1read 100read
2012年1月2期日本近代史47: 【戦前】 旧制の学制について 【教育】 (393)
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼 ▼
・ 次のスレ
48: 司馬遼太郎の歴史観について (926)
51: 天皇って何もの? (680)
53: 原爆投下は、正しかった (344)
55: 明治維新の元勲は長州藩ではなくイギリス人 (113)
【戦前】 旧制の学制について 【教育】
- 1 :10/10/14 〜 最終レス :12/01/19
- 1
- 2 :
- NHKスペシャル「明治 第1集 ゆとりか、学力か」は必見
- 3 :
- 実業学校に進学した人はどういう意識で進学したのだろう。
- 4 :
- 尋常小学校6年(5年修了可)
中学校5年(4年修了可) 高等小学校?年
陸軍幼年学校
高等学校3年 各私立大学予科 専門学校 海軍兵学校機関学校 陸軍士官学校
帝国大学 私立大学
大体こんなだと思うんだけど、詳しい人、追加・修正よろ。
・時代によるぶぶんもあるかと
・厳しかったのは大学入試より高校入試。
(高等学校の定員より帝大の定員の方が多かった)
・兵学校、士官学校も難関。(但し、陸軍は幼年学校出身でないと出世しにくい)
・小学校の2年だか3年だかで通常男組と女組にわかれたはず。
・師範学校をどこにいれるのが適当なのかわからない。
- 5 :
-
■現存する旧制大学設置年表■
1877 東京★
1893 学習院大学科(旧制学習院大学) [学習院学制法]
1986 [帝国大学令]
1897 京都★
1907 東北★
1911 九州★
1918 北海道★[大学令]
1920 慶應義塾 早稲田 國學院 中央 日本 法政 明治 同志社
1921 東京慈恵会医科 京都府立医科
1922 龍谷 専修 立教 立命館 関西 東洋協会(拓殖)
1924 京城(ソウル)★ ※ただし現在のソウル大学側は、京城帝国大学の後身とは認めていない。
1923 大谷
1924 立正
1925 駒沢 東京農業
1928 台北(台湾)★
1926 日本医科 高野山 大正
1928 東洋 上智
1931 大阪★
1932 関西学院
1939 名古屋★
1943 大阪理工科(近畿)
1946 愛知 東海
※旧帝国大学と現存する旧制大学のみ。★は旧帝国大学。()内は現在の大学名
- 6 :
-
■東大と学習院のトップ争いと緊密な関係の歴史■
1868年 京都学習院(現在の大学・大学院に相当)
吉田松陰が京都学習院を庶民の通える日本一の教育機関(今の東大)にするよう主張 長州系志士達に意思を託した
遷都していなければ、京都学習院が現在の東大・東大院になるはずだった。
1868年 京都学習院に対抗して昌平学校(今の東大・東大院)を東京に設立。日本一の高等教育機関のポスト(現在の
東大のポスト)を巡って激しく争った。
その後、京都学習院は大学校代に、昌平学校は大学校になったが、東京遷都により、日本一の大学争いは、京都の
学習院が敗れ、東京にある現在の東大の勝ちとなった。結果的に敗れた京都学習院は一旦廃止
その後1888年に東京に場所を移し、かつての京都学習院に与えられていた『学習院』の勅額が改めて下賜されて
宮内省管轄の官立学校として再出発した。
1893年 学習院に大学科を設置した。★この時点で大学は東京帝大と学習院大学科の2つしか日本になかった。
(なお1872年の学制実施で、現在の大学に繋がる専門学校はたくさんできたが、まだ大学ではなかった)
しかし、東大との覇権争いの再燃を恐れたのか、学習院大学科と東京帝大が重複するという理由で 1905年に
学習院大学科を廃止し、学習院大学科の代わりとして東京帝大を充当した。(ある意味、東大と学習院の合体)
