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2012年1月2期世界史63: 海を渡った日本人と、来日した外国人と (104)
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68: 米国社会を牛耳る日本の徳川一族 (152)
海を渡った日本人と、来日した外国人と
- 1 :11/12/14 〜 最終レス :12/01/17
- 日本を後にして外国で活躍した日本人、日本に来て活動した外国人について語るスレです。
※中国(人)と朝鮮(人)は、あまりにケースが多すぎるので、当スレでは対象外とします。
- 2 :
- John Manjiro
- 3 :
- 気
あ を
の 付
朝 け
犯 鮮 .ろ
罪 人
者 .
圖
∧_∧
( ´∀`)
( ○ )
- 4 :
- ダグラスマッカーサー
1945年
日本がポツダム宣言を受諾したことによりアメリカが戦勝国となった
そして翌年マッカーサーは日本へ来日
町を行くマッカーサーに対し敗戦国の礼を取った敗戦国日本兵士は全員町中でマッカーサーの乗る車に背を向け
我々は負けた
いつでも撃ちせ
という敬意を表した
- 5 :
- よく、最初に日本に来た西洋人については、鉄砲伝来の年とイコールだから
話題になるけど、アラブ人がそれより何100年も前に来ていたことは、
意外と知られてないよね。
- 6 :
- 中世に渡来してきたインド人の話は時たま聞くけど、アラブ人ってなかなか聞かないなぁ。
- 7 :
- アラブ人か。蒲って人はアラブ人だと何かに書いてあったな
- 8 :
- 何?蒲って人って?
- 9 :
- 蒲姓の人
- 10 :
- 朝鮮人はケースが多いのか?
- 11 :
- 16世紀のペルーに日本人が20人くらいいたみたいだね
- 12 :
- 飛鳥時代にペルシャ人とかインド人がいたらしいね
- 13 :
- >>12
なにかソースある?
- 14 :
- 海外に渡った日本人というと、やっぱりヤジロウだな。
キリスト教関係者のせいで、過小評価気味だけど、日本発の西洋語翻訳者、通訳者であるわけだし。
- 15 :
- 977 名前:世界@名無史さん 投稿日:2009/02/28(土) 21:30:42 0
遣唐使の一行が陸奥でとれた砂金を持っていったのが中国で評判になり、
「黄金の国」のイメージが形成されたらしいなw
宋代になっても日本から砂金を輸出していたし。
現代になると、中国の泉州とペルシア湾のホラズムが直接結びつき、
ジャンク船を使った中国商人の海上交易が最盛期を迎える。
- 16 :
- 如宝
- 17 :
- 鑑真
- 18 :
- だから、中国人はみんな対象外だっつってるんだろうが
- 19 :
- なぜか日本でやたら有名なのは、ルソン助左右衛門だな。
- 20 :
- 古い時代に渡来したアラブ人と言われているのは、奇叟異珍で、
14世紀後半から15世紀前半の人と言われている。
『重続日域洞上諸祖伝』では南蛮国の人とされているが、南蛮人=ポルトガル人
とも言えないだろう。
- 21 :
- ああ、すまんすまん16世紀じゃなくて17世紀でした
1613年ペルーのリマでの人口調査
- 22 :
- 奈良時代にペルシア人の医者が来日してるね。
- 23 :
- ええー、そうなの?
もっと詳しく教えてください
- 24 :
- >>13
横レスだが、ペルシャ人に関してはたぶんイラン史学者の故・伊藤義教の説だろうね。
飛鳥時代に渡来した達阿(ダーラーイ)を、唐に亡命したサーサーン朝王子の使節としてたはず。
奈良時代前半の人では、実忠和尚=ジュド・チフル(中世ペルシャ語で異邦人の意)を挙げてるね。
1980年代から後、あんまし掘り下げられてる感はないんだが、実際のとこどうなんかなぁ。
- 25 :
- スタルヒン
- 26 :
- 名前だけを挙げるスレじゃないんだけどな。
最低でも、いつ頃日本に来て、何をやった人間かぐらい書けよ。
- 27 :
- >>24
AMAZONでちょっと検索してみたんですけど、『ペルシア文化渡来考』って本ですか?
