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2012年1月2期日本史80: 歴代皇后で一番好きな方を教えて (269)
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歴代皇后で一番好きな方を教えて
- 1 :11/02/13 〜 最終レス :12/01/17
- 大后・中宮・皇后etc…
幾つか呼び名がありますが、天皇の正妻であるなら皆同じということで
歴史に名を残している方、時代背景等の都合で影に隠れているような方…あなたが日本史に関わる何かを目にしてきて心に残った方はいませんか?
私自身は、一条天皇の皇后、藤原定子様が好きです
特に何かの足跡を残したわけではなくても、薄幸な人生、枕草子から垣間見える人柄に惹き付けられました
理由も合わせて書き込んで頂けるといいかもです
- 2 :
- 昭憲皇太后 明治神宮の御祭神 日本の伝統・大織冠中臣鎌足後裔・藤原家最後の皇后さま。
- 3 :
- 神功皇后。
あ、実在の人物じゃなきゃ駄目か。
何、神功皇后は実在の人物だって?いややっぱり伝説と主張?ワケワカメ。
何はともあれ、ロマン溢れるお話でございますこと。
- 4 :
- スレ立てた人です
伝説認定されてる方でもいいと思いますよ。ロマンがあっていいじゃないですか
ついでに
一番…ではないけど印象的な方は、待賢門院ですね
白河上皇の孫である鳥羽天皇の中宮で、自身も上皇の養女
入内前から妙な噂があったとか、産んだ第一皇子が叔父子と言われてしまったりとか…
ロマンとはほど遠いですが、関心しきりです
- 5 :
- 定子皇后
- 6 :
- ならヒミコ(日美后)
- 7 :
- 建礼門院。
- 8 :
- 源和子
- 9 :
- 阿佐殿
- 10 :
- >>9えーと…
どなた様?どの帝のお后ですか?
- 11 :
- みよし野は 見しにもあらず 荒れにけり あだなる花は なほ残れども
- 12 :
- 皇后伝なんて得に粉飾だらけだから、
誰が好きとかわかんないよ。
ってか、ココって「定子厨」がつくったスレだろ
- 13 :
- 日本史にいた有名な専業主婦「なまみこ婆(=定子厨)」。
史料無視の定子讃美で一日中2ちゃんねるに貼りついてたが途中で相手にされなくなり、
漫画板の「あさきゆめみし」に移動。
ここで一日中嫌いな登場人物を叩き続けてた。
しかし、あさきスレもID表示となったために連投を繰り返せなくなり
日本史板に戻ってきた。
しかしかつてのスレがないので自分でスレ立て、ってところだろうな。
- 14 :
- 古事記上巻の記述によると
垂仁天皇の后は、かぐや姫(伽具夜比売命)だぞ
- 15 :
- ごめん、>>1をよく読んでなかった、1とは別人です。
- 16 :
- >>13
えーと>>1ですけど…ID出ないから不便だな…
定子皇后好きだというだけで厨扱いされても…
ていうか、私はその方じゃないし。確かに円地先生の「なまみこ物語」好きだけど
昔発行の「歴史と旅/歴代皇后総覧」という冊子があって。実在の信憑性問わず公式文献の歴代皇后正妃を記述したその本が大好きだから、様々な時代を好きな方々がいるこの板で聞いてみたかっただけなんです
長文すみません
- 17 :
- せめて皇族女性一般スレにしたらよかったのに
- 18 :
- 前の板に「后妃・女院(だっけ?)」みたいなスレがあったけど
あれみたいなのが良かったな。
誰が一番好きという人気投票ではなくてね。
- 19 :
- >>16
自分もその歴史と旅の増刊号をもってて重宝してるけど
わざわざスレ立てて語ろうとも思わないけど。
- 20 :
- >>11
>新待賢門院(後村上天皇の生母阿野廉子)が後醍醐天皇の死を悼んで詠んだ歌 …ウィキ新葉和歌集より
- 21 :
- >>14
さすが平成。発見者あらわる!一般ピープルで 実在「かぐや姫」名を知る人は1%以下でしょう
第11代垂仁帝 后皇は ひはすひめ日葉須姫さまだと思います。
女御のひとかたが 迦具夜(伽倶夜?)姫さま お子さまは、おさべ(長部?)王です。
- 22 :
- ほう、「かぐや」が人名とは知らなかった。
光源氏と同じくニックネームの類とおもっていた。
まあ、源光って貴族もいたしな。
- 23 :
- 伯父の名前が「讃岐垂根王」だから、かぐや姫本人なんでしょうな
- 24 :
- ...とすると、開化天皇の親族として「天上(殿上)」から来た姫様が
再び天上に戻ったワケですな
...ロマンですなぁ...
