1read 100read
2012年1月1期メンヘルサロン24: ☆十字架☆イエス・キリスト☆復活2 (973) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
・ 次のスレ
25: いま音楽何聴いてる? Part45 (860)
26: 疲れた・・・もう死にたい32 (462)
27: 死後の世界について真剣に考えてみる 7転生目 (107)
28: 【寝たきり】廃人Part.22【うつ病】 (671)

☆十字架☆イエス・キリスト☆復活2


1 :11/08/14 〜 最終レス :12/01/05
キリストは、神様の身分でありながら、神様と等しい者であることに固執しようとはなさらず、
かえって御自分を無にして、しもべの身分になられました。
そして人間と同じ者になられたのです。
人間の姿で現れになり、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。
このため、神様はキリストを高く上げ、全ての名にまさる御名をお与えになりました。
こうして、天にあるもの、地上にあるもの、地の下にあるものすべてが、イエス様の御名にひざまずき、
すべての舌が、「イエス・キリストは主です」と公けに宣べて、父なる神様を褒め称えるのです。

2 :

「キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
それから、敵をその足台とするときまで、待っておられます。
彼は一つのささげ物によって、清められた人たちを永遠に完全な者とされたのです。」
ヘブル人への手紙10章
聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 こう言われます。
「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。
わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と。
さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べておられます。
ヘブル人への手紙10章
優しい名無しさん : 2010/10/31(日) 15:44:41 ID:/OCW/pQj
もしそうであるなら、世の創成の時から、繰り返し苦難を受け給わねばならなかった
はずである。だが実際は世の終わりに、ただ一度、ご自身を生贄として献げて罪を
取り除くために顕れてくださったのである。
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることとが人間に定まっている
ように、キリストもまた、多くの人の罪を負い給わんために、一度だけ献げられ給いし
後、二度目には罪とは関わりなく、ご自身を待ち望んでいる人々に救いをもたらす
ために現れてくださるのである。
(Hebrew,9:26-28)
あなたは神を唯一と信ずるのか。それは結構なことだ。悪霊どもも、信じて戦いている。
あゝ、愚かな人よ。行ないを伴わない信が無益であることを、どうしても知りたいのか。
( Ya'akov, 2:19-20)
これでお分かりのように、人は行ないによって義とされるのであって、信のみによって
ではないのだ。(同24)
まこと、霊なき体が死せるものであるように、行ないを伴わない信も死せるものである。
(同26)

3 :
Q1: ヤコブの手紙に「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのでないことがわかるでしょう」
と書いてありますが、行いで義とされるのですか。
A1:それは人の前で義とされるのであって、神の御前ではそうではありません。
。「律法の行いによっては、神様の御前に義と認められる人はひとりもいないことが、明らかになるのです。
なぜなら、「義人は信仰によって生きる」と書いてあるからです。」ガラテヤ人への手紙3章
義とは旧約聖書にもたくさん出てくるようにユダヤ律法で「正しい行い」「人の行う正しい道」を意味します。
「義」には
@人の前に認められる「人の義」
A主イエスの血によるあがないによる神の御前に認められる「神の義」があります。

4 :
ヤコブの手紙2-21に「アブラハムはその子イサクを捧げた時に、行いによって義と認められたとありますが、これは@の人間に認められる
「人の義」であって神の御前に義と認められたのではありません。行いによって救われたのではないのです。
アブラハムがA神の御前に義と認められたのはイサクを捧げた数十年前のイサクが生まれる前です。
その創世記にこう書いてあります。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。この御言葉で明らかなようにアブラハムは信仰によって神に義とされたのです。
アブラハムのイサクを捧げた行いは@人間に認められる「人の義」であって、A神の御前に「神の義」と認められたのは信仰によることがわかります。
Q:ではアブラハムの行いは神の御前では義と認められないで、彼が信仰によって神から義とされたと聖書のどこに書いてありますか。今度は新約聖書から引用願います。
A:ローマ人への手紙4-2:3にこう書いてあります。「もしアブラハムが行いによって義と認められたなら彼は誇ることができます、しかし神の御前ではそうではありません。
聖書はなんと言っていますか。
『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。』」ここに「神の御前ではそうではありません。」とあります。
この御言葉で明らかなようにアブラハムは行いによって神の御前で義と認められたのではないことが明確に理解できます。

5 :
さらに次のように書いてあります。
「律法の行いによっては、神様の御前に義と認められる人はひとりもいないことが、明らかになるのです。
なぜなら、『義人は信仰によって生きる』と聖書に書いてあるからです。」

6 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

7 :

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは神の御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

8 :
板違い出てけ!

