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2012年3月歴史ゲーム131: 信長の野望で過大過小されている武将96人目 (911)
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信長の野望で過大過小されている武将96人目
- 1 :
- 関連サイト
全国版から天道までの武将の能力値を羅網したサイト
火間虫入道 -信長の野望 蒐集者の庭-
http://hima.que.ne.jp/index.shtml
DS2の武将能力はここで
信長の野望DS2Wiki
http://www26.atwiki.jp/nobuyabods2/
Wikipedia戦国武将
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86
一応あることにはあるまとめサイト
http://www26.atwiki.jp/sengokujidai
信長の野望天道攻略wiki
天道武将データ一覧
http://www17.atpages.jp/nobuyabo/data.html
武将の統計データ
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%C5%FD%B7%D7
武将データの変化
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%CA%D1%B2%BD
信長の野望で過大過小されている武将95人目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1325111901/
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/l50
一部の荒らしが皆さんの顰蹙を買っているのでsage進行でお願いします。
- 2 :
- 信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「せるものならしてみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
- 3 :
- 信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
- 4 :
- 神流川では上野衆が奮戦して氏邦を退けたにもかかわらず
実戦経験がかなり乏しい北条氏直に完膚なきまでにやられた滝川
加賀平定に四年も費やし手取川でボロクソに負け内乱で相当疲弊し
新発田の乱が起き蘆名も介入してる状態の上杉も滅ぼせない柴田
信玄にボロクソに負ける家康に大軍で挑んで緒戦で負け長久手でボロ負けし
本多忠勝500に足止め喰らいその後の攻防も終始苦戦する秀吉
家康にあっけなく討ち取られる森、池田
国内が疲弊してる上に勢力的にさほど大きくなく多方面に敵がいる上杉に
魚津を取り返され越中に釘付けにされる佐々
信濃から追いされる森 甲斐の一揆でされる川尻
わずか3万石程度の赤井に敗戦した光秀
こんな雑魚が織田家トップクラス(笑)
- 5 :
- 藤堂福島加藤大谷蒲生あたりの豊臣系糞武将の評価が過大
全能力−20くらいが妥当
時勢を読めず徳川に味方したのに改易された馬鹿や権力者にすがりついただけの馬鹿
- 6 :
- 公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
- 7 :
- 政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
これまでの考察で分かった事
氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
- 8 :
- 徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
北条氏康は過小
信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。
信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
氏康>>>>>>>信長
- 9 :
- 長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから
勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃
御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する
新府城もあの状況でやるのは…としか。
能力どうこうを超えて基地外すぎるな。武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ信玄なら撤退を装い、追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるのでまだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、軍政、軍制改革を開始したつもりか織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。さらに手取川の戦いの年には、信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、 運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる
- 10 :
- 信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
- 11 :
- 当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
- 12 :
- 経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
- 13 :
- 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
- 14 :
- 1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長にされる。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐される。
- 15 :
- 1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
- 16 :
- 伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいはされ、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門をされ、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼きした。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
- 17 :
- どうでもいいけどスレ番被ってんぞ!
何そんなに熱くなってんだ?
- 18 :
- ※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休をし人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
- 19 :
- 公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
- 20 :
- 武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も2500〜3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
- 21 :
- 信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
- 22 :
- 信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
- 23 :
- 島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
- 24 :
- ここ廃棄でいいの?
荒らしが立てたスレだけど
今日だけで上杉軍団も平均50切ったんだけど
ガイキチがパネェ…
- 25 :
- 政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
- 26 :
- 織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!