- 25 :
- 春日娘子
- 26 :
- 名前すら伝わらなかった長慶天皇の中宮
かわいそうです(´;ω;`)
- 27 :
- やっぱり慈悲深い光明皇后ですね。
- 28 :
- >>25
ヰキ>春日娘子(かすがのいらつこ、生没年不詳)は武烈天皇の皇后。但し、古事記には記載が無い。父母共に未詳で、子女無し。父が未詳の皇后は、史上春日娘子ただ一人である。
武烈男系遺伝子は絶え 女系遺伝子のみ現皇族に伝わる
春日は 皇族系の可能性大 武烈のマイナスイメージを恐れた春日に連なる藤原氏などが削除させたか
- 29 :
- 父母共に未詳なのに藤原氏が出てくるのは?
- 30 :
- >>28
武烈の母は春日大娘皇女(父は雄略天皇。母は春日深目の娘童女君)。
普通に考えれば武烈の妻春日娘子は、武烈の母方の血筋に連なる
春日氏の娘という意味でとおるが?
春日娘子が皇族(皇女)だったという証拠に乏しい。
この頃、皇室は男子も女子も絶滅の危機にあったし。
- 31 :
- >>29
古事記も日本紀も 藤原光明子聖武帝皇后や弟太政大臣藤原仲麿のころ? 念入りに御検閲m(__)m(お上の権威の計2冊、天武天皇&長屋王派閥1冊、天智天皇派閥作1冊)
- 32 :
-
春日家の祖敏達天皇と 小野家(小野妹子)などとの繋がりを排除し 外戚を藤原一家にしてゆくため?
- 33 :
- ゐき>手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前-没年不詳)は古墳時代の皇族で、継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。欽明天皇の母。
きんめい天皇て現皇室や聖武天皇の祖だし 春日娘子武烈皇后が別系なら直につながてない?
- 34 :
- >武烈のマイナスイメージを恐れた春日に連なる藤原氏などが削除させたか
中臣氏は連だから天皇の嫁なんてほとんど出してないんだが。
- 35 :
- >>32
現代の天皇家は雄略天皇の妃春日童女君(欽明天皇の曾祖母に当たる)
の血を母系で引き、どのみち春日氏の血を引いているよ。
春日氏の血を排除するならば武烈妃ではなく雄略妃の出自を
改めなければならない。
小野氏は春日氏の傍系で天皇妃になった娘の存在は知られない。
平安時代の小野小町が仁明天皇の更衣だった可能性がある程度だね。
- 36 :
- >>35
難波小野王がなにやら小野氏関係臭いが、
武列継体政権交代期の前後、和邇氏関係
(春日、小野)の女性妃人名が多いよね。
- 37 :
- >>36
顕宗天皇后の難波小野王は難波王ともいい、
「王」の名がつく通り、皇族。
難波王の父は丘稚子王(日本書紀・古事記では石木王。
雄略天皇の皇子磐城皇子の子)と明記されている。
難波王が小野氏の血を引く妃だったというよりも、
難波王の養育に携わった氏族が小野氏だったっぽい。
葛城皇子と呼ばれた中大兄皇子(天智天皇)が葛城氏出身だったわけではなく、
養育にかかわったのが葛城氏だったみたいな感じ。
- 38 :
- いずれにせよ 曾我家外戚以降 小野春日系統が 後宮から減ったなら 藤原母系は曾我家だし 実際は曾我家をカバーアップ(^^)
- 39 :
- 光明皇后の兄、大織冠の初孫
http://small-life.com/archives/10/09/2520.php
- 40 :
- >>39
藤原不比等の長男武智麻呂と長女宮子(文武天皇夫人)は
どちらが年上だったのか分からない。
武智麻呂の長男豊成よりも宮子の長男聖武天皇のほうが年上であるため、
宮子が第一子だった可能性もある。
- 41 :
- 上東門院藤原彰子
- 42 :
- ねえね よく嵯峨天皇後宮とか田中氏とかいるけど 橘氏末流か何かなの? それとも古代の皇胤?
