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織田信長は過大評価されすぎ11


1 :2012/05/14 〜 最終レス :2012/10/28
ほんまに天才なんか? 何をやっても天才なんか?
前スレ
織田信長は過大評価されすぎ10
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325028957/

2 :
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3 :
だがスレ立てろ

4 :

勧修寺晴豊の11/9書状で信長を古今無双の名将と持ち上げたのも
(しかも綸旨案でしかないので実は発送されてないw)
他の同日付けで発送された万里小路惟房宛て女房奉書と
それに応じた万里小路惟房の信長宛て書状内容を読むと
誠仁親王の御元服の費用+御所修理費用などを負担してもらいたいと露骨に書いてるしw
しかも女房奉書には信秀が御元服の御事は他とは異なる馳走として
重視していたことまで持ち出して信長に要求しろといってるw
他大名と比較して古今の名将といってるのではなく
完全に金銭目当てで褒め殺ししてる朝廷w

5 :
しかし褒めたという事実は覆せないのであったwww

6 :
朝廷が金欲しさに阿諛追従・ 阿諛便佞しようとしたけど
やっぱ辞めてその文書を出さなかっただけだろ。

7 :
「歴史とは読書感想文コンクール」っていうのがよく分かる。
研究者の性格がこうやって明らかになるのだ。

8 :
だがのポエムと研究者をいっしょにするのはどうかと思うが

9 :
浅井を裏切って朝倉を攻めた信長がどうかしましたか?
家康長男を殺害させた信長がどうかしましたか?

10 :
>>7
いや、信長厨は研究家とは言わん。

11 :
家康長男は信長が殺したって言ってるおっさんまだいたんかw
何十年前の珍説を信用してるんだw

12 :
>>11
何十年も何も、家康側の都合ってのも未だ仮説にすぎないんだが。
ちょっと話題になったスキャンダラスな説を頭から信じるタイプなのな、お前

13 :
信長が家康長男を殺害って説もスキャンダラスといえばスキャンダラス。
これ捏造だったら信長がちょっと気の毒だな。

14 :
浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。
反故したら朝倉に着くとは言ってないんで同盟の信長を裏切った事になるんじゃないのか?

15 :
>>12
仮説も何も家康と信康が不仲だったということは松平記、当代記、家忠日記と
徳川ほとんどの史料が共通で書いてあることだぞ。
信康殺しの主犯は信長なんて高柳が気まぐれで言い出しただけで
しかも理由が「信康の器量が凄すぎて怖かった」という妄想ソース

16 :
>>14
> 浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。
これって具体的には何がソースなの?

17 :
>>15
正直ね、高柳センセは日本の歴史学を退化させたと思う。
犬HK御用達のその弟子もしかり。
この人たちが日本史を妄想物語に変質させたと思う。

18 :
その妄想で信長が過大評価されるわけよ

19 :
妄想も何も信長の評価はまだはじまったばかりだろw

20 :
妄想を省いた本当の評価は始まってもいないがな。

21 :
え?

22 :
>>21
現実に向き合えないヤツはスルーしとけ

23 :
>>18〜20
◯HK御用達、高柳弟子の仕事内容。
しゃべる場所によって話を変える。
あんま信長人気じゃなさそうな所では
 →「信長は残忍で非常識で彼の暴走を止めるため光秀は立ち上がった」(この師弟、なぜか光秀は必ずアゲる)
信長人気がやたらありそうな所では
 →「信長は革新的で新しいことをどんどん成し遂げた」(何の根拠もないけどそういうことにする)
こういう学者を大衆はどう評価する?

24 :
そんなの学者とは言わんw

25 :
長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康をRことにそれほど悩んでいたようにも思えない。

26 :
信長は徳川家臣から御家門様と呼ばれるように
徳川家臣の織田家臣化を進めており、
岡崎城も織田が没収する既定路線が見える。
家康も織田家臣化される流れの中で
武田の後ろ盾を得て岡崎城の没収を免れ自立する希望を
託して、信康を後継者にした。
しかし信長はそれを許さず、家康に信康を殺させることで
家康の信忠への忠義を示させた。
その褒美として信長は岡崎城主五徳の美濃への帰還を許した。

27 :
山岡荘八の小説みたいだなw

28 :
滝田栄が号泣してる場面を思い出したw

29 :
>>25>>26
信頼性の高い「当代記」にも
信長は家康の好きなようにせよ、と言っただけとある。
信康切腹は信長の命令ではなく家康の意思。

30 :
御代将。わしもタイムスリップしてみたかったぞ

31 :
御代将も近代化で未来からタイムスリップしてきた者であるか?

32 :
>>28
歳がバレますぞ。

33 :
当代記は徳川家康の長女の子が編者だから
家康を贔屓目に書いてるからなぁ。

34 :
つまり「家康は信長の命令を受けるような立場ではなかった」という改竄が行われている可能性があるわけだ。

35 :
>>33
手元にある本には「筆者不詳」とあるけど?

36 :
メイン編纂者は松平忠明だろ。

37 :
>>29
信長が空気を読めと家康に無言の圧力を加えてるのが
はっきりわかるだろw
家康が酒井を使者に信長へ種々御懇してる時点で
信長が無理難題言ってきてんのは明らかなんだから。
懇望に信長が取り成しした結果、岡崎から信康追放が確定してるし。
その信長への感謝の書状を出したのが8/8
そして信長がそれになんらかの返答をした結果、9/15に信康が自害。

38 :
妄想を現実に出すなよw

39 :
どうして歴史研究者や映画評論家という人種は自らがやりもしないことを
自分なら軽く、簡単にできるくらいに吹聴するのだろうか?
自分はできるがただやらない、高みの見物をしているという風に
必死に自己のアイデンティテイを守っているんだろうか?
人間は冷徹な真実よりも自分に都合がいい妄想を好み、それしか見ないというようなこともよく言われているところだ
オレは偏向した妄想を好む、この世界の“普通人の感覚”から程遠いんだろうな

40 :
まあ、ああいう人達は自分の脳内では自分の事を
チート能力を持った大英雄だとでも思ってるんしょ。

41 :
どの研究家だ?
聞いたことないが。

42 :
つーか身内にやたらと甘い信長が娘婿の信康を殺そうとするなんて思えないんだよね
信康の方も織田が圧倒的有利な状況で将来を棒に振ってまで武田に内通するとは思えない
となると親にやたらと反抗する信康を家康が信長に讒言して嵌め殺したというのが実際じゃなかろうか
家康が築山殿を冷遇しまくっていたのは息子の信康にしてみれば頭に来ていただろうし
険悪な親子関係になっていたとしても不思議ではない

43 :
身内に甘いって弟とか叔父とか殺しまくっておるがな>信長

44 :
叔父信光「いやワシ、信長に殺されたんじゃないよ。火起請破ったからってさ、○○の奴がさぁブスッとやるからさぁ」

45 :
43
殺しまくってはいない。

46 :
>>43
殺したのが明確なのは信勝(信行)だけだろ
異母兄の信広だって一度背いたのに許しているし、
信興が一揆に殺されたのにはその一揆を皆殺しにして恨みを
晴らしている

47 :
信長は過大評価されすぎかもしらん
そして信玄なんかもっと過大評価されすぎ

48 :
目くそ鼻くそという言葉は武田信玄と織田信長のためにある

49 :
甲斐の山猿と一緒にされては困る
あんなのは朝倉義景や三好義継が比較対象でいい

50 :
だから目くそ鼻くそ

51 :
信長が本能寺で死ななかったら、近代国家作ってたとか
専制君主になったとかいうのはまだギリギリ我慢できるが
東アジアに巨大な日本王国できたとか、理想的な
素晴らしい世の中になったとかいうのは、
そう言ってる人は脳ミソが崩壊しているとしか思えん・・・

52 :
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

53 :
だーがだーがだがアスペの子♪

54 :
>>51
現実ではなく妄想の信長でしか評価できない奴らだからな。
本当は信長が嫌いなんだと思うわ。

55 :
今日は信長の命日やな〜
「わしもじゃ」山科言継

56 :
>>55
今は新暦だから旧暦の日付を当てはめるというのはちょっとおかしい。
本能寺の変はグレゴリオ暦換算で7月1日
2012年の旧暦6/2はグレゴリオ暦だと7月20日になる。

57 :
よく雑誌にある、あなたは戦国武将で例えるなら何タイプ
てのがあるが、うちの先輩が信長タイプを引き当て
「そっか〜やっぱ俺、信長タイプか〜」と喜んでるが
いや、あんた空気読めないでわがままなだけですから
と、ツッコミたい毎日です。

58 :
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。

59 :
>>58
幼少から三井寺に入れられていたのにそんなわけが無いだろう。

60 :
>>上月尼子は捨て殺し、別所裏切り、荒木謀反とほぼ侵攻できていない
秀吉が播磨・但馬などを制圧したのに、信長が政治レベルで失敗して
秀吉の足を引っ張っただけだろ。
その状況から秀吉兄弟は摂津・丹波・丹後戦線まで崩壊してたのに
援軍まで派遣して大活躍している。
別所の赤松家内での地位に配慮をしなかった信長が浦上を別所の上につけたのは致命的。
これで播磨は再び分裂してしまった。
というのも別所や東播磨の上月などは赤松御一門家に属しており、赤松内で同格だった浦上と敵対していた経緯も無視。
上月は散在領所と言われるほど、所領がアチコチに分散してるために
浦上や別所のような地域権力化→一円支配が成立せずに赤松政権権力を背景に統治することを余儀なくされ
結果、信長の赤松否定の政策に反発して、上月氏なども赤松氏にさらに接近してしまう。
赤松氏の被官である御着納所を勤めていた小寺氏なども同様で、せっかく微妙な空気を読んで
秀吉が播磨を纏め上げていたのに、信長が完全にブチ壊して、播磨・美作・備前の支配権を浦上に
やってしまったために浦上が播磨・備前方面で活動開始し秀吉の立場がなくなったのが原因。
>>第2次木津川で大阪湾の制海権を織田が握りその後石山本願寺降伏
信長は第2次木津川でも敗戦してるが捏造してるだけ。
本願寺顕如も天正8年9/23付けで宇喜多が敵についた為に
播磨兵庫や摂津尼崎や淡路岩屋へ渡海していた中国衆がことごとく帰国してしまったと書いている。
そして叡慮(天皇の意)で勅使がやってきたが、大坂退出は艱難至極と再三申し上げた〜などと書いていて
第二次木津川の戦いでの毛利敗戦が原因で制海権など織田は奪ってないし、
制海権喪失の原因は秀吉が宇喜多を味方にして信長の相次ぐ失敗を挽回すべく大逆転させたため。
>>毛利家中は揉めに揉めて結局宇喜多を選んだ
いやいや、毛利側では宇喜多が味方になっても三村氏は離反しないと踏んだ上でのこと。
その証拠に宇喜多が味方に参加しても三村はしばらく毛利に敵対してない。
つか毛利が一方的に三村氏へ内通を理由に攻め込んできたことから
毛利が備中の領国化をするために三村氏に汚名を着せたって説もあるからな。
>>村上3水軍の中で来島村上が羽柴についた
君は村上水軍の性格をまったく理解してないね。
天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と能島村上水軍村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えているなど
村上氏は利害を重視していて、毛利に無二の味方と言うわけじゃない。
秀吉の宇喜多調略後には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りになるなど
秀吉の調略で村上水軍なんざ、軽く毛利を裏切ってる。


61 :
>>51
では信長が本能寺で死ななかったのなら、どんな世の中になっていたのかを、
その崩壊していない脳ミソで存分に語ってくれ。

62 :
>>59
ソースは?

63 :
>>61
本能寺で死ななかったら、みたいな妄想語る時点で脳味噌が崩壊してるよw

64 :
信長マンセーの学者さん達の本読んでみると、
信長のアイデアや戦争のやり方なんかを
まるで自分達が考えた、及び自分達が戦国時代に
生きてたら同じ事をしていたみたいに書かれてるのが多い。
いや、そんな後だしジャンケンみたいの中学生でもできるわw

65 :
橋下さんの独裁発言は的を射た意見である。
たとえ優秀な政治家でも、民主主義という合議制の意思決定では、
有力国人衆の支持を必要とした上杉謙信や武田信玄と似たような者。
織田信長公のように効率的な発展をするには、
時間ばかり掛かる話し合いなど無駄。

66 :
>>64
お前も後出しジャンケンしてるやろ

67 :
信長が効率的?
家臣を統率出来ずに本能寺で死んだのが効率的なのか。

68 :
塚、痛い人はよく信光暗殺したのは信長とか言うけど何の確証もないのな
それ言ったら義信暗殺は信玄だし長野暗殺も信玄になるぞ?

