2012年1月2期心と宗教55: 坐禅と見性8484章手のハスの花を少し傾けられた (58) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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坐禅と見性8484章手のハスの花を少し傾けられた


1 :12/01/25 〜 最終レス :12/01/26
このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
遠くの山は、青く見え、旅に誘う。
あの青い山の向こうに、何があるのか。
白い雲は、山にかかると、さっと分かれて、又、元に戻り、何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出している大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水に、修行僧がたとえられるゆえんである。
旅とは 、そして必ずの別れである。
宇宙の始まりからの一期一会である。
すずめはチュンチュン、タンポポはこんにちは、である。
縁があって、対話してきた各章のつらなり。
来るものは拒まず、去るものは追わず、である。
1000章が、次のステップである。
行住坐臥がそのまま、真理、ダルマ、法である、われら。
24時間営業のコンビニ禅である。
問う 「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい」

2 :
逃げっとおー、、。

3 :
>>1
スレ建て! 乙彼summer !!!

4 :
『碧巌録』 第六則 
雲門垂語して云く、
十五日以前は汝に問わず、十五日已後、一句を道 [い] い もち来れ。
自ら代って云く、
日日(にちにち) 是(これ) 好日 [こうにち]

5 :
John Coltrane −100
http://www.youtube.com/watch?v=8j_TDoOPnIA&feature=list_related&playnext=1&list=AVGxdCwVVULXdAOWdLfJqreSUZRJ3kUoqm

6 :
前スレ
>877
>885
貪民さんの心意がぽったんさんにはまったく通じない様子。
ぽったんさんの力量では無理、問答を仕掛けても相当の開きがある。
笑いものになるつもりならいいけど・・・。

7 :
>>901
> >>898 たろ さん
>
> 空、とは。
>
> >墓穴です
>
> 以前のものと同じ・・・
質問が同じ

8 :
>>6 名無し 浅慮 さん
(。_゜)〃ドテッ!

9 :
西部劇ー5
http://www.youtube.com/watch?v=vs2B-7tc-sU&feature=results_main&playnext=1&list=PL49FEF475F0BB51A9

10 :
>>7  たろ さん
求めなければ、単なる 粘着だよ。。。・・・・・……( ̄ε ̄;) ボソッ

11 :
THE BEATLES- HERE COMES THE SUN
http://www.youtube.com/watch?v=U6tV11acSRk&feature=related

12 :
>>10
> >>7  たろ さん
>
> 求めなければ、単なる 粘着だよ。。。・・・・・……( ̄ε ̄;) ボソッ
¨空とは何か¨が求めるコトと言うならソレは禅としては二流だよ
¨空とは何か¨
コレ、アホくさくないですか?
¨空とは何か¨
¨空とは何か¨
¨空とは何か¨
ソンナ得体の知れない観念で、現実を捏造したいの?

13 :
>>8
> >>6 名無し 浅慮 さん
>
> (。_゜)〃ドテッ!
浅慮?
ドコがドウ浅慮なのか説明しないと単なる粘着だよ
悔し紛れ以上の物を見せて下さい。

14 :
>>12  たろ さん
さとりとは、色即是空。
この空を言ってる。
空とは?

15 :
>>13  たろ さん
(_△_;〃 ドテッ!
なんにども、まあ

16 :
>>14
> >>12  たろ さん
>
> さとりとは、色即是空。
>
> この空を言ってる。
>
> 空とは?
色即是空とは?

17 :
>>14
> >>12  たろ さん
>
> さとりとは、色即是空。
>
> この空を言ってる。
>
> 空とは?
色即是空とは?

18 :
Trinity is still my name (full movie)  1:47:07
http://www.youtube.com/watch?v=UiDmBBPIhqw

19 :
>>16  たろ さん
イラン (/--)/ ⌒≫○ ポイポイッ

20 :
MY NAME IS NOBODY (1973) 1:54:46
http://www.youtube.com/watch?v=BfLqaPHZpuU&feature=related

21 :
>>19
>>16  たろ さん

> イラン (/--)/ ⌒≫○ ポイポイッ

問う.空とは?
答える.要らん、ポイッ
見事解決したじゃないか

22 :
GOD FORGIVES...I DON'T! (1967) 1:47:49
http://www.youtube.com/watch?v=QBAOiKC_Pes&feature=related

23 :
>>21  たろ さん
粘着は、何故? [壁]_・)チラッ

24 :
>>23
>>21  たろ さん

> 粘着は、何故? [壁]_・)チラッ

解決したのに何故問いかけますか?苦悶が趣味?

25 :
>>24 たろ さん
怪傑って?

26 :
A TIME FOR DYING (1969) 1:09:32
http://www.youtube.com/watch?v=Vk48fFXTvfM&feature=related

27 :
The Crusades: Crescent and the Cross. Full version: pt 1 of 2 [Full Documentary] 1:29:27
http://www.youtube.com/watch?v=zqK-RuntywY&feature=related
The Crusades: Crescent and the Cross. Full version: pt 2 of 2 1:39:50
http://www.youtube.com/watch?v=7pOPz5xPFTo&feature=related

28 :
新スレおめでとうございます。

29 :
>>28 Ann ちゃん
[壁]ー^)ノ ドモ

30 :
空=皆無・・・つまらないもの。
だが修行者は空を怠ってはならない。

31 :
kung fu kiler 2  1:28:17
http://www.youtube.com/watch?v=ObfKpJYDdzM&feature=related

32 :
>>30 Ann ちゃん
空とは?

33 :
>>32
孫悟空!

34 :
>>33 Ann ちゃん
そんごはん!

