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2012年1月2期日本史23: 【忠臣】楠木正成【悪党】 (645) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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27: ここだけ平安時代に時空移動しているスレ 五景 (129)

【忠臣】楠木正成【悪党】


1 :10/09/14 〜 最終レス :12/01/19
何故、多くのスレが潰れたの。
めげずに悪党、忠臣、名将と呼ばれる楠木正成を語りましょう。

2 :
櫻井の別れはフィクションか?

3 :
うん。
正行、そのとき既に成人していて任官しているから。

4 :
なんか明治維新以降に名誉回復されたり持ち上げられたり
異常に高い官位与えられた人物って胡散臭さがつきまとうんだよな

5 :
を使ったのって楠木正成と天草四郎だよね
やはりまともな武士の使う戦法では無いみたい

6 :
幕府もこんな奴に手を焼いてたから、
日和見してた連中に見限られちゃったんだよね。

7 :
>>3
それは皇国史観を否定したいがためにサヨが流したデマ

8 :
櫻井の別れの細かい状況で事実と伝説では相違があっても、
楠木正成の忠の心は、そして正成とまさつらの別れは多分事実

9 :
馬鹿に心酔しちまったせいで哀れな最期を遂げましたwwバロスwwww

10 :
逆臣足利尊氏が九州から攻め上がってきたとき
御醍醐が忠臣楠木正成の進言を採用していれば…。

11 :
正成じゃ全国の武士を抑えきれない

12 :
自分が守護をしている和泉、河内で動員できたのも楠木一族の数百騎だけ•••
ダメだこりゃあ

13 :
>>12
それでも足利に寝返らず、楠木一族だけが忠君を尽くしたのだから偉い

14 :
えらく時代がかってますなあ

15 :
忠君に時代は関係ないぉ

16 :
正行が無能すぎた

17 :
無能は後醍醐と屑公卿どもだろ

18 :
正成から山城と呼ばれるものが武士の間で広まったのだ。
石落の使い方が正々堂々じゃなかったのが、武士に影響し勝ちゃ〜いんだよ!!
ってことになった。    あいつは武士なのか??

19 :
>>13
妹婿の赤松を通じて寝返ろうとして、失敗した説がある

20 :
>>19
誰の説ですか?
取るに足らなそうと、釣られてしまった。(>_<)

21 :
正成がいなかったら建武の中興の偉業は不可能だった。

22 :
んなこと無い。尊氏が後醍醐についたから、全国の武士が雪崩をうって反旗を翻したんだよ。

23 :
正成が挙兵しなかったら尊氏も後醍醐につかなかった

24 :
それを言い出したら何とでも言える

25 :
何とでも言えない

26 :
尊氏ですら正成には一目置いていたらしい。一目と言わず井目おいてもいいかも

27 :
忠臣という意味では正成には絶大な信頼を置いてただろう
新田は寝返りかねんからな

28 :
新田は鎌倉討伐が素晴らしかったから凡将ではないはずだが
それ以降の戦を見るととても名将とは言えない

29 :
新田は日本版、諸葛亮だな
新田義貞 潮を引かせる自然現象を起して大勝利を得る
       以降負け続き
諸葛亮   風を吹かせる自然現象を起して大勝利を得る
       以降負け続き

30 :
>>27
後醍醐は正成のことを全く信頼してなかったぞ。
護良失脚と共に正成は政権中央から締め出され、その後は官位の昇進も褒美もない。
それどころか進言が真面目に取り上げられたことは一度も無い。

31 :
正成は護良と繋がっていたから排除された
という説があるが本当なのかな?

32 :
正成の留守中に護良が捕縛されていること、護良失脚と共に正成も失脚しているという状況証拠からはあり得る。

33 :
二人の連携は建武政権樹立以前に鎌倉幕府軍と戦っている時にできたのかな?
もしそうならお互い命がけで幕府軍と戦った戦友のきずなみたいな感じかな?