69 :
>>67
しっかり統率できてるだろ 頭大丈夫か?
最近の研究では明智謀反の理由は野心で決定してる
家臣を統率できてようが謀反起こす奴は起こす

70 :
荒木村重
松永久秀

71 :
信長みたいな戦い方は非効率だろ
越前みたいに反乱起こされ
勝っても自軍は消耗
皆殺しだからその後は徴税徴兵期待できず
秀吉のように同盟関係を大事にした方が効率的

72 :
別所や波多野秀治や山名祐豊・・・

73 :
本願寺相手に十年も費やす効率のよさw

74 :
>>73
確かに信長は効率悪いよなぁ
武田程度潰すのに10日もかかってるんだもんww

75 :
武田なんてどうでもいいじゃん
信長の比較対照としてはちょうどいいとしてもw

76 :
ちなみに「武田に十日」とするなら、信長自体は明智に僅か一日(つーか数時間)で倒されたことになるよ。

77 :
脊髄反射みたいにすぐに武田を出す時点でたかが知れるわ。
明智に倒されたことはスルーかw

78 :
>>76-77
いみふ〜w
武田は十日で完全崩壊
織田は組織としては存続
この違い分かります?www
逃げずに答えてね♪www

79 :
秀吉の下に再編成された織田家
家康の下に再編成された武田家
あんまりかわらん

80 :
アンチ信長は頭悪すぎてどうにも

81 :
だから武家が横領した荘園も返却させたりして不満を買っていた。
公武が協力し合う関係であり足利義教に至っては天皇から治罰綸旨を出してもらって朝敵討伐してる。
皇族を無力化して〜足利家を珠玉とした時代なんて無いから。
天皇も家格だけで生きていたのではなく官位任命権なども保持していた。
それに将軍直属の奉公衆(近江・山城・摂津・大和・丹波などは特に多い)は義輝により再建整備され始めていて
伊勢氏や高氏や一色氏や上野氏や大館氏や松田氏や飯尾氏などなどがいて、さらに宗氏や島津氏らも
財政支援しておりそう簡単に将軍の首をすげ替えるのが難しくなっていたから三好&松永は暗殺の暴挙に出たわけだ。
君の言ってることの大半は間違えてる。そもそも君は鎌倉府を知らない時点でアウト
室町幕府は鎌倉幕府よりも東国西国での二元政治が顕著だよ。
義満が陸奥と出羽の統治権を鎌倉府に与えざる負えなかったのが致命的。
そのために義教が挙兵した鎌倉府を討つ時に朝廷の権威にすがって
朝敵にしてもらい幕府の正統性を付与してもらうハメになる。
有名無実どころか朝廷権威は根強いもので、鎌倉府が朝廷に錦御旗でも下されたら大乱ものなのは明らかだった。
しかも鎌倉府を滅ぼしたものの結局は関東が静謐にならないために
持氏の子の成氏を擁立して鎌倉府を再興させなければならず
しまいにはまた鎌倉府は挙兵してしまうなど足利幕府は常に不安定で
公家勢力&寺社勢力との調整で山城国周囲を保持していた。
義晴とは違い義輝が英明かつ武勇に優れていたために他国大名への御教書や外交を通じてかなりの支持を得ており、
さらに整備した奉公衆を元にかなり将軍権威を復興させてきており
その奉公衆の支持を受けたからこそ義昭は後継者として内外に認知されており、
(義輝を暗殺した三好らを奉公衆は仇として義昭上洛のために信長に協力したので六角氏や三好氏があっけなかった)
この武力があったからこそ信長に対して蜂起して籠城することが可能だった。
役に立たないならそもそも籠城なんてやらないで脱走する。
(姉川で朝倉に大苦戦した信長は三好勢の摂津出陣に兵力不足で困った挙句に、
織田家による陣ぶれでは兵が集まらないためにわざわざ将軍義昭の親征だよ!!!
などと義昭権威に頼って畿内から兵の参集を募っている。義昭奉公衆は三好は義輝の敵なのでつどって参加してきた)
つまり戦国時代の公家達は六角氏などに横領された京洛の自らの荘園を取り返してくれたから
足利将軍を支持してきた共存共栄の存在で、だからこそ将軍と横領を支持した管領が対立せざる負えない関係なわけ。
また京の五山の任命権や将軍庶子の権門寺社への出家を通じて畿内における隠然たる影響力の後援も受けていたし、
これは天皇の祭祀的権威の協力も必要な共存共栄の関係だった。
だから東国武家政権とはまったく異なり、山城周辺はただ単に武力のみに依存して支配はできないわけ。
だからこそ信長も邪魔な義昭をRことなど出来ないし帰京交渉もしたし義尋も手のうちにおいていた。

82 :
そもそも効率のよさが問題なのに武田との比較に話がいく時点で会話が成立してないわ。
信長は効率が悪いから天下人になれなかった。
武田は信長に滅ぼされた。
信長は明智光秀に殺された。
それだけの話も理解できない馬鹿しかいないのか。

83 :
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。


84 :
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w


85 :
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)


86 :
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に明智城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・

87 :
ふつうに信長を史実通りに評価すれば済む話。
特別効率がいいとか革新的とか、ありもしないこと言うからこじれるのな。
武田が信長に滅ぼされたこととは無関係なのに、持ち出す時点で話が噛み合わない。
おれは武田厨じゃないから武田持ち出されても「はあ?」くらいにしか思わねえよ。

88 :
ちまちました領土拡張戦から天下統一を視野に入れた
天才信長の野望をただ指を咥えて眺めるしかなかった
周辺の大名連中は悲劇だったろうな
信長にとっては道端に転がる石ころでしかなかった大名達

89 :
その大名連中を馬鹿にしたきゃすればいい。
でも信長自身も破滅したことくらい理解するんだな。
間違っても天下統一とか海外進出なんてくだらない妄想はしないことだ。

90 :
信長時代に秀吉のような統一が可能だったかと言えば無理じゃないかな
秀吉って織田家勢力の統一時に相当大鉈振るって美味しいところ上手く自分と配下に分配できたけど
信長のまま行ったらそういう整理されない実力者が多数いてどうしようもないことになりそうなんだけど
あと信長は食生活のせいで長生きはできんだろ

91 :
信長は評価が過大になっても仕方ないとおもう
それだけの事を現実に成し遂げたわけだからね
逆に信長のお陰で大した実績も残していない
武将達が信長と同列に語られているのがなんともなぁ

92 :
信長が成し遂げたと言われるものは、実際には秀吉や家康、さらにそれ以降の世代のやったことがほとんどだけどねw

93 :
>>92
無知乙w
秀吉の政策のほとんどが信長のパクリw

94 :
パクリでも、成し得た秀吉家康と、破滅した信長の間には越えられない壁があるよね。

95 :
なにがなんでも信長を全てにおいてオリジナルだということにして、
天下人として失敗したことから目を背けたがるアホがいるよな。

96 :
信長は別格だから、そもそも過大評価なんていう概念はないはずなんだが
お隣さんみたいにちんたらやってたら寿命が100年あっても何にもできんでしょ

97 :
確かにあの基地害っぷりは別格だ

98 :
信長はどちらかというと過小評価されすぎ。
特にいくさに関しては戦国時代で図抜けてるだろ。


99 :
信長信者みたいなやつらがオウム事件みたいなこと起こすんだよな。

100 :
ずば抜けてるからあそこまで登り詰めたわけで
政治・軍事・経済、全てにおいて天才でした

101 :
>>100
何がどう天才だったのかそれぞれのジャンルごとに説明してみろ

102 :
しかし部下の統率もおそまつだったというオチ
そこもきちんと評価しなきゃだめだ

103 :
うーん、実績を見れば一目瞭然かと

104 :
>>103
現実を見るためにもそれぞれのジャンルでどう天才だったのかを説明しなされ

105 :
日本史板でフルボッコされた金田朗君みたいな人
具体的に実績を挙げてみろよ

106 :

イエズス会日本報告集
天下に秀吉が尊敬すべき人物などいなかったので
いっそう自由に振舞い天下継承者の三法師を安土に住まわせていたが
これを謀反人であった明智の坂本城へ移し少しも厚遇しなかった。
信雄には三カ国を与える代わりに
これに満足し立ち去って2度と天下の政治に足を踏み入れないこと。
必要なものがあれば、かの地より書状を出せば送ると伝えさせた。
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち
三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立てるやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である。
家康が信雄支持の代償として信雄が織田三河領を家康へ譲渡したのであろう。
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで
織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。

107 :

上杉や武田同様に
北条も天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。

108 :
アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH
大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798
織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878
武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493
自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?


109 :
>>105
玉の輿と棚からボタモチで美濃奪取、即100万石オーバー。

110 :
>>109
で、本能寺で天下がパー

111 :
天下はパーっつったってそれは実力なんだから仕方ない
桶狭間で滅亡秒読みだったことを考えれば家も残したし十分すぎる勝ち組だろ。

112 :
そこまでの評価ならこんなスレは立ちゃしない

113 :
そこまでの評価もできないんじゃ評価者が悪意籠ってるだけ
実際信長を越える人間は戦国期だと秀吉家康くらいなもの
信玄(笑)とか政宗(爆笑)とか引き合いに出す奴は総じてアホ

114 :
そのとおりだが、問題なのは「信長だったら世界制覇」みたいな妄想厨がいること。
信長自体は英傑だけど天下をとれなかったのも事実。
厨はそれを理解せず、指摘されると武田の話題に逃避する。

115 :
少なくとも家臣に殺されて
家を簒奪された信長は最低評価だろ。

116 :
厨はそこで武田を引き合いに出しますw

117 :
49歳で畿内しか確保してないから統一はしても海外はいけねーよなー

118 :
信長が最低評価なら
その他大勢の屑大名は評価にすら値しないって事になるけどな
信長が最高評価でないと成り立たないのが戦国時代だよ

119 :
いや、信長は最低とは言わないが最高ではない。
部下に殺されたのは減点でかすぎ。

120 :
>>117
広い畿内だなw

121 :
そもそも信長は海外勢力と直接つながったことは一回もない。南蛮船も見たことがない。
いわゆる南蛮船が寄港するのは九州までで、そこからは日本船に乗り換え、荷物の積み替えが行われた。

122 :
信長>超えられない壁>秀吉>家康>越えられない壁>その他大勢
という評価は揺るがない歴史的真実

123 :
必死ですなあw

124 :
せめて何が超えられていないのかを定義して欲しいところだ。

125 :
戦国時代は信長が頂点っつーのは認めるが
信長が宇宙一とかみたいなのはちょっとな
世界史的にみたらちっぽけな存在だし

126 :
>>115
なら秀吉の死後早々子飼いの家臣に裏切られて滅亡した豊臣家は更に最低評価だな

127 :
秀吉そのものは信長みたいなアホじゃないから裏切りを回避できたさ。
秀頼はアホかもしれんが力なさ過ぎ。
信長は世界を征服する力があるのに()生かせなかったアホ。

128 :
武田厨によれば信玄は上洛できたのに生かせなかった
謙信も義とやらで領土欲もたなかったから小さな大名だった
おいおい、そんなキチガイじみた厨がいる大名ばかり馬鹿にして大丈夫か>>127

129 :
武田なんて雑魚は知らんがなw

130 :
下克上されて家まで簒奪された信長は
長尾為景にすら及ばない。

131 :
>>127
豊臣なんか簒奪どころか滅亡しちゃったから論外。
織田家はなんだかんだで明治まで大名として生き残ってるし。

132 :
>>130
そんな越後の田舎大名持ち出してくるな

133 :
秀吉は天寿をまっとうしている。
秀吉死後17年後に豊臣が滅亡したからって
それが秀吉の責任とも思えん。
しかし上杉は30万石を維持したのに較べて
織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを
見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって
滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの
大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。
織田信雄系→2700石
織田信高系→2000石
織田信貞系→700石
もう、目も当てられないわ。

134 :
厨が、信長自身滅亡したのをスルーの件w

135 :
>>133
え、豊臣家が滅んだ一番の原因は秀吉だろ?
晩年は徳川にチャンスを与えたとしか思えない行いの数々じゃん。

136 :
秀吉は信長を反面教師にして早々に天下統一出来たけど、反面教師に
しすぎて豊臣家を滅亡させられるんだよな。。。。

137 :
反面教師にしたせいで外様に力をつけさせすぎた

138 :
織田秀信が12万石を貰い
織田信包が3万石貰っているのをあっさりスルーするのがアンチのやり方

139 :
それは信長滅亡と関係ないから
他の武将のことを書いても信長が本能寺で死んだ事実はかわらない

140 :
滅亡と死亡の区別がついてない?

141 :
死亡だと病没か寿命も入るだろ。
滅亡は今川義元や織田信長や武田勝頼みたいな戦死。

142 :
>>137
滅ぼされたから言うわけじやないけど外様に250万石なんて
ちょっと異常だろ。
後信長自身が外様にやられているにのそういうのは反面教師に
しなかったのかな。
秀吉の場合は譜代がいないから頼らざるおえない部分はあったんだろうけど。
でもやり過ぎだわな。彼自身自分の「人たらし」に自信持ちすぎたのかも。

143 :
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく

144 :
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田・天正大地震による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに
これで母や妹人質に出す程雑魚ってどうしようもない

145 :
秀吉の基盤があれだからな。
しかし秀吉がざこなら、小なりとも大名でありながら自軍まとめられなかった信長は糞虫。

146 :
>>142
というよりあの時点で旧北条領を安心して任せられるのが家康ぐらいしか
居なかったからだと思う。
家康が関東統治に成功したからこそ安心して唐入りをやれたわけだから失敗
というわけではないんじゃないかな。

147 :
滅亡の意味も分からない朝鮮人が必死になって朝鮮流の意味を喚き散らしているので日本で一般的に使われる意味を書いておく
滅亡
 絶えてなくなること
>滅亡は今川義元や織田信長や武田勝頼みたいな戦死。
馬鹿丸出しな解釈って哀れだ
戦国大名として絶えてなくなったのは武田勝頼のみ
織田家は勿論、今川家も氏真が跡を継いでいる
無知はこれだから困る

148 :
朝倉・浅井も滅亡してる?

149 :
>>146
でも結局その唐入りが豊臣家滅亡の要因になるんだからバカだよな。

150 :
秀吉は晩年に失点が多すぎ
朝鮮の役
秀次事件

151 :
何でノブスレで猿の話してんの?
猿叩きしたって信長がカスなのは変わらないんですけど。

152 :
信長がカスなら有能な戦国武将は誰なんだ?

153 :
てか他の武将と比較しないと優秀かどうかなんて判断できないと思うが。

154 :
信長は勢力拡大ではトップだが、組織や体制の構築、新しい仕組みの形成では落第に近いな

155 :
>>154
擁護するならとにかく勢力拡大に主眼を置きすぎた弊害という事だな。
後信長は軍師とかそういった類の人間が一切おらず何から何まで自分
で決めてたから手がまわらんかったのかも。

156 :
155
一切いないとは思わないけど。
「信長は本当に天才だったのか」では上洛に関しては光秀が参謀だったとある。

157 :
秀吉は参謀・・・ではないよね?

158 :
丁稚だろ

159 :
>>154
そうか?
徳川なんか三河を支配していたまんまで幕府を開いてるが
>>155
軍師って・・・
三国志に影響されすぎでは・・・
信長のすごいところのひとつは、配下に大軍を与え、その軍に口出しをしなかった所。
ま、それが仇になって本能寺の変になるわけだが、信忠までしぬのは信長としても誤算だったろうな。
武田信玄や上杉謙信は自分の後のことをまったく考えていなかったが、信長はちゃんと考えて
準備していたのに、あんな結果になるとはな

160 :
信長の一番すごいところは、戦略戦術を理解していたところなんだけど
何故か、戦争が下手と思われてるのが謎。

161 :
ワザとバカ発言してアンカー付きの返しを貰う事(すると手当て20円付きます)を
期待するピット狂うや餓亞螺のバイトでしょう。
シカトしてください。

162 :
なんつーか、司馬史観すぎるw

163 :
>>159
>信長はちゃんと考えて準備していたのに、あんな結果になるとはな
そうだね。自分が死んだ時の事はちゃんと考えていたけどまさか自分
と信忠が同時に死ぬ事になるなんて想像もしていなかったろう。
彼は自身が弟と家督争いをした苦い経験から跡継ぎの信忠と他の兄弟
をしっかり区別して育てたけど、それが逆に仇になって兄弟間の争い
を秀吉につけこまれた。


164 :
>>159
軍師っつぅか助言役みたいなもんなら居たと思うよ
祐筆がそれだろ

165 :
村井貞勝とか?

166 :
有名なのは武井夕庵と楠木正虎?
村井はどうだっけ

167 :
信長を主人公にしたマンガや小説なんかでは、たいてい信長が
チート能力を発揮して勝つみたいの多い・・・
実際は、だまし討ちやら詭弁やらそうとう手段を選ばないエグい
事たくさんしてると思うんだが。

168 :
そんなん信長に限った話じゃないわ
美化っぷりでは信玄と謙信の方がずっと酷いぞ

169 :
信長は比較的ガチ戦争が多くね?

