2012年1月2期日本史45: 日本史における武士道の発展と役割について (53) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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50: 日本史選択者が驚く世界史の常識 (80)

日本史における武士道の発展と役割について


1 :11/12/20 〜 最終レス :12/01/18
考えよう

2 :
お断りします

3 :


4 :


5 :
戦前の兵卒
戦後の社蓄
21世紀のネトウヨ
武士道で洗脳された平民という点では同じなのに、
なんで一番下は国家に何の貢献もない穀潰しになってしまったのだろう。

6 :
おお
こんなに書き込んでくれてありがとう
>>5
彼らに武士道はあるのかな?

7 :
武士道とは死ぬことと見つけたり

8 :
>>7
しかしそれは江戸時代にかかれた本にあること
それ以前の武士達はどう捕らえていたのだろうね

9 :
武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかり也。
別に子細なし。胸すわつて進む也。
図にあたらぬは犬死などなどと云う事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。
(『葉隠』)

10 :
それは確か名誉が根本にあるよね?

11 :
武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つ事が本にて候

12 :
侍道とは違うの?

13 :
>>11
って戦国時代かそれ以前の武士は言っていたけど、
確か葉隠れでは卑怯な価値方は負けるよりたちが悪いといっているんだよね
謎だわな
>>12
そういうのもあるの?
初めて聞いたよ

14 :
切り取り強盗は武士の習い

15 :
「卑怯」なんて寝言は、主を七度変えてから言え

16 :
>>14
そういうことありそーだね
>>15
七度変えては藤堂高虎だよね

17 :
戦国の世が終わって
戦が無くなっちまって、戦争に憧れてる中二病患者と徳川幕府の支配を確立するための儒教がまじりあったのが武士道
戦争を知らない平和な時代の奴がかっこつけてるだけ

18 :
>>17
つまり戦国以前の武士には武士道はなかったと?
でも確かに武士道という言葉は、戦国末期で使われたし、
武士道という概念は江戸時代や幕末に定義されたね

19 :
きょうテレビ付けたらたまたまNHKの「さかのぼり、日本史?」
とかいうのをやっていた。東大の先生が石沢とかいうアナの質問に答える
という形式で進行するんだが、鎌倉時代初期は武士が血を血で洗う争いが最も
激し時代だったらしく、農民は武士からさんざん痛めつけられ、収奪も日常茶飯で、
だれかれとなく武士が気にいらないとしていたそうな。まるで今の
北朝鮮そっくりなんだけど、朝鮮人と違うのはそんななかで北条時頼が出てきて
武士に対してものすごいきびしい規則を定め、農民を守る撫農民というのを
やったおかげで、それからの時代がうまくまわり始めたというように言ってた

20 :
それでも温室に閉じこもっていた貴族よりは武士の方がましだったと本郷先生は言ってました

21 :
>>19
お前さん詳しいな体験者か?俺は今の北朝鮮なんか知らんわ

22 :
武士道という言葉自体は伊達政宗からって聞いたけどな。
ただその意味は時代や人によって違う。
まあある程度の傾向はあるけど。

23 :
あけましておめでとうございます
>>22
テレビでいっていたね

24 :
ごり押し近代日本史の再編
http://www.youtube.com/watch?v=b4Y7Y62x9go

25 :
武士道が結晶化した人物が山岡鉄舟で平和な時代の所産であれこういう人物が
実在した事が日本にとっては宝

26 :
何百万といた武士の中でその一人なら只の武士の中の変わり者、武士道とは関係が無いw

27 :
武士の鑑は赤穂浪士

28 :
切り取り強盗は武士の習いと言うからな、夜中に徒党を組んで押し込むなんざ武士の鑑だ

29 :
武士というか、もののふのありかたについては
すでに源平合戦の頃に坂東武者が言っている。
主への忠誠とみっともない死に方を嫌う価値観。

30 :
忠誠、勇気、廉恥、克己、高潔、無私、これが武士道。かつて日本にはこのような徳目を一身に具現した社会集団が
存在したのだ。武士道を忘れてから日本はおかしくなった。

31 :
>>29
おおソース教えてください
>>30
それは明治時代に作られた偽武士道では

32 :
スキンヘッド先生の新書読んでみたら?その後原史料にあたればいいのでは。

33 :
語源の「さぶらう」からしたら、貴人・天皇家や公家のボディガードが始まりなんかな?

34 :
武士とは利欲を追わず、嘘をつかず、卑怯未練の振る舞いをせず、恥を知り、義のために
平然と命を投げ出す人。

35 :
>>33
俺もそう思う
けど自分の領土を守るために武装した農民が始まりとも言うよね
>>34
でも戦国時代は裏切りめっちゃあったよね
武士は主君を七度変えないと武士じゃないとか言い切った大名もいたし

36 :
武士道といっても江戸時代のは徳川に忠義マンセーの
儒学劣化コピーの朝鮮武士道だからな

37 :
日本の再建は武士道復興から!だれけきった今の若者を武士道教育で締め上げろ!!