34 :
後醍醐天皇の夢オチなんて当然作り話だろうし、悪党が朝廷と直結しているはずもないので
護良が赤松と楠木をスカウトしてきたと考えるのが妥当だと思う。
楠木某(楠木正成では無いと思われる。親かも?)が播磨の荘園で押し込み強盗している
記録もあるので、赤松とか楠木はかなり以前から広範囲で活動していた有名な悪党だった
と思う。
日本版ロビンフッドといったところか。

35 :
怪僧文観の仲介で後醍醐が正成を味方にしたという説があるけど。

36 :
お前ら、皇国史観を否定したいがためにサヨが流したデマに洗脳されている。
後醍醐帝と大楠公は暑い信頼関係で結ばれていた。

37 :
暑苦しい関係は嫌だな

38 :
梅塩論だと、正成は尊氏と争いを起したことで後醍醐天皇を痛烈に批判し、
新田義貞を朝敵として足利尊氏の機嫌をとって和睦するように進言した。
それを却下されて兵庫への出陣を命じられ戦死した。

39 :
なぜか足利側は楠木に同情的だよね
義詮の墓のエピソードとか、とても敵方に対する扱いじゃないし
正儀が北朝帰順していた時期と何か関係あんのかね

40 :
>>39
徳川と真田信繁の関係と同じじゃないの?
懐の深さ見せつけてるんでしょ

41 :
>>38
梅松論なら知ってるけど、梅塩論なんてのもあるのか・・・・

42 :
>>38
尊氏との融和論者である正成を良く尊氏への迎撃に差し向けたなあ。
寝返ったら大変だろうに。

43 :
寝返りするつもりが上手く連絡とれなくて、そのまま殲滅されただけでしょ。

44 :
>>43
うまく連絡取れなくても寝返るのは簡単。

45 :
でも、寝返らなかったのは何故?

46 :
>>45
尊氏に相手にされていなかったから

47 :
>>45
尊氏軍の中に自分の居場所が見つからなかったから

48 :
まるでぶよう

49 :
湊川陣没の後日譚〜現在です。
湊川の戦いで是非もなしと楠木正成公御一党が自尽の砌。
常日頃、正成公がそば近くに捧持し守護神仏として奉拝していた八幡大菩薩(八幡大神)と菊一文字の太刀(お上より下賜の摂刀(=征討将軍の証))を家臣の吉川弥六らに託す。
(不遜ながら湊川神社の伝、楠木公のモノは公ご自身には重要では無い事になります)
自尽の砌、直前まで御一党さま方の御念仏三昧が陣外へ響き渡ったと云われます。
(その際のご本尊は件の八幡さまかと愚考拝察いたします。)
夜陰に乗じて吉川弥六ら一団は重包囲された死地を脱出。苦難の末に淡路島へと逃避し隠棲。
八幡さまと太刀をを小祠に納めて祀る。後に周辺は楠木村と号す。(淡路市楠本。)
暫くして世情が鎮静したころに久留麻(来馬郷)の「旗山」に遷座し八幡宮として西暦1400に創建。爾来610年
明治初期までは社号を『旗山八幡宮』と号していましたが明治の神仏分離、判然令により以降は『松帆神社』と改称。
地元の総氏神。厄除け八幡宮と崇敬されています。
社宝は菊一文字の太刀。(国重要美術品/旧国宝)
本殿右手(上位)境内社に「仁徳天皇社」。「松尾神社」左手に「宇治の皇子社」ほか
昔日には大阪湾が一望の高台。参道には松原が広がっていました。
湊川神社(楠寺)は鬼門方向。
夏至の日の出は石清水八幡宮の方向より。(京都)
真東には大鳥大社。(少し北に大仙陵=仁徳天皇陵を臨む)〜巻向古墳。三輪山。〜伊勢斎宮蹟〜神島・・・(「太陽の道」に御鎮座)
南東には熊野三山権現。

