2012年3月文芸キャラ39: ∞三島作品の名キャラ&名文句∞ (347) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
【デュラララ!!】平和島静雄アンチスレ5 (528)
【僕は友達が少ない】三日月夜空に萌えるスレ (519)
【俺妹】田村麻奈実スレ 3【――おこるよ?】 (181)
【Fate/Zero】間桐雁夜 余命一ヶ月【虚淵玄】 (176)
【涼宮ハルヒの憂鬱】谷口 WAWAWA忘れ物13.1回目 (228)
【僕は友達が少ない】肉 せもぽぬめ 柏崎星奈 3 (818)

∞三島作品の名キャラ&名文句∞


1 :
三島由紀夫(本名、平岡公威)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51PADZ21PEL.jpg
http://image.blog.livedoor.jp/maccy1977/imgs/8/e/8e3b520d.jpg

2 :
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。
もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、を置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

3 :
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老いぼれ政治家や
老いぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

4 :
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。
クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

5 :
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。
ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

6 :
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?
ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

7 :
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

8 :
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

9 :
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとほるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

10 :
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。
シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう、さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

11 :
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い
岩漿(マグマ)が煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、
世界を動かし、戦士たちに勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで
若者の心を充たし、すべて雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

12 :
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。
ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

13 :
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報いではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだといふことですわ。蝕まれた船は蝕む虫と、
海の本質を頒け合つてゐるのですわ。
女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。
私がずつと前からアルフォンスを知つてゐたといふ気持は、ひつくりかへりはいたしません。
あの人に急に尻尾が生えたり、角が生えたりしたわけではないのですもの。私はともすると
あの人の陽気な額、輝く眼差の下に隠されてゐた、その影を愛してゐたのかもしれませんの。
薔薇を愛することと、薔薇の匂ひを愛することと分けられまして?
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

14 :
幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうな
ものなのよ。ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを
一目一目、手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つて
ほつとする。地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に
変へることができるのよ。
サン・フォン:…奥様、快楽にだんだん薬味が要るやうになると、人は罰せられた子供の
たのしみを思ひ出し、誰も罰してくれないのを不足に思ふやうになります。ですから
見えない主に唾を引つかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。
それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべつて昼寝に耽り、尻尾を掴まうが、
髭を引張らうが、吠えることはおろか、目をひらいてさへくれません。
モントルイユ:あなたは神を怠けものの犬だと仰言るのね。
サン・フォン:ええ、それも老いぼれた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

15 :
恥ずかしさの底にゐるときには、同情のやさしい心持も残つてはをりません。同情は
上澄みで、心が乱れれば、底の澱が湧き昇つて上澄みを消してしまふ。
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光つた。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になれば
お互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。兎を見れば愛らしいと仰言り、
獅子を見れば怖ろしいと仰言る。御存知ないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を
流して愛し合ふかを。神聖も汚辱もやすやすとお互ひに姿を変へるそのやうな夜を
御存知ないからには、あなた方は真鍮の脳髄で蔑んだ末に、さういふ夜を根絶やしにしようと
お計りになる。でも夜がなくなつたら、あなた方さへ、安らかな眠りを二度と味はふことは
おできになりません。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

16 :
ルネ:私が人間の底の底、深みの深み、いちばん動かない澱みへだけ、顔を向けてきたのは
本当だわ。それが私の運命でした。
アンヌ:だからそれには思ひ出はないわ。あるのは繰り返し、それだけだわ。
ルネ:私の思ひ出は虫入りの琥珀の虫。あなたのやうに、折にふれては水に映る影ではないわ。
さう、あなたはうまいことを言つた。私の思ひ出は、いつも必ず私の邪魔をするの。
この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉ぢ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、
思ひ出の果物の核(さね)なのだわ。
あなたは神の釣人の糸にかかつた魚です。何度か鉤(はり)をかけられて遁れながら、
あなたは実のところ、いづれは釣り上げられることを御存知だつた。浮世の水にかがやく
鱗を、神の御目(おんめ)のきびしい夕日のうちに、身もだえして閃めかせながら、
釣り上げられるのを望んでおいでだつた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

17 :
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて? 幸福な人には
景色なんか要らないんです。
朝子:お答へにならないところを見ると、それが秘密だからといふばかりでなく、前以て
人に知られたくないやうな、花々しい立派なお仕事なのね。
久雄:とんでもない。恥知らずのやる仕事です。
朝子:殿方が命をかけてやらうとなさつてゐることを、御自分で卑下なすつたりしては
いけません。世間がどんな目で見ようと、よしんば法律の罪だらうと。
久雄:ではこれだけ申します。仰言るとほり僕は命を賭けてゐます。明日の太陽を仰げるか
どうかわかりません。しかしそれは無意味な行為で、歴史に小さな汚点(しみ)をつける
だけのことでせう。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

18 :
政府の大官や貴婦人方のお追従笑ひは、条約改正どころか、かれらの軽侮の念を強めて
ゐるだけだ。よろしいか、朝子さん。私は外国を廻つて知つてをるが、外国人は自尊心を
持つた人間、自尊心を持つ国民でなければ、決して尊敬しません。壮士の乱入は莫迦げた
ことかもしれん、しかし私はそれで政府に冷水を浴びせ、外国人に肝つ玉の据つた日本人も
ゐるぞといふところを見せてやれば、それで満足なのだ。
清原:あなたの髪、……この黒い髪、……会はないでゐた二十年といふもの、夜の闇が
夜毎に染めて、ますます黒く、ますます長く、ますますつややかになつたこの黒髪……。
朝子:この髪の夜は長くて、夜明けはいつ来るとも知れません。髪がすつかり白くなり、
私が女でなくなるときに、曙がその白髪を染めるのですわ。悩みもない、わづらひもない、
その一日に何もはじまる惧(おそ)れのない曙が。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

19 :
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の
歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうが
ずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。絵描きとか文士とか、芸術といふものは
みんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ。
この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。
政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

20 :
僕の考へる旅はますます美しい、ますます空想的なものになつたんです。つまり汽車だの
船だのが要らない旅になつたんです。この虚偽に充たされた国にゐて、僕があるとき、
海のむかうの、平和で秩序正しく、つややかな果物がいつも実つて、日がいつも照り
かがやいてゐる国のことを心に浮べたとき、汽車だの船だのは、もう僕にはまだるつこしい。
僕がさういふ国を心に浮べたとき、まさにその瞬間からですよ、僕がもうその国に
居るのでなくては、その瞬間から、僕の空想してゐた果物の香りが現実の香りになり、
僕の夢みてゐた日光が頭の上にふり注いで来るのでなくては。……それでなくては、
もう間に合はないんです。
お嬢さん、教へてあげませう。武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な
道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

21 :
朝子:清原さんの仰言るやうに、あなたは成功した政治家でいらつしやる。何事も
思ひのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですつて? 
滑稽ではございませんか。心ですつて? 可笑しくはございません? そんなものは
権力を持たない人間が、後生大事にしてゐるものですわ。乞食の子が大事にしてゐる
安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。
影山:あなたは私を少しも理解しない。
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、
だんだん踊つてこちらへやつて来る。鹿鳴館。かういふ欺瞞が日本人をだんだん賢くして
行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつはりの微笑も、いつはりの夜会も、そんなに
永つづきはいたしません。
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつはりの、恥知らずのワルツはありますまい。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

22 :
自ら奏でる楽の音(ね)が、月影のやうに湖のお顔に注ぐと、きらめく漣のやうなその微笑が
現はれる。すべては音楽の霊妙な作用なんだ。水は音楽だ。だから彼女はそれを支配する。
人間の体は水でできてゐる。だから彼女はそれを支配して、それは音楽に変へてしまふ。
血は水でできてゐる。だからそれを支配して、血は音楽に変つてしまふ。
璃津子:このさき日本はどうなるのでせう。
経広:僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子:その二つは同じことだわ。
経広:さうだね。同じことだ。
璃津子:お国の右の腕が痛むと
経広:僕たちの右腕も痛むのだ。そしてあの海のかなたへまで晴れやかにひろげられた
お国の裳裾が引き裂かれると
璃津子:私たちも引き裂かれるのだわ!
経広:その引き裂かれた絹の叫びが
璃津子:かうしてゐても海のむかうからきこえてくるわ。……もしかすると、日本は
負けるのではないかしら。
経広:それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足に
かけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

23 :
経広:海が僕を惹き寄せる。何故だか知れない。絶望と栄光とが、押し寄せる海風のなかに
いつぱいに孕まれてゐる。かうして海から来る風に顔をさらしてゐると、絶望と栄光の砂金が
いつぱい詰つた袋で頬桁を張られてゐるやうな気がする。なぜ、又、いつから海が僕を
非難するやうになつたのか。
君にも話したね。中等科のころまでは、僕は新聞の貨物船の広告を見て夢を描くのが
大好きだつた。寄港地の名前はみな宛字の漢字で書いてあつた。新嘉坡(シンガポール)、
波斯湾(ペルシャわん)、亜歴山(アレクサンドリア)、……僕はそのへんな漢字の
どれもが読めるのが得意だつた。貨物船と近東風の月夜と、ペルシャ湾の毛足の長い
絨毯のやうな重い夕凪とが、海への僕の憧れのすべてだつた。それほどやさしい海が、
いつから僕の頬桁を張り、僕を非難するやうになつたのか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

24 :
経広:わかつてゐる。海が死と絶望と栄光の金の食器を、敷きつめた青い波のテーブル・
クロースの上に満載して、僕の着席を待つて向うから、用意を整へ、しづしづと近づいて
来てからといふものだ。その食卓には今潮の中から引き揚げられたばかりの珊瑚が山と
積まれ、熱帯の積乱雲が飾り立てられてゐる。御紋章つきの金のコンポートには、
色さまざまな熱帯の果物が盛り上げられてゐる。そして僕がその一つを口に入れれば、
それは死なのだ。これほど飢ゑてゐながら、僕が食卓に就かないのを海は非難してゐる。
僕の飢ゑの烈しさを誰よりもよく知つてゐるのは、海だ、おそらく君よりも。
璃津子:女はみんな知つてゐるわ、どんな女でも、男の方のさういふ飢ゑを鎮めることは
できないのを。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

25 :
悲しみのあまりだつて? 人はさう言ふ。悲しみは慰められても、悲しみよりもつと遠くへ
行つた人間に、人の慰めなんぞが追ひつくものか。
生きてゐる間は若様でした。私は自分の卑しさのすべてをかけて、あの子を若様と呼びました。
……今はちがひます。あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまつしぐらに落ちてきて、
ここへ、ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戻つて来たのですわ。もう一度私の
賎しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩はされることのない、安らかな
眠りをたのしみに戻つて来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子のすべてを
感じます。あの子の眼差、あの子の微笑、あの子のしつかりした手足をこの中に。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

26 :
経隆:経広はおそらく知つてゐたらう、自分の小さな死は無益(むやく)であり、たとへ
その死を何万と積み重ねても狂瀾を既倒に回(めぐ)らす由もないことを。しかし又
知つてゐたらう、このやうな御代に生き御代に死んで、すでに閉じられようとしてゐる
大きな金色の環へ鋳込まれて、永遠に歴史の中を輝やかしく廻転してゆくその環の一つの
粒子になることを。身を以て空にかけた悲しみの虹の、一つの微粒子になることを。
……どんな苦しい戦況であらうと、経広は男として満ち足りて死んだ筈だ。
おれい:まるでその場に居合はせたかのやうに。あの子の肌が割けた痛みの万分の一も
御存知でないあなたが。
経隆:苦しみをこえる矜りといふものがあるのだ。たとへば木は大地につながつてゐる。
それは苦しみだ。痛みだ。しかし梢にかかる白い雲は青空に属してゐる。私たちはその
美しい横雲と樹木とを、いつも一つの絵のなかに見るではないか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

27 :
……しかし私が気が狂つてゐたとすると、それはどんな狂気だつたのだらう。果して
私自身の狂気だつたらうか。それともはるかかなたから、思召しによつて享けた狂気だつたか。
たとへ私が狂気だつたにせよ、あの狂気の中心には、光りかがやくあらたかなものがあつた。
狂気の核には水晶のやうな透明な誠があつた。
翼を切られても、鳥であることが私の狂気だつたから、その狂気によつてかるがると私は
飛んだ。……今はどうだ。お前は私が正気になつたといふかもしれない。私にはわからない。
自分が今なほ狂気か正気かといふことが、自分にはわからう筈がない。只一つわかることは、
その正気の中心には誠はなく、みごとに翼は具へてゐても、その正気は決して飛ばない
といふことだ。あたかも醜い駝鳥のやうに。私は知らず、少なくともお前たちみんなは
駝鳥になつたのだよ。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

28 :
光康:…もう時代は変つて、手袋を裏返しにしたやうに、すべては逆になつたのに。
経隆:写真の陰画が陽画になつただけかもしれない。絵はもともと一つなのだ。
海と雲とは一色(ひといろ)の重い苦患に融け合ひ、沖に泊つてゐる外国の船の白い船腹を、
苦痛にむきだした白い鮮やかな歯のやうに見せてゐる。日本の船はどこにも見えぬ。
日本の船は悉く沈んでしまつた。
経広があこがれたのは決してこんな海ではなかつた。ただあいつの死の刹那に、海が
青かつたことを私は祈る。あいつのためには、海は晴れやかに青く輝き、そこにこそ
誉れの火柱は高くあがり、若者のおびただしい血潮は、透かし見られる朱い珊瑚礁のやうに
亜熱帯の海を染めなした。あの島をめぐる海は、経広の最後の日に、雲の影一つないほど
晴れ渡つてゐたことを私は祈る。あいつは朱雀家の代々が使はなかつた黄金造りの太刀の、
明るい花やかな朱いろの下緒(さげを)のやうな死を選んだと思ひたい。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

29 :
なぜといへ、それを最後に、日本は敗れ、滅びたからだ。古いもの、優雅なもの、
潔らかなもの、雄々しいものは、悉く滅びたからだ。かつて気高く威光さかんであつた
一帝国は滅びたからだ。もつとも艶やかな経糸(たていと)と、もつとも勇ましい
緯糸(よこいと)とで織られてゐた、このたぐひまれな一枚の美しい織物は、血と火の
苦しみのうちに、涜され、踏みにじられ、つひには灰になつた。歴史の上で誰も二度と
ふたたび、同じ見事な織物を織り成すことはできまい。
すべては去つた。偉大な輝やかしい力も、誉れも、矜りも、人をして人たらしめる大義も
失はれた。この国のもつとも善いものは、焼けた樹々のやうに、黒く枯れ朽ちて、
死んでしまつた。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

30 :
雪がふつて来たな。
この浄らかな冷たさ、雪はすべてを和める力だが、それといふのも、すべての身を一様に
慄(ふる)へさすからだ。雪は女神に似てゐる。冷たく、美しく、矜り高く、残酷な
女神に似てゐる。その女神の冷たい嫉妬のおかげで、夏のかがやかしい日々は消されてしまつた。
璃津子:滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
経隆:(ゆつくり顔をあげ、璃津子を注視する。……間。)
どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

31 :
僕は社会をひつくりかへすために陰険な策謀をめぐらしたり、無辜(むこ)の市民を傷つけるやうな計画を立てたり、
日本の歴史と文化の伝統を破壊しようと企てたり、そのために友を裏切り、恩人を裏切り、目的のためには
手段をえらばぬと云つた、さういふ連中を憎みます。一市民として憎みます。これが僕の信念です。
全学連の女の子が、われわれに怒鳴つた言葉はこたへたなあ。今でもときどき思ひ出しますよ。女子学生がですよ。
かりにも教養のある女子学生がかう言つたのです。「そんな顔でお嫁が来ると思ふか。もつと心を入れかへて
勉強しろ。バカ。無智。人し」つて。われわれの親は貧乏で、心を入れかへて勉強しようにも、大学へ
進めなかつたんですからね。
…まあ、女子学生にそこまで言はせた、大きな国際的陰謀があるわけですよ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

32 :
国際共産主義の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところで噴火口を見つけようと窺つて
ゐるんです。世界中がこの火山脈の上に乗つかつてゐるんです。もしこの恣まな跳梁をゆるしたら、日本は
どうなります。日本国民はどうなります。日本の歴史と伝統と、それから自由な市民生活はどうなります。
われわれがガッチリ見張つて、奴らの破壊活動を芽のうちに摘み取らなければ、いいですか、いつか日本にも
中共と同じ血の粛正の嵐が吹きまくるんです。
地主の両足を二頭の牛に引張らせて股裂きにする。妊娠八ヶ月の女地主の腹を亭主に踏ませて踏ませてす。
あるひは一人一人自分の穴を掘らせて、生き埋めにする。いいかげんの人民の結果、いいですか、中共では
十ヶ月で一千万以上の人が虐された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や
水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手でされたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが
革命といふものなんです。こんなことがわれわれの日本に起つていいと思ひますか。
三島由紀夫「喜びの琴」より

33 :
片桐:……考へてみろよ。二・二六事件の将校は英雄になつたが、彼らに射たれて死んだ警官は名前も忘れられ、
ただガラスのケースの中の英雄になつた。俺たちは永遠の脇役で、権力と叛逆者の板ばさみになつて、
つまらない人間のためにも身を捨てるんだ。そのとき残るのは何だと思ふ。同じ立場の俺たちの信頼だけだ。…(中略)
瀬戸:…警察官も一つの職業だよ。人を疑ふのが商売で、それに徹すりやいいんだ。疑つてるうちに、カンも
発達してくる。さうすりや、疑はないでいいことと、疑ふべきことの区別がついてくる。善良な市民に迷惑を
かけるおそれもなくなる。実績も上つてくる。さうなるための第一歩は、まづ何でも疑つてかかることだ。
人を見たら泥棒と思へ、さ。まづそこからはじめるんだ。さうして疑ふ技術を洗煉するんだ。人を信じるだの
信頼するだのつて、耳や目が遠くなつてからでもゆつくりできるぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

34 :
野津:この雪の中のあちこちで、毛唐や三国人があひかはらず、悪事をたくらんで動きまはつてゐる。
堀:しかし管内には犯罪がなくて助かるよ。
野津:白い悪魔の粉のごとく、のごとく雪はふる、か。
俺はストライキのことしか知らないが、群衆心理つてのは怖ろしいもんだぜ。一人がワッと叫ぶと、みんな
その気になつちまふんだ。まあ、いはば、蕁麻疹みたいなもんだ。それに乗せられるのも一時はいい。一時は
いいが、気をつけろよ。手綱を引きしめるのを忘れるなよ。こんな説教みたいなことは言ひたくないが、
君はまだ若いんだし、今日の午すぎからでも、急にそんな人気者にならないとも限らんし、今のうち言つて
おくのがいいと思ふんだ。マスコミちふのは軽薄だからな。ぽんと乗せて、ぽいと捨てる、そりやあよつぽど
気をつけなくちやいかんぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

35 :
はじめから憎んでゐたものが憎らしいのは当り前の話さ。……なあ、片桐、思想といふのは、いろんな形をとるものさ。
あるときはライオンの。あるときは可愛い小鼠の。憎むんだから、そいつから目を離さず、そいつの千変万化の
変身にあざむかれず、この世界のあらゆるものにそいつの影を見つけ、花にも自転車にも雲にも小さなマッチ箱にも、
怠りなくそいつの影を読みとらなければならないんだ。それには力が要る。綿密な注意が要る。そりやあ物事を
本当に信じるのとほとんど同じくらゐ力の要る仕事だ。
やはりお前は裏切られた怒りを選ぶのか。そんならこの傷は手ひどく祟るぞ。一生痛みつづけるぞ。それも
みんなお前の罪なんだ。思想よりも人間を選んだお前の罪なんだ。こんなまちがひは若い栗鼠しかやらない。
くるみとゴルフのボールをまちがへるやうなことは、公安のおまはりは決してやつてはならんことだ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

36 :
俺はな、ずうーつと前からよ、ずうーつと前から松村を臭いと思つとつたよ。あいつと佐渡との関係も臭いと
睨んどつたよ。カンだな。永年のカンちふものは怖ろしいよ。あいつの目つきから、顔つきから、何から何まで
気に入らない。何かよくわからないが、プーンとアカの匂ひがしとつたんだね。垢の匂ひか。まあ、おんなじ
やうなもんさ。アカは匂ひを立てよるよ。腐つた魚みたやうな。お前、留置場の匂ひを知つとるだろ。あれだ。
はじめから暗い場所へ入るやうにできてる人間は、さういふ匂ひを立てる。今ごろ松村は、いちばん自分の匂ひに
ぴつたりの場所にゐるわけだよ。さうだよ。なあ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

37 :
片桐:あなたきこえるんですね。あの琴が。
川添:きこえるとも。たしかにきこえる。
片桐:実は、僕にもきこえるんです。……どうです。あの澄んだ、静かな、心の休まるやうな
やさしい音楽。
川添:お前もきこえるのか。
片桐:さうです。今きこえはじめたんです。しかし今、僕は一寸ミスをやりました。
川添:ミスつて?
片桐:うつかり同僚に「あれがきこえるか」つて訪ねてしまつたんですよ。どうやら
やつらにはきこえないらしいんです。自分一人にきこえるんだつたら、それを秘密にして
おくべきですね。
川添:わしはみんな喋つちまふ。だから莫迦にされるんだ。
片桐:あ、きこえる。きこえる。みんなにはきこえないんだ。
川添:わしら二人だけだ、この世界に。
片桐:いつかみんなにきこえるやうになりませんかね。
川添:無理だらう。わしはどれだけみんなに宣伝したか。何しろ天からまつすぐに、
澄み切つた琴の音が落ちてくるんだから。
三島由紀夫「喜びの琴」より

38 :
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。
一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。
今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。
この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

39 :
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。
精神は必ず形にあこがれる。
崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。
何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。
青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

