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2012年09月戦国時代13: 司馬遼太郎風に会話をするスレ2012 (392) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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司馬遼太郎風に会話をするスレ2012


1 :2012/05/19 〜 最終レス :2012/10/27
CSで「司馬遼太郎と城を歩く」を見て筆者は感銘を覚えていた。
これまで、司馬遼太郎とは、HNKのような温度差のないつまらない小説に見えて仕方なかった。
が、いざ見てみると表現豊かな文章であり、検索してみると「司馬遼太郎風に会話するスレ」を発見してしまったのである。
http://unkar.org/r/sengoku/1213455620


2 :
戦国版に司馬遼太郎のスレを建てたのに、人影が無いのはどういうことであろう。
一説に彼の本を愛読している者がまだ起きてないことであった。
ゆっくりでいい。そんな楽天的な気長さを筆者は心得ていた。

3 :
余談が過ぎた

4 :
何と言うことであろう。
せっかく建てたスレに>>3しかない。
しかも、「余談が過ぎた」と、しかなく、筆者閉口した。

5 :
>>1に貼っているスレ主はどこに行ってしまったのであろう。
スレが伸びないのは彼が痛いほど知ってることであり、それと同時に彼とて筆者のような男を待ち望んでいるのが事実
、のはずであった。

6 :
司馬遼太郎に話題を移そう。
筆者自身、彼の小説を初めて読んだのは、まだあそこの毛が生え揃えていない中学2年の頃であった。幼馴染が小学生5年で「竜馬がゆく」を読破した事を聞いての影響である。

7 :
それにしても、その幼馴染は本当に「竜馬がゆく」を理解出来ていたのであろうか。
筆者自身、中学2年で「竜馬がゆく」を読破したが、読み終えた頃にはvンカンプンであった。
そもそも、司馬遼太郎の小説と言うのは、歴史とその人物を理解していることが前程である。

8 :
そして、ふと思い出した。
幼馴染の語った歴史の知識は多くが間違っていて、到底あれでは理解したとは言い難い。由緒正しき司馬遼太郎の小説を、小学生如きが簡単に読破したと言ってもいいものか。
筆者の実家での夜8時頃であった。

9 :
余談が過ぎた

10 :
余談ではあるが、筆者は9と言う数字が嫌いであった。
とくに49が嫌いで、4(死)9(苦)だからである。
これほど、縁起の悪い数字は日本歴史史上稀で、時の権力者が極度に恐れたほどである。

11 :
筆者が二度目に司馬遼太郎の本を手にしたのは人斬る以蔵である。
この時「あっしまった!!」
と思った。「竜馬がゆく」を父親に嫌々読まされたその後、二度と読んでやるかと決意したはずだった。
夏目漱石のようなつまらない文章で、こんなモノを読むくらいならドラえもんでも読んだ方がマシ、が本心であった。
(この頃、まだ司馬遼太郎に目覚めていない)

12 :
またもや、失敗する。
今度は「燃えよ剣」である。
筆者は一冊の本を読み終えると、本屋へと走り新しい本を買う。
そのためかまったく読書をしない時期がなく、本代がとどまることがない。
そして、間違えて「燃えよ剣」を購入してしまうのである。
仕事帰りの思考能力が欠けている夜10時前のことであった。

13 :
バイクで事故って入院している時だった。
退屈である。
本でもなければ気が狂ってしまいそうで父に運んできてもらう。
「夏草の賦」であった。
この際、本なら何でもいい。
が、長曽我部元親には興味を持っていて、この時ほど司馬遼太郎に感謝したことはなかった。

14 :
夏草の賦を読破する。
だが、本を閉じなかった。
筆者にとって、この時が司馬遼太郎の始まりと言ってもいい。
「勝って兜の緒を締めよ」。
新たな彼の本を求め、それは筆者の時代の幕開けであった。

15 :
(人生とはおもしろいものだ)
筆者は思った。若い頃は、肉体的刺激を求めるが、年を喰って来ると精神的刺激を求めるらしい。
あれほど嫌っていた司馬遼太郎を今は愛読しているのである。