170 :
ガチも多いけどガチじゃないのも多いな
刀根坂みたいにチート臭いのもあるけど

171 :
信長が美化されているというよりは秀吉家康といった本来の天下人が美化されなさすぎともいう。
家康は結構忍耐が強調されてキャラ立ってるけど秀吉は朝鮮のこともあって大体好意的に描かれない

172 :
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど

173 :
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。

174 :
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね


175 :
秀吉は戦に負ける特別な才能があるんじゃね
信雄や氏政、輝元でも勝てる相手なんてそうそういないだろうし

176 :
昼間から御元気ですねだがさんw
徳川家が仇敵であるはずの秀吉を持ち上げるという謎の風評まで捏造してw

177 :
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう
秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。
ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ

178 :
桶狭間の戦い 刀根坂の戦い 天王寺の戦い もうこれだけで信長は戦巧者といっていいよな

179 :
>>173
徳川時代の講談とかプロパガンダなんて哺庵の太閤記や豊臣秀吉譜やら秀吉マンセーばっかだしなあ
持ち上げられるのは仕方ない
実際徳川時代はアホみたいに過大評価されてたらしいし

180 :
某海外軍オタサイトだと信長の評価はパネーんだけど
ナポレオンが信長の半分の才能があればロシア征服
オットーマン滅亡、大英帝国降伏で世界の半分取れてたとか

181 :
そんなキチガイを紹介されても困るわな

182 :
>>180
具体的に信長のどういった才能のことを言ってるのか示してほしい。
ナポレオンも軍事の才能だったら信長に負けてないと思うが。

183 :
きっと部下を見殺しにする才能とかだな

184 :
マジメな話で信長とナポレオンがなんか似てると思われる点。
1、睡眠時間がやたら短い
2、酒飲まない

185 :
>>184
ナポレオンは睡眠をとりまくったことと、どこでもいつでも眠れることで有名だった
信長にはそもそも睡眠時間に関する話なんて残っていない。
そして信長が酒飲まないなんてのは宣教師の記録にしかなく、実態は極めて怪しい。

186 :
>>182
軍事的才能のことじゃね。

187 :
信長は酒嫌いってのはよく見るな
そして相撲大好き

188 :
蹴鞠が廃れて、相撲がはやるきっかけは、信長の相撲好きらしいね

189 :
>188
タニマチとか相撲の丸い土俵とかこれは信長が始まりと言われてなかったけ。
鵜飼の保護も信長がやり始めたんじゃなかったかな。後ハーブーの栽培も。
信長は戦国大名の代表みたいな所があるからどうしても武人のイメージ
が強いけど、以外と文化方面にも才能もあったのかね。

190 :
信長はナポレオンより曹操の方がダブるわ。

191 :
曹操もナポレオンも信長もぜんぜんキャラ違うっつーの

192 :
どっちかってと孫策タイプ

193 :
相撲で優勝すると100石もらえるという・・・

194 :
曹操よりは、信長のほうが戦争がかなりうまい

195 :
一次史料や具体例を一切あげないで
妄想を事実のように語るのがキチガイ織田チョン。

196 :
挙げたところでソレは一次史料じゃないと独自定義を持ち出し
具体例をあげると妄想乙といい
そりゃお前の満足するような話できんよw

197 :
>>195
信長の戦歴みれば一目瞭然だろ

198 :
>>197
信長公記をデタラメ扱いするキ印だから放置がベスト

199 :
戦歴は嘘つけても領土は嘘つけないからな

200 :
今日は本能寺の変の日。皆さん、どう過ごしましたか?
私は、東京人ですが、しっかり建勲神社へ行きましたよ。

201 :
>>199
慶長3年の”全国総石高1851万石”がうその件
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1208861130/l50

202 :
>>201
慶弔3年の石高と信長は、何の関係も無いだろう。
と、ゆーか検地も役高を決める為の基準に過ぎないから
実際の収穫高と乖離してるしな

203 :
>>201
石高が違っても信長が領していた国の領土が広いのにはかわらんからな。
具体的には美濃尾張近江だけで超大国だし、ここに摂津や山城といった領土も多く加わる。
全国の主要商業都市と主要耕地をほとんど抑えてるんだからそれだけでもえげつない

204 :
それだけ恵まれていても天下獲れなかったのか

205 :

山城領有は、明智光秀様殿おかげ
摂津領有は、荒木村重殿のおかげ
尾張領有は、ほぼ父親の遺産
美濃領有は、ほぼ義父の遺産
近江領有は、六角家内紛と足利義昭様のおかげ
本当にえげつない運の持ち主だよな

206 :
そんな強運だから他の大名がどう逆立ちしようがかてねえな

207 :
信長の貢ぎ物攻撃は、すざまじいからな
屏風、屏風、マントの連続コンボとか、他の大名には多分無理だw

208 :
面子にこだわって根回しもできんのはバカの証拠だな

209 :
信長を過小評価すればするほど
その他大勢の糞大名がゴミ以下の存在になるだけなのになw
アンチは何がやりたいのか良く分からんわ

210 :
信長公があまりにも強過ぎで卑怯だって言いたいんだろ
本当は自分のおきにのゴミ大名が弱過ぎるだけと認めたくないんだよ
信長公の場合はまさに運も実力のうちを体現しているからなー

211 :
そらおまえ、桶狭間の絶対的ピンチに余裕こいて敦盛舞ったり、
武田信玄の挙兵を受けて「謙信さん気をつけてね」と同盟者を気遣う余裕の持ち主だからな。
明智光秀の謀叛なんて実質敗北宣言みたいなもんだ、「正攻法で勝てないので不意打ちします」と即決したくらいだからな。
謀叛や離反を人一倍経験しておきながら余裕でピンシャンしている信長に「こいつ人間じゃねーな」と内心明智は恐怖を抱いていたことだろう

212 :
信長様の場合ほとんどの日本人が教科書通りに
桶狭間・姉川・長篠でカス大名共をフルボッコ
信長様が天下統一目前で死去→一家臣が主君の遺志を引き継ぎ見事天下統一
過大評価も糞もないですな
史実通りの天才的覇王

213 :
>>211
>「謙信さん気をつけてね」
このノブさんすごい好きだわ。
よかったらソース教えてちょ。も少し噛みしめたい。

214 :
信玄は侍の作法も知らない悪逆非道のクズだから金輪際交渉しないって啖呵きってるやつじゃねえの

215 :
>>213
1572年11月の歴代古案書状だったはず。
9月にも出してるけどこっちのは信玄のこととは違うかな。
>>214
元々向こうが頼み込んで和議結んだりしてたのに恩を仇で返した鬼畜だからな信玄は。
しかも仇で返した割には織田はおろか徳川すら満足に攻撃かけられずに死亡する無様っぷり。
寝返らせた徳川家臣は半年待たずして徳川に出戻りするという信用のなさ
一方の信長は東美濃遠山氏に親しかった延友佐渡守に対して
「おまえは岩村城が落とされたのによくぞ織田についてくれた」と本領をきっちり安堵して以降延友は織田家に忠誠を誓っていた。

216 :
>>211>>212
ネタなのか本気なのかよくわからないけど面白い

217 :
武田に攻められて謙信に泣きながら土下座外交かましてた情けない信長なら知ってる

218 :
>>212
信長は斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信クラスには生涯勝てなかった。
しかも天寿すら全うできていないから天才とはとても言えないな。
小学校の教科書をいつまでも盲信するのはよくない。

219 :
戦ってないんだから勝つのは不可能

220 :
戦するのがめんどくさかったんじゃないの?

221 :
たぶん戦するのが怖かったんだと思う

222 :
>>215
>>1572年11月の歴代古案書状
何月何日の誰から誰宛ての書状?

223 :
戦するのにビビってたのは雑魚の斎藤武田上杉だろwww
「信長ごとき雑魚はいつでも倒せる」とホラ吹いてたくせに
何かと理由をつけて信長本領の尾張、岐阜、越前にすら入ろうとしなかった雑魚大名の集まりばかりw
クチだけは一丁前の癖にビビって何もできない臆病者www信玄に至っては信長への恐怖でくたばったんだろうなw

224 :
>>222
十一月のってあるのが読めないのか?w
テンプレで煽ってるからそんな無様なことになるんだよw

225 :
>>223
どれだけ妄想しようと信長が、斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信クラスに
生涯負け続けたのは事実だから。
人心掌握にも失敗してるし天才には程遠い。
むしろ2流が挫折と恐怖を味わいながら頑張った好例として尊敬するべきだと思う。

226 :
213だけど、
214、215、むちゃくちゃサンクス。

227 :
>>226
信玄謙信とは一度も直接対決はない

228 :
>>224
返答から逃亡ですねwww

229 :
信玄、謙信が賢いのは急成長して怪物化した織田に真っ向勝負を挑まなかった事
両者は包囲網を上手く利用して漁夫の利を得ようとしただけの小心者にすぎない
直接対決してボロ雑巾の如くズタボロにされた武田勝頼は父親を見習うべきだった
限定された地域で勝てる戦のみに終始していた田舎大名と天下統一を視野に
入れて戦っていた信長を比べる事自体がそもそもの間違い

230 :
>>229
妄想を自信満々に語られてもw
前述の歴代古案書状にもあるとおり、信長が手取川と三方原でボロ負けしたのは事実。

231 :
天下統一を目指したかしらんが、あえなく部下に殺された事実は語らず他の武将の悪口を語る織田厨。

232 :
斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信、長宗我部元親、毛利元就、宇喜多直家、尼子晴久、
島津義久、伊達政宗、北条氏康、徳川家康、豊臣秀吉、大友義鎮など、最盛期を
築いた大名達はみな天寿を全うしているのに、信長だけ部下に殺されている。
織田信長のリーダーシップに欠陥があったという事は、事実が示している。

233 :
>>211は結構いい線いっていると思う。
>謀叛や離反を人一倍経験しておきながら余裕でピンシャンしている信長
>こいつ人間じゃねー
残念ながら群れを率いる動物として完全に失格だった。

234 :
>>むしろ2流が挫折と恐怖を味わいながら頑張った好例として尊敬するべきだと思う。
何気にいい事を言っていると思うよ
一生を賭して信濃・西上野・駿河がやっとの2流大名
信濃では弱小豪族に圧倒的兵力で挑みながら敗走w
駿河に至っては三国同盟を破り、嫡男を結果的に殺害、そこまでして
断行した今川攻めも徳川と共同という屁たれぶり

235 :
>>234
しかも駿河なんかは他の人が弱体化してくれた上、共同でどうにか落としただけだしなw

236 :
>>230
そんな事実はない
だがの妄想

237 :
>>228
ええ、煽りなぞに答える必要御座いませんのでwww

238 :
>>230
嘘ばかりついているからみんなに嫌われるわけで
2chに一日中粘着していると馬鹿になるよ
もう手遅れだと思うけどね

239 :
天下をあそこまで纏めた織田さんを評価せずして誰を評価しろというのかw

240 :
その意味なら秀吉と家康しかいなくなるな。
問題は信長の実績以上に評価するアホがいることだ。
史実どおりに評価するなら文句はないよ。

241 :
運と土下座で無駄に領土を広げたのと実力と勘違いしてるもんな

242 :
いや、少なくとも領土を広げた点は評価していい。
でも大半の厨は信長なら世界制覇とか、ファンタジーの信長でしか見てないからね。
ほとんどの織田厨はアンチリアル信長だと思うわ。

243 :
天下を纏める為には無駄だろうが有益だろうが領土を拡張していかざるを得ないのは自明の理。

244 :
広げすぎて自滅したのが織田だろ

245 :
前半飛ばしすぎて後半バテたマラソンランナーみたいなもんだな。

246 :
居城移動(笑)

247 :
謀反はしゃーないやろ
子飼いの猿が天下取ってくれて
信長はんも草葉の陰で泣いて喜んでたはず

248 :
>>242
>でも大半の厨は信長なら世界制覇とか、ファンタジーの信長でしか見てないからね。
>ほとんどの織田厨はアンチリアル信長だと思うわ。
それは織田厨も武田厨も同じだろうよ
信玄なら天下統一できたとかを本気で主張し続けるキチガイもいるしな
>>245
>前半飛ばしすぎて後半バテたマラソンランナーみたいなもんだな。
信玄の方は人生設計を無視した暴走ランナーみたいなもんだな
前半は鈍間の如く後半は義昭に唆されて身の程を弁えず大暴走
まあそれはさておき厨は所詮厨ということだ
都合の悪いことを無視して織田の悪口だけをぶちまけているのは如何なものかと思うぞ

249 :
そう、自滅はしたな。
が、統一事業の端を開いたのは偉大だぜ。
他の誰にそんなことが出来ただろう。

250 :
信長が革命児とかは根も葉もない話だが
武田が天下とるかはさておき信長くらいは滅ぼしてたよ
同列に語るお前が厨だ

251 :
アンカー忘れた!
>>244-245

252 :
>>250
徳川も無理でしたねw

253 :
統一事業?勝手に崩壊して後はハイエナ達が群がって勝手に統一しただけ
信長が攻め取った領土ももとはその大名が統一しといたもんだから偉大ってことになるな

254 :
統一事業の端を開いたのは偉大だぜ
そんなの全国の大名に言えるなw 信長だけが偉大とかアホの極みだなw

255 :
織田さんだけが足利将軍に代わって「天下を統べてやろう」と発想して実行したのだよ。
有象無象の戦国大名とは次元がちょっと違う。異質とも言える。

256 :
全国の大名のどこが天下に覇を唱えようとしてるんだw
統一って云っても自国の内をだろ。
信長以前には皆無。

257 :
うわぁ 今時珍しい重篤な織田厨だわ〜 戦国板初心者かな?

258 :
信長以前に足利将軍に代わって「天下を統べてやろう」と発想して実行した者が
いたら挙げてごらん。
自称玄人さんw

259 :
>>248
はあ?
武田厨の悪口は武田のスレでいうわ。
ここはノブスレだから織田厨を叩くだけ。
武田が天下どころか打倒織田すら無理なのは事実だから否定したことなんか一度もない。

260 :
>>259
織田厨しか叩けないんだろ?
厨丸出しだな

261 :
叩かれて悔しそうだな。
しかし残念ながら、武田厨叩いたのが先なんだなあこれが。

262 :
>>261
別に悔しくもなんともないので気にするな
こちらが興味あるのはおまえが嘘ばかりついて哀れなところのみ
武田厨を叩いたのが先とか嘘ばかりついて楽しいか?

