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2012年1月2期戦国時代11: 島津義弘を有名にした木崎原の戦い (449)
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12: 戦国ちょっといい話30 (529)
14: 関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか? (694)
15: 武 将 が 乗 っ て そ う な 車 (78)
16: 安土町がなくなる件 (152)
島津義弘を有名にした木崎原の戦い
- 1 :10/02/04 〜 最終レス :12/01/22
-
島津義弘を有名にした木崎原の戦い
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/38/264.html
300の手勢で、3000の伊東軍を撃破した名将だった。
だが、それだけで島津の名声を轟かせた訳ではなかった。
- 2 :
- 中国朝鮮の圧力で、鬼神・島津義弘ともあろう大人物が日本史の教科書に記載されないのである
- 3 :
- 信長の野望だといつも相良と同盟してるけどあれ嘘っぱちだよな。
木崎原の時、相良家も伊東に呼応して島津領に浸入してる。
絶体絶命のピンチだった。
そして義弘の虚報に引っかかって退却した相良軍。
戦の方ばかり目立つが実は情報戦も繰り広げられていたのだった。
- 4 :
- そもそも女間者を伊東に近づけてウソ情報を流したとか
アチコチに伏兵を配置してことごとく逃走路を操ったとか孔明かよwアホでデタラメな講談の話を
信じるなよw
だいたい伊東3000戦死者560
島津300戦死者250なんだから敗北側は島津だから。
伊東側は勇猛で皆が陣頭指揮して戦死したが
島津側の将は逃げ回って兵どもがバタバタ討ち死にした。
まーこれが捨てガマリというヤツだなw
伊東の敗亡はデタラメな政治で人心が伊東から離れて
島津へ内応したから。
- 5 :
- あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走って周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
- 6 :
- ×大隈
○大隅
- 7 :
-
「鹿児島藩」と呼ぶのが正しいそうだ。
そうだったんだ。。。
- 8 :
- >>5
なんで島津が11万も動員してるんだよww
アホかwwwwww
- 9 :
- >>8
お前みたいな厨ってほんと救いようがない。
郷土愛なのか知らんが盲目的で無知なやつばっかの伊達厨とか毛利厨って頭がおかしいにも程がある。
知らんくせに自演連打で多数を装い平気でウソを喚くってウンコより価値ない人間。
まずは島津側公式記録の肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記や薩藩奮記雑録でも最低限読んでから発言しような
- 10 :
- >>9
>家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで
もしかしてコレ信じてるのwwwwwwwwwwwwwwwwww
- 11 :
- 天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、
かる石之尾に家久・征久
熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で
相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。
- 12 :
- この水俣攻防の一戦の敗北をもって相良は島津に屈する。
その後、島津の命令で甲斐宗運攻めを命じられ義陽敗死。
10歳忠房が相良当主になると島津は「お前らの方から前非を悔い
どうしても島津に仕えたいって再三懇望するから許してやった」という無礼なことをやる。
そして幼君をいいことに「野心は一切ない」とふざけたことを言っている島津は
葦北だけでなく八代郡を横領し、琢磨郡まで奪おうと策するが相良重臣の尽力で相良滅亡は避けられた。
- 13 :
- 374 :人間七七四年:2010/02/01(月) 23:56:49 ID:LjZRF570
木崎原のころには伊東一族って家臣から見限られてたんですよね?
義祐当人も放蕩、奢侈、諫言する家臣を遠ざける等主君としてどうだったんでしょうか。
米良氏は島津義弘の攻撃を撃退するなど奮戦してたのに所領の一部を伊東祐松に奪われたり。
落合氏も嫡男をこの祐松にされてるんですよね。
落合兼置も木崎原の殿軍を努めて討死してるのに相変わらず栄華な生活を送っていたのでしょうか?
米良落合どちらも島津方に寝返ってますよね。
375 :人間七七四年:2010/02/02(火) 02:33:27 ID:EpBsolnl
そういう事が積もり積もって人心を失って表面だけしか従ってなかったんだと思うよ。
だから劣勢となるともはや篭城できる状態ではなかったと…。
命を賭けて頑張ってるのに報いるどころかそんなことやってちゃね。
378 :人間七七四年:2010/02/04(木) 07:18:31 ID:tlcJs9lq
小林城の攻防戦で米良重方・矩重兄弟は攻撃方の島津軍を撃退してますね。
義弘は討死寸前で重傷を負ったとか書いてある。
義久も義弘も来ている本格的な侵攻だったが失敗して撤退した。
攻勢に出た木崎原の戦いで重方が戦死。
跡を継いだ弟の矩重は所領一部没収、謀反嫌疑などで不満を募らせ島津方に
寝返る。伊東義祐死後、祐兵が旧領の一部を回復して復帰すると島津家を去り、
祐兵に謝罪して許され再び家臣になる…だって。
381 :人間七七四年:2010/02/06(土) 17:22:36 ID:s0KGK69J
家臣団の府内集住に成功した反面で二階崩れの変が起きた大友や六角氏の挫折や武田信虎追放劇のように
強権発動で豪族連中を屈服させて中央集権化を目指すのに失敗したんだな。
結局、そういうことをせずに甘やかしたり、欲で釣って自陣営に引き込んでる大名が
成功して版図拡大してんだよな。
それで豊臣政権の力を借りて上杉のように官僚化へ脱皮するか
最上のように失敗改易するか、伊達や島津のようにグダグダなまま封権制度を引きずるか。
- 14 :
- けっきょく島津って激弱だよな
- 15 :
- 負けっぱなしだものね( ^ω^)
- 16 :
- まぁ大口合戦では相良氏の赤池伊豆守長任に義弘は討死寸前にされてるし、
岡本頼氏(河内守頼実)にも島津はボコボコにされた挙句に
川上将監を討たれたり負け回数はかなり多い。
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石
明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。
よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。
- 17 :
- 島津擁護じゃないけど、まあ負け戦がある人の方が面白いっちゃあ面白いよね
その島津に勝った人達のドラマも映えて面白くなるし<志賀・赤池・宮部とか
2chでは立花宗茂とか人気あるけど、俺は人としての宗茂は好きだけど
戦国武将としての宗茂はあまり好きじゃないなあ
逆境から跳ねあがってしかも負け戦がない!ってのが人気なのだろうか
戦でも天草島原以外だとパッとしないような
- 18 :
- 海外奴隷人身売買
大規模組織的略奪
大量虐
横領収奪
一国悉く消失の恐怖を演出する鬼犯罪集団島津
自軍兵士にまで家族を人質に戦場での自発的犠牲自害を強要する基地害集団。
曰わく「最近北条と同盟を結びながらすぐさま裏切るほど信用できない虐横領を家業とした伊達家」と肩を並べる悪人指導者。
- 19 :
- 島津は卑怯者集団だから相良に負けまくった挙げ句に
もう勝てねぇから暗しちゃうしかねーとか言って狩りをしてた佐牟田長堅を刺客に暗させたほど負けまくったアホ軍だし。
- 20 :
- >>19
島津擁護のつもりはないがその場合は暗される方が不用心では?
