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三島由紀夫と楯の会


1 :10/03/09 〜 最終レス :12/01/26
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http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
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http://image.blog.livedoor.jp/tohonokai/imgs/a/d/ad82f12b.jpg
檄文 三島由紀夫
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
演説文 三島由紀夫
http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html

2 :
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
…普段の平時からそれぞれの能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。
三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

3 :
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた教育で、
国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ持つて
行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に残した、
この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、我々が
いくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないといふことは、
何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

4 :
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。
ナチスはワイマール憲法を改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。
ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、
ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。
この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

5 :
日米共同コミュニケによつて、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。
すなはち国内的には、今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしやぶらせつづけて面子を立ててやる一方、
過激派には現憲法にもこれだけの危機収集能力のあることを思ひ知らせ、国際的には、無制限にアメリカの
全アジア軍事戦略体制にコミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使ひ、一方では
安保体制堅持を謳いながら、一方では平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするといふメリットが
生じたのである。
これはいはば吉田茂方式の継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによつて強ひられた憲法であるより以上に、
さらにアメリカの軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないといふ恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。
改憲サボタージュは、完全に自民党の体質になつた。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

6 :
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、
戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない。
完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす。
それは戦後のヤミ食糧取締法と同じことである。
(中略)
私が憲法を問題にするのは、そこに国家の問題が鮮明にあらはれてゐるからであり、しかも現憲法は、国家への
忠節に肩すかしを食わせて、未実現の人類共通の理想へのみ忠誠を誓はせるやうにできてをり、国家と忠誠とを
別次元に属する形で併記してゐる。
国家とは何ぞや、忠誠とは何ぞや、といふ問ひからはじめなければ、変革の論理は実質を欠くことにならう。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

7 :
私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に
分れ、後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐるのが現代の日本である。近代政治学が問題にする国家とは、
前者にほかならない。ところで自由世界の未来の国家像は、ますます統治国家がその統治機能を、自治体、民間団体、
企業等へ移譲し、国家自体は管理国家としてのマネージメントのみに専念し、言論やの自由は最大限に容認し、
いはばもつとも稀薄な国家がもつとも良い国家と呼ばれることにならう。そこでは時間的連続性は問題にされず、
通信連絡、情報、交易の世界化国際化による空間的ひろがりが重んじられる。スポーツや学術をはじめ、多くの領域で
世界国家的イメージが準備される。事実このやうな管理国家は世界連邦たるべきものの胎児なのである。
これを支配する原理は、ヒューマニズム、理性、人類愛などであり、非理性的ないし反理性的なものはきびしく
排除されるロゴスとしての国家である。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

8 :
一方、祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、
歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ
根を見いだし、真のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの国家の首長は天皇である。
ここでは濃厚な国家がもつとも良い国家なのである。
さて統治国家を遠心力とすれば祭祀国家は求心力であり、前者を空間的国家とすれば、後者は時間的国家であり、
私の理想とする国家はこのやうな二元性の調和、緊張をはらんだ生ける均衡にほかならない。
私はこの二種の国家をつきつけて、国民にどちらの国家に忠誠を誓ふか、決断を迫るべきであると思ふ。
いふまでもなく真にナショナルな自立の思想の根拠は、祭祀的国家のみにあり、統治的国家は国際協調主義と
世界連邦の方向の線上にあるものである。
そしてその忠誠の選択に基づいて、自衛隊を二分したらよいのである。このことは現憲法下でも法理的に可能である。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

9 :
(中略)
日本の防衛のあるべき姿を考へれば考へるほど、私にはほかの解決は思ひ当らない。もちろんこれには憲法の
制約を考慮に入れた上のことで、憲法を変へるとなれば、また話は別である。
日本にとつて緊急に変革を要するものは防衛の問題であり、しかもそこにいかにして自立の思想を盛り込むか
といふ問題である。日本に変革の必須な問題は多々あらうが、これを除外して変革を考へることは空論であり、
共産党ですら、核兵器に一言も触れぬ狡猾さをもつて、武装中立を謳つてゐる。日本の防衛と自立の永遠の
ジレンマのもとである核兵器が、国内戦に使へないといふ特質を持つてゐるところに目をつけて、この特質を
逆手にとつて、絶対自立の軍隊を健軍することがまづ急務であり、自衛隊をただあいまいに安保条約に
接着させておくことは危険なのだ。
中共はすでにIRBMの戦略配置を終つたと伝えられ、日本はその射程距離内にはひるのである。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