- 43 :
- >>42
田中造という古代豪族がいたからその系統じゃないの?
- 44 :
- 身分から考えたら田中朝臣だろ。蘇我氏の分かれ。
- 45 :
- >>44
やぱり そういふ血筋でないと いきなり百済貴族みたく 外部から後宮入れないし 平成みたく 土下座してでも 奈良平安伝統の世界に来てくらはいとか
- 46 :
- >>42
おなじく 嵯峨後宮で 更衣秋篠高子て土師氏(菅と同じ国つ神系)だからいいとして
更衣山田近子はどうなのかなて思ふ
- 47 :
- >>46
ヰキより
>古代の山田氏 古くは渡来系氏族が称したウヂ名であり、『新撰姓氏録』には、右京の山田宿祢氏(やまたのすくね、周霊王の太子晋の子孫と称する)
>同じく山田造(やまたのみやつこ、山田宿祢と同祖)、河内国の山田宿祢(魏の司空王昶の子孫と称する)、
>同じく山田連(やまたのむらじ、山田宿祢と同祖)、同じく山田造(山田宿祢と同祖)、和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。
>平安時代初期の能吏として知られる山田古嗣(やまたのふるつぐ)もこの山田氏に出自していると見られている。
結局 渡来系 壬申勝ち組中華思想導入貢献サイドの力関係?
- 48 :
- 山田近子は宿禰姓(『続日本後紀』承和9年(842)正月戊戌条)
- 49 :
- >>45
皇后、妃、女御、更衣あたりはある程度の身分が要りそうだけど、
田中氏やらは宮人で名前も伝わらず、一概にそうも言えなさそう。
在位中も本来はお目見え以下だと思われる女嬬
(宮中で炊事洗濯に携わる下働き女中)にも手を出している。
これ以外にも、嵯峨天皇は48歳で退位して67歳まで生きており、
どうやらこの上皇時代に宮中には召せないような身分の低い女のところへ通って
源氏姓の皇子女を大量生産してる。
嵯峨天皇の宮人たちは内裏の後宮に正式に召した女たちばかりではなく、
かなりこうした身分の低い女性たちが含まれている。
生母不詳の皇子女も多い。
- 50 :
- ここって非妻皇后(郁芳門院(堀河中宮)とか)はスレ違いになるのか??
- 51 :
- 奈良時代までの后については古代王権研究の分野で論じられた本が結構ある
平安時代中期の后については当該期の王権研究や源氏物語研究の中で論じられた本が結構ある
でも平安時代後期〜鎌倉時代(所謂中世前期)になると女院も含めて后について論じた本はなかなかないね
- 52 :
- 推古天皇は駄目?
- 53 :
- 敏達天皇の皇后だからおk
- 54 :
- >>50
たしか郁芳門院って堀河天皇の養母として「入内」したよね?
