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2012年2月日本史4: 【文永】元寇【弘安の役】 (329)
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【文永】元寇【弘安の役】
- 1 :11/11/10 〜 最終レス :12/02/06
- 語ろう
- 2 :
- で、結局、文永の役の戦闘の勝敗は?どうだったんだ?
- 3 :
- 『元史』に描かれた文永の役
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬
「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
元史卷一百五十二 列傳第三十九 劉通
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
他にある?
- 4 :
- 軍板だとどういう作戦立ててたら勝てたかって話になって
結局どういう作戦立てても無理ゲーって結論になったなw
- 5 :
- 鎌倉武士団武勇伝
- 6 :
- 戦って之を敗る
- 7 :
- 「征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
漢文が苦手でよくわからないのだが、
これも「これを破る」なの?そもそも、日本軍が十万と捏造してまで
「これを破る」と強調してるのか。おかしくない?「之に敗れる」なら
十万と誇張する必要性は理解できるんだが。
- 8 :
- >>7
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/kokuri-king12-nakagawa.htm
三国史記・高句麗中川王
魏將尉遲楷名犯長陵諱將兵來伐。王簡精騎五千、戰於梁貊之谷。敗之。斬首八千餘級。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/kokuri-king19-dantoku.htm
三国史記・高句麗高広開土王
三年秋七月、百濟來侵、王率精騎五千、逆撃敗之。餘寇夜走。
四年秋八月、王與百濟戰於水之上。大敗之。虜獲八千餘級。
「戦・・敗之」は定型文だな。
- 9 :
- 「戰敗」って熟語じゃないの?
「戰敗」をウィクショナリー日本語版ググったら
1.戦争に負ける(まける)
2.戦勝する
二つ意味があるみたいだけど。
- 10 :
- >>9
問題なのは日本語じゃなくて漢文ね
- 11 :
- ウィクショナリーには中国語の「戦敗」もあることはある。
战败
中国語
動詞
战败 (繁): 戰敗 (zhànbài)
(1)(自動詞)戦争に負(ま)ける。
(2)(他動詞)打ち負かす、戦勝する。
「之」という目的語がついたら他動詞だから(2)ね。
- 12 :
- >>11
嗯,1:战斗失败=战败
2:打败,击败=战败
繁琐的支那语
,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
/ 、゙ヽ、 ‐-'´ ヽ‐- / / ヽ
,/´ .., ヽ,,l_)' zェェェァ' ;rfァt ヽ ,ト/ / ヽ おれもごめんなw
/ ヽ,r' ,l′ _,,, . __,, ,l゙.-〈__r,'、 ヽ_ ココおかしいんだろ?・・・ってなこと書いてw
_.l ヽ」 ,l .イてソ` l イにj`,/ ゙‐ヽ、_,, /l
,l l| −'´ll ,l rソi" ヽ じ'' f゙l .,//゙l //\
l`l| l|ヽ v'⌒ヽ .,ノ j/ |l // }
l \ l| ,l l_U> r‐--‐ァ ,l |,l // l
/ '\ l|`l ゝ_,´ ゙ヽ__r′ .,.' ___l ヽ // |
,l '\ l| .lヽ__lL..,,, __ ,, _イ___./ | ∨/ ,}
| ヽl | ,| .ヽ \ //ヽ ,| ,l
| l ,l ヽ \// l \ /
ヽ | \. ヽ/ l ヽ /j
\ / ヽ ヽ | l /
゙l\.. / ヽ ヽj | , /
- 13 :
- 漢文てややこしいな。漢字一文字ついただけで、意味が正反対にもとれるのな
- 14 :
- >>8
糞ワロタw
まあ、本当に勝ってたんなら夜中に慌てて撤退なんて無様な真似しないわなw
- 15 :
- 勝ったかどうかは議論していない。
元史には「十万の敵軍と遭遇してこれを敗った」と書いてある、
と言っただけだ。
ちなみに弘安の役に当たる記述には「敗之」という言葉はない
- 16 :
- そもそも文永の時の武士側は5000
この5000という数字を郎党なんかを含めない一騎として考えても
精々20000〜30000ってとこやん。
なんで向こうは十万だなんてパチこいたんだろ?
