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2012年1月2期三国志・戦国92: 袁紹って無能なの? (117) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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94: 周瑜の天下二分の計考察スレ (809)
95: みんなで決める武将能力(正史三国志編) 2 (129)
99: なんで上杉ファンと伊達ファンは敵対してるの?? (531)

袁紹って無能なの?


1 :11/11/28 〜 最終レス :12/01/18
やっぱ無能かな?

2 :
何をもって無能とする?

3 :
無能云々じゃなくて濃いA型

4 :
つーか>>1はなんで袁紹を無能だと思ったのか。

5 :
>>1
が無能
終了

6 :
>>2
判断力

7 :
人を身分でしか見ない無能でしょ袁紹は。
滅んで当然。

8 :
>>7
何処をどう見たらそういう結論に…

9 :
>>8
多分横山廚

10 :
曹操が統治した後も袁紹時代を民は懐かしんでたそうだよ
優柔不断で乱世向きではなかったにしろ
政治手腕は悪くはなかったと思う

11 :
192年の河北情勢をまとめてみた、この状態から袁紹は河北統一しています。
●幽州:公孫サンと劉虞の支配権
●青州:公孫サンの支配権
●并州:匈奴の影響大
●冀州
・東部:公孫サンの支配権
・西部:黒山賊の支配権
・南部:袁紹の支配権
・北部:公孫サンの支配権
匈奴・公孫サン・黒山賊は同盟関係、袁紹と敵対
劉虞は中立

12 :
劉禅や曹真みたいに演技のせいで損してる人物の一人だよなぁ。

13 :
後継争いを巻き起こした事だけ無能

14 :
孫権さんも無能

15 :
ザコ専大将

16 :
常に果断の人だったのに、何故か優柔不断にされてしまった人。
兜を投げ打って「戦場で死ぬ事を恐れるか!」って啖呵切る場面は最高にカッコいい。

17 :
追い詰められた時のクソ度胸はあったけど、
計画性がない人って印象なんだよなぁ袁紹って
無能じゃないけど決して有能と手放しで褒められる人じゃないと思う
人の使い方はお世辞にも巧いとは言えないわけだし

18 :
まぁ一番の失敗は継承者を明言せず、敗戦後に一頑張りしなきゃならん場面で
死んじゃった事かもな・・・・

19 :
そういや袁家の幕僚って乗っ取り前の豫州系と乗っ取り後の冀州系で分かれてたよね
結局派閥抗争の原因って、後継者云々じゃなくて沮授失脚後、
両派のパワーバランスが崩れたことなんじゃなかろうか?
正直誰が後継でもあんまり優秀じゃないから後継指名が割れるわけで、
そう考えると後継者の指名ってのは表層的なもので、根っこはもっと深い気がするよ

20 :
沮授が河北平定の戦略を授けるところを
大々的に取り上げているドラマ、漫画、小説ってあるかな
すごい好きなんだが

21 :
宮城谷昌光の三国志なんかは沮授の描写が多いんじゃないかと
袁紹サイドはほぼ沮授目線で書いてある
で、さっきの続き
<冀州系(審配除き持久策支持)>
田豊、沮授、審配
<豫州系(即決策支持)>
郭図、辛評、辛?、淳于瓊(豫州系)
<荊州系(即決策支持、袁紹旧友)>
逢紀、許攸(荊州系)
って感じで、参謀を色分けするとほぼ綺麗に官渡の速戦即決策と持久策
その後の派閥対立の時のチームに分かれるんだよね
官渡で死ななかった豫州人がまとめて袁譚支持、残りが袁尚支持になる
この事実からは袁尚の武将、群雄としてのスキルが問題だったのではなく
要は豫州からのいわば「譜代」の幕僚と勢力拡張期に参加した幕僚たちの
深刻な対立が見えてくるんじゃないかなぁと

22 :
「曹操十の勝因」でボロクソに言われてる人

23 :
逆に袁紹より有能な指導者っているの?三国の建国者と司馬氏くらいしかいないのでは?

