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2012年2月年代別74: 生まれてもいない時代だけど昭和30年代が気になる (228) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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生まれてもいない時代だけど昭和30年代が気になる


1 :01/06/03 〜 最終レス :12/02/02
ほのぼのとした時代という印象があります。
特に都会の生活に興味があります。
単なる幻影だとは思うけど。
そんな人っていますか?
ヘリコプターで広告をまいていた不思議な時代。

2 :
漫画でしかみたことないよん。

3 :
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=nendai&key=991249728&ls=50
こっちの人たち、見てるかも。

4 :
めだかと、トノサマガエルならたくさん見たよ。

5 :
ヘリコプターで「これは偽札です」と書いた偽札をばらまき、
日本経済を混乱に陥れようとする、ヨミの恐ろしき陰謀・・!
子供心にゴミが増えるだけじゃん・・って、こういう突っ込みをするのは40年代以降のこまっしゃくれたガキであって、それに素直におびえたお子さまが沢山いたのが30年代でしょう。

6 :
>5
そんなのいなかったぞ。

7 :
>6
だっけか?テキトーです、すんまそ。
ま、とにかく都会も道が舗装されていなく、みんな土踏まずが発達していた、30年代ということでは、どお?

8 :
堀も多かったなあ。

9 :
板塀がね。多かったよね。

10 :
そうですなあ。

11 :
あと街頭は裸電球で、ブリキの笠できまり!ですか。
ところで、わたしゃ30年代は完全に幼児だったんですよ。
ふはー・・もう寝ます。2さんおやすみなさい。

12 :
はい、バベル二世 さん
おやすみなさい・・・・・
わたしも幼児ってところでしたかねぇ、そのころは。
2では、40年代だと、勘違いした節も在りましたなあ・・・

13 :
岩波新書の『私は赤ちゃん』『私は2歳』を読むと、なんかほのぼのしてます。
都会の若夫婦の日常なんだけど。
ヘリコプターをはじめ、いちいちそそられます。
いわさきちひろの挿し絵もいいかんじです。
でも、この時代が転換期であって、その後日本の家族は崩壊していったのだなと思うと、複雑な気分にもなります。

14 :
うむ、家の歴史を見ても(アルバムとか)親類とかが頻繁に行き来してたのは、30年代ですね。それ以降は、通勤圏が広がったりで、だんだん疎遠になっていってしまった。
家の母は母が出なかったんで僕は粉ミルク飲んでたらしいんですけど、大きくなって(s45~)からほ瓶派は人間が軽薄で冷たいとかとかよく言われました。たまたま森永じゃなかったらしいんですが・・なんとも人生の分かれ目としか言い様がありません。同じ学校にはいなかったですが、サリドマイドの人も同年配がピークだったと思います。s37です。

15 :
そう言えばガキ大将ってのがいて
小さいのから大きいのまで面倒みてた。
其の後みんな塾にくようになっていなくなってしまった。

16 :
うんうん、ガキ大将って必ず棒持ってた。

17 :
昭和32年生まれです。
1さんは好みが良いと思います。
私の来し方を振り返ってみても、世の中全体に良い雰囲気だった。
関西にいましたが、神戸などハイカラの極みでした。

18 :
そうでしたか。わたしは新潟です。
とにかく堀が多かった・・・

19 :
「単なる幻影」とは言うものの、私には確かに在った幻影です。
神戸に家族で「お出かけ」する時はきちんと革靴を履いて行きました。


20 :
そうですね。
家族というものに、迷いがなかった時代というべきか。
そんな気がふっとしてしまいますね。
いいときにこどもじだいを送らせえ貰ったかもしれませんね。


21 :
>2さん
塀ってあんまりみたことないですね、やっぱ。
コンクリートの塀ならありますけど、サザエさんにでてくるようなのはないです。
どぶはありまして、よくはまってました。
ちなみに私は昭和51年生まれです。
>17さん
関西での当時のお話をもっと聞きたいです。
しつこいですが、『私は2歳』のお話も関西の設定のようなので。


22 :
姫路に住んでいたものの、父母は関東の生まれで、親戚も総て関東に集ま
っておりました。
それで、関西と関東の間の行き来は経験した方かと思います。
東京へは寝台車、急行銀河で行きました。姫路を出るのが夜7時10分頃
だったと思います。車両の色はあずき色でした。確か電気機関車が引っ張
っていたと思います。
映画のオリエント急行人事件では夜に出発を待つ列車のわくわくした気
分が伝わって来ますが、乗り込む時はまったくあの気分でしたよ。子供で
すから、すぐ寝入ってしまいます。夜中にふと目が覚めて、どこか駅に停
まっているらしいと知ると、窓の厚手のカーテンの隙間からそっと外を伺
います。静かな中に「沼津〜。沼津〜」などという声が外から聞こえて来
て、「ここは沼津っていうのか…」、という具合です。東京へは朝8時頃
着いたように思います。
地球儀のような形の水色の森永のネオンサインがあったのはどこだったかな。

