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2012年1月2期ゴーマニズム30: アドルフ・ヒトラー、三島由紀夫とニーチェ保守主義 (190) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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31: 強制連行や従軍慰安婦は歴史の事実であるんだな (127)
32: 【ユダヤ関連】小林氏はユダヤ問題に言及せよ! (908)
33: オウム事件は、現代版「大塩平八郎の乱」 (119)
34: 小林よしのりは低学歴でしょ? (208)

アドルフ・ヒトラー、三島由紀夫とニーチェ保守主義


1 :11/07/20 〜 最終レス :12/01/19
ニーチェ保守主義とは、いうなれば民族主義とニヒリズムによって
永劫回帰=永続維新を実現するという保守思想の考えである。

2 :
国家が有機物であるという基本的な志向としてはバーク保守主義と
共通するが、ニーチェ保守主義の違う所は永劫回帰によって日本列島
の内だけに留まらない事である。
すなわち拡大型の保守主義=ナチズムであり、民族主義である。
また我々は日本という枠組みに決して縛られる事はない。
その根源にある民族に回帰する事で新しい枠組みを経るのである。
ただし、三島由紀夫の考えはこうした中川氏的な思考に近いものだ。
日本人は日本人であるという姿勢を断固として続けて守ろうとする人である。
だが三島の抱えていた思想と言うのは明らかにニーチェ的な哲学=仏教や
陽明学から来るのであり、それゆえにバーク的保守主義でありながらも
ニヒリズムを備えた非保守主義的な要素が見られるのである。
それが彼の夢見た「次世代維新」であった。
中川八洋(筑波大学名誉教授)
http://homepage3.nifty.com/yukoku/
http://homepage3.nifty.com/yukoku/yukoku.html
>国家の生命源が宿る、祖先からの伝統と慣習の、その保守と堅持なく
>して、自由はもちろんのこと、倫理道徳は棲息しえず、倫理道徳なく
>して精強な軍隊も国家護持の精神も培いえず、ここに、沖縄から樺太
>・国後・択捉に至る日本列島に苔むす、二千年に及ぶ祖先の墓石が発
>する声を指針として、子孫への義務でもある、祖国日本の魂をさらに
>研ぎ澄まされた命満ちるものにすべく、真正の日本国民の一部にすぎ
>ない我々もまた、“剣を抜く知の集団”―「真正保守の会」―を設立
>し、その微力を国家と子孫に捧げることにしたい。そして、「真正保
>守の会」は切磋琢磨、その精神と知を不断に向上させるべく、『保守
>主義』を発行し、祖国安寧の智を結集することにしたい。

3 :
そして、かのアドルフ・ヒトラー総統は反対的にゲルマンのルーツである
アーリア民族という思想を活用することで従来のいわゆる保守主義とは
違う全く新しい革新的保守主義を展開したのである。
これにより当時のドイツ人は従来のゲルマンの殻を破り本来あるべき
ゲルマンのアーリア的な姿を見出そうとしたのである。
つまり革新の保守主義である。

4 :
■■■三島由紀夫の檄文■■■
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1294972132/

5 :
俺様はニーチェ進歩主義ですよねー!?♪。

6 :
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

7 :
僕はニーチェ発展主義ですよねー!?♪。

8 :
Up

9 :
私はニーチェ救済主義ですよねー!?♪。

10 :
もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、を置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

11 :
ノルウェーの事件が凄い事になったな。
ヨーロッパ始まったかもしれない。

12 :
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老いぼれ政治家や
老いぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」

13 :
ニーチェを超越して見せる!?♪。

14 :
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。

クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。
ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

15 :
私はニーチェ進化主義者ですよねー!?♪。

16 :
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。


ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

17 :
大月本帝国の者ですが。
大日本帝国を倒すため伺いました。

18 :
帰ってくれ。

19 :
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?

ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

20 :
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

21 :
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

22 :
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとほるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

23 :
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。


シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう、さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

24 :
私はニーチェ創造主義者ですよねー!?♪。

25 :
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い
岩漿(マグマ)が煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、
世界を動かし、戦士たちに勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで
若者の心を充たし、すべて雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

26 :
  記
1.日時:  8月24日(水)18:30〜20:30(受付開始は18:00)
2.会場:  中野サンプラザ8F研修室 六番研修室
       (JR中野駅北口徒歩1分)
3.テ−マ: 三島由紀夫と「わが友ヒトラ−」
4.講師:  後藤修一氏 (当会会員、ドイツ現代史研究家)
5.内容:  後藤修一氏はドイツ現代史とくにナチス・ドイツの研究家として著名であり、氏が高校生であった昭和44年に初演された三島由紀夫の戯曲「わが友ヒトラ−」の
時代考証に携わって以来、今年公演された蜷川幸雄演出版にいたるまでずっと本戯曲とかかわってこられました。
生前の三島由紀夫氏との交流からこの戯曲とのかかわり、そして本作品の時代背景である1930年代のナチスによる権力掌握期など後藤氏の専門知識を駆使して縦横に語って頂くものです。
必ずや興味あるお話が伺えるものと期待されます。また参加者からの質問、意見等歓迎。
6.会場分担金: お一人千円
7.その他: 尚、例会終了後懇親会を予定しております。(会費お一人三千円程度)

