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2012年3月戦国時代175: 【謙信】臼井城について【潰走】 (146)
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【謙信】臼井城について【潰走】
- 1 :
- 上杉家のミッドウェーとも言うべき臼井城攻防戦や城の縄張りなどについて語ろう
- 2 :
- 白井胤治>>>>>>>>∞>>>>>>>>>>上杉謙信
- 3 :
- 由良成繁の三男で総大将の長尾顕長(1556年生)による1566年の臼井城攻めのこと。
- 4 :
- このスレまた立ったのか。落ちたのに。
>>3
11歳が総大将w
- 5 :
- この時期、足利義輝の暗が謙信の権威を失わせてしまった。
また長尾顕長の失敗は由良の離反につながった。
- 6 :
- 四代も続けて将軍が失脚している状態で今更権威もなにもあるまいお( ^ω^)
関東管領に権威あるくらいなら長尾のような逆賊が名跡を継ぐという異常事態が発生するわけがないお
関東衆は長尾自体の軍事力に期待したわけで幕府の権威など初めから眼中にないお( ^ω^)
- 7 :
- 北条と同盟結んで盟約をかけらも守らん戦バカ大名なんだから
敗戦はあるだろう
- 8 :
- クレしんの作者かと一瞬思った
- 9 :
- 守護家と対抗するため為景も幕府へ献金したりで越後統治の正当性を得ようとしたし
謙信が越後をムリヤリ統一できたのも幕府権威によるところが大きい。
仙台は無知過ぎる。
- 10 :
- 足利義輝は外交を背景に影響力を行使しかなり幕府立て直しに成功していた。
- 11 :
- >>9
もまえが言っている事は幕府の権威が失墜した何よりの証拠じゃんお( ^ω^)
幕府の体制に盾突く長尾などは本来なら討伐軍を送る事態なのに
金に目が眩んで逆に上杉氏を売るような真似をするなど幕府権威が生きている頃なら有り得ない事だお┐ (´ω`) ┌
この時期になると朝廷も幕府も金さえ積めば何でもありになるぐらい秩序が崩壊していたお( ^ω^)
- 12 :
- 売るも何も、大乱ばかり引き起こしてきた上杉にもはや当事者能力としての統治能力がないんだから仕方がない。
幕府は鎌倉公方だって切り捨ててきた歴史があるし。
山内上杉が後援していた伊豆堀越公方の息子の足利義澄を擁立した細川政元政権が越後守護の上杉房定(山内上杉顕定の父)との関係が良好だった反面、
義澄を追放した足利義材を擁立した細川高国政権では畿内統治に大内を、奥羽では伊達、為景には越後安定を期待しただけ。
要は時の幕府管領の政策によるものだ。
別に上杉を売ってるわけじゃない。以前として長尾は越後守護になれたわけじゃない。
そして幕府権威は別に失墜してはいない。
いまだに権威は地方支配正統性を持ち、有利に働いていた。
なぜなら幕府から恩賞を得るための幕府への取次役であるからだ。
- 13 :
- >>12
もまえは何を言っているのだお( ^ω^)
大乱が起きるのは幕府に権威が無いからじゃんお
そしてそれを収める力が無いから多発するのだお( ^ω^)
守護大名が存在しているのに守護代に同等の権限を与えている時点で最早正統も何もあったものではないお( ^ω^)
室町政権は義政以降は地方介入の不振で力を失って行き、義稙以降は京にいる事すら難しくなっていたお
将軍が度々臣下に追われて京から逃亡し流浪しているのに幕府の権威とかとんだお笑いだお( ^ω^)
官職濫発も幕府権威の失墜が大きく関わっているお
武家執奏は幕府が取り仕切るのが絶対で直奏は禁じられていたのに
義稙時代頃からは幕府権限を飛び越えた地方諸氏の直奏が多発し常用化していくお
また、幕府が取り仕切った場合でも、高額の賄賂を送れば
幕府内序列を無視した高官を得る事が出来るようになり室町秩序は崩壊の一途を辿っていたお( ^ω^)
天文の頃になると地方の山寺の法師や国人レベルまでが四職や管領並の高官を得られるようになり
幕府の権威も完全に地に落ちたお( ^ω^)
- 14 :
- 仙台藩百姓
これをNG登録すれば全て丸く治まるのです
- 15 :
- すると鎌倉幕府は源氏将軍が絶え
北条執権政府になった時点で
鎌倉幕府の権威が失墜したと言いたいのかね?
