2012年09月三国志・戦国231: 【漢の忠臣】劉備という人をどう思う?【逆臣】 (237)
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【漢の忠臣】劉備という人をどう思う?【逆臣】
- 1 :2012/08/02 〜 最終レス :2012/10/08
- 論じてみたい
- 2 :
- 漢の忠臣。少なくとも、漢の天下にしようとしていた。
逆臣ではないと思う。
- 3 :
- 初期は傭兵集団の頭領って感じだな
- 4 :
- 逆臣ではないだろうな。
歴史でも見事に正閏論を得て名実的正統をゲット。
実力の曹操、オマケの孫権と並び、名実の劉備として
現代でも「三国時代」の一角して歴史にもその名を残す漢の忠臣。
- 5 :
- >>4
劉協健在で皇帝名乗っていいの?
忠臣なら劉協の復位を考ずるべし。劉備が皇帝に即位した瞬間に忠臣とは呼べないと思うな
- 6 :
- 戦は結構うまいし口先三寸で人を丸め込むし、ヴァレンシュタインの上位互換って感じだな。
漢朝に逆らったことはないから逆臣とは呼べないと思う
- 7 :
- 漢王朝から賜った左将軍の官位を返上して、
漢王朝に断りもなく漢中王を僭称した反逆者
- 8 :
- 劉備って人心だけはどの君主よりも掴むのが上手かった。
確かに直接、漢王朝には手を出していない。赤壁までは「扶漢滅曹」で良かったかも知れない。しかし、益州牧劉[王章]からショクを奪った時点で「俺は劉一族もなにも関係ない。自分の勢力が強くなればいいのさ」と宣言したことになると思ふ
- 9 :
- >>7
賛同
まあ、『易姓革命』で成功すれば皇帝、失敗すれば逆臣。これぞ中国
- 10 :
- 劉備が曹操に反抗したのは、曹操が自分を受けいれないだろうと考え、
殺されないために起こした行動である。
であるから、必ずしも漢に対する忠義のため、ということではない。
さて、劉備を漢の忠臣と考える方々は、
劉備のどの行いを持って漢の忠臣と考えるのかを伺いたい。
- 11 :
- 逆臣ではないが忠臣とも言い難い、って結論じゃだめかね?
劉備だって「中庸が一番!」と言ってるじゃないか!
- 12 :
- >>11
"中庸" こんな事言ってたの!?
初耳ですw
- 13 :
- 関羽と張飛は劉備の何に魅力を感じたのだ?
- 14 :
- 『三国志演義』耳が肩に付く、両腕が膝に届く
一度見てみたい
- 15 :
- >>14
奇相設定は後付けの場合もあるからな
案外、本当は普通のオッサンだったかも
- 16 :
- >>12
吉川版の話
- 17 :
- 高祖も蛇を斬って云々という話あるし
それに膝にほくろだらけとか
- 18 :
- 正史にも振り向くと自分の耳が見えたぐらいで腕が膝に届くという記述がある
- 19 :
- 正史に変わった記述は以外に多い
- 20 :
- >>9
三国時代は例外だよ。
確固たる正統国家が存在しなかったため消去法で劉備が繰り上がった。
- 21 :
- 繰り上がりwww
- 22 :
- まあ、しょうがないだろ。
漢といっても、南西の一区画に居を構えるだけの
全盛期とは比べ物にならないほどの小さな国。
漢の威光の残り香で劉備は逆臣の汚名を被らずに済んだ。
悲しいのはそんな残り香程度のものすら敵わなかった曹操や孫権。
- 23 :
- もし劉備が統一してたら前漢・新・後漢・魏・蜀漢みたいに呼ばれてたかな
- 24 :
- 前漢・新・後漢までは分かるが何故そこに魏?
その後は三国・晋でしょ。
- 25 :
- いや、三国になったから初めて呉という国が認識されたんであって
蜀漢が統一したなら相手は魏になるからそうなるかなって思ったのね
- 26 :
- ここまで劉備を忠臣とする具体的な論なし
演義ですら漢中王僭称を忠義の行為としてないのにw
- 27 :
- 蜀漢正統論
これでよろしいかな?
- 28 :
- まあ中国ではそう見た人が多いから劉備が善玉扱いされるようになったんだろうな
- 29 :
- 中国人の常識だからな。
日本人のミーハー感覚では理解できない部分もあるんだろう。
- 30 :
- 四海才コ之士、捨死亡生而事其上者、皆欲攀龍附鳳、建立功名也
- 31 :
- 皇帝位を簒奪した曹丕・劉備・孫権及びその佞臣諸葛亮・司馬懿などすべて逆臣だ。天下再統一まで簒奪は思いとどまるべきやったね。魏王に止まった曹操こそ仁義の人であった。
子曰わく、人をもってして鳥に如かざる可けんや、と。
以上は、一面だけで判断する極論でしかないが、こう言う見方もあろうかと思う。
- 32 :
- >>31
諸葛亮は劉禅にとっても忠臣ではなくねぇ?亮の権力がでかすぎ
亮亡き後、劉禅は丞相職を廃止したとさ
- 33 :
- 706 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/03(金) 17:43:51.15
官渡の戦いだけに焦点を絞ったやつもダメだった
⇒ゴールがあってもダメな時はダメ
小魔玉がやれば成功するって神話も崩れたし
どういうのなら成功するんだろうな
707 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/03(金) 17:48:23.12
正直、官渡はイケると思ったんだがな
袁か曹の勝利で綺麗に終了って感じで
708 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/03(金) 18:00:37.48
俺は官渡は途中からダメになるだろうなと思ってた
参加者が袁家側に集中しすぎ、小魔玉の負担がヤバくなるか
袁家側が張り合い無くなってダレると思ってた
709 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/03(金) 18:12:37.35
予め武将名を一覧にしておいて、
この中から早い者勝ちで選んでください、というようにすれば防げる事だな
- 34 :
- >>32は李邈
懲りん輩じゃ
- 35 :
- 確か北伐に失敗した孔明が
丞相職を辞すると言ったもんだから
丞相職を廃止したんやなかったけ?
- 36 :
- せや
けど実質首相やで
- 37 :
- >>35
三次北伐の成功を持って丞相に返り咲いておる
- 38 :
- 劉備が逆賊なら前漢最期の帝(退位はしていたが)を殺害した更始帝や劉秀なんてどうなるんだよ。
董卓、司馬昭と変わらんぞ。
- 39 :
- >>1はクズ
- 40 :
- 光武帝に関しては帝位につけたから勝てば官軍なんだよ
- 41 :
- >>38
更始帝や劉秀の行いがどうであれ
劉備の行いが逆賊なことに違いはなく、その行いの正当化にはあたわず
- 42 :
- >>35
確かに孔明は降格処分を受けた。だが、丞相は廃止してない。空席なだけ
孔明死後に劉禅は丞相の官職を廃止。
元々、丞相は前漢の役職であり後漢には本来なかった。後漢では曹操が復古をはかり自ら丞相に就いたのが最初かな?