35 :
二祖、慧可は雪中、左のひじから先を自ら切り落とし、やっと入門の許可を得た。
二祖慧可のおかげで達磨の教えが伝わり、それが禅の弟子たちに、今も脈々と伝わる。
達磨大師 「わたしの最後の時が来た。お前たちは、それぞれ自分の得たところをいってみろ」
慧可は、三度礼拝した後に、自分の席に戻って立った。 
達磨大師「お前は私の髄を得た」と言った。

36 :
Demons and Gods from the ancient world Full DOCUMENTARY 1:21:47
http://www.youtube.com/watch?v=7FVF1kDdt3E&feature=related

37 :
私は何者でもなくなってしまった。
もうどうしていいかわからない。

38 :

ただ、私は・・・問うことをやめない・・・。

39 :
>>25
> >>24 たろ さん
>
> 怪傑って?
二束三文の意地で、ごちゃごちゃほじくり返しなさんな。

40 :
師匠私たちはどうのこうのいっても.未知草ばかりでまあよい珍道中の旅だけど.
景色をながめながら.仏と性の縁で行くばかりですが.みんなも肩の力抜いてワイワイ
ガヤガヤの2ちやんねるで気が付いたら.皆もあれ前進んでるなんてのが良いかも。

41 :
ここはタイトルとは真逆の擬似似非の野狐禅を展開している糞スレである。
ポッタン(別名あは)と称する者が師家気取りを演じている。(本人曰、糞スレだから銀蝿が湧いてしょうがないと)
自己愛性人格障害のこの者は坐禅修行もろくにせず、名誉欲や偽善心、虚栄心など我執煩悩が旺盛である。
三昧と執着の違いも分らず、三昧であれば何でも禅と言い放って、もっぱら日々、競馬三昧、2ch三昧にのめり込んでいる。競馬や低俗なコピペを方々に貼付けては顰蹙を買うほどの俗物である。
本人は無師独悟とか称して、隻手の音を聞いた、その後次々と公案を透ったと大見栄を切っている。
しかし所詮、自分免許の浅はかさ。書込みからは証悟の片鱗すら伺い知ることはできない。
一例が「私は払子を立てた。これが私の禅です」と坊主の真似事が禅だと、恥とも知らず失笑を買っている。
そんな者がどこからか禅語をコピーしては、矛盾に満ちた皮相的で幼稚な取るに足らない曲解を書き込んでいる。
突っ込まれて答えられない質問には、恥隠しのはぐらかしや長文コピペで誤魔化すこと枚挙に暇がない。
またときに、尊大な我執による妄想妄念から、あられもない説法をしでかす。
「すずめさんがチュンチュンとこんにちは、タンポポさんがニコッとこんにちは」と幼児童話レベルの妄想が禅の悟りであると吹聴している。
しかも30年近くもこの有様というから愚かの極みで、恐らくボタンを掛け間違ったまま生涯を終るものと想像できる。
野狐禅に陥ったら、五百生間狐となって迷妄の深淵から抜け出せないというよい例である。
この様に我執に塗れた者が無我を語り、見性せぬ者が空を語るなど、入門者でも胡散臭さを感じて俄に信じる者はいないとは思う。
しかし中には、類は類を呼ぶ、同病相哀れむという諺通り、ポッタンを師とする者が現れた。
素人Aというポッタン酷似の者で、なにやら激しい妄想妄念を、誤字誤変換だらけで書き込んでいる。
最近は師への切替えが混乱し、妄想妄念も激しくなって分裂症も進んでいる様子である。
祖師禅とかけ離れたこの野狐禅スレに、間違って来られる入門者があるやもしれない。
しかし、よもやこの師弟に惑わされることはないと思われる。
万が一のため、ポッタンのように野狐禅に陥って人生を無駄にせぬよう警告の意味で記しておく。

42 :
ぽったんの見性渇望物語である。
まだ、ぽったんが”あは”と名乗っていた時代のことである。
酒場に働く女から金色の炎が立ち上がってるのを見て、見性したというのがことの始まりであった。
勿論、見性とはまったく無縁のことは云うまでもなく、当然のことながら呆れた幼稚さに批判非難紛々であった。
それでもぽったんはそれが見性だという持論で仕切りに反駁したが、誰一人、頷くものがなく、渋々引っ込めざるを得なかった。
暫らくこの自説を封印して大人しくしていたのだが、持って生まれた猛烈な虚栄心はそれで収まる訳はなかった。
次には新たに、「お花さんが微笑んで、おはようとご挨拶」と童話風物語を語り始め、これが見性ですと新説を打立てた。
それが素性の知れぬマンゴー先生とかいう者に見性してると”認定”され、今日までそれがぽったんの唯一の拠り所になってるのは衆知のことである。
しかしそれだけではまだ虚栄心を満足させることができなかった。
その後、「隻手の音声」という公案について、頭の中で組上げた理屈でもって、音を聞いたと吹聴し始めた。
だが、そうはいったものの、ある人物から「本当は聞こえない」と指摘されたことから、組立てた理論が敢なく崩れ落ちてしまった。
すっかり自信を失なってしまったぽったんは、ここでも見性の自説を下さざるを得なかったのである。
その後は、音が聞こえるのは色即是空までで、その体験後は音は聞こえずそれが空即是色であると実に珍妙な見解に変えている。
その度に、都合良く解釈を変えるもので虚言癖もなかなかのものである。
またつい最近では、方々のスレで「無とは何か」などと、公案がパズルであるかの如く回答を募って師匠然を気取っていた。
しかしこれもまた、ある人物からトラック一杯の答えを集めても正解などはないと指摘され、あえなく撤退してしまう嵌めになった。
このようにどれもこれも、もともと見性などしておらず、ただ嘘でもいいから異常体験をしたとの虚栄心と師匠を気取っていたいがためであるのは明らかである。
真に見性してものであれは実体験からくる確固たるものを掴んでいるので、誰が何を言おうと一切右往左往することはないものであるが、この体たらくである。
次は何を言い出すのか実に見ものであるが、このようにポッタンの見性への思いは渇望というより飢餓に近いと言える。