263 :
アンチな俺でもさすがにダメ田チン毛が信長倒せてたとか
そんな荒唐無稽な妄想は垂れ流さないけどなw
俺は俺の敬愛して止まない武将が信長に虫けらのごとく
踏み潰されたからくやしくてアンチやってるだけ

264 :
追加
ちなみにおまえは今日一日このスレで織田厨叩きで大暴れをしているわけだが?

265 :
>>263
信長公にとってはほとんどの大名が道端に転がる石ころみたいな存在だから
くやしがる事はないよ、潔く信長公の偉大さを認めれば楽になれるよ

266 :
上杉、北条、毛利、長宗我部は織田に滅ぼされることなく生き残ったから織田と対等レベル
武田は織田に虫けらの如く陵辱されたので評価は斎藤、六角、朝倉、山名と同レベル
この評価が妥当だろう

267 :
まーた武田厨が妄想撒き散らしてたのか
>>266
武田は信長公が最も労を要さずに滅ぼした雑魚大名
なので最低レベルである事は間違い無いと思われ

268 :
滅亡寸前に追い込まれて泣いてたのが信長だろ 信玄公が死んでから十年も手を出せず
自分も後追い滅亡したカス織田

269 :
糞田舎で貧乏な甲斐信濃より都会で裕福な機内を優先するのは戦略として当然だろ
だがはバカか?

270 :
まぁ1万しか動員できずに
家康への救援にも失敗し
岐阜城でビビッて震えていたのが信長だからな。
信玄や吉川元春に東西から挟撃されて死亡する運命だったが
信玄が発病して死んだから助命されただけ。
追い詰められキチガイ化のあまり京を放火略奪虐殺しまくって
天皇を脅してまで義昭との講和斡旋をお願いしてた信長w

271 :
でも、信玄さん、家康すら殺せてないじゃんw
信長だったらきちんと追撃して息とめてるんじゃね?

272 :
信長は信玄よりは上だろ
ただし天下人の器ではなかった

273 :
天下人っつうかRの親分

274 :
甲斐のゴミカスなんて持ち出されてもね〜
信長公は徳川だけで十分抑えられると思ったから
大した援軍も送らなかったんじゃねーのか
実際徳川に半年以上も完全に抑え込まれてたし
徳川も潰せない、朝倉も出て来ないで発狂して
死んだんじゃねーのか、チキンビビりの屁たれホモは

275 :
半年以上も侵略されまくってた雑魚織田が偉そうにw
朝倉が出てこないでも武田に決戦も挑めないチキンヘタレガチホモだろ
尾張の糞味噌野郎は

276 :
あ決戦はしてたか 三方原で織田は完敗してるんだもんな
もはや戦いを挑めるような状態じゃないかw

277 :
わざわざゴキブリを除去するために会社休むバカはいない
会社行ってる間にバルさんでも焚くか、業者にでも頼むか
つまり武田はゴキブリ程度のプライオリティってことだ

278 :
変な妄想語りだすなよゴキブリ織田厨

279 :
>>275
信長:ほっといたら帰るし、放置で欲ね?

280 :
すぐに武田とのからみを持ち出すけどさ。
武田に勝ったのは事実だが信長自体も負け組だと理解したらどうだ?

281 :
別に武田がすぐ「織田ガー織田ガー」って言ってくるだけで
長宗我部も北条でも今川でも朝倉でも三好でもいいよ。
評価としては概ね>>266と同程度
S:徳川家
==========長期政権の壁=====================
A:豊臣家
==========天下統一の壁=====================
B+:織田家
B-:島津家 上杉家 毛利家 伊達家 佐竹家
==========天下有数の大名、江戸期存続の壁============
C+:三好家 北条家
C-:長宗我部家 北条家 宇喜多家 龍造寺家 
==========戦国大名ながら滅亡した諸行無常の壁==========
D:今川家 武田家 朝倉家 六角家 細川家 山名家 大内家
==========守護大名の癖に下克上の波にのまれた先代不幸者の壁===
武田は立場もわきまえず噛みつくから常にボコられてそれが目につきやすいだけ

282 :
北条2つはいってたわw

283 :
「家単位」で評価するのなら、
室町末期だけ一瞬光った織田、豊臣、徳川、毛利、長宗我部などと、
平安末期から多くの政権下を戦い抜いた佐竹、武田、宇都宮、小山などとを
同列に語るのはアンフェアだと思う

284 :
と言われてもここは戦国板であって・・・
やはり信長公の偉大さは揺るぎようの無い歴史的真実な訳でして
信長公が天下統一の礎を築き、彼の家臣が天下統一を成し遂げ
彼の一番の同盟者が太平の世を築いたという事実は普遍な訳ですし

285 :
>>284
戦国時代だけ見ても小山なんかギリギリまで凄い粘っている
細川の激闘は島津とは比べ物にならないくらい苛烈
「家単位」で語るなら権力を保持した期間もきちんと見て欲しい

286 :
権力を保持したって言ってもほとんどの家は酷いもんだぞ。
確かに今川、細川、山名、大内あたりは室町期でも名家の1つだが
武田に至っては同じ甲斐源氏の跡部や穴山、小山田に専横され続けて
ようやく武田で落ち着いたのが武田信昌の時で、この後武田の内ゲバが続いて
結局宗家に権力が統一されるのは信昌孫で信玄父の武田信虎の時。
室町までを考慮したら、武田は余裕でEランクいくんじゃね?

287 :
内ゲバは問題無いんじゃない?
平安〜明治までなら、佐竹が一番だな。

288 :
佐竹ってそんな上に来るかね
主要勢力となった時期は一度もなかった気がするが・・・

289 :
武田はその初代が源頼朝に散々翻弄されてるからスタートからして危うい

290 :
>>283
毛利の祖は鎌倉幕府創設に多大な貢献をした大江広元なんだが

291 :
>289
そういえば3代目・佐竹秀義も頼朝に翻弄されているんだよね

292 :
>288
領土と時間の面積で評価すればおそらく、、

293 :
>>290
家単位だから傍流の分家は別の家だろ

294 :
それを言うなら佐竹も傍流の分家が乗っ取ってるな

295 :
乗っ取りは「家単位」だからプラスでもなければマイナスでもないでしょ
家というハコモノに変化はないのだから

296 :
>>281
今川は高家として残ったじゃないか

297 :
細川家 山名家も滅亡してない
上洛成功した浦上家や、有名すぎるくらいの赤松家、北畠家も居ない

298 :
>>296
高家なんて気休め程度の大名以下の存在だぞ。
織田家で言うなら大名になれなかった織田信高や織田信貞が入っている。
そんな織田家の当主でもない連中と同格程度とか今川の血統考えればむしろ恥。

299 :
>>297
室町細川家と肥後細川家は血統的には別の家
山名は大名ですらない。そもそも支流を辿ればいくらでも残ってる。

300 :
>>299
細川幽斎はよく誤解されるけれど、
血統的な先祖の細川頼有は京兆家の出身であり、
血統的にも家的にも細川家で合っている

301 :
>>298
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。
小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は秀吉が婚姻させた秀忠の妻の江の哀願で信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
『高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった』信栄系に乗っ取られた。

302 :
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩
天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。
芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。
柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩
遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏

303 :
ID:7qmq1oKMは隔離スレ(武田信玄上洛成功part2)で暴れていろよ

304 :
>>301-302
なんで話をループさせるんだよ
今川は高家→織田は高家以下→武田は〜→織田は〜(以下略)
これをずっと繰り返して楽しいか?お前は猿なのか?

305 :
>>304
猿ならまだ可愛いもんだ
重度なアンチ信長のID:7qmq1oKMは奇病の持ち主
相手にしても無意味だぞ

306 :
実は織田家の人間からも高家が出ている(織田信高系、織田信貞系)というのは
決して言ってはいけない禁句。幕末に報われた今川と違って
武田は家を乗っ取られた挙句そのまま衰退したというのはもっと禁句。

307 :
>>304
だがはサル以下だよ

308 :
>>307
サルとかそんな高等生物と一緒にしちゃサルが可哀想だ
ミジンコにも劣る

309 :
猿なのかと言ったそばから織田厨>>306が、
見事に釣られててげんなり
お前らはここで死ぬまでやりあってな

310 :
だがさんちーっすw

311 :
織田は高家旗本から降格して
ただの旗本になっただろ。
江と秀忠の縁が消えた家光時代には、
織田なんてカス扱いになってるわ。

312 :
信長が最も恐れた男は誰なのか?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1342669094/

313 :
>>311
その頃の武田は高家旗本ですらないけどなw
武田家が高家旗本になったのは信玄から数えて5代目の信興の時
西暦に直すと1701年からで、たまたま仕えていた主君が徳川綱吉お気に入りの柳沢吉保だったからだけw

314 :
>>313
だがさんちーっすw

315 :
アスペルガーだがは313じゃなく311の方だろ?
無知丸出しの痛々しい文(>>311)を見たら一目瞭然。

316 :
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw

317 :
穴山が死んで関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉と
柳沢家徳川家から武田と縁もゆかりもない人間を雇って信玄の遺徳(失笑)状態になってた高家武田家がなんだって?w

318 :
>>317
>>関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉
おい一次史料のソースまだかよ。
ここ以前にもお前が聞かれて答えられず誤魔化してた挙句に
wikiの丸パクと指摘され逃亡したとこじゃないかw

319 :
だがが暴れるほど武田の惨めさが浮き彫りになるな。

320 :
>>関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉
なんだデマか
うっかり信じかけた

321 :
プププwwwww
悔しくて適当に捏造しただがちゃんwww
水戸市史や藩翰譜も隠ぺいしたんだねww
悔しがりついでに教えておいてあげる、
武田信吉ってね、「武田信吉」って名乗ったことないんだw
「武田万千代」「武田信義」が名乗りで、信吉の時点で「松平」なのねw
同名の「松平勘四郎信吉」(松平信一の養子)と区別するために「武田信吉」って呼ばれてるだけww

322 :
だがはスルーしとくとして
そういや信吉はなんで松平を名乗ってるんだろう?
忠吉は東条、忠輝は長沢を継いだから松平を名乗ってるが
信吉の理由はなんなんだろう。

323 :
初歩的な質問。そもそも何を持って正式な名乗りとしてるの?
例えば加賀前田家なんかは松平の苗字をもらっていて記名する時は松平官職名なんちゃらってするでしょ?
前田と名乗る時ってどういう時?

324 :
そもそも松平信吉(家康子息)が存命の頃は御三家なんてなかったからな。
後継者の徳川秀忠以外は皆松平姓を名乗っていたはず。

325 :
御三家そのものが家康存命時には存在してないけど
慶長11年に元服した義直と頼宣は最初から徳川姓だろ。

326 :
信吉は1603年死亡だからその頃にはもう生きてないよ

327 :
>>322
いわゆる御三家構想がなかったとか、徳川をばら撒いて価値を下げるよりは松平の上位に徳川を据えて神聖化?するとか

328 :
>>327
それなら義直とも頼宣に徳川を名乗らせないだろう。
忠吉、忠輝は他の松平家に養子に出してるから納得できるとして
わざわざ武田を継がせた信吉だけ徳川じゃなくて松平に戻す理由が無い、
>>329 が書いてるように他の大名に松平の性を下賜したパターンと同じで
武田性を捨て去った訳では無いと言うのが妥当じゃなかろうか。

329 :
>>328
それだと御三家が特別という事にならないから
将軍家と御三家が別格という位置づけなんだろ
根拠はと聞かれても、俺の思い付きだがな!
ばらまくってのは羽柴姓豊臣氏みたいなモノだろう
じゃなくて、取捨選択して一定の思想理念の下に与えるという事は、ばらまくとは少し違うと思うぞ

330 :
>>329
御三家なるものは家康の生前には存在してないから無意味だよ。
つーか、松平も羽柴よりマシな程度で国持の外様には大抵、授けてるぞ。

331 :
>>330
家康のというより、徳川家としての政策なんじゃね
将軍を頂点にいわゆる御三家を配して、その下に親藩やら譜代やら
あと少し勘違いしてるけど、松平を問題にはしてないよ
豊臣と同じように松平もばら撒いてる、問題は徳川だから

332 :
>>321
>>信吉の時点で「松平」なのねw
一次史料のソースはまだなの?
>>同名の「松平勘四郎信吉」(松平信一の養子)と区別するために「武田信吉」って呼ばれてるだけww
誰がそう主張してんの?
ひょっとして、またwikiの丸コピですかw

333 :
織田厨にソース要求しても無駄…

334 :
水戸市史や藩翰譜ってさっきから言ってるんだけどなw
せっかくだから聞き返してやるよ、「武田信吉」だって示している一次史料は何?w
まさかWikipediaで松平勘四郎信吉と区別して「武田信吉」と表記させられているから
「武田信吉に決まっている」なんて妄想飛ばしているわけじゃあないよね?w

335 :
アスペルガーだがは都合のいいように改竄したソースを提出することだけが生きがい
無様すぎて痛々しい

336 :
瑞竜山にある信吉の墓はどうなってるんだ?
あれなら二次史料より成立早いだろ

337 :
>>334
水戸市史のどこにあるのか詳しく説明してくれ。

338 :
水戸市史の中巻1の序盤にいくらでも書いてあるわw
おまえは話はぐらかす暇があったら武田信吉名義で
信吉が活動していたと言う史料をさっさと出せよw

339 :
>>338
へっ?ここのレス内容に準ずるような該当するような内容はまったく書いてないが???

340 :
はいはい妄想乙w
いいからさっさと武田信吉名義で活動した史料を出しましょうねw

341 :
>>339
この程度見つけられないって・・・
ちゃんと学校でたの?

