2012年3月戦国時代185: ★★★名族 六角氏について語ろう★★★ (574)
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★★★名族 六角氏について語ろう★★★
- 1 :
- 近江の名門で
楽市楽座の創始でもある六角氏
の繁栄と没落の歴史を語りましょう。
- 2 :
- 一時期は畿内に三好と並ぶ勢力を誇った六角が
あんなに簡単に信長に殲滅されたのは何故でしょう。
観音寺騒動はそれほど影響が大きかったのでしょうか。
- 3 :
- 野良田合戦で今まで傘下だった浅井にボロ負け
&
観音寺騒動の重臣処刑で臣下の信用を失う
のダブルコンボ
もっとも観音寺騒動は
前時代的な六角家の体質から仕方無かった事かもしれない。
同じような大名体質の毛利も重臣の井上を粛清してる。
- 4 :
- 秀吉の秀
- 5 :
- 承禎・義治親子とも弓の達人なんだな
秀頼の師範なんかをやってる。
今川氏真なんかも剣術の使い手だったりするし
なんか意外だ。
こういう家を滅ぼした大名って
惰弱で文化に耽ってるイメージがあるから。
- 6 :
- 承禎は長政には敗れたが
久政は破ってる
- 7 :
- だって久政は馬鹿だもの
- 8 :
- ここ読むと
久政はなかなか優れた人物に思えてくる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%B9%85%E6%94%BF
- 9 :
- >>6
信長に負けたり、優れた将ではあるんだろうがツメが甘い感がある。
- 10 :
- 一向一揆や浅井朝倉を徹底殲滅した信長はなんで六角はさなかったんだろうな?
その気になればいつでもせたろうに
止めささないからゲリラ活動されたりしてるのに
それとも信長初期=追い詰めて滅ぼす余力がなかった
信長末期=わざわざす価値もなくなった というふうに巧くやり過ごせたのかな?
義賢も義治も天寿全うしてるのは不思議だ
- 11 :
- 義治とか信雄とか氏真とか三国志の劉禅とかドラ息子は長生きしてる人多いね
- 12 :
- 信長を倒す絶好のチャンスだったとき
六角の野郎が単独講和したために…
- 13 :
- >>10
六角が名門だからかな
- 14 :
- 観音寺城の残骸は丹羽さんが安土城建てるのにリサイクルされました。
- 15 :
- >>14
土地勘がないんですが、すぐ近くなんでしょう?
- 16 :
-
- 17 :
- 六角の血を引く家というのは残っていないのでしょうか ?
- 18 :
- 俺
- 19 :
- 自称でいいなら佐々木高行とか。
- 20 :
- 岡倉天心らと日本芸術再興を図った六角紫水は関係ないの?
キリンビールのロゴマーク作った人でもあるが
- 21 :
- 甲斐武田と縁戚だっけ?
- 22 :
- 定頼は名君
- 23 :
- >>22
元祖・楽市楽座の人だっけ? 一城一国令(城割)とかも。
- 24 :
- 六角の家臣に松田蔵人正重って人いました?
- 25 :
- >>22
名君かどうかは別として
時代の中心にいた人物ではあるね
- 26 :
- 六角とは珍しい名字だが、由来は何だろう?
- 27 :
- のぶやぼで定頼の能力高過ぎ
- 28 :
- >>26
平安京の通りの名前から。
「姉さん六角たこにしき〜」
- 29 :
- その六角通りは六角堂に由来しているわけで……
- 30 :
- 頂法寺が寺の名前か。
聖徳太子や嵯峨天皇が縁起に出てきて すごく歴史があるね。
- 31 :
- 足利将軍家から、準管領として遇されたらしいね。
- 32 :
- 京極より格上でないと格好がつかないだろうからね
- 33 :
- >>31
定頼の頃?
- 34 :
- 太閤との奇縁と言うことが、六角義秀・義郷の二代にわたってwikiに書かれてるけど、
これを裏付ける一次資料とかあるの?
- 35 :
- 無いだろ
佐々木哲がいくら頑張っても、偽系図説が全否定されたわけでもないし
- 36 :
- あれって著者かその信者が無理やり載せてるよな
すごく胡散臭いとは思うがばっさり削るだけの見識もないので触らないでいるが
- 37 :
- >>35-36
「独自の研究」とか貼った方が良さそうだなw
- 38 :
- 横田高松に見限られた時点で既に終わってたよな
- 39 :
- 六角という家名は、人から好かれる家名。感性の勝利。
- 40 :
- 室町期前半は六角は京極より目立たないのだが、義尚〜義輝の時代は輝いたね
- 41 :
- 全部過去形だね
- 42 :
- 歴史の話だから過去形になるのは当然かと
- 43 :
- 今、六角さんって人あまり聞かないね
滅びちゃったの?
- 44 :
- 子孫は佐々木氏を名乗ってるからね。
京極も六角も
- 45 :
- 京極は明治になっても 丸亀 豊岡 峰山 多度津の各子爵家とも 京極だよん。
- 46 :
- 義治といい、義郷といい、秀頼との縁が深いですね
- 47 :
- どうして勢力争いで浅井家に負けたかが分からない。
- 48 :
- >>45
ごめんなさい
京極は庶家の一部だけですね
- 49 :
- 実力が
長政>>六角家(承偵・義治)>>久政だったから
- 50 :
- 六角、京極は家名(公家様)。
佐々木は名字(武家様)。
当初は使い分けていたが江戸時代にムチャくチャになったんだよ。
佐々木の宗家は、あくまで六角家。
京極家は、あくまで庶家(巨大すぎではあるが)。
六角家が京極に命令することはあるが、反対はない。
- 51 :
- 新潮文庫から出てる乱世疾走って戦国小説で、何故かこの六角氏がメインの悪役になってた。
- 52 :
- 六角と京極が共に近江の半国守護だったという説明を見かけるが
近江の守護は六角
近江の分郡守護と出雲・隠岐の守護が京極
幕府は別にして
佐々木氏族としてみると
京極家は六角家の支族にすぎない
- 53 :
- >>52
そうだけど、何か?。
- 54 :
- でも室町幕府(前期〜中期は)には京極より重視されないだよね。道誉のせいかな。
義材以降はそれはそれは頼りにされたけど。
- 55 :
- 御所に近い上に強大になられても困るから京極を優遇して争わせたんじゃないの
一族を争わせて漁夫の利を得るのは足利幕府がよくやる手口だしw
- 56 :
- ロッカクジョーテーと言う響きが好きだ。
- 57 :
- >>55
そうかもね。
でも近いがゆえに最終的には六角を頼りにせざるをえなくなった。
- 58 :
- 鎌倉幕府が倒れるとき、六波羅探題側についたこと
京極氏に高氏という名君がいて室町初期に差がついた
この2つも大きそうだ
- 59 :
- だれかwikiの六角関連の恥ずかしい記載を訂正しろよ
このままじゃ六角家じたいがトンデモ大名になるぞ
- 60 :
- >>58
>鎌倉幕府が倒れるとき、六波羅探題側についたこと
時信ですか。最期まで北条仲時に助力したようですね。
ところで時信の時は偏諱?誰の?
- 61 :
- そのまま仲時とか
もしくは高時や守時とか
- 62 :
- 佐々木哲って誰よそもそも。
wikipeの記事書いてんの本人じゃねーの?
>>59
あれはひどいな。
- 63 :
- wikiの六角氏の項目はどこまでホントなんだか判らなくなってきた
- 64 :
- ◆◇◆幻の戦国大名 出雲尼子氏(其ノ五)◆◇◆
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185234886/
- 65 :
- 佐々木哲結構面白いけどね。
- 66 :
- 66get!
- 67 :
- >>63
当時の資料に系図の誰にあてはまるのかわからない六角さんが何名かいる、ってとこまでじゃないかな
- 68 :
- 六角と北畠のト学会ぶりは酷い>wiki
- 69 :
- 六角は六波羅方についたのか 復権に時間かかったね。
- 70 :
- 一回ごっそり削られたのに、またちまちま復帰させてるよ>wikiの江源武鑑厨
- 71 :
- >>65 そうだね。
- 72 :
- 佐々木泰綱は六角堂の側に住んでいたんであって 六角堂には住んでないよね。
- 73 :
- 佐々木信綱の長男重綱が大原、次男高信が高島(朽木はこの分かれ)、三男泰綱が六角、四男氏信が京極の祖
- 74 :
- 六角氏って甲賀忍者と関係あったの?
- 75 :
- >>74
あったよ。
- 76 :
- 観音寺城を放棄した後、六角残党は甲賀に潜んでたような?
- 77 :
- 最盛期には一族で十数ヶ国の守護だった佐々木氏だけど
近世まで大名として残ったのはまさかの復活劇を果たした京極だけ?
- 78 :
- 私の家、口伝で六角氏の残党って伝えられているんだけど信じていいの?今は佐々木という名字
- 79 :
- >>77
確か朽木の分家が福知山で大名になった気が・・・
- 80 :
- >>78
今時佐々木なんて腐る程いる
- 81 :
- 甲賀鈎の陣って正確な史料残ってないん?
- 82 :
- >>78
戦国武将だって家系の捏造しまくってんだ。
六角の末裔として誇りに思うも、信じないでスルーするもお前しだい。
- 83 :
- 佐々木なんて珍しい苗字でもなんでもないけど、
東北の佐々木率の高さは異常
歴史的な裏付けもハッキリしないし、一体なぜなんだぜ?
- 84 :
- 佐々木はありふれてるね
- 85 :
- 信長の生母が、六角氏の人間だって説はどこまで信憑性あるんだろ?
- 86 :
- 観音寺騒動の真相は……
義治の阿呆さはともかくとして、どうもあの騒動は、
誰かが明確な意志を持って巧妙な筋書きを書き、
義治に実行させたようにおもうのだが。
はて蒲生賢秀はどれほど、この件に関与してたかのかな。
- 87 :
- 毛利でも井上を誅してるし、根回しが不十分なだけであの時代よくあることじゃないの?
- 88 :
- >>86-87
比較するなら、能登畠山氏が重臣達から追放された事件か?
奇しくも六角氏と血縁関係にあるけど。
- 89 :
- 筋書きはないような気がするが。
- 90 :
- >>86
騒動の何の真相?
筋書きって何が目的? 誰か得をしたの?
何が言いたいのかよくわからない。
ただのよくある大名と国衆との揉め事と何が違うといいたいのやら。
- 91 :
- 大名の集権化とそれに対する反発ということじゃないの?
義治式目なんて、明らかに大名権力を掣肘する傾向があるものだし
- 92 :
- 山内と伊庭を潰したのに後藤と蒲生がでてきたからな
- 93 :
- ビックリするぐらいヒッソリと消えたな>六角
- 94 :
- >>93
秀次に深入りしたり、関ヶ原じゃ何故か中立を宣言したり、どうも世渡りが下手だったからなあ。
- 95 :
- >>94
詳しく。
- 96 :
- それは義秀とかの話じゃ
- 97 :
- 結局京極から養子もらった後どうなったんだっけ?
- 98 :
- 78ですが歴史マニアが自分の家系の捏造するなんてことは良くあることなんでしょうか?
- 99 :
- >>98
「歴史マニア」という定義があやふやすぎ。
小学生の歴史好きでも広義では「歴史マニア」だし、小学生レベルの捏造なんて簡単に見破れる。
しかし家系図学などに精通した「歴史マニア」だとそうそう簡単には見破れないはず。
また捏造することがよくあることなのかどうかはわからんよ。
家系の捏造は犯罪行為ではないし、捏造した本人が言い出さない限り表に出てこない。
ただ、歴史に詳しい者が家系図の捏造やデッチアゲに関わったのは事実かと。
戦国時代には公家がお金を貰って新興大名の家系図を作ってたのは
加賀前田家や秀吉の逸話からも間違いないと思われ。
まぁ、捏造捏造言う前に、自分ちの家系の伝承の傍証ぐらい自分でとってこいと思うがね。
菩提寺や過去帳、先祖代々の墓とか調べない奴が多すぎる。
- 100 :
- 100
- 101 :
- >>99
>菩提寺や過去帳、先祖代々の墓とか調べない奴が多すぎる。
程度の低い捏造をする家系にそんな発想があるわけない
菩提寺って何?ってレベルだろ
- 102 :
- >>98
そもそも「六角氏の残党」って家伝が本当なら、「六角氏の末裔」じゃなくて
「六角氏の旧家臣」なのでは?
まあ、六角氏から分かれて家臣となった家の可能性もあるけど。
- 103 :
- 教えていただいてありがとうございました
- 104 :
- 苗字は佐々木さんなんでしょうね
- 105 :
- 本を書いている佐々木哲さんにメールで「承貞のお妾さんの子」と伝わっているが信じても良いのか?と聞きました
- 106 :
- 足利義昭の所謂「鞆幕府」の家臣の中に
「六角義堯」なる人物がいます。
で、彼について「六角義賢の子」とする説もあれば
「義治=義堯は誤りである」という説もあって
一体、近江六角(佐々木)氏と、どういう関係にあったのか?なかったのか?が
いまいちはっきりしません。
一言で言うと、彼はどのような人物なのでしょうか?
義賢と直接の血縁関係にあった人物?それとも一族?それとも姓が同じだけで無関係?
- 107 :
- 奉公衆かなんかの子孫じゃねぇの
- 108 :
- 奉公衆は有名な割りに実体が良くわからん。しょっちゅう実戦に参加してるし強かったのは間違いないようだが。
- 109 :
- 戦国期にはほぼ有名無実化してたんじゃないか?
彼らが一番活躍し得たのは応永の乱とかそこらだろう
- 110 :
- >>109
つーか、明応の政変で、軍事組織としての奉公衆が解体したから、戦国時代になっちゃったんだけどね。
明応の政変以降の奉公衆は軍事組織ではなく、将軍の警備隊みたいな感じ。
- 111 :
- 義尚が六角攻めの時悩んでなかった?
- 112 :
- ゲリラがお家芸だからね
- 113 :
- ゲリラは甲賀がやったんだっけ?
- 114 :
- そう。甲賀衆が襲撃して失敗した。
- 115 :
- 六角の末裔まだ見つけきれてないのか。
早くたどり着かないとあかんぞ。
- 116 :
- 近江佐々木家の流れをくむ、というのは亡父の脳内作り話の可能性あり。菩提寺は禅宗の永平寺です。
- 117 :
- 道元に佐々木近江守信綱が師事して
朽木に永平寺の直末で寺建立してる
- 118 :
- 興聖寺ですね
- 119 :
- ご近所に六角さんが住んでます。
尋ねたら子孫だそうです。
あちこち散り散りで、北海道から九州までいるそうです。
江戸時代は、差し障りあり他の氏名を名乗ってたけど、
明治になって昔の家名を名乗ることにしたそうです。
信ぴょう性は、不明。。
- 120 :
- うちの家紋は丸に四つ目結ですが、ご諸兄はどう解釈されますでしょうか
- 121 :
- 田んぼの「田」に似ているね
- 122 :
- 上でも出てるけど六角氏の記事の元ネタになってる佐々木哲って何者?