- 21 :
- 関ヶ原は、木崎原を逆手に取った、家康と石田三成の謀略。
だが、これも島津義弘は切り抜けた。
- 22 :
- >>11
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。
天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
>>16
相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。
>>21
なにわけわからんこと言ってんだw
そもそも関が原の義弘は部下を捨て駒にして敗走しただけだろ。
- 23 :
- そもそも木崎原の戦域は島津領だしそこの地域の農民を説得して味方につけたとしているが、
これを島津の兵力に加算してないが当時は島津領の農民=半農の国人集団だろうし
島津伊東の石高的に考えても明らかに島津の総兵力は伊東以上のはずで、島津側の寡兵はいつもの島津マンセーの捏造だろうね。
戦闘開始するやあちこちから伊東の退路に島津の援軍が都合よくやってくるネタ話からして講談臭がするし。
まぁ秀吉の島津征伐の道案内をやった先陣の復習に燃える伊東祐兵に島津は報復されて土下座するわけだがw
- 24 :
- これまたマイナーな合戦
歴史の本でも戦国島津といえば殆ど耳川からで、肝付や伊東との戦いはあまり触れないよね。
予選扱いってことか
- 25 :
- 葦名の家臣間対立からの自滅と同じで、耳川は家臣間対立から大友の自爆自壊だからまったく評価できんな。
- 26 :
- 寡兵をさらに分けるという発想が凄い
- 27 :
- 島津義久・義弘兄弟が薩英戦争を指揮していれば薩英戦争では一兵たりとも失わずイギリスに完勝。
もちろん薩摩は戦火に襲われることなく無事だったはず。
- 28 :
- 負け知らずの島津は無敵だな
明治維新時にも有能な人材が多いわけか
- 29 :
- むしろ有史以来負けっぱなしじゃんお( ^ω^)
- 30 :
- >>26
そのありえない論理破綻したネタ盲説を土台に
勝ったと捏造する重症講談島津マンセー史観w
島津の大ウソを真に受けて真似したら太平洋戦争でボロ負けしますたw
実際は毎回、相手を余裕で上回る大軍を動員してるし
先陣は大軍の恫喝で戦わず降伏した国人にやらせて
島津身内は命欲しさに後方の安全圏にいて
戦功横取りシステムでした。
>>27
一兵たりとも失わないとか妄想すぎてキモイ
>>28
あぁ官軍という看板のおかげで勝てただけなのに勘違いした挙句に
神風連が速攻で落城させた熊本城に大苦戦して
連戦連敗した賊の薩摩芋のことですねw
- 31 :
- 佐伯惟教って日向の高城救援に向かっていた島津家久の軍勢を遭遇戦で大破してんだよな。
本戦前夜に田北鎮周が「この戦自体が反対だったが先陣を任されたからには潔く突撃して死んでみせる」と自暴自棄発言。
翌日に自突撃するので、これでは作戦もなにもないと嘆いて続いて自突撃して息子ともども殉じてしまうが、
あとを継いだ孫の佐伯惟定は義弘と義久の両方をボコボコにして秀吉から激賞されてるし、まさに島津キラー佐伯。
- 32 :
- ×孫の佐伯惟定は義弘と義久の
○孫の佐伯惟定は義弘と家久の
佐伯惟定はのち豊臣秀保・藤堂高虎に仕えた。
- 33 :
- 捏造大好き島津くん
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石
明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。
よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。
- 34 :
- ウリナラマンセーファンタジー戦記が島津兄弟の実態
- 35 :
- ■ 島津義弘検定とは ■
「鬼」と呼ばれ文禄・慶長の役では明・朝鮮軍を、関ヶ原の戦いにおいては徳川家康を震え上がらせた島津義弘。
戦国随一の猛将である彼のことを、あなたはどれだけ知っていますか?