10 :
(中略)
変革とは一つのプランに向かつて着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、といふ考へが、
私の場合には牢固としてゐる。前述の自衛隊二分論は、相対的解決策としての変革にすぎぬが、その中にも
私の叫びの貫流してゐることを、聞く人は聞くであらう。
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。
この着眼は卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだつたからである。彼らは
これらをおそれ、その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。しかしこの叫びを忌避して、
日本人にとつての真の変革の原理はありえない。近代日本知識人が剣道のあの裂帛の叫びを嫌悪するのは、
あれによつて彼らの後生大事にしてゐる近代ヒューマニズムと理性の体系にひびのはひるのをおそれるからだ。
あの叫びこそ、彼らの臆病な安住の家をこはしにかかる斧の音をきくからだ。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

11 :
変革とは、このやうな叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であつても構はぬ、
死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の
最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。
文化とは形であり、形こそすべてなのだ、と信ずる点で私はギリシャ人と同じである。
三島由紀夫
「『変革の思想』とは――道理の実現」より

12 :
私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の富)だと考へる者である。
三島由紀夫
「わが『自主防衛』」より

13 :
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。
三島由紀夫
「私の自主防衛論」より

14 :
そして天皇の伝統が絶たれた場合にわれわれの祖先代々の文化の全体性が侵食されてしまふからこそ、それを
守つて戦はねばならない。そのためにはやはりいまの憲法下でも、非常に制約があるけれども陛下があるときには
自衛隊においでになつて閲兵を受けられることも必要であらう。
あるひは国の名誉の中心として文武いづれの名誉の中心も陛下であられるといふかたちをなんとか新憲法下でも
つくつていけることができるんぢやないかと考へるのである。
私は日本を守るとはどういふことか、守るべきものは何なのかといふことについていま青年たちと議論してゐる。
私はまづ手近なところから、自分にできる範囲のことで小さくやつていきたい。すべてそこから始めなければ
何ごとも始まらない。
国民一人一人がいざといふ場合は銃をとつて立ち上がるぐらゐの気持を持つてやらないと将来の日本は
えらいことになるぞといふ感じを持つてゐる。
三島由紀夫
「私の自主防衛論」より

15 :
流れぶった切ってすみません。
☆わが国の総理がひげの隊長に国会でお勉強会に参加するの巻☆
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9925644

16 :
>>15
全然構いませんよ。また面白い情報お願いします(^^)v

17 :
自衛隊法第三条にも明記されてゐる通り、いまや我々が自衛隊は間接侵略の対処及び、通常兵器による局地的な
侵略については、安保条約の力を借りずに全くの自分の力でこれに対処するやうに規定されてゐる。
…なぜこのやうな変化があつたのかといふと、これは日本の自主防衛力が多く認められてきたことばかりとは
いへない。すなはち、間接侵略といふものは、高度に政治的な戦争形態であり、高度にイデオロギッシュな
性質なものであり、またその範囲はきはめて広く思想戦、心理戦、言論戦から実際のゲリラ戦や、いはゆる遊撃戦
活動から社会主義革命に至るまで、あらゆる段階を含んで進行することは自明であるから、このやうな国内問題に
類する間接侵略に対して、外国軍隊が直ちに第一段階で介入することは内政干渉と受けとられる恐れが充分あるので、
したがつてアメリカとしても間接侵略に対する対処を早く自衛隊自らの手にゆだねようとしたわけであらう。
三島由紀夫
「自衛隊二分論」より

18 :
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。
一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦といはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば
一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、
相手がソビエトに背をむけて敵と戦つてゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、
あるひは自分の手に収めるといふ時機を狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。
三島由紀夫
「自衛隊二分論」より

19 :
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。
決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを
最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。
三島由紀夫
「自衛隊二分論」より