- 43 :
- 聞いた話しじゃ、正史の7,8割が本当の話らしい
でも、それって本当??すごく怪しいんだけど
- 44 :
- そんなもん誰もわかんねーよ
- 45 :
- 誰から聞いたんだよ、そんな話し
- 46 :
- 少なくとも正しい部分と違う部分はある。
反三国志もあるくらいだから、「全部デタラメだよ!」という可能性も否定出来ない。徐州で昭烈帝が曹の旗を見て、戦わず逃げ出したというのも嘘臭い。
まあ、正史は魏を正統にしてるから蜀漢、呉を悪く書くのは当たり前。でも正史を書いたのはWュだから、蜀漢の事もなんとか良く書いてる。
中国は王朝が代わると前代の王朝の文化等を焼くので、蜀漢の歴史が後世にあまり伝わらなかったのも、晋の仕業かもしれん。
晋は魏を正統にしてるため、漢の流れを組む蜀漢が邪魔だったのだろう。
…なんか日本語が変…かな?
- 47 :
- この大耳野郎!
- 48 :
- うるせえぞ低身長野郎!
- 49 :
- 徐州で劉備が曹操の旗を見て逃げたのは実話だと思ふ。劉備も曹操も逃げるのが上手い。これらが彼らが生き残る秘訣だ。
勝てぬ戦は避ける、負けたら逃げる。もし、覇者に成りたいなら屈辱は耐えるべし
こういう醜い行動は丁度彼らの英雄ぶりを示しており、別にわざと悪く書く必要はないと思ふ
曹操も言っているように
「今天下之英雄唯使君与操耳」
似たもの同士だけが分かち合える言葉だろうか
- 50 :
- 正史がなにを指すかによるけど本当のことかどうかなんて誰もわからん
「本当の事として信ぴょう性があるもの。もしくは信ぴょう性がないという文献がない」ものだろ
- 51 :
- 劉備はホントに高祖の血を引いてる?
- 52 :
- DNA鑑定すれば一発で分かる
- 53 :
- 引いてねーだろ常識的に考えて
- 54 :
- 劉備とは
・勝手に皇族名乗る
・献帝健在で、漢の皇帝名乗る
・劉禅の脅威に成り兼ねない劉封をR
・呉との約束破る
・人肉食べた
・同じ劉氏から益州奪う
- 55 :
- 劉備・関羽・張飛が人肉を食べたと言うのは史実ですか?
民家に宿泊した時、そこの主人が妻を殺しその肉を調理した料理です。
中国では最高のもてなし。
- 56 :
- >>46
> 反三国志もあるくらいだから、「全部デタラメだよ!」という可能性も否定出来ない。
┐('〜`;)┌ やれやれ
- 57 :
- まぁ英雄だよね
- 58 :
- >>5
名乗らなかったら漢の祭祀途切れるだろ
一応魏は山陽公として漢の祭祀を継続させるポーズはとったが
「皇帝としての漢家」はその時点で滅んでるので劉備が継ぐしかない
- 59 :
- >>8
劉璋は赤壁の戦いの時に曹操に降伏したりしてるから
むしろ復漢路線で行くなら曹操に与する怨敵であって潰すべきなんだけどな
- 60 :
- 曹操は表面上、漢の丞相。当時、彼に逆らえば漢に逆らったことになるのでは?
- 61 :
- >>58
なぜに漢と血縁がない劉備が後を継ぐ
- 62 :
- >>60
「異姓不王」曹操はこれに反した。これは十分に反逆の理由に使えるのかな
これを好都合にし、曹操を討つ。←これは出陣理由としてOKだと思う
- 63 :
- 劉備は
若い時は有能なフリーター
様々なコネを作るが運がなくなかなか独立できず
もうダメだろと諦めるにもはいれる人生後半の時にやっと勢力を拡大しさらには国まで作り最後にはなんと皇帝にまでなった凄い人
そういう流れで皇帝を名乗りながらも恐ろしい程に暴虐な行為はしなかった英雄
- 64 :
- >>58
漢魏革命を
禅譲とするなら、皇帝の座はすでに曹家に移行しているから
皇帝としての祭祀を次ぐ必要はない。
簒奪とするなら、献帝が生存しているからには祭祀の役割は以前献帝にある。
劉備が祭祀を次ぐいわれはない。
忠臣ならば、祭祀や王や帝を名乗る以前に皇帝救出に全力を傾けるのが筋。
皇帝が殺されたと誤解していたとしても、あだ討ちを先にするのが筋。
それを果たさず王だ帝だと称するは、明らかな不忠であり僭称。
>>62
前漢の文帝の代まで異性の王は存在した。
異性の王を否とするのは不文律なだけで制度ではない。
その王位を申し渡したのは献帝であり、法的に問題性はない。
脅迫された云々の意見は、その是非も確かめずに反逆を押し通してよいわけがない。
少なくとも王位を受けるだけの功績を曹操は残している。
そもそも、劉備の反曹は忠義から起こした行為ではない。
- 65 :
- >>61
自称前漢の劉勝の子孫だし魏側の記録でも光武帝の兄の子孫ってことになってるよ
- 66 :
- >>64
それは魏の主張
蜀漢はその主張を否定しているし、劉氏の祭祀ではなく
漢の皇帝としての祭祀は魏によって寸断されたのだから
誰かが継がねばならない
- 67 :
- 劉備の反曹は忠義ではないな。
曹操の献帝擁立も忠義でないのと同じ
- 68 :
- 曹操>劉備>>>>孫権
- 69 :
- それは魏の主張
蜀漢はその主張を否定しているし、劉氏の祭祀ではなく
漢の皇帝としての祭祀は魏によって寸断されたのだから
誰かが継がねばならない
- 70 :
- >>69
つ> 簒奪とするなら、
魏が簒奪を主張していたとはついぞ聞いたことがない
- 71 :
- 言葉遊び
- 72 :
- 遊んでいるのは>>69と>>71の脳みそ
ちゃんと働かせないとニートになるぞ
- 73 :
- 戦に強いのがいい
- 74 :
- 負けの多い生涯を送って来ました。
自分には、戦略の概念というものが見当つかないのです。
- 75 :
- 負けてたのは入蜀するまで
と言いたかったけど最後の最後で歴史的な惨敗を喫したからなぁ
- 76 :
- 益州の民にとって、劉備は外からやってきた侵略者。
- 77 :
- 民というか当時の豪族からしたらやっかいだったろうね
- 78 :
- 益州の言葉も話せぬ北京語?山東弁?の劉備、諸葛亮が益州に国を創り出すwwwww
益州の人からみればマジウザいなあ
- 79 :
- 益州はほっといてもそのうち曹操に潰されるから結末は変わらない
- 80 :
- 益州は日本で言えば四国みたいなモンだからね
上の情勢がどう変わろうと一般人にはほとんど影響なかっただろうね
それほど漢化されてなかっただろうし
- 81 :
- 基本は野心家であって、董卓や曹操と同じだと思うな
漢の復興ってのは大義名分
- 82 :
- 劉備にしろ曹操にしろ若い頃は、漢に対して忠誠にやっていこうと思ったが
自分の勢力が大きくなってくるとだんだんと野心が芽生えたのでは
- 83 :
- >>81
董卓や曹操は帝位には登らなかった。
帝位を僭称した輩と同じにされては浮かばれないな。
>>82
曹操は劉協を庇護し、死ぬまで家臣の身を貫き通した。
劉協を曹操の下に残したまま、外で反旗を翻すわ
劉協の即位に異を唱え続ける袁紹と手を組むわ
漢中を得れば、漢から賜った将軍位を返上して王位を僭称するわ
魏への禅譲を知り、劉協が殺されたとの誤報を聞くとあだ討ちすらせず帝位を僭称するわ
などなどした劉備と同列に扱うなんて…
- 84 :
- そうやって並べてみると酷いな
でも時代も移り変わってるしなんとも言えないな
- 85 :
- 蜀には最初に劉協が殺されたって誤報が伝わったんじゃないん?
