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2012年3月日本史155: 神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう (245)
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南部氏(・><・)巻之七 (115)
もし平家が源氏を滅ぼしていたら… (254)
神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう
- 1 :
- 岡京か?
↓
乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。
- 2 :
- ttp://blog.goo.ne.jp/junko-f1/e/e150476b8a7cca4b406b7b4fcd814001
高島神社(たかしまじんじゃ)。
創建は神武天皇乙卯3月。神武天皇東征の際、当地に行宮を置いたことに始まる。宝亀3年に相殿として4柱の神を奉斎した。
昭和15年に文部省から「高島宮伝説地」として指定された。
- 3 :
- 戦死したお兄さんももっと讃えてあげなよ。
- 4 :
- うむ
- 5 :
- 東征と言いながら、畿内に入るまで戦闘がない件
- 6 :
- 言ってることはむちゃくちゃだし、行動は卑怯だし、戦弱いし、
とうてい架空の人物とは思えんな、こいつ>神武天皇
- 7 :
- ヤマトタケルも似たり寄ったり
だまし討ちの卑怯な勝ち方ばっかで最後は発狂して死亡
一方清廉でいじめられっこなのに最後は勝つオオクニヌシって素敵
- 8 :
- >>5
外交の勝利だ。
- 9 :
- 卑怯でもなんでもない
まつろわぬ輩を討つにはどんな手段を用いても良い
だからむしろ誇らしげに書いてある
- 10 :
- 道徳観の違いだろ
- 11 :
- 事前に偵察やって、手薄なところを攻めれば良かったのではないだろうか?
- 12 :
- 儒教が入る前は、人質とか賄賂も正当な交渉手段だったんだよ
- 13 :
- 進軍ルートが間違っていたような気もするが…
- 14 :
- うむー
- 15 :
- >>5
しかも、畿内に入って、河内から上陸したのだから
そこでナガスネヒコの軍と戦闘になって大敗、兄のイツセ命が戦死。
命からがら、和歌山から少数の兵だけで上陸
しかしながら、なぜか、ナガスネヒコを打ち取り
ナガスネヒコが祀り上げていたニギハヤヒが降伏。
軍事的に、ありえないストーリー。
- 16 :
- ちなみに、畿内に進軍するにあたって
親戚筋がすでに畿内のあちこちに住んでいて
進軍の案内をしてくれた。
- 17 :
- 神武が戦った敵はニギハヤヒだ。ニギハヤヒはナガスネヒコの父の婿になってたわけだね。
- 18 :
- ニギハヤヒの別名は、天火明櫛玉命、略して櫛玉命ともいう。
櫛玉とは、形見という意味でもある。
天火明櫛玉命とは、天火明の形見の皇子って意味。
天火明命とは、天皇家の祖先のニニギの兄とされている。
- 19 :
- >>15
奇襲攻撃とか夜襲なら少数の兵でも勝てないこともない。
- 20 :
- て言うかニギハヤヒがナガスネ裏切ってぶっして神武に恭順でしょ?
- 21 :
- >>19
ナガスネヒコ一人討っても、神武の勝利にはならんでしょう?
神武の軍は少数だけになったのに。
ナガスネヒコの別の親族が大勢整えるだけになると思う。
- 22 :
- 神武が畿内に入るのあたって、案内したのが
ずっと前から畿内に住んでいた親族たち。
かれらは、いずれも天火明命の子孫。
神武の曽祖父のニニギの兄が、天火明命。
ちなみに、物部氏の祖先のニギハヤヒとは
この天火明命の形見だと自称していた人物か?
形見?ご落胤?
- 23 :
- >>18
「先代旧事本紀」にはそう書かれているが、「新撰姓氏録」では別系だ。
- 24 :
- ニギハヤヒがなぜ神武に帰順したのかが謎だ。ニギハヤヒ政権の
正当性は申し分ないはずだ。
- 25 :
- >>21
> ナガスネヒコ一人討っても、神武の勝利にはならんでしょう?
桶狭間では今川義元をポアした織田信長の勝利だったが。
- 26 :
- ニギハヤヒがナガスネヒコの御輿から神武の提灯持ちに乗り換えた理由はなんだろう?
- 27 :
- >>26
小早川の元祖だよね。
- 28 :
- 北九州市に一宮神社という神武天皇が一年間滞在したという謂れのある
神社があるよ。遺跡として当時の神を祭る祭壇みたいなのがある。
- 29 :
- 神武と崇神の事績が似通っていることについては?