佐々木姓だしまさか子孫が調子のいい事書いてるんじゃねーだろうな
- 123 :
- その、まさかだよ。
朝倉義景六角出生説の信憑性が気になる。
- 124 :
- >>123
正直、氏綱の子孫の話など、かなり電波な印象を受けたな。
六角出生説も、推測だけで成り立ってる印象だね。
- 125 :
- 花押の話をどう解釈するかだな。
義景六角説だけは当たっているのかも知れん。
- 126 :
- 話は変わるが、浅井・六角・京極連合軍で
- 127 :
- 織田に対抗するチャンスはなかったのかな。
- 128 :
- >>125
詳しく
- 129 :
- 武功夜話では信長が桶狭間の時に六角氏から
数十本の旗を借りたネタがあるが
この頃織田とは友好関係だったのかな?
- 130 :
- >>129
桶狭間合戦の頃って信長は斎藤義龍と対立中で、
その義龍と六角が対浅井戦略等もあって同盟中じゃなかったか?
義賢は義龍との婚姻に反対だったみたいなんでアレだが。
武功夜話が元ネタだということだし、信憑性は低いんじゃね?
- 131 :
- 佐々木氏のブログ見た感想では、
なんかうさんくさい史料を引っ張り出して継ぎはぎして自説に有利にように
もって言っているって感じ。
左馬頭と名乗る六角一門とかありえないと思うけど。
朝倉義景が養子ってのも、朝倉氏と六角氏が末代まで守ると取り交わした盟約(内容は書かれていない)
ってのが、養子の件に違いない!とか。
昔同じような内容で(日本史板だっかかな?)突っ込みいれたなあ・・・
- 132 :
- 江州宰相を指して六角氏とか言ってる時点で相当怪しいな
- 133 :
- うちの家の隣に朝倉氏建立の寺があります。六角氏のおちこぼれみたいなのが落ちてきた?
- 134 :
- よえええ六角。。。。。。。。。。。。。。。
- 135 :
- 朝倉義景が本当に六角からの養子だとしても、
佐々木みたいな電波にしか見抜けないよな。
気違いだけが暴ける真実というやつかw
- 136 :
- >>135 そうなんですか。光徳院(武田元信公のお嬢様)さんの実子だと思ってました。
- 137 :
- ところで京極家の代官に松平益親という人物がおりますが、
この人は安祥松平氏と関係があるんでしょうか?
- 138 :
- 大河の「信長」で、六角はチョビットしか出ないけど
意外にも、野武士っぽくてカッコよかった。
- 139 :
- 「花の乱」の高頼も出番一瞬だけど猛々しかったな
- 140 :
- >>137
京極氏の代官ではなく、公家の日野家の代官な。
大浦庄の代官で、大浦と争った菅浦がで敗れると、
菅浦征伐のために三河から軍勢を連れてきたとあるから(「菅浦文書」)
三河の松平氏と同族なのは確実だろう(安祥松平氏は益親の頃にはまだ成立していない)。
系図上では泰親の子とされ、信光の兄弟とされる。信光は長親の祖父。
活動時期は確かに信光と重なっている。
- 141 :
- >三河の松平氏と同族なのは確実だろう
そうなんだ
- 142 :
- 寛正って応仁の乱の直前だね
- 143 :
- 歴史読本の『戦国大名血族系譜総覧』という巻を買ってきたんだが
六角氏のページを読んで一気に代金をどぶに捨てた気分になった…
- 144 :
- kwsk
- 145 :
- 「六角氏三代の閨閥」
取り上げられてる三代とは、氏綱、義久、義秀
- 146 :
- 兄の友人が子孫らし
- 147 :
- >>144
「近源武鑑」を史料批判無しというか、完全に史実と認定して
S々木哲が電波な文章を書きなぐっている。
- 148 :
- またあの趣味スイーツの自称哲学者かよw
- 149 :
- 朝倉への密約=義景を養子として送り込み だったっけ? 内容が不明だから、なんの密約かもわかんないし。赤松義祐=養子も、赤松側の「どこかから養子が欲しい」程度の提案・噂だったり、本当にあったとしても立ち消えした可能性もあるんじゃ…と思た
- 150 :
- >>149
この盟約を子々孫々まで守ろうね って記述から
そんなに大事な盟約は、養子の件しかありえない(キリッ
逆に、期限付きの盟約って当時あったかな?
神に誓ったりするのと同じで、一種の決まり文句だと思うんだけど。
あと、六角氏から若狭武田氏に嫁入りしたという史料と、
義景の母親は、若狭武田氏出身だという史料を足したら、あら不思議。
やっぱり六角氏出身ということなんだよ! って斜め上の結論につながるらしい。
歴史読本探したら、もう次の号しか売ってなかった。図書館とかにあるかなあ。
- 151 :
- 「武功夜話」の次は「江源武鑑」か
歴史系出版社なのに過去の歴史から何も学ばないんだな
- 152 :
- >>151
もともと、内容丸パクりした書籍を刊行して著作権で揉めて
名前変えたような会社だから…
- 153 :
- >>151
節操ないからな。
相変わらず、研究者の論文から、作家のアレな文章までごった煮だし。
佐々木哲はこないだの執筆陣でも群を抜いて電波だし、まともに
相手している学者なんているのかね
- 154 :
- >>150
まじかよ?
- 155 :
- >>150
バックナンバーアマゾンで買えるぞ
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- 156 :
- 新人物往来社。
- 157 :
- 佐々木哲さんてそうなんですか。
- 158 :
- 忍者との関係でNHKに六角氏の名が出てきたね
- 159 :
- 「オレは六角」著:佐々木哲
- 160 :
- 自分の先祖は佐々木六角らしいのですが、佐々木という苗字ではありません。
親からは、信長と戦って負けた(?)から名前を変えさせられたと聞いたような
気もするけど定かではないです。
あと、関ヶ原の戦いではうちの一族は西軍・東軍に分かれて戦ったそうですが、
自分の直系のご先祖様は東軍についたらしいのですが、そうなんですか?
マイナーな人過ぎて分からん。
詳しい人教えてください。
- 161 :
- 今の苗字も名乗らずに
そうなんですか?
といわれても困るんだが。
- 162 :
- 家紋とかあるでしょ?
- 163 :
- 宇多天皇から続く佐々木系の源氏は六角、京極も含め家紋は四ツ目だよな?
- 164 :
- 160です。
今の苗字は澤。
家紋はひし形が4個あるやつです。
割菱というやつです。
- 165 :
- >>164
http://kirisai.hp.infoseek.co.jp/meyui.jpg
これ?
これは四つ目結紋と言って、確かに六角佐々木氏の家紋。
割菱だと武田家の
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke/takeda.jpg
これになってしまうが。
- 166 :
- >>164
菩提寺のある場所はどこだ?
江戸時代から「沢氏」なら大和宇陀郡の沢氏の一族で、
家紋も割菱や四ツ目じゃなく本来は井桁紋で、角立太井筒紋を菱型の紋に間違ったんじゃね?
四ツ目を憚って割菱にするとは考えにくいし(出自を大事にするのが普通だからな)。
まぁ、先祖探しの基本は墓参りと菩提寺参りだ。
菩提寺があるなら過去帳が残ってるかもしれん(戦災等で無い場合もある)。
親や親戚の口伝のみって場合は絶対に信用するなよw
- 167 :
- うちの家紋は上の四つ目結紋ですね。
先祖の墓は戦争(か区画整理)で移動されてしまいました。
お盆に家に帰って親に詳しく聞いてみます。ついでに墓参りもしようかな。
関係無いけど、もう亡くなったけど曾祖父は俳句やら茶道やら芸術に
通じた人だったらしいので、先祖も芸術に秀でた人だったらいいのにな
と思ってたんですけど。
さすがに関係ないかな。
- 168 :
- 過去帳は残っている事が多い。
- 169 :
- 地元で調べた方がいい
- 170 :
- 新決定した大河ドラマ『江』に多少なりとも出番ありますでしょうか?
前半ならなんとか…
…ないか?
- 171 :
- あるわけないだろ
- 172 :
- >>171
何故そのように断言できる?
- 173 :
- 昨今の大河見てれば想像つくでしょ。
少しでもマイナーな人物を削除して役者の数を減らし、
視聴者の注意を一部の重要人物と有名人だけに集めさせる。
もちろんここには有名なイケメン俳優をもってくる。
この大河もまたイケメンと三傑が大活躍する話になるさ。
- 174 :
- >>173
浅井氏にとっての六角氏は上杉氏にとっての武田氏か後北条氏みたいなもんだけどね。
- 175 :
- 上杉でいうと山内上杉が近いんじゃない?
天地人で山内上杉の存在がどうなされたかを考えたら、
とても期待できないってすぐにわかると思うよ。
これは六角氏に対する愛情からの助言です。
- 176 :
- >>176
>上杉でいうと山内上杉が近いんじゃない?
は浅井氏の場合にそれに当たるのは京極氏ではないですか。
浅井氏にとって六角氏は戦火を交える敵である時期が長いですが。
>これは六角氏に対する愛情からの助言です。
これは出ないほうがマシという意味ですかな?それはそうかもしれませんな。
ところで「助言」って誰に対する助言ですか。NHK?
- 177 :
- >は浅井氏の場合にそれに当たるのは
の冒頭の「は」は削除漏れです。スマン。
- 178 :
- 越後は山内の分国ではないからね。
越後上杉は山内の格下ではなく、むしろキングメーカー的な立場であるから、
京極氏とは異なる。
>助言
もちろん六角氏ファンに対する助言ですよ。大河に出ることなんか期待してると痛い目にあいますよ。
今年の大河の惨劇をみてくださいw
- 179 :
- 結論:六角氏だろうが浅井氏だろうが直江山城だろうがテーマは…
…『愛』!
- 180 :
- >>178
別に期待しているわけではないが、つくづく断言の好きな予言者様ですね。
- 181 :
- ↑なぜそんなに六角の大河出演を望んでるんだ?
- 182 :
- >>181
>>180を素直に読め。
- 183 :
- あなたが佐◯木哲さんですか
- 184 :
- 六角義治=六角精児
- 185 :
- 哲さん結構面白い。
- 186 :
- 名君だったといわれている定頼の功績ってどんなのがありますか?
義賢、義治の半生ならだいたいわかってるけど…
楽市楽座導入くらいかな?
- 187 :
- 管領(代行)として幕政を執り仕切ったり
浅井久政を屈服させ、事実上近江一国を統一したり
- 188 :
- ありがとうございます!
やっぱそのへんの時代が六角家最盛期みたいですね。
- 189 :
- 戦国期でいえばそう。
- 190 :
- 近江国の戦国期の歴史は、以下のとおりです。
近江国の正式守護は、六角氏でした。その時、北近江守護は、
軍事部門に限り京極氏でした。
しかし後、北近江地域の軍事部門以外の権限も京極氏が吸収し、
事実上京極氏は、北近江半国守護になります。
京極氏が北近江の実権を握った結果、
六角氏は南近江守護になってしまいます。
その後、戦国時代になり北近江の京極氏は、浅井氏に下克上されます。
その結果、
北近江は、浅井氏が支配し、南近江は六角氏が支配することになりました。
そして、織田信長登場後、両者とも信長に滅ぼされることになります。
- 191 :
- 浅井や京極や浅倉や若狭武田との関係は良好だったの?
- 192 :
- 前、三雲成持の単独スレを立てるという無謀な行いをした時に
三雲氏の子孫さんから貴重なお話を聞けたんだけど、このスレ覗いてたりしないかな・・・
- 193 :
- >>192
貶してるんだか有り難がってるんだか・・・・w
- 194 :
- >>192
ログ残ってたら、コピペしてよ。
- 195 :
- そのスレに覚えあり。
- 196 :
- >>193
スレを立てたのは俺、そこへ子孫の方がこられた。
当然、有り難がってるよ
「三雲成持の話題だけで1000を目指すスレ」(159)
- 197 :
- 観音寺城攻めたいわ
夏休みにでも行こうかな
- 198 :
- 信長に滅ぼされた後、義治は甲賀衆を使ってゲリラ戦を展開したり、甲斐の武田家にやっかいになってたとか、秀頼の弓師範になってたとか聞くんですが義賢はどうしちゃってたんですかね?
もう復活はあきらめて甲賀あたりでひっそり人生すごしたんでしょうか?
- 199 :
- >>198
諸説あり。
縁戚の能登畠山を頼ったとか、本願寺に属してたとか。死んだのは京都。
とりあえず表舞台には信長にやられた後出てこない
- 200 :
- >>160
六角は東軍側で戦って家康が所領を与えようとしたけど断ってる
- 201 :
- >>200
またまたご冗談を。
- 202 :
- 三好もそうだけど、完全に自分の勢力範囲、もしくは直轄地ってのが
少なかったんじゃないか?
被官は多かったろうが、信用できる支配関係にある豪族・国人が少なかったんだろう。
- 203 :
- 面を支配するか点の支配の留まるかが、戦国大名と守護大名の違いだからねえ。
- 204 :
- すいません。その面の支配と点の支配のくわしい説明をお願いします。
- 205 :
- 守護大名は領国統治といっても、把握しているのはせいぜい守護在所といくつかの重要拠点のみ。
土地にしても人にしても、多くは間接的な把握に留まっている。
これに対して戦国大名は、その領国の土地も人も、ほぼ直接に把握している。
これが点と面の違い。
- 206 :
- 守護大名が自分の家来に土地を与えて支配させているのと戦国大名が自分の家来に土地を与えて領国を支配しているのはまた違うとゆう事ですか?
- 207 :
- そこで信長は点の支配を重視した
- 208 :
- >>206
家来って書いてるから把握しにくいんじゃないかな?
守護大名の家来は大きく言うと2種類あり、直属家臣と国人衆。
直属家臣は領地を守護から知行されるという形をとることが多く、守護の直接支配を受ける。
国人衆は朝廷や幕府から与えられた土地を昔から守り続けていることが多く、
行動方針は地縁に基づいているため守護の命令を必ずしも聞かない。
守護大名は直属家臣<国人衆であるため>>205のいう点の支配が多いが、
戦国大名は国人衆の家臣化を進めて直属家臣>国人衆となり、面の支配を行うようになる。
大雑把にいうとこんなもんか。
206は国人衆も守護の直属家臣だと見なしてるんじゃないかな?