20 :
もちろんわれわれは、いたづらに自己を拡張し、いたづらに古い軍国主義や、軍国主義の幻に惑はされて、
日本をそのうぬぼれの成し進めるままに、昔の誤りを繰り返へさせようとするものではありません。しかし、
私が言ひたいのは、元と末といふことであります。何よりも大事なのは、何を元と考へ、何を末と考へるかであり、
まづ元を固めてから末に及ぼすのが、政治のみならず人間精神の常道であります。元とは何か。
元とは、日本が自主自尊の念を持つて国防に邁進し、日本文化と伝統を守るのに人の力を借りず、その力を
侵さうとするものに対しては、一人一人、断固としてこれを排除する決意を持ち、少なくとも国民の一人一人に、
このやうな背すぢが一本通つたところで、はじめて堂々と面を上げて諸外国と交際し、産業・文化の交流はもちろん、
国益のために必要があれば軍事同盟もいとはず、あるひは国際連合への義務をも回避しないといふところに
あるのでなければなりません。
三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

21 :
(中略)私は、十月二十一日の新宿における反戦デモの見物に行きましたが、あのデモを見物したあとの私の感想は、
ただ一言「これで日本の憲法は変はらない」といふことでありました。(中略)
もし政府当局者が、この現場を見れば、もはや憲法を変へなくても、あらゆることが可能であるといふ判断を
持つたに違ひなく、しかも憲法を変へないといふことは、国際的、国内的に二つの極端なメリットを持つ
といふことを認識したに違ひありません。
(中略)また憲法自らは、相変はらず偽善的なただ乗り主義と、肩身の狭いやうにみえる防衛義務と相携へて
いかねばならんといふ跛行的状況の永続を意味し、われわれが矛盾に耐へるのをおそれれば、みすみす外国の
術中に陥り、われわれが矛盾を甘受すれば、知らない間に精神の弛緩状態に陥つて、ますます現状維持の泥沼に
沈むかもしれないからです。
われわれは狼にならうとすれば熊に食はれ、豚にならうとすれば人間に食はれるのかもしれないのです。
三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

22 :
国際関係はいつも微妙な力のバランスの上に立ち、一国民のナショナリズムをもつてしても、なんともなる
ものではありません。しかし一九七〇年を境に、われわれは個々に目をらんらんと光らせてわが身を振り返へり、
世道人心の奥に目を開いて、そこに底流するものを認識し、日本とは何か、真のナショナリズムなるものとは何か、
それを守るにはどうすればよいかを考へなくてはなりません。いまやナショナリズムは、新聞紙上や街頭で
絶叫される演説の叫びではなくて、われわれの一人一人に対する鋭い問ひかけになつたのであります。
ナショナリズムとは何か。ナショナリズムとは、軽々しく心に訴へるやうなものではなく、われわれの心の
奥底にあるものに対して、鋭い深いふれ方をし、われわれの最も美しい記憶とまた最もおそろしい記憶とも
結びついてゐるやうなものであります。
三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

23 :
それは、ヘルデルリンのハイムクンフト(帰郷)といふ詩にもあるやうに、ふるさとといふものは、われわれの
いちばん奥にあつて最もなつかしいものであると同時に、最もおそろしいものなのであります。
日本でいま、このやうなナショナリズムなものはあるでせうか。この民主主義の、言論自由の世の中で、
米軍基地撤廃も、沖縄の即時奪還も、いかやうな政治的な主張も、あるひは北方領土返還にしろ、言論として
声高に叫ばれ、また整然たるデモ行動にあらはされれば、自由にあらはされることができるものであります。
そのかはりそれは大衆社会の中で、不可能を、難業を、道理立てはするが、また再び忘れられるおそれのある、
いくつかの政治的主張の一つなのであります。
もはやわれわれのいちばん心の奥底で鋭い問ひを問ひかけ、外国のあらゆる力の干渉に対して、何千年の歴史・
伝統をもつて堂々と応へ得るものはただ一つ、天皇しかないといふのが、私の長年の主張であります。
三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