40 :
森:…やつぱりこんなに月の明るい静かな秋の夜だつた。兵隊たちは忍び足で、まつ白な
月かげに剣附鉄砲を光らせて、浜づたひにやつて来たのだ。クウ・デタ。失敗したにしろ、
栄光にみちた言葉だ。とにかく十・一三事件はすばらしい事件だつた。わしはその二年前、
大蔵大臣に任ぜられて、時の内閣に列なつたときよりも、十・一三事件に狙はれたときのはうが、
もつと高い栄光の絶頂に立つてゐたのだ。
豊子:いつもそれを仰言るのね。そのときは慄へていらしたくせに。
森:わしが怖がつたの怖がらなかつたのといふことは問題ぢやない。狙はれたといふことだけが
重要なんだ。暗者に、それも一個中隊の叛乱軍に狙はれる。これこそ政治家の光栄の
絶頂だ。よくも狙つてくれたものだ。あの若い兵隊たちの鼻の上には、いつも憎いわしの
銅像が、国賊の銅像、資本家どもの守り神の銅像が、のしかかつて笑つてゐたのだ。
あの一人一人の兵隊の鼻の上に、昼となく、夜となく……。あとでそれを思ふと、わしは
喜びでぞくぞくしたもんだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

41 :
あのころ上層部の生活のちよつとした動きまでが、下級将校の耳にピリリと伝はつた。
同じ血潮の夢をゑがきながら、あんなにまで老人と若者がお互ひに近づいたことはなかつた。
あいつらは知つてゐた、百梃の機関銃の前には内閣も大銀行もフェルトの帽子のやうに
脆いことを。あいつらは一寸それを頭にのつけて洒落てみたいと思つたのだ。実に
若者らしい夢だつた。そのためには老衰した水つぽい血がほんのすこし流れればよかつたのだ。
……それでもお父さんはされはしなかつたぞ! 若者たちの夢を裏切つてやることが、
大人たちのつとめだからだ。いや、そんなに固苦しくいふことはない。わしはやつらの夢を
愛してゐたから、するりと身をよけて遠くのはうから、やつらの夢を嘲笑つてやることも、
同じやうに愛してゐたわけだ。……わかるかね、豊子。……十六年前の今夜、白刃と
ピストルと機関銃とに取り巻かれてゐた輝やかしいわしが、今夜はかうして、不恰好な
トゲだらけのサボテンに囲まれてゐる。……いいかね。これが人生といふものだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

42 :
怨みは時が積れば忘れもしようが、一旦人に施した恩は忘れようとしたつて忘れられる
ものぢやない。
稲妻のやうにあの事件が、青い光りをここの御家族へ投げ入れます。……あの晩、はつきり
申し上げますわ、私は旦那様の妻でした。誰も否定できませんわね、旦那様。あの晩私は、
この身一つであなたに歓びを与へ、この身一つであなたのお命を助けようとしてゐる
完全無欠な妻でした。
歴史といふ奴はごみための封印さ。たつた一行書き直しても、封印が破けてしまふ。
そしてそこから数しれない怪物が、翼をひろげて飛び出すのだ。
酔つぱらひの介抱役がいつも介抱するめぐり合はせになるやうに、一度人助けをしたら
どこまでも人を助ける羽目になるものかしら? 私はゆうべ今さらながら、しみじみと
感じたの。助けた人間と、助けられた人間とは、決してわかり合ふことなんかない。
それは王様と乞食みたいに、別々の世界にとぢこめられた人間なんだつて。
三島由紀夫「十日の菊」より

43 :
重高:菊さん、死んだやつはみんな仕合せだ思はないかね。こんな澄んだ秋の朝空には、
死んだ奴らの霊が喜々として戯れてゐる。空は奴らの霊でひしめいてゐる。満員の
高架鉄道みたいに。しかし肩をすり合はせ、肱をすり合はせてゐても、奴らは厭ぢやない。
個体といふものがなくなつて、透明な全体の中に溶け合つてゐるからだ。……われわれのやうに、
生きてゐるといふことは、つまり何ものかに嘲られてゐるといふことだ。その大きな
嘲笑ひの前には、われわれはちつぽけな虱(しらみ)だよ。
菊:さういふ考へ方もございませうね。しかし生れついての虱だつたら、そんな風に
考へることはございますまい。
豊子:あ、男がコートを草に敷いて、女と並んで座つたわ。女の肩に手をかけた。……
女の肩にはどうしても男の固い重い掌が要るんだわね。恋が女の制服なら、男の重い掌は
そのいかつい肩章なのね。あの掌から女の体に伝はつて来るもの、あれは濃い葡萄酒を
血のなかへ注ぎ込むやうなものだわね。
垣見:さあ、どうでございませうか。ずいぶん感じの鈍い女も沢山をります。
三島由紀夫「十日の菊」より

44 :
豊子:…時折風に乗つて、あの若い動物たちの麝香の匂ひがここまで伝はる。若いの。
どれもこれもみな若い。あの若さが潮風みたいに、当つてゐるときは気がつかなくても、
あとでひりひりするいやな痛みをこちらの肌に残すの。若いといふことがどうしてそんなに
偉いんでせう。
垣見:第一腰が痛みません。関節が痛みません。それだけでも大したことでございます。
豊子:若いといふことは非難や中傷とおんなじで、人を陥れる働らきをするんだわ。
若さといふものは陰謀なんだわ。悪辣な陰謀なんだわ。さうでなければ、「私たちは若い」
と語つてゐる男や女の目が、あんなにお互ひに素速い親密な目くばせをすることなんか
できない筈だわ。
垣見:陰謀なんて、そりやあ御思ひすごしでございませうな。強ひて云へば、同盟といふ
やうなものかもしれません。いづれにしましても、あんまりお金には縁のない同盟なんでして。
三島由紀夫「十日の菊」より

45 :
菊:醜い裏切りが美しい犠牲に、化けられるとでも仰言るんですか。助けられた人が
助ける人に成り変れるとでもお思ひなんですか。いいえ、決してそんなことが……
重高:今度は俺が君の確信をこはす番だ。一生のうちにたつた一瞬かもしれないが、
人間はその役割を交換することができるんだ。それができなかつたら、人生に一体何の
値打がある。その一瞬が今朝来たんだ。
重高:…今しがたわかつたんだ。津波はあの海から起るのぢやない。津波は或る朝、
俺の中の死んだ海から、来る日も来る日もいくら釣糸を垂れても魚一つかからない死んだ
海の只中から、突然起るんだと。それがわかつたんだ! 菊さん、津波は今起つたんだよ、
疑ひやうもなく。
三島由紀夫「十日の菊」より

46 :
森:…ところでわしにも、お前の知らない思ひがあつたのだ。例の事件の只中に、
わしがその抜け穴から逃げ出して、暗い山道を駆けてゐたために、つひに見ることの
できなかつたのが心残りの……。
菊:何をでございます。
森:お前のそのときの輝やくばかりの裸をだよ。
菊:え?
森:ここにお前のその裸が、百年に一度とないほどの歴史の光りに照らしだされたお前の
裸が、倒れた記念碑のやうに横たはつてゐたのだなあ。兵隊たちの吐きかけた唾のおかげで、
ますます誉れを高めたその美しい裸が。……菊、われわれはそのときこそ一心同体だつたんだ。
罵られ、唾を吐きかけられながら、誰も犯すことのできなかつたその神々しいほどの女の裸は、
正に絶頂に達したわしの栄光の具体的なあらはれだつたのだ。お前の裸がわしの栄光であり、
わしの栄光がお前の裸だつたのだ。……しかし残念なことに、わしはそれを見なかつた。
十六年間、このベッドを見るたびに、ここにわしはその夜のお前の寝姿を思ひ描いた。
本当だよ、菊、本当だよ。
三島由紀夫「十日の菊」より

47 :
若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。
デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。
喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。
人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。
日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。の
ない男をインテリといふんだよ。があつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より

48 :
占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。
しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。
伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。
神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より

49 :
私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。
日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。
僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」より

50 :
エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より

51 :
大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも
花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむより楽しむことだよ。
楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。その輝やく声、
そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立つて、出かけて行かなくちやならんのだ。
相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫「熊野」より

52 :
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。
私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。
私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。
どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。
一度美しかつたといふことは、何といふ重荷だらう。そりやあわかる。男も一度戦争へ行くと、
一生戦争の思ひ出話をするもんだ。
人間は死ぬために生きてるのぢやございません。
僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫「卒塔婆小町」より

53 :
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
昼のあとに夜が来るやうに、苦しみはいづれ来ますわ。
六条:どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでせう。今あたくしは
あなたの右側にゐるわ。さうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。
もし左側にゐるとするわ。さうすると、あなたの右の横顔はもう見えないの。
光:僕は気体になつて、蒸発しちまふほかはないな。
六条:さうなの。あなたの右側にゐるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。
そこに誰かがきつと坐るやうな気がするの。
三島由紀夫「葵上」より

54 :
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。少なくとも私はさう信じてをります。ですから
私には、闘牛場の血みどろの戦ひのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な
足取で歩いてゆく白い鳩のやうな勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、
それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を
歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を平気で歩いて差上げますわ……。
この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。
背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文なんですね。
三島由紀夫「弱法師」より

55 :
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。……ねえ、桜間さん、僕はひよつとすると、もう星になつてるのかもしれないんです。
川島:われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
俊徳:ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。
俊徳:みんな僕をどうしようといふんだらう。僕には形なんか何もないのに。
級子:形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。
三島由紀夫「弱法師」より

56 :
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。
三島由紀夫「弱法師」より

57 :
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方から谺(こだま)を返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ? 何だと思ふ? 桜間さん、あれは
言葉ぢやない、歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
三島由紀夫「弱法師」より

58 :
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より
もう一度仰言つて下さい。「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。生れながらの
けだかい白い肌の言はせる言葉だ。私はその言葉が好きです。どうかもう一度……
三島由紀夫「朝の躑躅」より
太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。
人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より

59 :
女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映つてゐるのが
僕らの住んでゐる世界。
女の目のなかにはね、ときどき狼がとほりすぎるんだよ。
女の批評つて二つきりしかないぢやないか。「まあすてき」「あなたつてばかね」
この二つきりだ。
子供が生れる。こんなまつ暗な世界に。おふくろの腹の中のはうがまだしも明るいのに。
なんだつて好きこのんで、もつと暗いところへ出て来ようとするんだらう。
三島由紀夫「邯鄲」より
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
あたしあなたの、その不死身が憎らしいの。誰も愛さないから、誰からも傷を負はない。
お母様がさういふあなたをどんなに憎んでどんなに苦しんで来たか、よくわかつたわ。
苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

60 :
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。みんなして、それが
こぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。
人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。
飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

61 :
帝一:「さよなら」を言ふときも、「おはやう」を言ふやうに朗らかに、つて君言つたよね。
楓:ええ。
帝一:牛配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ
茂つたやうに見えもしない朝、鷄といふ鷄はされて時も告げない朝、……もし今が
朝だつたら、そんな朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうしてされた鷄のために泣くだらう。
楓:ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

62 :
定代の幽霊:薔薇は枯れることがございません。
勘次の幽霊:この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
定代の幽霊:これがそのしるしの薔薇、
勘次の幽霊:これがその久遠の薔薇でございます。
定代の幽霊:薔薇の外側はまた内側、
勘次の幽霊:薔薇こそは世界を包みます。
定代の幽霊:この中には月もこめられ、
勘次の幽霊:この中には星がみんな入つてをります。
定代の幽霊:これがこれからの地球儀になり、
勘次の幽霊:これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占ひも、みんな
この凍つた花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

63 :
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。五なら五、六なら六だけ
生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、函数なんです。
夜の空に太陽を探しだすのはむづかしい。向日葵が戸惑つてゐるのも無理はない。
……しかし夜は長くない。いづれ朝が来る。向日葵は朝になればにつこりする。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

64 :
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
人のために生きるのが偶像の運命ですよ。
あたくしは人造真珠なの。どこまで行つてもあたくしは造花なの。もしあたくしが豚だつたら、
真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしじゆう
思つてゐることは、豚が時たま自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

65 :
豊:美濃子! 俺の気持がわからないのか。
美濃子の声:いけません。いけません。あなたの気持などを仰言つては。
豊:美しい美濃子! 俺の二十歳の生涯に、君ほど美しい人は見たことがない。
ある日、天から降つた花びらのやうに、君の清らかな姿は、俺の瞼に落ちかかり、
俺の目をふさいでしまつた。それからといふものは、世界は俺にとつては一片の花びらだつた。
世界は君の姿の形、一片の花びらの形になつた。美濃子! 君のおかげで、意味あるものは
意味を失ひ、とるにたらぬものが香りを放つた。むかしは荒野が俺の住家、今はその住家が
いとはしい、君のやさしい顔の小函、それを夜も昼も家に飾つて、眺めあかして暮らすので
なくては、美濃子、俺の住家はもう墓場だ。それがなくては俺は屍、その小函だけで
世界の幸が買へるのだ。美濃子、君が好き、君が好き、君が好きだ。
美濃子の声:私を好いてはいけません。
豊:なぜだ。
美濃子の声:私たちは結ばれない星の下に生れたのです。
三島由紀夫「美濃子」より

66 :
僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。
幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。
さてどつちが早く汚れるでせう。
恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。
笑ひなさい! いくらでも笑ひなさい! ……あんた方は笑ひながら死ぬだらう。
笑ひながら腐るだらう。儂はさうぢやない。……儂はさうぢやない。笑はれた人間は
死にはしない。……笑はれた人間は腐らない。
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より

67 :
共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。
君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。
理想に殉ずるといふことは美しいことだ。
人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。
がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

68 :
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。
余計なことを耳に入れず、忌はしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐず、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。
夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。さうぢやないこと?
喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから幸福に
なつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、蝶々に
なつたのよ。
一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。
淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。
三島由紀夫「熱帯樹」より

69 :
あたしも暴力はきらひだわ、でも女はか弱いものなのよ。か弱いものが暴力をもつのは
合理的なことだわ。象はおとなしいけど、蜂はすぐ刺すでしよ。
三島由紀夫「溶けた天女」より
残酷だつて思ふのは人間だけだよ。小鳥だつて、花だつて、樹だつて、もつと残酷な世界に
しづかに生きてゐるんだ。ごらん、むかうの松林、樹といふ樹が、海風にさらされて、
ものも云はずに、しづかに立つてゐる。あの樹があんなに静かな様子をしてゐるのは、
人間よりももつと残酷な心を隠し持つてゐるからかもしれないんだ。それといふのも、
心なんかを想像してみるからなんだよ。心が在ると思ふからだよ。心がなければ、
残酷さなんて生れないんだ。
三島由紀夫「三原色」より

70 :
朝は、朝はなあ、自炊の朝飯を喰つて、軽い体操をして、晴れた日には、灯台の前の
空地の旗竿に、WAYの旗をあげる。W……A……Y。『汝の愉快なる航海を祈る』か。
朝風に旗がひらひらする。一寸した幸福。旗つてやつは、風がはらむと、幸福らしくなる。
しかし弔旗つてやつもあつたな。まあ、どつちでもいいや。幸福でも不幸でも、
旗つてやつは、感情に訴へるよ。心なんてあんなものだ。風をはらめば、ひらひら、ひらひら。
風がなければ死んでしまふ。内容は風だけなんだ。それだけなんだ。
三島由紀夫「船の挨拶」より
死といふやつは、当り籖(くじ)のやうに身をひそめてゐるんです。
三島由紀夫「大障碍」より

71 :
凍てたる轍は危なやなう。
蹄は裂けて痛やなう。
もうおお、鼻輪は血ゆゑに濡れたわなう。
もうおお、なう、もうおお、なう。
三島由紀夫「室町反魂香」より
猿源氏:…輿の内なる上臈を、一目見しより恋となり、あけくれ思ひ煩ひて、心もそぞろの
呼び声が、かくの始末にござりまする。
海老名:ウム、そんなら恋の病ゆゑ。
猿源氏:ハイ面目次第もござりませぬ。
海老名:これはまたおやぢにも似ぬ不甲斐のないせがれぢや。折ふし教へおきたるとほり、
恋の手引は、ナウ、それ敷島の道ぢや。物の本にも、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女(をとこをうな)の仲をも和らげ」とある。老いたりといへどもこの海老名、
せがれが恋歌の仲立は、胸三寸にあるわいやい。
猿源氏:チエエ忝(かたじけな)い、おやぢどの。なあみだぶつ。なあみだぶつ。
したが相手は雲の上人、こなたは卑しき鰯売、叶はぬ恋となりにけるかな。
三島由紀夫「鰯売恋曳網」より

72 :
人間はみんなこの地球の上の居候さ。
……ほら、二階の窓があきます。喪服の老夫人が謡をうたつてゐます。あれは日本の悲しみと
過去の象徴なの。あそこから死と思ひ出の歌がひびいて来ます。それから……ほら、
中二階の茶室の障子があきます。静かな中年の夫婦がお茶のお点前をしてゐます。あれが、
何もかも忙しさの中に見失ふ年ごろの人たちに、静けさの意味を教へるんですわ。ええ、
もちろんお客様はいつでもあの部屋へ行つて、お茶を習ふことができます。……今度は……
ほら、向うの橋から、凛々しい若者がやつて来ました。あれこそ日本の雄々しい若さ、
それもつつしみ深い、礼儀正しい若さの姿ですわ。日本の青年はみんな全学連に入つて
ゐたり、町角で女の子をからかつてゐるわけぢやありません。もしお客様がお望みなら、
あの人はよろこんで弓の手ほどきをするでせう。どう? これが私たちの独特のホテルの
おもてなしなのよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

73 :
この左手が春の橋、私たちのくぐつてきたあの橋が夏の橋、家のうしろに秋の橋と冬の橋が
あつて、家のまはりがみんなああいふ低い粗末な橋に囲まれて、だからむかしこの邸は、
四つ橋屋敷と呼ばれてゐましたの。(中略)
梅さんの操るこの小さな和船、そして今にも落ちさうな朽ちかけた小さな橋、それだけが
この家と外界をつなぐよすがなんです。舟が沈み、橋が朽ちたら、ここは外界から
ぱつたりと縁を絶たれ、ここにあるすべてが本当の夢になるんです。今いらしたせまい川を、
梅さんの小舟が、まるで体をすりつけて甘える小猫みたいに、あやめのまじる川岸の草に、
船ばたをこすりつけながら来たでせう。あれでなくてはいけないんだわ。両側の岸から
さし交はす枝々が、たえず木影を舟に辷らせ、ときどき真菰(まこも)の草むらから
かはせみが翔つ。それでなくてはいけないんだわ。ここではすべてが何かから護られ、
じつと大人しく日本の美しさの中に閉ぢこもつてゐることができるんです。帆舟なんて、
ざわざわと風にはためく帆舟なんて、決してそんなものが……。
三島由紀夫「恋の帆影」より

74 :
お客とは何ぞや。それは不幸な、いらいらした、始終幸福を求めてゐる人たちなのです。
ホテルの窓の数ほどに沢山な苦情の種子を見つけ、自分がホテルからどの程度に重んじられて
ゐるかを気にし、水道の出が一寸わるくても、ドアの鍵の具合が一寸わるくても、忽ち
そのホテルを三流ホテルときめつけます。それといふのも、偶然の故障などといふものを
お客はみとめず、それをすべて自分が軽んじられてゐる証拠だと思ひ込むからです。
何故自然をありのままに売物にできないんです。私たちの自然な日本人の生活を、
不自由は百も承知で、そのまま売物にできないんです。
みゆき:私たちは世界に対して閉ざされた宝石になるのですね。日本の美しさと艶やかさを、
氷の中の花にしてしまひ、誰にも手を触れさせないで、誰にも微笑を向けて暮すんですね。
正:それこそ姉さん、あなたにぴつたりのホテルですよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

75 :
みゆき:…本当の姉弟がこんなことをするかしら? 本当の弟がこんな風に姉さんの胸を
探るかしら? 本当の姉弟がこんな風に? 今、喜死鳥(かはせみ)が立つたわ、青い
羽根をかがやかせて。ああ、私たちは何度もここへ帰つてくる。そこでは世間は嘘の鎧で
しつかりと私たちを護つてくれ、その中で私たちの体は虹のやうに融ける。嘘は私たちの
ことぢやない。嘘はただ世間が私たちにくれた免罪符だわ。それをまちがへちやいけないわ。
正:なぜあなたは自由が欲しくないんだ。なぜ曇つたままの鏡が好きで、それを拭き取らうと
しないんだ。
みゆき:七色の滴に覆はれた鏡のはうが、ずつときれいに映るからだわ。女には正確な
鏡なんか要らないのよ。
正:今なら僕たちはみんなに大事に護られてきた嘘の温室の硝子屋根を打ち割つて、
公然と……
みゆき:公然と、何をするの?
正:結婚することだつてできるんだ。
みゆき:結婚? まあ、いやだ、そんな下品なこと。
三島由紀夫「恋の帆影」より

76 :
がまがへるの目には、がまがへるが美しいし、俺の目には、こんなおかちめんこが美しいのさ。
地球の目には月が美しく、月の目には地球が美しい。宇宙に鏡があれば地球もその
あばた面の美に目ざめ、ほかのあばた面の星を探しに出かけるだらう。思想家には眼鏡が
美しく、芸術家にはお金が美しい。
あの方を見ると、すべてが救はれ、あの方と話してゐるあひだは、どんな曇りの日にも
青空が見え、雨の夜にも月がかがやくんです。遠くからあの方の紺絣のお姿、弓を手にした
凛々しいお姿を見ただけでも、一日の仕合せが買へるのです。そんな安い私の仕合せなのに、
私の苦しみと不幸はもつと安くて、ほとんど只みたいに無尽蔵に湧いて来ます。同じ水から
生れたものでも、仕合せは虹、不幸は霧、虹はつかのまに消えてしまふのに、霧は全部を
包んでしまふ。……それといふのも、どうしたらあの方に愛されるか、私にはわからない
せゐなんだわ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

