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2012年1月2期日本史16: 謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!62 (971) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!62


1 :11/12/28 〜 最終レス :12/01/19
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国問題は古代史最大の謎として人々の関心を高めている。
蒸王卑弥呼とは何者だったのか。2012年も宜しくです。
前スレ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1323352230/
関連サイト http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle

2 :
天皇乃吳太伯の苗裔!爾等毋妄議!

3 :
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革
ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け
世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]

4 :
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
伊都国は多久市下多久中小路庄集落です。

5 :
>>2
だれも、議っていない。
なぜならば、卑弥呼もわからず、その先祖を議る段階に達していない。

6 :
>>2
おまえ、日本人だろう?

7 :
前スレ>994
コレを忘れたか〜? オマエが先にこちらを偽書といわれる書を持ち出し
たと文句をつけたんだろうが。秀魔電が偽書といわれてることをオマエが
知らぬわけもない。コチラをつついてオマエが持ち出すんじゃねぇ〜。><
             ↓
特別編板
274 : 唐松山 ◆ V0F34EbmQA 2010/06/18(金) 23:02:24 ID:tWjIJ5wc
ほ〜ら 偽書といわれる書物をもちだした〜。
でもねその出来事を説明出来ればいいんだよ。

8 :
高島氏がよく言ってる
「魏志倭人伝の国の描写は北部九州の実態を示している」なることについては
畿内説と言うのは九州も含む「連合」なので意味なし。
日本書紀が言ってるように、もともと天皇家と言うのは"西"からやってきた。
鏡、玉、剣のセットにしても、九州州から伝わったのでありなんら問題は無い

9 :
「玉璽」ていう、卑弥呼が貰った「金印」より一つ格が上なのがある。
順番にいうと、玉、金、銀となり、「金印」が最高の証なんて考えてたら駄目だよン。
実は、第二位だった「金印」なんて言ったらびっくりする人もいるんじゃなかろうか。

10 :
>>7
ホツマは自分の主張には使用するが、太国倍年を否定するためには使用していない。
結果が太国倍年を否定するだけならホツマは必要ない。
>でもねその出来事を説明出来ればいいんだよ。
私は、ホツマを使用して私の主張と同期させた主張をする。
太国が否定するためには、太国倍年を使用した主張である。
それが、この程度か?
>>890 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/27(火) 22:26:14.23
> 考古学と整合しない。という主張があっても容認される。
青谷上寺地遺跡の埋没は、弥生後期後半である 纏向1類(前) 弥生X様式土器
太国:崇神元年237年 纏向3類(前)ホケノ山(225〜250年)楽浪鏡 庄内3式期末
△ 鏡=纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
太国:青谷上寺地遺跡は崇神17以後である。
太国:崇神元年237年は △鏡を作ったことで証明できる。
つまり、纏向5類(プレ)は纏向1類(前)に先行する。
逆立ちして考えたんか?

11 :
弥生時代初めに中国の長江流域を起源とする米が半島を経緯し
日本列島に入ってきたんですが、これがいま私達が食べているジャポニカ米でして、
九州をはじめとする弥生時代の遺跡でこれがよく出土していますよね。
あと、この時代の日本列島の森林をみても、カシやナラ類の実、それから
シイの実などの樹木が生い茂っていたらしいですね。
前者のカシやナラがいわゆるドングリでして、後者のシイの実ていうのがクリだったりする。
ドングリは食べたことありませんがw クリならば子供の頃よく食べていた記憶があります。

12 :
>>7
私の主張を否定する主張の中身が無い。
崇神5,6年の否定は、青谷上寺地遺跡は崇神17年以後。
青谷上寺地遺跡は弥生後期後半。
太国の主張する崇神は237年からである。この数字と青谷上寺地遺跡と整合させ(崇神17年以後)
さらに、崇神6年には、△鏡が大和で作られなければならない。
考古学を無視すればどんな主張も通る。しかし誰も認めない。