24 :
孔明

25 :
>>1
という煽りに釣られた奴の数→
が抜けてる

26 :
思えば、董卓打倒の際に、曹操や孫堅、劉備。陶謙や公孫讃も集まっていた。
その時に、火計で全員をしておけば良かったんだ。
呂布や劉備、袁術が頼ってきた際も、有無を言わさずせば良かった。
そうすれば、歴史は確実に変わっていたよ。

27 :
私以上に有能なヤツはいない

28 :
>>26
董卓に返り討ちに会うんじゃないか?まあ確実に歴史は変わるけど。

29 :
あの状態から曹操に負けてるんだから無能扱いされて当然
後継者問題のグダグダ感は某碧眼の大将並

30 :
>>29
撤退はしたが、勢力的には全然元気だったはず
直後に死んでしまった上、後継者問題で盛り返す暇も無かったけど

31 :
>>30
判断ミスから武将の寝返りや功臣の喪失を招く
敗北後は家臣内のごだごだで功臣の粛清
その後の倉亭の戦いでは十面埋伏の計でフルボッコくらいってまた敗走
たび重なる敗戦のショックからか病気で死亡
この間後継者をはっきり決めるようなことはしなかったせいで勢力が二分化してしまう
官渡の戦いからの本初さんは正直褒められない

32 :
とうけんと揉めた時点で詰んでたな

33 :
>>31
官渡の判断ミスって何だ?後、十面埋伏って演義の話じゃね?

34 :
だから演義の話してるんだろ

35 :
>>34
じゃあ無能と言うしか。
無能に描かれてるんだから当たり前、スレ立てするような話じゃなかろ。

36 :
 三国志、どこで挫折した?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/news/1322699865/l50

37 :
袁紹は劉表と同じタイプの君主だよね。

38 :
劉表と袁紹は違うと思うよ。荊州についてすぐに豪族たちの粛清を連発している。
政権が安定していたという点では、袁紹よりかは上だと思う
劉備というガンを受け入れたというのは失態だったけど

39 :
袁紹と袁術が仲よかったら袁家が天下取ってたというのは本当ですか?

40 :
>>38
ガンだの失敗だのって…
蔡ボウら有力豪族に乗っ取られて降伏しただけで、劉備関係ないじゃん。

41 :
無能だったら河北で一大勢力を作れてない
曹操もあと一歩のとこでやられるところだった

42 :
けど所詮河北までの器だったとも思う
天下を狙える器じゃあなかった

43 :
>>42
結果論から行けばそうなるな。ただそれだと曹操劉備孫権も天下の器ではなかったという身も蓋もない結論になるけど。

44 :
田豊が可哀想

45 :
あんな戦争中に政争仕掛ける方が悪い
それを差し引いたら田豊は袁紹が悪いという前提で作られた虚像

46 :
田豊に従ってたら勝てたかどうかは解らん。袁紹にも田豊にも理がある。
強いて言うなら戦のタイミングが悪かったな。もう少し時間があればキ州閥の力を削ぎながら権力を掌握できたかもしれん。

47 :
単純に考えたら短期決戦より長期決戦の方が有利だと思うが
領土や周辺諸国との関係を考えたら
まだ屯田もうまくいってたわけじゃないんだし
袁紹は曹操を知っているがゆえに戦力差があるうちに叩き潰した方がいいと思ってたんだろうか?
それとも末っ子の袁尚にあとをつがせるために十分な戦歴をつけようとしたんだろうか?
後麹義も可哀想だと思う
この時期にわざわざ処刑されたのは田豊の考えに賛同したからじゃないか?

