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2012年1月2期世界史69: 朝鮮通史スレ2 (555)
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朝鮮通史スレ2
- 1 :11/06/13 〜 最終レス :12/01/19
- 【前スレ】
朝鮮半島について
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284144373/
朝鮮半島の歴史書について、古代から現代までの通史を語ろう!
- 2 :
- サウラビ!
- 3 :
- スレたて乙
- 4 :
- 百済と新羅の社会体制について知りたいのに、くだらないイデオロギー論争ばかりでまともな概説書がない。
- 5 :
- 【関連スレ】
【三韓から】古代朝鮮【後三国時代】
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/whis/1231231310
高麗・李朝スレ その4
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/whis/1190989578
何故朝鮮は中国化しなかったのか?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1295700255/
〜韓国の真実〜
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284975905/
- 6 :
-
. ∧_∧ +
ニワトリカエセヨー ( ´Д`) +
(つ つ Π
. + ( ヽノ ⊂二⊃ これは乙じゃなくて鶏泥棒の軌跡ニダ
(( し(_)  ̄ ̄フ <`∀´ヽ> rァ 勘違いしないようにするスミダ >>1
/, (つ つ' {
(、__, ( ヽノ <彡}
+ (( レ(_フ,i,i,' +
- 7 :
- 俺は武臣政権時代の地方政治について知りたい
- 8 :
- 牛峯崔氏、慶州崔氏というのは、ちと韓国の変形(気優位・理従位)朱子学主流とはカルチャーが違う。
そのカルチャーは韓国では主流ではなくても、日本ではかなりメジャーだったりする。
崔氏は、斉の崔杼を崇拝する悪魔信仰を持った部族(clan)
神農炎帝・牛頭天王、日本ではスサノオさんと類似した悪魔信仰を持っている。
崔氏の武臣政権は、ナンバー2の位置につけ、高麗王を傀儡とするのだから
斉の崔杼と同じ政治手法なのだ。
ミカドと徳川幕府の序列では、徳川のほうがナンバー2、でも当時のミカドは傀儡。その構造だ。
政治は割合簡素。全国一律ではなく各地にあわせた税制。貨幣の改鋳による金融政策。
これが徳川のやり方だ。
- 9 :
- 崔氏政権は、朝鮮半島南部の政権としては農本主義に偏らず、
遊牧民のような流通を重視した政権なので李氏朝鮮とは毛色が違う。
モンゴル帝国に対抗するためには、農耕民族のままではダメで、逆に遊牧民的になる発想があったようだ。
- 10 :
- 檀君=スサノオ説
- 11 :
- つーことは、崔氏も朝鮮半島北部系?
- 12 :
- >>8
湖南収奪・飢餓輸出 秀吉と目のつけどころが本当に似ているのが崔氏政権
韓国における崔氏の評価は当然低い
- 13 :
- 朝鮮史を詳しく知るにはやっぱりハングルの本が読めなきゃダメなのか?
日本語で武臣の本なんか無いし。
- 14 :
- とにかく朝鮮人の被害者を偽装した対日攻撃に強くなることだ。
彼らは史実の隠蔽、歪曲、偽造、二重基準、レッテル貼りを総動員してかかってくる。
日本人も知的な武装が必要だ。
価値観では日本第一主義、論理は、日本は無条件で日本が損することはしない。
そして利敵行為は許さない。
これは朝鮮人と戦うときには、彼らと同じ利己的な価値観になれということである。
そうすると彼は納得する。日本人のノホホン論理は通用しない。
駿河山人「がんばれ産経新聞」より転載
ttp://pub.ne.jp/surugasankei/
- 15 :
- >>13
韓国では人気がないから望み薄
北朝鮮の書籍は入手できない
遼寧吉林の「東北工程」に期待するとよろしいアル
,, .
、、、、_r ´ `、
ヽ/ ̄ ̄ヽ、 `、
│ 満 │ '
│ ヽ r‐ │_ '.