23 :
40年になると、堀はなくなってきましたね。

24 :
東京から川が少なくなったのはいつからだったのでしょうか。
今、川が江戸時代のように多ければ、素晴らしいと思います。

25 :
輸送手段も変わってきましたしねえ。
堀・川も減りましたね。

26 :
昭和30年代の末に生まれたんだけど、子供の頃と今とでいちばん違うのは、
道の舗装具合だね。車が通れないくらい狭い道は、土が多かった。
それと差別する気じゃないけど、あのころは極端に貧乏な家の子がクラスに
2人くらいはいた。(東京)

27 :
新幹線が出来る前は東海道本線を使っており,列車もひかり号のような
目を回す速度を出さないので,線路わきの距離標を数えながら「何キロ
のところまで来た」なんて数えながら旅行を楽しんでいました。
距離標というのは,高さ1メートルくらいの白い細い四角柱で,
例えば1/2という数字の下に23とか書いてあるものです。
1.5キロ毎に立っているから,1/2という数字のあるものと無いもの
が交互に現れます。


28 :
俺が30年後半なので、テレビが白黒からカラーになったの覚えてるぎりぎり
かも。サザエさんで、「カラーでお送り致します。」って、サザエさんが言ってた。


29 :
>17さん
いいですね〜
夜行列車って乗ったことなくて憧れます。
カーテンからそっと覗く見知らぬ駅、ムードがありますね。
森永?なんでしょうか?なんだか幻想的ですね。
名古屋にはコカコーラの丸いネオンがありますが…
新幹線が通る前の電車の旅はこういう夜行が多かったのですね。
松本清張の『点と線』を読んで、乗車時間の長さにびっくりしました。
今は飛行機でひとっとびと便利だけど、ちょっとさびしいものもありますね。

30 :
>>27
ちょっと記憶違い。父に確かめましたら、姫路から出発でなく、急行銀河は
神戸発だったそうです。「神戸駅」があったかどうか聞き忘れましたが。
それから、夕刻近くに出発するのは間違ってないが、東京着は朝7時より
は早かったそうです。

31 :
http://plaza8.mbn.or.jp/~60net/9609.htm
このURLにビラを配るヘリコプターのことが少し書いてありますね。
私は記憶にありませんが、父はそういうのがあったと申しております。

32 :
都市中心部まで電車で10分レベルの比較的都会の地域でも、
駅前のバス通りですら未舗装だった。


33 :
車のオイル漏れが多かったな。
水溜りがあちこちにあって、そこにオイルが
浮かんで広がって、虹色に反射してた。

34 :
「日の出号」って知ってる?
あれは、いつまであったんだろう?

35 :
どうやら森永の地球儀型のネオンサインは名古屋だったようです。
http://flightinfo.ens.ne.jp/tmurakam/fsnote/980329.html
↑ここに絵があります。水色と思っていたけど、違ったかな。

36 :
>34さん
日の出号は乗ったこともなく、知りませんでした。修学旅行専用列車ですね。
1959/04/20 東海道本線に,修学旅行専用列車「ひので」「きぼう」号運行開始
という事のようですが、終わりはよく知りません。昭和45年くらいでしょうか。
鉄道@2ch掲示板 http://piza.2ch.net/train/index2.html
で分かるかも知れませんよ。


37 :
>17さん
えっ?17さんの言ってるネオンって銀座5丁目のヤツのことじゃないの?
確かに名古屋の大昭和ビルにも平成7年?くらいまでありましたけど、銀座
のが全然有名ですよ。服部(現和光)の時計台とともに銀座のシンボルとして
当時の雑誌、映画によく出てきました。篠田正浩監督「瀬戸内少年野球団青春
編 最後の楽園」(1987)にも夕闇の空に森永のネオンが輝き出すシーン
が印象的に使われていました。(但しセットによる再現)
1953.4.11 銀座、不二越ビル屋上に東洋一の森永ミルクキャラメル、チョコ
レートの地球儀型大ネオンお目見え。(某年表より)

38 :
>37さん
たしかに銀座のも有名です。しかし、名古屋の「大名古屋ビルヂング」という
駅前のビルの屋上には、今はコカコーラのに変わっていますが、昔は
森永ミルクキャラメルの地球儀型大ネオンがあったようです。
検索エンジンで大名古屋ビルヂングをキーワードにして調べてみてください。

39 :
私が見たのは通過駅のだったと思います。
そうすると、名古屋らしいと思うのです。

40 :
>1さん
「私は2歳」は映画化され、その年(1962)のキネ旬ベスト1になって
たのをご存知でしたか?私もずいぶん前に名画座で見たきりですが、ビ
デオ化はされてるのかなぁ。↓にちょっとデータを入れときますので、
機会があったらご覧になるといいですよ。
「私は2歳」
監督:市川崑
製作:永田秀雄 市川崑
原作:松田道雄
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
美術:千田隆
           
出演:鈴木博雄/山本富士子/船越英二/浦辺粂子/渡辺美佐子/岸田今日子
団地に住む若い夫婦に待望の男の子が生まれた。両親はもとよりお婆さん
までも大騒ぎ、といった日常を淡々と綴った作品だが、なによりユニークなの
は赤ちゃんの独白の形でナレーションが入ること。赤ん坊ははたして両親の愛
情をどう見ているのか、という視点が面白い。 松田道雄の育児評論の映画
化。2歳の赤ちゃんが主役という、映画史的にも珍しい作品ができあがった。
その赤ちゃんは3200人のなかから選ばれた鈴木博雄ちゃん。題材が意表を
突いたうえに、一種の社会批評の観点も兼ね備えていて、キネマ旬報ベストワンに
輝いた。ちなみに市川監督は同4位に「破戒」も入選するなど大活躍の’62年
だった。