- 209 :
- そういう考えで見ると
武田・上杉なんかが信長に遅れを取った大きな一因だよね。
- 210 :
- >>209
いや、むしろ信長の体制は、武田、上杉に比べてすら立ち遅れていた。
仕組みとして守護大名と大差無いのが信長の織田家。
彼は晩年になってようやく戦国大名化したといってもいい。
- 211 :
- 信長に先駆けて、六角氏が楽市をやっていたという主張ですが、出典の今堀日吉神社文書は、大正時代に発見されたものであり、天皇の院宣を偽造した文書が含まれているそうです。
信用して、大丈夫なのか?
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26215/1/cdats-hub7-4.pdf
また、江戸初期編纂の六角氏の伝承の江源武鑑(偽書とも言われる)にも、該当年次に、楽市はありませんでした。なぜ、楽市という先駆的な事跡を記録しなかったのでしょうか?
安土楽市令は、信長の天下布武の朱印状。美濃加納楽市令は、信長の花押。
に対して、今堀日吉神社文書のほうは、六角氏の当主の花押はなく、家臣の連署状である。
他にも、今川氏真の富士の浅間神社の門前市の楽市のほうが先だという主張もあるらしい。
六角、今川といずれも信長に敗れ去ったという共通点。負け惜しみか?
神社の古文書というのも怪しい。
- 212 :
- 楽市が先駆的だという発想自体が近代以後のものだろ。
- 213 :
- 有名になったのが信長あたりからで、実際に行っていたのはもっと前からだろうね。
- 214 :
- 有能で人望も厚かった後藤賢豊が乗っ取ればよかったのに。
- 215 :
- 近江佐々木六角源氏
- 216 :
- 近江源氏、佐々木六角とか
- 217 :
- 幕府に対する影響力は強かったのにね。
- 218 :
- でも幕府に対する影響力があった時期はかなり短かったのでは?
- 219 :
- 高頼の晩年から、定頼、義賢の観音寺騒動までの、
三代約5、60年に亙って影響を与えたと思うが?
細川氏のように強い影響を与えたというわけではないが、
足利氏の分裂・細川氏の内訌で衰えゆく幕府を支えた一方の雄だとは思うぞ。
- 220 :
- 高頼、定頼の時代はともかく義賢の時代にも幕府の政治に対してかかわりがそこそこでもあったでしょうか?
- 221 :
- >>220
幕政に関わりがあったかといえば??だが、
足利義輝と三好長慶の対立では義輝を擁護してる。
三好氏も足利氏側に立つ朽木・六角を警戒していた。
長慶の義輝に対する最終的な妥協は背後にいる六角義賢に対する牽制とも取れる。
能動的に幕府に関わることのみが「幕府に対する影響力有り」というわけではあるまい。
義賢個人よりも「六角氏」という看板の影響力が重要なわけで。
- 222 :
- 太閤立志5の六角はかっこいい
- 223 :
- >>217
そもそも幕府の影響力があったのは畿内5カ国しなかったわけで>室町幕府
- 224 :
- >>223
応仁の乱以後はそうだな
- 225 :
- その勢力圏の中の実力者。
- 226 :
- 畿内は六角なしでは語れない。
- 227 :
- 足利、三好の次だけどね。
- 228 :
- >>227
細川さんをお忘れなくw
- 229 :
- すいません。細川家すっかり忘れてました。
畠山家はどう?
- 230 :
- 戦国中期までは両畠山の対立こそが畿内の戦乱の現況。
- 231 :
- あと義材 義澄系。
- 232 :
- 細川だって京兆家内で争ってるし
- 233 :
- 近江が山城の隣国という点で 六角の位置を押し上げている。
- 234 :
- どうして観音寺騒動なんかが起こっちゃったんでしょうね?
コレが六角家滅亡の原因のひとつではあるし?
まぁこれだけ長く続いた大名家だと一族や家来の中でのいろんな派閥争いや闘争が起こるのはしかたないだろうけど。かなり残念。
- 235 :
- 斯波の存在感のなさは異常。
- 236 :
- そりゃ、権臣除かないと守護権力がますます形骸化するもの>観音寺騒動
六角義治は当たり前の努力として守護権力の強化に取り組んで、
六家老はじめ重臣たちは当たり前の反応として大名専制の試みに反発した
結果的には、義治が後藤害という形で打ち出した改革への試みは、
重臣団の抵抗に守護権力が全く弱体化している事をさらけ出しただけに終わった。
古今東西よくある話に過ぎない。
この時期にやらなくても、ってのも数年後を考えたら却って遅すぎたぐらい。
- 237 :
- あ
- 238 :
- 家にあった古い小説に『浅井長政〜戦国浮世門〜』とゆうのがあったので読んでみました。
もちろん浅井長政が主人公なんですが六角氏は四大特徴のある強敵として描かれてました。
@日本一ともいえる日置吉田流の弓術隊
A五畿内一の騎馬隊
B琵琶湖を完全支配する水軍
C精悍無比の甲賀武士団
確かに小説なんで多少はオーバーに描かれてはいると思うんですが実際はどうだったんでしょうか?
- 239 :
- そこまで堂々とした、機能別に分化した軍組織を持っていたわけじゃないだろうな。
良くも悪くも六角の軍隊は国人の寄せ集めなので。
そう言うシステマチックな軍隊を作るためには、大名権力の強化が必要だった。
それをしようとした。でも失敗した。
- 240 :
- 典型的な守護勢力だからね。
- 241 :
- >>238
弓術は当主が名手だったな。
- 242 :
- 騎馬隊って時点でうさんくさいな
まあ名門だから騎馬武者は多いとは思うけど
- 243 :
- >>239
@当主や家臣に弓の免許皆伝持ってる人はいるけど、
弓隊が特筆するほど六角の戦いで活躍したって記述は見た記憶が無い。
Aこれも確か義賢が馬術の免許皆伝だったはずだが、騎馬隊の活躍も見たことないな。
B琵琶湖水軍(堅田衆)は、それ程戦闘力無い。末期は浅井と六角の間でいったりきたりしてる。
完全支配?してたと言えるのかな・・・半ば独立勢力的に動いてたような
C甲賀の国人衆が軒並み六角に好意的だったのは事実だけど、末期はその辺も離反した連中多いからなあ
また甲賀出身の国人衆が六角配下として活躍したってのも「鈎の陣(長享・延徳の乱)くらいのような
- 244 :
- >>243
@については、蒲生郡誌に、三雲三郎左衛門が弓隊を組織して京都での三好との合戦で松永久秀の部隊を退けたという記述がある。
- 245 :
- これ俺、
以前むすみ氏って読んでたよorz
- 246 :
- 六角氏に属してた山中氏の居城・山中城について調べているのですが
縄張りとか、何か情報ありますか?
ネット上だと伊豆の山中城ばかりがヒットして
城郭に関する本も何冊か調べたんですが
やはりマイナーなのか、近江山中城の情報がないんですよね…
- 247 :
- 動員兵力も多く、一時はキングメーカーとして天下を動かしていたこともあるくらいなのに、
信長にボロ負けしたイメージが強すぎて可哀想だね
でも何でボロ負けしたんだろう
- 248 :
- そら観音寺騒動でしょうな
- 249 :
- >>248
つーか、観音寺城落された後も何年間もゲリラ戦やっているわけだから、
本拠が落ちたらそれで終わりの大名(武田・朝倉とか)と違って即滅亡とは言えないのでは。
優勢な敵に対してはさっさと城を明け渡して伊賀・甲賀地方に引き篭もるってのが伝統的な戦術で、
観音寺は平時の館、伊賀・甲賀地方が他の大名で言う詰めの城ってイメージ。
後北条氏が上杉・武田に小田原城を包囲されても領国支配体制が崩壊しない(秀吉には負けちゃったけど)のと同じで、
他の大名と違う防衛システムが出来上がっているとか。
- 250 :
- >>249
朝倉とか武田は有力一門(朝倉景鏡・穴山信君とか)が寝返ることで
一応、(一時的にだけど)御家存続には成功してるので
本拠落ちておしまいというわけではない。
一部の一門が勢力を残したまま降伏するのが勝ちなのか
当主自らゲリラ戦しなきゃならないといけないほうが勝ちなのか
結果は瞭然じゃないの
- 251 :
- 江口の戦いの後で兵を返さずにそのまま晴元と合流して
長慶と対峙すれば良かったんじゃないかなぁ
- 252 :
- んと、スレ違いなのは重々承知なのですが
戦国IXAというヤフーの無課金ゲーがあるんだけど
ここで六角同盟を作ったので六角好きの人は来てちょー
(六角家は大名として存在しないので、浅井家の中にいます)
http://w008.sengokuixa.jp/alliance/info.php?id=35063
- 253 :
- IXAって六角勢いないよね
雨森弥兵衛くらいしか登場してなかったきがす
- 254 :
- 浅井勢は結構いたような・・・赤尾とか久政とか。
六角勢は皆無だね。蒲生さん辺りはいてもよさそうなもんだが
そこ出自の武将が充実してるのって織田・徳川・上杉・武田くらい?
あとはスカスカだよね
んで、なんで東北が伊達じゃなくて最上なのか気になるw
- 255 :
- IXAは竜造寺勢が充実してるのが気になる
- 256 :
- 子孫は旗本と加賀藩士か
- 257 :
- 六波羅の朝敵だし
- 258 :
- >>250
六角ゲリラパターンは斎藤龍興もそうだよね。
- 259 :
- ふむ、
- 260 :
- p
- 261 :
- 近江修理大夫が最大の謎(「士林證文」に一通あるのみの人物)
佐々木哲は六角氏と見做しているみたいだけど、
江州宰相(足利義晴)を六角義久とか言っちゃう人だからな・・・
- 262 :
- 義賢、義治はそれぞれ何処に亡命してたのん?
- 263 :
- 甲賀とか伊賀じゃなかったか
- 264 :
- 信長が上洛したときの「江州殿」は、
六角義秀だよね?
- 265 :
- 「江州殿」はどう考えても「江州宰相」の後継者と言うべき足利義昭だろ
- 266 :
- >>262
六角義治は天正元年くらいから義堯と改名して足利義昭と鞆にいる
- 267 :
- >>265>>266
馬鹿馬鹿しいくらいのデタラメ乙
- 268 :
- >>265
なんで江州に居ついたことのない義昭が
江州殿なんだよ。
義輝すら江州と呼ばれたことがないぞ。
- 269 :
- >>268
矢島御所
- 270 :
- 一乗院から脱出した後で一年くらい近江に居なかったっけ?
和田惟政の所とか矢島とかに
- 271 :
- >>267
六角氏綱の子孫は、織田・豊臣・徳川・細川・三好・武田ら他の大名側の史料にも登場せず、
唯一根拠となるのが沢田源内の著作のみで、後は日記等に登場する氏名不詳の人物を
苦しい理屈でこじつけただけですけど、それは「デタラメ」と言わないの?
- 272 :
- >>268
足利義栄と足利義昭はどちらも左馬頭だから、
「左馬頭殿」と呼んでも区別できないから
「江州殿」と呼んだんでしょ
- 273 :
- 堀部やすべえってほんとに六角氏庶流なの?
- 274 :
- >>271
実名敬避俗で実名で呼ばれず敬称で呼ばれている高位の人物である為に実名史料がほとんど無く
三次史料の信長公記に登場しないと言うだけで存在を必死に否定してるだけだろアホが。
と言うか存在してると信長に不利になるから意地でも認めないだけ。
- 275 :
- なぜ六角義治と義堯の花押があれほど似ていたのか、けっきょく謎なんだよなぁ。
佐々木氏も似てた理由を著書でちっとも触れてないし。
- 276 :
- >>274
六角氏綱子孫の話で実名敬避俗は当てはまらないのでは?
実名敬避俗とは諱を避けることであるが、
例えば、「義久」という諱だけで呼ばれている人物を
こじつけで六角氏と認定しているだけでしょ。
そもそも高位なら朝廷側の記録に「源義久」と必ず残るよ。
六角氏綱の子孫は織田・豊臣・徳川・細川・三好・武田ら
他の大名側の「一次史料」にも登場していないよ。
- 277 :
- >>275
活動時期がかぶらなくて、年代的に花押の形が継続している人物は同一人物と見做す、
というのが歴史学の原則だと思うけど、
それを否定したら、他の改名した人物についても同一人物だと認定できないよね。
- 278 :
- http://blog.sasakitoru.com/200602/article_55.html
>信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした(『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条)。
>この江州殿は義秀だろう。ただし義秀が傷病に苦しんでいたことを考えれば、実際に入洛したかどうかは疑問である。
>『言継卿記』に江州殿の記事がないことからも、彼自身の入洛はなかったと考えられる。
『お湯殿の上の日記』には、信長と江州殿しか登場せず、江州殿を六角義秀と仮定すると「足利義昭に相当する人物」が登場しない。
『言継卿記』には、信長と足利義昭しか登場せず、六角義秀に相当する人物は登場しない。
二つの史料を合わせて解釈して、江州殿=足利義昭、となる。
「江州殿は傷病に苦しんでいたから『言継卿記』に登場していないだけ」という理屈では、
『お湯殿の上の日記』で、「足利義昭に相当する人物」が登場しない理由にはならない。
- 279 :
- 義昭を江州様と呼ぶなどと一次史料で一切出てこないし、
亡命後の大半は越前にいたのに
一時的に近江にいたからと言って江州様などと呼ぶと主張するのは恣意的解釈過ぎる。
そもそも上洛行動時の義昭や信長は三好派の一部公家からは賊呼ばわりされたりしてる。
また時代によって敬称が変わっている人物が別の家の史料で名前が違うからといって
別人とか存在が確認されないと言う主張もおかしい。
- 280 :
- 矢島に居るときに左馬頭に任官して義栄と両立するようになってるから
恣意的というよりむしろ説得力あるだろう
- 281 :
- はっ?何言ってんだ…
吉田神社経由による非公式の左馬頭任官じゃねぇかw
だから賊呼ばわりされてるわけだが。
- 282 :
- 同じく賊扱いされるはずの信長のことは触れているのに、足利義昭のことを触れていないのは変でしょ?
『言継卿記』や『多聞院日記』に、足利義昭や織田信長は記載され、六角義秀は記載されていないのに、
『お湯殿の上の日記』に登場する「江州殿と信長」という二人のなかに足利義昭は含まれず、六角義秀が含まれる、
というのは変だと思いませんか?
>>279>義昭を江州様(ママ)と呼ぶなどと一次史料で一切出てこないし、
六角義秀を江州殿と呼ぶ一次資料も無いですよ。
足利義昭の父・義晴は「江州大樹」「江州宰相」と呼ばれていたのに、
奉じている足利義昭を差し置いて六角義秀を「江州殿」と呼ぶ方が変だと思いませんか?
- 283 :
- 馬鹿だな
信長らと違い義昭の入京は遅れてるのも知らんのか
- 284 :
- 『言継卿記』では、9月26日時点で足利義昭は清水寺にいるとありますが・・・
- 285 :
- お湯殿の上の日記だと、義昭は「一条殿」と表記されているんだが
- 286 :
- 『多聞院日記』では数日の間であっても(将軍就任前の)足利義昭の呼称が
「公方」「上意(様)」「将軍」と日によって異なっているから、
書き手が異なる『お湯殿の上の日記』でも表記のゆれが発生するのでは?
