2012年3月戦国時代206: 【景勝】御館の乱を語る【景虎】 (682)
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【景勝】御館の乱を語る【景虎】
- 1 :
- 後継者を決めないまま急死した謙信の跡目を養子だった景勝・景虎が争い、
越後国内のみならず周辺諸国も騒がせた乱について語りましょう。
■関連スレ
上杉景勝
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1168972775/
【何故負けた?】上杉景虎【御館の乱】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154969043/
越相同盟について
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/
本庄繁長や越後揚北衆らを語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201348770/
- 2 :
- 来年の大河ドラマでは山場になるだろうね。
- 3 :
- 山場早過ぎw
- 4 :
- おバカの乱
- 5 :
- 謙信臨終直後そっこーでぬっころされた晴家(´;ω;`)かわいそうです
- 6 :
- >>5
その説、高橋の小説でしか見たことないから創作だと思ってたけど
ソースあるの?
- 7 :
- 負け組の悲哀を語るみたいなことがNHKのHPにあったからメインは関ヶ原以降じゃね?
- 8 :
- ミラージュじゃね?
まぁ北条五代記とかもそうかもな。
あれは思いっきり景勝野望説でお話が展開してるらしいから。
- 9 :
- >>5-6
晴家と憲家が争った説とかもあるから、一概には言い切れない。
- 10 :
- 直江がいた時点で景勝確定w
キモミラオタ必死過ぎてワロタw
主君である上杉景勝を補佐し豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの
引き抜き行為を幾度も断るなど忠義に厚い名将直江兼続。
『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが取って返し。
追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ
、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて心静かに帰陣しけり」とある。この撤退戦は後世まで語り草になった。
最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、
(中略)誠に景虎武勇の強き事にて残りたりと斜ならず感じ給う」と評し、
家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の物」とおおいに賞賛したという。
家康は武家として正々堂々と戦い、西軍が負けたら清く敗北を認め主家を守る為に
すべて自分の責任なので煮るなり焼くなりすきにしてくれと言い放った兼続に惚れこんだ。
本能寺の時の毛利が秀吉を追撃しないのと同じように卑怯なマネをしなかった上杉家を評価し
逆に毛利の卑怯な真似を怒り、毛利本家改易にして吉川広家に1〜2ヶ国を与える予定だったので慌てた吉川が泣いて嘆願し許してもらった。
のちに輝元へ広家が超長文の言い訳弁解を書き連ねた吉川広家自筆覚書案を提出したのであった(岩国にこの見苦しい書が晒してある)
また家康が一番憎んだのが佐竹義宣であり武門に有るまじき振る舞いに家康は
「勢を見て兵をおこし敵となるは武の常なり。勝敗もまた命なるときは咎むべきにあらず。
しかれども義宣はその心両端を持して家を全うせんとす。われこれをにくむ事景勝に過たり」と断罪したと言う。
政宗はまったく評価されず100万石も反故にされ逆に厳しく和賀忠親を上洛させろと脅迫され
追い詰められた政宗は福島表での軍功に逸り失敗。
5月に入ってなんとか上杉領に火をかけてきましたと家康に報告するのが限界で家康の機嫌がまったく良くならず
ついに和賀を5/24に松山国分寺で自害させて証拠隠滅を図る見苦しさ。
勝手に自害しましたとの報告に家康は不快がったという。
兼続が亡くなった際には上杉景勝から銀50枚、徳川秀忠から銀70枚が送られ惜しまれた。
- 11 :
- そういやwikipediaの御館の乱読んで不思議に思ってたんだが、
謙信政権下で景勝は上田長尾家当主であったんだよな??
他の養子たちは分家をとっくに継いでるから
残った景勝が御中城様と呼ばれるのは別に特別なものじゃない、
みたいな論調なんだけど
上田長尾家当主の座にある景勝は一門分家当主扱いではないのか?
上田長尾家当主でありながら上杉家後継者候補になるなら
上条上杉家を継いだ政繁だって候補になりえそうな気がするし
政繁に分家を継がせて後継者候補から外されながら
景勝は一門分家当主扱いされていなかったなら
養子達の中でも景勝は特別な扱いを受けていた気がするんだが。
- 12 :
- 一門の基準が永禄2年と天正3年で違うからなあ
前者で一門扱いで後者にいないのが桃井
後者は一門扱いだが前者では違うのが琵琶島上条山浦
両方いるのが古志十郎と山本寺
上条と山浦はそれぞれ謙信の養子が入ったからだろうけど
琵琶島も代替わりしてるかもしれない
桃井はどこいった?名字尽にもいない
御館の乱ではいるらしいんだが
- 13 :
- おっと長尾越前忘れてた
>後者は一門扱いだが前者では違うのが琵琶島上条山浦
それにプラス上田長尾(長尾越前→御中城)ね
上杉庶流だからといって一門とされないのは千坂みれば判るし
府内長尾庶流だからといって一門とされないのは小四郎景直みれば判る
- 14 :
- 仮に上杉が滅んでたら、最大の要因になったのは間違いない。
- 15 :
- 本気で小田原北条が援軍を越後に援軍を出すとは思えないな。
- 16 :
- 景虎ってどのくらいの戦力を持ってたんだ?
- 17 :
- >>16
軍役が無かったらしいから、実質の直轄軍は皆無では?
- 18 :
- 景勝が当主になると都合が悪いという古志衆とかの旗頭として丁度よかったので、
担ぎ上げられたというだけかもね、景虎は。
- 19 :
- >>17
なるほど
いたとしても、側近の旗本のみと考えておkですかね?
- 20 :
- 旗本といえる組織もないと思われ。
遠山ら補佐役がいる程度じゃないかな。領地もないでしょう。
- 21 :
- >>18が正鵠ではないかな?
>>20
遠山は北条家から移籍して来た守り役だっけ?
- 22 :
-
>>18
>>19
側近のみでここまで上杉家は内乱状態続かんよ
景虎支持勢力の過少評価しすぎ
- 23 :
- >>22
私が聞いてたのは、戦場で彼が「直接命令して」動かせた旗本戦力の事です
景虎を取り巻く「支持勢力」の事ではないです.
北条景広や上杉景信がついてたけれど、彼らの配下に旗頭である景広・景信を飛び越して
景虎が命令を出せた訳ではないでしょ?
- 24 :
- 結局景虎が直接命令できたのは北条から付いてきた遠山くらいなもんでFA。
- 25 :
- 野尻池
- 26 :
- >>24
それはさすがにない
- 27 :
- >>26
誰が指揮下にいたか、詳しく。
- 28 :
- >>27
俺は26ではないが答えよう
本庄秀綱
山本寺定長
河田重親など おれも詳しくは知らないが他にもいるだろうな
>>24みたいなアンチ景虎は適当な事言って回るから困る
- 29 :
- 適当なのはあんただw
そいつらがサブから直接命令を受けて動くかよ。
為景が形式としては守護の命令を奉じていたのと同様、
サブにそんな権力はない。
彼らは景虎の意思じゃなくてそれを支配する機関の意思で動いている。
- 30 :
- 一宮は国主以外の誰の意思で動くの?
- 31 :
- >>29
おまえが景勝擁護にあきたらず、景虎を貶すのに必死なのはわかった
思い込みで反論するんじゃねーよ
- 32 :
- >>28
これらは支持勢力ってことだろ
景虎の直接の部下である旗本はどんだけ居たかという話だろ
- 33 :
- 山本寺定長なんかは景虎の警護なんだがそれでも「支持勢力」?
だとしたら景勝だってなんの命令権も無いことになるね
- 34 :
- 守役って部下の事か?
- 35 :
- 長尾上杉では旗本は「直接の部下」とかいうのではないと思う
- 36 :
- たとえば、
『諸国衆御太刀之次第写』でいうところの「直接の部下」というのは「御馬廻年寄分之衆」と見ることができるが
『上杉家軍役帳』における「旗本」序列の諸将は必ずしも「直接の部下」というのでは無いでしょう
- 37 :
- >>31
全くおとしめていない。
景虎に直属の配下が乏しくて何が悪い?
権力のないことが何か悪なのかね。ふざけますな。
つか景虎ファンてなんで皆こんなに攻撃的な人が多いの?
>>33
警護役の生与奪権は春日山にあるだろう。
上杉定実も為景の配した警護が威張って我慢ならないとこぼしていた。
つまり景虎に配下が与えられたとは言えない。
結局はお飾りなんだよ。
謙信がそうして彼の権力を補強しなかったのは、
彼のためを思ってでもあったんだろう。
まさか景勝が憲政と一緒にすとは思わなかった。
- 38 :
- 例えばさ、本庄顕長って10年程ずっと府内で居候状態だったと思ってる?
- 39 :
- さあ?
- 40 :
- 景勝には警護役以外にも父親から受け継いだ上田衆がいるじゃん?
謙信は上田長尾の上司であるから直接上田衆に命令することもあったけど
基本上田衆は上田長尾家の家臣で景勝の命令で動くわけだ。
景虎の直接の家臣というならやっぱ
景虎から禄を貰って景虎の命で働く人間達ってことだろ?
いっとくが直接の家臣が多いかは後継問題には直接の問題じゃないぞ。
間接的には対抗勢力に直臣が多いのは問題になるけど。
- 41 :
- 北条家みたいな先進の戦国大名家から来た影虎から見れば、旧態依然とした体制で
謙信のカリスマだけで固まってるような上杉家を、「なんじゃこりゃあ」と思っただろうな。
もし景虎が政権を取れば間違い無く北条流の改革が行われたはずで、御館の乱は
それを察した旧守派による自己防衛、だったのかもしれぬ。
- 42 :
- >>37
そういうふうに、あたかも景虎がお飾りだったかのように
強引な誘導をするから攻撃されるんだよ
本当にお飾りだったら、柴田軍が迫っている状況で
ここまで戦禍は拡大しないよ
景勝のほうから先制攻撃しなければならなかった理由を
少しは考えたらどうなん?
- 43 :
- 景虎方は先制攻撃だのクーデターだの必死だが
まず先制攻撃をしたというところから証明しようか。
景勝は「家臣達が春日山城に入ってくれと言ったから入った」と言ってるぞ。
そして春日山城内で戦いが起きた事も証明しなきゃな。
戦死者はどれくらい出たんだ?
とりあえずまずは春日山城の金蔵と弾薬庫を
制圧できるだけの兵を景勝がどっから掻き集めて来たのか
そして何故景虎方は取り返せなかったのかから証明しようか。
そしたら次は制圧されるような状況から敵大将であるはずの景虎が
幼い子供と妻を連れて脱出できたのは何故かも考えてみようか。
- 44 :
- >>43
> 景勝は「家臣達が春日山城に入ってくれと言ったから入った」と言ってるぞ。
そんなこと信じるんだ
- 45 :
- >>42
景虎って何らかの実権あったの?
- 46 :
- >>44
信じるも何も本人の言ってることなんだから
史料のひとつだろ。
- 47 :
- >>45
そんなに無いと信じたいの?
- 48 :
- >>46
では君の論法に習って
「家臣団が景勝に入城してくれと懇願した」事を証明しなされ。
- 49 :
- >>37
定実と為景は、房能・顕定掃討のための傀儡主従関係。
謙信と景虎との養父子関係とは全く違う。その例えを持ち出しても意味は無い。
>>45
謙信の養子である三郎景虎が傀儡であったというのは不自然。
ならば「傀儡であった」という論拠が無くてはならないと思う。
君にとって、「国主の養嗣子にある程度の実権がある」ということが
不自然な事に見えるなら、証拠は要らないんだろうけどね・・・・
- 50 :
- >>48
先制攻撃・クーデターの一次史料示せよw
- 51 :
- >>50
そう言うまぜっかえしは要らないから。
君の論法に従っているのだから、その論法を始めた人間の責任として、答えなさいよ。
- 52 :
- >>51
当事者景勝自身がいってるんだから
「他の一次史料から見てこれは嘘である」という
証明の方が必要だろ。
他に春日山城の金蔵・弾薬庫を一方的に武力で占拠するという
大事態のはずなのに春日山城内で争って死んだと名言できる人物がいない。
敵大将である景虎が妻や幼児まで連れて春日山城を無事脱出。
俺はクーデターどころか春日山城内にいた謙信側近は
景勝方の方が多数を占めていて、景勝方の言い分に
景虎方が不服に思って自分達で出て行ったと思う訳だが。
- 53 :
- >>52
景勝は言ってみれば「主犯」だよ?主犯の言葉が証拠になるかよ。
君はその景勝の主張を補完する証拠を提示しなければならない。
- 54 :
- 二人の熱い論争に茶々を入れるようで悪いが…
上田長尾と古志長尾の対立が連綿と続いている以上、
謙信の死後、家が二分して争う事になるのは明か。
クーデターとするのは、自分は納得しないが、
景勝が先制攻撃を仕掛けたとするなら、それは至極まっとうなことだと思う。
謙信はどっちが生き残っても良かったんじゃないかな。
長尾上杉として血縁の景勝が上杉を継ぐのでも、
山内上杉として、自身が山内に入ったように養子の景虎が上杉の名を継ぐのでも。
景勝の姉が長尾の血を残しているから、いずれにせよ自身の長尾の血は残るし。
どちらともにお膳立てをしてやり、敢えてどちらの上杉として残るのか、
神目線で争わせたとしたら、非常に怖い。
- 55 :
- 武力で争っている真っ最中に遺品の目録のんびり作ってたり
争ってる城内に景虎は1ヶ月ほども春日山城内にいた訳だ?
そして占拠されてる春日山の山道を妻子を連れて逃げられた訳だ。
で、武力で攻撃して占拠して景虎を追い出した史料は出てこないのか?
後年の上杉家も北条家も芦名も武田も争った人間の身内だろ。
景虎方が城内の景勝方の人数の方が多くて不利に思って出て行って
景勝方の方が城内では多くて自分達の言い分が通りそうに無いと言わずに
「俺たちを無理やり追い出した!」って言った可能性だって十分にあるだろ。
景勝方が後年むざむざ景虎を外に出して乱になった事を不名誉に思って
城内での戦いで景虎が逃げていったという可能性もあるわけだ。
- 56 :
- >>55
いいから早く証拠を提示しなさいよ。
- 57 :
- >>52は一次資料の意味を誤解してる
後から書かれたものは誰が書こうと二次資料
「家臣団が景勝に入城してくれと懇願した」書状が出てくれば
「家臣団が景勝に入城してくれと懇願した」ことに対する一次資料となる
- 58 :
- 景勝は謙信の死の一週間後に
「家臣が謙信の遺言だからと頼んできた」と手紙出してるんだっけ?
まあどっちも嘘付いてなくて景勝支持派の家臣が景虎派を追い出して
「景勝様が後継者!」と景勝を頼んで迎え入れたって可能性も普通にあるよなー。
講談だと直江景綱夫人が謙信の遺言だと言って景勝を入れたんだよな。
景勝書状から出来た話かもしれないけど。
景虎を景勝が銃で撃って追い出した話は北条記だっけ?
- 59 :
- >>55
可能性だらけだな。細かいことを考慮しまくると、結局曖昧になってしまう。
苦しいのはわかるがね・・・・
- 60 :
- >>54
昔のヤンキー漫画みたいだなそれ
原哲夫か宮下あきらあたりが描きそう(笑
- 61 :
- sXyN6VnQ もちつけw
君の論拠は面白いし十分納得できるので、もうちょっと推敲してくれ。
>他に春日山城の金蔵・弾薬庫を一方的に武力で占拠するという
> 大事態のはずなのに春日山城内で争って死んだと名言できる人物がいない。
それはそう思う。
うまくいったら無血だったかもなあ。
>>60
言われてみれば、ありがちな設定か。原哲夫でたのむ。
- 62 :
- 個人的には、
越相同盟締結時…景虎
同盟崩壊後…景勝
って感じがする。
同盟崩壊後は景虎の優遇が抑えられて、逆に景勝への優遇が顕著になってる気がする。
まあイメージだから深く突っ込まんでくれ。
- 63 :
- だからさ、混ぜっ返してるのはそっちだろ。
クーデター起こしたって話をしだしたから
俺はクーデター起こしたって証明はって聞いてんだろ。
クーデター起こした事が一次史料他から確定してるんならそれ前提で
俺だって話すけどはっきりしてないことを「クーデター起こした」って
断定して話してんだからクーデター起こした派は証明しろって言ってんだろ。
- 64 :
- >>63
頭冷やして出直せ、基地外
- 65 :
- おk、わかった。
クーデター説の証明しないくせに
何か言う奴はただの煽りと思って無視しとく。
- 66 :
- >>47
単純に知りたいだけなんだが
- 67 :
- >>62
俺もそんなイメージだな。
越相同盟が破れたあとから景勝は謙信と同陣での出陣しかなくなったんだよな?
所詮印象だけの話だけどなー。
- 68 :
- 国主の養嗣子にある程度の実権がある」ということが信じられないということね
それじゃ景勝だってほとんど権力持ってなかったことになるわさ
- 69 :
- >>68
何だ知らないのか、そうと言ってくれればいいのに
誰か雲門寺の礼状以外で、謙信存命時の景虎の動きわかる人居たら教えてください
- 70 :
- >>69
>>28を読んで
- 71 :
- >>28
山本寺は景虎の直属でないことは天正三年軍役帳を見れば明らか。
ここで彼は景虎とは無関係に軍役を任されている。
>>41
天正末期に上洛して京都にびっくりした田舎大名がどうかしたか?
春日山より四十年遅れてやっと城下町に板葺きの建築を導入した
小田原村を首府としてきた景虎は越後に来てたまげただろうな。
しかも北条は彼に何かしてやったか?
外交のため離婚させられて敵地に送られて、
最後は見しだろ。
越後じゃ同盟決裂しても妻子と別れさせず、
地位も解体せず優遇。
今更北条が景虎様のことで威張るなよw
- 72 :
- 結局は>>62が正解だと思うよ。
でも謙信は政治より別のことを優先して、
景虎の家庭や地位に手をつけなかった。
願わくば関東執事に景虎を、越後国主に景勝をと考えたんだろう。
しかし謙信死語に仙桃院が両者の対立を防げなかった。
- 73 :
- つーか、行政機構や命令系統、領域支配の組織化、一元化で上杉は北条に
どれだけ遅れてると思ってるんだ?
ほとんど近世大名の一歩手前まで行っていた後北条氏と、室町期守護大名的支配体制から未だ脱せずにいた
上杉とでは比べ物にならん。
- 74 :
- >>73
それは認めるよ。
ただ国によって体制の長所短所はあるし、そうなるに至る理由もちゃんとある。
それを無視して>>41みたいに一片の優位だけを以って相手を一方的に見下すから皮肉っただけ。
そして北条のシステム、上杉のカリスマと言うから、
前者による景虎の悲運と、後者による救済を紹介したのよ。
使い捨てにした景虎をダシにするなってこと。
- 75 :
- >>70
>>28を読んで何ですか?意味がわかりません
- 76 :
- >>74
君の言いたい事もわかるが、>>41は景虎の立場から見た「想定」を語っているに過ぎない。
その上でどこの社会にもある、改革派と守旧派の抗争が御館の乱にも、その底流にあったのではないか?
って仮定を提示してみたまでだよ。見下すとかそう言う物ではない。
- 77 :
- 上杉景信辺りが改革派とかイメージ湧かないな、あくまでもイメージだけど
どちらかと言うと謙信晩年の政策維持派と反対派の戦いのように思える
- 78 :
- >>76
見下していないというなら、挑発的で攻撃的ですね。
仮定を題材にああいうものいいが出来る無神経さがわからない。
死神発言が侮辱じゃないと主張するようなものだよ。
春日山城下と比べたら小田原城下は村と言われて失礼な事だと思うなら、
こういうくだらい言葉のやり取りになるような発言は控えなさいな。
- 79 :
- >>78
> 見下していないというなら、挑発的で攻撃的ですね。
北条をほとんど罵倒と言っていい言葉で貶めている
君のような人間に言われたくないなw
- 80 :
- あくまでもイメージ(笑)
- 81 :
- 謙信は三郎をお飾りにするために
後花園天皇綸旨以来の「天子之旗」本たる次期関東管領に任じようとした
あくまでもイメージ(笑)で
- 82 :
- >>79
一行目だけじゃなく最後まで読んでレスしなさいw
でももう、喧嘩はやめよう。
景勝派と景虎派も仲良くしてけろ。
- 83 :
- イメージ
- 84 :
- 改革派なんてイメージでしかないってことでおしまい。
双方引き分けでしょ。
- 85 :
- 謙信って知行安堵・宛行による家中統制を目指してたんじゃないの?
いわゆる中央集権化、被官化、っていう。
旗本衆や、自らが征服した在地領地の家臣にはそれが出来たけれど。
越後の国衆にはそれが出来ない家が多かった、
そしてそういった代々の在地豪族たちが、景虎支持により多かった、という認識だったのだが、
違ってる?
景勝支持に回った謙信晩年の側近たちは、そういう謙信を悩ませた地縁とは
薄い人が多く、だからこそ、景勝の中央集権路線は謙信の路線を継承したもの、と
捉えていたのだが。
違うの?教えてエロイ人。
- 86 :
- その過程は面白くはあるが
残念ながら両陣がそこまできれいに割れていたわけではないなあ
むしろ古志上田、安田柿崎、本庄鮎川などのように長年の怨讐対立のほうがきれいに分かれてる
- 87 :
- 上田長尾と古志長尾の「元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係」って
当たり前のように語られてるけど何の史料で確認できるのかね?
- 88 :
- >>87
新潟県史でも読めば解るだろ。
- 89 :
- 一つの家でも父は景勝子は景虎兄は景虎弟は景勝とか別れてるしな。
まあ一族で陣営別れて家の全滅を防ぐのは良く見る手だが。
どっちでも良かった派が一番多そうだw
- 90 :
- 乱の際の景虎側の武将として、元々謙信配下にいた人物しか出て来ない時点で、
やはり景虎の旗本には有力な戦力はなかったってことかな
相応の戦力があれば、それを束ねるべき実戦部隊長の名が挙がってもいいと思うんだが
- 91 :
- それから謙信が中央集権化を目指していたと言うのなら
景虎景勝による管領当主2分制は有り得ない
それこそID:xS8laEJsの言うところの「命令権」を持つ地位を
当主の上に屋上屋を重ねるかのように作ってしまうことになる
前例で見ても越後上杉家は嫡子を山内管領家の名跡を継がせて
次子を越後国主という例を重ねているので
- 92 :
- そんな前例あったか?