342 :
信長が甲斐の大名でスタートしたら相続直後に黒人衆に内乱起こされまくって今川に攻め込まれてアボーン

343 :
>>342
>黒人衆に内乱起こされまくって
信長は弥助に忠誠を尽くされるほどの人物だからそれは無いな
>今川に攻め込まれて
甲斐版桶狭間が起きるだけ

344 :
父ちゃんが土台を築いてくれてたからな。
逆に信長にそういう土台を築けるかは微妙な気がする

345 :
>>343
ちょっと感心した

346 :
クロンボにまで手を出すクソホモ長w

347 :
黒人は巨根だしな

348 :
509 :日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:48:41.35
圧倒的兵力差がないとまともに正攻法で勝てない糞雑魚織田軍w
正規軍では無い百姓に弟親族多数討ち取られるw
卑怯な騙まし討ちしか出来ない(北畠、伊勢長島、岩村城etc.)
講和に応じる振りして牛蒡丸を返してやるとまた手の平返しの糞外道

349 :
砥石攻めで武田軍7000が村上軍500(城兵)にコテンパンにぶっ殺されたね
横田高松とかカンペキに犬死だったな
しかも武田軍兵士を殺されるだけ殺された挙句小城1つ落とせず後詰の村上本軍が到着
大混乱の武田軍は村上軍の挟撃を受けなす術もなく嬲り殺されていたね
君が大好きな武田軍が見事な負けっぷりを披露したことも覚えておこうね

350 :
武田は戦争するたびに毎回武将クラスが誰か死んでる
勝ち戦ですらこのザマだから救いようがない。
三方が原はまさに奇跡の戦績だったともいえる

351 :
>>350
内容もアレだが、既に信長と無関係じゃねーかw

352 :
コンプの塊でなぜかすぐ武田の話に摩り替える哀れな織田厨w

353 :
高等指揮官が最前線で指揮を執るかどうかで
武将死亡率は大きく変化する。
つまり武田は最前線で勇敢な武将が状況に応じて指揮する裁量権があると同時に
最前線から本陣への逐次の戦況情報報告が達成できるために
指揮武将が本陣から遠く離れることに問題が生じない軍事組織だったのがわかる。

354 :
遠く離れて死んでいれば世話ないなwww
織田で武将クラスが死んだのは劣勢だった戦いばかりで
最終的にはそれらも勝っているのがほとんどwww
長篠みたいに味方が死んで死にっぱなしの雑魚武田と一緒にしてもらっては困るw
大友や今川みたいな戦国ド底辺大名と没落組同士だべってろw

355 :
>>354
>>長篠みたいに味方が死んで
どの武将が長篠で死んだって?
一次史料で返答してくれよ。

356 :
山県土屋真田河窪・・・挙げればキリがないよ?w
まあ話はぐらかしたいんだよな?長篠は雑魚武田最大の汚点だものなw

357 :
>>356
で、一次史料による根拠はまだなのかい?

358 :
一次史料の定義もわかってないアスペwww

359 :
>>357
武田氏関連の本読めば書いてあるよ
蛆素性のわからないネラーの言より信用置けるだろ?

360 :
>>358
一次史料が同時代の日記や書簡といった類の者だって解らない事を直接指摘しないとだめだぞw

361 :
>>354
>没落組
織田の事ですね、よく分かります

362 :
>>361
武田は滅亡組だね わかりやすい結末だ

363 :
2回も改易滅亡を喰らったが江が秀忠の嫁だったからおこぼれ復興させてもらった無能信雄w

364 :
滅亡した挙句元家臣の大久保に寄生していたのにその大久保ともども改易されついに大名になれなかった雑魚武田w

365 :
お前らなんで、さも自分の事のように争ってるの?家臣なの?
前世がそうだったの?

366 :
>>365
オレはトイレ板でTOTO派とINAX派が激しく罵り合っているのを見たことがある。社員でもないのに。
2ちゃんとはそういう場所だ。

367 :
とある音楽がメロスピかパワーかゴシックかで言い合ってるのもあったな

368 :
信長研究してる学者やら歴史研究家や小説家とかの本読んでると
なんか自分達が戦国時代なら信長と同じ発想したとか、同じ成果あげてる
みたいな表現なのが多い。
それゃ安全な時代と場所で妄想するのは小学生でもできるw
こいつら実際戦国時代に生きてたら3日も生き残れそうに無いなw

369 :
>>368
例えばどういうのだ?
井沢とか?

370 :
井沢の本はどう読んでも、自分が凄い能力があって優秀だと思ってる
フシがある。
そりゃ知識があって歴史に詳しいだろうが、じゃ今の日本がどうすれば
良くなるとかの知能は正直怪しい。

371 :
井沢は別に歴史にも詳しくないんだが

372 :
あいつの本職は小説家だよ
司馬遼太郎や山岡荘八と同じ畑

373 :
井沢氏は下手な歴史学者より歴史知ってるぞ

374 :
知ってねえよ。というか体系的な教育を受けてないから歴史の理解も解釈も素人にすぎん。>井沢
井沢の本はあくまでエンタメだからな。アレを読んで歴史を解った気になるなよ。恥ずかしいから。

375 :
井沢とかさトンデモ本しか出してないじゃん。古文書も読めないんだとさ。
昔はNHKの歴史番組でコメンテーターもやってたが、今は完全に地上波から消えたか。

376 :
信長は公記に
「信長公が御狂いになった」などと二回ほど書かれている。
また正式な名前は織田欝三郎信長であり
信秀も欝な姿の信長を見てそう名づけたのであろう。
また第一の後見人を林佐渡(信長を見限り謀反)
第二後見人を平手中務(信長を見限り自害)
第三を青山三右衛門(加納口の戦いで戦死)
第四を内藤勝介(売筆家太田牛一から抹消された謎人物)
このように信秀が信長のために付けた補佐役も信長にあきれ果てる始末。


377 :
当時から欝の概念があったのか

378 :
漢字が中国から伝わってきてんだからあったろ。

379 :
信長はクズだな

380 :
そのクズが天下人になった事実

381 :
そしてそのクズが武田家を虫けらの如くうっかり滅亡させちゃった事実
信忠に虐めすぎるなと武田家に慈悲を示した事実

382 :
クズを極めれば天下人にもなれるし武田家もほろぼせるんだね。
さすがクズの中のクズ、キング オブ クズ信長だw

383 :
北条家、上杉家、毛利家、長宗我部家は織田家に滅ぼされていないけどな
速攻で滅ぼされた武田家が単純に弱いだけ
まあ信玄の領国経営が酷すぎたから無理もないがな

384 :
北条上杉毛利はわかるが長宗我部なんて雑魚でしょ
病欠で秀吉を欠いた豊臣軍に一方的にボコられる情けなさ
本能寺がなかったら間違いなく織田にボコられて終了の雑魚大名

385 :
なるほど
武田は弱い上に信玄の経営が酷かったから滅んだんだ
それはお家が滅ぶよねw
同じように信長はみんなに嫌われてたから部下に叛かれまくって殺されたんだね
信長の肖像みてもヒステリックな顔してるもんねw

386 :
北条は自分から織田に臣従しているし
上杉は景勝自身が「もう滅亡すると思う」て手紙で書いているから上杉も本能寺なかったら滅亡

387 :
>>386
景勝が佐竹に送った書状だな。
実際、本能寺の頃だと魚津は落とされるし
鬼武蔵に乱入されてるし、そうとうヤバかったな。

388 :
たしかに信玄の経営はひどすぎた
とっとと義信に家督を譲っておけば武田家もこんな醜態を晒すことはなかった

389 :
>>388
信玄の経営が酷いものなら
甲斐国人達による謀反で要害山へ逃げる隙を与えず
躑躅ヶ崎館でぶっ殺されてるだろ。
それに悪政を自覚してるなら躑躅ヶ館を強化して城郭化してるはず。
躑躅ヶ崎館の姿こそ甲斐における信玄の政治を体現していると言える。
>>387
寝言は寝て言えよw
ただの平城の魚津城にあんだけ苦戦してんのに
越中最大の山城である松倉城をどうやって攻略すんだよw
登山道がひとつしかなく、400M上ったあとには
のろし台から四の丸。三の丸、二の丸と並べられているが、その間は10Mの深さで区切られている上に
攻略するには絶対に通過しなきゃならない
一本道しかない上に狭いし横懸かりの攻撃を受けつつ
1キロ近く攻略しないと本丸へたどり着けない。
しかも周囲には30ほどの砦や支城の跡も確認されとる。
景勝の書状は決死の覚悟を述べたもので、絶対に降伏せずに徹底抗戦すると言ってる。
松倉城を攻略したとしても高速道路ですら海の上に建造されたほどに狭い
親不知の難路をまず織田軍は通過できないだろうしな。
森なんて無謀に突撃して敗死する猪武者だろw

390 :
>>389
木曽、穴山、小山田が武田家を見限ったことも知らない素人が都合よくわめき散らしている
アスペルガーだがのいつもの戦術だね

391 :
>>390
だがは史実に適応できないから仕方ない。

392 :
>>390
はいはいそれは天正10年の話であって
信玄生前の10年後の話なのも知らんとかwwwアホぐぐるw恥を知れwww
しかも浅間山噴火し、武田滅亡の前兆と噂され国人が動揺してたことも黙殺かwww

393 :
>>392
妄想乙!
その嘘も飽きたよ

394 :
まあまあ、例の日本誤訳でも読んで和んでください
年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから )


395 :
389
躑躅ヶ館って堅い城だったんじゃないの?

396 :
たしかに信長の経営はひどすぎた。
織田厨も一切、織田の内政について語れない始末www

397 :
ソースは?

398 :
織田の内政は分国法ないから、
信長が気にいるか、気に入らないかだけで全てが決まるし、
施行してるのは恐喝、虐殺、略奪、恫喝だろ。

399 :
なわけねーだろ
そんなアホな統治したら武田みたいに
ちょっとやばくなったら速攻内部瓦解するわ
武田の信濃統治がまさに恐喝、虐殺、略奪、恫喝

400 :
信長って尾張制定、美濃攻略、上洛までは普通の戦国大名なんだけど、
そのあとってひたすら宗教闘争に明け暮れたんだよね。
長嶋、金沢、石山はじめとする各地の一向一揆、比叡山焼き討ち
これをどう評価するかはともかく、後世に日本国内で宗教対立が起こらなくなったことも事実なんだよな。
信仰のためなら命を投げ出すことも厭わないみたいな狂信者が居なくなって平和になった。
もしこれがなかったら幕末の頃欧米の工作によって日本人が浄土宗対浄土真宗みたいに対立させられ、
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒に別れさせられて対立させられたインドみたいに植民地にされた可能性が高い。
秀吉や家康もキリシタンとの戦いを徹底したし。

401 :
だがに取り合っても仕方なかろう

402 :
>>399
そりゃ大分県でも観察された浅間山超噴火が、
武田滅亡の天意とか噂が広まれば瓦解するわ。
信長なんて家臣の下克上で殺され、
すぐにまた別な家臣に織田家を乗っ取られ下克上されるという、
ダブル下克上されてんじゃん。
しかも下克上が頻発してたのは親の時代の話で、
時代遅れの下克上が成立する時点で、
織田の組織としてのいい加減さがよくわかる。

403 :
武田は分国法あるし、
晴信が違反したら訴訟するように書いていて
近代法治国家の最も重要な面を抑えてる。
これは他国の分国法にも無いこと。
この点からも武田が法治国家であったのが論証できる。
織田が宗教戦争とかバカじゃねーのw
自分に従う勢力じゃなかったから戦っただけだろ。
しかも天皇に通算三回目の土下座で、
勅命出してもらって、今までの本願寺と一揆たちの罪は一切不問とすると言う顕如に対しての事実上の敗北宣言してるし、
それでも従わない教如にまた勅命出してもらってんじゃん。

404 :
信長が本願寺と講和したのって信長包囲網で全方位と戦うのは危険だからって理由じゃん、
個別の勢力としての本願寺に負けそうだったからじゃない。
本願寺だって信長からの講和の申し出は渡りに船だったから乗ったんだし。
いずれにせよ末端の信者を「戦死すれば極楽浄土に行ける」なんて洗脳して、
政治に口出ししていた宗教勢力政治から排除しようとして成し遂げた信長は、
政教分離という近代国家形成の礎を築いたよ。

405 :
>>400
その側面はあるね。
当時の純粋な信仰者には同情はする。
いつだって宗教は権力者に利用され、末端の信者は使い捨てにされるんだよな…。

406 :
政教分離w
頭がわいてるとしか思えない基地外だな。
90年代のコーエー武将ファイル脳だな

407 :
ソースも無しによくこれだけ妄言が吐けるものだ

408 :
信長は特定の宗教を禁止したことはない。
政治に介入してくる宗教勢力を徹底的に痛めつけ、排除したのだ。
武力での政教分離だろ。

409 :
>>407
関わってもマトモな答が出てくる訳でもないから
スルーしときなよ

410 :
ほら、新しいひとつの見方を提示されるとついて来られない。
おじいちゃんみたいな脳の持ち主はステレオタイプな当たり障りのないことしか付いて来られないんだよな。
まあ、そんなに突拍子もないことじゃないんだけど。

411 :
近代国家にしているはずなのに織田に対して勝ち星ほぼゼロの武田とは・・・
信玄すら家康とじゃれあってるようじゃ織田に勝てるわけがないな

412 :
>>402
>そりゃ大分県でも観察された浅間山超噴火
アスペルガーだが、無知すぎるし馬鹿すぎるし阿呆すぎるぞ!
日本一高い富士山でも大分県から見ることができないのに浅間山が見えるか?
日本人なら誰でも知っていることで嘘なんかついて痛すぎるwww
お前は今話題のチャンチョンだなwwwww

413 :
信長が政教分離とかアホだろ。
ただ単に自分に従った勢力は厚遇し
抵抗いた勢力とは交戦しただけだろ。
一向宗と戦っただけで政教分離なら
上杉も朝倉も北陸一向宗相手に
政教分離政策を実行していたことになるなwww

414 :
なるんじゃないの?

