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2012年3月戦国時代39: 【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14 (855) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14


1 :
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな

2 :

('仄')パイパイ

3 :
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。

4 :
1スレ丸ごと百姓来なかったから、死んだな。
おかしいヤツを亡くしたもんだw

5 :
信長秀吉に比べると地味な人だね

6 :
地味…?

7 :
趣味嗜好は地味だね
秀吉みたいに、黄金の茶室とか作ったりしないし

8 :
でも着物か鎧は金色があるんだよな家康

9 :
天下人なんだから、一丁蘭くらいあるだろw
周りが遊んでる頃に、コツコツ勉強して国立医大行って
医師から総理になったみたいな人生だから派手では無いよな。

10 :
しかし竹千代は駿河遠江随一の知識人である太原雪斎から学問の手解きを受けたし、また今川家筆頭大老関口親永の娘をめとったから、カッコつき人質であり、辛酸を舐めたわけでもない

11 :
人質をひどい待遇で扱って恨まれるよりは、
自国シンパにして返したほうがメリットあるものな

12 :
毛利隆元も超大内派だもんな

13 :
太原雪斎の教育を受けたのはものすごく大きかったと思う
信長公や秀吉が中卒高卒のsラ経営者なのに大して家康公は
一流大学を出た高学歴のエリート経営者のおもむきがある

14 :
>>7
金鯱や銅瓦の天守に比べれば黄金の茶室なんて霞む

15 :
雪斎の教育を受けた、のも根拠ないんですけどね

16 :
信長:中卒叩き上げ
秀吉:チャラ大卒(早稲田?)の一発屋
家康公:マイナー国立大の苦学生から地道な出世 だろ?

17 :
信長=小泉純一郎
秀吉=田中角榮
家康=小沢一郎
こんな感じ

18 :
雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
義元が、知識人の代表である僧侶を参謀として活用するのを見て、天海や崇伝を用いたと・・

19 :
桶狭間の後に岡崎に逃げ込むけど、今川人質に
なったのはまだガキンチョの頃でしょう。物心ついたのは人質
時代だったとすると岡崎城の記憶なんてほとんどなかったんじゃないか。
とすると岡崎に脱出したのは親がいたこともあったし周りの老臣みたいなのが
「帰りたい」というのが強かったのかな。
それとも人質時代がやっぱり自分自身不自由で辛かったか。
確か奥さんや子供を残したままだよね。
結局取り返してるしこの頃はまだ不仲?でもなかったとすると
よほどの緊急避難的な岡崎脱出の理由というのが家康自身に
どこまであったかはちと考えるところかな。

20 :
>信長=小泉純一郎 (郵政問題にして長期政権)
>秀吉=田中角榮 (えげつない事やって失脚)
どう考えても逆だろ?
>雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
教育なんてのは、月に1度でもやって来て
ポイントを説教するだけでも、充分な効果があると思うのだが?

21 :
人に教わったからって出来るものじゃないよ
特に己の実力のみが頼りの乱世で生き延びるのは
秀吉は完全に無教養だったが誰も勝てなかったし
家康より教養のある人物だって山ほどいたが、やはり誰も勝てなかった

22 :
秀吉の政権が長続きしなかったのは無教養故にと言えるけどね

23 :
教養の意味にもよるわなぁ。
秀吉家康に共通するのは処世術や反面教師という意味での
学習能力でこれは今で言う「学校で習ったサインコサインなんか社会では
なんの役にも立たない」というのにも共通してくる。
東大出た偉い学者さんほど「秀吉や家康の人間的魅力」みたいなのを
軽視する傾向はちと感じるけどね。
そんなので天下を統一できれば苦労はしないみたいに。
このあたりは逆じゃないかと思うけどまあどうでもいい話。
ところで秀吉政権が長続きしなかったのは家康がいたからで
3代目にしっかりしたのが出れば足利や徳川みたいにそれなりに続いた
かもしれないけどね。あまり秀吉自体に短命の原因を持っていくのも
どうなんだろうなぁ。

24 :
>>23
豊臣政権は秀吉個人に権力を集中させ過ぎている
それが故に朝霜の如く、消えて言った
ちなみに、同程度の時間を経た初期江戸幕府は年寄に
よる合議制が機能している

25 :
1度集中させた秀次を、自らぶち壊しただけジャンw
んで淀も我が子可愛さか、浅井の復讐か
豊臣家を潰したwww

26 :
初代が死んだときに成人した後継者がいなかった、それだけだな違いは
まあ秀吉は自分で潰したんだが

27 :
>>25
結果的に豊臣潰したの、あそこに集まってたら浪人連中じゃね?