- 93 :
- >「命令権」を持つ地位を
>当主の上に屋上屋を重ねるかのように作ってしまうことになる
実際、関東管領だから国衆が従属したわけではなくて、
そこに軍事的優位性があったから、従属していたわけだよね。
(もちろん身分的優位はあったにせよ)
管領様が命令なされたからお味方せねば、的な国衆なんて居なかったからこそ、
謙信の関東計略が頓挫し、撤退を余儀なくされた。
国主権力の上に管領を置いたところで、そこに軍事力が伴わなければ、
絵に描いた餅に過ぎないことは謙信こそ誰よりわかっていただろうし。
二者分権説が今いちよくわからんのはそこのとこだな。
謙信が管領職の将来をどう考えていたか、論文とかないんかな。
- 94 :
- 謙信は為景が越後守護上杉房能倒して
そしたら兄ちゃんで山内上杉に養子に入ってた関東管領顕定が
報復に出てきて為景逃げる→再度挑んでようやっと顕定敗死させ越後に復帰
とかやってるから兄弟二人で分権させれば安全かも、と思ってたかも。
この場合景勝は越後上杉として越後国主になり越後統治、
景虎には管領職を継いで憲政と山内上杉家臣を連れて上野に入ってもらう…。
そしたら北条との緩衝剤にもなりそうだ。
- 95 :
- .>>93
そこはむしろ逆で関東諸将を動員する権威はあったけど統治する権力が無かったから頓挫したんじゃないかな。
喩えて言うならば十字軍みたいなもんで。
- 96 :
- 越後に景勝、能登に政繁、上野に景虎か…。
構想遠大過ぎだろw
- 97 :
- そして信濃方面は国清で、越中には古志を継いだ河田を配置
- 98 :
- 養子達を各領国に配するということか
実子が居ないから養子取りまくったけど
収める場所に困ったっていう感じになるな
- 99 :
- >>71
軍役帳で実質的な命令権わかるの?
そんなに単純か?という疑問が大
- 100 :
- >>99
単純というか、景虎の指揮にあればちゃんと「三郎様同心 山本寺殿」と記す。
しかもあれは景勝が上杉改姓した直後に作られた。
見ようによってはトップを景勝と解釈することも出来るわけ。
俺はそうは思わないがね。
- 101 :
- >>92
長曾我部元親。
この人正式には、一条氏の被官筆頭とか家宰という地位。
だから一条氏の被官と自分の家臣に対する書状の形式が違ったりする。
もっとも自分の外孫を一条氏の当主にして、後に追い出しているんだけどね。
- 102 :
- >>101
世間的には土佐は一条家の国で、「家臣に長い姓の奴がいる」って感じだったらしいねw
- 103 :
- >>75
異議が有ると言うならわかるが、意味がわからないっていうのは
アホなのか或いは相手をバカにしてるのか・・・・
- 104 :
- どちらでもなく、説明不足と言うことかと。
独りよがりな解答では理解など得られませんよ。
- 105 :
- まず28に景虎の動きなど記されていない。
あるのは景虎の配下と28が勝手に主張する人名だけ。
的外れな解答で意味不明なんですよ。
- 106 :
- >>105
配下の問題と、景虎の権利行使の問題をごっちゃにしてしまった。すまん。
でも、勝手に主張するというが、守役から御館まで一貫して景虎に使えていたものに
対して、景虎が全く命令権を持っていないというのは徹りません。
>>37みたいに、山本寺らが守役ではなく実質監視役だった言う可能性も無くはないが
それこそ論拠は無いわけで
- 107 :
- 山本寺は>>100で明らかなように、景虎を介さず軍役を命じられる立場であり、
与力ですらないわけです。
そして景虎に何がしかの命令権が与えられていたとしたら、
軍事統率者として経験を積ませるため謙信の遠征に随行させるはずだが、
景勝と比べてどれほどもないのでは?
越相同盟決裂後に景虎がその権力を行使した形跡(軍事活動や国政参与)があれば、
それを教えて欲しい。
権力が認められていたら、謙信はその使用方法を学ばせたはずなんですよ。
- 108 :
- 守役って普通に家臣じゃなくね?
普通に実の嫡子だったとしても守役って
現当主の命令に従って子に付くお目付け役じゃ。
- 109 :
- 北条を心から信用できないから、景虎に
与力をつけなかったということか
軍事力もなければ直臣もいないのであれば
なぜ御館の乱であそこまで景勝と争い得たのか
上条や山浦たちでさえ景虎より実質的な優遇は
受けていることになる
- 110 :
- >>108
だよね。守役がそのまま直属の部下にはなりえない。
基本的に軍隊を使えるよう育ったら家督を譲るわけで、
それまでは大名の部下。
>>109
北条云々より景虎の存在に求心力がないんだよね。
御館の乱はやはり傀儡とまで行かずともお飾りでしょう。
景虎と豪族が利害一致して結託、皮肉にもこの時初めて武将たちが景虎を主君として推戴した。
- 111 :
- 実際分かるのは政繁や国清は景勝より下だったってだけで
景虎は軍役帳にいないから席次が誰より上か下かも分からん。
もしかしたら兄弟で一番上だったかもしれんし一番下だったかもしれん。
でも例え謙信政権下で景虎より政繁や国清の方が権力持ってたとしても
政繁も国清も景勝支持してるから
どっちにしろ対抗馬は景虎しかいないし。
景虎支持してたら景虎のほうが上だったと分かるだろうけどなあ。
- 112 :
- >>110
軍役が無いのは、後継者だからというふうにも
とれる(もちろん異論はある)わけで、軍役がないから
即お飾りというのは推測の域を出ないでしょう
- 113 :
- >>109
景虎が景勝と戦い得たのは、
親北条派、反上田派、形勢を見てどっちにも保険をかけて家名存続派、
結果としてこの3種の人々が集まって景勝に対抗したからであって、
乱を戦えたことが、謙信生前に景虎に軍事力と権力が与えられていたことの
証左にはならんでしょう。
ただし、直臣というか馬廻り?がいなかったとは思わない。
5月5日に大場で初めて両派の衝突があったが、
(その後の書状を見ると不慮の偶発的な争い、喧嘩の延長だったようにも見えるが)
その時の家臣がいわば景虎が強権を行使できた直臣じゃないかと思っている。
もちろん、上田衆のように一軍を形勢できる勢力であったかは不明。
支持勢力については、直江や吉江といった重臣が、即景勝支持になったのに対し、
(これは、以前景勝スレに出ていたように、支持というよりも、擁立の主導権を握っていたという見方もある)
景虎派の主立った重臣である北条(きたじょう)や神余は、
3〜4月にはむしろ景勝陣営に対して国元の状況報告をしていた書状が残ってる訳で、
彼等のなかに、景虎こそ我らが主君、という意識を窺うのは難しい(あくまで乱の当初ね)
>>110
お飾りという言葉を使うと語弊がある気がする。
少なくとも景虎自身の意思という側面から見れば、
芦名盛氏に出した手紙なんかでは、戦を迎えるために自派を形成すべく、
北条・武田・芦名、と連合して対抗する手段を積極的に模索していたと思う。
- 114 :
- 御館が落城して景虎が退去する際、
本庄清七郎その他、乱の最中、側近として活躍した人々がほとんど同行せず、
本拠地に戻ってしまったことに景虎の悲哀を感じる。
景虎とともに戦った人々には、景虎よりも大切な依って立つ土地があり、
そうした堅固な地盤は景虎本人には与えられていなかった。
存在そのものが家中最大の陣営の象徴、運命共同体だった景勝とそこが違う。
もちろん、そんな地盤は与えずとも、皆がバランスをとりながら一致協力し、
景虎を支えれば大丈夫、と謙信が思っていたと仮定することもできる。
- 115 :
- 北条家の視点で言うと、たとえ血縁であろうとも
景虎は謙信を崇拝していて関東管領になろうとしているのは見逃せない問題。
それに比べて景勝は関東に執着してる話はほとんどなく、
あくまで越後の国主の権力を狙いとして謙信の後継者になろうとしている。
いずれ関東の真の支配者は自分だと言い出しかねない存在と、
越後の国主として以上の脅威は無い存在だとすると、
氏政からすれば必ずしも景虎を支持しなければいけない理由は無い。
- 116 :
- 御館の乱での北条当主が氏康だったら、
もしくは上杉の養子になったのが氏政の嫡男だったら
北条はもっと積極的に御館の乱に介入したかもな。
氏政は弟が関東管領になって弟に頭を下げる事になるのは
内心面白いもんじゃなかっただろう。
景虎が自身で使える手札は
血脈による北条武田葦名への求合力だったにも関わらず。
- 117 :
- 嫡男養子に出すなよw
関東管領なんてとっくに権威残ってない、
よって身内にいて不都合な事は無い、得にもならないけどな
- 118 :
- >>117
関東管領の権威も、謙信が継いで意向はやや回復したと思う
実際小田原包囲まではこぎつけたわけだし
- 119 :
- 古河公方を擁してる北条が、なぜ関東管領ごときに頭下げなければいけぬか?
というか越相同盟で公方と関東管領の権威なんてものは消えちまっただろ
越相同盟以降の佐竹を中心とした関東諸侯は、それらを旗頭とせず独自に対北条戦を継続したしね
- 120 :
- 古川公方を擁していようと北条自身が古川公方ではない以上
同じ席に並べば関東管領の方が上ってことにはなる。
上杉が関東にちょっかい出してきたのも
関東管領を口実にしてのことだから旨みが無い話ではない。
古川公方と関東管領を両方擁することになれば
より北条の関東支配は硬くなるしな。
あとその家を確実に継げるという状況なら
嫡男をより上の家に養子に出して継がせ
本家は次男が継ぐというのも無いことは無いぞ。
- 121 :
- いやだから御館の乱の時には権威なんてもんはもう無いって
越相同盟以降の北条の古河公方の扱い見てみ、名前すら出てこなくなる
公方の権威が失墜し関東管領の権威だけ健在と言うのもありえない話だろ
上杉北条によって義氏が正統と認められても佐竹らはまったく関係無く北条戦を継続
>あとその家を確実に継げるという状況なら
それが景虎に当て嵌まるならね
- 122 :
- 御館の乱のときには足利義昭が京を追放されて、幕府の役職自体意味がほとんど失せているからなぁ。
官位はどうなんだろう?
- 123 :
- 俺は景虎が上杉に行くときに謙信と氏康の間で
景虎に関東管領くれて関東に返す密約でもしてたんじゃねーかと思ってる。
関東を治める権威とか関係なしに上杉と北条との間で
上杉は北条の勢力を気にせず関東に関わらないで北陸に専念したい、
北条も今後関東管領を口実に上杉がまた出てきてどつきあいになる可能性を
排除したい、ってあたりでね。
権威は無くても首突っ込む(関東勢に呼び出される)口実にはなるだろうからな。
そして氏康と違って上杉との不戦条約なんか必要ねーと
思ってたのが氏政なんじゃないのか…まあ妄想だ。
- 124 :
- それにしても何で、「おたての乱」なんて呼び方なんだろ?
「おやかたの乱」か、「みやかたの乱」ではいけなかったのだろうか。
- 125 :
- 関東管領が全く意味無くなってたって事はないだろ。
謙信最晩年でさえ関東勢が謙信に助けを求めてるんだし。
そして謙信が最後に準備していた遠征も
関東勢の声に答えて関東に向くつもりだったと言われている。
謙信が関東管領でさえなければ関東に介入する理由は無いだろ。
権威の言うことを聞くかどうかはともかく名は付いて回っていた訳だ。
- 126 :
- >>121
>上杉北条によって義氏が正統と認められても
そりゃ北條の外孫だからな。佐竹からすれば正統と認めるわけにはいかない。
上杉家の武力に裏打ちされた権威と、失墜した公方家の影響力を
一緒にするのは無理があるぞ
- 127 :
- 当時御館がおたてと呼ばれていたからとしか言いようが無いんでは?w
よく分からないが館(たて)と言うのは麓の城を呼ぶ名らしい。
むしろ御館に上杉の人達は固有名を付けなかったのかが気になる。
御館って春日山城を「御城」って呼ぶようなもんだろ?
固有名を付けず御館と呼ぶのが憲政への敬意だったんだろうか。
- 128 :
- >>127
「おやかた」だと、「お館様」である謙信と紛らわしい、ってのもあったのかね?
- 129 :
- 関東衆も謙信に依存しない体制を最後まで築けなかったのは情けない。
もしよく言われるように乱がなく景虎が関東管領となったら、どうしたのやら。
謙信以外に北条の歯止めは無理だろ、常考。
- 130 :
- 秀吉に泣きつけば問題ない
- 131 :
- なんというへたれか
- 132 :
- そういや城は戦時、館は平時に使うのが一般的で
謙信達も雪深くなる冬は春日山から降りて御館で暮らしてたんだよな。
雪が解けると謙信達は山に帰っていって
隠居済みの憲政らだけが御館に残ってのんびり、か?
憲政は景虎と景勝のどっちが山を降りてきても断る権限なさそうだ。
御館と周辺の屋敷跡が残ってたら良かったのになあ。
- 133 :
- 何で見たか失念しちゃったんだけど
政繁の屋敷は御館付近じゃなかった?
- 134 :
- コンビニで売ってる戦国時代マンガを集めた雑誌の巻頭が、丁度このネタ。
連載っぽいので、興味がある人は読んでみては?
- 135 :
- 季節により春日山城と御館とで政庁が移動するってんなら
春日山城内に屋敷を持つ連中は御館にも屋敷があったんじゃないか?
雪の無い季節に御館から春日山に登るのはともかく
少なくとも冬に春日山から降りてきてる間は
雪の春日山城内の屋敷から御館まで通う訳でもないだろうし。
- 136 :
- リンク貼り忘れ。
http://www.free-style.biz/book/archives/cat19/cat76/
- 137 :
- >>132
何にのってる?
- 138 :
- >>136
日本史板で専用スレ立てたりとアフィリに頑張るのも程ほどにしてくらさい。
- 139 :
- 確認したら政繁と断定されてるわけじゃなくて
「弥五郎屋敷」(上条上杉氏)って表示だった。
あと御館の周辺に守護館、守護代館みたいな屋敷があるね。
- 140 :
- >>139
どこで確認しましたか?
- 141 :
- 春日山城
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Kasugayama/Photo2/Zu.jpg
- 142 :
- >>140
野島出版「中世越後の旅」に載ってる越後府中の復元図です
- 143 :
- >>141
春日山城内の屋敷の立地は
謙信>景勝>直江>斉藤>その他っぽいが
宇佐美屋敷は本当に宇佐美屋敷か?という気がするな。
立地的に景虎屋敷はお客様って感じだ。
しかし大手道もこれ本当に大手道か?
どう見ても裏口にしか見えんのだが。
- 144 :
- >>140
ありがとう調べて見ますよ!
>>141
やっぱり春日山城の要所の名前とかは後世が勝手につけたと見るべきなんですね。
- 145 :
- >>143
城と言うものの構造から考えれば、あそこが大手になる。
- 146 :
- ほぅ
では先生に城と言う物の構造について
一席ご教授願いましょうか
- 147 :
- >>146
噛み付いて来たいのは解るのだが、書き込みの内容が漠然としすぎて
何に対して噛み付きたいのかいまひとつ判然としない。
- 148 :
- >>145
>書き込みの内容が漠然としすぎて
- 149 :
- いかにも大通りで天守に行くのに便利です。じゃあ防衛上困るって事だろ
峰の両端に御実城様の謙信と御中城様の景勝か、対だな
- 150 :
- これまた斬新な定説ですな
なんのための城郭なんだか
- 151 :
- >>150
馬鹿にも解るように書いてあるからこれでも読んでなさい
http://nekhet.ddo.jp/item/1003/catid/35
- 152 :
- おまいその本読んだことないだろw
- 153 :
- >>151
他のスレでも言わせてもらったがお前のアフィリブログを宣伝に貼り付けるな。
- 154 :
- 春日山城の図を見て考えたんだが。
この城は、元々は小規模だったのを必要に応じて造成して拡大していったんじゃないのか。
毛利氏の吉田郡山城もそのパターン。
だとすれば、御実城とその周辺部が元の城で、景勝のいた御中城あたりは、もともと何も
なかったか、あっても小規模な施設だったのを、景勝の居住にあたって造成・拡張したん
じゃないのか。
- 155 :
- >>154
そうだな。越後国内で内乱が続くうちに、防衛力を
継続的に高めていく必要ができたわけだ
- 156 :
- 確か春日山は為景の代から何回も増改築されてるよな?
景勝は謙信との手紙を見ると
子供の頃にも坂戸城から春日山城に来てしばらくいる事もあったみたいだが
中城はいつ頃作られたものとか分からないのかね?
- 157 :
- >>156
景勝入城の直前ではないだろうか。
春日山城に屋敷を構えそこに住むというのは、当事者にしてみれば
あまり嬉しい事ではなかったのかもしれない。
武田信虎が、反感を買った大きな理由は甲府への集住の強制だし。
越前の朝倉氏の一乗谷も実際に住んでいたのは、直参の中小の家臣で、
有力者は住んでなかったと言う説もある。
- 158 :
- 景勝が春日山に入ったのはまだ元服前で
家臣領地等謙信に没収だから、景勝が入るためにわざわざ
中城をもう一つの峰に建てたとかなら
相当な甥可愛がりっぷりじゃないか?
成人したら坂戸も上田衆も返してくれる訳だし。
でも春日山の地形からすると中城がある部分を
城に使ってなかったとしたらかなり防衛に不安がある気がするんだけどなー。
攻城戦に詳しいわけじゃないけど。
- 159 :
- >>157
長尾政景は留守居役やその他感状の発給などをしていたことから
春日山に在勤していたと思われる。
その空き家が御中城だったもかも。
- 160 :
- >>158
>可愛がりっぷりじゃないか
これは、現代人の感覚だと思う。
景勝が御中城に住むということは、いざというときに人を集められる
領地から引き離されると言うことだから上田衆に対する無言の圧力に
なったと思う。
それに御中城のスペースは限られているから、直臣を多数常駐させる
ことも無理だし、そんな動きを見せると粛清の理由を与えてしまう。
(これは、鎌倉幕府が御家人に鎌倉の屋敷の面積を厳しく制限して
いたのと同じ発想。)
当時の他地域の大名の例を見てみても、家臣が城下を離れて勝手に自分の
領地に帰ると謀反を起こすと噂になるし、謀反の疑いが無視できないレベルに
まで高まると、疑われた家臣は城下から自分の領地に帰ってしまう事が、しば
しば起こっている。
>>159
留守居役としていたときには、御実城にいたんじゃない。
- 161 :
- >>160
御中城に景勝を入れるのがかわいがってないとすると、
それ以上のかわいがりかたってあるのかなという疑問がわくなあ。
お留守番で政景が実城にいたとしたら、そりゃもうなおのこと世継ぎは景勝で決定だなあ。
- 162 :
- 正直色々考察してみても
謙信の景勝宛の手紙を見る限り
好きで傍におきたがっていただけにしか見えない罠w
- 163 :
- 景勝厨必死w
- 164 :
- いや、別に景勝がすきなんじゃなくて、謙信がかわいがってるのをほほえましいと思うだけ。
景虎も具体的なエピソードがないだけで謙信には愛されていたと思うよ。
(愛されてなかったら相模に送り返されているはず)
景勝を好意的に見ただけでそういう言い方はないと思うな。
- 165 :
- よっぽど品行不良で傍にいるのもイヤとかでもない限り
三郎景虎は北条との外交上重要人物だから
(越相同盟が破れた後も本格的に交戦状態にはなってない)
そうそう追い返しはしないと思うが…。
- 166 :
- そういう面もあるけれど断交したら大抵はその国に証人を送還させている。
これは内部に証人への同調勢力が発生しないための目的が強く、
景虎の場合もそういう危険があるので送り返すも送り返さないも、
同等のリスクがあるだろうから、それこそ謙信の思惑次第じゃないかね。
外交上重要と言っても氏政との同盟決裂は修復不可能な面が強いし、
謙信が手放さなかったのは政略上の理由とは別にありそう。
- 167 :
- 景勝を近くに留めることで、ゆくゆくは上田衆を解体・吸収していく
思惑だったんだろう
- 168 :
- 府中長尾の謙信が山内上杉の当主となったように
景勝に上杉家を継がせるので
景勝を当主とする上田長尾が上杉家に吸収されるわけですね。
わかります。
- 169 :
- >>166
逆に上杉家の場合、景虎を相模へ戻すことで、
北条家との縁が深い諸将に動揺が生じるという面も考えられるのでは?
いずれにせよ、交戦状態になったのならともかく、
宿敵武田と結ぶために一方的に同盟を反故にされて謙信はさぞかし怒ったろうな。
すでに同盟時の取り決めどおりに景虎を養子にし、姪を娶らせて一門に加えているのに。
もう道満丸も生まれていた頃だろう。
晩年の寺社への願文でも、氏政を「弟や遠山親子を捨てて」と非難する一文があり、
景虎に対する憐憫の思いも相当強かったんじゃないかと思える。
しかし、状況や資料を元に謙信の思惑を想像した書き込みするだけで、
どうして厨呼ばわりで言い逃げされなきゃならないのか、ホントよくわからん。
>>167
解体・吸収って、具体的にどういうことを想定?上田衆を分割して他の将につけるとか?
景勝が春日山城に住居するようになった時期は、はっきりしていないようだが、
軍役帳作成までの期間に、何かそれを感じさせる状況ってあったんだろうか?
景勝が掌握する軍は、山吉の遺臣や信濃衆の吸収も含め次第に大きくなっていったようだが。
上田という枠組みを超えた派にしたかったということ?
- 170 :
- >>169
>>167じゃないが、家中の(敵対的な)大勢力を解体・吸収は戦国大名が、
大名権力を確立・強化するためには、避けて通れない。
当事者でもわからないうちにいつの間にかと言う感じで進められていて、
興味深いよ。
例えば
・上田衆の有力者を景勝の指揮下から独立させ直臣に取り立てる。
・上田衆の中で相続に介入し、不利なほうに肩入れしてシンパを増やす。
・上田衆の有力者のうち景勝支持の者より景勝に距離を置く者を優遇する。
・景勝の後継をちらつかせ、上田衆を酷使する。
激戦が予想される戦いでは先陣、楽な戦いで後方待機。
オレの私見では、景勝・上田衆への対抗馬として景虎を残していたんじゃないかと。
景勝だけだと、家中のバランスは景勝・上田衆の発言権が強まり
それに対する府中長尾・古志長尾・独立色の強い国人の反発で収拾が
つかなくなるんじゃないだろうか。
- 171 :
- 上田衆が酷使されてたのは謙信が手紙で
「苦労かけてごめんね」みたいなこと書いてるから確かなんだろうけど
>・上田衆の有力者を景勝の指揮下から独立させ直臣に取り立てる。
>・上田衆の中で相続に介入し、不利なほうに肩入れしてシンパを増やす。
>・上田衆の有力者のうち景勝支持の者より景勝に距離を置く者を優遇する
こっちは実際のところはどうだったの?