9 :
>>8
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

10 :
主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。
わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。
私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(詩篇)

11 :
わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。 主は今からとこしえに至るまで、
あなたの出ると入るとを守られるであろう

12 :
神を信じることで救われると言うのは、唯一の正解ではないにしろ、一応正しい
ただ、それだけで神の存在を信じられるかと言えば間違い
信じる者→救われる だけども
救われたい者→信じる とは限らんだろ
>>8 >>9から察するに、お前(>>1)は神の教えを説く自分すらも絶対に見ているようだな
だけど[人の意見を聞かない人]の意見なんか誰も聞かんだろ
それとも[自分の意見を押しつける]のも[他人の意見を否定する]のも、神様のご意向か?
そんなわけあるまい
もっとも俺がマジレスしたところでおまいさんは一切読まずに>>9をコピペして自己満足するんだろうがな
ちゃんと読んでたら>>8を読み直せ 宗教板と言うのがある

13 :
>>12
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

14 :
神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒のみなさんへ。
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにありますように。
わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を賛美しよう。神はキリストにあって、天上でもろもろの霊の祝福をもって、
わたしたちを祝福し、 御前に清く傷のない者となるように、天地の創造される前から、キリストにあってわたしたちを選び、
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けようと、御心に従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さいました。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためです。

15 :
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪のゆるしを受けています。
神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御心の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、
わたしたちに示して下さったのです。それは、時満ちて実現されたご計画でした。それによって、神は天地にあるものを、ことごとく、
キリストにあって一つに帰せしめようとされました。
わたしたちは、御心のままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれました。
それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

16 :
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の御言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、
また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが神様の御国を継ぐことの保証であって、やがて神様の民が全くあがなわれ、
神様の栄光を褒め称えるようになるためです。
こういうわけですから、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、
わたしの祈りのたびにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝しています。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
あなたがたの心の目を明らかにして下さいますように。
そして、あなたがたが神に授けられ、いだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちが受け継ぐ神様の御国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く御力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、
あなたがたが知るように、と祈っています。

17 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

18 :
くだらん!

19 :
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報酬をくださる方であることとを、信じなければならないのです。
(ヘブル11ー4)

20 :
あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全な者とされた正しい人たちの霊、
新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。(ヘブル人への手紙)

21 :
「神様は人をかたよりみないかたで、 神様を礼拝し、また良い行ないをしている人はどの国民でも
受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神様がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子たちにお送り下さった御言葉をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神様はナザレのイエス様に聖霊と力とを注がれました。
このイエス様は、神様が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々を
ことごとくいやしながら、巡回されました。
わたしたちは、イエス様がこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人です。
人々はこのイエス様を木にかけてしたのです。(使徒10:34-39)
しかし神様はイエス様を三日目に復活させ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人として
あらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。
わたしたちは、イエス様が死人の中から復活された後、共に飲み、食事をしました。
それから、イエス様ご自身が生者と死者との審判者として神様に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神様はわたしたちにお命じになったのです。
預言者たちもみな、イエス様を信じる者はことごとく、その御名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの御言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がご降臨された。

22 :
神様は、あなたがたの先祖が、天国へ行こうとして迷い込み、むなしい努力を重ねた迷路から、
あなたがたを救い出すために、身の代金を支払ってくださいました。
ありきたりの金や銀を積まれたのではありません。 一点の罪も、しみもない神様の小羊、
キリストの尊い血が支払われたのです。
神様はこのために、世の始まる前から、キリストを選んでおられました。
そして、この終わりの時代に、あなたがたへの祝福として、だれの目にも見える形で、
キリストをつかわされたのです。

23 :
イエス様を信じていますが、最近、自したくなりました
幸い、ロープを用意したりする気力が湧かず…なのですが

24 :
>>23
あなたにいくつかみことばを贈ります。

25 :
助かります
ただリンゴさんのご負担にならないよう

26 :
愛する兄弟のみなさん。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。
わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みを失ってしまい、 心のうちで死を覚悟しました。
そして自分自身を頼みとしないで、死人を復活させてくださった神様を頼みとするに至ったのです。
神様はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さり、また救い出して下さるでしょう。
わたしたちは、神様が今後も救い出して下さることを望んでいます。 そして、あなたがたもまた、祈りをもって、
いっしょに、わたしたちを助けてくれるでしょう。
これは多くの人たちの願いにより、わたしたちに授けられた恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためです。