<検定詳細画面>
http://www.kentei-do.com/test/details/838
■ 検定概要 ■
試験形式 : インターネット試験 (総合検定サイト『検定道』内で提供)
開催期間 : 常時開催中
試験時間 : 制限時間なし
出題数 : 20問(ランダム出題)
合格基準 : 100点満点中60点以上
受験資格 : どなたでも受験いただけます。
検定料金 : 0円
受験回数 : 何回でも (合格後も受験可能)
- 36 :
- >>35
誇張癖がそのまま正答になる基地害検定www
- 37 :
- 鹿児島の自然や歴史の知識を問う「かごしまジュニア検定」が15日から、鹿児島県内の小中学校392校で実施されている。
これって基地害検定?? ふふふ
- 38 :
- これは鹿児島による美化薩摩マンセー思想強化の政治活動だな。
こんなことは薩摩によって九州全土が荒野と餓死地獄にされた被害者たる九州の民草の怒りを買うだけだ。
おまけに大商都たる博多まで燃やし略奪した島津は今日までの九州衰退の戦犯。
- 39 :
- 木村友之
- 40 :
- 島津は常に専守防衛さ。
- 41 :
- 石高高いのに寡兵でしか動けなかった島津さんアワレ
- 42 :
- >>33
宮崎って結構平野も広いし、大きな河川もある割りに石高が少ないなあ。
それだけ山林が多いってことか。
- 43 :
- 伊東領に関しては、米がほとんど取れず
飫肥が良質な木材が取れたとか。
また大友軍が日向を南下した耳川の戦いの際には兵糧の補給が困難なほど伸びきった補給路にもまして、道すがら食糧調達もできないくらい何もなかったとか言うね。
- 44 :
- >>43
佐伯から延岡まで行くの現在でもきついからなあ・・・
- 45 :
-
宮崎フリーウェイ工業団地
「サブシティ構想」を掲げる都城市と、
細島港を抱える日向市が応募していることが明らかにされた。
- 46 :
- >>43
耳川まで出張った大友軍バカス
挑発して、領内に引き込んだら、芋侍なんて軽く粉砕出来たろうに
- 47 :
-
都城島津家史料「屋敷と一体保存貴重」
- 48 :
-
史実としては龍馬が活躍できたのは、
ひとえに薩摩藩が支援してくれたからにほかならない
- 49 :
- >>46
宗麟の意を受けた田原親賢が日向国の国境線について
和睦交渉中に
小早川隆景をさんざん撃破してきた筋脳の田北鎮周のバカが死ぬ覚悟できてるし自してやるわ〜って暴発したからね。
そこで見放して犬死させりゃあよかったのに見過ごすことができんかったから戦略的行動がとらなかった。
豊後領内に引き入れて持久戦させりゃあ芋侍なんてフルボッコだったのにな。
- 50 :
-
長崎のカバ「龍馬」引越 薩摩に到着 疲れたぜよ
- 51 :
-
1868(慶応4)年1月3日から6日にかけて、
徳川慶喜を擁する旧幕府軍と、
薩摩藩を中心とした新政府軍の間で争われたこの戦いを、
開戦前の大政奉還を巡る駆け引きから慶喜の大阪城逃亡までを
ひもといていく
- 52 :
- 島津斉彬は徳川側の殿様
- 53 :
- 島津義弘は諸大名や有力者への贈答品などとして「薩摩の茶入」の生産を重視。
薩摩で茶道が広まる契機とも考えられ、貴重な資料として評価された。
- 54 :
- 天下分け目の合戦の地・関ヶ原町が、
携帯電話「iPhone(アイフォーン)」を活用した
観光誘致ビジネスを進めている。
- 55 :
- まぁ、朝鮮での活躍、関ヶ原敵中突破が無かったなら「島津弱い」も納得するけどね
尋常じゃないっしょ
- 56 :
- 朝鮮での勝ちがほとんど島津だけの自称じゃんw
清正が朝鮮軍からやたら敵視されてたり、
宗茂の活躍は他家史料に出てくるけど島津なんてねーじゃん。
- 57 :
- まあ関ヶ原だって単なる敗走なのに、印象操作でちょっと言葉を換えただけで180度印象が変わるのが島津信者みたいで、
なぜかマンセーできてしまうと言う分かり易い詐欺にひっかかる幼稚な脳しかないのが島津信者だからね。
部下を生贄に突き出して注意を引きつけておいて卑怯にも自分だけ助かろうとした挙げ句に
父をされた人に憐れみをかけられて身辺警護してもらい救ってもらう情けなさがガチ泣ける。
関ヶ原後の新年に挨拶に来ない島津に対して家康が「いまになって事の重大さにやっと気がついたみたいだなアホ低脳乙。怖じ気づいて引きこもり挨拶にすら来ないとはワロタw」とバカにされる始末。
これがヘタレ島津の真の姿だよな。
- 58 :
- まぁ島津なんて
そもそも負け戦ばかりですからねぇ。
義弘なんて何度も死にそうになってるし。
- 59 :
- たしかに義弘は敗死寸前の重傷を何回もやたら繰り返してるね…でも義弘には捨てがまりがあるから助かっちゃう。
- 60 :
- 義弘の身代わりにされてされる・・・
- 61 :