将軍がいるいないと管領主導の官僚組織としての幕府の運営は別個のものだ。
そもそも足利将軍家は最初から全国を完全に統治していたわけでも何でもないし
守護大名の反乱自体も頻発していたと言うより将軍もしくは幕府側が挙兵するように追い詰めたりしてたわけだ。
その時にかつて謀反人として討伐した者どもを取り立てて追討に向かわせたりしてる。
応仁大乱での動員力も結局は、次期将軍への支持の違いと、幕府管領や将軍室の権威に従っての戦いであり
それだけの動員力は裏を返せば、派閥は違うが足利幕府への求心力の証明でもあり
それゆえ義政も判断を留保してるわけだ。
基本的に派閥が争ってるに過ぎない。
- 16 :
- 仙台はアンチ長尾の基地外
- 17 :
- >>15
鎌倉幕府は権力が源氏から北条に移っただけで幕府自体の権威は全く衰えていないじゃんお( ^ω^)
むしろ承久の乱で知られるように天皇を破って追放するほど絶大な権威を誇っていたお( ^ω^)
室町幕府の場合は朝廷も全国諸氏も幕法を無視した行動するようになり幕府などあって無きような状態だお( ^ω^)
だから世間一般では室町時代と区別して戦国時代と呼ばれているのだお( ^ω^)
もまえもこの板にいるのだから戦国時代ぐらい知っているおね?( ^ω^)
- 18 :
- 最後の一文付ける必要あんの?お前ってネチネチ色んな武将に難癖付けてほんとに陰湿だよな
- 19 :
- 仙台の書いてることは
まず長尾を貶すという結果が最初からあって
書いてるから読む価値のない単なる駄文。
- 20 :
- 最後の一行は、仙台が動揺している証
- 21 :
- >>17
仙台の南北時代と室町時代と戦国時代の線引きが毎回恣意的なのは
すでに知っている。
- 22 :
- 城跡付近の公園に石碑がだってるな。不識庵がまさか関東官僚とは言え千葉、東総まで自ら出兵したのにはビビった。しかしどうやって武蔵を越えたんだろ。
- 23 :
- 自らは出陣してません。
足利長尾氏やその父の由良氏といった栃木県足利や群馬県太田あたりに集結した人達でしょう。
- 24 :
- >>18-21
だって普通に書いたら盛り上がらないじゃんお( ^ω^)ノシ
>>22
武蔵北部にも上杉方がいるし、太田方面から下野通過しても普通に行けるお( ^ω^)
- 25 :
- なるほど、23、24ありがとうございました。
しかし謙信ワイルドだな。援軍で里見あたりが来てたら結果は違ってたのかな…。
- 26 :
- >22
1月に唐沢山城を攻略し、2月に小田城を攻略。
その後一旦体制を整え、2月中に小金城を攻撃した(落としてはいない)あとに
3月に臼井城に到着というのが永禄9年の作戦経過。
利根川を渡河しないで済むように、下野、常陸の敵を抑えて道を通してから、
当時輝虎方に属していた簗田氏か下総相馬氏領あたりから下総に入ったのではないかと。
>23
2月21日に「総州口御出馬」のために館林に「御着」
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/1201/0499.tif
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/1201/0500.tif
という記録がある以上、輝虎本人が出馬していたと考えるのが自然だと思いますが、
本人不在を裏付ける資料があるのでしょうか。
>25
輝虎勢が下総に出陣しているほぼ同時期に、里見氏は上総の佐貫城の攻略に成功しています。
両者の作戦行動は連動していたと考えられます。
- 27 :
- 輝虎は館林で軍勢の集結を待ってた以外に考えられないけどな。
すでに足利長尾が主将で臼井城攻めは開始されてるし。
だいたい臼井城を追い詰めて、北条の援軍がやってくる寸前に足利長尾らは兵を引いてるし。
北条が上杉を撃破した話は毎回やる北条の誇張宣伝。
なにせ白井入道の話自体が講談だろ。
- 28 :
- 本人不在の証拠?いないことを証明するのは筋がおかしい
確実に臼井城に景虎がいたとする証拠を出すのが証明すると言うことだ。
- 29 :
- なるほどです。確かに石碑には自ら出馬ような事が書いてあった気がした…。だけど実際はまだ解らないんだろうな…。印旛沼を謙信が見たと思うと感慨深い。志津砦や佐倉城はどうだったんだろう。佐倉はまだ出来てなかったかな。堀田イメージが強いだけかな。
- 30 :
- 本人不在を証明するのがおかしい何て事はないお( ^ω^)
動向を探る上ではまずはアリバイを証明するのが常道だお
つまり当時謙信が居た場所を証明する事が第一だお( ^ω^)
まあ、謙信は関東衆の背中越しに北条に喧嘩売って都合が悪くなると関東衆を突き飛ばして越後の山にトンズラするのがセオリーだから
この時も退路を断たれるのを恐れて関東衆だけけしかけて後ろで様子見していた可能性はあるおね( ^ω^)
- 31 :
- 館林でチンコ触り合い友情確かめ合い、小田城破却作業しながら土浦に逃げた小田からの謝罪を受けつつ、後詰めの軍の集結を待ってたんじゃね?