13 :
太国よ
自分の主張する年代とその時代を主張せよ否定したければ、その主張を根拠とできる。

14 :
三雲、スグ岡本、平原遺跡が弥生時代の王墓なんてよく言われてますが、
これと同等か、これ以上の遺跡が本当にないのか、議論に思う人も居ると思う。
これらの遺跡の副葬品をみると豪華であり、他の遺跡を凌駕しているとは確かだろうねえ。
まあ、しいていえば、出雲の「四隅突出古墳」或いは、桜井馬場遺跡ぐらいだろうか?
又、魏志倭人伝には對馬國、一大國に南北巿糴ていう記述があると思うんですが
これは対馬、壱岐から出土した"土器"をみても分かる通り、朝鮮半島や北部九州の土器の出土物が
"北"や"南"と交易してたのは間違いないらしい。

15 :
>>10
ホツマは江戸時代の国学者が捏造したもので信用するに値しない
ちなみに倍暦も、記紀に太歳記述がある以上、原理的にあり得ない

16 :
>ホツマは江戸時代の国学者が捏造したもので信用するに値しない =我々の卑弥呼特定はさらに時代が下がるから信用するに値しない。
倍暦は書記の数字から得られると主張するが、倍暦から書記の数字は得られない。
この事実は認める。
後付説の太国も認めざるを得ない。

17 :
卑弥呼は
"神の言葉を伝える巫女"なんですが、
たとえば古代のヨーロッパなんかをみると男尊女尊の国だったりして、
聞くところによりますと「女王」ていうのは無いらしいですね。
日本列島の場合は女性の社会的地位が高いというか、九州の風土記なんか観ますと
各地で女性の首長が活躍し、九州はとくに巫女が多いのは事実と思う。
巫女といえば、西から来た「秦氏」が有名なんですが、秦氏と言うのは渡来系氏族であり
道教や、仏教を持ってきた一族の一つだろうねえ。

18 :
もう冬季休暇に入ってる人は多いのではなかろうか。
私も実家の九州に変える予定なんですが、古代史の旅をするのなら
何処に行きましょうかねえ。
何かお薦めあれば書き込み宜しくです〜all ではねるZZZZZZZZZZZZ

19 :
>>15
書記の主張を肯定し、ホツマの主張を肯定する。
これがいかなる意味を持つか?
たとえば、書記の主張を肯定し、寺社伝承を肯定する。
この二つを比べた場合、神武から景行までを肯定する。と、成務のみを肯定する
では、大きく意味が違う。
太国は、考古学は書き換えられると称して、弥生後期を古墳初期の後に設定する。
同一に見られては、迷惑である。
否定すべきところを主張してもらいたい。

20 :
扶桑国は沖縄の可能性もあるが、本土も含んでるのか微妙です。

21 :
つまり、邪馬台国は大和だったわけか。
そうだと思ってたんだよ。
九州なわけ無いよな。

22 :
>>8
天皇家は、元から近畿発祥。
厳密には、現在の御所市高天周辺の豪族から発祥した。
この御所市高天周辺のあたりを高天の原といった。
天皇家の先祖は、そこから、九州高千穂に地方官として
一時期、派遣されていた者の子孫。

23 :
>>8
でも九州からやってきたというのは定説になってるよ?

24 :
アンカー間違えた
>23は>>22さんへです

25 :
>>23
定説にはなっていない。以上。
ワカミケヌ命(神武天皇)は、九州の日向生まれで
近畿に引っ越ししたことになっているけど
彼の曽祖父のニニギ命は、高天の原から、九州高千穂へやってきた。
では、高天の原とはどこか?というと、
葛城地方にある高天の平原あたり。

26 :
現在の大阪府・奈良県・和歌山県の境にある金剛山。
この山々は、河内国側から見たら、金剛山だが
大和国側からみたら、高天山といわれていた。
その麓を高天といい、その平原を高天の原といった。
現在の奈良県御所市高天周辺の地域をそうだ。
近畿王権が出雲を併合し天下を統一した後、皇祖ニニギ命は、
九州高千穂へ地方官として派遣されることになる。
これを後世、天孫降臨という。
ニニギ命の一族は、そこで3代ほど、その地域の地方官を歴任していた。
これを日向三代という。
このニニギの後胤である日向の地方官の一族の中でも分家筋にあたるのが
現在の天皇家の先祖たちだった。