43 :
以前にポッタンの隻手の音声のいい加減さを指摘したが、その後のポッタンの隻手の音声である。
最近では「片手の音は、聞こえないよ、キッパリ!!」に変更したようである。
かって「聞いた」から「聞こえるのは色即是空までで、その体験後は音は聞こえない」に変更したが、驚くなかれ再び三度の変更である。
今度は何に影響されたかは定かでないが、この様に他人の言にいとも簡単に左右されるのは、禅体験からくる確たる根拠がない為である。
そもそも隻手音声の公案とは、「片手で打つ音を”聞いて来い”」という問いである。
その答えが「聞こえません。キッパリ!!」では全く笑い話にもならない。
ポッタンはそんなことすら分からない全くの野孤である。それは禅を頭で理解するものと勘違いしているからこういうことになる。
(禅語の字面をなぞっただけの表面だけを追いかけて知識で理解しようとしているのが、コピー文の随所にみられる)
隻手音声は生易しいものではなく、ある面、無字の公案よりも難しい。
ポッタン如きの野孤がチョコット知識を並べた程度で透過することなど全くのナンセンスである。
「聞いてこい」という師家の問いに対して、「聞こえません。キッパリ」などと公案から逃げずに、日夜真剣に取り組まなくては、到底聞くことが出来ないのは言うまでもない。
さらに聞いたと言うのならば、師家にも聞かせてやらねば証明したことにはならない。
それが真面目な顔して、俗世間人が言うのと変わらぬ「聞こえません。キッパリ」では、師家もこの幼稚さには、ただただ苦笑するしかないだろう。
野孤禅の野孤たる例として、最たるものといってよい。
さらに滑稽なのは「片手の音は、聞こえないよ、キッパリ!!」と答えておきながら、方々のスレで「片手の音を聞いて来い」と師匠面して問うていることである。
この自家撞着にさえ気がつかぬ愚か者に、付ける薬はない。
主体性だとか主人公だなどと、普段偉そうなことを言っているが、この様に借り物の知識ばかりで主体性が全く身についていない口先だけの禅であることがよく分かる。
三十年近くも禅を学んでいるというのに、未だに禅の周りをウロウロして入口にも近寄れず、ちっとも埒のあかない野孤禅ポッタン師匠。
禅の資質、素養が無いに等しいポッタン”師匠”の口から、この次にはどんな言葉が飛び出てくるのか・・・・・、野孤禅は永遠に続く。

44 :
ポッタン野孤禅では、禅語や公案を字面を追って理屈的解釈するものと勘違いをしていると、以前指摘したことがある。
ここでは、最近よく出してくる「眼横鼻直」を例に、その行き着く果てが自家撞着という矛盾であることを説明しよう。
直近によると「主人公、主体性、自由、鼻は直に涅槃」とポッタン流に珍釈している。(これはこれで全く酷いものだが・・)
その言下に「公案は、常識や知識で、これとそれを分けている妄想を、これとそれを分けない、これとそれは 一の如し」などといっている。
しかし何より、己自身が分別心によって、しっかりと区別している矛盾に全く気がついていないのであろうか。
他にも「自己はありません」と言ったかと思うと「自己を語ろうよ」と、「悟りは語れません」と言ったかと思うと「悟りを語ろう」と呼びかけたり、また「リアル(な世界)には・・・・云々」と言って、現実と観念上の世界が夫々別に存在するかのようにハッキリ区別したりする。
これらの例に限らず、悟りや仏の解釈に酷い矛盾があることや、隻手音声を透過したと言っている自身の言動に、甚だしい不一致や我執紛々として悟証の欠片も見出せない支離滅裂なことは、過去スレをちょっと覗いても数多見出される。
禅を、言葉の字面を追って理詰めで解釈するものと勘違いしている者は、必ずこのような矛盾にぶち当たる。
更に悪いことに、指摘された矛盾を取り繕ろうとしたり、相手に打ち勝とうとして、さらに分別心を掻きたてていることである。
矛盾を、さらに矛盾で覆い隠すため、理論武装の屋上屋を重ねていることである。
その様な、禅そっち除けの自我妄執愛に陥って悪循環に嵌ってしまっては、もう手の施しようもない。
その先には精々、禅に手が届かぬ絶望感と人格破綻であろうか。
そして、字面を追いかけた先に禅や悟りがあると思っているようで、空がどうの悟りがどうのと、いくら難解な仏教語を駆使して、己の禅を誇示しようと、素人、入門者の域を出ることはない。
最近では、質問には以前にも増して的確な回答が出せず、拾ってきた仏教語を自己流で解釈して誤魔化すようである。
畢竟、言うなれば十牛図の尋牛にも届かぬ、禅の周りをうろついているだけの単なる野孤なのである。
このように迷妄の底無し淵に落ち込み、禅の入口さえも見出せないで、もがいているのがポッタン野孤禅師匠である。

45 :
今回は、その後の隻手音声の続きであり、以下は最近のそのままの引用である。
「ある禅僧が、隻手の音声を聞いた!お師家様にも喜んでいただこうと足音を踏み鳴らして師家の部屋に飛び込んだとき、お師家様は静かに言われたそうです。片手の音は、聞こえない。
そこが、空即是色です。1秒もかからず、リアルに舞い戻していただいたそうです。 お師家さまの指導下で修行する事のすばらしさは、こういうことにあるのでしょうね」
とある。 しかし、この話は禅を心得た者から見れば、全くバカバカしい限りの虚言、虚構創作であることが明々白々にして容易に分かろう。
まず、隻手の音声を出した師匠が、未だ法身も会得していない者に、積み上げつつある修行を元の木阿弥に戻す様なことは絶対、口にしないからである。
いわんや「片手の音は聞こえない」などと、音がどうの、聞える、聞えないだのと分別差別の相対概念を、ここで持ち出すなど、まったくのナンセンスである。
かつ、俗世的相対固定観念に捉われたまま、未だ始末できない生煮えな禅匠がいる筈もないからである。
そして「そこが、空即是色です。1秒もかからずリアルに舞い戻していただいたそうです。」と続く。
法身が何たるかも分からないものが、1秒にしてリアルに舞い戻るも何もないものである。
よしんば、万が一そうであるにしても、まずは、無にしろ空にしろ、徹底させて、法身を会得させた後の、まだず〜と先々のことである。
証明する事にさえ苦心してるのに「片手の音は聞こえない」などと、足を引っ張るような愚劣な指導がある筈もないのは参禅したものなら承知のことであろう。
なぜポッタンがろくでもない嘘に満ちた拙話をでっち上げるのか。
それは、ポッタンの脳内で作り上げた「音が聞こえるのは色即是空まで、その後は音は聞こえずそれが空即是色である」という珍妙な屁理屈の辻褄を合わせようとの魂胆があるからに他ならない。これを嘘言の屋上屋を重ねるというのである。
ちょっと禅を齧った者にも、容易にわかる幼稚な作り話を、平然と書き込みする愚かさを繰り返すのが、ポッタン野孤禅の本領であろうか。
この様に、このスレにはポッタンの虚飾、虚言、嘘妄の作話で満ちているが、初心者は、野孤禅サンプルとしての反面教師としてならともかく、決して野孤禅に惑わされないよう、大いに気をつけて欲しいと思うのである。