27 :
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵ではなく神様の恵みによって、
神様の神聖と真実によって行動してきたことは、実にわたしたちの誇りです。そして良心のあかしするところでもあります。
わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではありません。
それを完全に理解してくれるように、わたしは希望します。わたしたちの主イエスの日に、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、
わたしたちもあなたがたの誇りであることはある程度理解してくれていると思います。
この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいのです

神様は、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に聖霊を授けてくださいました。
わたしは自分の魂をかけ、神様を証人に呼び求めて言いますが、わたしがコリントに行かないのは、あなたがたに対して寛大でありたいためです。
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎません。
あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。

28 :
神様に感謝しよう。神様はいつも私たちを、勝利の行進に加えてくださいました。
わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのです。
わたしたちは、救われる人にとっても滅びる人にとっても、神様に対するキリストの香りなのです。
後者にとっては、死から死に至らせる香りであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせる香りです。
このような任務にふさわしい人とは、いったいどんな人でしょうか。
私たちは、多くの人のように、神様の御言葉に混ぜ物をして売るようなことはせず、
真心から、また神様によって、神様の御前でキリストにあって語るのです。

29 :
>>25
わかりました。この聖書のみことばの続きをもう少し引用させていただきます。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされました。 それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者です。
文字は人をし、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務めが栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、 モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、
その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務めは、はるかに栄光あるものではないでしょうかか。
もし罪を宣告する務めが栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものです。
そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのです。
もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものです。
こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、 消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに
見られまいとして、 顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、 その同じおおいが取り去られないままで残っています。
それは、キリストにあってはじめて取り除かれるからです。今日に至るもなお、 モーセの書が朗読されるたびに、
おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれます。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由があります。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。
これは霊なる主の働きによるのです。」

30 :
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務めについているのですから、落胆せずに、 恥ずべき隠れたことを捨て去り、
悪巧みによって歩かず、神の御言葉を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦します。
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者たちにとっておおわれているのです。
彼らの場合、この世の神が不信者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしています。
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
わたしたち自身は、 ただイエス様のために働くあなたがたのしもべにすぎません。
「暗闇の中から光よ、輝き出せ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝き渡る神の栄光の知識を明らかにするために、
わたしたちの心を照して下さったのです。
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためです。

31 :
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まることはありません。
迫害に会っても見捨てられず、倒されても滅びない。 いつもイエス様の死をこの身に負っています。
それはまた、イエス様のいのちが、この身に現れるためであり、 わたしたち生きている者は、
イエス様のために絶えず死に渡されているからです。
それはイエス様のいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためです。
こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、
わたしたちも信じています。それゆえに語ります。
それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエス様と共によみがえらせ、そして、
あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからです。

32 :
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、 神の栄光となります。
だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていきます。 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、
永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからです。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくからです。

33 :
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、
人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っています。
そして、天から賜わるその住まいを、上に着ようと切実に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえています。
それを着たなら、裸のままではいないでしょう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえています。
それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためです。
わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神です。
そして、神はその保証として聖霊をわたしたちに賜わりました。
だから、わたしたちはいつも心強い。 そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っています。
わたしたちは、見えるものによらないで、 信仰によって歩いているのです。

34 :
>>25
主イエスを信じる愛する兄弟姉妹よ。共にこの地上での、つかの間の人生の旅で、
忍耐をもって、キリストに会えるかの日を待ち続けましょう。

35 :
わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において圧倒的勝利者となるのです。
わたしはこう確信します。死もいのちも、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、
その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにある神様の愛から、 わたしたちを引き離すことはできません。

36 :
キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選ばれ、召されて使徒となったパウロから。
この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 神のひとり子に関するものです。
神のひとり子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められました。
これがわたしたちの主イエス・キリストです。
わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務めとを受けたのであり、
あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのです。
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにありますように。
まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、
あなたがた一同のために、わたしの神に感謝します。

37 :
わたしは、祈るたびに、いつもあなたがたを覚え、いつかは御こころにかなって道が開かれ、
どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っています。
このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、 御子の福音を宣べ伝え仕えている神様です。
わたしは、あなたがたに会うことを熱望しています。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、
力づけたいからです。
それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。
愛する兄弟のみなさん。このことを知らずにいてもらいたくない。
わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、
あなたがたの所に行こうと何度となく計画をたてましたが、今まで妨げられてきました。
わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い人にも無知な人にも、果すべき責任がある。
そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのです。
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、 救いを得させる神の力があります。

