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2012年1月2期三国志・戦国7: 劉備死後、孔明は何故に荊州を奪還しようとしなかったのか? (396)
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劉備死後、孔明は何故に荊州を奪還しようとしなかったのか?
- 1 :09/06/06 〜 最終レス :12/01/22
- 自分で立てた天下三分の計なのに。
- 2 :
- >>1
魏と呉の二正面に敵を抱えるわけにはいかなかったから、
妥協案に落ち着いたんだよ
- 3 :
- 赤壁の後に自力で取った荊州4郡はともかく
他はの地は呉に返却するか、呉に貢物でも送って
機嫌をとるなりするべきだったのだろうが
蜀にとって荊州はなんとしても領有していなければいけない場所
劉備の夷隆の戦いも仕方ない問題はそれが大敗に終わったことだ
(これを私憤だとかほざくコーエーはゆとり)
- 4 :
- でも、それじゃ蜀は天下三分にしては小さすぎる勢力になるよね?
諸葛亮は何かしら奪還の策を立てる事が出来たと思うけど、それが出来なかったこと自体、政治中心の能力しかなかった証拠なのかな?
- 5 :
- 荊州は隆中策にもあるように必要不可欠な所
外に出にくい益州だけでは積んだようなもんだ
劉備は関羽というより荊州のために出兵したんだろう
自分は劉備びいきだが劉備が人情に厚い人間だったとは思わない
(人情に厚いふりはしただろうが)
関羽を見捨てて、自分の義兄弟の公孫サンを死なせた袁紹の下に逃げたり
自分の養子を後継者争いの元になるからという諸葛亮の進言を聞き入れてしたりと
冷徹な判断を下している。
- 6 :
- >>4
その「何かしら」を説明してみてよ
呉に大敗し、新帝が即位したばかりの状態ではあれが最善だったと思うよ
- 7 :
- 益州は攻め込まれにくいが
外に攻めていくこともしにくい土地
劉備は荊州を取り戻そうとして
夷陵で負けた
仕方ないから呉と結んだんだろうよ
- 8 :
- >>5
たしかにね。そう見ると冷徹だわ。
荊州を落とされてからというもの、益州の拠点から荊州を取り戻すには攻めにくい地形だったのかな?
益州は守りやすい複雑な土地柄な反面、出て行くのも容易じゃ無さそうだし。
- 9 :
- >>6
何かしらは孔明にしか分からんだろ
- 10 :
- むしろ孔明はすごいと思うよ
当時、政治の中枢にいたのは孔明をはじめとする荊州名士だったけど、
母体の荊州を失陥した時点で益州の旧勢力が政権奪還のために動いてもおかしくなかった
そうすれば荊州奪還どころか、内部分裂で国が潰れる
それを防ぎ、これまでの体制を維持した上に呉と同盟まで結んだんだからすごいよ
- 11 :
- 昔、蜀を支配した公孫述は羅出身の者を寵用し、
同じく劉備は楚出身者を寵用しました。しかしながら、
この二カ国が亡んだ時、彼等は皆屠滅してしまいました。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kannonnshoku.htm
- 12 :
- >>10
そこが孔明の政治手腕は天才と言われる由縁なのかもね。
- 13 :
- >>1
呉が滅ぶと蜀としても困る
同じ労力なら北を切り取った方がいい
- 14 :
- >>13
その呉も大して期待に応えてくれなかった訳だよね。
実は呉としても計算ずくの行動なのかな。
- 15 :
- そういや荊州って楚なんだよな
- 16 :
- 楚っか!
- 17 :
- >>14
2カ国の連携というのも困難なものなんだよね
2カ国とも自国の事情が最優先になるわけだし
- 18 :
- いっそのこと魏と結んで呉を滅ぼし、赤壁の戦いのようにそのまま呉を吸収。
その後に魏で公孫淵やその他異民族などの各地反乱を起こせば攻めやすくて良かったのでは?
- 19 :
- もし劉備が孫権討伐を行わず北伐してたらどうなったかな
- 20 :
- >>19
実在の北伐と大して変わらなかったと思うよ
補給不足によって撤退
>>18
漢を滅ぼした魏と結ぶというのはないでしょう
- 21 :
- >>20
そう考えると、そもそも天下三分の計自体が間違いだったのかな?