16 :
次に目指したのが、「国盗物語」である。
長曽我部といい、斉藤道三のようなマイナーな歴史人物を書いてる小説家は少ない。
司馬遼太郎を読めば、歴史の扉が開く。さすればどれほどおもしろい読書が出来るか。筆者は思った。

17 :
私がこずかいをねだった。すると父から
「だまらっしゃい」
と怒鳴られた。私はゾーッとした。なぜなら、父こそ宇宙を貫く愛であったのに、わが国体を見に行くこずかいすら拒否されたのだ。
「いかさっしゃい」

18 :
>>17
筆者の場合、逆であった。親がゼニを借りに来るのである。それも、ゼニを返さずまた貸してくれと言うのは狂気の沙汰で、その債務は最大で40万に達した。
「ゼニを貸して欲しければ、まず貸したゼニ返せ!!」
こういうのが精一杯であった。

19 :
筆者自身、数ある司馬遼太郎の作品で「国盗物語」ほどおもしろいと感じたのモノはなかった。
斉藤道三と言えば「油売り」と言われて、ラクして出世したと後世に伝えられているが、それは間違いである。
目的を達するために合理的に考え、己の才能で美濃一国を手に入れた。
その行動は小気味の良ささえ感じられ、男ならこう生きたいとホレボレする姿であろう。

20 :
その後、「義経」を読破し、現在は「関が原」中巻の最中である。
余談ではあるが、筆者は関が原の主役は真田幸村と聞いていた。
が、読んでる限りでは島左近か石田三成が主役で少々ガッカリしている。
しかし、それはそれでおもしろく、世に言う直江状の「何でも好き勝手にして、大した御威光ですなあ」と言う訳し方に感銘を覚えている。

21 :
さらに余談であるが、筆者がこれまで司馬遼太郎で読んだ作品は、竜馬がゆく、人斬り以蔵、燃えよ剣、夏草の賦、国盗物語、義経、で、関が原はまだ中巻途中である。
(順番は筆者が読んだ通り)

22 :
現在、播磨灘物語に興味を示している。
されどまだ「関が原」の最中のため先の話になる。

23 :
実のところ黒田官兵衛を知ったのは数年前であった。
とくに、播磨灘物語に記されている家康へのしたたかさには感動さえした。もし、秀吉が如水を退かせなければ家康も好き勝手には出来ず、また違った歴史になったであろう。

24 :
馬に枚を噛ませ、鎧の草擦りを縄で縛り

25 :
「馬に枚を噛ませ、鎧の草擦りを縄で縛り」との言葉を筆者は知らなかった。
検索してみると、「王佐の才」のようで浅井長政が関係しているらしい。

26 :
余談ではあるが、浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍は、信長が不利であった。
古来より革命家と言うのは世論が冷たく、この男も例外じゃなかった。
言ってみれば信長にとってこの戦いは、古い体制に真風を取り入れ中興の祖となった戦である。
それは、戦国時代において新しい時代の幕開けでもあった。

27 :
さらに余談だが、賤ヶ岳の戦いもそうであった。
戦とは、敵の3倍もの兵力が必要とするのが兵法。
およそ柴田勝家にはそう信じて疑わない。
それがこの男の敗因である。それ以外ない。
大軍で突っ込んだはいいが、秀吉に背後を突かれ、瞬く間に敗去した。

28 :
言ってみれば、柴田勝家は古い体質の遺物だった戦法が最大の敗因である。

29 :
司馬遼太郎の話によると、戦国武将で一番強いのは島津らしい。
種子島に近いため鉄砲が豊富なのである。
その次に強いのが、武田、上杉だった。
武田、上杉には熟練した強さがあって信長はそれを極度に恐れた。

30 :
もともと信長には戦力が無かったため工夫によって対抗した。
ちなみに、鉄砲と言うのは撃つまでに時間がかかるため、そう重要視されてなかった。
時間差攻撃によって鉄砲を最新兵器に変えたのが信長である。

31 :
余談が過ぎた。

32 :
(戦国スレも捨てたものではない)
筆者はそう思った。
そもそも、筆者と互角に歴史の話を出来る者など皆無であった。
が、戦国スレを見てみると、想定より互角である。
いや、実際には筆者の知識を凌駕していて、これでは自分が無知識と思わざる得ない。