48 :
俺には田豊の主張する持久戦が何を目的としているのかがイマイチわからん。
この時点で袁紹は黄河を挟んで曹操軍と対峙してる訳だから、曹操率いる本隊が前線から離れてるうちに渡河するのはむしろ当然だろう。
予州の親袁紹勢力が蜂起するのを期待したんだろうか。にしても消極的に過ぎる気がする。まるで曹操が引き返してきたら負けると言わんばかりだ。

49 :
田豊の進言なんて単なる派閥争いか史書にでたらめが残ってると見る以外ないよ
だって袁紹は曹操が劉備討伐に出向いてる間に進発したとしか思えない時期に南下してるのに
田豊の伝には袁紹は結局攻撃しなかった、だもの
うそくせー

50 :
官渡の戦いは、そもそも始まりからしておかしい。
劣勢だった筈の曹操は何故先に黄河を越えたのか。袁紹軍を迎え撃つなら黄河は渡らないだろう。

51 :
官渡は、実際のところよく分かんねーな。
何か、つじつまの合わない部分や矛盾も多いし、
負けた袁紹陣営も、勝った曹操陣営も奇妙な行動をしてる。
案外、行き当たりバッタリの戦争だったかもね

52 :
田豊が派閥争いに絡んでるとしたら長男か三男かのどちらかに組みしていたってこと?
沮授と同じほうに組みしていた可能性が高いけど

53 :
>>50
劣勢だったからこそ先に動いたんじゃないの?
基本袁紹はゆっくりと押しつぶすように攻めてきていたから、迎え撃っていたら負ける可能性が高く思える
そもそもミスも確かにあったけど許攸の裏切りが無ければ袁紹が勝っていたんじゃないか?

54 :
>>53
自分から出て行ったら、河北で同じ事が起きるだけだと思うんだが。しかも押されたら黄河を背にして戦う事になる。
ましてや曹操は官渡後半で兵站に窮乏をきたす有り様だ。補給を道々袁紹領で略奪する気だったにしても無計画過ぎる。

55 :
タイミング的には間違いじゃないんだけどなあ。劉表も孫策も領内の反乱や不穏勢力に追われてる上、袁術陛下までお隠れになってしまわれては…
袁紹が公孫サンを討った事で焦りがあったのかねぇ。

56 :
公孫サンの首が許都に届いた時は呆然としたって述懐してるね。

57 :
曹操軍で袁紹にあったことがある奴は皆「あいつは傑物だけど判断力が駄目駄目」って言ってるよな

58 :
曹操を持ち上げるためのおべっかだろ
袁紹は判断力駆使して成り上がってる
名門袁氏というけれど袁紹本人は妾の子
その出自で河北統一は伊達じゃない

59 :
おかっぺかもしれんけど、みんな袁紹を非難しているのが「判断力がイマイチ」ってところが気になる

60 :
むしろそんなあやふやなものでしか批判できないのが袁紹

61 :
けど袁紹が結局官渡で負けたのはそれが原因じゃないのか?
他にはこれといった欠点もないし
あと一つ疑問なのは官渡において何故袁紹は田豊・沮授の提言を尽く却下してるんだろ
両者とも譚・尚のどちらの陣営にもはっきりと属さなかったせいか?

62 :
官渡の敗北は兵糧を置いといた烏巣の陥落と
それを聞いて元々なかったやる気がさらに減退した張コウによる裏切りのせいであって
袁紹の判断力のなさのせいではない
むしろ袁紹はやるべきことはしっかりやってる
沮授はともかく田豊の記録されてる進言が滅茶苦茶
正月に劉備が曹操に背いて「今だ!」と言い
2月に劉備が敗れると「行くな」と言う
でも袁紹軍は2月には既に黄河の向こうの白馬まで到達してる
陸路で数万人が移動して、さらに渡河まで終了するのが2月
それだけで一ヶ月は掛るってのに瞬間移動でも求めてんのかね

63 :
鳥巣の陥落は袁紹には非が無かったというのかい?

