積極的に謙信に手を出さなければいい

13 :
まさに軍神な戦績ワロタ
謙信の負け戦ってどれくらいあるんだろうな
てか宗滴の爺なんかと一緒に一向ボコッたりしてたよね
マジあの辺に住んでたやつらは災難だったろうなぁ

14 :
43勝2敗25引き分けってのが一般的かな

15 :
北条が潰されずにすんだのは小田原城に篭るという基本を守ったから。
軍神と評される謙信も、あの国力では巨大な城を攻め落とすことは至難。
信長が謙信に負けない術は 
  1 自分からケンカを売らない
  2 謙信が攻めてきたら安土城に篭る
    (謙信除けのために安土城をつくった)
だね。

16 :
まあ謙信は勝っても自領にしないから武田や北条は真っ向から当たらず逃げてれば良かったからね
むしろ自領にしたりしてたら戦線は拡大するし、敵も本気で戦おうとするから、負け戦ももっと増えてたはず

17 :
16の言説は違うと思います
それでは属国を失います

18 :
>>14
そのソースは花ヶ崎という老化で脳が凝り固まった老害だから鵜呑みしちゃダメ
実際謙信本人が越後軍率いた戦いでは負けなし
この事実が謙信最強説の所以
他の有力大名の信長・信玄・元就・政宗・氏康は負け戦経験してる

19 :
>まあ謙信は勝っても自領にしないから武田や北条は真っ向から当たらず逃げてれば良かったからね
16の言説は違うと思います
それでは北条・武田は属国を失います

20 :
武田は基本的に属国ない(速攻で自領に呑み込む)し
北条は関東特有の事情はあれど結構な数の諸侯が上杉方へ回った

21 :
軍神・関東管領上杉謙信
戦が強く天下も狙えるのに敢えて室町幕府の為に戦った
謙信公は他の武将とは人間の器が違う。

22 :
謙信の前では信長すらひれ伏す戦の強さとカリスマ性。

23 :
混乱した世を修めるために秩序の為に戦った
  当時の秩序=室町幕府
だからね
謙信は他の武将と違った魅力がある

24 :
川中島の戦いで川中島一帯が武田領になったから信玄の勝ちという恥ずかしい意見あるが、これは無学による誤り
第三次川中島合戦で将軍足利義輝が謙信と信玄に和睦せよと命令した
義輝は謙信を関東管領に、信玄を信濃守護に任命してる
だから謙信は関東へ出兵するため川中島は放置するしか無かった

25 :
>24
あるね〜
っていうか、私も知らんかったw
秩序の命じゃ謙信は従うからね
そういうことだったんだ〜。

26 :
戦上手なら謙信より信玄だろ
にわかばかりだな

27 :
>26
信玄は最初にぼろぼろにされたから逃げの一手だったろ
釣りか?


28 :
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4.html
とりあえず第4回川中島戦いの動画でも見とけ
信玄は強い武将だが、軍神に手を出すと殺られるのを初戦で覚ったので、その後は戦うのを避けていた
孫子の体現者たる信玄は、その後は外交や謀略を仕掛けていたが戦いは逃げまくる
第4回は謙信が自身を絶対的不利な状況におく事で、信玄が「もしかしたら軍神に勝てるか?」と、つい出て行ってしまったのが運の尽き
副将を討たれ、信玄自身も討ち取られそうになる等の大ダメージを受けた

29 :
戦国最強武将の信玄公といい勝負できてよかったな謙信

30 :
>29
信玄が謙信に翻弄されているのが見て取れないかなぁ・・
信玄も当代一流の名将ではある。
信玄の凄さと性格が知りたければ↓をお勧めします。
信玄の戦争 (ベスト新書) 海上 知明
古今東西の戦史研究をしている人の本だが、小難しくなく面白くってすらすらっと読める


31 :
第4川中島で上杉の猛攻にも潰走しなかった武田は見事
あれが武田家以外なら間違いなく上杉の勝ちになってたはず

32 :
謙信の車懸りの陣は87式
マグネチュード2012だったおおおおおお

33 :
> マグネチュード
> マグネチュード
> マグネチュード
> マグネチュード
> マグネチュード

34 :
>>31
vs織田  目の前に上杉が現れた時点で川で溺れる
vs氏康  海津城に逃げこもうとして川で溺れる
vs盛氏  不明

35 :
神保長職って知ってる?
なかなか強い戦国大名なんだよ
越中富山城主で一向一揆と戦い、椎名康胤や斎藤氏を圧倒して越中最強だった
でも殆ど誰も知らない
なぜか?
謙信に秒殺されてザコ扱いされちゃってるから
たぶん浅井長政や村上義清レベルの武将
長職が弱いんじゃなくて謙信が強すぎるだけなのに可哀相

36 :
神保長職ってつよかったんだ
本当にザコキャラだと思ってた
トリビアです

37 :
いや村上は信濃の一番豊かな所を領有してたから15万石くらい領有してたし
善光寺が領内にあるわけで金もがっぽがっぽ。浅井も最盛期は20万石越えてた。
だけど神保さんはその点小領主だからなあ。
 
あと浅井長政と村上を一緒にしちゃだめだろ。浅井は相手が悪かっただけで
実際家康とかよりよほど有能だぞ。相手が人外の魔王だったけど。

38 :
浅井長政こそ相手が雑魚すぎただけだろ
なにせ斉藤・本願寺・北畠・長島一揆・赤井・朝倉滅亡寸前の六角・武田・上杉・毛利
どこと戦ってもいつも圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗・大苦戦・大損害。
家康がいなけりゃ2ヶ月くらいで瞬殺されてたのは間違いない

39 :
神保長職は最盛期に肥沃な越中の過半を支配したから1万の兵を動員できたようだ
そもそも越中守護代神保氏は越後守護代長尾氏とは父祖代々の宿敵
謙信の父は長職の父と幾度も戦ってる
長職は神通川の戦いで椎名康胤を破っており、謙信以外の武将が長職を倒すのは難しい

40 :
>>39 神保家って長尾家に一度滅ぼされてなかったっか?
謙信の親父の代からの長尾領が越中にあったはずだし
宿敵の椎名もいるし、そもそも一向宗が幅を利かせてたはずなのに
過半を制していたってマジか?

41 :
蘆名も東北最強の戦国大名だった。
落ちぶれても伊達政宗が苦戦するほど。

42 :
謙信様つかってカス信玄もちあげんな
完敗負け川中島した圧制者豚信玄を
デブううううううううううううううううううううううう

43 :
うるせーよ ホモデブ謙信んんんんんんんんんんんんんんんんんんん

44 :
後奈良天皇 将軍足利義輝 関白近衛前久 これだけの人間が謙信を認めてたんだから。
当時、どれだけ謙信に対する信頼があったかが伺える。実質室町幕府で実質No.2とは言え折角だから副将軍
も任命して貰えば良かったのに。天下の副将軍上杉謙信!

45 :
神保長職の父・慶宗は謙信の父・為景に激戦の末倒されてる
そして息子の長職が神保家を復活させた
もとは神保家の領土は越中の西半分だけだったのに長職は東半分を侵略して呑み込もうと椎名康胤を越中の東端・松倉城まで追い詰めた
同時に越中南端の斎藤氏も潰しに掛かってる
越中制覇目前だった長職が相当強かったのは間違いない

46 :
そしてその長職を一瞬で降伏させた謙信はやはり最強
北条氏康程度では長職に勝てなかっただろうな

47 :
越中守護代・松倉城主の椎名康胤も武勇に優れた戦国大名だぞ
越中守護代・富山城主の神保長職には劣勢だったが、後に謙信と敵対して善戦してる
越中三大山城の一つ、難攻不落の松倉城に立て篭もって謙信の大軍を手こずらせた
越中は中央部の神保と東部の椎名、そして西部の一向一揆の3強時代だった
最終的に一揆・神保・椎名が団結し越中連合軍として謙信と戦った
謙信は得意の野戦(尻垂坂の戦い)で一揆の大軍を撃破し主導権を握り、拠点・富山城を何度も奪還し、
越中三大山城(増山城・松倉城・守山城)を全て攻め落として越中制覇した
まさに軍神!!

48 :
電光石火とはこの事でしょうか

49 :
氏康や家康倒した信玄が謙信相手だと逃げ回るんだからな
最強だろ

50 :
野戦で謙信が後手にまわる事はあったのかな?
もし無ければやはり、籠城もしくは逃げるが勝ちって考えに至るのはしょうがないよね

51 :
なんていうか、崇高な哲学者である謙信が戦国期最強ってのもすばらしいな

52 :
信玄と謙信
どちらがいなければ、歴史は大きく変わっていただろうな

53 :
確かに 信長のとなりに謙信がいたら信長なんて一瞬で死んでたろうし

54 :
信長なんて元親・政宗・宗麟レベルでも隣にいたら瞬殺されるレベルでしかないのは
幼君龍興に糞みたいに醜態さらしてる事から丸分かり

55 :
そんな信長が信玄謙信の4倍以上の最大勢力を持った皮肉。
なぜか認めようとしない一部の人がいるけど

56 :
手取り川で武田を破った織田があっさり謙信に負けて逃げ帰ったもんな。
あの北条までも上洛するなら兵を出すから使ってくれと言ってくる程謙信の強さはすごい。
あのまま死なず信長と全面対決見たかった。

57 :
信長なんて一時まぐれとラッキーで畿内制しただけ
まぐれと運だけの勝ちだからすぐ殺され崩壊した

58 :
>56
信長は安土城に引き篭もって謙信をやりすごすしかないだろうね
そのために安土城をつくったのだし「北条流」


59 :
信長は強い戦国大名に一度も勝ってないザコ
義元:1545年の狐橋の戦い以来、15年間一度も軍を指揮したことのない無能
竜興:女と酒に溺れたダメ男
義景:姉川の戦いに出てこないKY
長政:部下に裏切られ続けた人望ゼロ君
勝頼:同盟相手の北条を敵に回した外交能力ゼロ野郎


60 :
信玄出るまでもなく秋山・馬場あたりだけで蹴りがつきそうだ
何せ相手は幼君義龍・餓死寸前の長島一向一揆・滅亡寸前の六角にまで大敗した雑魚織田軍

61 :
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)

62 :
だがのねつ造手法まとめ
だがの捏造で使われる手法は主に3つ
・史料、文献そのもの、あるいは解釈の捏造
参考史料を引っ張ってきて文語や文章を変えて記述するという手法。主にだがの拙い誤読力がその支えになっていることが多い。
例えば『「織田信長はもうすぐ滅びるだろう」と信長と対立した足利義昭は考えていた』という文章があったとすると、
だがは『「織田信長はもうすぐ滅びるだろう」と広く日本では言われていた』と脳内変換して記す。行動の主語や対象の述語が入れ替わっていることが多い。
武田家と織田家の史料を使うときはもっぱらこれを使用している。文献の際は学者の名前を変えたり主張を変えるという名誉棄損ギリギリの行為もやっている。

・史料におけるご都合選択
信頼すべき史料と、信頼に値しない駄史料と両極端にわけ、片方の言い分を完全に鵜呑みにすること。
例えばAの史料では「織田は古今無双」と書かれ、Bの史料では「武田こそ天下一の武勇」と書かれていたとすると、
だがはAの史料を即座にあの手この手で捏造史料扱いし、Bの史料を何のためらいもなく信用する。
主に姉川合戦など「徳川のおかげで織田は助けられていた」という江戸時代の徳川史観に基づくことが多く、
徳川家など武田以外の第三者家と織田家の関係を提唱する時にだがが好んでよく使う手法。
なお、姉川合戦の史料は主なもので3つあり、
「信長家康両方とも苦戦はなかった」とする信長書状
「信長家康両方とも苦戦はしたが稲葉一鉄(織田家臣)と徳川旗本の善戦で迎撃快勝」とする当代記
「信長のみ苦戦したが徳川家康が朝倉義景を倒したおかげで快勝した」とする三河物語がある。

・コピペ爆撃
だがの用いる最終手段。20行以上にわたるコピペを爆撃してスレから住民を排除したりスレを妨害したりする。
とにかく内容を支離滅裂にして自分の捏造がバレた時の隠ぺい手段や、気に入らない武将のスレを荒らして雑談の流れを阻害したりする。
20行以上のレスが10個以上並ぶこともあるため、興味のない人はまず見ないであろうと言うことでもある。
なお、コピペ内容の8割は前述した2つの手法による捏造内容である。

備考:自演
たまにやらかす。自分で痛い相手の信者のフリをして、そこに自分が言い分を叩きつけることで間接的に他の連中を騙させたり
「この家の信者はこんな痛いこと言ってらw」と馬鹿にするためのパフォーマンスとして使う。
しかしID管理が杜撰なためしばしばバレる。1度や2度ではなく複数回はバレている。「こいつちょっと空気違うくね?」
そう思ったらだがの1人2役を疑おう

63 :
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

64 :
と、一次史料の当代記を根拠なく否定し、
当時10歳の大久保が書いた三河物語を崇拝するのがだがのやり方である

65 :
当代記の信長関連の記事は太田牛一公記や甫庵信長記のトレース部分が非常に多いから
信長関連の記述は基本的に役に立たない。
また同じ一次資料の松平記ではしっかりその記述がなされている

66 :
撰者不明で江戸時代以降に成立した松平記が一次史料w

67 :
撰者不明で江戸時代以降に成立した松平記が一次史料wwww

68 :
著者不明で江戸期以降に成立?
当代記だってそうだけど一次資料というか重要史料として見られてますが?
太田公記みたいな妄想軍記でも
一次資料扱いされるんだから三河物語や松平記も史料価値あって当たり前

69 :
信長>秀吉>家康>>>>信玄>謙信()
3傑にはもちろん信玄にも勝ててねーしw
政宗とどっこいのイナカ大名
井の中の蛙って言葉がよく似合うw

70 :
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4.html
第4次川中島戦いだがホレボレする采配だなぁ
こうやって戦場での動きを判り易く紹介してくれるって面白いよね
かつてNHKでそんな番組やってたが、気づいて数回見たら終わったっけ

71 :
信長が八幡原にいたら敦盛舞ってその場で切腹して火をかけそう

72 :
>>69
謙信攻め込む→信玄城に逃げ込む
謙信にどうせよと
例:
第一次川中島合戦:信玄塩田城に引き篭る
第二次川中島合戦:犀川を城の堀代わりに守り一辺倒
第三次川中島合戦:信玄深志城に引き篭る
第四次川中島合戦:信玄海津城に引き篭る。城から出たら副将・重臣多数討ち取られて涙目。
第五次川中島合戦:信玄塩崎城に引き篭る
信玄が謙信に歯が立たないこれだけの実績

73 :
謙信最強は微塵も揺るがないな
他の戦国大名を推す人が変なレスしているのが気の毒すぎ


74 :
>>73
謙信って弱い敵としか戦ってないからなあ。

75 :
確かにそうだな
織田雑魚長とか

76 :
兵数で劣るのにもかかわらず武田相手に堂々攻め込むようなキチガイ軍団に勝てるわけがないw

77 :
>>74
強い武将って誰?
まさか李舜臣?

78 :
森長可

79 :
森長可って武田滅亡後北信で景勝にボコられて長沼城奪われた雑魚じゃん
公記では例のごとくデタラメ書かれてたけど。
羽黒や長久手でも大敗したし

80 :
>>74
謙信の対戦相手は強敵揃いだが
武田信玄
北条氏康
織田信長
長続連
神保長職
椎名康胤
佐野昌綱
蘆名盛氏
結城晴朝
越中一揆

81 :
これで無敗だから信じられんくらい強い

82 :
>>80
織田信長とは戦ってないよ。
さりげなくリストの目立たないところに加えないで。
織田軍を除けば近代的軍隊じゃなくて山賊に毛が生えたようなのや烏合の衆、一揆相手じゃん。
謙信に限らす統一的指揮があれば負け様のない相手。
でも、その謙信が鍛えた越後兵も織田の斎藤利治や森長可相手では鎧袖一触だったよ。
所詮は田舎大名、鳥なき里の蝙蝠に過ぎない。
諸侯軍の連立で統一性の欠けた徳川が武田に苦戦したから、徳川への配慮で武田の強さが
粉飾され反射的に謙信も強い武将に祭り上げられてしまっただけだから。

83 :
越後兵は強いのだろうが、謙信という神がかった存在に他の列強は恐怖していたんだろう。
織田オールスターが粉砕されている現実があるだろうし、信長は最初から富んだ国の領主で物量に任せて繰り返し力攻めしていただけだろ、

84 :
>>83
手取川の戦いの存在自体疑問視されてるし、あったとしても雑兵同士の小競り合い程度。
上杉を最大限評価する人も織田の将は打ちとっていないとしている。

85 :
>>83 だがか?
そもそも上杉って信玄との信濃争奪戦で信玄に信濃を奪われて
北条との関東争奪で関東を北条に奪われただけ。
あと大大名クラスは芦名だけだけどこれはいわゆる防衛戦争だし
あとは椎名、神保、一向宗が好き勝手争っていて統一勢力の存在してなかった
越中と相次ぐ内紛で弱りきっていた上に当主が死んで混乱状態だった
能登畠山を家臣同士の内紛に乗じて討っただけじゃん。
手取川は捏造だし宇喜多や元親のほうがよほど名将だと思うがな。

86 :
>>82
>でも、その謙信が鍛えた越後兵も織田の斎藤利治や森長可相手では鎧袖一触だったよ
信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらいだもんなあ
当時の芋川は武田配下で上杉配下じゃねーから。
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
芋川一揆が書かれてるのは公記以外でいうと惣見記とか江戸期の軍記しかないからなぁ。
大体滝川が上野から三国峠を越えて攻めてったら上杉方のカラス組奇襲隊に大敗して撃退されたとかも軍記ソースだから全く史実扱いされてないのに
芋川一揆やら二本木侵攻のみを史実扱いするのは無理がある
はいはいデタラメ乙
天神山で織田と戦ってないのになんで質的優位とか語れるんだよアホすぎ。
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw
月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw
いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www

87 :
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。

88 :
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。

89 :
うわぁ また織田厨が壮絶に虐殺されてる・・・

90 :
>88
わかりやすい
謙信の最強っぷりは微塵も揺るがないな
孫子研究家の海上氏の「信玄の戦争」は信玄を知る為の秀逸の書として評価が高いが、謙信の最強っぷりも紹介されている。
逆に軍神謙信とそこそこ戦う事が出来た信玄という武将が褒められるべきなのだろうな


91 :
当時の一般常識
>甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞

92 :
当時の兵の強さをうたったもので
一に上杉、二に武田、北条今川負けず劣らず
てのもある
逆に織田家は負け戦こそあるものの、あそこまで戦闘集団になった所は凄いと思うわ

93 :
上杉と武田が一番強い、と言われている割には
雑魚兵の織田すら倒せないと言うのはなんとも

94 :
織田なんて瞬殺したじゃん
手取川・上村・東美濃攻防・三方が原。

95 :
やはり生涯、男色一筋で通したから強いんだナッ!!!



96 :
>>94
どれ1つとして信長出てないじゃん。釣りか?

97 :
手取川に信長来てないとするとどこにいたのかという話になるな
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる

98 :
後公記引用ありで語るなら軍艦の引用もあり
当然東美濃攻防は信長&圧倒的大軍も来てたと言う事になる

99 :
8月10日に柴田勝家が柴山長次郎宛て書状で勝家が信長から仕儀を任されているってあるんだが・・・
そもそも援軍にそんなに武将出てないじゃん。信長公記ですらそんなに明記してない。
柴田前田佐々不破は全員越前領だし丹羽秀吉は近江領。明智も佐久間も信忠も細川も堀もいない、
とりあえず暇な奴は能登の救援にいけー臭しかしない。

100 :
信長は謙信が怖くて出陣しなかったんでね?

101 :
 
「本能寺の変」で信長にはモザンビーク人が
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/4/127_3.html
既に、アフリカ人が日本社会に溶け込んでいた。
 

102 :
立花京子の「信長と十字架」はトンデモなんでしょうかね?

103 :
織田オールスター  → 謙信を見た瞬間川で溺れる
凄い軍神っぷりだなぁ
謙信最強は揺るがない
謙信は強いだけじゃなくて一流の禅僧・文化人でもあり秩序の為に戦っているから凄く魅力がある
アメリカ的な欲望社会に移っている今の日本で、もっと注目されるべき武将だな。

104 :
洛中洛外図を贈ってくれた織田をぼこった上杉

105 :
謙信一人のせいで強大な領土を持っていた織田家がしっちゃかめっちゃかになったんだな。
まぁ信玄ですら野戦を避けまくったのにぶつかってしまった織田家が運の尽き。
さすが軍神。

106 :
川でおぼれたのは謙信のせいじゃなくて川のせいだろw

107 :
謙信が手取り川で織田軍を破ったから、謙信が上洛したら信長が扇一本腰に挿し京都を案内しましょう。
信長は西国、謙信は東国を治めては如何でしょうか。って書状を送ってきた話は捏造なのかな?

108 :
>>100
信長の存在は謙信の勘違いって事になってるけど、謙信書状では明確に「信長」って名指しされてるよね、
大将が誰かなんて、そんな事は捕虜が出来ればわかるだろうし、戦いの後に川を挟んでにらめっこしたのにまだ気が付かないなんて、
謙信ともあろう者がそんな事あり得るかね?

109 :
のぶなが直参部隊も手取り川にさんかしているから信長がいたというのは説得力ある話だね

110 :
信長は出陣したけどあの場にはいなかったはず。到着する前に決着が
着いていたと思うが?

111 :
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。

112 :
太田の文章の癖から歴史的事実を明らかにするってかっこいいな
証拠隠滅しようとバレバレっていう 

113 :
ただ、織田の名だたる将の戦士の記録は一切ないからなあ。
1000人も討取るような戦闘があったにしては不自然過ぎる。
やはり渡河中に事故があって織田の雑兵が数十人単位で溺死したのを
上杉方の戦果として針小棒大に伝えたものだろう。

114 :
最強は別に異論は無いが、
当人が居ないところで、コツコツ優位を稼げばなんとかなる、と言うのが、
戦争と戦闘の強さの違いみたいで実に面白い。

115 :
途中で戦死するような奴は名前が残らないというだけの話だろう
三方が原も徳川方は幹部クラス以下有力武将が相当数戦死してるけど全然無名だしな

116 :
>>115
織田の記録は有力武将の討ち死にでも記してるよ。
その正直な織田の記録に何もないのは不自然すぎるんだよ。

117 :
>>116 本隊じゃなくて先遣隊だからね。

118 :
>織田の記録は有力武将の討ち死にでも記してるよ
織田の記録って信長マンセー公記の事か?
姉川での坂井久蔵戦死死や長篠での前田負傷を隠蔽してる記録のどこが正直なの?