- 287 :
- 『お湯殿の上の日記』永禄十一年の全部を読んだけど、「江州殿」又はそれに相当する人物の記載はありませんでした。
なので、例のブログの記事(下記参照)は、ブログ主の想像か沢田源内の創作(『江源武鑑』?)が根拠だと思われます。
『お湯殿の上の日記』『言継卿記』『多聞院日記』の該当箇所には足利義昭と織田信長しか登場せず、
六角義秀に相当する人物は登場していないことを確認しました。
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_55.html
>信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした(『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条)。
六角義秀実在説を唱える人は、最低でも「江州殿」が登場する一次資料を提示しないと今のところ信憑性が全く無いでしょう。
そのうえで「江州殿」が六角義秀か足利義昭かを議論すべきでしょう。
- 288 :
- 自分も図書館行った時に永禄十一年九月二十二日の条付近見たけど載ってなかったから
変だと思ってたんだ。永禄十一年通して無かったのか。
ブログの中の人はどういう勘違いをしてるのかな?
- 289 :
- 『佐々木六角氏の系譜』によると、
「てうしとの(江州殿)・かつさ(上総)」とあるそうだけど。<永禄十一年九月二十二日の条
- 290 :
- 永禄十一年九月二十二日の条
「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて(以下略)」
永禄十一年九月二十六日の条
「一てういんとのきよみつまで御しやうらく
みつふちきやうふのたゆふみやうはんまいらせられて
おたのかつさおほせつけられ 御けいこかたく申付られ候よし
御申候よし くわんしゆ寺申さるる」
「一てういんとの」=一乗院殿=足利義昭
「おたのかつさ」=織田上総=織田信長
「みつふちきやうふのたゆふ」=三淵刑部大輔
「一てういんのふけ」(永禄十一年十月六日の条)
「をたの大将(略)ふけより(不明)」(永禄十一年十月八日の条)
「ひかしよりてうしとのかつさいて候」で「江州殿(と)上総」と読むのはかなり恣意的。
- 291 :
- そうなると、「てうしとの」は「上使殿」とでも字を当てるのかな?
- 292 :
- 永禄十一年九月前後の「てうし」の用法
「こかのちこ御めんにて けふさんたい申さるる ひきにきぬ二ひきすへてまいる
きちやう所にて御たいめん なかはしより御てうし まき色々まいる
御やうきうあり」(六月六日)
「なかはしよりたいの物 御てうしまいりて 御やうきうあり
あしたとくしやうしゆゐん御みやくにまいる」(七月二十二日)
「上らふより御てうし みるまいりて よし田より御はらいまいる」(七月二十九日)
「御やうきうあそばす 大す しん大すけ殿 長はし御三人より御てうし
たいの物まいる」(八月二日)
八月三日から七日、九月六日などに「てうし」が出てきます。
- 293 :
- それならてうしが
足利義昭の可能性はゼロなんだよな…
- 294 :
- 「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を取り上げて
「六角義秀と織田信長が足利義昭を奉じて上洛」と解釈した
某ブログの中の人のデタラメさがはっきりした、ということ。
- 295 :
- 「てうし」が上使だとしたら、立入宗継あたりのことかも知れないな。
- 296 :
- 「てうし」を出しているのは
「なかはし」=長橋局=勾当内侍
「上らう」=上臈、ら女官が多いね。
「みつふちきやうふのたゆふ」は
「みつふちひやうふのたゆふ」とも読めるので
同じ日の『多聞院日記』にある
細川兵部大輔(藤孝)のことですね。
- 297 :
- 「東よりてうし殿」を「一てういん」と無理やり同一視する捏造をして
足利義昭だと捏造解釈して破綻すると今度は「御てうし」と同一視を開始し「上使殿」だと無理くり解釈するとかwww
次々と大嘘を繰り返し吐いててワロタw
何で西からではなく東からやってくるんだよw
じゃあ上使って誰のことを指してんだと認識してんだよw
- 298 :
- ブログで「信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした」
としたうえで、「江州殿」を六角義秀に比定していたから、
「江州殿」という人物が一次資料に出てくるとしたら、それは足利義昭だろう、と思いました。
しかし、原典にあたったところ、「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」という記載
だったので、他の用語例から見て、「てうしとの」を「江州殿」と読むのは不可能と判断しました。
「東よりてうし殿」を「一てういん」と同一視するつもりは全く無いですよ。
「てうしとの」は足利義昭のことではなく、もちろん六角義秀のことでも無いと思います。
>>297が「東よりてうし殿」を六角義秀のことと考えているのでしたら、根拠をお願いします。
- 299 :
- 『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条の「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を根拠として
「信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした」と解釈することこそが捏造だと
思うのですが、>>297はどのように考えているのでしょうか?
- 300 :
- 上使…幕府、朝廷、主家など上級権力者から公命を帯びて派遣される使い。
だから、義昭の上使という考えはできる。
- 301 :
- ほかに「てうしとの」の用例がないか、
誰かしらみつぶしに調べないかな?
- 302 :
- ここは六角氏のスレなので、
「かうしふとの(江州殿)」という記載が見つからなかった以上、
もはや「てうしとの」はどうでもいいような気もするけど
- 303 :
- 六角義郷と義秀は兄弟で、義久の子だってどっかで見たような
- 304 :
- てうし殿の用語例なんて一つたりとも出てないだろ…なに言い出すんだ?頭おかしいのか?
まさか御てうしが同一だとバカな勘違いをしてるのか?
- 305 :
- そもそも「てうし」って「ちょうし」だよね、歴史的仮名遣いだと。
だから「てうし」が「江州」になるのが最初からおかしい。
- 306 :
- >>305
ぇっ?自己流ワロタw
- 307 :
- 原文だと「こうし殿」に読めるとか
- 308 :
- 『佐々木六角氏の系譜』に「てうしとの(江州殿)・かつさ(上総)」
とあるなら「こうしとの」に読めるということはないだろうが、
もしも「こうしとの」を「江州殿」を読んでいたとしたら、筆者の素養を疑われるかと
- 309 :
- >>308
お前の素養の方が疑われるけどな
- 310 :
- >>309は「こうしとの」と書いて「江州殿」と読めるのか・・・
- 311 :
- 州は
し
しゅ
す
とか読めるしな
- 312 :
- 「かうしふ」と書かなければ「江州」とは読めないでしょ
「こうし」と書いて「江州」と読ませるなら、
せめて同じ用例を見つけないと無理
- 313 :
- 『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条の
「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を
「六角義秀と織田信長が足利義昭を奉じて上洛」と解釈するには、
@「てうしとの」を「こうしとの」の誤記と仮定
A「こうしとの」を「かうしふとの」=「江州殿」と読む
B「江州殿」を六角義秀と推定
という3段階の論証が必要だけど、Bは
近江守護なら「江州殿」と呼ばれるはずだ、という希望的推測であり、
少し前に「江州」と呼ばれた人は足利義晴であることを考えるとかなり苦しい。
そもそも六角義秀が近江守護ということ自体を証明するのも無理だろうけど。
- 314 :
- 「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」
かつさ(上総:織田信長)を敬称つけずに呼び捨てなのは、『お湯殿の上の日記』記入者の立場からでしょ。
てうし”との”って敬称付きで、かつさの前に記載しているってことは、
朝廷の序列からみて、織田信長と同列に置けない立場ってことだよね。
それからみても、てうしとのが、大名クラスの武士を指しているってことはないんじゃないの?
上使(天皇の使者だから本人の位にの高さに係なく)とか足利義昭を指すというならともかく。
- 315 :
- 「て」と「こ」の原文からの判別は難しい。
また同時期の書状で義秀が登場していて
江州殿が義秀である可能性は高い。
義秀遠行之趣絶言語儀候 承禎帰国者近可有之条
各尤油断有之間敷候 武田事若州可相催之間寄特候
委細沢田兵部少可申述候 謹言
五月十一日 信長
浅井備前守殿
そもそも義昭が江州殿とする合理性がない。
江州殿の地位を継承したの者が承禎親子から大本所と呼ばれる義堯だろう。
そしてその2人の間に氏郷が存在し
朝倉と信長が和睦した同日付けの信長→山岡宛で
国主が還附候とも〜と近江の国主が存在してることを示している。
氏郷は蒲生郡に比叡山を再建したことは
信玄→上野(義昭側近)での織田を倒して比叡山を復興させると言ってるのにつながる。
お湯殿の上の日記で「かめこまん 中御たるしん上申」と書いてあり
亀寿(義秀)と中(氏郷)が一緒に音物を献上しているなど
義秀の後見人と見られ、義秀と義堯の後見をしていた人物だろう。
六角本家は朝廷と関わりが深く、承禎親子は朝廷との関係が深くないのが史料から見える。
- 316 :
- そもそも江州殿と義晴は呼ばれたことはない。
江州大樹と呼ばれていたのを拡大解釈してるに過ぎない。
大樹とは将軍のことを示唆しており
将軍の義晴が幕府を観音寺城へ移転させたから江州大樹と呼ばれていたに過ぎない。
義昭は将軍にすらなっておらず、そもそも観音寺城にすら入城できなかったのに
江州殿を義昭とするのこそ希望的観測。
江州宰相は参議=相公の地位にいる者に付けられるもので
六角義実であり、この人物が京都政界に参加してる時期に
六角嫡子の幼名である亀(義秀)が天皇家にいろいろと献上してる記事が登場する。
観音寺城にいた義晴と近衛尚道の娘の婚儀にも四郎殿親子が登場しているが
六角四郎の子息が亀だと思われ、その三ヵ月後に義晴が入京したが
六角四郎(江州宰相)も供奉してる。
- 317 :
- ツッコミどころが多いのだが(そもそもブログそのままだが)
足利義昭が入京直前(永禄十一年九月二十二日以降)にいた観音寺城内の桑実寺は、
足利義晴が仮の幕府を置いていた場所だということを知らんのか?
「亀」が六角氏というのもこじつけだよ。
足利義晴の幼名も亀王だし、この時代の人の幼名は鶴亀松竹梅ばかりだよ。
「義秀遠行・・・委細沢田兵部少可申述候」の文書も沢田源内が偽造した文書だとわからないのか?
六角義実が参議になったという記録は全くない。
「こうしとの」を「江州殿」と読める類例を教えてくれw
- 318 :
- 六角義治≠六角義堯という説も、義治は花押を変えているというのが別人の根拠だけど、
『戦国遺文』読んだら、その違う花押を使っている書状だけ「治(花押)」なんだよね。
他の数十通の書状は全部「義治(花押)」と名前を略してない。
「治(花押)」だけ六角氏じゃない、全くの別人なのではないかと。
- 319 :
- 六角義治と六角義堯の活動時期はかぶらない
(一時期、義治の記録が残っていない時期だけ義堯の記録がある)
義治後期(元亀頃)の花押と義堯初期の花押が同一型
こういうときは同一人物とみなす
(別人だということを証明するのは難しい)
- 320 :
- >>317
>>足利義晴が仮の幕府を置いていた場所
知ってるが、その義昭が入った時期は承禎らが甲賀へ撤退して
六角氏伝統戦術の甲賀・伊賀でのゲリラ戦に移行した時期でしょう。
そりゃあ承禎らがいなくなったんだから入れるが
しかしそれは入京直前の話であり屁理屈に過ぎない。
>>鶴亀松竹梅ばかりだよ
そんなことないよ。
>>沢田源内が偽造
その根拠は?
>>六角義実が参議になった
系図を信じるか信じないかは任すが
丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や
沙沙貴神社所蔵佐々木系図で従三位参議兼近江守として義実が記される。
幕府から近江守護に補任され、朝廷から国司である近江守の官職ももらい
父の氏綱も近江守に補任されているので江州殿と呼ばれるに相応しい。
>>類例を教えてくれ
類例を探すなんて言ったら外の言葉もみんな類例のない事例がたくさんあるだろ。
そんな無理な要求をするもんじゃないよ。
少なくとも「こう・し」を「江・州」とあてることは不自然ではないでしょ。
>>319
活動時期はかぶってる。
義治の書状での署名で以前まで義治の下に花押していたのが
天正3年までに「治」や「右(右衛門)」の下に花押を書く変更をしており
義堯はそのまま変わらず義堯の下に花押してる。
しかも明らかに「治」ではなく「堯」と書いて花押し続けてる。
義堯が江州殿の後継に成長したために義治が変更している証拠で
しかも義治の花押も弧を描かなくなっている。
河田文書(上杉)や吉川文書(毛利)で義堯は
また別な花押が使用されてるし(書止めが跳ねたり跳ねなかったり)
そもそも承禎から山中文書において
池田景雄(六角重臣で信長に仕えていた江州衆)が義堯の使者として
承禎の元へやってきて父子相談したと書いてある。
三河方面のことや三好甚五郎ら四国衆渡海、義堯挙兵を義昭が期待してること
なども書いてある。
このことから義堯が承禎親子と反対に信長方に付いていたのも明らかで
信長と上洛戦を主導した江州殿の後継者であることもわかる。
お湯殿の上の日記における亀千代(義堯)が1552年11/27に髪置をしているが
公家式では2歳で行われるため元亀3年で22歳(義治は亀松丸と呼ばれたから別人)
坂内文書においては承禎はまだまだ若輩の義堯を大本所(天正4年)と呼んでおり
義治は承禎を御屋形(永禄9年)や大御屋形(元亀元年)などと呼んでおり序列も判明する。
また黒川文書で義堯はくわしい内容は賢が申すと書いており、承禎が義堯の下の格付けである。
謙信宛の書状でも承禎は謹上と書いて宛名を書いており厚礼だが、義堯の謙信宛には上所がない。
義堯は武田や本願寺や義景遺児や小早川や一向一揆にも
書状を出しているが、いずれも義治のものとは思えない。
- 321 :
- >>316で
>将軍の義晴が幕府を観音寺城へ移転させたから江州大樹と呼ばれていたに過ぎない。
義昭は将軍にすらなっておらず、そもそも観音寺城にすら入城できなかったのに
江州殿を義昭とするのこそ希望的観測
と言っていたから、足利義昭は(足利義晴が仮の幕府を置いていた観音寺城内の)
桑実寺にいた、と書いたのだが。
しかも「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を本当に「江州殿」と解釈できるなら、
まさに該当記事の日辺りに桑実寺に入っているのは、天下に対して、
「江州大樹」の子がその後継者たることを示したものだろ。
六角義秀(?)と織田信長に触れながら、(桑実寺にいる)足利義昭のことに触れない、
と解釈するほうが「屁理屈」だろうが。
大内氏も亀童丸であり、足利義晴(江州大樹)も「亀」だったのに、
名字不明の「亀」を全て六角氏と解釈するほうがおかしいだろ。
まともな史料に登場しない「沢田兵部少」が信長と浅井長政の取次をする、
という時点で沢田源内が作った、と考えないほうが毒されすぎ。
>丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や沙沙貴神社所蔵佐々木系図で従三位参議兼近江守
それが朝廷の記録に残っていない理由は?
