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2012年1月2期日本近代史23: 龍馬暗の黒幕6 (203)
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龍馬暗の黒幕6
- 1 :11/10/21 〜 最終レス :12/01/18
- 1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 09:36:37.68 ID:9g+pXn830
坂本龍馬暗の黒幕は誰なのか議論するスレ 5幕目
過去スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1285595845/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1291987139/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1302318918/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1311204792/
- 2 :
- すみません。誤操作で不完全なままUPしてしまいました。
ややフライングですが、
坂本龍馬暗の黒幕は誰なのか議論するスレ 6幕目です…。
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1313973397/
- 3 :
- 今日も龍馬観光史学の研究ぜよー
- 4 :
- 今宵も龍馬観光史学の研究ぜよー
- 5 :
- うむ。
- 6 :
- 見廻り組の犯行説でほぼ最新の学説は固まりつつあるようですが
では、命令を下したのは誰?容保?永井?
誰なんですかぁぁぁ?
- 7 :
-
- 8 :
- 乙
yahooの知恵袋で
毎日のように
「龍馬暗は誰のせいですか?」
な質問が出るのは仕様なのかしらん
- 9 :
- たけ
- 10 :
- >>6
指示されないと動かない
今のことは違いもんど
- 11 :
- 容保かな…竜馬暗を命令したのは。
ちょうどその時期って佐幕派も薩摩藩邸を先制攻撃するようなクーデター計画を立案しているんだよ。
大垣藩の藩士である井田五蔵が、老中に薩摩藩邸への先制攻撃と明治天皇の拉致(大阪城に確保)を
老中に建白している。
会津、桑名はもとより紀州、大垣、津などの畿内の佐幕派諸藩もこの計画を支援している。
その直後に龍馬の暗劇。
慶喜の突然の大政奉還で徳川内部も大混乱。
内部は大政奉還に一本化されている訳でもない。
江戸だと老中や各種奉行職ですら大政奉還の取り消しと慶喜の江戸帰還がほとんど。
- 12 :
- 老中に建白しているのなら、幕閣、守護職を含めての合議と見なすべきだろう。
幕閣を無視して守護職単独で指示できると君は思うのかね。
- 13 :
- 京や大阪の薩摩藩邸への先制攻撃プランは、ある程度合意が出来ていた。
が、肝心のトップの慶喜がこの先制攻撃プランを拒絶してしまう。
朝廷での諸侯会議で議長や摂政に選出される可能性が大であり、それにかけていた事。
(暫定的に諸侯会議までは、行政執行を幕府に任せるという朝廷の決定文書はもらっていたが)
既に大政奉還し正式な将軍職でもないので薩摩藩邸や御所を攻撃する権限が無い事。
等を理由として慶喜は先制攻撃プランを採用しなかった。
>>11にも書いたが、突然の大政奉還で徳川陣営も大混乱状態。
幕閣ですら慶喜との意見が衝突している有様で、トップの意志決定が下の反発で行き届かない状態。
佐幕派クーデター計画も龍馬暗も慶喜の意思とは反する行為。
第一この時点での慶喜は龍馬の存在を知らない。それなのにどうやってすのよ?www
- 14 :
- >>13
で、一体君が何が言いたいのか分らない。
- 15 :
- 板倉、手代木、永井、渋沢らは大政奉還後も不満を持っていたと丁卯日記にある(らしい)。
一方、容保は手代木によれば大いに不満を持っていると書かれているものの、それが事実かどうかは断定できない。
幕府が諸藩の人間を暗するのはきわめて非常識なことで、江戸時代といえど法治国家だからそれは許されない。
その証拠に清河八郎は老中の命によって暗されたが、関係者は全員罷免されている。
ところが龍馬暗の場合は、下手人は見廻組だと一部に漏れていたと思われるのに誰も処罰されていない。
これをどう考えるかだ。下手人は漏れていなかったのか、それとも幕末のゴタゴタした情勢のためにうやむやにされたのか…。
- 16 :
- 容保が、幕閣の命を受けて、あるいは手代木ら家臣の声に押されて、龍馬暗を決意することは考えられる。
しかし容保が、単独で、自分だけの意志で、龍馬暗を決心することは考えられない。
容保にはそこまで龍馬を憎まねばならない理由がないからである。
しかし永井にはある。永井にとって幕府崩壊は自分の食い扶持を奪われることだからである。
生活の基盤が失われるのである。失業するのである。路頭に迷うのである。
- 17 :
- >>16
意味不明
松平容保はこの事件の後も徳川慶喜の大政奉還へ対抗を止めていない。
- 18 :
- >>17
具体的にはどんな行動を指すのかな?