50 :
楠木正成は、不当に貶められているように思う。
もっと太平記を読まないといけないよ。

51 :
ツッコミどころ。
何で正成如きが征討将軍の証を持っていたの?宮方総大将は新田義貞だろ。
吉川某は何で河内に逃げずにわざわざ敵地の淡路に行ったの?
結局その伝承は後世に捏造されたものだろ?
太平記には誇張や創作も多いからキチンとした史料を読まないとな。「南北朝遺文」を読みなさい。

52 :
>>51
キチンとした史料というのは、どういう定義なのですか?
「太平記」がキチンとしていなくて、
「南北朝遺文」がキチンとしているとしたら、
その根拠は、どういうことによるものなのでしょうか?
「太平記」も史料の一つであると思うのですが??

53 :
「南北朝遺文」は畿内・中部・北陸が未刊だし。
大日本史料は未掲載の史料が多いし。
個々の研究論文ならともかく総体的に南北朝を語るのに
「太平記」を無視するのはちょっときつい。
古写本の神田本とかの「太平記」なんかはどうかな?

54 :
太平記は学術論文にも普通に引用されてるが

55 :
太平記は軍記物。しょせん物語。誇張、創作が多いのも事実。
だから、学術論文では史料で裏付けしないと使えない。

56 :
だから裏付けすれば使える

57 :
大楠公を貶めるのは反日ブサヨ。

58 :
古文書だって偽文書が入ってるかもしれんし、
当時の日記や記録類だって間違っているかもしれない。
物語を含むすべての史料を総合的に判断しなければ駄目。
文学や芸術や宗教学や民俗学や考古学等の各分野をも視野にいれなければいけない。
歴史学は奥が深い。「軍記物は使えない」とか言っていては視野が狭すぎる。

59 :
菊一文字の太刀は後鳥羽帝の御宇に打たせた菊一文字の内の一振り。拵えも第一級の本物。(鑑定付きの国重要美術品指定。)
淡路島は海を隔てていて敵兵も居ない(手薄な)意外な死角だったのでしょう。
帆船や伝馬船の昔の船で明石海峡渡るのはかなり困難です
(太古より速吹水門といわれた海の難所。最大海流は十数キロメートルで鳴門海峡の二十数キロに次ぐ速い流速)
重包囲網を突破するのは困難で、河内方面や陸続きの所では直ぐに掃討されかねません。
世情のほとぼりが冷めてから河内に・・・と言うのも有ったかも知れません。
実際、海流の関係で対岸には帆船で無くても渡れるそうです。
地元の昔話に淡路島から賢い犬が切れ端に乗って対岸の堺に渡る話はありますから。
湊川神社はもとより墓地として認識され取り沙汰される遥か以前から社宝、地元の宝としてあり、地名も残っていて大切に伝承されてきた事は間違い事実。
ここからは楠木正成公の故郷、千早赤阪村のある金剛山系から信貴山〜生駒山系。
陣没地の湊川など概ね御生涯の活躍の場が全て望める場所。
(京都が鬼門に当たるのは悪いシャレでしょうか)
因みに、何の因果か二キロ南には、敵方の足利尊氏が九州へ都落ちの際に風待ち(帆待ちで)立ち寄りその寺号に感じ入り験を担ぎ戦勝祈願をした「妙勝寺」(足利幕府祈願寺)があり、その際に奉納した太刀(寺宝)も残ります。
武家屋敷風の建て物と枯山水が有名。

60 :
だから、その文献に書いてあることしか認めないっていう日本の歴史学がダメなんだって

61 :
>>51が正しい
太平記には、後醍醐天皇や楠正成が、鳥獣の化物になって登場したり、
あれは史料というより、講談の台本のようなものだ
三国志演義の類いと受けとめたほうが良い

62 :
「太平記は史学に益なし」とか言ったのは明治の話し。
今では東大教授でも太平記を史料として使っている。

63 :
>>61
太平記をちゃんと読んだ?