119 :
>113
謙信敗北後に織田軍の活動が明らかに鈍っているし織田領域内でも混乱が起こっている

120 :
そもそも織田の記録になくても上杉の記録見たら一発でわかるだろ。
織田は隠ぺいしている可能性がどうしてもつきまとうが、
上杉は織田の敵国なんだから隠ぺいする可能性がゼロ。むしろ勝利を伝えるために
織田の有力武将を討ち取ったのならガンガン公表するはず。
その上杉でも討死報告がないんだから織田の有力武将で死んだ奴はおらんってことだろ。


121 :
織田は敗軍側だから隠ぺいしている、ね

122 :
まじめに戦う奴がいないから死なないんだよ

123 :
ハナから戦う気ありませんでした、じゃそれ戦いって言わないだろ。

124 :
戦意喪失で敗走しましたですね わかります

125 :
それなら納得がいくけど、その戦いっぷりだと大犠牲なんて出なくね?
「戦わずして勝つなんて謙信公凄い」って理屈はわからんでもないが、
「織田に大犠牲を出したから謙信公凄い」って理屈はちょっと無理があるだろ

126 :
上杉側で1000織田兵戦死してるって書いてるのになぜ犠牲ないとか妄想してんだ
そもそも名のある武将討ち取ったどうこう書状類で書かないケースって一杯あるだろ
長篠でも信長書状で討ち取った武将一人一人名を書いてたか?
武士なんて無数に存在するんだから一々そんな事かくなんて無理

127 :
>>126 一人一人書くことと一人も書かない事ではわけが違う。
大体上杉は手取川の戦績はむしろ誇示してるし、戦国期に多少の資料の不備が
あったとしても対武田と違って対上杉の北陸戦線は徳川ノータッチなんだから
江戸期にいくらでも修正しようがある。まして武田と違って江戸期での
大名としての格は織田より上杉の方が上なんだから。

128 :
なら長篠での戦死武将も信長書状には書いてないから0でいいな
手取川の戦績を誇示してるというソースは何?
後、下3行は何がいいたいのか意味不明

129 :
織田厨だな徳川史観とかいって徳川をいつもディスってんのは?
家康は同盟を裏切らなかったから信長はいい奴!とかさんざん利用しといてこのザマとはw

130 :
長篠の場合は書状以外の史料からこんだけ討死したってのが織田方、武田方の史料にあるからだろ。
直接合戦に関する書状になくても例えばある合戦を境に発給書状や名前がパッタリ途絶えて
「この合戦前後に死んだのでは」と容易に推測ができて疑似戦死orその前後に病死だと判定される武将もいる。
手取川の戦死者を明確に示したいんならそこから出さなきゃ話にならん。
出なくばどんな史料にもよらない「妄想」と断定されるのみ。
織田方の有名武将で手取川を境に足跡が消えた武将とかがいるんならそいつは手取川で死んだということになるな。そんな奴いたかな?

131 :
参考:手取川における史料
上杉氏:歴代古案にある謙信書状から言及できる
   上杉方で確認できる武将は上杉謙信、山浦国清、斎藤朝信ほか能登衆の温井景隆の名前がある
長氏:長家家譜にて北陸模様が書かれているがかなりざっくりとした書かれていない。
   手取川の記述はもちろんない
織田氏:複数の史料から北陸の動きが書かれているが手取川には言及せず。
    柴山長次郎、水越左馬助(のち上杉に寝返った)に柴田勝家、織田信長が書状を宛てている。
    信長公記によるとこの時出陣した武将は柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、氏家直昌(氏家左京亮、卜全息子)、
    安藤守就(伊賀伊賀守)、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近とある。

132 :
まあ手取川の流れってつまり、
信玄のせいで越中の武士や一揆が俺に逆らってくるぞ。もうこの際領国化しちゃえ。
→越中にかまけてる間に武蔵以南の全ての拠点を失った上に下野や
常陸の佐竹みたいな北関東の諸大名にも離反されたぞ。しかも上野南部の北条の
城まで落とせなくなったぞ。もう関東維持できないや。北信濃も完全に武田方だし。
→でも信玄が死んだから越中にちょっかい勢力がいなくなった。
越中取るなら今だぞ。→中央で信長が順調に勢力を伸ばしてるらしくて
一向宗の親玉が泣きついてきた。これでますます北陸が取りやすくなった。
このまま行けるとこまで行ってやろう。

133 :
越中の次は能登だ。あそこの国主の畠山氏は名門だけど内部で権力闘争と
当主の夭折で当主の交代が相次いでメチャ弱体化してる上に当主はまだ
10歳の子供だ。楽勝だろう。
→畠山自体はそんなに強くないけど七尾城固すぎだろ。こらちょっとヤバイかも。
でもここまで来たらひくにひけないし。ここまで謙信視点。

134 :
おや?あそこにいるのは織田じゃないか ちょっと挨拶しといてやるか
あれあれ?なに逃げ惑ってんのちょっと待てよこら待てったらきゃははうふふ
ありゃりゃのびちゃったw 思ったより弱いなこりゃ京まで一気だなpgr

135 :
こっから長視点。
おい謙信攻めてきやがった。しかもちょっと反撃したら本気でぶち切れてる。
これはやばい→しかも城内で疫病流行だしがった。何とか持ってくれよ。
→あれ?疫病で俺が擁立している当主の春王丸君死んじゃった。
まだ10歳じゃん。マジかよ。これはもう能登での独立とか無理だわ。
でもこのまま上杉に降ると俺の命もヤバイし。→そうだ。中央最大の実力者の
信長さんに助けてもらおう。日ごろから仲良いんだ。
→あれ春王丸が死んでから家中での俺の立場まずい。みんなが俺を冷たいで
見てくる。これは命の危機かも。信長さん早く来て。ここまで長視点。

136 :
こっから信長視点。
畠山が助け求めてきた。何々能登の上杉の数は2万ちょっとだと?
長秀俺の本隊って今どれくらいいたっけ?3万か。
勝家の配下ってどれくらいいたっけ?何1万8千?合わせたら上杉の倍以上じゃん。
しかも城に篭ってる畠山軍は味方だし。これ普通に長篠の再現できるんじゃね?
→しかも無条件で能登一国も手に入るしメッチャおいしい話じゃん。
→でも城の中で疫病流行ったりして今にも落ちそうらしいから勝家お前先行け。
急げよ。俺もすぐに駆けつけるから。ここまで信長視点。

137 :
こっから勝家視点。全軍で転進とかきついんだけど。しかも能登遠いし
敵地も通るから急げって言われても進軍に時間が…。→しかもなんか秀吉まで
来ちゃったよ。うぜーな。俺あいつ嫌いなんだよ。
→あいつ勝手に帰りやがったウゼー。
→途中色々あって大変だったけどなんとか到着したぜ。
→あれ七尾城なんか様子おかしくね?

138 :
七尾城もう落城してるよ。マジで?これヤバくない。このままだと
壊滅だよ。すぐに撤退だ。ここまで勝家視点
こっから再度謙信視点。
七尾城固すぎ。力攻めじゃ落とせないけど俺調略とか苦手だし、
しかも信長が介入するとかで一時はどうなるかと思ったけど
春王丸病死とか俺マジラッキー→しかもそのおかげで城内のパワーバランスが
崩れてあのうざい長続連も死んだ。一時はどうなることかと思ったが。
最後は能登畠山自爆しやがった。
→しかも今頃勝家来たよ。おせーんだよ。先遣隊で兵数も少ないし壊滅させてやるぜ。
→ん?雨か?こんな日は相手の動きがわからんな。こういう時こそ撤退しようとするんじゃね?
よっしゃ夜襲を掛けろ。


139 :
増水する川がなければ崩れる織田軍をどんどん追撃して朝倉みたいに滅ぼせたんじゃね?
運が良かったな織田は

140 :
こっから信長視点。
予想外に七尾城の陥落が早かったな。長ももうちょっと粘れよな。
とんだ無駄骨だったぜ。なに勝家撤退中に夜襲を受けた?
→それで損害は一般兵千人?武将クラスは無しか。
→まあ金なら腐るほどあるから兵卒千人くらいならすぐに穴埋めできるだろ。
武将クラスは全員無事だし、能登は元々俺の領土じゃないしな。
上杉に奪われたのはしゃくだし、今回は上杉を叩く最大の好機だったけど
しょうがない。まあこれ以上上杉が南進して来たらダイレクトに俺の領土だし
その時大軍で叩けば良いか。

141 :
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。

142 :
>>139 信長本人がその場にいないのに?出来るわけないだろ。
続き まあ良い。今回は勝家、秀吉お前達の失点は不問にしてやる。
だが秀吉特にお前は毛利攻略わかってんだろうな?
最後謙信視点 あの信長から能登掠め取ってやったぜ。俺tuee。
でもこれからどうすんだ?これ以上南進したら信長と完全衝突じゃん。
戦じゃ負ける気しないけど物量が…。あいつ国力俺の3倍以上軽くないか?
下手に攻めていくとあの大軍の餌食に…。
そうだ。北条だ。俺も数年前より随分勢力拡大したし、奪った領地の領国化の
コツもわかった。いまこそ全軍で関東に出陣して豊かな関東平野奪ってやるぜ。
織田との本格的な対戦はその後だ。
→そうと決まれば準備だ準備。雪が解けたら出陣じてやるぜ。
あれ何か体調がおかしいぞ?完

143 :
織田厨必死ダナw

144 :
結局上杉方の史料すら出せないだがであった

145 :
北徴遺文感状があるじゃん

146 :
まあいずれにせよ上杉方の史料にもあの場に信長本人がいたなんて一行もないわけで
完全にだがの妄想なんだがな。そんなに信長に完勝したならそのまま上洛すれば良いのに
なぜかほぼ拠点を失った関東に出兵しようするし意味不明。

147 :
あれは堀才助の戦功を褒めたものじゃん。
当然織田の戦死者に言及してすらいない

148 :
信長の負け戦を隠したくて必死やなw

149 :
そもそも信長は謙信に贈り物をして機嫌をとってたのになんで戦線が接する事になる越中に来たんだ?

150 :
謙信も怒っただろうな いつも土下座してるくせにコソコソ自分に刃向かおうとするんだから
逆鱗に触れてズタボロにされたのが手取り川だな

151 :
ズタボロにしたと言いながら誰も有名武将の戦死者がいない織田軍ww

152 :
>>149
信長にしてみれば家畜に餌をやる程度の感覚だろ。
生かしておくメリットが無くなればいつでも屠殺できるのだから。

153 :
織田厨から見ると>>132ってどうなの?

154 :
手取川に織田方有名武将の戦死がいないのは信長の
斉藤や長島・六角攻略に敵方の有名武将戦死がいないのと似たようなもんだろ
ただ無名な奴が死んで有名な武将は敗走したから生きながらえただけ

155 :
六角・斉藤は有名ではないが武将は死んでる。
手取川はそもそも有名無名に関わらず武将自体死んだ形跡がない。
次そこまで言うなら手取川で誰か死んだと言うソースは?

156 :
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では
太田に金を払って書いてもらえなかっただろうから
そういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかで
ぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。
これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって
池田家に献上してるしw
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw

157 :
さて、まだ手取川に信長がいなかったと証明できないのかねwww

158 :
>>156 >>157 通説ではいなかった事になってるのに居たというなら
それはあんたが証明しなくちゃならない。
更に言うとあんたいつも大久保の三河物語で姉川の徳川での活躍が
書いてあるから織田は徳川のおかげで勝っただけといつも言ってるのに
今回は大久保は信用できないと?都合良すぎだろ。

159 :
えっ?通説www
そんな通説は知らんぞwww
勝手に通説とか痛いwww

160 :
大久保が信用できない????
なんだ日本語あ不自由なチョン様でしたかwww

161 :
姉川は例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
上記のように根拠もあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる

162 :
信玄が野田城の笛におびきよせられて狙撃されたなんていう説を書いてある松平記を信用し、
挙句歴史学者を問答無用で馬鹿にしだすアスペだがw
>>154
無名武将の死とか大犠牲とは言わない。
無名だろうが有名だろうが信長直臣の家臣なら大体の連中は名前なんて知れ渡っているから
手取川で死んだことがわかったらどこかに漏れる。上杉が戦果を公表しない理由もない。
端役の死を差して大敗北なんて言うのは通例ではない。
まあアスペのだがに日本語が通じるとは思えんがw

163 :
日本語でおk

164 :
松平記の成立は比較的早く史料的にもそれなりに用いられている
織田なんてアホみたいに家臣が多いから姉川での坂井久蔵戦死とか
三方が原の無名ながらも徳川の重臣連中こぞって戦死(長篠級の損害)みたいに
隠蔽されてるか歴史から葬りさられただけだろう

165 :
歴史から葬り去られる程度の人間しか死んでないのに大犠牲かw

166 :
京童にも歌われるドブ長w

167 :
上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長
という落首の初見は1917年の布施秀治の自著なんだがw
しかも布施本人は手取川を「名取川」と誤って読んでいて
これがそのまま手取川の古戦場に刻まれている。
大正時代にできた本をソースにして妄想を語らないといけないというのはさすがに哀れw

168 :
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗

なるほど、常識的に考えればそうだよね

169 :
情報戦略として七尾落城の有無くらいは直ぐに判るようにしとくのが当然じゃないのかなぁ。
信長ってそんなにアホなのか?
違うと思うけど。
やっぱり知っていて謙信と交戦に行ったと見るべきだろうな。

170 :
そもそもなぜかだがは認めようとしないのだが、
「上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていて、織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退」
というのは信長公記じゃなくて歴代古案の方なんだけどなw

信長公記だと勝家をはじめ織田諸将が進軍→秀吉勝手に帰陣で信長激怒 しか書いてないから
手取川の考察そのものをするんなら信長公記はほとんど使えない。
まあ手取川を知る唯一無二の手掛かりと言ってもいい上杉方の史料を
織田をこき下ろしたいがためにだががあの手この手で否定して、手取川そのものをなくすようなことにしているのはむしろ滑稽ともいえるけど

171 :
参考:手取川における史料
上杉氏:歴代古案にある謙信書状から言及できる
   上杉方で確認できる武将は上杉謙信、山浦国清、斎藤朝信ほか能登衆の温井景隆の名前がある
   内容は大まかに言うと「上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていて、織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退。
   謙信が追撃をかけ、川の増水のせいで溺死者がでる。千人ばかり討取り」とある。なお狂歌に関しての記述はない。
長氏:長家家譜にて北陸模様が書かれているがかなりざっくりとした書かれていない。
   手取川の記述はもちろんない
織田氏:複数の史料から北陸の動きが書かれているが手取川には言及せず。
    柴山長次郎、水越左馬助(のち上杉に寝返った)に柴田勝家、織田信長が書状を宛てている。
    信長公記によるとこの時出陣した武将は柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、氏家直昌(氏家左京亮、卜全息子)、
    安藤守就(伊賀伊賀守)、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近とある。

172 :
「織田信長はそれを知らず」←これは謙信の主観であって
実際の信長は丹羽長秀書状の記述から知っていたわけだろ。
そりゃあそうだ。知らないまま妄進するバカ軍隊なんていないだろ。

173 :
>>172
そうなると話がつながらなくなる。
歴代古案の手取川をおおまかにまとめると
・上杉謙信が17日まで加賀能登国境付近まで軍事行動
・織田信長が18日に加賀湊川(手取川)まできて陣取り
・織田信長が23日に謙信後詰が迫っていると聞き慌てて撤退、謙信に追撃をかけられ云々
とあり、仮に信長が能登七尾城が落ちていたことを事前に知っていたとするなら行動が合わなくなる。
当初は七尾城救援で軍を出していたので、七尾城が落ちてもなお進んだというのなら、目的は
「七尾城の再度奪還」と「上杉軍の撃退」であり、「上杉謙信が迫ってきたから慌てて撤退した」という歴代古案と矛盾する。
つまりだがさんは信長公記を捏造だと言って手取川の合戦はあったと主張していながら、
一方で手取川唯一の史料である歴代古案の記述を丹羽長秀との書状も用いて丸丸否定したことになる。相反する2つの主張をしている。

174 :
決戦するために渡河して北上したが
上杉軍の精強さの情報が次々に入り
軍が恐慌状態になり
瓦解し始めたのを
謙信が逃げ始めたと誤解しただけだろ。

175 :
上杉と決戦に向かった信長軍が戦う前に逃げ出して大敗したってことね

176 :
>>174
来てもないのに情報が入っただけで逃げるくらいから最初から戦うなんてことしねーからw
ただえさえ当初の目的である上杉に攻められている七尾城救援の時点で上杉軍と戦うなんてのは想定済みで
「上杉謙信が怖かった」なんて言ってたらハナから能登畠山の救援なんて拒否って終わる

177 :
つまり七尾を取り戻しに行った信長軍を完膚なきまでに謙信が叩きのめして恐慌状態で背水の陣にも関わらず後ろに逃げだし大量に溺れてしまったと。

178 :
手取川があったと明記しているのは歴代古案だけ
歴代古案では「謙信後詰に慌てた退却中の織田軍を追撃した」と明記
しかし織田家の書状では「七尾城が落ちている」ことを信長は知っていた。
七尾城を取り戻しにいた織田軍が手取川で戦ったというのはどこにも書かれていないw
七尾城が落ちたことを知っていた織田軍がそのまま引き返したか
七尾城が落ちたことを知らずに進んだ織田軍が謙信後詰に慌てて手取川を引き起こしたか
どっちかだよw

179 :
加賀の勢力図が大きく塗り替えられたのに
軍事決戦がなかったとするのは不自然。

180 :
>>179 お前いつもあれだけソースソース言ってるくせに否定されると
自分の妄想言い出した挙句願望かよw。
そもそも加賀は100年も百姓の持ちたる国だった上にまだ一揆が解体されおらず
その一揆がばりばりの反織田なんだからその辺は普通の国と色々違ってもしょうがない。
だけど南部は信長が押さえてるし別にそこまで酷い状況だったとは思えないが。

181 :
なんかいつの間にか謙信と信長のスレになってるなwまあ合戦では謙信の方が間違いなく強いけど、信長は1回や2回の負けじゃ別に困らんくらいの兵がいるだろ

182 :
最強が謙信なのは揺るがないな

183 :
>>181 だって謙信の活躍を精査していくと(俺はアンチじゃない)
vs信玄まともな戦闘は第4次川中島のみ。結果は戦術的には完勝とは言えず
判定勝ちくらい。あとは基本的に小競り合いと
にらみ合いのみ。戦略的には所有を争っていた北信濃は結局武田領に。
ついでに西上野も何故か武田領に。
vs北条 一時は鎌倉に滞在し、北条の本拠地小田原城を落城寸前まで追い込むも
ミスが相次ぎ武田の介入もあって最後は群馬4割という悲惨な状況に。
戦術的は勝ち戦ばかりだけど戦略的にまず過ぎて惨めのレベルに。
vs盛氏 戦略的にも戦術的にも珍しく完勝。だけど基本防衛戦だから領土には
あまり影響なし。庄内地方にほんの少し領土を得た程度。
であとは統一勢力がおらずそれぞれ好き勝手に争っていた越中の3勢力(神保椎名一向宗)と
弱体化し切っていた上に本拠地に篭城中に当主が病死しちゃった能登畠山を
更に城内の政変でようやく落城させた程度。
だからやっぱり一番議論になるのが織田から越中掠め取ってやったぜになるのは
しょうがない。

184 :
私も謙信公について4年前はそのレベルだった
精進なされい

185 :
天下を取るのは小事なり。背筋を伸ばして義を貫く方が立派である。
他の武将とは器が違う。あの戦国時代に、しかも天下も取れる位置に居たのに。
すごい人だ。正に武人の鑑だ。

186 :
織田が相手では天下は取れない。
織田の戦力は何回負けても補充可能、上杉は一度でも負けたらジリ貧になる。
いかな上杉謙信が天才でも未来永劫勝ち続けることはできない。

187 :
武田にも言えることだが織田の自滅待ちになってしまっているのが辛いよな

188 :
>>186
兵農分離した織田と違い上杉家の兵は田植えや収穫期も戦えないのは痛いな
合戦での謙信最強は認めるが、同時に四方に部隊を展開して戦える織田家の軍事力も特筆物

189 :
上杉謙信なんてナポレオンの下位互換って感じしかしないがな。

190 :
上杉謙信を語るのに「天下は獲れない」なんて言葉が出てくると引くなぁ。
>188
兵農分離してないから農閑期以外は戦えないというのは小説家が作った虚構ですよ。
実際に植えすぎも武田もバンバン戦ってますし。
>186
国内大混乱になってますが・・

191 :
>>190
合戦中に収穫期になって部下の兵が陣を払って越後に帰るという事もあって、不利は不利かと
186の「天下は〜」のくだりは確かに間違ってますね

192 :
またいつもの織田厨の兵農分離のデタラメかw
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/22

193 :
でも実際天下は無理だと思う
どこぞの大内某と同じように幕府朝廷に良いようにRり尽くされて国許乱れたら捨てられて
お終いでしょう
それを天下を取ったと言うなら天下人も可能だろうが

194 :
武田にしろ上杉にしろ「織田を倒せれば」と思ってる時点でダメだからな。
はっきり言ってしまえば信長は全盛期の本能寺直前ですら日本の半分〜3分の2くらいの領地しかない。
武田上杉と抗争していた時期とか信長でも巨大な地盤はなく、織田を倒す=天下人というのは甚だ暴論。
信長倒してもさらなる混乱を招くだけで天下と言うのは夢のまた夢で
仮にそうだとしたら秀吉は1585年の時点で天下統一とすら言える。

195 :
織田を倒すのは必要な条件。
でも、上杉と織田では第二次大戦前の日本とアメリカ以上の経済力、技術力の格差がある。

196 :
>195
当時世界経済の半分を握っていたアメリカなんだけど・・
それとゲームじゃないんだから、織田の領域が広い=日本とアメリカとされるのもどうかと思うよ。

197 :
>>195
そんなに織田強くないよ。
毛利と上杉が同盟してて、織田の領域内にも謀反フラグが多数立ってる。

198 :
織田は無理な拡張で自滅した典型的な駄目モデルだと思うんだけど。

199 :
>193
別に戦国期の領主全てが天下の覇権を狙っていたわけじゃないぜ
子供っぽいからやめなさい

200 :
6 名前:陽気な名無しさん
罪深い異性愛の泥沼を抜け出して
立派な一人前のゲイになるよう精進致しま〜す。
             羽鳥慎一









201 :
織田はアメリカ!(嘲笑)

202 :
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

203 :
戦国時代を平定した秀吉から一部抜粋
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない つかできない。
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
> この問題の解決は秀吉の課題となる。

204 :
織田厨の大ウソ「信玄晩年には黒川金山が枯渇したので財政破綻」
枯渇したはずなのになぜか慶長19年になってさえ甲斐一国の金産出量は72000石相当もあった事実w
以前、織田厨が必死に「徳川の財政を支えた大久保長安の新しい技術のおかげ」と反論し
「おいおい長安って、武田配下だったんだがw灰吹法はとっくにあったしw」と嘲笑されていた恥かしい過去ありw
実際に破綻してたのは織田。
信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかった
ソースは年代記抄節。
金も鉄砲も金もなく京で略奪虐殺放火恐喝をして資金調達した犯罪者集団が織田。
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
公記には超長槍隊を信長が編成してた記述があるが
実際にそんな長槍がまったく出土してないし、代々に伝えらてすらいない。
天と地との映画に出てくる超長槍隊とか公記のパクリだが
あんな超長槍は一切、発見されてないからね。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

205 :
織田が弱いのは解った。
その弱い織田に滅亡寸前まで追い込まれた上杉ってどれほど弱かったんだ?