24 :
人は、天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、戦争からにがい経験を得た人ほど、
天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその時代時代の国民が、
日本人の総力をあげて創造し復活させてきたものだと思ふのです。いつも新しい天皇制があり、いつも現在の天皇制が
あり、その現在の天皇制の連続の上に永遠の天皇制があるといふところに、天皇の本質がひそむのです。これは
一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、一つの非人称的な方として
伝承されてきたことをみてもわかります。新しい天皇制は、われわれがつくつていくものであり、そしてこれを
抜きにしては日本の今後の自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに政治権力に接着おさせすることなく、
あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・伝統のみにかかはる君主制を確立
しなければなりません。
…左翼の民族主義が、その欺瞞を露呈するのは、彼らから天皇に対する態度徹底を、はつきりと再び引き出す
ことにしかないでせう。
三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

25 :
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。
(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか?
…言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげてをり、われわれの文化の連続性は、
民族と国との非分離にかかつてゐる。
そして皮肉なことには、敗戦によつて現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題を
ほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に
立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、
国を現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。
三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

26 :
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。
すなはち、それは非分離を分離へ導かうとするための「手段としての民族主義」なのである。
…前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。
三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

27 :
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。
それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する
異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。
第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の
平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。
そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反するイメージ――
外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族の歴史の罪障感によつて
権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。
三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

28 :
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、
保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。
三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

29 :
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言
「楯の会会員たりし諸君へ」より

30 :
【高森アイズ】自衛隊教育から「歴史観・国家観」排除の愚[桜H22/3/10]
http://www.youtube.com/watch?v=nPz1TeKazeA&hl

31 :
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体を
見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の特殊事実までが推論されなければ
ならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押しこめられて行き、政治的機構の
醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を持たなくなつてゐたのである。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

32 :
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
(中略)
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、
「国と民族の非分離」を回復せしめようとする変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。
孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、「一筋のみやび」を実行したのであつて、
天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであつたが、西欧的立憲君主政体に固執した
昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

33 :
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて時間的連続性を充たしたが、政治的無秩序を
招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には関はりなかつたのである。
政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるをえなかつた。
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。
天皇と文化は相関はらなくなり、左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」
「文化の全体性の統括者としての天皇」のイメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

34 :
(中略)
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのである。
伝統との断絶は一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」
「さび」のやうな、時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、
詩と政治とは、完全な対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

35 :
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。
天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の
美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、
鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。
ここに日本文化の基本的な現象形態が語られてゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、
「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

36 :
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。
これこそは八咫(やこの)鏡の秘義に他ならない。文化のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の
中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、といふのが、
日本の文化の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

37 :
(中略)時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認する
かもしれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。
このやうな事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに
確実な防止策はない。もちろん、かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、
文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。
文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴエルト・アン・ジッヒ)だからであり、天皇が
否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

38 :
われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。
いかに暴力的表現をとろうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。
不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、
一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、
以て過半数を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者を圧迫し、社会の各分野へ
浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

39 :
(中略)
われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。
この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どおりに行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の
怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

40 :
まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。
(中略)
われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、日本の国土の水際ではなく、われわれ
一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。
千万人といへども我往かんとの気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、
挑発、をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

41 :
われわれは除外例や例外少数者の問題その他のなかに、人間性の真理を発見する立場をとつてゐる。
中共革命の過程では文化大革命がなかなか終熄を見なかつた間に、少数民族問題がガンをなしてゐることが
明らかになつた。ウィグル地方の少数民族地域は原爆実験地域としても戦略上重要な地域であるが、ここにおける
革命委員会の成立は最後まで危ぶまれてゐた。
異民族統治の経験のある大国では、少数民族の帰趨(きすう)が革命的要素になることが認識されてゐると同時に、
またその国自体が革命的な原理に成り立つ国である場合は、一転して反革命の危険を内在させた分子として
見られるのである。
反革命とは、人種上は少数民族の原理であり、人間性の上では閑却されがちな人間性の真実の救出の問題である。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

