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2012年3月日本史68: 「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓 (144) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓


1 :
 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。
 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html
上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg

2 :


3 :
別にこの記事の時代に、もう日本の国号使って居ても、別段驚かないけどね。
小野妹子が隋に持っていった、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のいわゆる聖徳太子の国書が607年で、隋からの答礼使裴世清に持たせた返書「東天皇敬白西皇帝」がその2年後だし。
東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。

4 :
君は何を言っとるのかね。
同時代の記録として出てきたことに意味があるわけ。
>「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
これのどこに「日本」と書いてあるのかね。
>東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。
倭人が日本と言い出したのは7〜8世紀のはずであるが、
君は、倭の人々は古代から自分たちの国のことを日本と呼んでいたというのかね。

5 :
日本語の理解出来ない奴だねぇ。もう少し頭使ってちゃんと読めよ

6 :
中国の記事
http://www.baidu.com/s?wd=%C8%D5%B1%BE+678%A1%A1%C4%B9%D5I&rsv_bp=0&rsv_spt=3&n=2&inputT=687

7 :
また意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックでわずか15年の間に大急ぎで改名したんだろうな。

8 :
全文をみないで思いつきかきこだが・・・・
「日本餘●(●は へんに焦) 拠扶桑以逋誅」の日本って「国号」というより
もっとくだけた異民族の俗称が入りそうな文脈なんだが。
白村江の戦いの後、あわてて国号をたてて、その直後に旧敵国側の人間が
日本の立場を尊重して日本の新国号を御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。
ひょっとすると「日本」というのが当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?
で、倭国政府は大陸や半島での「日本」とい「倭」の俗称を何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?

9 :
日本餘噍拠扶桑以逋誅
この墓碑の全文、または全面写真てないかね?
簡体字でもいいんだけど。

10 :
「天皇」に関しては天寿国周長があるから、この時期に使われていてもそんなに驚かないんだけど
「日本」というのは意外だったな。

11 :
>>8
墓の主が百済の人間だからこっそりと日本に義理立てした可能性も無くはない。
墓誌は埋めてしまうから役人の目に触れる危険も無いだろう。

12 :
日本餘噍拠扶桑以逋誅
日本は餘噍、扶桑に拠し、以って誅を逋れる。
日本は生き残り、扶桑(大海の中)に拠し、以って誅を逃れる。
この10文字だけで読めば、こんなところかな。

13 :
>>11
ああ。旧百済の人間として、百済を援助してくれた倭が海の向こうで「日本」とか名乗って健在なのを内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。
どのみち朝日の記事だけじゃ何もわからないや。

14 :
ひょっとすると日本に亡命した百済貴族が、唐に帰服したこの墓主に対して縁故を辿って
天武政府の依頼を受けて、「今度"日本"という新国号にしました。この新しい名前で唐との外交関係を改善できないか
瀬踏みしてくれませんか?」とか働きかけていたのかも。
いかん。もう小説の世界だなあ(w。

15 :
「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読む。
「日本国の残余兵は、国内の東方に逃亡した」という意味。
扶桑(ふそう)とは日本の東域(正確には関東方面)のこと。

16 :
>>15
そうかい。知ったふりの、いいいい加減説・断言氏。
●扶桑(ちゃんと調べてみたよ)
原義は、東海の日の出るところにあるという巨大な神木。
転じて、東方海上にある島国。扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。

17 :
>>16
調べたら何でも分かると思っちゃいかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ不安定な言葉だからな。

18 :
>>17
日本人がいう扶桑じゃないぜ。
日本国内純正仕様解釈ではなく、
「7世紀の中国人」が扶桑といったら何の意味があるかの問題だ。
この文章では、「大海の中の島」という意味で使われているのは明白だ。
わるあがきをするな。
それにしてもどうだっていいことで衒学をするもんだな。
なーにが、「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読むだ。
俺の翻訳のほうがよっぽど分かりやすいだろが。しゃらくさい

19 :
>>15
噍は「噛む」という意味のやうですが。

20 :
>>19
漢字というものは複数の意味をもつ。
文意・文脈から、どの意味を採用するかが解読というものだ。
漢字のもつ別の意味を提示したからと、それがどうした。
そこまでやるならば、
きみが提示した意味で解読した文章を提示してみ。
議論のイロハから教えなくちゃならんのかい?