64 :
週末は例大祭。秋祭り。
金色の神輿が二基(神功皇后と八幡さま)
だんじりも各地区より数基出場。
昔から八幡宮からは一番遠い決まった地区の布団だんじり(淡路島型)が宮付きで、御輿がお旅所まで巡幸の露払いと先導約(ほかの地区は不可)
屋根には他の地区にはない金の御幣に小さな鳥居と八幡宮の扁額。
地元では御一党の御子孫の流れと謂われる地区。
件の御社宝もご開帳。(警備員付き)
まあ、お暇なら一度お越しになって下さい。
「楠寺と湊川神社の裏鬼門にある奥の院です」
因みに「太陽の道」に有ります。真東は大鳥大社。ヤマトは箸墓古墳と桧原神社や三輪山・・・(誤差は数十メートル)

65 :
こちらの八幡さま。
淡路島の昔話では出雲の神さま会議(出雲詣で)に出発為さるときの島内の八幡様方の集合場所になっています。

66 :
ああ、大楠公、大楠公!
日本人は全員あなたを崇めております。
あなた様が唱えた七生報国の大和魂は今も行き続け、全日本人はいつでも中共に切り込み、命を捧げる準備ができています。

67 :
>>66
そして、全滅するのか・・・

68 :
1回ずたぼろにされまくったので
あと5回くらい死滅寸前まで追いやられて
7回目でやっと思いを遂げるとかそういう企画

69 :
でも、そうはならなかったが

70 :
自分のテリトリーで戦ってた時は強かったよ。
協力者も多かったしね。

71 :
その戦い方では「権力維持の戦い」は出来ない

72 :
楠木正成は、人類史上、最強の武将だね。

73 :
湊川の合戦に出陣するのに動員かけたけど
人が集まらなかったってのがすべてだな。
うまく時勢に乗ったが、見放されるのも早かった。
現代でいうとホリエモンかな。

74 :
ホリエモンとは、まったく正反対の人物だね。

75 :
正成をホリエモンと一緒にするのは可哀想だ。
ホリエモンは、ライブドアの経営は逮捕された側近たちがやっていて
自分は関与してないってで言ってたじゃないか。ただの飾り物だったと。
少なくとも正成は飾りものではなかった。

76 :
正成は猪木だよ。
全日本人の正義のヒーロー。

77 :
孫正義みたいだな

78 :
>>77
なにそれと思ったら正義繋がりか
でも正義でなく正成、名前は似ているか
孫がいたら正義と名付けたかも

79 :
楠木孫太郎正義

80 :
新聞の広告で見て気になってた
創価の機関紙?に載ってる楠木正成の漫画
やっと読めた
作画は池上遼一のアシ出身なのかな
脳内で池上遼一の絵に補正した

81 :
>池上遼一のアシ出身なのかな
ていうことは、水木しげるの孫弟子になるのか。

82 :
こんにちわ

83 :
この板の皆様、先ほどの一言スレどうも申し訳ありません。テスト投稿のつもりで書き込みしましたので。
>>49 >>59 さんの書き込み、大変参考になりましたのでまずお礼を申しあげたいと思います。
さて >>51さん と >>61さん、『太平記』はちゃんとお読みになられたでしょうか? 確かに仰る様に『太平記』には怨霊の
類や仏教説話の類の話しがあります。ですが、創作があったからと言って具体的な検証もせずに『太平記』があてにならな
いと断じるのはどうかと思います。
教育委員会等でも『太平記』を軽んじる風潮がありますが、例えば元弘元年の赤坂城の戦いの日付と幕府方の武将、光明寺
残篇と『太平記』巻三の赤坂城軍事はほぼ一致しております。また元弘三年の千早攻め、確かに『太平記』の幕府軍の百万
というのは大げさかも知れませんが、幕府方の武将は 楠木合戦注文 と 『太平記』で一致しておりますし、阿曾氏 や 名越
氏 等が関東から上洛しているという事からすると、幕府軍の戦力は『太平記』の記述に近い物があるという事が推測出来ま
す。