- 島津は何しろ維新の功績があるから戦国の評価もイケイケでずっと来たんだよね。
- 62 :
- 歴史読本やコーエー本は講談マンセーばかりで負け戦を紹介しないから厨房が強ぇとか勘違いするんだよな。
その悪い例が伊達厨や毛利厨や島津厨。
- 63 :
- 家康は爪のあかでも煎じて飲め。
- 64 :
- 飲んだらばい菌が
- 65 :
- >>11>>22
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
- 66 :
- 訂正
×高満城兵を前線に
○宝満山城兵を前線に
寡兵で島津が勝ったなんて完璧な捏造だよな。ほとんど負けまくりの島津が戦国最強とかチョンみたいだよな薩摩隼人族って。
- 67 :
- 肥後を鎮圧して島津を牽制した加藤清正最強。
- 68 :
- TBSの「水戸黄門」第41部が、12日午後8時からスタートする。
水戸光圀率いる一行が印ろうをかざして悪を懲らしめるスタイルを守り抜いて約40年。
「偉大なるマンネリ」とまで言われながらも、シリーズごとに特徴がちりばめられている。
老公の旅に可愛らしいお供が加わる一方、86年の第16部から「かげろうお銀」「疾風(はやて)のお娟(えん)」で出演し続けてきた由美かおるが、今シリーズ限りでレギュラーをはずれるなど、見どころ満載だ。
- 69 :
- 島津の朝鮮での武勇伝はほとんど自称
清正の朝鮮での武勇伝は他家史料どころか他国史料にも載っていて清正は指名手配犯されたほど。
朝鮮ではその屈辱深さから清正は朝鮮で悲惨に討ち死にしたと捏造されるほどのトラウマ
- 70 :
- ◇伝統普及へ「歌集」復刊−−島津義秀さん(46)=姶良市加治木町
4本の弦を、手のひらほどの大きなバチで、たたくように激しく弾く。
16世紀以降、武士のたしなみとして広まったという言葉通り「豪快で男性的」な演奏に、周囲の空気が震えた。
「自分が明日死んだら、薩摩琵琶の伝統が途切れるという危機感があった。
目の前で県民の宝が滅びるのはやるせない」
加治木島津家十三代当主。東京で育ったが、祖父母が住む鹿児島を度々訪れ86年、薩摩琵琶に出会った。研さんを積み、現在は薩摩琵琶同好会、龍洋会の加治木道場主宰を務める。
県内で弾奏者は十数人程度。その上、多くが高齢。伝統断絶の危機感が、普及に駆り立てる。
- 71 :
- 連戦連敗で毎回、死にそうになる大敗ばかりで、
圧倒的大軍で戦わず降伏させるくらいしか勝ち戦がないのが島津
当時の島津の石高は伊東より高く、しかも相良や伊東との長年の最前線の係争地。
なおかつ戦場は義弘統治下で戦いながら、
地元農民(実質半農の国人)の動員を、なぜか島津兵力にカウントしないし、
島津の各地からの援軍も伊東の行動経路にうまい具合に偶然やってくるなど
三国志演義の孔明のような配置をするなど
講談臭しか漂わない軍記物語でしかない木崎原の戦いも明らかに島津得意の捏造。
- 72 :
- まぁ石高で考えても島津が伊東より寡兵ってのはありえない。
- 73 :
- 大軍では負けまくり死に損ないパターンが多いのに
なぜか寡兵だと大勝する島津兄弟w
前者はほとんど隠蔽される一方で
後者はほとんどの本で紹介される島津マンセー捏造史観。
明らかに大ウソをつきまくってます
- 74 :
- 辺境の伊達や島津や毛利ってのは近隣に有力大名が生き残らなかったからやりたい放題捏造と隠蔽と自己正当化マンセーしてるからな。
明治維新で島津と毛利はさらに最強無敗逸話と兄弟仲良し話を作り出してマンセーし
独眼流政宗放送とともに仙台はあきれるほどに「〜とも言われる」「一方で〜だとも」「一説に」「実際のところ」「限りなく勝ちと言えるだろう」などのガセ話を製造した。
- 75 :
- 島津は着てるだけで水に浮く革製の鎧を使っていた事で有名
ふつう鎧を着てる人間は泳げないし、鎧が無くとも武器をもって泳げる兵は少数
水辺での進軍は火縄銃も無効化しやすかった
しかし島津にはその心配が無かった、むしろ「島津雨」と言って水を幸運視してた
だから水辺の戦い限定なら島津は寡兵でも勝てた
(木崎原も水辺だが、それ以前に桶狭間みたいに敵中枢が少数な時の遭遇戦で義弘も三千相手するつもりで三百で出撃してた訳ではない)
それ以外にも島津には「車撃ち」といわれる二段撃ち射法が長篠合戦の前から存在した
(長篠合戦の3段撃ちは無かったわけだけど・・・)
鉄砲の技術面では防水製の油紙を使った「早合」も同時期に開発してた
(立花家の竹製の「早合」ですら通常の3倍の装填速度と言われる)
さらに火縄銃もガンスミスが国内にいたおかげで、兵一人あたりの射撃精度が高かった
トドメに3大戦法「穿抜」「死居」「釣野臥」
秘密兵器の義久様「御神籤」
要約すると
水中戦でアッガイがトランザム使ってビームマシンガンをNTばりに当ててくるわけだよ
ガンダム10機でもこの状況では勝てる気はしないだろ?