28 :
秀頼の成長が2倍の速さだったとしたって
猿がぶち壊したのは変わらないし
負けた後に3万石に減俸&最上の隣にでも転報しなきゃ
やっぱり潰されてたでしょ。

29 :
>>24
まぁそうだけどそれは無教養とかとは少し違う問題かなとか。
大雑把だが急激な中央集権組織の完成には権力の集中は仕方ないだろうし
ましてや初代、それは秀吉が悪いとか無能力とかそういうようには
言えないのじゃないかということでね。
家康は秀吉システムの良いところを受け継ぎ発展したわけで
こういうとこにも家康の学習能力は現れてる。
家康システムを優秀というのならそれは秀吉が作った
超短期集中型システムの発展系としての意味が強いだろうし
秀吉は無教養で家康は教養があったとかとは無関係だろうし
両者の対比を1代で終わったと長く続いたで語るのはそれはまた
別で複雑な話にはなるとは思う。
徳川スレで秀吉かばうのもアレなんだけどね。

30 :
>>28
最上の隣ってのはいい場所だな
狐さんは相当恨みが有るだろうから
監視役に最適

31 :
>>29
どうだろう、若い頃から政治やっているとそうでないとでは随分違うとおもう
後、秀吉が明を軽く見たのは漢籍に触れていないのも理由の一つかと

32 :
>>31
教養という意味の中に政治史みたいなのがあったかどうか
だよね。
たぶん論語とか孔子とかそういうのがお勉強だったとは
思うけどそういうのがどう将来に役立ったか。
秀吉が明を軽視したかどうかはまた検討の必要があるだろうけど
関白就任後は室町とかの故実にもかなり触れているし
大陸の進んだ文化とかそういうのはある程度公家経由で理解はしてたんじゃないかな。
出兵の理由もこれまた複雑だろうけど、軽視した、のもあるだろうし
それがまた全てでもないだろしね。
明がかなり弱りかけてたなんてのはどこまで把握してたか。
実際タラレバだがもう少し時代がズレてれば明が秀吉に救援要請
なんてしてきたかもしれないし徳川への要請とは50年も違ってないぐらいか。
だから言うほど秀吉出兵は無謀で暴挙とは断定できないだろうし
明の最弱期に重なってたら日本が大陸の歴史に関与してたかもしれない。
あくまでタラレバだが信長の時と重なってたら案外すごいことになってたんじゃないか。

33 :
>>32
論語や孔子を知っていると知っていないでは全然違うかと
中国の大きさを認識していれば、唐入など妄想としか思えないのだが

34 :
まぁ家康からしてちゃんと学んだかどうかは明確になってないし
論語や孔子ってのはたとえで「道理」「理屈」のこども向けの
お勉強という意味程度だけどね。
中国の大きさや文化の先進度というのはそりゃ理解してたんじゃないか。
太閤とか金吾って読み方にも現れてるし。
だから無知で犯した暴挙じゃなくて知ってて攻めたのでしょやっぱり。
それをどう表現するかはする側の問題だろうしね。
ただわしらのお祖父さんたちも中国プラスアメリカに仕掛けたりしてるから
後での評価というのはなかなかこれまたむつかしいわなぁ。

35 :
>>34
個人的には両方共アホの極みと見ている

36 :
家康は関東に国替えになり、江戸城を大改修したときに巨大な書庫をつくり、
自分が持ってる膨大な蔵書を保管したらしい それを聞いた秀吉が嫉妬し、
負けてなるものかとあちこちの寺社にお金を寄進し、その代わりにと価値のある書物を
出させて家康のより大きな書庫を作ったと聞いたことがある