27 :
いまの中国(共産党及び国民党)や朝鮮の軍隊をみてあれは
アメリカ式やロシア式の軍隊だとおもうが、それらは結局
日本がちょうど昭和に習おうとした当時最先端のヨーロッパ式軍隊の流れを組むわけです。
昭和維新が叶わず日本だけが軍事再編に失敗したという歴史事実があり
陸軍の軍事再編論者たちは二次大戦にドイツに学ぼうと言う
226の意志を継ぐべくナチスに賛同した訳でした。
問題は近衛がどう考えて居たのかという点で
かれがやれナチスシンパだ、やれマルキストだのと言われてきましたが
ようするに陸軍に圧されたか、あるいは自分に責任が来るのを怖れたかなにかで
陸軍と関東軍の軍指導者に政権が渡っていった訳です。
しかし皮肉なのは226が成功していたらあの様な戦争には突っ込まなかったということだ。
要するに226を防いでしまったことで、内部でフラストレーションがたまり
それが良からぬタイミングで面に出た。
そして、そうした思想というか歴史のいきさつ、統括を
三島由紀夫の存在事態が証明しているわけです。
しかし昭和天皇の玉音放送がそうであったようにあのまま
戦争を続ければ日本はおろか世界文明が戦争により破壊され
天皇の終戦の御聖断はまさに

28 :
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。


ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

29 :
私は民主主義と暗はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが
数が多いだけ、始末が悪い。暗のほうは少ないから、シーザーの昔から、されたのは一人で、六十万人が
一人に暗されたなんて話は聞いたことがない。これは虐であります。
(中略)
たとえば暗が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、される心配がなかったら、いくらでも
嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、(中略)真面目な話をするのです。
人間というものは刀を突きつけられると、よし、おれは死んでもいってやるのだ、「板垣死すとも自由は死せず」
という文句が残る。しかし口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに
遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

30 :
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを
抹するか、あるいは自分が抹されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に
高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論は
すぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
(中略)日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を
賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の
力が感じられない。何でも自分一人じゃ弱いと思うから、何万人でデモをやらなければならない。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

31 :
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを
実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除という
ような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち
殴りされたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。
一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の
日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

32 :
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。例えば戦争をしておっても、誰も
妥協を考えてやるのではないのです。勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、
八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。初めから五を考えると、二しかとれません。そして
妥協ということは大人の知恵で、全然妥協しない戦いというものはないわけですが、ものの考え方というものは
私は順序があると思う。


民主主義は妥協が原則だといいますが、相対的な理論の闘争の中で、自分がそれをある程度本当に信じて
邁進する人間がいなければ、いまの自民党と社会党みたいなことになっちゃう。そして国会解散期には、あっちに
流れたり、こっちに流れたりという状態になっちゃう。それが一番妥協の醜い形だと私は思います。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

33 :
>>2
中川八洋はぜんぜん違うだろ
自著の」「日本を害する思想家」にニーチェいれてるくらいだぞw

34 :
>>33
中川はニーチェ嫌いだが考えはなぜかニーチェ的だよw
昔好きだったんじゃないの?

35 :
そうかねえ、保守主義というかほとんど自由主義にしかみえんな
屋山太郎みたいなもんで

36 :
ところで私は、暗者が必ずあとですぐに自するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の道だと思っている。
本当はこれをやらなきゃいけない。(中略)
私は人間というものは全部平等だと思う。(中略)
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を許すか、許さないか、
ギリギリ決着のところだ。それが暗という形をとったのは不幸なことではあるけれども、その政治原理の中に
そういうものが自ずから含まれている。もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の
意味がありますか。諸君が投ずる一票が一ト粒の砂粒だったら、何になりますか。あれは諸君がたとい無名で
あっても、あるいは社会的な地位がなくても、その一票があなたの全身的な政治的行為であって、その集積が
民主主義をなしている。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

37 :
(政治家も、)一投票者も、政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、
民主主義は成立しない。だから暗というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗はつきものだと
私がいったのは、そこなのです。
ところが、共産主義ないし全体主義というものはそういうことをやらん。彼らは権力を握って、邪魔なやつを
粛清すればいい。全体主義は人を粛清するのに、そんな暗のような自分の危ないことはやりません。ニュースを
隠して、秘密警察で守り、その中で一番憎いやつをそっとす。犯人もわからなければ、何もわからない。


民主主義というのは非常にペシミスティックな政治思想です。(中略)
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、いつまでたっても
無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものをやろうというのが民主主義なんだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より

38 :
アメリカの民主主義はフロンティアなんかの自警団的なものが基盤にある、(中略)どんな政治体制でも歴史的な
基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では日本の天皇制もまったく同じだと思います。
ですから民主主義が悪いとか、天皇制がいいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に
立った政治体制ができていくということは当然だと思います。


国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)資本主義国家も
国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の国家の時代という点では、国家の管理機能は
むしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、
そんなことは先のことである。我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんと
いうように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する
防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