- 55 :
- >>54
非妻皇后でも入内し宮中に住んだ例は多くある。
ただし、未婚であるため、スレタイにある「天皇の正妻」という定義からは外れるよな。
- 56 :
- >>51
野村育世『家族史としての女院論』校倉書房、2006年
- 57 :
- 持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の間の結婚の3組が気になる。
夫と父や兄弟の争いの日々で、どちらに加勢したんだろうか。
みんな親王を産めてないよね。産んでれば歴史は変わったんかな。
姈子内親王
(後宇多天皇(大覚寺統)妃で後深草天皇(持明院統)の娘)
c子内親王
(後醍醐天皇(大覚寺統)中宮で後伏見天皇(持明院統)の娘)
懽子内親王
(光厳天皇(北朝)妃で後醍醐天皇(南朝)の娘)
- 58 :
- 初代神武皇后…姫たたらいすず姫さま。〜お父さまは、ことしろヌシ様m(__)m,
二代スイゼイ天皇(神武天皇3男)后…イスズより姫さま。〜お父さまは、ことしろヌシ様m(__)m,
ニポンを守りたまへm(__)m。
- 59 :
- >>57
後宇多天皇妃は確か恋愛感情が伴う結婚じゃなかったっけ
もちろん政略的な意味合いもあったんだろうが
- 60 :
- >>57
姈子内親王・・政略的な意味合いもあっただろうが双方同意の上で駆け落ちしたとも言う
後宇多上皇は姈子内親王が亡くなると悲しみのあまり出家しており
大変上皇から寵愛された后であったは間違いがないらしい
c子内親王・・・夫後醍醐天皇が吉野へ行った後も夫に同行せず、
都で兄弟の光厳上皇や光明天皇の庇護を受けている。
懽子内親王・・・父後醍醐天皇が吉野で南朝を開くと、こっそり夫の元を脱出して
仁和寺で出家。夫の元に戻らなかった。
夫光厳上皇は懽子内親王を悼む歌を残している。
姈子内親王は夫寄り、c子内親王、懽子内親王は実家寄りなんだろうか。
ただし、姈子内親王が駆け落ちしたのは父後深草が亡くなった後。
- 61 :
- 遊義門院は夫が上皇になった後の妃だから
女御でも后でもなく公的なランク外の「後宮」として
書類上は扱われている(ていうかそれ以外の表現のしようがない)
実質は皇后に準じるような扱いを受けたと思われるが
院号宣下を受けた内親王でこれは異例なこととしか言いようがない
- 62 :
- 檀林皇后
- 63 :
- >>16
歴史読本の歴代皇后全伝とは別?
そっちなら持ってるんだけど。
皇后じゃないけど垂仁天皇の御世に、丹波から五人召された后の内
一人だけ不細工だから帰れって言われて帰り道に自した竹野媛カワイソス
磐長媛の話思い出す
。・゚・(ノД`)・゚・
- 64 :
- 別物。読本のなら、おいらも持ってる。
- 65 :
- >>64
そうなんだ、ありがとう
皇后なら貞明皇后、橘嘉智子様、建礼門院様かなあ
お辛くても気丈で優しいお方がいいな
- 66 :
- 新清和門院(欣子内親王、光格天皇中宮)かな
親王を2人も生んだのにどちらも夭折してしまい
直系たる後桃園系の血筋を残せなかったのはおつらかっただろう
- 67 :
- >>61
遊義門院は独身時代に後宇多の後継後二条天皇の準母として
独身時代に皇后になっている
その後、独身のまま女院となった
後宇多上皇の后になったのは女院号宣下の後
- 68 :
- >>67
自分もその認識で書いたんだが…
院号宣下を受けた北朝の后腹の内親王が
上皇でしかも政敵の南朝方に嫁ぐのはかなり不自然
釣り合わない訳ではないが、夫は譲位してるから立后の見込みなしだし
あ、ちなみに後宇多天皇に皇后はなし
若くして譲位したので妃のほとんどは上皇になってから
お側に召された人ばっかり
- 69 :
- 美智子が一番嫌い。その他は興味ないしどうでもいい。
- 70 :
- >>69
じゃなんでこのスレにきたの?
ここは「好きな」お妃さきさんを語るスレなのだが
- 71 :
- >>70
ageる奴がいるから。
こんなマニアックなスレは普通の人が入ってこないようにsageたほうが良い。
日本は自由な価値観の国だからマニアにとって聞きたくない自由な意見も当たり前に出てくる。
- 72 :
- 単純に>>70は「スレ違いだろ、皇后批判は別スレでやれ」
って言いたかっただけじゃないのか?
