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2012年3月噂話226: 三島由紀夫の噂&名言名句名文★3 (556) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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三島由紀夫の噂&名言名句名文★3


1 :
ひきつづきミシマワールドへ
前スレ
三島由紀夫の噂&名言名句★2
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1277956617/
兄弟スレ
【源泉の感情】平岡公威・三島由紀夫の詩♭♯♪
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/poetics/1284094739/
川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1284823130/

2 :
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

3 :
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。
すなはち、われわれはその橋を渡つて、未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、
未来と過去とはいつでも交換可能なものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

4 :
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

5 :
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、
いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。
又、生をあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それは
すでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、
幾何学上の定理の美しさを知るであらう。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

6 :
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。
三島由紀夫「竜灯祭」より

7 :
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。
三島由紀夫「竜灯祭」より

8 :
良スレ乙です

9 :
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

10 :
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

11 :
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

12 :
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる
鋏を入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体の
まはりの空間を、どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、
人間はたしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、
全く彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。
三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より

13 :
(中略)スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、
どんな思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。
酒や阿片とは反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、
「練習」といふ苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。
三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より

14 :
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、
プロ・ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)
三島由紀夫「競技初日の風景――ボクシングを見て」より

15 :
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルにとりつく前の
選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と逡巡がわかるはずだ。
韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドのコズロスキー選手は、
手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに長い時間をかけて、
何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。ひとたび眠ることが
できれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて可能だらう。精神集中の
究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、おそらく常の人間の能力を
超えるのだらう。
三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より

16 :
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。
彼はそのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。
美麗のその黄金の羽根のやうな軽さを。
三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より

17 :
体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、
ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きと
その自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい
自然にじやれつく最高の戯れだらう。(中略)
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、
青いプールを縦に切るあの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。(中略)
ガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。
三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より

18 :
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。彼女は長い長い練習の水路をとほつて、
ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、
ともするとロープにふれる。……(中略)
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる
彼女の孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の
重みもかかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。
三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より

19 :
今日のハイライトである百メートルの決勝がはじまる。(中略)選手たちがスタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく
「人間が走つてゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に
駆け抜けることができるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものはなかつた。
三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より

20 :
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。その大きなあきらかな
数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

21 :
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

22 :
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あの
ぬれた顔、ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは
確実なことで「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。
たとへそれが、一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

23 :
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

24 :
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの
粉がパッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、
空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……ともかく、われわれの体が、さびついた
蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、回転ドアのやうなものだ。そして、
極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、とどまるところを知らない。
もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、われわれは、
肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。(中略)
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

25 :
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬に
さはること、ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところの
もので、半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

26 :
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

27 :
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。
ボールはそのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。
三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より

28 :
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、
アップに結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな
手痛い、よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。(中略)
――日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。
三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より

29 :
良スレですね

30 :
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。
蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、
あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を
点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した
女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した
目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。
そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。
三島由紀夫「蝋燭の灯」より

31 :
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、
家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の
避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。
江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。
三島由紀夫「蝋燭の灯」より

32 :
素晴らしい

33 :
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。
(中略)
しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の
古典芸能の名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、
西洋の芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに
電光石火、最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の
問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。
三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より

34 :
名言だ

35 :
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より

36 :
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より

37 :
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より

38 :
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より

39 :
西郷さん。
明治の政治家で、今もなほ「さん」づけで呼ばれてゐる人は、貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、
同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。
あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもつとも代表的な日本人として見てゐます。(中略)
あなたの心の美しさが、夜明けの光りのやうに、私の中ではつきりしてくる時が来ました。時代といふよりも、
年齢のせゐかもしれません。とはいへそれは、日本人の中にひそむもつとも危険な要素と結びついた美しさです。
この美しさをみとめるとき、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでせう。
三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より

40 :
あなたは涙を知つてをり、力を知つてをり、力の空しさを知つてをり、理想の脆さを知つてゐました。それから、
責任とは何か、人の信にこたへるとは何か、といふことを知つてゐました。知つてゐて、行ひました。
この銅像の持つてゐる或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するやうな気がします。
……………………。
三島君。
おいどんはそんな偉物ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。あんたにもそれが
わかりかけてきたのではごわせんか?
三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より

41 :
素晴らしい

42 :
今度借りてきて読もう

43 :
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

44 :
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

45 :
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャ
だったからだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり
計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、
インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは
大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという
生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の
近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるか
という分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より

46 :
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、
ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。やっぱりそのときには剣が
ものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、言葉で考えてる
人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは
必ずしも信じない。
…客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的
条件というのはないんだ、それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを
熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかがかもしだされてくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より

47 :
現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、
なにから、やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。
うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、
とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに
自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
ヒューマニズムなんて言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より