とりあえず、純粋な島津兵なら水辺において寡兵でも勝てる理由が存在した
因みに義弘が武将して優れていたかは微妙
若い頃は日本刀じゃ無く大剣もって一騎打ちして怪我する厨二病患者だし
木崎原では伊東が軍を二つに分けた挙げ句に水遊びしてた敵失でのラッキー勝利
九州征伐ではコイツが夜襲で失敗したのが敗走の原因になってるし
(島津軍の6割ちょいが島津本国以外の人間で兵を貸してた大名が豊臣に説得され解散したのもあるが)
関ヶ原の敵中突破は殆ど豊久の采配、部下からはメシ抜きにされた
- 76 :
- >>75
そのほとんどが一次史料の裏付けがない話で信憑性ゼロで実戦には役に立たない話ばかり
- 77 :
- 島津の史料の殆どが戦国時代から江戸初期に書かれた物ばかりで
作者等も特定されてる物ばかりなんだが
多勢で負けた話とか、約束破った話も書いてるし、上司の悪口まで書いてるのもある
寡兵で勝った戦も滅んで無ければ敵軍の史料にも裏付けの記述があるわけだし
誇張はあっては嘘は付いてないと思うよ
浮く鎧やら射撃技術で嘘を付く意味も無いし
つか、3年ぶりくらいに戦国板に来たけど
どの武将スレもアンチばかりで悲しくなる
昔はネタを投下すれば歴史考証学的な話題が楽しめたのに
武将がキャラクタ−化された弊害なんだろうな
- 78 :
- >>77
浮いたからなんだって言うんだ?
そもそも海中で戦ったりしないんだから浮くことの有利さなんてねーし。
そんだけ性能あるなら世界史レベルで似たような装備があるはずだろ?
三国志演義の孔明の南蛮征伐でしか浮く皮鎧なんて聞いたことねーぞw
水辺にずっと潜んでいて火薬が次第に湿ってこない限り、無効化なんてできねーしw
そりゃあ出来損ないの江戸期の伝聞を聞き書きした妄想込みの家譜みたいなもんか?
- 79 :
- >>77
トンデモ話だな。
九州征伐でやってきた畿内の軍勢は
九州の将兵たちの武装をみて
あまりに貧弱で爆笑しまくり
恥ずかしさのあまり縮こまってしまい戦で実力も出せなくなるから笑わないでって話を聞いた秀吉が
おまえら笑うんじゃねーよって言って引き締めたくらいだったが
島津が皮鎧着てるの見たら大爆笑だったろうね。
義弘が大敗した日向南下軍だけでなく、
肥後を南下した先鋒の蒲生や堀らわずか5000の南下もまったく止められないほど島津弱すぎだから
無理やり強かったんだ話を作ったんだろな。
- 80 :
- >>75
小和田哲男の本でも読んで病気になったのかw
- 81 :
- この陰険さが徳川だ。
- 82 :
- この兄弟が完全に亀裂が入ったのは
豊後侵攻時だよな。
義弘が苦戦して朽網に陣をしいて移動できない状況の中で
家久が義弘に早く府内に来いって使いを出しまくるけど
義弘が府内へ向かったら、たちまち志賀親次に各地を奪回され
出口を封鎖されちまう危惧から言い訳ばかり言ってたら
家久は義久に「大将にあるまじき振る舞い」ってチクりまくるし
しまいには家久に「くじ引きを引いたらそっちより
苦戦中の玖珠郡へ兵を派遣した方がいいって神宣が出たから行かなかった」
とか迷走しまくりだし、その玖珠も落とせない始末。
しかも島津軍は軍紀が乱れに乱れ
家久曰く「義弘は将にあるまじき状態だし、伊集院の欲はひどいありさま。
将兵たちは欲に釣られ忠節を尽くすなんて少しも思ってない。いまや島津軍はボロボロ
今度、在地の国人から人質を取るとかアホなこと言ってんじゃねーよ。
まだこの島津軍の軍紀の乱れを大友側は気づいてないから良いものの
人質なんて取って、島津の内情がバレて大友側に筒抜けになったらヤバすぎだろうが!
義弘なんてもうどーでも良いから、兵を割いて三重城を守らないと帰れなくなる。
とにかく退路だ!戦況なんかより帰り道を確保しないと。大友に三重城落とされたら島津は全滅だわ。」
こんな状況になってたからな。
義弘と家久は三重から日向への撤退でボロボロにされたし
その他の諸将は肥後へ脱出の時にやはりボロクソにされて
それを見た肥後国人達まで離反しちゃうほど大友側に大敗。
こんなの知らんやつらが島津無敵最強とかほざいてるの見るとガチで痛いわ。
島津が九州統一とかできるわけねーだろ。
- 83 :
- これが義久と義弘が家督を争い
家久が暗されるまでに悪化した
兄弟の醜い争い。
大友側の離間策があったとしか思えないね。
- 84 :
- 膝つき栗毛。
- 85 :
- >>5
何に書いてあったんだろ、11万5千・・・
義久23,000、義弘17,000、義虎13,000の方じゃないんだ・・・。
水俣城の700も、相良側の史料では1,000人となってますよ。
加久藤城の背後が大口城・・・随分遠いところにある背後なんですね。
>そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろ
小林城での戦いの前に伊東祐安と・・・・書かずとも知ってますよね?
当然、木崎原合戦前の盟約より前の方のヤツですよ。
>日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞ
またまたぁ、冗談キツイなぁ。
>この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
出す筈がないのは当時の相良の外交状況から知ってるよね?
>>11
佐敷から八代に撤退? 相良側の史料には撤退との記述はないんだけど・・・。
>>16
大口合戦のとき、島津領は薩摩と日向の真幸院のみなので・・・
>>22
高原城は士卒が370人、ではその他は何人だったでしょう?
伊東側の史料見れば一発でわかる・・・かもね。
>>23
>農民を説得して味方につけたとしているが
まあ農民もいたんだけど、どんな農民だったかは当然知ってるよね?
>>71
長年の係争地??? あそこは200年以上のあいだ北原が治めてたので伊東と島津が
争ったのは10年にも満たないですな。
北原と相良・菱刈で争う事はあったかも知れませんけど、相良側の史料にはないです。
島津の各地から援軍? 全部西側なのでねぇ。それが行動経路にうまい具合にやってくるわけもなく、
というか行動経路にやってきたの? 島津側の史料にも伊東側の史料にも書いてないわ、ソレ。
もしかして新発見? すごいよ、それは!