- 17 :
- なんにも戦果がなかったからじゃね?日本の有力な武将を打ち取ったわけでもないし
有力拠点を占領できたわけでもない。なのに、1万3千もの死者を出した。
これはどこかで戦果を捏造して報告しないとフビライに処刑されるレベルでしょ。
- 18 :
- フビライって歴代のモンゴルのハーンの中じゃ一番寛容な人物じゃなかった?嫁さんも慈悲深かったらしいし
- 19 :
- 政治的手腕は歴代最高かと
軍事的手腕は二流だが…
- 20 :
- >>18
豊臣秀吉も戦国三傑の中では一番寛容だと言われ
嫁さんの北政所も賢妻だと言われていたが朝鮮出兵したしな
- 21 :
- 唐入りはなんかもうみんな好き勝手大陸で暴れてgdgdだったからな。
- 22 :
- http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1212055328/19-55
武士厨はこれについてどう答えるわけ?
- 23 :
- >>16
なんで十万にこだわる?
敗った敵は大軍だったと言えば評価が上がるのは人情。
どこにもあることだ。
「之に敗れた」なんて勝手な読み方をしなければそれでよいのだよ。
- 24 :
- 攻撃三倍の法則
上陸五倍の法則
攻城十倍の法則
よっぽど思い切って、先鋒の死者の山を盾にするくらいに、
一気に戦力を投入しないと、上陸戦の攻撃側は不利になる。
- 25 :
- 日本軍は幕府の御家人で職業軍人だけど、元軍も全て職業軍人なのか?
元の兵制ってどうなってんだろう。
常備軍みたいのがあったのか?それとも農民を徴兵したのか?
- 26 :
- といっても、志賀島を占領していた元軍は主に海からの日本軍の攻撃で志賀島を放棄したけどな。
なぜか、この時は〜の法則は通じなかったわけだ。
- 27 :
- >>23
まあ状況から見て、どっちにしてもパチこいてるね。
直後のあの緊迫した状況での撤退は何なのと。
- 28 :
- >>25
戦いの経験なら元軍のほうが豊富かと(陸上戦限定)
当時のほとんどの武士に戦いの経験はない
承久の変以降では鎌倉以外はだいたい平和だ
- 29 :
- まあ、三浦合戦とか二月騒動とかあったし
地方で小競り合いもあったけど室町期に比べれば安定はしてたな
- 30 :
- 元朝秘史を読むと蒙古軍の主力は騎馬軍団だが
竹崎季長の絵では元の騎馬兵はほとんど活躍していない。
主力の騎馬軍団は来なかったのか?
- 31 :
- >>27
>直後のあの緊迫した状況での撤退は何なのと。
その前に、当夜の海上撤退は本当にあり得たのか?
軍事専門家は物理的に不可能と言っている、という話もあるが。
- 32 :
- >>30
季長が戦ってんのは高麗軍だから
- 33 :
- >>32
ソースは?