37 :
>>31
秀吉は側近の大村由己から儒学の講義受けてたよ
だから漢籍を知らないなんてのは有り得ない
まあ年取ってからの耳学問だけどね
雪斎本人の指導が有ったかどうかは疑わしいが、
寺で若年の頃から漢籍に親しんだ家康とは年季が違うとは言える

38 :
情操教育は大切と言う事で
秀吉の育ちの悪さは天下取るまではプラスに働いたが、それ以降はマイナスだな
今太閤や、戦後からバブルまでの間、君臨した経営陣が良い例

39 :
>>37
だからその若い頃から〜ってのも不確かなのよ
だいたい寺に通っていたら漢籍に親しむのなら、
信長だってその記録はある

40 :
信長はしているだろうな、真面目にやったかは疑問だけど

41 :
『三河物語』か『松平記』のどちらだったかは忘れたが、
桶狭間の頃の家康について家臣たちが
「殿は人質時代に坊主の指導を受けて中国の兵法書を学んだ」
なんて噂されたという記述がある
少年時代の家康が寺で漢籍を学んでいた、
という通説の出所が上記であり、
この件については疑う余地はあんまりない
逆に言えば初出の時点で雪斎の名前が出てないので、
雪斎が家康の指導をしたという俗説は事実じゃない可能性が高いとは言える
後の天下人を禅僧が導いた、ってのは夢のある話だが

42 :
当時の禅僧は、経典よりも兵法書を読み込んでるのもいた。
雪斎は両方読んでたんだろうが、本で読んだ兵法をいきなり実践して見せた点では、大村益二郎並みの天才だったろう。
家康も、初陣や第2戦目の桶狭間の前哨戦で活躍できたのは、座学を実践に移す力があったからだと思う。

43 :
家康が本を集めてたのは事実で死んでそれを
御三家に配って徳川園には文庫として今に残るからね。
半数以上が韓国中国のものだったか、さすが家康だわなぁ。
人質時代にやることないから勉強してたというのはありそだな。
野山を走り回ってた信長とはちと違うか。
ただ桶狭間の頃はまだ高校生ぐらいだから兵法を活用したとまで
持ち上げるのは厳しいかもね。

44 :
>>18
資料を分析したらほとんど駿府にいなかったようだと
本で見たことがある

45 :
>>19
一緒に駿府に行った年上の人間が岡崎岡崎と言ってたのが頭に染み込んだんじゃない

46 :
というか元来は自分の城だしな

47 :
>>45
だろねえ、だから「待望の自国自城に帰った」みたいに
言われるけど意外と「初めて来た、見た」じゃなかったのかなってね。

48 :
元服時の一時帰国……

49 :
そか、元服時に帰ってたのか。
ちなみにその後は駿府に戻ったの?

50 :
駿府に戻ったよ
あと、元康の康は祖父清康の康だし、その祖父が獲った岡崎や父祖伝来の安祥には行かずとも思い入れはあったと思うが

51 :
>>50
さんきゅ。老臣なんかは思い入れが強くていろいろ話したろうねぇ。
ただ帰れるかどうかもわからないからあんまり話すのも
かわいそうみたいなのもあったかなとか。

52 :
>>28 ヒット間違いなしだと思ったのに
何で学問の話になってるんだ、、、

53 :
市の直筆が発見されたと言うね。時期から見ると怪しいけど増田学長だから
信用はできるのかな。
誰かあれ読めませんかね。「さきやう」って誰だろう。

54 :
「さきょう」つーと左京大夫、となると細川(京兆)家だけど忠興は左京大夫にはなってないよな
でちょっとググってみたら浅野幸長が左京大夫だから、
時期にもよるけど幸長じゃね?

55 :
>>54
ググってみたが、幸長が左京大夫になるのは1589で、もう市は
亡くなってるんだよね。
徳姫が嫁ぐのは1567で、その前とすると市が嫁ぐ前ぐらいかな。
とすると尾張時代ということになる。
その頃の「さきやう」とすると・・・?