415 :
どうなんだろうなあ?
正確に言うとどうなのかわからないが、宗教勢力との関係性は政教分離というよりは一職支配とみるべきなんじゃなかろうか?
まあ、この辺の認識は自分も多分にあやふやで明確で無いので突っ込まれたらごめんなさいと言うしかないが。

416 :
>>415
それが普通の見方だと思う。

417 :
政教分離っていうのにもいろいろありましてね、
宗教による特権を認めないっていう厳格な政教分離を目指すケースもあれば
特定の宗派が一方的に力を持たないように国家が統御するというケースもある。
前者は主に現在の日本で、後者は主にイギリスやアメリカで行われている。
信長が政教分離をした、の意味で使われる「政教分離」は後者だな。
上杉や朝倉も「上杉家」「朝倉家」という国家の枠組みでは政教分離をしたということでもある。
信長ほど勢力範囲が広くなかっただけで。

418 :
政治に宗教の影響を排除するのが政教分離。
一方を牽制するために対立するもう一方の宗派を利用するのは宗教分離じゃない。
当時の日本は僧籍の助言者や、
武将が存在していたし、
キリスト教排除で信長に讒言してる者もいたし、
そもそも安土城からして内装や障子絵が宗教色が濃く、
総見寺などまさに織田政権の宗教性を物語るもの。
政教分離なんて夢物語。

419 :
当時の知識層は坊主が多い、当然広範に支持されてたのでそれを侵攻する武将も多い
讒言しているものの思想と織田信長のそれとは無関係、装飾もそれまでの日本の文化見れば特定宗教の影響は当然受ける
特別に特定の宗教を優遇していたわけではなく、結果としてそうなっていただけ
海外の日本人町歩いて、日本人とよく会うからここは日本だと言ってるようなもの

420 :
安土城の内装が伝えられている通りなら、完全に禅宗的世界観のかたまり。
信長が武家らしく禅宗世界に傾倒していたことの証明だな。

421 :
沢彦も臨済宗の僧だしね。

422 :
信長は一向宗と戦ったけど浄土真宗を禁止していない。
宗教を否定はしていないが、政治に関わる宗教勢力を叩きのめしただけ。
のちの秀吉や家康が禁止したキリスト教も認めてる。
桓武天皇は肥大化した奈良仏教勢力を嫌って平和的に長岡京に移ったけど、
武力と坊主をRことを厭わなかった信長は同じように宗教勢力排除を武力をもって行なっただけ。
結果、大きな排除ができた。
信長の宗教勢力の殺し方見れば一般勢力のそれと大きく違う特別な意志が見て取れるだろ。

423 :
宗派に拘らず信長は宗教勢力が世俗的権力を持つことを嫌っていた
というより戦で何度も負けてて弟を殺されたり
息子が鎮圧できずに和睦したりしてるので
信仰の下に結束した民衆蜂起こそが最も厄介な敵だったのだろう
実際親分潰してハイ終わりな戦争にはならないし
宗教一揆というのは歴史通してメチャクチャ強い

424 :
信長は政教分離してないし、
無理やり西洋史観を日本の歴史に当てはめて
考えようとした愚かな90年代のコーエー信長マンセー妄想が発祥の愚論。
近代と近世を分けた政教分離とか論理飛躍が甚だしい気持ち悪さ。

425 :
信長戦国歴史検定
http://www.kentei-uketsuke.com/nobunaga/

426 :
そもそも今の日本のような政教分離が稀なのに
その特殊思想な今の日本の政教分離を持ち出して
「信長は政教分離などしていない」とのたまうアスペ

427 :
その現代の政教分離の定義、最高裁のそれですら社会の文化を鑑みて支障が出ない程度の関与は認めてるんだけどな

428 :
>>426
今の日本じゃなくても一般的な政教分離の定義から言っても信長は政教分離なんぞしてはおらん。
お前はそういう事も解からんのか。ああ、解からんだろうなあ。ゴメン、気の毒な質問をした。

429 :
>>428
ばーかw
一般的な政教分離=英米の政教分離なんだよw
そもそも政教分離はヨーロッパで生まれた概念で
日本に明確な概念が伝わったのは戦後。
しかも戦後日本の政教分離は日本独自の改変が行われ
本来英米欧で使われた政教分離とは全く別物だw
あ、もしかして政教分離の概念は日本が最初とか思っちゃってた?w
今の日本と違うから信長は政教分離なんてしてないニダとか思ってた?w

430 :
人間50年の舞を愛好したり仏教勢力に対する容赦ない処断を鑑みれば
政策として政教分離を進めたというよりは
「宗教的善行が死後の世界で報われる」という
宗教一般の核心たる教義をまるで信じてなかったというほうが正しい
宗教一揆との対峙の仕方は山賊や無能な上自分に従わない者に対するものと大差がない

431 :
安土宗論なんてのもあったなあ。

432 :
政教分離してるわけないだろ。
そんな程度で政教分離なんて言い出したら
細川、三好どころか
比叡山を全否定した足利義教まで
政教分離したことになるわw

433 :
中世においては宗教勢力を武装解除しある程度軍事的に無力化できれば、政教分離と定義しても個人的にはいいとは思うけどな。
勿論、現代日本における政教分離とはイコールではないけど。

434 :
>>429
お前本当に日本語の読めない人間なのな。お気の毒に

435 :
信長を持ち上げたいなら宗教一揆との戦いを政教分離と評価するよりは
楽市楽座と関所の撤廃を評価したほうがいい
100年200年後の江戸幕府の超エリート家老でさえ間違える経済政策を
アダムスミスの出現より200年も早く自由主義的にやってのけたというのは異常
普通は自分が支配したらその利益を自分のものにするところだが
撤廃や制限という手段をとったのは、民衆レベルで国を豊かにすれば巡り巡って自分も潤うという
経済観念を持っていたことは疑いようがない

436 :
>>435
だがは駄目だな。
信長の楽市楽座と関所の撤廃なんてのは誤解の最たるものじゃないか。

437 :
信長はむしろ既得権を持つ商人を保護する側だし、
楽市楽座なんて今川や斎藤がやってたもんで、
信長が美濃を攻略後に
それをやむなく追認しただけ。

438 :
また90年代の革命児信長wwwネタかよwww
馬鹿すぎ。信長は大名の中でもかなり古い体質。
守旧派なのは明白なのにwww

439 :
>>435
逆に言うと富の独占をしなかった事が信長・信忠死後の
織田家の凋落を招いたとも言えますね
世の中結局は金ですからねー

440 :
>>439
馬鹿かお前は。一生井沢でも読んでろw

441 :
マッチポンプを覚えたのかだがは

442 :
連呼リアンがまたわいてるな

443 :
>>441
だがは、前からずっとこんな感じじゃね?
文体でバレバレなのに自分同士で罵り合うスタイル。

444 :
昔のだがさんはIDの事を全然知らなくて
自演やりまくってたのが同一IDだったのでバレバレだった
今のだがさんは2ch慣れしてかなり手の込んだ小細工をするようになってるよ

445 :
連呼リアンがまた独り言つぶやいてるのか

446 :
>>439
織田家ご用達の商人ひとりに数国の商売を委任したりしてるんだが・・・

447 :
三傑とか言われてるけど秀吉・家康の踏み台だよね

448 :
それはあくまでも結果論だな。

449 :
家康の踏み台は無能の極み武田信玄だろw
目の上のたんこぶだった今川家を滅ぼしてくれただけでなく
遠江まで美味しく頂くことが出来ました^^v

450 :
ここは織田信長は過大評価スレなのに、やたらと武田信玄持ち出すバカがいるなw
↑にもちょうどいるしww

451 :
>>450
その代表的な馬鹿が無関係なスレに基地外の如く貼り付くアスペルガーだが

452 :
>>447
それを言うのなら秀吉もそうだろう。
織田家は小大名とはいえ一応お家は残ったけど豊臣家は滅亡だかなあ。

453 :
そもそも踏み台って言っても特に家康は信長秀吉存命期にはこの2人に何もできなかったからな
信長秀吉が死んだあとにおこぼれを貰っただけと言う方が正しい。
おこぼれを貰うのにも才能がいるけどな

454 :
2人にとっては本当に光秀様様だよな。
気持ちとしては銅像でも建てたかっただろう。

455 :
光秀よりも戦国一雑魚だった武田に感謝すべきだろ
上杉並みに攻略に手間取ってたら本能寺も無かったからな
織田軍が挙兵した途端に滅亡だからなwww腹いてーーーー

456 :
>>454
伊賀越えで大ピンチに陥った家康は感謝しないと思う。

457 :
>>456
いや、でも、信長が死なないと家康の天下はないぞ。

458 :
>>457
その時期別に天下を望んでもおらんしなあ。

459 :
その後の家康と言えば、劣勢下で死闘の連続だしなぁ

460 :
>>458
最終的にという意味だよ。

461 :
>>460
そういうのを結果論という。歴史を見る上で一番とっちゃいけない視点だ。

462 :
だから私が言ってるのは信長が殺された時点の話ではなく、最終的に天下
を取った時、家康は光秀に感謝したと思うよ。
信長が殺された時点では家康がどう思っていたかはわからないけど。

463 :
信長死亡時の家康
 えっマジ?ウソぉ〜!そんなのあり?自分パニクっちゃったからもう死んじゃう!!
 
 殿、お止め下さりませええ〜〜(家臣)

464 :
>>462
それはお前の感想であって、それを勝手に家康の気持ちにされても困るわ。

465 :
>>464
そんな事言っていたら後世の人の感想はどれもそうでしょう。

466 :
正直な話、天下とれたのもとれなかったのも運次第だろ。

467 :
>>466
当人の努力も大きいと思うけどな。
三傑はみんな働きものだよ。

468 :
>>465
問題すり替えて正当化キモチワルイ

469 :
分国法による法治国家ですらないのに
政教分離してるわけねーだろw
>>467
信長なんて汚い格好して相撲大会やってり
鷹狩りばっかして遊んでただけのアホだろ。
途中からは茶会で遊んでばっか。
苦労してんのはパワハラDQNに
休まず働けと威圧されてる
家臣団であって
信長本人は遊興に耽っていただけ。
惟任退治記には信長には3000人の妾がいて遊んでたと書いてるし。
信長は公記に「信長公が御狂いになった」などと二回ほど書かれている。
また正式な名前は織田欝三郎信長であり
信秀も欝な姿の信長を見てそう名づけたのであろう。
また第一の後見人を林佐渡(信長を見限り謀反)
第二後見人を平手中務(信長を見限り自害)
第三を青山三右衛門(信秀の美濃攻めである加納口の戦いで戦死)
第四を内藤勝介(売筆家太田牛一から抹消された謎人物)
このように信秀が信長のために付けた補佐役も信長にあきれ果てる始末。

470 :
どんどん崩壊してるなアンチ織田

471 :
>>470
アンチ織田とか以前に
だがが飛びぬけて異常なだけだよ

472 :
>>471
sab乙w

473 :
だが = sab (sub)なんだが

474 :
謙信や信玄をホモホモ言ってながら
信長のことは一切言及しないSABがだがのわけないだろ。
しかもだがが一方的にSABに攻撃してたし。

475 :
どう見ても同一人物だろw

476 :
>>469
8月は南部氏や遠野氏ら奥羽からの者らに安土天主を見せびらかせて自慢したり
浄土宗贔屓の信長が彼らに褒美をばら撒いたり
近江一国中から呼び集めての相撲大会見物で機嫌が良かった信長だが
宇喜多の赦免嘆願で9/4に播磨からやってきた秀吉が安土で激怒した信長に追い出され
播磨へ帰り着くや早くも9/10に秀吉が攻めかかり
別所甚大夫や別所三大夫や別所所左近や三枝小太郎や三枝道右や三枝与平次や
とをり孫大夫や安芸・紀伊の侍など数十人討ち取りの大利を得た
播州三木表合戦のことだろ。
無念に思って合戦で励んだことを9/11の報告で知った信長が
「三木城の落城も近いゆえ油断するな」と秀吉へレターして機嫌が直っている。
その後、9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
北畠信雄が9/17に伊賀で大敗し9/22に信長が
信雄にふざけんな親子の縁を切ることも考えると激怒書状を出す。
10/30に宇喜多の名代として宇喜多与太郎が攝津まで出向いてきて
秀吉の取次ぎで信忠にお礼を言ってる。
信長激怒から時を移さず速攻で軍功を上げた
播州三木表合戦がなければ宇喜多を許されなかっただろう。

477 :
>>476
数日前の自レスにアンカー宛てて何がしたいんだ?w
圧倒的な一日の総レス数でまるわかりなんだぞw

478 :
しょせんだがのやる事だしw

479 :
浅はか
これにつきるな、だがは

480 :
>>474
信長は普通に凄いと思うけど
衆道ネタでは謙信や信玄や政宗とか美少年を愛でて掘る側
信長は著名な大名の衆道ネタの中で唯一受けで掘られる側っぽい
女装してガチムチの乱丸とかに……どっちかって言うと掘られる側のがカッコ悪いってかM男っぽい

481 :
>>476
信長の賄賂好きは異常だよなぁ。

482 :
むしろわいろ喜んで受け取らん大名なんて当時に居ないだろ…
あほじゃね?
信長はまだ拒否った例があるぐらいじゃないか

483 :
金も米も火薬も尽きた信長のターゲットから逃れるための出した
金の受け取りを拒否っておいてから
放火略奪虐殺しまくり
御所まで延焼した上京での信長の悪行のことか?
受け取り拒否ったのは是が非でも全財産略奪したいからだろ…

484 :
>>482
つうか今と違って当時は賄賂=誠意だからね。
江戸時代の記録ではきっちりと賄賂で記録されてる。
賄賂を受け取るなんてけしからん、じゃなくて
ほうほうおまえはこんなに賄賂をくれるのか愛い奴め、っていう世の中

485 :
>>484
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが信長が賄賂を貰って許すwww
当時の社会でも賄賂は社会や秩序の乱れの原因だと認識してたのがモロバレなんだがwww

486 :
>>485
708 名前: 人間七七四年 投稿日: 2012/08/31(金) 11:50:34.36 ID:FewJxgdL
>>699
信長の命令を無視して市場取引を拒否られる屑銭ばっかりを献上して朝廷で不興を買った信長乙www

487 :

興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。

488 :
ID:FewJxgdL
書き込んだスレッド一覧
【疑問】スレ立てるまでもない質問 9【戦国時代】
長篠・設楽原合戦の真実 part3
*  織田信忠 その2 *
織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
武田信玄上洛成功part2
悪逆大名
なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
織田信長は過大評価されすぎ11
下克上された暗愚な暴君
信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】

08/31(金) 10:16〜〜08/31(金) 17:46の間に合計25の駄レスwwwwww

489 :
>>484
流石に堪忍袋の緒が切れた相手からのわいろは受け取らん事多いけどねー

490 :
>>486
無限ループみたいだなー
一人二役とかやりすぎて、だがの壊れ方も酷くなってきたな>

491 :
堪忍袋の緒が切れたはずなのにヒラグモだせってしつこかったじゃねーか

492 :
松永の謀叛なんてむしろ甘々だったじゃないか
荒木と一緒にしてやるなよw

493 :
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
アマゾンレビュー
信長の寺社や通貨、交通に対する政策を細かく分析している。
当時の有力寺社は大荘園領主・高利貸しといって性格を有し、
独立した寺内町に商人を集めて流通・交易を支配して収益を上げていた。
信長はこうした宗教の権力支配を強制的に排除した。
堺など港を押さえた信長は「荷止め」(経済封鎖)ができる立場となり、
他の敵対大名の硝石の入手を妨害して、軍事的な優位を確実なものとした。
武田信玄の西上は物資不足を打破するための最終手段であり、
そのために時間と労力のかかる籠城戦を避けるために
家康が逃げ込んだ浜松城を通り過ぎた、とする説はユニークである。
社会の不正や経済的不合理を排除することで、
「誰もがやろうとしていたこと、やりたかったことを
前例に捉われず、臆することなく徹底的にきっちりやり遂げた」のが
信長である、とする著者の信長像こそ現実的で明快に思われ共感できる。

494 :
信長は人々の暮らしが豊かになり、自分も豊かになることを夢見て戦っていた。
大胆な仮説に豊富な資料で実証を進める。
現代日本の基本的なインフラ整備は信長によって行われていたことがわかり、驚いた。

495 :
近代の贈位で正一位はともかく
官位は正二位だったし
死後直後の贈位で従一位だし
普通にやり手の凄い人物だったんじゃねえの?