41 :
乱女教師
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec059.jpg
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec058.jpg
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec001.jpg
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec021.jpg
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec029.jpg
http://www.love-picture.net/couple/wifec/wifec054.jpg


42 :
昔は暗くなるまで,いや,目が慣れるので,暗くなっても友達と外で遊んでました。
その内,「○○ちゃん,ご飯よ」なんて,どちらかの母親が呼びに来るのだ。

43 :
急に思い出した。
今の子供は店に入って、店の人を呼ぶ時「すみませ〜ん」って言うけど、
俺が子供の時は「ちょーだいな〜」って言っていた。(東京)
もっとも俺が子供の時はコンビニなんかもちろん無く、小売も大資本はデパート
ぐらいで、町のお店の形態は今と全然ちがうけどね。
みなさんの所では、なんて言っていたんですか?
ついでに別件。
閉館した池袋の映画館の文芸座、新文芸座として復活したね。なんか嬉しい。

44 :
あのコカコーラがちょっと前まで森永のネオンだったんですか。
なんだか意外です。
あと、『私は2歳』が映画化されてたなんて全く知りませんでした。
ビデオ探してみたい…けど今はちょっと多忙で無理です。
夏頃に一段落したらビデオ屋にいってみることにしよう。
でもこのへんエロビデオ屋しかないのが悩み。
オイルの話で思い出したのですが、昔実家に汲み取り式のトイレがあって、バキュームカーが来てたんですけど、その去ったあともやっぱり毒づいた虹色だったのを思い出しました。
お食事中の方ごめんなさい。

45 :
大名古屋ビルヂングって屋上に色んな物が乗っていそうな感じですが、
どうなのでしょう?
昭和30年代はデパートの屋上は子供にとってはお買い物から解放され
た後の待ちに待ったお楽しみの場所でした。
汽車に乗りたいだの、船に乗りたいだの。

46 :
いや、今はコーラだけだと思いますよ。
とっても象徴的です。
ところで、今名古屋のケーブルテレビでやってるドラマにちょっとはまってます。
木曜夜中にやっている『風と木と詩と』という白黒のもので、昭和30〜40年代だと思います。
木暮みちよさんとかが出てます。
風俗なども興味深いですが、ドラマ自体からただようほのぼのとした雰囲気にとてもいやされます。
お手伝いさんが主人公の青春もの、という設定からして新鮮です。
でも、来週から多忙になるので、もう見れないでしょう…。

47 :
私はまだ19になったばかりなので昭和30年代のことはよくわからないけど、『夕焼けの詩(うた)』(だったかな?)というマンガを読んで30年代を訪ねてみたくなりました。

48 :
昭和30年代の写真集がよく本屋さんに置いてありますね。
種類もいくつかあるようで、人々の関心が高いのかな?
祝日には当然のように国旗を揚げていたし、そういう点は
のびのびしていたと思います。

49 :
モノクロ時代

50 :
32年生まれです。
ここを見て友達の家に遊びに行くとき「あ〜そぼ」と玄関で呼んだのを思い出しました。
23区内に住んでいましたが、電話のある家が少なく、急用は電報で来ました。
父の職業がマスコミ関係だったので、帰りの遅い日は、ラジオのニュースを聞いて、
「あ、どこそこで、落盤事故だ」とか、のどかでした。確か、電話線が来ていなかったようです。
周囲は一面の田んぼで、春にはれんげ、前の水路でどじょうがとれました。
変わりだしたのは、東京オリンピックあたりからかな。

51 :
35年生まれです。
小学校2年生の頃練馬区に住んでいましたが、
北田中(現三原台)には大きな雑木林が有り
夏の朝早起きしてクワガタやカブトムシを捕りに
行ったものです。
キャベツ畑のキャベツには青虫がたかり
神社や近所の空き地で暗くなるまで三角ベースの
野球をしました。あ〜懐かしい
でも、関越の工事の頃から急激に変わりましたね〜

52 :
やっぱりオリンピックの頃から変わっていったんですね。
高度経済成長前夜?その頃が一番興味ある時代です。
ファッションも好きですね。
今のように服は買うものというよりつくるものだったと聞いています。
裁縫のできる人には憧れますが、私が当時の若者だったらさぞ苦労したでしょう。
でも既製服でないということは、流行の仕方も今とはちょっと違うのでしょうか?
流行の型紙が出回るということなのかな?