56 :
>>55
とりあえず家康の左京大夫就任は1568年だ

57 :
なるほど。その頃市と家康の接点かぁ。
ところで細川は右京だわなぁ。

58 :
右近左近は有名だけど
右京左京は誰なのか知らんかった

59 :
お市の実父とされる織田勘解由左衛門の弟・柘植左京亮のことでは?

60 :
織田家伝に載ってる説だよね、お市の父の話。
だとしたらこの書が証拠になるかもしれないね。
この柘植左京亮というのが、左京亮、になるのは秀吉の
時というからこれはどうなんだろう、織田家にいた頃はなんと呼ばれてたか。
柘植というのも後に名乗ったみたいだけど三重の出身で
海の方にいたというのを見かけたことがある。
さて。

61 :
>>41
自分で補足だが、『武辺咄聞書』に以下の記述が有った
>家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、
>兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。
>生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。
若干信憑性に欠ける資料だが、これが雪斎師匠説の初出らしい
後は臨済寺に「家康公手習いの間」の遺構が残ってるくらいか

62 :
>>61
ほ〜、勉強になるなぁ。
ところで清洲同盟時上洛までで1561〜68として
この間家康が尾張に行った記録はどのくらいあるんだろう。
信長の方からはあまり記録がないのかな。

63 :
>>60
柘植左京亮が天正十三年に任官する前から「左京」
を自称していたかどうかがポイントだと思う。
「関白任官記」の柘植左京亮、津田大炊頭
「歴名土代」の平重長、平吉広
が対になると思うけど、通説と違って
柘植左京亮吉広、津田大炊頭重長の可能性も考えられ、
柘植左京亮も「大炊」を称した説もあるのでややこしいけど。

64 :
>>59
どこでされてるの?
市は信長の妹でしょ?
そういう説があるのは知ってるが、あくまでも異説でしかない。
そう言ってる学者の名を教えてくれ。

65 :
>>64
市は信長の妹扱いで政略結婚をしたのであって、
実の妹であろうがなかろうが学術的には重要ではないから
そんなことを研究している学者はいないと思うよ

66 :
市は信長の従姉妹という説もあるし、異母兄妹という説もある
でもどっちにしろ、妹として長政に嫁いだんだよね
ところでここ家康のスレなんだが、どうして市の話になってんの?

67 :
>>63
天正13年とはかなり空くでしょう。
それに任官した位をその前に名乗るかどうか
「左京」が一般名?というのもあるしね。
それと織田にいた頃のこの人物が市が連絡するほどの
人物だったかという点もある。
年齢的に20代というのもギリギリぐらいだろうけど。
>>66
ごめん、言い出しっぺ。
ネタがなかったし、家康にも少し関わるかなと思って。
それと異説を唱える人たちがお江人気で結構取り上げられたりしてるみたい
だからね。そういうのがこの書状で「間違い」というのが分かってくると
ちと面白そうで。
一つの史料からたくさんのことがわかる実例というのもこれまた
珍しそうだし。

68 :
おそらく当該文書は天正十年か天正十一年ではないかと。
例えば佐久間信辰も「左京」を自称していますよ。
佐久間信盛は右衛門尉を自称していたが、後に正式に任官しているみたい。

69 :
>>67
ああそういうことか
市と家康が何らかの交流があったとして
自分たちの子が夫婦になるって、その頃可能性の一つとして捉えられたりしたのかな

70 :
>>68
教えてもらったんだが上杉家臣の、後藤左京亮、に比定されているとか。
となると、い、も、とく、も上杉関連の女性というわけで市の書とは
関係なくなってくるね。
発表の場が場だし、増田学長の「もし」が勝手に拡大解釈されているかも
しれない、いい迷惑ってか。
邪馬台国畿内説でさんざんモメたからなぁ。プレス発表は。

71 :
関ヶ原以後は武田や今川の旧臣も譜代ということになったがこのあたりは譜代って言えるのか?
準譜代と考えたほうがいいような気がする。

72 :
武田旧臣などは外様と30年程度しか差がないもんな
それでも譜代は譜代だ

73 :
厳格にすると三河武士だけが譜代になるが、それじゃまずいんだろう。井伊、水野(親戚だけど服属は遅い)あたりが譜代からはずれてしまう。
あくまで外様大名と区別する基準だからね。

