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2012年1月2期戦国時代4: 【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】 (450) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】


1 :07/02/09 〜 最終レス :12/01/22
四国地方の戦国大名について語り合うスレです。
瀬戸内、淡路、豊予、太平洋側の水軍(海賊)の話もOKです。
四国は三好、長宗我部、村上水軍だけじゃないはず!
【河野・安芸】四国の戦国大名【長宗我部】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149000541/

2 :
とりあえず有名どころ
伊予・・・河野、西園寺、宇都宮、来島
土佐・・・長宗我部、一条、土居、安芸、香宗我部
讃岐阿波・・・阿波細川、三好、十河、池田、香川、大西
淡路・・・篠原、安宅etc...
水軍・・・風早河野、三島村上、来島村上、飽塩、篠原etc...
その後の四国にまわされた武将、藩主など。
伊予…加藤嘉明・光泰、藤堂、脇坂、戸田、福島、小早川、安国寺、伊達、一柳、蒲生、久松etc...
土佐…長宗我部、山内
讃岐阿波…十河、香川、長宗我部、生駒、蜂須賀
淡路…仙石etc...

3 :
いらさい。

4 :
( ´゚ω゚` )

5 :
良かった良かった。

6 :
100に届くかな?

7 :
鳥無き島

8 :
土佐佐竹氏は常陸の佐竹氏と遡れば同族なの?

9 :
河野氏は同名の武将が多くて分かり辛い。

10 :
河野ってどうやって滅びたの?

11 :
長宗我部の侵攻に耐えきれず降伏
その後、秀吉の四国征伐で長宗我部共々所領没収

12 :
伊予は水軍が発達して交易が盛んだったろうから
湯築城下はかなり賑わってたんだろな。
石高も32万石(伊予全体で)とまずまず豊かなほうだ。
河野家の当主がもうちと出来た人物だったらな。

13 :
四国の戦国は
土居清良に
名を為さしめるために存在したようなものだな

14 :
>>12
河野通直の後継を娘婿の来島通康にする話がすんなり通ればよかったのにね

15 :
>>12
伊予全体を支配していないから。

16 :
河野氏の功績は
大山祇神社を保護し多数の武具等を後世に伝えたことだな

17 :
伊予の西園寺家はマイナーかな?

18 :
金子氏の方がマイナーだな。

19 :
>>17
公良が伊予松葉城(岩瀬城)に入ったのは 永和2年(1376)と
土佐一条よりだいぶ前なんだけどね

20 :
河野氏の別れで得能氏っていましたよね?

21 :
http://human7.2ch.net/test/read.cgi/honobono/1175259936/

22 :
国虎タン

23 :
アゲ

24 :
>>21
確か南朝方について没落したんだよね

25 :
>>24訂正
>>21>>20

26 :
吾妻鏡にみえる西園寺公経が宇和郡を欲した話って、どんな話なんだろうか?

27 :
>>26
ここ面白いよ
網野善彦 「西園寺家とその所領」
ttp://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

28 :
>>16
でも世間では全然知られて無いよね

29 :
四国と同じで地味なスレだな。

30 :
本山氏の出自って結局どこなんだろうか。

31 :
鳥無き島の蝙蝠以下の人達だから。

32 :
 

33 :
西園寺と河野との力関係はどうだったの?

34 :
河野に「通直」って名前の奴は、何人いるんだ?w

35 :
15世紀末期からだと、
通直(教通)−通宣−通直−通政(晴通)−通宣−通直−通軌
なので約100年の間に3人もいるなw

36 :
ところで通軌って実在するの?
河野家譜の築山本には宍戸元秀の子と書かれているけど、
宍戸氏の系図にも出てくるんだろうか…。

37 :
あれー江戸時代の伊予って松平じゃないの?