- 30 :
- 最初から兵力不足のまま東征したみたいだな。
- 31 :
- 河内に上陸するまで戦闘がなかったわけは?
- 32 :
- >>31
敵対勢力がいなかった。
「道を貸してくれ」といわれれば断る理由がなかった。
つまり外交能力はあったのではないか?
- 33 :
- >>29
似てないだろう?どうみても。
- 34 :
- >>31
兵庫に入ったくらいから、現地に住んでいた親戚筋の豪族が
先導してくれた。
また、和歌山に入ってからも、これまた現地に住んでいた親戚筋が先導してくれている。
これらのことから、なぜ、河内に入るまで
敵がいなかったのに、おのずと分かるだろう?
- 35 :
- 東征出発までの神武一族は南九州の土豪にすぎない。
- 36 :
- 神武=日向御子=大田田根子
- 37 :
- >>36
根拠がない
- 38 :
- 日向の御子だろ
勝手に日の神子にすな
- 39 :
- 神武=徐福
終了
- 40 :
- >>35
違うだろう?
神武は南九州の領主の一族だか
その親戚筋は、同時に畿内で多くが領主をしていた。
神武東征ってのは、事実上、里帰りみたいなもん。
で、この場合、神武の一族の中では
南九州にいた神武一家が分家筋で
その宗家にあたり一族が、ずっと前から畿内にいたことになる。
- 41 :
- んで、神武が南九州にいたとき
畿内には倭王が存在しており、
その倭王と神武一家は、何代か前でつながっている同族筋になる。
しかしながら、その後、その倭王の地位を奪うものが
畿内でクーデーターを起こしたので、
それを鎮圧するために、
倭王の分家筋だった神武一家が、援軍として遠征することになる。
それが、神武東征。
だからこそ、東征の途中、まったく戦闘がなかった。
- 42 :
- | ┏━━━┓ 従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃ デマだらけの報道に注意しよう
| ┃三三婦┃
| ┃○○大┃
| ┃○○募┃
| ┃○圓集┃
| ┃圓以 ┃
| ┃迄上 ┃_
\┃可 ┃ \
┗━━━┛ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/21/0000083621/22/img293d65c3zikczj.jpeg
- 43 :
- >>40
畿内と南九州が親戚同士ならもっと早く南九州は大和王権に取り込まれてたろ
南九州は奈良時代頃でも「隼人」と呼ばれて異民族扱いで冷遇されてたのに
- 44 :
- 古墳時代における奈良と宮崎の共通性は近年よく指摘される。
南九州内の争いをそのまま畿内に持ち込んだとも解釈できる。
- 45 :
- 実際は南九州で起こったことを畿内でおこったことに捏造したってわけですか?
- 46 :
- 宮崎と鹿児島は対立していた。
その関係性をもったまま、宮崎の神武という少数の集団が奈良に移り住んだということ。
- 47 :
- 奈良県内の弥生時代の遺跡から九州地方の遺物が出てないからな
畿内一円や北陸山陰の特徴を持つ土器の出土はあって
交流があったことがうかがい知れるのに
宮崎から大量に支配階級が移住してきたなら
当然地元から使い慣れたものを大量に機内に持ち込んだだろうに
それがないのだから支持されてない
- 48 :
- 土器は庶民がつくるもの。土器の移動は庶民の移動だろう。
記紀にあるのはリーダーが宮崎出身だったということだけ。
神武は吉備に数年留まり、兵を募ったそうだが、
実働部隊が吉備の人間なら、端から見れば(考古学的に見れば)吉備に攻め込まれた
ようにも見えるだろうし、吉備の慣習・風俗が多く持ち込まれて当然だろう。
侵略者の目的はあくまで自らによる支配であって、故郷の土器を持ち込むことではないのだから。
- 49 :
- >>48
吉備との間では話がついていた平和進駐でしょ。
婚姻関係なども結ばれていたと思われる。
- 50 :
- >>48
大王はその家族は私物を全部宮崎に置いて
素っ裸、日用品なしで畿内へ行ったのか?