38 :
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせます。これは、「神の御前に正しい人は信仰によって生きる」
と書いてあるとおりです。
神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信仰と不義とに対して、天から啓示されます。
なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされました。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の御力と神性とは、天地創造以来、被造物において知られていて、明らかに認められるからです。
したがって、彼らには弁解の余地がない。 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として礼拝せず、感謝もせず、
かえってその思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは自ら知者と称しながら、愚か者になり、 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這う物の像に似せました。
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互いにはずかしめて、汚すままに任せられました。
彼らは神の真理を変えて偽りとし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのです。
創造者こそ永遠に賛美されるべきかた、アーメン。

39 :
それゆえ、神様は彼らを恥ずべき情欲のおもむくままにに任せられました。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、
そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのです。そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、
神は彼らを不正な思いにし、なすべからざる事をなすままに任せられました。
すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、妬みと意と争いと詐欺と悪念とに満ち、
また、ざん言する者、 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっているのです。彼らは、こうした事を行う者たちが死に価するという神の定めをよく知りながら、
自らそれを行うばかりではなく、それを行う者たちを容認さえしています

40 :
だから、ああ、すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人を裁くことによって、
自分自身を罪に定めています。裁くあなたも、同じことを行っているからです。
わたしたちは、神の裁きが、このような事を行う者たちの上に正しく下ることを、知っています。
ああ、このような事を行う者たちを裁きながら、しかも自ら同じことを行う人よ。
あなたは、神の裁きを逃れうると思うのですか。 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、
その慈愛と忍耐と寛容との富を軽視しているのか。
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しい裁きの現れる怒りの日のために神の怒りを、
自分の身に積んでいるのです。

41 :
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられます。 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、
光栄と誉と朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人には、怒りと激しい憤りとが加えられます。
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられます。
なぜなら、神には、かたより見ることがないからです。

42 :
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、
律法によって裁かれます。
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからです。
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、
たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのです。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、
その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのです。 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、
神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらを裁かれるその日に、明らかにされるでしょう。

43 :
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、 御旨を知り、律法に教えられて、
なすべきことをわきまえており、 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、
自ら盲人の手引き、闇にいる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、
なぜ、人を教えて自分を教えないのですか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのですか。
姦するなと言って、自らは姦するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのですか。
律法を誇りとしながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのですか。
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。

44 :
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立つでしょう。
しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、
その無割礼は割礼と見なされるではありませんか。
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、裁くのです。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、
そのほまれは人からではなく、神から来ます。

45 :
では、ユダヤ人の優れている点は何か。また割礼の益は何か。 それは、いろいろの点で数多くあります。
まず第一に、神の御言葉が彼らにゆだねられていることです。
すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、
神の真実は無になるでしょうか。 断じてそうではありません。
あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきです。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、
あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりです。
しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。
怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ですが)。断じてそうではありません。
もしそうであったら、神はこの世を、どう裁かれるでしょうか。 しかし、もし神の真実が、
わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、 どうして、わたしはなおも罪人として裁かれるのだろうか。
むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。
彼らが罰せられるのは当然です。 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

46 :
ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘しました。 次のように書いてあります、
「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
彼らの口は、呪いと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、
彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られています。
それは、すべての口がふさがれ、全世界が神の裁きに服するためです。 なぜなら、律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に正しい者と認められることはありません。律法によっては、罪の自覚が生じるだけです。

47 :
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現されました。 それは、
イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものです。
そこにはなんの差別もありません。 すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって神様から正しい者と認められるのです。
神は義を示すために、キリストの血によるあがないと、わたしたちの信仰をお用いになりました。
すなわち、今までに犯した罪を、神は忍耐をもって見のがしておられましたが、
それは、今の時に、神の義を示すためでした。
こうして、神ご自身が義となり、さらに、イエス様を信じる者を義(正しい者)と認めてくださるのです。

48 :
すると、どこにわたしたちの誇りがあるのですか。全くありません。なんの法則によってでしょうか。行いの法則によってですか。
そうではなく、信仰の法則によってなのです。
わたしたちは、こう思います。人が神様から正しい者と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰のみです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。
また、異邦人の神であるのではありませんか。確かに、異邦人の神でもあります。 まことに、神は唯一であって、
割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに正しい人とされるのです。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであろうか。決してそうではありません。
かえって、それによって律法を確立するのです