33 :
筆者の知識の根源は「その時歴史が動いた」である。
資料を用いた番組進行には司馬遼太郎とてバカにはできない。
歴史の細部まで行き届いたこの番組が、今の筆者を作ったと言っても過言では無い。
が、この番組には時折、司馬遼太郎のパクリがあり、それが残念で仕方なかった。

34 :
筆者が初めて「その時歴史が動いた」を観たのは土方歳三であった。
この頃、新撰組がどのような組織かも定かではない。
人づてに近藤勇や土方歳三と言った英雄がいた、と聞いただけであった。

35 :
余談ではあるが、その当時の筆者は「新鮮組」と思っていた。
「新撰」ではなく新鮮と思っていたのである。

36 :
「沖田総司はブサイクだった」
おそらくこの貴重な情報もその時歴史が動いたからであろう。
沖田総司は農民出身ではあるが、下級農民ではない。
上級農民だったため、近藤勇や土方歳三より上品で、そのためか美男子などとデマが流れた。

37 :
記憶が正しければ、記念すべきその時歴史が動いたの第一回目は桶狭間の戦いであろう。
世論では、信長はイチかバチかの戦いに賭けたと語り継がれているが、それは間違いである。

38 :
今川の大群を分散させ、本隊に突っ込んだ。
天候や情報戦略の一戦で、言ってみれば信長は勝つべくして勝った戦いであった。
が、この桶狭間の戦いは多くの疑問を残している。

39 :
実は桶狭間の戦いは、世に語り継がれるほどの戦いではなかった、
との見解を示す資料も残っている。
東海の覇王今川義元を倒した信長の噂は日本各地で持ち切りであった。
何でも、当初、今川軍10万に対し、織田軍5千と伝えられていた。

40 :
歴史的大勝利にはこのような尾ひれはツキモノで、言ってみればこの大勝利はあやふやなのである。

41 :
余談ではあるが、川中島4戦目もそうだった。
死者2万ほど出したこの戦いも資料にはあやふやな点が多く、何より主力武将の多くが生きていたのも不思議である。
歴史研究者によればこの戦いは武田上杉の自作自演との説も出ている。
(以上は、その時歴史が動いたを参照)

42 :
司馬遼太郎は三流大名を褒め称えるところがある。
武田勝頼、徳川慶喜がその典型だろう。
その時歴史が動いたによる「勝頼が実は勇敢な大名だった」は司馬遼太郎のパクリではなかろうか。

43 :
信玄ですら取れなかった城を勝頼は奪った、と誇らしげにその時歴史が動いたで解説していた。
それも資料を用いてである。
あたかも番組が探し出した情報と言わんばかりに「どんなもんじゃい!!」と戦自慢をしているようだった。

44 :
話は変わる。
あれほどの豊富な知識を貯蓄している司馬遼太郎ではあったが、「本能寺の変」だけは別であった。
確かに、真犯人が長曽我部説を打ち出したのは天才と言わざる得ない。
が、あくまで小説の中では明智光秀を指しており、真犯人については触れていない。

45 :
その時歴史が動いたでは、信長殺しの真犯人は義昭と報じている。
義昭の取り得は野望で、将軍の座を追われて尚、天下を狙っていた。
司馬遼太郎も光秀を動かし続けたのは義昭と言っていて、執念こそが強さに繋がると言っても過言では無い。

46 :
余談ではあるが、義昭の屋敷に割られた貝九つが置かれていたことがあった。
クガイとは政治を示しており、皮肉にも貝九つを賭けたのである。

47 :
筆者の見解ではあるが、信長殺しの黒幕は秀吉が適任ではなかろうか。
「出る杭は打たれる」を恐れた秀吉は、毛利攻めが可能なのにも関わらず信長に花を持たせようとした。
「自分では手に負えない」と言って、信長を誘き出したのである。

48 :
京都には、「京で戦争があってはならない」との暗黙の了解があったらしく、そのためか信長は50人ほどの手勢しか連れて来なかった。
言ってみれば、秀吉はこの行為を読んでのことではないだろうか。