46 :
ポッタン禅が、いかに野孤禅なのかを指摘してきたが、最近も野孤禅のよい(?)サンプルを提供してくれている。
その中で、しばしば、不二一如の説法を垂れているので、それを紹介しよう。
最近の曰く、「二は二では無い、一の如し、バカの一つ覚えで、一如と言ってきてるよ。」 
そして「視点を弱いものと同じ目線で見ることです。」 「相手とわたしがいて、相手は相手、わたしはわたしが、世間ですが、それでは、いけません。痛みを分かち合う事です。」
と、他人も私もなく一如なのだと、今度は聖人にでも変身したかのような、一見、大変結構なことを語っている。
しかし、これが口先だけのとんだ戯言なのである。
仏教に接しているものならば、五戒は知っているであろう。
その中に不妄語戒と言って、嘘言するなかれ、という人であれば当たり前な戒がある。
ポッタンは、今まで数々の嘘言や作り話で人を騙しているが、嘘言を吐くことは人の尊厳を蔑ろにするから出来ることであり、更に人を騙すのは詐欺にも等しい罪業である。
己が可愛いと思うなら、同様に他人も大切にすると思うのが、自他一如でもあろう。
また公案にしても、正師の元で、印可はおろか透過すらしていない。にも係わらず、師匠面して公案に答えよ、と人を愚弄にした書き込みを続けたりしている。
これらの例に限らず、他にも数々の愚かな行為を繰り返してきているが、これらの所業が他人にはどう写っていると思うのであろうか。
自他一如が分かっているならば、この様な行為はとても出来ることではあるまい。
更に、己が他人を慮る気持ちがないのを棚に上げ、他人には「視点を他人と同じ目線で見ること」と注文をつけている。もう滅茶苦茶である。
ポッタンの自他一如は、いかに自分に都合のよい自己中心的で、それを言うには到底、程遠い行為であるかが分かるであろう。
そもそも、己の所業による不徳を羞じる良識があれば、自他一如の説法する資格などないと思う筈である。
ところが、それを口にするのだから、すでに人を欺いていることだと分かっていないらしい。自他一如などとは、ポッタンの己自身を省みれば、安易に説法できるものではない筈である。
以前、ポッタンの言行不一致を指摘した。
この例も、いかに身につかない単なる口先だけの野孤禅ということを証明してくれている例である。

47 :
野孤禅は野孤の数だけ種類があるが、ポッタン野孤禅は差し詰め、口先禅とでも言ったところだろう。
最近、それに加えて猿真似禅(しかも幼稚的)というのを追加してくれている。
「宇宙未始前の一句をもつて来い。
宇宙が未(いま)だ始まる以前の一句を言いなさい。 だろうか。
わたしは、すっと立ち、両手を後ろにやって、羽をばたつかせながら、口では、チュンチュンと鳴く。」
と、これが「宇宙未始前の一句」の、ポッタンの「どうじゃ」と胸を張った自信満々の回答である。
どこぞの公案回答集から拾ってきた真似かは知らぬが、禅家はそんな猿真似が透る程甘くはない。
精々、化けの皮が剥れるのが関の山である。
無字も、隻手音声の公案も透過していない程度の未熟さは隠し様もなく、隙だらけの回答ですぐに正体を露呈する。
禅の本源が分からぬものが、勘違いをすると、このような、道化師のようなことをしでかすのである。
あらかじめ頭に描いたシナリオを、時と場所と状況も見極めずに、ただ演技するだけである。
如何にうまく演技しようと、所詮、猿真似は猿真似である。
猿は何でも真似をするから猿真似だが、さらに猿真似の芝居をする、これを猿芝居という。
それにつけても、この猿芝居、幼稚さはなんとかならないものか。
毎度の、お遊戯は幼稚園児並ではないか。
「すずめさんがチュンチュンとこんにちは、タンポポさんがニコッとこんにちは」が悟りだと言い、「私は払子を立てた。これが私の禅です」と語った類と同レベルのものである。
これを師家の面前でやれば 「何の演技じゃ、そんな猿芝居は幼稚園でやれ」 と一笑に付されるのが落ちであろう。
「倶胝竪指」では物真似小僧が指をチョン切られただけで済んだが、これが関羽将軍の面前であったなら、ポッタン猿真似禅師匠は首が胴体から離れているかもしれない。実に剣呑である。
ところでポッタンは人を笑わせる才能があるようだ。
三十年近くもやっている禅が、ちっともものにならず、しかも今後も見込みがないならば、さっさとイッパツ芸人に転向することを勧めるとしよう。
それとも、これからもポッタン野孤禅師匠の言動で、大いに野孤禅のサンプルを提供してくれるというのだろうか。