49 :
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。
しかし、神のみまえでは、できない。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、
「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とあります。
、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められます。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのです。
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っています、
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
罪を主に認められない人は、さいわいである」。

50 :
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのでしょうか。それとも、無割礼の者にも及ぶのでしょうか。わたしたちはこう言います、
「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のであると。
それでは、どういう場合にそう認められたのですか。割礼を受けてからか、それとも受ける前ですか。
割礼を受けてからではなく、無割礼の時でした。
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、
彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
かつ、割礼の者の父となるためなのです。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、
われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさします。
なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、
信仰の義によるからです。
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはありません。

51 :
このようなわけで、すべては信仰によるのです。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、
すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるからです。
アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」
と書いてあるとおりです。
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じました。 彼は望み得ないのに、
なおも望みつつ信じました。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、
多くの国民の父となったのです。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、
また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱まることはありませんでした。
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
神はその約束されたことを、成就してくださると確信しました。
だから、彼は義と認められたのです。

52 :
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

53 :
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、
わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義(神の御前に正しい者)と認められます。
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえってくださったからです。

54 :
このように、わたしたちは、信仰によって神様の御前に義(正しい者)とされたのですから、わたしたちの主イエス・キリストにより、
神様に対して平和を得ています。
さらに、わたしたちは、彼により、いま立っているこの恵みという信仰によって導き入れられ、
神様の栄光にあずかる希望をも喜んでいます。
それだけではありません。患難をも喜んでいます。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は練られた品性を生み出し、
練られた品性は希望を生み出すことを、知っているからです。
そして、希望は失望に終ることはありません。なぜなら、わたしたちに授けられている聖霊によって、
神様の愛がわたしたちの心に注がれているからです

55 :
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時が来て、不信仰な人たちのために死んで下さいました。
正しい人のためにさえ死ぬ者は、ほとんどいません。
よい人のためには、進んで死ぬ人が、あるいはいるかもしれません。
しかし、まだ罪人であった時、 キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、
神様はわたしたちに対する愛を示されました。
わたしたちは今、キリストの血によって神様の御前に正しい者とされているのですから、なおさら、彼によって神様の御怒りから救われます。
わたしたちが敵であった時でさえ、神様のひとり子の死によって神様の和解を受けたのですから、
和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われます。
そればかりではありません。わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、
神様を喜んでいるのです。

56 :
はい。

57 :
>>52
>>56
まやの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「まやの口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、まやの心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
まやは、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰をまやの口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」

58 :
ここで、あなたがたに神秘を告げよう。すべてわたしたちは、眠りにつくのではありません。
終りのラッパが鳴り響きわたると共に、瞬く間に、一瞬にして変えられます。
ラッパが鳴り響きわたると、死者は朽ちない者によみがえり復活し、わたしたちはみな、変えられます。
なぜなら、死ぬべき今の体は、決して死ぬことのない、永遠に生きる体を必ず着ることになるからです。
この朽ちるものが不朽を着、この死ぬものが不死を着るとき、聖書に書いてある御言葉が成就します。
「死は勝利に飲み込まれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし神様に感謝しよう。わたしたちの主イエス・キリストによって、
わたしたちに勝利を授けてくださったからです。
こういうわけで、愛する兄弟のみなさん。堅く立って動揺されることなく、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。
主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからです。

59 :
よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。
われらはあなたの御名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。

60 :
>>59
訂正
「神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。
われらはあなたの御名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」
Q1:主イエス・キリストの十字架の血によるあがないで人の罪は永遠にゆるされるのですか
A1:はい、主イエス・キリストの十字架の血によるあがないで人の罪は永遠にゆるされています。信じたあとの罪も赦されます。
Q2:主イエスのあがないは永遠なものなら、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたたあと罪を犯しても、その罪はゆるされるのですか。
A2:はい、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたあと罪を犯しても、その罪は永遠にゆるされます。
キリストを信じたクリスチャンの罪は教会に通っても通わなくても永遠にゆるされています。ご安心を。
でも聖霊を悲しませてはいけないとも書いてありますから、罪を犯さず清い生活をして神様を喜ばせましょう。

