2012年1月2期日本史54: 征夷大将軍っていつから源氏だけになったの? (71)
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征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
- 1 :11/12/09 〜 最終レス :12/01/18
- いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。
- 2 :
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- 3 :
- 清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。
- 4 :
- 豊臣とぼす為に作られた神話ってことは
- 5 :
- もし北条氏が平氏でなく源氏の支流だったとしても執権のまま?
- 6 :
- 家康の場合、祖父の清康の時から新田流源氏(世良田)を称しているという
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。
- 7 :
- 頼朝は伊豆〜鎌倉拠点、尊氏は鎌倉の御家人、家康は関東の太守だったけど、
東国を制してない秀吉が征夷大将軍はないだろ。
信長もそうか。
秀吉は中央を押さえたからすばやく関白になっておくほうがよかった。
家康が将軍になることはかまわないが、源氏を私称するのはなぁ。
- 8 :
- 江戸時代に宮将軍擁立計画があったと聞いたが。
- 9 :
- >>8
家綱が死んだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。
- 10 :
- >>6
家康の親父の代には藤原姓だったんじゃなかったっけ。
家康も初期には藤原姓を名乗ってるんだよな。
- 11 :
- 日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→のちに足利尊氏
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義清→義実→細川義李(初代細川氏)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
- 12 :
- >>10
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。
- 13 :
- 家康の氏素性については三河物語の通りでいいだろ
- 14 :
- いつから源氏だけなんて説がはやりだしたんだ?
- 15 :
- 律令的には根拠がないけど、足利義満が征夷大将軍と共に
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。
- 16 :
- >>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。
- 17 :
- >>15-16
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。
- 18 :
- >>3
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。
- 19 :
- 秀吉が近衛家の養子になったことからの派生なのかな。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。
- 20 :
- 関白になった後に征夷大将軍になる必要てある?
義昭は、88年まで将軍だったし。
仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。
- 21 :
- 鎮西大将軍ではダメなのか?
鎌倉、室町の前例にもとづいて征夷大将軍でないといかんのか
- 22 :
- 征夷大将軍
摂政
関白
太政大臣
偉さ(格式)の序列は?
- 23 :
- 摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。
- 24 :
- >>23
家康の太政大臣任官は死の直前だ。実質上、贈官と変わらない
- 25 :
- 家康は死の一月前に太政大臣になってるね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。
- 26 :
- 木曽義仲から
- 27 :
- ところが義仲は征夷大将軍ではなく征東大将軍だった
- 28 :
- 田村麻呂から
- 29 :
- 大伴弟麻呂から
- 30 :
- 田村麻呂は清和源氏
- 31 :
- なんでやねん
- 32 :
- >>31
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。
- 33 :
- >>32
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。
>>30
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。
- 34 :
- 最初に源姓を名乗ったのは嵯峨天皇の子供。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。
- 35 :
- >>34
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。
- 36 :
- じゃあ大伴弟麻呂は?
- 37 :
- 征夷大将軍自体には、摂関同様官職としての格があるわけじゃないんで、
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。
- 38 :
- 征夷大将軍はそもそも令外の官、いわば称号みたいなもの。
- 39 :
- あ、それとどこかで話題になっていたが、
息長はソナ(ヌ)カが元の音、イキナガとは学者と称する方が勝手に言っているだけ。
- 40 :
- >>36
いなかったことにしよう
- 41 :
- 歴代征夷大将軍
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂
そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。
- 42 :
- >>37
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか?
- 43 :
- 源氏長者と源氏の征夷代将軍って全く別の物なんだが・・・
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる
- 44 :
- 武家の棟梁が征夷代将軍
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか?
- 45 :
- >>42
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。
- 46 :
- >>45
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。
- 47 :
- 信長が天皇を超えるためには、海外進出が必要では?
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。
- 48 :
- 国内の統一さえできない奴に、
どうやって海外進出ができるのか。
- 49 :
- >>47
それ、普通に秀吉の政権構想じゃん
- 50 :
- いや、秀吉は唐入りのあと天皇を北京に遷すつもりじゃなかったかな
- 51 :
- 家康が藤原から源に変えたから、将軍は源氏ってイメージになったのでは?
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。
- 52 :
- 新田氏の系図を盗んで家系を捏造した件か?
- 53 :
- 山名豊国を交代寄合に取り立てたのも、新田源氏だったから?
- 54 :
- 源氏であればいいってもんではないな。
清和源氏正嫡といえば頼光の系統になるんだろうが、
将軍はやはり鎮守府将軍だった頼信〜八幡太郎〜頼朝の武門の系譜。
実際、武家政治の仕組みを頼朝が確立したこともあるが。
百歩譲って、義為よりわかれた新田、足利。
結局は足利と新田得川(実際は偽の徳川)が将軍となっている。
佐竹、武田あたりだと弱い。
- 55 :
- 大塔宮護良親王って征夷大将軍にならなかったっけ?
- 56 :
- 八巻正治さん
山上の説教は、人に自分が不完全で
有る事を自覚させる事が目的なんだそうだ。
例えば、敵を愛しなさい、と言う戒めは
人が敵を愛せない不完全な存在だと自覚させる
為の言葉だそうだ。
愛についての説明は、有ったけど
敵についての説明は、無かったね。
八巻正治さんよ、アンタにとっての敵とは誰かね?
敵を愛せない自分を愛してくれる神の愛が
無条件の慰めなのだそうだが。
八巻正治さん、わかるかな?
問題は、敵を愛せない事より
敵をつくってしまう人間に問題が有るんじゃないか。
敵を作らないようにすれば
敵を愛する必要は無いんじゃないか?
- 57 :
- コレは簡単、信長と秀吉はイエズス会の手下及び協力者だったから。
南蛮人と連帯してた人間が征夷は無い。
一方の家康は明らかに反イルミナティであり征夷大将軍が相応しい。
- 58 :
- >>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
- 59 :
- 幕末の源氏長者って誰なの?
- 60 :
- 幕末の源氏の直系って誰なの?
- 61 :
- >>59
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。
- 62 :
- 源氏長者を任命するのは朝廷?
- 63 :
- >>62
そう。宣旨による。
- 64 :
- >>63
喜連川は源氏長者じゃないの?
- 65 :
- 秀吉が将軍にならなかったのは
単に公家政権を作りたかったからでは?
頼朝以来の軍事政権幕府を自分の代で廃止して
それ以前の清盛のような存在になりたかったんじゃ
- 66 :
- 時代の端境期には、一時的に朝廷を中心とした政体が現れる。
院政→清盛政権→鎌倉→建武新政→室町→秀吉関白政権→江戸→明治太政官政
- 67 :
- >>57
信長は兎も角秀吉がイエズス会の手下なら
「サン・フェリペ号事件」は起きないと思うのだがw
- 68 :
- いや源平藤橘の系譜なら将軍様になれるはず
- 69 :
- >>68
坂上田村麻呂や文屋綿麻呂が征夷大将軍になってるんだから
関係ないだろ
- 70 :
- 源氏だけになったのは足利からだろ?
- 71 :12/01/18
- >>70
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった
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