48 :
これまで、ポッタン野孤禅の幾つかの実例を挙げて、野孤禅とはどんなものかを見てきた。
それから分かると思うが、ポッタン野孤禅は異常にまで文字語句に執着していることである。
万巻の書を読めば悟りが得られと思い込み、肥しにもならない屁糞知識を頭一杯に詰め込んでいる。
しかも悪い事に、強い自己顕示欲と虚栄心から、他人の悟りを己の悟りと偽るのである。
たとい好意的にとったにしても、頭に詰め込んだ他人の知識で悟った、と錯覚しているのが今のポッタンである。
しかし悟りの理論を組立てる必死の努力も報われず、すぐにボロが出てしまうのは哀れと言うしかない。
また、言葉に執着しているのは、2chでのレスの往来でも往々にして見られる。
ポッタンに好意的なレスには、“φ( ̄ ̄*) メモメモ、と熱心にメモをとるが、拙文(野孤禅スレです)レスのような気に入らないレスには、「内容がない」と言って批判、不満を垂れる。
どうやらポッタンは、よちよち歩きの幼児のように、アンヨがお上手と手を引いて貰いたいらしい。
小児幼稚性向はこれに限らないが、老齢による退行症状のなのであろうか、一層進んでいるようである。
そもそも、禅の本質が文字語句にある筈もないのは言うまでもない。
これが分からない様ならば、達磨が中国に渡った意も分からない。
「内容がない」と文句を垂れる前に、ポッタン己自身に禅の素質の無さを嘆いたほうがよい。
しかも先頃、ポッタンは次の様に語っている。
「法華経と言う経典を主人としてこれにひれ伏せば、こちらは奴隷である。こちらが主人公となって、法華経をこき使えば、こちらは主人公である。汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公でありえようか。」
己を知っていれば、書ける筈も無い文章ゆえ、どこからかのコピー文だろう。しかも本当に分かって書いてはいまい。
”法華経”を”文字語句”に置き換えれば、今のポッタンに、そっくり当て嵌まるではないか。
文字語句を追いかけ、振り回され、ひれ伏して文字語句の奴隷となっているのは、ポッタンそのものである。
いみじくも、ポッタン自身のことを指摘しているが如くの文章ではある。
三十年近くも文字語句に溺れている、これはもう性癖と言うべきで、自ら手に負えないようだ。
容易なことでは真ともになりそうもない。実に恐るべしである。

49 :
ポッタンと川上雪担老師との過去の会話の件で、最近、ポッタンが何やら呟いている。
雪担師もすでに遷化されているので替わりに一言、解説しておこう。
ポッタン曰く「彼との会話の争点は、色即是空、空即是色だ。彼には色即是空はあって空即是色が皆無だった。そこを、悟り半分と云ってたのだが、右の耳から左の耳へとスルー。聞く耳を持たない」
まるで雪担師がポッタン野孤禅師以下の語り方である。これ程、身の程知らずの軽口を叩く、厚顔無恥の輩を知らない。
雪担師は、大事を了畢した修行底の禅師であり、仮初めにも一寺の住職で禅を布教している専門の禅家であった。
ろくに修行もせず、屁糞知識を詰込んだだけのポッタン野孤禅師匠、あなたとは全く違うんです。
当時、雪担師はポッタンが禅を知らぬ者と早くから見抜き、無師独覚とか言って、無知も幼稚すぎる色即是空、空即是色の珍釈に呆れ果てていた。
そして、(隻手の音が聞こえるまでが色即是空だとか、その後の聞こえないのが空即是色だなどと言った)愚かな観念をスパッと放り捨て、空のどん底を見て来いと、雪担師独特の語り口で説法していたのである。
その握って離さない固執した自説と、その元の我執から離れることを、色即是空で丁寧に説明していた。
我執に塗れ、空も観てないものが、やれ色即是空だ、空即是色だなどと言ったところで、所詮、青臭い屁理屈でしかない。
まずは、我執を捨て、空の空の空の空、色即是空のみ、空のどん底を観て来いと、空を徹底的に説いたのであった。
然るに、ポッタンは、その意を汲み取れず 「(雪担師は)空即是色が皆無だった」と、いかにも愚鈍なポッタンならではの戯言を言ってる。
青臭い屁理屈などいらぬ、空のどん底をぶち抜けば、全てがガラーッと一転、空即是色が観て取れるのだと言う、雪担師の親切すぎる説法もポッタンの耳には届かなかった。
それどころか「(雪担師は) 自己が立ってる地点から、一歩も踏み出そうとしなかったしできなかった。そこで分かれた。なにか彼の胸の奥にくさびを打ち込めたのか、打ち込めなかったのか」
などと、思わず失笑してしまう程、どこまでも愚か者の視点で嘯いている始末である。
野孤が禅師と同レベルにあると思っているこの野孤感覚。
普通の感覚の持ち主ならば、狂気の振舞いという他ないが、やはり、虚栄心と自己顕示欲の塊の性格異常者である。

50 :
以前、ポッタン野孤禅の行き着く先が、禅に届かぬ絶望感と人格破綻であろうと指摘したことがある。
その兆候が、すでに”雪担氏との会話”の中にあり、ポッタンの性格が異常なものであることを紹介した。
その人格破綻の進み様が、最近の書込みに見れ取れる。
まずは、ポッタンによる無門関「久響竜潭」の書込みの中に、その徴があるので、それを見てみよう。
ポッタン曰 「まっ暗闇は、昼間の明るさの中で、色は、ひとつずつが他と区別して独立している。真っ暗闇に差し出された紙燭の灯りに浮き上がってきた世界はまさにリアル、色の世界である。
ふっと吹き消された世界は、何も差別できない無分別の世界、空である。空であるから、金剛経の注釈書を積みあげ、一句を唱えて引導を渡し松明で火をつけた。」 とある。
竜潭和尚の慧敏な禅のはたらきには気づかず、読み取ることができないポッタンの非力さである。
以前の眼横鼻直での 「眼は水平に自由を、鼻は縦に主体性を表す」と同レベルの、相変わらず皮相的で字面を追い掛けた解釈と幼稚さで、コメントに値するものは何もない。
そして 「だが、(途中略)この人は、空だけを見ただけである。隻手の音声で言うところの、片手の他人がたたく拍手の音を聞いただけである。ここから空即是色へと立ち戻らなければならない」 と続く。
吹滅の因縁を、見解とはいえない屁理屈でしか捉えられないのは、ポッタンの貧粗な力量なら仕方が無い。これでは、香厳撃竹の因縁も分かる筈もない。今は一応、失笑しつつも目を瞑っておくとしよう。
ところが、「師家である竜潭和尚の力不足である。 こうして徳山は竜潭和尚の法を嗣ぐことになった、と言うことであるが、空即是色が未だ透らずである。」
と徳山、竜潭和尚の力量を、ポッタン野孤禅師匠の比ではない、と大言壮語しているのである。
野孤禅を次々暴かれ、後が無いポッタンにとっては、徳山、竜潭の両和尚をコケにし、貶すことによって、ポッタン野孤禅師匠は偉大なり、と虚勢を張りたい気持ちの裏返しである。
ポッタンは、(愚かで悪いのは、ポッタン野孤禅を理解しない世間であり、我こそが大覚者なのだ)、とカルト教祖の論理を主張したいのである。
その伝でいくと、仕舞に全ての祖師方々否定してしまうのは間違いなさそうで、自我肥大のパラノイア(誇大妄想狂)は、深く々々、人格の破綻が進行しているようだ。