- 19 :
- >>16
>しかし容保が、単独で、自分だけの意志で、龍馬暗を決心することは考えられない。
>容保にはそこまで龍馬を憎まねばならない理由がないからである。
容保には、あるんじゃね?
大政奉還は、そもそも船中八策から始まったんだし。
会津藩にとっては、龍馬は迷惑な存在でソ。
>>17
紀州藩も大政奉還のサボタージュ止めていないよ。
慶喜に江戸帰還すら要請している。
- 20 :
- >>19
容保と船中八策がどう結び付くのかまったく意味不明。
- 21 :
- 君らは何か勘違いをしていないか?
幕府が潰れるからといって、会津や紀州のような佐幕藩が潰れるわけではないのである。
幕府が潰れて困窮するのは幕臣である。コ川家の家臣である。
だからこそ永井は、将軍の辞官には納得したが、納地の話になった途端にいつもの温厚さに似合わず憤激したのである。
コ川家の領地没収となれば家臣にとっては死活上の大問題である。
容保と永井。どちらにより強い動機があるかは明白である。
- 22 :
- 龍馬がされた慶応3年11月15日の段階では、納地の話出ていないよ。
むしろ慶応3年9月26日には、旗本領からの貢租収入の半分を幕府に拠出させる命令が出ている。
つまり旗本領約300万石の半分は、幕府が収交したも同然。
納地の話が出てくるのは、王政復古以降から。
つまり12月9日から出てくる話。
- 23 :
- では君らに真相を教えてあげようw
井田や三浦は憤激していた。土佐藩討つべしの声も上がっていた。
しかし後藤や福岡のような大物を狙うわけにもいかない。そこで標的を坂本と中岡にした。
井田と三浦は近藤勇に話を持ちかけた。近藤もその気になった。しかし上司の許可がいる。容保と永井、どちらにすべきか。
永井にしたと私は見る。その理由は−
1 近藤は永井と同伴して後藤の話を聞くなど、普段から永井と接触があったが、容保は守護職屋敷に籠ってニート状態だった。
2 近藤はこのとき幕臣で、同じく幕臣の永井からの許可だけでよいと考えた。
3 暗に新選組を使うと容保の許可がいる。容保は幕閣に相談するだろうから、その時点で暗計画がばれる。
4 見廻組は幕臣の集団だから幕臣の永井だけの許可で動かせる。
5 永井は幕閣で、永井個人の独断だけで暗指令を出せる地位と権限を持っている。
以上の理由から井田、三浦、近藤らが永井に相談し、永井がゴーサインを出した。
- 24 :
- 真相じゃなくてあなたの希望的観測でしょw
- 25 :
- 永井は大政奉還に望みを託していたし、龍馬とも会談しているから、暗指令を出すはずがないという意見もあるだろう。
なるほど、それはそうである。しかしこういうことも考えられるのだ。
最初はたしかに永井は龍馬と会談し、大政奉還にも理解を示していた。
しかしそのうち龍馬が戦争に備えて銃を大量に土佐藩に入れたという情報を得た。
龍馬への信頼が一気に憎悪へ変わる。(おのれ、謀りおって!…)かくして暗決意、と。
- 26 :
- 1.実行犯は見廻組プラス旗本有志
2.黒幕は勝と永井
3.勝は龍馬の怨霊化を恐れて、維新後、龍馬の「英雄的偉業」を喧伝
4.結果として西郷も満足
5.新選組をオズワルトに
- 27 :
- 龍馬と徳川家って春日局でつながるって知ってた?
- 28 :
- 別段、永井が暗を選択する「切羽詰った」状況下ではなかったと思うけど
要は再度龍馬を呼んでその場にて「捕縛」でいいわで
理由は寺田屋襲撃時の嫌疑にて十分であると
第一、意思疎通したろうが敵方みたいなものだったわけで>永井
直後に襲えば、まさしく会津共々「疑われて」至極当然
実際、後日後藤らに詰め寄られたでしょう?