小田領で佐竹はなにやってんだよ?また奥州白河に行くつもりか!こうなったら義重の尻にブチ込んで泣かせてムリヤリ配下にしてやるムフフ
「これからわらわは大人の情事…いや用事があるから、まだ男児の景勝くんは見てはいけないよ。先に臼井城に行ってなさい」
- 32 :
- 関東衆で本気なのは里見ぐらいじゃないか?
この戦いでも損害がけっこうあったらしいし
- 33 :
-
外山信司「上杉謙信の臼井城攻めについて」(『千葉城郭研究』第9号、2008年10月1日発行)
- 34 :
- >>32
里見も口ばっかだからなあ
- 35 :
- 上杉謙信を正義の味方と思っている奴は知障
- 36 :
- 白井胤治って信長の野望シリーズに出てくる?
- 37 :
- これ、11歳の総大将と12歳の援軍なんだよな。
これの一部に損害出させて喜んじゃうのがちょっと涙出るな。
- 38 :
- 上洛の為に引き返したの見て勝ったと勘違いしただけでしょ。
北条方は馬鹿ばっかだしね。
- 39 :
- 臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)は、戦国時代の永禄9年(1566年)に後北条氏と上杉氏の間で起きた戦闘。
上杉氏は常陸国へ出兵して、再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど積極的に攻勢をかける。また、里見氏が後北条氏に追い詰められていたため、
これを救援すべく下総国にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である臼井城に攻め寄せた。だが城自体を陥落寸前まで追い詰めたものの、
原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三の知謀や、のちにこの戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる松田康郷の武勇によって大きな打撃を受け、上杉軍は敗走した。
上杉方の戦死者は5千人以上ともいわれ、当時軍神と恐れられていた謙信にとっては、歴史的大敗であった。
- 40 :
- あの堀は深いな〜
- 41 :
- あの堀は深いな〜25メーターだって?
堀と言うより谷だな
- 42 :
- 臼井城
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1577/usui.htm
- 43 :
- 謙信の陣があったと言う伝説がある現公園の位置からして
臼井城まで間に山を挟み、直接視認できない遠い距離でまったく合理性がなく伝説の域を脱し得ない。
またギリギリまで追い詰められて最後の内郭の土塀を倒して下敷きにしたと言う話も成立するような話ではない。
なぜなら郭を手に入れ、本丸に攻撃をかけている段階で、大惨事がおきえるような下敷きになる場所は存在しない。
- 44 :
- ケンチンってこんな大敗してるんだw
- 45 :
- 謙信が参戦したかも不明、被害も不明の、まるで都市伝説みたいな戦
- 46 :
- ケンチン厨は自分達の都合の悪いことは認めないんだなw
- 47 :
- >>46
せめて議論が
できるようになったら
またここに来ようなw
- 48 :
- ケンチン厨は言い訳ばかりwwwwwwwwwwwwwwwww
- 49 :
- アンチは捏造ばかり
- 50 :
- ケンチンの負けw
- 51 :
- >>43
山なんて今は無い。戦国時代にはあったのかな?しかし現公園から城まで遠くは無いよ。印旛沼すら防御堀にしてるような城だと思うし。
- 52 :
- そもそも印旛沼自体が干拓や水害などで地形が当時と違うから判断不能
- 53 :
- >>51
ん?