39 :
ニーチェとデカルトとサルトルをリリースして神のカードを通常召喚するよねー!?♪。

40 :
アメリカの民主主義ってのは要するに大国ならではだよ。
つまり競争というか、いうなれば体のデカいマッチョな人間の
体内でひしめき合う筋肉繊維の引っ張り合い。
だから力がでるわけ。
じゃあ日本はどうかといえばひょろひょろのモヤシですな。
いい政治をやりたければ領土=筋肉が必要。
そういう事をやり続けて行かないと強い国にはなれないんですな。
かつてドイツがやろうとしたことはバラバラなヨーロッパを一つにまとめることで大国になろうとした。
そういう野心とかあって初めて強い国になれるんだけどまあ今の日本ってのはほんとにモヤシっこだね。

41 :
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そして
この階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、
日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、
ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、
クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブを
ステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。
(中略)そうすると自分の息子に来るお嫁さんが違ってくるのです。(中略)アメリカにはステイタス・シンボル
というものが非常にたくさんあります。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

42 :
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。(中略)一つの社会風俗的
現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金で
キャデラックに乗っている、それがブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けばそれがブルジョアなのか。
そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に別荘を持っている。(中略)私は階級差というものの
甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
そして富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を使ったってできるのだ。
(中略)権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、我々はむしろ
権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

43 :
人間の考えは――全部の人間が同じ考えをするということができれば、本来民主主義なんていうものはこの地上に
成立する余地はないのです。そんなものは要らない。したがって戦争も要らないわけだ。ところがどうしても
人間というものは全部同じ考えを持ち得ない。しかも言語を共有しながら同じ言葉を持ち得ないというところで、
バベルの塔のような神話があるわけだ。これは人間観の根本的な問題です。


大体ソヴィエトへ行った人の話を聞きますと、非常にアメリカ人とよく似ているそうです。アメリカ人は別の方法で
あんなコンフォーミティな人間ができちゃった。誰に聞いても、同じような冷凍食品を食べていますから頭の中は
同じになっちゃう。しかし実に親切で、自分の身の周りのことについては気持よく話してくれる。ただ、国家・
社会の問題になると何もわからないという人間達ですね。それは確かにソヴィエトでもできつつあるでしょう。
けれども、人類全部がそうなることが人類の幸福であるかどうかというと問題はまた残りますし、本人が幸福なら
いいじゃないかということになりますと、これは人間観の相違としか思う他にない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

44 :
三島さんのいってることはあれだね、ユダヤ陰謀論でいう「人間牧場計画」のことだ。
あるいはヒトラーの予言した「未来は神とロボットの世界」になるという話だ。
そもそもソビエトと言うのはアメリカ思想のマルクス主義版でアメリカの革新コピー。
どっちも同じ思想から来てるわけだ。

45 :
神は死んだ邪神が誕生するよねー!?♪。

46 :
>>44
なるほどね。そういえば三島は、「日本のビジネスマンがみんなユダヤ人みたいになっちゃう」とかもどっかで言ってましたね。

47 :
行動には必ずリアクションがある。そのリアクションはどこからくるかというと、自分の敵からくるわけですね。
敵がなければかなわん。(中略)
大体韓国の人達はいろいろな面で反共精神が強いのだけれども、これは実際に自分の親族がされ、あるいは
自分の親兄弟が共産主義者から酷い目に遇ったりしている。(中略)
インドネシアでは役人の中にも共産党が入っていましたから、こいつらがみんな私腹を肥やしたり、宗教を
弾圧したりして農民に嫌われちゃった。農民も何年か我慢して、いまにあの野郎どもと思っていたから、いざ
共産クーデターを起そうとしたらば、逆に鋤、鍬でされちゃったわけだ。この恨みというのはすごいですね。
しかし、私は別に何ら危害を受けたわけではない。ただ敵として私が選んだ。これは私独特のものですね。私は
自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。そこで私は何ら矛盾を感じてないわけです。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

48 :
(日本では)惨状に対する異常なヒューマニスティックな同情から革命衝動が起るということは現在ではほとんどない。
(中略)被圧迫者が傍にいるという状況は、インドでホテルの二階で食事をとっていますと、窓から街路には
飢えた乞食がいっぱい見える。かわいそうな佝瘻(くる)病の少年が痩せこけた自分の弟を腕に抱いて、
もう一方の手を伸ばしています。それを見るとこっちは御飯が食べられなくなっちゃうですね。そういう国でこそ
共産革命ないし革命の情熱が涌き起るかというと、インドの共産主義者ってみんな金持ちなんです。なぜかというと、
共産主義の文献を読むにはお金がなければならない。金をかけて大学を出なければ……。みんなオックスフォード、
ケンブリッジへ行くのです。そういう上流階級が主に共産主義者の中心になって、しかも共産主義の知事のいる県は
他の県に米を移出しない。ですからその県に、米があっても、隣の県の飢え死にを放棄する。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

49 :
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に同情する人がなく
なっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン動物愛護協会というものなんです。
これは生活の余裕がなければできないことで、オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方は
わかりますが、犬を可愛がって、犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうに
なっちゃうものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中からどうやって
社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
ちょっと問題が大きくなりましたが、その中で自我というものは大きくなればなるほど本来今言ったようなものが
溢れているはずなんですが、その溢れる対象に使われない場合には、何かでそれが捩じ曲げられてぶつかって
いくことになるわけですな。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