- 29 :
- 「切羽詰った状況下ではなかった」というならどこもそうだと思うが。
「切羽詰った状況下だった」というのはどこなのか。
- 30 :
- 考えられるのであれば、佐々木らの「単独行動」とか
理由としては、やはり捕縛されても可笑しくない龍馬を上層部がスルーしているとところに憤慨
しかも駐屯傍を「堂々」と行き来ww
元は格下たる新撰組のが世に知れ渡り、では「こちらは?」というと然したる成果は無い状態
直前、幕府別働隊と騒動を起こし「敗北」w面目丸つぶれ状態
そこに龍馬るチャンス到来〜って線w
- 31 :
- >直前、幕府別働隊と騒動を起こし「敗北」w面目丸つぶれ状態
これについて詳しい説明希望
- 32 :
- 慶応3年3月24日
在京の幕府歩兵が徒党を組み、与頭佐々木只三郎、同内藤七太郎の旅宿へ発砲するという事件発生
ttp://freett.com/sukechika/ishin/sabaku/set04-02.html
佐々木の欄にて詳しく
- 33 :
- それなら知っているが、直前ではないな。
- 34 :
- 時間間隔て人それぞれかぁ
では今年一年、果たして「長かった?短かった?」みたいな
- 35 :
- 短かったわああ
- 36 :
- ヒマだから、以前書いたことをもう一度書く。
司馬遼太郎は、自分の代で幕臣に取り立てられた者ほど、幕府への愛着を持っており、幕府が潰れることに憤りを持っている、と書いている。
永井、佐々木、近藤、渋沢らがそれに該当する。春嶽が風聞として書き残した原市之進もそうである。
龍馬暗を企てるのは、この連中がいちばん怪しい。
- 37 :
- つまり、京都に招かれて守護となった松平容保が、司馬の説ではその中で一番怪しい。
- 38 :
- 松平容保を擁護する人は別の人を挙げようと必死だが、
その人が挙げる他人の動機とやらは、松平容保の動機と考えたほうがしっくり来る。
例えば京都で取り立てられて権勢を振るった者が怪しいなら、松平容保が一番怪しい。
家柄を飛び越えて権威を得た成り上がり者が怪しいのなら、京都に迎えられた松平容保が怪しい。
他人のせいにしようと必死な割りに、松平容保の出身を考慮していない。
- 39 :
- >>37〜>>38
松平容保は藩主であって幕臣ではないのだから、君の主張は無意味。
また会津藩はいやいやながら守護職を引き受けたのであって、君が書いているような栄進ではなかった。
永井については調べれば調べるほど怪しい資料が出てくるが、容保については何一つ出てこない。
会津藩は資料を処分したからだというかもしれないが、要するに容保を黒幕とする人は、
手代木の遺言と、見廻組が守護職の配下だったという単純な理由だけを根拠としている。
私に言わせれば、下手人が見廻組だったということがむしろ黒幕が永井である証拠である。
その理由は>>23の3で述べた。
- 40 :
- 甘いねー、もうじき、あっとおどろく為五郎が出るらしいよ。
そちらの方が、がぜん、おもしろいらしい。
小説家の龍馬暗の本は、駄目だとさ。
- 41 :
- 誰が黒幕でも驚かない。考えられるほとんどの人物は考察した。
- 42 :
- 41さん、そんな大口をたたいて良いのかな。
ほとんどの人物を考察したと述べたが、それは、甘いということですよ。
驚かないのは、構わないけど、
真摯に受け止めることも、できないと駄目ですよ。
今後、おもいもかけない人物が出てきた時。
- 43 :
- 私が驚くとしたら、松平容保が犯人だったときだけだろう。
慶喜、勝、春嶽、容堂…だったとしても驚かない。
もちろん薩摩でも驚かない。
ただし長州だったら少しは驚くだろう。
あとは…外国人だったらやはり少しは驚くだろうか。
他では………龍馬のごく身近な人とか…。実は私はお龍さんの関係者ではないかと疑ったことすらあるのだ。
- 44 :
- 驚くな!とは行っていないのだよ。
文章を良く見なさいよ。謙虚になりなさいといっているのです。
でも、永井の説も悪くはないけど、大政奉還と、王政復古の間で