俺実際にそこら辺に友人が住んでて見たことあるけど
山というか、でかい丘というか崖みたいなもんかよく表現できんけどあるよ。
だからそれが邪魔で、たしかに直接に視認することはできんよ。
距離も軽装の大人の男で徒歩30分はかかる。
- 54 :
- >>53
俺は家から歩いて行ける距離
まぁ遠いって感覚よりもあの公園で陣形を整えるのはセオリーな気はする。丘の手前の平野だから。
まぁ謙信が居たかは解らないけど。ただ距離的には丁度良いと感じただけだから。
- 55 :
- 3/20には関越衆が臼井之地、実城堀一重にまで追い込んでいたが
同じ頃に3/10付けの将軍義秋の御内書と大覚寺門跡義俊の副状が輝虎の元に届き
相越和談して上洛するように要請があったから
臼井攻めしてる諸将に使いを出して撤退指令を出し3/25に完全撤退。
北条方の蔭山新四郎は4/12付けで
「今度於臼井之城、褐粉骨走廻、殊蒙傷、敵一人討捕候、高名之至、感悦候」と感状を貰っている。
上杉方では総社長尾顕景から下平右近允が4/20付けで
「今度臼井之地、被為攻候時分、最前ニ責入之由、無比類候、負傷之段、粉骨無是非候」
として感状が与えられている(歴代古案四)
勝敗の判断はまったくできない。
- 56 :
-
外山信司「上杉謙信の臼井城攻めについて」(『千葉城郭研究』第9号、2008年10月1日発行)
- 57 :
- 常識的に考えて5000人も死ぬ訳ないじゃん
あの川中島で2000人だからな
本当は500人程度じゃないの
で、負傷者合わせて数千人だ
500人って少ないようだけど、あの小城でこれだけの大損害ってのはかなりまずいね
- 58 :
- 由良成繁の三男で総大将の長尾顕長(1556年生)による1566年の臼井城攻めのこと。
これ、11歳の総大将と12歳の援軍なんだよな。
実城堀一重の追い込まれた状況で土塀を崩して上杉兵を下敷きにしてしたって言うけど
そんなことしたら残った上杉軍が雪崩れ込んできてヤバイはずだが?
まぁ白井入道の話自体が講談だしなwww
- 59 :
- 鬼高利貸しが政権運営してるのが北条だからね。 質を取った上でトイチ金融をするようなもんで
時代を先取りしてる先進金融社会体制を築いた北条は評価されるべき。
謙信が焼き討ちをするのを放置してるのも、その方が質流しと家族から引き離しての人売りで北条金融が儲かるから。
上杉謙信軍が、掠奪し放題だったら、謙信に正義はないな・・・
焼き討ちは戦術だからやってたが 略奪は知らんな。そもそも略奪できるほど財産があったら
質を取っての高利貸し悪政やり過ぎで民衆暴発危機の恐怖で
徳政令の頻発なんて事態が起きないだろうけどな。
そもそも氏康自体が悪政が原因で隠居させられ徳政令発布だし
謙信の小田原城侵攻をラッキー♪って利用して、危機だから復権します宣言してるくらいだから。
いままで何度も許している小田が懲りずにまた謀反したからだろ
しかも今回は佐竹義昭が死んで喪に服してるのをチャンスに挙兵し佐竹を敗走させて激怒されてる。
小田が土浦へ逃亡したあと謙信は結城晴朝に和睦条件を一任しており
小田は小田城破却作業を飲んでおり小田城破却中に民を飯代程度の安い金で
売っているのも結城晴朝が交渉で得た条件だろうし納得しない佐竹の激怒報復的なものがあったかも知れない。
そもそも謙信はこの1回しかやってないから習慣性は感じられないし、
結局今回も謙信は土地の取り上げをやらずに小田を許し返却してる。
しかし信玄の価格設定と違い、謙信がやった価格じゃまったく儲からないわけだが。
なんかメリットあったの?メリットないから 和睦交渉で決まったこととして押し切られて
結城や佐竹ら関東衆の意見を尊重し1回だけやっただけじゃないの?
下記を見ればわかるが徳政って言っても北条直轄領では
借金返済できずに売られた妻子すら取り戻し禁止の悪魔徳政っぷりなんだが。
関宿城番の恒岡越後守と太田下野守→高利貸しであり北条組における奉行職のポストを得て
財務を扱っていた根岸など武士階級相手に金銭の貸し手で蔵本そのもの。
(古河公方にはある閏年郷役の御恩賞の制度すらない民衆吸血鬼北条)
氏康の大失政により民困窮し隠居した際の代替わり徳政の悪法。
永禄3年徳政令において2月晦日付伊豆国牧之郷(北条直轄以外の私領での公布において)
さまざまな形態の貸借や蔵に入れた質物が徳政として無条件破棄。
諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予。年期売の妻子や下人等の取り戻し。
上記の話の2週間後に北条高利貸しの意見を聞いたのち修正し北条直轄領で施行開始
3/16日付武蔵国網代郷(御領所=北条直轄領)穏便な取り戻しや三嶋酉町で質流れした物は返却請求禁止(高利貸し超有利!)