益州・漢中からじゃ何度やっても補給不足で撤退。
荊州からなら上手く行ったんだろうか?
- 22 :
- 荊州益州二方向からの北伐が三分の計だったのでは?
益州からだけ、荊州からだけの北伐は成功しないという
- 23 :
- なるほどねえ。
- 24 :
- 孔明が補給担当
- 25 :
- でもそうすると誰が軍を率いるかって問題になるが…
- 26 :
- 魏延、王平、呉懿とかが
- 27 :
- 張飛、馬超が生きている
- 28 :
- 曹操が死んだ直後だからチャンスはあったかもね
- 29 :
- 死んだ直後とは言え
大きな後継者争いもないし
やはり無理なのでは
- 30 :
- てst
- 31 :
- >>21
そう。天下三分の計自体が根本的に間違い。
周瑜や甘寧らの天下二分の計なら良かった。
- 32 :
- >>31
仮に二分できたとしても孫権末期からの混乱を思うと
より弛緩した感じで自壊してた恐れが強い
それは置いといて、隆中策時点の状況なら
漢中(張魯)、涼州(馬超)がまだ健在だった気が…
- 33 :
- 隆中策って何???
- 34 :
- >>32
周瑜らの天下二分の計は襄陽まで押さえているので、江陵付近までしか押さえていなかった呉末期よりは外敵を守り易そう。
孫権自身の問題はちょっとアレだが…天下二分で蜀方面から賢妾を得て孫和より先に優秀で長生きする跡継ぎを得てほしいものだ。
- 35 :
- >>31
劉備が王を名乗り、国を持つには天下三分にしないとダメだったし
劉備が呉に降るようには思えないしなぁ
- 36 :
- 後の北魏と南朝
元と宋を見るに
天下二分しても
結局だめだった様に思う
- 37 :
- 何故かって?作り話だから
- 38 :
- >>25
夷陵の代わりに北伐、ってifなんだから、総大将は当然劉備。他に適任もいないだろう
- 39 :
- 仮に奪還出来たところで、治める事が出来なければ意味がない様な…
当時の蜀に荊州を任せられる人間はいたのか?
関羽でも無理だったのに。
結局、あの状況からでは何やってもジリ貧にしかならないと思う。
蜀と魏では国力も人材も差がありすぎる。
呉との関係が悪化した時点で既に詰んでた。
- 40 :
- しかし悪化させなければ蜀を取れなかった
- 41 :
- 単純に考えると、劉備の存在は乱世を引き延ばしただけか
- 42 :
- >>39
関羽でも無理だった、というより
関羽だから無理だった、が正しいんじゃね?
蜀入りする前ならともかく、蜀入り後は人材は豊富。
少なくとも関羽より適した人材は多い。
関羽は傲慢な性格で同僚との軋轢が絶えなかったし、
またそれまでは劉備の一部将でしかなく、政治的な官職に就いた事も無かった。
とはいえ、蜀入り後に関羽と入れ替えで荊州太守送り込んでも、
関羽が素直に従ったかどうかは疑問だが。
- 43 :
- 関羽よりはっきり適してると言える人材って具体的に誰だろうか
全員何らかの実績が足りてない気がする
- 44 :
- 生え抜きでそれなりに実績があり、信用出来て、名士からの信頼も厚い人物…
…諸葛亮くらいしか思い浮かばないな。
やっぱり人材が足りない。
せめて関羽の暴走を止められる人間が居れば良かったんだろうが…
- 45 :
- 失敗が目立ちすぎて評価は低いが李厳もなかなかの人物だと思うんだが
李厳は益州の旧臣のなかでも代表格、劉備が死ぬとき諸葛亮とともに後事を託され常に大事な方面を任されてた
やはり補給の失敗を隠蔽しようとしたのが最大の失策かな
- 46 :
- 李厳は劉表に取り立てられていたのに戦乱を避けて荊州から益州に逃げてるから
最前線に立たせるには軽すぎる印象がある
人間関係を見ると関羽なら諸葛亮によるとりなしが必要な気ガス
意外と軍務:張飛、内政:潘濬の分業体制の方が上手くいったかも
- 47 :
- 張飛は無い
- 48 :
- 法正が生きてれば…