│ /ーヽ│ ヽ '、 _,__
,;‐、_,,.<ヽ| |ノ`‐、く─ - 、.-ー''"´ `、
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'´ i' i' ` ̄ `、一 _,,.-/_,, ./
ヽi' i' 、、、 | ̄ ,:'ィ´
i~ 、``` |
`|、、、、``` |
`i 、、、``|
|、、、、``` |
/ ヽ
- 16 :
- 明朝清朝
↓
∧∧ 朝鮮王
/ \ ↓
( `ハ´) ∧ ∧
( ~__))__~) <`Д´ >,, ノ ))
| | | (( l|lll|lll| (⌒,)
(__)_) と< とノレ
∨ ∨ Σ ガンガンガン
- 17 :
- 朝鮮王の三跪九叩頭って清朝からじゃなかったっけ?
- 18 :
- >>14
>>15
>>16
別のスレでやってくんない?
- 19 :
- スレが即死する恐れがあるので 30レスぐらいまでは枯れ木も山の賑わい可
- 20 :
- >>13
ハングルが主に使われるようになったのって近代からだろ
それ以前の資料は漢文じゃね?
- 21 :
- 現代韓国で書かれた自国の歴史本つうことだろ
武臣政権=高麗時代にハングルなんぞあるわけねーだろ
- 22 :
- 「後百済」と「後高句麗」というのは面白い存在だ。
新羅と並立していた国の名を持ち出して新羅の権威を相対化した。
日本で天皇家の権威を相対化するために「後吉備」とか「後毛野」とか
の国ができてても面白かったが、
結局安倍か安藤くらいか。「朝敵」の子孫を名乗ったのは。
- 23 :
- 韓国は日本以上にイデオロギーが絡む国だからなあ…
まともに研究している人がどれほどいるやら
- 24 :
- 後期百済の王族の民族意識なんて面白そうだ。
都を「扶余」とか名付けたのは
中国北周の再鮮卑化政策みたく、
自らの韓人化を押し戻すためのものだったのだろうか。
- 25 :
- 何で王姓が「扶余」か「余」で一貫しないんだろうな>百済
- 26 :
- 中国風にした一字姓が”余”というだけだろ。
- 27 :
- 漢陽(扶余)→コムナリ(韓化)→扶余(再扶余化)
みたいな感じかね?
- 28 :
- >>22
もしかしたら大内氏は?
- 29 :
- >>26
でもたとえば扶余豊璋だったら本邦の書紀だとこの四文字だけど、
三国史記、旧唐書全部で表記が違うじゃん
まあ三国史記と旧唐書は姓「余」で一致してるけど
シナ風に改名したなら倭だってそう表記するだろ、公式の名乗りなんだから
一致しないってことは当時公式ではなかったんでない?