諸代官・諸奉行の立て替えた年貢の利銭の猶予&売られた妻子や下人の返却完全黙(奴隷売買で売られた家族の取り戻し禁止とか悪魔すぎ)
北条大名権力直轄領の経営に携わる蔵本たちの高利貸し資本を露骨に保護する北条の本性が垣間見れる。
このアコギな商売に反発した関東武士団が要請しての永禄4年景虎の小田原侵攻
- 60 :
- 今日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で、謙信のこと取り上げていました。
臼井城の戦いも取り上げていて、このスレでは色々と議論あったけど、番組
では、謙信の大敗北としていました。謙信が無理な突撃をし、数千人の死者
を出し、以後、謙信は関東に出陣すること自体、減っていったのだそうです。
- 61 :
- >>60
NHKは普通に軍記講談や伝説を引用するから参考にならないよ。
あれは史実の検証番組じゃないから。
そもそも臼井城に謙信がいたこと自体が証明できない話だからね。
ちょっと前の書状でも謙信は2/21に上野国館林にいて
仲陽には「春のこと」佐野に御在陣してるってのはわかる。
撤退理由も謙信に上洛してもらいたい足利義秋から越相和談の要請があったからだし。
北条が勝ったとする指揮者の白井入道の戦術からして講談話で眉唾な話。
義秋は北条にも同様の話を差下使申遣してるから
北条側は知らなかったって言い訳は通用しない。
もしこの和談を無視して撤退中の上杉軍を北条が卑怯な追撃をしてたのなら死者は出たかも知れないけど。
- 62 :
- >>61
その番組では当時の誰かの書状を表示していましたよ。被害数千人の説明のあたりで
表示してたから、そういうことが書かれてるのかなと思った(俺には読めなかったが)
- 63 :
- >>62
感状でない書状の場合の戦果はデタラメの場合がほとんど。
みんな勝った勝ったとデカイことを言いふらして宣伝活動してるもんだし
それを否定して士気を落としたり、恥をかかせるわけにいかないからね。
だからちゃんとした研究者の場合は感状の発給内容を見る。
感状は北条が発給した相手に褒美の恩賞を与えないといけないから
ちゃんと戦果を確認して戦功を表彰してるものだから。
- 64 :
- >>62
プロパガンダが(宣伝戦)あったからね。
だから非現実的な誇張を武田なんかもけっこうやってる。
北条綱成も戦場で「勝った勝った」と敵兵に聞こえるように叫びながら戦ってたのもその一環。
ちなみにこのプロパガンダは紀元前6世紀頃のアテネで始まったと言われるほど古くからある戦術。
デマゴーグ(民衆扇動)に対する逆宣伝戦術で
扇動目的の嘘や噂をデマって言うのはこれが語源。
- 65 :
- ある意味、NHKの放送もプロパガンダ効果で臼井城の話が放送内容そのまま
一般の人には流布しそうですね
「ここで北条に負けたから関東あきらめたんだ」
という感じで
- 66 :
- >>65
実際に謙信が不利な国際情勢になってきたのは
将軍足利義輝の暗事件の影響から始まってるから
臼井城敗退したからだって無理やり理由付けするアホな説で既成事実化したがる北条厨にも注意だね。
北条なんて謙信を刺激して越山させたくないビビり籠城厨よりは
武田の一向一揆や本庄謀反を煽る謀略厨の方がよっぽどたちが悪い。
- 67 :
- 北条氏政が松田肥後守に出した書状に、
「敵五千余人手負 死人仕出 翌日敗北」と書いてある。
ちなみにこの文書は『千葉県の歴史 資料編 中世4』に所収されている。
以下の論文がかなり詳しい。
外山信司「上杉謙信の臼井城攻めについて」(『千葉城郭研究』第9号、2008年10月1日発行)
- 68 :
- >>67
それは感状じゃないからね。
>>55の感状を見る限り5000人死傷するなんて大袈裟な戦いがあったとは
とても成立しない話。
しかも上杉側も感状を出して賞してるくらいだし。
- 69 :
- ここにきてたのかサブちゃん
【異常】Sub荒らし報告・観察スレ【誇大妄想】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268982684/
- 70 :
- 1月に唐沢山城を攻略し、2/16に小田城を攻略し
土浦城へ逃げた小田氏の降伏&小田城破却作業。
小田城陥落の約束を持って軍役が課せられた
里見・由良・成田氏・佐野・宇都宮・佐竹・簗田・酒井・
太田・広田・木戸・野田・富岡・結城・小山・榎本や
上野金山口の調儀のために引き立てられた諸氏の集結を謙信は待っている。
謙信は2/21に上野国館林にいて その後
仲陽には(啓蟄〜清明の間で春のこと3月初〜4月初か?)佐野に御在陣している。
2月下旬に厩橋城主北条(河田は監視役か)らの越軍別働隊が下総小金城を攻撃?