27 :
前スレの>>993>>996
これは太国さんやメさん(あらためだよん君だと思うが)だけでなく、邪馬台国スレに投稿しているすべての常連に言いたいのだが、
天皇の年齢が百歳を超えているからといって、それを不合理だと思ってはいけないのである。
それを不合理と考えて、現代の常識で逆算すると、アダムが紀元前四千年の人だという珍説に至るのである。
安本美典のやっていることがそれであり、君らの思考法もそれと同じである。
よく考えてみるとよい。梨迹臣命が近江国風土記の羽衣伝説に登場するような伝説的人物なのに、
その子の神聞勝命が常陸風土記に崇神天皇の頃の人物として登場しているのである。
つまり梨迹臣命から神聞勝命までの子孫はすべて省略されているのである。
ここに古代史の秘密がある。これが分らないと古代史は理解できない。

28 :
邪馬台国の首都は奈良県桜井市付近
大和朝廷は神武一族が邪馬台国を制圧して祭り上げられた政権
神武一族と卑弥呼一族の血統は全く別物
神武一族が大陸から日本に渡ってきたのは魏王朝末期の260年過ぎ
それまで神武一族は魏の傭兵として朝鮮半島制圧や諸葛誕の乱の鎮圧で活躍した

29 :
>>15
それでは ↓ はどう考えるのか? 答えてくれ。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日
2日 2  16日 0  30日
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1   24日 0
11日 4   25日 0
12日 3   26日 0
13日 3   27日 0
14日 7   28日 0
古代マヤ暦には金星暦があるが、そのマヤの太陰暦は2倍暦である。
このことは,君の否定が早計そのものだということを意味する。

30 :
>>29 訂正追加
29日、30日の数字が抜けましたが、ともに0です。

31 :
>>29(+>>30)の表を眺めれば、月の後半の日数が無い。
このことは朝廷が当時空年を採用したりごまかしの挿入をしてたんでは
ない。朝廷は八代時「空日」を採用していたのであるのだ。空年ではない。
ということは、宿主の主張は「空日」のこの表に逆らい空年だとして
いることは朝廷に逆らうの虚偽論であり、これから宿主は朝敵と
なる。空年ではない、空日である。
>>29表から、当時の1ヶ月は2週間であったと観るのが相当であり、
これは2倍年暦を採用していたことを物語る。

32 :
>天皇の年齢が百歳を超えているからといって、それを不合理だと思ってはいけないのである。
一人二人あたりなら直ちに不合理とは言えないが、十人くらいも百数十歳
もが隣り合わせの代で生きてたという話は考えにくい。
それがしが編年したところ、彼ら天皇は現今の人間の当たり前の寿命内に
収まるもので、こんなに多勢の天皇が百歳を軽く超える長寿だと許容
するのは懐疑的に考えるべきが妥当である。
ただし武内宿禰は仁徳天皇が日本一の長寿者であると驚いた歌を詠って
いるところから、この大臣は百歳を超えていたと観てよい。半島の長寿王も
エジプトのラメシス2世も長寿であるところから、少しの人物がかなりの
長寿であったということは、おかしくはない。

33 :
>>28
違う。
卑弥呼はモモソ媛命。

34 :
空年は書紀の数字から得られると主張するが、空年から書紀の数字は得られない。 
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

35 :
>>29
太国倍年はこの数字を分散させるためにある
だから、分散には成功したが、1年の長さも1ケ月の長さも主張できない代物となる
太国倍年の数字に太国の主張する倍数をかけても書記の年代は再現できない。
そして、>>34 の寺社伝承は、青谷上寺地遺跡を崇神17年以後に設定するのと同等に
時代背景は考慮されていない。

36 :
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
書記は、1月1日を季節と朔で説明している。つまり太陰暦である。
太陰暦の朔は29.53日の積み重ねで得られるが倍数で得られることは無い。
であるならば、月前半に偏るということは、朝廷に出仕するのは月前半であり、後半は自分の領地で過ごす。
だから、死亡日も書き換えられ、この前半におさめる。
春正月庚辰朔。この1月1日に振られた”庚辰”という数字を無視して太国倍年は成り立つ。
その無視する理由を主張したことは無い。
3倍年とは、季節が3回まわって1年となる。