77 :
啓夫人:今ごろ、あの子は嵐の荒れ狂ふ湖へ、あてどもなく漕ぎ出してゐるんだわ。
啓:罪のない者は美しく死なせてやれ。罪を重ねた奴には、そんな死に方はできやしない。
どうせ脳溢血か胃癌がオチさ。……それに罪のない者がゐなかつたら、あいつらの純白の
カンヴァスがなかつたら、絵具と絵筆はどうして暮したらいいんだね。私たちはその
カンヴァスをいつも探してゐたんぢやないのかね。そして今夜やつとそれを探し当てたんぢや
ないのかね。
みゆき:私は知つてゐます。私たちのことを告げ口されたら、きつとあの娘は死ぬでせう。
それはあの娘が純なばかりでなく、あなたにははつきり女を死なせるだけの力があるわ。
女の私の言ふことだから、まちがひがない。どう? これで満足が行つたでせう。
正:だから僕は……
みゆき:お待ちなさい! さうやつて立上がるあなたは滑稽だわ、啓様の言ふやうに、
自分の己惚れの、自分の魅力のおそろしい結果をたしかめるために、いそいそと
出かけてゆく滑稽な男だわ。
正:ちがふ!
三島由紀夫「恋の帆影」より

78 :
みゆき:…死ぬわ、あなたもあの娘も、助けようとする力がす力になり、お互ひが
生きようとして沈め合ふわ。ああ! 溺れた人のおそろしい力、何か別の力がのりうつり、
底のはうから手助けでもしてゐるやうな、あの夢の中で胸を押へる夢魔よりも非情な力、
あれに取り縋(すが)られたらもうおしまひだわ。死ぬわ、いいえ、あなた一人だけでも。
嵐の中をさすらひ求め、叫ぶ声も涸れ、漕ぐ腕も萎え、舟はまるで茶碗の底へ銀の匙のやうに
らくらくと沈む。あなたは溺れるわ。溺れるわ。水があなたの内側まで充たさうと、
外側からひしめき合つて雪崩れ込む。わかつてゐるの? 水は人の外側から、人が浮ぶのを
支へてゐるのにすぐ倦きる。湖の水は人の内側にあこがれる。そこにどんなに美しい、
どんなに暖かい、水のねぐらがあるかを知りたいんだわ。水は自分の古い親戚の、
海のやうに塩辛い人間の血に、その暖かいねぐらで直に会ひたいんだわ。だから勢ひ込んで、
軍隊のやうに、水はあなたの中へ攻め寄せる。息を追ひ出し、息よりももつと濃い命で
あなたを充たし、……さうしてあなたを自分のものにするために。
三島由紀夫「恋の帆影」より

79 :
狸の銀:心づくしの狸汁で、帰りを待つが子分のつとめ、けふの狸はどうぢや知らぬ。
こりや上乗の狸ぢやわい。
鴉の権:肌あたたむる狸汁
梟の八:おんなじ肌のぬくもるにも
狐の拳:女と狸ぢや大きな相違
熊の胆:都恋しき朝夕なれど
狸の銀:ここの稼ぎもやめられぬ。
鴉の権:ハテ親分はもう帰られさうなものぢやなア。
鴉の権:蝦蟇丸(がままる)親分の
子分一同:おかへりだわい。
鴉の権:シテ今宵の首尾は?
蝦蟇丸:獲物も獲物、二つとない品ぢや。花嫁御寮を連れて戻つたわ。
鴉の権:見れば姿もあでやかに、月にたたずむ姫御前は、まことに菩薩か天人か、
拝んだだけで身がとろける。これは結構なお土産を、ヘイありがたう存じまする。
蝦蟇丸:たはけめ、貴様にやるものか。
鴉の権:そんならどなたの
子分一同:花嫁御寮か。
蝦蟇丸:わしのぢやわい。
鴉の権:モシ親分、それではすみますまい。
蝦蟇丸:何がすまぬ。
鴉の権:ぢやと申して、
蝦蟇丸:シーッ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

80 :
菊姫:こりや何の羹(あつもの)ぢやわいなア。
蝦蟇丸:腹中を温むるに、これに如(し)くものなしと古伝の羹、まづ召されい。
菊姫:何やら茶めいたものなれど
鴉の権:ハイ狸汁でござりまする。
菊姫:ヒエエ、狸ぢやとエ。
蝦蟇丸:コリャ姫の御気色直さんため、いつもの踊りを早う早う。
子分一同:ヘーイ。
蝦蟇丸:踊りのあとは盃事、用意の盃、早う持て。
狸の銀:ハア。
菊姫:いかい武張つたお盃、こりや又何のお盃事かいなう。
蝦蟇丸:言はずと知れた、三三九度ぢやわえ。
菊姫:山賊(やまだち)にも似ぬよい殿御と、思ひ定めて来し身なれば、今さらおどろく
いはれもなけれど、夫婦の固めの盃に、無粋な衆の列座もいかが、皆の衆退らしやんせ。
鴉の権:女房気取でぴんしやんと
梟の八:都をしばらく見ぬうちに
狐の拳:とんと近ごろの姫御前は
熊の胆:蓮葉なものでは
子分一同:あるめいか。
蝦蟇丸:何をつべこべ。退れ。退れ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

81 :
今宵は望(もち)の橋渡り、七つの橋を願事(ねぎごと)の、心づくしに綿帽子、
三々九度も夢ならず。されどきびしき掟には、
かたき掟も守るべし。お供したやと心せく、二人を尻目にみなはただ、呆然として欲気なく、
小弓は色香も置きわすれ、お座敷がへりの空腹を、勝手馴れたる居催促。
月に芒(すすき)や猫じやらし、猫に小判と言ふものの、小判はほしや、老いづけば、
金よりほかにたよる瀬もなし、お金、お金、お金、お金ほしやの、お月さま。
金と意気地とどつちが大事、それもこの世はあなたまかせの、旦那次第や運次第、
松の太夫の位がほしや、春と秋との踊りにも主役になりたや、お月さま。
忘られぬ、ぬしが面影、映し画よりも、うつつに見たるお座敷で、二言三言交はせしが、
シネマスコープの恋となり。今は何でもハッピー・エンドがわが願ひ、恋よ恋、恋、
映し画になすな恋とは思へども、恋の成就を、お月さま。
三島由紀夫「舞踊台本 橋づくし」より

82 :
どうして作者が主人公を救つたりする必要があるんです、そのためにたとへ地獄へ落ちようと。
安物の小説家は、安手な救済を用意します。あれは安いです。小説の中に
「生きるための手引」なんぞを上手に織り込みます。あれは売薬の広告です。……もちろん
小説を書くといふこと、実在のまねをして人をたぶらかすこと、それは罪だと私は知つてゐます。
だからせめて私は、救済のまねごとまでは遠慮したんです。
私がまねようとした実在、その結果世間の人がみんな信じるやうになつた実在、あの
五十四人の女に愛された光といふ人間は、はじめからそこらにある実在とはちがつて
ゐたんです。どうちがつてゐたか? どうしてそれが特別の実在だつたか? それは
月のやうな実在で、いつも太陽の救済の光りに照らされて輝いてゐた。だから女たちは
その輝やきに魅せられて彼を愛した。彼に愛されれば、自分も救はれるやうな気がしたからです。
三島由紀夫「源氏供養」より

83 :
いいですか。私のしたことはといへば、この救済の光りだけを存分に利用しておいて、
救済は否定したといふことなの。これが天の妬みを買つたんです。そんじよそこらの実在と
安手な救済との継ぎはぎ細工なら、天は笑つて恕すでせうに、私の場合は恕せませんでした。
何故つて光のやうな人間こそ、天が一等創りたい存在だからです。救済の輝やきだけを
身に浴びて、救済を拒否するやうな人間こそ。……わかりますか。天はそれを創りたくても
創れない。何故なら光の美しさの原因である救済を天は否定することができないからです。
それができるのは芸術家だけなんですよ。芸術家は救済の泉に手をさし入れても、
上澄みの美だけを掬ひ取ることができる。それが天を怒らせるのよ。
三島由紀夫「源氏供養」より

84 :
光:僕はもう夢は怖くない。
看護婦:葵さんは夢にされたんですよ。
光:僕は男だ。
看:お気をつけなさい。真夜中にでる幽霊なんかは、知れたものですわ。もつと怖ろしいのは
午後の幽霊なのよ。こんな、何とも云へない退屈な、いい日和の、いつまでもつづきさうに
思へる午後、それは突然現はれるの。午後の幽霊……それに会ふときがあなたの本当の
敗北の時、でもその時こそあなたの本当に自由になる時かもしれないわ。いづれにせよ、
あなたはもうぢきそれにお会ひになるでせう。
光:(時計を見て)さア、もう君は病院へかへらなきやならん時間だぞ。
看:(立上つて)あなたが時間を知らせて下さることはないのよ。
光:(立上つて)I just remembered something funny …………
三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より

85 :
今急に俺の家の猫がペンキ壷を引つくりかへしたやうな気がしたのだ。
それも私の罪ぢやないのさ。私の知つたことぢやないのさ。さつきお前さんが恋人たちを見て、
星だの大空だのと愚にもつかぬことを言つた、それとおんなじ気持に溺れて、いい気持で
死んで行つたんだよ。恋が自然にその身を滅ぼし、夢みただけの報いをうけ、私が手を
下すまでもなく、……さうさ、行き倒れの酔つぱらひの上に雪が静かにふりつむやうに、
やつらの上に死がふりつんだ。
(強く)……私に何の科があるものかね。私の顔の美しさから、つまらぬ幻を引き出して、
その報いに死んだだけのことだもの。それ以来私は、私の顔を美しいといふ男は、きつと
死ぬもんだと思ふやうになつたんだ。
三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より

86 :
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。さうぢやなくつて?
きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。
ダイヤでもサファイアでも、宝石の中をのぞいてごらんなさい。奥底まで透明で、
心なんか持つてやしないわ。ダイヤがいつまでも輝いてゐていつまでも若いのはそのせゐよ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

87 :
小さいときから、宝石のやうに大事にされ、可愛がられて育つてきて、私、買はれるより
盗まれるのを夢みるやうになつたんだわ。
私を欲しがる人は、盗むくらゐの熱がなくつちやいや。厚い硝子の窓に守られ、
天鵞絨(ビロード)の台座に据ゑられた私を、硝子ごしにのぞいて通る人の目の中に、
諦らめや怒りや尊大な強がりや、さういふものが浮ぶのを見るのに飽きて、私はいつか
勇敢な泥棒の目ばかりを待ちこがれるやうになつたんだわ。
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだもの。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

88 :
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。
人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相応に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。あーあ。なあ、さうだらう、早苗? 夢の代りに不安がある。これは
ダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。
しかもダイヤは決して死ぬことができんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。
お父さんは病気を売りつけるのだ。澄んだ、光つた、純粋な小さな病気を。透明な病気、
青い病気、緋いろの病気、紫いろの病気。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

89 :
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。
犯人が黒い色で考へるところを僕が白い色で考へて、一枚の写真のやうに、ぴつたり
絵柄が合ふところまで行ければね。なかなかさうは行きません。これだけ沢山の事件を
くぐつて来たのに、犯罪といふものには、僕にどうしてもわからない部分が必ずある。
或る難事件が起るたびに、僕は自分が犯人であつたらなあと思ひますよ。僕が犯人なら
何でも知つてゐて、解けない謎はない筈ですから。だから僕は一心に犯人をまねる。
犯人の考へたやうに考へ、行つたやうに行はうとして精魂を傾ける。……しかしもう一歩の
ところで、惜しいかな、僕は犯人になりきれない、何かが心の中で僕の邪魔をして……。
犯罪といふものには、何か或る資格が要るのです。いいですか。犯人自身にもしかと
つかめない或る資格が。
どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

90 :
明智:…今発射したところで、射的の人形のやうに忽ち夜が倒れて、そのむかうから朝の
太陽が顔を出す筈もありません。このピストルはただ夢み、常識を逸脱し、一つのことを
待つてゐるのです。一つのこと、つまり、夜がはつきり脈を打ち、体温を帯び、徐々に
動物特有の匂ひを得て、一人の人間の姿に固まつて現はれる瞬間を。
緑川夫人:それでそれがあらはれたら、あなたは法律の名に於て発射なさる……。
明智:いいえ。夢想の名に於て。われわれ私立探偵の役割が刑事とちがふのはそこなんです。
夢想で夢想を罰する。犯罪の持つてゐる夢の要素を、僕の理智のゑがく夢で罰する。
それ以外に何の生甲斐があるでせう。
今の世の中ぢや。善いことといふのはみんな多少汚れてらあね。だからあんた方は
汚れた善いことの味方だから、いつまでもぱつとしないんだよ。そこへ行くと明智先生は
ちがふわね。あの先生はこの世の中で成り立たないやうな善と正義の味方らしいわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

91 :
トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。さうぢやなくて?
私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

92 :
黒蜥蜴:あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の
顔が街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。
黒蜥蜴:…その夜のうちに、お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。
気がついてからのお前の暴れやう、哀訴懇願、あの涙……
雨宮:それを言はないで……。
黒蜥蜴:お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は美しかつたのに、
生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に負けたんぢやないわ。
命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

93 :
今日も何事もなく日が沈む。この大都会、白蟻に蝕まれたやうに数しれない犯罪に
蝕まれたこの大都会に日が沈むんだ。人、強盗、誘拐、強姦……、言葉にしてみれば
他愛もないんだが、みんなその一つ一つに人間の知恵と精力と、怒りと嫉妬と、欲望と
情熱がせめぎ合つてゐる。その一つ一つが狂ほしい道に外れた人間の、それでも全身的な
表現なのだ。こいつのどこから手をつけたらいい? 依頼主か。こりやあ自分のことしか
考へない。犯罪の本質にいつも向き合つて、その焔の中の一等純粋なものを身に浴びなければ
ならないのは僕なのだ。僕には犯罪の全体が見える。それはたえず営々孜々とはげんでゐる
世界一の大工場みたいなものだ。ほとんど無数の工員。昼夜兼帯の作業。あの夕映えを
見てゐると、その工場のものすごく巨大な熔鉱炉のあかりみたいな気がする。……今ごろ
黒蜥蜴はどうしてゐるだらうか?
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

94 :
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。……さういふ考へは、僕にも
分らんことはないよ。
僕の惚れ方は相手の手も握らずに、相手をぎりぎりの破局まで追ひつめることしかない。
これほど清潔でこれほど残酷な恋人はないだらう。僕のやさしさは、相手を破滅させる
やさしさで、……これがつまり、あらゆる恋愛の鑑なのさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

95 :
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに
黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、
明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに
黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか
明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか
黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく
知つてゐる。
明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。
黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に
明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。
黒蜥蜴:法律が私の恋文になり
明智:牢屋が私の贈物になる。
黒蜥蜴&明智:そして最後に勝つのはこつちさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

96 :
この「エヂプトの星」はかうして私の手に渡つて、私の胸にかがやいてゐるのに、
露ほども私に媚を売らうとしない。女王さまの胸につけられてもきつとさうだらう。
宝石は自分の輝きだけで充ち足りてゐる透きとほつた完全な小さな世界。その中へは誰も
入れやしない。……持主の私だつて入れやしない。……人間も同じこと。私がすらすらと
中へ入つてゆけるやうな人間は大きらひ。ダイヤのやうに決して私がその中へ入つて
ゆけない人間。……そんな人間がゐるかしら? もしゐたら私は恋して、その中へ入つて
行かうとする。それを防ぐにはしてしまふほかはないの。……でも、もしむかうが
私の中へ入つて来ようとしたら? ああ、そんなわけはないわ。私の心はダイヤだもの。
……でももしそれでも入つて来ようとしたら? そのときは私自身をすほかはないんだわ。
私の体までもダイヤのやうに、決して誰も入つて来られない冷たい小さな世界に変へて
しまふほかは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

97 :
明智:君は……
黒蜥蜴:捕まつたから死ぬのではないわ。
明智:わかつてゐる。
黒蜥蜴:あなたに何もかもきかれたから……
明智:真実を聴くのは一等辛かつた。僕はさういふことに馴れてゐない。
黒蜥蜴:男の中で一等卑劣なあなた、これ以上みごとに女の心を踏みにじることはできないわ。
明智:すまなかつた。……しかし仕方ない。あんたは女賊で、僕は探偵だ。
黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに
盗んでゐた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつと
つかまえてみれば、冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。
黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。
明智:しかし僕も……
黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。
明智:何が……
黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

98 :
雪の中に、(をとめ)の肌のやうな花々が咲いてゐる。その雪の花は百合といふのだ。
百合は聖なるを意味する。更に、嬰子のやうな純潔な心を意味する。汝らはそれに
接吻するであらう。その夜、聖なる命が世に放たれるのだ。
いとしい娘よ。そなたは未だ持つてゐるだらう。わしのやつた五つの宝石函を。
その一つは、海のなかゝら、人魚たちが捧げ持つて来る真珠で満たされてゐる。
それらは、女たちの心をうつし取るたからだ。それらは牛の風呂で浴(ゆあ)みする
女の肌に似てゐる。牛の風呂で浴みする若い女の房のやうだ。真珠を月に向つて
透かして見るがよい。そなたの希ふ女の像や心が、その表面に映るであらう。それは殆ど、
三百を数へることだらう。そなたのまるい、すべすべした肩は、真珠が大変よくうつるだらう。
真珠は、なべての悲しみや、希ひをやぶられた女の秘かな歯噛みや、清純な諦めなどを
現はしてゐる。だから、真珠の曇りは清い曇りなのだ。
三島由紀夫「路程」より

99 :
>>63の前
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。生れて来て何を
最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて不幸を幸福だと
思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気があたしには
するの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を止めてゐて
ごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

100 :
プラズマクラスター効果なしwwww
http://twitter.com/reoasa/statuses/28750429173055488 

101 :
○ 森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、その風景、大きくは自然、
全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、
再編成される。預言並びにunzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。
○ 人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、更に更に生真面目な
存在である。いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく美を
守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。
○ 微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

102 :
○ 近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。それは苛酷な殆ど
不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、そのなかのマスクの一つに、自分の
「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべてマスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を
吐露することの困難は選択の困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。私はむしろ古代の
壮大な二重人格を思慕する。
○ 同情について
――同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
――同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、悪魔的なるものは
悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。
それは人類の最も本質的な病気であり、愛の頽廃である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

103 :
――同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。義憤はある道徳観念
(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度はこの結合の確信の強度に正比例する。偶発的な
結合をも確信が之を必然化する。かくて義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、
より多く立つが、しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく単なる
情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しくこの「同情の涙」をば結果
あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする底(てい)の誤謬を犯して来た。
――同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

104 :
○ 痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。
○ いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは明らかに教育の一部である。
○ 精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。
○ 天才は精神の岸辺である。
○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」
○ 最も強烈なる主観の持主は、また最も強烈なる客観の持主である。
○ 少年時の数々の思ひ出は怖ろしいほど悲劇化されてゐる。
何故であらうか? 形成がどうして喜劇であつてはならぬのであらうか?
○ 危険であると同時にその危険を排除するものは一家言的心理である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

105 :
――先づ詩人のメカニズムについて語らう。
詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた刑罰の如きものであり、
その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい
純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」
(経験的ナルモノ)といふことと「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、
本質的な悲劇が宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、この自己破壊は鉛に
化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。それは形成を通して輪廻に
連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。(自己自身から唐突な仕方で永遠に
つながること)
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

106 :
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた運命的な時間は、「じつくりと」
値踏みする余裕をもたせなかつた。それは西欧に於ては後年、リルケ、ヴァレリィ等によつて果たされた処の
ものである。
――更に詩人のメカニズムについて語らう。
詩人は常人の裏返し的存在である。内部に皮膚、外部に血と肉、内部に於ては抱擁、外部に於ては孤絶、その
ヒリヒリする過剰な痛覚を以て外界にさらされ、感覚を超越し、一種の痛烈無残な不感帯を形成する。内部に対しては
温柔繊細な感受性の皮膚を以て、内在的万象を抱擁し摂取し吸受し、しかも無限に与へる。この内外の相剋が
矛盾的綜合作用をなして詩人の形成に参与する。詩人の形成そのものが矛盾である。矛盾を超えて矛盾する存在である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

107 :
○ 偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。それ自身健康無礙(むげ)なる状態は
存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
○ 承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして平和熱へと転換する為に、
自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。
○ デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。併し真の戦争責任は
民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の群衆に存立の礎をもつやうに、我々の
時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から
偉大な古典的文学の創造力を奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。この畏怖に
我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

108 :
○ 日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
○ ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ又取入れられ得たので
あると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、ナチスが禍ありし如く、デモクラシイも禍あるものと
なるであらうと思ふ。
○ 偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
○ 芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。しかしその
融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして再び蝋として凝化し固形化する。
これが詩人の作品である。即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは地上的なる形態を超えて
存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
○ 人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

109 :
○ 退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は
健康な人間ではなかつた。君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、
暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、
もつとおそろしく退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は君らを
愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。――なつかしい「描かれる」一族よ。
君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の
作者となる義務があるだらう。(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

110 :
○ 流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。わたしはかゞやく変様の
一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして永遠にわたしに寄添うてあれ。
○ 神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。
○ どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。それを書いた瞬間に、
すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や荷車や鈴や軋りやあらゆる騒音が活々と
ゆすぶれだし、約束のやうに辷り出す、さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや
恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

111 :
「胃」
印度古代一青年美女に恋せり。
美女傍らに熟睡せる時、仏、青年をして変形せしめ美女の口に入れしむ。内に森あり、花園あり、一宇の堂あり。
金色妙なる龕の中に金色に輝くもの安置せらる。
一尼僧出でて曰く、
こは胃也。
何万億年前の汝の胃に汝自身が惹かれ汝自身が恋する也。
いでその胃が女に宿りし来歴を語らん。
……大海をわたり……
つひに胎内に胃となつて結実せり。
即ち汝は汝自身に恋する也と。
「女死する後、
たをやかなる胃はその体内より語り出だせり、
われを忘れざれ、
何万年の後われは再び生れん、われを焼け」
      ○――――――――――○
「輪廻は性を転ぜしむるものでありませうか?」
「極めて容易に」と婆羅門はこたへた。「相恋する男女は共に自己が輪廻の上にかつてありし自己の証跡に
恋するものであります」
      ○――――――――――○
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