これにより学習院大学科在学生は全員東京帝大に移籍、その後も旧制学習院高等科からは無試験で東京帝大に
進学できることとなった。のちの三島由紀夫、吉田茂など
学習院がこれ以降終戦まで大学部門を持たなかったのは、東京帝大を旧制学習院大学として代用していた為である。
GHQの意向により、1947年に、政府により学習院学制法が廃止され、再び大学部門を創設し学習院は私立として再出発
しかし、戦前からの伝統は引き継いでいたので、東大との緊密な関係は続いたまま現在に至ることとなった。
その為、現在でも学習院大学教授陣のレベルは東大と並び日本一の水準を誇っている。
★古い大学ランキング★ @東京帝大 A学習院大学科 B京都帝大 C東北帝大 D九州帝大 E北海道帝大
★国立大教授の人事異動時の格付(現在)★ @東大 A学習院大 B京大 C東北大 D九州大 D北大 D阪大
- 7 :
- 飛び級制度は、合理的だと思う
今の教育システムは悪平等であり、優秀な人材の芽を、あたら潰している
国家的な損失(=国民全体の利益)は計り知れない
- 8 :
- でも、戦前の飛び級制度でも
小6飛ばして中学に入る奴はほとんどいなかったらしいね。
中5を飛ばして高校はいる奴はそこそこいたみたいだけど。
- 9 :
- 本来、中等教育は中高一貫つまり旧制中学があるべきすがただとおもう。
第二次世界大戦終結直後は無理としても、戦後はやいうちに新制高校を義務化できなかったのがくやまれる。
- 10 :
- >>9
宮大工とか中卒で鍛えないと出来ない職業は壊滅するだろw
- 11 :
- >>4 師範学校は高等小学校終了で行けたので中等教育としての側面もある。
どこの地方でも中学校と師範学校は仲が悪かった。
- 12 :
- >>9 その場合、現行の都道府県立高校と義務教育として市町村立中学の流れをくむ
新高校とで、旧制の高等小学校と中学校みたいな複線になる。
公立高校で中学部を作る動きが最近あるがそれがもっと加速するだろう。
「地獄への道は善意の布石から!」 >>9さんが意図したことと逆になると思う。
美濃部知事が推進した学校群制度を思い出す。
今の高校で教えている内容は結構高度で、旧制中学と同じく同世代の25%くらいの
頭脳を前提としている。義務教育化すると大幅な見直しが必要になるだろう。
底辺高校ではほとんど成り立ってない。試験の前に丸暗記させて単位を通しているだけ。
アメリカなど高校を義務教育にしている国は飛び級を推奨していて縦方向の学歴
で差をつけている。
- 13 :
- >>5 長崎医大など旧六医大や東京工大はどこに入るのですか?
- 14 :
- >>10
つ定時制
- 15 :
- 最低でも職業高校の希望者全入はやるべきだった。
- 16 :
- >>15 工業高校は中堅の技術者を養成するはずだったが入学者の
品質が悪いためブルーカラー養成機関になり下がっている。
本来、工業高校に期待されている機能は今は高専が担っている。
- 17 :
- >>16
中等教育は、高等教育機関への登竜門あるいは中堅ホワイトカラーの養成のためにあったのが、
第二次世界大戦の日本では高度経済成長による急激な学歴インフレがおきてしまったのがいび
つな発達をまねいてしまったような気がする。
- 18 :
- 第二次世界大戦→第二次世界大戦後
- 19 :
- 第二次世界大戦まえの学校制度は少数のホワイトカラーが大多数のブルーカラーを
指導するという職業構造を想定したもので、大多数のブルーカラーとなるべき国民は
よみかきそろばんさえできればいいというものであった。
戦後の学校制度もそれをある程度ひきずっているのだが、第3次産業の発展にあわせ
た改革ができなかったのがいたい。
- 20 :
- 金錨の軍帽に純白の制服を着た海軍兵学校の学生が、夏休みに帰省すると
楽しいことがいっぱいあったんだろうなぁ・・・
- 21 :