- 172 :
- >>169
景虎、景勝いずれが上杉を継ぐにせよ、旧態の派閥を乗り越え、
集権的に軍を再編できなければ、後の遺恨になるばかり。
この途上で謙信が死んだため、上杉家は大規模な内乱を
抑え切れなかったんだと思う。
- 173 :
- >>171
具体的にどうだったかは知らない。
でも>>170であげた方策は、よく使われた手段。
だいたい20〜30年とか1世代かけてかけてゆっくりと行っていく。
でも上杉家の場合、謙信に実子がいなかったから、そのやり方も
かなり限られてしまう。
もし、景勝の弟とかいたら分割相続ぐらいは、させていたかもしれない。
- 174 :
- 解体されかかってたのは、どっちかと言うと古志長尾だろ
上田長尾は政景の時に一門からすら外されてたのが、一門筆頭になったわけで
復権どころの騒ぎじゃないように思えるが
- 175 :
- 景勝に兄弟がいたとしたら政繁のように
上杉一門辺り継がせるんじゃないか。
- 176 :
- 旧態の派閥を乗り越え、集権化を目論んでいたというのはその通りだろうが、
少なくとも謙信の生前、景勝の軍にはそれが及んでいないのが現実。
上田衆は解体も分割もされず、
謙信の死の前まで、景勝の直轄軍はむしろ拡張されていった。
もし弟がいたら分割相続させたいぐらい、景勝の力を削ぎたいと謙信が考えていたとしたら、
わざわざそんなことするかね?
統制権の強化については、そりゃいろんなやり方が考えられるだろうが、
謙信の場合、わかりやすいのは子飼いの寵臣による他家への養子政策だよね。
古志なんかは、その一例。
河田が養子に入って、栖吉衆の抵抗があって頓挫した(これで栖吉は謙信に叱責されている)
景信が謙信の生前に死去していたら、跡目は河田が継いでいただろう。
なんか話がズレてしまったが・・・
- 177 :
- 景信の跡目は誰だったの?
その後どうなったの?
- 178 :
- 古志長尾は河田長親が継ぎ長親は御館の乱では景勝を支持したけど
乱後まもなく織田軍との対峙中に病死したため古志長尾は断絶。
- 179 :
- 御館の乱の時に長尾景満が栖吉城主だったってのを見掛けた事があったが、景満って誰?
- 180 :
- 誰?といえば、長尾虎房丸も結局誰なんだろう。
- 181 :
- 景満は満景の誤記じゃないのか。
虎房丸は佐野氏でないなら、よくわからん。
- 182 :
- http://books.google.co.jp/books?id=AV55z3fgUwkC&pg=PT130&lpg=PT130&dq=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E6%BA%80&source=web&ots=4Q8GdEDlKE&sig=bbGyeeobRrjSDjh5C1n1xeY8jgE&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result
景行って誰?
- 183 :
- 上杉景満=古志十郎って下に書いてあるでねーか。
政虎が政景と書いてあったりあっちこっち名前が混同しててややこしいな。
- 184 :
- 俺も御館の乱の古志十郎が景信の息子景満(信虎)だったってのを見たことあるけど、息子なんていたのか?
しかも「虎」は輝虎の虎で、「信」は景信の信だろうけど、虎信ならまだしも信虎は有り得ないんじゃ…
- 185 :
- 実は長尾虎房丸=上杉信虎(景満)で
虎は別に輝虎から貰った虎じゃない説を唱えてみる。
景信に息子がいたなら栖吉衆に河田長親押し込んだのは無茶してるな謙信。
長親に率いられて景勝支援に回った栖吉衆と
景信親子に従って景虎支援の栖吉衆がいたんだよな。
- 186 :
- いくつか根拠レスで憶測するならば
謙信が山内を継いだ時に景信も越後守護家を継いでいでその分栖吉を明け渡せ、が1つ
もしくは元々古志は栖吉と蔵王堂の2流あって1つ絶えてたのを景信が預かっていてそれを1つ返せ、というのが1つ
そのどちらでもなければ単純に改易だったか
なんかどれも無理があるさなあ
- 187 :
- そういや天正5年の上杉家家中名字尽から
景勝が外れた理由は?
当然景虎もいないんだが。
- 188 :
- 動員名簿と家臣名簿の違いじゃないかな
- 189 :
- 多分、一族(内の別家)扱いから謙信の家族扱いになったと言うことではなかろうか。
当時の家族観では、大名の妻・子供に加えて義兄弟あたりまでは、大名の家族という
扱いで、一族よりも一段上・別枠の扱いだった。
逆に言えば、それまで景勝は謙信の養子と言っても上田長尾家の当主と言う扱いと
いう事になるね。
- 190 :
- >>185
非常に興味深い話だが、信虎とか景満とかちゃんとした史料に出てくるの?
- 191 :
- >逆に言えば、それまで景勝は謙信の養子と言っても上田長尾家の当主と言う扱いと
いう事になるね。
?
家中名字尽みたいなのが天正5年以前にもあって、
そこに景勝の記載があるなら、そう言うのもわかるが、
何と比較して名字尽の前はあくまで上田長尾の当主扱いとするわけ?
2年前の軍役帳の時、すでに一門とは明確に一線を引かれ格上にされてた訳だが。
- 192 :
- 伊達家
伊達成宗:奥州探題就任
伊達尚宗:上杉氏から正室を迎える
伊達稙宗:再び奥州探題就任
伊達実元:上杉氏の養子となるが長尾家の妨害により失敗
長尾家
長尾景春:関東を争乱状態にして、管領上杉家の勢力を衰退させる
長尾邦景:上杉家をないがしろにし、専横を振舞う
長尾実景:越後守護家に謀反を起こす
長尾為景:上杉房能、八条定宗、上杉顕定らを害して上杉家を傀儡化
長尾晴景:上杉実元の家督継承を妨害
長尾顕景:上杉憲政、上杉憲重らを害して上杉を僭称
さらに上条上杉政繁を追放
どちらが上杉を継ぐに相応しいかは、バカでもわかるわな
- 193 :
- >>190
長尾満景は実在するけど、どの系統か謎だよね
- 194 :
- 八条定宗
こいつの説明してくれ。
- 195 :
- 四条中務大輔系統
- 196 :
- この乱さえ無ければ、織田家の北陸攻略も手間取ったろうに。
- 197 :
- そうは言うが、起こるべくして起こった乱とも言うべきものだしなあ。
- 198 :
- まぁそれはそうだが、降伏か滅亡は時間の問題だろう
- 199 :
- >>198
謙信があと20年長生きすれば…
- 200 :
- >>199
謙信存命で当分は織田を追い払えたかね?
- 201 :
- あと数年生きていれば少なくとも御館の乱を防止するだけの体制は築けただろうね。
- 202 :
- 確かに49歳ってのは武将の寿命としてはなあ…
もう少し健康に気を遣っていれば。。
- 203 :
- >>200
対信長でも北陸の土豪をひきつけておくだけのカリスマはあり、
手取川後に加賀どころか越前北部の土豪すら上杉になびいている。
北陸がこんな状態では信長はなかなか身動きが取れない。
もし越前から近江に侵攻でもされたら最悪だもの。
もちろん、史実のように武田が崩壊するようだとヤバいけどね。
- 204 :
- ifっていうものは、結局ifの限界を超えられないというか、
どれだけ論じても史料的な裏づけが困難だから感情論に終わってしまうんだよね。
だから謙信が生き延びていたらどうなっていたかは確かにわからないけれど、
信長なんか余裕で倒せたとも、謙信は計略で簡単に陥れられたとも言い切れない。
ただ、御館の乱のような極端な内紛に陥る可能性は極めて小さいし、
謙信は手取川(疑わしいと思うなら加賀進出と言うことも出来る)の実績があるから、
まず史実通りに押されることはないという見方が手堅いでしょうね。
- 205 :
- 手に入れたいものは手に入れる景勝に勝てる者はいない
- 206 :
- 謙信が存命なら甲斐武田ももう少し長持ちしたろうね。
- 207 :
- 戦国武将は、大体50代半ばで亡くなっています。
謙信の49歳は、それよりは早いがけっして短命ではない。
- 208 :
- テスト
- 209 :
- テスト
- 210 :
- 景勝スレで景信云々あったけどさ、景信個人が何をしたという事よりも、
御館の乱で景勝派に属した主要な人物たちよりも、謙信政権の末期に
政治的に重用されたか、というのが重要なんじゃないの?
- 211 :
- あと、直江や山吉の場合は直前に死んだ先代の功績も加味する必要があるかも。
- 212 :
- 信綱なんか景綱が亡くなったのが謙信の死の前年と直前過ぎて
信綱自身の待遇がどうだったのかよくわからんのな。
俺は景綱と信綱の方針がそう違っていたとは思わんけど。
- 213 :
- ちょっと気になってるんだが、後継者は軍役を担わないって言うじゃん。
でも普通に父親の軍を借り受ける他に軍を持たない嫡子と違って
景勝は実父から受け継いだ上田衆から切り離されることなく 養子になってるよな。
顕景が分家当主から謙信の子になるに合わせて、
上田衆の扱いも陪臣から本家家臣に繰り上げになってるみたいだし。
景勝の軍役を免除したら上杉家最大の軍がいなくなっちゃうわけだが、
これはナシだろ?上杉家が弱体化してしまう。
景勝の軍役を免除するとしたら、景勝の代わりに誰か上田当主を立てて
そいつに軍役を掛けるのが筋のような気がするんだが、
景勝に兄弟はいないしまだ結婚もしてないから
景勝の息子を片方上田当主とするとかの方法もないし
どっか他の家から上田当主になる人物を連れてこなきゃいけなくなるだろ。
分家当主から本家の養子に入った人物が
元々分家分として持っていた軍って普通はどうするもんなんだ?
謙信は上杉家当主になったときに府中長尾に別の当主を立てて切り離したっけ?
それとも軍役免除ってただ単に「軍役帳に名前を入れない(ただし軍は動員)」って事なのか?
それだと上杉軍全体の陣容が分かり辛くなって派遣する部隊やら陣を決めるのに凄く不便な気がする。
- 214 :
- 嫡子は普通に戦場に出されると思うが。
同時期、勢力の大きい織田とかは、
元服初陣あたりから既に、どこの地域が信忠の支配下で
どこの武将が直接の部下になるかだいたい決められてたようだし、
家督継承前から親と離れて単独でも出陣してたりするし。
謙信は政景生前から上田衆への指示を出してたし
政景死後、直接上田衆に指示してても、
「喜平次からも聞いてるだろうけど」みたいな事書いてあったのもあったし
上田衆は景勝のものだと扱いつつ、直接指示を出したりもして使っていると思う。
- 215 :
- 何かイマイチ要領がつかめん。
普通に嫡子が戦場に出ることは分かってる。
信忠も秀忠も武田の義信もちゃんと副将として仕事してるわ。
じゃなくてさ、景勝は謙信の養子として上杉宗家に入っているけど
上田衆の統括もしてるじゃん。
この上田衆は謙信から貰ったものではなく実父から受け継いだものだろ?
上田衆が景勝の立場の変遷(上杉家臣上田当主→謙信の養子)によって
連動して立場が変わってるんじゃないかってのは栗林宛書状の
宛名が「との」から「殿」へ変化してることで指摘されてるよな。
謙信も大殿の立場から上田衆に直接指示を出してることもあるけど
基本は「政景→喜平次の家臣」として扱ってるよな。
この分家当主時代からそのまま引き継いでいる家臣団の軍役を
宗家に入ったことで免除するということがあるのかという。
- 216 :
- >後継者は軍役を担わないって言うじゃん。
を読み間違えたようですまんな。
なんで宗家に入ると免除になるの?
ご存じの通り、養子になったはずの景勝も軍役帳に書かれてるし
少なくとも上田衆は免除されてないんじゃないんすか?
- 217 :
- えーと、分家当主が分家の跡継ぎもなく宗家の嫡子となった場合
分家家臣団の軍役上の扱いはどうなるのか、が聞きたかったんだ。
(嫡子となったと仮定してくれ)
後継は軍役を免除されるもん、って景虎後継論で言われるだろ。
景虎は軍役免除されてる=後継者って。
で、景勝は謙信の養子になる前から
上田長尾家当主として軍役を持ってた訳で、
これがもし後継者が景勝に決定していた場合に
この持っていた分の軍役が引き継ぐ相手も無しに
突然消えたりするのが後継者扱いで自然なことなのかが、
腑に落ちなかった。
- 218 :
- たしかに後継者であるなら、「上田家の軍役」を担うのは不自然だな
- 219 :
- 逆に景虎が後継者であるならば、
同盟決裂後、軍に関与した形跡がないのが不思議だ。
謙信が率いていた本陣に居たはず、家督相続後に謙信が率いていた者を率いればいい、
景虎を後継者と見る人のそういった内容の書き込みをこれまでに読んだが、
信忠にしても勝頼にしても、自ら一隊を率い、一隊の将として、
戦った経験をもって、家督を継承している。
(仮に)本陣に居た経験があるというだけで、
実際には自ら感状を出したこともなく、粉骨砕身してくれる譜代の家臣たちもおらず、
それで謙信が率いていたあの上杉軍を、
いきなり相続後にまとめることが出来るのだろうか。
そこが疑問なのだが。
- 220 :
- 景勝・景虎どちらが継ぐにせよ謙信の死が急すぎた・・・・
- 221 :
- >>218
景勝が上田衆の軍役を担うのは後継であるかないかに関わらず当然のことだろ。
上田当主を引き継ぐ人間が他にいないんだから。
謙信は山内上杉家を継いだことで府中長尾に別に当主を立てて家臣団を渡し
山内上杉譜代家臣だけを直轄軍として戦ってたか?
- 222 :
- 後継者の話をして揉めているのを見ると、時々ふと
もしかして謙信、完全にノープランだったんじゃと思う時がある
- 223 :
- 出家・剃髪・入道している
近国の氏康や信玄も既に亡く
織田の脅威は日に日に大きくなっていく
辞世の詩か?とも言われる歌を残している
この状態で完全なノープランだったとしたらすげーと思う
- 224 :
- だからと相川司の「飯綱魔法による不死性説」みたいな阿呆な話は出さないようにしよう!
- 225 :
- でも景勝にしろ景虎にしろどっちが後継者となるべきだったか推測の域を出ないわけでしょ。
これは30近くなっても家督を譲らないまま廃嫡にして四郎への権力移譲もまともにやらずにった信玄もそうだけど
あの頃の二人の年齢なら形だけでも隠居して家督を継がせておくべきでしょ。
更に謙信はアル中で半身不随に近かったって話もあるくらいだし、当時のあの齢なら何が起きてもおかしくない。
謙信にしろ信玄にしろ自分たちが暴れまわることしか考えてなかったようにしか見えないんだよね。
で結局その結果内紛で家がまとまらずに織田に潰された乃至潰される寸前だった要因に思える。
- 226 :
- 簡単に言えば後継者指名が易々と出来る状況下になかったんでしょう。
- 227 :
- 既に上杉家内部で派閥による暗闘が相当あったと見るべきだね
- 228 :
- 謙信は入道した翌月に景勝に官途を譲り渡してるから
景勝が後継だったなら家督譲渡準備していたといえるな。
- 229 :
- >>225
謙信についてはあまり適切な評価じゃないと思うよ。
謙信は40代であったし、自分も周囲も予期しない突然死だったから、
まだまだ現役でやれると考えていても別におかしくはない。
自分たちが暴れまわることしかってのも違う。
その政治は家中の統制化がかなりのウェイトを占めている。
地位の引継ぎは準備を整えつつあったし、中央集権化も進めつつあった。
それがあと少しというところで不慮の死に遭遇してとんでもないことになった。
これを油断していたと言い切るなら、本能寺の変を油断していた信長はもっとひどい。
- 230 :
- >>225
確かに現役気分だったかもしれなし
誰も文句言わないように明確に家督を譲って、家臣団の統制をしてれば乱は起きなかっただろうけど、
乱のごたごたを見る限り、そんなに簡単にはいかなかったんでしょ。
- 231 :
- だから甘いんだろ。
家中の統制も甘く、後継者も明確でない。だからお家騒動になった。史実はそれ以上でも以下でもない。
家督はまだ譲らないなら、最低限後継者はどっちかぐらい明確であったべき。
あの時代は何があってもおかしくないってのに、謙信ももう直ぐ50。
国人衆の力が強くて中央集権や家中の統制ももまだまだで、後継者候補が二人どっちともとれる曖昧な状態。
こんな状態だったらお家騒動が起こりそうなことぐらい馬鹿でもわかる。
だいたい40代っても享年49だっけ、強引な論理だぞ。
それに屁理屈述べても体制の甘さからお家騒動、それにつけこまれて滅亡寸前まで言ったのは事実。
だいたい上杉厨はなんでいちいち織田をもちだして批判しない時がすまないの。
いちいち織田コンプレックスがうざいよ。
ただ織田に関しては中央集権化なんてとっくの昔にやってるし、
本能寺のずっとまえに織田家の家督は信忠だよ。
不測の事態には備えていたようけど、さすがに隠居と当主が同時に討ち取られるってのはなかなかないケースだろ。
別に織田を擁護するつもりもないが。
- 232 :
- 柿崎和泉守ら上杉家宿老らは景虎を嫌い、「小田原殿」とか「氏秀殿」と呼んで上杉一族とは認めたがらなかったというのは本当か?
- 233 :
- 乱の両派の構成を見れば後継者は既に決まってただろうな。
その決定に反抗する者が、当主の死後に大きなバックを持つ
傀儡を担ぎ、利を貪る者や、自分より重用される同族に反発
する者が加担してクーデターを起こした。
城中に住んでいた確証や、基盤となる領地や軍を持っていた
形跡もなく、政権中枢の者達からは乱時には相手にされず、
家中での序列も一切不明、当主の直接の血縁でもない無官の
敵国出身の人質が後継者?
可愛がられたという史料や、文書発給、戦闘経験が豊富で、
一門筆頭の様付け、官位も譲られた実の甥を差し置いてか?
…ま、操るのにはもってこいかもしれないが。
- 234 :
- 景虎自身が上杉家を本気で継ぐつもりなら、必要なのにやっていない事が多すぎる。
・謙信の死は突然死
・死ななければ関東遠征に行くはずだった
・謙信が死んで、跡目争いのため景虎実家に援軍要請
謙信が死ななければ上杉家は景虎の実家と戦うはずだった。それは謙信の決めた方針だった。
その実家に助力請わなければ上杉家掌握する力が無い景虎が後継者ってどうなんだ。
繰り返すが、上杉家当主としての北条家への援軍要請は、生前の謙信の方針と真っ向から対立するのだ。
- 235 :
- 北条的には
「謙信来なくてらっきー! 三郎は上杉継ぎたきゃ継いでもいいけど
織田家とのごたごたに俺たち巻き込むなよ。
織田が来るまでに関東平定しなきゃいけないんで俺たちゃ忙しいんだから」
と見えなくもない。いまさらそれを理解しない景虎でもあるまい。
何が何でも景虎に継がせなきゃいけなかったのは本人ではなく反上田派閥だろ。
- 236 :
- >>232
そんな話どこから?
三郎は氏秀ではないのは証明されているし、
柿崎は三郎の世話をしていたはずで。
- 237 :
- >>231
>不測の事態には備えていたようけど、
備えが全然不十分だったから、隠居と当主とやらが同時に討ち取られたんじゃないの?
しかも家臣の謀反で
>さすがに隠居と当主が同時に討ち取られるってのはなかなかないケースだろ。
なかなかないケース・・・というか織田だけじゃないか?
隠居と当主が同時に討ち取られるなんて粗漏さは、酷い
しかも家臣による謀反だし
かといって謙信が甘いという指摘はその通り
でもなぁ・・・古志勢力と上田勢力が、互いにわだかまりを持したまま
謙信によって、片方の勢力が支持する世継ぎに決められていたとしても
追い詰められた景勝or景虎は、新発田以上の大乱でアッサリ滅んでいた可能性も高い
御館の乱で不満分子をほぼ一掃出来、上田衆による支配を多少確立出来たお陰で
景勝はあれだけ粘れたと、言えなくも無い
- 238 :
- >>233
関東管領の通称は代々、四郎(あるいは三郎)だったし、1575年の軍役は
上野のものは含まれて居ないし、乱の時にも謙信側近の神余、堀江、河田、
下平などが景虎に味方している。相手にされず、なんていうのは嘘。
>>236
だから嘘でしょうな柿崎の子は兄弟で分かれて乱を戦うほど、どちらへ
付くか迷っていたはず。
- 239 :
- 無位無官の三郎を三郎と呼ばず他に何と呼ぶんだろうか。
関東管領は代々官位を持ってるのにな。
しかも当主謙信は平三であり通称を四郎だか五郎だかに変えることなく
上杉当主となって以降もずっと「弾正少弼」だよな。
河田一族は北条との折衝と沼田城将を勤めた重親は三郎に加担してるが
最も謙信に重用され織田戦線で戦っていた長親は景勝派、
堀江は古志派だったな(しかも景虎したし)
- 240 :
- 景虎は北条にいたときから関東管領関係なく
三郎なんじゃね?
- 241 :
- あと疑問なんだか三郎は北条から謙信の養子に入った時に
通称を「三郎」に変えたのか?
元の通称はなんだったんだ?
上杉家として三郎を名乗ったなら元の通称は違ったんだよな。
あと関東管領として変名したなら何故四郎・五郎ではなく三郎なんだ?
- 242 :
- >>238
上野が含まれていないから何?
景虎が上野に居たとでも?
それらの側近は景勝についた重臣より中枢にいたのか?
それに神余は当初景勝側に恭順する意向を見せていなかったか?
- 243 :
- 柿崎晴家が景虎派だったってのは本当に確かなのか?
>>232
景家から小田原殿と呼ばれ激怒したという逸話は聞いたことあるけど出典は知らないな。
- 244 :
- 景虎が北条幻庵の養子に入った時、既に三郎だったと思う
- 245 :
- 晴家はいつ死んだかすら確定してないはず。
御館の乱の前に謙信にされていて、それを景家が混同されたとする説もある。
景勝にされたとする場合もある。
御館の乱時の憲家は子供だったっぽい節もあるし。
景虎派で重臣だった北条毛利と神余は乱の初期は景勝に付く動きを見せ
途中で景虎派に変節している。後北条に日和見したんだろ。
- 246 :
- 山吉は景勝に近い勢力で当然景勝側に付くし、景勝も山吉に肩入れすることは十分考えられる
山吉と地域内で対立関係にある神余は景虎側に走るしかなかった
キタ条は、晩年の謙信側近=越中重視政策派とすれば
関東に利権のあるキタ条は謙信側近の担ぐ景勝を打倒しなくてはいけないから
景虎側に行ったとか、もちろん安田との対立関係での可能性もあるが
- 247 :
- 揚北の景虎方
鮎川氏…秩父党本家の本庄氏や、序列で上位の同族色部氏に対抗。
黒川氏…三浦党惣領家で謙信側近が継いだ中条氏や、その名代築地氏に対抗。
加地氏…奉行として活躍する庶流の新発田・竹俣両氏に対抗、佐々木党宗家の意地を見せ復権を謀る。
こんな感じか?