龍馬は死んでるし、永井が大政奉還を失敗とほぞをかんだんのは
王政復古後だからね。ここが大きな弱点。
- 45 :
- 十中八九、松平容保なわけで、他人をいくら上げても無駄
- 46 :
- 実際、永井尚志は、最初から大政奉還に敵意を漲らせていた松平容保に比べると、暗を行う動機が弱い。
土佐藩が薩摩藩の了解が得られずに大政奉還への動きを中断させていた時に、
なぜ大政奉還を提案しないのかと、大政奉還の提案を出すように永井が小言を言ったという記録が残っているし、
その後、別にもっと良い手段があるのではないかと迷っていて松平春嶽などから、お前の計画なのに覚悟が足りないと小言を受けた
話もあるが、それは>>36の主張するような幕府が潰れることへの憤りではない。
永井尚志は新しい政権の中枢に座ることを意図し、積極的に幕府の解体をやろうとしていた。
この希望が破れるのが王政復古、そして鳥羽伏見の戦いによる朝廷・薩長連合の政権化であったのだが、
坂本龍馬暗は、永井がまだ大政奉還に夢を抱いていた時期のことだ。
- 47 :
- >>46
>>25のようなこともありえますよ。永井は射手座。射手座は二面性がある。
容保は山羊座。山羊座の特徴は慎重なこと。石橋を叩いて渡るタイプ。
龍馬を暗するとなると、必ず幕閣に相談したと思う。
会津藩だけで勝手に決めて実行するとは思えない。
- 48 :
- 止めてくれるかな。星占い。それより、薩摩藩の西郷説は、
どうなのよ。会津びいきの中村??が、最近も本で、薩摩藩を唱えて
滑稽だけど。半藤も薩摩説だけど、
二人とも、東北出身は、会津藩は、犯人にしたくないのよ。
- 49 :
- 星占いも立派な材料だ。犯罪捜査では男か女か、大人か子供か、血液型は?…などを捜査資料とする。
星座は日本では無視されているが、アラブ世界では星座で結婚相手を決めているという。
私は占星術を学んだから、それも資料として利用する。
薩摩説はないと思う。
- 50 :
- 知り合いに宿の斡旋をたのんでおきながら「無警戒?」てのが解せない
- 51 :
- 一般に言われているのは、永井と会談したりしているから油断していたのだろうということだ。
つまりそれも永井を怪しいと思わせる一根拠となっている。油断させておいて暗したということだ。
暗するなら、永井を訪ねてきたときにればいい、とか、永井邸からの帰宅途中にればいいという意見もあるが、
それでは永井が疑われてしまう。
- 52 :
- 坂本龍馬及び中岡慎太郎暗事件は、旧幕府系の犯行というのは動かない。
実行犯に見廻組隊士の証言があるのみならず、新撰組の当時の行動も極めて怪しい。
まず、大政奉還を後藤象二郎が諸藩、特に会津藩に通知してからの近藤勇の行動をみると
・大政奉還建白書の写しが欲しいと書簡を送る
・正親町三条を脅迫し、大政奉還をするなと言う
・徳川慶勝と松平春嶽に、会議を欠席し大政奉還推進を止めるように脅迫
また、暗事件の直前に、新撰組が土佐藩邸や陸援隊屯所を監視していて気持ちが悪い、という海援隊隊士の書状がある。
そして暗事件後に新撰組隊士が、「近藤勇が佐々木只三郎に、龍馬暗の首尾感服しました」などと近藤が言っているのを聞いている。
つまり新撰組特に近藤勇は、坂本龍馬暗計画を事前に知っていた。
坂本龍馬暗は、新撰組と見廻組を同時に動かせる人間の命令ということになる。
- 53 :
- つまり薩摩か
- 54 :
- 中村半次郎やでえ
- 55 :
- 近藤勇と新撰組の行動を見ると、
新撰組の大政奉還への敵対行動は、土佐藩が会津藩などに、大政奉還建白書を旧幕府へ提出したと通知した直後から始まっており、
近藤勇と佐々木只三郎が、暗事件直後に互いに暗の同士だと認める言動を行っていることを考えると、
見廻組も、全く同じ時期に坂本龍馬を狙う行動を具体的に始めたことになる。
これは永井尚志が大政奉還を知った時期よりかなり後で、しかもこの頃は永井尚志も板倉勝静も大政奉還成立に向けて
精力的に活動していた時期にあたる。