38 :
そういうあなたはだらけていないんだよね

39 :
>>37
いるいる、こういうおっさん。
年齢相応のキャリアを築けずに同世代に対して抱いたコンプレックスを、
若い世代に八つ当たりして憂さ晴らしするためのダシとして武士道を口実してんの。
戦前戦時中の突撃兵育成、戦後昭和の社畜育成にフル活用された武士道も、
今じゃもうこんな使い道しかなくなってるってことなんだろうな。

40 :
プロテスタンティズムと武士道の禁欲精神は通じるものがあるから日本にも資本主義が定着すると
新渡戸稲造が言った後にマックス ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が発表された。

41 :
武士は封建領主ですね。
今でいう自民党や民主党とその家臣です。
関白太政大臣、徳川将軍=今の内閣総理大臣。
大名=藩主=上院議員、下院議員=衆議院や参議院、県知事
ここからが、下っぱの武士です臣下=県議会議員
市長、市議会議員
村長、村議会議員
自衛隊、二士、一士
警察官、巡査
会社で例えるなら、平社員が下っぱの武士で、管理職が中級の武士だな。

42 :
会社企業でも、今もそうだが、派遣社員、契約社員、下っぱの正社員などの平社員は、特に管理職に頭を下げるしかない。
封建時代はさらに厳しかった。代官などの武士が、 水戸光圀公に会えば、頭を下げてひざまずく。
今は霞ヶ関の官僚が、内閣官房長官に会っても頭を下げてひざまずく事はない。
そういう意味では、昔は合理的がさほどなかく、儀式のようなものにしばられていた。

43 :
さほどなかく→さほどなく

44 :
昔は合理性がさほどなく。
昔の武士の給与が少なかった場合、武士は江戸の町で内職をしていた。
今でいう10万円の給与で、支出が16万円なれば、内職をして副収入を得るしかない。
多くの町人が武士に憧れていたが、武士は武士の世界で厳しかった。
また、武士の世界では暗や敵討ちなども行われでおり、
武士は、武道を磨き、暗や敵討ちに備えなければならないので、睡眠をする時も多少は気を張っていた。
町人もそうだが、武士と武士で斬り合いが起きれば、官僚たる代官の武士が、馬に乗りとめにかかる事もあり、江戸時代は江戸時代なりに物騒な世の中であったらしい。

45 :
>昔の武士の給与が少なかった場合、武士は江戸の町で内職をしていた。
今でいう10万円の給与で、支出が16万円なれば、内職をして副収入を得るしかない。
多くの町人が武士に憧れていたが、武士は武士の世界で厳しかった。
また、武士の世界では暗や敵討ちなども行われており、
武士は、武道を磨き、暗や敵討ちに備えなければならないので、睡眠をする時も多少は気を張っていた。
特に大商家や豪農に雇用されていた浪人=用心棒は、敵方の商家や豪農の人々を暗したりしていました。
豪農は農民の私兵のような人々を雇っていたと思うのですが、彼ら豪農などの土地の支配者が地域地域で、別な豪農と紛争を起こしていた可能性も高い。
農家は農民で小規模の紛争のようなあり、武家に仕官できなかった浪人も、豪農に雇われて、農家の紛争に参加していたと思います。
ただ、だいたいは代官様に取り押さえられるのですが。
武家も足軽という昔からある役所に徴兵、雇用された兵隊がいますが、彼らは上にたてつけば命とりになるので、余計な事はできません。
総じて武家も商家も農家、職人も大変な時代でもあり、
その時代を支配していたのが武家という事になる。

46 :
>>45
時代劇の見過ぎだよw

47 :
>農家は農民で小規模の紛争のようなものがあり、武家に仕官できなかった浪人も、豪農に雇われて、農家の紛争に参加していたと思います。
この豪農が二本差しを許されて武家になる。
すると、その二本差しの豪農の士気があがり、田舎の封建領主のようになる。
つまり郷士といった武士になる事ができるのです。
ただ、これら郷士やその私兵も、徳川幕府の藩の領土内の人々であり、藩の代官には逆らえなかった。
このように武士にも、郷士や浪人といった人々がおり、
金持ちの農家や商人は武士=郷士という身分を手に入れたいという欲を持つのが、江戸時代の特徴かもしれない。

48 :
明治の日本軍が強かったのは元武士が司令官、将校だったからだよ。百姓や鍛冶屋や朝鮮人が
将校になった昭和の日本軍は弱かった。

49 :
「鎌倉武士のなんともいえぬ潔き気風の真髄となっているものもやはり平安時代の「あわれ知ること」である。
平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。
彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、
その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。
自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、死を決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。
足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。
落花に対して風を恨んだ源義家もある。
梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。
熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。
これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。
実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)

50 :
忠君の情が厚かった。
そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、
この「あわれ知る」という気風であったのである。
武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。
理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。
鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。
このことについては、武士はいつ死ぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、
在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、
我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)

51 :
明治の近代化以降、江戸時代の豪商は武士との競争に敗れて消えて行った。
商人達は、伝統主義に傾向するあまり改革をタブー視していたが
武士は西洋から複式簿記を取り入れ革新的に伝統主義を破壊していった。

52 :
皆さんありがとう
よく読んでみるよ

53 :12/01/18
>>48
違う違う。
明治の司令官・将校は薩長出身で、昭和の司令官・将校は東北人だからだよ。
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47: 【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17 (757)
48: 南部氏(・><・)巻之七 (110)
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