- 86 :
- 劉備と諸葛亮が漢を滅ぼしたという見方もできる。
曹操は皇帝になるつもりなかったしさ。
赤壁で、呉が降伏すれば、漢は続いていたかもな
- 87 :
- >>82
曹操についてはそのとおりだろう。
いつから取って代わることを意識しだしたのかは何とも言えないけど。
個人的には,献帝を擁立してから魏公に就くまでのどこかだとは思う。
劉備の場合,>>83氏が言うとおりそもそも漢に対する忠誠が薄い。
むしろ劉協弑殺の誤報を確認すらしないで称帝に走ったことからも,
自身が劉氏の末裔であることを利用しているだけの感がある。
もともとが成り上がった任侠集団と考えればそんなものか。
- 88 :
- >>87
曹操のどのエピソードで野心があると断定するの?
爵位や王位は、曹操自身が望んだのか、家臣たちが望んだのか
董昭主導で行われていたが、そこに曹操の意図が乗っていたのか否かは断定できない。
爵位や王位を受ける事がイコール野心でもない。
拒み続ければ、皇帝の意に反する事になり、逆に反意を疑われる。
爵位や王位を受けた時、曹操は与えられた領地の大半を返上している。
曹操のなにを持って野心ありと断定するのか、伺いたい。
- 89 :
- >>88
曹操は領地を返上したが、曹操の息子たちは領土領土を与えられた。しかも、返上したのよりも多い。
まあ、結局は得をした訳ですよ
- 90 :
- >>89
> 曹操は領地を返上したが、曹操の息子たちは領土領土を与えられた。しかも、返上したのよりも多い。
曹操の息子たちが得た領土の数値と得た時期を具体的に
多いとするからには把握してるのでしょ。
- 91 :
- 野心云々でいうなら三公制の廃止と丞相の復活じゃないかなあ
それと前後して司徒趙温を罷免させてるし
河北統一して自ら丞相にってなると野心が無いとは思えないんだよなあ
もちろんビビって降伏する劉表みたいなののための脅しとしての意味のほうが強いんだろうけど
- 92 :
- >>88
前提として,「取って代わる」と「野心」が同一とは限らないけどね。
漢の終焉が防げないのなら,むしろ誰かが継がなきゃいけない。
(もちろん曹操の真意なんて知らないけど。)
ただ実際問題として,魏公を受けてから後戻りなんてできたのだろうか。
司馬昭が征蜀の成功が見えてようやく晋公を受けたことを考えれば,その重さは分かるだろう。
この時点で王朝交代は視野に入っていただろう。自身の代で果たすのかはともかくとして。
個人的には>>91氏が指摘する丞相復活(特に趙温の罷免)も重要だと思うけど,
211年の時点で25歳の曹丕を副丞相にしたことが決定的だと思う。
だって,既に権力の相続まで考えていたってことだから。
- 93 :
- >>91>>92
建安十三年正月、司徒趙温が曹操の子曹丕を召し出そうすると
曹操は「趙温は臣の子弟を召し出しましたが縁故ばかりを選抜して実力を軽視しております」
と上表し、癸未、侍中守光禄勲郗慮を持節として趙温を免官させた。
《文帝紀・後漢紀》
献帝より、曹丕が五官中郎将・副丞相に任命されたのはその3年後。
これが曹操の意図による任命なのか否かは、今になっては知りようがない。
息子に職務を手伝わせることは、珍しい事ではなく、むしろありふれている。
また、曹丕を継承者(太子)にしたのは建安22年(217年)で6年も後の話し。
司馬昭の晋公への昇進は、漢から魏への禅譲の経緯を意識して王権交代を考えていただろう。
何せ、すでに皇帝殺しの烙印は押されているのだから、後戻りしようがない。
しかし、だからといって曹操が魏公への昇進に王権交代が視野に入っていたとは限らない。
爵位を授かり責務を全うするか、頑なに拒み責務を放棄して野に下るかの二択で、
いまだ戦乱が治まらない中、責務を放棄するくらいなら爵位を授かるほうを選ぶ、と爵位を受ける際に宣言している。
まぁ、曹操に野心ありとしか捉えない人にはパフォーマンスにしか受け取れないでしょうけど。
- 94 :
- >>91
> 野心云々でいうなら三公制の廃止と丞相の復活じゃないかなあ
孔明も同じ事をしている。
三公は、制度として廃止していなかったかもしれないが
許靖の没後(222年)、誰も三公に任命されていないので事実上の廃止。
- 95 :
- >>90
210年
すみません。間違えました、五千戸減っている。
曹操は三県二万戸を返上。その代わり曹植、曹拠、曹豹には一県五千戸ずつ食邑が与えられた
ただし!
返上したのは陽夏、タク、苦の三県。
それと比べて
曹植の平原、曹拠のハン陽、曹豹の[食堯]陽 は比較重要な土地だった。
- 96 :
- >>95
それ建安16年の話しで魏公就任、魏王就任と別口の話しだよ?