何しろ、徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還願は、板倉がこの時期に国許へ依頼して書かせたものであることが判明しているから。
すると、>>23で、新撰組と見廻組を統括しているのは永井だから犯人は永井なのだ、としているのには大きな疑問がある。
永井や板倉が精力的に大政奉還を実現しようとしている時、既に暗者は坂本らを狙っていた。
また、>>23で松平容保はニートだから犯人じゃない、という言い方もおかしい。
松平容保は、気に入らない大政奉還や長州の復権問題討議に関しては、病欠申請を連発しで全ての業務を停滞させたが、
同時期の黒崎への武器搬入、新撰組などを用いた監視などは強化されており、容保はやりたいことに関しては貪欲且つ旺盛な行動を見せている。
- 56 :
- 永井尚志も慶喜に薩長軍の入京阻止を進言しているけど、
坂本龍馬暗の11月15日より少し後なんだな。
11月の末ごろの事で、これだけみても永井の龍馬暗への関与は薄いと思う。
容保が会津藩邸に引き篭もっているからニートとは限らんよな。
部下にやらせれば良いのだから。
- 57 :
- >>52>>55は容保先生でござるなw 先生にしては説得力ある投稿でござるw しかしまだまだ甘いぜよ。
たしかに近藤勇は暗前から暗計画を知っていたと思われる。しかし他の隊士は知っていた様子がない。
それは後に新政府軍に捕まった隊士たちが口を揃えて「われわれは知らなかった」という旨の証言をしていることによって分かる。
とすれば暗前から知っていたのは近藤だけだ。ということは近藤、佐々木、井田、三浦、渋沢らが計画を立て、
それを上司に進言したのだと思われる。すると後は>>23で私が述べたような推理に結びつき、結局近藤らは永井に進言したと思われる。
>>55は事実誤認がある。永井は近藤よりずっと早く大政奉還建白を知っている。
>>56も、それは永井が幕府に愛着を持っているからで、やはり幕府崩壊に対して腹を立てているからである。
- 58 :
- って事は長州藩の誰かか?
- 59 :
- >>57
事実誤認はあなたのようです。永井は近藤よりずっと早くに大政奉還を知っているし、そのように私は書いています。
あなたの憶測は穴が多い。近藤の暗に同心していた行動を考える上で、
永井が大政奉還に邁進していた時期とのずれが問題なのですよ。
近藤や佐々木が坂本龍馬暗に向けて行動していた時期は、永井は大政奉還推進に懸命だった時期なのですよ。
この時期に坂本を呪っていた人間といえば、黒崎に重火器を運び込んでいた松平容保さんなわけです。
- 60 :
- >>57
> 56も、それは永井が幕府に愛着を持っているからで、やはり幕府崩壊に対して腹を立てているからである。
これはあなたの話のすりかえです。永井は大政奉還によって幕府に代わる新政府の中枢に就くことを確信し、
大政奉還を積極的に推進しています。
彼の姿勢がその後反新政府になったのは、王政復古と鳥羽伏見の戦いで、彼が新政府から逆賊の汚名を着せられて追い出されたからです。
司馬遼太郎の言葉だから権威があるという主張は、陳腐です。
- 61 :
- >>59>>60
では聞くが、その黒崎に重火器を運び込んでいたというのは松平容保あるいは会津藩の単独意志によるのか。
それとも幕府からの指示によるのか。
また新選組等が土佐藩の監視を強化したのも、守護職もしくは会津藩の単独指令によるのか。
それとも幕府からの指令によるのか。
どちらも守護職もしくは会津藩の単独意志によると証明でもしないかぎり、あなたの意見は説得力を欠く。
- 62 :
- >>61
お説ごもっともなのだが、「彼」には通用しないんだよwww
- 63 :
- よく言われることだけど、中岡が真の標的ってことはないの?
龍馬はその場にいたおまけ扱いで
中岡の方が幕府にとってアンタッチャブルな存在なきもするけど
- 64 :
- では何故に彼に「留め」を刺さなかったのか?