>>246
府内長尾氏名代の山吉氏が景勝と近しいという時点でもうね…
- 248 :
- 山吉は府中長尾傘下だが、景勝は謙信から山吉家臣を一部預けられてるし
謙信は景勝に豊守との連絡を頼んだりしてるから
自身の旗本最大派閥の山吉氏と景勝を接近させようとしてたかもな。
- 249 :
- 加地秀綱は長尾一族ではないとはいえ一応謙信の甥なのに景勝との扱いの差が…。
- 250 :
- 加地の息子が謙信の甥という事自体を疑ってかかった方が良さそうじゃないかな。
彼が謙信から甥っ子のように扱われた事を示唆するような物は遺ってないし。
ただ春綱に為景娘が嫁入りしたというのがあるだけでその女の息子かは分からない。
- 251 :
- >>238
御館の乱の時は、河田だけでなく、本庄繁長なども親子で
両派についているし、一概には言えないけど、どっちが後継者と
いうよりは、越後の国衆は対立関係上、それぞれを支持して敵対
してるような感がある。
>>239
地味だが能登七尾に入っていた鰺坂長実も景勝についているね。
直江や吉江、中条なども景勝につき、引き続き重用されている。
堀江って、謙信側近としての活動って、どんなものがあるか判る?
奏者をつとめたとか、蔵入の代官やってたとか具体的なのがあるん
だろうか。正直景虎したことくらいしか、事績が思いつかん。
>>245
天正後期の柿崎氏の当主は若輩とみてよいはず。
柿崎家中の後見を、兼続から狩野秀治へ交代するという内容の
文書が残っている。
- 252 :
- >>249
加地氏と府内長尾家との関係も変だよな。
謙信の妹を娶ったとかで一門扱いなはずなのに、
なぜか信憑性のある史料でそれが確認できない。
- 253 :
- 確かに上杉氏年表見ても出典が明記されてない。
- 254 :
- 謙信の兄弟で確実に確認出来るのは晴景と政景室だけ?
- 255 :
- >>250
>>252
本来なら議論に値しないことです。
上杉三代日記、北越軍団、大日本史料などに、加地春綱へ為景の娘が嫁いだ
記述があるから、ほぼ信頼して良いかと。ただ、謙信の猶子になったわけではない
ので、加地が一門扱いでないのは当たり前。
上田長尾と加地へ娘を嫁がせることによって、為景は揚北衆を押さえ込もう
とした、という背景があります。上田・加地は揚北の中核でしたからね。
- 256 :
- 一門じゃないのはともかくも
顕景は上杉になる前から謙信に相当可愛がられてるのに春綱は…。
謙信妹が嫁な割に加地氏はイマイチ存在感ないよな。
姉に関しては喜平次宛書状なんかでも言い及んだりしてるのに
姉は大事だが妹はどうでも良かったのか北越軍談が眉唾か。
- 257 :
- >>256
北越軍談は確かに軍記物なので信頼性に足らない部分もありますが、
全て信頼できないと言うわけでもありません。また、杉三代日記・大日本史料にも
見える記述なので、揃って同じ虚偽を載せるとは思えません。
なお、春綱自身はその活躍時期からして、謙信より10歳以上年長と思われます。
- 258 :
- 当時の書状とかにも残ってる?
- 259 :
- 先発の眉唾ネタを筆者が読んで
それに合わせて記述する可能性もあるから微妙。
あるとしたら、謙信妹を娶ったことは娶ったが
秀綱は先妻の子で謙信妹との間に子は居ないとか
妹は虎御前の子ではないので謙信は会ったことがないので
どうでも良かったか?
- 260 :
- 加地に妹が嫁いでようが、一門扱いじゃなくても別に何とも思ってなかったが
議論に値しないと言われると逆に気になるな。
『北越軍談』だけじゃなく、『上杉三代日記』も軍記だし
他の軍記を参考にして書かれてるのも珍しい話じゃないだろ。
『大日本史料』だけじゃ判断つかん。大日本史料に引用されてる史(資)料は何だ?
- 261 :
- >>260
他の軍記を参考する場合も、たしかにありますが
「参考にして書いた」という証拠もないですし
加地氏の記載を粉飾して筆者が得をするとも思えません。
『大日本史料』での引用元は不明です。
しかし、「定本 上杉謙信」(池享、矢田俊文著)などではこの記載を
引用しており、研究者の間では加地氏との婚姻関係は事実と
いうのが通説になっているようです。
- 262 :
- 議論に値しないと言うのは、加地春綱の室については長尾氏とする史料しか
なく、研究者の方もこれを概ね容れており、ここでの議論は(他の説と矛盾が
出ない限り)あまり意味を成さないと言いたかったのですが、言い方が
悪かったですね、申し訳ないです。
- 263 :
- 秀綱が実の甥なら、数少ない近しい血族として養子に迎えるか
長尾家のどれかを継がせるかしてみればよかったのにな。
代わりに加地家を佐々木党の一族に継がせてさ。
まあこの手の話題は揚北スレの方がいいんじゃないか?
- 264 :
- >>261-262
『大日本史料』なら引用元が書いてあるんでは?
史料、資料に書いてあることを引用元を明記して、引用して並べてる本だし。
あと「「定本 上杉謙信」(池享、矢田俊文著)」とあるけど
あの本は「池・矢田/編」なだけであって、池と矢田だけが書いてるわけじゃないし、
本の編者よりは、論文の作者と論文名を記載すべきでは。
>加地春綱の室については長尾氏とする史料しかなく
「史料」があるなら、それを上げるだけで皆納得するはず。
軍記を上げるよりは、史料を上げるほうがいいのでは。
- 265 :
- 加地氏の室が謙信の姉妹ならもう少し関係が異なると思うんだけれどね。
新発田の方が重用されている気がするし。
これ以上はスレ違いになると思うのですが、
「論ずるに値しない」という態度は違うと思うな。
逆の意味(「こんなものにしか記載されていないのだから信憑性ない」との意味)でいう方がまだわかる。
- 266 :
- >>265
守護代が他の豪族と婚姻関係を結ぶことは珍しくないし、
女系の血縁だけでは、特別扱いはされない。
だから、加地の序列がそれほど高くないという事と
謙信と血縁が有ることは矛盾しないんじゃないか?
そこまで疑ってかからなくてもいいと思うが。
大身と言われた上田や古志なんかは女系親族
である前に男系親族なわけだし。
- 267 :
- どこにでもある政略婚ということかな
>>263
そんな、養子ばかり取っていられないだろうw
- 268 :
- 加地さんの話は、何かと話題の少な目な繁長with揚北衆スレを育てる肥料にしてやってくれないかね?
それとも後継者がどっちだったかという議論が決着して、御館の乱で話すことがなくなってしまったのか?
- 269 :
- >>268
決着した感があるね。
正しいかどうかは別だけれど、有力な反論がない限り、この流れ通りだったんだろうって感じ。
- 270 :
- 長尾家代々の正室が不明なのが謎
- 271 :
- 代々の当主の正室がはっきりしてる家の方が珍しいと思うけど。
- 272 :
- >>271
他と比べりゃ少ないさ
景忠、景恒、高景、景房、頼景、重景、晴景と
越後長尾は正室不明な当主が他と比べて多い
守護代クラスでこれはおかしい
守護代クラスなら政略婚は多数あるべきだし
国人も取り入ろうとしていたはず
- 273 :
- 越後長尾は内乱で文書が失われすぎだ。
- 274 :
- 晴景の正室って上杉定実の娘だかなんかじゃなかったっけ。
- 275 :
- 景勝は謙信が生きてたらどこから室貰っただろうね
- 276 :
- >>273
婚姻相手の家にも文書として記録が残ってないとおかしいけど
高梨氏くらいしか判明してないよね
越後国内の豪族から正室を迎えたと言うことなら
そちらの記録も内乱で消失しているかもね
- 277 :
- 府内長尾氏はたぶん、上杉房定の時代に上杉家と婚姻関係があるかも知らん。
長尾邦景父子を失墜させたあと頼景か重景と血縁関係を結ぶなりするのが妥当。
養女にしろ何にしろ、親戚筋にしておいた可能性はありそう。
戦国大名論文集の「上杉氏の研究」によると越後は府内長尾氏ばかりでなく、
定実より前の守護上杉氏の記録も消失しているんだっけ。
長尾氏の正室の記録がないというのは、つまりこの消失した上杉氏の記録にあるから残ってないのかも知らんな。
高梨氏みたいに一国人領主から迎えているなら、たとえ当時の記録がなくても、
その一族が自らの権威付けのため、伝え続けるはず。
- 278 :
- なんで上杉本スレでやってたような話題をわざわざこのスレで?
スレ違いでしょ
日本史板にも上杉・長尾スレあるし、思う存分語りたい人はそっちの方がいいんじゃないの
- 279 :
- >>275
景勝は後継云々抜きにしても
謙信にとって唯一とも言っていい近親男子だから、
嫁側の家も当然それを意識するだろうし
嫁選びは慎重だったろうな。
30歳にもなって結婚してないのは心配だという価値観は持ってるようなのに
23歳になっても景勝に縁組を勧めてないというのは
何か理由があったんだろうとは思う。
まあ謙信が死んだことで勢い武田から嫁を取ることになったが。
- 280 :
- 古志長尾から嫁をもらえたら申し分なさそう。
- 281 :
- >>277
房定期は越佐史料とか実隆公記などがあるが
一次史料はおろか後世の物や、軍記物にすら
そのような縁組の記載は無いので、完全に推測に留まるな…
成り行きとしては確かに自然だけど
- 282 :
- 直江兼続や上杉景勝の男色関係を必死になって否定せんとし居るウィキペディアの書き手は
実に哀れな田舎者よのう!!!
- 283 :
- 景勝が謙信の遺言で国を治めることになったと書いている
のに何で信じてあげないんだよ。
遺言って別に死の直前に遺すものとは限らないだろうに。
- 284 :
- 景勝・景虎の二人の謙信政権下での動きを見てると、
謙信は越後は景勝に治めさせる気だったと思う。
景虎は憲政の後継として上野に入るか、
北条家との折衝役として残るかだったのではないかな。
少なくとも景虎一人に越後を治めさせるつもりは無かったと思う。
元々関東管領領だった越後が分家して独立した越後国となったように
関東から山を隔てた越後に関東管領がいる不都合を
謙信は感じていたのかもしれない。
景虎が越後での景勝の主権を認めれば
憲政を引き取って上野を貰えたんではなかろうか。
- 285 :
- >>284
景虎の謙信政権下での動きってのを一次史料名付で挙げてみてくれ。
動きがわからんから謙信がどうしたかったのか不明なはずなんだが。
- 286 :
- 謙信の意思とは関係なく越相同盟が破綻してしまい、謙信としては景虎は
可哀想だし、姪を娶らせてもいるから小田原に返還出来なかったんだろう。
敵国の子息は何らかの切り札にはなるかもしれないが、政権には関与させにくい。
正直謙信はこの男子の扱いに困っていただろうね。
兵は預けていないし、最近浮上した説を採れば春日山にも住んでいないから、
景勝の対抗馬になるとは夢にも思わなかったのかもしれない。
>>283
謙信晩年の側近が終始景勝に与していたのをみると、実際に遺言する様子が
記された文書が残っていなくても、謙信は周囲には既に言い聞かせていた
と考えた方がいいかもしれないね。
- 287 :
- 景虎の存在は謙信の関東管領山内上杉としての立場や
旧山内上杉領上野の帰属を北条が認めたことの証人だったのでは?
景虎が越後にいる限り北条としても上野は上杉領と自分達が認めたことを
無視しづらかったんではないかね。
景虎をしたり返したりするとこの条件が完全にご破算となったと
上杉側からも認めることになるため返しにくかったのではないだろうか。
- 288 :
- 謙信は景勝含め仙桃院の子供たちをかなり可愛がってたみたいだから、
景虎の妻である姪を夫と引き離して、景虎を北条に返すのが不憫だったのかも。
- 289 :
- >>286
>謙信晩年の側近が終始景勝に与していたのをみると
それは曲解でしょ。河田や柿崎、山本寺までもが御家を割って両陣営に属している
そう簡単に景勝の、遺言云々を信用することはできない
- 290 :
- 柿崎は景虎に付いたかは分からないんじゃなかったっけ?
- 291 :
- 河田重親は沼田城将であるため関東寄りの立場を取って
自己の既得権益を守ろうとしたのではないかと指摘されてるよな。
御館の乱では本来防ぐべき後北条と協力してるし。
(同じ沼田城将の上野は景勝に付いてるが)
特に阿賀北・越中衆が景勝に多く付き、上野衆が多く景虎に付いているのは
北条の子であり勝頼の義兄でもある景虎の立場がよく表れてると思うが。
- 292 :
- >>291
誰によって指摘されてるのかは知らないけど
重親が北条の援軍を仰ぐのは景虎方であれば
不自然なことではない
揚北・北陸路の武将が景勝について、上野衆が景虎についてるのは
越後国主・関東管領の分割相続の裏付けと言えなくもない
- 293 :
- 上野衆も山内旧臣も割れてるけどね、北陸勢も椎名とかは景虎方
個人的には分権説が一番ありえないと思うけど
- 294 :
- 重親が景虎側なのは沼田城を確保したいがためって言う説は
武田氏研究で栗原氏が詳しく書いてたね
- 295 :
- >>289
でも吉江景資・信景、河田長親、鰺坂長実、河隅忠清、山崎仙柳斎、といった
1570年代(謙信の晩年)に奉行人として文書発給してる側近はみんな景勝派なんだよな。
上記に該当して景虎についたのは北条親子だけで、
それこそ元々彼等は関東後北条氏との関係が深いしなぁ。
- 296 :
- 憲政が景虎派ってのを結構見かける事があるが、ただ景虎派に御館を占拠されて
動けなかっただけじゃないのか?
だから道満丸連れ出して景勝に差し出そうとしたんだろう。
本庄顕長が景虎派ってのも、景虎派が繁長を味方に引き入れるために連れ去った
とは考えられないか?
景虎も顕長も同じ人質同士近くに住んでた可能性だってありそうだが。
- 297 :
- 憲政が景虎派だったら山内旧臣はこぞって景虎に組しても良いようなものだけど
現にそうじゃないからなぁ、
中立に近かったから人質を伴っての降伏交渉の使者に成れたんじゃないかな
- 298 :
- >>296
顕長が景虎派になったのは、親子で両派に分かれて保険をかけたのと、
母親が古志長尾出身じゃなかった?
それで景虎派というより、元から反景勝の気があったのではと思っていた。
- 299 :
- あ。
「同じ」と「同士」を一緒に使ってはダメか…
前から思ってたんだが、二者分権説って「結局総大将はどっちなんだ?」ってならないか?
- 300 :
- >>290
御館の乱勃発時の柿崎氏の当主は不明だが、柿崎城や猿毛城は景虎方。
上野や憲家に攻められたときも防衛側は柿崎氏の家臣。
柿崎家としては景虎方についたと考えるのが妥当だろう。
- 301 :
- >>298
確か繁長の奥さんは景信の妹
- 302 :
- >>293
椎名って謙信に越中叩きだされた椎名?
それって景虎派じゃなくて単純に反上杉じゃ。
反上杉の対抗勢力がごっそり景虎に付いているという意味なら
景虎ではなく景勝が上杉の後継者である証拠に思えるがね。
- 303 :
- >>302
その椎名ついだ長尾小四郎
- 304 :
- それこそ反景勝になる理由だらけでは。
- 305 :
- まぁそうかもね
- 306 :
- >>295
長親が景勝の要求にすぐに応じなかったことを
景勝の実城占拠などの行動に対する抗議ではないかと書いてる本もあるけど
彼の立場の背景を考えるとむしろ景虎支持を表明しなかったことの方が
重用だと思うんだけどどうなんだろう。
- 307 :
- 単純に対織田戦線での主将的ポジションにいたために
すぐには動くに動けなかっただけじゃね。
景勝としては(特に乱初期は)とにかく一兵でも早く戻ってきて
加勢してほしかっただろうが、
上野や信濃と違って北陸方面は織田勢力と戦わなきゃいけなかったわけで
長親は古志長尾の後継でありながら景虎支持する様子は無かったと思うが。
- 308 :
- >>302
椎名を抑えるために長尾一族から無理やり養子に入ったのが景直。
だから「反上杉」というのは意味不明
302は景勝の正当性を主張しようと恣意的になりすぎてる
- 309 :
- 長尾景直は椎名の子が長尾家に養子に入って椎名に戻されたのか
もともと長尾の子が実家を絶えさせてまで椎名に入ったのか
はっきりしてないのでは?
藤景の子でも反景勝になる理由は揃ってると思うが。
- 310 :
- 「反景勝」になるという可能性はあるだろうね
俺が指摘したのは「反上杉」がおかしいということ
- 311 :
- 謙信に叩きだされた椎名?と最初の文で聞いてるんだから
反上杉ではと指されてるのは椎名家であって長尾小四郎の事じゃないんだろ。
長尾景直は謙信に叩きだされた事があったか?
- 312 :
- >>293の「北陸の椎名は景虎方」に対して>>302が「反上杉」と
言ったからそれはおかしいと言った。
御館で景虎方につく「椎名」がいるとすれば年代的に景直しかいないので。
それとも御館の時点で康胤が存命中だと勘違いしただけかな?
- 313 :
- ん?俺は椎名は勢力としては反上杉だろうと思ってただけだ。
椎名家当主康胤は謙信に離反して追われ
景勝に謙信への助命嘆願のとりなしを頼むもスルーされてあぼん、
椎名本拠の松倉城は長親によって抑えられており、
上杉家に頭を押さえつけられた状態で長尾氏からの婿養子が当主となり、
椎名康胤の子は追われて出家。
というのが概歴だろ?
- 314 :
- ぶっちゃけ椎名景直が景勝の下に付くのを嫌がる理由はあるんだから
どっちでもいいと思うんだが。
で、長親から越中の主導権を奪い返すために
反長親で景虎派に付いたんだったりしてとふと思ったり。
- 315 :
- 景直は小島職鎮とも対立関係にあったな
職鎮も景直に敵対して景勝派になったな
- 316 :
- 本庄繁長が景勝方になった理由がよくわからん……
妻は景虎派の古志長尾景信の姉妹だし、息子顕長も景虎派。
曽祖父房長以来の盟友である黒川氏も景虎派。
お隣りさんで本庄氏と関係の深い大宝寺氏も景虎派。
本庄氏をさておいて席次で上位に立った色部氏は景勝方。
黒川氏と一緒に長年に亙って対立してきた中条氏も景勝方。
閨閥関係でも景虎派、当時の本庄氏の知己や過去の因縁からしても景虎派のはずなんだが、
なぜか景勝に味方してるんだよな……。
本庄氏と不仲の鮎川氏が景虎派なのは繁長に対抗するためのような気もするし。
謙信存命中は不遇な状況にあったわけで、捲土重来を期すための選択がなぜ景勝だったのか。
よっぽどの好条件を提示されてのだろうか?
でも乱後の論功行賞でも分を越える恩賞があったようには思えんし。
不思議だ。
- 317 :
- 中央に深くかかわってない揚北衆だから
勝ち目が大きいと思った景勝側に主力が付いただけとかじゃないのかね
一族こぞって付いたとかなら何らかの理由はあるだろうけど、嫡男は景虎側だし
乱中も地域抗争ぐらいで景勝に強力に合力したわけでもないし
- 318 :
- 最初に優勢だったのは景虎方だべ?
景勝方に戦況引っ繰り返されただけで。
- 319 :
- 居多浜での山浦上杉景国の戦功が大きい
- 320 :
- やっぱ監視下に置かれてたんだと思うぜw
上杉一門として裏切ることはないと信頼されてたなら
一軍率いて謙信の名代として出陣してるよ。
後継者だから軍役を科さずに大事に大事に温室育ちにしていたんなら
景虎の年齢と譜代家臣の不在、謙信の年齢、出家済であることから
家督移譲の準備を整えやっぱり軍事力を渡して
名目だけでも景虎を一軍の将とした活動させたりしてるよ。
でも景虎が晩年の謙信の軍で何かしていた形跡無いよな。
一門なのに大きな仕事も任されず越後に留まっていたなら
利用価値があるから監視の上で置かれてたんだろ。
監視してなかったなら何の役にも立たないし出来ない奴だけど
すのも返すのも妻にした姪が気の毒だから放置していたのかな?
やっぱ後継者の一人にするつもりだったなら活動形跡無さすぎて不自然だわ。
大概の家で20歳も過ぎてる嫡子だったら色々任務任されてるのに。
- 321 :
- >>320
景勝信者痛いよw
- 322 :
- 痛いと感じるほど的外れと思うなら
どれだけ信頼されどういう活動行ってるか反論したらいいよw
景虎派の言うことはいつも景勝の捏造とか景勝は冷遇されてるからとかで
景虎側の積極的な後継活動の形跡出してこないから不思議だ。
戦国真っ只中に政治軍事において何もしないのが後継とは思えない。
お飾りとして関東管領の名前だけ与えて実権は全て越後国主にある状態にする気だったかな?
存在に利用価値があるなら逃げられても死なれても困るから
監視付けておくと思うよ。
定実だって為景の監視下に置かれていたし。
- 323 :
- その調子でこっちでやってくれな
- 324 :
- >>316
元々越後中が「景勝方」だとしたら、繁長が景勝についているのも不思議ではない。
つまりは、当初謙信没後は景勝のみが当主として活動し、上田衆台頭によって野党と
なる事を危惧した某勢力が、春日の町に住む景虎を担ぎ、実家の小田原北条氏やその
同盟国の支持を得て、厩橋の北条や三条の神余も反景勝に転じ、中条に反発する黒川
や本庄に対する鮎川もこれに加勢。その他景虎についた諸氏も各々の権益拡大の為。
>>315
小島が景直に対抗する為に景勝派に加勢したというより、景直が種々の対抗上景虎に
加勢したといった方がいいかもしれない。
- 325 :
- 学会の三郎への過剰な配慮は一体なんなんだ?
謙信男色説と同様首を傾げたくなる。
- 326 :
- >>322
だから監視されていたっていうなら、そういった記述のある史料を出せよ
景虎憎しの奴が想像で言ってるだけなんだろうけど
>>325
学会がズレているのではなく、2chの景勝擁護が異常なだけ。
学会より2chが正しいと思ってるのか?
- 327 :
- 幼い頃より可愛がられているのが一次史料で分かる景勝より
景虎が寵愛されてる根拠にするのに必要だからでは?
自分は戦国関係の本で景虎後継者説が多かったので
景虎が何となく後継者だと思ってたけど
色々史料を読んでみて景勝後継者説寄りになった(まだ決定打には欠けるけど)
結構こういう人多いんじゃないかな
- 328 :
- >>327
自分も歴史読本とかああいったムック読んでた時は景虎が有力だったのかと思ってた。
でも高志書院の本読んだり、ネットで語り合ってるのロムってるうち、
景勝と考えるのが妥当だと思うようになってきている。
>>326
2chの景勝擁護は、かつての景虎厨の貶め方が酷かったからではないかと思う。
本当に異常なくらい、景勝に対する憎しみを感じてしまい、
噂になっている某ラノベオタと思われるのも無理ないと思う書き込みが多かった。
それに、上記のようなムックはともかく、本当に「学会は景虎擁護」なのか?
決してそんなことないのでは?
未だに二者分権説支持者も多いのではないの?