74 :
話は別だが、
小室哲哉が今不幸だ
奥さんが脳出血でマヒだし
派手な生活をしてきたのが、今になって裏目となってきている
暴言吐きまくり自らは高給を取り、低収入者を嘲笑っていたレストランけんの社長も
消えた
人生というのは水戸黄門の歌のように、
山あり谷ありだよな
家康のように、理不尽な苦労に耐えて、
最終的に勝者になっても奢れることなく
清貧な暮らしをしていたからこそ、
徳川250年があり、今の日本がある。
その日本自体が、馬鹿な政治家のせいで
崩壊しようとしている。
家康を一万円札に採用して、
もう一度、家康を再評価する時ではないだろうか。
ちなみに、福沢諭吉の子孫が今TBSの番組プロデューサーをしていて、態度がかなり傲慢だそうだ。俺は偉いんだみたいな。
人の上に人を作らずではなかったのか?

75 :
秀康母のお万の方っていつ徳川家に仕えたことになってる?
出産したのは浜松城のあたりだったろうが築山ってのは
浜松城には住んでないよね。
とすると築山の世話してたとされるのは岡崎時代ってことか?
そして家康の浜松移転時に連れてったということかな。

76 :
岡崎で侍女として手が付いて
瀬名に折檻されて忠勝に保護されながら
浜松行ったんじゃなかったっけ?

77 :
おまんさんはヤリマンで、自由にしてた床上手で、家康公もちょっと試しに
やってみたら妊娠しちゃったらしい でも外出ししてたのでほんとにおれの子かー?って
疑わしいので家臣にくれてやったらしい ちなみに土井利勝もその手の家康の庶子らしい
って小説に書いてた

78 :
高くて美味しい物を食べていたら長生きできると思っていたが、
質素な食事のほうが長生きできることをしったのは家康から

79 :
>>73
譜代・外様のくくりは時期によって変わると考えた方がいいだろうね。
桶狭間後の家康独立時に家臣だったものを譜代とすると、
奥平、牧野、戸田、菅沼といった東三河奥三河の国人も外様になる。

80 :
奥平は親藩だろw
貧乏過ぎる食事でよく長生きしたよな。
薄味の味噌汁に、麦飯と野菜が少なめだろう?
当時だったら美食のほうがはるかにバランス良いと思うのだが、、、

81 :
奥平家には家康公が長女をあげてるんだよな
のちに天皇家ともつながる戦国覇王徳川家康公が最初に娘を嫁がせたのが
なんの由緒もないど田舎の弱小武将とは意外なものよ

82 :
>>77
小説><
>>81
弱いときは手近なところにやっちゃうもんだね
規模はちょっと違うけど織田も息子の養子先が北畠とか神戸って
織田時代ですら特に重用されてもいない家に行っちゃったし

83 :
>73
基本的に家康(徳川家)研究は関ヶ原を境にしているようだから、
乱暴な言い方をすれば、それ以前が譜代、以後の臣従が外様になるって考えてる。
個人的には、清康が東三河攻めた時に臣従した近藤氏は松平の譜代と
呼んで良いのか?とか、気にはなるけど、研究されてないみたいだし。
流れ的には、清康臣従→次代の広忠が今川に臣従したので今川に臣従→
遠江侵攻時に家康の先導で、一応、表立って徳川への裏切りはしてないから
アリかなぁと思うんだけど。
一向一揆の時なんか一族入り乱れて敵味方だし、臣従しても裏切って
戻ってきたのがギリ関ヶ原前だったから譜代、なんてのもいるから、
関ヶ原以前の徳川家を調べてると、関ヶ原基準の譜代の括りに疑問はあるけど、
どの時点で区切るかってのは、何を基準にするかで変わるんだよな。
もうちっと初期徳川氏研究が進んだら、基準が出てくるかも知れないけど。

84 :
アンカーミスった。
>>83>>79だ、すまん>>73

85 :
真田信之も譜代だったような
>>76
それ重次
>>80
当時の美食だと塩分ヤバいんじゃない?