53 :
 雑誌に洋服の図が寸法の指示とともに記載されており、母がそこから
型紙を作っていたのを覚えております。型紙はデパートの包装紙を利用
していました。ブルーの色鉛筆のようなもの、形はホテルの石鹸を二ま
わり小さくしたもの、で包装紙の裏に型を取っていました。それから、
あれは何に使うのでしょうか、鉛筆くらいの長さの柄の先に、直径2cm
ほどの歯車がついた道具。やはりそれで作ろうとする服の曲線に合わせ
て線を引いていたと記憶しています。75cmの竹の物差しや下敷きにする
大きめの板もお馴染みの道具だったような気がします。足でミシンを動
かして服地を縫い合わせておりましたよ。自分の洋服もそうですが、子
供達の服も作っていました。私にも白い柔らかな布地の、ノラクロに似
たイヌの顔のワッペンのようなのが左胸に付いたのがありました。

54 :
懐かしい話題ばっかり。
日の出号って確か32年早生まれの代まであったような気がする。
文芸座の復活! 嬉しい! まだ旧会員証とってあるよ。
ついでにビデオ屋さんも復活してくれるといいのですが。
>51さん 幼児体験、めっちゃご近所! 南田中(現・高野台)は
同じ学区域だった。まだ田圃も多くて、先生に「明日の理科の時間、アオムシの
観察するから持って来てくださーい」って言われると、「ハ〜イ!」って。
キャベツ畑の青臭いにおい、好きだった。

55 :
1955年-1964年までか
映画とラジオが全盛期の中新しいメディア"テレビ"の普及、
マンガも勃興してきてるけど小説もまだまだ元気があった、
、、、この10年よりも恵まれているかもしれない。

56 :
上野に初めて行った時は
出発一週間前から 友人と東京の話で盛り上がったよ。
イメージだけで夜遅くまで討論したもんだ。
当日電車に乗って出発するまでの時間はなぜか涙が出た。
その時の気持ちは未だに鮮明に覚えてるよ。

57 :
 上野は長いこと東北への玄関口でしたね。関西から上って来てそのまま
北関東や東北に向かう場合,必ず東京から上野まで国電を使いました。
その辺りの線路沿いの石造りの壁は今も昔のままですね。上野駅に到着す
るほんの少し前に西郷さんの像がちらと見えるのが楽しみでした。
 東海道本線を使っていた頃,大船で巨大な観音様が見えるのも楽しみでした。
♪横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるゝ大船の
つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん♪

58 :
53=17さん
ブルーの…石鹸を…ってチャコのことかなぁ?
それから歯車のついた…って、ピザのカッターみたいなのですか?
あれも布に色を着けず印を付けられるので、今もお裁縫箱に入ってる。
昔は、「装苑」みたいな本が今のファッション誌の代わりだったのでしょうね。
小学生時代、「定規は絶対に竹尺」って先生に言われた。
「金属製やプラスチック製は熱で狂う」という頑固な先生でした。
子供の頃は、渋谷駅のホームからもハチ公が見えた気がする。

59 :
そう、裁縫箱の中のルレット。
針指しの中身が人毛で、錆びないって言う理由。
週刊新潮(だったと思う)の表紙がオードリーヘップバーンみたいな外人モデルで、
オーダーメイドのような物を着ていた。

60 :
私も使いましたよ〜、チャコペンもルレットも。
子どもの頃針山の中の入っているものが髪の毛と知って、なんだか無気味な気分になりました。
でもほんとうに髪の毛なんですか?
すごい剛毛だと思ったんで…。

61 :
そりゃもー、ぜったいに毛髪でしょー 針の油は・・
うちのお祖母ちゃんもそうしてたし、由利透さんだって・・
私ですら、母に習って髪の毛入りの針山作りました!
昔、セーターをほどいた毛糸を湯通しして
もう1回、編み直してたくれてたお母さん、っていらっしゃいますか?

62 :
ご近所にこんな人いませんか
40歳を超えました 女
http://kaiji.site.ne.jp/gbbshp2/gbbs11/img/28.jpg
http://kaiji.site.ne.jp/gbbshp2/gbbs8/img/24.jpg

63 :
>>61
昭和33年生まれです。
母親がセーターほどいて、ラーメンみたいになってる毛糸を湯通しして、
干して編み直してました。
毛糸を巻くのに両手にかけて手伝わされたのがちょっとイヤだった。
編み機があって、ガッガッガッって感じで編んでました。

64 :
まあ!素敵なスレですね。46年生まれですが、ダブルことも多いです。
ここにくると今は失われたいいものがいっぱいあって、
ノスタルジックでイイ!!!

65 :
>43
はいはい!「ちょーだいな〜」って、言ってましたね!微妙にメロディをつけて。
あと、友人宅に行って遊びに誘うときは、「あーそびーましょー」。
私は昭和39年生まれなんですが、昭和30年代のものは妙になつかしいですね。自分
の世代のものでは無いのに。たぶん、小さい頃はまだまだ昭和30年代のものが残っ
ていて、でも物心つく頃には高度成長時代がはじまっていて、それらが次々作り変
えられて無くなっていく情景を目の当たりにしているからではないかと。昭和30年
代は、戦後日本の原体験的情景というか。
高度成長時代に作られたものって、安っぽくてセンスがなくって、正直スキじゃな
いです。