ミネルヴァから一昨年矢田氏が出した謙信本の参考文献冒頭にも、
片桐氏の例の論文が挙げられてるの見て、あの論が一定の評価を得ているのかと思っていた。
- 329 :
- 実際に家を継いだ景勝が元から後継者だったというより
実は負けた景虎の方が後継者だったという方が「発見」だから
景虎後継者説が後押しされるんじゃね。
景虎が普通の一門衆と違う扱いを受けているのは明らかだから
景虎が普通の一門と同じように扱われなかった理由を
「特別扱い」なのか「疎外」なのかを考えるのを
景虎に分が悪い論を出されて景虎憎しだからだ!で思考が止まっちゃってちゃなー。
景虎が権力を任されていた史料が無いから無かったんじゃないのと言ってるだけなのにw
- 330 :
- >>326
君こそ景勝憎しで躍起になってるように見えるけどな。
- 331 :
- >>326
逆に、学会が何でも正しいとでも思ってるのか?
権威ある教授なんかはプライドから滅多に自分の
考えを正す事がない人も多いだろうし、
保身の為に曖昧な立場にある人だっているだろう。
勿論正しい事の方が多いだろうけど(そうでないと困る)、
全て鵜呑みにせず、時には自説を持つ事も大切。
>>327-328
俺も昔は三郎が後継者だと思ってた。
でも、可愛がられた史料に加え、軍事経験や文書発給、
御館の乱での両派の構成などを考慮すると三郎を後継と
するには無理があると思って景勝寄りに転じた。
三郎後継説を押し通そうとすると必ず、史料は捏造とか
焼失したとかいう誤魔化しが必須になるしね。
しかも肉付けするのに二次史料が必要になってくるし。
>>328
>>325は三郎に実権を認めるような二者分権説も
含め、景虎への配慮と言ったつもり。
- 332 :
- >>326
ちょうど326(サブロー)だな。
おめでとう。
- 333 :
- 新潟県立歴史博物館(長岡)のある研究員の先生(名前失念してしまいました。)が
今年、謙信の後継者について片桐説の後継者移行説で説明されていました。
新潟の先生は三郎後継者説を推しておられるのだと思っていたので、ちょっと驚きでしたが。
学会がすべて三郎後継者説で固まっているわけではないと思います。
- 334 :
- 新潟の先生が三郎後継者説だと思ってた?越後バカにすんじゃねーよw
片桐氏だって新潟大学卒だし。まあ最終的に中央大学卒だけどなw
新潟歴史博物館の中世史担当といったら前嶋研究員か?それとも関係者らしい矢田氏か?
矢田氏にしろ前嶋氏にしろ、片桐氏とそれなりに親しいはずだからな。より影響し合ってるだろう。
前嶋氏は片桐氏と中央大学で一緒に勉強した仲。
矢田氏は片桐氏が教え子だし、本の出版に世話をしてやったり一緒に本を出したりする仲。
つうか前嶋氏も片桐氏も矢田メンバーだな。
つうか自分も本やネットの影響で、最初三郎の方が後継者なんだと思ってた。
むしろ最初、そんな逆境を乗り切ったはずの景勝に興味を持ったはずなんだが、
でも気付くよな。三郎後継者説の不自然さに。
- 335 :
- 俺の場合、景虎後継説の根拠として挙げられる
1.景虎の方が景勝よりもはやく上杉姓を名乗った
2.居住地の位置
3.支持層の顔ぶれ(上杉氏の主要が景虎支持という話)
のうち、3.がとくに疑問だったんだよね。
吉江一族や、中条景泰などの動向から考えると、到底そうだとは言えないし。
- 336 :
- 1、なぜ既に上杉宗家に三郎景虎がいるのに
あとから景勝を上杉宗家に入れ官位を譲ったのか。
2、二の丸の伝景虎屋敷より新たに造成されたらしい中城郭の景勝屋敷の方が
標高も高ければ実城屋敷との位置も近い。
二の丸の方が中城廓より上位であるとする根拠がない。
果ては景虎は春日山城内に住んでいなかった可能性さえ指摘されている。
3、散々指摘されてるが謙信晩年に寵用された側近衆は景勝支持が多い。
ということになる訳で。
最低でも越後は景勝に譲る気だったと思うわけよ。
- 337 :
- >>331
たしかに鵜呑みもよくないが
少なくとも学会では「景勝・景虎どちらか決めがたい」という感じで
強いていうなら、越後国主としては景勝の線が強く
関東管領として考えると景虎の線が強いというくらいか。
「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」
なんて言われているのは2chにおいてだけだ。
- 338 :
- 何故景虎関東管領就任説が強く支持されるのか知りたい所だな。
因みに自分も景虎後継者説から景勝後継者説に転向したクチだ。
- 339 :
- >>337
>「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」
(おそらく)一人の書き込みだけを取り上げて
まるで2ch総意で景勝擁護しているかのように言われてもなぁ
景勝が後継だったんじゃないかとは思うが別に景虎がお飾りとは思ってないよ
あと、学界での傾向決めつけ?もどうかと
分権説、景虎後継説、景勝後継説、入り乱れてるのが現状でしょ
なんとなく分権説支持が多いのか?とは思うがそれだって確たるものではないでしょ
- 340 :
- 多分前嶋氏だと思います。(はっきりとは覚えていないのですが)
なるほど、前嶋氏と片桐氏はお親しいのですね。それでかー。納得しました。
弾正少弼任官の景勝書状への疑惑を指摘されたのが新潟県史編集委員の
先生方だったり、上越市史等の記述から新潟では三郎後継者説が主流なのかなと
自分で思い込んでいましたので。けっして新潟の方をばかにしているとか
そういうわけではありません。あしからず。
- 341 :
- 後継者は明確で無かったとするのが7割じゃないのかな
目立ちたいのが景虎後継や分権とか通説と違う事言ってるだけで
景虎後継は裏づけがほとんど無く、分権説は皆無
景勝後継説も決定打は無し、新資料でもない限り通説がもっとも説得力あると思うけどな
- 342 :
- >>338
憲政が景虎派に入れられてるから?
でも憲政は景虎支持していた割りには
先代管領として元家臣や諸公に景虎後継に働き掛けた様子は無いんだがね。
- 343 :
- >>340
『上越市史』は、たんなる想像だけど
御館の乱について論文を書いてるっていうだけか、
『定本上杉謙信』の分権説を読んで木村氏に頼んだんじゃないかと思う。
つか、よく覚えてないけど『上越市史』って、
上条が誰かの解釈が担当する人間によって違ったりしてたような気がするんだけど
あんまり内容に口挟んでないんじゃないかなぁ。
- 344 :
- >>341
>後継者は明確で無かったとするのが7割じゃないのかな
7割っていうか、謙信が後継者を明確にしないまま急死してしまったことが
大前提での話なんじゃないの?
そのうえで、生前、誰を後継に考えていたか、ということで研究者間でも諸説があり、
ここでも話が進んでるんだと思ってた。
>>342
憲政が景虎派と言えるかどうかは本当に微妙だわな。
もし積極的にそういう立場なら取るべき行動はいくらでもあったと思う。
しかし一切ないからな。巻込まれた感が否めない。
- 345 :
- >>341
そう、白紙だったかろこそこんだけの内紛になった
>>339
たしかに「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」とか
いい出すのはごく一部の暴走なんだけどね
何回も書き込まれてるから印象に残るんだろうね
ミラオタもヒドかったが、それに対抗する三郎景虎叩きもヒドい
- 346 :
- とにかく景虎厨による景勝ネガキャンは凄まじかったよ
ウィキの履歴とか見るとゾッとするよ
ある意味トラウマ
今は少し落ち着いてるので蒸し返すのもなんだが、大河始まったらまた暴れ出すかもな
後継者については、謙信が全く考えていなかった、白紙だった、と
言っている研究者もさすがに居なかったような
- 347 :
- 景勝後継説に立った場合に
じゃあ景虎は敵国の人間であるにも関わらず越後におり、
国主の養子という立場であるにも関わらず他の一門と同じような仕事をしている訳でもない、
だったらなにか一門として使えない制限下の立場にあったんじゃないか
というのも暴走という程の発想でもないと思うけど。
景勝だって景虎後継説の場合は上田衆はもともと謙信と敵対したことがあり
信頼されてなかったから先陣に出されてこき使われたって話も言われるよ。
- 348 :
- 上田家もかつて敵だったことは事実だし
北条家が同盟決裂後再び敵国になったことも事実
そこからの拡大解釈合戦になってるんだよ
- 349 :
- しかし、片桐氏の、同盟期間中は景虎、同盟決裂後は景勝、
この移行説なら、ある程度納得できてしまうんだよな。
決裂後、景虎には後継を想定させるような史料皆無、
逆に景勝の方は着々と地位向上。
後継者には軍役など課さない、あくまで上田長尾当主に過ぎない、という論もあるが、
天正5年(謙信の死の前年)に作成された家臣団名簿の中に、景勝の名はない。
他の上杉一門衆たちは記載されているのに、
また、景虎と違って、家中第一の強大な直属軍団を抱えているにも関わらず、
家臣団名簿に景勝の名がない。
発給文書を見ても景勝が政権に関与していたことが把握できるし、
家臣として扱われず、ではどういう立場だったのか。
- 350 :
- その論だと景勝と入れ替わって景虎の軍役が発生しても良さそうだが
- 351 :
- 景勝の軍役は弾正少弼を受けた段階でも持ってるし
むしろ景勝の軍団は他の家臣の軍を取り込み拡大している。
っつーか軍役がないのが後継者としての優遇措置とする根拠が
そもそも出てないわけだが。
よその家の嫡子は普通に自分の軍を率いて戦ってるよな。
所領を持たずそのため直属の家臣団もない三郎景虎に
どっから家臣団とそれを支える収入を持ってくるのかも謎。
- 352 :
- >>351
軍役っていうのは主君が家臣に課すものだから
謙信や憲政に軍役はないでしょ?
1575年の軍役は越後国内のみなので何とも言えないが
- 353 :
- 憲政は既に隠居済みで山内上杉家臣団は謙信の家臣になってんだから
軍を形成する家臣も無いのに軍持てるわけ無いじゃん。
なんで憲政?
で、実父から受け継いだ所領と家臣団を持つ景勝はともかく
所領を持たず奉行をしてる訳でもない景虎が持つ軍はどっからひねり出すんだ?
軍ってのはどっからともなく湧いてくるもんじゃないぞ。
散々言われてるが景勝のように明らかに大軍を率いている上で
軍役帳に記載が無いなら明らかに優遇措置だが
景虎のように軍を持ってた様子が見えない人間が軍役帳に載ってないのは
越後の軍事勢力として数えられてなかっただけとも言えるので根拠にならん。
- 354 :
- 1575年の軍役帳については、矢田氏や片桐氏がいうように、越後上杉家の分家よりも、
景勝が上位にきていることを重視した方がいいんじゃない。
- 355 :
- 軍役免除と軍を持ってないってのはえらい違いがあるよなあ。
武田義信も織田信忠も徳川秀忠も
よその嫡男は当主の父の元で
大軍を動員して軍の副将として戦ってるもんな。
- 356 :
- 昨年、新歴史群像の「上杉謙信」で謙信の後継者について、
景虎後継者説を支持されてた桐野作人氏が氏のブログで、
片桐氏の論文を見落としていたとして、前言を撤回されてる。
ムックとか歴史群像等で安易に景虎後継者説を書く人って、
桐野作人氏と同じように片桐氏の論文を読んでいないんじゃないかね。
- 357 :
- 景勝が後継扱いされてたかどうかは置いとくにしても
軍を持たせた様子がなく
同盟決裂後は、従軍した形跡すらない景虎を次の当主として考えてたなんて
いくらなんでも謙信がそこまでおめでたい人だったとは思えないよ
- 358 :
- >>356
自分も前言撤回。
桐野作人氏は景虎後継者説を別に推されていたわけではなく、
景勝の謙信生前の弾正少弼就任を否定されていただけだった。
- 359 :
- にちゃんねるにおける景勝人気はすごいな
- 360 :
- 人気っつーか、単に後継者については、色々と史料や傍証並べていくと
景虎よりは景勝寄りになっちまうだけだろう
むしろアンチの腐女子のが凄いと思えるが
- 361 :
- つーか、ぶっちゃけた話、「決まってなかった」が、正解だと思うがね。
いっそ足利義持みたいにくじ引きにすりゃよかったのに>謙信
- 362 :
- くじ引きなんかにすりゃますます、研究者からたたかれるよ。
今でさえ、自分の趣味全開にして美少年を養子にしまくり、
お家騒動の原因をつくったって大先生方からいじめられているのに。
- 363 :
- くじ引きについては研究者は意外と合理的な判断として見ているぜ
- 364 :
- くじ引きは当時の社会通念上悪い判断ではなかったらしいしな。
むしろ義教がアレだけの独裁権力を行使できたのは、政治力に加えて
「神意によって選ばれた将軍」と言う、人知を超えた権威をまとっていたことも
大きかったようだ。
- 365 :
- くじ引きの評価がどうあれ、謙信がくじ引きで後継者を決めようと考えていたと?
そんなこと言ってる研究者いるの?誰?
氏康も信玄も死に織田の脅威が迫るなかで
自身の辞世の句かとも言われる句を読みながら
何も考えてなかった、何も決めてなかった、てのはさすがにないんじゃないの
急死によって水泡に帰してしまっただけで
- 366 :
- >>365
スレ読み返しなされ
- 367 :
- >>360
>単に後継者については、色々と史料や傍証並べていくと
>景虎よりは景勝寄りになっちまうだけだろう
それはあなたの勝手な決めつけだと思うがね
学会で、景勝派が必ずしも優勢ではないだろ?
- 368 :
- 景虎派の人はなんか最近反論が苦しくなってきたな。
前は色々考証してたのに。
- 369 :
- >>368
突如勝利宣言みたいなことされても・・・・
- 370 :
- >>353
景虎が全く軍事に関していなかったというと嘘になってしまうよ。
景虎は北条高定、松木氏らに軍役を命じているし
おそらく親衛であった山本寺の兵も動かせただろうね
さらに関東での戦闘では何回か謙信に同道している。
北陸や信濃へ転戦した形跡は皆無だが
- 371 :
- このスレッド単体を見る限りでは景勝後継者説が優位なのは事実だと思う。
学会などはまだ固まっていないけれどね。
>>370
軍役は謙信存命中のことかな?
- 372 :
- 山本寺を景虎の意で動かせたって出典は何?
謙信に同行したってだけじゃ軍事にどれくらい関与してたんだか
全く不明なんだけど。
- 373 :
-
山本寺は当初、三郎の守役で御館でも景虎方に付いた
という事実を元にした推測。あと1575年の時点の山本寺家の軍役が
少なすぎるようにも感じる。何らかの理由で減免された可能性もあると思う。
山本寺は監視役だったとかいう人も居るみたいだけど現実的ではない。
室町中期ならともかく、戦国時代終盤にもなって
国の盛衰に関わる御家騒動で、お飾りを擁して
勝てるなんて思ってる武将は少ないだろう
- 374 :
- 山本寺が監視役というのも、山本寺が景虎の軍役を請け負っていたというのも根拠がない。
両論とも引き分けだなー。
- 375 :
- >>372
1572年の関東出兵の際だが、どれぐらい関与してたか不明
不明なんだけど・・・つってるけど、不明な点が多いから学会でも
ココでも後継者について結論がでないわけで・・・・・
- 376 :
- 戦国時代終盤にお飾りに家臣に擁されいいようにされた君主なんて
畠山だの織田だのぱっと周辺見ただけでもいるじゃん。
山本寺は御館の乱では兄弟で割れてるし
景虎に使われた根拠無しだな。
- 377 :
- 実際山本寺定長って景虎の傅役だったのか?
- 378 :
- >>375
同盟破綻後の景虎の動静は不明だが、景勝の軍事や政権への関与は明白。
片桐説を採れば、景虎の同盟期間中の軍事行動(同盟破綻前の出立も含む)は
別に問題ではない。この頃は景虎が後継者と考えられていた節があるから。
北条家と敵対しても尚その家出身の景虎を後継者と定める意味が分からない。
しかもしっかり仕事をこなす有能な男系血族でもある実の甥を差し置いてだ。
- 379 :
- 謙信が北条とのよりを戻そうとしていたならともかく
死ぬ時まで北条との対決姿勢だったしな。
つーか山本寺は三郎の家臣でも与力でもねえ。って前も同じ話した気がするな。
- 380 :
- 山本寺家自体が四条上杉男系の血筋なので、これが「与力」になる
ことはないであろうが、古志景信と並んで、景虎派の権力的・序列的な
基盤であったのだろう
- 381 :
- まあ弟(息子?)家族は景勝に付いてるんですけどね。
- 382 :
- >>380
>古志景信と並んで、景虎派の権力的・序列的な基盤であったのだろう
山本寺が景虎にとって、それほど親しく大きな存在だったと言う根拠がわからない。
上杉一門衆のうち、一族が景虎派と景勝派に割れたのは山本寺だけ。
定長=景虎派
孝長=景勝派
373、380が言うように当主の定長が景虎の守役、もしくは与力的な役割をもち、
謙信の生前、ともに陣中で戦働きなどしていた間柄だったら、そんな事態になるもんだろうか?
確かに御館の乱では不動山城は景勝方の攻撃を受けているが、
定長自身は古志景信のように戦に討って出た記録もないし、
その後の消息も曖昧じゃなかった?
乱後、孝長は当主の座を継いで景勝に忠誠を尽くし、魚津で死んだが。
当時、孝長に宛てた景勝の手紙は胸に迫るものがある。
- 383 :
- >>382
>そんな事態になるもんだろうか?
382の疑問は、山本寺兄弟の仲が円満と仮定した場合のみの話だろ?
弟は、兄がついた景虎派が敗れれば、一門衆山本寺家当主の座
につけるから、景勝派になったと考えるのが普通では?
- 384 :
- 普通に考えたら両方に分けてどっちが勝っても家が存続するようにしたんじゃね。
戦国時代にはよくあることじゃん。
三本寺の兄弟(親子?)が相克してたなんて史料あったっけ。
- 385 :
- >>384
戦国時代、兄弟間の家督争いはほっといても起こる。
三郎と喜平次が相克してたなんて史料も無いんだから
山本寺家にそれを求めてもしょうがないだろ。
まあ384の言うとおり、自家の存続のため(真田信幸と幸村みたいに)
っていう可能性も無くはないが
- 386 :
- 景勝ははっきり「景虎が死んで欝憤が晴れた」とか言ってるし
全く仲良い兄弟じゃなかったんだろ。
家中で直接戦闘した訳でもなく仲悪かったとする二次史料さえ無いのに
御家纂奪狙った弟扱いかー。凄いなー。
- 387 :
- 景勝の書状は確か「去年以来の鬱憤」っていうから、元々の仲はわからんな。
山本寺家は孝長(景長)が魚津で戦死した時、若年だったっていわれているし、
「御家中諸士略系図」や吉川弘文館の「戦国人名辞典」もこの二人は親子としてる。
- 388 :
- >>386
景勝が言っている「鬱憤」というのは、家督争いより前の出来事を
含めているのかもわからない。謙信存命中に争った形跡もない。
それに、家中で直接戦闘する必要は無いだろ
平時でいきなり山本寺の家督争いをするわけか?
主家の家督争いの場で対立が表面化したとも考えられる
だいたい、戦国時代なんだから兄弟で家督争いになるのは珍しいことではない
>>386が「凄い」と言う理由がわからない
- 389 :
- >>386は孝長信者w
- 390 :
- その辺はどのみち憶測しか話せんからねぇ
- 391 :
- 普通に考えて同じ家同士のものが敵味方に分かれれば
同じ家同士の戦闘が起きるだろ。
柿崎家は同じように家中が景勝・景虎派に分裂したが
城内で家中同士討ちを行ってる。
それを行っていないなら、
自分たち自身の手で親兄弟とし合う状況を回避した、
それなりに普通の親子兄弟関係だったと取って良いと思うが。
- 392 :
- まあ、柿崎家が親子兄弟仲が悪かった家とは思わないが、
普通は家中での戦いを回避するのが心情ではないか。
関ヶ原でも家中を東西に分けた家は戦うフリだけしていたというし。
- 393 :
- あえて回避したのか、陣営の戦略の都合上そうなったのか
というのもわからないが、一理あるな
- 394 :
- 乱序盤は景虎方が優勢だったんだぞ?
わざわざ兄を倒すために負けそうな方に付くリスクを犯したよりは
兄が優勢側に、逆転した時の為に弟(息子?)が劣勢側に入って
保身を計った方がありえる。
勝った側についた方がもう片方の助命嘆願をすれば両方助かる確立も高い。
弟じゃなく息子だったらますます纂奪理由はないな。
- 395 :
- 山本寺上杉の系図は不詳な点が多い
- 396 :
- ざっとスレ読んでみたんだけど景虎後継者説として出てくる
景虎が受け継ぐはずの謙信の直轄の軍って具体的に誰のことなんだろ
あんまり詳しくないんだけど説として唱えられてるくらいだから
その家臣たちが御館の乱で景虎の指示で動いてたという史料はあるのかな
- 397 :
- ( ^ω^)日本語でおk
- 398 :
- 分かりづらくてごめん。
景虎スレ読んできたら同じ話題出てましたね。
景虎スレにあった文の引用で申し訳ないけど
>だいたい、謙信が直轄部隊を家督継承時に景虎に譲るつもりだった筈、
>その直轄部隊に同行もさせていた筈、という459みたいな人は、
>その謙信の「直轄部隊」とやらを、具体的にどの辺の将たちだと想定してるわけ?
ということを質問したかった。
- 399 :
- 山本寺に長尾から養子が入っているとする系図もあるらしいな。
山本寺景定は長尾高景の息子で、定種の養子になったとか。
- 400 :
- それは不動山城日記?かなんかの記述でいろいろ矛盾点があって
信用できないよね
山本寺と長尾の養子縁組があったのは米沢藩時代でしょ
- 401 :
- このスレでも再三、言われているが
御館の乱の本質は、やはり上田VS古志の覇権争いだ。
古志の景信が上杉を名乗っていることや、もしかすると、
謙信と従兄弟だったかも知れないことを考えると、
当初は謙信も古志一族にウェイトを置いていたかもしれない。
が、景勝の成長と共に、そのバックの上田長尾のウェイトが
高まっていったのだろう。それくらい、景勝に対する
謙信の取り扱いは重い。
古志長尾にとって、御館の乱は決して負けられない戦いだった。
景虎の死後も内乱は収束していないし、当初、
景虎がいなければ、別の旗頭が立てられていただろう。
- 402 :
- そりゃ上田も古志も、それぞれ景勝・景虎が居なければ
別の候補者を立てて、派閥を争っていただろうな
- 403 :
- 上田衆「ここは我々が占拠した」
憲政「まあ、なんでもよいわ」
古志「十郎様、これより天下をうかがいませ」
十郎「やったるで!!」
謙信より年長のじじぃ同士の後継者争いwwwwww
- 404 :
- 景虎が春日山城に住んでいたという、二次史料を典拠とした論は
蘆名軍が残した落書(一次史料)に勝る史料が出せない限り、無しの方向で。
同時に景勝が春日山城を不当に占拠したというのも成り立たなくなりますね。
- 405 :
- 二次史料に価値が無いとでも思ってるんだろうか
- 406 :
- 今まで散々二の丸やら三の丸やらを断定してたからなw
- 407 :
- >>405
極端だな。
価値がないんじゃなくて、適切な評価を下せということだよ。
二次史料にも価値はあるけれど、一次史料を差し置いて絶対視するのは間違えているし、
それに基づいてなされてきた研究成果は見直す余地があるというわけで。
- 408 :
- >>405
「信頼できる」一次史料と相反している部分以外は、二次史料を参考にすることも
必要だと思う。一次史料だって、限られてるからね。
- 409 :
- 一次史料だって、あくまで当人が見たものが記されているわけじゃなく、
あくまで、信頼性が高いだけで、事実とは言い切れないわけだがな。
- 410 :
- なにをいまさら
- 411 :
- 花ヶ前さん家の口伝って書籍化してないのかなー
- 412 :
- >蘆名軍が残した落書(一次史料)に勝る史料が出せない限り、無しの方向で。
> 同時に景勝が春日山城を不当に占拠したというのも成り立たなくなりますね。
おそらく不法の臭いを薄めつつも、大河では景虎方に知らせず実城占拠の展開になるんだろうけど、
そもそも、景勝が謙信の葬儀が終るか終らないかっていう時期に武力占拠したって話は、
何が初出の史料なの?