- >>20 学生× 生徒○
そこらへんの事情は豊田穣氏が自伝的な小説で書いている。
- 22 :
- テンプレ 戦前の学制 (1935頃)
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/33/SchoolSystemJapan.jpg
- 23 :
- 戦前の学制は、19世紀後半ごろの米英を参考。
エレメントSch.(4〜6年)≒尋常小
ジュニアSch.(1〜2年)≒高等小
ミドルSch.(5年前後)≒中学校
ハイSch.(3年前後)≒高等学校
カレッジ(2年前後)≒大学教養課程
ユニバース≒大学専門課程
- 24 :
- ウチの親父は工専卒
時局のための学校ね
- 25 :
- >>24 うちの親父も九大の特殊工専。
帝大の工学部に戦時の臨時工専部ができたんだね。
- 26 :
- >>25
大体、今、国立大学の工学部になってんね
- 27 :
- >>26 戦時特殊工専にかぎらず旧帝大に併合した例と独立した工業大学になったパターンが
ある。東北帝大工学部+仙台工専=東北大学工学部、名古屋工専は独立した名工大になった。
東北大学の学生だった頃、教授に「SKK(仙台工専)を併合して格が落ちたのでは?」
と質問したことがあるが「いや、東北帝大になかった土木工学科とかSKKがもってきて
くれたので、こっちにもメリットがありました。」と言われた。
- 28 :
- >>27
明治工専が九州工大ね
- 29 :
- 私大は、法律系か、宗教系かだったんだろ、明治時代は。
- 30 :
- >>29 1918年(大正7年)の大学令まで日本には私大は存在しなかった。
私立専門学校が自称していたことはあっても公的なものではなかった。
- 31 :
- >>30
日本女子大も自称、ほんとの大学になったのは戦後
- 32 :
- しかし残念ながら慶應義塾は明治23年(1890年)大学部に医学科を既に擁していた。
- 33 :
- 法的には医学専門学校じゃないの?
- 34 :
- >>32
それがいまの慈恵なんだろ
- 35 :
- 医学所廃止後→大学部医学科→医学部
しかも慶應義塾は文部省区分では「各種学校」
唯一、専門学校上がりの私立大学ではなく、唯一の総合大学だったのだ。
- 36 :
- 「各種学校」は大学じゃねえw
それに、早稲田だって大学令以前から理系の学部を持ってたわな。
- 37 :
- 和田w
旧制専門学校の枠では無かったから各種学校扱いで徴兵免除も東京大学と同等。
江戸時代から医学・理学をやっている。
和田みたいなゴミとはレベルが違う。
- 38 :
- >>36
東京専門学校が理系?
帝国教育会や大日本教育会に送り出した教育者って誰か居るのか?
後藤牧太みたいな
- 39 :
- >>38
理学から始めてコケたんだよ
- 40 :
- >レベルが違う。
なんだ。学歴自慢するなら板違い。
- 41 :
- 親戚のお爺さん(大伯父)は日本医学専門学校に入学したが、1926年の大学令によって
旧制日本医科大学となりそのまま居続けて学士として卒業でき幸運だと言っていた。
- 42 :
- >>41
日医と慈恵だけだもんな、戦前から大学の私立医大は
- 43 :
- >>42
慈恵も今はかなり入学難しいんだな。
金さえ積めばOKの私立医大というイメージだったけど。
- 44 :
- >>43
金だけは、底辺私立医大ね
- 45 :
- >>35 今でいえばアメリカの大学が作っている日本校みたいなあつかいだな。
講義のレベルは大学だが法的には各種学校。
- 46 :
- でも戦後しばらくは、私学なんぞ、、
大学いくなら国立という時代だった、
たとえ早慶でもね、
- 47 :
- >>46 今でも田舎ではそうだよ。
- 48 :
- 歴史の無い大学は駄目でしょう。