建安18年 魏公就任に伴い冀州の十郡を受ける所、魏郡以外はすべて返上
建安21年 魏王就任に伴い賜った領土の三分の二を返還
- 97 :
- >>96
いや、曹操に野心が有るかどうかの話
(>>88)
>曹操のどのエピソードで野心があると断定するの?
王位の話なら別でしょう
返還しても、しなくても自分が朝廷を牛耳ってるから、実質なにも損していないと思う
曹操は常に自分を周の文公に倣効してますからねえ
「周の文公は天下の3分の2を持っているのにインを滅ぼさなかった」
皇帝までは望んでいないとは思う
ーーーーーーーーーーーーー
劉備完全放置になってた^^;
- 98 :
- 曹操が死んだ時は、江夏にいたんだっけ?
最前線にいたんだねえ。皇帝なら、そんなとこにいなさそうだけど
- 99 :
- >>93
25歳での副丞相(正確には丞相の副だけど)がありふれているのか?
そんな例があるのならぜひ御教授願いたい。
あとできれば安漢公王莽以外の「公」の例を挙げてもらえれば幸甚だけど。
>>98
曹操は洛陽で死んでいる(武帝紀)。
むしろどこから江夏が出てきたのかが気になるけど。
- 100 :
- 話を劉備に戻します
彼が益州を手に入れるという行為をどう思いますか?
曹氏、孫氏を攻めるのはいいとして
同じ宗室の劉氏を攻めているということは・・
- 101 :
- ああ話変わるけど、今日は諸葛亮の命日な
- 102 :
- 旧暦??
- 103 :
- >>101
太陰暦8月28日だったと思う
今ですと太陰暦はまだ7月上旬ではないでしょうか
- 104 :
- 太陰暦だとそんなにずれてるの?
- 105 :
- ┌(┐ส้้้้้้้้้้้ਊส้้้้้้้้้้)┐
- 106 :
- >>100
サバイバル中の群雄としては何も間違っていない。
もちろん漢の忠臣としての姿はどこにも見えないけど。
>>101,>>103
諸葛亮の命日って出典あったっけ。
- 107 :
- >>106
> 諸葛亮の命日って出典あったっけ。
演義
- 108 :
- 曹操も劉備も漢の忠臣じゃないと思う。ついでに荀イクも
でも曹操が漢の忠臣だったらそれはそれで面白い
- 109 :
- 劉備よりはあったんじゃないの?
- 110 :
- 私は劉備も曹操も年を経るにつれて野心が芽生えたのだと思ふ
若いときは二人とも漢の忠臣
- 111 :
- 劉備に漢、あるいは献帝への忠誠を感じさせる行動、エピソードはない。
曹操に漢、あるいは献帝への反逆を確信できる行動、エピソードもない。
劉備の忠誠、曹操の野心は、演義により植えつけられた虚像
- 112 :
- 言いたい事は分かる
分けるけど曹操の野心は演義ではないと思うけどな
劉備に関しては裴松之とかが持ち上げてる感があるしなぁ
- 113 :
- 思うだけで確証がない。
その思い込みが演義により植えつけられた虚像なんだよ
- 114 :
- 王になる野心はあったが、皇帝にまでなる野心はなかったとも言える
- 115 :
- 王にはなったが 王になったからといって王になる野心があったか
わかったもんじゃない。
公、王へ推戴は董昭主導で行われていた。
この董昭の働きに曹操の意があったか否かは当事者以外解らん。
しかしまぁ、公位や王位を受けた時の曹操の返礼を
知らない人、知っていてもパフォーマンスと受け取る人のなんと多いことよ
- 116 :
- 実は曹丕も帝位を望んでなかったら面白い。
18回も断ったのはガチで嫌だったからとか
- 117 :
- 本当はヤル気まんまんでも2,3回は断ってどうしても受けざるを得ない形にするってことは
中国史ではよくある事だが18回も断ったとかマジなん?
- 118 :
- >>111
曹操は劉邦の故地で漢王朝の聖地だった沛国を縮小して
同時に同じ豫州にあった自分の故郷であるショウ県を沛国から分離、独立させて郡に格上げ
これだけでも十分野心が感じられるね
- 119 :
- >>118
曹操以前に後漢時代ですでに縮小が行われてますけど?
劉邦が帝位についたとき、皇帝直轄領として免税など行われていたのは
たしかですが、本当に漢王朝の聖地として定められていたのでしょうか?
すでに形骸化してたんじゃありません?
- 120 :
- そもそも聖地だったとしたら、家臣に賜るなよって話しじゃねw
- 121 :
- >>116
曹丕が帝位の禅譲を受けたは野心だけではなかったと多少は弁護できる。
あまり断り続けて家臣団から見限られたら仲があまり良いとはいえない弟に
その地位を取って代わられるだけ。
保身を考えるなら受けるしかない。
- 122 :
- 曹操はどうでもいいから劉備の忠臣話しはないのか?
逆賊で決定でいいのか?
- 123 :
- あの時代逆賊しかおらんよ
荀ケくらいじゃねえの
一定の立場で真面目に漢再興とか考えてたの
- 124 :
- >>119
縮小そのものが悪いんじゃなくて縮小して、且つ曹操の出身地を格上げしてるからしてるのが問題
- 125 :
- >>122
漢中王を自称した上に左将軍や宜城亭侯を返納してきた時点で,
劉協から見れば間違いなく逆賊だな。
- 126 :
- 劉協「裏切りよった」
- 127 :
- 後世で聖人君子イメージ勝ち取った劉備さんの頭脳プレーはハンパない。
- 128 :
- 羅貫中のおかげだな
- 129 :
- >>124
言い掛かりにしかなってねぇwww
聖地なら家臣に賜るな、賜ったならどう行政改革しようが家臣の自由
自分の出身地を特別扱いするのは劉邦の頃から行われていた事だろ
- 130 :
- >>129
賜った?沛国そのものは与えてないしそれを勝手に分断するの間違ってるから
- 131 :
- 裴松之のおかげだろ
- 132 :
- 陳寿「俺は?」
- 133 :
- >>123
荀イクも無いわ。
むしろ進んで天子を傀儡にしてた張本人じゃん。
先入観抜きで見れば、荀イクの行動で漢の忠臣と呼べるような所は一つもない。
魏公就任に反対したのも、漢の為じゃなく時期尚早だからと考える方が一貫性がある。
実際曹操はその後反乱ラッシュに遭ってる訳だし。
「今はまだ時期尚早だから先にとっとと天下統一しちゃえよ」というニュアンスだったものの
曹操的には老い先短いから諦め入ってて、考え方の違う荀イクを危険視して排除しただけなんじゃない?