本当に、北条五代記とかの軍記レベルのものしか残ってないのか?
それなら何か理不尽やな・・・
未だ一般ブログとかではその辺のことになると「だから景勝は纂奪者」みたいに語られてるし。
一方では、「謙信の側近たちが遺言だからというので実城に移りました」っつう景勝本人の手紙なんて、
しょせんウソだとスルーされ、景虎が城には住んでなかった説の根拠になる蘆名軍の書き込みなんて、
それ何ですか?って感じだし。
大河が御館の乱の頃になったら、「乗っ取っておいて何が義?w」みたいな鬱な書き込みが増えそうで嫌だなぁ・・・
- 413 :
- ギギギ・・・・・・
- 414 :
- >>412
景勝は全く嘘付いてない可能性もあるよな。
謙信最晩年に付いていた側近たちは古志衆を除いて殆どが
乱では景勝派として戦ってるんだから
乱前にも側近たちは謙信の遺志として景勝に実城に移るように
申し入れたのかもしれない。
- 415 :
- >>414
やっぱりそう思うよな?
景勝が実城に移った・後継者宣言したのが3月24日、
景勝方と景虎方が実際に衝突して、初めて戦いらしきものが起こったのが5月11日。
それまでのほぼ1ヶ月半、巷間では春日山城の実城と二の丸(三の丸)で両者が陣取ったまま、
それぞれ多数派工作が行われていたとか言うが、
もし、景勝が実城武力占拠までするバリバリ戦闘モードで、武器庫おさえたんなら、
なんで譜代家臣もいなかったと考えられる景虎を即座に攻め滅ぼさず、
5月半ばまで初戦を引っ張ったのかが不思議でならないんだよな。
仮に、景虎にも春日山城中に直接指揮できる軍がいて、彼等と景勝方の軍が城中で戦ってたのなら、
もっと早い時点で戦が始まり、感状その他もろもろ、出てたはずなのに、まったく無いし。
不当占拠などではなかったと思えてならない。
- 416 :
- >>415
>もし、景勝が実城武力占拠までするバリバリ戦闘モードで、武器庫おさえたんなら、
>なんで譜代家臣もいなかったと考えられる景虎を即座に攻め滅ぼさず、
それは、景虎につく武将たちも、劣勢ながら居たということだろうな。
そして上杉の本城内で戦をすることを、双方が恐れたのだろう。
ものは捉えようだな。
- 417 :
- 北条五代記では、景勝は二の丸に弓や鉄砲を打ちかけたことになってるが。
この場合景勝の方は別に恐れてなかったんじゃないか?
単に鉄砲や弓で脅して城から出て行ってくれればよかった、ということなら、
まさか他所で蜂起されて対抗馬になるほどの存在とは思ってなかったってことか?
- 418 :
- >>414
大場で衝突があったのは5月5日じゃなかったかな。
あくまでも自分の見解だが、当時の景勝や景虎の書状をみると
景勝の書状には「不慮」という言葉がよく出てくる。
それに対して5月29日の景虎書状からは、景勝を春日山城に
押詰めてやったとか、武田や北条が見方についてるなど
かなり自身満々だ。実際古志だけでなく、景虎方についた
府中近辺の国人衆によって春日山城は取り囲まれた状態だった。
書状からみると蘆名とも前々から通じていたようだし。神余も
このころ景虎方に寝返ったんじゃなかったか。
当初景虎側が優勢だったのは、景虎側が入念に反抗の計画を立てていた
のに対して、景勝側は「不慮」つまり予想もしていない状態だった可能性
もあるんじゃないかな。
- 419 :
- すまん。間違えた。
>>414→>>415
- 420 :
- やっぱり北条五代か?w
景勝の方は当然謙信が亡くなったら自分が継ぐものと思っていて
景虎が対抗勢力になるとは思っていなかったんだろうな。
もしかして景勝は自分は母を介して古志とも血が繋がってるから
まさか古志長尾が北条と手を結んでまで自分の相続に反抗するとは
考えていなかったのだろうか。
府中長尾譜代の直江氏や山吉氏とはうまく付き合っていたようだし。
- 421 :
- いや、上田と古志の因縁はかなりあったと考えられるが
- 422 :
- 景勝の書状を見ると景勝側はかなりピリピリしてる
屋敷のある二の丸に鉄砲を打ちかけるほどの威嚇って
大事件だと思うんだけど一次史料では裏づけできないんだよね?
- 423 :
- 実際、景勝と景虎が争うことになった理由は未だにはっきりしてないが
古志と上田が戦う理由なら明白すぎる。
仮に、景勝が家督を継ぎ景虎がそれに従うことが予め決まってたにしても
上田に対抗するためだけに古志が景虎を担ぎ出して不思議じゃないレベル。
それと、小田原北条への援軍要請はそれまでの謙信の軍事方針から見たら無理がありすぎる。
北条のバックアップが前提となる政権なら、それはあからさまに反謙信路線になってしまう。
- 424 :
- >>421
古志側が思っていたほど景勝の方は意識してなかったのかも、という話。
謙信が古志長尾を母方の一族と思って大事にしていたように
景勝も乱が起きるまでは祖母の一族と思っていたが
古志側は景勝の立場に付随した上田の台頭から
景勝を「上田長尾の長」として意識、とか。
謙信政権下で景勝が生まれて以降古志と上田の対立って何かあったっけ。
- 425 :
- 景虎が総大将な時点で北条の助勢を当て込んでないとか
無理あるわー。
景虎派は北条の介入を拒んで越後に侵入しようとする
北条軍と戦ったりしてたっけ??
俺の記憶では思いっきり一緒に攻め込んでたと思うが。
北条の介入を使ってでも上田長尾に支配されるのが
イヤだったんだろ。
>>424
そういや幼少期にも謙信の近くにいたようだから
祖母の虎御前は景勝12歳くらいまで生きてるから
会ってるだろうな。
(仙洞院が謙信の同母姉である前提だが)
母・叔父・祖母との側で育ったら本人は
古志長尾を敵対する一族とは意識してなかった可能性もあるかもな。
- 426 :
- だから、謙信死後に両派の対立が再燃したということだろう
上田が景勝を担ぎ、古志が景虎を担いで実際に「戦」までになるとは
生前の謙信も思わなかっただろうが
- 427 :
- 上田が景勝を担ぎ、って表現おかしいと思う。
景虎が劣勢になって見捨てて地元に戻ってしまった栖吉や栃尾衆と違って、
上田衆は景勝あってこそ。
景勝の地位を補強し、上田衆を死の前年まで拡張していた謙信からすれば、
古志と結んで景虎が乱を起こすことは確かに予想外だったかもな。
- 428 :
- では古志が景虎を担ぎ出したのではなくて
景虎側から戦力拡大のために古志を仲間に引き入れたって可能性は?
- 429 :
- >>427
景虎は他国の出身だから家臣と親睦が薄いのは事実だが
上田が景勝を担ぐという表現は間違っていないだろ
上田衆は景勝あってこそ、であればなおさらだ
あと、乱を起こしはじめたのは景勝か景虎か、どちらかは
明確でないはずだが?
- 430 :
- >>427
なんか最初から景勝に家督ありき、な論調だな
いくら軍事的基盤(というか軍役)を強化しても、謙信が家督を決めていたという
史料はないんだから、そういう書き方は中立的ではないのでは?
- 431 :
- 確かに、謙信が家督を決めていたという史料はない。
残された一次史料を駆使して、研究者が推理しているだけだからね。
はっきりしているのは、そこに謙信の意思があったかどうかは不明だが
謙信側近の大部分と国人衆の過半数以上は景勝を後継者として選んだ。
そして景虎支持の対外勢力の圧力にも打ち勝ってついに謙信の後継者
となったということじゃないかな。上田長尾のクーデターとかの説を
唱える人もいるけど、その場合も、謙信側近の支持がなけりゃ無理だろ。
- 432 :
- >>427
軍役のない景虎がお飾り後継者とされていたとする説から見てもじゅうぶん中立的だよ。
- 433 :
- 実際、戦闘勃発までの一ヶ月以上の間、景虎の行動については不明だが、
景勝が新当主として問題なく行動しているのは史料を見れば明白。
当主に対抗する者こそ「担がれる」という表現は相応しいように思う。
もしや事の発端は由良か…?
- 434 :
- 全く問題なく景勝がつつがなく継いでいたら景勝の書状から見て
とりあえず謙信のやろうとしていた関東遠征を行っただろうからなw
- 435 :
- 由良などの関東武将が越後国内の内部分裂を予期して、
内部深々と調略を施してあの大乱を発生させたのだとしたら、
武田信玄以上の実力の持ち主だな。
それだけの才覚があるなら何も越後の力など借りずとも一国でも二国でも切り取れそうだ。
しかし、もしかして、真田とか言い出さないよな?
- 436 :
- いやいや、調略などではなく、親北条である由良が
てっきり越相同盟の頃のまま景虎が継ぐと思い込んで
適当にお祝いを送ったら、それをきっかけに古志が
景虎を担ぎ出しちゃったという流れかもしれんw
- 437 :
- それは面白い考察だ。
その流れで景虎を古志がたぶらかしちゃうのかねw
- 438 :
- >>431
側近の大部分っていうが、実際は6:4ぐらいだろうな
直江が景勝に付いて、直江の親戚の山吉も景勝に付いた
芋づる式に、府内付近での景勝の軍事的優位が強まったと言える
山浦国清などが景勝方に付いたのも大きい。
>>436
それはないわw
- 439 :
- >>438
でも景虎方で謙信側近だったのは、神余、北条、柿崎(すでに死亡した説あり)
ぐらいだろ。
吉江一族、河田長親、鯵坂、斉藤、三条、山崎や最晩年に登場する新発田、竹俣
みんな景勝方だろ。
直江の影響力ってどれくらいだったんだろうね。確かに景綱は家臣の中で
飛びぬけた存在だったと思うけど。信綱は結構な年だったみたいだけど、
謙信が重用した形跡ないね。
山吉は豊守の死でかなり力を失ってるんじゃないか。
- 440 :
- 「側近」をどう定義するかにもよるんだろうが、
少なくとも、文書発給人・奉行人を執政首能陣とするなら(高志書院「定本上杉謙信」参考)
謙信の死までの5〜6年(天正年間)、その執政首脳に該当した人々は、北条(きたじょう)親子のぞき、
全員景勝方になってるな。
その北条親子も、謙信の死後、はじめは景勝に関東状勢を報告している。
例の菅原為繁からの帰国報告に関する書状の件といい、
景勝は軍事的基盤が強化されていただけでなく、行政機構の中でも重きをなしていたと窺える。
- 441 :
- >>438
6:4とは結構な誇張だね。
>>436も切っ掛けという点では有り得ない話でもないと思うが。
- 442 :
- >直江が景勝に付いて、直江の親戚の山吉も景勝に付いた
>芋づる式に、府内付近での景勝の軍事的優位が強まったと言える
つか山吉と直江の軍事拠点は府内付近では無いと思うんだけど。
- 443 :
- >>436
( ^ω^)景勝オタの妄想乙だお
- 444 :
- 越相同盟破棄後、されてもおかしくなかった三郎景虎を、謙信は止め置いた。
やはり後継者としての見込みをしていたんだと思う。
その後も謙信に同行して上野(北条との抗争の最前線)に出陣しているのは
三郎景虎に対する信頼の顕れだとも考えられるね。
謙信は、本成寺や雲門寺宛の新年祝儀に対しての礼状を毎年
送っていたが、三郎景虎による同様の書状も残っているから、これは
有力な家督候補としての礼状だったと考えられる。
乱に際しても、敵国出身の景虎に、神余親綱、河田重親、柿崎晴家、
本庄秀綱、加地晴綱ら謙信以来の譜代の臣が付いているのは
単なるお飾りではないという証左だと思う。
お飾りに付いて勝てる、と思って御家を懸ける武将など居ないでしょう。
>>441
>>436は、そもそも同盟破棄後の景虎の立場が無くなったと言う仮定を前提に
しなければいけないし、由良の書状で古志派が動くというのも無くは無いが、
可能性としては低いでしょうね。
- 445 :
- ^ω^)由良の勘違い?で古志が動いたなんて
ネタにしかならないおw真面目に長文レスとかアホだおw
- 446 :
- お飾りでも後ろ盾があれば間違った話
たとえば三歳の三法師こと織田三郎には誰もついてきませんでしたか?
- 447 :
- その例に何の意味があるのかな?
まず三法師は信長の、紛れもない嫡孫であり、
光秀を討った大功績がある秀吉によって担がれた
三郎景虎の場合とは差異が有りすぎる。
- 448 :
- お飾りの定実を立てた為景はどうなるんすか。
- 449 :
- >>444
とりあえず過去レスや関連スレ(といっても景勝の前スレは落ちたようだが)を読み返した方が…
- 450 :
-
( ^ω^) 2chにおける景勝信者の多さには、閉口するばかりだお
- 451 :
- 越相同盟破棄後に上野に出陣ってどの書状だっけ?
越相同盟中に上野に来て滞在中に同盟破棄されたんだと思ってたが。
- 452 :
- >>448
その場合、守護が自害に追い込まれてるんだから
誰を守護に立ててもお飾りでしょ
- 453 :
- >>447
あんまスレに関係ないけど
三法師は妾の子だろ。
つか正室貰う前に出来ちゃった子供は立場がかなり低いわけで。
- 454 :
- >>450
別に景勝オタじゃなくても、謙信の側近の多くが景勝についていた
事実を考慮するとどうしてもそうなるよ。
実際、研究者の前嶋氏も直江家が一貫して景勝方として戦ったことは、謙信
が後継者についてどのように考えていたかの考慮の指標になるといっている。
新潟県史にあるように、越相同盟は、当初から人質になる氏政実子が謙信の
名跡を継ぐことで管領職が北条血筋に継承されることを条件に、北条家側が
大きな譲歩をして成り立ったものだったんじゃない?途中で人質が氏政子から弟の三郎
に変わったが、謙信は条件通り三郎を扱い氏康を喜ばせている。
ただ氏政は当初から、この同盟に懐疑的だったのかもしれないな。自分の子
を出すことを拒否してるし、交渉中に由良父子と密約を結び、上杉に譲る
予定の上野を由良に与える約束をしたという史料もある。
越相同盟が破綻しても景虎が上杉に留まったのは、上野領有を維持するため
という点もあるんじゃないかな。
御館の乱時に河田重親ら上野の城将たちが、景虎側に立ったのは研究者が
いってるように、北条側に立った方が有利とするあくまでも自分たちの領土
を維持するためだろう。
当時の家臣たちは、大河ドラマのように(笑)別に謙信のためとか上杉家のために
戦っていたわけじゃない。
ある意味、御館の乱はおこるべくしておこったといえる。
だが、俺は御館の乱があったこそ上杉は生き残ることができたんじゃないか
とも思っている。御館の乱で景勝の反対勢力になりうる家は古志を含めて
滅亡したし、乱の教訓を生かしてか、景勝や側近たちは国人衆の地位や独立性を
抑える方針をとった。
謙信時代のような謙信を盟主とするゆるやかな主従関係のままだったたら、
織田の侵攻の前に武田氏と同じように分裂して、あっけなく滅亡してたんじゃないかな。
まあ、信長の死が2週間ぐらい遅かったらそれでもやばかったと思うが。
- 455 :
- >>454
煽るだけの奴をなぜ相手にするのか
- 456 :
- どんな相手にも誠実に対応。これすなわち第一義。
- 457 :
- >>453
それはそうだけど、453の言うとおり
信忠には正室の子が居なかったわけだから
信雄や信孝ではなく、三法師が家督継承
するのが筋でしょう、血だけで言えば
- 458 :
- >>454
( ^ω^)長文レスが来るとは驚いたおw
愚痴るけど
( ^ω^)景虎につく:北条に頼る、景虎はただのお飾り
( ^ω^)景勝につく:上杉後継者の景勝への忠誠心
とゆーふうに妄信する景勝信者が多すぎてウザいお
- 459 :
- >>458
( ^ω^)北条との同盟が崩れてから、春日村の屋敷で暇を持て余して、
仕事もなく活躍もしてないのに、誰が景虎個人に忠誠を誓うと言うのだお?
( ^ω^)バックの弱い景勝に家臣が忠誠を誓うのは、血筋もさることながら
行政面や軍事面でそれまでの実績があるからなのだお
( ^ω^)景虎には実家の大大名が支援してくれるから、保身や利益のため、
または他との対立上味方する輩がいるのだお
こんなこと信者じゃなくても史料をあされば見当がつくお┐ (´ω`) ┌
- 460 :
- >>444
柿崎晴家や加地春綱が景虎派についたってのは何が出典?
神余親綱が乱の勃発早々景勝派から景虎派に寝返ったというのは散々既出。
上野云々については>>451の言うように出陣後同盟を切られている。
- 461 :
- >>459
史料が無い→働きが無い という考え自体がアホだおwww
( ^ω^)成人した武将がニートでいるわけがないおwww
実際働きがあっても、それに関しての資料が残っているとは限らないおw
まあ景勝信者は、『景虎は人質だから』で片付けるけど
『景虎が人質であった』と明言された史料は無いおwww
- 462 :
- 釣られる馬鹿拝見
- 463 :
- >>459=>>461=>>462
自演乙
- 464 :
- >>463
>>459は俺だお( ^ω^)
俺はあんなに芝生やさないから。
- 465 :
- 流石に>>461が真性だと分かると誰も返レスしなくなったな…。
- 466 :
- でも景虎が傀儡だとか人質だとか言うのは
たしかに言い過ぎのような気がする
同盟破棄によって明らかに肩身狭くなっているが
- 467 :
- 他の家臣達を押さえ込めるだけの権力基盤を持たない以上
高確率で北条か古志に言う事聞かせられるか
独自権力目指して追放されるかどれかだと思うが。
謙信くらいの能力があれば最初は担ぎ上げられた当主でも
自身の権力を確立していく可能性もあるだろうが
そんな悠長な時期じゃないしな。
- 468 :
- 上杉景虎は初期の長尾景虎よりも勢力基盤は弱いね。
かろうじて外圧が頼みになる程度。
- 469 :
- 何かね
「上杉景虎は「証人」として越後に来たのではない」
って主張するのが今のトレンドなのかね?
- 470 :
- 御館の乱の話をしてるんだろ?
- 471 :
- >>470
いや
「『景虎が人質であった』と明言された史料は無い」
までは釣りかと思ったが
「人質だとか言うのはたしかに言い過ぎ」
とかいう人もいるから。
- 472 :
- 道満丸と第二協栄丸
どっちがでかいの?
- 473 :
- 古志の長尾景信ごときはそれはもう
さくっとあの世送りです。
北条氏秀(諸説有)ごときもさくっと・・・
どっちが後継当主に推されたかなんて
関係ないお( ^ω^)
上杉の当主は景勝になったんだ。
それでいいだろ。
- 474 :
- >>473
そこまでいくと景勝狂信者だな
- 475 :
- ここで、何度も書かれてるけど、
謙信の遺言として家臣たちに強く勧められて実城に入ったという
景勝書状が真実じゃないのかなあ。
つまり、景勝は確固とした後継者ではなかったが、家臣たちに後継者
として擁立されたと。謙信の遺志があった可能性もあるけど。
それに対して、景勝後継に納得できない古志が中心になって景虎を擁立
したと。
よく上田のクーデター説とかいわれるけど、前政権の権力者が倒されれば
クーデターと言えるけど、景勝の場合は謙信の側近たちがそのまま政権中枢に
残ってるからね。
ある人が景勝の書状から、名目的な当主を景虎とし、景勝が春日山城
に入り実際の政務を行う予定だったが、景虎の春日山退去でゴタゴタ
して、結局乱が勃発してしまったという説を唱えていたよ。
つまり御館の乱は元々は後継者争いではなかったと。
「不慮の錯乱」と書状に書いたように、景勝にとっては予期せぬことだったが、
景虎がことを大きくしたとね。
おもしろい説だと思ったけど、景勝と景虎が一時的に和議を結んだ時、
河田長親が書状で景虎のことを三郎殿と呼んでるんだよね。
名目でも当主を山浦や上条と同じ殿扱いでは呼ばないと思うんだが。
一時史料重視の矢田グループの若手研究者の人は、最近景勝後継説を
推してるんだろうか?どう決着がつくんだろうね。
- 476 :
- >>475
一時→一次史料の間違い
- 477 :
- 矢田は景虎派じゃない?
- 478 :
- 矢田含め矢田グループは景勝後継者説だろ
片桐とか
- 479 :
- 池亨は?
- 480 :
- 池はあんま興味もってないから判断できんけど
何かあんまいい印象がないなぁ
講演でちょっと微妙だった所を見たせいかもしらんが
- 481 :
- >>474
このスレ読んでると、どっちが後継当主に推されたかなんて関係ないと言う輩が
景勝信者とはとうてい思えないんだが。
一行書き逃げの君こそアンチ景勝の煽りにしか見えんが。
>>475
>ある人が景勝の書状から、名目的な当主を景虎とし、景勝が春日山城
>に入り実際の政務を行う予定だった
これってどの書状のどの箇所なんだろう。できれば論文名と著者名教えていただけませんか?
しかし、武田との調停の段階といえば、まだ景虎有利な状況でもあり、
仮に名目上でも当主として扱うという謙信の遺志によるコンセンサスが重臣達にあったとすれば、
腹心中の腹心である河田が、景虎を「三郎殿」呼びしているのは確かにおかしいな。
- 482 :
- 上越市史や上杉氏年表のコラムは景虎後継者説かな
今福氏はブログ見ると景勝後継者説っぽいね
- 483 :
- 大河ドラマ、盛り上がってるなw
- 484 :
- >>475
長親は景勝派なんだから当然でしょう
- 485 :
- >>484
長親が旗幟鮮明にしたのは、和睦交渉の半年後じゃなかった?