ずばりこのスレ向きの本みたいですね。
- 28 :
- 奈良時代、創建時の東大寺大仏の開眼供養をしたのは、インド人僧のボダイセンナ。
平安時代初め、三河の国にインド人が漂着した。
彼は綿花の種を携えていたので、それを知った朝廷は綿花の栽培に乗り出そうとした。
しかし栽培技術が未熟だったために種を絶やし、綿の国産は失敗した。
まったくもってもったいない話ではないか。
- 29 :
- 凄いな。
奈良時代にすでに来てたのか。
考えてみれば、大陸はすでに唐になっていて、長安は国際都市で有名だったしね。
ペルシャ辺りの人間も来ててもおかしくないか。
- 30 :
- ヨーロッパ偏重というか、最初にポルトガル人がいつ来たかについては、やたら知られているけど、
ペルシャ人とかインド人が遙か昔に来てたと言うのに、教科書じゃ完全無視だからな。
- 31 :
- >>5
同感だね
唐の時代にはすでに中国には何万人もアラブ人が住みついていて
黄巣の乱の時は相当されているのに、日本に渡ってきたとの記録は
ないのだよな
それから、日本に最初にゾウがやってきたのは、室町期に敦賀の港に
アラジン卿という人が献上したとなっているけど、
その人の素性もあまり言及されないのだよな
- 32 :
- 裸行上人、仁徳帝の頃
法道仙人、推古帝の頃
どちらも天竺の行者あるいは僧といわれる
- 33 :
- >>24
李密翳なんてのもいたね
- 34 :
- 【続日本紀 巻第十二 聖武天皇】
(天平八年)八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す。
十一月戊寅、天皇、朝に臨みたまふ。(中略)唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳らに位を授くること差有り。
【訳】
(西暦736年)8月23日、遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、
帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。
11月3日、天皇は朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らにはそれぞれ身分に
応じて位階を授けた。
- 35 :
- 楠葉西忍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E8%91%89%E8%A5%BF%E5%BF%8D
楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明18年2月13日(1486年3月18日))は、
室町時代の商人。父は天竺人の「ヒジリ」。幼名はムスル。俗名(通称)は天次で、西忍は
出家した後の号。もとは「天竺」を姓とした。
父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性も
あり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の
庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が
生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。はじめ京都の三条坊門烏丸に
居住し「有徳の者」と称されたが、将軍足利義持の勘気を受けて(詳細は不明)、父子ともに
大和立野に移り住み、興福寺大乗院に奉仕する。
父の死後、大乗院の坊主・実弾房宗信の妹・戌亥を娶る。永享元年(1429年)に長男の
元次が誕生した。その後もさらに二男二女を得る。永享4年(1432年)はじめて遣明船にて
明国へ渡航。享徳2年(1453年)二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の
船の外官となり、息子元次を同行させた。南京を経て、首都北平(北京)まで赴き、
直接貿易に関わり、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。
これらの西忍の交易活動は、帰国後興福寺に報告され、大乗院主尋尊によって
「大乗院寺社雑事記」「唐船日記」などに詳細に記されており、当時の日明勘合貿易の実際を
知る上での貴重な史料となっている。
晩年は大和古市に寓居し、文明18年に死去。享年92。
- 36 :
- >>7
足利義持の外交顧問であった楠葉西忍は南蛮人と日本女性の混血児で本名を「務須瑠」と言った。
名前の由来から「ムスリム」つまりイスラム教徒であったようだ。
- 37 :
- 一瞬ムスカに見えた
- 38 :
- >>14
ヤジロウは、デウスを大日と訳したことで、やたらキリシタンの評価が低いけど、
あの当時、ポルトガル語に加えラテン語までマスターし、ゴアの学院で神学を
学んだというのは、かなり凄いことだと思うんだけどな。
- 39 :
- 高岳親王
- 40 :
- 名前挙げるだけじゃなくて、なんか書いてくれよ
みんな知ってるとは思うけど。
- 41 :
- 1632年、肥前の士・森本右近太夫、後に世界遺産となる建造物にラクガキを残す
- 42 :
- 36 名前:人間七七四年 投稿日:2009/01/29(木) 09:29:49 ID:bTNd73Jk
西洋人より知能の劣る倭の庶民
「あんたらの言うように神の教えが唯一普遍的な真理なら、そんな事は誰かに教えてもらう物でもなく、誰もが
はじめから知ってるはず あんたら宣教師は今という時代にここに来て、わしらに何を教えにきたんかいのう?」
倭人より知能の高いはずの西洋人の中でもトップクラスの知識を兼ね備える宣教師
「………!!」
- 43 :
- >>38
なんか、日本人はポルトガル人の学生よりラテン語がよくできた、みたいなことを
イエズス会員がなんかに書いていた。
- 44 :
- ラテン語は、綴り字と発音の不一致がないのがいい。
何で英語はああなんだ!