206 :
>>205の言うとおり織田をザコ扱いするんなら織田包囲網を作りながらも敗れたり滅ぼされた隣国や最強軍団武田、また、本能寺の変がなければ春日山を落とされてだであろう上杉もザコになるぞ

207 :
森は北信濃で長沼城攻防に破れ撃退
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中魚津〜松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな

208 :
>>207
2年持ちこたえただけで時間の問題だったでしょ。
君の理屈だと日本も圧倒的国力差あるアメリカ相手に3年以上保ったんだから
普通に日本>>>>>>>>>>>アメリカになっちゃうよ。
後、森が負けたとか嘘は良くない。

209 :
森は景勝に破れて長沼奪われているのが4月2日付け上杉景勝書状で確認できる
この後も長沼には島津忠直がいて景勝が指示を出しているし景勝は信濃口の無事を語ったり
仁科方面の警固を命じたりしているのにので奪回されたのは軍記引用のデタラメ
大名としての強さを国力抜きで語るのにアメリカと日本の攻防が出てくるとか意味不明

210 :
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠越えの戦いで景勝に破れて見事に撃退されている
越後の動因兵力なんてたかだか5000そこそこで下越で反乱も起きて芦名までからんできてんのに織田軍雑魚すぎだなw

211 :
×武田が織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊による離反の連鎖と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る

212 :
>>209
大名としての強さを国力抜きで語る?
原野で同一練度、同一構成、同一人数の軍隊与えられて号令一下で
戦闘はじめる競技みたいの仮定してるのかな。

213 :
そりゃ雑魚でも百人いれば一人の強者殴りRなんて簡単

214 :
それってつまり100人の方が強いってことだよなw

215 :
魚津を落としたところで
其の先の越後・越中国境にある超難路
親不知の要害を簡単に通過できるとは思えんな。

216 :
越中魚津〜松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
御館の乱や新発田の乱で弱体化していた上杉相手に
こんな弱軍織田じゃ親不知の天嶮で撃退されるのがオチ

217 :
藤原保則「夷の種は衆多くして、逓に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与に鋒を争ひがたし」
吉田定房「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや」

218 :
>>215
織田には水軍がある。
しかも大砲の装備もあるから遠距離砲撃で上陸地点を制圧、すみやかに軍団を展開可能。

219 :
景勝相手に大苦戦した織田軍だが、最終的には景勝に勝ったかもしれないな。
だけど、ここの謙信を最強としている論者は、景勝の事を推しているわけじゃない。
孫子、戦史研究家 海上氏著「信玄の戦争」より抜粋
信長は信玄には逆立ちしたって勝てない。
更に強い謙信にはどうしたって勝てるわけがない。

220 :
景勝とか御館で滅亡寸前までいったあの景勝?w
信玄も結局勝てずじまいで息子はボロクソだったよなw

221 :
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
御館の乱が長引いたのは北条武田葦名伊達の介入のせいであって
死線につぐ死線をひっくり返した景勝は普通に名将

222 :
その景勝も本能寺が無ければ森長可に春日山城落とされてたよね。

223 :
上杉家の強さは1戦1戦ででの合戦での強さだし
織田の強さは多少の負けはものともせず着実に領土を拡げていった所

224 :
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直が滞在)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい
当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている

225 :
>>223
謙信時代の武田の百姓兵や一揆との戦いで強いと言われてもねえ。
越後兵も織田の勢力とぶつかると狩猟同然に撫で斬りされている。

226 :
>>218
はやくソース出せよwww

227 :
森は北信濃で長沼城攻防に破れ撃退
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな
謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな

228 :
もうすぐ上洛できる(キリッとか言いながらいともあっさり越後へ撤退。
手取川の後は信長との決戦を避けるように越前侵攻を回避するチキン謙信www

229 :
謙信にとって織田なんて雑魚だからいつでも倒せると思ったんだろうな
北条のほうがしぶとくてよっぽど手ごわいんだろう
織田なんて加賀をわざわざ北上してきたのに謙信に蹴散らされて以降北陸から逃げるように
帰ってきただけだし御館の乱につけこんで調略と地元豪族の派遣と大軍の派遣で火事場泥棒するのがやっとだったし

230 :
んでその織田を無視した結果後継者争いを呼んで織田に加賀も能登も越中もほとんど取られたんすかw
それが事実なら上杉謙信はとんだ阿呆ですねw

231 :
能登も加賀も攻め取ったばかりで死んだから完全に領国化しきってたとはいえないからなあ
ほとんどスカスカの無主状態の所を長連龍や神保長住・佐々長縄・佐々成政・斉藤新吾や金森などや
柴田ら北陸方面軍を大軍で送りこんで上杉が御館の乱や新発田の乱で弱りきって動けない時期に火事場泥棒しただけだし

232 :
越後を二つに分けての大乱で
春日山城のお膝元の
越後府中に勝頼が常駐していたり
その後は北条軍は越後へ侵攻してくるなど
加賀や能登なんて構ってられないのが当時の上杉。

233 :
構ってられないならなんで取りに行ったんですか?w
わざわざ領地荒らして後々織田にタダでくれてやるために取ったんすか?w
信長思いっすねw

234 :
>>225
越後兵の強さは謙信輩出するまでは国内でひたすら争って
謙信の家督相続後は信濃関東越中(時々越後)と延々戦い続けた強さ
場数踏んでる奴らが慣れてるのは当たり前で、そういう強さに制度は関係ない
織田の近代制度()の信憑性もアヤシいもんだが、この際それは打ち捨てておこうw

235 :
野戦で謙信が遅れをとるような事は無いだろうが
信長も間違いなく対上杉戦の準備をしたはず
やっぱり2人の衝突が見たかったな〜

236 :
>>235 どうせ加賀中部当たりで激突。上杉軍2万5千。織田軍5万5千くらい。
緒戦は上杉の圧勝だが兵力差がありすぎる上に信長本隊の逃げ足が速すぎて
勝ちきれず。一方緒戦の敗退を受けた信長は篭城で防戦に回りながら
夜討ち朝駆けで対抗して3ヶ月から半年ほど膠着状態。
膠着が続いたところで越後北部の豪族が反乱起こすか、織田の策略で北条もしくは
蘆名が越後を脅かして謙信撤退。謙信が撤退した後の加賀北部能登で信長が
好き放題する。ってのを繰り返す間にだんだん戦線が北上してくるって
パターンが目に見えるようだわ。

237 :
>>235
謙信でも朝倉、武田と同じように数週間で滅亡すると思う。
謙信の戦いは威嚇と小競り合いで一地方の帰趨を争う戦い。
織田の戦いは一国を攻め滅ぼす殲滅戦。
戦闘に対する厳しさが違いすぎる。

238 :
謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガRで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし

239 :
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/39
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/41-44
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/16
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/22

240 :
謙信は、戦さは最強だが、政治力が致命的に欠落してると思う・・・


241 :
>>240
最強といっても武田や北条のような田舎侍との戦いしかないからなあ。
謙信死後だけど、精強と言われた越後兵の大軍も斎藤利治には一方的に虐殺されている。
謙信は早く死んで夢をみさせてくれただけだと思う。長生きしていれば朝倉か精々武田勝頼程度の
評価だったはず。

242 :
謙信の死後だけど・・・(°Д°)ポカーン
じゃあ戦国最強は徳川家康で決定だなw

243 :
はいはいデタラメ乙
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw
月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw
いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www
謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガRで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな
謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな

244 :
謙信が単独で戦ってる分けじゃないからな。毛利や一向宗も謙信側だし
信長は土下座するか、打ち首だろ。謙信が上洛するなら北条が自分の兵を出すから
使ってくれ言ってくるぐらい、謙信の上洛の可能性が高いと踏んでいたんだろうしな。

245 :
>>244
俺も織田無双は幻想だと思う。
ところで北条の申し出ってどの史料の話なの?
二次史料でしか見たことないんだが。

246 :
謙信は異常性欲者ホモ武将

247 :
手取川の戦いは、上杉の捏造だしw
バァカ上杉厨はキチガイだなwww

248 :
長篠の戦いや桶狭間の戦いは織田の捏造だしw
織田厨はバカだなwwwwww

249 :
すぐに上洛できると意気込んでいたにもかかわらず信長をそのまま倒しにいかずに死んだ謙信www
俺はまだまだできると盲信する引きこもりみたいだなw

250 :
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html

251 :
謙信は武田軍と北条軍と北陸一向宗を同時に相手をしてたからなあ
天正4年9/16付けの勝頼→毛利宛書状でも
越後・相模・甲斐の三和してる話を出しているし
謙信が上洛するなら北条は援軍を出すと言ってきてたし
織田軍単体に戦力集中できるから楽勝だろ。
特に信玄と氏康のニ軍と同時に対陣してても平気だったし。

252 :
1576年に協力一致してたのに謙信が死ぬ2年後まで織田に何もできずじまいだったのか
武田上杉北条を退けた信長すげえw

253 :
それをいうなら織田徳川じゃねぇの?
織田より強い徳川を忘れちゃ困る

254 :
織田より強い徳川wwww
徳川が織田に勝ったことなんてほとんもないぞwww
織田秀信が岐阜城に籠った関ヶ原の時くらいだろwww

255 :
まぁ京で略奪大会してて
織田と徳川が略奪品を巡って
戦いはじめて
織田が大敗してるけどな。

256 :
そんなPな身内争いは戦いとは言いませんwww
ちゃんとした戦争を出してくださいwwww

257 :
小牧長久手でもボコボコだったしなぁ

258 :
武田北条上杉を退けた?
全部火事場泥棒しただけじゃん
しかも1575年・76年と謙信は関東遠征して武田・北条と戦ってるのに協力一致とかアホ
徳川は織田より強いのは姉川で確定している
寡兵にもかかわらず、大軍朝倉相手任され大戦果。
松平記三河物語信長書状当代記浅井三代記

259 :
×武田が織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊による離反の連鎖と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る
森は北信濃で長沼城攻防に破れ撃退
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな
謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな

260 :
>>258
自分で自分の意見を否定するのは楽しいか、だが?www>>251
挙句徳川>織田の根拠が姉川だってwww一次史料では全て織田、徳川一様の戦果であり
優勢の徳川が劣勢の織田を助けたというのは二次史料の大久保嘘物語にしか書いてないデタラメwww
>>案外手弱いので、もうすぐ上洛できる
織田の追撃はおろか加賀への侵攻すら信長にビビって取りやめし、そのまま死んでいったのはどこの誰でしたっけ?www

261 :
武田が圧倒的に強いからこそ家康に騙し討ちにされても帰りうちにしてるし
朝倉大軍を壊滅させた最強徳川軍+織田方最高峰佐久間滝川平手の援軍
織田より遥かに戦巧者の家康を壊滅させた時点で武田の勝利はもう確定したようなもの
現に上村・東美濃攻防と勝ちまくってるし
長篠では勝頼の自爆発狂で圧倒的兵力差&城みたいな陣地&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな中に突っ込んでさえ、9時間も戦い続け織田方にも6000もの被害出したほどの圧倒的強さ
はっきり言って織田が勝つ可能性なんて0に等しい


262 :
上村や東美濃といった遠山氏を虐殺しただけで織田に勝った気でいたから
いざ本物の信長と戦ったら長篠でボッコボコにされた雑魚武田www
織田武田による直接対決は長篠、岩村、武田征伐の3回しかなくそのどれもが武田の惨敗という虚しい結果w

263 :
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる

264 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる

265 :
大久保は一次史料の都合のいい内容を丸丸パクっただけで何一つ核心に触れていない駄作史料。
それが証拠に姉川では徳川が朝倉相手に盛り返したところで「敵モ即敗軍」と打ち切るというやる気のなさ。
ご丁寧に信長に「天下一の働き」とまるで将軍にでも言うような褒め言葉を家康相手に言わせるというゴマスリ要員と化している有様。
続く志賀の陣ではなぜかいきなり和議和睦段階の12月から始まり、自分の不勉強を覆い隠すように
いきなり松平勘四郎の上洛戦の武功話に話をすり替えた挙句、うちの史料は門外不出だとどうでもいいことを書いて内容の不誠実さを誤魔化しているwww

266 :
カス武田家の末路
武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ
海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り
武田信之:信玄三男、早死
武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。
仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。
葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。
武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう
武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる

一方の輝かしい織田家
織田秀信:信忠遺児。本能寺後に織田家当主になるが朝廷が秀吉を認めたため彼に従い初期領地10万石の大名という異例の出世コースを歩む。
     関ヶ原で西軍に属したため改易
織田信雄:信長次男、暗愚扱いされるがしぶとく生き残り最終的に大坂の陣の後大和に5万石を領する大名に返り咲き
織田信包:信長弟、争いはもっぱら好まずひたすら中立を保ち続けて家を残した織田家の功労者。最終的に江戸期の丹波柏原3万石に落ち着く。
織田長益:信長弟、茶人かぶれ扱いされるが関ヶ原では少数の兵で奮戦し戦後4万石の大名となる。
織田信高:信長七男、関ヶ原後に徳川家の高家旗本に列せられる。
織田信貞:信長九男、関ヶ原後に徳川家の高家旗本に列せられる。


267 :
小牧長久手で織田の残りカスどもボコボコだったよなぁ 本当ボコボコだった

268 :
織田カスの孫 野垂れ死にw

269 :
>>267
小牧はどっちも形式上は織田軍なんだがwwww
織田三法師秀信、織田信包属する織田家と織田信雄らが属する織田家www
主軍兵力の多さで中心人物を語るなら羽柴秀吉と徳川家康ということになり
どっちも織田軍ですらないwwww

270 :
姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
>>263のように根拠もあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる
>>252
信長なんて謙信信玄はおろかガRでやりあったら景勝や勝頼以下でしょ
対景勝で織田家トップ格の柴田は9倍もの圧倒的兵力差で内乱で自壊した所を火事場泥棒したら
越中中部で2年も足止め食らって
対勝頼でもビビリまくって高天陣城や足助・熱田への進撃許されまくって
ガRでやったら東美濃でも上村でも岩村でも高遠でもボコボコだったし
勝頼が発狂して雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲の中突っ込んでも
9時間以上戦い続け、織田徳川にも6000の被害
勝頼の発狂がなかったら信長なんて瞬殺されてただろw

271 :
織田家は江戸時代に信長次子の織田信雄を中心に12万石を与えられ、明治維新まで直系が途絶えることはなかった
一方の武田は江戸時代に入って渾身の0万石という乞食階級の上に元家臣であった大久保長安や仇敵上杉景勝に寄生するほどの恥知らずwww
武田本家はその後大久保事件で改易されて玄孫の代まで忘れ去られる空気っぷりwww
ようやく高家旗本というお情け名誉職になって思い出してもらえたかと思えば3代目にして権勢著しい柳沢吉保の一族に家を乗っ取られ
以後柳沢家として血を繋ぐ哀れな武田家www

272 :
>>270
で実際は武田が行軍からわずか1ヶ月で瞬殺されるという世紀の滅亡劇を披露したんですねわかりますwwww
自家の統率すら取れずに無能当主がやりたい放題する大名家は滅んで当然wwww
浅間山噴火も天の思し召しだったのだろうwww

273 :
>>265
お前の妄想願望はどうでもいいから
史料を出して反論しな
あと三河物語は徳川幕府への不満鬱憤を吐き出している色合いが強く
ただ徳川ビイキが目的ではない信長の一方的賛美が目的の公記とはまったく異なる

274 :
こんな実力とは全く関係次元の戦闘で評価なんて普通しない
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
武田の三方が原は普通なら城に籠もられて絶対的に不利な状況を信玄の神采配で
城から釣りだして2.5倍の兵力比で10倍もの被害差与えたんだからはっきりいって次元が違いすぎる
北条も織田もめちゃめちゃにやられてたし
あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る

275 :
×武田が織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊による離反の連鎖と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る


276 :
>>273
当代記、信長書状と妄想軍記のあなたと違っていくらでも出せますがwwwww
武田の滅亡劇は戦争以前の問題だったというだけの雑魚状態だったというだけで、
別に武田が名誉を回復するわけもなく、むしろマイナス評価にしかならないwwww
浅間山噴火は戦国時代でも10回以上観測されていて(気象庁の記録より)
当然武田以外で滅びた勢力や大名家は皆無。織田はおろか信濃小豪族にすら劣る家中統率力だった武田は
戦国最弱勢力といっても過言のないくらいの雑魚っぷりwww
いつまでも見栄と形式にこだわる妄想老害武田厨が否定しているだけで
織田徳川はおろか今川朝倉にも勝てないのが雑魚武田家だよwwww

277 :
織田信長書状案
今日巳時越前衆并浅井備前守、横山為後詰、野村与申所迄
執出、両所備人数、越前衆壱万五千計・浅井衆五六千
も可有之候歟、同刻従此方切懸、両口一統ニ遂合戦、得大利候、
首之事更不知校量候間、不及注候、野も田畠も死骸計候、誠為天下
大慶不過之候、小谷之城雖可攻崩、山景之由候間、先相抱候、畢竟
落居不可有程候、両国共ニ武篇之一儀、非物之数候、江北之事者
属平均候、横山楯籠候者ヵ共種々詫言申候へ共、可討果覚悟候、
可為今明日之間候、即佐和山之儀申付、直ニ可致上洛候、此等之趣
可有御披露候、恐々謹言、
                  織田弾正忠
   六月廿八日            信長
    細川兵部大輔殿
  今度岡崎家康出陣、我等手廻之者共、一番合戦之儀論之間、
  家康被申付候、池田勝三郎・丹羽五郎左衛門相加、越前衆ニ懸
  候而、切崩候、浅井衆ニハ手廻之者共ニ、其外相加相果候、何も
  以抽粉骨候、過御察候、以上、
『当代記』巻一 史籍雑纂より
「(元亀元年六月)十九日、信長北近江へ進発、小谷町中悉放火、敵
防戦及度々、浅井人数八千有之、此時退口を被掛大事、左右に土手を
築、佐々内蔵助簗田出羽守中条将監に仰付、各大身の者可為殿之由
雖言上無承引、此小身之衆殿也、諸手より鉄炮五百挺、信長之弓之衆
五十人被相添、敵聚相慕之間、度々及合戦、無異儀被引取、簗田少
手負、信長横山城被取巻、越前より浅井為加勢、朝倉孫三郎〔義景甥、
又聟也〕為大将一万の人数指立る、浅井父子同六月廿六日、大寄山に
陣取、信長龍鼻に陣取給、其間五十町也、家康依信長仰出馬し給、
廿四日に、彼所に着給、信長快悦不斜、廿七日、北敵野村三田村江移、
終夜相催、未明に打出、於姉川及合戦、初合戦信長家康之方被押立、
左は家康自旗本押直之間、越前衆敗北、右は信長幡本へ相合へきところ
に、稲葉伊予守よこ鑓に懸、浅井敗北、敵数多被討捕、」

278 :
>>276
浅間山噴火と同時に周辺勢力の圧倒的大軍での侵攻を受けて離反の連鎖になったのと
ただ何もないとき噴火が起こるのを同一視するとかアホですね
>>277
だからちゃんと徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したって書いてあるじゃん
死者も浅井に比べて朝倉のがずっと多いし

279 :
>>258
>>1575年・76年と謙信は関東遠征して武田・北条と戦ってるのに協力一致とかアホ
越相同盟下でも北関東への謙信の出兵は無問題だったんだよ。
>>272
武田滅亡を慕って甲斐から帰ってきて
すぐ下克上されて勝頼の後を追った信長親子www
>>276
気象庁の記録は一次史料だけを拾って書いてるのではなく
伝承・後世の記録・小規模噴火・完全な嘘までカウントしてる。
実際に一次史料として京で大噴火が観測されたのは
1108年と武田滅亡トリガーの記録のみ
しかも1108年の時に浅間山を有する上野国の国司からの報告が
道路が寸断されたのか1月半もかかり、田畑壊滅・未曾有の災害とされた。
1783年の噴火は幕府の記録にあるが、京では観測されてない。
ちゃんとした噴火記録はこの3つのみ。
>>大久保の嘘
つうか大久保の兄ふたりはリアルに姉川の戦いに参戦してるから
いくらでも取材可能なのも知らんのかw

280 :
大久保の兄貴の又聞きなんて誇張しかしないのに哀れwwww
ましてやその時書いたんじゃなくて後で爺になって書いたという年寄りの自慢話www
主君が参戦していて自分もそのまま書けた牛一の比じゃねーなwwww

>>276
両方の史料とも浅井朝倉軍も大して変わらん数ですがwww
そういえば大久保爺は朝倉軍3万なんてホラ吹いてましたなwwww
>>すぐ下克上されて勝頼の後を追った信長親子www
織田家は信長の遺徳で明治維新まで持ってますがwwww
滅亡した後ソッコー忘れ去られてお家再興すらしてもらえなかった武田哀れwww

281 :
>>浅間山噴火と同時に周辺勢力の圧倒的大軍での侵攻を受けて離反の連鎖
つまりそれ噴火のせいじゃないっていうwwww大軍がきたからっていうwww
武田家滅亡の主原因は浅間山噴火ではないことが証明されましたwwww

282 :
>>280
牛一がそのまま書いた?www
ずいぶん昔の珍説ですねwwww
信長書状越前の者1万五千ばかり
浅井の者五六千
三河物語甲陽軍艦松平記浅井三代記でも朝倉の方がずっと大軍でちゅよ、織田厨アホwwwww

283 :
×武田が織田に滅ぼされた
○勝頼の失政自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊による離反の連鎖と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る

284 :
>>282
悔しい事実には珍説扱いなんてさすが老害武田厨www
信長書状鵜呑みにするなら徳川は丹羽池田の協力でようやく朝倉倒してますけどwww
信長の補佐なしでは徳川は倒せなかったってことっすねwww
で挙句気に入らない事実はコピペで使い回しっすか?w
認知症患ってるなら無理にネットで虚勢はらんでもええんやでおじいちゃんwww

285 :
長文でいつもボコられてばかりの織田厨ゴキブリはコピペだけで十分殺虫効果あるからね

286 :
>>283
織田の実力は知らん
しかし勝頼を自害に追い込んだのは、紛れもなく織田の攻勢なんだから
「武田が織田に滅ぼされた」というのも無理のない認識だと思うが

287 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る
あんなもん誰でも滅ぼせるだろ
本能寺の光秀と一緒
こんな実力とは全く関係次元の戦闘で評価なんて普通しない
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん

288 :
>>287
浅間山が噴火しなくても、武田家は滅んだでしょ。

289 :
織田得意の電撃戦で瞬殺だったからな。

290 :
武田御一門の木曽義昌が織田家、穴山梅雪が徳川家に寝返ってるからな。
しかも木曽義昌の寝返り通達が遅くても2月5日(家忠日記)であり、2月7日には朝廷から織田家へ使者が派遣され、
武田領の信濃国が既に半分も制圧されていることが晴豊記にある。なんせ武田氏支族である下条伊豆守信氏ですら
弟に寝返られて2月6日織田軍が殺到し三河にトンズラこくような絶望的劣勢。
2月14日には松尾城の小笠原信嶺が信長に臣従、同日夜に浅間山の噴火があり、
浅間山以前の段階で既に武田軍が蹂躙されきっていることがわかる。

291 :
ちなみに噴火以後の話をすると2月16日に謀叛人木曽義昌を討伐しようとした武田軍が織田有楽斎や稲葉貞通にボコボコにされ、
あまりに武田が雑魚すぎると思った信長は「何か罠があるに違いない」と慎重に考え、
2月23日、2月28日に武田征伐の織田軍中枢を担う織田信忠、滝川左近一益、河尻与兵衛秀隆に
「慎重に進んでくれ、いずれ俺も行くから」とあくまで油断しないようにと慎重策の指示を出しまくっている。
結局指示通りに織田軍は信濃制圧をゆっくりすすめたが2月29日に信濃に在地していた織田信忠が父の信長に「武田勝頼軍が撤退」したことを告げ、
以降は怒涛の勢いで武田軍をボコり、3月1日にはついに最後の望みであった高遠城が陥落、次の日の3月2日にはもう織田軍が武田本国の甲斐に侵攻している。
結局あまりの雑魚さに拍子抜けした織田信長は3月8日に「俺はもう関東見物でもやってるから、武田の事はおまえらでなんとかしてくれ」と
俺様が出るまでもねーなと余裕発言をぶちかまして関東に見物しにいこうとする有様。そして挽回することなく3月11日に武田勝頼が嫡子信勝とともに甲斐国天目谷で討たれる。

292 :
俺のだがスレ返せ!