66 :
もう戦後ではない、と新聞で言っていたけど、まだまだでした。
私の育った街には進駐軍がいましたから、中心街は、伐としていました。
物がなく、つつましい生活でした。中学のクラスが62名もいた。
昼に弁当を持ってない子がいた。修学旅行の写真を、見ると写ってない子がいる。
参加できない子がいたんです。女子で大学進学した子はゼロ。小学校の同級せい、32名で二人。
先生も軍隊帰りがいて、よく殴っていた。廊下を走っていただけで、全員張り飛ばすのだ。
いい先生も多かったけど。
男女交際も、今より情報不足だから、かわいいものだった。先輩の口伝しかなかった。
後年、聞いてみると、進んでたやつは、しっかり女性に関する知識をもち、実行してたらしい。
私は初デートでは、暗い町をウロウロあるいただけ。その後興奮さめやらず、二晩ねむれなかった。

67 :
私も39年生まれですが、懐かしい話ばかりですね〜。
関西の閑静な住宅街(の近く)に住んでいましたが、
近所の空き地には何故か牛がいました。(誰かが飼っていた?)
夏には水槽をリヤカーいっぱいに積んだ「金魚売り」のおっさん、
夕刻には「ぱふー」と自転車(バイクではない)に乗ったおとうふやさんも来ました。

68 :
『私は2歳』は必見です。
テレビで4、5回みました。
団地が懐かしいの。

69 :
昭和26年生れです。
東京23区内で、生れ育ちました。
昭和30年〜昭和32年位までは、主要道路以外は舗装していないところが多く、
路地で、道路にロー石で、画を書いたり、ケンケンをしたりしました。
欧米、特に、100%舗装路のイギリスの例が良く出され、瞬く間に舗装化が
進みました。昭和33年から昭和35年位までには大抵の道路が舗装化されて
しまいました。
また、原っぱも、あちこちにあり、おそくまで、三角ベース野球、鬼ごっこを
したり、素朴な遊びが多かったですね。
原っぱに、紙芝居屋がやってくると大騒ぎ、紙芝居屋から、水飴などを買って、
ワイワイガヤガヤ見ていました。私は、腸がよわく、駄菓子を買って食べて、高熱・下痢(疫痢)になり、
死にかけたので、駄菓子を一切買うのを禁止されていました。
そのため、大抵、タダ見はだめだよ!と、紙芝居屋に言われるのですが、
馴染みの紙芝居屋は事情をだれかからきいたのか、何も言わず見せてくれました。
昭和32年に、我が家にも、14インチの白黒TVがやってきました。月光仮面をどきどきしながら、みました。
番組は、アメリカからの輸入物が多く、漫画の「ヘッケルとジャッケル」、ホームドラマ「パパは何でも知っている」(長女ベティ! 長男バド!、
末っ子キャシー!)等を好んでみていました。
買った当初は、ご近所の家族や、私や姉の友人達(多いときには10数人)が
やってきて、一緒になってみていました。時には、飛び入りの人達と晩御飯も一緒になり、母はてんてこ舞いしていました。
公園の街頭TVに毎晩、大勢の人が集まる時代でした。
そのうち、国産ドラマも沢山始まり、NHKの「バス通り裏」、バラエティー
「お笑い3人組」「ジェスチャー」「私の秘密」、「夢で会いましょう」その他「少年ジェット」「まぼろし探偵」「七色仮面」「ナショナルキッド」
「海底人8823」等、月刊漫画のい主人公が続々ドラマ化されました。
漫画は、昭和34年まで、月刊誌しかなく、「少年画報」、「ぼくら」、「少年」
「少年クラブ」等を愛読していました。
雑誌の付録が、すさまじく、紙戦車、紙ロケット、紙ミサイルなど、
初期は7大付録等であったのが、昭和33年頃には各誌21〜27大付録と
競い合っていました。
これらの月刊誌も、昭和34年に「少年サンデー」「少年マガジン」が
創刊されると、消えていきました。
私も、両週刊誌の創刊号を買った後、月刊雑誌の定期購読をやめ、
両週刊誌を交互に定期購読するようになりました。
60年安保で世の中は騒然としていましたが、子供は、のびのびと
遊んでいました。
1960年(昭和35年)は、大変な好況(岩戸景気?名前忘れました)で、
「黄金の年」と言われていました。
大晦日の紅白歌合戦か、レコード大賞のような年末特別番組で、
アナウンサーが「黄金の年、1960年よ! さようなら!」と
叫んでいたのを今も覚えています。
東京でも、近隣のものが寄り添って暮らす、ほのぼのとした時代でした。

70 :
インスタントラーメンは5個くらいが一つの袋に入っていました。
テレビには脚がありました。チャンネルはガチャガチャ回していました。
冷蔵庫にはカギが、洗濯機には手回しの絞り機がついていました。
お米の通帳ってのがあって決まったお米屋さんに配達してもらいました。
ソフトクリームは不衛生だからと食べさせてもらえませんでした。
三ツ矢サイダーはありましたがコカ・コーラはありませんでした。
トイレでは「ちりがみ」を使っていました。新聞紙も時々。
服が破れたら継ぎ当てをしていました。
ビールやジュースは、冷えているのといないのとでは値段がちがいました。
コンクリート製でふたのついたゴミ箱にごみを出してました。
電話を持っていないひとは「呼び出し」のお世話になっていました。
街灯はスイッチがついていて、点灯する当番がいました。
シェパードやブルドックはいましたが、ハスキーはいませんでした。