37 :
>>28は誰かが私の名を騙って書き込んだものだから誤解しないように。

38 :
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
甲戌朔と癸卯朔から懿徳天皇二年1月は29日である。

39 :
>>37
卑弥呼は朝鮮にいた#あいうえお
と#のあとに文字を入れて打ち込むこと。
あいうえお の必要はないので覚えられる文字で良い。

40 :
宿主空年はこの↓数字を霧散させるためにある。宿主は霧散に失敗中。ww
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

41 :
邪馬台国論はレッキとして歴史学の一分野、つまり学問だ。口を出すなら主張
をするだけでなく、キチンと自説の証明、論証を行え。証明が無い主張だけな
ら誰でもできる。だからトンデモ説が横行する。4氏、8氏、21氏、22氏、26氏、
28氏、33氏、主張の証明を求めます。

42 :
>宿主空年はこの↓数字を霧散させるためにある。宿主は霧散に失敗中。ww
霧散させる必要はない。なぜならば、考古学では否定される数字であるから
この書き込みを続ける限り”太国倍年”が使い物にならないことを証明するのと同等
の効果しか期待できないからだ。
青谷上寺地遺跡(弥生後期後半)が△鏡(古墳時代初頭)の後ろに来る。←太国の主張が
いい加減であることをさらに助長する効果が期待できる。

43 :
>太国倍年はこの数字を分散させるためにある
分散させる必要はない。なぜならば、考古学では否定されない数字であるから
この書き込みを続ける限り”宿主空年”が使い物になることを証明するのと同等
の効果が期待できないからだ。
考古は〜
青谷上寺地遺跡(弥生後期後半)が△鏡(古墳時代初頭)前後不明。←太国の主張が
いい加減でないことをさらに助長する効果が期待できる。

44 :
>・・・分散させるためにある←この書き込み

45 :
>>43
さらに悪いことに、太国は寺社伝承に西暦を振ることが出来ない。
この事実は、書記の全ての年度が存在するという太国倍年が成立しないことを
物語っている。
太国:日々の干支は1日に1つであり、60日で一巡する。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
この1ケ月は29日である。太国の主張する1ケ月≒14日は崩壊する。

46 :
お二人さん相変わらずですねえ。十年一日とはこのことだな。
それにしても邪馬台国関連板も奇妙な人たちが増えましたね。
それではお体に気をつけて よいお年を。

47 :
もはや完全にプロレスだなw

48 :
懿徳天皇元年(辛卯前五一〇)二月壬子◆元年春二月己酉朔壬子。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
懿徳2年1月が29日であれば、
元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。
太国倍年は成立していない。

49 :
訂正
×元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。
○元年2月から2年2月までの1年間は、354日である。

50 :
さらに悪いことに、宿主は秀魔電笑に41年から西暦を振ることが出来ない。
この事実は、書記の全ての年度が存在するという宿主空年が成立しないことを
物語っている。
そんなものは簡単だね。毎回崇神年代を振って来たから、今度は成務年代
にしてやろう。↓下を見い。オマエは41年が出来ない。ウワハハハ・・・
皇紀 西暦 倍暦
791 131 323  成務元年 成務天皇 即位
792 132
793 133
794 134 324
795 135     成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
796 136     成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
797 137 325  成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
798 138     成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
・・・・・・・
830 170 336  成務40年 神功皇后 誕生
831 171
832 172
・・・・・・・
836 176 338
837 177
838 178      成務48年 仲哀天皇 この年 立太子
・・・・・・・
848 188 342
849 189      成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
850 190      成務天皇 崩御

51 :
>>49
オマエは1年が365日しか無いとうるさく言ってたが、オマエ自身は
いいわけか?ww
随分自分に甘いオマエだな。>< ヘヘヘヘ・・・

52 :
>元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。

10日のズレは編年に大して影響はない。
美濃もん太氏も倉西女史もオマエをせせら笑っていたと観てよい。
そんなものは、極めて○ンマなやり方だ。ww

53 :
成務天皇元年(辛未一三一)正月戊子《五》◆元年春正月甲申朔戊子。
成務天皇二年(辛未一三二)十一月壬午《十》◆二年冬十一月癸酉朔壬午。
成務天皇三年(癸酉一三三)正月己卯《七》◆三年春正月癸酉朔己卯。
2年11月1日から3年1月1日までは、60日である。