- 30 :
- >>29
明史で戦国関連の話を読み解こうとして楽しい感じになってくるとどうでも良くなるよ。
呼称が一致しないのがもう当たり前みたいになってくる。
多分、国内&日本公式な名乗りは扶余、中国向けには余、後の政権としては中国姓が本流なので余ってだけでじゃないかとは思う。
- 31 :
- >>29
なんで公式の名乗りとかで一方に決めないといかんのよ。w
>>30氏の言う通りだろ。册封される以上、必要に応じて内外で使い分けたということで
問題ないだろ。で、大和王権の一字姓も”倭”だったりする訳だ。
- 32 :
- 姓ではないが、倭の五王は一字名を名乗ったな。
- 33 :
- 冊封時に○○を××に封じる、と証明が来るんだから
それと違う名前を名乗ってたら乱(まで行かなくても内部分裂)の根拠にされる
元々氏姓制度のなかった倭国なら国内までは適当に対処できるだろうが
中原とちょくちょく往行があった朝鮮半島、それも三国時代にそんな愚行は不可能だ
宋書の倭姓や高句麗の高姓は姓がなかったからシナ側が国号から勝手につけた、と解釈されてるけど
「アメノタラシヒコ」みたいに二字姓なら二字のままシナの史書は記録してるのだから
百済王があえて倭相手にのみ「扶余」を名乗ってたってのは十分問題になりうると思う
というかちゃんと研究してる人がいるわな
- 34 :
- っていうか扶余さんが「これからは中国風に余にするからそう呼んでくれ」
と言ったのに倭側が「え?お前フヨだろ?」って改名無視して記録し続けたのではw
- 35 :
- 別に外交関係を結ぶからって、漢姓を名乗らなくてはならないなんて話はない。
秦・漢・五胡・北朝・隋・唐・五代・宋・元・明・清 全部そう。
冊封文書にも「順義王 把秃猛可」とか普通にいる。
二つの呼び方があるのは、北朝と南朝がある時代なら、
南朝だけ漢姓を名乗らせるのを強要したということでok。
- 36 :
- 新羅の王なんて、521年に梁に遣使した時は募姓だったのに
564年に北斉に遣使した時は金姓に変わってるぜ
- 37 :
- 雲南滇国も、楚系の荘姓から、秦系の嘗姓に代わっている。
- 38 :
- 「金」は金の卵だけど、
「募」ってなんだろ。
- 39 :
- 朝鮮法制史のほんとかはないの?
- 40 :
- >>36
初耳だったんで調べたらwikiがひっかかったが、読み下しミスってんじゃねーの?
>普通二年 王姓募名秦 始遣使隨百濟奉獻方物。
の「王姓募名秦」は「王の姓は募で名前が秦」じゃなくて
「王姓を秦の名から募り」=王を秦(漢人系)の有力者から選んで、だろ
冒頭から新羅は秦からの移民が作った「秦」韓だ、と記述してるんだから
というかこの発端は同一人物が同時代に別の姓を名乗ってる(記録されてる)事、だろ
>>33
>百済王があえて倭相手にのみ「扶余」を名乗ってた
この方面で二国の特殊関係、となると「A国がB国の分国だったから」と脊髄反射するのが多いからなあ
異民族の記述なんか所詮最古の書の引用だから転記ミスで「扶」が落ちただけとも考えられるけど
- 41 :
- すると梁書に「秦人から共立された新羅王」の姓名(金原宗?)が記されてないのはなぜなのか
- 42 :
- そりゃ伝わらなかったからだろ。
百済の使者に便乗して連れてってもらうくらいの新しい小国ってかムラの長
(其國小、不能自通使聘。)だったんだから。
法興王の先代の智証麻立干が国号や王号って国内制度を整え、
それまでの独自文化を順次シナ風律令制度に変えていく。
智証麻立干は「先代に子がなかったので」「先代のはとこが64歳で即位」
と無理やり系譜繋げた感があるが、
その後の新羅は一気に国内まとめて対外拡張に乗り出すんで、大きな支持基盤があったんだろう。
始点に於いては三国で一番シナ文化の受容が遅かった新羅が
唐への事大って大博打で三国統一ってのは面白い流れだ。
>>40
黒歯常之とか鬼室の例もあるし、記紀が当時のまんまで、他はシナ風の記述に変えたんでないの。
- 43 :
- 高句麗が三国を統一する可能性は有ったのかな
それとも中国と直接国境を接してしまっている以上、隋や唐の侵略を受けて滅亡するのは避けられない運命だったのか
- 44 :
- 新羅でなく百済が半島を統一していたら
- 45 :
- >>43
隋と高句麗が開戦したのは、高句麗が突厥と組んで遼西を侵したからだし
おとなしくしてれば高句麗による統一もありえたんじゃねーの?