そんなわけがない。
自分の私物やら珍宝やら全部持っていくだろ。
- 51 :
- 侵攻の十年近くは、基本現地調達だろう。
今、残っているかどうかは別にして、宝物があれば持って行っただろうね。
- 52 :
- 当時宮崎と畿内では別国へ行ったように風土も言葉も食べ物も違っている
日本人が海外に行っても日本食を忘れられないように
宮崎生まれ宮崎育ちの大王が全くの異文化で現地調達したなんてありえんよ
しかもなぜ畿内へ移住しなくちゃいけなかったかの理由づけもまったくなし
温暖な宮崎で育った大王が奈良へ行ったら寒くてやってられんだろう
- 53 :
- その通り、移住ではないと思う。
人間の支配欲の理由付けに関しては難しいな。
- 54 :
- 東征の動機として、阿蘇が噴火して九州の食糧生産が悪化したのではないかとか
中国の帯方郡設置を警戒して「奥地」に引っ込んだとの説を読んだことがある。
- 55 :
- 東へ引っ越した理由。
列島の統一経営には、列島の中心部へ出る必要があった。
また九州は、年に数度は台風という招かれざる客が訪問する土地柄である。
台風、河川の氾濫、水害も、当事者にとっては笑えない切実な問題である。
左巻き台風の風水害被害が少ない東高西低の盆地への移転も、
大きな政治課題であり政治選択の一つだったろう。
だが私は、遷都の最大の理由は戦略的判断によるものとみている。
この時代、中国勢力はすでに数百人規模の兵士を積むだけの海洋船舶技術を手にしており、
海を渡って侵攻される恐れが現実的になっていた。
3世紀に魏の使節が乗ってきた大型楼船を見た時点で、
倭国側はそのことを明確に認識したはずである。
魏を廃して成った晋政府は、倭国にはさほど興味を示さなかったとみえて、
266年の倭国の朝貢に対してどう対処したかには『晋書』も触れていない。
むろん、親晋倭王と認証した雰囲気もない。
晋の武帝・司馬炎は帝位についたあとは色ごとに熱中して政治を顧みず、
武帝のあとを受けた恵帝は暗愚で外戚(皇后側勢力)の思うまま。
そうしたことが引き金となって、290年代に入ると
晋の有力王たちによる「八王の乱」が勃発して国内は騒然となる。
これが、やがては五胡十六国入り乱れての騒乱の時代へ突入する。
その倭国としてみれば、五胡十六国の争乱状態では
いつ何どきに中国勢力が侵攻してくるかは分からない。
そうした外来勢力に対する防衛構想上、玄関口の九州から離れたほうがより安全であると判断して、関門海峡と瀬戸内海に幾重もの防衛体制を敷いた奥の大和へ引越したものと考えている。
詳しくはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/eb8b39094e7ad68a405964246fac1878
- 56 :
- 神武側の武器は畿内側よりも良かったと思うが、でも苦戦しているね。
- 57 :
- 東遷は1日にしてならず。
3世紀末には関東にも前方後方(円)墳が登場する。
といことは、そうした墓制と信仰的精神性をもった勢力が、
3世紀半ばには進出を果たし、安定収穫と安定勢力を実現していた理屈になる。
山一つ隔てた向こう側が毛人の国では安心して王都建設もできまい。
(湿地帯だった奈良盆地の開拓も併せて)関東の奥地に毛人を駆逐したあと開拓屯田させ、
奈良盆地でおむむろに王都建設が始まる。
東遷とひと口にいうが、
根回し・地ならし・進出の下準備から開墾・開拓まで、
3世紀半ばから遷都が終わるまで200年がかりの大事業だ。
とてもとても、一代や二代でなし遂げられることじゃない。
- 58 :
- >>56
相手の力量も不明で、どんな道具を所持しているのかも分からないのに、
街中で行きずりの喧嘩を売るのは愚か者のすることだよ。
神武の東征談は、命の取り合いとは無縁の文人の机上空論だからして、
詳しい調査もせず、戦力比較も分析もせず、いきなり敵地に殴り込んだことになっている。
こんなことをするバカがいるはずがなかろう。
九州からの遷都があったとしても、一人の人間の業績として象徴的に描かれた物語と、
現実問題として、
武力支配時代に他勢力の領土を略奪して遷都する場合はどうだったのかと、
明確に区別して語るほうがいい。
- 59 :
- じゃあ100年くらいかけて北九州時代、吉備時代、畿内時代と進出していったのですかねえ
- 60 :
- >>58
そうなのだが、苦戦しているところからみても
事前の偵察が不充分だったと思うね。
当時は戦士はいても忍者みたいなのが少なかったのではないだろうか。
- 61 :
- >>57
3世紀半ばから200年もかけて畿内に進出してたら完了が5世紀半ばだよ
倭の五王って九州王なわけかい?
河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったの?
- 62 :
- 騎馬民族ならぬ九州民族征服説かw
- 63 :
- >>61
>倭の五王って九州王なわけかい?