38 :
あげ

39 :
松山藩
加藤嘉明(1600〜1627/蒲生氏と入れ替わり会津へ)
蒲生忠知(1627〜1634/嗣子なく断絶)
松平定行(1635〜/久松松平)
今治藩
藤堂高虎(1600〜1608/転封)
松平定房(1635〜/久松松平)
大洲藩
脇坂安治・安元1608〜1617/転封)
加藤貞泰(1617〜)
宇和島藩
(1595年〜1600迄藤堂高虎)
富田信高(1608〜1613/坂崎直盛との政争で改易)
伊達秀宗(1614〜/政宗庶長子)
小松藩(西条藩主一柳直盛より相続分与で立藩)
一柳直頼(1636〜)
そんなわけで久松だけではなく伊達、加藤、一柳がいる。
そして紀州藩支藩の西条藩は久松じゃなくて紀州徳川。

40 :
我が軍には鶴姫がいるではないか

41 :
>>40
大祝氏の娘云々の「鶴姫」は戦前の作り話だけどね

42 :
>>39
伊予は南予、中予、東予の地域差があると聞いたことがあるけど、諸藩の配置にも関係するのかな?

43 :
東予と南予が藤堂高虎と関連してるんだよね 確か。

44 :
南予は西園寺の勢力圏だね。

45 :
東予は細川?村上?

46 :
四国の大名は元弘・南北朝・応仁でどのように分かれたの?

47 :
その時期の四国はほとんど細川一色じゃないかな
伊予や淡路が南朝の根城だったらしいけど

48 :
鎌倉時代から残っている家はほとんどないんじゃ。河野は本家は六波羅主力→北朝。分家は討幕→南朝だったはずだけど。

49 :
土佐に満良親王が派遣されたんだって?あまり聞かないね。

50 :
親王は彼方此方に派遣されてるからな

51 :
脇屋義助くんも来ていたよ。

52 :
>>45
伊予は原則、河野の守護領国だったけど、東予は細川が分国守護だったらしい。

53 :
東予は河野氏の支配も今ひとつ浸透しなかったようですな。

54 :
南予だって西園寺が事実上独立してたし、実質的に河野は中予だけの戦国大名だな。

55 :
河野氏は代を重ねる毎に弱体化していったのですな。
数多の分家や被官をまとめる求心力がね。

56 :
最後は毛利に寄生するような感じだったしね(最後の当主が舅の小早川隆景に寄宿)。
フェードアウトというか、縮みっぷりが物悲しいw。

57 :
>>56
かく申す私の家も元は河野氏支流なので悲しさ一塩なのですな・・・。

58 :
南北朝期の伊予は河野本家は北朝方で伊予国守護・宇都宮氏に従っていました。
河野支族の土居氏・得能氏は南朝方ですな。海賊衆の村上氏・忽那氏・祝氏らと共に
活躍し、一時の伊予は南朝方が優勢ですらありました。
しかし讃岐守護・細川頼春の西進によって壊滅するのですな。
それに端を発している訳でもないのじゃが、河野本家は求心力に欠けているのですな。

59 :
連投で相済みませぬ。
戦国期になっても伊予一国を支配するほどの大名は遂に現われず、
中予の河野氏・宇都宮氏、南予の西園寺氏あたりが大名クラスですかな。
宇都宮氏は鳥坂峠で敗れて後は家臣の大野氏に取って替わられますな。
大野氏は河野支族でありながら長宗我部氏と結んで反河野行動をとります。
東予はも細川氏の元被官の石川氏がおりましたが、家臣の金子氏・高橋氏が
台頭、金子氏は長宗我部氏と同盟を結びますな。
長宗我部氏の伊予進出は中予・東予では在地勢力との同盟関係で行われたが
南予では軍事行動でしたな。
九州の大友氏や土佐一条氏との戦いで弱体化した西園寺氏を最終的には制圧。
もはや河野氏にとっては毛利氏との結びつきを強める事でしか存続を図れなかったと
いう事ですな。
その甲斐あって秀吉の四国侵攻まで河野氏は中予支配を維持して、長宗我部氏の
四国統一を完成させなかったのですな。
長文にて申し訳ございませぬな。