64 :
せっかく築き上げた国家予備軍をぶち壊しにした曹操が悪い
曹操は学芸の士が集まる劉表の地を激戦地に変えたり
漢中のお米ユートピアを侵略して台無しにしたりろくなことしない

65 :
>>63
そりゃ情報の漏洩は許攸の裏切りによるもんだからなぁ
許攸は家族がルール破っといて曹操側に逃げ込んで情報暴露とか最悪もいいところ
曹操が奇襲してる状況で張コウのような悠長なこと言ってたって意味がない
足の速い軽騎兵を増援に送った判断は間違いじゃない
それでも尚、間に合わないような奇襲を受けてるだけ
判断そのものは間違ってない
袁紹の非は許攸の家族がルール違反するような決まりを作って
その家族がしっかり逮捕される司法システムになっていたことだな

66 :
>>62
強引に整合性を取るなら、曹操が劉備討伐に向かう前に劉備と連携して挟撃しろって進言だったのかもな。
ただ、上のレスでもあるように、その後の持久戦主張は本当に意図が解らん。いったい田豊はどの時点でこんな事言ったんだ?

67 :
>>66
1月 劉備謀反→今だ!
2月 袁紹が出陣希望→「行くな!」
しかしその2月には袁紹軍は既に白馬まで到達してる
ちなみに曹操が白馬に到達するのは4月
田豊が行くなと言った2月で袁紹は渡河成功してるのに
曹操はまだ徐州から帰ってないwwww
田豊さん頭おかしいwww

68 :
単純に曹操が他方面を相手にしてるかしてないかでの判断じゃないの?
田豊は大局的に物事を見すぎて現場からすると混乱するってだけで

69 :
>>67
劉備の反乱が判明したのはもっと前だろうね。袁術死去が199年6月だから、7〜9月くらいかな?
田豊「劉備が反乱を起こしたお!連携して挟撃するお!」袁紹「いや曹操がいるのに黄河を渡るのはリスクが高い。劉備に釣られるまで待とう」
曹操「王忠達が敗れただと?!やむを得ん、私が行く!」田豊「ああ、曹操が劉備討伐に行ってしまったお…」袁紹「よし今だ!黎陽から黄河を渡るぞ!」
田豊「劉備のハイホーが届いたお!持久戦に切り替えるお!」淳于ケイ「もう黄河は渡っちまってるんだぞ!今更そんな真似出来るか馬鹿!」
こんな感じじゃなかろうか。つか袁紹の敗戦て田豊あんま関係ないよね。

70 :
まあ戦争方針で争っただけだから官度の勝敗には関係ないね
短期決戦狙ったのが必ずしも悪かったわけじゃないし
そういや田豊は袁紹が負けたと聞いて、もし勝っていたら生かされていたけど負けたからされるだろうなあ、と言ってるな
この発言の真偽はともかくとして、どうして田豊はそう考えたんだろう

71 :
>>70
単なる腹いせ…とは思いたくないなあ
勝てば袁紹子飼いの豫・青州勢力が発言力が増して田豊がいてもキ州名士を抑えながら取り込める、
負ければこれ以上のキ州勢力台頭を防ぐため中核人物である田豊だけでもす、とか

72 :
袁紹軍はその豊富な人材が同時に弱点にもなってたんかなあ

73 :
>>65
人選に淳于瓊では問題アリって献言を無視してなかったか?

74 :
>>69
ところがどっこい
記録に残る田豊さんの発言は「1月に」曹操を攻めろ、と言ってる
マジキチ田豊

75 :
>>74
マジかと思って読み返してみたらマジだった。
田豊が投獄された理由がやっとわかったわ。キ州閥の権威を笠に着て、素人のクセに軍事まで口出ししてきたからだ。

76 :
曹操が劉備征伐に出発するのが1月
田豊、袁紹がそれを知るのは斥候かなんかが早馬で伝令するとして1〜3日
準備万端で伝令と同時に出発しても数万人の移動速度なんて一日5〜10km
ギョウから白馬まで凄い大雑把に直線で150〜200kmくらい
20日以上掛る上に渡河するからさらに時間を食う
2月に白馬囲んでる袁紹はむしろ急報受けて即座に出発してるわけで
正史にある「袁紹は結局攻めなかった」は嘘
攻めてる