マニアとか一般とかじゃなくスレ違いはフツーにダメだろ
- 73 :
- >67
遊義門院立后の経緯については下記の論文が詳しく触れてますよ
三好千春「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541、2007年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)の第1部第3章
- 74 :
- 逆境でいえば陽明門院(後朱雀天皇皇后、後三条天皇母)だな
三条天皇の后腹の内親王で道長の孫娘なのに前半生が不遇すぎる
皇后なのに新しい后入内するから宮中追い出されるとか…
皇后定子みたいに思わず出家(髪切っただけか?)しちゃった訳でもないのに
- 75 :
- >>74
禎子内親王は気性の激しい后で
叔父の頼道が自分をはばからずに夫後朱雀天皇に養女を入内させると
これに立腹して勝手に宮中を出ちゃったみたいだ(栄華物語参照)。
一帝二后はこの頃定番になりつつあったけど許せないということで。
これにつけ入ったのが高松殿系の能信だけど・・・
- 76 :
- >>73
遊義門院は後二条天皇の実母だという論文まで見たことあるなw
持明院統の遊義門院が大覚寺統の後二条天皇の准母として立后したのには
不可解なことが多い(普通は自分の兄弟や甥の准母になるのに血縁が遠い)
実は立后時すでに遊義門院は後宇多の妃であったという説だな
- 77 :
- >>76
思わず遊義門院の年齢を確認してしまったが
年齢的には不可能ではないな<実母説
まずありえないだろうがw
- 78 :
- >>77
遊義門院=1270年生
後二条天皇=1285年生
不可能ではない
後二条天皇にとって遊義門院は祖父の兄の娘と血縁が相当遠いにもかかわらず
遊義門院は後二条天皇の准母とされた
後宇多天皇が在位中一度も中宮を立てなかったことも遊義門院妃説を後押しするらしい
たとえ遊義門院が後二条天皇の生母ではなかったとしても
遊義門院が後宇多妃ならば後二条の嫡母として立后することは不思議ではないから
- 79 :
- 後二条天皇の生母である西華門院もなぜか不遇
太政大臣の養女であり孫であるのに叙位が遅すぎる
ここら辺の事情に詳しい人いる?
- 80 :
- 遊義門院の存在があるから実母の存在はなおざりにされたのかな?
1307年に遊義門院が没した後、翌1308年、
後二条天皇が没したこともありようやく従三位准三后女院号宣下。
後宇多の後宮では後醍醐生母なども後宇多からはほとんど厚遇されてない。
- 81 :
- 談天門院か<後醍醐生母
実父参議・養父内大臣で、後宇多天皇には皇族出身の
妃多いし、寵愛がなければ辛い立場だっただろう…
皇族いっても遊義門院以外は扱いがあんまり
良くないような気もしなくはないがw
- 82 :
- て
- 83 :
- >>81
後宇多の後宮ではとにかく遊義門院だけが突出した扱いだった。
高貴な上に(後深草天皇の后腹の姫宮)、後宇多からの寵愛もずば抜けていたらしい。
後宇多は遊義門院が没すると出家までしてしまった
(寵妃の死により出家したのは後宇多と花山ぐらい)。
後宇多の後宮には掄子女王(宗尊親王の娘・後嵯峨天皇孫)
という皇族の女王もいたが、こちらもあまり良い待遇を受けていない。
- 84 :
- 神功皇后
- 85 :
- さんさんと
- 86 :
- 藤原家さいごの皇后さま 明治神宮のネ申であらせられる 貞明皇后さまは 親王内親王さま いらしゃらなかったの? 水戸徳川や島津系の女系に負けて 皇室から 藤原家を終わらせようとされたの? (・_・、) 詳しい人
- 87 :
- >>86
まちがえた 昭憲皇太后さまです(>_<)
- 88 :
- 昭憲皇太后には御子いらっしゃらないけど(体弱い的な意味で)
貞明皇后=九条家=藤原氏の血筋は今上に入ってるから
昭憲皇太后は皇后としての役割をきちんと果たされた方ですし
- 89 :
- >>86
藤原家最期の皇后は大正天皇の皇后九条節子(貞明皇后)ですよね。
昭憲皇太后は一代前、明治天皇の皇后で、名前を一条美子といった方です。