考えるべき優先順位からいえば、な・ことはどうだっていい。
東遷が完了するのは4世紀・5世紀の境目あたり。
九州の支配管理を任された「○○の君」を名乗る皇別豪族たちが、
民族的信仰を図案化した装飾を古墳に施す時代が一つの節目だろう。
この文意は奥が深いぞ。
倭人は「黥面・文身・お歯黒・無文字文化民族」だ。
これがまさに、長江流域の非漢民族の文化だ。
彼らの民族的信仰神(蛇神)を図案化したのが、
渦巻き文様であり、蛇のウロコを模した三角文様なのだ。
お歯黒は皇族・貴族がやっていた習俗だ。厳然たる事実だ。
倭の五王が九州の王か畿内の王かなど、二の次だ。
- 64 :
- >>61
>河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったの?
五王たちの時代は山川を跋渉しての諸国平定旅のど真ん中だろう。
物理的にも、各王ごとに勢力拠点を移しながらの平定旅よ。
「土をひらき畿をはるかにした」のが武の代か。
河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったのか。
てめえのどたまで考えることだな。
- 65 :
- 神武東征から時代が下って景行天皇は自ら九州に遠征して熊襲を討伐
九州平定後6年間日向国に宮を置いた後都(畿内)に戻った…日本書紀によると
奈良と宮崎の共通性ってこの時期でしょ?
熊襲との戦いで亡くなった朝廷関係者のうち高位の者が戦死したりもあったろうし
10年と経たないうちにまた叛いてヤマトタケルの話になるんだが…
神武東征とは全然時期が違うけど
- 66 :
- >>62
>騎馬民族ならぬ九州民族征服説かw
日本列島の場合、人・もの・文化は西から東へだ。
しかも当初は入り口ほど濃厚で遠くなるにつれて希薄になる。
人・もの・文化の伝播も遠いほど遅れる。
縄文後期の土器・土偶から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳・現代のしめ縄に至るまで、
長江流域の非漢民族の信仰神(蛇神)が連綿と息づいている。
(出雲や三輪山の祭神は蛇じゃなかったか?)
少しずつ異なる文化をもってはいても、民族の信仰神は同じということだ。
各時代ごとに、漢族に圧迫されて移動を繰り返した民族がいた。
争いを好まず・漢族との同化を拒んだ民族の選択肢は二つ。
さらなる辺境へ移動するか、海へ乗りだすか。
海へ乗り出した多民族がつくったのが倭国だ。みな同じ民族だ。
>九州民族征服説かw
何にもならんヤジはその程度にしとけ。
- 67 :
- >>65
熊襲か〜。
熊襲は福岡と大分と佐賀に多かった。
土蜘蛛となるとほぼ全国にいた。葛城なんかもそうだ。
大和朝廷の統一初期段階においてその権力が隈なくいきわたっていなかった時代に、
大和朝廷の統治を受けていなかったり
大和朝廷に恭順しなかった辺境の少数部族が土蜘蛛と呼ばれたようだ。
彼らは主に、河川の上流部、山岳部、島嶼部の洞穴で生活していたといわれる。
稲や埴輪に関する知識を持っている者もおり、言語的にも朝廷側と極端な相違があった様子もなく、
民族的にも朝廷側の人間との大きな相違はなかったようである。
基本的には朝廷側と同じ民族でありながら、個々に少しずつ異なる生活習慣をもっており、
かつ熊襲・隼人といった特定呼称で呼ぶほどの大勢力ではなかったのだろう。
熊襲・隼人・土蜘蛛・熊鷹………。
まさに、現代の長江流域の少数民族のような少数多民族現象があったのだろう。
- 68 :
- 佐賀には熊襲はいないと思うが
- 69 :
- 熊襲の勢力範囲はたぶん鹿児島県全域と隣接する熊本県南部と宮崎県のうち南西の都城盆地あたり
- 70 :
- >>68
うっかり失礼した。
正しい熊襲討伐地域は以下の通り。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/3b3b3e36c09a1736f1cc815a21366df7
- 71 :
- 熊襲の領域と隈のつく地名分布を混同した。
熊襲と熊本は何の関係もないことを認識してもらうためにも提示する。
●隈のつく地名
@福岡県糸島半島/赤隈、松隈、丸隈山
・福岡県福岡市/道隈、七隈、干隈、田隈、月隈、金隈、雑餉隈、西隈、丸隈
・福岡県甘木市と夜須町周辺/隈、篠隈、乙隈、横隈、小隈、山隈、今隈
A大分県日田市/月ノ隈、星隈、三隈
・大分県玖珠町/大隈
B佐賀県大和町と神埼町周辺/中津隈、西隈、鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈、松隈、鳥の隈