77 :
>>76
曹操が黎陽に進出したのが199年8月だから、その時点で袁紹も前線に布陣してたと考えていいんじゃない?袁紹の移動距離はそんなでもないかと。
勿論、田豊の進言が滅茶苦茶なのは同意。

78 :
>>77
曹操が黎陽に進出したのはその時期だが袁紹が黎陽に着いたのは2月
時期は武帝紀に明記されてる
と言うか8月に黎陽に進軍しといて、9月には一回帰って遥か南方の官渡守り始めるとか何なの?
書かれてないけど8月に盛大に弾き返されてんじゃないの?コレ

79 :
>>78
ところが郭図らは2月に白馬攻略を開始してんだよね。この時点で黎陽は袁紹の手に落ちてると見ていいでしょ。
9月に一度官渡へ帰ったのは劉備への対応に追われたからかも。
つかこの戦いの記述は全面的に胡散臭い書き方になってて読み取るのが難しいな。

80 :
黎陽は2月の時点で袁紹が占領して、しかも先鋒は渡河して白馬囲んでるからそうだろうね
劉備の離反は武帝紀の記述順だと12月を過ぎてからで9月に帰るのはおかしいよ

81 :
20万の兵を持ちながら万に満たない曹操にまけるとか袁紹無能すぎwwwww
顔良が討たれたのは相手が関羽だから仕方ないけどさwwwwwww

82 :
延焼

83 :
>>80
武帝紀のあれは多分時系列順に並んでないよ。
許から劉備のいる小ハイまで約300km、往復2ヶ月はかかる。先に劉岱と王忠が劉備討伐に向かい追い返されてるから12月だと計算が合わない。
劉岱達が出立して追い返されるまでが9月〜11月くらいじゃないかと思う。
曹操の行程は更に長い。小ハイ、下ヒ、東海と廻って帰り白馬に直行したとすると1000kmを超える。1月に出立すると白馬着は4月ギリギリだ。

84 :
2月、白馬に向けて郭図・淳于瓊・顔良を派兵 で白馬に着陣が2月中とは限らない
4月、公は北進して劉延を救援 が間に合ったことからも戦闘が2月から行われてはいないことが伺える
これら月日の計算がおかしいなら、素人より千数百年も先に裴松之が突っ込んでるさ

85 :
>>84
曹操不在の軍が黄河を防壁に2ヶ月耐え凌いだ、と考えるのが自然だろうね。
実際曹操が1月中に劉備討伐を終えるのは物理的に不可能なんだから。

86 :
先主は青州へ逃れた。袁譚は歩騎を率いて先主を出迎えた。先主が平原に到着すると使者を飛ばして袁紹に報告した。
袁紹は将校を派遣して途中まで迎えに出させ、彼自身も鄴から二百里先まで出て先主と対面した。(先主伝より抜粋)
袁紹は徐州で敗れた劉備を鄴で出迎えている。
徐州の敗戦が1月中ではないとのことなので2月上旬としても
劉備が青州に逃れてから鄴にたどりつくまで遁走と云うことも在り、早くとも2月下旬から3月上旬くらいまではかかるであろう
そして、袁紹率いる本隊の出陣はそれ以降となる
先発隊が2月に白馬に着陣したと言うならば、1月には出陣している必要があり
本隊の出陣が劉備を出迎えて即行われたとしても2月下旬から3月上旬ごろとなると
先発隊の出陣から1〜2ヶ月近く間を空けた事となるからこの行程は流石に不自然
2月下旬、劉備が鄴へ到着に前後して先発部隊が出陣と考えるなら正史の行程でも筋は通る