49 :
家康とも考えられる。江戸時代初期、自分の生涯を記録されることが流行った。
人と言うのは都合の悪い過去には蓋をしたいものである。
そのためか自慢ばかりが記録され、中には偽装の大手柄ですら記録された。

50 :
家康もこの可能性がある。
信長殺しの真犯人が天下人にあるまじき行為と考えて、歴史的記録を抹消したのかもしれない。
江戸幕府体制になって、家康の過剰とも言える用心深さは知っているだろう。

51 :
それにしても、信長の死体が出なかったことが謎である。
単純に考えれば、あれだけの死体の中、信長と断定することは困難だろう。
が、そんな単純に片付く話であろうか。

52 :
信長の墓は全国に3つほどあるらしい。
信長に限らず、数いる武将で死体無き墓は多くある。
が、信長の墓は特別で、霊感が弱い者でも何かを感じると言うのだから、よほどこの世に未練があったのだろう。

53 :
余談ではあるが、筆者は坂本竜馬の墓に行ったことがある。
目の前に幕末の英雄が居ると言うのは奇妙な気分で、お土産に墓の石を拝借しようとした。
すると、親から猛烈な反対を受けた。
当然であろう。
そんなモノを持ち帰ればとんでもない。
中学1年の夏休みであった。

54 :
話は戻る。
説によると信長の死体は存在したと言う。
正確には盗まれた。
誰が盗んだかは定かではない。
信長の死をうやむやにしようとしたい人物であろうが、筆者の知識ではここが限界である。

55 :
また、本能寺の変があった頃、その真相は公になっていた。
日本歴史史上この上ない武将が死んだのである。
真実を隠せと言う方が無理な話であろう。
はっきりと記録にはされずに、時が経つにつれ忘れ去れたのかもしれない。

56 :
なんと言うことだろう。
我ホストに隣接するホストが荒氏らしい。
おかげで、書き込もうとすると規制になっており、やむえず撤退せざる得なかった。
そもそも、こんなことはしばしばあって、久々に書き込む2ちゃんねるで規制になっていることもあった。

57 :
話は歴史に戻る。
意外に知られていないのが、宮本武蔵のその後である。
その時歴史が動いたによると、佐々木小次郎の戦いの後、消息が不明になったと言う。
一説によると、散って行った男達の墓参りである。

58 :
また、武蔵vs小次郎の戦いには裏の一面があって、この戦い事態存在してはいけなかった。
ゆえに人目の少ない巌流島で戦い、その勝者の武蔵も歴史の闇に葬り去られるはずだった。
吉川英二によると、小次郎の亡骸は笑っていて、このことから勝利を確信していたと伺える。

59 :
以上は余談。

60 :
小次郎の戦いの後、武蔵は伊織と暮らす。
ちなみにこの伊織は名前は違う。
兄の子のようで、武蔵が育てる事になる。
武芸に生きた武蔵に対し、伊織には学問をさせた。
(以上は、その時歴史が動いた参照)

61 :
おもしろい説がある。
古い資料によると、武蔵の戦いの後、小次郎は起き上がってきたと言う。
その後、誰に殺されたかは定かではない。
小次郎が生きているとやっかいな人物、あるいは、武蔵の子分と言う説もある。

62 :
余談だが、現代の武蔵のイメージは吉川英二が描いたもので、当時は新鮮だった。
武蔵のイメージと言えばまるで修行僧のようで、剣士の鏡のような男である。
が、何しろ400年前の話であるから詳細は定かではない。

63 :
武蔵の本性は姑息で、小次郎の戦いも子分を使って勝利した。
顔を見ても神経質である。
まるで一休さんのような面構えで、とても吉川英二が描いた男とは思えない。
無論これは説である。

64 :
潔癖で民衆思い。「義」の旗を掲げた上杉謙信は非の打ち所が無い大名。
およそ多くの者がそう思っている。
たとえばこの「義」、なぜ「正義」ではなく義にしたのか。
戦国時代においてもはや正義など存在せず、義としたことは謙信の心の内がわかる。