織田・豊臣の記録から抹消されたと主張するのは陰謀論者の典型だが、
徳川や他の大名の記録にも残っていないという時点で気づけよ。
>「こう・し」を「江・州」とあてることは
文語と口語がごっちゃになっていないか?
「江州太守」「江州刺史」と「江州殿」は全く違うぞ。
土岐氏が「濃州殿」と呼ばれるような事例があるか?(どうでもいい話だが)
- 322 :
- 「光源院殿御元服記」に全然名前が無いのはなぜ?
佐々木氏の本を信じれば、その頃すでに六角義秀が元服しているのだが…。
定頼・義賢父子の名前はあるし、場所も坂本だから、参加しない理由は無いはず。
- 323 :
- 病弱だから参加してないんじゃないの。
だから陣代を担がなくちゃいけなくなって、
そのせいで内部分裂してる。
- 324 :
- >>160 我が家にも同じ伝承があります。
佐々木六角氏の先祖の何人かが豊臣方に味方したので徳川に味方した先祖は姓を佐々木から澤に変えたという話を祖父から聞きました。
家紋は墓にも彫ってありますが丸に隅立て四目です。
50年ぐらい前までは滋賀県の大津市に貸家もあって月に一度、家賃を受け取りに行くのに一緒に行ってました。
明治になってからかどうかわかりませんが最後は曽祖父は京都で造り酒屋をしていました。家の宗旨は曽祖父から日蓮宗でした。
大津市近辺で佐々木系澤氏について何かご存知の方はおられないでしょうか?
祖父も父も年配の親族も死んでいますので詳しいことはわかりません。
- 325 :
- >>320
六角義治と六角義堯の活動時期がかぶると言っているのは
「先度被申候、池田使昨夕来候、上文候所も無之候、申談之候間、
然處義堯之文申旨候者、夜前申来候者事、申□□能□候、何共
難計躰之条、昨夕父子迄相談候、夜中ニ人被越候、子細事、
一途於覚之可申候、書中ニハ難申置候、□□具不申、相申次第、
是有間敷候、乍□其□候、申子細共候、□□□□三州表之儀
候、可寄候、又四国衆等え者、渡海之事申遣候、三好甚五郎
罷上など申候、二□□□□、以上申来候、猶京都相聞候、出座
之儀者、態可申候、此砌弥郡中之儀、才覚可為肝要候得、
猶青可申候、恐々謹言、十月二日 承禎(花押)」(山中文書)
を元亀三年と解釈し、
「狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
猶賢可申候、謹言、二月廿日 義堯(花押)黒川修理進殿」
(黒川文書)を天正二年と解釈しているからでしょ?
三好甚五郎を誰だと考えているか知らないですけど、
政勝は元亀二年に一任斎と呼ばれているし、
可正は元亀三年では若すぎますよね。
三州表は武田勝頼時代(天正三年頃)の話でも矛盾しませんよ。
黒川文書の年次比定の根拠は七月十五日付承禎書状で
辻和泉守という別人が使者になったときの文書とからめて
天正二年と判断している時点で無理がありますよね?
ここで「賢」を義賢と解釈するのもどうかと思いますが・・・。
- 326 :
- >>323
「光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚」
(足利義輝時代と足利義昭時代)なら
たとえ病弱でも名前くらいは記載されるはず
ですが、六角義賢と義治しかいませんね。
- 327 :
- >>324
>佐々木六角氏の先祖の何人かが豊臣方に味方したので徳川に味方した先祖は姓を佐々木から澤に変えたという話を祖父から聞きました。
残念ですが、この手の”本当は○○氏の子孫だが、追求を逃れるため・・・”ってのはよくある話ですが、眉唾ものだと思います。
大坂の陣参戦者でも、合戦直後はともかく、ずっと犯罪者扱いで徳川家から追われたわけではありませんから。
例えば、肥後細川家の家老米田是季(長岡監物)は、一旦細川家を離れて大坂入城していますが、
元和8年に元の細川家に帰参しています。
まして参加した当人でないなら、そこまで身を隠す必要はないと思います。
- 328 :
- >>327
聞いた話では追求を逃れるためではなく姓を変えるのが条件のような形でそのまま徳川の配下になったようです。
大津近辺でかなりの土地持ちだったそうなので暇が出来たら戸籍をたどってみることにします。
- 329 :
- http://blog.sasakitoru.com/200602/article_84.html
『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)で
「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参」とある「四郎」とは「六角四郎」
と解釈しているけど、前段の「六角殿」と「四郎殿父子」とを同じ六角氏と考えられのかな?
そういうときは「六角弾正少弼殿」「同四郎殿父子」と同じ名字でなおかつ区別がつくように
書かれると思いますが。
あえて同じ六角氏だと解釈するなら「六角殿と四郎殿(の)父子」と解釈するのでは?
すなわちここでの「四郎殿」は六角義賢と言うのならわかりますが。
- 330 :
- 1518年 六角氏綱死去(定頼還俗?)
1519年12月 佐々木四郎・・・隆頼?定頼?
1520年 六角高頼死去
1521年 六角義賢誕生
1525年 5月 六角高頼?(朝倉始末記)
1526年 5月 某隆頼願状・・・定頼?
1534年 5月 御曹司様伊崎へ御参・・・義賢?
1534年 6月 六角殿(略)四郎殿父子・・・定頼&義賢父子?
1534年 6月 大樹坂本御滞留六角四郎并小原等供奉仕云々・・・義賢?
1534年10月 四郎殿様御在京・・・義賢?
1535年 5月 御曹司様・・・義賢?
1535年 7月 四郎殿様・・・義賢?
1535年12月 御曹司様・・・義賢?
1536年 御曹司様・・・義賢?
1537年 1月 某宗能安堵状
1537年 六角定頼 近江守護補任
1537年 5月 御屋形様御祝言・・・定頼
1539年10月 六角上洛子息上洛今度左京大夫云々・・・義賢
1541年10月 佐々木四郎公能
- 331 :
- >>329
>「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参」
(婚姻の儀式?に)六角殿が烏帽子姿で参上した。
その後の御色直しには(六角殿に加えて)四郎殿親子も参上した。 ってことで、四郎殿父子は六角一族って解釈でいいのでは。
前の文章と関連しない人物の場合なら、(例えば)細川四郎殿父子みたいにはっきり判るように書くような気がする。
ただ、普通に考えると、御色直しにだけ出席が許されている四郎殿父子は、どちらにも出席している六角殿より
地位が低いと思うんだけど、佐々木さんはそう考えないんですね。何故か。
現代の場合でも結婚式>>披露宴>>2次会って感じでランクがあって、血縁が近かったり社会的地位があって招待されないと
より大事な場面には出席できない。
六角殿が(六角)四郎殿の代理ってのも考えにくい。
ただ六角殿って書いてあったら当然当主を指すわけで、代理なら六角殿の代理の○○殿という感じではっきり書くと思うので。
- 332 :
- >>330
>1537年 六角定頼 近江守護補任
>1537年 5月 御屋形様御祝言・・・定頼
これって、年齢的に考えて、義賢のことじゃないの?(数えで17)
- 333 :
- >>332
南北朝時代はともかくこの時代に17歳での守護職補任は無いかと
- 334 :
- >>333
家督を継ぐ=守護職補任ってほぼ同時期だと思ってました。
官位は家督を継いだあとも、だんだん家格にしたがって上がっていく場合がありますけど。
ってことは高頼が死去した後、1537年に定頼が守護になるまで20年近くは近江守護は空席?
後、例えば同時期の下記に挙げたような人たちも、家督は継いだけど正式な守護になっていない可能性もありますかね?
系図などの記録では守護の肩書が付いていますけど。
駿河守護
今川氏輝
1526年 家督相続(14歳)
1536年 死去(24歳)
能登守護
畠山義続
1545年 家督相続(?歳:姉妹が義賢室なんで同年代と考えると20代半ばくらい?)
畠山義綱
1551年(?歳:父義続と共同統治、おそらく10代)
1566年(下克上で追放、おそらく20代半ばから後半)
- 335 :
- >>334
六角定頼が隠居したのなら17歳での守護職補任もあるだろうけど
9年後に定頼が管領代になっているから、まだ定頼が守護じゃないかな?
六角義賢と畠山義総女の婚姻は1539年だろうし。
- 336 :
- >>325
君は「賢」をどう解釈するの?
- 337 :
- 隠岐賢広とか種村賢仍とか「賢」の付く六角家臣がいるのに、
なぜ義賢と確定できるのか不思議でならない。
- 338 :
- 「賢」が付く六角家臣がたくさんいること自体、義賢が六角家当主という証だよな。
後藤とか蒲生のような最有力家臣にもいるしね。
- 339 :
- というか、義賢の家系が当主でなくて陣代に過ぎないんだったら
六角氏の被官が一字拝領しちゃうほうがおかしい。
鎌倉時代だったら、御家人同士で、烏帽子親から貰うってことはあるけど。
室町将軍が幼いからって、各地の守護や国人が管領や御一家の一字を貰ったりせずに、
ちゃんと将軍の一字を拝領しているのと同じ。
- 340 :
- >>325
「猶青可申候」・・・青地氏か青木氏か青山氏
「猶賢可申候」・・・大原賢永?
既に承禎と名乗っていた人物を「賢」とは言わないだろ。
- 341 :
- 賢と書いただけで相手が理解できる以上は義賢じゃないかな。
家臣ならちゃんと大原賢永とか大賢とか名前+職名なり書くだろう。
そもそも上位者がわざわざ承偵なんて呼ぶわけもないし。
- 342 :
- 例えば大原賢永が前に使者になったことがあるなら「賢」でもいいのでは?
- 343 :
- >>341
上位者と言っても親子兄弟(同じ佐々木名字)だからとかじゃないか?
- 344 :
- 1 勅使殿と読むと主張し論破されると
2 江州殿は義昭のことと主張して論破される
3 すると「かうしふ」は江州と読めないよ絶対に!
こりゃあ、いくらなんでも節操なさ杉じゃね?
さらに都合が悪いと沢田源内が偽造した文書に違いないと根拠すら挙げずに主張する始末。
そもそも佐々木氏郷(丸亀京極家と懇意)と
沢田源内を事実誤認で同一人物にしちゃうアホが建部賢明。
さらに沢田源内が生まれた時期に
江源武鑑が沢田源内によって著述されたとトンデモ発揮w
大系図評判遮中抄において沢田源内を乞食農民出身と中傷しまくり
ついでに建部賢明の主家の六角高定側が嫡流だと主張して
義治側の定賢が怒ってうちが嫡流だと争いになるバカぶり。
建部賢明の方が明らかにデタラメばっかり広めてるのは明らかな罠。
- 345 :
- てか義治って武田家にいたはずじゃん。
- 346 :
- >>345
武田家にいたのは佐々木次郎であって義治では無い
- 347 :
- >>344
そもそも「江州殿」という表記はどの史料にも見られないのに
「てうしとの」を「江州殿」と曲解した者が元凶だろ。
- 348 :
- >>347の暴発キター♪───O(≧∇≦)O────♪キター
火病発症して今までの議論推移を全否定wちゃぶ台ひっくり返しワロタwww
- 349 :
- >>348
ちゃぶ台ひっくり返しというか、
今まで議論してた連中は(どちら側も)、
フィクションである「江州殿」という言葉を前提に議論してたマヌケ達だと思う。
- 350 :
- >>325
承禎の書状
「猶京都相聞候」ってのが
京都に義昭がいる天正元年以前でないと辻褄が合わない。
近江の池田氏が織田側におり、池田の主人と見られる
義堯がこの時点ではまだ織田側にいることになる。
そしてその義堯が織田側から離反する内容であるが、
義治が織田側になっていた記録は存在しない。
親子というのを承禎と義治と解釈する方が自然。
10/2に三州表のことなど極秘情報の話をしており
10/3に信玄が西上作戦を開始したのと関係があると思われる。
義堯の書状
家臣の狛修理を「狛修」と呼んでいながら
別の家臣を「賢」と呼んだとするとダブルスタンダードで不自然である。
やはり承禎のことを指している(家臣だとたくさんいるからそれこそ職名を書くだろう)
しかも父に対しての書状なら猶賢被可申候と書くであろうし
また義治が父に出したのなら大御屋形と記述するはずで
いくら当主でも「賢」と呼び捨てにすること自体が不可解。
そもそも義治が父と離れた場所にいたとする記述は存在しない。
こちらの書状は東(武田)北(上杉)の共闘を匂わせているので
天正2年以降の書状でないと辻褄が合わない。
詳しくは>>320にて。
- 351 :
- ところで亀と名が付く人物がたくさんいると主張したようだが
結局、大内氏当主の義興が亀童丸・義隆(1507年誕生)も亀童丸&足利義晴(亀王丸)しかいなかったのかね?
六角高頼は亀・亀子・亀寿子と呼ばれており、
「かうのうり(江の瓜)を献上する」かめ・かめこ・かめしゆが
六角当主の幼名だとしても問題無さそうだが(大内当主も義晴もそう呼ばれないだろう)
六角嫡子の亀は鞍馬寺へよく行くが、江源武鑑では義秀の愛宕詣の記事がよく出てくる。
1541年の証如上人日記に佐々木四郎公能と言う公家風の名前の人物が記録される。
佐々木四郎は六角家当主を指しており元服前の実名が公能と判明する。
(1545年12/5に亀は元服している・義治の誕生も1545年)
1550年5月観音寺城にて大屋形義秀と朱書で書かれる犬追物書が存在する。
その一方で1550年6/26を最後に亀の記事は登場しなくなる(義晴の近江逃亡と義晴の死去の時期)
同一人物と考えても良さそうだし、これらの名前を義賢や義治のことだとするのは難しいだろう。
(江源武鑑が偽作家の沢田源内が書いたものとする建部賢明本人がそもそもデタラメ詐欺師)
もちろん江源武鑑に書かれているすべてが事実とは言わない。
- 352 :
- >347
>「てうしとの」を「江州殿」と曲解した者が元凶だろ。
つまり佐々木氏が諸悪の根源ですね。わかります。
- 353 :
- >351
>佐々木四郎は六角家当主を指しており元服前の実名が公能と判明する。
「四郎」で「公能」なのに元服前とか意味不明なのだが…。
- 354 :
- >>351
>六角嫡子の亀は鞍馬寺へよく行くが、江源武鑑では義秀の愛宕詣の記事がよく出てくる。
つまり、江源武鑑の記述が正しいという立場からいうと亀と義秀は同一人物ではないってことですね?
