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2012年1月1期三国志・戦国37: 蒋エン 費イ 姜維の流れを語るスレ (652)
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蒋エン 費イ 姜維の流れを語るスレ
- 1 :10/12/05 〜 最終レス :12/01/05
- なかったので建ててみた。まあキョウイがずば抜けてるんだけど。
蜀滅亡を語るとどうしてもショウエン、ヒイ時代が重要になってくると思うので。
キョウイの比べて地味な二人だけど。ヒイって結構裏がありそうな人物なんだよな。
正史を見てると。
- 2 :
- お、建てれた。三戦板は簡単に立てれるなあ
一応知らない人のために
ショウエン
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E3%82%A8%E3%83%B3
ヒイ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BB%E3%82%A4
キョウイは知ってると思うんで。
ショウエンとヒイは孔明直系なんだよね。
- 3 :
- てs
- 4 :
- >>1の考察ktkr
- 5 :
- 蔣琬、費偉、姜維の3人が中心になり北伐してりゃ、成功してたな。
軍事に暗い孔明より、はるかにマシ
- 6 :
- >>5
そうだな
- 7 :
- >>6
いや、違わないか?w
北伐はどっちみち成功しなかったと思う。
- 8 :
- 公明の直系て所に怪しいにほひがする
優秀な内政家ってイメージだ
- 9 :
- 益州派閥と涼州派閥ってのは実際あったのかね。
考察系サイトとかだと派閥争いみたいのあったらしいが
出身地で派閥組むかな?
- 10 :
- 当時の中国では、出身地はかなり重要
出身地が同じだと、簡単に仲良くなれたらしい
王允も、呂布と同郷である点を持ち出して董卓暗に引き込んだとか
- 11 :
- ってことは益州出身が数多いだろうから
やっぱ益州派閥が与党になるのか
中国ってそういえば言葉とかどうなってるんだろう?
涼州と益州じゃ距離から考えてもそうとう方言とかあって意思疎通できんかな
- 12 :
- >>9
無かったと思う。蜀内部で何度か派閥争いらしい事件は何度か起きてるけど、
当事者の両方が荊州人だったり、両陣営に荊州人と益州人が混じったりしてるから。
あと、蜀の構成員は荊州人と益州人だけじゃなく、
後漢末の混乱から逃れるために益州に逃げてきた中原の人間もだいぶいる。
>>11
政権中枢はほぼ荊州人が独占してたよ。蜀末期の最高首脳で益州出身なのは張翼ぐらい。
- 13 :
- >>9
漢中幕府派と蜀中央政府という区分けの方がいいだろう
これが出来てくのは劉備亡き後の遠征のために諸葛亮が権力構築してから
逆に言うと劉備生前は派閥なんてなかった
- 14 :
- 蒋琬・費禕は諸葛亮の後継指名を受けていたし、席次の面からも姜維は独断で動けない。
また、両人ともそれだけの大局観を持つ有能な政治家だったということだろう。
彼らの死後、姜維を納得させられるだけの政治家がいなかったのが全て。
北伐を国是とする将軍が名実ともに軍権を掌握した以上、誰も制御できないのは当然のこと。
(しばらく陳祗がうまくやっていたのはさすが曲者というべきか。)
諸葛亮・蒋琬・費禕と最高権力者が続いてきた流れの後で、
費禕のアクシデントにより政治と軍事の権力が分かれてしまったのが痛恨。
姜維が有能な将軍だっただけに余計にバランスが崩れてしまったとも言えそう。
- 15 :
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- 16 :
- >>13
その区分けだと、誰が漢中幕府派のボスで、誰が中央政府派のボスなんだ?