50 :
天皇と国民を現代的感覚で結びつけようということは小泉信三がやろうとして間違っちゃったことだと思うのですよ。
小泉信三は結局天皇制を民主化しようとしてやり過ぎて週刊誌的天皇制にしちゃったわけですよ。そして結局
国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのは、ディグニティをなくすることによって
国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった。それでアメリカから
変な女を呼んできて皇太子教育させたり、そういうふうな形でやってきたわけです。ですからその考えはまだ
宮内官僚に随分残っているから、当然天皇制というものがそういう形でうまく国民と結ばれるということについては、
私は悲観的ですね。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より

51 :
>>46
それ凄いわかります。
戦後日本人のステレオタイプというか、みんなスーツにメガネに
七三分けの日本人像が出来たのが凄く疑問でした。
戦争に勝った、あるいは戦争しなかったら絶対そうはならなかっただろうって。
あれ変ですよほんとに。

52 :
>>1さん
ヒトラーの凄さはヒトラーが日本刀携帯してる姿を想像するとよくわかります。
そういう軍事的なカリスマって日本じゃ多分居なかったと思うんですよ。
まあヒトラーばりの屈強な帝国軍人は居たとおもいますが、
日本人ってのは良くも悪くも村社会なためかリーダーが出てこれなかったように思えます。
これからの時代はそういう存在が必要ですよ。
内閣総理の上に立ち、天皇につかえるサムライが。
かつての将軍家のような存在がね。

53 :
邪神の攻撃で神は死んだ!?♪。

54 :
>>51
見た目もそうですが、精神的にも、日本の基盤を失った根なし草になって、例えば平気で韓国サムスンに身を売るような人達や、
グローバルとか聞こえのいいことを言いながら、私財を増やすためには手段も場所も選ばない市場経済主義商人に
日本人も飲み込まれて、大和魂がなくなってしまうことを、「みんなユダヤ人になっちゃう」と三島由紀夫は予見したのでしょうね。

55 :
人間は未来ということを考えると、必ず現在というものを犠牲にするか手段化するという不思議な動物だと私は
思います。未来社会がもし理想的な社会になる。その社会のために現在我々が動いているとすれば、我々は
その社会への橋であり、プロセスであり、道具なんですね。(中略)これがあらゆる未来というものに関する
思想の――私は左とか右とかいうのじゃない、未来というものを想定した思想にからむ一つの危険だと思います。
(中略)
私はいわゆる革命家、社会運動家、改良主義者、こんな人達と話します時に自分との一番の違いだと思いますものは、
私は「未来がない」という考えなんです。(中略)もちろん我々は一週間や十日のところは大体未来ということを
考えて暮しておりますが、それはもうすでに現在に繰り込まれた実務的な時間の問題で、私がいっているのは
そういうことではないことはおわかりだと思います。つまり自分の行動のモラルの根拠として、未来を置くのか、
あるいは現在ないし過去を置くのか、ここで人間の行動の様式とモラルが完全に変ってきちゃうのです。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より

56 :
世間では進歩的、未来に向って、明るい未来に向って、人類の将来に向って、お手々をつないでというのが
大好きですな。(中略)ですが私はそういうミーハー受けのするスローガンにはいつも疑いの目を向ける。なぜ
私が未来がないかと申しますと、未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、
連綿たる過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、その一番ラストに
自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は日本というものの一番の精髄をになってここにいま
立って、そこで自分は終るのだ。そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な
誇りは持てないと思います。(中略)
文化というものはずっとうしろからつながってきて自分のところで途切れちゃう。そうするとこれから未来へ
つなぐには誰がやるだろうか。それは私より若い人がいるのだし、また自分がおしまいだと思っている若い人が
次々と出てくるからこそ、いつも文化というものはそうやってつながっていくのだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より

57 :
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
自分がどうやって死ぬかということは大体五十、六十になってくると先が見えてきちゃう。それを未来を所有する
というのです。青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
(中略)青年が未来に対して野心を燃やし、幻影を持つのは当然のことであります。ただその場合に、最後に
自分というものが未来のためだけにいま生きて怠けているのではないのだ。明日死んでも十分な生き方をしなきゃ
ならんということが青年らしい考え方だとむしろ思うのです。「葉隠」なんかでも、日々死を心に当てて生きろと
いうことをいっておりますが、朝起きた時に今日死ぬかもしれないという気持だったらば、どれだけ人間は
全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない。そういう表現の中にしか人間の生死観も、文化というものの力も
自分を護る決意もないのじゃないか、こんなふうなのが私の未来観であります。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より

58 :
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。(中略)もし美しき社会主義を夢見れば
醜き社会主義にやられてしまうんだ。


私が共産主義を嫌いなのは美名をもって人間をたぶらかすからです。そして私は偽善というものが嫌いなんです。
共産主義は自由な未来に向って人間を唆す毒薬だと思います。


第二次大戦後に(アジアで)民族自決主義がリしたのはあくまでも大東亜戦争の直接の影響だと思います。
それによってアジアの諸民族が自信を持って民族独立の道を歩き出したのだと私は信じて疑いません。


文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。あらゆる哲学者が文化論、芸術論になると
失敗するのです。