ごらん通り、福岡県、大分県、佐賀県に隈のつく地名が目につく。
21世紀の現代までこれほどに残っているのだから、古くはもっと多かったものと思われる。
ところが、クマ(隈)の本場の熊本市周辺には、菊池の隈府(わいふ)と城南町の隈庄(くまのしょう)。
福岡県、大分県、佐賀県の場合は、すべて「◯◯隈」で、隈があとにつく地名ばかり。
熊本県にあるのは、どちらも「隈◯◯」で隈が頭につく。
隈府のほうは古くは久々知(のちに鞠智と書いた)に隈部(くまべ)があったことに由来する。
その後、室町時代に守護在住の地として隈府(くまふ)と呼ばれ、これが隈府(わいふ)になる。
そこから、南北朝時代には隈本と呼ばれたが、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた
隈部の由来となったクマは、「奥まったところ」という意味である。
これに共通するのが久々知である。これには「山麓から平地へ出る口」という意味がある。
奥まったところに「何か」があって、そこから出入りする口というわけである。
福岡県、大分県、佐賀県の九州北部に◯◯隈のつく地名が多いのは、
古くは、クマのつく勢力の支配領域が北部九州域まで及んでいたことを示唆する。
- 72 :
- 名無しをやめてHNを作成した。以下は、私の切なる思いである。
『日本書紀』を書いたのは滅亡百済から亡命してきた帰化漢人たちである。
その彼らは『三国志』倭人伝にも目を通しているのだが、
どうやら弥生の歴史の中心を日向(宮崎県)にあったと解釈したらしく、神話の中心を日向の地から始めている。
だが、私は『日本書紀』を書いた漢人たちが『三国志』倭人伝を正確に読んだとはみていない。
その理由が、神話の始まりを豊葦原瑞穂国あるいは葦原中国としていることである。
というのも、九州島東側は山脈の傾斜が海側まで迫って平地が少なく、
ひえ、そば、さつまいもなどの畑作が多かった。つまり、豊葦原というほどの稲作湿原はない。
そもそも『日本書紀』は、高千穂、瑞穂の国、倉稲魂、天忍穂耳、天穂日、稲田など稲と穂がつく神々と、
天狭田、長田、田心姫、狭長田、奇稲田姫などなど、田と稲作に関連した名の神々で溢れている。
神話を創作した漢人たちは、開墾と灌漑がなった本格水田耕作の時代を神代として書いているのである。
日本列島において、本格的かつ組織的な水田耕作が最も早く行なわれたのが、
九州北部有明海側の佐賀平野〜筑後平野〜熊本平野であることは考古事実にみるまでもない。
しかるに、水田耕作が少なかったはずの日向を葦原中国としたのは大きな矛盾である。
願わくば、『日本書紀』の創作を鵜呑みにした付和雷同から脱皮してもらいたい。
- 73 :
- もう一つ。
西都市に大古墳群があるからこの地に大国があったとする生き方がある。
だが、山脈の傾斜地が海側まで迫って耕地が少ない九州島東側のこの地に、
2〜300年間にわたって単独であれだけの古墳群を築く勢力があったと思われない。
「高をくくる」ということわざが示すように、その土地の石高(米の生産量)が国力や兵力の物差しになる。
ところが、耕作地の少ない九州東側の西都エリアに、日本最大級ともいわれる大古墳群が存在する。
立地状況的にも時代的にみても、これがこの地の一豪族によって、
2〜300年間にわたって継続的に造営し続けられた可能性はゼロに近い。
西都原は古くは斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていた。
斎殿原といえば、まさに「大斎事の土地」という意味である。
ということから、ここにある古墳群は倭国の公的墓域の一つだったと見るべきである。
私のこの見解が正しければ、朝鮮半島に出兵したことのある武将の墓があって、
朝鮮半島で入手した遺物が副葬されている場合もあるだろう。
また、朝鮮半島で戦死した武将の墓が造られている場合は、
そこに遺体はなく副葬品だけの場合があるかも知れない。
宮崎県側で最も豊かで人口密度が高かったのは、
都城を中心とした大淀川沿いの諸県郡から、鹿児島県の肝属郡(志布志湾一帯)である。
そもそも、日田盆地・人吉盆地・都城盆地などの大河川上流部の盆地は一等地で、
よほどの例外でもなければ支配層の親近血族に与えられたものである。
ここ諸県郡に古くから有力な豪族がいただろうことは否めない。
願わくば、現実から遊離した「日向偏重史観」から脱皮してもらいたい。
- 74 :
- さつまいもw
- 75 :
- 日向三代は零落豪族だったんだからなんの問題もない
- 76 :
- DNA鑑定で他民族征服説は否定されたんじゃなかったか?