考え方の違うNo.2を尚書令に置いておくのは極めて危険だし。
- 134 :
- >>133
一説には荀イクはただの病死だったという見解もある。
考え方の違いで排除するほど曹操はキチガイだったとは思えないな。
- 135 :
- 別に考え方の違いで荀イクを排除するのはキチガイでもないよ。
皇帝への上奏文は全部尚書台を通る。
そして尚書が「ダメ」と判断すれば却下出来る。
つまりどんなに曹操が魏公になりたくても、荀イクがいる限り上奏文は揉み潰される。
他の奴ならともかく、尚書令と考え方が違ってしまったら権力者にとって一番の脅威。
だから先手を打って荀イクを名誉職に追いやって実権を奪った。
病死か自殺かはあまり問題じゃない。
- 136 :
- たしか
当時孫権の方では、ジュンイクは伏皇后を暗殺しなかったので曹操に死を賜ったと伝えられた・・
(うろ覚えですw違うかも)
病死?自殺?
ジュンイクの息子の嫁は曹操の娘だしね・・
- 137 :
- 伏皇后の曹操暗殺計画を黙ってたのは、曹操と対立した時に体よく曹操を葬る名分
として使えるから切札として取っておいたのかもな。
元々曹操とは主従というより政治的協力者に近い関係だったようだし、
考え方が違えばもうただの政敵でしかない。
もし曹操に対抗出来るだけの軍事力があれば、名誉職にする上奏文も揉み潰して真っ向から対立、
司馬懿のようにクーデター起こした可能性もあったかもしれないが、
それが無い以上、名誉職就任を甘んじて受けるしか無かったんだろう。
- 138 :
- すみません 訂正 >>136
《献帝春秋》
イク卒於寿春、寿春亡者告孫権、言太祖使イク殺伏后。イク不従、故自殺
この史料でしたら自殺
- 139 :
- 劉備は敵に回したら最後。
昨日まで味方だった人間が明日には全て劉備側に回ってる。
こんな仕掛けを組み上げる天才だと思う。
- 140 :
- >>139
んなこた〜ない
敵が心変わりしたのは、劉備を暗殺に来た暗殺者くらいだろ
後は降伏⇒臣従で曹操と変わらん
- 141 :
- 最後は漢王朝の大司馬か
- 142 :
- 四海才コ之士、捨死亡生而事其上者、皆欲攀龍附鳳、建立功名也
演義で漢中王就任を渋る劉備に対して孔明の説得の言葉
漢王朝への忠誠が微塵もない事がわかるw
演義ですらこれですよw
- 143 :
- ですら、って演義は史実を考証するなら何の意味もないし
演義を考察するのであれば既に劉備はこれ以前に王朝への忠誠を体現してるから関係ないし
- 144 :
- このスレタイおかしい
曹操なら臣下のまま死んだのだからこのスレタイであってる
だが、劉備・孫権だと生きてる時に皇帝に即位しているので
【名君か】劉備【暗君か】
【名君か】孫権【暴君か】
となるはず
- 145 :
- スレタイはいつでも流動的なのですよ
こまかいなww
- 146 :
- >>144
論議の必要もなく両方とも終いは暗君
- 147 :
- >>144
それでは皇帝として素質があるかないかの問題になる
- 148 :
- 自演
- 149 :
- >>140
黄権・・・
- 150 :
- >>149
劉璋の降伏を聞いて降伏した。
降伏⇒臣従組みじゃん。
- 151 :
- >>150
夷陵の戦いで劉備は陸路から攻めて
黄権は水路で攻めたけど陸遜の火責めで蜀に戻れなくなり呉に降るよりはと思い魏に降った
- 152 :
- >>151
日本語でOK?
- 153 :
- >>152
サノバビッチ!
- 154 :
- Fack me!
- 155 :
- 劉備の半生は幾つかの勢力を転々としているばかりだ。何時か台頭出来る日を待ちわびて……
全ては自分の利で動いている。その為にはどんな人に付いても構わない。自分がよければね
今日、劉備は味方。明日は敵。群雄から見てそうではなかったでしょうか
- 156 :
- 劉氏の中で最も戦闘に優れているから、どこにいても自身の望む以上の注目を浴びてしまう
なので野心に関わらず、保身の為に行動していれば何時の間にかああなってしまったのでは
- 157 :
- 保身のために転々としてたか(笑)
そうだねw
あんなに転々としているにも関わらず、劉備をどの勢力も受け入れてしまうのが不思議だ。
なにか魅力があるのか?
劉備に戦果は多かった?なんか少ない気がするが……
特に延津での逃げ足は早かったなあ
劉備の凄いところは勝てない戦は逃げる!!という所だと思ふ
曹操の將旗が見えた瞬間、妻子・関張放置で逃げたぐらいだからねえ
- 158 :
- 転々としているだけに、各勢力の情勢にも詳しい…と思われたとか
- 159 :
- ああ〜詳しかっただろうな
その情勢を劉表が用いなかった所が残念。
劉備の短所は英雄無用武之地。一旦独立勢力になってしまえば、自分の持ってる情報をうまく利用してしまう
- 160 :
- >>159
劉表が用いなかったって史観がそもそももうダメ
劉表の主戦場は南部と東部でこっちに全力入れてる
対曹操戦でも劉備は一度許昌から数十kmのところまで接近してる
これが元で関羽の北上時には曹操が遷都って言い出すわけ
- 161 :
- 荊州は北から来た名士が多いのに劉表は彼らを用いようとしない。
劉備に至っては疑いながら操ってたみたいだ
ちょっと読み直してみたが…
《三国志》(劉表は)疑其心、陰御之
それに劉表は荊州刺史になってから荊州平定(エン術及び彼の配下孫堅に対して)以外自守のイメージがある。官渡は配下に諫められても両軍につかず。
劉表の最大の失敗が此処だと私は思ふ。雌雄を決する時に際し、劉表は韓信になるべきだった。曹操には「自守之賊也」と言われてるし。
曹操を支持するよう進言するホウ越?(うろ覚え)の言葉でさえ聞き入れないのなら、劉備の言うことは用いられるのか?
《三国志》注(ハイ松之)引《説語》なら
劉表は劉備を殺そうとし、鴻門の会をやった。
結局劉表は、内政重視みたいですね
- 162 :
- >>161
バカなこと言っちゃいけない
そもそも荊州の平定自体、劉表死ぬまでに終ってねーっての
- 163 :
- 対曹操とは202年の博望ハでの戦い(劉備vs夏侯惇、李典)のことですか?