21 :
>>20
>漢字というものは複数の意味をもつ。
噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあればありがたい。
「この文はこういう意味だろうから、
この漢字にはこういう意味もあるはずだ」なんて思い込みはナシで。

22 :
扶桑=日本、の意味となったのは、平安・鎌倉時代以降だろうな

23 :
伊作が絡むと、どこでも品が落ちる

24 :
「日下(くさか)」とは関係ないの?

25 :
いつから「倭」の国が「和」の国になったの?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1313686331/

26 :
>>10
天皇号の方が先に成立しているでしょう。
近頃はまた、そう言われているのでは?
結局、昔から言われているとおりだったのでしょう。

27 :
>>24
それは枕詞に由来すると考えられている。

28 :
>>21
>噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあれば………
「敗残兵」などという意味があるとは書いていない。「生き残った」だ。
「余噍」をどう解釈するか。
ほかに解釈の仕方があればそれを出すのが意見交換、討論というものだ。

29 :
日本ぐらいは使っててもおかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ
おまいらも「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、あれは「むこう岸」という意味だ
つまり「ひノもとノくに」とは半島倭人からすると、日本海を見ながら「むこう側の本国」=『ひの本の国』だということ
和語の音に当てる漢字を倭→和と改めたように、「ヒに日をあてた」ってわけだよ

さっき思いついたんだけど、一瞬でもナットクしそうになった方は挙手を願いますw

30 :
>>29
ノシ
レスを考えながら読んで損したw

31 :
>>5
そんなに悔しかったのかね。

32 :
国内向けに使われていたのかな?
中国向けには倭国でさ

33 :
>>32
ちがう
中国向けに「倭」だったのを中国向けに「日本」に変更したってこと。
国内ではヤマトのままでかわりない。

34 :
墓碑の全面写真見たけど、
扶桑の「扶」の部分は欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは読めんぞ。

35 :
670年が近江令、日本建国の年だと思う。

36 :
>>35
たかが法律だろ
なんで日本がなかった
ことになるんだよ

37 :
禰軍は665年、唐の使者として倭国に来た。
日本書紀にしっかり出ている。

38 :
新羅の記録では、倭が日本になったのは670年。
禰軍は672年まで新羅にいた。

39 :
倭→日本改名は674年3月と見る。

40 :
天武天皇3(674)年3月、対馬で銀が採れたが、これは「倭国で初めて」のことだと日本書紀は記している。
この「倭国」は狭義の「倭国」=奈良県でなく、明らかに対馬を含む広義の「倭国」=「大倭国」であるので
この時はまだ「日本国」でなく「倭国」だったが、
この事件を契機に「倭国」は「日本国」に変わったのではないか。
根拠は三つ。
@天武天皇4(675)年1月に奈良県を「倭」でなく「大倭」と記した記事が現れる。
狭義の「倭国」=奈良県を「大倭」と記した例は宣化天皇以前に数例しかない。
これは広義の「倭国」の国名変更を暗示している。
A天武天皇3年は、前後の年に比べて極端に記事が少ない。
「日本」を神代に遡らせるため、国名変更の記事を省略したか。
B天武天皇4年は祝賀ムードが高まり、新羅の王子忠元や耽羅(済州島)の王姑如が日本に来ている。
ここで両国に国名変更を伝えたのだろう。

41 :
ていうか、倭も日本もやまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には新しい表記法が増えたということ。
まあ確かに奈良時代以降、対外的にも日本全国としての国名を「日本」としている節はあるけど、
一方で称徳天皇の詔や万葉集など、奈良県のやまとのことを「日本」と表記している例もある。