112 :
「胃」
機縁
ある旅行者が野中の一軒家に入る。
するとその中にはその外部にある一切のものがあつた。
その内部のひろさは外部(全宇宙)のひろさと同様であつた。
しかし人かへつてこれを告げるや、婆羅門は微笑んで云つた。
おまへはその中に入つたと見た時、はじめて真に現存の世界にはひつたのである。おまへが見たといふ現世と
同じ世界は、この現世そのものであつたのである。しかしはじめて機縁が、この現世とその広さを汝自身に
示したのである。この世界は一であるが、機縁なきものゝ心にある世界と、機縁あるものゝ心にある世界とに
わける時二つになる。汝は汝自身の内へ汝の第二の世界に入り得たのであると。
この世界は一にしてしかも二重である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

113 :
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。真の
同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、無意味にして
有害でさへあるであらう。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

114 :
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。誤解しては
ならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を生ずる時、既に
道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ強さを以て執拗に
維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には報いが落ちるであらう。
即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より卑怯に遁(のが)れんと
する者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して
早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、
国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、
彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

115 :
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に謳歌したのである。
沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。我々は自らに憤り、
又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほどもちながら、
自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。我々は現在現存の
刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。もし我々に死が
訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

116 :
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ目賭したのは
「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握されつゝあるが如く直感されたのである。
危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の
意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含するのである。意識内容はむしろネガティヴであり、
意識なる作用そのものがポジティヴであると説明してよからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な
叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日正午、
異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

117 :
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみがいかに
同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、これによつて
超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を得るであらうと信ずる。
人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ忘れ果てて泣くのである。この
刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の極小に於て最高最大たりうることを。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

118 :
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。「国民生活を
明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。この刹那、わが国体は
本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す天皇御親政の世に還つたと
拝察せられる。黎明はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
困難なる事態より国家を救ふの力は、既に一応の教養と智識によつて冷静正鵠なる判断を得たる廿歳以上の
智識青年の内に深く畳める情熱に俟つところ最も大である。真に宇宙の秩序を秩序とする太宗の文化を建設し、
平和世界の憧憬の的たらむ祖国に尽くすべき力は、我々に俟つ。
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。ますらをぶりは一旦内心に
沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、なよ竹のみさを持せんと力めることこそ、
わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より

119 :
僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものすべて愛した。サーカスの人々をみて僕は独言した。
「ああいふ人たちは」と僕は思つた。「音楽のやうに果敢で自分の命を塵芥かなぞのやうに思ひ、浪費と放蕩の影に
やゝ面窶(おもやつ)れし、粗暴な美しさに満ちた短い会話を交はし、口論に頬を紅潮させながらすぐさま手は
兇器に触れ、平気で命のやりとりするであらう。彼らは浪漫的な放埒な恋愛をし、多くの女を失意に泣かせ、竟には
必らずや、路上に横はつて死ぬであらう」と。僕は又、天勝の奇術舞踏に出てくる大ぜいの薔薇の騎士たちを愛した。
彼女達は、楽屋でも、日々の生活の上でも、あの危険な、胡麻化しにみちた、侘びしく絢爛な、表情と身振りとを、
決して忘れまいと思はれた。そこには僕の幼時にとつて禁断の書物であつた講談倶楽部やキングや新青年に出てくる
血みどろの挿絵のやうな、美しい生き方がされてゐるのだと僕は疑はなかつた。長い剣が触れ合ふたびごとに本当に
紫や赤の火花がとびちり、銀紙や色ブリキで作られた衣装が肉惑的にゆすぶれ乍らキラキラきらめきわたるのをみて、
僕は自分の胸がどうしてこんなに高鳴るのかわからなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より

120 :
僕が何かになつてみたいなあと思ふとき、それは大抵派手な制服であつた。僕の幼な友達もそれに心から同感した。
即ちエレヴェータア・ボーイであり花電車の運転手であり地下鉄の改札掛である。地下鉄の構内には一種の
やうな匂ひがある。日もすがらさういふ匂ひを吸ひ眩ゆい電灯の白光にその多くの金釦をかゞやかせてくらして
ゐるといふことが、彼等を尚更のこと神秘の人種めかしてみせる。僕には到底ああはなれまいと幼な心にも思はれた。
それで一そう憧れは険しくなる。――ホテルのエレヴェータア・ボーイや花電車の運転手といふ職業ほど、此世に
危険な悲劇的なやけつぱちな職業はないといふ風に感ぜられる。僕はホテルなどで彼等に話しかけられると、
不良少年によびとめられたやうに我しらずドギマギした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より

121 :
僕は少年期に入る。ブラと仇名された四つ五つも年上の少年。彼は落第してきて僕らのクラスで暴君のやうに振舞ふ。
僕はすぐさま彼に英雄を発見した。言ひかへればサーカスの人を。彼を不良だと呼ぶことは実にすばらしい信仰である。
僕は彼と対等な口をきゝながら息がつまりさうな気がした。それほどまでに僕は無理を犯した。彼の白い絹の
マフラーは、派手な沓下はまことに好かつた。(中略)
ブラの魂は人には言へぬ暗い汚濁のために哭きつゞけてゐる。――僕はさう思つて同情に惑溺した。そしてその同情が
扮装欲のわづかな変形であることには気附かないでゐた。……ブラはしばしば学校を欠席しはじめた。それでも
偶には来る。あるとき用事で遅くなつて僕は夕日のほの明るいロッカア室へカバンをとりにゆくために入らうとした。
すると学生監室のドアが陰気に開いてブラが出てくる。ブラは無理に笑ふ。おおでも目の赤いこと。君でも泣くのかと
僕は責めたいやうな気持だつた。僕はだまつてゐた。ブラは学生監の悪口を二言三言云つた。僕は悪口をいふブラが
好きである。一緒にかへらうと誘つたところが、珍らしくもブラは承引した。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より

122 :
(中略)桜のトンネルを出たときにブラは僕の顔をみないで軽蔑したやうな口調で言つた。――「平岡! 
貴様接吻したことある?」僕は後から来ていきなり目をふさがれたやうな気持であつた。僕はもうドキドキが
止まらなくなつてしまつた。上ずつた声で僕は返事をせずにはゐられなかつた。「いや、ないんだ、一度も」
「フン」とブラは感興がなささうに云つた。「面白くもなんともないぜ。やつてみりやあね」――二人は赤い
煉瓦造のボイラア室のそばをとほつた。蝶々がうるさく足にからんだ。
「もう、俺、いゝところへいつちやふんだ」
「ぢやもう逢へないかもしれないね」
「逢いたかないや」
僕にはこんな露骨な愛情の表現ははじめてだつた。なんといふ粗暴な美しい話術。僕は一瞬、僕も亦サーカスの人々の
絵の中にゐると感じた。僕は返事ができなかつた。僕は耳傾けた。その言葉がもう一度くりかへされるやうにと。……
だがブラはだまつたまゝ歩きつゞけ、いつのまにか僕らは裏門から、灯のつき初めた町の一劃へ出てゐた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より

123 :
花が咲くとは何といふ知恵のかゞやきでせう。咲くとは何といふ寂しく放胆な投身の意味。外へ擲(なげう)つことが
却つて中へ失はしめる勇気のあらはれです。内外の間に存するものをそれは捨てもせず生かしもせずきはめて
爽やかにさうと試みるのでした。この生命への不遜がいつか或るより大きな意味に叶つてゐることを信じ
させずには舎(お)きませんでした。(中略)
花が咲くとは運命でありませうか。花が咲くとは決心でせうか。僕にはそれがよくわかりません。まことに
荒々しい力が優に美しいものを押しゆるがしそこに震盪と困惑にみちたあまりに、憧れに近いやうな心地を
生み出すのを、人は創造とのどかによびます。運命も決心をもさういふ創造の一党だと私は信じ難かつた。
花が咲くとは風が吹き鳥がうたふやうに、あるおほきな無為から生れたもう動かしがたい痺れたやうな創造だと
僕は思ひました。決心も運命もそこでは投身そのものではなく、投身直前の、あのゆらゆらしたなつかしい虹の
時間でありました。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

124 :
(中略)
もう一度僕らは同じ質問をくりかへしませう。「花が咲くとは?」「なぜ花は咲く」「いかにして花は咲く」
「なんのために」質問はこのやうに微妙な変様をかさねます。ともあれ花が咲くといふこの言葉、なんといふ
なつかしい慰めにあふれた言葉でありませう。それは訪れです。それは一つの便りです。それはある確乎たる海の
訪(おとな)ひのやうなものでした。燕とぶ巷をこえ潮風にきらめく松林の梢はるかに輪廻のやうに音立てゝゐる
あの海の訪れでした。(中略)
季節をまちがへずに咲くことはよいことにちがひありません。しかし花が咲くのはそのためばかりではありません。
多くの愛恋から見離され、かずかずの哀しみを拒みながら、抱きつゞけられたひとつの約束を、みごとにいさぎよく
破ることでもありました。さうした清らかな違約は、単なる放恣ではなしに、ある与へられた回帰の命令であつた。
出発への不信からではなく、もはや浄福にまで高められた信頼からもえ出でてくる素直な拒否のしるしであつた。
花を聡明なる宇宙とよぶなら、それはかうした聡明さであらねばならなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

125 :
詩人は今日こそ花が咲く季節々々を呆けてうたつてゐてはならないのです。今こそよみがへる花々の歌が、
その死の意味よりして、切なく奏でられねばなりません。よみがへる日はおほきな回帰の日であつても出発の日とは
なり得ません。人々は死ぬやうにしてよみがへる。花々は枯れるごとに咲く。それはたゞ徒爾でせうか。救ひが
来る時、来るのは救ひではなくて、いつも慰め手であるやうに思はれるのです。花々の咲くのがつねに慰め手の
来訪にすぎぬのなら、なぜもつてそれは僕らのよすがになり得ませう。茲(ここ)に待つことのはかりしれない深さが、
菖蒲の園を侵す夕闇のやうに、濃まやかにあたりを籠めて下りてくるのであります。
しかし待つことについて僕らはまだいふべき力をもちません。もつと耐へ、もつと書いてからでなければ。
もつと生き、もつと苦しまねば。さうして莞爾としつゝ心はいつもあらたな悲しみに濯がれてゐることをもつと
学ばなくては。かくして詩人はいつの日も失はれたる預言の遵奉者です。この上なく直截に、「花が咲く」と
うたひうる人です。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

126 :
昔、燦爛たる天空へ手をさしのべて星占ひした人々が僕には羨ましさの限りでした。万物と一つにならう、
万物の嘆きと一つにならうとする豪毅な意志をもつ人よりも、彼らはむしろつゝましやかに万物を彼ら又ひいては
僕らすべてに対する示者とみる人でありました。僕らの目が万物から何ものかを示されることを信じたのです。
しかし僕らと万物の関係は、自と他の対局ではなかつた。そこにあるものはもつと秘めやかな不可思議な聨関で
ありました。万物は僕らにむかふときいつも高貴な示者であつたのです。それは同時に、僕らが「映すもの」で
あつたといふことです。のりかゝること、憑くこと、存在の本質を蝶のやうに闊達に舞ひのぼらせ、分ちながら
投身すること、それを僕らは示すと呼びました。映すことには之に反してある熱い無為のこもつた正確さが
在つたのです。憑かれながら確固として映すのが、僕らの所業でした。そのとき示者と映すものとは共に他であり
同時にまた共に自でありえたのです。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

127 :
(中略)
示者によつて身を見ることこそ、創造の理に外なりませんでした。星占者はかくて身を見るもの、すなはち彼らは
天への彫塑者でした。宇宙への正確な造形術を、自分の克明な手の皺のなかに、しかと弁へてゐたのでした。
彫刻の不朽なかなしみを誰よりも直截に云ひえたのは彼らであつた。示者の憤りを誰よりもよく知つてゐたのは
彼らでした。
かういふ星占者のかなしみも僕にはよくわかるやうな気持がします。宇宙に対して彫塑者の手をもつこと、
それはどんなに人間であるゆゑの悲しみにみちた事柄でせう。僕らの手がそつくり天のどこかの一隅にのこされて
しまふとき、僕らは弁証にあふれた星空を、支へきれぬほどに重たく感じるでせう。僕らには星座のやうな孤独が
降りてくるでせう。この種の孤独のなかでは、神と親しいものたらんがために、永遠に神を拒否しつゞけねば
ならぬでせう。そして一言否といふたびに僕らは千度の投身を敢てせねばならぬのです。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

128 :
(中略)
僕らは薔薇の花に背をむけるとき、その背の向け方から学ばねばなりません。季節がめぐるのは、――夏の最後の
光輝をつんざいて黒々とした葉につゝまれた樫が、はや初菊の薫りをはこんでくる雲のゆきかひに、荘厳に身を
ふるはす刹那のやうに――、花々の饗宴のあとに豊かな収穫の秋が訪れ、やがて連峯の頂きをめぐつて白雪の
かゞやきが日ましにひろくなつてゆくのは、一つの礼節なのであります。知恵にみちた、ふしぎなやさしさに
みちた礼節でありました。かうした礼節のひそかな正しい愛を僕らには測らう術もありませんでした。ある確かな
領域を占めてゐるのに測られぬ物事があるものです。そこでは測られると云ふさへ、可能の意味ではないのでした。
信ずるといふ尺度によつてのみ正確な度数を示して測られる物事があるものです。そのとき信ずるといふこのことは
物差でさへないのでした。触れて来るものをみなその内へとりこんでしまふやうな明澄さ。快晴の内部。僕らは
内部へ陥ちてくるものゝみを信じようとして、その内部自らのおほきな陥没について知りませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

129 :
礼節のまことのやさしさに僕らは盲ひであつたのです。礼節が詩人のみぶりとなるや、厳かな愛が彼らを貫いて
ながれました。運命の突端を担ひながら、彼らはめぐりゆくものに自分たちが親近にするのを感じました。
超克といふことの深いかなしみも、彼らには大らかな礼節をのぞいては考へられなかつたのです。洵に岸を
歩む人である僕らは、たえず彼岸の意識に浸つてゐます。しかし彼岸への川の超克が僕らの考へ得るすべてであるなら、
それは侘しいことではないでせうか。とりわけ川のはてに日が沈み、夕映えが水に映つて千々に砕かれた牡丹のやうに
みえるときは。……
かくて僕らは最初の言葉だけが確かであるとの誤謬に陥るのではありますまいか。その後のことばの証しは
軽んぜられて、預言のみが。その後のことばのすべてが再び最初の言葉であれ不当に要求される誤りが。――第二の
言葉であることは第三の言葉であるよりも辛いことであります。花が咲くとはむかし第一の言葉でありました。
今やそれは第二の言葉であります。むしろ第二の言葉であれと花が花自身に教へるのでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

130 :
星がまたゝき、葉末に露が結ばれ、萩の下かげに虫がすだくのさへ、なべては第二の言葉にならうとしてかなしんで
ゐる万物のいとなみではないでせうか。僕らにとつて生きてゆくことは宿題でも追憶でもなくなるでせう。
生きてゆくことは僕らにとつて凝視に庶幾(ちか)くなつてゆくでせう。凝視といふのが当らぬなら、凝結といふも
同じことでせう。生成としての凝結でなしに、凝結があらゆる一瞬にまつはつてゐて、間断なくそれに生の意味を
与へること。やがて僕らは斜めにとびゆく星となるために身を削がれるでせう。やがて僕は蠅のやうに物狂ほしく
宇宙の時象めがけて飛ぶでせう。それらの時象の目をさまたげ、あらゆる対象の圧者となるでせう。僕らは
このやうな驕慢な倫理を深く愛します。僕らは翼の遍在を信じ、それらの翼の戮者を信じます。あまりにも
すみやかな愛を信じ切つて、その愛のなかへ千度の投身を敢てして、なほ且つ僕らはその愛と共にゐることを
忘れるのです。共在を忘れることによつてのみ、僕らの愛は完成するのでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

131 :
(中略)
優れた無為、それを僕らは水や風に対して考へました。先づ僕らは風のことを夢想しました。晴天の、凪ぎつくした
海にあつても、ある距離だけ岸から離れると、そこにはいつも帆船の帆を孕ますに足り乗手の髪をなびかすに足りる
ある不朽の迅速な風が吹いてゐるといひます。その風はなまなかの生物とは関はりのない、しかも一種過敏に
失した傷つき易さをもつ非情の風でありました。なぜならその風の所在に触れそれを感じそれを耳に聞き目に見
鼻に嗅ぐ時のみでなく単にそれを知りそれを夢見るにすぎぬ時でも忽ちにしてそれ自身の本質を根底から変へて
しまふやうな存在をもつた風でした。常住である点で頑なであり、傷つき易い点で優柔であるその風は、無関心と
非情の性質に於て、却つて人間の本質と深く相触れてゐるのでした。人間存在の本質を抹するその風に、実(げ)に
人間の真の不在が、即ち真の本質が潜在してゐるのではなかつたでせか。そこでは微小なポジティヴに対する
無窮のネガティヴがあり、あの巨大な夜のやうに鏤められた星辰を以て僕らを深く覆うてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

132 :
かやうなものこそ宇宙の啓示といへ神秘なる証しといへます。そこは到達しがたい裏側であるが故に、何事にも
代へ得ざる礎の有処でした。あの烈しい実在の正統な母胎でありました。いかなる壮麗無比の夢がその風のなかで
ゑがかれようと、風は突如としてその夢を奪ひ、奪はれた夢のなかへ急速に陥ちてゆきます。激しく奔騰しながら
風は嘶きました。人間の夢のひとつひとつが風にはあらはな敵意と感じられたのです。
人間はこの風を記述するのに嘗て方法を知りませんでした。陸(をか)に揚げられるや忽ちその光輝は失はれ
華麗極まる彩色の美も死灰の色に移ろふといふあの深海魚をさながらに、人間のもつ作用の最も遥かな作用である
「知ること」に依つてすら、目にもとまらぬ迅さで風は己が様態を変へてしまふのでした。知ることを超えて
いかなる記述があり得ませうか。
深海魚のもつ美しさといへども、海底ふかく潜つてゆけぱ、目のあたり之を見ることができます。が、銀貨の
表をしてその裏を窺はしめることは不可能事でなくて何でありませう。しかもこの裏面は不動の厳めしい裏面では
ありませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

133 :
この風こそは人間の真の不在をひつきりなしに証ししてゐるたをやかな面差の持主でありました。東方の仏陀のやうな
幽婉さを以て、宇宙万象のときめきに美しく慄へつゞけました。おもへば烈しい実在が人間の悲劇となることも、
その実在が彼(か)の風から生れ彼の風の逆説をきらびやかに身に纏つて、扨て人間の陥没をあまりにも荘厳に
アンダラインするからでした。風は逸脱と普遍によつて、摩訶不思議な中間者となりました。媒体ではなく中間者に。
風は超えるといふことを逸脱しつゝ自由でした。超者と被超者との間を自由に往来できるのは風のみでした。
そこに於て風は手を要しませんでした。風は手をもちませんでした。
それだのに、手をもつ人間が、かやうな風の嫡子たる烈しい実在を内在する機会に遭ふとは、いかに高貴な苦悩に
みちた歓びでありませう。清らかな愛の証跡も、運命の苦しい水脈(みを)も、あまねく歌ひつくされて、ふと
物に憑かれたやうに立止るあの真昼の時刻の歓びでありました。それは人間の癒しがたい疫病ではありましたが、
その悲劇の本性に於て、人間の魂の健康に相触れるところが寡くなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

134 :
(中略)
風について語ることは、恰かも透視者がその霊妙な術を施し終つたあとで感ずるやうな死に庶幾(ちか)い疲労を
呼びさまします。透視者はその果てに死ぬといはれてゐます。しかしこのやうな疲労こそ人間の営為が、ある深く
美しい無為につながつてゐることの一つの証跡であり、人間の営為がかうした美しい無為を橋としてのみ現象と
実相のいづれからも逸脱し得るといふ一つの教へでありました。逸脱と遁走、――疲労はそれへの方法でした。
迅速きはまりない風に対して、彼(か)の美しい無為を持することは、巨きな古代の節制でありましたが、現代は
その代償に、死の惧れさへある疲労を負はせずには措きません。嘗て多くの船舶が憩うてゐる波止場の切岸に
立つた僕は、水面に向ひ沖に向つてこのやうに呼びかけました。水よ! 水は永遠に疲れてゐる。汝の内にいかに
強い意志が籠り、いかに烈しい決心が宿らうとも、汝自身のもつ疲労をあざむくことはできぬ。疲労は汝の属性であり、
汝も亦、疲労の属性であるからだ。永遠に疲れたるものよ。実在をたしかに支へ、支へる力の無為のために、
驕奢を保て。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

135 :
(中略)
――僕は水にむかつこのやうに呼びかけました。水はそれに応へるやうにもみえなかつた。そこで僕は青い山々に
向つて、群れ飛ぶ鶴に向つて、古代の国々に沿うて流れる海峡の潮に向つて、折から数多の松笠が夕映のなかに
耀いてゐる傾ける松の森に向つて、檜の薫高い谿間に向つて同じやうに呼びかけました。万象は応へることを止め、
死にゆく神のやうに凝然とうなだれました。そのとき僕は、今もなほ僕自身が呼ぶものであることを、深く羞ぢました。
自ら宇宙の静謐の一分子であるといふ至上の愉楽は、今在る苦しみに身悶えする人間にとつて、いつかは最高に
享受されるでありませう。それまでいかにしてこの苦しみをつゞけるか。否、持続の意識が、既にその苦しみを
軽減するでせう。かゝる軽減から更に悪しきものは生れ出ても、どうして良きものが生れませう。投身と陥没が、
逸脱と遁走が、小田巻のやうに美しく輪廻せねばなりません。苦しみが将に此処にある日のことを、僕らは
祝日として歌ふべきであります。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