- 45 :
- >綴り字と発音の不一致
英語もそうなんじゃ?
- 46 :
- 間違った。
「ないのがいい」か
- 47 :
- ラテン語は、SVOじゃなくて、SOVなんだよね。
他の屈折語と違い。
そこだけに注目すれば、日本語と同じ語順。
- 48 :
- >ラテン語は、SVOじゃなくて、SOVなんだよね。
SVOでもSOVでも構わないのがラテン語なのでは?
日本語の助詞や助動詞を単語の活用とみなせばラテン語の特徴と通じるものがある。
助詞・助動詞の使い分けで日本語はわりと語順にはこだわらない。
日本語は助詞・助動詞の使い分けで語順にはわりとこだわらない。
日本語はわりと語順には助詞・助動詞の使い分けでこだわらない。
- 49 :
- >>47
>>48
もっと言えば、古典ラテン語は単複や屈折や人称の区別さえ間違ってなければ、
主語と述語と目的語の順番はすべて自由でもある。
(まあ、「主語の屈折と目的語の屈折が同形になって、付け加え表現が無いとどちらが主語か目的語か区別がつかなくなる文章」も、稀にあるが)
というか、印欧語族の文法は基本的に屈折に主眼が置かれてて、語順は大して問題にならない。本来なら。
たとえばドイツ語も構文はかなり自由で、
動詞が文中2番目の語または句になりさえすれば、そのほかの語順は基本的には自由。
語順が構文の基本を為す言語は、いわゆる孤立語と呼ばれる文法の言語が中心。中国語とかが典型例。
「印欧語文法は語順優先だ」という思い込みが生ずることが日本でかなりあるのは、
日本の世間一般でそれなりに文法を知られてる欧州語が、事実上、英語しかないことからの影響だと思うんだが。
- 50 :
- 「盗難予防」
これを中国語で解釈すると?
- 51 :
- >>44
文明を生み出した国の言語だと、ローカルな話し言葉と、公的メディアで使用する
書き言葉の間にの食い違いがないけど、
例)ローマ帝国:ラテン語、イタリア語、中国:中国語
辺境にあって、そうした文明から言葉を大量に借用せざるを得なかった国の言葉
例)イギリス:英語、日本:日本語
は、つじつま合わせのために、無数の歪み、例外が出るのは致し方ないということだろう。
- 52 :
- >>42
倭人とか差別用語使うなよ
- 53 :
-
7月の段階で民主党が2兆円の復興予算を組んだとき
自民党が要請した復興予算は累計17兆円
自民党の17兆が7月時点でに決定されていたのなら
今の日本はもう少し違って居た筈だ
ちなみに関東大震災のときは復興予算として現在の価値にして150兆円以上を組んでいた。
この事実を知れば、予算の規模の小ささ、ましてや増税なんて奇知涯にも程があると思わざる負えない。
- 54 :
- 鎌倉時代、伊豆半島に鬼が乗った船が漂着した事件があった。
鬼の正体は、ポリネシア人らしい。
- 55 :
- >>54
その漂着した鬼=ポリネシア人はどうなったの?
- 56 :
- 船に乗って、また海上に逃れたということだ。
そのあとの消息は不明。
- 57 :
- >>54
>鬼の正体は、ポリネシア人らしい。
その根拠は?