従来別人種とされていた日本列島に住む縄文人→古墳時代人まで
ほとんどDNAに差がないことがわかり
縄文人がそのまま弥生人や古墳時代人になったことが分かった
また、畿内と九州人にもDNAに決定的な違いがある
九州に住む日本人は畿内に住む日本人よりも朝鮮人とのほうが
DNA的に近いことが分かっている
- 77 :
- >>76
>他民族征服説は否定されたんじゃなかったか?
他民族による征服などない。
縄文人・弥生人・古墳時代人。ほとんどは長江河口からやってきた民族だ。
DNAに差がないということなら「当然」の話だ。
>九州に住む日本人は畿内に住む日本人よりも朝鮮人とのほうが
>DNA的に近いことが分かっている
前言と相反するが。理路は大丈夫か?
で・いつからそうなったのか、そのDNA識別資料は説明はしてるのか。
「起源」の話に「現代の標準値」資料を持ち込んでるんじゃあるまいな。
そのへんの理路は大丈夫か?
民族とは言語・宗教などの文化で識別するものだ。
DNAで識別すべきものじゃない。
- 78 :
- 神武自体は天孫族の傍系で単なる尖兵だろ。
山陰や吉備の勢力をバックに畿内に侵攻したはいいが純軍事的には上手く行かず、搦手を使って何とか制覇。
でも、その死後は結局現地勢力に乗っ取られて終わる。
- 79 :
- >>77
長江河口とかw
何万年前の話してるんだよw
日本列島に初めて人類が住み始めた旧石器時代の話か
そして弥生時代の九州人が朝鮮人と近いDNA関係にあることは
証明できている
>民族とは言語・宗教などの文化で識別するものだ
これは同意しかねる
DNAでは同じ日本民族だが言語・宗教が江戸時代まで全く別物だった琉球人は
異民族ということになるし
言語や宗教が同じならアメリカに住む黒人と白人は同民族という理論になる
九州人はDNAで朝鮮に近くても同じ言葉・宗教の日本人として扱ってくれといいたいんだろうが
民族と国家は本来全く別物
国家が同じでも民族が違う国はいくらでもある
- 80 :
- 日向偏重の気は無いけど偏重せざるをえないっていうかw
大きさこそ畿内の最大級の古墳とは比べるべくもないけど数なら九州どころか日本最大級だよ。
西都原だけでなくてあのへんの平野部の台地上に他にもたくさんあります。
そのへんに転がってるってかんじじゃないかとw
神武が実在するかもわからないし神武的な何か…故地的なものはあったんでないかなあと思ってます。
作り話にしても根も葉もないとこから作ろうとはしないだろうし。
- 81 :
- 古墳時代にさつまいもは無い…
- 82 :
- >>79
>長江河口とかw 何万年前の話してるんだよw
「話の筋を取り違えて切り返す」というバカのパターンだ。
縄文後期の土器・土偶から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳の装飾にいたるまで、
連綿と民族的信仰が続いている。
証拠を確認してたければほれ。
(この手のタマはたぶん見ないだろうし、見ても承服はせんだろうが)
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
>弥生時代の九州人が朝鮮人と近いDNA関係にあることは証明できている
その検体は熊本や鹿児島の九州人か?。
そんな結論を出すようじゃ半端限られた九州の一部だろうな。
>DNAでは同じ日本民族だが言語・宗教が江戸時代まで全く別物だった琉球人は異民族
琉球人が民俗学的に日本民族と同じだとは・はつみみだ。
>言語や宗教が同じならアメリカに住む黒人と白人は同民族という理論になる
ただの言葉尻だ。こういう手合いがどこにも必ずいるなー。
人種が違うだろ。もともとは宗教も言語も違うだろ。
もう少し深く考えれば分かるはずなのだが、相当に頭悪いな。
お前とも民族議論など意味はない。
- 83 :
- >>81
現代も「ひえつき節」なんて民謡がある土地柄の説明だが。
誰か「古墳時代の産物の話だと」でも限定したのか?
そんな投稿して何が面白いんだ?
観客のタメになるような実のある投稿をしたらどうだ?