美子皇后には子はいなかったけれども歴代天皇の半数は皇后腹ではありませんしね。
ちなみに明治天皇の皇太子(大正天皇)を産んだのは側室の典侍柳原愛子ですが、
柳原愛子は公家の末裔で藤原氏出身ですよ。
- 90 :
- じゃあ良子皇后のように 皇族系の方は何世代ぶりでしたか
あと武士の徳川の血は 今の皇太子さまに 伝わりましたか
すくなくとも薩摩武士の島津の血は伝わってしまいましたよね
つまり足利(先祖清和天皇さま)など由緒正しい武士の血は引かれてもと思いますが 他は 氏素性が(T_T) 日本の不幸なのか未来への幸運なのか悩んでます(・_・、)
- 91 :
- >>90
豊家の血を引く子孫の定義
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1297579537/37
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 12:48:03.07 ID:XUzZQKuJ
>34
追加
徳川家康 → 徳川秀忠 → 徳川家光 → 千代姫 → 徳川綱誠 → 徳川吉通 → 千姫 → 二条宗基 → 二条治孝 → 九条尚忠 → 九条道孝 → 貞明皇后 → 昭和天皇 → 今上天皇
幸教と千の結婚で
二条宗基が生まれて完子ルートと合流
- 92 :
- あと 藤原一條家藤原九條家と 江戸期の得河将軍による外戚工作 以外は 淳仁天皇のころ 以来 すべて藤原家皇后でした
檀林皇后は 敏達天皇後裔橘との繋がりありましたが犬養? 例外中の例外
さて昭和のかたは 薩摩武家の血筋による海軍閥の圧力なのか 一応 当時の皇族でしたが
藤原家皇后のラインを 中断させ 以来 あと2代も 非藤原家 この流れはあと千年続くのでしょうか どうすれば日本の文化伝統は 守られますか
- 93 :
- そもそも何故藤原氏の皇后にこだわるのか
もともと皇后は皇族しかなれなかったものが
時代の流れで皇族→藤原氏もOK→制限なしと変化していっただけ
長い時間受け継がれた結果、時代にあわせて皇室制度が変わっていった
皇室そのものが変わった訳ではないし、伝統自体が失われたわけでもない
- 94 :
- 古代には葛城氏出身の大后もいたし大后の出自なんてきまりもなかった。
皇后は皇族からというのは持統天皇あたりが始めた。
しかしそれも藤原氏出身の光明皇后の登場で崩れた。
それ以後は、橘、平、源、徳川、藤原(五摂家に西園寺)と皇后の出自は様々。
しかも天皇家は長らく一夫多妻であり皇后が天皇母である例は半分ほどしかない(残る半分は側室腹)。
天皇の実の生母となればさらに皇后よりも出自が下の者があらわれる。
江戸時代の光格天皇の母親はすでに庶民の出。
そもそも天皇家は男系相続であって女系に関して藤原に限るという規則はない。
- 95 :
- 三條天皇皇后:藤原すけ(女+成)子…おじいさま藤原師尹→娘藤原芳子は村上天皇女御
三條天皇中宮:藤原きよ(女+井)子…父道長
あれ三條て皇后3人…@藤原やす(糸+妥)子皇后・父兼家→A藤原原子皇后・父道隆→B藤原すけ(女+成)子・父藤原済時
うわ複雑な3人の皇后さま1人の天皇さま
- 96 :
- 三条天皇の皇后は済時の娘・すけ子(漢字出ず)で中宮は道長の娘・妍子
後は尚侍とか女御だよ
三后並立になったのは後冷泉天皇
天皇崩御の直前だけどね
- 97 :
- >>95
藤原綏子(関白藤原兼家三女)と藤原原子(関白藤原道隆次女)
の2人は東宮妃で夫三条天皇の即位前に亡くなっています。
皇后、中宮、女御などは天皇の妃の位で東宮妃では名乗れませんので。
三条天皇が即位後、天皇妃であったのは
皇后藤原娍子(贈右大臣藤原済時長女)と中宮藤原妍子(左大臣藤原道長次女)だけです。
- 98 :
- 何か最近変な人きてるな
あ、自分は東福門院好きです
皇子が成長なされなかったことが残念
- 99 :
-
得河和子の母 藤原達子て誰? あと水尾=清和帝で 後をつけ 清和源氏を仮冒する得河を みかどは牽制なさろうとされた
- 100read 1read
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