- 58 :
- >>47
ペルシャ語は、日本語とまったく語順が同じらしい。
- 59 :
- >50
盗みは予め防ぎ難し
- 60 :
- 72 :260:2005/05/30(月) 20:37:39 ID:G6fnR+86
日本人とミクロネシア人の初めての邂逅は、十二世紀にまで遡る。
十三世紀に編まれた日本の説話集『古今著聞集』には、姿形からミクロネシア人と思(おぼ)しき「鬼」の描写がある。
「承安元年七月八日、伊豆の国奥島(おきのしま)の浜に、船一さうつきたりけり。
〔中略〕かの鬼八人船よりおりて、海に入て、しばし有て岸にのぼりぬ。しま人粟酒をたびければ、のみくひける事馬のごとし。
鬼は物いふ事なし。其かたち身は八九尺計にて、髪は夜叉(やしゃ)のごとし。身の色赤黒く、眼(まなこ)まろくして猿の目のごとし。
皆はだか也。身に毛おひず、蒲(かま)をくみて腰にまきたり。身にはやうやうの物のかたをゑり入たり。まはりにふくりんをかけたり。
各々六七尺計なる杖をぞもちたりける」(『古今著聞集』橘成季著・日本古典全集/与謝野寛編集/日本古典全集刊行社より抜粋)
- 61 :
- ミクロネシアとポリネシアじゃ、だいぶ違うよ
- 62 :
- 当時の人にとってはどちらにしても分かりはしなかっただろうね
- 63 :
- そういう話じゃないんだが
- 64 :
- 鬼の起源が異人とは思えませんが、これは鬼と見られた例ですね。
これと同じ話が、『玉葉』にはもう少し冷静に書かれていたと思うのですが、
すぐには見当たりませんでした。
鬼の起源が外国人でないと思うと言うのは、これは天狗や河童の起源につい
て言う場合もそうですが、現在のイメージが最初から存在したものではなく、
序々に増補されて現代人が想像する「鬼」が出来ているからです。
とりあえず、平安末〜鎌倉時代の人々の「鬼」のイメージは、南方からの異人
のそれとある程度一致した様ですが。
最初からこうだった訳ではありませんからね。
- 65 :
- 「うつろ舟」とかも異人系エピソードかね。
- 66 :
- >>49
ドイツ語も日本語のように動詞が最後に来てもいい・語順が自由と、
大学時代のドイツ語の先生が言っていたな。
余談だが、アイヌ語には関係詞が存在する。
- 67 :
- アイヌ語って、抱合語でもあるからね。
- 68 :
- >>47-49>>66
冠詞や品詞活用・性別などががっちりしていれば語順はわりと自由になるが
英語のようにそれらがくずれてしまうと語順が重要になる。
- 69 :
- >>58
インドの言語(ヒンディー語等)も、語順?が日本語と似てるらしい。
ヒンディー語が一番よく出来るのが、日本人だとか。
何にしても、英語と違って、日本人とは相性がいいらしい。l
- 70 :
- なんか語学スレになってるね
- 71 :
- 海外で活躍した日本人といえば漂流民で帰国しなかった人々だろう。
有名どころで彦蔵、音吉、善六、権左かな。
- 72 :
- それって江戸時代の人間?
- 73 :
- >>67
抱合語ってのを簡単に分かり易く例文を出して文法を交えて教えてくれ。
- 74 :
- >>72
横から失礼するが、みな江戸時代人。
善六は津太夫の一行にいた人間だな。
一同の中で一番語学に優れ、日本語の漢字や仮名の使い方はもちろん、
ロシア語もすぐ覚えた。
当然、ロシア人たちからも認められる。
だから他の日本人が拗ねてしまい、日本人の結束はバラバラになったとさ。
- 75 :
- >>73
国際語スレで暴れていたバカだろお前。
マルチするな
- 76 :
- >>72
津太夫で検索するとサイトが出た。
高田屋嘉兵衛の事件に出たんだね。
- 77 :
- それにして、善六についてのwikipediaの記事って、やたら詳しいな。
ヤジロウの記事は、あんなに寂しいのに。
- 78 :
- 東アジア地域・アメリカ大陸・アフリカ大陸は白人の男系遺伝子が多く見られ、
その他の地域は東アジアの女系遺伝子が多いという。つまりアジア人ってのは
古代からのパンパン人種だったというわけだ。
白人種はなぜこんなに神に愛されているのか?
- 79 :
- 釣り針でかすぎだよ。
白人って、アラブ人種のことか?
古代とかw
- 80 :
- >>77
76のサイトの人とか、岩波からレザノフの本の訳を出したO氏とか、小学館の日本史シリーズで「開国」書いたH氏とか、ツワモノがいるからじゃね?
上記三人は仲がいいみたいだし。
- 81 :
- 世界史の中の日本
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1307777692/l50
- 82 :
- 有名な話だが、ヘボン式ローマ字の創始者であるヘボン(1815〜1911)は、
英語で書くとHepburnで、オードレー・ヘップバーンと同じスペル
- 83 :
- じゃあマイナーな話で
「日本誌」を書いたケンペルはEngelbert Kaempferで
ケンプファーなんですナツルさん
- 84 :
- デ・レイケ、ヴォーリーズ、モルガンお雪
- 85 :
- 名前挙げるだけじゃなくて、なんか書いてよ
- 86 :
- 705 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/12/27(火) 07:06:51.52 0
朝鮮半島の三国時代について質問です
この時代にはもう朝鮮半島では黒人奴隷(アフリカ系黒人)がいましたか?