- 49 :
- 李厳は法正、劉巴の死後に尚書令になった人物だから、
219年頃の荊州督を任せるには格が全然足りないだろう。
法正ですら新入りすぎて、最古参の関羽と交替しても諸将が尚更言うことを聞かなくなるだけ。
馬超を北方方面から外すと言う手は無いし、荊州に配置しても意味は無い。
すると軍事的には安定して格も十分な張飛だが、より上位の関羽と交替する理由は無い。
軍の統監が出来て人格的にも評価されており、助言役として優れていたホウ統が生きていて、
関羽の補佐として上手くやってくれれば、或いは…というところか。
- 50 :
- そもそも関羽は暴走していないんじゃないのかな。
- 51 :
- 孔明「孫権と仲良くしなくちゃ駄目だけど荊州は守らなきゃらめぇ」
( ´┏┓`)「……」
- 52 :
- 荊州陥落の原因とも言える樊城攻め自体、孔明の大戦略から考えれば
有り得ない侵攻作戦だからなぁ・・・・・
関羽は、どうしてあのタイミングで北上したんだろう。
結果論だが、もう少し待てば曹操は死んでた訳だし。
荊州の内政は関羽として、呉との外交に誰かいれば・・・・・・・
舐められない名士の上、有能な人物と言えば鳳雛先生が一番に
挙がるのが悲しい。
- 53 :
- ケ芝がいるじゃん
- 54 :
- 幾らなんでも呉の兵糧庫襲ったのは馬鹿すぎるよなあ
他にやり方無かったのか、と言いたい
- 55 :
- 対呉外交が、関羽の場合は滅茶苦茶だった。
呉蜀で魏に挑むという戦略を、知らなかったんじゃないかとすら思うわ。
荊州失ったのも関羽のせいみたいなもんだし、好き勝手し過ぎだよ・・・・・・・
- 56 :
- 結果論になるんだが馬ショク配置したらどうだったんだろうか?
失敗して馬ショク死んだら後の災いがなくなるし、もしも万に一つの確率で成功したら大出世
- 57 :
- >>56
若造の馬謖が、関羽を上手く操れるとも思えない。
それに、失敗したら馬謖の命どころじゃなくなるし、逆に関さんが
しかねん気もする。
- 58 :
- >>55
217年に呉が魏に降伏したから事実上同盟は消失してるんじゃね?
- 59 :
- 関羽と孫権絡みの逸話は時間が不明なものが多いので判断が難しいんだよな
219年の北上の際に初めは関羽が十分な守兵を置いたことからも、
和睦は形だけのもので、呂蒙が荊州の残りを奪取する意図は公然のものだったと察することが出来る。
その状況で孫権が娘を関羽の息子に娶らせるというのは遜りの度が過ぎる。
関羽は対劉備強硬派の呂蒙が退いて、若く孫権の寵臣や親族でもない陸遜が赴任して低姿勢の
手紙を寄越したから初めて南郡の守兵を減らしたのだから、
214-219年ごろの劉備孫権関係は同盟と言えるようなものではなかったのだろう。
- 60 :
- 呉の立場としては、魏蜀を天秤に掛けていたんだろう。
孫権の娘の件は、その表れでもあると思うが、これを蹴られたせいで
蜀よりも魏に追従した戦略になった。
つまり、完全な対立関係になったのは、魏に降伏したからというより
関羽が呉を軽く見ていた結果かと。
関羽北上は、襄陽辺りで止まってた方が良かった気もする・・・・・・・
それでも、戦線維持出来たかは分からないが。
魏呉と対立関係の中での北進を考えると、やっぱり関羽の暴走としか
思えないんだよなぁ。
しかも、結構軽い気持ちで樊城まで突っ込んだとしか思えない。
- 61 :
- >>60
劉備の一将に過ぎない関羽に孫権の縁談を持ち込んで、関羽が勝手に蹴った上に侮辱する、という話が史実だとして、
それが曹操への降伏の前か後かさえ解らないのだから
>孫権の娘の件は、その表れでもあると思うが、これを蹴られたせいで
>蜀よりも魏に追従した戦略になった。
なんてことは言えないかと。
そもそも、劉備の元から孫氏を引き上げさせている状態で関羽と単独で姻戚になろうとするのは、つまり離間策だろう?