十九世紀の主権国家の理論で私は日本の国家を規定して、その国家を守れといっているのじゃないのです。国家は
さまざまなんです。国家は我々なんです。


私は未来がないのだ。しかし私の背後には長い長い文化伝統があって私で終るのだから、おれの身には指一本
触れさせないぞという覚悟で戦うのです。そして私は勝たなきゃならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より

59 :
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。
それはもっとつきつめれば焼身自だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自した少年と同じだ。これは
ことばにかけると同じ重さを、からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
嘘なんだけども効果はある。
アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これはたいへん象徴行為になって効果が
あるんだけれども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくなっている。そして、
全学連は最終的に意味があるかのごときところで満足しているということが表現者として気に入らないんだ。
これは正義運動としての自己冒涜だよ。正義運動を正義運動たらしめる根底的なものは、最終的に自己破壊しかない。
それができないということは、もう一つの表現のところに頼っているんだ。

三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より

60 :
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を刻むべきだよ。彼ら
(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。もっとも、それを彼らに要求するのは無理かも
しれない。というのは、教育が彼らにことばというものの最終的な意味と重さを教えなかったから。そして
それは日本の文士、へっぽこ小説家どもの責任でもある。だから、彼らはことばの軽さに慣れて、テレビ的行為を
すばらしい政治行為だと思っちゃうんだよ。


(全学連は)ファクトを信じない時代の子で、自分らのやることはファクトだと思っていない。
一定の仕組まれた政治的プログラムのなかの一つのパブリシティだと思っている。パブリシティとファクトとを
厳密に分けなければわれわれの言語信仰は崩れるわけで、そこが気に入らない。全学連は、どこにファクトがあって、
どこがパブリシティなのかぜんぜんわからないでしょう、これはある意味ではいちばん気味が悪いよ。

三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より

61 :
去年、福田赳夫さんに「自民党は安保と刺しちがえてくださいよ」といったんだけど、これは自民党の歴史的
役割りだと思うんだ。戦後の国際協調主義みたいなものの最終的なもので、これを自民党がやってくれなければ
その後の日本は開けない。


中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、女の足を纏足
(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。これは伝統的なものだと思うんだ。
中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の
人間主義というのは非常に人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。中国文学の専門家には悪いけど、
これは中国人の伝統的な趣味だと思うんだ。


変革といった瞬間にすぐ偽善に陥る、モラルといった瞬間にすぐ偽善が押し寄せてくる、それはほんとに怖いねえ。
全共闘諸君は若いかもしれないけど、若いなりにそういったものが垢として身についているかもしれない、
怖いねえ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より

62 :
全共闘の場合はどちらかというと、敗戦ショックから生まれた革新主義、事大主義かなと。
日本は世界大戦における劇的な敗戦、あるいは壮絶な亡国寸前の敗戦というのをやったから
これが実は重大な「事変」となっている。
だから自由主義者とか共産主義者がイナゴのように湧いて出てくるのはむしろ自然だと思う。
三島が死ぬまでの戦後の30年という時代は、特に日本が大きく変わり、豊かさと貧しさが
反転した時代でもあったし、ルンペンが増えた。
精神的な思想や国家観、教育なんかも戦後で大きく変わった。
そして三島の死後、バブル経済が来る事でさらに日本の「自由化」が進んだ。

63 :
それと中国と西洋の類似はいくつか考えられる。
1 大陸国家であり、国土における面積の広さもヨーロッパとほぼ同じ
2 歴史が古く、文明の発信地である
3 中国語が文法的、発音的に西洋語に近いため
4 中国文明自体がヨーロッパと同じくオリエントに起因するから
5 中国は紀元前の古代から西洋と交流し貿易してきたため
6 多民族的な環境で国民が生きてきたため
7 人口が古来より多く、その競争の中でそうした価値観が育まれた
まあ個人主義は多民族的な環境によって育まれますから
中国の歴史、王朝の歴史が案外ヨーロッパみたいなのでしょうね。

64 :
神は死んだけど未来は終わらない!?♪。

65 :
>>63
中国語と英語は、主語のあとにすぐ動詞がくるから似てますね。比較的どっちも乾いた言語っていう感じも似てます。
きっと自我の思考回路が似てるんでしょう。
日本語の微妙さ、あいまいさ、情緒的な言語とは、ちょっと遠い気がします。

66 :
http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha400.html

■■三島由紀夫がヒトラーについて語った言葉
「ところでヒトラーね。彼がやったことは世界中の人が知ってる。だけど、彼がほんとは何者だったのか誰も
知っちゃいない。ナチの独裁者、第二次世界大戦の最大戦犯、アウシュヴィッツの虐者、悪魔……。これが
いままでのヒトラー観だけど、ほんとはそれどころじゃない。
彼のほんとの恐ろしさは別のところにある。
それは彼が、ある途方もない秘密を知っていたってことだ。人類が結局どうなるかっていう秘密だ。彼は未来を
見通す目を持っていて、それを通じて、その途方もない未来の秘密に到達しちゃった。」