293 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る
あんなもん誰でも滅ぼせるだろ
本能寺の光秀と一緒
こんな実力とは全く関係次元の戦闘で評価なんて普通しない
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん


294 :
武田陣営総崩れで士気もガタガタ
何せ浅間山噴火&領国疲弊による混乱・寝返りの連鎖中
他にまともに迎撃しようとする連中なし
高遠攻防戦では保科正直らが逃亡を計る等めちゃめちゃ織田にとって有利な状況・条件
こんな圧倒的有利な状況で武田で唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力比でもって絶対的に兵力比が物をいう城外戦で
大損害だし一門織田信家討ち取られ、普通なら10分程度で終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間以上も戦われた雑魚

295 :
信長は武田と和睦する匂いをかけて、織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
>噴火前から森や団のおかげで下条氏長や小笠原信嶺が寝返っているのに
そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。

296 :
下条伊豆守信氏は元亀3年8/10の信玄書状に登場して
(織田研究者と違って鴨川などの一部に天正3年8/10勝頼書状説もある)
信長の侵攻に備えるため妻籠之番に松尾衆を入れての
木曽口の防衛強化を目的に、大々的に配置換えが行われている中で
大島城(伊奈郡)を基点に日向玄徳斎や栗伊に秋山信友同心衆や保科が入城し
下条伊豆守信氏は小笠原掃部大夫信嶺ともども山本在陣(飯田市か?)
が命じられているように天正初年期の防衛シフトであり
それを捏造軍記作家の太田がパクってきて
天正10年の武田の防衛配置に流用してテキトーに書いただけだろ。
だいたい天正9年10/13に滝川一益が信州境目に砦を作るように
命じられたから奥平信光も普請にこいよとか
10/26にも牧野成良が滝川書状に偽りはないと誓詞してる。
この時期のこの方面においては滝川が指揮官であり、
嘘長公記が書くような団や森や川尻なんてまったく登場しない。
2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかるし
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!
などと返答してるので書状の往復を考えたら2/14より前には、まだ信濃侵攻してないことになる。
2/14の噴火も空が赤いと書かれていて、夜だからはっきりと京から噴火が観測されたのであり
別に夜になって噴火が始まったと書いているわけじゃないし
そもそも噴火を甲斐や信濃が敗北する時におこる怪異だという話が広まったと書いてるから
武田の士気に尋常ない打撃があったはずだ。
そもそも捏造軍記の書く小笠原の内応を申し出た時間は書いてなく、
噴火を武田滅亡の怪異と悟り内応を申し出た可能性は高い。
また氏政も10日以降まったく甲斐方面の情報が入らなくなったと言っていて
すでに小規模噴火など予兆があったゆえ情報網が寸断されてしまった可能性がある。
19日には勝頼夫人が武田八幡宮にかな書きの願文を奉納して神仏の天意を頼り祈ってる。
1582年の3月3日では信長が「武田があまりに雑魚すぎるからさっさと滅ぼせ、一切無用だ」と河尻秀隆や織田信忠、徳川家康に伝えてあるという書状が現存している。
そもそも木曽義昌の寝返りは2月5日によそ者の徳川家康ですら知っていることが家忠日記にもあり、
2月7日の時点では既にしなの国半分を制圧したという報告があったということが晴豊記にもあるんだがw
川尻が出陣してないとは言ってない
なんせ川尻が甲斐統治を任されたからね。
ただ噴火の時点にあたる初動では川尻は参加してない。
家忠日記は後世の編纂時に編者が加筆編集してると鴨川氏も指摘してるからアテにならない。
(天正3年の勝頼の三河出兵を元亀2年4月の信玄の三河攻めの間違った情報を鵜呑みにして
足助城攻略を元亀2年4月に挿入してたりと捏造していると指摘してる)
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww

信長文書の研究966
そこには川尻に23日に勝頼撤兵の真偽を問いただして
勝頼の居場所を知らべるように言ってて
信忠がやってきたために滝川との司令塔交代が見受けられる。
明らかに信忠に従って川尻もやってきているので
(2/11に信忠が出陣したのは北条側史料でわかる)
2/15付けで滝川への返答として信長は俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろと
若い信忠をキチンと制御しろと信長が指示してる時点では
信忠の後見役とも言われた川尻はまだ到着してないことになる。
公家日記は織田方の宣伝工作によって誇張された表現が登場したりする。
誇張情報はちゃんと峻別すべきだ。
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。

297 :
結局2月7日付晴豊記の信濃国半分制圧と、2月28日付河尻秀隆宛て信長書状で
「俺も出馬するから道中の城を確保しろよ」という記載をされていることを全く無視して
講談も真っ青の妄想軍記を書き連ねるアスペだがwww

298 :
ただ、浅間山噴火がなければもう半月程度は粘れたんじゃないかと。

299 :
武田や上杉にも個人の武勇では優れた者もいただろうが、所詮は山賊ごろつき集団に過ぎない。
織田の官僚的統制の行き届いた近代的軍隊に敵うはずもなし。

300 :
>織田の官僚的統制の行き届いた近代的軍隊??
信長ワンマン社長がやりすぎて滅亡したのだが・・
秀吉の五大老・五奉行みたいな組織で運営する概念はなかった

301 :
山賊ごろつき軍団ごときに官僚的統制が行き届いた軍隊持ちながら>>264のように燦々たる結果だし
機内の雑魚勢力や一揆ごときに大敗したり大損害だした信長や織田武将はよっぽど戦べたなんだろうな

302 :
>>299
徳川の精鋭が上田城でボコられたのは知ってますか?百姓が戦うよりも訓練された兵士の方が強いのは確かだけど
TOPが戦下手だと負けてしまうよ

303 :
鳥居や大久保平岩なんて徳川でも精鋭どころか中堅部隊だろ
四天王や家康は行ってないし数日で落とせは無理ありすぎ。
織田軍もまた同様で遠山や指示違反の徳川が暴れたから負けただけで
長篠、第二次岩村、高遠と主要合戦では全て勝っている

304 :
榊原はいってたな、数日の攻囲だが

305 :
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる

306 :
三方が原…織田家トップ格の佐久間が雑魚すぎて使い物にならず滝川負傷・平手戦死
敵領土内で敵をうまく釣りだして撃破する信玄の采配が神すぎて負けただけ
北条も同様の用兵で撃破されているし
圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害の織田では壊滅させられるのは確実

307 :
東美濃攻防はガRのぶつかり合い。激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。

308 :
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状 遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。

309 :
ここ謙信様を崇めるスレだし
織田vs武田の話はもういいよ

310 :
織田VS武田というよりだがが暴れてるだけ
武田が織田に滅ぼされたという事実を受け止められずに発狂している

311 :
>ここ謙信様を崇めるスレだし
謙信最強説なんか徳川史観で持ち上げられてるだけ
史実は田舎大名にすぎない

312 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落

あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る
あんなもん誰でも滅ぼせるだろ
本能寺の光秀と一緒
こんな実力とは全く関係次元の戦闘で評価なんて普通しない
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん

313 :
直接対決するまでもなかった、と言う方がよほど酷いな。
まだ織田の圧倒的国力に立ち向かって滅んだとする方がかっこいい

314 :
6 名前:名無しさん@恐縮です
ウォルト・ディズニー本人がゲイだったんだから、当然ながら泉下から皆さんのゲイ婚礼を
心より祝福しているコトでしょうぞ!!!!!!!!!!!!!
TDLで同性婚が出来るようになって、先ずは一歩前進したゼッ!!!!!!
だけど俺はバードに幾ら求婚されたって断固お断りするのサッ!!!!!!!!!!!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!







315 :
>>297
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw

316 :
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく
一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか
誇張しまくり。

317 :
気に入らない史料は捏造理論が入りましたwww

318 :
浅間山噴火がなければ武田家は滅亡しなかったんだろうか?

319 :
>>信濃国半分制圧
まったく具体性にかけていて、
テキトーに言ってるだけで信用性ゼロ
いつもの関東まで一遍に申し付けたとか
中国どころか九州まで属本意とかと同じ
信長の虚言癖。

320 :
言ったのは信長じゃなくて村井なんすけどwwww
で、村井が嘘をついているという二次史料はまだっすか?ww

321 :
二次史料じゃない一次史料

322 :
信長が言ったことを京に常駐してる
村井がそのまま伝えただけだろw
つうか2/7の時点でどう考えたって
信濃の半分を手に入れてるわけねーだろw
その2日後の2/9には秀吉が関東の太田へ織田は
すでに中国四国も手に入れたとか言ってるしwww
そんなの信長マンセー公記ですら書いてない。
公記には14日にやっと松尾城の小笠原信嶺の内応の結果、
夜に南信濃にある飯田城から坂西織部・保科正直が脱走してんだから。
先陣として森・団と書いてあって
この好転した戦況にやっと信濃国境の峠を通過してる。
どんなに早く見積もっても14日を過ぎないと
織田軍は信濃国内に侵入できてない。
鳥居峠の方は16日になっても攻防が続いているし
信濃半国を手にいれているなら
なんで3月になって、いまだに高遠城なんて攻めているのか?
明らかに言ってることが支離滅裂でおかしいだろ。


323 :
「そんなことはありえない」と史料なしで語るのはただの妄想
そもそも信濃方面で言えば、2月7日の段階だと武田一門の木曽義昌は既に織田に内応済みで
信長公記では既に同じく武田支族の下条信氏が弟の下条九兵衛氏長に寝返られて織田軍を信濃に引き入れている有様。
小笠原信嶺の内応は2月14日だが、彼の籠る松尾城は信濃中核部(現在の飯田市)にあたり、既に織田軍が信濃奥深くに侵入していることが明白。
下条木曽の内応が村井に伝わっていたのなら「信濃国半分」も全然誇張表現ではないのだが・・・
>>なんで3月になって、いまだに高遠城なんて攻めているのか?
高遠城は現在の長野県伊那市高遠町にあたり、当時の観点でいえば甲信国境付近。
つまり高遠城の陥落は信濃武田領全ての陥落を意味する。実際3月1日に織田軍が高遠城を攻略した後
翌日の3月2日には既に甲斐国に攻め入っているのはこのため。
もちろん織田信長が武田の壊滅っぷりを怪しんで
2月23日、2月28日と2回も「ゆっくり付け城から攻めていけ、すぐに俺も出る」と指示を出したことも留意する必要がある

324 :
>>323
なるほど。浅間山さえ噴火しなければ武田は滅亡しなかったんだな。

325 :
信濃半分取られてるのにもう無理でしょwww

326 :
下条氏長が離反したって
木曽の内通に対応して
急いで伊那口に作った滝沢の即席砦だろ。
そんなところを織田が手に入れたから
なんだっての?
しかも相変わらず一次史料に無いし。
滝沢要害なんてものもまったく存在が確認できない。
つか木曽が内通してるわりには
まったく飯田や伊那や諏訪へたどり着けずに
信濃・美濃国境の各地の峠で^ラしてたのが織田だろ。
14日の浅間山噴火で武田が動揺して自壊した結果、
やっと本格的に信濃国内へ侵攻できただけじゃん。

327 :
下条の内応で一番マズイのは織田軍が信濃にひっきりなしに入ってくること
当時の武田軍からすれば内応した木曽義昌討伐が急務にもかかわらず、さらに身内から内応騒ぎが出てしまい
結局信濃と美濃の国境間で織田軍の進軍が容易になった。これが2月3日の状況。
これを証明するかのように下条の内応から約一週間後の2月14日では小笠原信嶺が織田軍に事実上降伏。
信濃国境はおろか信濃国内でもボロボロと武田方の城が陥落しはじめてその2日後はついに木曽義昌討伐が織田の援軍に阻止されて頓挫する。
後は下り坂

328 :
>>これが2月3日の状況。
はっ?公記ですら出撃を命じられた日が3日であって
下条の内応は6日。
完全にデタラメを書いてますねw
しかも木曽の内応に対して
まずは国境の人質を取りまとめよと命じてて
信長出陣までは侵攻を命じてはいない。
これは滝川宛の信長書状でも信忠の暴発を止めるように言っていてわかる。
下条の内応の滝沢も、一説に平谷村にあったと言うが
それなら飯田からさらにずっと南の方で、
すでに三河に近い辺境で
どうでもいい場所だし。

329 :
そもそも嘘長公記の書いてることなんて
まったく信用できないのだが。

330 :
>>328
やはり浅間山噴火がなければ武田家は滅亡しなかったのだな。よく理解できた。

331 :
>>328
下条の内応日時を誤っていたのは悪かったがせめて信濃の立地くらい頭に入れろよw
木曽口どころか飯田口からも織田軍が来るというのは2方面から織田が来るということ。
実際には14日に内応した小笠原信嶺の松尾城が信濃中核部の飯田市にあり、この時点で南信濃、中信濃の奥深くまで織田軍が侵攻していることがわかる。
木曽や下条が内応した結果がこれだろw
>>信長出陣までは侵攻を命じてはいない。
いつの史料を明示しているんだかw 直接関係のない徳川方ですら
2月5日には木曽義昌の寝返りを受けて近日に信長自ら出陣するらしいという旨が家忠日記にもある。
>>そもそも嘘長公記の書いてることなんて
おまえの長文妄想の方がよっぽど信用できねーよw

332 :
上洛スレもう一回建てようか?
これは謙信スレなわけで武田と織田の争いはすれ違いだ。
こうなるともはや織田厨もだがと同レベルの荒らし。

333 :
謙信スレだが武田と織田の争いを静かに見守る謙信信者の器の大きさに感服。


334 :
>>332
戦国板は武田や織田の話題が出るスレの大半がこんな事になっちまってるよw
どっちも見苦しくて適わんw

335 :
>>332>>334
何を言ってるんだおまえら
このスレは上杉謙信が北条氏康、武田信玄、蘆名盛氏、織田信長と比較してどうだという
比較スレであって、ただ上杉謙信を崇めるスレではない。おまえらの方こそスレ違いだぞ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152874850/
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】
謙信だけを語りたいならこっちでやれ

336 :
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1197598384/
上杉謙信〜日本に文明の光を与えた男〜

337 :
>>335
謙信とその他の比較ならその通りだけど、織田と武田の比較になってるからやっぱスレ違い。

338 :
謙信最強は認めるけど、北条も関東管領で関東公方を擁しているのに謙信だけ義将扱いされているのは納得いかないな。

339 :
北条って何時関東管領になったんだ?謙信は室町幕府が公認してるけど。
関東公方だって室町幕府は認めてないだろ。

340 :
北条氏康は関東公方に関東管領に任命されましたよ。

341 :
謙信は利根川以西には入れなくなって、しかたなく東でちょろちょろしていたが、与党もいなくなって群馬も取られてアボーンってイメージしかない。

342 :
北条に負けた謙信ってことでいいかな。
戦いは最強だけど、北条地盤の利根川西には入れず東でチョロチョロしてただけだし。
千葉や成田の扱いとか政治的な失態で関東武士にはダメだしされたのが謙信。
自ら起てた公方も北条に幽閉されて良いところなし。

343 :
謙信の後を継いで、豊臣政権下では優遇された
上杉景勝についてだけど、一般にはさほど悪くは書かれてないけど
実際はどうだったのだろうか??
愚直と云うイメージが強いんだけど。。。。。。。

344 :
>>342
まさか打擲事件を真に受けてるとは思ってないが
関東諸侯のなあなあに合わせてたら一生どころか5代かけても10代かけても北条氏を討伐なんか出来やしないぜw

345 :
関東の風土・歴史を事前に知っておくべきだったな。
謙信は偉大な武将だけど瞬間湯沸かし器的なところがある。
これは自らが絶対に正しいと思い込んでいる人達には共通なことだからしかたがないけど。
結局「関東諸侯のなぁなぁ?」を無視して関東管領なんだから絶対君主!みたいにふるまっちゃったから大半が北条についちゃった。
当時は家柄とか秩序でまわってる時代だから上手くやれば関東を手中にできたろうに。

346 :
だめおしが越相同盟だな
謙信傘下で管領様のためと必死で戦ってきた太田や里見が懸命にとめたのに裏切って北条と組んだ。
だから関東で少数謙信派だった太田や里見ら全部が武田に靡いちゃった
しかも北条が武田に攻められているときに全く救援せず。
謙信ってどこが義将なのか理解できないよ
もちろん戦争においては天才で最強だとは思うけどさ

347 :
同盟交渉で、謙信は北条に関東国分けについて、
かなり無理難題を突きつけている。
関東の静謐を願う気持ちがよくわかる。
氏康の目を関東から武田・今川の領国へ向けたかったのだろう。

348 :
>347
それは贔屓目すぎ
ハルノート級をつきつけても揉めるだけですよ
だったら最初から同盟せずに北条と戦えばいいんですよ
謙信派の関東諸将は、謙信を必死でとめたのに裏切って北条と組んだことで関東から謙信派がいなくなっちゃったんだから

349 :
それと同盟しといて同盟国内を武田軍が我が物顔に移動し重要拠点の城を囲んだりしているのに全く無視だからな。
信濃に攻め込むふりをするとかすらしてない。
どこが義将なのかと謙信は

350 :
>>348
北条も上杉も延々と泥試合は出来ないからどこかで手打ちにしようってのは判らんでもない
北条側は最大限の譲歩をしてるし
そも関東出兵自体、憲政から名跡譲り受ける条件みたいなもんだし
それに何回も兵出してる時点で十二分に義理堅いっしょ

351 :
関東をおさえるのは山内家の宿命だからね
越後が関東御分国である以上、関東を制覇しに行くのは謙信の本能でもある。
しかし、謙信がなぜか義将と讃えられ、結局関東の諸将の支持を取り付けた北条が敵役になってるのはおかしいよね。
謙信も必死で戦っている傘下の諸将に対し裏切りとか平気でやってるし、同盟国が武田に蹂躙されても全然動かなかったり。
戦争最強なのは謙信だと思うが、性格ややってる事が褒め称えられるような武将ではないよね。

352 :
というか、自分の苦手分野(外交など)をカバーできる人材が不足していたのが痛い。

353 :
越後国は関東分国ではないのでは?
(鎌倉時代は関東分国だったけど)

354 :
>>352
まあ、戦に恐ろしく強いから外交なんかしなくてもねじ伏せていたんだろうね
攻めるのが外交だったんだよ

355 :
ねじふせれてないじゃんw
関東諸将は関東公方を擁し公方に関東管領に任命された北条に就いたし。
山内上杉与党で必死に謙信に義理立てして北条と戦っていた太田や里見、佐竹の梯子も、彼らが必死でとめたにも関わらず裏切って北条と同盟を結び、関東の謙信派は全て謙信から離れていった。
謙信は確かに軍神というかガRではバカ強いけど、どこでも無人の野を行く強さってわけではない。
北条の影響力の強い利根川以西には後半は全く入れず利根川以東でウロチョロはしたが、結局何の影響力も残せなかった。
謙信は北条には全く勝てなかった。
これが現実なんだよ。


356 :
>>355
> 謙信は北条には全く勝てなかった。

北条氏康は謙信とも信玄とも戦ったが
「勝ちもしないが、負けもしない」
ドロー狙いの戦争方針だったからな。
仕方ない。

357 :
なんか素人がデタラメ書いてるの丸分かりなんだが。
そもそも北条氏康が上野国を制圧した時点の謙信は
国人統制もできず越後一国すらまだまだ平定してないのに
北信濃を信玄が北上すると言う危機的状態。
そこから武田と北条の2軍を同時に相手をして無敗。
利根川以西は武田領化したが、そもそも長野氏などは
ほとんど謙信との書状交換もない独自勢力に近く
北上野は最終的に上杉領だし、
東上野を北条は領土下できずに由良氏には上野一国を与えるなどと言って
自軍に味方してくださいと言わんばかりの関係。
そもそも北条は南関東のような直轄化政策を北関東では放棄してしまってるのが現実で
西上野を支配した武田みたいに城代すら置けてない。
北条なんて忍城・騎西城の成田兄弟すら自立勢力のままを容認してるし
自立勢力が謙信の陣触れで動員されて戦わされるよりは
北条のように放任してくれて動員義務を負わない方が楽だから北条派に転向してたに過ぎんから
勝頼や義重や信長にもすぐ尻尾を振るような輩も北関東には多く、
まったく北条の家臣化などなされていない。
越相同盟にしても、謙信の条件要求をうやむやに誤魔化して
武田攻めをしてくれと言ってたのが北条。
沼田や厩橋着陣すれば、それは武田への無言の圧力になるので、
謙信が援軍を出してないとは言えない。
しかも越中は武田が一向宗を使って上杉と戦わせているので
越中への攻勢も武田攻め一環。
つかそもそも同盟交渉継続してただけだし。
そもそも御館の乱の時も北条は武田を使って自分は動かずに利用しようとして
勝頼が不満を漏らしているし、基本的に北条は糞。
越相同盟交渉の時に謙信は太田のために交渉してて、
北条が太田の息子の梶原を人質に出せなどと無理難題をふっかけておきながら
それすら有耶無耶にしつつ援軍出してくれを連呼。
氏政の息子を人質に出す話も有耶無耶。
そもそも佐竹も義昭時代と違って義重は奥羽方面への北上を指向して
北条と内通したり葦名を攻めたりと必ずしも謙信の味方ではない。
里見も副将軍と自称していて軍事的な交流などそもそもほとんどない。

358 :
謙信が去るまでの間、じっと我慢の北条は賢いでしょw
俺が氏康でもそうするわw

359 :
軍神謙信は台風みたいなものだからな
触れば吹き飛ばされるが、城に篭っていればそのうち去っていく
でも義将じゃないよね
357さんは謙信贔屓なんだろうけど、実際のところは認めないとだめ。
信者になって盲信してしまうと見えるものが見えなくなる。
私も謙信贔屓で西から来た北条は好きではない。

360 :
>>359
あんたの見てる現実が間違ってるから指摘してくれてんじゃんw

361 :
>360
あの同盟での条件は、北条が大幅に謙信に譲歩し、謙信有利で結ばれている。
無理難題を飲んでいるのは北条であり、更にハルノートつきつけてるのは謙信。
また、沼田への援軍だって時期が遅く、それもさんざんに北条が呆れて抗議し立場がなくなった謙信がやっと出したもの。
357の謙信信者っぷりは酷い。
誤解なきよう。私も謙信びいき。
ガRでの謙信最強は同意見。

362 :
民主党じゃないんだから、なんでもかんでも良いように・悪いようにねじまげちゃぁだめだよね。

363 :
上杉謙信は戦国最強
↑武田北条ていどを攻め滅ぼせないのに
最強って言われてるのはおかしいね
他の英傑はたくさんの勢力を滅ぼしてますよ

364 :
戦国板なのに関係の無い民主党の名前を出すネトウヨ。

365 :
まあ雑魚の織田よりは遥かに強いだろうな
謙信に案外手弱きなどといわれてるし北条や武田のがずっと手ごわかったんだろう

366 :
北条武田が織田より強いって正気か?

367 :
武田や北条は謙信にガR戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田でしょ

368 :
>>それもさんざんに北条が呆れて抗議し立場がなくなった謙信
アホか。さんざん同盟条件の交渉している最中に
北条は条件を有耶無耶にして誤魔化し続けて不誠実この上ない態度でありながら
ひたすら謙信に援軍要請しまくりじゃねーか。
謙信も譲歩して「じゃあ氏照か氏邦の同陣を」と提案しても
ひたすら有耶無耶にして、援軍出せ出せと喚いてるのが北条。
北条の誠意のない行為に謙信の方が呆れていたのが実情だろ。
完全に御館の乱の時の勝頼に軍を越後府中へ出させて
利用するだけ利用して北条が眺めていただけなのを
勝頼がキレてたのと一緒。
北条には約束を守る意思がまったく感じられない。

369 :
氏康は謙信に屈して越相同盟締結したんだよ
氏康は以後謙信を関東管領様と呼ぶことになり、南上野・北武蔵を謙信に割譲させられた
情けないことに氏政に到っては謙信にお歳暮まで送って機嫌を伺ってる
だいたい氏康は忍城攻撃に失敗、唐沢山城攻撃に失敗、岩付城攻撃に失敗、関宿城攻撃に失敗と城攻めが絶望的に下手くそ
また野戦でも狐橋の戦いで今川義元に敗れ、三崎の戦いで里見義弘に敗れ、三船山の戦いで里見義尭に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、三増峠の戦いで信玄に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、野戦で北条軍の弱体無能さを天下に轟かせてる
氏康の弱さは北条滅亡の危機を3度も味わったことからも明らか
狐橋の戦いで義元に敗れ関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏に河越城を攻められた時は信玄が仲介しなければ間違いなく北条滅亡してた
謙信に小田原城攻められた時も信玄が軍事行動起こさなければ連合軍は撤退せず城は陥落間違いなし
信玄が駿河に攻め込んだ時北条は西に本性現した武田、北に仇敵上杉、東に復活した里見と三方を敵に囲まれ半泣きで謙信に縋り付いた
小田原城下町を武田に火の海にされても城内で震えてただけの氏康
武田を撃退したなんて負け惜しみ、家を焼かれた領民は助けてくれなかった氏康を恨んだ
三増峠の戦いでも北条軍は大打撃を受けて駿河から叩き出されてしまった
北条軍は本当に弱小

370 :
氏政に代替わりしてからの越相同盟は混迷を極めたみたいね
末期には北条と武田って実は裏で組んでるんじゃね?と上杉方に疑われる始末で
氏康が必死扱いて成立させた同盟を氏政がブチ壊してる形
謙信じゃなくても抱えた案件片付け次第北条ブン殴りに行きたいわ

371 :
義にも優先順位があるんじゃないか。
関東の豪族のわがままにつきあうだけが義なのか?