54 :
成務天皇三年(癸酉一三三)正月己卯《七》◆三年春正月癸酉朔己卯。
成務天皇四年(甲戌一三四)二月丙寅朔◆四年春二月丙寅朔。
3年正月癸酉朔から四年春二月丙寅朔。までは、413日である。
つまり、成務3年は383か384日である。

55 :
う〜ん、誤魔化さなくていいいんだよ。ww
早くオマエもインチキ多数字の抽象羅列で説明したふりをせず、具体的に
説明の詳細を41年からしてみたらいかが? へへへへ・・・
いまだ1回も具体的説明が無いんだよ。どうすんの?

56 :
>成務3年は383か384日である。
再度言う。
オマエは1年が365日しか無いとうるさく言ってたが、オマエ自身は
いいわけか?ww これでは自語相違であるがねぇ〜。pupu・・・
随分自分に甘いオマエだな。>< ヘヘヘヘ・・・

57 :
>10日のズレは編年に大して影響はない。
懿徳天皇元年(辛卯前五一〇)二月壬子◆元年春二月己酉朔壬子。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
季節が倍年を否定している。

58 :
そんな季節は後付け。倍暦法の成立に不合理はない。不合理は成務4年分
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

59 :
「二月は春だ」というだけで、全然否定になってないじゃん。

60 :
>>56
太陰暦とは、19年7潤、つまり1章の積み重ねである。
うるう年とは、1ケ月長い、だから384日程度となる。
書記の”朔”は月齢1日を指す。その証拠として”季節”まで書き込まれている。
うその記載をしたら、舎人は大罪だろ?
だから、書記の太陰暦は認められる。

61 :
>うその記載をしたら、舎人は大罪だろ?
そのとおりだよ。だから年代撹乱の空年をインチキ挿入するわけもない。
オマエの『空年』は成立しない。

62 :
ホツマ真理教に、常識など通用しません。

63 :
>つまり、成務3年は383か384日である。
なるとコレ ↓ はオマエか〜??ww
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

64 :
仁徳天皇八七年(己亥三九九)正月癸卯《十六》◆八十七年春正月戊子朔癸卯。
仁徳天皇八七年(己亥三九九)十月己丑《七》◆冬十月癸未朔己丑。
履中天皇元年(庚子四〇〇)二月壬午朔◆元年春二月壬午朔。
仁徳87年10月から履中元年2月の間に閏月が隠されている。
266年仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月戊午《四》◆閏十一月乙卯朔戊午。
266+(19*7)=266+133=399年
399年仁徳87年には、閏11月が隠されている可能性が大きい。

65 :
そんな抽象数字の具体性の説明ない書きこみはクソの役にも立たない。
オマエの焦点外しはもう結構だねぇ。
西暦41年から具体性ある詳細説明としてみい。
出来ないんじゃぁ<空年>なんか2ちゃんの賢人はうなづかないぜ。

66 :
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
日本に仏教が入るのは、早くて6世紀末程度である。
その前に△縁仏像鏡があるが、これは仏像と認識できても、観音像とまでは認識できない。
認識できるのは6世紀末以降であろう。
考古学を否定している太国だからできる技である。
考古学を正しいとする私に西暦を振れないのは、正しい選択である。
太国倍年がさらに支持を失うだけのための書き込み。

67 :
オマエのは畿内の朝廷のほうの仏伝だよ。それに公式佛伝だ。
九州は景行が行ってもまだまだ畿内朝廷の傘下にはない。
つまり九州のかなりの地域が畿内とは別国だ。
別の国の佛伝は6世紀とは言えない。

68 :
>オマエの焦点外しはもう結構だねぇ。
書記に記載された季節は正しい。
であるならば、四季は書記の記載年だけ存在しなければならない。
太国倍年は成立しない。
結構な主張だろ?
書記に記載された、四季と朔は正しい。ただし―660年は無い。