71 :
ひさかたぶりに訪れてみたらまだまだあってびっくりしました。
もうとっくに倉庫入りしたと思ってたので。
興味深いお話がいっぱい書き込まれていますね。
タイムスリップしたいです。
ちなみに上の方で映画『私は2歳』のお話をされた方へ
少し前に衛星か何かでやってたんですよね。
うちは衛星みれないもんで、いつかはビデオ屋で探してぜひみたいです。
ところで、最近皇室慶事のニュースでこのころの映像がよく流れましたね。
私は普段は皇室ニュースに興味はないのですが、『皇太子妃美智子様』が出るとつい見てしまいます。
今見てもとても魅力的です。
ファッションも当時の流行最先端らしいですし。
布をたっぷり使ったスカート(ドレス?)とか、これまたボリュームたっぷりなまとめ髪とか(どういう構造なのかよくわからないのですが)。
現代の目からは新鮮にうつるものです。
それともこのころの風俗が普遍的なのかな?

72 :
成績が上がらない塾にお布施しないために・・・
■合格実績エサ型の塾■2ちゃんねる
http://school.2ch.net/test/read.cgi/edu/1005586907/
■合格実績エサ型の塾■ Yahoo
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834899&tid=a2a39g3jbcbc0sa5a8a557bfa4nbdna2a3&sid=1834899&mid=1&type=date&first=1

73 :
age

74 :
そういえば紙芝居のおじさんが自転車で夕方頃、子供の集まるのを待って
いろんなお話していたな。紙芝居が終わるとみんなそれぞれの家に帰り
夕御飯を食べて、、、小学校の頃は毎日近所の子供と遊んでいた。塾なんて
そろばんくらいのものだった。

75 :
ほのぼのなんかしてなかったよ。幻想です。
家庭教師は週3回くるわ。習いたくもないピアノやらされたし。
バレエはさすがに拒否したけど・・・忙しい毎日でした。
駄菓子屋は行かせてもらえなかったし・・・汚いから・・・
そのかわり、高校、大学とめいっぱい遊びましたけど。

76 :
>1960年さん
“お稽古事”や“衛生”面での各家庭の違いが大きくなった時代でもあったのかな、とも思います。
それまでの封建的な家庭像から、新しい家庭像の在り方を模索しだした時代で、
それが例えばお稽古をさせるか、何を食べさせるかなどの教育方針の大きな転換期となったかと。
当時を経験していないほのぼの幻想派なんで、ほんと、想像にすぎんのですが。

77 :
自分は、東京の城北で生まれました。
そこは城南の大田区と同じように町工場が数えきれないほどある町で、
町のブロックごとで変化する機械油や印刷インキ、ゴムのニオイ、
鋳物の焼けた金属臭などのおかげで、たとえ目や耳を塞いでいても
自分がドコにいるのか分かるようなトコロでしたネ。
また、騒音も相当なものでプレスの音、バフがけの音、旋盤の音などの
機械音に混じってオート三輪や発動自転車(自転車にエンジンを付けたモノ)の
吐き出す音や工場のサイレン、工員さんたちの木のサンダルの音などが
いつも元気良く響きわたっていました。
ですから年二回のお盆とお正月というふたつの期間は、逆に無音感が妙に
際立ち過ぎて子供ながら町に不思議な寂しさを感じていました。
30年代は、戦争直後の混乱がおさまってから5〜6年は経っていましたが
まだ様々な部分では戦前、戦中、戦後の「事情」が色濃く残っていましたので
とにかく「語る」には面白い素材ですネ。
これから少しづつみなさんのお話の流れにそってお話をさせていただこうと
思いますので、よろしくお願いします。

78 :
>>77
小説を書いてみたらどうですか。
思い出の記憶の扉をたくさんお持ちのようですね。

79 :
親たちの生活は今よりも苦しかったはず。
靴下もセーターもスボンも「ツギ」があたっていて普通。
だけど、今みたいに息苦しい雰囲気は無くて「あっけらかん」としていた。
国電の中の傷痍軍人が妙に恐ろしかった。

80 :
age

81 :
小学低学年の頃、テレビの前面に水の入ったレンズのような分厚いガラスを当てていたような気がする。また、見終わったら緞帳のような布で画面を覆っていたような気がする。
By昭和30年生まれ。

82 :
私も昭和30年生まれ。森永ヒ素ミルクの年です。
サリドマイドのエンゼルベビーは小学生の頃かな?
大阪の長居スタジアムの側に住んでました。
あそこ、当時は競馬場でした。東京五輪に合わせて公園にして競技場を作ってた。
地下鉄の駅のところの道路は舗装もしてなくて、雨が降るとひどいぬかるみでした。
車なんてほとんど通らなかった。
雨が少ないので、ため池と真っ黒な風車があちこちにあった。
友達を遊びに誘う時は「あ〜そ〜び〜ま〜しょ」
学校などへ行く時は「い〜き〜ま〜しょ」と言って誘い、
お店に入る時は「おばちゃ〜ん」か「ちょうだ〜い」
そう言えば幼稚園で駆け足する時はワケも分からず
みんなで「アンポ、ハンタイ」と言いながら走ってました。
TVが我が家に来たのは昭和33年。
皇太子御成婚を見る為かと思ってたら、「私は貝になりたい」の
再放送に合わせて買ったと、後に親が言ってました。
幼稚園の時にストーブを買う迄の暖房は火鉢! 冬は厚い下着を来てましたね。
流行は主に洋画がお手本だったのかなぁ?
洋服は母親の手作りの他、従姉妹や姉のおさがりとか着てました。
時々停電とか断水とかあったのが、まだ戦後って感じ?
あ、庭でスピッツを飼ってた!