蒋エンや費イは両方に影響力あったし、ずっと中央にいた董允も特に漢中と対立した形跡は無いんだが。
- 17 :
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- 18 :
- >>14
陳祗は姜維に協力的だったよ。
むしろ、姜維が外征してる間、その後ろを固めてた。
姜維への反対勢力が成都に出現するのは、陳祗の死後。
- 19 :
- 北伐を抑えてた時期ってのでどれくらい国力増えたのかね。
- 20 :
- >>18
「制御=反対」という意味で使ったわけではないよ。
「姜維の思うがままにさせるか否か」というニュアンスで解釈していただければ。
費禕の突然の死によって、席次面で姜維を制御することはできなくなった。
その状況下において北伐協力という現実路線で国を運営した陳祗も、
前任者たちとはタイプが違うが優秀な政治家だったということだろう。
もともと費禕に高く評価されていた逸材なんだしね。
そして、陳祗路線で国を運営する才覚がないと自覚していたであろう後任者としては、
北伐の中止(少なくとも抑制)という路線に戻したかった。
そうすると、姜維がその提案を受け入れてくれるはずはないから、
彼の実権を取り上げるという方法しか選択肢がなかったのかな、と思う。
あくまでも個人的な感想だからあしからず。
Jominian氏のように緻密な論理ではないのであまりツッコまないでね^^;
- 21 :
- >>20
Jominianの名前を出せば荒らす
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- 22 :
- >>20
陳祗執政中の姜維の出兵記録
253年 数万の兵で南安を包囲するも撤退。
254年 襄武を包囲。救援に来た徐質と会戦して大勝する。河関、臨トウの二県を攻略後撤退。
255年 王経とトウ西で会戦して大勝する。狄道を包囲。救援に来た陳泰の軍と対峙。勝利できずに撤退。
256年 祁山、上ケイに進軍。ケ艾と段谷で会戦して大敗する。
257年 諸葛誕の乱に呼応して進軍。長城で迎撃に来た司馬望、ケ艾の軍と対峙。勝利できずに撤退。
陳祗が政権を握っている間、姜維は毎年大規模な出兵を行っている。
完全に陳祗は姜維の思うがままに北伐を行わせており、
段谷の大敗後に姜維の威信が急落した後ですら、出兵を続けている。
姜維が思い通りにできなくなるのは陳祗が死去した258年以降。
陳祗が死去してから254年までの4年間、姜維はまったく軍事行動を起こしてない。
- 23 :
- 陳寿も師匠がらみだと曲筆があからさまだしな
- 24 :
- >>20
薄っぺらいくせに長文ウザいんじゃ
考察するレベルにないならくんな
出ていけカス
- 25 :
- ごめんなさい。
以後自粛します。
- 26 :
- キョウイとしては涼州を取って涼州王にでもなるつもりだったんだろうな。
カンシンみたいな感じで。
- 27 :
- >>26
涼州一州で自立して王になるよりは、
蜀の大将軍・録尚書事・督中外軍事の方がよっぽど権力が大きいと思うが。
宰相で政治と軍事両方の最高権力者だぞ?
- 28 :
- 8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 20:47:33
コテスレを馬鹿にする糞コテのJominian
三戦皇帝:献帝が三戦コテに官職を発表する
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1289918090/l50
25 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/02(木) 00:15:01
>>1もいなくなったみたいだし、俺の提案も受け入れられないみたいだな。
まぁ、そんなもんだろう。
所詮はコテスレという事だろうな。
27 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:28:42
自分の意見が通らなきゃコテスレと蔑むのかw
発言者の人格が現れているな
31 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:41:58
要するにJominianは人間性が残念なコテなんだな
- 29 :
- 誰もJominianに高い人間性なんて要求してねーだろw
軍事的な考察と知識の豊富さが評価されてるんだよ
- 30 :
- >>29
あいつの人間性は褒められたもんじゃないが、
ブログで書いてる軍事考察は大したもんだな。
- 31 :
- >>29
自演擁護して悲しくならないのか糞Jominian
- 32 :
- >>31
糞レスはsageでお願いします
- 33 :
- 諸葛亮に涼州最高の人物と絶賛された姜維
- 34 :
- >>16
明確な対立構造が出来るのは姜維の頃になってからだろう
それまでは漢中派が中央をグラップリングしてたが権力構造としては
本来上位である筈の中央を漢中が抑え込み
皇帝→漢中→中央政府という二重構造で政権が運営されてたことは間違いがない
- 35 :
- 対立構造としては
北伐派 内治派 売国派
とかかね?