708 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/12/27(火) 11:26:35.97 P
>>705
いない。
東アジアに黒人がやってきたのは、
ポルトガル人がマカオに連れてきたものが初出だろう。
711 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/12/27(火) 13:10:43.41 0
>>708
その辺はどうなんだろうね
物理的には唐代くらいには中東との海路が開けて、アラブ商人が
大勢来たから、黒人奴隷もつれてきたと思うのだが
本当に記録の上では大航海時代からなのかなぁ
ただ、もし唐代に中国に黒人がいたなら、日本にだって
世の中には黒い人もいるとの情報くらいは伝わっても
おかしくないのだけど、宣教師がつれてきた奴隷を信長が
見たときは、最初は信じられなかったのか水で洗わせたそうだからな
- 87 :
- 712 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/12/27(火) 15:33:48.62 0
唐の頃には、肌の色の濃い奴隷を「崑崙奴」と言っていた
マレーとかの東南アジアの人たちがメインだけど、アフリカ系もいっしょくたにして
そう呼んでいたとしてもおかしくはない
715 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/12/27(火) 18:26:14.08 0
朝鮮半島の三国時代は4世紀半ば頃から7世紀後半までだが、
651年になってイスラム帝国がササン朝を滅ぼし、唐に使節を送った。
なので朝鮮三国時代の中東は、ほぼササン朝時代にあたる。
新羅は唐代のムスリム商人から「シーラー」と呼ばれているが、
ササン朝時代に朝鮮半島が知られていたかは分からない。
可能性があるとすれば、南海貿易を通じてシナ南朝まで来て、百済などへ伝来するというルート。
まあ舶来の貴重品だろうから、民間で奴隷として使ったとは思えないが。
- 88 :
- >>83
ちなみに父親の代まではKaemperだったがケンペル本人が改めてfを加えたのだ
- 89 :
- >>84
ヴォーリーズではなくヴォーリズが一般的な表記。
播磨小野藩第11代藩主だった子爵一柳末徳の令嬢満喜子と結婚して日本に帰化。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA
ちなみに、帰化はしなかったものの日本に骨を埋めた外国人建築家としては
J.H.モーガンも有名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/J%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3
ところで、近時、鎖国以前に日本から海外に渡り、
現地で活躍した日本人について関心が高まってきているような気がします。
江戸幕府の鎖国政策に対しては、これまでプラスの効果
(西欧列強による植民地化の回避、長期間にわたる安定した社会の実現)
ばかり強調されてきたように思いますが、
一方で失ったものも大きかったのではないでしょうか。
- 90 :
- >>82 NZから来た人、ヘッバーンと言っていたよ
- 91 :
- 本人は、pを発音しているつもりなんだけどね
- 92 :
- だから何
- 93 :
- 江戸時代では実際には長崎では
イスラム諸国と交易していたんだよな。
通詞にムガル帝国の公用語担当のものが居たし。
幕府としては唐船扱いだったんだろう。
- 94 :
- >通詞にムガル帝国の公用語担当のものが居たし。
ソースは何?
- 95 :
- >>94
まずググれ。
- 96 :
- >>93
江戸時代以前からも、イスラム教徒と日本人は接触はしているはずなんだがな
なぜかキリスト教徒みたいに日本人に衝撃を与えることはなかったんだよな
あの時代のイスラム教徒なら文明も進んでいただろうに
事実中国人や西洋人はイスラムから文物を取り寄せたりしたのに、
新しいもの好きで、技術が大好きな日本人なら絶対に飛びついたと
思うのだがな
- 97 :
- >>93
>>96
室町時代に楠葉西忍というイスラム商人が畿内まで
来て活動しているよな。
モスクとか建てたり布教しなかったのだろうか?
- 98 :
- >>97
そうでしたか
なおさら理解できない
今のイスラム教徒でそうだけど
わしらの日常生活には彼等あんまり干渉しないけど、
彼等はキリスト教みたいに布教に熱心じゃないにしても
生活の流儀は絶対に変えないのだけどな
キリスト教のバテレン場合はとにかく質問しまくったというのに、
イスラム教についても質問しないはずがないような気がするのだが
絶対に「戒律を守ると、酒はうまいはネーチャンはきれいでSEX
やり放題の天国にいける宗教があるそうだ」との真実か信じないかは
別にして情報は伝わりそうな気がするのだが、
特にあの時代は浄土系の宗教が流行ったのだから
念仏系は念仏を唱えたら極楽往生できると説くけど
極楽での生活はどうなるのかは、きれいな場所だというのみで
酒はのめるのか?SEXはできるのか?との問いには答えていないからな
飛びつくやつだって少しは出たかもしれないと思うのはおいらだけだろうか?
- 99 :
- >>97 なんで商人が布教活動する必要が?
- 100read 1read
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