42 :
701年に対馬で金が採れた(実は嘘だったらしいが)とき
途絶えていた元号を復活させて「大宝」と改元。
その後元号は途絶えることなく「平成」に至る。
674年の銀も、全ての神々に捧げ全ての官吏に配るという大騒ぎなのに
改元記事が無い。
国号変更したなら、黄金のジパング=ジャパン=ジッポン=日本の出発点か。

43 :
「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」
でも今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒「伽耶諸国(かやしょこく)」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」
に成っている件について…。
これも朝鮮人どもの影響だろうか…??

44 :
前の読みの方がコリア語に近いのにねw

45 :
まぁ百済をどうやってもくだらとは読まないのは確かだから別に良いけどね。
百済観音とかもひゃくさいかんのんと読む人が増えて話が通じないとかなりそうだな。

46 :
新羅→シルラ
百済→ペクチェ
高句麗→コグリョ
任那→イムナ
コリア語だとこうだったっけ?

47 :
倭から日本ってのは、白村江の敗戦のあとに
王朝交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ

48 :
コリア語は新羅語がもと
日本語は高句麗語に近いらしい

49 :
「新羅」は「シラギ」、「百済」は「クダラ」、「任那」は「ミマナ」なのに、
なぜ「高句麗」は「コマ」じゃなくて「コウクリ」なの?

50 :
慣用かな?
ただ、たしか日本書紀とか六国史に「高句麗」は出て来ないよ。
「高麗」と表記し「コマ」と訓んでるはず。

51 :
>>50
山梨には巨摩(こま)っていう地域があるんだけど、高麗からの渡来人が住んでいたから「こま」って読むんだよ
って中学で習った。

52 :
>>43
任那の件はともかく(これはかなりクロ)白村江は
向こうの息がかかっているのならそっち読みすると思われ

53 :
【歴史】百済滅亡後の渡来難民が古代「倭国」を「日本」に変えた★2[11/21]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1321889143/1-4

54 :
天武は673年、耽羅の使者に革命宣言してる。

55 :
耽羅からの渡来人の坂上田村麻呂を多賀城に遣わし、蝦夷を討ったのだろう?

56 :
済州島は今は韓国だが
意外に日本と縁が深い。

57 :
>>43
「しらぎ」とか「くだら」ってのは、あくまでも
倭国側での読み方で
当時、彼らが何というふうに
自分たちの国名を読んでいたのか、分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。

58 :
>>48
日本語は倭語だよ、普通に。
高句麗語ってのは、高句麗の王族が扶余だったから
扶余語だろうね、おそらく。
だとしたら、高句麗語ってのは、女真語の祖語に近いと思われ。

59 :
>>55
坂上田村麻呂は、東漢氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。

60 :
田村麻呂は東北をいじめた日本国の将軍。

61 :
>>43
それ本当なのか?
百済を、くだらと読まなくなってるわけか。
教師は在日韓国系が多いから
むかしはくだらを誇ってたのに
自分達は滅ぼした側だと気づいたら、とたんにくだらを消しにかかる。
屑野郎。

62 :
>教師は在日韓国系が多いから
ソースきぼん

63 :
>>57
「シルラ」「ペクチャ」が正しい。それが一番近い。

64 :
>>63
それって今現在の韓国語読みだろ。
日本が何を持って「くだら」「しらぎ」という
仮名を振っていたかがよく分からんが。
音読みとも韓国語読みとも違うんだよね。

65 :
「失われた言語」とかって解釈すると胸熱

66 :
>>62
思想と思考があちらの人って意味じゃ?

67 :
「しらぎ」「くだら」と読むよりも「シルラ」「ペクチャ」と読むほうが原音に近い。
「日本」は「イルボン」が歴史的には正しい。

68 :
>>61
さすがに邪推。それだとしらぎ→しんらの説明がつかんぜよ。
>>64
百済語かも?