- 34 :
- | ┏━━━┓ 従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃ デマだらけの報道に注意しよう
| ┃三三婦┃
| ┃○○大┃
| ┃○○募┃
| ┃○圓集┃
| ┃圓以 ┃
| ┃迄上 ┃_
\┃可 ┃ \
┗━━━┛ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/21/0000083621/22/img293d65c3zikczj.jpeg
- 35 :
- 『高麗史』で戦闘後、蒙漢軍の司令官の忽敦と高麗軍の司令官金方慶が同じ場所にいたんだから
竹崎季長が戦っていたのはどう考えても、蒙漢・高麗両軍だろ。
同じ戦場にいて、高麗軍とだけ戦うなどあり得ない。
- 36 :
- 蒙古襲来についての日本側の史料には元軍の毒矢・鉄砲・集団戦法
についての記述はあるが元軍最強の騎馬軍団についての記述は皆無。
たぶん騎馬軍団は来なかったんだろう。
それが日本の勝因の一つだと思う。
- 37 :
- おかーさーん、ゲーム脳のバカが湧いてるよー
- 38 :
- 欧州やイスラム側の史料にも蒙古騎馬軍の猛攻についての記述がある。
日本だけないと言うのは、やはり日本には元の騎馬軍団は上陸しなかったのだろう。
- 39 :
- 馬は歩兵で橋頭堡つくってから上陸させるつもりだんじゃないか?
- 40 :
- そもそも、上陸して一日で蒙古軍が敗退して、戦闘の内容に関する史料すら
数点しかないのに何を言ってるんだか。
- 41 :
- つーか、騎馬があるかないかで本気がどうだとか全盛期がどうとかいう自体頭悪すぎ。
最強の蒙古騎兵だったら攻め落とせたとか現実の軍隊はゲームのユニットじゃねえんだよw
上陸して橋頭堡築いて拠点攻略してって流れになると
騎馬の編成が少なくなるのは当たり前だし、当時の元軍は
色んなシチュエーションの戦い経験する内に、騎馬だけに頼らないよう進化してたんだよ。
- 42 :
- 独協大学教授 新井孝重著 蒙古襲来(吉川弘文館)
文永合戦 怖気づく武士たち
全体として戦況を見ると、日本の武士が押されっぱなしであった。
武士たちはすっかり怖じおののき戦う気力をうしなった。
武士が戦いに耐えかねて、博多・箱崎をうちすてて、逃走した・・・。
- 43 :
- >>41
>騎馬だけに頼らないよう進化してたんだよ。
どう進化したんだか具体的に史料出して説明してよ
- 44 :
- >>42
このアホ教授は一体何を読んでこんな結論に至ったんだ?
>>43
むしろ、地形の起伏に富み守りが堅い都市が多かった
華南をいくら精強だからと騎馬のみで攻略できたとする考えが理解できない。
- 45 :
- そもそもなんでモンゴルがそんなに強かったのか誰か知ってる?
- 46 :
- そのぐらい自分で調べろよ。
- 47 :
- >>46 お前は日本史しかできないタイプだろ
世界史はやらなくていいレベルの大学だな
- 48 :
- >>45
それは諸説あって、まだよく分からないらしい。
- 49 :
- >>45
中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた点と
遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
- 50 :
- 征服した地域の軍隊の運用もすごくうまいよね。
純粋なモンゴル人の軍勢だけではあそこまで、膨張できなかったと思う。
- 51 :
- 大帝国を築いた勢力のほぼ全てに共通してるな>被征服民を上手く軍隊に取り込む
- 52 :
- でも,モンゴルってたんなる寄生虫でしょ
中国とロシアを完全に支配したとか寄生虫のくせにあり得ない
- 53 :
- >>35 :
>『高麗史』で戦闘後、蒙漢軍の司令官の忽敦と高麗軍の司令官金方慶が同じ場所にいたんだから
竹崎季長が戦っていたのはどう考えても、蒙漢・高麗両軍だろ。
軍議は日本軍の抵抗がなくなってから後のこと。
二方面の軍が合流して 箱崎あたりで軍議をやってるということは考えないのか?
- 54 :
- よくわからんのは、元の副将が負傷する記述はこの軍議の後にきてるんだよな。
もしかして、向こうにとって文永の役は壱岐や対馬の戦闘がメインで
福岡で撃退されたのは些細なこととして捉えてるのかな?
- 55 :
- >>53
じゃあ、二正面作戦を実施したという史料は?