51 :
前回は、ポッタンの貧粗な力量を省みずに、雪担老師、更には古仏の徳三、竜譚和尚までも貶し、悟りが不十分と豪語したポッタン、その自我肥大異常性格を暴いた。今や、その自我肥大は止まる事を知らず、人格破綻へと、まっしぐらである。
最近、頻繁に使っているのが、無師独悟(独覚)とかいうポッタン造語である。
無師なのは、本人によると、人嫌いによると言っているので、普段の幼児並性向から、異論を挟む余地は全く無い。
しかし、独悟や独覚となると、悟ったものでも憚り多くて、なかなか口にできる言葉ではない。それを機会ある度に、常套句のように喧伝しているのは、自我の肥大化がどこまで進んで行くのか、の感がある。
本人は 「決して自慢、ひけらかしていってるものでは、ありません」と言い訳しているが、額面どおり受け取るのは安直である。
その言下に「お釈迦様も、沙羅樹の下で瞑想され、暁の空に輝く明けの明星を見られて悟られたのだよ、と言っています。と言うことで、私の無師独悟は、お釈迦様と同じ無師独悟の仲間です。」 と舌の根が乾かぬうちに、本心が別にあると言っているのである。
上から目線はポッタンの常であるが、ポッタンの無師独悟は、釈迦と同様に崇高なものだと、本音が透けて見える。
形は似ているが、内容は月とスッポン、魚目燕石である。
ここまで自我肥大が進行すると、悟りなど無論、望むべくも無い。 自我清算のない悟りがあろう筈もないからである。
しかも、過去スレでは時折、坐禅などいらぬ、と本音を吐露していた坐禅修行が嫌いなポッタンである。
歩み始めた第一歩から、自我清算の方向ではなく、自我増大に走ってしまったのがそもそもの間違いで、しかも正す者のない無師が致命的であった。
三十余年間、肥しにもならない糞知識を頭に詰込むだけで、坐禅修行を怠ってきた代償は余りにも大きく、そのつけが今になって回ってきたのである。
その期間を、自己に謙虚になって、まともに修行していたならば、ここまで自我肥大化していなかったであろうし、少しは悟りに近づいていたとは思うのである。
失った時間が取り戻せる筈も無いが、自我が強大になってしまった上、高齢の今になって、自我の清算など到底適わぬ事であろう。墓場まで野孤禅を連れて行くのは仕方ない。
賢明な諸氏には、決してポッタンの様な轍を踏まず、坐禅修行に力をいれて貰いたいと思うのである。

52 :
無字は、初めて参禅するものに与えられる公案である。これがまた曲者で、中々透して貰えず、艱難辛苦、大変な苦労を強いられる。
それもその筈である。この世に生を受けて以来、永年染み付いた黒白つけたがる分別相対観念を根こそぎ絶つことを試されているのである。チットやソットのことで透過できる訳が無い。
昔、菴原の平四郎というものが、大憤志を発し勇猛の一機で妄想魔境に打ち勝ち、僅か三日で見性したらしい。これなどは稀で、我々凡夫は、昨日より今日、今日より明日、薄皮を一枚々々剥ぐように、自我を清算していくしかない。
そんな凡夫でも、日々努力を続ければ、因縁が熟した時、何かの契機に見性は訪れる。それは一瞬の出来事かも知れない、暫しの事かもしれない。
見性の深さも人による。大疑念のものは牛の大半を見るかも知れない。そうでないものは尻尾だけかも知れない。
臨済にしろ白隠にしろ再参して大悟したくらいだから、鈍根な我々凡夫は、一度の見性で一見便見の様には行かない。
見性体験は、将に身を削る、自我清算の修行があってのことである。修行も無く知識を詰め込んだだけの見性などありえなく、逆に我見を益々強めて遠ざかることにもなる。
ましてや、2chに入り浸り、互いに貶し罵りあい、自我を研いている様では、到底、叶わぬ事である。
また、一たび、我見我慢我欲を清算した後、見性して初関が透れば、無や空がガラーッと分かるものである。
世間には、無や空は観念、概念だから書物で学べば分かるものだ、と甚だしい勘違いをしているものがいる。
書物で無や空が分かり、こと足れりと済むなら、達磨が中国へ渡ることも無かったし、禅はとうの昔に滅んでいただろう。
書物に書いてある空や無の解説は、いわば薬の能書きみたいなもので、読んだから病気が治るわけではないのと同じである。
ポッタンは、「飲み屋の女から金色の炎が立ち上がるのを見た」とか「父親に、最近、世界が違って見える、と話した」などと、見性したかのような思わせ振りを語っている。
しかし上述から分かると思うが、強烈な自我が、一度も整理、清算出来ていない俗物に、見性などありえない。これは毎度お馴染みの、彼の虚栄心や自己顕示欲から来る作り話であろう。
仮に事実としても、何か脳の悪い病気に冒されているか、89をやった副作用か、あるいは何かの幻覚ではないのかと疑われるのである。