83 :
城南生まれです。
小学校の時に近くの商店街にアーケイドがつきました。
6の日の縁日が雨でつぶれないので、嬉しかった。
子供の日は銭湯が菖蒲湯になったり、1月2日は朝風呂になったり、
お祭りの時は券をもらって入りに行きました。
小学校には二宮金次郎の石像があり、
教室の廊下側には木枠のガラス窓があった。
ヘリコプターからのビラ、なんとなく覚えてます。

84 :
小学校低学年の頃の運動会で、ワラジを履いたような記憶がある
のですが・・・。
30年生まれです

85 :
84ですが
ワラジではなく、足袋だったよ。

86 :
運動たびですね!!

87 :
当たりが出るともう一本もらえる、銀紙に包まれた棒状の
四角いアイスクリーム覚えてる?
ヘラのような棒に「ヒット」「ホームラン」とか書いてあった。
お菓子屋のおばちゃんの顔を思い出してしまったゼヨ。 
運動たびはアッという間に破れたような想い出がある。

88 :
>四角いアイスクリーム
覚えています。
真夏、中学の部活の後にコーチが必ず買ってきて
みんなで食べたのを思い出しました!なつかし!!

89 :
前の方を読んでみると、共感できる懐かしい想い出が
山のようにあることに驚いています。
子供時代のおもちゃや漫画雑誌の話・・
暗くなるまで原っぱで遊んだ想い出・・
文芸座・文芸地下は学生時代、私もよく行きました。
しばらく書き込みがなかったようですが
また復活したいですうう

90 :
東京在住です。

34年頃、ウチの両親はテレビを買うために郵便局へ8万円おろしに行ったら
現金が無く、翌日まで待たされたと聞きました。

セスナ機が煙をポッポッと吐きながら空に宣伝文を描いていたのを思い出します。

両親の田舎(新潟)では、なぜかみんなキセルでタバコ(刻み)を吸っていました。


91 :
そう言えば、アドバルーンもめっきり見なくなりましたね。
郵便局といえば、子供の頃は記念切手を集めるのが流行りましたね。
私も記念切手の発売日に、郵便局の前で並んだ記憶があります。
枠に大蔵省の文字が印刷された部分は価値が高いとか・・
私も東京(郊外)で育ちましたが、近所には空き地や芝生の畑が
散在し、有刺鉄線をくぐり抜けては、三角ベールボールなど、色々な
遊びに興じました。地主のお百姓さんに怒鳴られ、一目散に逃げるの
も愉しかった。
もはや勝手に遊ばせてくれる空き地や芝生など、東京にはどこにもあ
りませんよね。スポーツを楽しむのも、部活やクラブで大人に管理さ
れるしか方法がなさそう。
言い尽くされたことだけど、昔の子供は子供らしかったです。
(長くてゴメソ)

92 :
東京在住。
ところが最近多いんです、アドバルーン。
マンションやビルが多くて近くに行かないと見えないのに
なんででしょう。
有刺鉄線で服を破いたり、怪我したり、よくやりました。
傷痍軍人。すっかり記憶の中から消えつつありました。
手足がない人がゴザにすわり、もう一人がハーモニカを
吹いているのを思い出しました。街角にかなり多く居ました。

93 :
私は1559年生まれですが、小学校に上がったあたりでも傷痍軍人いました。
戦争が終わって20年も経っていたのに。軍服を着て前に空き缶を置いて
後ろには立て看板のようなものに、何か書いてありました。
小さかった私は親に聞いた覚えがあります。