69 :
百済語なら韓国語だから「ペクチャ」に近い発音だったはずだ。「くだら」ではありえない。
とにかく韓国の人が嫌う読みはやめよう。

70 :
ウィキペディア
高句麗語
中国史料の記述によれば、扶余・東沃沮・ワイ・百済(支配層)の各言語とは同系とされ、
中国東北部から朝鮮半島北部にかけて夫余系諸語ともいうべき言語グループを形成していたらしい。
この言語グループは沿海州のユウ婁とは、「容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。
また、朝鮮半島南部に広がっていた韓系諸語(馬韓・弁韓・辰韓ら古三韓の言語。
後の百済の被支配層の言語や、朝鮮語の直系の祖語にあたる新羅語もこのグループに属する)
とも言語的な異同が著しかったようである。
再構された高句麗語語彙と周辺言語との比較の結果、高句麗語は中期朝鮮語よりも上代日本語との方が、
類似語が見出される割合が大きいという研究もある。
また日本語は、高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。

71 :
>>69
百済語の「クンナラ」から来てると言われてる。ネーデルランドがオランダになったのに似ている。

72 :
>>71
百済は現地では「ペクチャ」に近い発音だったはずだ。

73 :
百済は貴族と庶民は別の言語だったらしいが?

74 :
>>73
それでも韓国語にはちがいない。

75 :
百済の王は高句麗と同じく満州の夫余系。

76 :
>>72
「くだら」は新羅、安羅、加羅とかと同じ流れで「くだ」羅だったんだろうな。
「百済」は、(言い方は変だが)百済の自呼称だろ。

77 :
>>72
韓国語で「クンナラ」が「大きい国」の意味で、百済人が自分の国をそう呼んでいたのを、国名と勘違いした日本人が
「くだら」を百済の読みとした。という説だから現地での「百済」の発音とは関係ない。
オランダも本当はネーデルランドなのに日本人の勘違いでオランダになった。

78 :
今の韓国語は新羅語がもとだから、注意しないと。

79 :
隋書によると、百済の初代王は仇台という。
仇台の国でクダラかもよ?

80 :
斉の国からの渡来人である全国100万人の斉藤さん、お元気ですか?
斉の国は、山東半島から朝鮮半島、沿海州から日本列島の日本海側にかけて、百あまりの小国が分立し、
交易を通じ緩やかな同盟関係を維持しながら半農半漁で生計を立てていたのだろう。
その総称が百済と呼ばれ、その都、百斉の奈良、「ひゃくなら」、「くなら」、「くだら」となったと思われます。
九州の磐井も百済、海洋民族である斉(いわい)の一国であり、新羅の斉人と結託、畿内勢力と対立したため、
毛野氏によって討たれたのだろう。それが磐井の乱と呼ばれています。

81 :
木屋の資料館3.2C
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya32_c.htm
「三国史記〜新羅本紀」文武王10(670)年、倭国、あらためて日本と号する。自ら言う。日出る処に近い、以て名とする。
以後(統一新羅は)、倭を「日本」と表記した。