地方の国立大といっても日本は藩校の流れを汲む所が多い。
ポッと出の私立法律専門学校と一緒にされては困る。
- 49 :
- >>47-48 田舎と言っても県庁がある街で県立高校をでたけど、「慶応の推薦」というのが
毎年回ってきていた。模試はからっきしダメだが真面目で中間期末テストが好成績の
子が決まっていた。一般入試なら地元の駅弁にすら入れないくらい頭は悪いけど
超真面目な子を救済する良い制度だとおもった。
のちに東京で働くようになって慶応大学の社会的地位が高いのに吃驚した。
- 50 :
- >>48
創立百年なら、まあ歴史だろ
- 51 :
- >>49
慶應法は30年前と今とでは結構偏差値が違うようだ。
- 52 :
- 旧制大学昇格時に早稲田ではなく二松学舎を昇格させれば良かったのになあ
まあ、時代のせいか薩長のゴキブリ官僚が作った大学ばっかりが早く昇格したし。
- 53 :
- >>10
>宮大工とか中卒で鍛えないと出来ない職業は壊滅するだろw
そういった職業は前期中等教育が義務化されるまえは尋常小学校をでてからなるひとがおおかったとおもうが、
よく前期中等教育の義務化がうけいれられたとおもうよ。
- 54 :
- >>53 いまどき中卒を集めるのも難しいと思うが、あえてやると不登校とか
の問題がある子がきてしまう。どうしても若年から鍛えなくては成立しないなら
歌舞伎役者みたいに世襲制でやるしかないだろう。
舞妓さんも今では高卒18歳以上でずいぶんトウが立っている。
戦前は尋常小学校卒12、13歳でなっていたわけだ。今の円光どころでなく
おびただしい数の少女が戦前には行われていた。
- 55 :
- >>54
学歴インフレ化の負の面だね。
- 56 :
- 大正頃までに県立中学はほぼ各郡に1校づつ整備されたけど、
県立の高女や農学校は各県に1,2校しかなく、地域の要望に応えて
高女や農学校が郡立で設立された。
元々仕事といえば学校を作るぐらいと言われていた郡は大正時代に廃止され、
郡立の学校は県に移管されて県立となった。
- 57 :
- 青年学校といって尋常小学校や高等小学校を卒業して就職したひとのための学校があり、
第二次世界大戦中には19歳まで義務化しようとしていたらしい。
これは結構いいしくみだったはずで、戦後もひきつがれなかったのは残念なような気がする。
- 58 :
- 今は稲田さんとかが徴農しようとか言ってるから
青年学校をデフォルメしたような発想は、
まだどこかにあるような気もする。
- 59 :
- >>57
> これは結構いいしくみだったはずで、戦後もひきつがれなかったのは残念なような気がする。
軍事教練を受ける人口を増やしただけのものだと思ってた。
「いいしくみだったはず」のあたりをくわしくききたい。
- 60 :
- ■神戸一中の進学状況(昭和)
32 33 34 35 36 37 38 39 40
東商大予科 8 6 5 7 2 9 9 3 4
阪商大予科 2 3 10 2 9 4 3 6
神商大予科
県立神戸高商 21 24 28 23 20 20 14 14 17
神戸高工 6 10 9 5 14 8 8 11 12
東京高師 1 4 2 3 1 1 1
広島高師 1 2 1 2 2 2 2 3
慶應予科 2 6 9 9 14 22 22 9 6
陸士 1 1 1 1 1 1 3 3
海兵 3 1 1 2 2 1
- 61 :
- >>60
昭和39年に陸士・海兵が存在してるように見えます。
1930年代の数字ですか?
- 62 :
- kyuusei kookoo ni haitta mono wa 9 nen kan 1 hitori mo inei noka.
kyoto no 3 koo niwa ukaru mono nasi?
seiseki zyun ga areba naho omosiroi ze.