- 36 :
- >>34
漢中と成都の対立構造ができるのは、姜維の頃になってすぐじゃないよ。
姜維は費イの漢中と成都の両方に持つ権力を引き継いで、
費イの成都における代理人陳祗ともうまくやってる。
陳祗と劉禅の蜜月関係が続いてる間、
姜維は成都の劉禅・陳祗と漢中の軍隊の両方の支持を得て、毎年出兵を続けてる。
これが崩れるのは陳祗が死んで黄皓が台頭し、尚書令が姜維の思い通りにならない董蕨になってから。
やがて、諸葛瞻と董蕨が平尚書事に、樊建が尚書令になって、黄皓と結託して姜維下ろしに動き出して、
成都と漢中は決裂する。
- 37 :
- >>36
だーれがすぐなんて言ったんだ?
対立構造として明確になるのは姜維の頃っつっただけじゃねーか
- 38 :
- 諸葛瞻はどうして姜維と対立したんだろう
- 39 :
- 諸葛瞻は黄皓が政治をするようになってから滅亡の時までヒキってた
- 40 :
- >>38
なあなあで済ます事ばかり考えて政治を正そうとしなかったとか、
黄皓と付き合っていたとか書かれてるから、
政治姿勢と派閥関係の問題で姜維と合わなかったんじゃないだろうか?
- 41 :
- センが実権を握ったのは最後の三年だけ
みたいのを前に見たんだけど。本当だとしたら
出世遅くない?孔明の息子なのに。
- 42 :
- >>41
17歳で皇帝の娘婿になり、騎都尉任命。
18歳で羽林中郎将となり、その後20代から30代前半の間に射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進。
34歳で行都護・衛将軍・平尚書事。
エリート中のエリートでも、騎都尉になれるのは早くて30代。羽林中郎将は30代後半。
射声校尉や侍中は40代。尚書僕射は50代。衛将軍・平尚書事は60代。
皇族でも有り得ないレベルの超スピード出世ですが何か?
- 43 :
- 諸葛瞻は17歳のとき、公主を娶り、騎都尉を拝命した
その翌年、羽林中郎将となり、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された
- 44 :
- そもそも何で諸葛瞻は黄皓側についたんだろう?
- 45 :
- センって調べたら結構若いんだな。
キョウイと25歳も離れてるのか、30代後半で死んだのか。
若いとも思うが。
キョウイとか劉備、まあ孔明でもいいけど30で一応それなりに軍率いて戦ってるから
若かったから負けたって言い訳はたたないな。
- 46 :
- ずっと成都の朝廷で要職を務めてきた諸葛瞻にとっては、
ずっと外征してる姜維より、皇帝側近の実力者黄皓と仲良くした方がメリット大きいだろ?
それに軍事経験が無くてずっと成都にいた諸葛瞻が、姜維にシンパシーを抱く理由も無いし。
- 47 :
- 諸葛瞻は劉禅の要請で動いたんだったな
都に残ってたのは雑兵ばっかりだったし
とりあえず蜀の象徴として出陣したんだろう
それが逆に漢中の時の曹彰的位置になってあいつを討てば大手柄だと思わせ魏軍の士気上げたのかもしれんが
- 48 :
- 綿竹は諸葛瞻・尚親子ばかりがピックアップされてるが
一緒に戦った黄崇・李球・張遵ら名将の子が忘れられてる
- 49 :
- >>48
三国志の事くわしいな。
- 50 :
- >>48
近衛兵の指揮官の羽林右部督李球はまだいいとして、
なんで尚書張遵や尚書郎黄崇のような事務方が兵を率いているのか理解できない。
- 51 :
- >>47
都に雑兵のこすか?最悪に備えて
残すだろ
- 52 :
- >>49
とりあえずここは三戦だからな^^
>>50
それほど人がいなかったかこいつらも象徴的に出したかだな
張遵張飛の孫だし
>>51
精鋭は姜維が率いてるんじゃないか?