高句麗がシナ北西部への野心を持ち続けるから、
新羅の「ウチが半島統一すれば従順な舎弟になります」って条件も説得力持ったんだし
- 46 :
- 昔は疫病・不作で国内が安定しないから「おとなしくしてる」ことこそ難題だがなあ
労働力と食べ物がなけりゃ戦争で余所から奪ってくるしかない
三国時代の同盟組んで破棄してって目まぐるしさは欧州並だよねw
- 47 :
- 馬弁辰(秦)というのは方角だったりして。
- 48 :
- 馬韓の東(辰)に土地をもらったから辰韓で、秦人が建てたから秦韓
たぶん辰韓から分かれた(弁別)から弁辰
…じゃあ「馬韓」はどこから来たんだ、後漢以前は真番だったのに
- 49 :
- 「弁」は朝鮮語で「カル」と読むらしい。(「金」を「ソ」と読むようなもの。)
「カラ」に似てるな。
- 50 :
- >>49
そもそも朝鮮語自体、三国時代には存在してない。
- 51 :
- 穢(夫余)語と韓語は別言語だしな
- 52 :
- あれ、朝鮮語の祖先は韓語のほうじゃないの?
- 53 :
- >>52
そう 韓語のほうだろうね。
- 54 :
- はい?
高句麗…扶余語
百済…扶余語(ただし民衆は違う言語を使っていた)
新羅…中国語と似た言語を使用(多分、秦の言葉)
どこで朝鮮語が使われていたって?
- 55 :
- 補足:
金官・伽耶(任那)…倭・扶余・漢族など雑多な民族が住んでいた。
要するに朝鮮語(の祖語?)が使われていたという証拠はどこにもないんだが?
- 56 :
- >>54
中国語と似た言語は辰韓の時代で後に新羅として朝貢した時には別言語
じゃなかったっけ?
- 57 :
- 新羅で中国語を隅々まで使っていたの?
- 58 :
- 中国語っていうの曖昧だからやめへんか
漢語でも苗語でも延辺朝鮮語でも、中国語だ。
- 59 :
- 秦語、漢語、楚語、越語、四世紀でも4系統ぐらいあるな
- 60 :
- 朝鮮通史スレ2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1307973798/
- 61 :
- >>48
真番・・・吐番みてぇな名だな
- 62 :
- 単に番という字が蛮族を意味するだけじゃ・・・
あと>>60は何故このスレにこのスレのURLを貼ったのだろう
- 63 :
- 小学校の日本史で
古代朝鮮半島は日本よりも進んでいて進んでいて
と妙に強調して教えられたのですが、ほんとに進んでたの?
稲作が緯度の高い朝鮮半島経由で伝来とか今でもそう教えてるのかな。
- 64 :
- 紀元前から中国人が大挙して移住してきたんだから、それは進んでるだろう。
馬韓は3世紀になってもかなり野蛮だったと「三国志」東夷伝にあるが。
- 65 :
- 漢字での人名の名付け方って、中国と朝鮮だと似ているようで微妙に違うよな
あの風習の違いはどっから出てきたんだろ
- 66 :
- 新羅の歴代王表を見ればわかるとおり、法興王から突然中国風の名前になる。
- 67 :
- 日本の天皇の実名はたしか淳和天皇から中国風になるんだったけか。
- 68 :
- 天皇に限らず日本の偉い人(貴族とか)の名前は
昔は不比等とか奈良麻呂とかわりとフリーダムだったのに
いつのまにか基経とか道真とか大体決まった二文字の堅苦しいものになっていく
- 69 :
- 唐や新羅や渤海使と付き合う必要もあるしな
源順(みなもとのしたごう)なんていう姓名とも一字の人もいる
- 70 :
- >>56
梁書新羅伝、北史新羅伝
其言語名物有似中國人
その言語、名称には中国人と相似がある。
梁書新羅伝、南史新羅伝
語言待百濟而後通焉。
語言は百済の通訳を待って、その後に通じる。
隋書新羅伝
其文字、甲兵同於中國。
そこの文字、具足、兵器は中国と同じである。
- 71 :
- >>68
昨今話題になってるDQNネームって国風文化なんだよな
今は少数派だけど、現状の漢字1,2字だと表現も薄いし次第にフリーダムな方に向かうのかな
しかしこんな風に一回漢化した名付け方がトップダウンのナショナリズム運動なしで元に戻るのって他にも事例あるのだろうか?