>475の論を見ていないから何とも言えないけど、
名目上景虎を当主とする、という謙信の遺志があったならば、
その時期に三郎呼ばわりはないかな、と思ったので。
元々景勝に味方する気満々で、その時期でも三郎呼び当たり前、という状況だったなら、
長親には謙信の遺志は無視されてしまったという説になる訳か?
謙信の死後、剃髪までした人なのにな。
そういったことまで触れられてる論文なんだろうか。読みたいものだ。
- 486 :
- 重臣達が景勝を招くって言っても
本庄秀綱や北条高広など景虎派の重臣も
居たわけだからその時点で論争起きているのでは?
結果景虎派が折れたけど、何らかの形で再発したとか
「不慮の錯乱」っていうのは景勝側の一方的な言い方で
乱を「不慮」と言うことによって
自身の正当性を示しているのでしょう
- 487 :
- 高広は初め景勝側では?
- 488 :
- 秀綱って政権首脳としての動きがわかるような発給文書とかあったっけ?
もちろん家中の大身ではあるんだが、
オヤジさんほど謙信の側近中の側近・重臣ていう個人的イメージない。
>自身の正当性を示しているのでしょう
この辺は解釈次第になるよね。
- 489 :
- こういう家督争いのときは、双方が自身の正当性を主張するのは当然のこと
- 490 :
- 謙信公の肉親であり仙桃院の実子である景勝にすんなり決まらなかったのが不思議
- 491 :
- 隠居の憲政が景虎支持したからじゃね?
北条嫌いの憲政が、景勝に味方しなかったことの意味は大きいと思う。
- 492 :
- >>491
憲政は両者の仲裁が目的で、景虎を支持したわけではないと理解してた。
- 493 :
- そういう見方もあるからこそ、
「北条嫌いの憲政が、景勝に味方しなかったことの意味は大きい」
と書いてみたんだけど。
- 494 :
- 言いたいことがよくわからんw
- 495 :
- >>490、>>491(>>493)は、ひととおり過去レスは読んだの?
- 496 :
- >>481
すみません。紹介した説は研究者の方の論文じゃないんです。
歴史系のブログで、謙信の後継者について考察されていた時に、
ある方が述べられていたものです。ただかなりの知識をお持ちの
セミプロの方なのではと思いました。御館の乱は元々は後継者争い
ではないのではとされたのが新鮮だなあと思ったんで。
軍記物では実城の占拠からすぐ騒乱勃発とされてるけど、史実で
確認されるのは大場の戦いからですよね。後継者争いにしてはちょっと
遅いんじゃないかと個人的に思ったりしてたこともあったんで。
まあ、氏輝の死後2ヶ月たって始まった花蔵の乱の例もありますが。
その方は景勝の弾正少弼就任には否定的なご見解だったんですが、
(理由は肉親の景勝がそのような地位を与えられていのであれば
後継者争いが起こる可能性は低いのではとのことです。)
書状から見るに、景勝は結構正直な人で嘘は書いてないんじゃないのでは
とのことでした。
これは、あくまでも自分の推測ですが、景勝書状の「謙信の遺言として
老臣の勧めにより実城に入った」と言う表現や、遠山宛の由良書状、
蘆名の悔やみの使者が景虎の元へも行っていた可能性からあのような説を
導かれたんではないのかと。
片桐氏は晩年の謙信との二頭政治の可能性も論じられてるんですけど、
自分も後継者として確固たる地位があれば、景勝はあんな書き方はしない
んじゃないかなとも思うんですよね。
ただ、自分としては、弾正少弼を譲られていた可能性は否定できないと
思ってますし、古志と上田の古くからの確執から血縁でも後継者に
決まりにくかった可能性もあると思います(実際古志は反景勝派に立ったし)。
河田が書状に「三郎殿」と書いているというのも、ちょっとその説に
賛同しにくい理由です。
- 497 :
- >名目的な当主を景虎とし、景勝が春日山城に入り実際の政務を行う予定
随分と抽象的な考えというか、名目上の当主ってどういうことを想定されてるんでしょうか。
本城の主でない当主って他に類例あるんでしょうか。
- 498 :
- 弾正少弼を否定するなら上杉改姓も否定していそうw
二頭体制とするなら謙信生前にすでにその痕跡があるはずだけど、
その根拠が景勝の弾正少弼任官・上杉改姓の否定だけなら
かなり弱いんじゃないかと。
- 499 :
- その上杉憲政が大河に出てないのも不思議だな 主要人物なんだが
- 500 :
- 素人考えだと、越後を虎視眈々と狙ってる敵国の血縁者と
自分の甥どっちに家継がせるかと言われたら普通に甥だろと
思ってしまうんだけどそういうモンでもないんだろうか
- 501 :
- >>498
同様の書状を発給してたとかじゃなかったか?
- 502 :
- >>498
すみません。もしかして自分の書き方誤解させちゃったでしょうか。
片桐氏のいう謙信晩年の二頭体制の可能性は、謙信と景勝の二人のことです。
ただそれにしちゃあ、実城に入ったと言う景勝の書状が遠慮がちというか、、、
前年、重鎮の直江や山吉が亡くなり、柿崎がなんらかの原因で謙信から廃された
とする研究者もいるし、謙信の死前から上杉家内部、何かごたごたしてたんでしょうか?
- 503 :
- >実城に入ったと言う景勝の書状が遠慮がち
ただ単に謙遜してるだけでは?
- 504 :
- 景勝も景虎も上杉家を継承する資格なんてないお┐ (´ω`) ┌
憲政の嫡子を謙信の養子とし上杉家を相続させるのが一番理に適うお
というか道義的に見れば他に選択肢はないお
結局謙信も領土拡張の為に憲政の弱みに付け込んで上杉姓と官職を取り上げただけだおね┐ (´ω`) ┌
- 505 :
- >>494
うーん、全部書かないとわからないか
後継者が決まっていない状態であれば、北条嫌いの憲政なら真っ先に景勝側についても
おかしくないはずだけど、そうでない(中立もしくは景虎側)と言うことは
景勝に後継者としての何かが欠けていた可能性が有ると 言いたかった。
- 506 :
- >>502
こちらこそすみません。こちらの書き方が誤解を招きました。
さきほど>>498で指摘した二頭体制は片桐氏のいうそれではなく、
>ある人が景勝の書状から、名目的な当主を景虎とし、景勝が春日山城
>に入り実際の政務を行う予定
の部分のことです。
上杉内部のごたごたは近年指摘が目に付きますけど、
彼ら譜代の重臣が相次いでなくなったために発生したのか、
ごたごたがあったから彼らがそれに苦悩して倒れていったのかが不明ですね。
後者は陰謀論めいていてあまり支持したくないです。
>>505
うん、そうだね。よくわかったよ。ごめんね。
- 507 :
- >>505
景勝につくも何も、謙信が死んだ直後から上杉家が分裂して乱が起こったとは思えない。
城内で戦った事は一次史料に残されてないし、景虎は城下に在住してた可能性さえある。
突如御館を占拠されれば、隠居して軍を持たないであろう憲政は抵抗出来ない気がする。
そういや憲政ってこの頃の動静わかってたっけ?
- 508 :
- >>507
イヤイヤ景虎側or中立に成らざるを得なくなったと言いたいのかい?
でもそれでは、「道満丸を伴っての和睦交渉」に行く意味がわからなくなるよ
御館脱出したなら道満丸を連れずに、景勝のもとへ逃げれば良いのに
結局討たれてしまっているのも、景勝から「敵」として見なされて
いたからではないの?
- 509 :
-
あれ?ここは景勝をマンセーするスレじゃないの?
- 510 :
- 実際は景勝方にされたのかどうかすら分かってないからな憲政は。
- 511 :
- 他のスレでも言われてたけど和睦に敵の嫡子連れてくかな
道満丸がされると思わないんだろうか
道満丸が景勝の元に行ったって確かな史料はあったっけ?
- 512 :
- そうなのか?
- 513 :
- >>508
>御館脱出したなら道満丸を連れずに、景勝のもとへ逃げれば良いのに
ていうか、実際人質を渡すとして
子供と老人2人のみで移動させんのかね?
戦地なわけなんだけど。
つか憲政の立場に立てば、「景勝が人質を待っていた場合」のことを考えるだろう。
連れてくる手はずだった憲政が連れてこなかったら、憲政の立場がヤバイ状況になるんだから
中立だろうが景勝派だろうが景虎派だろうが、使者となったなら
どのみち連れていくしかないと思うんだけど。
- 514 :
- >>505
もしかしたら憲政にはなんとしても(北条の力を使ってでも)、
関東管領家を復興したいという悲願があったのかもしれませんね。
この思いは越後の武将たちとは微妙な温度差があったのかも。
>>506
二頭体制を示唆する史料なんてないと思います。
残っている史料をできるだけ矛盾しないものとした、
あくまで想像ということじゃないでしょうか。
当の御本人でもないのに、かってに紹介しちゃった上に
いろいろ誤解を招きすみません。
ただこういう考え方もあるんだーと思ったもんで。
- 515 :
- 以前それらしきブログを見たけどその方は
山崎哲彦氏と井上鋭夫氏の説を参考にしているようだったね
>ある人が景勝の書状から、名目的な当主を景虎とし、景勝が春日山城
>に入り実際の政務を行う予定だった
謙信が武田北条との三国同盟を意識していたという前提だったと思う
勝頼が調停に入ったのもそれを意識していたのでは?という方向だったかな。うろ覚えだけど
(違ったらすみません)
- 516 :
- >>513
いくら隠居で兵力が無いとはいえ、護衛数人ぐらいは居るでしょ・・・・・
- 517 :
- >>516
うん、だから仮に逃げ出したいとしても
護衛的なものが付けられてるだろうから
「>御館脱出したなら道満丸を連れずに、景勝のもとへ逃げれば良いのに 」
は無理だよねって話。
- 518 :
- そもそも憲政の命日って詳しく分かってないんだよね?
- 519 :
- 一応、位牌か過去帳では正史通りの没年になってる。
でも為景の没年も林泉寺過去帳は軍記基準だったりする。
いい加減なものだw
否定しうる材料がない限り、通説にしたがってはどうかと。
- 520 :
- 『上越市史』の『上杉氏文書集二』の1596号の小倉将監宛の景勝感状
の最後のところに三月十七日 管領様御生害之日って書き込みがあるんだけど。
これ写しみたいだし、日にちの横に年号右二同ってあるんだけど、感状の
年号は天正6年なんだが???
天正7年の間違いということなら、御館落城とともに死亡ということか?
- 521 :
- それは興味深いな。
- 522 :
- >>519
高志書院の上杉氏年表だと死んだ日は天正7年3月17日なんだけど
上杉家御年譜の系図を確認したら3月18日が命日だった。
上杉氏年表のが通説でいいのかな。
菩提寺の位牌の命日が軍記に合わせて書きかえれてる可能性があると
聞いたことがあるんだけど詳細知っている人いますか?
- 523 :
- 上杉氏年表はあまり信用できないからね。慎重に見たほうがいいよ。
- 524 :
- 憲政の位牌の命日が書き換えられている可能性は指摘されているという話は
以前聞いたことがあるが。
誰かこの話を論じてる研究者を知らんかな。
- 525 :
- 通説では3月18日に道満丸と一緒に死亡とされているが、『上杉氏文書集』の
概要にも御館落城時に死亡となってたし、『上杉氏年表』もそうなってるなら、
研究者は3月17日死亡説をとってるんだろうか?
照陽寺は憲政の菩提を弔うために建てられた寺だから、
寺の記録はどうなってるんだろ?
- 526 :
- 和睦の調停に行くとすると落城の前だろうから17日ってことなのかな
あと上杉家御年譜の系図見て憲藤(憲政の息子)という人がいるのを
初めて知ったんだけどこの人は24日死亡だから景虎と一緒に自害なんだろうか
重要そうなのに御館の乱関係の本で見たことないんだけど実在だよね?
- 527 :
- >>517
ん?ちょっとおかしいぞ。
その護衛が景虎がつけた者であればたしかに無理だが
もともと御館で憲政の警護をしていた者が
護衛していれば逃げ出すことも可能だろ。
- 528 :
- 全員憲政の警護だけで出すかね?
仮に出したとして、その「道満丸を連れずに行きたい」っつー意見に警護が賛成すんのかね?
だって景勝の所に逃げ出したいなら、手土産(道満丸)持ってった方がいいだろ。普通に。
道満丸捨てて憲政に何かメリットあんの?
- 529 :
- この和睦の話
元関東管領を使いっ走りにしてるんだよな。
もし事実なら扱い酷くね?
- 530 :
- 元関東管領といっても落城間近にやっと登場する位だし
あまり存在感がないね
- 531 :
- 使いっ走りというか、和睦の仲立ち役だろうから
それなりの立場の人が必要だったのでは。
- 532 :
- 和睦の余地があるなら勝頼の和睦斡旋で和睦できてると思うけどなー。
- 533 :
- 勝頼のときは停戦で、憲政のときは降伏だろう
- 534 :
- >>527
人質に行くのなら
道満丸にもお付きの者が付いてるんじゃないの
もちろん景虎の部下になるけど。
護衛を抜かしても、全員憲政の配下ではないと思う。
そもそも使者となった以上、道満丸を連れずにいく選択肢はないと思う。
>>531
確かに戦中で色々と危険だし
身分のある人本人を直々に行かせるべきなのかな。
憲政が和睦を斡旋しても、本来使者を使う所なのでは。
- 535 :
- >>534
憲政が和睦を斡旋したんなら、どうして景勝方についている大石とかの
元関東衆の武将を仲介に使わなかったんだろう。
- 536 :
- 憲政が中立側だったら、
自分の住んでた御館を軍事拠点として乗っ取られ、散々危ない目に遭った上、
人質を直に連れて行くという危なくて下らないお使い役を任され、
憲政が景虎側だったら、
敵方の本拠地に直に乗りこむという
相当危険極まりない役を、部下でもないのにさせられてるわけだ。
- 537 :
- 憲政が景勝派だったなら景虎に屋敷を乗っ取られて逃げる間もなく
籠城戦に巻き込まれ散々危ない目に遭って
道満丸を人質にして逃げ出し景勝の陣に行こうとしたら
連絡が付いてなくて敵大将の一人と見られてSATSUGAIですか。
- 538 :
- 憲政に従って越後に逃げてきて御館の乱で景虎派だった元山内上杉家臣って誰?
- 539 :
- 山内旧臣の大半、すなわち白倉・和田・富沢・小幡・木部・後閑・斎藤などは
武田や北条あるいは信長傘下の滝川一益に従った。
景勝派には大石綱元、倉賀野氏と>>520にもある小倉氏くらいか。
景虎派には憲政の息子と見られる憲重とその近臣、桃井氏、古幡氏。
あとは記録に残ってない家臣も何人か居ただろうがよくわからない。
- 540 :
- NHK大河ドラマ「天地人」を見ていて、今日になってわかった事。
上杉景勝=宮本武蔵
上杉景虎=佐々木小次郎
あのいでたちはまさしく巌流島の決闘を思わせる。
この跡目争いの顛末と人物関係は、あの「フジの昼ドラ」真っ青。
- 541 :
- しょーもない糞ドラマと思いつつ大河見てるのだが、
大河板の多くのスレで、憲政が出て来ないことを非難し、
さらに景勝が憲政を害したことを非難する声が渦巻いてる。
しかし、このスレを読むと、信頼できる史料では憲政の最後は
確定できていないってことらしいが、それじゃ何故、
こうまで一般に景勝の憲政害が通説となり、浸透したわけ?
あと、されたされたと言うが、>>520の書状にある「御生害」が本当なら、
自害したってことなのか?
降伏の使者として行く途中でなんで自害せにゃならんの?
景勝にすメリットって何かあんの?
- 542 :
- 景勝には自分のところに
人質まで連れて降服しに来る憲政をすメリットが無いから
景勝方の下っ端兵士による事故で景勝は命令出してない説とか
「何故死んだか分かってない」とツッコミが各所で入ってるんだろ。
- 543 :
- >>520
>>541
もっと上杉関連の文書をよく読もう。
管領様といえば上杉謙信だろ。
- 544 :
- >>543
そうすると「御生害」したのが謙信になってしまうので、やはり不自然じゃないか?
- 545 :
- 生害は自害に限らず、不慮の死として普通に使われているよ。
- 546 :
- 謙信の命日は三月十三日じゃないのか?
- 547 :
- >>545
え!?
- 548 :
- >>545
ネットでぱっと検索してみただけだが、
信長公記・伊達日記・高白斎記・今井宗久茶湯日記・鎌倉大草紙などの史料では
「窮地に追い込まれて自害を遂げた」という意味で使われていた。
不慮の死(自害ではない)を生害としたものは見つからなかった。
一応辞書類でも生害=自害・自とされているね(三省堂大辞林しかネットでは見当たらなかった)。
普通に使われていることはないと思われる。
- 549 :
- >>545
嘘つき景勝信者キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
- 550 :
- 図録に載ってる景勝直筆の謙信の死を伝える書状には
「謙信不慮之煩」とか「謙信不慮之虫気」になってるけどな、管領とは書いてない
写しが憲政の事を言ってて日にち間違ってるだけじゃないのかね?
- 551 :
- 管領って景虎のことだったりして。
- 552 :
- 図録の景虎の死を伝える直筆書状には「三郎切腹」と二通共書かれてるから
その可能性はかなり低いだろうな、景虎を「様」付けする理由も無いし
- 553 :
- 記録を残している景勝側からしたら敵だもんな。
- 554 :
- 景勝が三郎を管領様と呼ぶ訳がないしやはり御生害した管領様は憲政だろ。
書状の年号が正しいと御館の乱開始前に謙信の死に合わせて自害してる事になるが。
- 555 :
- 謙信死亡の書状には去月十三日ときちんと記されてるし
写しの年号間違いって事で正解だと思うよ
- 556 :
- 憲政なら前管領と記されるはずじゃないかと思うが、
他に答えが見当たらないな。
- 557 :
- 520ですが
例の管領様〜の書き付けは景勝の感状の本文に書いてあるんじゃなくて
あとに誰かが書き付けたものだと思います。
写した者も管嶺(領)様御生害の年号、慥に御座候に付き、有りのまま写した
と書かれてるので、年号がおかしいなと思いながら写したんじゃないでしょうか?
上杉家家臣が謙信のことを管領様と呼んでいたのを聞いたことがないので、
やはり管領様は憲政では?
- 558 :
- 関連スレ
六チンの乱を語る
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1246072639/l50
- 559 :
- 影虎には北条&伊達も加勢したのに・・・・
- 560 :
- 長尾政景以来の悲願、越後守護代が欲しかったのか、景勝方は?
- 561 :
- 案外後継者が決まってから、政景謀説みたいな事やろうとして大事になったりしてな
景勝後継者に決定
↓
不穏な動きを見せる影虎を抹
↓
ドサクサに紛れて憲政ご一行アボン
- 562 :
- 景虎後継者に決定
↓
不穏な動きを見せる景勝と退治
↓
武田が寝返って逆にアボン
- 563 :
- 何で景勝方が、あんなクーデター企てたのか知りたい
- 564 :
- 景勝がクーデターを仕掛けたってのも誤解の可能性が高いんだけどね。
- 565 :
- クーデターもクソもないだろ
後継者自体が、どちらか決まってなかったんだから
- 566 :
- >564
kwsk
- 567 :
- 城を武力で不法に占拠してる時点でクーデターだろ
- 568 :
- ループ入りましたー。
- 569 :
- 過去ログと上杉景勝スレ嫁
- 570 :
- あ、俺死んだ
- 571 :
- なんという誤爆。すまぬ。
- 572 :
- >>569
上杉景勝スレは、端から見ても景勝びいきの議論だから信用できん
景勝のスレなんだからある意味あたりまえだけど
- 573 :
- >>572
参考となる異見や有益な情報が景勝スレに集まってるのは景勝ファンが多いから
みたいな単純な話じゃないでしょ。
ここでループされてる議題については覆しがたい結論がでているのだから嫌いでも一読したほうがいい。
どうしても景勝びいきの意見を読みたくないっていうなら、せめてここのログぐらいは読んだほうがいいんじゃないかな?
- 574 :
- >>573
>覆しがたい結論
にちゃんの書き込みでそこまで言うおまえさんの勇気はすごいよw
- 575 :
- >569>573
レスどもです
一応、景勝スレを見てみますが、自分なりに調べても、結局うやむや
多分、実祖父以来の悲願なんかなー、と思ったりする
- 576 :
- >575
実祖父以来の悲願って?
為景のことなら、もうすでに謙信がかなえてくれてるし、
房長のことだったら、ちょっと違うんじゃないかな。
房長は確かに、為景に反抗したことがあるけど、それは決して越後の覇権を争ってという意味じゃないと思うよ。
元々、上田長尾は関東管領の下にいて、越後との関係は深くなかったし。
「北越軍記」には晴景を傀儡化して、権力を奮ってたなんて書いてあるそうだけど、
多分晴景に反抗した景虎方を正当化するために創られた話だと思う。
新潟の「天地人HP」は多分新潟大の先生方が監修されてるんだと思うけど、
あるところでは「景虎後継者あるいは分権説が有力」と書いてあったり、
またあるところでは「景勝が後継者であったと考えられます」と書いてあったりする。
研究者の間でも確定してないんじゃない。
自分の感覚としては、景虎後継者説がまだまだ有力だけど、
若手研究者の中には片桐氏の後継者移行説を支持するっぽい話をする人が、ちらほら出て来てるって感じ?
ここは、匿名掲示板という性格上、両者とも過激すぎる論が横行してる感じがする。
自分としては、ク−デタ−はあくまでも前政権を倒すものだから、
謙信晩年の側近たちがそのまま初期景勝政権の重鎮に移行してることで成り立たないんじゃないかと思う。
了解の元で行われたということは成り立つけど。
実際、「遺言として、皆が勧めるため実城に入った」ようなこと書いてるし。
あと、御館終結後の連歌の会で、景勝は「堯、舜並び立たず」って
国に二人の王は入らないって詠んでるんだよね。(なぜか、大河では景虎の言葉になってたけど)。
謙信はやはり分権させようとしてたのかなあ?現実的には無理っぽい気もするんだけど。
自分としては、景虎が景勝に反旗を明確にした時の「小弼、無曲」がどういう意味なのか気になる。
- 577 :
- 後期に景勝の軍事的・政治的基盤が
強固になっていたのは事実だけど
だからと言って後継者に指名された
という痕跡は無いからなぁ
景虎はただの人質だとか山本寺の養子だったとか
景勝スレは景勝に寄りすぎた言論が多かったね。
- 578 :
- 後継指名の証拠とされるのが弾正少弼と
謙信と同時に出された笠原だっけ?宛の書状なんだろ。
ないってのは違う。
双方にそう考えられる証拠があるんだろ。
- 579 :
- 謙信死後に遅れて由良が景虎を後継者と認めるまで
景勝が後継者として活動している事と、
河田の「三郎殿」はどう説明つく?