しかし諸葛瞻も成都から七万ぐらい率いてた記憶がある
- 53 :
- >>51
漢中にありったけの兵を援軍に送った後だから、
たぶん、諸葛瞻が率いた兵は、実戦経験のない近衛兵だろうな。雑兵と言っても差し支えない。
- 54 :
- あと最前線で戦ってたケ艾には勝てないだろ
諸葛瞻は孔明の子って言ってもほとんど戦ったことないし夏侯楙が少しマシになったみたいなもんだろ
- 55 :
- つーかそんなに象徴的やつを出したきゃ劉ェ殿下でも出陣させろよ
結構士気上げできそうじゃないか
- 56 :
- >>54
軍事的には夏侯楙と同レベルじゃねえか?そもそも実戦経験無いんだから。
>>55
象徴ってわけじゃ無く、成都に残っている将軍の中で一番偉いから出てきただけだろ。
官位だけなら、姜維に次ぐ軍のナンバー2だからな。
- 57 :
- >>56
諸葛瞻も一回は勝ったからな
夏侯楙は兵数で勝っただけ
あいつらこんなに官位高かったんだな
しかしこの頃の主力の廖化やら張翼やらがみんな出てるから人手不足だったんだな
- 58 :
- >>57
本来、ケ艾指揮下の兵力は・天水太守王キ、隴西太守牽弘、金城太守楊欣の軍を主力とする三万。
姜維との沓中での戦いでは、この三将が指揮をとっている。
しかし、山越えの際を終えて蜀本土に侵入した時に率いていた兵力は一万。
この時から蜀降伏に至るまでの一連のケ艾の作戦行動の中に、主力で歴戦の武将である三将の名は出てこない。
綿竹の戦いでは、これまでの作戦行動の中に名前が出てなかったケ艾の子ケ忠と司馬師簒が、
諸葛瞻を攻撃して敗れている。おそらく、ケ艾は山越えの時には主力の三将の軍をどこかに置いてきたらしい。
そして、戦歴不明のケ忠と、蜀討伐のために司馬昭がケ艾の下に派遣した腹心の文官師簒という、
指揮能力が信用できない二人を諸葛瞻との戦いで使わざるを得なかった時点で、ケ艾軍の質もかなり怪しい。
主力の三将の軍を欠いていて、軍事能力が怪しい将に指揮させなければいけなかった時点で、
数・質ともにケ艾軍はかなり苦しかった。一度諸葛瞻に敗れたのは、数・質ともに苦しかったからで、
諸葛瞻の軍事能力とは関係ないと思われる。
- 59 :
- >>58
おおそうだったのか
諸葛瞻も結局は親の七光りで育ったんだな
とにかく人材不足に尽きるな
- 60 :
- 譫は亮の子だけど、一緒に付き従ってた時期なんてほぼ無いわけだし、
彼に亮と同じ功績を求めるのはちょっと可哀そうだな。
- 61 :
- 成功者の2代目はぼんくらな法則ってあるしね。
- 62 :
- >>60
でも、出世の速さと、30代で宰相になった地位の高さを考えると、
父親ほどではないにせよ、それなりの功績は残さないと許されない立場。
- 63 :
- とりあえず譫も好きでそこに生まれたわけじゃねーんだからかなりの重圧だったろうな
>>61
だが陳泰や司馬師・昭、諸葛恪なんぞは優秀だったな
この差はどっから来るんだろう
- 64 :
- 諸葛亮と陸遜は単独で伝が立てられてる人物として対比されることがあるが、
彼らの二世は功績という観点から見て真逆の立場だな。
譫も抗も期待やプレッシャーが凄まじかったと思うが、何が彼らを分けたんだろう?