61 :
全ての神よ、大地よ、私に

62 :
大いなるお力を

63 :
お授け下さいませ。
どうか宜しく御願い致します。

64 :
Q3:主イエス・キリストのあがないが永遠なるものなら、人が清められ聖とされたクリスチャンたちを
永遠に完全な者とされた根拠となる聖書の御言葉はどこに書いてありますか 。
A3:ヘブル人への手紙10:14こう書いてあります。
「彼は一つの捧げ物によって、清められた者たちを永遠に完全な者とされたのです。」
Q4:では主イエス・キリストを信じたクリスチャンから聖霊は絶対に離れることはないという聖書の御言葉
も書いてなければなりませんが、どこに書いてありますか
A4:はい、こう書いてあります「その助け主は、絶対にあなたがたを離れません。 その方とは聖霊、
すなわち、すべての真理へと導いてくださる御霊のことです。 世間の人は、この方を受け入れることはできません。(ヨハネ14章)

65 :
第一ヨハネ 5:4-5
「すべて神から生まれた者は、この世に勝つからです。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝った勝利の力です。
世に勝つ者はだれか。イエス様を神の子と信じる者ではありませんか。」

66 :
イエス様の御言葉  ヨハネ16:33
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

67 :
愛する皆さん。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、
思い出していただきたい。
あなたがたが、いい加減な気持ちで信じたりせず、わたしの宣べ伝えたとおりの御言葉を堅く信じていれば、この福音によって救われます。
わたしが最も重要なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことでした。
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれたこと、 そして葬られたこと、
聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえり復活されたこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れてくださったことです。
そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れてくださいました。その中にはすでに眠った者たちもいますが、
大多数はいまなお生存しています。
そののち、ヤコブに現れてくださり、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、未熟児のような私の前にも現われてくださったのです。
実際わたしは、神様の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者です。
しかし、神様の恵みによって、わたしは今日あるを得ています。そして、わたしに賜わった神様の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきました。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神様からの恵みです。
とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのです。

68 :
ーは罪ですか?

69 :
「神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。
われらはあなたの御名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」

70 :
ホモは駄目だが百合はいい
神はそう言っている

71 :
>>68
ご自分でかんがえてネ(^^;)

72 :
わたしの子供たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、
すなわち、神様から義と認められたイエス・キリストがおられます。
彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物です。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、
全世界の罪のためでもあります。

73 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

74 :
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。
主は近いからです。何事も思い煩ってはなりません。
ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとを捧げ、あなたがたの求めることを神様に
申し上げるとよいでしょう。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神様の平安が、あなたがたの心と思いを、
キリスト・イエスにあって守ってくださいます。
(ピリピ人への手紙 )

75 :
愛する皆さん。 父なる神は、ずっと昔からあなたがたを選び、自分の子供にしようと、
決めておられました。
そして、聖霊様の働きかけにより、あなたがたの心は、イエス・キリストの血によって清められ、
神様に喜ばれるものと変わったのです。
どうか、神様があなたがたを祝福し、すべての不安と恐れから、解放してくださいますように。
主イエス・キリストの父なる神こそ、すべての賞賛を受けるにふさわしい方です。
私たちは、神様の測り知れないあわれみによって、新しく生まれ変わる特権を与えられ、今では神様の家族の一員として、
迎えられたのです。
キリストが死人の中から復活してくださったおかげで、私たちは永遠のいのちの希望にあふれています。
神様は自分の子供たちのために、お金では買えない永遠のいのちを贈る、と約束してくださいました。
それは純粋で、しみ一つない完全な状態で、天に保管されており、絶対に変質したり、腐敗したりしません。
神様は超自然的な力によって、あなたがたが、まちがいなく天で永遠のいのちをいただけるよう、守ってくださいます。
あなたがたが、神様を信じているからです。

76 :
やがて来る終わりの日に、この永遠のいのちは、あなたがたのものとして、だれの目にも、はっきり示されるでしょう。
ですから、心から喜びなさい。
今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、すばらしい喜びが待ち受けているからです。
これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。
それによって、信仰が、どれほど強く、純粋であるかが量られます。
それはちょうど、金が火によって精錬され、不純物が取り除かれるのに似ています。
しかも神様には、あなたがたの信仰は、金などより、はるかに貴重なのです。
ですから、信仰が火のような試練のるつぼの中で鍛えられ、なお強化されるなら、あなたがたは、
イエス・キリストの再び来られる日に、多くの賞賛と栄光と名誉とを、受けることになるでしょう。

77 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

78 :