42 :
かつてプロレタリアは社会的疎外の代表であつた。戦争前には日本の経済政策の貧困から農村は疲弊し、
飢餓状態は蔓延し、人身売買は兵士の心を押へ毒してゐた。
しかし、戦後は工業化の進展にともなつて取り残された農村は、人工的な米価政策によつて救済された。のみならず、
貧困は解決され、労働者は革命や政治闘争よりも、経済闘争のはうがより有効であるやうな時代に生きてゐる。
(中略)
日本で行はれてゐる、体制対反体制、権力対反権力の論争は、お互ひに相手側の弱点をつかむ巧妙な論理を
発明してゐる。体制側は、いはゆる革命主体を自称する学生や、その他の人々に対して、お前たちは中共から
金を貰つてゐる、外国勢力から助けられてゐるといつでも揚言することができる。
これに対していはゆる革命勢力はみづからをナショナリストとして既定し、体制側を買辧勢力と規定し、かつ
自分たちに反対するオピニオン・リーダーを全て体制の代弁者ないし走狗と規定することができるやうになつた。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

43 :
彼らの論理はかうである。「もし、大学あるひは論壇あるひは文壇のやうな、マス・コミュニケーションのなかの
一つの小さな枠組の中では、たとへ反体制的言論が支配的であつても、そのなかにおける少数者の言論は実は
社会全体の体制的な感情へのおもねりにすぎない。すなはち一定の小集団のなかにおける少数意見は、集団外の
圧倒的な体制的言辞を背景としてそれを自分の後楯としてなされてゐるのだ」といふ主張である。
ここにおいて、さつき言つた社会的疎外と少数者の問題はパラドックスに当面する。すなはちわれわれは、
小さな閉鎖社会のなかで生きるときに、疎外者あるひは少数者になり、開放された社会のなかで生きるときは
体制側の代弁者となるといふやうに彼らから言はれるのである。
しかし、われわれの社会における生き方は、彼らの言ふほど単純なものではない。
彼らのいはゆる体制的権力側のオープン・ソサイエティといふものは、実は存在するかのごとくして存在せず、
われわれのまはりに茫漠としたアモルフな形をもつて漂つてゐる。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

44 :
大衆社会化は社会像のこのやうなアモルフ化アンフォルメル化に貢献した。十九世紀的国家形態が崩壊した現在は、
それにかはるべきゲゼルシャフトが強固な利益社会として屹立してゐるのではない。
われわれはそれぞれの小集団のなかでのみ自分たちの存在の原点を確保することができると感覚的に感ずる。
(中略)
その外側の社会は、膨大な無定見の社会構造を呈示してゐるのである。
すべてを唯物弁証法ないし社会主義的思考をもつて分析して、自己の小集団に波及するアモルフな社会の圧力を、
安保体制下の権力の波及した状況と解釈することは、一見実に簡単でわかりやすい。しかし、もしこのやうな
わかりやすい社会にわれわれが生きてきたと仮定するならば、疎外の問題も少数者集団の問題も、われわれと
社会の間のアンビバレンツの問題も起りやうがないのである。
つまりそのやうに、小集団と社会との間を論理的に直結させるといふ思考方法は、社会疎外から出発した
思考方法を自ら否定するものにほかならない。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

45 :
(中略)
ここには、戦後の社会の無限の責任遡及によつて、つひには責任の所在を融解させてしまふ「無責任の体系」の
影響が大いにあり、すべては社会がわるい、といふときに、人は自ら、社会のアモルフ化に手を貸してゐるのである。
彼らは最初、疎外をもつて出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団における
マジョリティを次々とつなげて連帯させることによつて、社会におけるマジョリティを確保し、そのマジョリティは
容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するといふのは、革命のプランである。そして、
責任原理の喪失を逆用したそのやうな革命は現に着々と進行してゐる。
しかし、われわれ文化の側に立ち、人間の側に立つ人間は、疎外がそのやうな自己矛盾に陥つてゐるやうな
状況に対して、むしろ疎外や、少数者といふものを積極的に評価するところから出発しなければならない。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

46 :
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

47 :
日本の社会問題はかつてこのやうではなかつた。戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、
純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、
一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。
しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、
偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力から
その道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。
われわれは疎外を固執し、少数者集団の権利を固執するものである。それのみが、革命勢力に対して反革命の
立場に立ち得るし、彼らの多数を頼んだ集団行動の倫理的矛盾に対して、最も強い、先鋭な敵手たり得るからである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