48 :
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を
料理するものだという考えが抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か
作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは抜けないね。
ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうが
かえって強く持っている考えであるかもしれない。
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に
対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、
日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より

49 :
ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、
人間にとって、それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
…いま日本はナショナリズムがどんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの
九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
身を守るということは卑しい思想だよ。絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう
原理を守らなくちゃならないでしょう。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

50 :
三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと
思うんです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな
存在にしちゃったからです。天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり
非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

51 :
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。
三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。
三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。
それは二十世紀文学の悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが
来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

52 :
僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。
無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。
そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。
それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、
お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、
最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、
結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

53 :
歌舞伎の世界というのは、名優は自分は死なないで、死の演技をする。それで芸術の最高潮に
達するわけですね。しかし武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられたかというと、あれは
ほんとうに死なないではないか、それだけですよ。そのひと言だけで芸術はペッチャンコですよ。
三島由紀夫
埴谷雄高との対談「デカダンス意識と死生観」より
ナルシシズムというのは、自分の問題じゃないでしょうね。他人からの関心の問題ですからね。
ですから、自分へのこだわりとちょっと違うかもしれませんね。自分へのこだわりは、
ナルシシズムと反対かもしれませんね。もし、自分へのこだわりを捨てたければ、もっと
みんなナルシシストになればいいのです。
自分になんかだれも興味をもってくれないというのは、まず社会の根本原則ですね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

54 :
僕は、自分の本質がなにかということを考えるということはやめたのです。
…自分とはなんだという問題ですね。つまり、ほじくってほじくって、玉葱の皮をむいて
いくでしょう。だんだん孤独になって、いまの大江君の「万延元年」など見ると、
そういう感じが非常にしますがね。玉葱の皮むいている。
(芯が)あるはずかもしれないけれども、皮だけかもしれない。一番簡単な通俗的な方法は
精神分析ですね。僕が自分の精神分析をすれば、どんな精神分析学者よりもうまくやる
自信がありますよ。なんでもあります、僕の中には。
…僕の変なことをやる動機なりなんなり、精神分析で解釈すれば、なんでもつくのです。
なんでもできますね。どんな精神分析学者をつれてきても驚かない。僕のほうが
うまいでしょうね。人間というのは、やはり動機で動くものじゃないと思っています。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

55 :
谷崎さんにしても川端さんにしても素晴らしい芸術家だけれども、男というものは一人も
出てこないでしょう。元禄時代、元禄時代というけれども、西鶴はちゃんと書いていますよ。
男の世界を書いている。人間がデリケートな感情から発して、激しい行動に一直線に
つながるところを書いてますね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し
飛躍するのだろうと思いますけど、気違いはそれが飛躍してしまうんですね。
僕はやっぱり物体というものは、レートするものだと思うんですよ。物体自体が、
一つの構成要素がレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと思うな。
ほんとうはレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが
全然見えないわけですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より

56 :
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、
ボディは否定しない。それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、
ボディが復活するのであって、フレッシュは復活しない。フレッシュは滅びる。
日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、
フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる
女体は、やはりフレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、
一つながりのあれですね。それが日本の「色」というものだと思います。
村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、
日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、
権力を授受しないと、絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは
一日も成立たんと言うのだ。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より

57 :
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか
身を投げることしかない。それはもっとつきつめれば焼身自だよ。このあいだ、
アメリカの国会議事堂で自した少年と同じだ。これはことばにかけると同じ重さを、
からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を
刻むべきだよ。彼ら(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より

58 :
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、
女の足を纏足(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。
これは伝統的なものだと思うんだ。中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、
自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の人間主義というのは非常に
人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――」より

59 :
すばらしい

60 :
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。
ですから、アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、
ヒューマニズムとちょっと違うんだな。ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、
というのとはちょっと違う。
無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。
一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会の
いちばん浅いところまで支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それが
その時代のスタイルというふうになって、非常に歴史的なものになっちゃうんですね。
不思議ですね、これは。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より

61 :
精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、
芸術は絶対分らない。精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつも
おんなじところへ引き戻す。おんなじところへ引き戻して、どうしてミケランジェロが
いて、どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、何ら解決しない。
ですからあれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん
失敗していますね。カントも「判断力批判」では失敗していますね。
かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、あるいは哲学者以外のああいう学者が
タッチしたら、全部まちがえるのはそこです。ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと
思うんです。芸術っていうのは、非常に個性的なあらわれ方を、自分ではしていると
信じているんだけれども、どんなことをしてもできない。それが芸術なんですね。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より

62 :
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、
みんな大笑いする。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より

63 :
了解

64 :
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。
そういうときに何があるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、
ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、
そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より