372 :
糞弱い氏康も攻め滅ぼせない謙信w
どこが戦国最強なんだw
織豊は武田も北条も滅ぼしてる

373 :
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾義晴の子など多数が戦死し、韮山300や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。


374 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

375 :
武田や北条は謙信にガR戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガR戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い

376 :
>369
北条は屈してない
上杉は当時北条により関東からほぼ排除されて影響力がなかった状態。
当時立場が弱かったのは謙信

377 :
>>376
屈してないなら何で南上野と北武蔵をわざわざ謙信に譲り渡す必要あんだよw
そーゆーのを北条の負け惜しみって言うんだよ
北条が切羽詰まってたからだろ

378 :
氏康は西に武田、北に上杉、北東に佐竹、東に里見と敵に囲まれて死にかけてた
だから謙信に泣きついたわけだな

379 :
武田=安心と信頼の裏切りブランド
里見=経緯的に講和は絶対無理
上杉=憲政の要請に付き合ってただけ
実際どこかと休戦調停結ぶなら上杉一択だった訳だ
後任の氏政は上杉舐め腐って、謙信死ななきゃあわや撫で斬りの危機だったが

380 :
氏康は食事の時に氏政が、めしに汁を2回よそってかけたのを見て
「汁の量も予測できない人間に国の仕置きができるわけがない」と
北条家が息子の代で終わるだろうとまわりにもらしたとか
世襲で継ぐのが当たり前の時代だけど氏康自身は人の上に立つに相応しい人物だったと思う

381 :
>377
排除されていた上杉が北条から譲り渡されたってのはわかっているようだね
つまり、同盟の条件は上杉が有利になる用意北条に譲歩されているってこと

382 :
上杉派の関東諸将が必死にとめるのに欲にくらんで北条に有利な条件で同盟結んでおいて、さらに北条にハルノートつきつけて武田に攻められている北条を無視。
呆れて苦情を言われて立場がなくなって時期遅く沼田出陣。
これは真実な。
おれも謙信好きだよ。
でも盲信はダメ。

383 :
上杉派の関東諸将が必死にとめるのに欲にくらんで北条と有利な条件で同盟結んでおいて、さらに北条にハルノートつきつけて武田に攻められている北条を無視。
呆れて苦情を言われて立場がなくなって時期遅く沼田出陣。
これは真実な。
おれも謙信好きだよ。
でも盲信はダメ。

384 :
>>381-382
和睦する時領土譲り渡す側が劣勢なんだよ
伊達政宗に領土割譲した相馬義胤しかり、毛利元就に領土割譲した尼子義久しかり
当時氏康の外交力不足で武田上杉里見佐竹と敵だらけになったんじゃん
武田に飲み込まれそうになったから上杉や里見と手当たり次第和睦試みた氏康、これが事実
ちなみに里見には和睦断られたよね
当時謙信は別に和睦する必要なかったんだよ
居城小田原が脅かされてた氏康と違い謙信の居城春日山は安心そのもの
ただ度重なる関東出兵で財政的に苦しくなった部下が「北条と和睦してください」と勧めたから和睦しただけ
当時の上杉は別に危機的状況じゃなかった
ちなみに越相同盟締結後に北条救援が遅れたのは信玄に扇動された越中守護代の椎名康胤と戦ってたから
共同して武田と戦うという約束破ったわけじゃないよ
康胤は越中一向一揆と手を組んだ上に越中一の堅城・松倉城に立て篭もって抗戦したから厄介だったわけ
松倉城は越後の近くだから謙信も見過ごせなかったんだね
一揆は越中加賀3万の大軍だから厄介だし

385 :
謙信としては北条が武田に飲み込まれるのは上杉にとってマイナスだと思ったから北条を助けてあげたんだよ
上杉が北条の和睦要請を無視し武田里見佐竹と束になって北条攻撃したら北条滅亡は明らか
でも武田領が甲斐信濃駿河相模武蔵になって上杉にとって脅威になるじゃん
だから北条助けてやったんだね

386 :
>>355
謙信は1552年に上野平井城で北条を破り1560年に上野沼田城で北条を破り1561年に武蔵松山城で北条を破り1565年に下総関宿城で北条を破ってるが
氏康は逃げてばかりで情けないね

387 :
北条は弱い
っていうか上杉謙信が強い
でも、序盤はともかく、中盤以降は北条の地盤である利根川以西に謙信は入れなくなっていた
利根川以東を移動するだけ
謙信は関東から排除されていた
北条は武田と敵対し上杉と同盟する必要に迫られ、関東から排除していた謙信に有利な条件で同盟を組む。
謙信は数少なくなった山内上杉支持の関東勢の同盟組まずに戦おう懇願を無視する形で同盟し、関東管領としての職務を放棄した謙信に呆れた関東勢に三下り半。
彼らは武田信玄と組んで北条と戦う道を選ぶ。
驚愕した謙信は、更に駄々をこねて北条に妥協を迫るが、最初から謙信を信用していなかった氏政は更に不信感を深める。

388 :
謙信には山内家関東管領として北条と同盟組んでほしくなかったな。
これでずいぶんファンを減らしてると思うよ。
実際、当時のファンは武田にはしったしね。

389 :
上杉厨のフリした北条厨ですか。
越相同盟締結直前でも沼田城・厩橋城・関宿城・宇都宮城・小田城は上杉方だから謙信を関東から排除したなんて間違い
関東管領の職務放棄じゃないし
で、謙信は武田方の椎名攻めで氏康を救援できなかったというのは理解できた?

390 :
利根川以西は武田領だし
厩橋北条や本庄を謙信から離反させて
謙信を追い詰めたのは信玄。
その証拠に厩橋北条が離反するとすぐ信玄から
書状が届いてる。
関東諸将の離反は厩橋北条がやったことで
謙信も天魔の所業と怒ってる。
伊勢北条は何もしてない。
そもそも氏康は長尾と呼んでたのに
謙信を山内殿と呼ぶほど土下座モード。
それもそのはずで、いままでなんとか滅びずに済んできたのは
謙信の南下に対して籠城して信玄が謙信の背後を襲う援軍要請の連発で
生きながらえてきただけで、
信玄が伊勢北条に助けてくれ〜なんて要請したこともない。
他力本願でヘタレなのが伊勢北条
関東諸将は関東管領から自立しただけで
伊勢北条の軍事指揮下に入ってすらいない。

391 :
キミは越相同盟締結で謙信は氏康助けるため信玄と戦わないといけないのに謙信はその約束破って氏康救援軍を派遣しなかった
だから謙信は悪いと言いたいんだろうが勉強不足だよ
謙信は武田方の椎名・一揆と戦ってたんだから
そもそも当時謙信は関東(北条氏康)・信濃(武田信玄)・越中(椎名康胤・一向一揆)・出羽(蘆名盛氏)と4つも戦線かかえてた
このうち信濃・越中・出羽は武田方で和睦は難しいから関東戦線で妥協するのがベストだったんだよ
謙信は無敵だけど大軍で遠征繰り返して財政難だったわけ

392 :
キミは越相同盟締結で謙信は氏康助けるため信玄と戦わないといけないのに謙信はその約束破って氏康救援軍を派遣しなかった
だから謙信は悪いと言いたいんだろうが勉強不足だよ
謙信は武田方の椎名・一揆と戦ってたんだから
そもそも当時謙信は関東(北条氏康)・信濃(武田信玄)・越中(椎名康胤・一向一揆)・出羽(蘆名盛氏)と4つも戦線かかえてた
このうち信濃・越中・出羽は武田方で和睦は難しいから関東戦線で妥協するのがベストだったんだよ
謙信は無敵だけど大軍で遠征繰り返して財政難だったわけ

393 :
謙信に唯一欠点あったとすれば末期を除いて戦いに勝っても領土を奪わなかった点
将兵としては命懸けで戦っても褒美に領土貰えないから不満だったんだろう
謙信は領土奪うことは信玄や氏康と同じで泥棒と考えてた
それはそれで素晴らしくさすが戦国一の義将だよ
でも部下達みんなが正義の人だったわけじゃない
謙信が戦国一の戦上手なだけでなく汚さも持ってたら信玄に善光寺平奪われたり氏康に北武蔵奪還されたりしなかっただろうね

394 :
越相同盟に謙信は反対だったが、部下達が強引に押し進めた。
北条の強さがわかっていたからね。
何度も南征しているのに、結局上野すらも影響力を排除されてしまっている。

395 :
武田信玄が謙信に同盟もちかけたけど蹴ったな。
関東管領なのに北条より武田が優先だったのかな。

396 :
>>395
信玄が謙信に同盟持ちかけた事なんてあったっけ?
いつ頃の事?

397 :
軍神(笑)戦国最強(笑)
その割に実績が伴ってないよな謙信w
上杉は所詮秀吉に土下座した家でしかない
謙信玄なんて徳川史観で持ち上げられただけ
実績がまったくないし

398 :
>>394
謙信が越相同盟したのは氏康恐れたからやなく信玄の勢力拡大防ぐためやん
氏康の末期は惨めそのもの、北条は関東南西部に押し込めらとったし
永禄8年には氏康自ら北条軍率いて関宿城攻撃するも謙信襲来を知るや部下見捨てて逃げ帰っとんねんコイツ
永禄9年に里見の猛反撃が始まり久留里城奪還されてしもたわなぁ
永禄10年に三船山で里見に大敗し上総国を全て失って勢い完全無くしてたやん
永禄11年には武田の駿河侵攻で本拠地小田原が西から直接脅威にさらされ大慌てで上杉・里見・佐竹に和睦を懇願
永禄12年には配下の小田氏治も手這坂で佐竹に大敗して下総国から北条勢力は一掃されとったなぁ
氏康の出来の悪い三兄弟も三増峠で信玄にボロ負けしとるし小田原の町は武田兵に火放たれ三日三晩燃え上がり焼け野原やで
大幅譲歩の越相同盟で上野国・下野国からも叩き出されて哀れやで
翌元亀元年には氏政氏照氏邦が駿河で信玄にまたしても完敗し逃げ帰ってきとったよなぁ
元亀2年に滅亡していく北条を憂いながら死んでもうたわ

399 :
なんだこのエセ関西弁はwwww
きもいw

400 :
武田や北条は謙信にガR戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガR戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い
織田・豊臣なんて謙信・信玄はおろか景勝、勝頼、氏直以下。
勝頼に勝てたのも甲江約定反故の騙まし討ちと浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖のおかげ
ガRで戦うと勝てないから岩村でも武田攻めでも騙まし討ちにするしかなかった

401 :
軍神なんて江戸時代につくったもんだしな

402 :
でも謙信より強い戦国大名おらんやろ
>>398見てみても氏康ごときじゃ謙信に歯が立たんし

403 :
>>400
氏康亡き後の北条は籠城戦には強いが、野戦はいまいちかと。

404 :
>>402
謙信より強い戦国大名はたくさんいるやんけ

405 :
>>404
ほなゆうてみろや

406 :
謙信がなぜ関東において北条により完全に影響力を排除されたのか考えてみよう。
なんでだろ?
山内殿に従うのは  太田 里見 関宿の秘書 佐竹 くらいか・・。
それも彼らが北条と同盟しないように懇願したのに謙信は部下に同盟を押し通され締結し、関東上杉派諸将は武田傘下に入った。
まぁ、その自爆はおいといての事で。

407 :
謙信より強い武将あげられない北条厨ブザマw

408 :
講談武将上杉謙信よりも史実で実績のある武将たち
織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀長、蒲生氏郷、堀秀政、黒田如水
斎藤道三、斎藤義龍、長宗我部元親、三好長慶、毛利元就、吉川元春、小早川隆景
尼子経久、尼子晴久、大内義興、陶晴賢、大友宗麟、立花道雪、立花宗茂、龍造寺隆信、鍋島直茂、島津義弘、島津家久
氏康ごときを殺せない謙信より
みんな実績あって強いぞ

409 :
むしろそいつら全員講談ネタ武将じゃねーかw
史実ではハナクソみたいな強さしかねぇしw

410 :
>>408のゴミ武将リストなら上杉中堅格の色部や築地に瞬殺されて終わり
本庄・山浦・須田などにも到底勝ち目がない
何せその中で一番上の強さ(実績)の信長家臣トップ格柴田がゴミクズのように蹴散らされて
加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガR戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い
織田・豊臣なんて謙信・信玄はおろか景勝、勝頼、氏直以下。
勝頼に勝てたのも甲江約定反故の騙まし討ちと浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖のおかげ
ガRで戦うと勝てないから岩村でも武田攻めでも騙まし討ちにするしかなかった
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団
そして毛利・島津等はその雑魚に簡単に蹴散らされたゴミ
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団>>大友>>>島津>>>>>>>毛利

411 :
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴

 70 羽柴秀吉
50 吉川 小早川 鍋島 島津(笑)

412 :
伊達が二匹いるんだが

413 :
>>407
籠城戦限定なら立花宗茂は強いと思うね。


414 :
謙信は女説はどうなったんだよ?
もし女なら最弱確定、家臣に有能なのがいただけって事になる。
織田は銃を早くに取り入れたり天才的な立ち回りや戦術が記されてる以上戦国最強は揺るぎない。
弱い武将が誰もなし得なかった実質天下統一を最初にやってのけたんだからな。
織田≧武田≧上杉>他で決まり。

415 :
>>414
> 謙信は女説はどうなったんだよ?
それは「たま出版史観」だよ。

416 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死


417 :
>>414
織田が鉄砲をいち早く取り入れた?
出典は小説かねw

418 :
織田、武田、上杉に順位つけてる時点でバカ確定
3者ともベクトルの違う強さだろ
織田は勢力としては間違いなく天下統一に1番近かった
武田はあのタイミングで信玄が死んでしまったのが痛かった
上杉は謙信がいる以上敵がまともに戦おうとしないから合戦においては負けないし

419 :
信玄と氏康の両軍と対陣して
挑発しまくってる謙信の強心臓ぶりは
長篠の戦い後の天正4年10/15の教雅の書状の中で
謙信を日本無双之大将と言ってることでもわかる。
謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。
しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。
やはり信長は戦略眼が無いが
毎回、危機的な状況での秀吉の天才ぶりが光る。

420 :
上杉謙信がもっと長生きして豊臣政権に組み込まれてたら
五大老筆頭は家康でなく彼だっただろうね。関東八州を治めてたのも。
そして律儀な彼のもと豊臣家は安泰だったはず・・・
秀吉も是非とも謙信公を部下に欲しかったって早すぎる死を
惜しんでた

421 :
越相同盟って北条が同盟条件を守ろうとせずに援軍要請ばっかするから
駿河奪還するまでの一時しのぎの方便で誤魔化して
上杉からの攻撃をそらしてるだけなのでは?と疑ってたからね。
なにせ氏政が太田に松山城を与える条件を
8/3に上田政広の本領だから反対!と主張し由良氏にまでふざけんな!と言われる。
すると8/26になると氏政は由良に上野国一国全部宛がうとか言って機嫌とってる始末・・・
そりゃあ越後諸将が武田攻めに気合いれられるわけがない。
信玄が小田原へ侵攻した時に、謙信が越中から春日山へ戻ってきて
由良氏に越山するよって伝えて沼田にやってきたら
北条は大喜びで、謙信が武田を討つから氏照や氏邦も同陣してくれと言うと
北条は「それは無理」と拒否してくるから、これ同盟でもなんでもないだろ?だし。
これへの上杉諸将の総意返答が佐野への進撃だからね。
そして北条の返答は「岩槻を渡すつもりだったのに佐野へ行くから渡さなかっただけ。
渡すから武田を攻めてよ。ただし太田の子の梶原を小田原への人質にねw
氏政の息子の養子の件も了解するから柿崎景家か晴家を交換条件に」
なんでここで梶原を要求するのかね?明らかに譲渡する気なしで援軍を出させるための詐術でしかない。
これを受けて佐野を撤退した上杉軍。
しかし人質としてきたのは氏康の子・・・
もうね北条は氏政の子を養子に送る話も一切守らず、
足利藤氏を古河公方にする条件には、いや先日藤氏死んだから無理。
仕方が無いから義氏でいいじゃんとか言って、
交渉中で謙信が攻めてこないことをいいことに古河に配置して既成事実を作る始末。
謙信は拒絶してたんだけど、広田直繁・木戸忠朝がやたらに嘆いて嘆願するもんだから
元亀元年4月に自分への広田らの忠信を黙Rるのは辛いからと義氏の件をやむなく認めてる。
しかし背後で氏政が甲相同盟復活を計画してて、
元亀2年4月上杉に指摘されると氏康は「讒言だ。そんな事実はない」と弁解してるが
実はこの時点で氏康の花押の書状はすでに発給されておらず、氏政が氏康を装って出したとされていて
邪魔になっていた氏康は氏政に殺された。
謙信も北条をまったく信用せずにすでに徳川との同盟交渉を立ち上げてる。
ちなみに里見や佐竹が上杉と北条の同盟に反対してたのは信玄の策略によるもの。
謙信も武田の勢力拡大を抑えるために北条と同盟する必要性は感じていたのだろう。
しかし北条は援軍要求で利用するだけ利用して条件は守らずの不誠実な態度から
(ボケ老人化が進行していた氏康には氏政すら言うことを聞いてくれなかった)
武田封じの同盟相手を徳川・織田に変更した。
基本的に北条は弱いので不誠実な慇懃無礼な誤魔化し外交と
負けたのに勝った勝ったを連呼する情報操作の常習犯のクズだからな。

422 :
藤氏が死んでるのをNO2の謙信は知らなかった
影響力が全くなかったってことだろ
太田に松山与える条件なんて最初からないし・・
諸将が謙信を見限ったのを見て慌ててそんなこと言い出しただけだしね
ちょっと421は無理無理だなぁ・・
また、同盟は氏康が独断で進めてた事で氏政は最初から謙信を信頼してなかったってのも大きいね
>里見や佐竹が上杉と北条の同盟に反対してたのは信玄の策略
ノブやぼファン?
関東には関東の事情があって北条と敵対しているわけで、関東守護者たる山内殿が諸将の梯子を外して皆びっくりしたわけ
だから北条との同盟を殊更に勧める謙信(山内殿)に呆れて、北条と戦う信玄に皆が降っただけ

423 :
>>422
お前アホだろ
藤氏は氏康が拉致監禁して虐殺したんだから謙信が藤氏の生死知ってる訳ねーだろ

424 :
>>414
信長って長島一揆に大敗してたよな
本願寺一揆を最後まで攻略できなかったよな
謙信は越中加賀一揆を楽勝で鎮圧してるんだが

信長は斎藤義竜に長良川で追撃され義父道三見殺しにして逃げ帰ってきたよな
浅井に裏切られて殺されそうになったよな
木津川海戦で毛利に大敗したよな
人使い荒すぎて長男もろとも部下に殺されたよな
三男信孝も秀吉に殺されたよな
次男信雄も秀吉に降伏したよな
しかも信長自慢の鉄砲は雨天や夜には全く役立たずで織田軍主力部隊が手取川で謙信に大敗したよな
信長って戦国の七雄の中で一番勝率低いんだよ

425 :
ギャンブルで、勿論ポーカーでも、重要なのはここ一戦で勝つ勝負強さだ
小額賭けた勝負に連戦連勝しても最後の一戦に全財産を賭け、すれば一文無しだ
ポーカーなんてもろにそういう傾向の遊技だからな
そういう具合に、単純に試合数と勝率を比較すればいいというもんではない
それに戦国の世は一戦、一戦に戦略上の意味合いが異なる
言うなれば本気度がイマイチというか、本腰を入れていない戦闘も多々あったろうと思われる
それは=手抜きという意味ではないが、やはり本気度がMAXではないのだろう
これは人間心理からも、勝負に生きる人間の感性からも十分ある話だ
特に中央を制圧した信長軍団は地方勢力との鍔迫り合いに一々本気では臨まないし、
平定するための大規模軍事侵攻以外では拠点を奪われなければいいだけという風に考えるだろう
上杉謙信が織田勢と戦った手取川の戦いは織田にとっては一地方の局地戦で
信長自らが陣頭指揮する必要性は必ずしもなかった
その時点でそのくらい勢力差がついてしまっている
そういう視点も事実だろうと言って置きたい

426 :
>>424
> しかも信長自慢の鉄砲は雨天や夜には全く役立たずで

謙信は長篠合戦を綿密に分析していたと思われる。

427 :
織田軍の主力は鉄砲隊だと思ってる奴まだいるのか
大河ドラマの描写を真に受け過ぎだ

428 :
秀吉離脱&信長不在で勝ったも糞もないだろ。
それを謙信の策でそうさせたってならわかるが秀吉は勝手に離脱した。
しかも信長との間を断って同盟組んで躍起になってても結局信長は討ち取られてないな。
信長は謙信だけを潰す事考えてる訳でも全くないしな、天下取りに行ってるわけで目先の喧嘩にばかり目向けてない、他の小者とそこも違う。
あと勝頼に勝ったのはたまたまとか言ってるアホ、わざと勝頼に勝ち戦を覚えさせて、図に乗って形振り構わず戦を仕掛けてくると察していてそれを迎え撃つ地形等全部想定内の事なんだよ。
手のひらの中で転がされたのが勝頼な。
因に秀吉は誰が天下に近いか、それを信長と判断し信長に付いた。
意味わかるか?
あと道三を裏切った?はぁ?
道三からの伝言は知ってて言ってんのかな?
大体敗け込んでるだけの武将が天下人になれる訳ないだろ、普通に考えてわからんのか。
謙信や信玄は戦に長けてたが、信長ほどの器量はない。
ポッと出のうつけにあんだけ勢力持たれてたんじゃお前らなにやってたの?情態だろ。
屁理屈こねてあーだこーだ言いたくなる中2病なのはわかったからもう少し頭使え。
まぁ実質、謙信や信玄を避けてたとも取れる話はあるが、謙信信玄に話を変えて見ても信長より天下への結果は出せてない、それがすべて。

429 :
>>425
そうそう、そういう事。

430 :
大体、総司令官、軍の大将が後からたかが2000〜3000くらいで余裕かまして敵地に行くこと自体ね、普通にわかるよな。

431 :
あと1つ。
名だたる武将が信長以上の結果を出せてない時点で明らかに下。
後の秀吉は信長のおこぼれなのは言うまでもない。
信長より強く器量があるなら、信長ではない他の武将が信長と同等かそれ以上の事をあの時にやってなければならない。
が、それは誰にも出来なかった。
更に後の天下人、秀吉家康は信長勢な。
もうわかるだろ?誰が一番強ぇか。

432 :
信長は合戦の勝率で言えば凡将になるけど
天下布武を唱え多国と戦いながら
確実に領地を拡げていった所は天才だろう
信長をザコ扱いするなら
信長と敵対しながら止められなかった
日本中の大名もザコになるぞ

433 :
秀吉が信長は器量なしと言っている。反乱が続いたのも頃されたのも自業自得だと。
信長を除くすべての戦国武将(上杉・北条・秀吉も)は一定のルール内で戦っていたが、信長はルールを破っていた。
ルールを破ることが器量があると言う者がいるが、その事で内部崩壊が発生したのでルールを破ったのは成功とは言えないのではないか。

434 :
ここは司馬遼太郎板か!