でもまあ、ネットで掻き集めた知識で書いたにしては上出来だと思うよ。
島津の史料が捏造と言いつつ、島津側の史料を基調にしてる点も非常に滑稽だったしww
「執拗」とか「付け焼刃」というものが如何に恥ずかしい事かわかったから、
いい反面教師になったよ。 ホントありがとな
- 86 :
- 最近あっちこっちのスレで島津のアンチが多いな。一体何があったんだ?
- 87 :
- >>85
>>何に書いてあったんだろ、11万5千・・・
薩藩舊記雑録に書いてあったな。
>>水俣城の700
三州之勢で包囲したと肥後水俣陣立記にあるな。
>>加久藤城の背後が大口城
策源地としての拠点として大口城であり、大口から加久藤城まではずっと島津勢力範囲。
>小林城での戦いの前に伊東祐安
永禄10〜12年には
相良が菱刈を支援し祁答院や東郷も巻き込みそこそこ大きな戦禍になったが
伊東祐安の時は大したことに発展してない。
>>またまたぁ、冗談キツイなぁ
じゃあどこに?
>>出す筈がないのは当時の相良の外交状況から知ってるよね?
天正9年5月に島津が朴河内城落城したから竜造寺が相良を加勢する約束ができてるのを非難してるし
9月には相良が竜造寺に起請文を提出までしてる。
>>佐敷から八代に撤退?
合志親為が相良に水俣まで出陣して粉骨したのは非常に大変で言う言葉もわからないけど
帰陣したのは非常に賢明と和睦の調停に肥後国人たちで島津と斡旋する意欲を見せてる。
>>大口合戦のとき、島津領は薩摩と日向の真幸院のみなので
ほぼ薩州28万石の支配の総仕上げであり
相良は当時4万石もなかった。
>>高原城は士卒が370人、ではその他は何人だったでしょう?
当時の伊東の石高と状況から1000〜3000がやっとじゃないか?
木崎原合戦3000の時よりかなり低下してるはず。
>>まあ農民もいたんだけど
つうかまるで、島津とは関係ないけど、義弘が説いて協力を願ったとして
島津兵力に加算させない筋書きにしたりってのもそもそも都合よく書きすぎじゃね?
第一、義弘の領地下で従ってた白鳥権現座主の宗教的権威からくる在地動員兵力は多かったはず。
- 88 :
-
>>長年の係争地???10年にも満たないですな
まぁ感覚の違いで、10年を長年とするか、短く捉えるかは変わるが戦国期の10年は当時の状況を
大きく変化させるのも事実だし、そもそも永禄初年あたりから北原氏後継問題を巡り
薩隈日の国境線という地でもあるし周辺国が調停と紛争で外交的にも絡んできてるし
紛争が拡大してるし、永禄5年1562年には島津も相良の要請で軍を派兵してる。
少なくとも1572年木崎原合戦の間は10年未満じゃなく、10年以上の期間はある。
>>島津の各地から援軍? 全部西側なのでねぇ。
木崎原合戦の内容はもはや軍記であり、孔明もビックリ。
司馬遼も日露戦争において戦況が刻々と変化しアクシデントが発生し誤情報がたくさん飛び交う中で
混乱せず、正確に戦況を把握し「孔明みたいな巧みな軍勢の用兵は無理」として
時間を決めタイミングを見計らった決戦地への集結などは不可能としてる。
義弘が伊東勢が白鳥権現座主のいる白鳥山へ撤退するのを予言したり
伊東勢が白鳥権現勢力下の場所へなんら懐柔もしてないくせに一時的撤退場所として
このエリアに踏み込むのがそもそも不可思議。
飯野城にたかが50人の守備を残すと伊東勢が兵を分けて衝かれることを考慮外にしてるようで不可思議。
加久藤城へたかが60人だけを援軍に分ける意味がないどころか少ない兵力を分散するのが不可思議。
囮としてやってきた義弘が手勢130で伊東3000に河川を背にして戦いを挑み助かることが不可思議。
木崎原に一斉にタイミングよく島津軍が集結するのが不可思議。
しかも島津領菱刈からの援軍もタイミングよく到着。
加久藤城へ伊東が兵を分けて攻撃・白鳥権現座主勢力下へ伊東が来ない・加久藤城が落ちてしまう
義弘が手勢130が河川を撤退中に討ち死に・事前の打ち合わせどうりのタイムスケジュールどうりに戦況が
推移しないとこの戦いで島津側の作戦は成功しないのに難しい用兵をしてる。
完全に作り話にしかみえないし、島津側兵力がかなり多くないと成立しない作戦でもある。
- 89 :
- 訂正
×加久藤城へ伊東が兵を分けて攻撃・
○飯野城へ伊東が兵を分けて攻撃・
>>島津の史料が捏造と言いつつ、島津側の史料を基調にしてる
いろいろな史料をつき合わせて見て怪しくない点は採用してるが
それが普通の考えなんじゃないかね?別に島津史料のすべてが捏造なんて
宣言したことないけど、宣言してるレス番を教えてね。
>>ネットで掻き集めた知識で書いたにしては上出来だと思うよ
で、これらはネットのどこを調べたら見つかるのかリンク先を教えてね。
>>「執拗」とか「付け焼刃」というものが如何に恥ずかしい事かわかったから、
いい反面教師になったよ。 ホントありがとな
君が挑発までして下品だね。
- 90 :
- >>87
>薩藩舊記雑録に書いてあったな。
その中のなんていう表題のやつなのか知りたい。
おそらく『鹿児島県史料』として刊行されてるやつでしょ?