- 63 :
- >>60
神戸一中だろ。
メインで進学してたのは旧制高校のはず。
- 64 :
- 旧制神戸一中卒業生の進路
h ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110004048742
「プレビュー」で上位15校の一覧表が見られるよ。
- 65 :
- >>59
>「いいしくみだったはず」のあたりをくわしくききたい。
どの国民も後期中等教育程度の学問を身につけられるしくみにできたかもしれない。
- 66 :
- >>64 おまいらが大好きな陸士・海兵がほどんどいないね。
- 67 :
- 転載
--------------------------------------------------
海軍兵学校と陸軍士官学校について
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1288680742/95
95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/01/07(金) 12:58:24 ID:O6jYjsUl0
うちの爺さんは昭和13年に地元の中学を卒業。進路を卒業生名簿で見ると
(大学卒は最終学歴になっていて高校名は不明。大学名も新制大学名になってる
のもあり当時の名前のもあり、ややこしい)、学年180人中、陸士5名、
海兵1名、東大6名、他の旧帝大7名、東工大・一橋・東京外大など他の国立大11名、
私立大33名、師範学校7名、国立医大6名、医専11名、歯薬専2名、
高商・高工・高専32名、陸工・予科練など軍学校6名、実務学校19名、
芸術系大2名、高校4名、になってる。
この数は卒業者で、「陸幼に受かった奴は中学2年で行ったし、中学4年で
一高に受かった秀才は名簿に入ってない。卒業してないからOB会も入れず、
彼等のほとんどが音信不通で気の毒だ」と言っていた。
ちなみに戦死者22名。海兵や海軍関係の学校行った3名は全滅。
陸士は5名中戦死は1名。陸工など陸軍関係の学校行った4人中戦死は1名。
ちなみに爺さんも戦争で死にたくないから陸軍主計学校を受けたが落ちて、
仕方なく早稲田の予科に行った。5つ上の兄の世代は「一高突破」が
中学生の最大の目標だったが、軍国色が強まると軍学校の難易度が
ぐっと上がったと言っていた。当時、二等兵で引っ張られる初年兵教育のエグさは
誰でも知ってたから、皆がなんとか軍学校に滑り込んで将校になりたかったらしい。
関東の田舎だがら陸士目指す者が圧倒的に多く、海兵は少なかったみたい。
ちなみに師範学校は全員地元。私大も2名を除き東京の大学。早慶・日大・中大が多い。
(東大除く)旧帝大や国立医大は当たり前だが全国に散ってる。台北大や満州医大のような
外地も多い。時節柄だろうが実務学校も満州が多い。満鉄付属学校や満州の外語学校とか。
- 68 :
- 母校が府一高女(を前身とする普通の高校)。
百年史見たら、戦前でも意外に上の学校への進学が多くて驚いた。
- 69 :
- ■旧制神戸一中卒業生の進路
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004048742
1 神戸高等商業学校 380
2 第三高等学校 205
3 関西学院大学 110
4 慶應義塾大学 108
5 第六高等学校 106
6 第一高等学校 80
7 神戸高等工業学校 77
8 大阪高等商業学校 55
9 早稲田大学 51
10 第七高等学校 48
11 第八高等学校 40
12 大阪高等工業学校 36
13 同志社大学 36
14 第五高等学校 34
15 大阪高校 26
- 70 :
- >>54
「月給百円」サラリーマンという本をよんだのだけど、第二次世界大戦まえの複線型教育制度は
社会階層の断絶をまねき、下層市民が軍部を支持する原因になったようだ。
戦前は労働者の保護に関心がはらわれていなかったから小学校をでて就職した労働者は酷使
されていたみたいだ。いまでも勉強しないやつは中卒で就職して手に職をつけろというひとがい
るが、もっと戦前の実態をしるべきだとおもう。
「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活
http://amzn.to/fjvul0
- 71 :
- >>70 戦前のものを読んでると「貧乏」なサラリーマンの家にもかならず
女中さんがいるんだよね。生きている家電みないなもんなんだな。
いかに、農村から出てきた人の人件費がやすかったことかがわかる。
- 72 :
- >>71
大正時代に、累進課税の強化、国公立学校の無償化、高等小学校の義務化、農村の振興をやっていればな。
- 73 :
- 鉱業は秋田
獣医は帯広
農学は北海道
繊維は信州、東京農工
水産は旧東京水産大
通信は電気通信
商学は一橋
電機は蔵前
商船は東京、神戸
暖地農業は愛媛
- 74 :
- 通信は東北のほうが上
- 75 :
- >>74
旧高等専門学校で比較しているのだから東北帝大を持ち出すのは反則。
>>73
一橋と蔵前は途中から旧制大学に昇格したのでリストにあるのも変だな。
なぜ、東京広島両高師をいれなかったんだろ? 大学までふくめるのなら
長崎、千葉医大などもいれるべきだろ。
>通信は電気通信
これは戦後の名前で「逓信省なんとか講習所」とかじゃなかったか?