435 :

1 長篠の戦以降、武田は北条を着々と追い詰めており、氏政は「滅亡するかも」と泣き言を漏らしている
  その後、信長に泣きつき婚姻同盟を行う手筈だった
   ・北条が日本国の趨勢が判らないというのは×  ・長篠の戦以降も武田は強かった
2 長篠の戦直前まで、織田よりも武田が有利で戦いを避ける信長を勝頼が引きずり出した形
  最後の最後にポカミスをするまで勝頼有利に動いていた
    元自衛隊戦術教官 「古今東西の戦史を分析 退官後の最近、戦史分析本を出している人 名前忘れた」

436 :
そもそも将軍から任命された鎌倉府時代の関東管領の指揮権は
長尾景仲や長尾景信ら管領執事にして上野守護代のころを通じて
利根川以西に限られており、
以東は鎌倉公方領とその仲間たちの領地であり
利根川を挟んで関東管領と戦い続けてた古河公方を中心とした反管領地なので、
佐竹や里見の言うことを聞く道理なんてまったくないし、
永禄8年5月義輝暗殺に続く永禄9年3月義昭からの北条と和睦せよ命令に応じて
謙信が越相同盟の話を進めることに同意してるのであり、
佐竹や里見が武田に煽られて義昭の命に従わないだけの話。
さらに佐竹は「関宿凶事眼前」を憂いて越山を要請したのであって
越相同盟によって関宿包囲から北条が軍を引いた時点で佐竹の目的は達してる。
さらに上杉は厩橋北条や深谷上杉憲盛の帰参や由良足利領の館林城譲渡などでは
一切、北条の力を借りてない。北条との争いの停止にともなって彼らは帰参してきただけ。
実際、越中攻めを中止して北条の求めに応じて沼田まで越山した謙信に対して
永禄12年末は氏康が由良を通じて信玄への牽制として
「倉内(沼田)御越年」の要請を聞いて、上杉軍は冬季を沼田で越年してるなど
(氏照や氏邦の同陣拒否と言う非協力的態度ながらも)
上杉側は誠意ある態度をとってるが、氏康が家中を満足に統御できない無能ぶりで
親子間まで不協和音の迷走をしてただけなのが越相同盟。
岩槻城・松山城の太田への返却問題・氏康の息子養子問題で
北条が一切、約定の実行をしないで、いろいろ屁理屈垂れて
有耶無耶に誤魔化すから佐野侵攻へと上杉が進んだわけで、
この後に及んでも北条は約定の件をすっとぼけて
「西上野へ出陣すると待ってたのに、佐野へ向かうなんて意外です。早く西上野へ行くのが肝要です」
などととぼけまくって不誠実極まりない。
太田が反対してたのも人質として息子の梶原を小田原へ人質に出すなんて
無理な条件を北条が出してきて返す気がないから。
足利藤氏がすでに死んでいたことは誰も知らなかったからね。
つうか、越相同盟交渉時に北条が殺したとしか思えない。

437 :
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。
越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。
>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響し%8

438 :
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww
>>1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
>>佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。
なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には
本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。
織田軍で一番の大部隊で必死に謙信の攻勢を凌ごうとして焦ってる姿が目に浮かぶ。
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
なぜなら手取川合戦の存在を消すには、畠山の息子が死んだから
柴田には助ける名目が無くなったことにしないと辻褄が合わなくなるから。
もし生存してるなら当然に、戦わず撤退することが正当化できなくなる。

439 :
訂正
>>437
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け「11/3」は
現在の日付に修正したもので当時は9/23
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。

440 :
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。

441 :

越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。

442 :

もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
そもそも天正5年12月にあんだけ憎んでいた勝頼に信長は土下座して同盟の話を持ちかけて拒否されてるしwww
(むしろ織田を我らが敵と書いている氏政の妹が勝頼に嫁ぎ甲相同盟が強化された)

443 :
以上だがの妄想でしたwwww

444 :
>>443
手取川の戦いの時に
信長が畿内にいたとするソースは
いまだに出せないの?もう一年以上経つけど?

445 :
大好きな信玄が川中島で謙信にコテンパンにやられたから
謙信持ち上げに必死だなwwww
手取川の戦い(笑)捏造戦果

446 :
第4川中島合戦は軍神上杉の猛攻を最強軍団武田が受けとめた戦国を代表するのに相応しいの戦いだろうね
相手が武田じゃなければ上杉は勝てただろうし、逆に越後にいたのが上杉家じゃなければ武田の世になってただろう

447 :
>>446
講談の世界から帰ってこいよだがw
軍神も戦国最強騎馬軍団も江戸時代の創作ですぞwww
>戦国を代表するのに相応しいの戦いだろうね
田舎の小競り合いが戦国を代表ってwww
>相手が武田じゃなければ上杉は勝てただろうし、逆に越後にいたのが上杉家じゃなければ武田の世になってただろう
重臣殺されまくっておいてその言いぐさはないだろwww

448 :
信長の捏造合戦集
桶狭間=一次資料にないデタラメ
    尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上
長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
   同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死
姉川=実際には痛み分け程度 
   信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝 

449 :
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

450 :
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

451 :
てかおいwおまえの個情が漏れてるぞ
2チャンやるまえにセキしっかりしろ

452 :
浅間山噴火がなければ、武田は滅亡しなかったと考える人

               ↓

453 :
>447
これでも見て謙信の凄さを実感した方がいい
あの信玄が面白いように翻弄されている
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4.html

454 :
>>435
この人、NHKで車懸りの陣を大真面目に解説していた人物じゃないだろうなぁ
あれ見た時は戦慄し体中に悪寒が走ったのを覚えている
半ば創作された記述を鵜呑みにしすぎだろう
普通に思考すれば車懸りの陣は作者が盛り上げるために見てもないことを想像して書き込んだんだなぁと推理できるからな
およそ中二病的な発想の代物だよ、なんで気付けないのか?

455 :
スレをざっと見て氏政の謙信に対する心証が挙げられているが、
細かいこと言うなら、謙信を間近で見てきた上杉景勝にだって
後継者になった時点で信長に対して戦々恐々としている書状が残されているぞ
軍神の後継者が信長を一々怖れるものなんだろうか?

456 :
まぁ、何にしても信玄の運の無さは異常だ、大事な決戦を前に発病するなんて
しかも、そのまま病死するほどの重病とは
純粋な戦国ファンとしては、あと10年は長生きして白黒つけてもらいたかったのが本音

457 :
>>455
これのどこに戦々恐々としてる姿があんの?
こちらのことは心配いりません。
私は良い時代に生まれました。
もはや武田は滅び、私は越後一国で日本60余州と戦います。
もし生き残ることができれば古今無双の英雄となるでしょうし、
死んでも歴史に長く名を残すでしょう。
まこと武門の家に生まれた者として果報なことです」


458 :
>454
違う人だね
自衛隊の戦術教官が大真面目に謙信軍はグルグル走ってたなんて口にしたらジョークでしかないだろう

459 :
>>458
NHKの番組でそういう場面を見たことがある記憶が(笑)
戦史研究家による解説という立場で絶賛していたがな(爆笑)

460 :
しかし、金山の豊富な資金力でいい物食って、甲斐の有機農法の野菜も食べて、
滋養のために温泉にもつかっていて、
50歳前後でガンになられた日には、酷使され使役されてる農民の立つ瀬がないな(笑)

461 :
>>457
どうみても戦々恐々としてるな
生き残れそうも無い状況なのがよくわかる

462 :
>>461
ふつうに生き残ってますがwww
織田チョン必死乙www

463 :
>462
やめとけ
情けない

464 :
上杉謙信関係の博物館でけっこう大きいところってどこですかね
いろいろまわりたい
川中島古戦場にも確か博物館があったが、横目でなんどか見ただけで行ったことはない。
おすすめを紹介してください

465 :
>>464
山形米沢の上杉神社が1番良いんじゃないかな

466 :
謙信様に負けまくった武田の話はすんな
おもんねぇよ
勝手にやってろ
天目山の戦いが謙信なら逆転 武田復活できたのに
勝頼ざまあああああああああああああああああああああああああ

467 :
センゴクであっけなく一ページで死んだ勝頼と勝頼の前で懺悔した亡霊信玄
かっこわりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
まったく悲しくないいいいいいいいいいいいいいい
圧制のいいわけすぎてええええええええええええええええええ

468 :
>466
それはありそうだ
だいたい長篠の戦までは勝頼が優勢だったのだから、信玄が存命ならばと歴史のIFを妄想したくなるな

469 :
上杉神社は良かったなぁ
確か宮司さんが女性だったっけ
謙信霊廟と楠公墓は感慨深かったっけ

470 :
信長を見限った松永の動きを見ると謙信には勝てないと見てたんだろうな。
毛利にはやられ、謙信にも負けて、信長は怯えて生きた心地しなかったろうな。

471 :
謙信 信玄
どちらかがもう少し生きていれば歴史は大きく変わったな

472 :
>>419
謙信ごときを秀吉と同列に語るなボケ
謙信はしょせん田舎大名

473 :
秀吉ww

474 :
秀吉って信長の草履をお股に挟んで温めてた媚ザルだっけ?
マジきめぇって謙信が言ってた

475 :
秀吉なんて毛利輝元・織田信雄以下だろ

476 :
じゃあ謙信が負けを認めた真田幸隆が一番ね

477 :
上越市って上杉謙信の博物館・資料館ありますか?
城跡は何もないというのは聞いているのでどうしようか迷ってる
川中島も候補
埼玉からバイク(125CC)で行くので、しょーもなかったら泣きそう。

478 :
資料館は知らんけど
春日山城や高田城は見て損はないぞ。
川中島資料館も見て損はないし、
信玄と謙信の銅像はあまりにも有名だから見忘れるなよ。
ついでに上田城や松代城も見ながらゆっくり行けば?

479 :
>>476
> じゃあ謙信が負けを認めた
そうだっけ?

480 :
>>479
そんな話あったか???

481 :
横からだが、真田には知謀で7日遅れを取るみたいな内容のこと言ってた気がする
負けを認めたのかは微妙なラインだが

482 :
真田の知謀をほめたのであって、負けを認めたとは言いがたい。
また、知謀では家康を大幅に上回っていた安国寺恵瓊が
関ヶ原で家康に負けた例もある。


483 :
>478
ありがとう
明日、天候とか見ながら川中島行ってみるかも

484 :
たしか川中島博物館って長野駅からバスで行けたっけ?

485 :
子供が幼稚園振替休みで公園連れて行かされた・・
今度行ってきます(涙

486 :
古戦場にある博物館って川中島くらいかねぇ。
小牧山城は小牧長久手の戦いの博物館的な感じの展示だけど。
長篠はどうなん?

487 :
>>486
野戦ではなく籠城戦だが、小田原城近くに資料館みたいのがある。

488 :
このスレで後北条家が語られているな
前に書き込んだ後北条家に関することで誤解があるといけないので追記するが
前に秀吉遠征時期に当主が氏康ならば、お家断絶はなかったろうというのは
氏康は戦略眼がある人物なので、時代の趨勢にも敏感であるし、落としどころを探るのにも長けているという推察からだ
1.戦わずして降伏してはならない
2.いきなり野戦に打って出るが内容の如何に拘わらず、その後は領土の譲歩は覚悟して講和に持ち込む
3.その野戦で相手の出鼻を挫き勝利するか、もしくは負けたとしても善戦する
この点あたりを氏康なら見逃さないのだ、こういう戦いの呼吸を知っている男が氏康
何のことはない、徳川や島津とやっていることは変わらない
あの時点でどう足掻いても秀吉の天下統一は時間の問題、そういう情勢の中でどう最終地点を描くかだ
これ以外には滅亡・断絶以外はない、それでいいというならともかく
余り詳しくないが(苦笑)、クラウゼビッツの軍略は政略の一つ、政略の延長線上に軍事行動があるという考え方でいくのだ

489 :
篭城してる時点で選択ミスをしている、しかも内部崩壊で打って出れないとは
或いは秀吉の包囲軍が圧倒的で打って出る隙がないのか
結局、不完全燃焼のまま終了という最悪な流れに

490 :
兵力比7.5倍で野戦挑むとかアホだろ

491 :
>488
時代の趨勢は豊臣だって北条も知ってたよ。
長篠の戦後の武田におされまくって信長に婚姻同盟泣きついたりしているし。
ただ、秀吉と上杉の仲が異常に良く、秀吉は「上杉さんが北条嫌いだったら豊臣も北条とは縁を切る」と言っている。
上杉家が北条を許すわけないし、結局はあのような末路をたどることになるだろうな。
もちろん北条にも降るチャンスはあったが、「格下の家康があれだけ好条件(なか人質)で降ったのだから、北条にもメンツ立てて下さい」と駄々をこねすぎた面もある。
北条氏直は死ななきゃ北条氏出身の備前あたりをもらえる話もあるし、周囲の悪状況や自身の運がなかったとしか言いようがない。


492 :
みじめ北条蛆虫w

493 :
氏康なんて内政失敗で隠居を強要されたアホだろ。
謙信が小田原へ侵攻してきた時に
火事場泥的に復権しただけだし、
最後は越相同盟に固執して
氏政ら兄弟に暗殺されたアホ。

494 :
そして氏政も家を滅ぼすアホっぷり。結局北条は二代以降は無能者だったというわけですね。そしてその北条に蹂躙され続け越後頼みの関東諸勢はさしずめ虫けらですか

495 :
>>493
たま出版史観の信奉者さんですか?

496 :
北条マンセー学者の戯言
「氏康が引退したこの時期、武田や上杉の領国では天災が頻発していたのが一次史料から判明するので、
同じ関東の北条の領国でも同様に天災だったのは間違いない」
「えっ?w」

497 :
後北条の二代目はいい仕事したと思うんだが、目立たないよな。
巨人軍黄金期で言うと末次外野手みたいな扱い。

498 :
氏綱は扇谷上杉を滅亡寸前まで追い込み、後北条による古河公方傀儡化ルートを切り開いた
だが、その功績は河越夜戦という虚構によって、息子に掠め取られているため目立たない

499 :
扇谷上杉を無条件降伏させたのは
謙信の祖父の長尾能景だよ。
事実上、扇谷上杉はこれで崩壊してしまった。
川越野戦は虚構の軍記話。

500 :
>>497
軍事的功績は目立つが、内政の功績は目立たないからね。

501 :
上越市は謙信観光をもっと充実させてよ。
行く気にならん。

502 :
と、言いつつも今日から行くぜ!
まってろ春日山

503 :
信玄にしても謙信にしても勝てそうな戦しかしなかった
信長みたいに天下統一を目指していたわけではなかったからね

504 :
なるほど。
上越市の博物館は、宝物もやる気も両方無いもんな。

505 :
>>501
市名からしてダメダメじゃん。
春日山市とか直江津市ならまだいいけど、上越って意味不明

506 :
1971年4月29日 - 高高田市と直江津市が合併して上越市だって。
あの頃は、昔からの地名を大切にしなかった時代だな。

507 :
>>502
御実城様!!

508 :
>>501
上越市に残っている長尾・上杉家関連の宝物は少ないので上越市単独での特別展を行うには宝物が少な過ぎて無理だと思う。
やるなら新潟県全体から掻き集めるか、米沢市から借りるしかない。
新潟県内で長尾・上杉関連の宝物を見たいなら上越市と南魚沼市を梯子した方がいい。
南魚沼の雲洞庵と龍沢寺にも宝物が展示されている。

509 :
朝起きて天気予報調べると翌日雨だというので行きませんでした。
原付で埼玉から地図を見ながら行くので雨だと厳しい。
湯沢のぽんしゅ博物館が7月中旬から始まるというので、その後に行きたいと思います。
謙信公はもちろん、上越の人気があるラーメン、寿司店とか調べたので楽しみです。
三国越えで謙信が見た景色を見てきます。
>508
ありがとう

510 :
行ってきたよ〜
原チャで2日で723キロ走行。
今朝起きて春日山から帰る途中で草津よってきた。
春日山では甲冑隊が寸劇やってて歴女がたくさんいてよかったよ。
甲冑隊のクイズにこたえられたのが一人だけで柿崎の殿から褒美をいただいたよw
クイズで褒美がもらえるっていうから、子供でも当たればいいんじゃん?って関係ないモードでいたんだけど、誰も判らなくてな。
甲冑隊が困ってるから挙手したんだけど、褒美が面白い物だったから当ててよかったかも。褒美は妻への土産。
資料館系だけじゃなく、林泉寺の謙信・為景墓とか坂戸の景勝実父墓とかも寄った。
上越市のやる気のなさを聞いてハードル低かったせいか、おもったより充実していて面白かった。

511 :
上越健康ランド?が1700円で宿泊できるから安く上がった。

512 :
>508
南魚沼にも行ってきたよ。ありがとう。
それでも上越市はけっこう頑張っていて、直江兼続の鎧や当時の軍旗「毘、竜とか」を集めていた。
思ったより楽しめました。
>上越市
もちろん遺品や宝物もあった方が良いけど、靖国神社の遊就館のように一日中謙信について調査できるような博物館がほしいと思います。
別に↑の物がなくても作れると思う。歴女対策は万全でしたね。景勝役はイケメンで、謙信役は機転がきく面白い人でした。
こしひかりソフト食べ損ねました。残念。

513 :
報告おつ〜。
宝物は原寸大レプリカでもいいと思うよねー。
たまにレンタルとかね。

514 :
そうですよね〜
レプリカっていえば、馬上杯とか売り出せばマニアは買うと思うけどな。
ほしかったから探したけどね。
ないから毘マーク入りの升を買った。
今、それで日本酒(越後の高千代)飲んでる。

515 :
j

516 :
>>501
上越市にも上杉博物館を作るというのは厳しかろう。
既に米沢に上杉博物館というものがあるのだから。
更に後に上越を治めた榊原家に対する配慮もしなければならない。
上越市に上杉家当主が滅多に訪れない理由のひとつとして榊原家に対する遠慮がある。
次期当主の裕憲氏の目撃談はあるが公での来市はなく、プライベートなものばかり。
どうも宝物の寄贈や個人的での先祖供養での来市の様だ。
その代わり南魚沼のイベントには御当主自ら良く参加されている。
上越は博物館に頼らずとも長尾能景、為景、虎御膳、柿崎景家、天室光育、村上義清の墓に春日山城跡や春日神社等があるのでそれで十分だと思う。
ただ、見やすさというか利便性を考えると林泉寺の宝物と春日山神社前のお土産屋の宝物等を一か所に集めて見れる様になったなら良いとは思うが。
実現性は低いけど。

517 :
上越市は義経や足利尊氏の話が残る寺とか残っていて、そちらも楽しめた。
謙信限定じゃなくて、いろいろと歴史ファンなら楽しめる素地がある。
また、原チャで三国越えしたけど、あれは徒歩じゃぁ凄い大変だ。
関東の諸将が謙信を見限ってしまったのも距離と山の壁ってのがあるのだろうな。
坂戸城から春日山城までも100キロ以上あって、高山をいくつも越えて行かなくてはならない。
もう坂戸城と春日山では同じ越後でも全然別世界だと思っていい。
坂戸まで軍勢率いていくのだって大変なのに、三国越えで関東に行って、そのうえ戦争するなんて無謀。
しかも国泥棒を追っ払うだけなので、行動を共にする諸将は全て持ち出しだから本当に本当につらかったろうな。
こういうのが実感できたってのも今回の旅で得た貴重な体験だなぁ。

518 :
謙信の強い意気込みも本当に実感できた。
林泉寺で和紙に筆で書かれた謙信公家訓を壁に貼ってみた。
なかなか良し。
>516
榊原家も春日山で尊敬されているような雰囲気を感じた。
なかなか難しいのでしょうね。
村上義清の墓も見に行ったが、寺のどこにあるのか分らなかった。残念。
今度は米沢の上杉博物館に行ってみる予定。
10年位前にも2度ほど行ったが、当時は謙信に特段興味があったわけじゃないので残念ながらあまり覚えていない。
これまで旅は車だったが、原チャ(125CC)の旅ってのも地域の雰囲気を肌で実感できるってのが良いですね。病み付きになりそう。

519 :
上杉謙信と織田信長・徳川家康連合軍が直接対決したら?

520 :
原チャの旅面白そうだね。
2日で723キロ走行か。夜通し走ってたの?

521 :
原チャだから春日山から坂戸まで行き、三国に行くだけでも大変だといことが実感できてよかった。
謙信の信念と強い決意、そして全て持ち出しの部下を統率する力ってのがよく理解できました。
正確に言えば48時間は費やしていないが、2泊3日の旅。
初日(土)は埼玉の自宅を仕事が終わった午後8時に出て、湯沢の健康ランド(2200円)に宿泊。
早朝(日)出発し、南魚沼、坂戸を見たのちに春日山、上越市を一周。
上越の湯(1700円)で一泊し、志賀高原、草津、野反湖、箕輪城等々を寄り道しながら帰宅。

522 :
景勝父が溺れた池
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3137003.jpg.html
父ちゃんの御墓
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3137008.jpg.html

523 :
思わず買おうとして妻にメールしたら「買ってもいいケド一緒に歩くかない」と言われたTシャツ
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3137047.jpg.html
春日山から坂戸城に行くのだって、こんな山をいくつもいくつも越えて100キロ以上の道のり。
越えど越えど山がある・・。坂戸についても、更に険しい三国越え。
その後に戦争ってすごい無謀です。謙信の決意が原チャで体感できました。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3137051.jpg.html

524 :
謙信が信長のように攻め込んだ国をぶんどって本拠地を次々と変えるだけの道徳心の低さがあれば瞬く間に日本国中切り取ったろうな。
だけど、それをしない謙信だから魅力があるのだろう。

525 :
>>490
信長さん何度か挑んでるけど

526 :
>>524
そりゃ、満足に越後すら統治できていないから変える必要がないよね

527 :
謙信は晩年には飛騨も領土化してるけど、話題にならないね

528 :
信長は統一という信念が有って領土化してるからな。
武士にとっては略奪だろうけど、一般庶民にとっては歓迎すべきこと。
その点、謙信は武士の義に拘ってやたら他国に攻め込んで、
一般庶民にとってはいい迷惑。

529 :
領土化ってなんだろう?
信長の領土化といえば、反対派虐殺による既得権益解消のことかな。
坂本、長島、越前、加賀、伊勢、摂津、播磨、伊賀、、
これが一般庶民とやらに歓迎されていたかどうかは酷く疑問。

530 :
民の認める統治策なんてほとんどない。
あえていうなら自治権だが、そんなこと認めてたら好き放題やられるのがオチだろ
堺や伊勢長島のようにな

531 :
どうでもいいや。
謙信もあまり興味無かっただろうし。
>>518
米沢ー会津ー郡山ー福島のスクエアを原付で周ったらやばそうw
でも戦国時代は密接な関係だったらしい。
上杉、伊達関連がけっこう集中してる。
それに
米沢ラーメン(醤油)、喜多方ラーメン(醤油)、福島ラーメン(塩?)、郡山ラーメン(醤油?)
全部周ったら旨そう。

532 :
>>529
合戦がなくなるだけで大歓迎なんじゃね

533 :
>531
夏休みはそれで行くかなぁ
調子に乗って今日は団体役員の飲み会が終わって寝た翌早朝に出立し松代藩、川中島史跡、博物館めぐり、上田市に宿泊し
上田、真田町、(時間があれば)小諸を回ってくる予定。

534 :
>>533
小諸の隣の佐久市立近代美術館に上杉家関連の宝物が結構ある。
以前、長野市の近くにあった佐藤博物館が所有していた物。
http://www.issh.jp/satoh/museum/
残念ながら常時展示ではないのだが。
他に長野県での上杉関連の史跡名跡といえば
・飯山市:飯山城と英岩寺(鬼小島弥太郎墓所)
・諏訪市:法華寺(米沢藩4代藩主・上杉綱憲の子で吉良上野介の養子となり吉良家を継いだ忠臣蔵ではおなじみの人物)


535 :
上司の親が亡くなったので時間短縮し佐久、小諸、上田(真田)に変えた。
佐久は科学博物館しか行かなかった・・。
いつかいきたい。

536 :
今年の謙信公祭の謙信公役は現上杉家当主邦憲氏に決定
http://www.joetsutj.com/tag/%E8%AC%99%E4%BF%A1%E5%85%AC%E7%A5%AD

537 :
>536
すごい 上越市も考えたなぁ
川中島に行ってきました
妻女山から海津城や茶臼山を見たり、信玄本陣から謙信勢の方角を見て謙信が突き進んでくるのを考えたり面白かった。


538 :
>>537
暑い最中乙。
この時季の川中島古戦場は歩き回ると汗だくになるんで古戦場にある長野市立博物館や松代の真田宝物館に涼を求めて避難してる自分。
真田博物館にも景勝公の書状が展示(1年のほとんどが複製展示だが)してあったりと上杉ヲタでも結構楽しめる。
長野市は武田遺臣の真田家が治めた土地ながら上杉贔屓の人の割合が多いのが不思議ですな。
今年の謙信公祭は何がなんでも行く。
邦憲氏が米沢&新潟の祭りで謙信公役を演じるのは初じゃなかろうか?
少なくとも自分の記憶にはない。
ただ、年齢が年齢だけに謙信公というより晩年の為景公か景勝公に見えてしまう気がする。
年齢的に御子息の裕憲氏の方が適任だった様な気がする。
8月の暑い盛りだから69歳の邦憲氏には肉体的にきついと思うし。
Gacktは1回見に行っただけで残り3回は行ってない。
人混みの凄さに嫌気がさしたのもあるが、やはり役とはいえ謙信公には見えんし。
Gacktの謙信公祭を盛り上げ様という意気込みや熱意、筋の通し方には感謝はするけども。


539 :
昔、早朝に戸隠行ったら寒かったな
武田と上杉に焼かれたとか書いてあった覚えがある
あんな山奥、当時徒歩とかでわざわざ行く武士の気がしれない
Gacktは大河ドラマでてから時代劇にはまっちゃったね

540 :
戸隠や善光寺を制圧すると川中島あたりに影響力が増すから戦略上の拠点なんだね。
でも、信仰心の高かった信玄・謙信も神社を焼くんだね。

541 :
今晩20:00からBSプレミアムにて『薄桜記』スタート
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/hakuouki/
数少ない吉良・上杉家側の視点から描かれる赤穂事件(忠臣蔵)。
長尾、千坂、色部家の面々も登場。
天地人で直江景綱室を演じた萬田久子が今度は上杉綱勝の妹で吉良上野介室になる富子を演じる。

542 :
仕事で今帰った。
全然知らなかった。
見そびれた。
ふて寝する。

543 :
日記帳かよw
上杉厨っておかしな奴ばっかだな

544 :
>>543
すいませんです
青海町出身なものでつい上杉贔屓になってしまいます

545 :
上杉謙信はそれだけの魅力があるんだよなぁ

546 :
真冬に関東に救援要請を受けて越山してる最中の謙信書状に
あまりにも寒過ぎて手が震えてうまく字が書けないとか
記してあって、打算ではなく感情で動いてるんだなとオモタけど
遭難とかしないんかな。

547 :
高崎ー上田って高速道路で行くと凄いアップダウンなんだけど、
原付だとどんな感じなのかな?
どのルート通ったの?