劉表は劉備が荊州を奪うのではないかと警戒してた。そこで、劉備に迎え撃たせ野心を封じ込めようとしたみたい
劉備は夏侯惇を伏兵で襲うことに成功するが、李典が夏侯惇の救援に駆けつけると、劉備軍はちりぢりになって退却する
博望ハは確かに許に近いですね
- 164 :
- 自守之賊に荊州平定はやはり難しかったか
どうでもいいかもしれないが、
《後漢書》でエン紹と劉表が同じ伝にまとめられているのが気になる…
- 165 :
- >>163
博望坡の戦いってその直前に劉備が曹操の居ない許昌めがけて進軍してるんだよね
その進軍したところが葉というところでここが許昌の目と鼻の先、といっても数十kmくらいはあるけど
劉表は劉備に曹操を防がせたどころか普通に攻め込ませてるよ
この時は失敗に終ってるけどね
- 166 :
- >>165
これは知らなかった
劉備軍は一気に許に向けて突入?
- 167 :
- 戦線が長いと負けやすい。官渡・夷陵が好例
許昌攻めもそうかな
- 168 :
- >>165
博望や葉が属する南陽郡の北部って,その時点では曹操側だったようだけど,
曹洪伝を見る限りでは,208年に曹操が南下した時には劉表側だったみたい。
ということは,劉表は若干とはいえ北に拡大できたということか。
なんで劉備が新野から樊城に下がっていたのかは知らないけど。
- 169 :
- >>166
結局、葉まで行って防がれてるから攻撃失敗
>>168
普通に劉表危篤で後事どうするか話し合いしてたんだろ
危篤に合わせて江夏にいた劉キも樊城にいるから、会議してると見るのが分かりやすい
- 170 :
- (^-^)
- 171 :
- >>169
劉gは襄陽に見舞いに来て追い返されたようだけど,
わざわざ劉備と同じ樊城にいたという根拠は何。
- 172 :
- 襄陽と樊城って漢水挟んで南北に対面するご近所だよ
あまりにも近いんで今の中国じゃ一つの都市になるくらい
- 173 :
- >>172
いや襄陽と樊城が近くにあるのは分かるけど,
劉gが樊城にいたなんて記録あったっけ。
- 174 :
- >>173
襄樊は川挟んで向かいにある双子のような城だから
襄陽にいたら樊城にいないことにはまずならない
そしてその後の劉備と完全に連携した行動見ればここで相談してる可能性が非常に高い
- 175 :
- 推論に推論を重ねて断言とは・・・
- 176 :
- 襄陽に行って樊城にいる劉備と連絡取らないってありえんだろうが
劉キが江夏に行ったきっかけは諸葛亮
その諸葛亮はブレーンとして劉備の下で重要な役割持ってる
劉備と劉キはもうグルになってんだよ
- 177 :
- 劉キ「黄祖が亡くなったので江夏太守やりま〜す」
- 178 :
- 劉備は良い人だよ
- 179 :
- >>178
出会ったことあるのかい?
- 180 :
- >>176
諸葛亮に相談するだけでも周囲を気にしていた劉gが,
劉表危篤の緊急時に樊城まで行って劉備と会ったとは考えにくい。
(そもそも劉gは江夏太守として追い出されたという説もある。)
劉備側から襄陽の劉gに連絡を取ったというのならまだ分かるけど,
それで曹操の進軍状況を把握できなかったのだったら間抜けだろう。
- 181 :
- >>180
曹操の進軍状況を把握できなかったというけど
把握できなかったってどこに書いてある?
劉備が知らなかったのは「劉ソウの降伏」であって「曹操の進軍」ではねーんだわ
- 182 :
- >>181
先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其眾去。(三国志先主伝)
先主は樊に駐屯していて,曹公の不意の来攻を知らなかった。
(曹公が)宛に到着してからはじめてこれを知り,かくて自分の軍勢をひきいて去った。(ちくま訳)
先主伝すら読んでないのか。
- 183 :
- ああ、そんな一文あったっけ
じゃあ俺の思い違いだったわ
- 184 :
- 確かに曹操の進軍を捕捉できなかったのは間抜けだが
そうやって内部での勢力争いやっとらんと粛清されかねない立場に劉備も劉キもいる
全て上手くやるなんて神でもなきゃ無理だし仕様のないことでもある
- 185 :
- >>183
多分あなたの思い違いではなく,
後世においてこの記事が無視されているだけだと思う。
>>184
確かにそうだけどね。
でも劉gはともかく,最初から乗っ取る気満々の劉備がそれじゃ駄目だろう。
- 186 :
- >>185
乗っ取る気ないよ
状況も悪いけど諸葛亮という襄陽で隠然たる勢力を持った男に勧められてもお断りしてるし
- 187 :
- >>186
最初の一歩である荊州奪取が付け足しだったら,隆中対の信憑性なんて全くなくなる。
まあ曹操侵攻と劉表急死が重なったら動きようもないけど。
あと諸葛亮が持つ隠然程度の勢力じゃ,
現地有力者で政権を支える蔡瑁や蒯越の相手なんてできない。
- 188 :
- >>187
諸葛亮の人脈のお陰で襄陽の住民の内結構な人数が劉備について来てるから
諸葛亮程度、というのはおかしいだろ
劉備独自の人脈で荊州人をそんなに多数引っ張れないよ
- 189 :
- 諸葛亮の妻はサイボウの姪。荊州に対して幾らか発言力はあるのでは?
他にも周知の通り
兄の諸葛キンは孫権の配下
叔父の諸葛玄はエン術の配下
一族の諸葛誕はギの臣
劉備と比べたら遙かに良い人脈を持っているはず
- 190 :
- 諸葛亮の人脈があろうと、あの時点で荊州を取れば蔡氏や蒯氏の反乱を招いただろう
劉備が荊州を取らなかったのは、劉表の子を討つのは忍びないなんて綺麗事じゃなく現実的な判断
- 191 :
- 劉備が荊州を奪わなかったのは良い判断だと思ふ
劉備が荊州を奪っていたら劉[王章]は易々と劉備を益州に入れなかっただろうな
- 192 :
- 乃駐馬呼[王宗]、[王宗]具不能起。[王宗]左右及荊州人多帰先主(『先主伝』)
※人…士大夫を指す
劉[王宗]の配下は劉備にことごとく付いていってしまっている……
- 193 :
- >>189
嫁の父、黄彦承その人も襄陽に根を張る豪族なのでいくらか、じゃ済まない発言力があるよ
- 194 :
- >>188,>>189,>>193
襄陽の人々が劉備に付いて行ったのは劉jの不甲斐なさを見せつけられたからであって,
諸葛亮とは別に関係ない。(少なくとも先主伝はそのように書いている。)
少なくとも蔡瑁や蒯越と張り合えるだけの人脈なんて持っていたら,
なんで207年まで劉備に仕えなかったのかという話になる。
(劉備は仲間の徐庶や司馬徽に諸葛亮の存在を教えてもらった。
これは諸葛亮の人脈や名声の小ささを意味するものだろう。)
>>190,>>191
曹操さえ無視すれば,力ずくで何とかなるような気もするけど,
この時点でやっても南下する曹操に潰されるのがオチだろう。
>>192
劉jと一緒に降伏した連中を見れば,
その記事が誇張だってことは言うまでもないだろう。
- 195 :
- >>194
逆だろ
そういう名の有る司馬徽の口から紹介される程、諸葛亮の名声は高かった
全国的なものではないが、襄陽周辺では諸葛亮は大したものだとされている
- 196 :
- >>193
黄承彦忘れてた……(・ω・;)
>>194
私は諸葛亮の名声は小さいが人脈はあったと思ふ。
207年まで静観してたのじゃねえ?