- 76 :
- 学制改革のとき第二次世界大戦まえの教育制度を検証する余裕がなかったのが残念だとおもう。
戦前でも高等教育の大衆化による大卒の価値の低下というのがおきていたわけで、高等小学校を
義務化して、あとははたらきながら職業の知識を身につける職業学校をつくり、そのなかから専門職
と研究者をそだてる大学に進学するというのがよかったかもしれない。
- 77 :
- >>76
>はたらきながら職業の知識を身につける職業学校をつくり、そのなかから
専門職と研究者をそだてる大学に進学する
それをやった中国は何年も遅れましたけど。
- 78 :
- >>76
そもそも、どっちが上ということではなく「技術」と「技能」は別なもので育て方も違うんだよ。
少し前まで大企業でも高卒技術員をとっていたけど作業服の下にネクタイをさせて工員とは区別していた。今、そのポジションに高専卒がついている。
- 79 :
- 旧制高等学校のカリキュラムの中で
特に漢文、英語について
教養としてどういった本がよく読まれてた
のでしょうか。
- 80 :
- >>73
園芸は千葉
- 81 :
- >>78
おたくは学歴インフレに対処するにはどういう方法がいいとおもっているの。
- 82 :
- 学歴インフレへの処方箋 井上晃宏
http://agora-web.jp/archives/805354.html
「学歴社会 新しい文明病」(R.P.ドーア)
いささか古い本だが、著者はまだ健在だ。
ドーアは「学歴インフレ」という病が世界中で蔓延していると書く。
最初は初等学校卒だけで十分に威信の高い職業に就けたのに、教育が整備されるにしたがって、
初等学校卒だけでは差別化できなくなる。このため、社会上層部への移動を目指す人々は、中等
学校に進学するようになる。同じことが、高等学校、大学でも繰り返される。
学校定員を増やさないことは政治的に困難であるが、財政的な制約がある。また、野放図に高等教
育を整備すれば、教育の効率低下を招く。農夫に細菌学はいらない。何らかの方法で、「高等教育
が必要な人」を選抜しなくてはならない。
学力試験、知能テスト、くじ引きなど、さまざまな方法を比較検討した上で、ドーアは、どれも一長一
短があるという。
ドーアの提案する選抜方法は、「職場における選抜」だ。義務教育終了時点で、全員をいったん就職
させ、勤務成績の良好な者を、その仕事に直結する高等教育機関に送り込むべきだという。これなら、
教育目的が明確になるし、卒業後の就職問題が発生しない。
「職場における勤務成績」とは何を意味するのか、どうやって就職場所を割り振るのかという問題は
あるが、Ph.Dが就職できなくて、教育費用が無駄になる、いわゆる「高学歴ワーキングプア」が発生
している昨今では、検討する価値があると思う。
- 83 :
- 戦前の東京には府立中学(高女)と市立中学があったけど、
都制施行で両方都立になったということなのかな?