- 84 :
- 稲作から環濠集落、高床式住居、支石墓、カメ棺、舟型木棺、高塚式墳墓(土とん墓)、銅鐸と、
すべて長江流域の文化だということが判明している。
そして人骨が弥生人の源流を証言する。DNAによる民族識別ならば、以下のような確かなものならば信頼できる。
渡来系弥生人の人骨と、長江下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、中日共同調査団の調査で分かった。
記者会見した日本側の山口敏団長らによると、
弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8〜同5世紀)から前漢時代にかけての江蘇省の人骨と、
渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に共通点が多かった。
日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があったが、
江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。
江蘇省の人骨36体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の3体でDNAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致した。
中国側の南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が極めて似ていることが分かり、
弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えられた。(1999年3月23日中日共同調査団発表)
長江河口から日本列島に渡来して縄文人と倭人を構成したとみられる民族を大別すれば、
黄帝との戦いに敗れて黄河流域から駆逐された三苗族や、
殷人による生け贄狩りから逃れて南下した古代羌族(北方系民族)など、長江流域の複数の多民族と、
百越と呼ばれた南方系多民族と、さらに南方の海洋民族に分けられる。
遥か数千年前の中国大陸で、北方のDNAと居住習慣を持った民族が、何波かに分かれて南方に移動して定着した。
そうして千年単位の時間を経たあとで、長江河口部から継続的に列島にやってきた。
これが安っぽいDNA識別にかかると(どの時代のどの地点を民族の標準値とするのかは不明だが)、
「倭人のDNAは北方系が多い」となり、地理的に近い「朝鮮半島を経て直線的に渡来した」となる。
だが丸木船の時代から、朝鮮半島からよりも長江河口からの渡来のほうが簡単だった。
表記した数々の事実がそのことを証言している。
- 85 :
- ひえつきって焼畑とかやってた山間部の民謡でしょ
そこでは山林を焼いてそこに稗とか蕎麦とか撒いて収奪農法的にやってたけど
稲作とか古墳の話はほとんど平野部の話で地域が違うね
日向の平地は広くはないけど九州では筑紫平野に次ぐくらいの広さはある
まとまれば勢力としては筑紫平野の方がかなり大きくなるはずだけど
- 86 :
- >>82
君の説は支離滅裂だ。
・琉球人と日本人は民族が違う
ほう?
誰の説?
弥生時代の九州人が畿内人より朝鮮人に近いことは
複数の論文から明らか。
せめてググってから書き込めよ。
それから長江河口を言い出したのはお前だ。
旧石器時代には日本人が住んでいたのに
縄文人とすり替えるお前はホンモノの馬鹿だ。
- 87 :
- 初期の稲作は広大な平野はむしろ不利だったと思うな。
平野の広さと生産量が比例するようになるのは灌漑技術が整った後の話だろ。
平野部のうち山に近い傾斜が大きめの部分が中心
奈良だって諸勢力は山麓部に位置してたぜ。
- 88 :
- 神武東征の話に
縄文だとか弥生とかいう話を持ってくるのは
ピントがずれている。
例えば、徳川家康が豊臣政権を倒した話に
縄文とか弥生って話はしないのと一緒。
- 89 :
- ヤマト王権のスタートは、イワレ彦(神武)からではない。
ヤマト王権の初代倭王は、天照国照彦。
彼が、出雲国譲りをして、天下を統一した。
この天照国照彦には、ニニギという弟がいた。
出雲国譲りのあと、天照国照彦は、全国に地方官を設置したが
九州南部の統治には、弟のニニギを派遣した。
イワレ彦(神武)は、このニニギの曾孫にあたる。
- 90 :
- | ┏━━━┓ 従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
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| ┃○○大┃
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- 91 :
- >>89
天照国照に国譲った出雲さんは何者だよ?
- 92 :
- >>85
>ひえつきって焼畑とかやってた山間部の民謡でしょ
それが宮崎県の地勢の特徴をよくあらわしている。象徴的に例示しただけだ。
あくまでも有明海側の土地と比較して貧弱ということだ。しつこく食いつくな。
>稲作とか古墳の話はほとんど平野部の話で地域が違うね
多少は稲作のできる土地はあるさ。棚田もあるだろうし谷戸だってある。
>日向の平地は広くはないけど九州では筑紫平野に次ぐくらいの広さはある
ただの抗弁・詭弁で、絶対数比較の話の前には意味がない。
- 93 :
- >>86
>琉球人と日本人は民族が違う ほう? 誰の説?
琉球人と日本人は同じ民族てか。ほう? 俺は初耳だ。
で・学術的コンセンサスはできているのか?