わたしたちは、父が御子を世の救い主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのです。
もし人が、イエス様を神の子と告白すれば、神はその人のうちにいらっしゃいます。
そしてその人は神のうちにいることになるのです。(ヨハネ第一の手紙)

79 :
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じています。
神は愛であり、愛のうちにいる人は、神におり、神も彼のうちにいらっしゃいます。
わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、裁きの日に確信を持って立つことができるのです。
そのことによって、愛がわたしたちに全うされています。
愛には恐れがありません。完全な愛は恐れをとり除きます。
恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからです。
わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。 「神を愛している」と言いながら
兄弟を憎む者は、偽り者です。
現に見ている兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきであり、
この戒めを、わたしたちは神から授かっています。(ヨハネ第一の手紙)

80 :
「神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。
われらはあなたの御名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」

81 :

「ただ一度だけイエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちは聖なる者とされています。」
ヘブル人への手紙

82 :
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえってくださったからです。
このように、わたしたちは、信仰によって神様の御前に義(正しい者)とされたのですから、わたしたちの主イエス・キリストにより、
神様に対して平和を得ています。
さらに、わたしたちは、彼により、いま立っているこの恵みという信仰によって導き入れられ、
神様の栄光にあずかる希望をも喜んでいます。
それだけではありません。患難をも喜んでいます。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は練られた品性を生み出し、
練られた品性は希望を生み出すことを、知っているからです。
そして、希望は失望に終ることはありません。なぜなら、わたしたちに授けられている聖霊によって、
神様の愛がわたしたちの心に注がれているからです

83 :
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時が来て、不信仰な人たちのために死んで下さいました。
正しい人のためにさえ死ぬ者は、ほとんどいません。
よい人のためには、進んで死ぬ人が、あるいはいるかもしれません。
しかし、まだ罪人であった時、 キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、
神様はわたしたちに対する愛を示されました。
わたしたちは今、キリストの血によって神様の御前に正しい者とされているのですから、なおさら、彼によって神様の御怒りから救われます。
わたしたちが敵であった時でさえ、神様のひとり子の死によって神様の和解を受けたのですから、
和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われます。
そればかりではありません。わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、
神様を喜んでいるのです。

84 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

85 :
神のみこころによりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、
ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、 神に慰めていただくその慰めをもって、
あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのです。
それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、
キリストによって満ちあふれているからです。
わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いとのためであり、慰めを受けるなら、
それはあなたがたの慰めのためであって、 その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となります。
だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがありません。
あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからです。

86 :
愛する兄弟のみなさん。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。
わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みを失ってしまい、 心のうちで死を覚悟しました。
そして自分自身を頼みとしないで、死人を復活させてくださった神様を頼みとするに至ったのです。
神様はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さり、また救い出して下さるでしょう。
わたしたちは、神様が今後も救い出して下さることを望んでいます。 そして、あなたがたもまた、祈りをもって、
いっしょに、わたしたちを助けてくれるでしょう。
これは多くの人たちの願いにより、わたしたちに授けられた恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためです。
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵ではなく神様の恵みによって、
神様の神聖と真実によって行動してきたことは、実にわたしたちの誇りです。そして良心のあかしするところでもあります。
わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではありません。
それを完全に理解してくれるように、わたしは希望します。わたしたちの主イエスの日に、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、
わたしたちもあなたがたの誇りであることはある程度理解してくれていると思います。
この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいのです

87 :
神様は、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に聖霊を授けてくださいました。
わたしは自分の魂をかけ、神様を証人に呼び求めて言いますが、わたしがコリントに行かないのは、あなたがたに対して寛大でありたいためです。
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎません。
あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
神様に感謝しよう。神様はいつも私たちを、勝利の行進に加えてくださいました。
わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのです。
わたしたちは、救われる人にとっても滅びる人にとっても、神様に対するキリストの香りなのです。
後者にとっては、死から死に至らせる香りであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせる香りです。
このような任務にふさわしい人とは、いったいどんな人でしょうか。
私たちは、多くの人のように、神様の御言葉に混ぜ物をして売るようなことはせず、
真心から、また神様によって、神様の御前でキリストにあって語るのです。

88 :
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされました。 それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者です。
文字は人をし、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務めが栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、 モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、
その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務めは、はるかに栄光あるものではないでしょうかか。
もし罪を宣告する務めが栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものです。
そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのです。
もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものです。
こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、 消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに
見られまいとして、 顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、 その同じおおいが取り去られないままで残っています。
それは、キリストにあってはじめて取り除かれるからです。今日に至るもなお、 モーセの書が朗読されるたびに、
おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれます。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由があります。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。
これは霊なる主の働きによるのです。