つまり孫権が関羽を抱き込もうとした。それを関羽が屈辱と感じれば、「狗に虎の子はやれぬ」が意味不明な激怒ではなくなる。
尤も、一端の外交能力を持つ者なら、それを堪えて丁重にあしらうべきであり、関羽に政治的配慮が欠けたことは疑えないわけだが。
ついでに、樊城ってのは襄陽の対岸にある城だよ。襄陽だけ確保して樊城を落とさないなんてのは有り得ない。
襄樊防衛において、曹仁は北岸にある樊城を主城に設定した。それを関羽が攻めたってだけ。
- 62 :
- 孫権が息子で関羽が娘だった筈。
後…
「虎の娘を犬の子にはやらん」
これって正史にも記述あったっけ?
- 63 :
- >>62
すまん、無いみたいだな
あるのは使者を罵り侮辱したってことだけだ
- 64 :
- そのあとに「権大いに怒る」とあるから相当ひどい侮辱だったのは確かだろうな。
- 65 :
- 糞スレ上げるなカス
- 66 :
- そもそも劉備自体行き当たりばったりで
戦略なんて何も考えちゃいないだろ
荊州から漢中を右往左往するあたり計画性ゼロ
関羽は使いづらい使われる人であって使う人じゃないな
張飛も使われる人だけど使う人としては関羽以下。部下に暗されるって駄目じゃん
そういうやつらが側近として幅を利かせてた初期劉備に
天下を取る意識があったとは思えない
- 67 :
- 入蜀から漢中奪取までの劉備の動きは神レベル
曹操・孫権・劉璋と三面を相手にして一州を切り取るとか有り得ん。
荊州を守りきれなかったのは、そもそも元手の兵力が根本的に足りなかった
という面が大きいな。
- 68 :
- 三万程度で攻めたのがよくわからん
- 69 :
- ちょうど宛で侯音と衛開の反乱があったのでわからんことではない
- 70 :
- 初期は三万もなかったんじゃないかな。
それで呂常、曹仁、満寵を囲み、于禁を捕らえて七軍を降し、
龐徳を斬る。大戦果と言っていい。
ここまでは実力に運に乗っただけで
糜芳、士仁、劉封、孟達との連携は適当だし
呉の動向なんて狼煙台だけで何も考えていなかったと思う
戦うだけなら凄いんだろうが継続性とか計画性では論外な感じだ。
楽進との212年の青泥の戦いでは部将の蘇非が負けて撤退したし
徐晃に負けるのがもう少し早ければ
曹操が意図した通り呉蜀で全面戦争だったかもな
- 71 :
- 当時の関羽は劉備にとってNPC化している
呉侵攻の上奏はあったのにシカトしてしまうのが不思議だ
前線と後方で緻密に連携しあっていた呉に
荊州を掻っ攫われるのも当然
- 72 :
- そもそも呉と良好な関係を保ったまま、益州と荊州全てを手に入れるなんて事が出来る訳が無い。
呉にも都合があるんだし、何もかも自分達の思い通り進めるのは不可能。
諸葛亮は本気でこんな計画が最後まで上手くいくと思ってたのか?