一説には「死んだマネw」若しくは隣の家の屋根に逃げていた等々
屋外・内の違いは当然あろうが、清岡に対して「2名」で望んだ人物が
それと同等か+αにて望んだにもかかわらず
ナマス斬り程度で済ますとは考えられない
- 65 :
- >>62
いや、しばらく見ないうちに容保先生もなかなか腕を上げたようだ。
実は私も内心タジタジしている。
- 66 :
- 永井は、薩長による王政復古のクーデターを阻止する進言は慶喜にしているが、
大政奉還や朝廷への政権一元化には反対していない。
永井は王政復古のクーデター直前に後藤に新政権では郡県制が採用され、
幕藩体制よりも中央集権化される事を報告している。
10月14日に大政奉還がなされ11月に入ると二条摂政や中川宮までが辞意も洩らし始める。
そこで後任の摂政には時局ガラを考えると五摂家は無理で徳川慶喜が任官すると言う噂が流れている。
この動きに合わせて、五摂家や清華家などの上級公卿が、徳川慶喜に将来の政権構想の意見書を
提出するよう求めた。そして五摂家は、ニ条摂政に太政官八省庁の復興案を提出し、朝廷新政府の組織構築の動きまで出始めている
この動きを断ち切ったのが、薩長の王政復古のクーデターだ。
薩長の邪魔が無ければ、慶喜主導の朝廷新政権が出来ていた。これには永井ら在京幕閣は反対していない。
- 67 :
- >>62
永井説に根拠がないことについて、あなたは何も語らないし
- 68 :
- >>61
永井が坂本龍馬に、安全に留意すべきと助言を与えていることを考えれば、
少なくともあなたの言う「永井が命令した」は可能性が薄いと思われますが。
- 69 :
- >>66
>大政奉還や朝廷への政権一元化には反対していない
>薩長の邪魔が無ければ、慶喜主導の朝廷新政権が出来ていた。これには永井ら在京幕閣は反対していない
それは容保についてもまったく同じことが言えるのではあるまいか。
>>68
>永井が坂本龍馬に、安全に留意すべきと助言を与えている
そのソースは暗当日に永井が中根に語った言葉ではないのか。
他の資料が根拠ならともかく、永井が語ったことだからそのまま信用するわけにはいかない。
- 70 :
- いくら、永井尚志だ、松平容保だと言っても、
明確な証拠なり、状況証拠がないと、駄目ですよ。
二人とも、幕府側というだけですから、根拠は。
それでは、話にならない。
驚きの真犯人、黒幕が、今後、突然出るかも。???
- 71 :
- >永井が語ったことだからそのまま信用するわけにはいかない
そう判断すると、龍馬を評した維新獅子の話も
「信用」出来ないよなぁ〜と
- 72 :
- >>70
いや、パズルで言うなら「ピース」はほぼ埋まっていると思う
ただ、暗につながるピースが
埋まっていないだけだと思う
- 73 :
- >>70
驚きの真犯人、黒幕について、なにか新説をお持ちなのですか?
もしそうなら、是非披露してくださいよ。
- 74 :
- >>69
>それは容保についてもまったく同じことが言えるのではあるまいか。
会津・桑名両藩は、朝廷新政府ではポストが確約されては居ない。
むしろ排除されている。この為に幕藩体制から朝廷新政府設立への
構想を持った龍馬は、会津藩にとって邪魔者でしかない。
紀州藩も16代将軍候補を抱えているので、慶喜の大政奉還には内心反対。
田安亀之助に早いトコ将軍職を繋げたい。
- 75 :
- >>74
会津桑名が朝廷新政府でのポストが確約されていないからといって、会津桑名が潰されるわけではない。
全国のどの藩も潰されるわけではないのだ。徳川家もあの時点では潰されると決まっていたわけではない。
コ川幕府が大政権を朝廷に奉還しただけ。
龍馬をしたからといって朝廷新政府でのポスト獲得には何の利益もない。幕府にとっても会津桑名にとっても。
- 76 :
- 73さんへ
新説があるかということだが、来年には、出てもおかしくないよね。
磯田氏の「龍馬史」で納得するやつなどいない。
ど素人を磯田氏は歴史家と言いながら、推論でだましたようなもの。
歴史家のやることではないからね。
そういえば、中村氏も会津びいきで、今年、また、薩摩説を
唱えてるけど、そうか、中村氏の本も出てたか。
もう、何年、薩摩藩説を唱えてるかな????