67 :
「だから五島君。もしきみが10年後でも20年後でも、ヒトラーのことをやる機会があったら、そこんところを
よく掘り下げてみることだ。もしきみにいくらかでも追求能力があれば、とんでもないことが見つかるぜ。
ほんとの人類の未来が見つかる。やつの見通していた世界の未来、地球と宇宙の未来、愛や死や生命の未来、
生活や産業の未来、日本と日本の周辺の未来……。
なにしろ『我が闘争』の中にさえ、やつは未来の日本や東アジアのことを、ずばり見通して書いてるくらいだから。
まだ30代かそこらで、やつはそれは鋭い洞察力を持っていたことになる。」

68 :
神は死んだけど現実は終わらない!?♪。

69 :
ニイチェの「ツァラトゥストラ」の中には日本のことをかいてゐるやうな気のするところもありますね。
そして超人の思想の根本なぞどうも私にはインド、又ひろく東洋全体の思想への接近より、ニイチェが自ら
意識するせぬに不拘(かかはらず)、日本への大きな意味があるやうに思はれてなりません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年2月15日、東文彦への書簡より

70 :
いやなことゝ申せば今度も空襲がまゐりさうですね。かうして書いてをります夜も折からの警戒警報のメガホンの
声がかまびすしい。一体どうなりますことやら。しかしアメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものに
まけてたまるかと思ひます。
――ニイチェが反理想主義であること、流石に確かな御眼と感服いたします。
ニイチェの強さが私には永遠の憧れであつても遂に私には耐へ得ない重荷の気がします。おそらくけふは
一人一人の日本人が皆ニイチェにならねばならぬ時かもしれません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月4日、東文彦への書簡より

71 :
ニイチェについて、お陰さまでいろいろ新しいことを知りました。実はツァラトゥストラの登張竹風の跋文の外、
私にはニイチェに関する智識がございませんでした。ツァラトゥストラのあの超人の寂寥あれを私は平安朝の
女流たちにも感ずるのです。「古今の季節」といふエッセイのなかでその荒涼を語つたことがありますが、
ニイチェがあれら女人の深い寂寥にふれてゐたらどう思つたことでせう。ニイチェの愛した東方ではなく、
むしろニイチェ自身の苦しい影をみはしなかつたかとさへ思ひます。
「世々に残さん」をかく用意に「平家物語」を何遍も繰つてゐますが、川路柳虹氏も名文だとほめてゐられる
あの文章、又あのむしろ宇宙的な末尾の哀切さ、あれを一篇の小説としてみてみると、大原の大団円は、私には
ラディゲのドルヂェル伯の大団円などよりこのごろではずつと身近に感じられます。無常といふ思想は印度から
来たものでもそれを文学の極致にまで詩の極致にまで高めたのは日本人の営為ですね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より

72 :
文学の上では日本は今こそ世界唯一であり、また当然世界第一でありませう。
ムッソリーニにはヒットラアより百倍も好意をもつてゐますので、一しほの哀感をおぼえました。ムッソリーニも亦、
ニイチェのやうに、愚人の海に傷ついた人でありませう。英雄の悲劇の典型ともいふべきものがみられるやうに
おもひました。かつて世界の悲劇であつたのはフランスでしたが、今度はイタリーになりました。
スカラ座もこはれたやうですね。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでありませう。
俗な精神が世界を蔽(おお)うた時、それは世界の滅亡です。
萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当りでにくみ、きらひ、さげすみ、蹴とばした
気持がわかります。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年8月20日、東文彦への書簡より

73 :
僕はニーチェ霊界主義ですよねー!?♪。

74 :
ヒトラーを論じるときのポイントを二つ示したい。
1. 演説の名手:ヒトラーは事前によく練習した。いきなり本番ではない。彼の演説を
聞いたドイツ共産党員によると、はじめ言葉を拾うようにぽつぽつと話す。そのうち火
を吹くような演説となる。
自分はナチスに反対であったが、自分もナチス党員であったらよかったと思うほどの
迫力と感動があったという。ヒトラーの演説はドイツの青少年に聞かせることは戦後
長く禁止されてきた。
2. 大衆社会:ナチスの台頭は、米国発の大不況で700万人が失業し、ドイツが議会
制民主主義では解決できない状態になったからである。それを見事に回復した。
だから今、日本の学者がナチスの経済政策の研究をしている。
駿河山人
http://pub.ne.jp/surugasankei/

75 :
>>73
!ninja失敗してんじゃねーぞバーカww

76 :
僕はニーチェ制作主義ですよねー!?♪。

77 :
○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

78 :
鳩山由紀夫に頼むよねー!?♪。

79 :
ニーチェよりも江戸時代の戯曲家鶴屋南北の方が、より早期に
武家社会におけるニヒリズムを的確に描いていると思う

80 :
だんだんに私は文学を引き寄せるやうにしてゆきたいと思ふ。己れより乗り憑つて乗り憑りつつ清められると
云つたあり方に心ひかれる。さういふ場合の放胆さについてはもう口でいはぬはうがよいと思ふ。それは一種の
ニイチェ風な陥没であらうもしれぬが私は日本人にふさはしい手振だけをまなんでゆくほかはない。そして、
戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくること、それらを
私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「跋に代へて(『花ざかりの森』)」より

81 :
多元宇宙実在理論は正しいですよねー。

82 :
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。
三島由紀夫
ヘンリー・スコット=ストークス宅の食事会での発言より

83 :
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ! 貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