136 :
(中略)
今日、出発の意味を真に知るために、知慧の輝きがいかなる値ひを持つべきか、僕らはくどくは云ひますまい。
出発は輪廻からの解放ではなしに、まことに美しい日のための、輪廻の祝典でありました。そこでは知慧といふ
優雅な衣裳の、繊細な褶(ひだ)のひとつひとつが、たぐひなく華麗なものとみえ、すべては驕奢の、魅はし
ふかい影にあふれてゐました。僕らは斯くして、帆や旗について考へたのです。
帆や旗について、あれらの闊(ひろ)い風について僕らは考へたのです。すべてはためくもの、はためく姿を以て
風に対するもの、さういふ存在の比喩を僕らは熱心に考へたくおもひました。人間があの仏蘭西(フランス)の
哲人の云つたやうに葦であるべきか、また今茲に語るやうに旗であり帆であるべきか、――彼の偉いなる風を
語つたのち、僕らは思惟したく考へました。なべてはためくもの、烈しい実在をば己が裏側から刻明に表現しようと
する努力。僕らはさうして僕らの裏側を、この上なく烈しいものに対する、繊巧無比な楯としました。その楯は
人を覆ひかくす世の常の楯ではありませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

137 :
(中略)
人間の所謂発見とは? 寓話はいつでも教訓の私生児です。即ち人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙の
どこかにすでに完成されてゐるもの――すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎないのでした。発見は
完成の端緒であるといふ言葉は、また、完成は発見の端緒であると、神秘な口調で言ひ直すことができる筈でした。
「完全に」――この言ひ方は時空を超えた言ひ方であるのでした。在るとは在つて了つたといふことであり
在るであらうといふことでした。そして同時に、不在の意味が極度に神聖視される筈でした。完全存在が完全不在の
高貴な雛型となる筈でした。その場所では、本物も偽物も模写も同じなのではありませんか? 贋金つくりは
正銘の金貨をいやでも作るのではありませんか。偽物も本物も全く同価値ではないのですか。
では何故いふのです。正真の「永遠の青空」などと。あれは冗談ですか。却々(なかなか)以て、人間はこれ以上
真面目な物言ひはできぬ筈です。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

138 :
なぜなら右のやうな完全さが人間界で通用するとは人間の可能性を予めすものであり、可能喪失の足場に於てこそ
一番高い建築がなされ得るからです。一番高い建築とは、即ち人間の死でありました。
この得難くまた得易い秀麗な建築。それについて語ることは又更に大いなるものについて語ることでもあります。
そしてその建築の哀切な高さについて。
可能性を放棄するとき人間の身丈は嘗て見ざるほど高くなるであらう。その高さは深部の明澄とすらもはや
無縁なものであるだらう。しかしどこか脆弱な高さである。僕らはそれに気附いて戦慄しました。
死といふものが、あの物質の老朽のやうに、一刻々々が予兆にも触れられざる潔癖な緩さに満ちたものだつたら。
海に沈む日のやうに、蒼褪めた死神の頬をも染めて止まない赫奕たる幻光を放つものだつたら。頽落する宮殿のやうに、
時間の秩序を徐々に濁らせ、つひには別箇の瑰麗な秩序へと凝結させる性質のものだつたら。又は、地上に落ちる
流星のやうに、ある高貴な衝動が無為にかゞやいた一本の弧にまで浄化されるのであつたら。――それはよいであらう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

139 :
しかし人間の死は、人間の死は何か別のものです。残された意志と云つたやうなもの。地球がもつ頽唐の感情を
奪去つたやうな一つの意志。最後の征服意志。時空の中絶をも奪はうとする一つの意志が、あるひは死への熱情となり、
あるひは不死への願望となるのでした。そして時にはそれが、人間に対して死自身がもつ不変の意志とも、全く
一致することさへあるのでした。そのみかけからの共謀も、戦慄に価する脆さをば、打破るわけにはゆかなかつた。
可能性の放棄といふ気高い英雄的行為。その高さが意志によつて脆くされるのであらうか。意志といふ白蟻が、
塔の高さを毀つのであらうか。否、むしろあの高さは意志様態であつた。意志の暗示のてだてであつた。たゞ
可能性の放棄は意志ではなかつた。可能性は意志の原形であつたから。ではそこにいかなる造形術が企てられたの
でしたか。僕らの原始のいかなるデフォルメーションがなされたのでしたか。それは言ひ難いことの限りでありませう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

140 :
(中略)
「待つ」、それはどんなに贅沢な約束であり悔恨でさへありませう。待つといふ刹那を信ずるために、今までの
人類の歴史はひたすらにめぐりつゞけてきたのではないのか。その美しさは放心と等しく、その謐けさ寧らかさは
不屈な魂の距離であつた。このやうな距離にぬれながら、かつてなきさはやかな背信を不断に投げつゞけて
くれるのは、あなたではなかつたか。――僕らは畢竟かくして二人称へとかへるでありませう。僕らの本然の故郷、
その二人称の場所にこそ、僕らの勇気が、僕らの愚行が、甲斐なきことの純潔さを以て、乾き、また乾かされ、
たんぽゝの綿のやうに飛翔(といふより盈溢)を待つでありませう。その花蔭は、花々の密度にひしめき、海よりも
なほ色濃く、今や可能の微風の内に、最初の戦慄を伝へてくるであらう。場所の不易、場所の不朽が、今こそ僕らを
飛翔させるであらう。百万の王国の名にも値ひせぬ僕らの政治が、昼の間は、貝殻のやうに快晴の希臘を映し、
甘美な埃を夢みず、あらゆる立法の又とない出帆の契りのため、千代かけてサン・サルヴァドルたらんと念ずるで
ありませう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

141 :
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は諦観ではない。僕らの
肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当で
ある筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。
僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。時空の凡ゆる制約が、僕らの目には
可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――
そこに僕らはたえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に
僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

142 :
(中略)
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。発見は「既存」の
革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の現象的相対的変化に他ならない。既存の
革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。(中略)
読者は僕らがなぜ革命を云はうとするのか訝かるかもしれない。しかし手始めに僕らは、革命といふ概念の古さを
修正しようとかかつてゐるのだ。十八世紀以来使ひ古されたこの陳腐な概念そのものに、革命を与へることから
はじめるのだ。(中略)僕らは永遠への思慕を忘れかねて革命を欲求する。衝動のはげしさは革命の概念によつて
盲目にされはしない。熱情の血との併有。信仰と懐疑との美はしい共在。僕らは革命のスツルム・ウント・
ドランクを通じて、無風帯を留保しておくだらう。(中略)
熱情に対して、より低い次元の侵入を警戒せねばならない。あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を
昂めこそすれ、決してもみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに僕らは
誇りを感じるべきだ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

143 :
(中略)
たえず高きを憧れる存在が同じくその存在にとつて本質的な他のものによつて掣肘される時醸し出される緊張は、
その存在から矛盾と衝突が取除かれ融和と協同のみが得られる所謂「完成」と之を比べる時、何れ劣らぬものを
もつてゐるのではあるまいか。形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。結果たる
勝敗を本質的なものとして固定的に考へるならそれは変様と過渡とにすぎぬが、併し真の普遍性と永遠性は
後者のなかに見出だされるかもしれないのだ。独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
不変なるものは変様のうちにひそんでゐるかもしれない。僕らの若さはなるほど本質的なるものが分裂し互に
制約する点にもともと悲劇的なものであるといへるし、若さそれ自身が不吉であるとさへ感ぜられる。しかし
傍目には退屈なこの形成の過程は、それから生れ出る結果を俟つまでもなく、それがそのまま抽象されて評価に
耐へうる筈だ。未完的完結の形に於てその刹那刹那に終止する否定しがたい意味が見られる筈だ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

144 :
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。そしてこの時代の奔騰の前に、若者が或る
兇悪な意志で見戍られてゐることを知るであらう。新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。
神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を
歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

145 :
叙事詩人とは何者でせう。一体そんな人はゐたのでせうか。僕はこの時代にもどこかに生き永らへてゐるやうに
信じられる一人の象徴的な人物のことを考へてゐるのでせう。その人の目にはあらゆる貴顕も英雄も庶民も、
「生存した」といふ旺(さか)んな夢想に於て同一視されます。その人の目には愛情の遠近法が無視される如く
見えながら、実は時代の経過につれてはじめて発見されるやうな霊妙な透視図法を心得てゐます。その人の魂の
深部では、信じ合へずに終つた多くの魂が信じ合ふことを知るやうになります。その人は変様であつて不変であり、
無常であつて常住であります。その人こそは亡ぼさうと意志する「時」の友であり、遺さうと希ふ人類の味方です。
不死なるものと死すべきものとの渚に立ち、片方の耳はあの意慾の嵐の音をきき、片方の耳はあの運命の潮騒に
向つてそばだてられてゐます。その人は言葉の体現者であるとも言へませう。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

146 :
言葉はその人に在つては、附せられた素材性を払ひ落し、事実を補へるのではなしに事実のなかに生き、
言葉そのものがわれわれの秘められた願望とありうべき雑多な反応とを内に含んで生起します。我々が手段として
言葉を使役するのではなく、言葉が我々を手段化するのです。――かくて叙事詩人は非情な目の持主です。
安易な物言ひが恕(ゆる)されるなら、人間への絶望から生れた悲劇的なヒュマニティの持主だと申しませうか。
お嗤ひ下さい。僕の聯想はあちこちと急がしく飛びまはつてさぞ貴下をお困らせするだらうと思ひます。僕は
廿世紀の思潮が原子爆弾によつて決定されたなどと威勢のよいことは申せません。あの耀かしいヒュマニズムを
行動の原理と恃んで出発した十九世紀思潮の、継子として生れたのが廿世紀でした。廿世紀は何を発見したこと
でせう。まだ危険な試みの繰返しにすぎないではありませんか。次々と惨鼻な戦争がおそひかゝり、その間々に
もたらされた平和は、死刑囚が最後の日を待つ安楽な数日にすぎませんでした。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

147 :
(中略)
たとへばかういふ比喩が可能ではないでせうか。全世界にうじやうじやと棲息してゐるのは実は人間ではなく、
人間性はプロメテのやうに荒涼たる岩山で鎖につながれてゐる。人間の奇怪なドッペルゲンゲルの生存が企て
られてゐる。さうしていつも「人間らしいもの」は人間性の影に依て脅かされ、人間性は不実在の人間の幻影に
脅えてゐる。カントは現象としての人間と本体としての人間を区別しましたが、彼は概念的分類を超えて人間を
信じた幸福者であつたに相違ありません。僕はカントが想ひもみなかつた右のやうな不幸な比喩を通じて、
ヒュマニズムそのものに対決の瞬間が迫つてゐるやうな予感を覚えるのです。宗教的救済といふおそらく
不朽であらう永続的な理想が、いつかヒュマニズムと袂別せねばならないのではありますまいか。そして
ヒュマニズムにとつて人類はじまつて以来の孤独の苛酷な出帆が促されるのではないでせうか。そこで我々は
東洋といふあの暗い群島に衝き当るのではないでせうか。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

148 :
僕には廿世紀の問題を最も痛切に悩んでくれた人こそ、フリードリヒ・ニイチェだと思はれます。「哀しいことだ! 
人間が一つの星も最早産まないであらうやうな時が来るのだ。哀しいことだ! 最早自己自身を軽侮し得ない、
最も軽侮すべき人間の時代が来るのだ」
思ひかへせばかへすほど、愚かな戦争でした。僕には日本人の限界があまりありありとみえて怖ろしかつたのでした。
もうこれ以上見せないでくれ、僕は曲馬団の気弱な見物人のやうに幾度かさう叫ばうとしました。
戦争中には歴史が謳歌されました。しかし彼らはおしまひまで、ニイチェの「歴史の利害について」の歴史観とは
縁なき衆生だつたとしか思へません。
戦争中には伝統が讃美されました。しかしそれは、嘗てロダンが若き芸術家たちに遺した素朴な言葉を理解する
ことができるほど謙虚なものであつたでせうか。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

149 :
ロダンは極めてわかりやすく慈父のやうに説いて居ります。
「しかしながら君達の先輩を模倣せぬ様に注意せよ。伝統を尊敬しながら、伝統が永遠に豊かに含むところの
ものを識別する事を知れ。それは『自然』と『誠実』との愛です。此は天才の二つの強い情熱です。皆自然を
崇拝しましたし又決して偽らなかつた。かくして伝統は君達にきまりきつた途から脱け出る力になる鍵を与へる
のです。伝統そのものこそ君達にたえず『現実』を窺ふ事をすすめて或る大家に盲目的に君等が服従する事を
防ぐのです」――この大家といふ言葉は、古典と置きかへてみてもよいかもしれません。
戦争中にはまた、せつかちに神風が冀(ねが)はれました。神を信じてゐた心算だつたが、実は可能性を信じて
ゐたにすぎなかつたわけです。可能性崇拝といふ低次な宗教に溺れてゐたのです。
天使の翼を見るといつも僕は信仰の脆弱点を感じたものでした。ヰリヤム・ブレイクの優れた画面では翼のない
人々が見事に天翔けつてゐます。思ふに天使といふ考へは宗教の中でも伝統的な趣を多く持つたもので、そこに
可能性を期待する余地を与へ、神性の未完成を表象させてゐるのでせうか。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

150 :
「しかしながら君達の先輩を模倣せぬ様に注意せよ。伝統を尊敬しながら、伝統が永遠に豊かに含むところの
ものを識別する事を知れ。それは『自然』と『誠実』との愛です。此は天才の二つの強い情熱です。皆自然を
崇拝しましたし又決して偽らなかつた。かくして伝統は君達にきまりきつた途から脱け出る力になる鍵を与へる
のです。伝統そのものこそ君達にたえず『現実』を窺ふ事をすすめて或る大家に盲目的に君等が服従する事を
防ぐのです」――この大家といふ言葉は、古典と置きかへてみてもよいかもしれません。
戦争中にはまた、せつかちに神風が冀(ねが)はれました。神を信じてゐた心算だつたが、実は可能性を信じて
ゐたにすぎなかつたわけです。可能性崇拝といふ低次な宗教に溺れてゐたのです。
天使の翼を見るといつも僕は信仰の脆弱点を感じたものでした。ヰリヤム・ブレイクの優れた画面では翼のない
人々が見事に天翔けつてゐます。思ふに天使といふ考へは宗教の中でも伝統的な趣を多く持つたもので、そこに
可能性を期待する余地を与へ、神性の未完成を表象させてゐるのでせうか。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

151 :
神のもつ完結性、可能なるものが体現され切つてもはや神の存在以外に歩み出すことができず、アルファであり
オメガであるところの完結性、それを信じようと努める強さがもてなかつたのもあの時代として無理からぬこと
だつたかもしれませぬ。神・即ち存在自体を信ずること、それは信ずることによつて神に一歩近づきうるのでもなく、
信じない人よりも一歩至福へ歩み寄ることでもないでせう。信ずることによつて神に何ものも加へえないが故に、
しかも信ずる行為を自分の上に還してはならないが故に、神との間にたえず不確定なおそろしい係累が結ばれます。
彼は神をもつとも露はな場所で信ずるでありませう。彼は自分の全生命と神の存在の一点との間に平衡関係が
生れる刹那に凡てを賭けます。その時、神は彼自身の「自足」の鏡なのです。彼が自らの行為によつて存在それ
自体を呼ばうとすると、その叫び声が可能性を人身によびよせた至高のものであるために、存在それ自体の
完結性から宿命的な懲罰を受けねばなりません。
三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

152 :
(中略)
僕は近松に近代文学特有の不安と衰弱の心理とは別の、もつと張りのある活々とした心理を見出だして愕きました。
以前読んだ時にはそれほど切実に感じられはしませんでしたのに。――近松の心中物は明らかにデカダンスの
作物ではなく文化の創生期にあらはれる溌溂たる悲劇の精神でした。そこには訝られるほどあらたかな古代が
生きてゐました。生活のなかに悲劇的なものが漲つて、しかも些かの暗さもありませんでした。近松の人物たちは
愛といふ運命の厳しさを耀かすためにさまざまな日常の喜怒哀楽を見事に様式化してしまつてゐるのです。
そこには篩ひつくされた砂金のやうに、心の真実がわるびれず天日の下にかゞやいてゐます。封建的感情と
それを呼び做すのは容易な業ですが、正しい史眼といふものはさうあつてはなりますまい。封建制創生期の人々が、
生活のなかにまだ活々とうごいてゐる道徳規範と対決し、それを悲劇の高まりに漲る清澄な心の真実に還元し、
死を媒介として生の洵(まこと)の意味を知らうと試みる健康なきはめて常識的でさへある生き方をするのを
見る時、現代の貧しさを思はぬ人がありませうか。……
平岡公威(三島由紀夫)22歳「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

153 :
(中略)
ここまで書いて来たら、遠方で鶏鳴がきこえてきました。まだ空の色はかはらず、みづみづしい清涼な暗黒です。
もう卅分もすると窓の外の空は夢のやうに美しい紺色になるのです。その一面の潤うた紺青を、僕は一日の中の
どの時刻よりも美しい空の色だと思ひます。
しきりに汽笛がきこえます。あれは渋谷駅を深夜にすぎる無蓋貨車の立てる汽笛でせうか。ですが、汽笛といふと、
昔から僕はすぐ船を聯想してしまふのです。すぐさま僕一人を置きざりにした晴れやかな航海を嫉視してしまひます。
幼時病弱で、よく遠足に、風邪などを引いて出られなかつた記憶がよみがへつてくるのでせうか。深夜に港を
出てゆく黒天鵞絨張りの帆をつらねた大帆船が未知の海に向つて針路を定め、星のかがやく夜空の下を爽やかに
白波を立ててすすむ幻をよく見ました。帆船が汽笛を鳴らすのはをかしなことのやうに思はれます。あるひは
つねに僕らに別離と出発の感情をよびおこし、深夜の時間の深みから鳴りわたり、未知へとつきすすむ喇叭の音の
やうに僕らを力強く誘ひゆくもの、その象徴として汽笛を聞いてゐるのかもしれません。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

154 :
○ 私は悲しみのために色さへ蒼ざめ乍ら、自分の人との間に介在する塀の内側へ来て了ふのだつた。わたしは
その塀をどんなに悲しみ深くながめたらう。
しかしこのやうな、塀への愛情や憤怒や情熱は、君らの言葉では、それに当るものがない。君らはたゞ僕を
情熱なき人間と云つた。僕のマスクは君らの注文に応じてますます硬化した。僕の身悶えするやうな青春の苦悩が
君たちにはコレッポチもわからなかつた。
もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。彼にこんな暗い、
寂寞たる青春は与へたくない。
○ 天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。天才がたゞ彼の
夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく夜となく悩みつゞける魂だ。
それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。
○ 天才とは青春の虐者である。
平岡公威(三島由紀夫)推定20〜22歳「わが愛する人々への果し状」より

155 :
僕はどこにゐてもその場に相応しくない人間であるやうに思はれる。どこへ出掛けても僕といふ人間が、あるべきで
ない処にゐる存在のやうに思はれる。(中略)これは驕つた嘆きといふものだらうか。かういふ嘆きに低迷して
ゐるのは、僕の心構へが甘いからだらうか。真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。
彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。
とはいへ、この居心地のわるさが多くの場合僕の作品の生れる契機となつてゐる。僕は偶々口に入つた異物に
対する不快よりも先に、口に入れられた異物自身の不快を知つてゐる。このことは却つて、ある時代に生きる
人々の不幸を知るより先に、ある時代それ自身の持つ不幸を直感せしめる捷径である。少くとも僕はさう信じたい。
――僕を招かれざる客として遇する時間と場所の更に奥・更に彼方に存するものと僕は不幸を頒ち合ひ、頒ち
合ふことによつて親近感を得ようと欲しもする。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

156 :
今我々がそれと対決を迫られてゐる戦後の茫々たる無秩序は、我々の好悪・理論・道徳的信念のよく左右しうる
ところではない。解釈は可能であり、依然として解決は不可能である。たゞ僕は招かれざる客としてかう直感する
自由をもつてゐる。「無秩序自身にとつて無秩序は不幸であるに相違ない」と。僕は時代が自身に不幸を
課したのだと思ふ。
そしてまた人間がこの期に及んでも抱いて離さないナルチスムスの凄惨さを考へる。人間は己が病毒を指摘される
ことによつても容易に己惚れる。この弱味につけこむ者が喝采を博するのは当然なことである。人間を人間から
放逐すること以外に、よき治療法は残されてゐないのではないかとさへ思はれる。それといふのも僕は戦争時代に
人間が人間を見失つたとは考へてゐないからだ。戦争時代には人は今よりももつと切なく、人間といふ最愛の者の
消息にひたすら耳を澄ましてゐたと知つてゐるからだ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

157 :
然しナルチスムスの昂進は、地上に嘗てないほど孤独が繁殖してゆくのと正比例するやうである。ナルチスムスの
考察は孤独の考察に帰着するやうである。そのためにも僕は招かれざる客の冷め果てた目が自分に備はつてくるまで
待ちたいと念(ねが)ふ。その目を養ひ育てることが当為ではなくて義務だと感ずる。僕はその時人間関係を
フラスコの中、真空状態の中にとぢこめてみたい。心理の化学変化をしらべ、元素の周期律表のやうな、心理の
様式化と象徴化を完成したい。人間を一旦孤独といふ元素に還元し、いかに複雑微妙な結合を示す時も、その
元素の姿を見失はぬやうにしたい。かうして抽象化された熱情が、熱情本来の属性を悉く備へながら、たとへば
乾板の上に定着された焔の一瞬の姿のやうな、もはや身動きならぬ形をとるのが見たい。定着は、いひかへれば
表現は、瞬時の出来事であるべきである。何ものもとらへぬ瞬間と凡てをとらへる瞬間とは、同一の瞬間である筈だ。
物そのものでもなく固化した標本でもない生(芸術の対象としての)は、かうしてとらへられる他はない。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