- 77 :
- 「贔屓」ってなんだよwな話
会津絡むと「思考停止」が多くなるのが問題
- 78 :
- >>75
>会津桑名が朝廷新政府でのポストが確約されていないからといって、会津桑名が潰されるわけではない。
諸侯は京都守護職と京都所司代の罷免を要求しておりました。
つまりこの両名は永井や板倉と違い、大政奉還の後の新政権成立でお払い箱が確定していたわけです。
大政奉還自体を嫌うわけですね。
- 79 :
- >>78
会津藩が、最初、守護職就任を拒否した理由は知らないが、膨大な出費になるから、藩財政を圧迫することがその理由の一つだったのではないのか。
藩の破滅を覚悟で引き受けた、というようなことを、どこかで読んだような気がする。
そうすると、お払い箱になることは藩にとって必ずしも不利ではない。むしろ内心喜んだかもしれない。
- 80 :
- 坂本は大政奉還の後ハシゴを外されたなw
自分でかけたつもりのハシゴを
- 81 :
- >>79
残念ながら、松平容保の京都守護職への未練、固執は並々ならぬものがありまして、
西郷頼母ら国許の帰還要求を再三はねつけ、西郷には処罰を与えております。
京都の権力に酔っていたのでしょう。
- 82 :
- >>79
また、鳥羽伏見の戦いにおいて、必ずしも開戦に積極的でなかったとされる徳川慶喜の意見を無視し、
京都への進軍を主張したのが、他ならぬ松平容保らであったことを考えると、
松平容保の京都守護職への復帰への執念は、主君の意すら押しのける強烈なものであったといわざるを得ないのです。
- 83 :
- >>81>>82
あなたの書いていることが真実なら、たしかに、容保がかぎりなく怪しいということになる。
しかし歴史の真実を見極めるのは極めてむずかしいものである。
たとえばミャンマー。軍事政権が悪でスーチー女史が善という構図が出来上がっているが、
真実は逆で、軍事政権側こそかつての植民地時代に最も虐げられた側であり、ビルマ独立のために闘ってきた側である。
また先の大戦で日本はアジアを侵略したと言われるが、事実はアジア解放のための戦いであった。
薩長が勝ったので会津は悪者とされているが、真実は分らない。
容保を必要以上に美化するのも考え物だが、必要以上に貶めるのも真実から離れることになる。
- 84 :
- そんなに小難しく考えることはない
「だから」容保がやった・・・・という「証拠」にはならないから
- 85 :
- 残念ながら>>78と>>81が事実。
王政復古のクーデターで慶喜が提出した将軍職辞表は受理された。
残る京都守護職と所司代をどうするかで朝廷新政府の三職会議は紛糾大議論になったが、
慶喜が、二人を解任してあっけなく落着してしまい、薩長もほっとしている。
そもそも薩長とも討幕戦争は、
京都守護職と所司代職などの京の支配権を巡って始まると思っていた形跡がある。
それを慶喜側が切ってくれたので京都守護職と所司代職は、争点にならなかった。
慶喜も、そろそろ容保は京都守護職を辞める頃合だと思っていたんだろう。
だったら畿内に近い桑名藩はともかく、この時点で慶喜も容保を江戸か国元に返すべきだっただろう。
大阪城に会津藩兵や容保を置きっ放しにした慶喜も悪いね。
3千数百名の会津藩兵なら幕府海軍軍艦数隻に乗せて江戸に戻す手もあった。
紀州藩の軍艦を借りても良いしね。
- 86 :
- 京都での権力に酔っていたという点では永井にもその気配がある。
龍馬暗のちょうど一ヶ月後に若年寄に栄進。旗本としては異例の大出世。
自己の出世のために龍馬を暗したという見方も考えられる。
近藤、佐々木、渋沢らの一代幕臣組が功を焦ったという見方も可能だ。
- 87 :
- 慶喜の幼少のころの逸話の有名な話(wikiにも)で”寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせ・・”な件
実は、それに関して慶喜は「幼少の自分にいつまでもそのような刀を傍に置いておくはずがない」と
すでに認識していたとする話も残っている
要は「周りが結局どうにかしてくれる」「自分は将軍だから」的思考の持ち主であったと
慶喜にとって会津・桑名は「格好」の餌だったわけさ〜
いざなときのね(相手へのね)
- 88 :
- >>86
>永井にもその気配がある。
残念ながら、そのような説は聞いたことがありません。
また、諸侯に嫌われ罷免を要求されていた松平容保・松平定敬と違い、
他の旧幕府官僚には新政権内での官僚として再雇用の道がありました。