って、まるで漫画だな。 。 。
アホすぎる。
さすが戦国最強織田軍
- 27 :
- 信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
- 28 :
- 他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑
- 29 :
- 幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
- 30 :
- ランチェスター論争でわかった事
秀吉は光秀より6.25倍戦下手
信忠は仁科より2500〜3600以上戦下手
光秀>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
仁科>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信忠
- 31 :
- 島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
大友はその島津に篭城戦で何回も撃破し、地理的不利や馬鹿な息子でなければ勝っていた
大友>>>>島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
- 32 :
- 戦力は数の2乗に比例する
よって圧倒的大軍で寡兵の敵に負けまくり苦戦しまくり大損害だした雑魚長や雑魚秀吉は
常人の基を逸した戦下手
戦国で一番無能
- 33 :
- 藤堂福島加藤大谷蒲生あたりの豊臣系糞武将の評価が過大
全能力−20くらいが妥当
時勢を読めず徳川に味方したのに改易された馬鹿や権力者にすがりついただけの馬鹿
雑魚豊臣武将以外が朝鮮出兵の采配振るってたら半島を瞬してたのは間違いない
朝鮮人も明も運が良かったな
- 34 :
- 信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
- 35 :
- 頭の良さ
S 弁護士 医師 その他エリート
A 一般人
B 下層階級の人
C 武田勝頼
D 馬
E メダカ
(ワープ)
Z 織田廚
- 36 :
- もうこのスレ使いたくないんだけど
- 37 :
- 荒らし目的のスレ立てってことでスレの削除依頼通ると思う
- 38 :
- subは基地外
- 39 :
- 荒らし隔離スレ活用でOK
- 40 :
- >S 弁護士 医師 その他エリート
なにこの勉強できない小学生みたいなコンプレックス
- 41 :
- 無職だからこそのコンプじゃね
- 42 :
- 信長憎しだけで一日中張り付いてるね
他人を憎しみ続けると精神に異常をきたしてくるということか
気をつけよう
- 43 :
- 信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
- 44 :
- 信長は山県、馬場、家康より弱い。
信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。
謙信は信玄より強い。
謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
- 45 :
- 幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
- 46 :
- 信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
- 47 :
- 島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
- 48 :
- 雑魚織田武将以外が朝鮮出兵の采配振るってたら半島を瞬してたのは間違いない
朝鮮人も明も運が良かったな
- 49 :
- 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
- 50 :
- 政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
- 51 :
- 島津や本願寺は圧倒的大軍を鉄砲戦術をうまく使って壊滅させたチート勢力
織田よりも遥に上
- 52 :
- 徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
- 53 :
- 武田信玄はその家康を2.5倍の兵力比とはいえ
壊滅的被害を与えて滅亡寸前に追い込んだから統率や知略は150くらいが妥当
- 54 :
- 藤堂福島加藤大谷蒲生あたりの豊臣系糞武将の評価が過大
全能力−20くらいが妥当
時勢を読めず徳川に味方したのに改易された馬鹿や権力者にすがりついただけの馬鹿
- 55 :
- 毛利、上杉、武田は金山、銀山あったから家を支えれた。特に武田、上杉は油田抱えたアラブ王族みたいなもん。
鉱脈なければ筒井家レベル。
ボーナスなしで頑張った織田は評価したい
- 56 :
- 濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
- 57 :
- 斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
- 58 :
- それは反動する力が多分に残されていたからであり、その原因はまず永正の乱〜天文の乱に求められる
竹俣、色部、本庄宗家らが、上杉房能を討った長尾為景に対し、叛旗を翻した
為景は中条らと力を合わせ、彼らの拠る竹俣城、平林城、本庄城を瞬く間に落としていったが
討ち果たすまでには到らなかった
この際、一度降伏した筈の竹俣&本庄宗家は関東管領・上杉顕定の大軍を越後へ呼び、再び反抗する
当初は上田長尾まで関東管領に味方したので、為景も越後から逃げ出すしかなかった
関東管領の旗色が悪くなると、上田長尾は為景方へと乗り換えたので、上杉顕定を討ち果たす事には成功した
が、依然として揚北衆&上田長尾らは健在で、後に上条の乱において為景を打倒してしまう
その上条の乱でも、上条定憲が繰り返し兵を挙げ、その度に為景は勝利するも、上条をさず(せず?)、
結局上条はすぐに復活してしまう
そして定憲は三度目ともなる「打倒為景」の檄を越後全土に飛ばした
為景は堪らず、北条毛利&安田毛利に辞を低くして破格の条件を提示し、なんとか味方に引き込む
しかし揚北衆連合や上田長尾はじめ、大多数の越後豪族は上条方へつき、
次第に追い詰められた為景は敗北>隠居>死去
府中長尾家に恨み骨髄の豪族達は勢力を盛り返し、その為景の葬儀は武装で行われた
上条はじめ上杉一門と上杉の元被官達、それに味方した有力な越後豪族達
彼等は府中長尾家に対しては、勝利者という意識を残したまま、屹立した存在を維持し続けた
叩き潰されてもおらず、勢力も温存されたので、府中長尾に従う意識も当然、希薄