筆者が六角氏に連なる由緒正しい人物なら、すぐ隣国の愛宕山と鞍馬寺を間違うような知識も土地勘もない人物であるはずもないし、
鞍馬寺と愛宕山は歴史的には全く関係ないし、方角も全然違うから片方寄ったついでに立ち寄るばなんてことも考えにくいし。?
- 355 :
- 丸亀京極家が佐々木氏郷と共謀して
わざわざ詐欺を働いて六角嫡流を捏造する意味があるんでしょうか?
27歳で死去した氏綱には嫡男がいないとして義久の存在を否定し
従って、さらに義久の嫡男の義秀も存在しないとするが、
義実の実名が「鹿苑日録」によって義久だと判明し浅井久政の「久」の出所も判明するのに実在しないとするのはおかしいのでは?
(六角家臣の新藤久治・深尾久吉・山中久俊などもいる)
- 356 :
- 公能の名前は朝廷に出入りしていた
亀の公家風の名乗りに合致するが
さすがに元服したら六角当主として武家風の名乗りをするだろう。
京の北方へ詣でている事実は変わらず
愛宕詣というのは著者の勘違いか誤伝だろう。
- 357 :
- だったら出仕前に元服しろよというツッコミを入れたくなるw
- 358 :
- ケチをつけるのは簡単
義秀や義堯を否定したいなら
じゃあ登場する亀にしろ四郎公能にしろ
観音寺城の義秀にしろ
いったい誰だと主張したいのか明らかにすべき。
また義賢が大本所様と呼ぶ人物は誰なのか明らかにすべき。
- 359 :
- 京極高豊の子が六角氏郷の養子になったというが、京極氏の家譜にそんな人物は存在しない件。
- 360 :
- >>329
1534年(天文3年)なら
六角殿→定頼
四郎→義賢13歳
四郎の子→義治マイナス11歳
よって成立しませんよ。
六角殿→後見人定頼
四郎→六角嫡流の義実24歳
四郎の子→義秀2歳
これだとちゃんと成立します。
- 361 :
- >>358
逆、逆。 Aの史料に だけ 出てくる亀とか、Bの史料に だけ 出てくる四郎公能が同一人物であることを説明しなければおかしい。
AとBの登場時期がちょうどタイミング良くずれているだけじゃ亀が四郎公能になったと説明するのは無理ありすぎ。
例えば、Bの史料に幼名亀とあったとしたら、Aの史料と結びつけて考えてもいいかもしれないけどね
>>360
六角殿→定頼
四郎→義賢13歳
四郎の子→後に夭折、当時0歳(義治の兄)
これでも成り立つわな。
また、
>六角殿→後見人定頼
>四郎→六角嫡流の義実24歳
>四郎の子→義秀2歳
六角嫡流がいるのに、後見人を六角殿とは呼ばないだろ。
箕作殿→後見人定頼
四郎=六角殿→六角嫡流の義実24歳
四郎の子→義秀2歳 箕作殿
とかならともかく。
- 362 :
- そういえば
『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)
の存在自体がよく分からないのだが。
2007年に出した本のくせに内閣文庫所蔵なんて書いている時点で残念すぎるが、
国立公文書館デジタルアーカイブで検索しても、全く引っかからない史料。
ちゃんと再検証できるように正確に書いてもらいたいものだ。
- 363 :
- 分かった。頭の「天文三年甲午六月八日」が要らないんだ。紛らわしい。
- 364 :
- >>358
「観音寺城の義秀」という一次史料に出てこない人物を根拠にされても議論にならない。
「亀」と佐々木四郎公能が同一人物というのは、ブログ主の推測に過ぎない。
「大本所」とは、家督の義治(義堯)を隠居の義賢が第三者に示すときに使う呼称と考えても不自然ではない。
それよりも、史料で「大本所」とあるのを「大本所様」と改変するのは何故?
こういう恣意的な改変を行うと、主張の信憑性に関わるからやめるべき。
- 365 :
- >>361
言ってることが無茶苦茶。
否定のために無理くりイチャモンつけてるレベル。
そもそも六角当主の証明がなされているにも関わらず
あえて、それらを否定しようとする人物を、
では誰を指すのか証明もできずに否定なんて成立しない。
もう0歳を連れて行くなんて屁理屈レベル。
江源武鑑って初版が1621年で、承偵の次男の高盛(高定)が
死去したのが1620年と言う、まだ当事者達の多くが生きている時代にだろ。
虚偽が堂々と書かれてもバレる時代だし
しかも好評で、版を重ね続けてるし
自分の主家こそ佐々木嫡流と必死に主張してた建部賢明なんて
大嘘つきだし、
大系図評判遮中抄だって1700年代に出版だろう。
- 366 :
- >>365
>そもそも六角当主の証明がなされている
学術的な手順を踏んだ証明がされていないから皆批判しているのですよ。
- 367 :
- >>366
現在において
どんな高名な方が批判してるのが
学者名を教えてください。
その方の論文を読んでみます。
- 368 :
- 「皆」というのはここで議論している我々のことを言ったのだが・・・
「高名な方」は誰も賛同していない、という事実ならあなたも知っていますよね。
- 369 :
- >365
>江源武鑑って初版が1621年で、承偵の次男の高盛(高定)が
>死去したのが1620年と言う、まだ当事者達の多くが生きている時代にだろ。
最大の当事者である六角高盛が死んだから出せたという考えもできる訳だが。
- 370 :
- つまり高名な学者の名も論文も一切挙げられないということですね。
総括すると反論できない。もしくは黙認してると言うことでしょ。
義治が義堯と違うのは>>320で花印の話が書いてあるでしょうが。
それに信長公記に義治が鯰江城に承禎と籠城してるとする時期に
明らかに義堯は別の場所にいるのが書状からわかるわけだが。
- 371 :
- 六角高盛が死んだら
佐々木一族やその親類筋が全滅して
堂々とウソを出版しても批判されなくなるなんて
トンデモ過ぎて笑えるw
- 372 :
- 他の人が納得していない年次比定を根拠に、
「義治が鯰江城に承禎と籠城してるとする時期に明らかに義堯は別の場所にいるのが書状からわかるわけだが」
と言われても説得力が無いですよ。
- 373 :
- >>372
>>350に対する反論がなかったから
納得したと思ってたけど違うのなら
反論よろしく。
- 374 :
- >>350について
>京都に義昭がいる天正元年以前でないと辻褄が合わない。
根拠不提示につき理由不明。
>近江の池田氏が織田側におり、池田の主人と見られる義堯がこの時点ではまだ織田側にいることになる。
ここの「池田」が池田景雄かどうかも不明だが、当時の池田景雄が織田方であったとしても
相手方の六角義堯が織田方、とは限らないのでは?
>親子というのを承禎と義治と解釈する方が自然。
繰り返すようだけど「父子」を「親子」と改変する理由がわからない・・・。
「父子」は六角義賢&義堯、あるいは六角義賢&大原賢永でもいいと思うが。
「狛修」については「黒川修理進」という同じ官途の者への文書なので区別のために
名字を付けただけかもしれないし、「賢」は弟の賢永のことかもしれないので
何とも言えないが、少なくとも「承禎」入道を俗名の「賢」と呼ぶ方が違和感ある。
むしろ「堅田某」のことではないかと思えてくる。
花押の年次比定については、根拠が示されていないのでノーコメント。
酒を飲んでいるので文意が通じなかったら言ってください。
- 375 :
- >>371
>六角高盛が死んだら
>佐々木一族やその親類筋が全滅して
>堂々とウソを出版しても批判されなくなるなんて
>トンデモ過ぎて笑えるw
筆者の出自や記述内容に当時の佐々木一族の側から見て問題がないイコール
彼ら一族の家譜などの別系統の史料と内容が一致するイコール
現代の我々がそれらと比較・検証して、なるほど江源武鑑は信頼性がある史料だねと納得が出来るってもんだろ?
比較できる史料マダー( AA略
偽書として非難したり、筆者を批判した人は当時からいたみたいですけど
これは佐々木一族側からの批判ではないのですか?
- 376 :
- 定頼子孫以外にとっては、自家の記録を盛れる史料が増えておいしいんじゃないかと思ったりw
- 377 :
- >>374>>375
正直、なにを言ってるのか理解できないレベルなんだが?
イチャモン・思いつきレベルで書かれてもな。
ケチつけてるのって面白いの?
それと改変とか恣意的と書いてるが
別にワザとやってるわけじゃなくて、パッと見して
キー入力してるから、無意識に間違えてるだけ。
- 378 :
- 江源武鑑の内容が事実だとしたら、批判した佐々木定賢らは白い目で見られるだけであり、
なぜ批判したのかちっとも分からなくなる罠。
- 379 :
- >>377
六角義久という通説に反する事柄を主張するなら
主張者が他者を納得させるような論拠を示さないと
誰からも認められない、ということがわかりませんか?
あなたがちゃんと説明できていないから、
周りの人が不備な点を指摘しているのですよ。
- 380 :
- そうだよなぁ。
否定した書庫を出せじゃなく、まず自分の主張を納得させないと。
- 381 :
- >>374
京都に義昭がいる時期しか成立しないだろ・・・
義堯の造反の話なんだから織田方だろうが。
>>「父子」は六角義賢&義堯、あるいは六角義賢&大原賢永でもいいと思うが。
じゃあいったい誰が出した書状なんだよw
同じ官途なんて関係ないだろ。区別目的なら別に普通に「狛」でいい話だろ。
根拠も何も「義治」や「義堯」の花押を見たことないから理解できんのだろ?
義堯のように鞆幕府にまで付いて行ってる義昭側近の一色昭辰(昭国)も天正3年8/24に元春に
修理大夫一色義辰(一色義道のことで父は一色庶流の一色義幸)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。
などと書いてて、一色も六角同様に庶流は本国、その本国をどうこうできる
上位者の一色昭辰が義昭に同伴してるのがわかる。
>>378
江源武鑑が1621年(1615年に大坂夏陣)に出版されて好評な為に増版が繰り返され
その記述における六角家系に対して批判が始まったのは1700年代。
江戸時代中期に子孫同士の嫡流争いになり
故人となって反論不可能なことを良いことに
あれはウソと一方的キャンペーンで声高に喚いて、自分の主筋の佐々木高重が嫡流だと
建部賢明が主張して回っただけだろ。
しかも江源武鑑初版が出版された頃に生まれた人間と著者を誤認した挙句に
沢田源内と佐々木氏郷を同一視するデタラメの三重奏w
さらに完全な別人なのに、生きてたら俺がぶっしてやったのに悔しいとか言ってたら、
今度は「いやお前んトコも庶流だろ。義治は大原高定に家督譲ってねぇよ。だいたいかってにいろいろ引用すんなよカス」って佐々木定賢に激怒されてるしw
キチガイぶりを発揮して人格的にも疑われる建部賢明の主張を信じろと?
丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や沙沙貴神社所蔵佐々木系図が
完全に大デタラメとするソースは?
>>379>>380
朝から自演までしてwそもそも絶対に納得しないだろお前www
- 382 :
- 訂正
×じゃあいったい誰が出した書状なんだよw
○じゃあいったい誰が父子宛てに使者を池田にして書状を持たしたんだよw
- 383 :
- 秀頼に仕えていた捏造信長公記の著者で有名な売筆家太田牛一の太閤軍記
天皇の諒闇中に狩りをした秀次を激しく批判する京童の落首を引用
そこから生関白と秀次が呼ばれるが、そもそも上記の話は捏造。
ウソまで作り出して秀頼の統治を正当化するキチガイ
川角太閤記では秀次が讒言を受けたと記述する。
川角太閤記
田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」である。
証言が収録されたものには明智光秀の旧臣でその後前田利長に仕えた山崎長門守や、
豊臣秀次の馬廻であった林亀之助などがおり、
本能寺の変や豊臣秀次事件などに関する史料としてしばしば引用される。
- 384 :
- ケチつけてないで>>358
>>367
に対してちゃんと返答すべき
- 385 :
- 学会じゃ反論する以前に相手にすらされてない感じじゃねーの
著名な学者で肯定否定含め言及した人を見た記憶無いぞ
- 386 :
- 小野泰央
『万松院殿穴太記』の生成 -『太平記』・『万松院贈左府を悼める辞』との関係を中心にして-
東洋文化 三二三号 二〇〇二年
で、徳川公が義秀という説を否定しているな。
史料を確認したら、実は徳「阿」が正しくて、徳阿という人物は以前から名前が出ているので、
義秀じゃないという流れだったか。
- 387 :
- >383
>天皇の諒闇中に狩りをした秀次を激しく批判する京童の落首を引用
>そこから生関白と秀次が呼ばれるが、そもそも上記の話は捏造。
ええっ、今時捏造説を信じているとは!?
狩りの件は複数の公家の日記に出てくる話なのだが…。
- 388 :
- >>387
京童の落書が公家の日記に書きうつしてあるソースは?
>>385
相手にしてないとするソースは?
- 389 :
- >>386
佐々木氏が主張し出版する以前に
佐々木氏の主張の反論を小野氏がなさっていたとは驚きました。
- 390 :
- >389
佐々木哲
「万松院殿穴太記」作者と六角氏
ぐんしょ 三四号 一九九六年
で、すでに主張済。悪態をつく前に調べよう。
- 391 :
- >>390
知らないことだったから
驚いたと感想をもらすと悪態になるもんなの?
それに2007年にも佐々木氏は徳川公の話を主張してるが
それに対して小野氏はなんら反論してないじゃん。
- 392 :
- >>391の暴論に唖然となった・・・。
1996年に佐々木氏が徳川公義秀という主張
2002年に小野氏が徳川ではなく徳阿という反論
2007年に佐々木氏が徳阿説という反論に触れずに同じ主張を繰り返し
小野氏の反論に佐々木氏が再反論をしていないのに
なんで小野氏がわざわざ再々反論をする必要性があるんだ?
佐々木氏が小野氏の反論に対して何も再反論しなかった、という事実しかない。
- 393 :
- つまり小野は自分の意見を撤回したと言うことか。
- 394 :
- 佐々木氏が独り言ぶつぶつ呟いてる状態だな
だがみたいに
- 395 :
- そもそも
もし小野氏の言う通り近江での去時の義晴側近で
鹿苑院主妙安が敬意を称して
「徳川公」と呼ばれた万松院殿穴太記の作者が
実は「徳阿公」であるので相公とは別人だとしても
それが義秀の存在を否定することにはならないから
どうでもいい話じゃねぇか。
では義輝=大人相公の次席に位置する相公はいったい誰なのかと言う話で
江州宰相が相公と呼ばれ、御内書親子とも呼ばれていたわけで、
義晴死去時の御内所が義晴の正室慶寿院なので、
江州宰相がすでに亡くなっていて、まだ子の亀寿が御内書の役務を背負ってない、
または義晴臨終時に慶寿院が義輝の後ろ盾になるように頼まれてるから、亀寿の代わりに御内所だったということだろ。
- 396 :
- >>386
徳阿公って誰で何やってる人って書いてあんの?