古書通販サイトででも買わない限り、普通には手に入るものではないし、
図書館といっても置いてある機関はかなり少ない筈のものだから。
まあ安政5年(1868年)成立のやつじゃないかと思ってはいるんだけど。
俺が書いた 義久23,000、義弘17,000、義虎13,000 は
安永7年(1778年)に書かれた『明赫記』に書かれていたもので、
どうして同じ島津家の史料なのに喰い違いが出てるのかがわからん。
ちょっと調べてみたいから、何という本で刊行されてるのかも教えてほしい。
>>水俣城の700
>三州之勢で包囲したと肥後水俣陣立記にあるな。
うん。それは相良家の『南籐蔓綿録』にも場所は同じく書いてある。
但し人数はこちらには書かれておらず、人吉の史家が史料をまとめた
『人吉市史』には1,000人と書かれてあるもんだから。
>永禄10〜12年には 相良が菱刈を支援し祁答院や東郷も巻き込みそこそこ
大きな戦禍になったが 伊東祐安の時は大したことに発展してない。
いや、何か勘違いしている。君自身、>>5で戦禍の多寡の話はしてないじゃない。
「そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw」と書いてる以上、
責める意志があったかどうかの話でしょ。
こちらもそう書かれていたから其の事について聞いているわけで。
だから永禄10〜12年の事じゃなく、木崎原合戦前の約定より前に行われた約定の話を
しているので、そういう事を聞いているわけではないよ。
>じゃあどこに?
この頃、大隅で肝付、伊地知、禰寝が度々薩摩沿岸を攻撃するなどしていて
義久、歳久ら薩摩の主力及び海軍は大隅攻略に力を注いでいる。
これはおそらくだけど、相良が積極的な反抗を行えないからと踏んだものだろう。
大永6年に大口城が島津に取られた際に丸目蔵人が失脚する程の大敗を喫し
(相良の史料にも軍勢数多討ち死にとある)、尚且つこれも史料にあるけど
若者が相当数失われたらしい。
またこの頃、後に相良家を乗っ取ろうと画策する義陽の弟の頼貞が勝手に
還俗していて、相良領内はかなり不安定な状況におかれていた為と考えられる。
- 91 :
- >天正9年5月に島津が朴河内城落城したから竜造寺が相良を加勢する約束ができてるのを
非難してるし 9月には相良が竜造寺に起請文を提出までしてる。
外交状況と書くのは語弊があったね。これに関しては申し訳ない。
この頃 相良は大友、毛利家とも書状を交わしている。龍造寺家とは相良文書からは
探せなかったが確かに遣り取りしていてもおかしくないな。
元々相良は大友と懇意していて、同じ頃に大友から対龍造寺への協力を求められている事、
天正7年に龍造寺が大友攻めの協力を相良に申し入れたが、相良はこれを断っている事、
天正8年に龍造寺家が大恩ある蒲池家を謀し、またちょうど天正9年5月に田原鑑連をも
謀、その叔父である田尻鑑種が反抗に及ばないかと警戒している状況だから、
援軍をおくるのは難しいとは思うのは変わらないけど。
>合志親為が相良に水俣まで出陣して粉骨したのは非常に大変で言う言葉も
わからないけど 帰陣したのは非常に賢明と和睦の調停に肥後国人たちで
島津と斡旋する意欲を見せてる。
相良側では撤退という文字はない。佐敷城にも天正7年に滞留とだけあって、
その後の段落の記述では『義陽公御事ハ八代ニ御座候・・・』とある。
元々その頃の義陽の居城は名和氏から奪った八代城だから佐敷に長逗留したとは
ちょっと考えづらい。
>ほぼ薩州28万石の支配の総仕上げであり 相良は当時4万石もなかった。
これもそういう事を言ってるわけじゃないよ。
>>16の内容は君が大口合戦の記述をして「よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です」
とまとめている。更にここは木崎原スレだから、木崎原当時の領地の事を俺は言ってるに
過ぎない。その事に>>87で触れてないのは君もそれがわかってるからじゃないの?
>当時の伊東の石高と状況から1000〜3000がやっとじゃないか?
木崎原合戦3000の時よりかなり低下してるはず。
これもそういうことを言ってるわけじゃない。高原城に於ける370人以外の人数の事を
聞いてるわけで。
また伊東の動員数だけど、飫肥攻略時点で20,000とされている。
これは伊東家の史料である『日向記』には記述がない。また木崎原合戦後の安楽城への
救援の際、伊東家は禰寝城攻略に援軍を出しつつ安楽城へも10,000を援軍として出そうと
していたとされる。
禰寝城への援軍は確かに出されているけど、安楽城の方は島津との和睦が成立したので
出していない。また10,000という人数も『日向記』には記述がない。
だけど、天文11年にいまだ義祐に従わない米良石見らの反抗の際、義祐に味方したのは
30,000と記述されていて、義祐が都於郡を攻める際には、敵方に100,000が来襲すると
いう
風聞が流れしている。それを敵が信じてるんだから木崎原で3,000を失っても
1,000〜3,000ということはないだろう。
- 92 :
- >つうかまるで、島津とは関係ないけど、義弘が説いて協力を願ったとして
島津兵力に加算させない筋書きにしたりってのもそもそも都合よく書きすぎじゃね?