自分が一生仕える君は精選しなきゃだめのはず
(諸葛亮が先に劉備を訪ねたという説もある)
- 197 :
- 85 名前:クマッタ@真正ロリコン帝国皇帝 ◆.pDAHD/fcA :2012/09/11(火) 22:20:44.97
つーかな
ああいうのは鉄則がある
・相手の「望まない」ことをする
これで十分
ネタスレでマジレスしたり、クソスレで真面目に考察したり
そこの住人のやりたいことをガン無視して好き放題やれば住人がキレて戦いになる
そこから先はめくるめく煽り合いの世界だw
- 198 :
- >>195
襄陽記曰:劉備訪世事於司馬コ操。コ操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。
此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」(諸葛亮伝注)
これを信じるのであれば,劉備は明らかに一から教えてもらっている。
司馬徽の評価は受けたけど,まだ名声は広まっていないと言うべきだろう。
そもそも近くにいる劉備にすら届いていない時点で,名声があるとは言えない。
>>196
別に人脈の存在は否定していないけどね。
あったからこそ,後に(徐庶経由だとしても)劉曄等から評価された訳で。
ただ,現地の有力豪族と張り合えるかと言われれば絶対に違うだろう。
そこまで大きな人脈を持っていたら,劉備だって最初から知っていなきゃおかしくなる。
- 199 :
- >>198
劉備が襄陽サロンの窓口として司馬徽、徐庶を使ってるだけだろ
それで「いい人いない?」「じゃあ諸葛亮」と紹介されてるわけで
諸葛亮が襄陽周辺では名士として扱われていたことを否定できない
- 200 :
- 劉備って中山靖王家の出身といわれるが、実際は光武帝の兄さんの系統らしい
でも、なんで光武帝の実兄の系統を名乗らなかったんだ?
- 201 :
- 光武帝劉秀(前6−57)
昭烈帝劉備(161−223)
劉秀死んでから劉備生まれるまで104年しか経ってない。つまり後漢皇室の系図は残ってないとおかしい。
光武帝の兄の系統であるのはあり得ないと思うよ
- 202 :
-
洛陽大火で実は系譜が残ってなかったから劉備の称するままに一族認定しただけのこと
- 203 :
- 系譜は一つとは限らない
- 204 :
- >>199
別に諸葛亮が襄陽の名士だってことは否定していない。
ただ,支配者の劉表に警戒されるほど衆望を集めていたはずの劉備が,
「いい人いない?」って聞かないと察知できない程度の奴だろ。
襄陽の名士サークル内部での評価しかなかったってことだろう。
それでどうやって,その襄陽で幅を利かせている蔡瑁に対抗するのだ。
- 205 :
- >>204
どうやって対抗するかと言えば劉備と手を組んで、だろ
だから劉備が警戒されるんだよ
名士サークルと組んで内部で名声のある人間を勢力に組み込んでるから劉備は警戒される
劉備の紹介希望は名前知らないから紹介して、じゃなくて「あんたのところの出向役紹介誰?」に近い
- 206 :
- >>139
と言うより曹家の敵を着々と味方に付けて行ったという部分が大きい
後世による印象操作もあるはず
本来単なる伝説の一部であり、行使したところで新の様にタブーとされるべきだった禅譲を成立させてしまった事により、悪前例を作り
後世の混乱の嚆矢としてしまった曹家の罪は重い
あれが成立して無ければ五胡十六国ほど混乱するような社会にはならなかっただろう
そういった事情から曹家が史家に嫌われた事で、相対的に史料上、劉備が持ち上げられるようになっただけかと
- 207 :
- >>205
劉表を警戒させるくらい劉備を慕ったのは「豪傑」だぞ。
士大夫やら名望家やら名士やらで劉備に付いた奴なんて,それこそ諸葛亮しかいない。
(単家出身の徐庶を入れていいのかは知らない。伊籍は入れてもいいだろうけど。)
諸葛亮の義兄弟(by裴松之)馬良ですら「領荊州」後の招聘だ。
- 208 :
- >>207
豪傑って現代日本語だと腕っ節自慢みたいなイメージがあるけど
漢文における豪傑ってのは人徳、才能などが人より抜きん出て優れた人の意味だよ
- 209 :
- >>208
それは失礼した。
でも,劉表生前から劉備に付いた者が少ないことに変わりはない。
やはり諸葛亮が入ったくらいでは蔡瑁等には対抗できないだろう。
(>>186,>>187からの流れを踏まえれば。)
- 210 :
- >>209
諸葛亮含む荊州非主流派を取り込むから劉備が主流派たる蔡瑁と劉表に
何してんだこいつらって警戒されるんでね
しかも庶長子の劉キまで取り込まれたら対抗できちゃう
対抗できないというのは史実で劉ソウとその側近が秘密裏に降伏して情勢をかき回したから
劉備が何もできなかったかのように見えるだけ
劉ソウ側にだって劉備シンパはいたし劉ソウ本人ですら
周囲に諭されないと劉備を抱えて抗戦試みる劉備シンパ
もう少し曹操の南下遅れてたらどうなったかわからんよ?
- 211 :
- 荊州閥で言えば最初はほう統の方が諸葛亮よりも立場が上
死んだ時にほう統より意志を継いだとアピールすることで
初めて諸葛亮が荊州閥を束ねる立場へと昇格した
権力の一元化という意味ではほう統は死んだ方が結果的に良かったのかもしれない
- 212 :
- >>211
どこをどうひねるとそんなことになるんだ?