69 :
オマエの大好きな牛頭天王でも読め。
http://blogs.yahoo.co.jp/pwbdt973/34216481.html

70 :
季節は後付けなのさ。
雄略4年春2月(紀)=雄略4年秋8月(経)だという
ことだねぇ。つまり当時の8月が通常暦法では2月だっ
たということだな。双方の文献が、紀の季節の後付け
を支持してるのさ。マシなんか紀元0年は別だが、
存在しな〜い。そんなことをすればパクられて、失脚
せねばならなくなる。つまりでかい利害もないのに、
そんな危ない橋を渡ることは考えられない。つまり
オマエのよく調べもしないで考え出したオマエの妄想
だということだ。ww
上の雄略の記事は当時、春秋2倍暦法が存在したことを
裏づけているのだ。これを観ればオマエのマシなんぞ
信用する奴は限りなく0に近づく。ww
これは仮説で誰かさんが主張していたが、安康から以後
は元嘉暦、それ以前は春秋暦でだった可能性が、大成経の雄略4年のこの記事で有力になった感がある。その
春秋暦が安康の次代でまだ強く残存していたから、雄略
4年(安康の4年前)にこれがしっかり出ていたわけ
だな。雄略の寿命は
古事記   124歳
日本書紀 62歳
であり、紀が通常暦法、記が2倍暦法の数え方だったと
いうことになる。雄略4年の記事から、紀の季節は
後付けだとの証明にある。マシというはインチキだね。

71 :
http://www.megaegg.ne.jp/~y-tanaka/junrei1.htm

72 :
ホ04157 アマノハラ ソムホゐますも ヒトヒとぞ
天の原 60年居ますも ひと日とぞ
太陰暦を19年=1章の積み重ねと考えれば、
正しい暦に空白の数字を加算して、n章多くしても太陰暦のまま読める。
この場合、書記の季節と朔は正しいが年度のみ加算されたとなる。
あとは、文献と考古学と整合させるだけ。
考古学をひっくり返して充てても整合したとはだれも認めない。

73 :
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜
〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。><
>正しい暦に空白の数字を加算して、n章多くしても太陰暦のまま読める。
読めたところで、誤訳では論そのものだ。pp
>考古学をひっくり返して充てても整合したとはだれも認めない。
考古は湯理科誤の如くクルクル書き換えられる。数十年後にはまた換わる。
そんなものはアテにはならない。考古を駄目だという連中はいくらでも
いるぜ。ww

74 :
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜83年? ?
懿徳天皇 84年?〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1、2年の異常は崇神と同じ暦のため。
崇神天皇 188年〜216年 2章 
垂仁天皇 217年〜239年 4章 
景行天皇 240年〜261年 2章
成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含む。
仲哀天皇 266年〜274年 0章
神功皇后 275年〜344年
仁徳天皇 313年〜399年
応神天皇 345年〜387年
履中天皇 400年〜405年

75 :
空年数字加算?pp これで ↓ 57年の空年がどこにあるんだね?ww
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

76 :
天津神算木とは崇神紀の三輪山の説話の三輪(半径r=3の円)の球化の
体積=表面積 の数式をいう。(景行紀ではな〜い。)
天津神算木(天津金木)
 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)
大祓祝詞に曰く(大中臣のニセ編年撲滅の<下命>の文)
 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
 3≠113.097335=113.◎97B350
左辺と中辺から
 B.C.3113年 9月7日 マヤ文明元年 始原日
右辺〇数字◎Bは数的にミワ(三輪)と読む。その中
に B.C.97年 崇神即位元年 の通説年代がある。
この真の年代は右辺の〇数字の両脇の数列 113 350
から、その差にて求まるのである。すなわち
350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
を得る。大中臣の宣言により、インチキ年代たる188年
を祓いに祓って、日本古神道の真の年代が顕現される。
毒書秀魔電はイカサマたるお助け年代の景行世をことさら極超誇張をして
賛美するただのオッサンの編書を〜ペテンでのカリスマ化を狙う大妄想を
組み立てに至らしめる危険な史想の要警戒書であり、各々方はこの書に
厳しく用心せねばいけない。崇神没年=188年 を祓いに祓って、わが
神州をこの188年イカサマ説から防衛する。