- 397 :
- >>395
>江州宰相が相公と呼ばれ、御内書親子とも呼ばれていたわけで、
>義晴死去時の御内所が義晴の正室慶寿院なので、
>江州宰相がすでに亡くなっていて、まだ子の亀寿が御内書の役務を背負ってない、
>または義晴臨終時に慶寿院が義輝の後ろ盾になるように頼まれてるから、亀寿の代わりに御内所だったということだろ。
えーと、これって
江州宰相は亡くなった足利義晴
御内所は義晴の正室慶寿院
御内所親子の子供の方は義晴慶寿院夫妻の長男で後継者となった義輝(亀寿)
幼い義輝の代理を母である御内所慶寿院が勤めることになった
ってことでなんの不思議もない文だよなあと理解するのは、私が馬鹿なんでしょうか?
- 398 :
- >>397
そう主張する根拠の提示が全く書かれていないのはなぜですか?
- 399 :
- >>192
これか
http://logsoku.com/thread/hobby5.2ch.net/warhis/1089798657/
- 400 :
- 浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城したのって
やっぱり天正2年4月(1574年)なのかな。
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗してたのかな。
でも81歳で年齢的にもう残命はないし、しかも床に臥しているって書いてるから
もう病で立てないレベルくさいもんねぇ。
これだけ老いちゃ甲賀衆も見切りつけちゃうよな。
でも慶長3年(1598年)105歳まで生きちゃうんだよなwww
wikiは享年78歳とかデタラメ書いてるけど
承禎2人説とか絶対アリだろこれw
- 401 :
- 没年105歳って何がソースなの?
- 402 :
- 慶長3年死去は六角当主であって
承偵はさすがに生きてないとしてるよ。
- 403 :
- >>395
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_62.html
>義輝のことを殊更「大人相公」と記し、上位の相公であることを強調している
「大人相公」とは「偉大な相公」といったような意味であり、「大人相公」より下位に別の相公がいるという意味ではない。
すなわち「大人」に比較級の用法は無い。
これは漢語の基本の問題であって根拠とかそういう問題ではない。
「江州宰相」や「某義久入道」が六角氏という佐々木氏の主張は彼の想像に過ぎず、
具体的な根拠は「六角佐々木氏系図略」や「沙々貴神社所蔵佐々木系図」のみ。
>『鹿苑日録』の用語法からすれば、江州宰相は現職の将軍か/将軍候補者である。
>(中略)しかも当時、足利氏で近江(つまり江州)に逃亡していた人物はいない。
という論理展開で、近江と京を行き来していた足利義晴は「江州宰相」ではない、という強弁。
- 404 :
- 偉大な相公www
わざわざそんな事書かねぇよ超強弁にワロタw
- 405 :
- 単なる慣用的表現だよ
- 406 :
- まあ相公にもランクが存在した証拠だろうね。
いかなり慣用的表現を今回だけ特別に使う意味がわからん。
- 407 :
- 六角承偵が陣代とするのを否定するために
信長厨が必死なのはわかった。
織田秀信に対する秀吉や
秀頼に対する家康みたいな者がいても不思議じゃないよな。
- 408 :
- 居なくても不思議じゃないよ
- 409 :
- >>400
天正4年以降になっても承禎お爺ちゃん近江や伊賀でがんばって抵抗してるよ。
11/25北畠具教が信長によって謀された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし、
坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。
ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸(義景嫡子)書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に
佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
もちろん大本所と義治は花押が明らかに違うので別人。
花押が一緒に見えるとかほざいてるのは実際に見てないのに語ってるキチガイ
- 410 :
- 朝倉宮増丸が義景嫡子って・・・???
宮増丸が与三の家督相続のために動いているのに
- 411 :
- プププw
宮増丸=与三なのにw
また思い付きでケチつけたのバレたなw
- 412 :
- ちなみに切腹した兄が喜三で本人は正確には興三であり、弟が三人いる。
バカなやつがwikiに与三なんて書くから鳥羽景忠のことにされてるw
義昭側近の武田刑部のところに家督相続を認めてもらう為にまかりこす際に
佐々木源兵衞尉を使者に立てた。
- 413 :
- >>412
>ちなみに切腹した兄が喜三で本人は正確には興三であり、弟が三人いる。
「正確には」と言いながら「與」と「興」を間違えたり、
「宮増丸(義景嫡子)」「宮増丸=与三」と主張しながら「兄が喜三」「弟が三人」とか、
言っていることが支離滅裂なんだが。
>バカなやつがwikiに与三なんて書くから鳥羽景忠のことにされてるw
鳥羽与三景忠の兄は喜三景富なので、君の説明自体が鳥羽景忠のことになっているぞ。
「与三」の仮名を持つのは、鳥羽景忠以外にも経景系(尹景や景隆らの係累)が考えられる。
「宮増丸=与三」については是非とも根拠を示してほしい。
- 414 :
- 正直、2ちゃん如きで、わざわざ普通に変換されない旧字の與なんて調べないだろw
そこまで書いてるってことは原文読んでるのは理解できるし揚げ足レベル。
あと與の簡体字が与なのも知らんくせに揚げ足取るのもみっともない。
與=与で間違いではない。
いくら朝倉支流でも鳥羽より朝倉の方が本流だろうね。
そもそも鳥羽景忠は鳥羽城で死んだんじゃなかった?
生きていたとする根拠史料ってあったの?
三郎喜三が兄の景富と同一とするのもどうかねぇ。
基本的に親子が景忠と景富って法則で順番に名前を継いでるから
景富は景忠の父か息子であると考えるのが法則に従うと自然。
- 415 :
- >>414
>與=与で間違いではない。
そんなこと常識なのに、どうやったら「興三」と変換できるのか尋ねているんだが?
鳥羽景忠ではない、というのは同意だから、
「宮増丸(義景嫡子)」「宮増丸=与三」の根拠を示してください。
- 416 :
- 常識ってw
なんだ粘着質な方でしたか。
- 417 :
- 粘着質とか煽り文句を言っていれば勝ちだと思っているの?
- 418 :
- つうか君、明らかに原文読んでないよね。
(本来の相続者の)兄も死んで私は若輩で憚られるけど他に相応しい者もいないから罷りこしたので、
(宮増丸は與三と自分のことを呼んで)家督相続を仰せ出して下さいと書いてるじゃんよ。
家督相続が認められたら牢人達を率いて越前に乱入しますとも言ってるし。
- 419 :
- わざわざ宮増丸は自分の兄弟を説明する事で、
自分が正統な家督相続者であると解説してるのに、
その後の與三が宮増丸と別人なら、
前置きとして登場する兄弟解説はいったい何だっだよって話なわけだ。
- 420 :
- それと同じ理屈で、宮増丸が与三の弟ということも考えられるので
それだけでは同一人物という根拠にはならないけど、言いたいことはわかった。
「宮増丸(義景嫡子)」の方の根拠は?
- 421 :
- 兄が死んだので、宮増丸が若輩だけど家督相続するって言う話なら
義景嫡子と考えるのが自然。
あえて否定する理由はないでしょ。
否定するなら朝倉宮増丸をいったい誰と主張したいのか明示すべき。
- 422 :
- それと同じ理屈で、宮増丸が与三の弟ということも考えられるので
それだけでは同一人物という根拠にはならないけど、言いたいことはわかった。
「宮増丸(義景嫡子)」の方の根拠は?
- 423 :
- >>422は書き込みミスです
- 424 :
- 宮増丸が与三の弟とか主張がもう無茶苦茶すぎるyo・・・
- 425 :
- 愛王丸がされ、朝倉義景の血筋は絶えたので
織田信長に降った景鏡や景健が家督となったとも考えられるし、
或いは同名衆上位である与三右衛門景隆(景健の父)
の孫くらいにあたる与三が候補となったとも考えられる。
「朝倉名字の継承者がいない」という文書内容は、むしろ
義景嫡子ではないことの根拠になりそうな気がする。
そして、義景嫡子が生き残っていたら朝倉修理亮の文書に名前があるはず。
- 426 :
- 兄が死んで適齢期の朝倉名字の継承者がいないから
若輩なのはわかってますが私がって意味だそ。
- 427 :
- だから適齢期云々とは書いていないし、
「宮増丸」と署名しながら、
同じ文中で自分のことを「与三」とするのもありえないから。
- 428 :
- なに言ってんだ!?日本語不自由なの?
- 429 :
- 家を継ぐのに適齢とか無いだろ
当主が判断するのが無理な年齢なら後見人がつけばいい話なだけだし
- 430 :
- 朝倉を名乗る宮増丸本人が、
他に相続名字の者がいないと言ってることからも、與三が宮増丸本人だし、
義景不慮と死んだ義景を呼び捨てにしてんのは実子だからでしょ。
そう考えるのが自然。
違うと言うなら朝倉宮増丸はいったい誰だって話になる。
朝倉親類なら対抗できる者がたくさん出てくるからな。
- 431 :
- 実子じゃないから呼び捨てなんだろうな
- 432 :
- http://mimizun.com/log/2ch/history/1099056334/
- 433 :
- 何で六角スレで、朝倉家の話になってるんだ?
横レスすると、彼らは義景の嫡子じゃないでしょ。
嫡子なら、その点を主張することが、名跡継承の一番の名目となる。
そうしていないのは、義景直系が絶えてしまって、彼らと同じような立場のライバルが
他にも一族内から出てくる可能性がある状態だから。
他にいないってのは、ライバル達とは正当性が段違いっていう粉飾かもしれない。
義景を文中で呼び捨てにしているのは、他家に出した外交上の文書だから。
現代でも社外の人に自社の社長の話をするときに、「うちの○○が」みたいな感じで呼び捨てにするのと同じ。
- 434 :
- そもそも輝元を呼び捨てなのに、義景に敬称付ける意味は無いでしょう。
兄が三郎、喜三で次が與三なら、鳥羽三郎景忠・喜三景富・與三景忠の兄弟のことでよいのでは?
修理亮景嘉の次の序列くらいだから、二人が家督候補だったのでしょう。
- 435 :
- >>433
また言い加減な妄想設定をダラダラと…
ライバルがいないから、当然のこととして
わざわざ主張する必要がないんだろ。
しかも義昭の元ともなれば、
朝倉の事情もすぐわかる話だし。
死んだ元就や隆元を
隆景は元就とか隆元と書状で書いたりするが、
家臣は日頼様と死んだ元就を呼んでいるわけだが。
- 436 :
- >>434
公儀(義昭)より立場が低いが
元春や隆景とは家格が劣らない朝倉嫡子だから若輩でも同格として呼び捨てにしてんだろう。
- 437 :
- しかしむちゃくちゃだな。
朝倉宮増丸が兄や弟の説明してんのに、
その宮増丸はその兄弟とは一切関係ない人物だと曲解する精神が理解できないし、
三郎喜三を三郎,喜三に無理やり分割読みまで
持ち出してまで我田引水するんだから。
さすがに驚愕するわ。
- 438 :
- 「弟三人相残候」という文で與三と宮増丸ともう一人が生き残ったと解釈できる。
そもそも無関係だったらわざわざ「弟三人」の話などしない。
- 439 :
- >>438
もうお前の頭がおかしいとしか思えんわ。
- 440 :
- 「三郎」も「喜三」もどちらも一般的な仮名と呼ばれるものであって、
「三郎喜三」という仮名になることはないですよ。
「喜三」が諱だと言い張るのでしたら、それは構いませんが、
朝倉氏の場合それはないでしょう。
- 441 :
- ちょっと議論が噛み合っていませんが、
>>437
>宮増丸はその兄弟とは一切関係ない人物だと曲解
私は「宮増丸は『弟三人』の中に含まれている」と言っているのですが、わかりませんか?
- 442 :
- >>440
原文が別れてないのに無理やり分割した挙句にそんな屁理屈を出してくるとはw
>>441
>>437で指摘されたから
また屁理屈を作り出した結果が>>438だろ。
だから俺は呆れ果てて>>439の発見をしたわけだ。
そしたら今度は最初からそう思ってたみたいな発言w
どうしようもねぇなお前って。
馬鹿馬鹿しくて相手にできんわ。
- 443 :
- 発見じゃなくて発言な。
すぐ揚げ足を取る人だから
訂正はキチンと書いとくわ。
- 444 :
- >>438>>440>>441
あんな簡単な内容の書状を
屁理屈こねて究極の難文書にして面白いのか?
お前の主張どおりなら、誰も読解できないわ。
どんだけ複雑怪奇な文書内容にするつもりだw
注釈だらけの文書になるわ。
- 445 :
- そもそも鳥羽なんて朝倉の序列で言えば7位程度でしかない。
鳥羽以外の朝倉系男子が完全壊滅してたとは思えない。
彼らより上位に位置する者じゃないと誰も納得しない。
宮増丸が家督権利者として義昭のところへ行くなら理解できるが、
景忠が家督継承者なら、なんでわざわざ若輩者の宮増丸が
派遣される必要があるのか理解不能。
しかも家臣筋のくせに増長して前当主の義景どころか
輝元や元春まで呼び捨てにするほど弁えが無い。
鳥羽ごとき家格で右馬頭輝元を呼び捨てにできるわけがない。
- 446 :
- 指摘事項が逆に新鮮だ!
- 447 :
- 便所の落書きになに熱くなって言い争いしての?w
これだからきもオタヒキニートはwww
- 448 :
- そろそろ、この論争もういいよ
六角スレが盛り上がるのは結構だが、いい加減飽きたわ
少しは三雲さんの話しろよ
- 449 :
- まあリアル子孫にとっては
必死に成らざるを得ないからなw
もう佐々木晢に個人的恨みがあるレベルw
そんなら反論論文でも出せば良いのにな。
- 450 :
- 負け犬の遠吠えってやつだな、これは。
- 451 :
- >>448
>少しは三雲さんの話しろよ
肉付きよくて、抱き心地よさそう。
俺的には、十分ストライクゾーンだ。
- 452 :
- >>449の意味不明
なんでリアル子孫が関係あるんだ?
「佐々木晢」ってw
- 453 :
- >>452
当事者必死乙
- 454 :
- >>449が言いたいのは
「佐々木哲様に逆らう奴は六角定頼の子孫に違いない」
ってことか?
- 455 :
- 佐々木哲に反論する本を出さない限り黙認と同義だな。
- 456 :
- 誰にも相手にされてないと同義だな。
- 457 :
- 相手にされていないというか、視界にさえ入ってない状態だろうな。
佐々木氏の説を取り入れた概説書とか書いた人いるの?