496 :
>>493
その著者、歴史学者じゃなくて、
生活保護の謎だとかしょーもないビジネス本を書いてる程度のやつで、
テキトーに信長マンセーすりゃ売り上げあがるだろw的な
最強無知のカモ長厨房向けで書いた本だよ。

497 :
諜報と戦に関しては過小評価
内政に関しては過大評価

498 :
>>493>>494
なんで二次資料、三次資料を駆使してっ書いてあるレヴューはコピペしないでシカトしてんの?

499 :
>>494
民心を掴んだからこそ群雄割拠から抜きん出る事が出来たんだろうね
戦国の乱世に終止符を打って太平の世を築くという大望は奇しくも
一番の同盟者だった家康によって成し遂げられるというのも
信長・家康が戦ってきた経緯を考えるとある意味納得させられる

500 :
信長の永禄2年のいわゆる「天下見物」の時みたいに、ありもしなかった美濃の刺客事件など
姑息な創作が多い信長公記

501 :
まあ信長研究もいいが、あんまりのめりこんで自分が信長と同じ能力
また信長そのものと思い込むのはやめよう。
ああいうのは異常な時代に、まれに成功した例と思うほうが無難。

502 :
>>494 >>499
来世の浄土を否定し民に現世利益を供与する生き神たらんとした信長だからね。
自分の使命と社会のニーズが合致したってとこか。
後醍醐みたいに武士社会の実態を無視した改革は、結局失敗に終わる。

503 :
信長だって結局失敗したじゃん

504 :
信長のやったことなんて秀吉の時代にあらかた否定されてるしな

505 :
否定は無いな。どうみても継承発展系

506 :
秀吉は単なる自己保身で、信長が破壊した中世以来の身分制を復活させたヘタレ。
信長時代の雇用の流動化をやめ雇用の固定化を選択した為、国内統一後過剰に膨れ上がった専業兵士を持て余し、
大陸侵攻を選択せざるを得ないハメに陥り、見事な大失敗で、豊家瓦解の根源となる失政。

507 :
>>506
>>信長が破壊した中世以来の身分制
>>信長時代の雇用の流動化をやめ
なにそれw具体的に書いてみ?
>>中世以来の身分制を復活させたヘタレ
はっ?惣村皆兵時代から秀吉は刀狩などを通じて兵農分離させていったのが、なぜ身分制復活なんだよw
それ江戸時代の士農工商の階層社会と混同しててバカすぎ。

508 :
馬鹿な質問する前に、少しは通史のお勉強したらどうかね。
その上で書き込み内容に異議があるなら、正しく修正したまえ。
単なる難癖では誰も相手にしない。

509 :
信長ってあれだけ家臣に謀反を起されているから人望がなかったんだろうけど
本能寺では多くの部下が殉死してんだよね。
部下ではなくたまたまその日に本能寺に泊まっていた矢代なんとかとか、
本能寺の変を知って駆けつけた家臣もいるから人望が全くなかったわけでは
ないだろうけど、本人の性格のブレ幅がでか過ぎてどうしても好かれる嫌われる感情
が極端になるのかね。

510 :
よくよく見てみれば、皆謀反起こされてたのが戦国時代。
大内さん然り。○○さん然り。□□さん然り。

511 :
嫌いだから謀反とか小学生かよw

512 :
ただ信長はちょっと多過ぎるというかまあ勢力が巨大な分
謀反率は上がるのかもしれんが。
でも秀吉は信長の土台を引き継ぎより発展させても謀反が起こっていない
のを考えるとやっぱり信長の性格に帰する部分大だわな。

513 :
検証がすっぽり抜け落ちて、結論ありきの仮定
まあその程度だよな

514 :
尾張時代を別にすれば謀反起こすのは中途採用の外様ばかり。
外様の重用は考え物やで。

515 :
下からの裏切りなんて戦国時代通しての常識で、そんなの大小挙げれば数え切れない。
信長はあれだけの複数の敵を一手に引き受け、それで組織内離反は数える程度。
他の戦国大名ならとても持ちこたえられず内部瓦解が必至も、織田家だけは一部離反者が出ただけで、結局勝ち残り。

516 :
>>514
尾張統一戦の段階で身内を粛清しまくって深刻な人材不足だからな。
>>515
勝ち残ったかあ〜?
一部離反者によって織田家パーされているし。

517 :
謀反が多いどころか家まで乗っ取られると言うダブル下克上までやられたのは
信長の一職支配による内政丸投げが
在地勢力と家臣の主従関係成立に発展し、
家臣が軍閥化してしまうと言う
信長の内政統治システムの無策からくる致命的失敗によるもの。
安国寺も天正元年の時点で信長の末路を予見断定していた危険な均衡の上で成立していた。
また義昭追放後も幕府政治にすら信長は介入できなかったのも、
それらに関わる一次史料が全く存在しないことから判明している。

518 :
でもだからこそあれだけのスピードで征服拡大が出来たとも言える。
まあどんなやり方でもプラスマイナスがあるから難しいよな。

519 :
>家臣が軍閥化してしまう
してねえだろw
>義昭追放後も幕府政治にすら
義昭追放後の幕府政治に介入??信長が? 意味わかんねえよ

520 :
一職支配権は、
守護大名を作ってるだけだからな。
だから信長は大和や河内や越前や摂津や播磨や丹波や信濃や甲斐など大領謀反が頻発。
丹波の謀反で信長死亡。
甲斐の謀反で川尻血祭り。

521 :
>>517
では君なら、信長の家臣統制機構をどう改善できるのか、やってみたまえ。

522 :
>>520
教えて欲しいのだけどその信長のあとを継いだ秀吉の場合は謀反らしき
謀反が起きていないのは何故?

523 :
信長の性格は冷酷残忍で際立ちます。
延暦寺焼き打ち、越前や長島での女、子供を含む大量虐殺。
ルイスフロイスなども、信長の残酷性を実例をあげて言及しています
果物のカスを捨てなかった侍女を切り殺したと

524 :
人が権力をもつとどうなるのか
お前ら人を切って殺しても、なんの罰もない自由なところに行って
切らないでいられる奴が何人いるんだ

525 :
その通りで人が人を支配すると恐ろしい心理状態に
陥るという実験がアメリカで実際に行われた
Stanford Prison Experiment
そのあまりの衝撃的な実験結果で全米を騒然とさせた

526 :
>>523
やるべき事をやらずに手を抜く人間や、本来の分を超えているというか
逸脱しているというかそういう人間が大嫌いなんだと思う。
でも普通にやるべき事をやっていたらそうでもないと思うけどね。
本能寺でもあの絶対絶命の状況でちゃんと女性を逃がしている。
勿論当時はそれが当たり前なのかもしれないが、本当に冷酷なら
知ったこっちゃないだろう。今正に自分の生命が危機に瀕している時
なのに。

527 :
>>522
豊臣政権下では一揆が頻発してるな

528 :
>>521
一職支配の制度は、
三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、
摂津を上郡下郡に分けて、
広域行政単位となし、
さらに重層的な土地権利を一括し、
荘園領主を否定する性格を持つもので、
松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。
一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、
軍閥として盤踞する恐れがあるため、
久秀は永禄3年に大和へ転出させて、
在地支配の確立を阻害してる。
それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、
信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。
しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、
猿真似でやはり大失敗してるし、
本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする
家臣の軍閥化を完成させてしまった。

言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、
守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、
結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、
信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。

細川も光秀も筒井も秀吉もみんな軍閥化してるだろ。
それを90年代は織田軍は各戦線に分かれて軍団制を布いたとか
デタラメ妄想でマンセーしていただけでさ。

529 :
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり
もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは
信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は
秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)

530 :
こういう結論ありきの文章を書いているから、あなたの考えは広く認められていないのでしょうね

531 :
>>530
だがの場合、結論もアレだけど過程に問題がありすぎるのが致命的なんだと思う。

532 :
信長の政策のほぼすべてが、三好政権の一織支配なども含めて、既存のものの流用だったのは確かだが、
それが短絡的に配下の軍閥化に繋がったと結論付けるのは非常に乱暴だな。
というかそもそも、織田政権はその命令系統すらよく解っていないので、軍閥化を云々する以前の問題として
地方支配の実態がよく解ってない。

533 :
>>531
前提もダメだけどなw

534 :
三好長慶って朽ち果てた足利将軍を形式的に上に戴かないと、統治さえ覚束無かった守旧派大名。
しかもその畿内統治も全国政権化を意図しておらず、当時の一般的戦国大名と同様、地方分権志向止まり。
三好以外の大名連中は、三好が自領に侵食して来ないのなら、敢えて敵対する必要もない。


535 :
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから
毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊し
その影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)
明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし
(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)
再度崩壊するから織田は詰むよ。

536 :
三好長慶は幕府の政治に介入主導してるが
信長は義昭追放後も一切、幕府政治に介入できなかった無能。

537 :
もう幕府自体が存在してないんだがw
15代将軍足利義昭はほとんど何もできず朝廷すら
織田と改元を進めるなど総スルー
14代将軍足利義栄系に至っては完全無視される有様
信長が死んだあと秀吉らが「戻ってきてね」とアピールするも
お飾り未満の扱いでしかなく関白に就任した秀吉から捨扶持を貰う有様
足利義栄系に至っては阿波を領する蜂須賀に冷遇され100石未満の野武士程度の石高
豊臣が死んで徳川の世になっても直系でありながら無視され養子連続の喜連川に本家扱いを奪われる失態

538 :
>>536
義昭追放後に幕府なんてあったのか?鞆幕府ってやつかいw
幕府政治に介入する気なんてさらさら無いだろ。
それを潰して新たな体制を築こうとしたんだから。


539 :
足利義尋だろ。
そもそも信長は幕府行政機構に一切手を出してないし。
裁判など室町幕府行政はそのまま存続してる。

540 :
>>536
なら幕末に倒幕目指した雄藩も幕府政治に介入できなかった無能なのかね。
倒幕は万人が認めてる時代の趨勢。信長の対幕府姿勢も同様。
三好長慶の様に幕府の政治に介入主導しようとする発想自体が田舎大名であり時代遅れ。

541 :
実際、織田は京を軍事占領してただけで、
織田政権なんて存在してなかったし、
義昭が京都に戻ってくれば
いつでも元の鞘に収れたし、
豊臣政権が運営されて義昭が諦めて将軍位を返上するまで室町幕府は存続してる。

542 :
>>541
そんなんじゃ誰も釣れないよ

543 :
信長は分国法すら作れないんだから、
内政や裁判や寺社交渉は
室町幕府組織がやるしかねーだろね。

544 :
分国法なんて使い回しでええやろwww

545 :
分国法って死亡フラグだよなぁ

546 :
分国法ないから
信長の気分しだいで、
家臣を殺しまくり、村消しまくりの私刑多いからなあ。

547 :
まあなあ、分国法あっても税金しっかりとれてない武田みたいなのもいるからなあ
あってもなくても同じだろ

548 :
家臣すらも納税拒否する織田w
そんな拒否する家臣に加増する土下座っぷりの信長www

549 :
546
家臣殺しまくったっけ?

550 :
家臣に対してはむしろ分国法がない分なあなあだったと思うぞ>信長

551 :
法が細かいのは治安が悪いからなんだけど

552 :
また戦国の逸話レベルの話を。んなわけねーだろ。
治安の安定した状況のほうが法律も細かくなるっつーの。

553 :
治安安定してるのに細かく立法する必要ねえだろ・・・

554 :
つか基本的に統治安定した前任者がいたのにわざわざ弄ぶ必要ゼロだからな
だがはアスペだから「新しい制度を定めないとダメだもんksklw」って思ってるんだろ

555 :
フロイスも信長はちょっとしたことですぐ殺しまくると書いてるし
法律がないってのは暴君を生み治安を乱し、
暴君を見習い下克上する不平家臣が生まれるだけ。
結果、光秀と秀吉によって二重下克上が発生。
織田家臣団が全く織田家を守る気持ちが無かったのは、
興福寺が、信長の葬儀をまだやってもいないのに、
それを無視して家臣同士で領地の取り合いとは狂ってるわって書いてるくらい前代未聞の暴挙が織田家を襲ったのも
法律が無かったから織田家が裁くのではなく、
有力家臣が恣意的に裁くことが可能だったから。
こんなことは2000年以上前の秦の時代から指摘されてきた法治主義の常識。

556 :
法治主義w
法律がないとかw
すっげえ研究成果ですねw

557 :
実際には、過去の法や慣習がそのまま利用されてるだけだしな

558 :
>>553
安定するといろんなニーズが出てきて、それに対応する法律が必要になってきて結果細かくなるんだよ。
戦国時代より江戸時代のほうが法律の内容も種類も多く細かくなってるだろ?
乱れていると大雑把な法律しか通用しないが安定すると細かい法律も通用する。
だから安定した状況のほうが法律は細かく、多くなる。

559 :
社会の進展と治安ごっちゃにしてんのかよw
武田の法律見てみろよ、明らかに守られてないから追加してるだろw

560 :
武田の法は
信玄自身も法で裁かれるという法学の魂が入っており、
神の元では王と言えど平等であり、
王権すら制限を受けると言う古典的立憲主義を達成している。
しかも貴族や豪族からそれを強制されるのではなく、
自ら宣言したのは世界史的偉業であり、
下克上的気風の元において、
反意を持つ国人達との衆議に諮りカリスマ性を以ってリーダーシップを発揮し、
衆議を主導し合意に導き行動するのは非常に民主的統治と言えるだろう。
なお日本民法典起草の際にも参考にされている。

561 :
戦国の時代にそんなことやるってのはよほど結束がなく
信玄に逆らう配下が多かったんだろうな

562 :
>>560
どの文言からお前がそのように考えるにいたったか明確にしてみ?w
読んだ事ないだろ?w

563 :
イギリスなんかは貴族によって強制的に王権を制限されたもんな。
マグナカルタって言ったっけ。
信玄はキリスト教的思考が無いはずなのによく発想できたな。
天が信玄の行動を監視しているみたいな天道思考があったのかもな。

564 :
武田の分国法が民主主義に繋がるとかいかにもホラ吹きらしいアスペだなw
武田が定めた法律で武田自身が裁かれた例はひとつもない。
これは「法は天の下で平等である」というお題目を用いて、
「王様でも法を守る、下々の民が守らないのはおかしい」という独裁主義のおぜん立てをしているだけ。
「天」という武田家当主よりも崇高な存在を用い、そのありもしない「天」を利用して武田の独裁化を公然と行うためのもの。
近代で言うなら「陛下が法律を作った、国民は皆これを守らねばなるまい」として独裁を進めた戦前日本政府、
「国民から公平平等に総書記を選ぶ」として、3代で一族世襲を行った北朝鮮の支配体制に近い。
「我々は神に認められている。我々に逆らうのはすなわち神に逆らうのと同じ」というわけだ

565 :
>>日本民法典起草の際にも参考にされている
すごいな!