48 :
人は疎外からみづから逃れたいといふ要求を持つてゐる。その要求の最もわかりやすいスローガンは
「自由」であるが、自由を与へられると、エーリッヒ・フロムではないが、再び自由から逃避しようとし、
逃避のメカニズムはオートマティックに進行するのである。そして、逃避のメカニズムがオートマティックに
進行するときに、疎外された少数者はいつしか多数の集団者となり、多数の集団者はマジョリティとなり権力を求め、
遂には少数者を蹂躙し、自分のよつてもつて立つところの存在理由を自己否定せざるを得なくなるのである。
その革命の経過こそ、われわれが最も見張らなければならぬものであり、われわれに彼らの原点の感情に対する
安価な同情を許さないところのものである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

49 :
反革命は、革命行動の単なる防止ではない。反革命は革命に対して、ただ単なる暴力否定をもつて立ち向ふ
ものではない。なぜなら、暴力否定は容易に国家否定に傾くからである。
反戦平和のスローガンが、ただちに暴力行動を意味するといふことを、三派全学連は新宿動乱で公衆の前に証明し、
それによつて公衆に、反戦平和といふ言葉の欺瞞を白日のもとにさらけ出すといふ大きな貢献を残した。
しかし、暴力は暴力自体が悪でもなく、善なのでもない。
それは暴力を規定する見地によつて善にもなり、悪にもなるのである。
彼らは国家権力を暴力装置と規定し、機動隊を階級敵と規定し、彼らの規定によつて権力自体は、すべて膨大な、
革命を抑圧してゐる暴力機構と考へられる。
(中略)
暴力否定が終局的に革命を支持するものであることを最もよく知つてゐるのは革命勢力、特に共産党なのである。
共産党は最後の革命に手段としての暴力を十分容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは差し控へる、
といふことを知つてゐる。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

50 :
われわれはもし、暴力といふものを本質的、原理的に否定するときには、これに立ち向ふことは決してできない。
大学問題はあたかも革命全体のミニアチュアであるが、暴力に対するに理性をもつてした大学教授連の考へは
十九世紀的迷蒙に侵されてゐる。暴力と素手で立ち向ふことができないのは理性の特質であり、そしてまた
理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみづから確認できないといふことは暴力の特質である。
かくて、暴力と理性とは、お互ひにその正当性を奪ひ合ふ段階においてこそ同格であるが、暴力は一つの理性的
思想を背後に持つてゐると主張することによつて、すなはち理性だけよりも強く、相手を国家権力なる「暴力」と
つながつてゐるといふ論理へ追ひ込むことによつて、むりやり、自分の土俵へ相手を引きずり込む戦術に長けてゐる。
暴力否定が国家否定につながることは、実に見やすい論理である。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

51 :
われわれは絶対的暴力否定の抵抗思想としてガンジーの思想の如きを知つてゐるが、ガンジーは少なくとも
抵抗の思想である。日本の非暴力主義には、抵抗の思想は稀薄であり、エゴイズムのみが先行してゐる。
絶対平和主義は、自分たちの集団に対する攻撃をも甘んじて容認するといふことにおいて、少なくとも
集団に対する攻撃を容認しない、といふ原理に立つ国家の不可侵性を否定するものだからである。
国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、その国境の確保と、
自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために力を
保持せざるを得ないことは、最近のチェコの例を見ても明らかであらう。
もちろん十九世紀的な主権国家の幻はすでに崩れ、国際的な集団保障の時代が来て、国家概念は、社会主義共同体と、
自由諸国の国々とに別れ、ヨーロッパですら、将来のイメージとしては、共同体的な同盟国家よりも、さらに
強固なつながりを持つた国家形態を求めてはゐる。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

52 :
しかしながら、現実に支配してゐるのは国家の原理であり、イデオロギーの終焉はまだ絵空事であつて、むしろ、
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家は
このやうな自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみづからの手中にをさめるための口実として
使はれてゐるにすぎない。
まだ国際政治を支配してゐるのは、姑息な力の法則であつて、その法則の上では力を否定するものは、最終的に
みづから国家を否定するほかはないのである。平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる
自信喪失をねらつて、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図してゐる。そこで最終的に
彼らが意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、そこに浸透して共産政権を樹立することに
ほかならない。そして共産政権が樹立されたときにはどのやうな国家がはじまるかは自明のことである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