53 :
以前、何処かのスレで、禅入門者が2chで真に悟りを得ている者か否かの見分け方を知りたい、という質問があった。
悟りを得ている者を見極めるのは、入門者には難しい。何をもって悟りを得ているかということからして難題である。
しかも、悟りの境地、境涯というものは、同じく悟ったものにしか窺い知れぬものである。
その上、ある者を悟ってると思っても、それは同じ境地にあるだけで、より悟ったものから見れば、未熟ということがよくあることだ。悟りに終着はなく、生涯の課題なのである。
また仏教知識を理路整然と捲くし立てるものが悟っている訳ではない。それは全くの別物である。
有余る知識を持つ理論家が悟っているのであれば、仏教学者は皆悟っていることになる。しかし現実はそうではない。
むしろ、自らの知識の呪縛にあって悟りを得られない方が多いかもしれない。
以前にも言ったことだが、知識は薬の能書きみたいなもので、能書きをいくら集めても、薬効が得られないのと同じである。悟りに知識は無用なのである。
一方、偽の悟りを見分けることは、入門者にも難しいことではない。
まず、偽者は悟りの心境にないので言葉も行為も軽く浮ついていることである。一端の理屈を語っても、こと行動や態度となると、如何に繕っても隠すことはできず、言葉について行けない。所詮、借り物の言葉でしかない。
ポッタンの例を見てみよう。彼は「区別しない」、「分別しない」と頻繁に口にする。(もっとも逃げ口上に使われることが多い)
しかし、本人はこの言葉の意味をよく承知してはいない。彼ほど区別しているものは珍しい位であるからだ。
彼はしばしば「マンゴー先生、素人Aという仏様に出会った」と語る。本人に好意的なものには、やたら諂い卑下するが、本拙稿のようなレスには、狗呼ばわりし異常なほど敵意をむき出し区別する。
また以前、何某から「悟っている」と煽てられては舞上がり、「あなたは仏様です」と手放しで喜んだ。かと思うと「勘違いでした。ポッタンは悟ってはいません」と取り消されると「あなたは悪魔のようです」と、手を還すようにコロッと態度を変えたこともある。
彼が他人の言葉に振り回され、私感情に振り回されるのは日常茶飯事であり、主人公々々々と説法するほど口程にもない。
この様に底が浅いので、言行不一致に注意を払えば、偽の悟りを見分ける簡単な方法の一つにはなるだろう。

54 :
言葉が軽いのは、偽悟り野孤禅の特徴でもある。最近、ポッタンは常套句のように眼横鼻直を説法しているので再掲してみよう。
彼の曰く、「眼は水平に自由と平等を、鼻は縦に主体性を表す」などと語っている。
しかし、この説明そのものが、眼横鼻直とは全く懸離れた迷妄の視点にあり、眼横鼻直になっていないことに気付いていない。
眼横鼻直は、彼の云う、眼が水平にどうの、鼻は縦にこうのとか、そんな分別観念を捨て、「すずめさんがチュンチュンとお早う、タンポポさんがニコッとこんにちは」などの彼我の妄想も捨て、
全ての妄念妄想を放捨して、真実在を真っ正面から受け止めれば、縦もなく横もなく、「すずめさんがお早う」とか、「タンポポさんがこんにちわ」とか、そんなものもない。
しかし乍ら、あるべきものはあるべき様に、ちゃんと納まっている。仏の世界は何も特別の世界ではなく、この真実在の世界が、即、仏の世界だという端的を、道元さんは眼横鼻直と云っているのである。
この、眼横鼻直の一句は、僅か四文字と雖も、色即是空、空即是色の一切を含み、俗世的な説明では、容易に解説し尽くせぬ手強く、侮れない一句であると云える。
ごく簡単に能書きを垂れはしたが、これを知ったところで、知的な理解に留まっているうちは、真に眼横鼻直は分からない。眼横鼻直に直参直入してこそ、分かるというものである。
然るに、ポッタンの説明は、水平だの縦だのと、悪癖悪習の二元対立、相対観念に捉われた見地で、全く仏法になっておらず、自らの偽悟りを証明している。
この観念に捉われた見方は、この例に限らず、彼の他の全ての説明について云える。
つまり、見性体験がなく無我を知らない。故に俗世的観念に捕縛されたまま、そこから脱却できない。その為に知的な理解に留まり、浅薄で皮相的な説明しかできない、と云うことだろう。
畢竟、見性体験のないことが元凶と云える。
そして、このポッタンの事例は、禅入門者へ幾つかの大切なことを示唆している。
30有余年の禅経験があると云っても、年数で悟りは開けないということ。誤った方向に進めば、後の修正は難しく、一生を台無しにすることもあると云うこと。
また、知識を詰め込んだだけでは悟りは開けず、見性の無い禅は無意味ということ、などである。
今後も、ポッタン野孤禅大師匠の偽悟り語録が続くであろうが、多いに注意して貰いたいものである。