86 :
塩田で作るくらいだから
有害なほど取れないんじゃね?

87 :
>>76
折檻というのは信ぴょう性があまりないでしょうからね。
築山もずっと城外にいたしどの記録を重視するかということに
なってしまうのかな。

88 :
厳密に譜代、外様を判断した場合は
家康独立時に家臣だった者→譜代
それから関ヶ原の間までに徳川の家臣になった者→準譜代
以下、外様
という感じかなあ

89 :
折檻の件も築山殿と作左がいた所はその当時違うし変じゃない?
という説もあるけど、当時作左はずっと家康と同じ所にいるんだっけ
まあ折檻も、築山殿悪妻説でただの信憑性の薄いホラ話だと思うけど

90 :
「よし、殴りに行こう!」と思い立って、
岡崎から浜名湖西岸の中村屋敷まで
やってくる、アグレッシブな築山殿も嫌いじゃないわ。

91 :
>>90
そこまでアグレッシブなら、家康に直接物申すんじゃw
しかし別居みたいに見えるけど、嫡男は別の城を任せて
でもまだ若いから、養育も兼ねて母親である正室も一緒に置いておくってのは
ここだけ見ても、あまり悪いことじゃないよね?

92 :
母と子って一緒に住んでたっけ?
ともかくも、小姑と不満タラタラ嫁がいて父が仕事で多忙では
子供はやってられん。
切腹事件は親子不仲説が現代ドラマみたいであれだけど
家臣掌握とか信長に対する遠慮とかが入り交じって
行き着くとこまで行っちゃったってやつかなぁ。
この頃は親子でこういう話はよくあったのかもしれないし
その後おかしな引っ張り方をしなかったのはさすがとは思うけど
家康の最後の一族存続にかける執念はなんか尋常じゃないもんがあるしなぁ。

93 :
築山殿の場合、城内には住んでないけど、家臣たちが挨拶に行く程度には
公人として意識されている立場なので、そこをどう捉えるかで
判断が別れるところだと思う。
伊奈忠次の姉が築山殿の侍女なんだけど、築山殿の訃報を知って
殉死してるから、悪女というほど性悪でもないと思うんだけどね。

94 :
城の裏にある築山って話だけど、
岡崎城って結構平地だよな?
どこの城?

95 :
明治の初めころの小説家によると、
築山御前がお万の方を全裸にして、木にくくりつけた上で馬の鞭で叩いたらしい
そこを見回り中の本多作左衛門が発見し、自宅にかくまったということだ
ちなみに、お万の方の女性器は大変美しく、それがもとで女性器の俗語が
生まれたらしい…とウィキペディアに書いてあった

96 :
私が読んだ本(郷土史系)だと、今の岡崎城の二の丸外周辺りにあった尼寺とか。
そこの庭だか離れだかを改修して、住んでたと書いてあったな。
そん時盛り土したから、「築山」だと思ってた。
あ、でも何処に住んでたかはハッキリした史料は無いんだっけ?
惑わせてごめん。
岡崎城自体は、竜頭山ていう山の峰を切って造られたと地元の方から聞いたから、
戦国期はもう少し平山城に近かったのかもね。
(平山城と平城って厳密な区分はないらしいんだけど)

97 :
ウィキペディアは昔、大樹寺に信康の墓があると書いてあったので信用ならんw

98 :
>>92
べったりして滅亡した豊臣に通じるところが

99 :
若い時に遊び楽しみ、40歳以降は平凡な人生を送るような普通の一般人に多い生き方を選ぶか、
逆に若い時は苦労をして人生の辛苦を学び、40歳以降は大器晩成として大輪の花を咲かせたかのような生き方を選ぶか。
人生楽あれば苦あり。
家康の場合は、好き好んで苦労したわけじゃないよな、苦労せざる得ない環境だった。
でも、最終的な勝者は家康になった。
神様がいるのか、誰を勝者にすれはよいのかを神様が選んだとしか思えない程、
家康の晩年の人生の上昇は異常。

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