晴景時代には春日山への出仕を拒み、景虎時代には第三次川中島の時点でさえ派兵に応えない
そんな連中を政権内に取り込む課題は、かなりの難題だった
>ヒント・苦労のベクトル。
こんな状態なので、政権を確立させ、浸透するまでも長き道のり
しかも景虎が家督を継ぐにあたって、上杉定実は長尾に大きな借りを作っており
上条の乱で長尾を破った上杉からの影響がさらに増し、二重支配の状態からスタートしなければならなかった
つまり長尾と敵対し、勝利した豪族達だけでなく、上杉一門からも干渉を受けた景虎政治の実態は、
晴信以上に外部から強い干渉を受けている
第三次川中島の時点では、色部&本庄宗家に軍役を負わせられる立場でも無い
- 59 :
- 将軍義晴から白傘袋や毛氈鞍覆を必死に貰い守護代の地位で立場を必死につなぎとめていたが
享禄・天文の乱で義晴が京から追放されるや上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し父が隠匿に追い込まれ翌年死去。
幼年の謙信は謀反を恐れて甲冑姿で警戒中の葬儀をでた後は出家させられる。
操り人形として兄が守護に擁立される始末。兄より20歳以上離れた謙信への守護代変更も守護がより操り易いと考えての事。
さらに三国同盟で背後を固めた北条や武田の猛攻。
謙信は家督を継ぐまでにも、何度も追い詰められ、その命を危険に晒してきた。
叛乱が相次ぎ兄の命により周囲が敵だらけの栃尾の小城を本拠にして、
景虎を若輩と侮って襲いくる近隣の豪族達これを撃退する存在でしかなかった。
家督を継いだ後も、為景の残した借財を背負わされ上条の乱で敗北した府中長尾という家柄にも苦しまされた、という話がまず有る。
(為景は年間300貫の赤字を出していたつまり府中長尾家が没落する一要因を生み出している)
支配者から引き摺り下ろされた父親が亡くなった際、その葬儀を行うにも、
どの勢力が、いつ襲撃してくるかも分からない状況。七つの子供さえ甲冑を身に付けて参列するほど異常な有様だった
つまり族滅の可能性が有ったくらい、出身の家柄は没落しきっていた本拠地でクーデターが起こり、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図
そのクーデターを起こした黒田秀忠は父親の元寵臣 。
一説によると謙信の兄二人が城内で惨され、若い謙信も命を狙われ、される所だった。
これだけの事件を起こした黒田の処分は、春日山への出仕停止、府内追放〜といった軽過ぎる処分で、
府中長尾は追討出来る実力を持ち合わせていなかった。若き日の信玄、氏康、義元、義景そして政宗の本拠地はこんな有様だったろうか。
謙信が春日山城主になった頃は、上条の乱で勝利した上杉派の力が強く幽閉の身から開放された
上杉定実、為景に叛いた上田長尾親子、大熊政秀&朝秀親子など彼ら大部分の戦国領主達は、独自に文書を発給出来ている。
謙信初期の政務は、長尾景虎が発給する認可だけではなく、別に上杉家の認可をも必要とされており、その貧弱な政治体制を受け継ぐしかなかった。
こういった二重支配を強いられた立場が、そのまま長尾景虎が最初に背負わされたスタートライン
それは信長、氏康、義元、義景とは比較にならないほど後方に位置している。
上杉定実の死〜栃尾本庄&直江&大熊ら三重臣からなる体制など、ここで謙信が隠棲した原因は上杉派vs長尾派が対立した
新体制の歪みでありきっかけは上野下平の領地争いで、謙信が裁定を下し一応は決着
しかし上野と関係が深い栃尾本庄が暗躍し、府中から派遣された僧を説得するなどして謙信の下した裁定を反故にしてしまった(これに大熊が激怒)
裁定権を否定された領主は存在価値が薄い。よって謙信は、以後は皆で相談して決めるように〜と当然の対応をして隠棲。
家臣の説得で戻った後は、重臣、奉行衆を次々に組み換え、新しい人材を組み込んでさらに新しい体制を構築している
守護代の府内長尾や栖吉長尾、三条長尾、上田長尾は実力がほとんど一緒。
そんな中、争う事無く越後をまとめあげるために二度目の上洛。相伴衆に任命され、裏書御免・塗輿御免の御内書を与えられる。
これは長尾権力では越後を治められなかった父同様に幕府権力にすがり上位権力者になろうとすることであり国人達を取り込む苦肉の策。
府内長尾の権力は脆弱で将軍義輝によりそれによって守護上杉氏の領地であった越後府中も支配下にする
こうやってあまり疲弊させることなく越後を統一していくって様はなかなか見事。
- 60 :
- 謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃 北条氏康は上野北部の沼田城に北条孫次郎を配置
関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手 残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い この強大化した北条と武田が協力し合って北上中
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた
大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、海運業の発展や青苧・越後布の奨励、
さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った
- 61 :
- 強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。
- 62 :
- 訂正
×上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し
○上条定憲が上田長尾や揚北衆や葦名を味方に引き込んで挙兵。父の為景が敗北し隠匿に追い込まれ翌年死去。
謙信は商売のために京へ行ったり戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして
通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟。謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね
- 63 :
- ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
- 64 :
- まとめろ
- 65 :
- この程度の長文も読めないようでは歴史は語る資格なし
- 66 :
- 雑魚織田武将以外が朝鮮出兵の采配振るってたら半島を瞬してたのは間違いない
朝鮮人も明も運が良かったな
信長は勝頼や義景、龍興みたいな馬鹿や子供が相手だから助かっただけ
- 67 :
- ただ語りたいだけのオナにやろ
- 68 :