53 :
(中略)
一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけてどのように
波及してくるかについてほとんど知るところがない。彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも
秩序を維持することを欲し、ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に
浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、といふ方向に
向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、といふ未来図を彼らの心から
要求することは、ほとんど不可能である。人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、もしこれが
警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかへを徐々に始め、
あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

54 :
(中略)
われわれ反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。予告し、先取りし、
そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を守るほかはないのである。
さらに正確に言へば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなほ無自覚でありながら、実は彼らを
存在せしめてゐる根本のもの、すなはち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。これこそは
前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがつてゐる世論の
支持によつて動くのではない。われわれは先見によつて動くのであり、あくまで少数者の原理によつて動くのである。
したがつて反革命は外面的には華々しいものになり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張つて、もし
革命勢力と行政権とが直結しさうに時点をねらつて、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。このためには
民衆の支持をあてにすることはできないであらう。いかなる民衆の罵詈雑言も浴びる覚悟をしなければならない。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

55 :
(中略)
政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考へないであらう。世論は
いつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には
大衆社会の持つてゐるその非人間性を否定しようとするのである。
では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。
われわれは天皇といふことをいふときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるといふやうな
時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考へる天皇とは、
いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のやうに、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、
このやうな全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するやうな勢力に対しては、われわれの日本の
文化伝統を賭けて闘はなければならないと信じてゐるからである。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

56 :
われわれは、自民党を守るために闘ふのでもなければ、民主主義社会を守るために闘ふのでもない。もちろん、
われわれの考へる文化的天皇の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると
信ずるから、形としてはこのやうな民主主義政体を守るために行動するといふ形をとるだらうが、終局目標は
天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するやうな政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
三島由紀夫
「反革命宣言」より

57 :
…無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。
非武装(チェコは事実上非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえない
ことは明らかである。武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。
三島由紀夫
「自由と権力の状況」より

58 :
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなるからである。
そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と「非武装」とは
同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。
三島由紀夫
「自由と権力の状況」より

59 :
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より

60 :
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より

61 :
「いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。
だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)」
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長 男の盟約」より

62 :
ヒロイズム願望人間。
天皇や武士を脳内美化、カルト気味。現実の天皇には批判的。(人間宣言など)
英雄死願望を持ち、結局、周囲に迷惑な死。
平和・民主主義・平凡を愛せない愚物。
三島の事件理由・・・クーデターを警察力で排除=治安出動による自衛隊合憲化の可能性が消失。
まともな政治活動で、憲法改正を訴えろって。
三島の自衛隊国軍化の目的・・・天皇を中心とした伝統を守る為
まず「国民を守る」だろボケ。戦前みたいに天皇守護に献身しよう、みたいな社会は糞。
「天皇を守る」が建前の皇軍が、島民を無惨に害した久米島などの例もあるんだよ。
たかが写真を守る為に、死んだ者も居るんだよ。
三島の天皇存在理由・・・近代化、工業化へのアンチテーゼ
下らないな、そんな存在の為にるかよ。
武士ぶって皇国に魂を捧げたつもりの死?天皇万歳で死んで満足?
理念だけなら、労働者が絞られない社会万歳の方がマシだね。
もちろん欠陥が多々目立つ共産国には賛成しないが。

63 :
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。
この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。
それ自体としては、別に非難すべきことではない。
しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるConformity に疑問を抱いて、
むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。
一方、知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。
母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、
子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。
三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

64 :
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。
しかし私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、
一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、
いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、
私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。
これは日本文学のうち、優雅の伝統を特に私が愛するからであらう。
行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、尚武とサムライの伝統を
復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。
Self-justification は卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。
三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

65 :
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。
竹の刀を使ふこの武士の模擬行動から、言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。
自分の信念を守るために命を賭けるといふ考へは、Old-fashioned になつてゐた。
思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。
(中略)
しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、
学生ばかりでなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。
言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。
三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

66 :
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。
間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも
日本にとっては)日本といふ国のIdentify を犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。
しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、
正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。
ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、
この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、
あの第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。
日本人は不正規軍といふ二十世紀の新しい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。
三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