二正面作戦を実施したという史料がなくて、日が暮れて陣に退き返したら
蒙古・高麗軍が揃っていたとなると共に戦っていたとしか考えられんだろ。
- 56 :
- >>54
それは撤退・乗船の話だろ。
撤退が決まって、副将は負傷していたから先に乗船したと言っているだけでは?
いま手元に原文がないが、たしかそうなっていたはずだ。
- 57 :
- 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に、「千里の県軍、其の鋒当たる
べからず」とあり。我が師少なしと雖も、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。
疲乏の兵策して、日ごと増すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。」
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃千余級、捨船三郎浦、分道而進、所過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」
- 58 :
- >>55
絵詞に出て来る、竹崎季長が戦った場所の地名は全て博多・箱崎より西だろ?
博多・箱崎に別の戦線があって、日本軍の本隊が戦っていたのなら、二正面になる。
しかし確かに、博多・箱崎に元軍(蒙古軍に限らず)が上陸したという史料は私も知らない。
だれか知っていたら教えてくれ。
箱崎の浜に元軍の司令部みたいなものがあって、がらくたが沢山残っていたという記述は
八幡の蒙古記にある。しかしそれも西部戦線との時系列はわからない。
まあ西部戦線に高麗軍、博多に蒙古軍というのは「定説」ではあるね。
そういう意味の「資料」ならたくさんある。
- 59 :
- >>42
こういうあたかも見てきたような記述があるから「戦争の日本史」は信用ならないんだよ
どうせ戦争の日本史あたりだろこれ
- 60 :
- >>59
アタリー
- 61 :
- >>42
「戦争の日本史 蒙古襲来」は内容があまりにも酷すぎて絶句するレベル
「当時は日本という国も日本人という呼称も無い!」とか言って
「列島住民」なんて呼称を無理やり使ってるところは著者が変質者としか思えないし
「蒙古軍がフランキ砲を使った」と書いてあるような江戸時代の文献を
無批判に引用してまで「蒙古軍圧勝」を主張してる。マジキチだわ
- 62 :
- >>57
これどこまでが壱岐での戦闘で、どこからが本土での戦闘なのかよくわからん。
>>58
kwsk
- 63 :
- >>58
流れとしては
九州上陸後、二面作戦の双方で元軍圧勝
↓
その夜、博多箱崎で軍議。
↓
威力偵察としての効果があったと判断して博多と箱崎を焼いて撤退。
負傷していた劉復了を先に船に返す
という見方が一番正しいみたいだね
あと一番詳しく書いてる八幡蒙古記ではやっぱり名乗り上げて一騎打ちしてるみたいね。
- 64 :
- >>61
大友の逃亡や>>57の辟易して走るから考えると
怖じ気づいて逃亡したという表現は正しいと思うよ
- 65 :
- >>64
大友が逃亡しようがしまいが著者が資料批判もできない馬鹿で、
その本を鵜呑みにしてるお前は大馬鹿だということに変わりは無いけどなw
まあ、大友の逃亡についても宗教書である八幡愚童訓にしか記述が無いわけだがw
- 66 :
- 以前どっかの元寇スレで関東評定伝の
文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北
をひいて24日に大宰府で決戦があり、それに敗北した、もしくは勝ちきれなかったために
元軍は撤退した。という説が出たがこれは個人的に面白かった。
高麗史金方慶伝では
日本軍を散々に打ち破った描写の後に、何故かいきなり撤退の話を始めるのに違和感があったが
大宰府攻略の失敗をあえて書いていないと考えれば一応の納得がいく。
- 67 :
- その八幡蒙古記が一番詳しいんだけどね。
神様が出てきて云々だけで出鱈目とするにはあまりに乱暴
- 68 :
- もちろん真実だって少なからず含まれてるだろうが、
詳しく書いてあるから正しいってのも乱暴だろ
- 69 :
- >>49
>中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
>行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた点と
>遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
>殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
妄想↓
>中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
>行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた
現実↓
>官軍相整わず
妄想↓
>兵の隅々まで命令系統が行き渡るようにした近代レベルの軍事組織
現実の近代軍↓
>ルーデンドルフは、第20軍団(ショルツ)の不甲斐なさに落胆し、
>フランソワに怒りをたぎらせ、(※フランソワは独断専行しまくりだった)
>またベロウとマッケンゼンはどこにいるかもわからず
>全く満足できない状態だった、と後で述懐している。
- 70 :
- >>49
>遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
>殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
何で遊牧民だと補給に悩まされないの?