第一、義弘の領地下で従ってた白鳥権現座主の宗教的権威からくる在地動員兵力は多かったはず。
「島津兵力に加算させない筋書き」と書いてるけど、俺の質問はその事に関わりある事なので
はぐらかさずに答えてほしかったんだが・・・。
ただ都合良く書き過ぎ・・・ってのは『日州木崎原御合戦記』を持ってる俺でも思ってる。
>>88
>そもそも永禄初年あたりから北原氏後継問題を巡り
薩隈日の国境線という地でもあるし周辺国が調停と紛争で外交的にも絡んできてるし
絡んでないんじゃない。俺が所有してる限りの島津、伊東、相良の史料には書いてないけど
記述あるの? でも俺は君の『相良や伊東との長年の最前線の係争地』という文に関して
記述してるから、伊東と島津が係争として争い合うのは永禄7年から元亀3年までの9年間に
なるじゃない。
>島津も相良の要請で軍を派兵してる
これは確か元々島津からの提案だったよね?
>>島津の各地から援軍? 全部西側なのでねぇ。
と書いたのは君が『行動経路にうまい具合にやってくる・・・』としたからの事。
援軍は全員西側からの参集で、遅れて来た新納忠元以外は直接攻撃を受けている加久藤城へ
向ってるわけで、伊東が退散する際に行動経路上に居たのは飯野城からの人員と協力者たちに
過ぎない。で、この合戦は始まってから終わるまで8時間くらい掛かってるから、そういった
人員を配置するだけの時間は存在する。第一偶然という訳でもない。
当時、伊東領から木崎原へ出る為の街道は「人吉街道(現:飫肥街道)」しかなくて
主だった往還路もなかった。それは間に井出原山が横たわってたせいもあるだろう。
更にその街道は飯野城の傍を通る。 だから伊東軍は木崎原に出る為に、少なからず
広い道を通ってきてはいない。しかし退却となれば集団で押し合う、騎乗している為に脚が速い
・・・となると大きい道へと出ようとする。その行動を封じる為に偽兵を配置したに過ぎない。
しかも加久藤城攻めの頃はまだ夜中でよく見えない状況だから、その間に偽兵の準備をすれば
気付かれる可能性は低い。
で、義弘は事前に菊一という盲僧を伊東領に送り込んだとされる。伊東領にも盲僧寺が
あるし、盲僧はしょっちゅう敷かれた陣中に現れては、講談を兵らに聞かせていたから
別段問題なかったろう。また、盲僧をスパイとして使うのは天文2年に日新斎が桑波田孫六を
攻める際に常楽院の住職を派遣して以来ずっとやっていたことだから、今回が特別という事もない。
またこれは北条家の例だけど、足軽へ出陣の回状が回ってから集まるに17日を擁している。
伊東の場合はわからないけど左程差異はないと思う。とすれば情報を集める事は不可能じゃない。
また、木崎原合戦は5月だけど、詳細に書かれた史料は存在しないらしいけど
正月にも小競り合いが起こってる。元亀2年に伊東祐安が小林城のすぐ北方にある内木場城へ
居城を移してる。木崎原合戦の予兆は十分あった。
- 93 :
- まあただ捏造はともかく人数は島津軍が300というのは確かにないね。
300というのは飯野城の人数でしかなく、出陣したのが280人、加久藤城に50人、
馬関田城と吉田城はあまり人数はいなかったろうけど、遅れてきたとはいえ大口城の
150人も来てるわけだから単純に実質480人以上だったわけだからね。捏造は
してないまでも何故カウントしてないのか・・・
ちなみに相良の援軍500人だけど、相良側の史料では侍53人、雑兵80余人と
記述されている。
伊東3,000に対して133余人じゃ少なすぎる。だけどこの少ない意味を鑑みると、
島津の兵が寡兵であるとの情報を得ていたと考えれば合点がいく。
合戦前に伊東側も真幸院に間者を出して調べさせていて一人見つかって領民に
斬りされてるから、そういう情報は得ていたとみていいと思う。
>>89
ネットで掻き集めた知識で書いたにしては・・・というのは謝るよ。
申し訳ない。
今回のレスで、少なからず肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記の集刊された
薩摩旧記雑録を元にしているのは理解した。
また大人げなかったのも事実だね。
でも感謝する気持ちは本当だ。色々悩み事がある中、その行為が反面教師に
なってくれたのは事実だから。
ただ気分を害させた事は素直に謝るよ。申し訳なかった。
だから君もこのスレにアンチな書き込みをして、俺を含めた見に来た人達の
気分を害した点だけは素直に謝罪してほしく思うが、どうだろうか?
- 94 :
- 鹿児島県史料じゃなくて九州史料叢書でもよくね?
- 95 :
-
四国 城めぐり 高知城
「石垣は、信長の安土城を造った穴太衆が手がけた」という
説明にはうなずける。
- 96 :
-
JR岐阜駅:大階段の愛称は「信長ゆめ階段」
- 97 :
-
薩摩琵琶の歌詞をまとめた45年前に出版された本を、
薩摩琵琶同好会龍洋会が復刻した
- 98 :
-
東京の鹿児島しは、島津義弘に始まる。
徳川家康は、自分よりも有名で、器量の大きい義弘を許すことができなかった。
- 99 :
- >>85
>>11万5千・・・これは
戦国大名相良氏の近隣交渉や
戦国末期における相良忠房の擁立と島津氏
などの論文を書いてる池田こういち氏の文章のどっかで見た記憶がある。
相良義陽御旗本不入故 薩隅日三州之勢催 8/19御陣三カ所被相付 間之垣結 求麻 八代之敵人七百余被取籠候
と書かれてるので700で籠城だろうね。
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14: 関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか? (694)
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