- 65 :
- >>63
陳泰や司馬師や司馬昭や諸葛恪は、功績をあげて、経験を積みながら普通に昇進して出世したけど、
諸葛瞻は功績も経験も無いのに、どんどん出世して若くして実力に見合わない地位に就いたから。
ちゃんと功績をあげて経験を積みながら出世してれば、もう少しマシだったかもしれない。
>>64
陸抗は校尉から出発して、功績を重ねて昇進したから。
- 66 :
- 葛侯のなさったことだ
(*゚▽゚)*。_。)ウンウン
∩(゚∀゚∩)サスガー
- 67 :
- やっぱり経験がものを言うな
- 68 :
- 諸葛瞻ももっとはやく実戦に出すべきだったな
しかし趙雲の子の趙統みたいに早々と死なれたらさすがに困るが
- 69 :
- 趙広だった
- 70 :
- 趙雲くらいの地位や名声があった将軍は他にいくらでもいたから、
その子孫だって言っても、そんな希少価値無いでしょ?
趙雲の息子なら、地道に実績積み重ねていかないと偉くなれないけど、
諸葛亮の子で皇帝の娘婿なら、超弩級の御曹司だから、
前線に出してあっさり死なれたら困る。
- 71 :
- なるほどな
しかしそんな要人なら護衛の用心棒みたいな将でも付けるべきだろ
要人の警護が甘いから費禕がされたりしたんじゃないか
- 72 :
- ヒイは大将軍となりながら、本性のおもむくままに博愛心を示し、帰順したばかりの者をあまりにも信用しすぎていた
結果、魏の降将郭循に刺された
悲しいことではある
- 73 :
- そもそも、諸葛瞻は前線に出るべきという考えが間違っている。
諸葛亮死後の蜀の宰相は、姜維以外前線に出て戦ってない。
諸葛瞻は未来の宰相なんだから、戦争なんかやらなくていい。
将軍号を与えたのが間違いだった。
- 74 :
- >>72
信用し過ぎたのがあだになった
郭循は本当は劉禅を刺したかったができなかったから費禕にしたみたいだな
劉禅死んでも後継ぎ劉濬で五十歩百歩だからむしろ魏には好都合だったろう
>>73
確かに諸葛瞻は自ら敵陣に突っ込んでくような勇猛なやつじゃないよな
どちらかと言えば文系
後方で輸送だの物資補充だの指揮してればよかったんじゃないかね
- 75 :
- >>74
いや、だからずっと朝廷にいたら良かったんだよ。
それで皇帝の側近や尚書系の仕事を経験して、政治に専念してれば良かったの。
軍事なんか手を付ける必要は無いの。
- 76 :
- 綿竹は成都の喉元、抜かれたら首都攻防は必至。
蜀は、総力動員して綿竹を防衛すべきだったと思うんだが。
前レスにもあるが、ケ艾の奇襲部隊は主力では無いので、戦歴で劣る蜀軍でも
総力戦になれば勝つ算段はあった。
問題は剣閣防衛だが、まぁ姜維が負けるなら蜀は終わりだから仕方ないね。
- 77 :
- >>76
剣閣抜かれたら、鐘会の13万が四川盆地に雪崩れ込んでくるんだけど
蜀の総兵力以上の軍勢が全軍成都に向けて進軍してきたら、
姜維指揮で総力挙げても負けるわ。
- 78 :
- もうちょっと早く鍾会と乱を起こす打ち合わせを出来ていたら、何か変わったかね?