- 72 :
- 北部の漢族が、ネット上のペンネームに
慕容、普六茹、宇文、独孤、大野などを使うんだよね。
彼らは、先祖からの氏族名を持っているらしい。
- 73 :
- >>67-69
しかし日本の場合は読み方は訓読みのまま
基經は「もとつね」であって「ききやう」「きけい」ではないし
道眞は「みちざね」であって「だうしん」ではない
- 74 :
- 鮮卑の指導者はトルコ系かツングース系
鮮卑名への回帰がネット上で見られるわな
- 75 :
- 李朝末期まで、女や身分の低い男は大人になっても朝鮮語名を持ちつづけていたらしい。
岩や草など自然由来の名前だったとか。
- 76 :
- 最近では漢字を持たない固有語の名前も出てきてるらしいね
歌手の金ハヌルとか
- 77 :
- >>68
いつの間にかってか藤原仲麻呂(惠美押勝)以後だろ
唐に憧れて官庁名まで唐風に改名
それは仲麻呂失脚後に元に戻されたけど、
人名地名は元明帝の頃から漢風に佳字二字に改めろって勅が出てたから
それでほぼ路線確定
かつて朝廷に敵対してた被征服地には屎とか悪字がアテられてたからその辺は即改名した
- 78 :
- 惠美押勝は4字名だよね
- 79 :
- 唐だから拓跋部みたいな名前がいいんだろ?
- 80 :
- >>77
二字と言っても、「山部」(桓武)とか「神野」(嵯峨)なら中国色は薄い。
- 81 :
- >>75
日本人は固有名だと理解できないので、人名や小地名を漢語に直させたらしい。
- 82 :
- 辰韓の中国人はどこに消えたのか。
ブリタニアのローマ人のように現地人に同化したり本国に帰ったか。
- 83 :
- 朝鮮南方の漢人は大体日本に移住したんじゃなかったっけか。
大雑把な理解だけど、それが東漢氏やら西漢氏やらの氏族集団に化けて定住したみたいな感じだと思う。
実際は同一祖先ではなくて雑多な漢人難民集団だったっぽいし。
- 84 :
- 朝鮮半島経由で日本に移住した漢人集団といえばまず秦氏なんじゃないの
- 85 :
- >>84
〜やら〜やらで含んだつもりだった。
坂上田村麻呂が念頭にあったので東漢氏系重視しただけでな。
- 86 :
- >>82
日本書紀によれば、秦氏は自称で秦人を出自とし
ほぼ全員日本に引き揚げたっぽい。
五胡の前秦・後秦の裔とすれば、年代的には順当なところ。
律令制での納税人口は約2万人ぐらいで集団が大きい。
- 87 :
- 新羅から来た渡来人はみんな秦氏に組み込まれたのかもな
- 88 :
- 東漢氏は小所帯ながら、漢文が書けたりして
大陸王朝との繋がりが見え隠れする。
北朝だと北魏、南朝だと梁ぐらいの時期の王朝かな?
- 89 :
- 東漢氏は大蔵任されてそれを氏とする集団が出てきたり、統治技術集団っぽい感じだね。
百済経由みたいな話を聞いたが。
どの時期の百済までかはちょっとな。
系譜に矛盾というか異常に長命の人がいて、本当は史書記述よりずれ込むって話もあるし。
- 90 :
- 百済の官僚の中に“王”姓の人がいた。漢人でしょう。
同時に無姓の人もいた。韓人か扶余人と思われる。
高句麗は楽浪郡を滅ぼしているのでより多くの漢人官僚を吸収したはず。
西ヨーロッパではゲルマンの国家が西ローマの官僚を吸収したが、三韓や倭でも同じようなことが起こったわけで。
- 91 :
- >>63
日本の弥生時代に見られる水田、農具、工事用の石器、土器、雑穀、青銅器などのセットが
朝鮮半島西部と南部で見られるかららしい。
遼寧から来た文化と山東半島から来た文化が松菊里らへんで合流して
北九州に渡来したんだってさ。
- 92 :
- >>91
逆だろ?