67 :
…私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を肯定することにはならないといふ立場に
立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の言葉なのである。
すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は戦争である」これが
毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理とちやうど反極に立つものである。
すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。私は戦後、平和主義の美名が
いつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理につながることをあやぶんできたが、
これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの理由である。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

68 :
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の
肯定が国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の
理論的前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮
しないからである。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

69 :
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、
軍隊と警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て
来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。
三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

70 :
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と
馴れ合ひ、ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私は
ニューヨークで、トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。
私は自民党の生きる道は、真のリベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国に
おける共産党の生きる道は、すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。
真にナショナルなものとは何か。
それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しないものだと思はれる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より

71 :
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。
権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも大切な秩序と、政治にとつて
もつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、われわれは「天皇」を持つて
ゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。
中共の「文化」大革命に決定的に欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、
強引な権力主義的な政治的秩序で代行するといふ、方法上の誤りを犯した。
文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、
共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的にかかはらうとする姿勢において、すでに文化をしてゐる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より

72 :
(中略)最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵にされる現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵をし、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵をすのは、日本人
としてのナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による人といへども、
人の責任は直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より

73 :
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵をしたのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。
第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの
群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらう
からである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。
しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとはさういふ意味である。
三島由紀夫
「『国を守る』とは何か」より

74 :
ってかもっと今できる世界平和について考えろ
ウズベキスタンという小国では日々大量の人間が投獄されている・・・
無論恐怖政治のせいだ。その中には無罪な人もたくさんいるのだよ

75 :
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

76 :
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

77 :
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。
…ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きて
ゐなければ成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

78 :
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代では
なくて、すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

79 :
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

80 :
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃く
のこつてゐた。
このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、
死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

81 :
二・二六事件の悲劇は、統師大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?
早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

82 :
昭和維新の歌  映画 『2・26』 より
http://www.youtube.com/watch?v=xtQNFqmGucM&hl

83 :
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。
このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児のやうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を
十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと思つてゐる。
安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より

84 :
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。
精神といふと、またいつもの精神主義かといはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の
「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が
大政治家として権力を握らなければ役立たない。そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが
「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より

85 :
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のこと
など考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より

86 :
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。
左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの
大きな力で状況を変へていく、といふのが基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、
左翼は一般にさうですね。
ところがわれわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた
状況から、初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より

87 :
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。(中略)
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

88 :
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。
精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、失はれた完全な
理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある「古代の完全性」への郷愁である、と。
精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにもかけはなれてしまひ、
社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。
ここから人間を取りもどすには、ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。
三島由紀夫「きたへる――その意義」より

89 :
苦しい思ひをしなければならぬ。
人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうにはできてゐない。
鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。
精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。
これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。
若いうちに、つらいことに耐へた経験を持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。
軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、一人一人の未来を決定するにちがひない。
三島由紀夫「きたへる――その意義」より

90 :
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)
新年に想ふのは「葉隠」の一章。
マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気をもちたい。
一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……
三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より

91 :
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。
なぜ多数を恃むのか。自分一人に自信がないからではないのか。
「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。
その少数の一人一人が、「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。
三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より

92 :
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より

93 :
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、
フィルターで濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かに
ひつかからないで出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。
三島由紀夫「日本とは何か」より

94 :
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄は
どうしても旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。
堀さんの小説の世界といふものは、完全に限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な
胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはりこの方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、
川端さんがストライキの小説を書いたといふものはひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり
肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より

95 :
(中略)
日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へてゐるんだ
といふ神秘的な共感を感じるんです。(中略)
私はやはり、安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。(中略)来年の六月の安保は
自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、表面上のかたちは
安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か反対かといふことは、
本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成
といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。
三島由紀夫「日本とは何か」より

96 :
私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ
鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、
アナーキストも出てくるでありませうし、われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。
しかし、われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないかと思ふんです。
(中略)
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
…かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、
あるひは行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐる
わけであります。
三島由紀夫「日本とは何か」より

97 :
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。
その滅亡は、一つの信仰の死である。
この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも
「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。
ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。
三島由紀夫「一読者として(吉田満著 戦艦大和ノ最期)」より

98 :
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、
東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。
もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でも
すこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。
もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より

99 :
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、
事実とイリュージョンとの合金です。
「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。
海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。
幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より

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