会は晋将だけど蜀の将とも親交があったし(蒋斌とか姜維とかさ)。
- 79 :
- >>75
完全に文官として生きろってか
まあ孔明も内政型だったからそれもいいだろう
>>78
とりあえず将達の結束がない
鍾会達はいいかもしれんが胡烈とか不満なやつらを手なずけるのが先だと思う
- 80 :
- >>78
時間が足りなさすぎる。
そもそも、魏の兵が鐘会にまったく心服して無いと言うのが問題だ。
旧蜀軍の将兵を動かせたとしても、10数万の言う事を聞かない魏兵を押さえられるかどうか難しいと言わざるを得ない。
- 81 :
- ショウカイと乱起こした時点でもうキョウイは老将でしょ?
若いうちにもっとがつがつ攻めさせるべきだったなあ。
- 82 :
- いつ攻めたら勝てたと思う?
- 83 :
- 夏侯覇がいた時
- 84 :
- >>80
兵の家族を人質に取ったのがまずかったのでは、あれは
- 85 :
- 夏侯覇って、蜀に降ってからはほとんど何したか分からない空気じゃん。
姜維の指揮下で王経を撃破したぐらいしか、記録が無い。
生きてても生きてなくても、大勢に影響無い人間だろ。
- 86 :
- 一応戦なれした頭数だけでもそろえたいだろ
- 87 :
- 魏時代だって無駄に戦歴長いだけで大した功績は無いし、
夏侯覇程度の実戦経験と能力のある武将なんて、蜀にだって掃いて捨てるほどいるだろ?
頭数以上の役には立たない無能なベテランなんて、いてもいなくても大して変わらん。
- 88 :
- もうちょっと公孫淵が空気読んで存続してくれてたら変わったかも
- 89 :
- 遼東公孫氏が存続してても、別に国境に兵を貼り付ける必要は無かったから関係無かったんじゃ?
国境に兵を貼り付けなきゃいけないような関係になった時点で、遼東公孫氏は潰されるだろうし。
- 90 :
- >>87
まーな
公孫淵はとりあえず戦う時期悪すぎだな
せめて司馬懿死んでからだろ
- 91 :
- >>84
蜀を平定した時点で遠征軍を用いて自立できるほど、
鐘会は将兵の心つかんで無かったから、人質取らなくても兵は離反してただろ。
- 92 :
- 魏の内部分裂を狙うとか出来なかったのかなあ。
司馬一族と相反してる奴らとかいたはず
- 93 :
- 魏を割ってまで、蜀と組む魅力があるかどうかだな。
十万以上の大軍を擁して、呉と同盟して反乱した諸葛誕ですら、司馬氏の前に滅ぼされた。
死ぬか反乱するかってところまで行った人間でなければ、
蜀と組んで反乱するより、魏の内部で司馬氏と政争する事を選ぶのではないだろうか?
- 94 :
- 蜀と組んで魏と戦うより、司馬氏と政争して生き残る方がデメリット少ないだろ
蜀は姜維しかいない上、段谷以後は勢いも無く政治と軍事の連携も惰弱
呉は長江ラインでの防衛に強いが、攻めは弱いし権力闘争で代替わりも激しい
魏は中原に鎮座して最大勢力を擁し、人材豊富で正統王朝という大義もある
- 95 :
- 中国の広さを考えると遠征して勝つって難しいよな。
行くだけで疲労困憊になりそう。
- 96 :
- >>95
実際の軍事活動もそうだが、遥か彼方の戦線や敵の動きを読んで軍を動かしたりするのも
結構大変そうだな
どんなに優れた情報網があったとしても、結局は人力なのでスピードには限界がある
- 97 :
- なんであんな広いのに分裂しなかったんだろうねえ。中国。
蜀は蜀でやってりゃ良かったのに。
- 98 :
- >>97
運河代わりになるでっけえ河川のお陰
これらが物理的につないでるから中華圏が成立するわけだな
- 99 :
- あの距離を移動した劉備ってすごいんだな
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