82 :
【勇猛】悪源太義平U【果敢】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292521488/
>220 :日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:03:51
> >>214
>
> その言諸夏また秦、韓に参ずの遺俗に云う
>
> 晋の時、高句麗すでに遼東を略有し、百済また遼西に拠有し、晋二郡を平らす。
> 今柳城・北平の間なり。
> 晋より以後、諸国を呑併し、馬韓の故地を拠有す。
> その国東西に四百里、南北に九百里、南を新羅と接し、北を高句麗と千余里を拒す。
> 晋より蕃爵を代受し、自ら百済郡を置く。
> 百済、即ち後漢末の扶余王尉、仇台の後、後に魏の時、百済王、上表して云わく
> 「臣、高麗と扶余を先ず出づ。初めて百家海を済し、因みて百済と号す。」
>
>
> その言語は諸夏、また秦や韓にかかわっていた遺流民の言っていたものである。
>
> 晋のときに高句麗は遼東を領有し、百済は遼西を領有していたが、晋はこの二郡を平らげた。
> 今柳城・北平の間の領域である。
> 晋より後、百済は、諸国を併呑し、馬韓の故地を領有した。
> その国は、東西に400里、南北に900里に及び、南を新羅と接し、北は高句麗とおよそ1000里の間隔があった。
>
> 晋から外国を領有するものという位を代わり受け、みずから百済郡を名のった。
> 百済は、後漢末の扶余王尉、仇台の末裔で、魏のとき、百済王は上表してこのように言った。
> 「私たちは、高句麗とともに扶余から出て、初めてたくさんの部族のものと海をわたった。
> だから、名付けて百済と号している」
>
> むずい・・

83 :
藤原氏
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/ka-c8-fujiwara.htm
藤原氏は中臣鎌足が賜姓してからの一族と云われます。
初代が藤原鎌足です。
ところが、中臣氏はその後も別系で存続しているのです。
思うに、中臣氏と藤原氏は別系ではないかと考えられます。
鎌足は、中臣氏に一旦入り婿し、その後、賜姓して分派したと。
と云うのも、中臣氏は、元来男覡として祭祀を司る一族ですが、
藤原氏にはその様な例が見られません。
韓半島南部の伝承で、藤原氏は、百済朴氏の出自であると云うものがあります。
おそらくこれが、藤原氏の出自を正しく伝えていると考えられます。
百済滅亡前後に渡来した一族だと思われます。
賜姓については、一般に、公的文書への署名には用いますが、通称では用いないことが多いのです。
賜姓後の藤原氏は中臣姓を一切を用いていないことが、上記推察の裏付けにもなります。
無論、百済は唐に反抗し、滅んでいますから、朴姓を用いるはずもありません。
おそらく、百済王族に近い一族であったため、その後日本においても王権に近い位置を
占めているのだと、考えられます。

84 :
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラコク、金官伽耶、任那)は存在する。
邪馬台国と楽浪郡
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm
210年 崇神世
任那より朝貢 3世紀前半の大型建物
垂仁による田道間守派遣
ホケノ山古墳 (225〜250年)楽浪鏡、鉄器は任那以後
穴あき壺(庄内3式)は初期の埴輪=垂仁末。
(225〜250年)に垂仁と田道間守を探せば、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
垂仁末を239年とすると、纒向は2世紀末に崇神からはじまる。

85 :
旧編年
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚
3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。
323年 神功49年 半島占拠と領土分与。

86 :
404年 十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界...倭寇潰敗斬無數
履中天皇六年(乙巳四〇五)二月 悲哉。吾兄王何處去耶。
この“兄王”とは、履中かもしれない。
407年 十七年丁未ヘ遣歩騎五萬...合戦斬湯盡所稚鎧一萬餘領...
伽耶の東半分を失う。
413(義熙9倭王讃、使いを立てて東晋入貢(『晋書』『太平御覧』)
(『晋書』帝紀第十 安帝)●義熙九年〔413〕高句麗 倭國及西南夷銅頭大師並獻方物
宋書卷九十七/列傳第五十七
東夷高句驪國、今治漢之遼東郡。高句驪王高l、晉安帝義熙九年、遣長史高翼、奉表獻赭白馬。以l、爲使持節、
都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公。高祖踐阼、詔曰「使持節都督營州諸軍事征東將軍高句驪王樂浪
公l、使持節督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王映,並執義海外,遠修貢職。惟新告始、宜荷國休、l可征東大將軍、
映可鎮東大將軍。持節都督王公、如故。」
百済は高句麗に含まれる。(百済・新羅は高句麗の属国)
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月 遺使求良醫於新羅。新羅は高句麗の属国である(仁徳までの扱いではない)
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月 有内亂。