94 :
日本における中国人の犯罪が後を絶ちませんが、
私が問題にしたいのは、日本国籍に帰化した中国人についてです。
日本国籍を取得する際に、反日的な傾向がないかを調査するのだそうですが、
彼らは、まんまとそれを隠し通しています。
そして彼らの子孫、2世3世へと反日教育を徹底していると思います。
(日本人に対する残虐非道ぶりに罪悪感が感じられないところからその憎悪が窺えます)
一見普通に市民生活を送っている日本人ですが、
彼らは日本人に対して国益に反する様々な工作をやっています。
数百万人規模のネットワークを駆使して、老若男女が総動員で事にあたっています。
(監視、情報収集、意識操作、いじめ、誹謗中傷、嫌がらせ、尾行、挙句は集団ストーカー)
皆さんも例外なく、小学生頃から学友らに工作を受けていることは断定できます。
たとえば、真面目な日本人には不真面目になるように誘導します。
要するに、彼らの中の選り抜きにエリートコースを行かせて要職に就かせる狙いでしょう。
そうです、日本の役所、自衛隊や警察、教師、マスコミに反日の人間がうようよいます。
大変、危機的な事態です。
困ったことに、彼らが日本の苗字を名乗っているために、
普通の日本人と見分けがつきません。
皆さんも特定できれば、「えっ、あいつが?」となります。
それをいいことに、彼らのやりたい放題という現状です。
日本には猟奇的な事件で迷宮入りになったものが多々ありますが、
この勢力によるものだと思います。
彼らは治外法権、手が出せないようです。
日本人は事故やトラブルを装って、次々葬り去られています。
いわば、日本人になりすました連中から一方的に侵略されている格好なのですが、
こういう事情を知ってか知らずか有事法制に反対する社民共産は売国奴である、
とは相応の判断と言えましょう。
最後に言っておきます。
彼らは三文芝居の名手であり、
日本人は戦後から永らくの間、一杯食わされつづけているのです。
PS、創価学会に多数紛れ込んでます。

95 :
>93
昭和36年うまれです。傷痍軍人、普段街中で見かける事はなかったけど、
お祭りや縁日の時とかには、時々見かけました。
両肘から先を切断の傷痍軍人が、ござをしいて、四つんばいになって
泣いていたのが印象に残ってます。アコーデオン伴奏とセットでした。
今思えば、演技でしょうけどね。なんだか恐ろしくて正視できなかったのを
覚えてます。
すぐ隣では、お面とか風鈴とか売ってたりしてね。



96 :
昭和33年生まれですが、うちは貧乏だったなあ。
母親がやってた内職、お土産用の小さな飾りものだったけど一つ仕上げて10銭だった。
かまどでご飯炊いてたし、七輪使ってたし、テレビずーっとなかったし。
まわりの大人はお金がなくてがつがつしてて、こすっからかった。
ガキ大将みたいのもいたけど、ずいぶん陰惨ないじめっこだった。
校庭に捨てられた子猫なんか、必ずいじめされてたしなあ。
暗い思い出ばっかりで申し訳ないんだけど、今の日本の方がずっとましなような気がする。

97 :
昭和30年生まれです。
実家では子供の頃、月遅れのお盆をしていた、確か旧盆などと言っていた記憶がある。大人になってもしていたが実家を出てマンション暮らしを始めてからは全くご無沙汰で、はっきり覚えていない。親が細々と慣習を続けていたのだろう。今でもしているのだろうか。

昨日、道を歩いていると送り火を終えた盆飾りが門の近くに置いてある家の前を通った。不思議なことに、その盆飾りには馬に見立てたキュウリの飾り物がなかった。一頭?ポツンとナスで作った牛だけがいた。
キュウリの馬は、もう既に腐敗してしまって姿形が無くなってしまったのだろうか?それにしては、残骸らしき物も無かった。
この送り火を終えた盆飾りを見つけてから、他にもあるか意識して門の近くを見て歩いたが、他に一軒しか見かけなかった。お盆の習慣も昔、田舎だった都会からも無くなってしまうのだろうな。


98 :
昭和32年早生まれです。
開発されたばかりの新興住宅地に住んでいたので、林や原っぱがまだまだ残っていた。
道路はアスファルトじゃなかったので風のひどい日は、土埃で空気が赤茶色だった。
雨上がりの水溜りにそろりそろりと入るのが楽しかったなあ。
新興住宅地は核家族ばかりだったせいか、お盆は皆さん郷里に帰っちゃうんだよね。
だから送り火とか迎え火は大人になるまで見たことがなかった。気づかなかったのか?
ある夏家族旅行の帰りに厚木という所を通った。山沿い地域で田んぼなんかも
あっちの方に広がっている。どこの家の前にも四角い箱の中になにか綺麗なものが入っている。
母に電話で報告。
「何かお祭りでもあったらしくて、どこの家でもこういう形状の綺麗なものを入れて
家の前に飾っていた。あの地域限定で売ってるんだろうね。」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ。それ送り火よ。」
「よく知ってるね。私見たこと無いのにお母さんはあるの?」
「実家でやってた。そういえばうちは迎え火の翌日にお婆ちゃんちに行って、
送り火をやる前に帰って来ちゃったから、あんた達は見たこと無かったっけ。」
いまだに迎え火、送り火の残骸である綺麗な箱しか見たことありません。

99 :
33年生まれです。
大阪の南の方で育ちました。
>87
私も四角いアイスクリームは覚えてます。
あの頃は,アイスクリームにも当たりつきってのが良くありました。
おかげで、今でもアイスクリームの棒を確かめる癖が残ってます。
「お小遣い」って皆さんいくらくらい貰ってました?
私は1日10円でした。
当時は10円で、たこ焼きが4個買えました。(今じゃ200円くらいいるかな?)
駄菓子屋には「バクダン」ってよばれていたアイスキャンディーが売ってました。
1個10円。 このバクダンだけは、他のアイスクリームやアイスキャンディー
なんかとは別の容器で売っていた。
私はこれの「黒糖」味が好きでした。(食べると舌がその色に染まりました。)

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