158 :
(中略)(僕が好んで戯曲を読むのも)人間の孤独と、対話の絶望的な不可能とをあれほど直截に感じさせる型式は
ないからである。言葉による表現といふ行為もかくて一の戯曲的行為に他ならないとすれば文学は戯曲にその
一つの典型を見出すことができる。偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。
ゲエテが「諸々の山頂に、安息ぞ在る」といふあの詩句をキッケルハーンの頂に書きしるした時、彼は独白者の
運命を予覚したのであつたらう。
しかしいかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると信ずることから
生れて来る。自由そのものの使命感である。では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものが
それだとしか僕には言へない。そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。僕の使命は用意することである。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

159 :
伊勢物語のやうな古典をよむと畏ろしくおもはれる。日本人にはたしかにああしたものを書きたい欲求があり、
いはゆる小説家の神経では禁忌のやうになつてゐるだけのつぴきならず怖ろしいのである。日本の古典が伊勢物語
一冊であつたら現代の小説家はみな絞(くび)れ死ぬであらう。雨月物語のやうな物語をかき、もつとあがきの
とれぬ春雨物語といふ悲痛な小説をかいた秋成が、そのあとで癇癖談を書かねばならなかつた気持がわかるのである。
(中略)伊勢物語は突端まで到りついた人間の戯文である。あの物語には人生の危機がどつさりゑがかれてゐる。
それがあれほどさりげなく書かれてゐるのがおそろしい。客観といふのでもなくましてや看過されてゐるのではない。
たゞ日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して意識することなく
神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところにはげしく煌めいてゐること、さうして
真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、かういふことだけを述べておけばよい。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より

160 :
○ 廿年十月四日夜放送のニュースによれば
米情報頒布係長、興行協会長を招いて十月興行を批判し、歌舞伎はじめ、封建的色彩強く、或ひは股旅物等
軍国主義的色彩を払拭し切れず、ポツダム宣言の趣旨に沿ふもの頗る貧困也、須(すべか)らく帰郷兵士等が
新建設にいそしむ様等を描ける新作を上演し、或ひは劇作家を動員してかゝる新作を執筆せしむべきなり、と訓示す。
嗚呼、歌舞伎より封建的色彩と軍国主義をマイナスして何が残る。米国的演劇観よりは解しがたき「技術の演劇」
として歌舞伎を見なければ、彼等によつて歌舞伎並びに歌舞伎役者は廃絶の他はなからう。宣伝演劇の悪弊は
米人御自身よく御存知の筈、演劇に対する不当な干渉は、マックス・ラインハルト等有識者の来朝を待つての後に
してほしい。
(中略)
遂に歌舞伎最後の日が来た。時事新報その他の記事に一月廿日この歴史的事実が発表された。菊五郎は云つて居る。
(中略)
菊五郎にして何といふ意気地のない信念のない役者根性、「上司の指示であれば」といふこの言葉と、日頃の
芸術家気どりとの矛盾がわからないのか。
平岡公威(三島由紀夫)20〜21「芝居日記」より

161 :
「土耳古(トルコ)人の学校」
私の家の横にある坂を登つて細い道を真直に行くと、剥げた水色の番瀝青(ペンキ)に飾られた貧しい垣と
低い門が有る。其の門柱には墨で描いたのか殆ど見えない様な字がある。上方のは、土耳古回々教学校とどうにか
読めるが、下の方の奇妙な外国語がちよいちよいと顔を出して大抵消えてゐる。木造の洋風家屋は風景な庭の
一隅にあつて、二階は寄宿舎で階下は教室らしい。
日曜など、八時頃に起きて散歩に来て見ると、土耳古人の子等がどやどやと入つて行く。日曜だから御説教でも
聞くのであらう。昼過ぎになると出て来る。
寄宿舎に居るものは、かなり小人数らしい。女の児の方が多いが、男の子も少なからず居る。併し、彼等は実に
哀れな身装(みなり)をして居るのである。バンドのない状袋の様な洋服や、男の子達は短い皴くちやなズボンを
はき、見悪(みにく)く汚ない上着を着けて居る。時々彼等の口から本国の民謡風のものが唱はれるが、他は
流暢な日本語である。
平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

162 :
「土耳古(トルコ)人の学校」
或る雨の日、彼等ゴム長靴連の行方を見てゐたら、代々木八幡の方角であつた。何処でどんな暮しを行つて居るのか、
私は彼等の生活の上に好奇心を持つ。又彼等の容貌は云ひ知れぬ愁ひを含んでゐる。其の眼は、五月の空のやうに
蒼く美しいが、眉の奥深く黒い縁にかこまれて冷え切つた荒野の土のやうに沈んでゐる。その頭髪はブロンドも
あれば、稍(やや)鳶色のもあるが、酷く手入を怠つてゐると見え、雀の巣のやうである。疲れ切つてほのかな
紅色を失つた頬。凡て快活な少年少女らしさを失つて居るとはいふものゝ、彼等はよく遊ぶ。
固いボールを以て。
校庭の山羊を相手に。
秋雨の日など、よぼよぼの牝牡の山羊が、ぬれた雑草を食べてゐる。
此の老夫婦の所へ、もう直ぐ小山羊が来るさうである。
山羊は、親しみを湛へた目で私に寄つて来る。
平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

163 :
この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの
自だ。飛込自を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自者が飛び上つて
生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。
       *
告白とはいひながら、この小説のなかで私は「嘘」を放し飼にした。好きなところで、そいつらに草を喰はせる。
すると嘘たちは満腹し、「真実」の野菜畑を荒さないやうになる。
       *
同じ意味で、肉まで喰ひ入つた仮面、肉づきの仮面だけが告白をすることができる。告白の本質は「告白は
不可能だ」といふことだ。
       *
私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考へるが、もしかすると
私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部()に他ならないかもしれないから。
三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」より

164 :
私は永遠の少年だ。永遠の十六歳だ。どうか私を、私の好きなやうにさせてくれ。その代り私の言ふことを一切
本気にしないでくれ。
       *
この醜怪な告白に私は自分の美学を賭けたつもりだ。
       *
比喩を用ひる。――私は鏡の中に住んでゐる人種だ。諸君の右は私の左だ。私は無益で精巧な一個の逆説だ。
       *
逆手の一つ。――私は自伝の方法として、遠近法の逆を使ふ。諸君はこの絵へ前から入つてゆくことはできない。
奥から出てくることを強ひられる。遠景は無限に精密に、近景は無限に粗雑にゑがかれる。絵の無限の奥から
前方へ向つて歩んで来て下さい。
(中略)
       *
私は豹や狼を気取らうといふのではない。私は植物的な人間だ。しかし植物の魂といふものは、ひよつとすると
極めて残忍なものかもしれない。樹木が静かな様子をしてゐるのはそのせゐかもしれない。
       *
この本を書かせたのは私の見栄坊な心だ。
三島由紀夫「序文(『仮面の告白』用)」より

165 :
中世にパロディー文学=連歌なり謡曲なりあの奇怪な古今伝授(これも私は文芸として考へたい)なりが生れて
きたのは漠然たる憧れの為ではあつたが、文芸の次の時代の生命を奪はれたところに必然に執られねばならなかつた
姿ともいへる。パロディー文芸は学問といふやうな態度を多くとらない。生活を抽象に高めて行つて極美に達して
ゐるのは古典であるが、パロディーはその抽象を生活に還元しようとする働らきだ。日本の詩人たちの隠遁は
かゝる古典の還元の一作用である。その慨きの切なさについては頃日云ふ人も多いので云はない。学といふものは
自らの生活への還元といふよりもつと遠心的なところに立つて身にかへるのを要したのは宣長の古事記伝の態度を
みればわかる。かゝるパロディー文学は大抵の場合パロディーのまゝ伝はるか又は全く別な新文学の内に融合するか
どちらかゞ普通だが、後者は門左衛門(巣林子)に一時成就するかとみえた。蓋し自ら身に行ふ戯曲は、その
本質に於てパロディー性を有するものであつたのか千本桜や嫩軍記に於ては中世の軍記物のもつ雰囲気が切ないほど
身近くゑがかれてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より

166 :
(中略)
日本の歴史の上の創造即ち「むすび」は段階的なものではなく、デカダンスの次の空間から生れるものではない。
「かへる」のではなく、いはゆる復古でもない。その前によこたはるものゝ「はじめ」が次の「はじめ」を誘致する。
「をはり」は「はじめ」を誘致するのではなく、「はじめ」が常に「はじめ」につらなるのである。これは
日本風な創造であり、仏教風な輪廻思想ではない。「はじめ」の連結により歴史が形づくられるが、「をはり」と
「はじめ」は革命思想でむすびつけられるのではない。「はじめ」が「はじめ」に結びつきうるのは血の
ありがたさで血の連続なきところにはかゝる結合はうまれない。支那では「はじめ」が「はじめ」にむすびつくなど
考へられぬ。日本ではじめて天壌無窮の御神勅ははじめて意義をもつのである。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より

167 :
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑々(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘、いつも逢着として、生起として
語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。別離はたゞ契機として、
人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が前よりも更に深い静穏に
還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の意義を比喩としつゝ、
それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける逢会であつた。
私は不朽を信ずる者である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より

168 :
止ることから流れることへの転身は、夢みることにとつて誕生と復活の朝であらう。すべて夢みることに先行して、
礫のやうに人をうつあの幻は、まさに転身の成就に俟つて現はれるであらう。そのとき止る存在は流れる存在と
なりきるゆゑに、止る姿に無限に近づくに従つて即ち無限に遠ざかる流れの天性から、それが、一歩一歩が可能の
おそろしい断崖である「止る」存在とは似て非なる、「永久に止る」ともいふべき存在の型式をとるときこそ、
不朽の語は、はじめて使用に価する。立ちあらはれる幻は、無辺際の可能の海の極まりつくした充実と空虚の末に、
すなはち無への無限の接近の大きな消極の頂点に、すがすがしく、暁天の星をさながらの、最高の有が輝きだす瞬間、
つと人の目や心をよぎる。さうして人は陥ちるのだ。およそ陥没のなかでもつとも聖らかな陥没、上昇のうちで
もつとも美しい陥没を。あの止ることの「可能の海」が、完全の喪失へと身を向けるときに、おそらくそこには
完全さがはじめて存在する。はじめて。しかしなほ明けやらぬ東雲におぼめきわたるであらう。永くこの陥没を、
人々は愛して来たのだ。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「夢野乃鹿」より

169 :
「学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、
「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つて
ゐるやうに思はれる。
川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか。僕が「羽仁五郎は
雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と
反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。
「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、
「でも碌(ろく)な本はありますまい」
と云つたら、
「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。
雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端康成印象記」より

170 :
古人は国を思ふをものおもひと名付けてよんだ。それは恰かも恋情の呼び名と似てゐた。恋のものおもひは
憑かれつゝおもふことであつた。おもふために神憑りが、すなはち古里がなくてはならなかつた。おもふこそ
憑かれつゝ憧れること、春風を身にうけて、受身の身のよすがにむすぼほれた憧れをさぐることであつた。
いつも受けうる清らかな姿に古人は居た。そこに身を保つてあらたな目をつねに雲居のかなたへ馳せてゐた。
かゝる目こそ大きないのちの中にあつていのちの呼吸その身動きその手振のことごとくを共にし得る目であつた。
憑かれることに対して勇敢な、永劫新らしき目であつた。
詩のあらゆる故里への契りは、蕪村をとほしてむすばれた。私たちはけふの意味をそれのかなたに読むであらう。
私たちの存在から更に生ひ立つ鳥影を信ずるであらう。花時はやがて訪れる。私たちも亦、心もそゞろに
「待つ」人でありたい。重ねていふ、待つとは同時に、詩人の不朽のかなしみである。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「長柄堤の春――春風馬堤曲につきて」より

171 :
人々の関心は蝶々にも似てゐる。通ひつめる夥しい蝶に蜜といふ蜜を吸ひつくされる艶やかな大輪の花がある。
プルウストが嘗てさうであつた。――しかしこの熱烈にして気まぐれな恋人たちの訪問が途絶えると、花は一時、
疲れ果て萎え光を失つたやうにみえる。恋人たちはもう見向きもしない。花は色褪せて、花壇の翳の方にうなだれる。
果してその本質が発光作用を失くしたのであらうか? 果して豊かな蜜の井戸は涸れ果てたのか?――熱烈とは
いへないが不断に生命に向つて瞠らかれてゐる隠者の眼はある朝人気のない花壇の隅にふしぎな花の変容を
見出だして驚く。その花が嘗ての数倍も艶やかに蘇つてゐるさまを。数倍も香り高い新たな蜜に溢れてゐるさまを。
人に見られてゐないといふ秘密な喜びで、不用意な美しさを露はにしてゐるさまを。過剰が一種高貴な物憂さを
花弁に与へ、恣な光の遍満は不可思議の音楽を漲らせてゐるさまを。(別箇の生――生よりも活々とした生の
誕生が営まれたかのやうに)
平岡公威(三島由紀夫)21歳「バルダサアルの死」より

172 :
時代を考へることを皮相の面でするときそれは便乗に類する。便乗とはむしろ時代を考へない謂である。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「無題(『輔仁会雑誌』編輯後記用)」より
芟夷(さんい)の詩であることは、不朽のますらをぶりとたわやめぶりのその礎を固くすること――太しく
たてる宮柱のみわぎの裔に外ならない。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「後記(『赤絵』二号)」より
時世に敏なりといふことが詩人の特性のやうに言はれるのは滑稽で抱腹絶倒なことである。国の最高のなげかひを
共にせぬ詩人が最高の慶びにどうして侍(はべ)ることができよう。直毘をいふのはそこなのだ。だから日本こそは
古典主義即浪漫主義であるところの唯一の国である。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「古座の玉石――伊東静雄覚書」より

173 :
時間による超国家性は無窮の国に於ては国家性に外ならない。世界文学が時間で結ばれると真の国粋文学に一致する。
かゝる「時」の上の宣長の思想は本然的に血統となり血脈となり系譜となるものである。弁証法的思想史と全く
異つた思想を日本に於て宣明したところに宣長の世界的偉大がある。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「無題(『作文補遺』)」より
だんだんに私は文学を引き寄せるやうにしてゆきたいと思ふ。己れより乗り憑つて乗り憑りつつ清められると
云つたあり方に心ひかれる。さういふ場合の放胆さについてはもう口でいはぬはうがよいと思ふ。それは一種の
ニイチェ風な陥没であらうもしれぬが私は日本人にふさはしい手振だけをまなんでゆくほかはない。そして、
戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくること、それらを
私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「跋に代へて(『花ざかりの森』)」より

174 :
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の
二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などが
はひる。また、不良化とは、稚心を去る暴力手段である。暴力といふこのことだつて既に、生の過食からうまれて
くる一つの美しい憲法に他ならない。稚心を去る少年たちは、まづ可能性の海の瑰麗な潮風になぶられる。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は拒否せぬ存在である。神は
否定せぬ。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「檀一雄『花筐』――覚書」より
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端氏の『抒情歌』について」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「恋する男」より

175 :
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神へのいたましい堕落と
思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては「基督のまねび」それは愛においても肉体の
まねびであつた。近代以後さらにその精神の純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「精神の不純」より
われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「沢村宗十郎について」より
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。演劇的批判にしか
耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「宗十郎覚書」より

176 :
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから
正義なのである。下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに
悪である。
凡てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。お互がわからないことを誇る悲しい
時代である。なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。もうすこしバカに
ならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか
平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
来年といふ領域は海のやうだ。僕の海への憧れは実はあこがれといふやうなものではない。それは僕の慾情だ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「一九四八年への慾情」より

177 :
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことが
あるのかと思ふ。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない
部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は
大人の自己陶酔にすぎないであらう。子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりして
ゐるだらう。
私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として
求めた。しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと
身構へるのだつた。ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。生理的には羞恥の、心理的には
自己嫌悪の少年期における目ざめは、それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に
他ならないからだ。
三島由紀夫「師弟」より

178 :
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は
ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、
まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より

179 :
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪となるのである。
犯罪、殊に人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが見られ、犯人は人間の登場すべからざる
「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて
健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より

180 :
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。そこではもはや伝達の意識は失はれる。俳優が一個の
機械になる。人形劇や仮面劇との差は、この無限の無内容を内に秘めた人間の肉体の或る実在的な内容に
すぎなくなる。それが顔であり面であり、姿であり、柄であり、景容であるのである。そこではじめて「典型」が
成就される。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑が
なければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと確実な生の原型に
なるのである。
それはまだ人生の手前にゐる人には、夢の総称になり、いくらかでも人生を生きたといふことのできる人に
とつては、その追憶の確証になつた。
その後現実感の見失はれる不安な時代には、源氏物語は、なほかつ必ずどこかに存在すると信じられてゐる
「現実」の呼名になつた。その「現実」の象徴になつた。そしてそれこそは古典の本来の職分なのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より

181 :
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。
三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より
そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。
三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より

182 :
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より

183 :
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに忘れない平静な日常が、
散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、もともとその個人は
説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
己れを滅ぼすものを信じること、これは宿命に手だすけすることによつて宿命を暗する方法である。宿命に
手だすけする代償として、宿命を信じる義務を免かれる行き方である。浪漫主義者の生活の理念は、ともすると
この種の免罪符をもつてゐる。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より

184 :
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。ボヴァリイ夫人は私だ、と
フロベェルがいつたといふ話は、耳にタコのできるほどくりかへされる噂である。同時に、雪子は私だ、と
潤一郎はいふであらう。雪子は作者の全美学体系の結晶であり、これに捧げられた作者自身の自己放棄の反映である。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
主人公や女主人公とウマが合ふか合はないかで、その小説が好きになるかならないかは、半ば決つてしまふ。
三島由紀夫「私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の
類似性によつて似るのではない。われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義
及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より

185 :
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、それは悪でも背徳でもなく、
何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも一人だといふ前提は、
宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提を
もたないのである。誕生と死の間にはさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
愛慾の空しさなどといふものは、人間が演ずると、奇妙な、時には奇怪なものになりがちである。文学としての
「輪舞」は、何の説明がなくても、作者のシニシズムが納得されるが、映画の「輪舞」は、肝腎の役者たちが
生身の愛慾の場面を演じ、その限りで、肉慾そのものの誠実さのはうが、強く前面に押し出されざるをえない。
三島由紀夫「映画『輪舞(ロンド)』のこと」より

186 :
「ざつくばらん」といふ奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や
面子に従つて行動してゐるつもりであるから、「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は
微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふ
ものがそれである。男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でも
あるし、安全でもある。金縛りよりもずつと上乗な手段である。
三島由紀夫「虚栄について」より

187 :
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
一面からいへば友情と恋愛を峻別することは愚かな話で、もしかすると友情と恋愛とは同一の生理学的基礎に
立つものかもしれない。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
大体イヴニングを着てダンサーに見えない女は、日本人では、よほどの気品と育ちのよさの備はつた女か、
それともよほどのおばあさんかどちらかである。
三島由紀夫「高原ホテル」より
私はまだ酒に情熱を抱くにいたらない。時々仕事の疲労から必要に迫られて呑むことがある。趣味はある場合は
必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。
三島由紀夫「映画『オリヴィア』」より

188 :
これ(皮肉〈シニスム〉)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義にもとづく
自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。すべてを見てしまつたと
思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。
いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして
愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義も
またこれである。
(中略)
悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、おのづから
近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。喜劇は近代を
のりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用を
しかもたないだらう。
三島由紀夫「悲劇の在処」より

189 :
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で
自己陶酔を味はふが、ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと
芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。
後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

190 :
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。(中略)
芸術家の才能には、理解力を滅する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

191 :
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。
パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客
目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な
芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。私はよい芸術が、パリ市民の俗悪に
反抗して生れるから、パリが逆説的に温床だといつてゐるのではない。トーマス・マンもいふやうに、芸術とは
何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を
宿命的に持つてゐる。これを如実に体現してみせた都会がパリであるから、その独創性はまことに珍重に値ひする。
三島由紀夫「パリにほれず」より

192 :
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、思考と行為との窮極の堺、
むしろ行為に近いもの、と云つてよい。「受動的な純粋行為」などといふものがありうるか? 言葉といふものは
ふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用を
もつてゐる。近代の小説の宿命は、この矛盾の上に築かれてゐるのですが、詩は言葉をもつとも行為に近づけた
ものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、
行為を極度に受動的に表現することによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つて
しまへば、詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、詩における
言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に近づくに従つていや増す受動性を、
最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、見事にこの要請に叶つてをります。
三島由紀夫「『班女』拝見」より

193 :
殿下は、一方日本の風土から生じ、一方敗戦国の国際的地位から生じる幾多の虚偽と必要悪とに目ざめつつ、
それらを併呑して動じない強さを持たれることを、宿命となさつたのである。偽悪者たることは易しく、反抗者たり
否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに
万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
殿下の持つてをられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど
幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも
夢みてゐる、自由の逆説としての幸福を生きてをられるので、いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、
御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになる
ことが肝要である。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より

194 :
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、
その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。
小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、
はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を
見られないのは小説家としても脆弱である。
バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに
ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が
小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。
なまけものはどこに行つても駄目なのである。
三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より

195 :
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より

196 :
男にとつて、仕事は宿命です。
純粋な女の恋には、野心がありません。もし野心をもつたら、恋に打算が加はつて醜くなります。
それに、人を愛しながら野心を満足させることは、女の場合できないのです。女性においては、純粋な恋ほど、
野心から遠ざかります。
こゝに男の恋と女の恋の違ひがあるのです。男性の場合は、仕事に対する情熱――野心と、恋愛とが常にぶつかり
合ふのです。
野心をもたないやうな男は、情熱のない男です。(中略)情熱のない男、エネルギーの少い男性には、どんなに
閑があつても、ほんたうの恋愛はできません。
女は、恋のために、男の仕事を邪魔してはなりません。
(中略)一たん男が仕事に情熱を打ち込んだら、女性は放つておくこと。そんなときの男性は、子供が新しい
おもちやに夢中になつてゐるやうに、決して浮気をしません。
男性を仕事に熱中させることです。こんなときに男から仕事をとり上げてしまつたら、男は仕事を邪魔しない女性と
恋愛をするやうになります。
三島由紀夫「男は恋愛だけに熱中できるか?」より