87 :
>>76
それなら中国史書馬韓伝にくだらに近い国名があるべきじゃない?
新羅も斯羅国かなんかあったわけだろ

88 :
中国史書は正式な名称を記録しない
日本初期では新羅人の名前は日本人や百済人と同じく長ったらしい名前だが中国史書ではほぼ切られている
歴代天皇も漢字一字を当てられるのみだったりする
卑弥呼にしても日本語に類するのは「ひめのみこと」だし
中国史書を名称などであてにしてはならない

89 :
日本書紀には長ったらしい名前が載っていたとしても
当時の日本人も日常生活でその名前を使ってなかっただろう。
たとえば隋書では天皇の名を「姓はアメ、名はタリシヒコ」
すなわち「アメタリシヒコ」という長ったらしい正式名を載せる一方で、
「号はオホキミ」と普段は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたことを載せる。
たとえ後付けの正式名称が長かったとしても、日常読みが「ひみこ」だった可能性は十分にある。
ちなみに日本の皇族女性の飛鳥時代頃の呼び名は一字違いの「ひめみこ」だった。

90 :
新羅は韓に属す、また倭に属す。
魏・晋時代新羅は辰韓に属す。
323年 神功49年 新羅は倭に属す。
この時百済軍は存在する。百済は新羅と対峙していた記録があるから境を接していた
百済軍とは辰韓の軍として機能していたと思われるが、323年時点で倭の要請を受け入れる
所から見れば大した勢力ではない。

91 :
下野国に移住した新羅からの渡来人は幸せです。本国の新羅人は全滅してしまったからな。
日本書記の「持統元年(687年)3月15日「投下の新羅人14名を以って、下毛野国に居らしめ、田を賜い、稟を受け、生業に安ぜしむ。」
という記述と那須国造碑の記述は符合し、多くの新羅人が捕虜として下野国に安置されたことは間違いありません。

92 :
>>43,>>44
昔,シナ人は日本列島の人間をワジン,ワコクといい,倭人,倭国と表記した。
日本側は自らをヤマトと称し,シナ人が表記した「倭」に「ヤマト」と訓みをつけた。
美称をつけて「大倭(オホヤマト)」としたが,いつの間にか「大和(ヤマト)」となった。
同様な事情が半島にもあったのだろう。それなのに新羅をシラギからシンラへ読み替える
なんて,大和魂(ヤマトタマシイ)をダイワコンと読みなおすような愚であろう。

93 :
新羅はもともと斯羅かなんかで地名だ

94 :
ヤマトも畿内の地名だよね
地名が国名になるのは結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか

95 :
>>94
「ヤマト」が国号になったことはないんじゃないか。
6世紀以前には中国から「倭国」と一方的に呼ばれていたものが
6世紀前後に日本側から「日本」という国号を中国に伝えている。
日本で初めてできた国号が日本。
それ以前にはまだ畿内を中心とする小国連合であって
一つの国という概念が国内にあったかどうかは分からない。

96 :
倭も日本も国内での訓みはやまと。
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。
あすか→飛鳥・明日香
なら→那羅・平城
はつせ→泊瀬・長谷
しき→志貴・磯城
うじ→宇治・菟道
なにわ→難波・浪速
やまと→倭・日本

97 :
倭は種族名だが、日本は王朝の名前。
全く違う、本来は。

98 :
いやほんとね、教科書とかテレビの歴史番組とかで、
「中央集権国家を確立し、倭国から日本国に国名を改めた云々」
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。
実際はほんと漢字での書き方が増えただけの話で、
倭国・日本国どっちとも国内的には「やまとのくに」だったんだと思うんだよね。
奈良時代以降「やまとねこ」表記には倭根子も日本根子も使われるし、
万葉集でも「日本」は「やまと」と読まれ、大方奈良県のことを指すわけだから、
「国号を『わ』から『にほん』に改めた」云々てのは、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。

99 :
気がついたら日本=にほんになってたってことか。

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