89 :
いいえ、私は全ての力を受け入れます。

90 :
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務めについているのですから、落胆せずに、 恥ずべき隠れたことを捨て去り、
悪巧みによって歩かず、神の御言葉を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦します。
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者たちにとっておおわれているのです。
彼らの場合、この世の神が不信者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしています。
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
わたしたち自身は、 ただイエス様のために働くあなたがたのしもべにすぎません。

91 :
「暗闇の中から光よ、輝き出せ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝き渡る神の栄光の知識を明らかにするために、
わたしたちの心を照して下さったのです。
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためです。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まることはありません。
迫害に会っても見捨てられず、倒されても滅びない。 いつもイエス様の死をこの身に負っています。
それはまた、イエス様のいのちが、この身に現れるためであり、 わたしたち生きている者は、
イエス様のために絶えず死に渡されているからです。
それはイエス様のいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためです。
こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、
わたしたちも信じています。それゆえに語ります。
それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエス様と共によみがえらせ、そして、
あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからです。

92 :
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、 神の栄光となります。
だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていきます。 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、
永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからです。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくからです。
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、
人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っています。
そして、天から賜わるその住まいを、上に着ようと切実に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえています。
それを着たなら、裸のままではいないでしょう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえています。
それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためです。
わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神です。
そして、神はその保証として聖霊をわたしたちに賜わりました。
だから、わたしたちはいつも心強い。 そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っています。
わたしたちは、見えるものによらないで、 信仰によって歩いているのです。

93 :
あなたの救いを確実にする聖書に基づく信仰告白
「自分の口でイエス・キリストは私の主ですと告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、
あなたは救われます。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者と認められ、
その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。」
(ローマ人への手紙10:9-11)

94 :
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時が来て、不信仰な人たちのために死んで下さいました。
正しい人のためにさえ死ぬ者は、ほとんどいません。
よい人のためには、進んで死ぬ人が、あるいはいるかもしれません。
しかし、まだ罪人であった時、 キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、
神様はわたしたちに対する愛を示されました。
わたしたちは今、キリストの血によって神様の御前に正しい者とされているのですから、なおさら、彼によって神様の御怒りから救われます。
わたしたちが敵であった時でさえ、神様のひとり子の死によって神様の和解を受けたのですから、
和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われます。
そればかりではありません。わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、
神様を喜んでいるのです。

95 :
主イエス・キリストの御言葉
「わたしの友であるあなたがたに言っておきます。からだをしても、そのあとでそれ以上
なにもできない者たちを恐れてはいけません。
恐れるべきかたがだれであるか教えてあげよう。したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。
そうです、あなたがたに言っておきます、そのかたを恐れなさい。
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではありませんか。
しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいません。 その上、あなたがたの頭の毛までも、
みな数えられています。恐れることはありません。
あなたがたは多くのすずめよりも、優れた者ではありませんか。 そこで、あなたがたに言います。
だれでも人の前でわたしを受けいれる者は、人の子も神の天使たちの前で受けいれるでしょう。
しかし、人の前でわたしを拒否する者は、神の天使たちの前で拒否されることになるでしょう。」

96 :
「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、
神様の栄光となるのです。だから、わたしたちは落胆しません。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていきます。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに
わたしたちに得させるからです。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくのです。」 (コリント第二の手紙4:15-18)

97 :
わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエス様がいらっしゃるのですから、
わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのです。
ですから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙)

98 :
わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、
キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(コリント第二の手紙12:9-10)

99 :
神は、神を愛する人たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、 万事を益となるようにして下さることを、
わたしたちは知っています。
神はあらかじめ知っておられる者たちを、さらに神の御子のかたちに似たものとしようとして、
あらかじめ定めて下さいました。それは、神の御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであったのです。
そして、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召され人たちをさらに正しい者とし、 正しい者と認められた人たちには、
さらに栄光を与えて下さいました。

100read 1read
1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
・ 次のスレ
25: いま音楽何聴いてる? Part45 (860)
26: 疲れた・・・もう死にたい32 (462)
27: 死後の世界について真剣に考えてみる 7転生目 (107)
28: 【寝たきり】廃人Part.22【うつ病】 (671)