55 :
言葉の軽いポッタン語録の中から、もう少し拾ってみよう。
ポッタン曰く「ほとけとは、さとりである。さとりとは平等である。平等とは無我である。無我とは一如である。一如とは如来である。
如来とは如である。見性とは、悟りと涅槃、現代語では平等と自由。また、無差別と主体性と言えます。禅のさとりは、一の如しですが、無分別とも言います。」
こんな能書きの類を言ってるうちは、全くの落第である。
これが30有余年間の集大成の言葉と言うのだから、実に進展の無い禅生活を送ってきたもので気の毒で哀れとしか言いようが無い。
どの師家に持って行っても、その初心者レベルの未熟さを瞬時にして見破られ、棒喝にも値しないと、追い返されるのが関の山である。
しかも、30有余年禅経験の結論です、などと言おうものなら、それだけで参禅入室を許されないのは勿論、読本は一切禁止、その上、只管の坐禅修行を命じられることだろう。
先に、ポッタンは眼横鼻直が分かっていないと指摘したが、そもそも、ポッタンは、自由、平等だとか涅槃などの仏教語を全く分かっていない。
お馬さんのケツを追い回し、取った取られただのと我欲に振り回され、我執に縛られたまま真の主人公にも会えず、二元相対の既成観念に囚われているものに、自由もなにも分かる筈が無い。
真に自由が分かっているならば、固定した観念に囚われた言葉などを繰り返し使う筈が無いからである。
また、人一倍、悪知悪覚の有無得失是非善悪などで区別する分別心旺盛で、しかも見性もない故、平等性智が発現しておらず真の平等など分かるはずが無い。
ましてや、自己顕示欲、虚栄欲、我欲など、煩悩の嵐が吹き荒れ、一瞬たりとも心休まることが無いものに、涅槃の境地などチラッとでも味わったことは無い。
そんな、言葉と心境が全く懸離れて見性も知らぬものが、「悟りとは・・・・うんたら、見性とは・・・・かんたら」と素人衆を相手に偽の説法である。
ポッタン野孤禅の正体を知った賢明な諸氏には、そんな薄っぺらい説法を真に受けることはないと思うが、
傲慢、増上慢この上なく素人衆を誑かすこの所業は、仏法を汚し冒涜する重罪であり、昔の修行僧なら、山から追放され、二度と山門を潜ることは許されまい。それどころか、簀にぐるぐる巻きにされ川に放り込まれても仕方あるまい。
いずれ地獄に落入って贖罪しなければならない罪業ではある。

56 :
言葉の軽さ薄っぺらさを指摘するのは、これまでの説明でも十分であるが、ポッタンの言説に戻って、肝心な点を指摘しておこう。
長年、肥溜め桶に漬け込んだ能書きの中から、拾い集めたのであろう。
悟り、見性を平等だ自由だなどと、頑愚なまで固定した観念に固執し、もっぱら、使い回しの草臥れた文字言句で説明しているが、そんな底が浅いものではない。
文字言句の字面を追いかけた結果、悟り、見性を、わずか数語の死んだ文字言句で定義するなど、これを死句を並べるといい、そこには禅のはたらきなど一片の欠片も無い。つまり、法が全く現われていないのである。
師家が一瞬にして、未熟を見抜くのはそこにある。
30有余年間の禅経験があると言いながら、仏法というものを未だ掴めず、法を見て取れる目も、表す力も全く付いていない。
無師独覚と放言しているポッタン野孤禅大師匠の越えられない限界である。野孤禅、まさに恐るべしである。
真に見覚めたものは、言葉で表現するにしても、直截で端的である。
一例を挙げよう。
無門関の「庭前柏樹」をご存知であろう。
ある僧が趙州和尚に「如何是祖師西來意」。達磨が中国に来た意図は何か、つまり悟りとは何かと訊ねた。
それに対し趙州は「庭前柏樹子」。ただ一言、庭先の柏の樹、と応えたのである。
これは何も、柏の樹に仏性があると言っているのでも、悟りの意味があると言っているのでもない。
柏の樹に用はないのである。
趙州の、法のギリギリのところ、悟りの端的を直截な言葉によって表現しているのである。
その言葉には、趙州の禅機に溢れた仏法が、実に活き活きと輝いている。これを活句という。
死句を並べただけの「悟りとは・・・・うんたら、見性とは・・・・かんたら」とは天と地ほど、雲泥の違いである。
また、無門はその頌の中で、「言無展事、語不投機。承言者喪、滯句者迷。」
と、「言葉で説明は出来ぬ、語れば本質の機微に触れることが出来ない、言葉を聞けば本来の意味を失い、句について滞れば道に迷う」と、言葉に執着する危うさを忠告している。
禅を志す諸氏には、書物から知識を得るにしても、文字言句の字面を追いかけて、死句を並べるのではなく、このような活句に参じるようになって欲しいと思う。
そのためにも坐禅修行に励んで、法を見て取れる目と力を、是非、養って頂きたいと思うのである。

57 :
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
||【このスレに来られた方へ】                                     ||
||★ここは野孤禅の本格スレです。まずそのことを充分、認識してください。          ||
||★野孤禅とはどういうものか、まともでない見本が満載です。                 ||
||★ポッタン、素人Aと称するものの発言内容は、まさに野孤禅の見本といえます。     ||
||★素人Aとかいうものはポッタンの携帯黒子ですので、ご注意。                ||
||★この者達の自作自演が多々有ります。相手にならぬようご注意。             ||
||★同様に、かまって貰いたいが為のツリが多々見られます。相手にせぬようご注意。   ||
||★まじめな質問は別スレにてお願いします。                           ||
||★誤って、禅の質問をしても、その回答はいい加減と思ってください。            ||
||★本スレの使用目的は、禅に関すること以外、ストレス解消、AAの練習等々、自由です。||
||★書き込む内容は、品格など一切問いません。                         ||
||★あらしも排斥しません。                                       ||
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     〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
       〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ   〜(___ノ

58 :12/01/26
画餅 ・・・まさしく全世界・全存在は.悉く描かれた絵であるから.人も事象も.すべて絵より
現れ.仏祖も絵より成就するのである。そういうわけであるから.「描かれた餅」でなければ.飢
えを充たす薬はない。また「描かれた飢え」でなければ.人に出合うこともなく.また.「描かれ
た充」でなければ.力量は出てこないのである。
およそ.「飢えを充たし」「飢えないのを充たし」「飢えないのを充たさない」などは.すべて「
描かれた飢え」でなければ出来ないことであり.また言えないことである。ともかく自己そのもの
が「描かれた絵」であることを参学かべきである。この大切な趣旨を参学するとき.「物を転じ.
物を転ず」という働きを.心身に究めつくしていくことが出来る。このような不思議な働きが現れて
こないようでは.仏道を学ぶ力量はまだ成就してないと思うべきである。この働きを実現させること
が「悟られた絵」の成就となるのである。 と道元さんは書かれている。
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