景虎後継者説支持者の意見が知りたい。
- 580 :
- 景虎後継者説の根拠は、景虎には養子にして同陣している根拠があるにもかかわらず、
景勝にはその史料がないってことじゃないかな。
ただそれは同盟中の史料で、越相同盟破綻後の動静がよくわからないっていうのもあるんだけど。
破綻後も安田顕元から新年のお祝いを贈られてる書状があったと思うけど、
その顕元は御館では景勝派として活躍してるからね。
片桐氏が二頭政治が行われてたとする書状については、他の研究者はどう解釈してるんだろ?
- 581 :
- 景勝が養子になってないなんて事を言ってるのは
一部の電波しかいなくね。
- 582 :
- 景勝と景虎、どちらが正統だったか、なんていうのは
どうせ水掛け論にしかならん
景勝が勝ったという事実が残っただけさ
- 583 :
- まだこんな低能が歴史系にいるのか
- 584 :
- >>583
何をさして言ってるの?
>>579
後継者としての活動っていうけど
両派戦闘前の期間で平然と政務を
こなせたわけではないと思う
一次史料だけだと空白期間できてしまうけど
- 585 :
- >>583
低脳の自己紹介乙
- 586 :
- 謙信死後の一次史料といえば、
吉江信景と三条信宗はおそらく内外の諸将に直ちに飛脚で謙信の死を報じたらしく、
3月19日には能登の鯵坂から、指図に従うという誓詞、血判が吉江と三条に差し出されてる。
それに対して、上野の北条らは動揺が激しいから、まだ謙信は煩い中としたといった書状が3月27日に出されてる。
この間、景勝は実城に入ったらしく、3月24日から国内外の諸氏に書状を送って後継者を宣言した。
それに対して、4月上旬から下旬にかけて、唐人親広、長澤光国、本庄繁長らが代替わりの祝いを吉江や三条に送ってる。
一方4月晦日、由良は景虎の近臣遠山に家督継承の祝いの書状を送ってる。
そして史料の上で確認できる初めての両者の衝突が5月5日おこる。
まあこれをどのようにとるかは、人それぞれだと思うけど。
- 587 :
- >>582
まぁ、極論しちゃえばそうなんだけどさぁ・・・・
- 588 :
- まだ>>567みたいなのいるんだ。
景虎が城に住んでなかった可能性も指摘されてるのに。
- 589 :
- やっぱり家督は事実上
景勝に移行してたんだね
多分、三郎景虎は
関東平定の後に、処遇を決めて身の立つようにしてやろうと考えてたんだ
- 590 :
- 北条を滅亡させた後、三郎を当主に据えて再興させるとか?
- 591 :
- >>589
また景勝厨の決め付けかよ
- 592 :
- 一月近くレスないのにいきなり「やっぱり〜」とかレスされても訳わからんな
- 593 :
- 移行説を否定するなら
>>579へのレスがないとな。
- 594 :
- >>593
景勝が後継者として活動している>後継者と決まっていないのにも関わらず
後継者のように振舞って既成事実化しようという景勝の目論み
もちろん景虎が春日山城で優勢な立場であれば、景虎が同様のことをしただろう
河田の「三郎殿」はどう説明つく? >
それは「北条三郎」に対してのものだから。
>>592
まったくだ。バカほど勝利宣言したがるようだ。
- 595 :
- では越相同盟が崩れて以降、御館の乱勃発までの
三郎の後継者としての活動を知りたいものだな。
- 596 :
- 結局謙信死亡時点で「明確には」後継者は決まってなかったんだろうよ
- 597 :
- >景虎が春日山城で優勢な立場であれば、
つまり謙信の意思でそうはならなかったわけだ。
城内どころか城下に住んでいたと思われる節があるからな。
三郎が後継ならば、御家の大事なのに全てにおいて行動が遅すぎる。
>北条三郎
意味分からん。
本当に謙信が最期まで三郎を後継にしたいと考えていたのであれば、
まだ事態をよく把握出来ていないだろう河田は三郎様と呼ぶはず。
御中城様より格下の殿付けは有り得ない。
- 598 :
- >景虎が春日山城で優勢な立場であれば、
春日山場内で優勢かどうか、なぜ謙信の意思で決まる?
意味がわからないぞ。むしろ、景虎は自分がすんなりと後継者と
なるはずだったので城内での戦闘を想定せず、景勝に対し出遅れた
という可能性もある。そうなれば、景勝が当主として振舞うことを
しばらく許してしまうだろう・・・・と考えることもできる。
>北条三郎
永禄年間の書状なので、未だ養子になっていなかった時期
であった可能性もある。
- 599 :
- すまん。
>>597の北条三郎の件は少し勘違いしていた。
- 600 :
- 三郎は春日山城に住んでいたかが疑わしい。
城内の戦闘だって一次史料には残されていない。
謙信の死の直後に春日山城で景勝が優勢な立場にいたということは、
謙信生前から謙信によってそのような土壌が作られていたことを示す。
謙信晩年の側近達も、謙信死後すぐに景勝の下で動いている。
後継者はすんなりとなるものではない。
周囲に代替わりを知らせる必要がある。
景勝は当然のことをしているのであり、三郎はそれが出来ていない。
三郎が後継者を自認していたのであればこれは考えにくい。
加えて景勝は謙信の遺志を引き継ぎ、
関東遠征を行うことを太田に伝えている。
結局「不慮の乱」で中止されるわけだが。
- 601 :
- 「不慮の乱」というのは、景勝が太田に対して弁解した言い分であり
それを正直に真実ととるのは公平ではない
二次史料には城内の戦闘があったと書かれている。
一次史料はたしかに重要だが、空白は二次史料などを検討して考えなくてはいけない
後世、世に残ったのは景勝を初代とする米沢藩であるから、
本来残るべき二次史料は景勝側に有利に書かれていそうなものだが
実際は少しちがう。いや、これでも、景勝側に都合の良い編集なのかもしれないが
じっさいのところはわからない。
- 602 :
- 一つ言っておきたいんだけど
景勝側に都合の良い編集があった と言い切っているわけではなく
米沢藩や幕府・その時代の史家などの編集傾向を考えれば
景虎より景勝に都合のよいものを書く可能性が高いといっているだけなので。
- 603 :
- 上杉家はおろか、他家にも一切城内の戦闘について記された史料が残っていない。
蘆名軍の落書に基づき三郎が城下に住んでいたとすれば、
城内での戦闘がなかったというのは辻褄があう。
- 604 :
- 一次で空白が出来ないから二次の入る余地はないな
不慮の乱ってのは普通に景勝の本心だろ
自分から仕掛けてたら不慮なんて言わん
大体本当に景虎が自分に正当な継承権があると考えていたなら
防御に不都合な御館よりどっかの山城に入った方がいいだろ
- 605 :
- >自分から仕掛けてたら不慮なんて言わん
その理屈はおかしい
- 606 :
- >不慮の乱ってのは普通に景勝の本心だろ
そうやって断定する根拠は無いよな?
国外の諸将に自分の正当性を訴えるんであれば
そういうふうに書くしかないでしょ
家督争いで自己正当化を計るのは
景勝に限ったことではない、常套手段
- 607 :
- >>586
3月24日付けの景勝後継宣言からあと、代替わりの祝儀や誓約文が続いて、
1ヶ月後の4月末に景虎への跡目相続祝い、で、5月に入ってから感状の第一号か。
実際に不慮の乱だったかどうかはともかく、3月末から4月末までの一ヶ月間、
春日山城内で二次史料が伝えるような戦闘があったなら、
もうちょっと感状とか残っててもよさそうなもんだとは思う。
確実に火ぶた切った後は、景勝はあれほど目まぐるしく筆豆になってるし。
勝った景勝側が都合の悪い一次史料をすべて焚書して回ったとかもまず無理だろう。
実際上杉以外の他家に残ってる史料がある訳だから。
- 608 :
- 両派で緊張状態が続いていたのかな?
- 609 :
- 表面上ではまだ派閥すら無かったかもしれない。
- 610 :
- 他大名の脅威があるから、後継者選定はできるだけ、慎重に行われるのが普通でしょう
内紛に発展するというのは双方に譲る余地が無かったということ
結局のところ、古志派と上田派の派閥あらそいだよ
- 611 :
- 華姫ハァハァ
- 612 :
- 華姫なんてただのドラマ内の作中命名だろうに・・・
- 613 :
- 景虎正統後継者説を世に先駆けて発表してた赤坂大輔氏による
「愛・直江兼続の敗北」が新人物往来社から発売されたぞ。
めちゃくちゃ詳しい内容。
ただ筆者の略歴見て唖然とした。
- 614 :
- 兼続に「愛」を使ってるところと、新人物往来社の時点で微妙な臭いがするが
>>613が唖然としたっていう筆者の略歴って何?
- 615 :
- 歴史群像かなんかで電波発信してた人か?
景虎後継者説は別にこの人が最初っていうわけでもないんだけど。
「直江兼続ブームの火付け人」だって。ほんまかよ。
調べてみると「天地人」にも資料提供って・・・
それであのレベルになっちゃったの?
- 616 :
- >>615
便乗してるだけやな
- 617 :
- >>606
不慮の事態だったからこそ、景勝が計画していた関東遠征を中止せざるを得なくなったのでは。
- 618 :
- そもそも関東遠征を行う、なんて言ってる書状があったの?
- 619 :
- あるよ。
- 620 :
- >>618
天正六年三月二十六日付の太田資正宛上杉景勝書状のことと思われ。
関東遠征を行うとは明記していないが、
その(関東)表の儀は謙信の遺言通りの仔細である、と書いてある。
資正に関係のある表(地方)といえば関東だし、
謙信最後の動員も関東遠征のためと言われているから、妥当かと。
動員は北陸方面への遠征のためものという説もあるが、
その場合上杉家と距離を置きつつある資正との復縁を求める景勝が、
(資正の望んだ)関東遠征を差し置いて北陸遠征しますよ、
なんて余計に怒りを買うようなことをわざわざ伝える必要性は無い。
景勝としては資正とよりを戻したいわけだから、関東遠征の話でないと辻褄が合わない。
- 621 :
- >>617
だから、それは「不慮の事態」を根拠にしてるだけだよ?
オレはそもそも「不慮の事態」が景勝の(優位な立場を既成化する)
言い分に過ぎないと言ってるわけ。
言い分を根拠に関東遠征が中止云々と言っても仕方がない。
- 622 :
- >>621
春日山城内で景勝が景虎に対して先制攻撃開始したと思ってるの?
何月からだと考えてる?
- 623 :
- 乱が起きるなんて明確に予期していたら、
関東に出張るようなことは言い出してないわな。
自分から乱を仕掛けているなら尚更。
状況を見ても十分不慮。
- 624 :
- 関東に出張る云々は、何の具体的なことも書いてないし
太田に対する社交辞令ととるのが普通だと思うが
あるいは北条と敵対する、という表明かな
いずれにしても「関東遠征をする」と本気で言っていた
とは思えない。根拠が薄すぎる。
- 625 :
-
重房 - 頼重 - 憲房 - 憲顕 - 憲将 - 山吉義盛室 - 行盛 - 長尾頼景室
- 重景 - 能景 - 為景 - 仙洞院 - 景勝
といったように、景勝は上杉重房の血を引いているので、景勝が正統筋。
- 626 :
- それは論点がずれている
- 627 :
- 謙信が来年には必ず越山すると約束
その来年にあたる年に大動員令を発し北条征伐を誓い
その後急死
景勝が「謙信の約束通りで行う」と明言。
普通に関東征伐に行く予定だろ。
- 628 :
- 越後上杉家を語るスレに3月26日の葦名盛氏書状が紹介されてたけど、
謙信の死直後から、本庄秀綱は葦名と連絡とりあいっこしてたわけ?
景勝方の方が最初に動いたとあるけど、景虎方も密かに
水面下で動いていたということ?
葦名が大喜びしてるとこみると、謙信がば必ず越後は大乱がおこる
と虎視眈々と狙ってたんだろうか?
Wikiの御館の乱に、4月から葦名が菅名を牽制していて、小田切氏が盛氏に
報告してるって書き込みがあったけど、そんな書状あったか?
- 629 :
- 本庄秀綱は謙信の死直後は景勝方じゃね
- 630 :
- 秀綱の直後の動きはよくわからなかったんじゃないかな。
史料なかったし。
もともと父の実乃は古志の被官だったというし、
上田の景勝を立てる動きには反発してたんじゃない。
当初景勝派のそぶりしながら、景虎優位とみて裏切ったのは三条の神余じゃなかったか。
- 631 :
- 栃尾本庄が長尾平三景虎の補佐になったのも、
平三景虎が古志長尾に入嗣していたとすれば、
栃尾本庄が古志被官である場合頷ける。
- 632 :
- >>628
4月16日付の、蘆名盛氏から小田切氏への書状があったね
- 633 :
- >>632
小田切の誰宛の書状なの?
弾正か治部少輔?それとも孫七郎?
- 634 :
- たぶん弾正だったように思う
- 635 :
- >>634
それもしかして、反町文書の小田切文書?
確かに四月十六日付けの盛氏から弾正宛ての書状はあるけど。
越佐史料では永禄七年に比定されてるけど、
新潟県史は根拠不明とし、むしろ信玄書状の関連から永禄十一年では?としてた。
確かに平等寺の落書から、謙信の死を知った盛氏は直ちに越後に侵攻したみたいだけど。
御館の乱の時だけじゃなく、芦名は小田切を使って度々越後に侵攻させてるから年代比定がややこしい。
- 636 :
- 討ち死に前に書いた落書では4月20日の日付だったな
- 637 :
- 小田切弾正忠が討ち死に?4月に?ほんまか?
それどこの落書ね?
天正6年9月16日に景虎から弾正忠は金上と安田城を攻めたことについて
書状をもらっとるやん。
- 638 :
- 小田切軍が大敗する前に、自分たちの敗死を悟った将兵が落書を残していたね
小田切弾正は死んでいないね
- 639 :
- 越相同盟破棄以降から御館の乱開始までの間の景虎と北条家の関係を示すような史料ってあります?
- 640 :
- >>639
寡聞にして知らんなぁ
ていうかそもそも越相同盟破棄後の景虎の動向が掴めない
- 641 :
- 今夜は再放送
- 642 :
- 御年譜で謙信死後に景勝が実城に移ったとき
三郎は二の丸に移した、って書いてたわけなんだけど、
ということは三郎は二の丸住みではなかったってことだよな
それまでどこにいたんだろうな、城下なのか?
実城に住んでるわけはないし(そうだったら跡目争いが起きる余地もない)
- 643 :
- >>642
三郎の足取りは本当に掴めないからね
住んでたのは三の丸と言われてはいるが
ただ、春日山は二の丸・三の丸の位置が今ひとつはっきりしないんだよなぁ
結局中城の位置づけもよく分からんし
そういや、中城の位置が実城とあまり変わらない高さにあったって話を聞いたんだが
本当なんだろうか?春日山には登ってみたいけど遠くてまだ行けてないんだよね
誰か登った人いる?
- 644 :
- 春日山には二つの峰があって、
一番高い部分が実城、次いで高い峰が中城になっている。
景勝が春日山に入ったときに増築されて作られたと言われるが、
山の構造上中城のあった部分に元々何もなかったと考えると
城の防衛上もの凄く不安な気がする。
たまに「景勝屋敷って本丸の影になってて暗くて湿っぽい!笑」とか
言っちゃってる奴を見るが、
山城の構造としては中城は凄く大事な場所だよなあ。
- 645 :
- >>643
うむ、春日山は常に改築していたらしいからなあ
- 646 :
- 実城は高い所にあるけど高低差激しいから
実際は中城の方が平坦な場所だった分
大きく間取れて広かったんだよな、確か
- 647 :
- 景勝の父親である政景は謙信と憲政の取り次ぎをしたり、
それなりに憲政と良好な関係だったようだが、
その跡継ぎである景勝と憲政はどうも距離があったのかね。
謙信の後継候補の一人であったと考えれば、家臣扱いにしても微妙だし。
というか、憲政は越相同盟に口を挟んだりしなかったのだろうか。
謙信の政治に口を挟まない取り決めでもあったかもしれないが、
謙信に譲った家督を北条の子である景虎に譲られることに不服を感じてもおかしくないと思うんだが。
やっぱ家柄血筋以上に個人的な性格で景勝・憲政・景虎の間でなんかあったのかもしれんね。
景勝と景虎だと、クソ真面目で厳格っぽい景勝より景虎の方が憲政と気が合いそうだし。
- 648 :
- >>647
そりゃ、憲政から考えたら景虎の方が公方向きな性格と振る舞いだったんだろうな。
幻庵の養子となって、幻庵の娘を嫁にもらってる時点で文化的な教育を幻庵から受けていただろうし。
教養というか、そこから出るふいんき的にも景虎の方を気に入っていたのかも試練とは思えるけど。
- 649 :
- 上越市史とか読むと、研究者は憲政は積極的に景虎を支持したとかっていう感じじゃねぇ書き方してるんだけどね。
当時御館には仙洞院もいたわけだし。
小倉とか大石、楠川とかわかっているの旧家臣たちが、全員乱の当初から景勝方だしなあ。
よくわからねえ。花倉の寿桂尼の例もあるし。
乱勃発時の越後の状況(というか景虎方の動きを)知ることができる会津芦名の兵たちが書き残したお堂の落書にも、
憲政の名前はいっさい出て来ない。なんで?
- 650 :
- 幽閉状態だったんでね。
積極的に味方してたなら正当なる山内上杉先代として
旧家臣達に「景虎が後継者だ味方しろ」くらい報じるだろ。
- 651 :
- 幽閉なんて、それこそ根拠がないし、そんなことしたら家中から非難の嵐だろ
- 652 :
- 和睦の使者にたったぐらいなんだから、自分では中立だと思ってたんじゃないの。
仙洞院と一緒に、なんとか穏便にことを運ぶよう影で努力してたのかもしれん。
薬師堂の落書きも、内乱は当初は景虎と景勝が前面にでたものじゃなく、
ふたりの代理つまり、それぞれ支持するものたちが争いを始めたみたいに書いてるし。
- 653 :
- >>648
そういや兄弟婚なのねw
- 654 :
- >>650
幽閉じゃなくて、過去の人として楽隠居してたんじゃね?
- 655 :
- 自分の屋敷で戦争真っ最中に楽隠居とはなんという剛胆さ。
- 656 :
- 家にいっぱい押し掛けてきて驚いたが景勝方には倉賀野ら旧臣殆どいるからどっちに転んでも安全と考えたんじゃないか。
景勝側も一応米沢に墓作っている以上敵対視してないようだし
むしろ息子が景虎と仲良くて手引きしたんじゃないか
- 657 :
- 息子っていくつよ
- 658 :
- 「上杉姓と官位譲渡の書状」が、謙信から景勝に渡されてたのに、「天地人」では小説レベルの話にされた。
お家争いで悪者にされた。
名誉毀損だ。
- 659 :
- 戦乱真っ只中の雪の中飛び出していかずに
御館に大人しくじっとしてたら
憲政も仙洞院同様に景勝方にVIPとして保護されて
ずっと楽隠居してられたのかもな。
- 660 :
- 憲政が保護されていたら、
天地人で北条高広を説得する役は
この人だったかもしれない。
- 661 :
- 良スレ
- 662 :
- 関東戦国史と御館の乱
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6986232%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f14374822%2f
最近出た本だけど、お勧め。
- 663 :
- ほす
- 664 :
- 憲政にとってはにっくき北条の子だから景虎を全面的に支援したくない気持ちはあっただろうな
- 665 :
- 越後の後妻が古志系の人だったのかねぇ
- 666 :
- 謙信は景虎の処遇をどうするつもりだったか
妄想だけど
越相同盟破綻後は、親上杉の北条勢力を関東につくろうと考えていたのでは
北条家当主氏政の兄弟というのが味噌で
北条家と決戦に及び、勝利したならば氏政に変わって景虎に北条家を継がせるとかね
- 667 :
- 佐竹らが認めるか?
- 668 :
- まあ妄想なんで
ただ敵対勢力の一門を手元に置くとき、政治的には、相手に大打撃与えることができたら送り込むんで継がせるとかよくあるような
その場合、北条旧領のうち伊豆相模を上杉景虎に安堵かな。
佐竹らとの係争もそれならなくなるかなと
- 669 :
- 能登畠山のようなものだな
- 670 :
- ほす
- 671 :
- 山内上杉景勝
山浦上杉国清
上條上杉義春
北条景氏
- 672 :
- そういや仙洞院が娘と孫のために景虎に領地を与えてやってと
謙信の跡を継いだ景勝に訴えたら景勝が却下したので御館の乱が起きたって話読んだが
そしたら当の婿と娘と孫は死んで元凶の仙洞院は息子に保護されて
その後何十年も生きてるのがなんか理不尽だなと思った
- 673 :
- おねだり却下で反乱とかひどい話だな、誰の妄想か知らないけど
- 674 :
- 上杉家記だよ
- 675 :
- 上杉家記は古文書などの史料をもとに、当時の上杉研究の巨頭伊佐早謙が編集したものじゃないの
白河決戦を否定したり、上杉家御年譜よりも正確で信用性があるとされているところもあるらしい
そういう言い伝えとかがあったということなのかな
元はどういう史料なんかね
- 676 :
- 最近出た上杉景虎読んでるが
謙信の方針を引き継いで中央集権を進めようとした新当主景勝に
既得権益を脅かされた神余らが反乱を起こして
北条武田の援軍目当てに三郎景虎を「景勝倒したらお前が家督取れ」と言って
御館の乱に引き込んだ…みたいな研究だった
その後一人で必死に調略したり兵糧の確保しようとしてる三郎と
勝手に戦って不利になったらあっさり三郎見捨てる三郎景虎派の皆さんに
流石に三郎が不憫になった
- 677 :
- う〜ん・・・不憫だな
- 678 :
- 当時北条氏は抵抗する結城氏とそれを支援する勢力に対抗するために葦名、伊達と密かに盟約を結んでたんだろ(黒田氏の研究より)
謙信が死んですぐ、葦名は越後へ侵攻してるし(神余の反乱より以前)
葦名が景勝ではなく景虎に使者を送ったのは、今までは景虎後継者説の証拠とされてきたけど・・
近年明らかにされた史料からするとなんか怪しいぞ
景虎が担がれただけというのはどうかな
景虎ファンは景勝が謙信を暗した説が好きだけど、状況証拠からするとむしろ景虎派が謙信を暗したんじゃない?
- 679 :
- 景虎は三の丸はおろか城外の春日屋敷にいるって言ってたのはどーなった
どうやって暗すんの?
- 680 :
- 別に景虎自身が動かなくても、本庄秀綱とかいるし
- 681 :
- なんにも証拠となるものが残ってないのに暗と言われても話が続かない。
- 682 :
- まあ春日屋敷だって証拠は無いんだけどね
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