日本から朝鮮半島へ。
- 93 :
- >>91
うちの考古学の教授が言ってることと違うな。
弥生時代の文化が見られるようになるのは、朝鮮半島より九州南部の方が早い。
縄文時代後期の地層に既には弥生時代型の炉が発掘されていて、
そこから水田の遺構も出土している。
- 94 :
- だいたい山東やましてや遼寧は稲作文化圏じゃないだろ
稲作文化なんて揚子江あたりで形成されたものなんだから
- 95 :
- 稲作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
すでに6000年前には、岡山県に稲があった。
水田は、日本では2500年前、朝鮮半島南部では1500年前、遼東や北朝鮮では近代以後。
朝鮮では陸稲ですら4000年前にならないと見つからないし、
遺伝子的にも、日本の稲と朝鮮・遼東の稲は異なっている。
現在では、江南から直接九州に伝わったとする説が有力だが、
教科書によっては山東→朝鮮南部→九州をいまだに有力視するものもある。
- 96 :
- まあ秦氏はじめ漢人系集団が朝鮮半島から日本列島に大挙移住したのも
その時点で日本の方が水田稲作の普及を背景にして
国力的に豊かだったからって要素も大きいんだろうなとは思うよね
- 97 :
- >>94 現在の遼寧は東北大米といって短粒米の栽培で非常に有名。
黒竜江省の嫩江流域と双璧のブランド米。
品種は「あきたこまち」「ななつぼし」が適しているらしく
日本の種苗会社が、合弁会社を作って進出している。
ただ稲の栽培については、考古学的な弥生期から6世紀頃の間の記録が空白。
6世紀に日本から伝わったと考える余地がある。また晋の文献はマコモと混同している可能性あり。
江南は、長粒種。特に沿海部の杭州や蘇州は長粒米しかない。長沙や貴陽あたりにいかないと短粒米がない。
楚や夜郎の地域と日本との関わりは古い春秋時代には無く、漢や唐の統一王朝期になってからしか関わりがない。
四川雲南の金沙江流域の場合は、大麦が表作、短粒米は裏作。
現代では、輪作障害の対策として短粒米ではなく別の玉蜀黍などがローテーションに入ってきているが
あくまでも大麦が古来からの不動の位置。ラサでは、ツァンパと呼ぶ食糧の原料のことだ。
- 98 :
- 遼寧省あたりでも栽培できるような寒冷地適応型の水稲耕作って
水稲耕作が日本列島の日本海側を北上していく過程で秋田や津軽あたりで確立されたものじゃなかったかね
高緯度地域での水稲耕作ってのは弥生時代初期には大陸よりもむしろ日本の方が先進地帯だったのでは
- 99 :
- 西日本は律令時代から、大麦のほうがメインのような気もする。
輪作障害防止のために片手間に水稲をやっていただけで、大麦の歴史も長い。
稲作をメインにすると、短粒米は病害虫のリスクが西日本では高すぎる。
その証拠に、低地の南中国沿海部では農薬漬け農法が出来た
1980年代後半から短粒米が普及している。
江戸時代になると、新田開発で稲作の生産性が上がるが、新田開発は乱開発だったので
鰻や金魚などの養魚場や蓮根田に転用されてしまっているものがある。
水平な広い田んぼに、油を撒くといった病害虫のリスクが江戸時代にやっと克服できている面を
見逃してはならない。
日本の中四国では渇水が平安時代から現象として存在するので、溜池が多い。
稲作モノカルチャー的な選択をあまりしていない。大麦の歴史に注目すると表と裏から
律令時代以降の農業が見えてくると思う。
- 100read 1read
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