この派遣軍に3/3下野守谷城の相馬治胤が呼応。この軍は牽制のため船橋郷へ転進?
由良成繁の三男である長尾顕長11歳が総大将での臼井城攻めをしており、
3/20には関東衆が臼井之地、実城堀一重にまで追い込んでいたが
同じ頃に3/10付けの将軍義秋の御内書と大覚寺門跡義俊の副状が輝虎の元に届き
相越和談して上洛するように要請があったから
臼井攻めしてる諸将に使いを出して撤退指令を出し3/25に完全撤退。
5/9越後に戻った謙信は義秋の上意に従って氏康と和睦し
今秋中に武田親子を退治し、上洛して三好・松永の首を刎ねることを祈っている。
相越同盟へ発展する義秋の上意に従って氏康と和睦し上洛する謙信の意思に
いま後北条と戦っている関東諸将が関東軽視と感じ憤慨した可能性が高い。
そのトラブルを起こした原因に関東諸将との取次役だった
厩橋城主北条の背信行為があると思われること(後北条と佐竹から領地加増を受けている)
城攻め中にそこそこで切り上げて帰るのは普通によくある話。
似てるところでは信玄が小田原侵攻した際に
別働隊の小山田信茂が北条軍を撃退し
そのまま滝山城を攻めて三の丸まで攻め込み
落城寸前にまで追い込んでから引き上げた城攻めが挙げられる。
- 71 :
- 後北条が勝ったとする指揮者の白井入道の戦術からして出典は講談話なので眉唾な話。
実城堀一重の追い込まれた状況で土塀を崩して上杉兵を下敷きにしてしたと言うけど
そんなことしたら残った上杉軍が雪崩れ込んできてヤバイはず。
しかもそれで撤退に追い込むほど大多数の死傷者が出るとも思えない。
和睦について義秋は後北条にも同様の話を「差下使申遣」してるから
後北条側は知らなかったと言う言い訳は通用しない。
もしこの和談を無視して撤退中の上杉軍を後北条が卑怯な追撃をしてたのなら死者は出たかも知れないが
越後に戻った謙信は義秋の上意に従って氏康と和睦したい。
そしてとにかく武田を退治したいと祈願している。
同時に厩橋の北条・佐野・倉内が裏切る懸念も謙信は持っていたような祈願である。
佐竹義昭が死んで義重が継いだが、義重は失地回復のために
南奥に眼がいっていて関宿方面にあまり関心がないようで
どうやら利根川以東の旧古河公方勢力圏の諸将と
利根川以西の関東管領圏の累代の対立利害構造が露呈してきたようである。
また公方を擁立して副将軍と自称している里見氏も越相同盟に反対の立場である。
- 72 :
- 永禄8年5月義輝敗死
7月28日覚慶は幽閉先から救い出され伊賀経由で甲賀郡の和田城へ脱出
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した。
三管領家の河内国畠山高政(実弟の秋高が義秋の元に派遣)
関東管領の上杉輝虎
能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)
らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。
8月には妹の婿である武田義統を頼り若狭国へ(実弟の武田信景が義秋付きに)
9月には若狭から越前国の朝倉義景へ
永禄9年3月臼井城攻め(謙信は上洛して室町幕府再興したい)
永禄11年7月に美濃国の信長へ接近を図る。
永禄11年9月織田信長に警護されて上洛を開始した。
- 73 :
- ちょうど覚慶が義秋と名乗って還俗したのと
臼井城攻めのタイミングが重なるんだな。
謙信は自ら室町幕府を再興させて義秋を将軍職につけさせてやりたかったんだろうな。
のちに謙信は厩橋城の北条(キタジョウ)背信への怒りを佐竹に伝えてるもんな。
由良氏離反に関しては弟の足利長尾氏による
臼井城攻め失敗を罰せられるのを恐れたのか…由良足利に対する厩橋北条の謙信への執り成しに讒言でも含まれてたかもな。
厩橋北条謀反で情勢が大きく変化したから
矢島御所様義秋の命に背き後北条も相越和談を破談させるし。
これにより秋に武田討伐やってる場合じゃなくなったもんな。
んでいろいろと非協力的だった義重もなんだかんだで結局のちのち最後には越山要請するようになるんだよな…
- 74 :
- この間のNHKを見て考えた。
謙信は、極力、味方の損害を少なくする事に心を尽くしている。