馬は人間の10倍食うって知ってる?
馬の飼い葉の補給はいつでもどこでも誰でも苦労してるけど?
- 71 :
- そもそも遊牧民族が覇権を握るのはモンゴルが初めてではない。
既にアッティラが5世紀に大帝国を築いている。
アッティラとモンゴルの共通点は>>50-51が言うように、
被征服民を取り込んで巨大化したってところ。
>>49は何一つ現実を反映してないね。
- 72 :
- >>66
てことは元は大宰府までは進軍してきたってこと?
史料によって色々と食い違いがあって実際のとこがわからんな。
少なくとも、武士側が元軍に橋頭堡を築かせずに撤退を
決意させる程度の打撃を与えたのは確実だとは思うけど。
流石に威力偵察だとかただの脅しだからとかいう線は無いと思うなあ。
- 73 :
- >>68
その少なからず含まれてる真実に武士側の敗北が含まれてる。
だって>>57での惨敗ぶりと見事に一致するじゃん。
だから信憑性は高いよ
- 74 :
- >>74
何故脅しじゃないと断言できる?
文永の役から一年後に降伏を促す使者を出してるのが何よりの証拠。
- 75 :
- >>73
お前バカじゃね?蒙古襲来を八幡の神威を示す逸話として扱ってるような宗教書が
武士の奮戦についてあまり書こうとしないであろうことは目に見えてるだろ
なんせ、神々が蒙古を撃滅して日本を救ったことにしないといけないんだからw
あと「高麗史」を持ち出すならむしろ八幡愚童訓の内容とは見事に一致しないことになるわけだが
何故なら華々しい戦果が書かれた後すぐに撤退を議論する場面になってるからな
元軍が本当に一方的に日本軍を撃滅したなら、なんで忽敦は戦闘継続を断念してるんだ?
なんで主戦派の金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出すまでに進退窮まる状態になってるんだ?
お前みたいなのを行間の読めない奴と言うんだよw
- 76 :
- >>72
少なくとも十人、百人、千人、一万人を単位とした組織があって、
それぞれに長がいたことは確かだろ?
それに対して日本軍は家単位の集団の寄り集まりに過ぎなかった。
たった5人の集団を率いる竹崎末長が総大将から直接命令を受けている
のでもわかる。
- 77 :
- >>74
おいおい、威力偵察と威しは違うだろ。話をすり変えるなよw
- 78 :
- >>75
連戦連勝でも日に日に進軍先で当たる兵が増えてたらマズいなとは感じるだろ。
- 79 :
- >>77
いや、だから脅しだったんだって
- 80 :
- >>79
文永の役威力偵察説から武力恫喝説に鞍替えということでおk?
- 81 :
- 総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
財相 安住淳 人権擁護法案推進派 人権擁護法案→日本人は冤罪で刑務所行きの可能性大
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
国家戦略相 古川元久 パR協会政治アドバイザー
- 82 :
- >>80
脅しだったんだって認めるのね?