板倉・永井らの旧幕府への大政奉還説得での口上は
・徳川慶喜は二条公に代わり、幼少の天皇(=明治天皇)の摂政になる可能性がある
・新政権で徳川慶喜が首班となり、旧幕府官僚が官僚になり、諸侯が大臣として参加すれば、旧幕府官僚は維持される
だったわけです。
しかし、諸侯が嫌い、罷免を求めていた松平容保・松平定敬には新政府における任所がありませんでした。
「無職で国許に帰国せよ」が徳川慶喜と諸侯の松平容保・松平定敬への対応だったわけです。
この二人が大政奉還に強硬に反対し、大政奉還自体を潰そうと狙ったのは、止むを得ないと思われます。
- 89 :
- >>88
幕府の職は失っても藩主は藩主。藩が潰れるわけではないから帰国すればいいだけ。
また定敬は大政奉還の手伝いをしているのだから、強硬に反対していたわけではあるまい。
また大政奉還がなされてから一ヶ月が経っており、いまさら龍馬を暗しても大政奉還が覆ることはないことくらい、容保も永井も理解していたはず。
- 90 :
- >>89
>幕府の職は失っても藩主は藩主。藩が潰れるわけではないから帰国すればいいだけ。
>>81,82の再掲ですな。松平容保は地位に縋ったりはしなかったはず、と説くにしては、未練がありすぎるのですよ。
- 91 :
- >>89
>また大政奉還がなされてから一ヶ月が経っており、いまさら龍馬を暗しても大政奉還が覆ることはないことくらい、容保も永井も理解していたはず。
これについても、松平容保らと江戸在住の幕府関係者らの起こした「大政再委任運動」によって、
京都の板倉・永井は、大政奉還を推進するために>>88のような説得を続けざるを得なかったわけですし、
これらの「大政再委任運動」で京都に押しかけた人間の説得が終了するのは大政奉還の数ヶ月後、
つまり坂本龍馬が暗された時点は、板倉も永井も、大政奉還に反対する松平容保や江戸の関係者の説得に懸命だった時期に相当します。
そして、鳥羽伏見の戦いでは、進軍に消極的な慶喜を押しのけて松平容保らが進軍するあたり、松平容保は大政奉還に納得していなかったと思われるのです。
- 92 :
- >>91
疑問が二つ。
1 >これらの「大政再委任運動」で京都に押しかけた人間の説得が終了するのは大政奉還の数ヶ月後
数か月後はもう鳥羽伏見の戦いが始まっているから、何かのまちがいでは?
2 討薩の上表は慶喜が書いて朝廷に提出したのではないのか。
- 93 :
- >>92
始まっていないと思います
- 94 :
- また、徳川慶喜が鳥羽伏見開戦に消極的だったというのには、本人の証言があります。
曰く、戦いを求める騒ぎが抑えられそうに無かったからやむを得ず書いた、と。
- 95 :
- 要するに、大政奉還で新政権入りを規定路線にした慶喜、板倉、永井らと、
排除が決定的な松平容保とは、大政奉還への姿勢は異なる。
坂本龍馬暗事件は、容保の大政奉還への抗議として捉えられる。
- 96 :
- >>95
そうだね。
容保に新政府のポスト無いんだよ。
散々使われて、使い捨てなので可哀想ともいえる。
>・徳川慶喜は二条公に代わり、幼少の天皇(=明治天皇)の摂政になる可能性がある
慶喜とニ条摂政は、親戚同士。
慶喜摂政構想は、
山城一国(二十五万石)丸ごとを朝廷の直轄領として献上する事との引き換えだった。
禁裏御料と公家領併せて10万石だから、朝廷の貢租収入は3倍以上に拡大する。
それぞれの公家の朝廷からの歳費もそれに比例して拡大する可能性があった。
特に五摂家ら上級公卿への手当ては、拡大する可能性が大きく、
この時点での公卿の態度は、慶喜さまさまだった。
また、大政奉還時の細かい打ち合わせの時…
ニ条「大政奉還後も、今までどおり禁裏御料の管理は、幕府の御家人がやってね」
慶喜「はっ!?は…(そのくらい自分でやれよな!)」
- 97 :
- >徳川慶喜が鳥羽伏見開戦に消極的だったというのには、本人の証言があります
本人の証言といえば、摂政就任の件は慶喜本人が否定しているのだが。
「そんなにことは知らない、永井などが勝手にやったのだろう」みたいな発言をしているのだが。
- 98 :
- 慶喜の明治時代の言い訳では、大政奉還で幕府は、もう滅びました。
あとの事は、全てまわりの責任です、私は知りません。
と言うものだ。逃げているんだよ。
- 99 :
- ということはつまり、徳川慶喜が鳥羽伏見開戦に消極的だった、というのも信用できないのでは?
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