60 :
バチカン四国って、バチモンくさいな。

61 :
江戸時代の来島氏って、九鬼氏みたいに内陸の大名家になってるんだな。

62 :
>>61
関ヶ原合戦の際、当初は西軍として村上水軍と共に伊予の東軍方を攻め、
のちに東軍側に加わって、豊後国の内陸部に1万2000石を賜っています。
九鬼氏同様に徳川幕府の水軍封じ込めの一環だと思われますな。
村上水軍は東軍の加藤嘉明居城を攻めた際に当主の元吉が戦死、嫡子は
毛利氏の船手方として周防国三田尻に移り、海賊衆の伝統を残したのとは
対照的ですな。

63 :
>>62
時代を下るにつれて、水軍の技術は失われていったんでしょうな。
残念なことです。

64 :
>>63
同感ですな。
ただ今でも周防から長門あたりには「○○丸」等の船名のような苗字の方も
おられますが、もしかするとその名残りなのかも知れませんな。

65 :
>>64
「〇〇丸」の元は船の名前ではなく、小高い丘のことを「丸」と俗称することに由来すると思われ。
西日本(北九州と山陽)に多い苗字らしいので、船名を由来とする家も中にはありそうだけどね。

66 :
源五郎丸洋のことかー!

67 :
>>65
ご指摘に感謝します。
確かに城の「一の丸」などの呼称もそうでしたな。いや、これは失礼!
私の知り合いは長門の漁師の出で「今朝丸」と申したもので。

68 :
河野は秀吉の四国征伐まで滅びなかったんだから
毛利の助けがあったにせよ底力はあったんじゃないか
周囲の強豪に何度も攻め込まれているが防戦に関しては9割方勝ってるよ
しかし四国の戦国大名ってひとつ残らず滅亡したな

69 :
仙石のせい?

70 :
仙石がいなかったら戸次川で信親が戦死する事もなかったかも。
そうしたら四国の歴史も少しは変わっていたのでは。

71 :
あれって四国の大名を一掃する為のわなだったんじゃないかとすら思う

72 :
だとしたら・・・猿め、なかなかやりおるわいw

73 :
元親夫人の奈々が亡くなったのって1584?それとも九州征伐の頃?

74 :
戸次川合戦で信親を失い、伊予の日振島で落胆していた元親が
妻の死の報にも接して、さらに落胆したとする史料もありますね。

75 :
盛親に家督をつがせたのは、菜々の子だったから?

76 :
単に上の2人はもう養子に出しちゃってたからじゃね?

77 :
信親も菜々の子だから、2人が亡くなってショック受けたため、菜々の子で信親の実弟の盛親に家督を譲りたかったのかも

78 :
他家に出た二人は別腹だったの?

79 :
全員が同腹の子かと。

80 :
そうだったのか
自分77だが、夏草の賦には「菜々の子は盛親だった」みたいに書かれてたので養子に行った二人は側室の子かと思ってた
間違ってたならすまん

81 :
美濃の斉藤伊豆守利賢の娘を娶ったのは永禄6年(1563)、元親が25歳といわれる。
以来、5男4女をもうけたと伝わっているよ。
長男・孫三郎信親、次男・五郎次郎親和、3男・孫次郎親忠、4男・右衛門太郎盛親、
長女は一条内政室、次女は吉良親実室、3女は佐竹親直室、4女は吉松十左衛門室、
そして5男が右近大夫だと。

82 :
右近大夫が正室腹ってのは見つけないけど、何の史料?

83 :
>>82
81です。誤解を招いた言い方で申し訳なかったです。
これは徳永真一郎氏の採っている説ですが、典拠についてはまた調べてみます。
(司馬遼太郎氏は信親と盛親が正室腹だとしておられますね。)

84 :
>>81
25歳って、随分嫁をもらうのが遅かったんだな。
今なら40歳くらいの感覚かな?