- 73 :
- 1 曹操との戦いを極力回避
2 同族から荊州、益州を奪い取る
3 孫権と同盟して連携
4 曹操が死んだら、荊州の別働隊、益州の劉備が二方面から北伐
という段取りだしな。
- 74 :
- >>69
候音の反乱は、速攻で鎮圧されてた気が・・・・
狼煙台で警戒はしてたみたいだが、関羽の呉に対する警戒は甘かったな。
陸遜の策が効いたのか知らんが、実際に本拠地が奇襲された場合の作戦が
狼煙で知らせる→自分が戻って鎮圧じゃ適当過ぎる。
しかも、本拠の守将は関羽と確執のある連中・・・・・・人材不足って問題だけ
じゃない気がするよ。
- 75 :
- 司馬イ、蒋済の遷都反対を受け入れ孫権懐柔策を採用した曹操
呂蒙、全ソウの関羽討伐計画を断行した孫権
呉への警戒の上奏をシカトして関羽に丸投げした劉備
トップ間の対応を見ても
これでは天下は取れないのが必然ではないの
- 76 :
- >>73
大半は実現してるから凄いけどなw
- 77 :
- 1 曹操との戦いを極力回避
2 孫権と同盟して連携
3 同族から荊州、益州を奪い取る
4 曹操が死んだら、荊州の別働隊、益州の劉備が二方面から北伐
- 78 :
- >>77
1、2が大事で3はオマケだった
- 79 :
- >>74
狼煙台云々は演義の話だぞ
- 80 :
- てゆーか呉とヤバイ雰囲気なのに魏と戦始める時点でバカ過ぎだし
その状態で麋芳らに補給よこせってのは無茶振りもいいとこ
- 81 :
- 劉備も諸葛亮も漢中入りまでは何もかもが上手くいっていたので、舞い上がっていたのでは。
だが実際は荊州と益州を強引に手に入れた事により、呉からの信用を失った。
にも関わらず何のフォローもせず勢いで関羽に北上させ、結果関羽は敗死、領土をも失った。
劉備陣営の慢心と適当さが招いた、当然の結果だと思う。
- 82 :
- 慢心かどうかは置いといて、戦略構想を練るのはこの時法正の役目だな
諸葛亮は成都の守備。劉備は漢中にいたんだから。
- 83 :
- そもそも法正にそこまでの権限はないだろう
- 84 :
- ていうか関羽の勝手な行動だったんじゃないの?
スレタイ戻るけど劉備の死直後は反乱やら内政やらで諸葛亮大忙しだから荊州奪還とか無理くね?
- 85 :
- 北伐出来るくらい国も安定したのに何故荊州奪還より先に魏を攻めたのか?
って事だろ
- 86 :
- >>84
それは正史をよく読めば「ない」らしい
- 87 :
- >>85
呉と争わない為だろ。
で、北伐は蜀内部のバラバラな意識を一つにして国を安定させる為に行ったんじゃないか?
だから別に本当に最後まで成功させようとは思ってなかったんだろ。
- 88 :
- 再び荊州を奪還し、今度は呉との関係にも気を遣い、また北伐が出来るくらいまで国力回復させる…
国力に圧倒的な差がある以上こんな事してたら、時間も手間もかかりすぎて、結局やってる間にジリ貧になってしまう。
だったらやられる前に先手必勝でやっちまえ、って事では。
孔明自身も焦ってたんじゃないの?
- 89 :
- 単純に呉と良好な関係を築くためだろ。
三国と言っても実質
巍が7で呉が2蜀が1ぐらいの力関係だったらしいから
呉とは争えないだろ。
呉と同時に攻めた時も巍は2正面作戦が出来るほど
国力が抜けてるからね。
- 90 :
- 国力ってか軍事力が凄いな。
呉と蜀は国内財政は魏より潤ってたらしい。
上手い具合に三国融合すりゃ良かったのにね。
- 91 :
- >>89
魏7呉2蜀1
だったら手っ取り早く、魏は蜀を潰せただろw
7ぶんの1の力相手にいつまで時間使ってんだよ。
- 92 :
- 蜀は国力を補う地の利があり、攻めるとすると呉への警戒も必要になる。
単純な数値比のタイマンじゃない所が、長引いた理由でもある。
- 93 :
- 魏の7を呉の2を相手に2・北方の広い境界線防備に4を配置し振り当てると、
蜀に対する配置は残りの1だけになるって感じか。
- 94 :
- 蜀は北伐するまで完全放置だったのも大きい。
- 95 :
- >>91
攻撃三倍
- 96 :
- たとえ軍事力で圧倒していたとしても、それだけで国一つ滅ぼすのは滅多な事じゃ出来ないよ。
基本的に国が滅びるのは、内部に何らかの問題がある時。
蜀も呉も、内部の腐敗によって衰退しなければ魏も滅ぼす事は出来なかったはず。
蜀が持ちこたえる事が出来たのは、途中までは劉禅がまともだったからだろう。
- 97 :
- >>96
10年後に同じこと言ったら笑われるぞ。
- 98 :
- 劉禅は董允があぼーんして姜維が戦争しまくる頃にはだれてるよな
やっぱ四十年は長すぎるんだろうな
- 99 :
- >>913諸葛亮が、良い政治家だったんじゃないの?
短期間の間、総力戦の北伐を5回もして、
国が破綻しないんだから蜀の軍事力を後押しする国力の
充実さがわかる。
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