84 :
太平記はいろんな史料を集めてるね。
番場谷の蓮華寺過去帳とか

85 :
 野生の雀は働かなくても、金が無くても生けていける。それは神様が食べ物
を与えてくれるからである。人間も贅沢をしなければ同じ様に生きていける。
お米は百姓さんの汗と膏の結晶である。その苦労も知らずに感謝もしないでご
飯を食べている。
君達が働いて(百姓さんの肉体労働に比べれば遊んでいる様な仕事)得たお金は
百姓の生き血を吸って得たものである。分からなければたとえ話で説明しよう。
武士は百姓から取り立てた年貢をお金に買えてそれで生活していた。商人等は
そのおこぼれで生活していた。百姓がみんなの犠牲になってくれたから生活出
来たのである。今でも弱者の百姓を食い物にしているのである。百姓は君達の
寄生虫がいなければもっと豊かに生活出来るのである。
百姓は消費者が決めた米価でしか米は売れない。それでは、農機具の経費は賄
えない。他の職業は必要経費を引いても利益が出るのである。百姓だけが虐げ
られている。神聖な百姓の生き血を吸って成り立っている悪の経済が滅びる時
が来た。天罰てき面になる時が来たのである。
雋傑坂本龍馬では、海援隊の集合写真の向かって右から菅野覚兵衛、白峰駿馬、
陸奥宗光、坂本龍馬、岡本健太郎、長岡謙吉となっているが、私の見立てでは
謎の人物(白峰駿馬の耳の形と異なる)、千屋寅之助、山本洪堂、勝海舟(龍馬
に化けた)、溝渕広之丞、謎の人物(長岡謙吉の丸顔とは異なる)となる。海援
」隊員としては千屋寅之助(変名菅野覚兵衛)の一人が正しいだけである。山本
洪堂、溝渕広之丞は土佐藩士である。なぜ、偽の龍馬と海援隊の写真を撮る必
要があったのか。メーソンは龍馬を暗した為に怨霊を恐れたのである。この
写真と龍馬の立像写真と坐像写真は暗直後に撮られたものである。だから、
偽の海援隊の写真の中に暗を手助けした土佐藩士が写っているのである。龍
馬の立像写真と同じ演台に後藤象二郎が肘を掛けている。これも暗に土佐藩
が関わった証拠である。これらの写真は龍馬暗直後に撮った写真である。福
井で見つかった龍馬の写真は暗後数年経ってから撮られたものである(頭の
剥げ具合で分かる)。悪い事をしても神様が本当の事を表沙汰にする。

86 :
楠木正成公が、いまだに日本を守ってくださっている。
こんな人は、世界のどこにもいません。
本当にありがたいことです。

87 :
大楠公を貶すのはコミンテルン工作員の反日ブサヨミンス

88 :
鳩山前首相「後醍醐と尊氏が腹を割って話せばよかったのに」

89 :
楠木正成を嫌いな日本人は少ないでしょう。
歴史に詳しくない人を除いて。

90 :
興味無い人は多いけど

91 :
>>90
朝鮮人

92 :
朝鮮人は楠木正成が大好きだってさ
元寇を撃退した憎い北条氏を滅ぼしたからね。w

93 :
基本的に悪党だから。
それ以上の存在ではない。

94 :
悪の意味は、なにか知ってるか?

95 :
誰にでもある悪。
悪源太義平と一緒。
皆が認める公然の悪。
まあ、仕方ねぇかで許されるレベルの悪。

96 :
>>誰にでもある悪。
>>悪源太義平と一緒。
>>皆が認める公然の悪。
この3つの悪は、意味がかなり違うと思うがな。

97 :
悪党は所詮悪党だ
文句あるか?

98 :
悪源太義平って木曽義仲の父親を害した人?
すごい乱暴な人で、最初から後継者争いにもならず、
すんなり源氏の嫡流は頼朝に決まったんだよね。

99 :
何を言ってるんだ

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