85 :
>>84
元親の初陣と家督相続が22歳なので当時としては遅いですよね。
また、本山氏との戦いの最中でもありますしね。

86 :
>>83
真面目に言ってると思うからマジレスするけど、どちらにしろそれ小説家。
むろんそんじょそこらの歴史オタよりよほど収集、分析はするだろうけど、
説の正しさや史料への準拠より「フィクション」「作品」としての完成度を
求めるべき人たちの名前をこういう場であげるのは場違いだよ。
>>84
元親の正室に関しては年齢から継室なんじゃないかとは言われてるね。
最初の正室は子供生まずに、あるいは最初の数人生んで若くして亡く
なったんじゃないか、と。

87 :
信親が生まれたのは菜々が嫁いだ後のこと

88 :
元親の婚姻に関しては土佐国編年紀事略の永禄六年には「頃年、元親〜」
としか記載がない。25歳で結婚と特定しているのはあくまで土佐物語の話。
まぁ俺も信親は正室腹と思うけど、継室と考えれば長女も含めて可能性は
否定できない、て事で一応併記した。

89 :
>>86,88
83ですが、もちろん場違いなのは承知ですよ。
80さんが「夏草の賦」のお話をされていたので作家ベースで語らせていただきました。
諸方に誤解を招いたようですね。申し訳ないです。
元親の婚姻についても然りで、あくまでも「といわれる」「と伝わる」と記したのも
それが正説ではないかも知れないとの理由からです。
重ねてお詫びいたします。
昨今は小説やゲームで長宗我部家にご興味を持たれる方々も増えていますよね。
ですので、貴殿のように史実をあげて解説いただける方はとても貴重な存在かと。
当方も長宗我部関係者として頼りにいたしております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。

90 :
香川の戦国大名や豪族について調べてるんだけど、
寒川氏の居城のうち寅丸館って今現在大きい公園があるあの辺でいいのかね
昼寝城とかはしっかり看板とかあってわかったけど

91 :
>>90
虎丸山の麓、別所地区に居館があったと思われるがハッキリとはわからない
「城の内」と呼ばれる地名もあるし、城内と繋がっていたであろう道もあるにはあるけど

92 :
>>91
ありがと、とらまる公園とかいうあたりだと勝手に思い込んでた
引田城とかもいってみたけどあれは江戸時代の遺構だったお

93 :
>>92
引田城も今ひとつ調査されてないんだよねぇ
生駒氏入城以前の状況がよく判らんのよね
落ちてる瓦は生駒時代の物で間違いないそうだ
石垣積みなおしたりすれば何か判ることもありそうだけど

94 :
讃岐の香川氏が相模国香川庄出身とすると 県名も相模から来た事になる・・・

95 :
>>94
香川氏と香川県は関係ない

96 :
>>94
県庁所在地のある高松は旧地名でいうと讃岐国香川郡高松だよ。
現在の県名が外から来たこと例もあるけどな。
例:福岡県(備前福岡から)

97 :
>>14
最近は、来島騒動は、通直の後継争いなどではなく、
親大内派と親大友派の争いで、親大友家臣団が晴通をかついで
通直に対抗したもので、当時の西日本の情勢の変化に影響された結果だと
いう研究があるね。
っていうか、来島通康も晴通も通宣もみんな通直の実子だそうだし。これが事実なら、
通康は妹とケコーンってことに。萌える。

98 :
>>35
通直(教通)のひいじいさんも通直(通尭)だ。
ともに、刑部大輔なので官名で呼び分けることもできず、厄介だ。

99 :
>>97
全くの空想なんだがその場合は通康の妻が実は来島村上氏の出だったて可能性は?

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7: 武田信玄上洛成功 (803)
8: こんな徳川家康は嫌だ (912)