65 :
かっこいい

66 :
時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。
だから女は時間に遅れる権利があるんだよ。(中略)
女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を
受けている。時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう
時計に頼らないと、こわくてこわくて。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の
真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より

67 :
ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、
鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていって
くれる文学というのはほかにない。
…谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。天国へもいかない。川端康成さんは
ある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。地獄ですかね。
鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
スウェーデンボルグ流に言うと天使界かな。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より

68 :
三島由紀夫の噂のおすすめ作品@噂話板
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1287977586/

69 :
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言って
いるわけです。場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければ
ならないでしょうね。天皇制の本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、
右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党がやっていたのは共産党が
バカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。
あそこで陛下の帽子をふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より

70 :
彼ら(共産党)は天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。
だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持までできれば成功していたし、第一党に
なっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。しかしもう遅い。
守るというのは剣の使命であって、言葉の使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。
守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より

71 :
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は
戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきた
ということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。
武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタに
なっちゃう。
三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを
言わなかった。
武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。
三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみると
いやだよ。
武田:いやだろうけど、それは我慢していかないと……。
三島:それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、戦後社会を肯定して、お金をもうけることは
非常に素晴らしいことだ、これならだれに対しても恥ずかしくない、と言えるかな。
武田:言えないでしょう、それは。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より

72 :
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。
どうするのよ……。
武田:だから最後まで強気をもつということよ。
三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。
文学じゃそれは解決できる問題じゃない。
武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。
三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。
…たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、
自分の良心も満足するだろう。たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、
私は政治行為をやったということで、安心して文学をやっていられる。私は自分の良心に
これだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、小説が売れる、お金が入る、
別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。
武田:それは、あなたはいやでしょうね。
三島:ほんとうにいやだな。
武田:だけども、つまり政治行動というものは、ほんとうはそうじゃないからね。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より

73 :
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、
「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、
やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来は
ないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、
その二つの対立だよ。
「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、
今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

74 :
一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始める
というのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、
あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、
こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう
連中はね、どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の
歴史を見てもよくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が
金をこわがるように、どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、
というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

75 :
いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。
そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを
投げ出してもいいと思うしね。
文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

76 :
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、
そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それは
アンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して
古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)
天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。
その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、
お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

77 :
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと
飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル
先から女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。
自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で
飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。
それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。
頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

78 :
素晴らしい

79 :
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)する
わけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、
いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくは
もし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口を
言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と
思うようになりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの
違う人にはきっと理解できないんだと思います。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

80 :
いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・でしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬなど、ぼくは
エロティシズムとは呼びたくないですね。
やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、
すべてもとの天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。
つまり、天皇の御子様が次の天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時に
すべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう非個人的性格というものを天皇から
失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方において
最大の誤謬だったと思うんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

81 :
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、
あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは
嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。
それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。
だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、
革命にしろ、その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり
生命尊重主義というか、人命の価値が至上のものだという戦後教育がしみついていますね。
(ウーマン・リブは)バカの骨頂ですね。女が女であることを否定したら損だということが
理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

82 :
ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろん
ほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん
苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と
日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と
西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを突っきって
行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。
それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと
書いてある。そういう考えは、ぼくは許せない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

83 :
どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、
蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連に
つながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動に
つながっているんです。
大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまい
だろうと思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは
出てこないでしょうね。未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。
安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、ぼくは行けないんです。それで世界中が、
すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、
同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、
それはよいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

84 :
名言

85 :
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。
三島由紀夫「踊り」より

86 :
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。
三島由紀夫「踊り」より

87 :
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。
三島由紀夫「踊り」より

88 :
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の
肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつして、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すもの
だといへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
三島由紀夫「踊り」より

89 :
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。
三島由紀夫「踊り」より

90 :
名言

91 :
私は民主主義と暗はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗のほうは少ないから、シーザーの
昔から、されたのは一人で、六十万人が一人に暗されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐であります。(中略)
たとえば暗が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹するか、あるいは自分が抹されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

92 :
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴りされたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

93 :
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
私は、暗者が必ずあとですぐに自するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

94 :
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

95 :
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの
社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が
戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、
日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識が
ある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。
ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。
みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・
シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段を
するわけです。(中略)
アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

96 :
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。
…一つの社会風俗的現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに
乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金でキャデラックに乗っている、それが
ブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けば
それがブルジョアなのか。そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に
別荘を持っている。(中略)
私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を
使ったってできるのだ。(中略)
権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、
我々はむしろ権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

97 :
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に
同情する人がなくなっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン
動物愛護協会というものなんです。これは生活の余裕がなければできないことで、
オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方はわかりますが、犬を可愛がって、
犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうになっちゃう
ものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中から
どうやって社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

98 :
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

99 :
素敵

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