臼井城攻めの一件ですが、城の様子を見た謙信が、力攻め無理を悟り、
部下に包囲だけを命じて、関東の別の戦場に行った。
しかし、謙信の指示を聞かずに功をあせった部下が力攻めして
大損害が出た。
越後衆は謙信についていっているので、被害は関東諸国の反小田原勢かと。
- 75 :
- >>74
謙信が臼井城に来てたってのは完全に北条の軍記の記述だよ。
相変わらずNHKは軍記を史実のように語ってるんだねぇ。
- 76 :
- 今日のサブちゃん↑
- 77 :
- >>74
NHKの放送内容は違ったね。謙信が臼井城を落とせないことにいらだった様子で、
「ええい!総攻めじゃあ!!」とか言って攻めたが落とせず、死者数千の大敗北。
画面右上にずっと「謙信の大敗北」というのが表示されていた。
そして謙信は関東遠征を控えるようになったとか。
- 78 :
- 厩橋城主の北条高広は佐竹義昭から輝虎の越山への努力を賞して、
輝虎と討った旧小田領の常陸国沼崎郷や前野郷を佐竹から宛行われた。
また高広は永禄12年の時点で、
後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
このことから北条は上杉の利益の代弁者ではなく、
佐竹や後北条の利害を代弁するスパイのような存在になってた。
上杉が敗北していたなら下記のような祈願はしていないだろう。
義秋の上意に従って氏康と和睦したい
←恥に対して潔癖なので和睦ではなく雪辱したいと願うだろう。
今秋に武田を退治したいと祈願している
←大敗してたら戦力的にそれどころじゃない。
同時に厩橋の北条・佐野・倉内が裏切る懸念も謙信は持っていたような祈願
←北条や佐野に対してもっと断定的になるだろうし由良に関しても言及するはず。
- 79 :
- なんだよNHKの放送で解説してたのは
ネタの宝庫の小和田哲男センセーだったのかw
まぁ年配の講談軍記好きの視聴者へのサービスには
良い人選だったかもな。
- 80 :
- 1571年10月21日北条氏康死没。
北条高広を介して相越同盟を破棄し
12月27日北条・武田は再同盟
元亀二年(1571)12月5日付
信玄→高広あて書状で、
信玄は「先日承った事が真実ならば大満足です。
今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。
(この同盟は)私の望みなので同意するよ」
- 81 :
- 臼井戦は、謙信も北条も関係ないもんな。
北条記はなぜか自軍の勝利にしてる。
- 82 :
- NHKの放送では臼井城は北条方の重要拠点。謙信は総攻めするも大敗北し、
それを機に関東遠征をやめ、北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか。
家臣の不満解消が狙いというような主旨だったな
- 83 :
- N●Kは糞だよ
山本五十六も三国同盟反対でマスコミから売国奴呼ばわりされたけど
民衆はみんな山本長官を慕った
今はキリストの受難のような時代
まともな人が汚名を着せられる
- 84 :
- >82
北陸侵攻は織田討伐の為だよね
この頃に家臣達が謙信に対して領土を欲しがるかね?
謙信は幕府朝廷への忠節はぶれてないしさ
捏造大好きN●K
- 85 :
- >>82
>>それを機に関東遠征をやめ
それは完全な大ウソだね。
永禄11年からの信玄による本庄謀反や駿河侵攻による三国同盟破棄までは
救援依頼に応じて関東出兵してる。
>>80
高広は永禄9年12/5に信玄から他にない入魂の関係を求められている
そっちの年代とするかこっちにするか論議が分かれてるのかな?
総社長尾顕景から下平右近允が4/20付けで
「今度臼井之地、被為攻候時分、最前ニ責入之由、無比類候、負傷之段、粉骨無是非候」
として感状が与えられている(歴代古案四)
長尾顕景・・・これ惣社じゃなくて当時10歳の景勝で、他に広居又五郎にも同様の感状を出してるよ。
上田衆の一部が援軍として派遣されたみたいだね。
総大将が由良の弟の足利長尾顕長11歳だから、序列で考えて景勝本人は来てないだろうね。
関東諸将と上田衆重鎮による作戦指導じゃないかな?