548 :
>>542
今晩18:45から再放送。
その内、地上波でも放送するかもしれない。
と、期待させて放送されなかったら責任を取れないんで視れる時に視といて下せえ。

549 :
>>536
おお。。。。遂に上杉家当主様が遂に上越に・・・

550 :
埼玉からは、謙信が作った17号線で北上し、高崎で18号線を左折で入り西に向かう。
そして18号碓氷峠越え。
松井田で旧18号とバイパス18号にわかれるが、旧は世界遺産登録を目指す鉄道施設跡があって面白い。
明治12年につくった鉄橋とか、江戸時代終わってすぐにこんなの作れたのか〜なんて面白い。迫力がある。
また、碓氷峠群馬側のふもとは、旧宿場町で、昔の建物等も現存している。
ただし道はカーブの連続。
バイパス18号ははカーブは少なく速そう。だけど新道なので史跡的な見る物はない。
通行の度にサルを発見。
なぜだか常に3匹が一緒で、母サルが子ザルを背負ってたり抱いてたりして可愛いです。
どちらの道も群馬下仁田のクレヨンしんちゃんの著者が落下した凄い絶壁を左手に見ることが出来る。

551 :
埼玉からは、謙信が作った17号線で北上し、高崎で18号線を左折で入り西に向かう。
そして18号碓氷峠越え。
松井田で旧18号とバイパス18号にわかれるが、旧は世界遺産登録を目指す鉄道施設跡があって面白い。
明治12年につくった鉄橋とか、江戸時代終わってすぐにこんなの作れたのか〜なんて面白い。迫力がある。
また、碓氷峠群馬側のふもとは、旧宿場町で、昔の建物等も現存している。
ただし道はカーブの連続。
バイパス18号ははカーブは少なく速そう。だけど新道なので史跡的な見る物はない。
通行の度にサルを発見。
なぜだか常に3匹が一緒で、母サルが子ザルを背負ってたり抱いてたりして可愛いです。
どちらの道も群馬下仁田のクレヨンしんちゃんの著者が落下した凄い絶壁を左手に見ることが出来る。
険しいけど信玄も通ったのかな?と妄想しながら走行。
原チャだとダイレクトに風景を感じれるから車とは違った楽しみがあります。
原チャの旅をするまではバイクでツーリング行っている人とか意味が解らなかったけど、やってみると面白いです。
一昨日、昨日は秩父、雁坂峠、甲府、石和、高尾山、八王子と400キロ近くを走行して見てきました。
甲府は信玄関係はほとんど見る物がなくガッカリでしたが、武蔵野御陵は素晴らしかった。
高尾山は連休のために駐車場がいっぱいで登れませんでした。都市の駅前のように人がウジャウジャいて群れで登山道を歩いている様は、これって登山?と思う様なカルチャーショックでした。


552 :
上越も甲府もある程度マニアじゃないと簡単には楽しめないよね

553 :
沼田〜魚沼間を下で走ったことないが
楽しそうだな。
渋川〜沼田なら走ったが
利根川の左右が絶壁の細道で迫力あったわ。
上野国・信濃国・越後国・佐渡国にある曹洞宗の
僧録所寺院を支配する大寺院だった雙林寺や
白井城跡をスルーしてしまったのは致命的であった。

554 :
17号線は謙信が整備した道なんだ
初めて知った

555 :
国道17号線(三国街道)で怪奇現象が多発。
深夜に走ると天候の悪いジメジメした日に
観覧車が無音で動く姿が目撃されることがある。
天狗のいたずらとも言われ
それを見て敷地に入ると2度と出てこれない
幻のテングランドに連れさられると言う。
関越自動車道のせいで天狗が温泉付きの住処を追われた恨みだと言う。
一説に住処を追われた狸が天狗に化けてるために霊力は弱いとも言う。

556 :
最近戦国史跡の色々なところ巡ってる
上越はやる気がないと思っていたけど比較するとけっこう楽しめた気がします

557 :
ドラえもんで例えると謙信はじゃいあんで信長はすねおで信玄はドラえもん
で氏康はしずかちゃんになるのかな

558 :
テングランドの画像うっぷしてくれ。

559 :
http://nicoviewer.net/sm17677890

560 :
厠で死ぬなよw

561 :
敵に10倍の値段で塩を売りつけてにんまりw

562 :
結果的に謙信軍が無敗に近いのは「謙信軍が強かったからである」として、
では謙信軍の一体何が強さの具体的要因なのですか?
兵1人1人の屈強さ?謙信の采配?謙信軍の兵装?それともまた別の何かですか?

563 :
川中島4次は、上杉ファンでも武田ファンでもない俺の客観的立場からすると、どう見ても「武田辛勝」。
でも謙信ファンからすると、「上杉勝利」もしくは「引き分け」判定なんだよね?

まぁ両軍それぞれの「戦の目的」にもよるとは思うが、武田軍の目的は「川中島(信濃)から上杉軍を撤退させること」でしょ。
で、多大な犠牲は払ったものの、武田軍はその目的を100%達成しているという。

かたや上杉軍の目的は、武田軍の信濃撤退?それとも大将首?一体なに?
4番バッター含む強打者達をことごとく討ち取ったが、その他の選手に活躍されて(討ち取れず)、結果的には試合に負けて撤退・・。
ってとこじゃないの上杉軍は。

ここは潔く認めるべきところのように思うが。

564 :
上杉軍の目的・・・ぶっちゃけただ戦いたいだけだったりしてw

565 :
野球じゃ死人はでないからね。
武田信繁が討ち取られ、
武田信玄と武田義信が不仲になり、
後継体制にしこりを残す原因になった。

566 :
>563
信玄の戦争 
↑これを読んで信玄の戦い方について学んでみると面白い
秀逸の書だよ
歴史家とか小説家ってのは戦争についてはド素人だから、貴方の様な意見も多いが、戦史・戦術研究者の本を読めばそんな意見は簡単に口にできない。
第4次は孫子の具現者たる信玄が謙信という天才指揮官に徹底的に翻弄された珍しい戦い。

567 :
上杉総合はここでいいのかな?
質問なのですが、
歴代古案の612、「地下鑓触之覚」の原文はどういったものだったのでしょうか。
近くに大きな図書館もないので……
どなたかご提示頂けませんか?

568 :
地下鑓触之覚
一、やり
一、なは 弐歟 廿へろつゝ
一、なた
一、くは
右、鑓二百ニ小簱三本宛、并壱人ニ如此四様為持可出由、堅可被相触候、此度致武具罷出者ニ者、急度可有御褒美由、被 仰出、被成 御印判候者也、仍如件、
永禄十弐年二月六日
豊守(花押)
景綱(花押)
景家(花押)
(謙信御朱印)
羽田六郎殿
岩船藤左衛門尉殿

569 :
謙信は武田に野戦で大きな打撃を与えるのが目的だろ。
謙信が戦果に満足して帰宅してる点からもそれが伺える。
信玄は兎に角守り抜けばいい。被害は半端なかったが会戦前の領地は守り抜いた。
つまりお互いに目的を達したわけだから「引き分け」

570 :
謙信は信濃の村上、小笠原とかに領地を戻すことが目的だったんじゃぁ。

571 :
>>568
ありがとうございます!

572 :
上杉謙信の新書読んだら参考にしてる史料がせいぜい上杉家譜、
これでも良質なほうで北越軍談まで利用し始める始末
坂本龍馬を語るのに「竜馬がゆく」を一級史料扱いするようなやり方取ったらそりゃ無敵だわw

573 :
小説なら何でもいいんじゃん?
キャラを作家がいじって物語化するんだから。
2年位前に私が読んだ謙信はアムロ化していて気持ち悪かった。

574 :
>>572
お前が安い一般大衆向けの本を買っただけだろw
選択眼無さ杉ワロスw

575 :
上杉謙信は戦いに関してだけならスレタイの通りかもな。
ただ総合力では信玄や氏康のほうがどう見ても上。

576 :
悪政で引退に追い込まれたが権力の妄執で強引復帰した爺の氏康w
川越野戦も捏造w
三国同盟で今川や武田よりランク下な内政ゆえ分国法すら作れなかった無能なのに民政のプロと捏造w

577 :
>575
総合力って土俵が違うのに比べられないだろ
謙信は秩序を重んじる義将
信玄は義理も秩序も関係ない、勝てば良いんだという謀将
北条は国泥棒

578 :
信玄の孫子の体現レベルは本当に高いよね。
戦わずして勝つ 己を知り敵を知る 孫子が乗り移ったようだ
ピンチになっても外交をひっくり返して乗り切ったりとか凄い神業を連発
こんなに孫子レベルが高い武将は他に存在しないだろうな
ただ、弱者の兵法である孫子の弱点、侵攻速度が極度に遅くなってしまうってのは乗り切れなかったようだ
孫子だから仕方がないけどさ

579 :
>>578
お前「信玄の戦争」読んだだろw

580 :
謙信が戦に強いってのは違う
元からの経済力、国力が凄いから=強いが正解
現に親父も強かった景勝も謙信に劣っているとは思えない

581 :
>>580
いや、謙信は戦に強かっただろう
軍の構成(鉄砲隊が何割とか足軽隊が何割とか)は他の大名と
それほど変わりないのに野戦では他を圧倒していた
因みに為景も戦上手だけど一向宗にも負けたりしていた
景勝はガチで戦上手、景勝の場合は越後の内戦で疲弊しているのに
織田にも負けなかったし北条もボコっている
景勝本人が参戦しての負け戦は新発田重家くらい
つまり国力、経済力に関係なく謙信とこの家系は戦上手なんだよ

582 :
>>581
野戦で圧倒っていうほど分かりやすい野戦の記録ある?
正直川中島ぐらいでしょ

583 :
謙信は将軍や関白が戦国時代を終わらすために期待をかけたほどの名将だからな。
信玄の邪魔のせいで戦国が長引いたという事だよな。


584 :
まぁ野戦挑発しても
みんな戦闘を避けて道が開ける時点で
モーセが海を真っ二つに分けて通過するような神レベルだろ。

585 :
>>584
そんなもん信長の上京と変わらんよね
信長は最後の最後まで義昭を京都にとどめおくことに成功したぞ

586 :
信長は必死に謙信に贈り物送ってご機嫌取りしてたなw

587 :
>585
謙信は皆が心服して道をあけた
朝倉も六角もね
そして京では松永久秀が謙信の兵の宿の手配をした
関白は謙信が戦国を終わらせるために下向し各国を説得して歩き、蘆名は越後を武田から守るために出兵し警備。
信長のように他国を切り取って脅迫するんじゃなく謙信の人格に平伏した


588 :
織田=本願寺を屈服
上杉=各地の一向一揆に苦戦

589 :
>>588
えっ?本気で言っているの?w
各地の一向一揆に大苦戦して多くの武将失い、本人も大怪我させられたのにw
手取川合戦前は一向宗も本願寺も謙信の協力者だったろ?

590 :
謙信公が凄いのは長篠の戦で弱小武田軍がほぼ再起不能の致命傷を受けたのに
信濃に攻め込まずに敢えて越中・能登を攻め取ったところだな
ここが信玄と謙信公の決定的な違いだとおも
信玄は弱った相手なら例え同盟者だろうと獣の如く情け容赦なく飛び掛るDQNだったが
謙信公はそういう卑怯千万な真似はせずに織田との直接対決も辞さない構えだった
極悪非道信玄と正義を貫いた謙信公の生き方の差がその後の両家の命運を決定づけた

591 :
謙信の行動に美を感じ
義の将と呼び、
その対立概念化により信玄を欲望で行動する人間と講談軍記が、
読み手を楽しませるために記号化した。
信玄が欲深く油断ならない策謀家と演出するあまり、
想像が先走り、鷹を横に置いてる油断ならない肖像画まで、信玄の肖像画だと思い込むようになった。
実際の信玄肖像画が大人しくて育ちが良さそうな顔つきである。
実際に極悪非道な行動をしてるのは信長。

592 :
数を上回る武田に本気モードで決戦しかけるわけだからなぁ。
そんなんやる武将いないし。
それでも戦闘自体は勝ったと言えるくらいの戦果だし。

593 :
謙信があと5年長生きできれば北条討伐や信長討伐が見れたろうに。

594 :
>591
信玄は戦争の後の人身売買や捕虜売買で相場の何倍もの額を吹っかけたりしている。
謙信は越軍には一切やらせず、軍下に入った関東の者にもやらせなかった。
ゆいいつ残っている記録は、関東の将に、相場の1%の額で捕虜兵を返還するよう命じている書状のみ
相場が100万だとするなら、信玄は300万円支払わないと、お前んとこの親父を人買いに売り渡す!
と卑劣な事をしているのに対し、謙信は
「1万円で婦女、兵を返すから直ぐに受け取りに来てほしい」
ってこと。
信玄はずいぶん資金が潤ったようだが、謙信はそのようなことはしない。


595 :
謙信は公儀として人身売買等の悪習をなくしたかったんだろうな。

596 :
         ',ヽ、
          i  \__| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
         l   ヽ/        !
          l   /  .r―――┐l
.          l  /   /      | |
          ,ゝ、',,,,,,,,_/       | |
        , '     / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
       , '     / zェ:、、,_   _,,、」,
      /      /.          |
.    / ./    /  ヾニ・=  .i =・コ
   /  /     /         l   |
  /  ./     ./      ィ   ,l  .!
/   /     /,..     r'`ニニヽ,  .l'、
.   , '      / l;;;ヽ  ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、  まあわしと対等にやりあえるのはMスくらいかな
.  ,.'      /. ヾ;;;;`‐、';:;:;:;`;;;;';;;';";;/  l ヽ、_
、. f.-、     /ヽ  `':、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン  |  | ト、
. ヽ,i'" `'i:、  .∧ ヽ    `''''ーァ'7"   l   l |  \
     | ` '  ヽ ヽ     , ' ,:'    /   | |

597 :
人買いに売るのと虐Rるのじゃ虐Rるほうがひどいな
ってことで虐殺魔信長は論外 あと謙信も基本的に基地外だろ

598 :
武士そのものが基地外

599 :
大将自ら刀振り回して手打ちとかしてるノブと謙信
この基地外がw

600 :
勇ましいではないか
大将が武勇を示せば兵も湧きたつのじゃよ

601 :
信玄は戦争の後の人身売買や捕虜売買で相場の何倍もの額を吹っかけたりしている。

上記のソースはなに?

602 :
甲陽軍鑑じゃね?
藤木久志の本に書かれていた。

603 :
>>600
自分が毘沙門天だとか言い出したり 相当の基地外だろ
ドラマでは美化されまくってるけど現実はそんなもんだ
 

604 :
なんだよ藤木久志って、
基地外捏造左翼のアサピ新聞の出版したクソ本かよ…

605 :
藤木久志は左翼脳で
いかに、民衆が苦難の暗黒時代を生きてきたかを
主張して暗に共産主義の良さをマンセーするために捏造するからな。

606 :
>>603
キチガイに勝てなかった信長や信玄は、
キチガイ以下かw

607 :
まあ落ち着けよ 基地外でも同じ基地外の信長は軽く虐殺できたじゃないか

608 :
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書) [新書]
乃至 政彦 (著)
↑面白い 
最近読んだ中じゃ傑作
関東の情勢とか当時の武将達の考え方とかに沿って説明
戦後の「幕府や管領なんか意味のない権威」等と言った考えの人にはよく読んでもらいたい

609 :
>>596
職場の上司に似すぎて吹いたww

610 :
守護権力は守護大名が傀儡になっても存続して
抵抗勢力になっていたから
将軍から守護同様の権利をもらって
家格を上げないと軽視されるって言うのを
知らないアホが本を書いてたりするとなえる。

611 :
謙信も景勝も無欲杉だろ
もっと天下に飢え杉だったら
天下は謙信か景勝のもんだったはず

612 :
謙信も景勝も無欲杉だろ
もっと天下に飢え杉だったら
天下は謙信か景勝のもんだったはず

613 :
本当にそうだよな
あの強さでノブみたいに分捕りやってれば瞬く間に諸国を制圧しただろうな
しかし、それをしないのが謙信の魅力
景勝って戦争強いの?
あまりそういうイメージないんだよな
最上にすらあれだし

614 :
御方の乱で武田、北条を敵に回し生き延び
その後織田軍の猛攻も見事に凌いでいるのでかなりの戦上手かと

615 :
無欲すぎて後継者を育てなかったんだから
そこが一番無欲の悪いところ
しかし一向宗と和解した謙信は無双すぎる
まあ信長も無双したかもしれんが
信長もしくは秀吉との対決があって欲しかったなあ

616 :
御方は外交力。
織田の猛攻には押されてたけど、光秀がノブ殺して助かったとしか認知されてないんだよな。
織田を破ったりしたんですか?

617 :
下越が反乱してる中で森や滝川撃破してるじゃん。

618 :
>>612
無欲だからこそ生き残れたともいえる。
平氏、源氏、北条氏、足利氏、豊臣氏、徳川氏とトップに立った武家の末路は御存じの通り。
徳川氏を除いて滅亡。
徳川は時代に助けられて存続しただけで武家政権が続いていれば滅亡した可能性がある。
『出る杭は打たれる。』という言葉がある様に古今東西目立つ存在になると必ず叩かれる運命にある。
家を残したければトップに立つべきではない。
本当にいったかどうか知らんが毛利元就が子を前にこれ以上の領土拡大や天下を目指すなと言ったのはそういった過去の歴史に学んだ発言だったのかもしれん。
仮に言っていなかったとしても、そういった逸話を残した人間が過去の歴史に学んで逸話として残したともいえる。
上杉家が天下を取っていたなら何処かで滅亡し、謙信はもちろん歴代当主や家臣の墓や宝物も残っていなかった可能性がある。

619 :
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。

620 :
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田

621 :
>>613
景勝が出陣した戦は殆ど不敗じゃなかったかな?
織田や北条や徳川にも勝っている。唯一負けたのが新発田重家くらいじゃない?
因みに最上を攻めあぐねていたのは直江。その直江も長谷堂で数日足止めされ、その間に西軍が敗れたけど、
長谷堂までは瞬く間に最上の城(三つ位)を落としていたよ。
同時期に本庄が伊達政宗本軍を福島でボコボコにしている。
徳川と景勝が戦っていたらどうなっていたろうね?徳川は撤退させられていて、
東軍につくか西軍につくか決めかねていた大名は西軍についたかもね

622 :
鮭延の口述記録は面白いね。
長谷堂城に上杉軍が来るころの最上内の雰囲気は年寄衆までもが
「最後には我々が負ける。厳しい戦いだ」といいあっていたと書かれてるし
長谷堂合戦で包囲後に唯一、上杉が攻撃してきた24日の戦いの記述では
義光が自ら長谷堂で指揮を執っていて、夜になっても戦いは終わらず
晩遅くについに最上側が追い立てられ義光の雁金の指物が完全包囲に陥り
撤退不可能になっちゃう。そこで鮭延が小高いところにそれを押したてた。
義光からの伝令で「なんとしも俺の指物を引かせろ」と命令がきて
鮭延が「鉄砲50でも100でも届けてくれ。鉄砲で相手を怯ませて、そのタイミングで引く」
と答えたものの義光は鮭延が留まっていたのを知らずにシカトしてたが
それを知って自らやってきて指物をひかせろと再度命令。
「だからさっきも言ったじゃん!鉄砲よこせ」「わかった」
これで30挺が届けられた。ついでに伊達の援軍が近くを通過したから
ここに上がってきてくれと頼むもシカトしてどっか行っちゃう。
安食七兵衛が今度は通過してきたので「ここに上がってきてくれ」というと
「わぁった」って行って上ってきたが上杉側から鉄砲の集中攻撃が加えられ
鮭延にあたった玉は鎧を通過せず、安食は股を打ち抜かれた。
そして30挺で反撃したタイミングで二人は引き上げてる。
直江ものちに出羽守雁金指物の激しい取り合いで牛のように驚かず
立ち回った方がいて取れなかったが、あとで鮭延と聞いた」と言ってたそうだし
最上方の誰もが直江方は強かったと話していたという。
また10/1の上杉の撤退戦では16時ごろ敵を追い崩したところ
上杉方が踏みとどまって200挺で反撃してきて、
敵軍もそれに合わせて引き返してきたから
最上軍が慌てて撤退する状況になったが
のちに鮭延がそれにしても見事な鉄砲殿だったと感嘆したところ
直江の鉄砲大将の鉄孫左衛門と言う人物だったのがわかった話とか。

623 :
越中にしたって御館の乱とその後の混乱の中で
織田軍はそれに乗じて占領もできず
河田長親が病没するまで見事に一進一退だったし
その後に越中方面の総指揮官になって越中三大山城のひとつである
松倉城に入って越中方面を指揮していた須田満親が篭城してたからなぁ。
平城の魚津城は所詮、松倉城の支城でしかないんだわ。

624 :
景勝すげぇ
本当にすげぇ
謙信が育てただけあるな
真田一族―家康が恐れた最強軍団 相川司 (表題はアレですが、中身は結構濃くて面白い)
↑の本に真田昌幸は景勝に心服していて、軍を起こしたのは徳川の上杉攻めに参加、三成の西軍としてじゃなく、上杉と共闘するために軍を動かしたと現存する様々な書状から仮説を出している
上杉は佐竹と真田と共闘して関東乱入を企てたという。(直江状の時ね)
謙信だったら家康如きボコボコにしたかなと自分の中でIFを楽しんでたのだが、景勝も劣らずに相当強かったんですね。
正直、あまり活躍したようなイメージがないので甘く見てました。世間知らずでした。