- 83 :
- >>82
は?なんで俺が認めるって話になってるんだ?読解力なさすぎだろ
まあ威力偵察と脅しを混同してるような奴に何言っても無駄かw
- 84 :
- 佐藤鉄太郎教授によると、武士が書いた古文書で確認できるの戦闘場所は
「鳥飼潟」での戦闘だけ。
「八幡ノ蒙古記」に博多で戦闘があったような記述があっても、戦闘した武士・元側
当事者が博多で戦闘したと書いてないんだから、常識で考えれば、元軍が二方向侵攻した
というのは信憑性に欠ける。
で、鳥飼潟での戦闘の勝敗はというと、日本側が元軍を蹴散らしている。
福田兼重申状
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」
ちなみに、『蒙古襲来絵詞』に描かれているのも、鳥飼潟方面の戦闘で、元軍が撤退したという記述があり
一致している。つまり、鳥飼潟方面で、元軍が敗退したというのは疑いようもない事実。
- 85 :
- 建治2年1月日大宰府下文案(薩藩旧記前編巻五国分寺文書)
蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、
或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉。
- 86 :
- >>74
「高麗紀事」耽羅至元九年十一月十五日条によると
文永の役以前に中書省が元皇帝に日本侵攻の計画を上奏しており、
それは二、三万の兵力をもって日本に上陸し、太宰府に向かうというものだった
実際に元軍は三万前後の兵力で今津、百道原、箱崎といった大宰府に通じる交通の要所を狙って上陸しているし、
文永の役において元軍が大宰府の攻略を戦略目標としていたと考えるのが自然だろう
でも、周知の通り元軍は日本軍の抵抗を受けて大宰府にたどり着くことができなかった
「高麗史」に書かれた緊迫した軍議の状況や、「元史」に書かれた「しこうして官軍整わず。また矢尽きる」
という撤退理由は、元軍が24日夜の時点でまだ戦略目標を達成していなかったということを裏付けていると思う
つまり文永の役は威力偵察でも脅しでもなんでもなく、大宰府に到達できずに一日で退却した元軍の敗北
- 87 :
- これを貼れと言われた気がした。
「朕、 宋 と 日 本 と を 討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)
- 88 :
- >>64
「大友の逃亡」というと大友頼泰が個人として逃亡したような感じだが、
それは八幡ノ蒙古記の次の狂歌のことでは?
大ともは 子どもうち連れ 落ち行きて 方々にこそ 寄り休みけれ
これは武士全体が引き揚げたことを大友頼泰に代表させて歌ったのだと思う。
- 89 :
- 「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。」
この記述だと、壱岐の戦闘のことを言っているように思える。
問題は、『高麗史』金方慶伝の「船を三郎浦に捨て」の「三郎浦」とはどこか?という疑問。
壱岐で平景隆が籠城した城が「庄ノ三郎城」というのだが、この「三郎」と関係があるのか?
他にも壱岐には「三郎神社」という神社もあり、この壱岐の「三郎」と「三郎浦」とは関係があるのか?
もしくは、博多に「三郎丸」という地名があるが、関係があるのか?
もし、「三郎浦」が福岡ではなく壱岐のことを言っているのであれば、『高麗史』と『元史』は壱岐を主戦場と認識していた可
能性が一気に高くなる。
ただし、三浦周行氏著の『鎌倉時代史』によると「三郎浦の三郎は早良にして、同郡沿岸即ち百道原の沿海地区ならんといふ」
としている。根拠は不明だが、三浦氏によると、「三郎浦」とは博多湾岸の「早良」らしい。
- 90 :
- 『高麗史』表でも、文永の役の戦闘場所を「壱岐」だけしか記述していない。つまりは、元側にとって、壱岐が文永の役の
主戦場だったという認識なのではないか。
『高麗史』巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
『元史』でも、文永の役の戦果を島を占領したことしか書いていない。
『元史』洪茶丘の記述に「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
つまりは、「元史」日本伝の「その国に入り、之を敗る」とは島の占領のことを言って、勝利宣言しているのでは?