そこで別働隊として下総小金城を攻めてから船橋郷へ転進した
北条高広の軍と由良&上田衆との間でトラブルが起きたのが高広や由良の離反原因だと思うよ。
当時まだ景勝の父が謙信に暗された疑惑もあって上田衆もいろいろと府内長尾や古志長尾家との対立。
謙信と分離して行軍してるとなると白井長尾や総社長尾や足利長尾らの長尾一族の不和を
調停できるやつはいないと思うわ。
単純に仲間割れで私闘を始めたと思うわw
- 86 :
- >>85
>>それは完全な大ウソだね。
関東遠征が減っていったというニュアンスだったかもしれん
一応、以下に書いてあるのが放送内容のあらすじとしてあってると思う
http://bontenr.blog129.fc2.com/blog-entry-100.html
- 87 :
- 上田が府内や古志と不和を引きずっていたなど史料的証拠はない。
遠征地で軍隊が分裂するなんて兵站の問題から考えてもありえないね。
輝虎の指揮で別行動をとったと見るべきだろう。
- 88 :
- 臼井城攻めって1566年3月だよね
以下、上記以降の関東遠征を記すと、
♯1566年11月〜1567年4月
♯1567年10月〜1567年11月
♯1569年11月〜1570年4月
♯1570年10月〜1570年12月
♯1571年12月〜1572年3月
♯1574年2月〜1574年4月
♯1574年10月〜1574年12月
こんだけ関東に出兵してるのに
- 89 :
- 謙信死後に反上田長尾の古志長尾や北条高広が擁立した景虎と
上田長尾の対立が
ついに表面化したのが御館の乱でしょ。
謙信は両者の対立緩和に苦労してた。
謙信政権は政権に越後の国人達を参加させる努力を続けてた政権だから
国人領主は我が儘なやつが多かったでしょ。
- 90 :
- >89
確かに御館の乱の理由はその通りだ
- 91 :
- >>85
10歳の景勝がいないなら
後々になって上田衆の一部が援軍で派遣されて
11歳の足利顕長指揮下に組み込まれただけじゃないかな。
基本的に関東衆による臼井城攻め。
そして佐野にいる謙信が義秋による北条との和睦を受け入れて撤退指令が届いたと。
>>81
確かにね。
>>89
謙信死後に景勝が上杉を継承した場合を考慮して
上田長尾に危機感を抱く古志長尾を統制するために
謙信はたしか河田に古志長尾を相続させようとしたんだっけ?
- 92 :
- 御館の乱で古志が主体的に動いたか?
はじまってすぐに討ち死にしてる。
上田と古志の派閥対立が根底だったらここで乱終了なはずでは?
古志長尾は米沢藩でも存続してる。
なんで根絶やしにされてない?
おかしいよ。
- 93 :
- >>88
まあでも下野から完全撤退し、上野も危うい状況になったのは
間違いないし、関東で勢力を減らすきっかけになったのは否めない
- 94 :
- 謙信はさんざん軍記物講談の類で持ち上げられてたのに
都合が悪いと軍記物で信憑性がないと逃げるケン茶^w
手取川で信長に勝った〜!ってはしゃいで臼井城では謙信は関係ないもん!ってかw
便利な脳みそもってるな〜
- 95 :
- >>94
戦国板で軍記モノを使って謙信を持ち上げてる記述なんてみたことがないぞ?
>>82
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
景勝の出陣については上杉研究してる人たちの意見では
永禄13年(元亀元年)の佐野城を攻略した際の
佐野飯盛山での戦功の感状として謙信と景勝の両者が
(臼井城でも景勝から感状を貰ってる)下平右近允や広居忠家や小山弥兵衛に与えてる。
この時、下平右近允(弥七郎)は長尾時宗からも感状をもらっており、
北条厨が必死に唱えてきた下平右近允が架空人物で偽書状の可能性はまったくない。
(弘治2年の信濃上野原合戦でも長尾政景から感状を貰っている)
この点から14歳で景勝が初陣したと思われてる。
長尾時宗は永禄7年4月3日佐野攻めの感状でも下平弥七郎を賞しているそうだから
景勝の代役的に出陣してたとするなら臼井攻めはあるいは時宗が援軍として派遣されたのかも試練。
ただ景勝と時宗が上田長尾の後継者の地位を巡って争っていた可能性もある。
佐野の戦いにおいて謙信と景勝から下平右近允らは感状を貰っているが
臼井城では謙信からの感状がない点からも臼井城に謙信が出張ってない証拠と言える。
北条厨はもう落ちた前スレではさらに時宗は存在しない架空とまで言いきって
上杉側の書状が偽文書は怪しいと執拗に言っていたがそこまで言うならむしろ北条の書状の方が怪しい。
- 96 :
- >>95
そういう長文書く場合、結論と論拠を別に書いて欲しい
長文は正直、読みたくない(大概、読まないw)
- 97 :
- なら読まなきゃいいだけじゃん
わざわざ書くことか。
- 98 :
- >85
そういった越中などの領国経営などを記した本とかはありますか?
読む機会があれば読んでみたい
- 99 :
- >>95
よくいった。
全部賛同する訳じゃないがだいたいあってる。
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