87 :
>>86
袁紹は黎陽に着陣したとある。黎陽を既に抑えているなら郭図達が1月に進発する必要はないんだ。
黎陽は白馬は黄河を挟んで目と鼻の先だよ。

88 :
>>87
前年の8月、曹操が黎陽に兵を進めていて、その後、軍を官渡まで引いている。
曹操が軍を引いてから白馬の戦いまでの間、袁紹が黎陽に軍を派兵した形跡はなく
勢力間の空白地帯になっていたであろうことがうかがえる。
袁紹はその空白地帯であった黎陽に着陣しただけで、それ以前から抑えていたとは限らない。
2月以前に郭図・淳于瓊・顔良らが黎陽を占領し、陣を張っていたとするなら、
それ即ち袁曹の戦いの前哨戦にあたり、その旨の記述がないのはおかしい。

89 :
>>88
既に戦端が開いているにも関わらず空白地帯をつくる方が不自然だよ。ましてや最優先課題である黄河渡河には不可欠な場所だ。
今だ延津北岸に駐留している于禁も抑えてるのに黎陽はほったらかしは
益々不自然。

90 :
>>89
相対する敵勢力に勝るならば兎も角、兵力も軍事物資も劣るのに
黄河をわたった先の領土を固持するほうがよほど不自然
補給線は延びるし、軍の進退が困難になる
延津は白馬より官渡に近い津であり、
まず先んじて攻撃を受けるであろう白馬の情勢を見極めて動ける位置
部隊を駐留させていても不自然ではない
于禁も袁軍に一撃を加えたらその場に固持するわけでもなく、官渡に引いている

91 :
>>90
ん?なんか言ってる事が噛み合わないぞ?ちょっと整理してみよう。
曹操が黎陽に侵攻したのが199年8月、ところが9月に一度に許都に引き返し、12月にまた官渡、200年1月に劉備討伐に向かい、4月に白馬。
対して袁紹の動きではっきりしてるのは郭図達による200年2月の白馬侵攻だけ。ここまではいいよね?

92 :
で、時期や実際の動きがはっきりしない事象について、他の情報から検討し推察してみようという訳だ。
で、まず>>90が言うように曹操が黄河北岸まで進出したという事は、曹操が侵攻可能なくらいの戦力を保持してる事が前提となる。
仮に袁紹の南下に対応するのが目的なら、延津はまだしも黎陽まで進出する必要はないからだ。これもいいよね?

93 :
余談として、後漢書郡国志によると曹操治める4州は人口約1600万、対して袁紹治める4州は人口約1280万となる。
但しこの数字は戦乱による人口の変動が不明な為そのまま適用するのは難しく、一概に曹操有利とは言えない。
個人的には曹操の方が兵力で勝っている可能性は否定できないとは思っているけど。

94 :
いくら人口が多くても食うもんがなきゃ兵力になりゃしない

95 :
>>94
そう、曹操が馬鹿じゃなけりゃ黎陽侵攻の時点では充分な兵站能力があった筈だ。
結局、全ての辻褄が合わないのは曹操から仕掛けているという事実があるからだ。

96 :
馬鹿な曹操に負けた袁紹・劉備・孫権ってどんだけ無能なの?

97 :
>>96
まぁ曹操は馬鹿ではなかったんだろうねw
推測だけど、官渡で兵糧が不足したのは袁紹の侵攻で黄河南岸から官渡までの補給集積所を悉く奪われたからじゃないかな。

98 :
>>95
十分な兵站能力とは、なにを考え、なにを指して言ってるのかさっぱりわからないが
袁紹に組しようとする張楊の残党を降したり、威力偵察を行う程度の兵站能力はあっただろうな
・・・まさかとは思うが、もしかして侵攻=占領ってしか考えない人?

99 :
>>86
劉備は曹操から逃走するとまず青州に行ってる
袁譚が袁紹に使いを出し、さらにそれから袁紹が護衛の軍を送り
それでようやくギョウまで200里を移動したとある
進軍開始まで劉備を待ってたら2月に黎陽を確保した状態で
白馬を囲むなんて不可能だから.
実際のところは劉備に合わせて侵攻軍はそのままに
袁紹と僅かな手勢だけが一回ギョウに帰っただけでは?

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