- 84 :
- 東京六大学は、東京八大学の予定だった。
帝大加入後も、国学院や明治学院や中央とかと模範試合していた。
アイビーリーグが8校。
- 85 :
- >>83
九段高校は東京市立
- 86 :
- >>84
国学院は日大と共に加盟を申請して断られている
明学は慶應と仲がよかった為逆に敬遠されたという話がある
(早稲田と慶應は20年近く対立して試合しなかった)
中央は創部が昭和5年で、この時既に六大学黄金時代
わざわざ声を掛ける可能性は低いし勧誘したという証拠も無い
大正時代に早稲田のコーチが中央の学生に野球を教えていたという記録はある
当時は私大5校は予科生まで試合に出られたのに対し帝大は大学生だけだった
帝大のリーグ加盟初戦は法政で、その時先発した法政のピッチャーは
後に帝大に入学して、「一年生」としていきなりリーグ開幕戦のマウンドを任された
この記録に数十年ぶりに並んだのがあの斎藤佑樹
- 87 :
- >>86
旧制の予科1年は普通に尋常小6年卒・中学5年卒で進学すると17歳だね。
新制の大学1年より一つ年少になる。
尋常小5年修了・中学4年修了だと15歳=今の高1。
まあ、その手の優秀かつ野球やってるような身体頑健な奴は私大に進学
すること自体まず有り得ないだろうけど
- 88 :
- >>12
禿同です。
競争ダメで横並びにして、結果として個性をしていくのはサヨクの常道ですね。
- 89 :
- >>87
早稲田の予科は3年制で、旧制中学4年終了で受験資格があったんじゃなかった?
あと女子師範や女子専には4年制高女卒業者のための予科があった。
- 90 :
- ?
- 91 :
- >>71
日本人と結婚したインドネシア人の女性が、日本は国は豊かでも国民は貧しい
夫の給料では女中一人を雇うこともできない、私の実家は金持ちではないけど
運転手とコックを庭師と女中がいたと言ってた話を思い出した。
- 92 :
- >>91
それで思い出したけど、中流家庭というのはあらゆることを
自分達家族だけでこなしていく家庭であると本で読んだことが
ある。
中流家庭が存在しない世界では上流と下流の家庭しか存在せず、
お互いに依存していないと生きていけない状況下にあるけど、
中流家庭は他者に頼らず自分達家族だけで物事を解決していく
家庭であり、それこそが近代精神なのだということだった。
- 93 :
- >>91-92 九州の田舎には昭和30年代でも賃金を払わないで衣食住だけで
働いてくれる文字通りの「奴隷」がいたよ。その時点で年よりだったkら
戦後突然 「解放」されてもこまるわけだが。
- 94 :
- 統一前の各大学の修業年限(大学予科)
4年
東京帝国大学
3年
京都帝国大学
2年
慶應義塾大学
1年6ヶ月
日本大学、早稲田大学、明治大学、東京法学院大学(現・中央大学)、法政大学
- 95 :
- 戦後教育は底上げとしては成功したけどエリート教育では旧制の学制に分があるな。
80年代まで社会の指導者は旧制高校や陸士海兵の経験者だったけど、彼らがいなくなってから
日本が衰退していったと思う。
- 96 :
- 英国を見習って学制行政を行うべきだった。
ドイツ流にしたのがそもそもの間違い。
- 97 :
- >>96
ドイツは藩みたいな小国が近代になって統一されてできた国だから
事情が似ていて憲法をはじめ法体系が導入しやすかったんだよ。
戦後、アメリカ式にしたのはもっともっと間違い。
- 98 :
- 『戦前の少年犯罪』という本を読むと、旧制高校がDQNの集まりだったかのような
印象をうけるけど、実際はどうだったの?
- 99 :
- >>98 旧制高校がというより社会全体が未開だったんだよ。
今の中国みたいなもんだ。戦後、昭和40年代くらいまでオヤジの立ちション、
放痰はデフォルト動作だった。田舎でキャンプしていると棒をもった
村の青年が襲ってきた。
- 100read 1read
- 1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼 ▲
・ 次のスレ
48: 司馬遼太郎の歴史観について (926)
51: 天皇って何もの? (680)
53: 原爆投下は、正しかった (344)
55: 明治維新の元勲は長州藩ではなくイギリス人 (113)
-