65 :
それにしても、これだけの大名がなぜ脚光を浴びないのであろう。
大名としては、武田信玄など足元にも及ばない。
欲がなかったことから領土拡大をせず、もし謙信がその気になれば大きく歴史は変わっていた。

66 :
家臣の欲の争いから、謙信がお家を捨てた、とドラマや小説では出てくるがそれは間違いである。
そもそもお家を捨てたのではない。
言わば、上杉側と長尾側の欲の縄張り争いに嫌気をさし、ストライキと言う形での抗議であった。

67 :
また、謙信は派手好きであった。
実はホモだったと言う話もある。
直江兼継もその相手をしたと言うのだから理解し難い。
潔癖で知られる謙信のこの行為はまさに不潔で、これが本当なら天下に恥を晒したと言えよう。

68 :
余談だが、大河ドラマ「天地人」で、兼継は民衆思いであった。
が、直談判に来たうるさい民衆3人の首を切り落としてしまった事件がある。
これはどういうことか。
また、謙信は一向宗の一揆に悩まされていた。

69 :
つまりは、謙信とて普通の人間である。
ストライキも一興、派手好きも一興。
が、毘沙門天との神の化身に筆者は心を奪われた。話題は変わる。

70 :
さて、武田信玄である。
武田信玄と上杉謙信をどちらが好きかと聞かれれば、10人のうち、7人が好きと答えるだろう。
謙信が不人気なのは欲の無さから地味で、そこへ行くと武田信玄は派手である。

71 :
謙信とは反面、信玄のこの英雄ぶりは何であろう。
信玄と言えば、実の父信虎を追放し、三条の方とも仲が悪く、嫡男義信には切腹をさせている。
これだけ見れば不徳なのは一目瞭然である。
およそ英雄とは程遠く、描かれた絵も見てもまるで山賊のボスのようだった。
(嫡男義信の死の詳細は明らかにされてない)

72 :
最近の歴史学者の研究によると、信玄の若き時代は「ヘタレ」だったと結論付けている。
武芸嫌いで女好き、そのせいか毎晩夜遅くまで女達と遊び呆けて、起きるのは昼間だった。
これを見かねた家臣の板垣が再三注意を促した。

73 :
余談ではあるが「板垣死すとも自由は死せず」と唱えた板垣退助は、武田家家臣の板垣の子孫である。

74 :
また、信玄は家臣をまとめることが出来ず、その兆候は武田最強軍団と唄われた時期まで続いた。
もともと、信虎の独裁体制では家臣は着いて来れず、言わば好き勝手したいために晴信を担ぎ上げた。

75 :
そもそも、それが戦国時代であって、地方の豪族はおろか家臣であっても主君への忠誠など皆無である。
武士道たるものが成立したのは江戸時代からであり、戦国の世では互いに醜く争いひとつにまとまることはなかった。

76 :
その救世主が山本勘助である。
「戦を続ければ家臣は団結する」
勘助は言った。信玄にとって勘助は謀友である。
勘助の脚本に信玄が演じ、武田最強軍団はこの男が作ったと言っても過言ではない

77 :
が、その勘助も川中島2回目の合戦で死ぬ。
上杉の背後をを突こうとして逆にやられた。
大河ドラマ風林火山では、勘助はもっとも激しかった川中島4回目まで生きていたが、間違いである。

78 :
また、大河ドラマでは「天下」との言葉がよく出てくるが、これも間違いである。
そもそも、天下など狙っていたのは織田信長くらいなもので、信玄など微塵も考えてなかった。
信長以外は自分の領土を守るのが精一杯なものである。

79 :
信玄は死後3年は自分の死を伏せるように言った。
これだけの偉業は勝頼には無理で、勘助がいたからこそできた。
死後、信長と対峙するようなことがあれば忽ち武田家は滅ぶ、そんな概念が信玄にはあった。

80 :
余談であるが、勝頼は正式な跡継ぎではない。
諏訪頼重の娘の側室の子であった。
三条の子、義信が死に、また信親が盲目なために跡が継げなかった。
もうひとりいたがまだ幼く、そのためか勝頼が暫定的に跡目を継いだのである。