- 458 :
- やっぱり当事者の私怨だなワロタw
- 459 :
- 反論できないから書けないの間違い。
- 460 :
- ネット上では、そうやって勝利宣言?してれば済むんだろうけど…
現実には佐々木氏の研究が他の研究者の研究に引用されて役立ってるとかって無いだろ
反論だけでなく賛同もされても無いっていう
- 461 :
- 反論できない→相手にしてないと負け惜しみwww情けねぇwww涙出たwww
- 462 :
- 部数の少ない本で戯言ほざいて、誰も触れなければ勝利宣言って悲しくないの?
- 463 :
- 一般の歴史好きに知られて、議論されて、受け入れられるのがゴールだと思っていたが、
賛同派は勝ち負けとかなぜそんな低い次元の話をしてるの?
- 464 :
- >>449
それが現実だよね。。
- 465 :
- http://blog.sasakitoru.com/200504/article_13.htmlは、
天正三年五月四日の武田玄蕃頭宛佐々木承禎書状で「高盛(中務大輔)」としているが、
「至三州表有御出馬・・・随而中務太輔差下候処・・・猶高盛・落合八郎左衛門尉可申候」
という文面だから中務大輔(大原賢永?)と六角高盛は別人じゃないのか?
- 466 :
- 哲への粘着話はもう飽きたから別スレ立ててやってくれ。
- 467 :
- ならば他の話題を出してくれ
- 468 :
- 三雲さんについて熱く語る時がきたか ガタッ
- 469 :
- 焼き物技術はどうなん?
美濃焼きにもう押されてたの?
- 470 :
- 今度、石田治部少輔就反逆、為北国表大将雖相頼、一圓無御同心、
誠以御神妙之至に候、御本餘之事、可隨御望候。委細徳永式部卿法印に申含候。恐々謹言。
九月廿八日 家康
佐々木少将殿(六角義郷)
義郷は家康の申し出を拒否した。
- 471 :
- それ六角じゃなく京極高次のことじゃないのけ?
- 472 :
- 京極高次は文禄4年に少将となっているし、文意を見ても高次の行為と合致するな。
- 473 :
- それ知ってる。
その書状の説明で、身に一寸の功績無いのに貰えないって断わった義郷の潔癖さ褒めてんだよね。
だけどまだ家康の書状を持ってきた徳永の目の前で家康の申し出を断わるとかどうなんだ?とも書かれてるんだよね。
- 474 :
- この頃から言ってたんだなw>>200
- 475 :
- >>家康の申し出を断わるとかどうなんだ?
そのツッコミを入れられるのは仕方がない。
そのツッコミ入れてんのが若狭小浜藩(大老酒井忠勝)のトコのヤツだから。
西軍に味方するように言われるが、拒否ったのでしてしまえって雰囲気になったが、
三成が義郷は近江の国主だからすと近江が治められなくなるから
今はそんな暴挙は止めた方がいいと言ったから助かった。
- 476 :
- 何もしていない、何ももらっていない、ということにすれば好き勝手に書けるという訳だ。その辺が上手いよなぁ。
- 477 :
- >>476
徳川幕府公認だからw
涙ふけよw
- 478 :
- また他人の事績朴ってるのか
- 479 :
- >477
>徳川幕府公認だからw
で、何に書かれてるの?
- 480 :
- 「赤垣伝兵衛録」と「結城新三秘録」に書いてある
- 481 :
- 偽史料名を2つ挙げる芸風…
あんた明智光秀スレに居た人か
- 482 :
- せっかくだから佐々木少将が京極高次のことではない理由を挙げてください
- 483 :
- >>480
大岡越前にいたキャラクター名だなw
小松政夫と西郷輝彦。
- 484 :
- >>482
若狭小浜藩に聞いて下さい。
- 485 :
- 六角義郷とか架空人物の話はどうでもいいです
- 486 :
- 否定に必死
子孫乙w
- 487 :
- 捏造に必死
佐々木哲厨乙w
- 488 :
- >>340>>341「猶賢可申候」について
山内首藤家文書の(天正4年)10月2日及び10月3日
の六角義堯書状で「猶重而可申候」はどう読むのかな?
- 489 :
- 人名を指すのではなく重ねて
だろう。よく使われることば。
- 490 :
- なお重ねて申すべく候
- 491 :
- >>482
その書状を京極高次宛とする学者や著作物を挙げてみて下さい。
- 492 :
- >>491
そもそも「佐々木京極氏古文書」所収文書だよ
- 493 :
- >>492
見たけど見当たらないけど?滋賀県史資料編に載ってる?
- 494 :
- 東京大学史料編纂所「佐々木京極氏古文書」の「徳川家康書状写」
- 495 :
- 「葉隠聞略」においては、鍋島直茂が氏郷を
六角氏正統と認めてる発言してるね。
丸亀藩の京極高豊の子を養子にした氏郷が六角氏の家宝をあげちゃったよね。
- 496 :
- >丸亀藩の京極高豊の子を養子にした氏郷が六角氏の家宝をあげちゃったよね。
『京極氏家臣某覚書抜萃』を見ればわかるが、天和年間の稲葉丹後守正則を「諸司代(原文ママ)」としているし、明らかな偽書だよ。
- 497 :
- そのくらいの事実誤認はよくある話
珍しくもない。
- 498 :
- 「事実誤認」という理由で証明になるという主張をお持ちなら何も言うことはありません
- 499 :
- 京極高豊の子を養子にしたというが、京極家譜見ても該当する人物が見当たらないな。
- 500 :
- >>494
東京大学史料編纂所が収集した
佐々木京極氏の関連古文書群それぞれの
入手経路や由緒書を調べてからレスをくれ。
- 501 :
- もう他人の事績朴るのやめろって
- 502 :
- 否定に必死
子孫乙w
- 503 :
- 捏造に必死
佐々木哲厨乙w
- 504 :
- 世間一般で否定されている話なのにもかかわらず、
「子孫乙」と言っている方は被害妄想があるのでしょうか?
- 505 :
- 反論本も出せないほど論破されていて
晢のいない2ちゃん戦国板と言うトイレの落書きだけで強がる可哀想な当事者…
- 506 :
- 早く世間一般に知られるといいですねw
- 507 :
- >>500
どうみても明治頃のものであり、信憑性は無いだろ
- 508 :
- >>471
5/7の高次宛ての家康書状では高次を大津宰相殿と書いてるから
佐々木少将殿が高次を指してると言う指摘はまったくのデタラメの思いつき。
- 509 :
- 大津城落ちてて大津宰相というのは可笑しいし
やっぱ佐々木少将は高次のことだね
- 510 :
- >>509
すげぇ苦しい言い分けだなwwwさすがにワロタ
- 511 :
- 9/7家康→大津宰相殿
9/7家康→政宗書状内で
「大津宰相殿」・「京極殿書状を披見」
と言った文面が書いてある。
譜牒餘録9/23井伊書状
「大津之儀」「宰相様」
やはり大津宰相のままで「佐々木」や「少将」
なんて言葉を高次に対しては使われてない。
- 512 :
- 9/28以降の書状を出さないと反論されるだけだろうに…。
- 513 :
- そのあたりに考えが及ばないあたり、ID:xL/Q/+tbはかわいいな
- 514 :
- などと負け惜しみの駄レスをする
>>512>>513の哀しい自演でした。
- 515 :
- とりあえず反論するつもりなら
高次に対して関が原以後に
徳川から「佐々木少将殿」と
宛名する書状を実例として
早く出して
あなたの主張の正しさを
証明してみせてくださいね。
楽しみだなぁ。
- 516 :
- >511まで調べているのなら、9/28以降で佐々木少将と書かれていない書状を出したほうが早いだろうに…。
- 517 :
- >>516
負け犬乙www
- 518 :
- 最晩年の小浜時代の高次に対して家康が
「京極宰相殿」宛てに下記の手紙を出してるんだがw
鮭は主に日本海からだし、まさか近江国を小国などと言わないよな?
殊に生鮭到来祝着之至に候 将又其国之儀雖小国候
爰元手寄に候間 先進上候處 御気に入御有付之由承候
左様候得者 弥令満足候 猶井伊兵部少輔可申候 恐々謹言
- 519 :
- そもそも「佐々木京極氏古文書」自体が偽文書なので無意味な議論です
- 520 :
- むしろ、京極高次を大津宰相とか京極殿と表記して佐々木殿とはしていないんだから、
>>470 の文書の信憑性のほうがあやしくなるんじゃない?
つまり、>>519
- 521 :
- オワタ
- 522 :
- 顔真っ赤にして>>518が漢文もどきをタイピングしてるのを想像すると涙出てきた
- 523 :
- >>520
どの学者や論文が
それを偽書状だと主張してるの?
まさかあなたが論破されたから
偽書状ニダと主張してるわけではありませんよね?
- 524 :
- どこの学者や論文が
それを本物の書状だと主張してるの?
誰も学術的にはまともに主張していないから
誰もわざわざ偽書状だとは主張していないよ
- 525 :
- >>524
はいはいキチガイ乙
- 526 :
- レッテル張り乙
- 527 :
- 成立年代からしたら、江源武鑑から写しただけという可能性も十分あるからなぁ。
- 528 :
- えっw
必死にその書状は高次へ宛てたものだと
何度も繰り返し主張してたはずなのに
論破されると一転して偽書状だとか言い出すわけ?
とすると、最初に本物の書状と言う前提で
高次宛て書状だと粘着固執してた主張は
なんだったわけかねwww
- 529 :
- >>528
え?
まさか、最近レスしている人と佐々木少将=京極高次説をいった人が
同一人物とか(何の根拠もないのに)思ってないよね?
自分とその人と二人しかこのスレにいないとか思ってないよね?
誰でも書き込める匿名の掲示板だよ。
- 530 :
- 追い詰められて
別人宣言キタっwww
- 531 :
- お前みたいにID変えて別人に見せるなんて酔狂なことやってるのは他には居ないよアホw
- 532 :
- >>531
自演乙w
- 533 :
- 孤立無援のなか必死に六角義秀や義郷の実在説を主張する理由は何ですか?
- 534 :
- 哲に恋人でも取られて屈辱を味わされて
醜さ丸出しで私怨粘着する40代後半のキチガイ自演男ハケーンw
- 535 :
- 本当に申し訳ありませんでした。自作自演お詫びいたします。
お詫びに我が家の古文書を差し上げます
- 536 :
- >>531
子孫必死すぎきめぇ
- 537 :
- 江源武鑑が刊行されて400年近く経つのにこの程度の扱いなので、実在説派は必死にならざるを得ないw
- 538 :
- 実在説派沈黙
- 539 :
- だがはこんなとこでまで暴れてんのか
- 540 :
- だがさんってなぜ江源武鑑を信じているの?
- 541 :
- >>537>>538>>539>>540みたいに
粘着を繰り返して執拗に常駐して
最後にレスすればクソな主張でも
勝利判定になると誤解してる
偏執者っているよね。
- 542 :
- だがのことか…
- 543 :
- >>541
佐々木さんのことを悪く言うなよ
- 544 :
- >>541
フィクションには反論のしようがないのをいいことに
「誰からも反論されていない」で勝利宣言する常套手段
- 545 :
- フィクションなら
一次史料を根拠に赤子の手をひねるほどに
難なく論破できるはずなんだがw
論破されてる自覚はちゃんとあるんだなワロタw
- 546 :
- 偽造史料に反論できる一次史料が無ければ論破、って言ってるだけじゃん
- 547 :
- >>546
それはつまり偽造史料では無いからだろ・・・
- 548 :
- はい論破^^
- 549 :
- >>547
「六角義実が参議になった」という時点で偽造では?
- 550 :
- 勝ち負けとかどうでもいいので、早く世間一般の認識を変えてくださいw
- 551 :
- そういえば「葉隠聞略」という恥ずかしい間違いはいつになったら修正されるのだろうか?
- 552 :
- 細川高久って六角氏だっけ?
- 553 :
- たぶん違うでしょ
- 554 :
- 赤垣伝兵衛
- 555 :
- い
- 556 :
- 話題投下
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_83.html
>『長命寺結解』の「天文三年十月結解米下用」に、「四郎殿様御在京之時」とある。
>この記事の四郎殿様が、『厳助往年記』同年十月条にある将軍義晴の入洛に供奉した六角四郎と同一人物である。
>これに対して同年の「注進天文三年十二月結解米下用」で「五月十五日御曹司様伊崎へ御参ノ時」とあるように、
>定頼の子息義賢は御曹司様と記され、四郎殿様と書き分けられている。
ここで言う「御曹司」は、「堂上家の部屋住みの子息」という意味で、嫡男である「四郎殿様」の下位者なのに、
「御曹司=嫡男」と勘違いしていることによる誤解ではないかな?
だから「四郎殿様」は義賢で、「御曹司様」は別人でいいのではないかな?
- 557 :
- 六角氏を堂上家というつもりはないので訂正
×「堂上家の部屋住みの子息」という意味で
○「堂上家の部屋住みの子息」というような意味で
- 558 :
- ↑
気違いか?
- 559 :
- 堂上家の四郎様と混同してるw
- 560 :
- 「御曹司」という言葉が「嫡男以外の部屋住み」という意味の例として堂上家を挙げただけで、
「四郎殿様」と堂上家を関連付ける気はないよ
- 561 :
- 村上源次郎
- 562 :
- >>560
>「御曹司」という言葉が「嫡男以外の部屋住み」という意味の例として堂上家を挙げただけで、
当然、同時代・同地域の史料で、嫡男以外を御曹司様って呼んで、はっきりと嫡男と区別している史料をお持ちなんですよね?
例えば、六角義治と六角義久が列挙されてて、弟の義久のほうを御曹司様って呼んでいる史料とか。
- 563 :
- そんな史料があったらそもそも佐々木哲も勘違いしないのでは?
- 564 :
- 細川高久は大原系らしいけど。
- 565 :
- 六角義久が出てる資料なんかあるわけ無いだろう
- 566 :
- 某義久入道を六角氏と仮定しただけで、そんな名前は系図に無い
- 567 :
- いや、「立花喬之助陣中秘録」「久慈慎之介隠密始末記」「阿部頼母薬事絵傳」にはたしかにかような記録はある
- 568 :
- 年代記抄節
六角義弼、兄義賢の老臣後藤綱宣を誘す
義弼は義治とは別人くさいな。
- 569 :
- 「義」の書き方や花押も別人と言えるかもね
- 570 :
- >>568
ひょっとして>>556の「四郎殿様」は義賢で「御曹司様」は義弼ってこと?
- 571 :
-
【サッカー/ブンデス】ドルトムント香川真司、今季7ゴール目は決勝点!レバークーゼンを下し首位キープ、5連勝の立役者に★5
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1329023152/
- 572 :
- http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1330518377/79
六角義賢、六角義弼、六角義秀、六角義堯、六角義治・・・
だんだん増えてきました
- 573 :
- 『近江太平記』上下、おもしろかった。
- 574 :
- 作者は誰ですか?
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