566 :
>>565
それはこじつけのネタだから本気にしないよーに

567 :
信長は様々な改革を断行したが、その恩恵は全て信長の利益に直結している。
そりゃそうだ。
自分の利益に成らない改革なんぞ、命の危険を冒してまで、アホらしくてやってられるかっつーの。
信長の利益 = 反信長の既得権勢力の不利益。
だから信長の勢力が伸張していく程、反信長の既得権勢力が弱体化していった訳だ。
自分の利益の為の改革という点では、建武の「失政」を強行した後醍醐帝と同類だが、
後醍醐の改革がブザマな失敗に終わり、信長が成功した分水嶺は、
社会のニーズに適ってたか否かに尽きる。
後醍醐は武家を忌み嫌い武家政権の幕府を武家の軍事力を利用して倒したが、
戦後の論功行賞では武家を冷遇。
だから武家の利益第一を掲げる足利尊氏の台頭を許し、後醍醐は都落ち。
信長の改革は、民衆にも多大な恩恵をもたらした為、信長の政策は広く受け入れられ、政権の安定に寄与。
加えて配下の武士の土着性を否定し、信長に直接雇用された武士はサラリーマン化し、
よって信長は他に類例の無い独裁権の行使が可能になり、信長の一存でどんな大幹部であろうと、身一つで放逐。


568 :
放逐を選んだのは佐久間本人だけどな
まあ林の場合は完全に厄介払いだが

569 :
>>565
民法修正案理由書によると、
日本民法典起草の際に参照されたことが明記されており
現行法にその影響が残っている
「民法修正案理由書 第四編親族第五編相続」251・252頁
>>566
織田チョン涙目乙w

570 :
Wiki丸写しかよw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B3%95%E5%BA%A6%E6%AC%A1%E7%AC%AC

571 :
>>570
所詮だがだから仕方ないw

572 :
ちゃんと明確なソースがあればwikiでもよいだろ。
wikiは出典不明な話が多過ぎる。

573 :
ウィキ以外でよろしく

574 :
織田チョン涙目w

575 :
wiki以外のソースが出せずに泣き言とは・・・哀れな

576 :
可哀想なのは、
wikiが出典ではなく、
「民法修正案理由書 第四編親族第五編相続」251・252頁 が出典である事実を意地でも認めない愚かな織田チョン

577 :
民法修正案理由書なんて明治期の書物に目を通したこともないくせによww
251・252頁になんて書いてるか教えろやw

578 :
史料の名前を書けば出典扱いされると思い込むだがであった
それらしい史料の名前を、自分の妄想の後ろに載せるだけの簡単なお仕事

579 :
>>577,578
ネットでも見れるので確認した。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2385831
ここの251〜252頁、第九百八十六条の項で参照されてるものとして確かに「信玄家法」の文字が見られる。
それだけのことなのか、それ以上のことなのかはそっち方面には詳しくないので論評は避ける。

580 :
もともと財産祭具などを継承すると書いていたら財産権しか相続できないと勘違いされまくったから
民法改正で「権利義務」としただけで、この義務に負債など借金が入っているのを
「信玄家法を参考にした」と言うだけに過ぎない
ちなみに元の信玄家法ではこの「親の負債について相続した子供の義務」が長々と書かれており、
親が死んで借金チャラにできると思うなよと生き血を啜るかのごとく強調されている

581 :
なるほど財産は相続するけど借金はチャラな!って言ういいとこ取りをする者が多くトラブってたから、
信玄の作っていた法を参考に修正して現在に至っても通用してるわけか。
さすが財産権を定めたは信玄公だな。
分国法がない織田は信長の勘気次第で財産のみ没収追放だもんな。
借金取りに追われて高野山に逃亡か野垂れ死。

582 :
だがは相変わらず物知らずだな。

583 :
>>581
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328973112/52
ステキな解釈ですね!

584 :
誰か教えてください
比叡山焼き討ちで秀吉が女子供を見逃して、光秀が殺しまくったとの
エピソードの出典を教えてください

585 :
>584 秀吉さんが言ったんじゃね?

586 :
信長は、天下統一の暁には、秀吉の様に大陸侵攻するつもりだったという風説が流布してるが、とても信じられん。
信長が秀吉の様なお粗末極まりない海外への軍事侵攻を考えてるなんて、これまでの政略や軍略を鑑みると、齟齬が大きすぎる。
ヨーロッパから様々な情報を吸収していた信長は、スペイン・ポルトガルの小国の重商主義に多くを学んでいた筈。
よって、信長存命なら1840年のアヘン戦争より約250年早く中国を軍事的に圧伏せしめ、彼の国との交易により富を蓄え、更なる富国強兵・殖産興業へと日本を隆盛させた筈。
領土の拡大一辺倒の秀吉の愚政には、政権の永続性は無い。


587 :
>>586
天下統一も果たせないお粗末な信長には秀吉も言われたくないだろw
史実をねじ曲げるチョンは秀吉嫌いなんだよな。

588 :
信長の最大の功績は秀吉を取り立てたことという認識でいいのかな。

589 :
本願寺政権を阻止した事じゃね?

590 :
少なくとも本能寺後の秀吉の天才ぶりは信長を上回ってた
大返しして主君の仇討って傀儡後継者を確保して最有力の柴田を倒して
甲斐を吸収した徳川まで抑え込んでと
運の良さもあろうが何かが憑いてるとしか思えない強さ

591 :
>>590
まあね、その後サクサクと天下統一しているし。
天が味方する時はそんな感じじゃない。
関が原の前後の家康もそうだね。

592 :
信長の最大の功績は天下統一の土台を作った事だと思う、色んな意味で。
秀吉を取り立てた事や家康を同盟者にした事が最大級だろう。

593 :
同意

594 :
信長は信玄や謙信に大軍ぶつけて完敗したので、
後世の評価が凄い下がったよな
あの場面では、部下に任せず自ら出陣すべきだった

595 :
自分の願望をさも事実化のようにいわれてもw

596 :
いつ信玄や謙信に大軍ぶつけて完敗したんだよw

597 :
>>596
何も知らないんだな
三方が原
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆
推定2万(水野勢、徳川勢含まず)
手取川
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤長龍、美濃三人衆
不破光治、前田利家、佐々成政、原彦二郎、原長頼、金森長近、若狭衆
推定4万

598 :
手取川の参加武将で、
堀秀政が抜けてた

599 :
信長の凄いのは戦国によって分裂した日本をともかくも再統合の方向に向かわせたことだ。
この基盤があった上で秀吉や家康の覇業も可能になった。

600 :
三方が原
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、毛利長秀・美濃三人衆
推定2万(水野勢、徳川勢含まず)
手取川
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤長龍、美濃三人衆
不破光治、前田利家、佐々成政、原彦二郎、原長頼、金森長近、堀秀政、若狭衆
推定4万

601 :
三方ケ原に推定2万()を派遣したという典拠史料は?
手取川は歴代古案しか史料が無く合戦の規模は小競り合い程度だったというじゃないか。

602 :
>>601
手取川は長家家譜にも信長公記にも記事がある。
むしろ合戦の規模は小競り合い程度だったという典拠史料を教えて欲しいね。

603 :
長家家譜と信長公記のどこに織田が完敗したと記述されてる?
上杉の誇張書状ただ一つを鵜呑みにするなよw

604 :
>>603
謙信は石川県松任市まで南下し、
柴田勝家は石川県白山市水島町まで北上しているのに、
小競り合いで決着がついたなんて、どういう典拠史料により主張してんの?
その変な解釈、詳しく述べてみてよ?
それに長家家譜も信長公記も織田側の史料なのに、
自分が完敗したと書くと思うのか?

605 :
>>603
柴田勝家は4万、上杉謙信は2万なのに小競り合いで決着とかいうトンデモ説を
鵜呑みにする方が普通おかしいと思うぞ。

606 :
>柴田勝家は4万、上杉謙信は2万なのに
お前が決めたのかw

607 :
>>606
長家家譜に織田勢4万って書いてあるが?

608 :
家譜w

609 :
>>600
その名前は長家家譜じゃなくて信長公記だろ。
長家家譜ってネットで読めるんだね。
長家家譜によると、
柴田勝家、丹羽五郎左衛門尉長秀、長谷川藤五郎秀一、稲葉伊予守通胤、
滝川左近将監一益、羽柴秀吉、前田利家、徳山五兵衛則秀、
柴田伊賀守勝豊、佐々内蔵助成政、不破彦三、金森五郎八、堀久太郎秀政
まあ信長公記とほぼ同じ。
長谷川藤五郎秀一の名前が堀久太郎秀政に比べてやたら前にあるのが気になるな。
約4万というのは北陸方面軍、丹羽ら若狭衆、斎藤ら美濃衆あわせた数字としては、
妥当だと思われる。

610 :
>>600
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、毛利長秀・美濃三人衆では、
2万もいかないぞ。
おそらく1万、多くても1万5千くらいだろう。

611 :
佐久間や林+アルファ程度で軍勢が2万もいるなら
織田軍全体では10万越えるんじゃね?w
所詮赤の他人の徳川に自分の軍隊の大半預けるとかいう自殺行為はしないからw

612 :
>>594
安土城で戦局の総合指揮を執る信長が、特定戦線だけに意識を傾注できる訳もなかろう。
そんな事をすれば、柴田の面目丸つぶれ。
小者界の小者には、その程度の真理さえ分からんか。

613 :
手取川
上杉が大勝したと伝えてる史料が上杉の書状の写し一枚だから疑義が出るんだよ。
他の史料で裏付けとれないからな。

614 :
生野山の証拠は怪しいから、上杉は負けていないはず
手取川の証拠は怪しくても、上杉は勝ったはず
ということですかw

615 :
大勝したなら感状とかいっぱいありそうだしなあ。

616 :
勝った負けたとか、極端な人が多いけど、そこまでの決着はなかったんじゃ
ないかな?
有名どころがが討ち死にしたって話もないし。

617 :
長家家譜って離脱した筈の羽柴まで柴田勢に加えてるのか。

618 :
>>610
織田1万5千+徳川1万2千+水野2千、
武田勢より多いな。

619 :
>>617
そういう意味なら、信長公記にも書かれてる。
織田勢4万が手取川を渡河、長連龍と羽柴秀吉が撤退を提案(長家家譜)
秀吉が勝手に離脱して信長激怒(信長公記)
織田勢、退却中に襲われ大敗(歴代古案)
この流れが自然な解釈だろう。

620 :
で、>>618のソースは?

621 :
石川と福井の県境にある博物館の学芸員や寺社で伝わる話では手取川の合戦があったかどうかは別にして織田方が加賀から全面撤退して来て
上杉方の南下に備えて慌てて国境を固めたと聞く。
織田贔屓の柴田や前田ゆかりの寺社でその様に伝わっているのだから織田方が加賀から逃げ帰ったのは事実だろう。

622 :
大勝?完勝?その戦果を記してるのは謙信書状写し一枚のみプッ
Wikiレベルでも戦果に議論があることが述べられてるぞw

623 :
『信長公記』
佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として
『総見記』
佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ

624 :
>>623
その顔ぶれで3千は、やりすぎだろ総見記
徳川家から圧力でもかけられたのか?

625 :
>>624
総見記の成立は秀吉の時代だろ

626 :
>>625
織田軍記(=総見記) 遠山信春 1702年(元禄15)/
小瀬甫庵の「信長記」をうけて、これを補訂するという形で
「増補信長記」を記したのが最初。その後「総見記」と改め、
さらに信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したのが本書。
甫庵信長記をもとにしているため、史実に潤色がされている。

627 :
>>622
4万の織田勢が2万程度の謙信から逃亡したのは動かしようの無い事実。
ここからは推測だが、
あまりにも織田勢が弱すぎて、
謙信は感状を出す気にならなかったのだろう。

628 :
釣り糸がひどすぎるでござる

629 :
弱すぎたから感状は無し…小学生か!危険を省みず手柄を立てたのにそんな理由ありえん。

630 :
法螺スレかよw

631 :
織田側が手取川を越前方面から能登方面へと渡ったところは確認されてんだよな?
その後の一向一揆軍が越前との国境近くの大聖寺城を占領している事も確認されている。
戦が無かったとすれば何故織田側は越前まで退く必要があるのか疑問となる。
兵を引くにしても手取川の南側の河川沿いで止まるか、大きく引いても大聖寺城までだろ。
越前まで撤収する理由が理解不能。
もし戦が行われずに越前まで兵を引いたとしたなら織田側はアホの集団としか言いようがない。
戦に敗れて越前まで撤退したという方がまだ格好がつく。

632 :
上杉と対立してる勢力の救援に向かったが間に合わなかっただけでしょ

633 :
まぁスレタイからしてアンチ織田厨が織田の粗探しをする自慰スレだからな笑


634 :
>>627
生野山では、あまりにも上杉勢が弱すぎて、
氏康は感状を出す気にならなかったのだろうw

635 :
4万の織田勢が2万程度の謙信から逃亡したのは動かしようの無い事実。
ここで問題なのは、
・織田勢は何人屠殺されたのか、
・何故謙信は感状をほとんど出さなかったのか
この二点だな。

636 :
俺は謙信の事詳しくないけど
謙信が感状を出さなかったのは能登、越中を褒美としてあげられたからじゃない?
感状出してたのは謙信が戦をしても領土をとらず、褒美としてあげるものが感状しか無かったからじゃない

637 :
能登や越中を得たことと、織田軍撃破は別の戦なんだけど…なんで褒賞をごっちゃにするのよ?
ありえない。

638 :
織田軍撃破って越とる前なの?

639 :
感状を出さなかった?
出せなかったんだろw ろくな戦果が無かったんだからよ。

640 :
>>631
倶利伽羅峠の戦いや富士川の戦いみたいなものだろ。
勝手に崩れて上の者から先に逃亡。
織田軍なんて畿内や越前の敗残兵の寄せ集めだから、
弱いのは仕方が無いし。

641 :
感状がないから戦が無かったとか言うなら
そもそも信長の戦いの大半は無かったことになるんだがw

642 :
血染めの感状なんてあるから、川中島は武田の惨敗ということか

643 :
>>642
感状が無くても、手取川は謙信の圧勝
感状があるから、川中島は謙信の圧勝
どちらにせよ謙信が圧勝ということかよwww

644 :
つまり結論ありきと

645 :
>>644
自分でその結論を導いてることに気付けw

646 :
誰が何処で「感状がないから戦が無かった」なんて云ってんだよ?

647 :
手取川で戦があり、負けたところまでは認めたってことか。

648 :
猫も杓子も信長だよな

649 :
観察眼、直感力があるネコ杓子がたくさんいるってことだ

650 :
>>645
結論ありきって意味分かってる?w

651 :
まあ戦国一の領土拡大をしたのが信長で、戦最強とは誰も言ってないんじゃないかね
内政も外交も含めた総力で一番成功したってことだ

652 :2012/10/28
過大評価スレにふさわしい結論がでたな
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