- 213 :
- >>210
壮大な推測を持たれるのは構わないんだけど,
実際に取り込んだ者を提示できなければ説得力はないぞ。
荊州で親しかった崔州平や石韜ですら劉備に仕えた形跡なんてないのに。
あと,劉備が何もできなかったのは「見える」じゃなくて史実だろ。
何もしなかったのか,実はやってみたけど駄目だったのかはともかく。
まあ曹操の南下が(年単位で)遅れれば乗っ取りの可能性はあっただろう。
ただ,ドサクサで孫権に付け込まれると思うけど。
- 214 :
- >>213
どさくさで孫権に付け込まれないように江夏太守を抱き込むどころか
劉キが江夏太守になってるからなぁ
実際に取り込んだのは諸葛亮と名前の記録のない南下する時一緒に来た人々だろ
数万人が劉備に付いて来るってのは相当なもんだぞ
- 215 :
- >>211
龐統の方が荊州閥への影響力が上なら、
蜀取りの頃、孫呉への影響力の高さも相まって
荊州に残るのは孔明でなく龐統になりゃなきゃおかしい
史実では孔明が残り、孔明が蜀へ出立した後は
孔明の舎弟の馬良が残っている。
どのへんに龐統の影響力を見出してんだ?
- 216 :
- >>214
老いたとはいえ歴戦の将軍だった黄祖ですらボコボコにされたのに,
実績以前に中央から逃げ出した(or追い出された)劉gで江夏を守り切れると思うのか。
確かに先主伝の10万以上は誇張だとしても,数万人は従っていただろう。
でも数万人って,兵士1万人も抱えていたらその家族だけで届いてしまう。
もちろん当時兵戸制が確立されていたわけではないだろうけど,
流民を兵士として吸収すれば当然家族もついてくる。大半はそれじゃないか。
彼らは諸葛亮とは関係なく,劉備を頼ったと見るべきだろう。
- 217 :
- >>5
蜀では曹丕が禅譲したのが曹丕が皇帝殺したという誤報が伝わったから
まあわざと誤報が伝わったことにしたという説もあるが
- 218 :
- >>217
それこそ、魏国の人と疎通を断絶した訳じゃないから
ちょっと調べれば、すぐに裏が取れること
誤報が伝わったんじゃなくて、誤報をでっち上げて広めたって方がシックリくるぞ
- 219 :
- >>218
ただ蘇則みたいな例もあるので,一概にでっち上げとは言えない。
便乗したのは間違いないだろうけど。
ただ劉協が234年に本当に死んだとき,
ちょうど五丈原に攻め込んでいた諸葛亮がどう反応したのかはすごく気になる。
(わたしが司馬懿だったらさりげなく知らせる,もちろん嫌がらせで。)
- 220 :
- ショクと後漢は別物
誤報だとしたら
劉備が帝位についてしまっては劉協が生きようが死んでいようが関係ない
でっち上げなら
劉協などなおさらどうでもいい
- 221 :
- >>220
それは劉備の即位の正当性云々という話であって別物であるという言論ではないよ
別物であると証明するには「何が王朝の継続性を担保するか」ということを定義して
それが劉備に欠けているとしなければならんよ
- 222 :
- そうか……
(中国史は勉強中の身でして(^^; いろいろと難しいですね。)
(まだまだ名前を把握していない人物さえ山ほどある……)
- 223 :
- >>221
別物であることを証明する必要はないんじゃね?
同じ物であると証明できなければ、それ即ち別物だもの
西漢と東漢すら別物扱いで区分されている
蜀漢が同じ物なんてありえない
蜀漢は劉淵が起こした漢と大差ないしろもの
- 224 :
- >>223
別物扱いで区分されるのは断絶期間があるからでは?
前漢と後漢、蜀漢と前趙とは明確な断絶期間があるけど後漢と蜀漢にはないよ
- 225 :
- 自分で言ってても無理があるな
別物ということでは間違いじゃないだろうけど
それが不当な王朝であるかどうかはまた別だし逆もまたしかり
- 226 :
- 魏が認めた以上不当ではないから
三国志が成り立つんだろ
- 227 :
- 皇帝になる前の劉備の方が良かったなぁ。即位するとか(笑)
彼が漢中王なら自分は仕官しに行ったかもしれんが、帝と言われたら「はぁ?」となる
演義でも何故かこの瞬間をもって劉備がイヤになった
- 228 :
- まあ前漢、後漢は統一し誰もが認める正統だししょうがないんじゃね?区別されるのは
蜀漢は益州のみの国だし
- 229 :
- 劉備の自立為帝がなんかイラっとくる。
忠誠な臣下が多くないと皇帝にはなれなかっただろうけどさ
だが、よっぽと人心を掴むのがうまいとみえる。エン術と違って……
- 230 :
- >>229
袁術は「早過ぎた」。
まだ漢の権威が残っているうちに自称しちゃったから,周囲を敵にまわしちゃった。
劉備は「遅すぎた」。
誰もが漢が終わったと認識した後に自称しちゃったから,同時代人には相手にされなかった。
- 231 :
- >>229
袁術は、時期の問題じゃない。
即位後の行ないがダメ過ぎる、参考にならん。
劉備も時期のせいにするには
即位後の行ないがダメ過ぎて断定できない。
また、孫権は劉備より後に遅れて即位してる。
こいつも即位後の行ないがダメ過ぎて国を傾けているから
やっぱり時期のせいにはできない。
- 232 :
- じゃあお前のせいだ
- 233 :
- まあ漢中王を名乗りこれから劉邦のように中央に打って出て、いずれは皇帝になるぞ
という意気込みは買いたい所だが
領地はむしろ減った後で皇帝になりました、なんて言われてもむしろ小さく纏まったな、って感じだわ
せめて皇帝を名乗るからには長安くらい取ってから言って欲しかった
- 234 :
- 勢力の大きさ云々じゃなくて魏を認められないっていう立場から皇帝名乗ったんだから
そこは建前としてはいいんじゃないの?
勢力拡大してからなんて^ラやってたら魏の正当性を認めちゃう事になるし
あのタイミングで良かったと思うけど
あくまでも劉備側の建前としてはだけど
- 235 :
- 老い先短かったのだから
それくらい認めてやれよ
- 236 :
- 劉備は徐州の太守だったが呂布や哀術との合戦の活躍で
曹操から恐れられるようになったのだ。 反董卓軍の時は
曹操は良き友として見ていたが。その後は漢王朝の再興
というより曹操からの追撃から逃れる過程で、天下三分
の計、益州を手中にし漢中王になれたのだろう。
- 237 :2012/10/08
- >>234
戦い続けていれば魏の正当性は認めていないことにしかなりませんが?
劉邦は項籍の所業を不当とし、戦い続けて最終的に勝利をえることで
自らの正当性を樹立しています。
>>235
老い先短かったから不遜にも王位、帝位を僭称した
と、認めてますよ?
>>236
第一に
曹操は呂布討伐後、劉備に哀術討伐を命じて派遣しています。
そして、その過程において劉備が徐州で反逆を起こしている事から
曹操が劉備を恐れていたとするのは無理があります。
第二に
反董卓軍に劉備が参戦していたと言う記述はありません。
第三に
前半と後半になんら関連性はなく、なにを言いたいのか不明です。
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