- 天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
- 69 :
- 当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
- 70 :
- 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
- 71 :
- 政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
- 72 :
- 織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!
って、まるで漫画だな。 。 。
アホすぎる。
さすが戦国最強織田軍
- 73 :
- 信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
- 74 :
- 徳川家臣団でいえば、
本多>酒井、榊原、井伊>水野、依田信繁、大久保兄弟>松平康国、鳥居元忠、大須賀康高、石川数正
>菅沼、小笠原貞慶、岡部正綱 >石川家成、奥平、木曽義昌>諏訪頼忠
>平岩、柴田康忠、保科正直>>>>>>雑魚織田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬鹿織田廚
- 75 :
- 信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
- 76 :
- 長い文章と素人発言多いな〜w
きちんと資料残ってるのはあるから調べたらいいのに。
- 77 :
- 信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「せるものならしてみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
- 78 :
- 信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
- 79 :
- 基地外subはホモ
- 80 :
- 可哀想に、上杉謙信も今日でALL1だな。
ID:LBRK+bysのせいで武田、上杉仲良く最弱国家化か。
- 81 :
- >>80
武田は空洞国家化した
開始直後寿命で全滅だwwww
- 82 :
- なにこれキモい
- 83 :
- 一番の過大評価は朝廷と坊主だな停戦・同盟・朝敵・捕虜の剥奪
有無をいわせんもんなー
朝敵と同盟で一気にやる気失せる
- 84 :
- これまでの考察で分かった事
氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長
- 85 :
- ランチェスター論争でわかった事
秀吉は光秀より6.25倍戦下手
信忠は仁科より2500〜3600以上戦下手
光秀>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
仁科>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信忠
- 86 :
- 島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
- 87 :
- 信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
- 88 :
- 長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから
勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃
御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する
新府城もあの状況でやるのは…としか。
能力どうこうを超えて基地外すぎるな。
武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
- 89 :
- 長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ
信玄なら撤退を装い、
追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、
軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、
鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、
信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、
朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメ
になる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、
重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、
運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。
- 90 :
- 江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
事績からいえば三好の方が遥に上
北条や大友にも劣る事績しかないのが織田
- 91 :
- 信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川の大軍に瞬されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
- 92 :
- 経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
- 93 :
- 三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
- 94 :
- 気持ち悪い
ブログでやればいいのに
- 95 :
- 織田厨
- 96 :
- 織田厨
- 97 :
- 信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
- 98 :
- 幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
- 99 :
- 公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
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