197 :
感受性といふものは、知的ではないところの、それ自体の頑固な様式をもつてゐる。
病気といふものは、個々の作家にとつて象徴的な事柄である。(中略)ニイチェの著作がもつとも多く書かれたのは、
彼の梅毒の初期であり、初期症状の幾多の病徴が、当時の作品群を特色づけてゐる由だが、小説家もまた、
好い作品を書くためには、いつも梅毒の初期症状に似たものを、しかもそれ以上亢進もせずよくもならないところの
症状を、自分の体内に、人工培養しておく必要があるのかもしれない。
精神の停滞を阻む不断の緊張のために、病気を利用することから一歩進んで、もし自由に病気の選択ができると
したら、できるだけ、生の躍動を象徴的に、また内在的にとらへうるやうな病気にかかることが望ましい。
ニイチェはそれを、「強さのペシミズム」「生の豊饒から直接生れるところの悲観主義」と呼んでゐる。
三島由紀夫「卑俗な文体について」より

198 :
卑俗な文体、「品質のわるい文体」のもつ異様な説得力は、鴎外の高貴な文体、「最高の品質」の文体のもつ
真らしさ、とはまるで正反対のものであるが、真らしさの点については同程度の成果をあげることができる。
卑俗な文体は一般的な先入主に故意によりかかり、事物を生かさずに、事物に対する常識的な判断を適宜に塩梅し、
それの総和に於て、世にも非常識な現実の真らしさを生み出すことができるのであるが、そこでは通常潔癖な
小説家が、故意に避ける偶然の重複などが、あたかも自明の現実のやうに現前してゐる。そして事実人生には、
小説にしたら嘘ッ八としか思へないやうな、奇抜な偶然の出会や因果関係が存在するのである。
(中略)私が小説のアクチュアリティーを保証する一手段として、この卑俗な文体に抱いた関心は、おそらく
戯曲の文体につながる問題だといふことに気がついた。
三島由紀夫「卑俗な文体について」より

199 :
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。
三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より
ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。
三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より

200 :
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれをすところに発展がある。
三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。
若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より
義理人情に酔ふと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。
三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より

201 :
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが
どこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、
さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。
爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より

202 :
男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は
男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、
しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。
三島由紀夫「男といふものは」より
恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、
よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」より

203 :
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、されるか、自するか、すべきなのだ。
青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。
青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、
それよりもさらに、幼年期であらう。
肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、
青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、
本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は
ここから生じる。
三島由紀夫「空白の役割」より

204 :
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は
そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを
信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。
さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ
泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、
さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。
やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。
三島由紀夫「空白の役割」より

205 :
諷刺は人を刺し、おのれを刺す。
精神と精神との共分母にくらべれば、顔と顔との、単に目口鼻などといふ共分母は、それが全く機能的な意味を
しか想起させない、いかに稀薄な、いかに小さなものであらうか。われわれが、お互ひにどんなに共感し
共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに
没してしまつて、あたかも存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、目に見えるままの素面を
信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。
絶対的な誠実といふものはない。一つの誠実、個別的な誠実があるだけだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より

206 :
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。
美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。
三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より
歌舞伎はよく生き永らへてゐる。内容が古びても、文体だけによつて小説が生き永らへるやうに、歌舞伎の
スタイルだけは、おそらく不死であらう。
様式こそ、見かけの内容よりもつと深いものを訴へかけてゐる。
三島由紀夫「芸術時評」より
「潮騒」における思春期の設定は小説の道具にすぎず、私は人間の思春期なんか、別に重大に変へてゐない。
あの小説で私の書きたかつたのは、小説の登場人物から「個性」といふものを全く取去つた架空の人間像であつて、
そのためにわざわざ、遠い小島へ話をもつてゆき、年齢もとりわけ少年期の人物を選んだわけである。それなら
何故子供を書かないか? 冗談ではない。子供は少年よりもずつと個性的な存在なのである。
三島由紀夫「映画の中の思春期」より

207 :
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より
われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。筋道を立て、
簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。心理的な会話なんて、さうたんとはない。頭のわるい
女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。
三島由紀夫「『若人よ蘇れ』について」より
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を
大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その
自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。
三島由紀夫「『沈める滝』について」より

208 :
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。いはば共通の女の思ひ出を語るやうに
語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。
三島由紀夫「外遊精算書」より
ランボオとは、体験としてしか語られないある存在らしい。
絶対の無垢といふ、わかりやすいものを前にして、これほど仰々しい言葉の行列を並べてみせる、ミラア及び
西洋人といふものを、私はどうも鬱陶しく思ふ。この評論こそは、ランボオの呪つた文明的錯雑そのものではないか?
三島由紀夫「文明的錯雑そのもの――ヘンリ・ミラア作 小西茂也訳『ランボオ論』」より
いくら名だたる野球選手でも、水泳の名手でも、ゲーテの名も知らず、万葉集の何たるかも知らないでは一人前とは
いへますまい。私はそれと正反対の状況にありました。小説こそいくらか書いたが、肉体的には、レベル以下
ほとんどゼロでした。これでは一人前とはいへますまい。
三島由紀夫「信仰に似た運動――告知板」より

209 :
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。
三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より
私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。
三島由紀夫「黛氏のこと」より
あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。
死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。
三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より
芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。
人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。
三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より

210 :
男性が持つてゐる特長で、女性にたえて見られぬものは、ユーモアである。
ユーモアとは、ともすれば男性の気弱な楯、男同士の社会の相互防衛の手段かもしれないのである。
三島由紀夫「長島さんのこと――あるひは現代アマゾン頌」より
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして行ひ難いことだ。
われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きてゐる。
死の予感の中で、死のむかうの転生の物語を書く。芸術家が真に自由なのはこの瞬間なのである。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
表現の見地から見れば、食欲や飲酒欲は、エロや涙より、はるかに高尚な対象なのである。なぜなら、物を
食ひたかつたり、酒をのみたかつたりすれば、本を読むより実物を得るはうがたやすく、かういふ充たされやすい
欲望を、言葉で表現するといふことは、ティーターン的大業ではないか。
三島由紀夫「誨楽の書――吉田健一氏『酒に呑まれた頭』」より

211 :
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。
三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より

212 :
レトリック的にはブローティガンとかあの変のアメリカ勢には劣るね、三島由紀夫

213 :
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より
小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。
三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より
神を信じる、あるひは信じないことと、神を持たないといふことは、おのおの別の次元、別の範疇に於ける
出来事なのである。従つてそこには同一次元上の対立といふものはありえない。
神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。それを越えうるものは
信仰だけである。(日本古昔の耶蘇教殉教者を見よ)。
信仰にとつては、黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。神があるだけである。芸術にとつては
黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。人間があるだけである。アメリカの黒人問題を扱つた小説は、
すべて具象的で、人間的である。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より

214 :
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より
大体私はオペラをばからしい芸術だと考へてゐる。オペラの舞台といふものは、外国で見たつて、多少、正気の
沙汰ではない。しかし何んともいへない魅力のあるもので、正宗白鳥氏流にいふと、一種の痴呆芸術の絶大な
魅力を持つてゐる。
三島由紀夫「『卒塔婆小町』について」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より

215 :
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。新仮名論者の進歩派たちも、羽田の
見送りさわぎでは日本的風俗を守つてゐるのが奥床しい。

三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より


母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。

三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より


国の権の問題は、その国の威信にかかはる重大な問題である。
三島由紀夫「きのふけふ マリア・ルーズ号事件」より


現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり家にだつてラジオの
一台は必要だといふことはありうる。

三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より


辺幅を飾らないのは結構だが、どこまでも威厳といふものは必要だ。ことに西洋人は、東洋人独特の神秘的な
威厳といふものに弱いのである。


日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。

三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より

216 :
人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。


私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。


ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。


人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。

三島由紀夫「青春の倦怠」より

217 :
感覚に訴へないものは古びることがない。

三島由紀夫「鴎外の短編小説」より


私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。

三島由紀夫「文学とスポーツ」より


われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。

三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より


知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。

三島由紀夫「ボクシングと小説」より

218 :
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい負ひ目として現はれるので
なければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人
といふものには、私は頭から信用が置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、
そのために苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは人間生活を
よりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、暗黒の
血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、
一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。
三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より

219 :
神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。

三島由紀夫「『潮騒』のこと」より


オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。


この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より

220 :
詩人の魂だけが歴史を創造するのである。

三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より


オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。

三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より


われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。

三島由紀夫「美しきもの」より


地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。


近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。


近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。


小説は面白くなくてはならないのである。

三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より

221 :
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より


小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。

三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より


画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。


運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。

三島由紀夫「学習院大学の文学」より

222 :
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。

三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より


恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。

三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より


かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。

三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より


あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

三島由紀夫「班女について」より

223 :
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。

三島由紀夫「文字通り“欣快”」より


花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より


男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より

224 :
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。

三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より


怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。

三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より


詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。


小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自を免かれたところからはじまる。

三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より

225 :
「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。

三島由紀夫「いづれ春永に」より


ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。


他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。

三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より


芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。

三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より

226 :
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より
表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。
三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より

227 :
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。
三島由紀夫「紐育レストラン案内」より
女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。
三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より
自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。
三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より
大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。
人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。
三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より

228 :
退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より
もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。
どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。
三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より
悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。
三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より

229 :
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。
形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。
文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より

230 :
富士山も、空から火口を直下に眺めれば、そんなに秀麗と云ふわけには行かない。しかし現実といふものは、
いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な
富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり
一部であるのだ。
古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしてゐた。われわれは
厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。たとへば、祭りのミコシを
かついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。われわれに本当に興味のある話題といふ
ものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかに
するものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より

231 :
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
政敵に対する公然たる非難には、さはやかなものがある。
人間、生きてゐる以上、敵があるのは当然なことで、その敵が、はつきりした人間の形をもち、人間の顔を
もつてゐる政治家といふ人種は幸福である。こんな幸福さはかれらの単純な人相にもあらはれてゐる。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より
アクセサリーも、ロカビリー娘みたいに、時と場所とをわきまへず、金ピカのとがつたやつをジャラジャラ
つけすぎると、交通の危険といふこともありうるのである。
お祭りもお祝ひもいいが、大事な開通当日の一日駅長といふのは、どう考へても本末転倒のやうに思はれる。
自衛隊が山下清氏を一日空将補として招いたときにも、いひしれぬ、人をバカにした感じを抱かされたのは、
私一人ではあるまいが「名士」とか「人気者」とかいふものも、一個の社会人であつて、社会的無責任の象徴には
なりえない。このごろでは、いはゆる「名士」が、社会的責任を免かれたがつてゐる人たちの、哀れな身代り人形に
されてゐる場合が少なくないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 アクセサリー」より

232 :
プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な人間の演ずる人間劇と
考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、
歴史を動かし、歴史をつくり上げる。
三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する反乱といふ言葉は、何だか妙で、
ひつかかるのだが、共産主義の立場からいへば、ハンガリーの動乱は反乱の部類で、ユーゴのは、成功して何とか
ナアナアでやつてゐるから、反乱の汚名をそそいだといふのだらう。
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんで
しまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

233 :
文士の締切苦は昔から喧伝されてゐるが、(中略)芸術的良心なんぞとは、なんの関係もない話なのである。
しかし芝居となると、事は一そう深刻であつて、台本が間に合はなくて、ガタガタの初日を出す、などといふ醜態は、
世界中捜したつて、日本以外にはありはしない。このはうの締切は、守らなければ、直接お客にひどい損失を与へ、
お客をバカにすることになるのであるから、事は俳優だけの被害にとどまらない。
三島由紀夫「憂楽帳 締切」より
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。この間の訪ソで曲りなりにも成功を収めた
マクミラン英首相などは、時には屈辱をもおそれぬ「柔軟な政治力」を持つてゐるが、ダレス氏は概して
強面一点張だつた。強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが民主主義の政治家として
本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。
三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より

234 :
実際マス・ゲームといふのは壮麗であつて、豪華大レビューのフィナーレといへども、これには到底敵すべくもない。
一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしかに
圧倒的な美である。これは疑ひやうのない美で、これを美しいと思はないのは、よほどヘンクツな人間である。
ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずかういふ体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつての
ナチスの体操映画や、ソ連や中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思はないものはメクラであつて、
ファッショや共産主義といへばなんでもかでも醜く見えてしまふ人は不幸である。
人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の
余地がない。
――しかしである。
この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加はらなくたつて立派に出せるので、この種の美が、
彼らの専売物であるわけではないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 集団美」より

235 :
一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。
仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。
三島由紀夫「わが非文学的生活」より
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることが
できたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない
現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より

236 :
たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。
現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。
戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。
三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より

237 :
私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと興がわかない。
見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に許容しないところのものが、芸術であり
スポーツであるが故に許される、といふのが私の興味の焦点だ。やたらに人を打つたりたたいたりすることは、
ボクシングや剣道以外の社会生活では、社会通念上許容されないことである。そこが面白い。
三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。追つてゆく人間は、知恵を身に
つけることができぬ。追つてゆくことで一杯だから。
しかし「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと「若さ」に敗れる日が
来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より

238 :
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、
現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を
発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふ
のである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の
造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスのちがひでしかない。
三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より

239 :
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて
ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より
大体、適度な運動などといふものは、甘い考へであつて、運動をやるなら、少し過激に、少し無理にやらなければ、
運動をやる意味がないのである。
完全な自由といふものも退屈なものである。
三島由紀夫「三島由紀夫の生活ダイジェスト」より
犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、
いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。
映画俳優は極度にオブジェである。
映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。
三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より

240 :
今や一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。それにしても、
或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、薄気味のわるい
ことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。今まで
数千年つづいて来たやうに、一九六〇年も、人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。ただわれわれ
一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに
決つてゐる。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一九六〇年代はいかなる時代か」より
結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではないといふ古い考へが私にはあつて、
初恋がそのまま成就して結婚などといふと、余計なお節介だが、底の浅い人生のやうな感じがする。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)早婚是非」より

241 :
子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)ベビイ・ギャング時代」より
文部省が今度「英語教育改善協議会」を設置して、「読む英語」にかたよりすぎてゐるといはれた中学・高校の
英語教育を、もつと「役にたつ英語」にしてゆかうとたくらんでゐるさうだ。またしても文部省の卑近な
便宜主義である「役に立つ」ために。「役に立つ」ことばかり考へてゐる人間は、卑しい人間ではないか。
一体、語学教育は国際政治の力のわりふりに左右されがちなものだが、日本中が英語の通訳だらけになつて
しまつたら、文部省の意図するところは達せられたといふべきであらう。(中略)ホテル業者はなるほど
「役に立つ」英語を喋つてもらひたい。
しかし、ホテルと教養とは別である。テーブル・マナーと教養とは別である。いまだに英仏の知識人の間には
古代ギリシア語やラテン語が、教養語として生きてゐるが、一体文部省は、何を日本人の教養語とするつもり
なのであるか。教育的見地からは、そのはうが重要である。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より

242 :
戦後の教育は、日本人から、かつての教養語であつた漢文のたしなみを一掃してしまつた。さらにヅサンな
国語改革案で、日本語を「役に立つ」日本語に仕立てあげようとして、教養語としての日本語を、日本古典を
読解する力を、すつかり弱めてしまつた。その上、ここへ来て、またまた英語を、教養語としての座から
引きずり下ろさうとしてゐる。
私は、「ユー・ウォント・ア・ガール・トゥナイト?」なんて言葉がすらすら出てくるより、会話はできなくても、
誰でもシェークスピアが読めるはうが、日本人としても立派だと思ふのだが……。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より
本来知性は普遍的なもので、女性だけの知性などといふ妙なものはありえやうがない。この雑誌は、素朴で有能な
男性を徒らにおびやかすやうな女性を養成したことも確かである。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)創刊四十五年を祝ふ」より

243 :
現代ジャーナリズムが商業的に避(よ)けて通るやうな問題にこそ、最も緊急な現代的問題がひそむ。
三島由紀夫「『侃侃諤諤』を駁す――交友断片」より
ちやうど舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ女の心を永久に
惹きつけるものだ。
三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より
ある点から見れば、歌舞伎役者は貞淑な日本の妻達に似てゐる。彼女らは夫の専横なしつけに対して従順を装ひ、
忍従の美徳を衒つてゐながら、とどのつまりは何事も彼女等の望む通りの結果を得るのである。彼等歌舞伎役者も
また然り。そのやうにして彼等は伝統の芸術にたゆみない生命を与へ、彼等によつてのみそれは生き続け、
成長し続ける。
三島由紀夫「『俳優即演出家の演劇』としての歌舞伎」より
どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、自然に対する
畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を呪伏するための極端な様式化になつて
現はれてゐたりする。
三島由紀夫「危機の舞踊」より
日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。
三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より

244 :
作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを書いたあとの感想は、
人生的感想によく似て来るのです。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より
実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家はこの世の現実のほかの
もう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり少年時代の甘美な
「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力なものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に
厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねば
ならない。「人生は夢で織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。その夢の原料は、やはり少年時代に、つまりは
あの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。
三島由紀夫「夢の原料」より

245 :
決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。
目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは厭味なものだ。
三島由紀夫「友情と考証」より
苦痛は厳密に肉体的なものである。
肉体は知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く、
滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にも
かかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に
行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。
三島由紀夫「石原慎太郎氏の諸作品」より
人間は心の中に深い井戸みたいなものを持つてるでしよ。その井戸の中におりていくには、それ相応の体力が
なきやだめだと思ふ。
三島由紀夫「新劇人の貧弱な体格への警告(NHK『朝の訪問』)」より

246 :
有効な文化交流とは少数意見の交流だといふことを忘れてはならないのである。赤い国の白い意見と白い国の
赤い意見が、本当にヒザを交へて酒をのむことができるのである。
三島由紀夫「発射塔 少数意見の魅力」より
犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかつてしまふと、彼らがいかにも
不用な余計な人物であつたといふ感じがするのがつまらない。この世の中に、不用で余計な人間などといふものは
ゐないはずである。
どうして名探偵といふやつは、かうまでキザなのか。あらゆる名探偵といふやつに、私は出しやばり根性の余計な
お節介を感じるが、これは私があんまり犯人の側につきすぎるからであるか。大体、知的強者といふものには
かはいげがないのだ。
古典的名作といへども、ポオの短編を除いて、推理小説といふものは文学ではない。
三島由紀夫「発射塔 推理小説批判」より

247 :
あんまり着こなしのうまい作家を見ると、多少ヤキモチも働いてゐるにちがひないが、何だか決定的に好きになれない。
もちろん他人の借り物のおしやれをして得々としてゐる手合ひは論外だし、よぼよぼの老人がむりにジン・を
はいたり、胃弱の青年がむりにTシャツを着たりするのは全くいただけないが、自分に似合はないものを
思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。井伏鱒二氏が突然真つ赤なアロハを着たり、
安岡章太郎氏が突然シルクハットをかぶつたりしたら、私はどんなにもつと氏らを好きになることであらう。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
小説といふ形式は、本来、清濁あはせのむ大器であつて、良い趣味も悪い趣味も、平気で一緒くたにのみこんで
しまふだけの力がなければならない。(中略)
中間小説にはそんなのが出かかつてゐるが、真の悪趣味を調理するにはむしろすぐれた文学の包丁がいるのだ。
三島由紀夫「発射塔 グロテスク」より

248 :
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないでどうするのだ。秋成の
雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。
それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造より
もつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。
現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びてしまふ古典なら、さつさと
滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを
入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんと
やつてもらひたいものである。
三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より

249 :
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみのかもし出すものではないと信ずる。
有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストはなほさら哄笑する。
三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より
だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げてもゐられない。
古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたらジタバタして、若い者に追従を
言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆくことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。オールドミスが
「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、やはり黙つて、堂々と、
新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。
三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より

250 :
胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いてゐれば、存在を
意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちやんと政治を
してゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に専念してゐられるのである。
民主主義といふ言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含してゐる。平和とは
時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるやうなもので、
これでは民衆の頭は混乱する。政治が今日ほど日本語の混乱を有効に利用したことはない。私はものを書く人間の
現代喫緊の任務は、言葉をそれぞれ本来の古典的歴史的概念へ連れ戻すことだと痛感せずにはゐられなかつた。
本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらはれない。たくましい現実主義者、夢想も抱かず絶望もしない
立派な実際家、といふやうな人物に私は投票したい。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より

251 :
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな
息子でない限り、学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。
知力に、意志力に、体力が加はれば、どんな分野でも鬼に金棒だが、この三者の調和をとることがいかに困難で
あるかは、父自身がよく味はつてきたことなのだ。
男としての自覚を持つために、肉体的勇気が必要である。これも父自身が永年考へてきたことである。男は
どんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら世間は知的エリートだけで
動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より

252 :
れw

253 :
ft

254 :
ft

255 :
ft

256 :
ft

257 :
ft

258 :
ft

259 :
ft

260 :
ft

261 :
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。
われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。
三島由紀夫「残酷美について」より

262 :
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か一時間の会話の中には、
人生の至福がひそむといふのが社交の本義である。
三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、の隠語のやうな、独特の血なまぐささがある。
概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾がくすぶつてゐるのである。なぜなら、ある人間が、
頭の中で、地球儀のやうな、一望の下に見渡される図式的な世界像を即座に描き出せるといふこと、どんな
凡庸な人間にもそれが可能だといふことには、ゾッとするやうなものがあるからだ。
三島由紀夫「終末観と文学」より
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には親しみを抱く傾きがある。
三島由紀夫「明治と官僚」より

263 :
青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、典型的な青春はあるまい。
またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかもそのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に
是認すること。……これは佐藤氏より小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。
三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より
人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための親切な入門書と思つて
読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、
無知、増上慢、などに対する限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。
三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より
自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。
三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より