81 :
さらに余談だが、諏訪の娘の名前は定かでは無い。
番組によっては湖衣姫とか言っている。
最近の歴史学者の研究によると「梅」らしい。

82 :
あの当時、武田と上杉は誰もが認める最強軍団で、他の大名はサーベルタイガーの近くにいる猛獣と言えよう。
京上洛のような行為は彼らへの挑発行為であり、なかなか出来なかった。
それをしようとしたのが同盟国の今川であり、それは彼を倒した信長に託された。

83 :
武田信玄はRにたとえると、山口組みたいなもので、徳川家康などは負けるべくして負けたのである。
言ってみれば、長篠の戦いは信長の鉄砲最強を証明し、もうひとりのサーベルタイガー、上杉謙信との戦いの幕開けでもあった。

84 :
余談だが、サーベルタイガーとは、1万年ほど前に滅びた肉食系最強猛獣である。

85 :
補足ながら、筆者は「坂の上の雲」も読破している。
竜馬がゆく、人斬り以蔵、燃えよ剣、夏草の賦、国盗物語、義経、を読破していたと筆者は言っていたが、「坂の上の雲」を忘れていたのである。

86 :
現在は、関が原下巻途中と播磨灘物語2巻の途中である。

87 :
数あるすばらしい司馬遼太郎の作品で、「坂の上の雲」ほどの駄作はない。
少なくとも筆者にはそう感じた。
一気に読み上げた天にも舞うあの心地は最高だったが、資料をただ読み上げたような文章は滑稽にも感じた。

88 :
日清戦争における日本兵は、現地ではお祭り騒ぎであった。
そう司馬遼太郎は語っている。
司馬遼太郎にはこのような筆が目立ち、太平洋戦争の敗戦は、日本人がトラウマ染みたものを感じたような書き方をしている。

89 :
戦争には裏の顔があって、泣くのは女子供である。
占領兵に殺される者もいれば、人身販売によりその後の人生を送る者もいる。
司馬遼太郎曰くの戦争の華とはそんな屍の上にあり、まさに地獄絵である。

90 :
第一次世界大戦が起きた時、秋山真之は公務でパリへ行き、この大戦の進行と結末について予想を立て、ことごとく的中させたことぐらいが、この男らしい逸話と言うべきものであった。

91 :
真之は、中将に昇進したが、すでに健康を損なっていたためそのまま待命となり、その3ヶ月後に死んだ。
慢性腹膜炎らしい。友人宅で、吐血して臨終を迎えた。

92 :
好古はやや長命した。
陸軍大将になった翌年、故郷の中学校の校長になり病死するまでその職を続けた。
病名は糖尿病と脱疽である。

93 :
余談だが、夏目漱石の坊ちゃんは秋山兄弟がモデルである。

94 :
さらに余談だが、ベースボールを野球と名付けたのが正岡子規、と司馬遼太郎は言っていたが間違いである。
中馬庚が正解である。

95 :
司馬遼太郎ほど正岡子規を斬新的に描いた作家はいない。
実は坂の上の雲では、正岡子規を出す予定は無かったと言う。
司馬遼太郎が取材で松山に行ったときに、偶然、秋山真之と正岡子規が友達だと知ったらしい。

96 :
真之はガキ大将で、生まれつきの短気で損ばかりしている。
唯一、頭が上がらなかったのが兄好古であった。
子規と遊んでばかりいたところを兄の好古に叱られた。
大人になっても、頭が上がらなかった典型だった。

97 :
頭が上がらなかったのは、大人になった時からかもしれない。
何しろ、東京に出てからと言うものの好古に学費の面倒を見て貰っていて、言わば兄のおかげで軍人なれたようなものだからである。

98 :
軍人に戻ると決めた真之は子規に別れの手紙を送っている。
この事を知った司馬遼太郎は坂の上の雲に子規を出す事を決意したのである。

99 :
それにしても我ブログ、いや違った、「司馬遼太郎風に会話をするスレ2012」に人影がないのはどういうことであろう。
筆者は、独りでも気ままに書くことができるゆとりある男だが、何ともさみしい限りである。

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