84 :
(中略)
明治以来、「華族」とは政治的特権を背景にもつた政治的な名称であり、文化的意義は頗る稀薄にしかもつて
をりません。新華族が簇生(そうせい)した所以です。――貴族主義とはプロレタリア文化に対抗すると同じ
強さを以てブルジョア文化(アメリカニズム)に対抗するといふことを知つていたゞきたい。この意味で
政治的意味の貴族主義は無意味です。なぜなら世界史の趨勢はアリストクラシイの再来を絶対に希みえず、
現今までわづかに残された政治的特権も過去の特権の余映にすぎぬといふ理由が第一、もう一つは、ブルジョア文化が
今では貴族社会一般を風靡し、単に華族を集めてみても貴族主義は達成されぬといふ理由が第二です。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

85 :
――それでは文化的貴族主義とは何でせうか。それは歴史的意味と精神的意味と二つをもつてゐます。
…後者はあらゆる時代に超然とし、凡俗の政治に関らず、醇乎たる美を守るといふエリートの意識です。
(これは芸術からいふので、倫理的には道徳を守るエリートたりともある人はいふでせう)
…しかもその効果は美的標準に於て最高のものであらねばならぬ点で明らかに貴族主義的です。向上の意識、
「上部構造」の意識、フリードリヒ・ニイチェが貴族主義とよばれる所以です。
第二に、唯美主義は本質的に反時代性をもつといふ点で貴族的です。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日付、神崎陽への書簡より

86 :
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに達したとしても、
絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが絶対的なものを規制しようとする時、
それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を
傷つけることは、当然のことで仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに貴族主義的です。
――「中庸」といふ志那クラシックのいかにも睡つたやうなこの言葉がやうやう僕には激しい激越な意味を以て
思ひかへされて来ました。中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

87 :
「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
漢籍に長ずるときく山梨院長が、戦時中の輔仁会で翻訳劇を上演しようとした僕の意図を抹し、戦争終るや
「モンテ・カルロの乾盃」を手もなく容認するやうな態度を、人々はいはゆる「中庸」の道だと思つてゐます。
これは思はざるの甚だしきものです。これこそいはゆる論語よみの論語知らずです。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が中庸といふ言葉で
あらはしたものと全く反対の思想です。
中庸といふこと、守るといふこと、これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。
このやうな時代に、美を守ることの勇気、過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、
これこそ真の男らしい勇気といはねばなりません。
学習院は反動的といふ攻撃の矢面に立ち、真の美、真の文化を叫びつゞけねばなりません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

88 :
(中略)
君は大東亜戦争を何と考へてゐられますか。
僕らはあの戦争の中で育ち、その意味であの戦争を僕らは生涯(いや子孫代々)否定することはできません。
あの戦争が間違ひだつたのどうのといふことでなしに、人間の成長と形成の「過程」として否定したくもできない
一個の内面的事実なのです。我々が以て恥とすべきは戦争に協力したとか、戦争目的に盲目であつたとか、
為政者にだまされたといふことよりも、あの戦争から「我々が何も得て来なかつた」といふことではないでせうか。
何らわれらにプラスするものを得てこなかつたといふ痛切な恥ではないでせうか。この点は僕も省みて面を
赤くせぬわけにはゆきません。
しかし今日の輔仁会、といふよりはその背後にある昨今の学習院学生の気風にこれに対する反省がみられるでせうか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

89 :
独乙(ドイツ)敗るゝ時、忌はしくも紙上に見える無条件降伏の文字、西欧的表現の行詰りを見る思ひがいたしました。
大御戦はもとより本朝のおほみわざ、戦争と文化の問題についても日本独自の解決があるべきと存じます。
ヒトラア死して逸早い、ハムブルヒ無防備都市宣言の如き、醜態の極でありました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年5月5日、中河与一への書簡より

90 :
終戦ー謝罪外交ー村山談話の永遠回帰のほうがニーチェ保守だから。
「戦争という不快を避ける欲望」を、前提として考えればよくわかる。
こうなると、平和主義に「生命」を賭けるっていう、ほとんど
三島主義と変わらない献身的暴動が起こる。(平和のためなら尖閣も
日本も占領されたっていい)
これこそが
現代版ニーチェ保守主義だから

特攻隊だって、平和のために「献身」したんだっつの。

91 :
ヒトラーがドイツ国民をアーリア民族の優生性で、操作したのと、
ニッポンの左とメディアが日本国民を村山談話の優等性で操作してるのと、
何が違うんだ?国民の平和安定のためにという前提の欲望は変わらないのに。
手段としての優等性が正しいなら何故、中国ではノーベル平和賞が取れない?
民族の優生性、国家の優等生の考え方に差異があるからだ。平和主義者自由主義者は
国によっては国家犯罪者であり潜在的ヒトラーだからだ。
より具体的に中国はチベットのダライラマを確実にそういう目線で見ている。
簡単に言うと平和的非戦的な手段をとっても、ヒトラーにされるのが
世界の現実だ。
そういう意味で特別日本はまた、ヒトラー性をもった方向に向かってるんじゃないか?
村山談話がヒトラー性と関係ないと考えるのは違う。