77 :
神武天皇 42年〜63年 弥生X式土器の始まりと中期の銅鐸から後期の銅鐸への切り替え。
銅鐸の切り替えは、治世者の入れ替わりを意味する。
崇神天皇 188年〜216年 弥生後期後半 銅鐸祭祀の終焉。
この終焉は、新羅192,3年の飢饉がきっかけである。
つまり、銅鐸の神は飢饉で人々を守れなかった、だから人々は銅鐸を自ら捨てた。

78 :
土器でどうして41年だと分かる?
日本の土器には<年代>が振ってあるのか?ww
オマエが恣意的勝手に決めたわけのことよ。ご都合で何の説得力もない。

79 :
>この終焉は、新羅192,3年の飢饉がきっかけである。
新羅が飢饉だと即日本が飢饉になるわけもない。精神病院で診てもらえ。

80 :
>>70
>季節は後付けなのさ。
舎人は大罪を犯した。
太国倍暦は後付であることを証明できない。
季節を無視しても”月”は太陰暦である。”朔”がそれを証明している。
5,6月が無いと主張しても、1年の長さは太陰暦のそれである。

81 :
太国倍年の神功・応神紀は、書記の記事を無視している。
それを正当化する主張は無い=太国倍年は無視してよい。

82 :
>舎人は大罪を犯した。
そのとおり。
>太国倍暦は後付であることを証明できない。
季節は後付けなのさ。 ↓証明できている。空年じゃぁ説明できまい。
雄略4年春2月(紀)=雄略4年秋8月(経)だという
ことだねぇ。つまり当時の8月が通常暦法では2月だっ
たということだな。双方の文献が、紀の季節の後付け
を支持してるのさ。マシなんか紀元0年は別だが、
存在しな〜い。そんなことをすればパクられて、失脚
せねばならなくなる。つまりでかい利害もないのに、
そんな危ない橋を渡ることは考えられない。つまり
オマエのよく調べもしないで考え出したオマエの妄想
だということだ。ww
上の雄略の記事は当時、春秋2倍暦法が存在したことを
裏づけているのだ。これを観ればオマエのマシなんぞ
信用する奴は限りなく0に近づく。ww
これは仮説で誰かさんが主張していたが、安康から以後
は元嘉暦、それ以前は春秋暦でだった可能性が、大成経の雄略4年のこの
記事で有力になった感がある。その春秋暦が安康の次代でまだ強く残存して
いたから、雄略4年(安康の4年前)にこれがしっかり出ていたわけ
だな。雄略の寿命は
古事記   124歳
日本書紀 62歳
であり、紀が通常暦法、記が2倍暦法の数え方だったと
いうことになる。雄略4年の記事から、紀の季節は
後付けだとの証明にある。マシというはインチキなのさ。

83 :
>季節を無視しても”月”は太陰暦である。”朔”がそれを証明している。
朔は後付である。観測ならば、もっと目立つ月食の記事がかなり満載
のはずだね。だから観測値とは言い難い。

>5,6月が無いと主張しても、1年の長さは太陰暦のそれである。
それも即断だ。ww

神皇紀
神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、1年を300日と為す。

84 :
>>75 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:17:20.01
空年数字加算?pp これで ↓ 57年の空年がどこにあるんだね?ww
観音像が特定できなければ、西暦を振る意味さえない。
成務を倍年と主張し1〜4年の記事を詰まらせる、そして空いた空間に寺社伝承を突っ込んで
全てに記事があるかのごとく見せる。
そして、神功渡海前に大陸の文化が伝えられたとし、”倭は百済の属国”を主張する下地とする。
季節を後付と主張するが、その証明が無い。
月と朔は太陰暦を主張している。たいいんれきを倍数で朔を得ることはできない。

85 :
>古事記   124歳
>日本書紀 62歳
古事記が引き延ばされて、書記が正しいという主張には使えるが
書記が引き延ばされているという主張には使えない。
だから書記は、嶋王の誕生を正しく伝えている。