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
そして、「敗った」のすぐ後の記述が「官軍整わず、また矢がつきたので撤退した」とある。
「官軍整わず、また矢がつきたので撤退した」の部分が博多湾から上陸したものの、日本軍が意外と多く強大だったため
苦戦し「官軍整わず」撤退したのではないか。
- 91 :
- >>57
>復亨中流矢、先登船、遂引兵還、
復亨中流矢はこの時点で矢にあたったのではなくて、次の「先」の理由を
説明している。つまり「負傷していたので先に乗船した」ということ。
「遂」は劉復亨も負傷したのでとうとう引き揚げに決した、と読みたくなるが、
「遂」は単にあることがらが完了したたことを意味することが多い。
ここでは(他の将兵も乗船して)引き揚げが完了した、と言っているだけ。
- 92 :
- >>90
宜蠻等島ってのはどこのこと?九州?
- 93 :
- 「蠻」は蛮賊の「蛮」のことだから、「対馬、壱岐などの蛮(賊)の島を抜く」ってこと
- 94 :
- トンクス。
だとしたら、本当に九州まで至っていたら
もっと本土についても言及してるはずだよな。
してないって事はやっぱり向こうにとっては壱岐と対馬の戦闘がメインだったんかな?
- 95 :
- ×九州に至っていたら
○九州で十分な戦果があったら
- 96 :
- >>90
>入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰
而は順接にも逆接にもなる。
ここは逆接で、「しかるに」だろう。
だから「官軍不整」と「矢尽」が「帰」の理由説明というわけ。
その国に入りて之を敗る。しかるに官軍整わず、また矢尽く。ただ四境を
虜掠して帰る。
その国(日本)に侵入して之を破ったのだが、(残念ながら)我が軍の
体制が整わず、それに矢も尽きてしまった。(仕方なく)そのあたりで
捕虜を捕らえ、略奪しただけで帰って来た。
- 97 :
- >>57
「至一岐島、倭陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、
茶丘與之亨卞、 撃千余級、捨船三郎浦、分道而進、所過當、
倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、 抜一?矢、励声大喝、
倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、」
この文章は「 撃千余級」で切れていて、その前が壱岐、その後が本土の
戦いだと思う。「捨船」が本土上陸を意味していると思う。
戦闘場面は「列伝」中の異なる人に関して数カ所あって、それぞれに字数が
異なるが、その用いられた漢字は全て金方慶伝にあり、それ以外の漢字はない。
ということは、これらの文章がいずれも金方慶伝を異なる程度に省略して
用いているということだ。
そうであれば、金方慶伝だっておおもとの文章から省略されて収められて
いる可能性がある。私は「撃千余級」と「捨船」の間に省略があると
見る。そして「分道而進」とは蒙古軍と高麗軍の二正面作戦のことだと
思う。
- 98 :
- 「捨船三郎浦、分道而進、所過當、
倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、 抜一?矢、励声大喝、
倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻」
でも、これを本土の戦いだとすると、疑問点が幾つか出てくる。
@戦闘内容と軍議の切迫感が噛みあっていない
A当時の武士の発給した史料で確認される戦闘は、博多から西方面の「麁原・百道・赤坂方面」だけ。
つまり、一方面での戦闘の記録しか武士は残していない。元軍が二正面作戦を実施したのなら、なぜ武士はもう一方の
戦闘を記録していないのか。
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述しているとすれば、重要な本土での戦闘場面を省略し理解しがたい文章にするだろうか。
C「捨船三郎浦」の前の文章が、「倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う」と割と詳細に描かれているのに、次の文章の「(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し」の部分を壱岐の占領と
理解するのは強引では?応戦し、船を捨て道を分って追撃したとする方が、前文の割と詳細な記述と繋がっているように思う。
むしろ、「忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。」と軍議の間の本土での戦闘の記述が省略されているんじゃないかと
思うんだが…。
- 99 :
- 【訂正】
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述しているとすれば、重要な本土での戦闘場面を省略し理解しがたい文章にするだろうか。
↓
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述したいとすれば、その力点としたい戦闘場面を描写する以前の重要な動向を省略して
壱岐の戦闘とまるで繋がっているような理解しがたい文章にするだろうか。
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