92 :
>>90
それはどちらかと言うとニーチェ革新主義だな。
三島は保守主義なんだよ。
不死鳥の如く不屈に戦おうって言う。

93 :
>>91
まったく違うよ。
ニーチェのニヒリズムはいうなれば不屈なる維新主義なんだよ。

94 :
独逸(ドイツ)の悲劇はあくまで西洋古代の悲劇と相以て、運命と人との闘争の終局でありましたが、今や
我が国にはこれに類似の悲愴趣味運命観が流行してをりますことは、大いに警戒の要ありと存じます。新運命観は、
運命への抵抗乃至(ないし)闘争でもなく、運命への盲従乃至信仰でもなく、運命を汎(ひろ)く輪廻と解して、
これに対する濃まやかな愛情と親密な交遊の裡に、自己と輪廻との合歓、慇懃の甘美を極めた境地にまで、
相共に融合することであると考へます。単なる否定でも肯定でもない、かゝる主観客観を超えた魂の状態を、
貴下は兼てより「愛」と呼ばれましたが、「愛」の教は今日以後一層痛切な意味をもつでありませう。私は
今までの国学の偏狭、コスモポリティズムの軽佻を排して、真の意味の universal につながりたいと思ふやうに
なりました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年6月27日、中河与一への書簡より

95 :
昨晩は末弘厳チャンが来られ、厳チャンを囲んで話を聞く会がありました。厳チャンが嘗てヒトラーと会つた話など
傑作でした。ヒトラーがオリムピックの日本水泳代表の健闘をほめて、「日本人は魚のやうによく泳ぐ」と
お世辞を云つた、すると厳チャンは昂然と、「イヤ他国の代表が人間の如く泳がないだけだ」と云つた由。
正に逸話に残りさうな話です。更に厳チャンが、大戦後の疲弊した社会の少年がいま優秀なドイツ青年になつて
ゐることを称讃すると、ヒトラーは大変よろこんで厳チャンを抱き上げんばかりに喜んださうです。「嘗て
ヒトラーがあんなに感情を露骨にあらはした応待をしたことがない」とあとで厳チャンは侍従に云はれたさうです。
――厳チャンの言によれば、目下憲法卅一条論がさかんで、その具体的法令まで作つてゐる奴があるといふ
処士横議の有様ださうです。その政治的結果については多言を要しますまい。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月27日、平岡梓、倭文重への葉書より

96 :
「憂国忌」代表発起人のおひとり、西尾先生の全集刊行と講演会のお知らせです
  ◎◎
 予約受付開始!! まもなく、西尾幹二全集の刊行が始まります!
 全著作を収めた初の決定版全集!!  西尾幹二全集
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
全22巻(年4冊刊行)
―― ニーチェ研究で衝撃のデビューを果たし、日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた「知の巨人」西尾幹二の集大成。
―― ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、文学評論、教育論、日本の歴史、江戸の学問論、世界史観、さらにはヨーロッパ留学から病気体験を経て、
自己の少年期までを語る自分史を通じ、自由とは何か、人生の価値とは何か、日本の根本問題とは何かを問うてきた思想家の、そのひたむきな軌跡を辿る。
第一回配本 第五巻(平成二十三年十月 刊行予定 六〇九〇円(税込)
『光と断崖──最晩年のニーチェ』 〜発狂直前のニーチェ像を立体化し、未刊行の・西尾のニーチェ・を集成する

97 :
全巻の内容
西尾幹二全集 全二十二巻(予価各巻五千八百円〜八千円 巻数順に年四冊配本予定)
@@@@@@@@@@@@@@@
第 一 巻 ヨーロッパの個人主義 平成二十四年一月刊行予定
第 二 巻 悲劇人の姿勢
第 三 巻 懐疑の精神
第 四 巻 ニーチェ
第 五 巻 光と断崖―最晩年のニーチェ 
第 六 巻 ショーペンハウアーの思想と人間像
第 七 巻 ソ連知識人との対話
第 八 巻 日本の教育 ドイツの教育  
第 九 巻 文学評論
第 十 巻 ヨーロッパとの対決
第 十一 巻 自由の悲劇
第 十二 巻 日本の孤独
第 十三 巻 全体主義の呪い
第 十四 巻 人生の価値について
第 十五 巻 わたしの昭和史
第 十六 巻 歴史を裁く愚かさ
第 十七 巻 沈黙する歴史
第 十八 巻 決定版 国民の歴史
第 十九 巻 日本の根本問題
第 二十 巻 江戸のダイナミズム
第二十一巻 危機に立つ保守
第二十二巻 戦後史観の革新

98 :
内容見本ご希望の方は、下記へお問い合わせ下さい。
株式会社 国書刊行会 03−5970−7421 Fax :03−5970−7427
Email:nakagawara@kokusho.co.jp

99 :
 西尾幹二全集刊行 記念講演会のご案内 ↓
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
 西尾幹二先生の全集刊行が開始されました。これを記念して氏の講演会が開催されます。ふるってご参集下さい。
 入場無料です。
       記
とき  11月19日(土曜) 午後六時開場 六時半開演
ところ 池袋「豊島公会堂」
    http://www.toshima-mirai.jp/center/a_koukai/
演題  西尾幹二「ニーチェと学問」
入場  無料
主催  ?国書刊行会(http://www.kokusho.co.jp

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