>弥生時代の九州人が畿内人より朝鮮人に近いことは複数の論文から明らか。
そこまでいうなら、せめて資料か論拠ぐらいは添えて書き込めや。
>それから長江河口を言い出したのはお前だ。
そうだが?
>旧石器時代には日本人が住んでいたのに
旧石器時代に日本人か。べんきょうしなおせ。
>縄文人とすり替えるお前はホンモノの馬鹿だ。
縄文時代から連綿と続く江南からの渡来人の「明確な痕跡」を述べた。
で・「倭人の祖先は朝鮮半島から来たんじゃない」とゆってるわけだ。
勝手に意味を誤解して、それに基づいて吠えてるようだが。お角違いというものだ。
はじめから反意だけが先走って、相手の論旨を理解しようという意思がみえん。
さほど実りがあるとは思えんし、罵倒合戦が予見されるから、お前とはやめとこう。
- 94 :
- >>88
>神武東征の話に
「神武東征の話」というからには、あくまでも創作が前提だろうな。
それだけに絞ってやるのならそれでいい。
中国文献に登場する事象や名称を混同するならば、
神話を度外視して現実論としての対話にしなければならん。
俺は後者を採るから、民族のスタートからはじめたのだ。
別に縄文時代の話が主ではない。縄文時代から続くという話だ。
足下が不透明な幽霊話ばかりでは誰も納得しまい。
その足下の話で、すでに意見が分かれているていたらくだ。
『日本書紀』には、本場中国の天子に対して「日出る処の天子が日没する処の天子に」と、
対等な口上を述べるようになる隋以前(漢・魏・晋・宋代)の歴史がない。
つまり、中国天子に臣とへりくだって朝貢外交を展開していた時代を消して、
中国王朝に対して一人前の発言をするようになった時代から書いている。
紀元前後から400年〜500年間の漢・魏・晋・宋代の体験の記憶を抹消して、
この期間の歴史を作り変えているのだ。(漢・魏・晋・宋代の歴史を消して、
その時代の事象を神話時代に組み込んだと思われる歴史を信用するわけにはいかない)。
なぜならば、編纂者たちは、史実との整合性をまったく考慮してはいない。
というよりも、史実を消して創り変えるのが彼らの仕事だったからである。
その過程を推察すれば、本物を含む幾つかの土器をたたき割って、それらの破片を拾い集めてつなぎ合わせ、
ありもしなかった異様な形の土器に復元するような作業をしているはずである。
そこに史実が紛れ込んでいたとしても、それは脈絡を寸断された断片でしかない。
創作された「神武東征の話」に史実を重ねてゴロ合わせ・絵合わせをするならば、
ただの空論ドンキホーテになるだけだ。
- 95 :
- 神武天皇が一年間滞在していたとされる岡田ノ宮(北九州市黒崎)は
元来地方豪族、熊族が祖先神を崇めるために造営した社だったらしい。
熊族が熊襲関係だとすると神武天皇と熊襲との間に同盟関係が
結ばれたのだろうか
- 96 :
- >>91
出雲の大国主。
天照国照彦は、大国主の王女の天道日女を妃にしていた。
出雲国譲りとは、出雲の大国主が、娘婿の天照国照彦に
国譲りした事件。
播磨国風土記にもそうある。
その後、天照国照彦はヤマト王権の初代倭王になり、
二代目の倭王には、自分の息子の天香語山命が即位した。
この天香語山命の生母が、天道日女。
つまり、天香語山命は、出雲の大国主の外孫になる。
天香語山命は、父方がヤマト、母方が出雲の王族だった。
ヤマトと出雲の合一の象徴だった。
ちなみに、現在の天皇家は、天照国照彦の弟のニニギの後胤。
このニニギの曾孫が、イワレ彦(神武)
- 97 :
- >>95
たしか記紀によると、高千穂時代の皇室と熊襲の間に婚姻関係があったはず。
上杉と後北条が一時和睦したように、関係がまあまあ良好だった時期もあったのではないか?
- 98 :
- 熊本の大津ら山を越えれば高千穂だ。
(高千穂から山超えで熊本平野に出る)
熊襲の渠帥討伐に女装して近づくということは、
「顔見知りの間柄」だったってこと。根は同族だから。
そもそも、滅ぼした敗者の名を勝者が頂戴するなんてあり得まい。
(熊襲の末裔を自認する男)
- 99 :
- 神武一族はサツマイモが常食だった。で、白いご飯を三度食う生活がしたくて
遠征に乗り出したわけだ。
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