625 :
景勝戦争弱いのに、よく真田昌幸もついていくなぁと不思議だったが、実はすごく強かったんですね
直江も。

626 :
・御館の乱で国中が二分し武田北条葦名伊達が敵方で越後侵攻してきた状態で見事勝利
・80年までの内乱や平定戦で国はボロボロ。その頃には本願寺と織田の和議がなり
越中や能登の衆も次々織田方に従い下越で新発田が乱を起こす等絶望的な状況で圧倒的兵力で迫り来る織田相手に
越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めた
・信長死後の信濃で家康の誘いに乗って寝返った屋代氏や塩崎氏ら信濃衆を瞬殺(天正11年・12年)
・83,84年二回とも麻績・青柳の戦い小笠原、青柳、仁科衆ら4000に大勝し、
徳川の北信方面への進出を完全に頭打ちにさせる
(小笠原貞慶は笠系大成や岩岡家記でその能力や器量を賞賛される程の武将で1582年に家康の支援を得て府中に入って以来安曇・筑摩を北部を残し統一し
小県の領主も多く従え諏訪の一部も領有出来た程有能な武将)
・真田とともに信濃で徳川、上野で北条(ともに大軍)を撃退した
・新発田との八幡表の戦いに見事勝利(天正11年)
・赤谷・津川の戦いで新発田を援助してた葦名に勝ち輸送物資を大量に強奪 
・佐渡平定戦
・本庄に援軍送り出羽庄内を奪った十五里が原の戦いで大勝
・小田原合戦で国境を守る松井田城を撃破
・北条氏邦が籠もる絶対死守の5000の鉢形城で血で血を洗う激戦を制する
・北条が小田原侵入を許すため最終絶対防衛とした八王子城をわずか1日で落城させる
・大阪の陣の今福・鴨野の戦いで豊臣方の大軍を破る
地味だがなかなかだな

627 :
御館の乱で景虎が負ける可能性なんて普通に考えればなかったはず
機先を制して御館を占拠し国内国人衆を次々味方につけ
伊達蘆名武田北条に援軍要請し実際皆景虎方で越後に出兵(蘆名なんか春・秋と二回も出兵してる)
普通に敵方が迫り来る中本城と枝城の連絡を復旧しつつ
周辺諸大名をこぞって撃退した景勝がなかなかだったというだけの話だろう
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
北条武田葦名伊達の介入のせいで国内がガタガタで天正8年半ばまで内戦が続き、後半になると新発田が挙兵するなど
一層弱体化する要因となるが

628 :
>>626
なかなかというよりここまで来ると軍神の称号与えてもいいんじゃ…

629 :
>621
ところが↓は関ヶ原と上杉は全く連絡を取ってない別個の出来事と書状から説明しています
   真田一族―家康が恐れた最強軍団 相川司
もちろん、西軍につく大名も出てきたと思います

630 :
謙信公祭から帰還パピコ。
午前中は南魚沼の史跡名跡巡り&お世話になっている方々への御挨拶。
昼間に車を走らせ春日山へは13時に到着。
客足はGacktが来る前までの謙信公祭に戻ってスカスカ状態。
とはいえ個人的には客足が少なかった頃のアットホームな謙信公祭が好きだったので今年の祭りは楽しめた。
ただ、気温が高かったため、祭り会場で熱中症等で倒れた人が出たりして行列を止めて上杉軍団が救急車に道を譲るという初の珍事もあった。
自分は上杉家御当主様に合わせて歩道側を一緒について歩いてた。
初めて見る御当主様を見ながら「この方の身体の中には為景公や政景公、景勝公や仙洞院様の血が流れているのか・・・」と思いにふけってしまったのと同時に鳥肌が立った。
本当に貴重な経験をさせてもらいました。
ひとつ残念な事として御当主様は25日に上越に来られたとの事だけど、林泉寺の裏山にある虎御膳様の墓前に手向けてあった花はどうみても5日くらい経って萎れた花。
つまり26日の昼時点で御当主様は虎御膳様のお墓参りをされていない。
栖吉or古志長尾氏に対して今でもわだかまりがあるのだろうか?
虎御膳様のお墓参りをしてくれている事を切に願う。


631 :
お前は家来なのかよw

632 :
>>630
レポートありがとう
来年は行きたいなぁ

633 :
9月16日に栃尾でも謙信公祭があるでよ
http://tochiokankou.jp/

634 :
謙信公祭、行きたかったなぁ。
遠いからなぁ。
栃尾はもっと遠いか。
一度見たい。

635 :
謙信公祭での上杉邦憲氏の挨拶
『「はやぶさ」は7年かけて帰って来た。それに対して、1598年にこの越後を出て行けと豊臣秀吉の命令によって、会津から米沢と移り、414年経ち、やっとここに帰ってきた 。』
以前、武田信玄の事を信玄公と呼ばれていたのに対し、秀吉は呼び捨て。
歴史家の中には会津への移封は上杉家と石田三成との協議の末だった見る者がいるが、この発言からして少なくとも上杉家の視点からはそれはないという事が判る。
豊臣家に対して恩義というより恨みに近いものがあったという事だね。
歴史家の推測より当事者の家に伝わる言い伝えや記録の方が重い。

636 :
相川司氏の真田本、上杉本にも関東管領として誇りを持つ上杉家を
  戦費調達のためい金山、港等の取り上げ
  東北ブロック長を任命し関東から移動
  かわりに北条と血縁関係の深い家康を関東ブロック代表として送り込む
させた事に関し恨みを持たない筈がないとさまざまな書状を元に説明されていた。
氏の説を支持しているが、現当主の言葉から確信へと変わりました。

637 :
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337347672/384

638 :
おまえら藤木の本をろくに読んでないだろ
あれは謙信を人狩り魔と批判するような事は書いてない
むしろ人質値段の相場は格段に安かったという事を
書いてあるようにむしろ謙信擁護本だ
朝日だからと食わず嫌いするな

639 :
そもそも新潟県出身の藤木が謙信の事悪く書くはずないけどな

640 :
9月6日のTHEナンバー2(BS-TBS)は直江兼続&片倉小十郎
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/

641 :
>>638
お前こそもう一度読み返せよw

642 :
景勝って謙信の事を毛嫌いしていて、春日山城に遺骸を放ったまま会津にうつったんだね。
葬式も何もやらずに、家康に上洛するよう要請された時に理由づけで23回忌やっただけ。
なんかガッカリ。
氾濫で上田の序列が下げられたりした逆恨みかな。


643 :
>>642
それは馬鹿な研究者が広めた誤解だよ。
景勝は謙信死後、毎年供養している。
それに遺体は景勝の私物ではないから。
好き勝手に移動させらない。

644 :
でも、春日山城に放置で堀に苦情を言われたってひどくない?

645 :
>>644
放置じゃなく手厚く弔われていた。
謙信と憲政は景勝が高野山に
供養依頼している。

646 :
一度埋葬してしまったら例え身内であろうと簡単に掘り起こしたり、改葬は出来ない。
それは死者を汚す行為でやってはいけない事。
真田昌幸や毛利元就の墓とて移封先には移されていない。
謙信の場合は普通の埋葬とは違いミイラ状態であったため簡単に掘り出せる事。
それと遺骸が越後に残ったままだと民衆の心が上杉家へ残り続けるため、
それを切り離すため堀が謙信の遺骸を移封先に持っていくよう強く勧めたと言われる。
その証拠に土葬・火葬されて葬られた能景や為景の墓は上越に眠ったまま。
位牌のみが移封先に移った。

647 :
なるほど。
長尾「喜平次」景勝
上杉「三郎」景虎
喜平次は代々長尾家 三郎は代々上杉家
ってことで、謙信は景虎に関東管領上杉家を継がせ、景勝に長尾家を継がせて景虎の補佐をさせようとしたのを、反北条に燃える
景勝がクーデタターおこして上杉家を乗っ取ったってのは今や定説ですかね。
先代管領も謙信が決めたとおり景虎を支持したから口封じに殺したとかって。
確かに先代が生きていて反景勝的な事を言い出したら困るものな。

648 :
それ古い説だから。

649 :
>>636
まあ普通に考えて上杉家臣も会津や米沢なんて嫌だろう。
命令だから仕方なく住んだが、新津くんの涙の逸話からしてみて江戸期通じても本心では越後に帰りたかったんだろ。
祭りには遠征していったが現当主も榊原家への遠慮もあってか今回ようやく上杉の永年の思いを言えた感だったわな

650 :
>648
今はなんですか?

651 :
そもそも長尾は代々「喜平次」じゃ無いし、上杉も代々「三郎」じゃ無いべ

652 :
今は、上杉景虎は後継者ではなかった
と言われる。

653 :
>652
なぜ?
すごく興味ある
647がわだかまりなくスッと入ってきたんで

654 :
まあ当時の人が、「上杉謙信が戦国最強」って言ってるもんな
これ以上の証言はないよ

655 :
>>562
謙信軍は1対1で無類に強かった

656 :
>>653
御館の乱スレいってこい。

657 :
>656
たいしたレスがないですね
647のように根拠をしめしているわけでもなく、血がつながってないのが継ぐなんて許せなかったんだろう的な憶測ばかり?

658 :
>>657
>>647の根拠とやらは>>651で否定されてる件

659 :
北条との同盟で上杉景虎が養子になった。
同盟が切れて北条と敵対すると
上杉景勝が養子になった。
これにより景勝は御中城様と呼ばれ、
急速に存在感を高める。
一方景虎は御

660 :
景虎は、その時にも景勝より立場は上なのではない?

661 :
徐々に影が薄くなっていく景虎が一念発起して先代管領を担いで乗っ取りを企てたのかな。

662 :
直江兼続は上杉謙信の隠し子だから、兼続が支持した景勝には大義があるってこと

663 :
>>662
なんていう歴史小説?

664 :
謙信の生涯の合戦のほとんどは城攻めだし
小競り合いと、にらみ合いばっかでろくに合戦してないし
でかい合戦したことないから最強ではない

665 :
呂布相手に戦いたいと思うか?
つまりそういうもんだ。

666 :
最強って証明する理由に全くなってない

667 :
武田と北条を相手に挑発しまくるも戦を避けられる。

668 :
武田信玄も逃げまくったからな
まさに最強

669 :
あれだけ凹られ、弟(信繁)まで討たれたら逃げるしかないでしょ
信玄は基本的に勝てる戦しかしないし

670 :
それ以前に第1回から3回まで信玄は逃げまくってて、
4回で盛大にやられ、それ以降は逃げまくり。
謙信こそ絶対最強!

671 :
1回目で凹られ、その後はずっと避けてたんだけど、4回目で信玄がずっと有利な状況を謙信がつくったことで、「もしかしたら勝てるかも」と思わせておびき出した。

672 :
信繁討ち死には武田にとっては致命的だった
むしろ信玄討ち死にで信繁が義信の後見役だったら
早々に信長臣従で武田家があんな惨めな滅亡を
する事はなかっただろうな

673 :
これが信長脳というやつか

674 :
>>671
結局、これに尽きると思うよ
謙信はよく城攻めは苦手とか言われるけど、周りはもウチにも敵だらけで、
長期戦できない状況なら城攻めが上手くいかなかったのもしょうがないと思うな
無闇矢鱈に城を力攻めにして撤退ということも少なかったみたいだしね
川中島第五回みたいに二万の軍に立て篭もられたら手は出せないよな

675 :
2万で籠城って何?

676 :
10万の兵を率いて北条相手の関東征伐は烏合の衆だったから仕方ない
でも10万の兵を率いたことがあるのは謙信と秀吉だけ
謙信の何がすごいかって言うと、あれだけ全方面に喧嘩売っても勝ち続けたこと
戦国最大の激戦区だった関東甲信越で、
長距離遠征につぐ遠征を繰り返したにも関らず、
無事に越後やその周辺国を守り切った
相手は武田・北条・一向一揆・織田など戦国トップクラス
それでも晩年には100万石以上まで領土を増やしてるし、
内政家としても越後を大いに富ませることに成功した
青その独占、日本海側の航路、関所や街道の整備、関税など
商業だけでも毎年10万石以上の安定した収入があった

677 :
謙信は凄いよ
越後軍を戦国最強且つ忠義に厚い誠の軍に鍛え上げた軍神
御館の乱でボロボロだったのによく滅びなかった
裏切り・寝返り・敵前逃亡の雨霰で滅んだ隣国とは大違い

678 :
戦争ばかりに目が行きがちだが、確かに謙信の経済を富ませる政治力ってのも凄いよね。

679 :
>>677
後継者決めないで便所で死んだクズは黙ってろ

680 :
謙信の合戦は小さい勝利をコツコツ積み上げた感じで説得力に欠ける
島津みたくインパクトのある合戦が全くないとこが痛い

681 :
>>680
川中島や唐沢山なんかインパクトあると思うけどな。
むしろ島津の方がインパクトない様に思えるよ。

682 :
織田オールスターを破った手取川なんかも凄いよね
北条相手にも凄い戦いしているし。

683 :
要するに合戦で戦局を変えたことが無いんだよな謙信は
島津なら木崎原とか耳川とか沖田畷とか朝鮮出兵とかたくさんあるけど

684 :
>683
結局は全て台無しになってる
私は島津も強いと思うよ

685 :
上杉は武田以外ぶるって逃げるから、
合戦にならんのだよね。
まともにやったのが越中で、
速攻滅ぼされたw

686 :
武田も第一回以外は逃げまくりだけどね
4回は謙信が死地に小勢で入ることによって「勝てるか?」とおびき寄せてぼっこぼこ。
もうガRでは話にならない。

687 :
謙信は台風みたいなものだ。
城にこもってやりすごすしかない。
城にこもっていれば、そのうち去っていく。

688 :
>>686
結局ボッコボコに挟撃され逃げたのは謙信だろ?
勝てるか?と五回もガRで信濃に攻めこんで越後に逼塞しましたおめでとう

689 :
えっと・・
謙信より大軍なのに逃げまくり城に篭りまくりだから、あえて死地に少数でもぐりこんでおびき寄せたんだけど・・。
ちょっと688の解釈しているひとはレスするに値しないと思うけど。

690 :
突撃しようとすればいつでも突撃できたのになんでしなかったんだろうな謙信は?

691 :
織田チョンってほんとアホなレスしかしないなw

692 :
>690
ハァ?
こういうのをゲーム脳っていうのか?
688も悲惨
ゲームから入るのも良いが、思考が単調になってしまうのは残念なことだ。

693 :
こっちが はぁ?だよw
謙信厨ってこんなキチガイ揃いなのか

694 :
謙信はほっといても放火しかしないから
ほっとけば帰るから
戦わない理由付けなんていくらでもできる訳で

695 :
北条も武田も凄い守備的なんだよね
第一回川中島で謙信さんはもう格上ですねって感じかな
その後は4回目の信玄と手取川の織田しかまともに挑んでない

696 :
謙信は武田北条2軍相手にガチやろうとして回避されまくりだから、
野戦最強だけど、
戦略面や調略外交では一向宗や本庄寝返りなど、
信玄の方が圧倒している。
まさに龍虎相打つ好敵手って感じで互角かな。
むしろ北条は越中一向宗よりザコ

697 :
野戦回避されるから最強?
とんでもない屁理屈だな

698 :
回避されたとか 戦おうとすればいくらでもできたよな
謙信も回避してるんだろ 結局w

699 :
逃げまわってる謙信より長篠で突撃した勝頼公のほうが強いよ

700 :
謙信相手だと、武田と北条が協力してやっと互角って感じ。

701 :
本当にバカだな

702 :
>>625
直江が強いわけないだろw
小早川隆景の足もとにも及ばない

703 :
相手が弱いなら是が非でも攻めかかればいいだけ 
それをしないで相手が逃げている俺最強とかアホですか?謙信

704 :
馬鹿でも分かるように言うとだな
サッカーだと弱い方が守備的を固めるだろ?
それと同じ

705 :
3倍の軍勢で陣城に篭って柵を何十にも張り巡らせて物陰から飛び道具使った織田さんディスってんのか

706 :
強かったんだろうけど、周辺荒らしただけの生涯だったな
早死にが惜しい

707 :
>703
自分がバカ杉なのわからないかなぁ
ちょっとまともに話もできない
自分の1,5倍の大軍のこもる城に突撃ってアホ杉
城に行って観察してみろ
バカなのがよくわかるから
中学生か?
守備が固いなら自陣のゴールキーパーの位置からシュートすれば良いじゃんってくらいアホ

708 :
>706
謙信の名声で序列第4位の大名として東北統括奉行として君臨したのだから成功ともいえる。
結局関東は回復できなかったけどね。

709 :
サッカーに例えるバカなんとかしてくんない?

710 :
バカにはわからないと思うけど、それが軍事上のセオリーなんだよ
ちょっと難しいかな???

711 :
中学生だと思ったら小学生だったようだな
難しくてわからなかったか?
崖の上に5人が木刀や石をたくさん持っているところに、3人で木刀もって崖を這い上がり打ち倒せると思うかい?
崖をのぼってる最中に石で頭を打ち割られて崖上にたどり着くことすらできないだろう。
城をゲームの感覚でしか持ってないからわからないんだろうな。
自分の目で見て歩くのも面白いよ。
小学生なんだから、お父さんにつれていってくれるよう頼んでみたら?
赤穂城とか面白いよ。山鹿流w

712 :
これが謙信厨か!

713 :
織田厨キモい

714 :
謙信は野戦で放置されただけ
言い方変えればこう言えてしまうわけで
回避されたから最強ってのは暴論すぎる
もっと説得力のあること言えないのかね

715 :
手取川で4万の織田勢を1万8千程度の兵で蹴散らしてるわけだが?

716 :
「最強」がどこのだれかは決められないが、
謙信が織田・武田・北条から恐れられていたのは本当。

717 :
謙信は人間的にも他の武将とは器が違うんだよ。ただ強いだけでは無いのが魅力だ。

718 :
武田+北条で謙信とやっと互角って感じ。

719 :
上杉謙信は強い相手と戦った経験がないから何とも言えんわ。
謙信について、豊臣秀吉は戦勝の如何を偶然に賭ける田舎大名、佐々成政は
織田家なら辛うじて小姓が務まる程度の男と評価してるな。

720 :
>>719
いつも負け寸前の戦いを政治でかろうじて収めてた秀吉や、
母衣衆の頃の栄光から抜け出せず戦の成果がいまいちな成政の
コンプレックスからきた言葉の様に感じる。
謙信の戦は、一見バクチに見えるくらい華麗だからね。

721 :
長家家譜では、
謙信が七尾城攻略後、長家一族の首の由倉部浜に首を梟した時に、
梟首を長連龍が見て織田諸将に
「梟首の実否見届け候が全く父兄の首にあらず、諸将を欺くための計略なり」
と言い、
その後、ひそかに秀吉の陣地を訪ね、前言を撤回し退却を進言する。
長連龍が当時一武将に過ぎない秀吉におもねっているのは不自然。
長連龍と秀吉は手取川の敗戦に責任を感じたのだろうか?
と同時に謙信の戦略が見える。
七尾城の落城を見せしめ敵の大軍の戦意を挫いた上で、襲撃し散々に打ち破る。
まともに戦わせてもらえず、謙信に追い立てられた秀吉や成政はさぞ悔しかったのだろう。

722 :
>博打に見える
川中島第4回みたいに死地に身を置いたりしないと相手が逃げまくって試合にならないからな

723 :
死地に身を置きたけりゃ川中島で留まってばいい
逃げまくって負けたけどな

724 :
>川中島第4回みたいに死地に身を置いたりしないと相手が逃げまくって試合にならないからな
逃げまくってるなら滅ぼされるはずだろw
謙信が滅ぼした大名なんかない
それに試合ってwwwwwwゲーム脳かよ

725 :
サッカー脳かな

726 :
えっと・・
戦争でも外交でもゲームや試合って言葉を使うんだけどな
ここの反上杉は本当に程度が低いというか社会常識に疎い。
歴史とゲームが好きな小学生なのだと思うが、もう少し謙虚になった方が良いと思うよ。

727 :
晒しage

728 :
>死地に身を置きたけりゃ川中島で留まってばいい
>逃げまくってるなら滅ぼされるはずだろw
もうバカ杉 

729 :
謙信は織田と戦わずに死んだんで虚名を維持できたね。
勝頼だって織田とぶつかる前にポックリ逝ってれれば勝頼健在なら
織田も鎧袖一触と妄想の種になったろう。

730 :
信玄の戦争
小学生は↑位読んで出直してこい
ず〜っとバカすぎてコメントできない

731 :
>>729
上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げる信長

732 :
今、天と地と読んでるけどこれ結構史実と違うとこ多いのね。
伝記というより物語風にしたものと思ったほうがいいのかな…?

733 :
>>731
それ大正時代にできた落首なんですけど

734 :
手取川の戦いは完全に織田信長のボロ負けだよ
秀吉の情報操作のおかげで今は有名じゃないけれど、
当時や江戸時代初期の頃はみんな知ってたから、
信長の評価は今よりかなり低かったわけで

735 :
ついでに、信長から謙信への貢ぎ物の数々は今でも残っている

736 :
>>735
信長からすれば飼い犬に餌をやる感覚だったはず。

737 :
それにしてはずいぶん謙信に媚びてるよなw

738 :
>>736
1564年に信長が謙信に送った書状は、
文章の礼法が目上に対する書き方になっているのは知ってるよね?

739 :
っていうと、謙信が最強ってことで良いんじゃないでしょうか

740 :
勝てば官軍という言葉がひしひしと伝わるな・・・
タナボタだろうが何だろうが、最終的に権力を握った奴に都合良いように歴史は改竄されるんだもんな
事実を知らない当時の人や後世の人は、都合よく作られた話しか知らされない。
色んな角度から検証する人って全体で見ればわずかだもん
歴史や戦争に限らずだけど

741 :
>>738 そりゃそうだろ。長尾と織田じゃ家柄は両方とも守護代クラスで
似たようなもんだし、謙信はこの時点で上杉を継いでるから家柄は謙信のほうが上
なにより関東管領。
信長はこの時点では上洛どころか斉藤と小競り合いの真っ最中。
年も謙信の方が上だし、むしろ対等のはずがないと思うんだがな。

742 :
室町幕府末期の武家の家格は、
将軍 足利義輝/義昭
古河公方 足利義氏/藤氏
管領 (不在)
関東管領 上杉謙信
謙信が幕府ナンバー2ナンバー3だったんだよ

743 :
室町幕府の武家の家格一覧
将軍 足利
鎌倉古河公方 足利
三管領 斯波、畠山、細川
七頭 山名(四職)、一色(四職)、赤松(四職)、京極(四職)
   土岐(四職)、上杉(関東管領)、伊勢(奏者)
礼式奉行 武田、小笠原
武頭(侍大将) 吉良、渋川、今川
#四職は侍所所司などの京都奉行職

744 :
上杉以外、全て落ちぶれてしまってますね。
戦国時代で伝統的な家とか本当になくなってしまってるな。

745 :
七頭の伊勢は、幕府高級官僚だった北条早雲の家ですか?
まぁ早雲は枝なんだろうけど。

746 :
川中島のあとに
そのあたりは武田になったのなら
実質武田の勝ちじゃないの

747 :
実利を取る戦が鉄則の武田
実利無視の戦闘マシーンの上杉
土俵が違うんだろうね

748 :
>747
たしか将軍か朝廷から、信玄の川中島あたりの領土化を認めるように指示があったような
武田の外交力・政治力って本当に凄い

749 :2012/10/17
斯波、細川、一色、吉良、今川は足利の枝だから、
伝統的とまでは言えないような。
上杉、赤松も似たようなもの。
伊勢、京極、武田、小笠原なんかは、鎌倉以前からの伝統的な一族。
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