86 :
>雄略4年の記事から、紀の季節は後付けだとの証明にある。
嶋王の記述は、墓誌から正しいと認定できる。
ここでも舎人は大罪か?
神功・応神紀でも大罪を犯しているんだろ?
太国倍年はいったい何人の大罪者を想定しているんだ?
成務時代に仏教が流入したことも隠して大罪者を生んだんだろ?
350年ころに神功渡海は不可能である=大罪

87 :
>朔は後付である。
大罪

88 :
>新羅が飢饉だと即日本が飢饉になるわけもない。精神病院で診てもらえ。
年輪降水量のグラフを示して
後漢183年から193年の間は日本でも異常気象であったことを示している。

89 :
崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子《廿七》◆壬子。大彦命到於和珥坂上。
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月。悉平襲國。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲
景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑《二》◆冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。
景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
それ以外の戦が秋から冬にかけて行われる。
簡単に言えば、兵士は百姓を生業とする。だから、農閑期に戦が行われる。
戦国時代に百姓と兵隊が分業するまで続く。
だから書記の季節を無視することはできない。

90 :
神武軍は農業兼業軍じゃなかったな。

91 :
>月と朔は太陰暦を主張している。たいいんれきを倍数で朔を得ることはできない。
あろうとなかろと編年には変動は殆ど無い。太陰暦でやろうと太陽暦で
やろうと、年代は殆どかわらないね。これは美濃もん太氏もオマエの効率
の悪い方法を嘲笑していたようだ。ww
要するに○ンマな方法そのものだ。ww
それに季節を観測と主張するが、その証明が無い。

92 :
>成務時代に仏教が流入したことも隠して大罪者を生んだんだろ?
相変わらず精神病院ご歓迎のこちらの主張してない先行妄想を書きこんで
いる。
朝廷は畿内でない九州の佛伝ことなんぞ、当時の九州が外国であること
から記紀に載せる情報になっていないのは当たり前である。それが
たまたま九州行幸した景行の見分場所は載せてはいるが、こんなのは
例外だ。成務当時の九州は外国に朝廷の各拠点が出来たわけで、このため
成務48年の年代が残ったものである。
日本書紀は九州書紀ではない。ww
オマエは九州書紀という脳内が単純の状況で日本書紀を見回している。

93 :
>日食は数日間も続く
天津罪

94 :
>九州の佛伝ことなんぞ、当時の九州が外国であること
から記紀に載せる情報になっていないのは当たり前である。
成務紀を知らねば記載できない。
知らないのが当然であるから、寺社伝承は後代の作り物。

95 :
寺社伝承は後代の作り物ではない。
オマエの空年こそが後代(つまり現在)のオマエの作り物だということよ。
各寺社伝承は同一人物が残したとは到底言えない。これらは全国津々浦々
にまたがって存在してるのである、つまり各神社伝承等を記録した神官ら
は各々が別人である。すなわち各伝承が独立しているわけであって、
秀魔電笑のように単独少人で作り終えたものではない。
であるから、秀魔電笑は神社等伝承とは無勢に多勢である。多勢は当然
神社等伝承のほうである。おまけに神々に奉仕する等の仕事が各神官で
あるからして態度物腰は低くインチキをする可能性は極めて少ない。
伝承をゴミだと言い張ったオマエは不敬甚だしく、オマエは半島人では
ないかと2ちゃんの皆に思われても致し方あるまい。

96 :
>日食は数日間も続く >天津罪
だから数日と読むことはできない。昼1日以内の出来事。273年の日食
罪に問われない。

97 :
神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉《五》◆其年冬十月丁巳朔辛酉。
神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉《八》◆五月丙寅朔癸酉。
神武東征も複数年に及ぶから、月日は関係ないが、
一応出発は初冬である。

98 :
日を経てとは1日ではない。数日間ということである。
それに日食は1日間にも長くは続かない。
常夜が日食では1日でも続くことはない。常夜なれば皆既日食でなくて
はならぬが、コレで真っ暗の状態はせいぜい数分間であり日を経てには
えらくほど遠い。
つまりオマエの強行したい詭弁なのである。ww

99 :
神武東征時はいまだ神武は倍年暦法を行使してないから、そんなものは
こちらの倍暦には影響がない。

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