264 :
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、ほぼ百分の一、
千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。
私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、人間は抽象化される要素を
持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた
肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり
時代おくれの技法であるが、私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。
最初に細部にいたるまで構成がきちんと決ることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで
眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、
構成を最初に立てることは、一種の気休めにすぎない。
三島由紀夫「わが創作方法」より

265 :
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。
三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より
顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に持つてゐる。一般人も
ある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは
職業の差などといふよりは、人間の在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の
代表的存在が、俳優と文士といふものだらうと思はれる。
だから俳優は自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛されれば愛されるほど、その顔と戦はなければ
ならない。
三島由紀夫「若尾文子讃」より
二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。
三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より
人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。
三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より

266 :
私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した童話集なのかもしれない。
目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは大人の童話だからだ。
三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より
日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが最高無上の価値だ」といふ、
そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家
だから偉いのである。
三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」より
SFからはすくなくとも、低次のセンチメンタリズムが払拭されてゐなければならぬ。
私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである。
三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より

267 :
諸君が芸術および芸術家に対して抱いてゐる甘い小ずるい観念が今やはつきりした。なるほど「喜びの琴」は
今までの私の作風と全くちがつた作品で、危険を内包した戯曲であらう。しかしこの程度の作品におどろく
くらゐなら、諸君は今まで私を何と思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作者だと
ナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを芸術と祭り上げ、腹の底には生煮えの政治的偏向を隠し、以て
芸術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳つてゐたなら、それは偽善的な商業主義以外の何ものなのか。
諸君によく知つてもらひたいことがある。芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを
吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へはひ込むのなら、私は残念ながら
諸君とタモトを分つ他はないのである。
三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より

268 :
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの四角の空間に、一つの
集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつもこんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。
世界を、こんがらかつた複雑怪奇な場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の
行動家が登場する。そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、疑ひやうの
ない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な人間とは本来かういふものではないか、
と思はせるだけの輝きがある。もちろん観客は、不完全な人間ばかりだ。
ボクシングの美しさに魅せられると、ほかの大ていの美しさは、何だかニセモノめいて来る。それは錯覚に
ちがひないが、いい試合を見てゐるときは、たしかにさう感じる。そして文明などといふものが人間をダメにして
しまつたことがしみじみわかるのである。
三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より

269 :
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。
三島由紀夫「冷血熱血」より
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、すばらしい個性になるだらう。
しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、ある場合には、
社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、わびしさの同義語になる。
三島由紀夫「芸術家――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より

270 :
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、この世界文学の
古典に親しめば、鬼に金棒である。東西の古典を渉猟すれば、人間の問題はそこに全部すでに語り尽くされて
ゐるのを知るだらう。ヘナヘナしたモダンな思ひつきの独創性なんか、この鉄壁によつてはねかへされてしまふのを
知るだらう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじらぬことに気づくだらう。
一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて
読めなくなる危険があるから。
三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」
古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけマイナスになつてゐるか。
又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、今日、日ましに明らかになりつつある事実である。
三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より

271 :
日本の芸能の古いものほど、広大な全アジア的ひろがりが背後に揺曳するものが多い。能でも「翁」には、
さういふ影があるし、かつて二月堂のお水取の行事に参列したときも、中央アジアに及ぶ古代文化の大きな類縁を、
ふしぎな声明の一トふし毎に聴く思ひがした。
さういふ点では(宗達の「舞楽図」もちやんとそれをとらへてゐるが)舞楽ほどせまい中世以後の純日本文化から
高く抜きん出た、広大な茫漠とした展望を、目に浮ばせる芸能はない。表向きは、古代支那の戦物語を描いてゐても、
その仮面、その装束、その動作の淵源ははるかに見定めがたく、われわれの心は古代のペルシャ湾のほとりへまで、
辿りついてしまふのである。
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、このやうな光彩陸離たる
芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた
日本文化の数百年のあひだに、それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。
三島由紀夫「舞楽礼讃」より

272 :
私には特に、新劇の公演の、あの死灰のやうな気分が堪へられない。いたづらに誠実さうな顔つきをした、
「まじめな」観客といふものが堪へられない。劇場といふものは、ビリビリと神経質に慄へ、深い吐息をし、
興奮のために地震のやうに揺れ、稲妻によつて青々と照らし出され、落雷によつて燃え上がる、さういふ巨大な、
良導体で鎧はれた動物のやうなものであるべきだ。
三島由紀夫「ロマンチック演劇の復興」より
俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することに
よつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのは
いけないと思ひます。
三島由紀夫「俳優に徹すること――杉村春子さんへ」より
イデオロギーは本質的に相対的なものだ、といふのは私の固い信念であり、だからこそ芸術の存在理由があるのだ、
といふのも私の固い信念である。
三島由紀夫「前書――ムジナの弁(「喜びの琴」)」より

273 :
アポローンの永遠の青春は、私の仕事の根源であり、私の光りである。アポローンの面影をとどめたガンダーラ仏の
源流と思へば、この像はいはばわが仏であらうか。
三島由紀夫「庭のアポローン像について」より
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで考へられてゐる男とは、何か
青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。男らしさを企図する人間には、必ずファリック・
ナルシシズムがある。
「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が必要なのである。
真に独創的な英雄といふものは存在しない。
あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。
三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より
美しい静かな絵といふものは、世路の艱難の只中から生れるものだ。それは艱難からの逃避ではなく、生きることの
むづかしさそのものから直ちにひらいた花だ。
三島由紀夫「無題(鈴木徳義個展推薦文)」より

274 :
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。
共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質はちがはないといふ仮定が、
あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、
さらに辛辣なイロニイがゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的で
あるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふイロニイが。
日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は弓のやうに日本人たちを
たえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。
三島由紀夫「林房雄論」より

275 :
うす暗い喫茶店で、ゴミのはひつたコーヒーを、そのゴミも暗くて見えないまま、深刻にすすつてゐるのが
好きな人は、明るすぎる喫茶店など、我慢できたものではあるまい。
文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい、と私はかねがね考へてゐる。
文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ引きずりこむだけの
力を備へてゐるかどうかによつて測られる。それを面白いと言ひ、その力を備へてゐないものをつまらないと
言ふことは、読者の権利である。
三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より
狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が狐であることを実証する。
それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。
三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より

276 :
日本といふ国は、自発的な革命はやらない国である。革命の惨禍が避けがたいものならば、自分で手を下すより、
外力のせゐにしたはうがよい。
復興には時間がかかる。ところが、復興といふ奴が、又日本人の十八番なのである。どうも日本人は、改革の
情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。その点でも私は安心してゐる。
三島由紀夫「幸せな革命」より
人間には、不条理な行動へ促す魔的な力の作用することがある。作家はいつもこの魔的な力から制作の衝動を
うけとる。
三島由紀夫「魔的なものの力」より
浮世は「幻の栖(すみか)」にすぎず、自分の肉体は過客にすぎぬ。
三島由紀夫「久保田万太郎氏を悼む」より
小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも偉大でなくても、小さく澄んだ
崇高さがありうる。
三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より

277 :
ミュージカルとはアメリカの歌舞伎である。誇るべき文化遺産を持たない新しい国が、必死になつて、ヨーロッパの
オペラや、バレーに対抗する劇場芸術、しかもアメリカでしか生れないものを狙つて、アメリカのものすごい
エネルギーと資本を傾注して、やつと今のやうな形にまでしたものだ。だからそこには、草創期の歌舞伎に似た、
若々しい創造のエネルギーと、若さだけの持ちうる詩と、俗悪さと、商業主義と、悪ふざけと、スノビズムと、
知的享楽と、諷刺と、……あらゆるものが渾然一体となつてゐる。こんなものが一朝一夕に、他国人に真似られる
ものではない。そこには第一、音楽や舞踊のヨーロッパ的な基礎的教養や訓練が、前提になつてゐるのである。
三島由紀夫「ミュージカル病の療法」より
若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、日本人しか、真に味はふことの
できぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。
三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より

278 :
私はずいぶんいろんな西洋人の夫婦を知つたが、それから得た結論は、夫婦といふものは、世界中どこも同じであり、
又、世界中どこも千差万別である、といふ月並な結論であつた。
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をもとりひしぐ顔つきの老婆と
居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、哀れな感じのするものはない。ああいふのを
見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の
身にしてみれば、鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の醍醐味が
あるのかもしれない。
三島由紀夫「西洋人の夫婦」より

279 :
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、人の頭ばかり気になる
さうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものがあるわけはありません。われわれはみんな
色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから
決つてをり、一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、生きる
たのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、ほかの人の見えない地獄や深淵を
そこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない
深淵を見つけ出します。
三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

280 :
本当は法律といふものは、昼間の理性を以て、夜の情念を律するために作られたものであるから、真夜中の仕事を
本業とする人間は、反法律的、あへて言へば犯罪的人間である。
理性的な社会、安定した秩序の社会といふものが、もし存在するとするならば、これは、法規制のエネルギーが、
直流式ではなく、交流式に働く社会のやうに思はれる。すなはち、昼間の理性が夜の情念を律すると同時に、
夜の情念が昼間の理性を律し、且つこの相互作用によつて、夜の情念が情念それ自体の精妙な理法を編み出し、
又、昼の理性が理性それ自体の情感乃至風情といふものをにじみ出させてゐる、といふやうな社会なのである。
(中略)
急に卑近な話になるが、オリンピックの外来客に、東京を清潔な都会と思はせるため、飲食店その他の深夜営業を
禁止しようとしてゐる東京都の役人の考へなど、頑なな昼の理性のもつとも低俗な表現と言へるであらう。
三島由紀夫「夜の法律」より

281 :
完ぺきのマナーを発揮して女性をエスコートするといふのは、よほど心にゆとりのある証拠。つまり演技者の
心境である。
ふつうの男性が、心からあなたを熱愛したばあひには、マナーやエスコートは、そんなにスマートにいくはずかない。
なぜなら彼は、横断歩道をわたるときも、喫茶店にゐるときも、いつも心臓をドキドキさせてゐるからである。
つまり、恋愛には、ゆとりが入りこむ余地がないものなのだ。
一つの目的にむかつて、わき目もふらずに突進する……精虫の行動原理は、男のやることのすべての基本型。
人間……とくに男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。
また、なつてはいけないのが男である。
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”
職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を差し引いたものが、家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

282 :
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。
しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の古典芸能の
名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、西洋の
芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに電光石火、
最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。
三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より
日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で美しい。女も男もさうである。
三島由紀夫「『恋の帆影』について」より

283 :
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。
旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、観念的な準備が要るので
あつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、はじめて風景は完全になる。
ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。
苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。
観光地といへば、パR屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒にしてしまふ大都市の周辺は、
私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、
それがみな食料品に隙間なくたかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。それから考へると、今度の旅では、全くその音をきかずにすんだ。拡声器の
アナウンスや流行歌に比べれば、プロペラ船などは可愛らしい蜜蜂だ。
三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より

284 :
人生にはそんなに昂奮の連続もなければ、世界記録の更新もない。金メダルもなければ、群衆の歓呼もない。
手に汗にぎるスリルもなければ、英雄主義もない。
あるのは、単調なくりかへしと、小さな喜び、小さな悲しみ、小さな不愉快だけであつて、「思ひがけないこと」と
云へば、概してよくないことのはうが多い。
かういふ生活にどうやつて耐へるか、それについては、大体二つの方法がある、といふのが私の考へである。
一つは「葉隠」の武士道のやうなもので、いつも架空の危機を自ら想定し、それに向つてたえず心身を緊張させて
生きることである。緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の緊張の連続であつて、
豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活であることは言ふまでもない。
もう一つは、単調なくりかへしの先手を打つて、自分の自由意志で、さらにそのくりかへしを徹底させる生き方である。
三島由紀夫「秋冬随筆 歓楽果てて……」より

285 :
人間は孤独になればなるほど、予想外の行動に出るものであつて、「一人きりでゐるとき、人間はみんなキチガヒだ」
といふモオリヤックの言葉は、人間性を洞察した至言にちがひない。
三島由紀夫「秋冬随筆 タッチ魔」より
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人はテレビにしがみついてゐれば、
いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、
知識の綜合力は誰の手からも失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることは
ますますむづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
天空の果てまで見とほす天体望遠鏡も、暗黒星雲の向う側は見透かせないとすれば、万能らしきマス・コミと
いへども、やはりわがままな人間の心を支配できない盲点があるにちがひないのである。
三島由紀夫「秋冬随筆 無用の知識」より
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず作者の夢が破れたところに
出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆 世界のをはり」より

286 :
顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ
決定論的因子を破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、
他人の目の判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。
本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的タブーを犯さぬのであつて、
サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。
古き芸術小説は言語のフェティシズムによつてのみ芸術性を確保し、又、中間小説は言語の抽象機能を失つてゐる。
これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・ランボオ唯一人だが、われわれが
言語を一つの影像として定着するときに、われわれはすでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。
「本日晴天、明日も晴れるでせう」といふやうな小説を、私ははじめから愛することなどできない。
三島由紀夫「現代小説の三方向」より

287 :
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。それがわかつて
幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた気持は残る。
三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より
辺鄙な漁村などにゆくと、たしかにそこには、古代ギリシアに似た生活感情が流れてゐる。そして、顔も都会人より
立派で美しい。私はどうも日本人の美しい顔は、農漁村にしかないのではないかといふ気がしてゐる。
典型と個性とは反対のものであつて、「潮騒」の永遠の少女初江は、個性なんかで演じられるものではないのである。
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、この言葉には、
あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、
むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の
比ではない。
三島由紀夫「美しい女性はどこにいる――吉永小百合と『潮騒』」より

288 :
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は
最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと
言へるだらう。
三島由紀夫「恋のし屋が選んだ服」より
女の子のスキーやスケートの姿は、雪女の伝説ではないが、勇ましいうちにも冷艶なものがある。ほつぺたを
真つ赤にして滑つてゐる健康な少女でも、そこには、何だか、妖精的な、透きとほるやうな女らしさが、雪や氷を
背景にして匂ひ立つのだ。
三島由紀夫「新夏炉冬扇」より
今でも英国では、午後の紅茶に
「ミルク、ファースト? ティー、ファースト?」
と丁重にきいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、味に変りはなささうだが、
そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが
英国であることは、今も昔も変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは
文化といふものを、あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。
三島由紀夫「英国紀行」より

289 :
「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」「絎台」「針坊主」
「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ引き入れられる。生活の細目の
あらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、
雑多な諸現象に統一的な美意識に基づく「名」を与へることなのだ。
三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より
事情通の言つたり書いたりしてゐることを、きいたり読んだりすると、ますますあいまいもことしてわからなくなる、
といふのが通例である。あひかはらず「真相はかうだ」式のものがよく読まれてゐるが、さういふものほど、
ますますフィクションくさく見えてくる、といふ妙な仕組みになつてゐる。
ものごとの表面ほど、多く語るものはない。
不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。
三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より

290 :
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、失礼な話だ。
芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。われわれ小説家の
著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小にかかはらず、われわれの本は、われわれの
仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめて
われわれの仕事も実を結ぶのである。
芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。
三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より
「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。つまり、「いやな、いやな、いやな……
いい感じ」といふわけだ。
人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ生れるわけではない。
行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。
三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より

291 :
異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、世界文学の中にも、
二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、さういふ文学は普遍的な名声を得ることは
できないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。
もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののはうが不確定であり、恒久不変の現実といふ
ものが存在しないならば、転生のはうが自然である。
学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか備はつてゐないことが多い。
正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。
三島由紀夫「夢と人生」より
人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な花の幻がなければならない。
三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より

292 :
フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人はドイツに対する愛好心を
貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が
生き永らへてゐて、彼の親独主義は、別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。
三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より
過去は輝き、現在は死灰してゐる。「希望は過去にしかない」のである。
ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである。
三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より
憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、といふのは、言葉の
矛盾のやうに思はれる。
三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より
古典主義の魂を持たないロマン主義者は、それ自体、真のロマン主義者と云へないであらう。
三島由紀夫「異国趣味について」より

293 :
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より
私は予想よりも人間のはうに賭ける。われわれは自分に賭けるときさうしてゐるのだから、他人に賭けるときも
さうするべきだ。
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より
見るより先に、感じ、反射し、すぐ行動できる人がある。スポーツに向いてゐる人である。スポーツでは
見てゐるときは、もう遅い。
しかし風景や、美術や、芝居や、さういふものは、ゆつくり見られるやうに出来てゐる。
どんなに下手な俳優でも、「見られる」ことにより輝やく瞬間があるものだ。それを輝やかすのは、決して
光量の大きな照明器だけではない。かれらを輝やかすものこそ、われわれの「目」なのである。
三島由紀夫「あとがき(『目――ある芸術断想』)」より

294 :
ひとたび、天与の人間の肉体が改造可能なものだといふことになると、モラルの体系も、深いところでガタガタと
崩れゆくやうな気がする。美しくする変形も、醜くする変形も、変形であることに変はりがないなら、美容整形も、
因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、
それだけならいいが、むかしの支那では、子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、
首と手足だけ出させて育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。
三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より
万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこのスピードと快さと
自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で
人間を見てゐるのである。
三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より

295 :
この小説(「潮騒」)の採用してゐる、古代風の共同体倫理は、書かれた当時、進歩派の攻撃を受けたものであるが、
日本人はどんなに変つても、その底に、かうした倫理感を隠してゐることは、その後だんだんに証明されてゐる。
三島由紀夫「『潮騒』執筆のころ」より
平和論者にとつては、見つめなくない真実だらうが、たしかに戦争には、悲惨だけがあるのではない。
三島由紀夫「私の戦争と戦争体験――二十年目の八月十五日」より
日本といふところは、一見、東洋的老人社会みたいに見えるけれど、実際は「若者を怖れる社会」である。
明治維新のころもさうだつたし、プロレタリア文学時代の文壇も、クーデターばやりの時代の軍部もさうだつた。
青年ほど、日本でおそれられてゐるものはない。
時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。
三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より

296 :
test

297 :
オリンピックを大義と錯覚する心は、少なくともそのはげしい練習と、衰へゆく肉体に対するきびしい挑戦のうちに、
正に大義に近づいてゐたのだと考へるはうが親切である。一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、
といふのが人間の宿命である。この贋物の大義を通じて真の大義を知つた青年の心は、栄光のどこにもない時代に
かつて栄光の味を知つてゐた。
現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深くばらばらに分散させられて
ゐる時代である。
私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひ
うべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属してゐるのである。
三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より

298 :
芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいふまでもないが、その相克はかしやくない
セリフの決闘によつてしか、そしてセリフ自体の演技的表現力によつてしか、決して全き表現を得ることがない。
その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もつともらしい理屈をくつつけて
来たにすぎない。
三島由紀夫「『サド侯爵夫人』の再演」より
眠りや忘却は、プルウストによつて深い小説的主題となつたが、戯曲や演劇は、覚醒と想起と再体験なしには
成立たない。
三島由紀夫「戯曲『アラビアン・ナイト』について」より
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、はじめから入念に選び
出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。
三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より

299 :
俳優がその若さの絶頂にゐて、若さの絶頂の役を演じるといふことは、芸術における例外的な恩寵である。
若さは、伝説と反対に、傷つき易い、みじめなものなのである。私自身それをよく知つてゐる。若さの年齢において
若さを演ずることは、スパルタの少年の克己をわがものにすることだ。
三島由紀夫「中山仁君について」より
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。
精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば若々しさを失ひ、後者に
傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な
結合を成就することがある。
三島由紀夫「青年像」より
青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、
真に青年の心をつかむことはできない。
三島由紀夫「本当の青年の声を(『日本学生新聞』創刊によせて)」より

300 :
感情だけが恋を形づくるが、恋をこはすのもまた、感情だ。それなら形だけの恋、感情を持たない恋の中にだけ、
永遠なものが宿るのではないだらうか?
三島由紀夫「鏡の中の恋」より
小説に美しいはかない抒情が求められる時代は、現実に苦痛が次第に負荷を加へてくる時代である。
三島由紀夫「中河与一全集を祝ふ」より
世の中といふものは面白いもので、非常に偉大で有名な人物に会つてみると、その人物自体はわりに平凡な
印象を与へ、却つてその蔭に、個性の強烈な別の人物がついてゐる、といふことがよくあるものだ。
三島由紀夫「テネシー・ウィリアムズのこと」より
いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。
三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、外に現はれて人の目に
ふれるときエロティックと感じる。
三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言」より

301 :
英雄とは、文学ともつとも反対側にしかない概念である。
三島由紀夫「年頭の迷ひ」より
小説家も拳闘家も同じことだが、血湧き肉をどる思ひをさせるのは作時代で、一家をなし、追はれる立場に
なれば、さういふ魅力は乏しくなり、代りにいはゆる「円熟した技巧」を見せはじめる。しかし、巧くなつて
不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。
三島由紀夫「原田・メデル戦」より
人間は人生の当初に、何もわからず、やみくもに考へたことを基本にして、その思想から一歩も出られずに
生きてゐるといふことも亦真実であるやうに思はれる。たとへば、「反時代的な芸術家」といふのは、私が
二十二、三歳のころに書いたエッセイだが、このエッセイの言つてゐることは、二十年後の私がそのまま実行して
ゐることである。
三島由紀夫「跋(『芸術の顔』)」より

302 :
ものを書くといふ仕事は呪はれてゐるのである。この仕事には、生の根本的な否定が奥底にひそんでゐる。
なぜなら、それは永生を前提にしてゐるからである。そして、ひとたび筆をとつたら、日記ですら、「生そのもの」の
冒涜に他ならないと感じるときに、告白は不可能になる筈である。荷風の「日乗」は一行も告白などしてゐない。
三島由紀夫「いかにして永生を?」より
覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の
側からの教育の力であらう。そして教育といふものは、いつの場合も、幾分か非人間的なものである。
三島由紀夫「青年について」より
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎のそねみ合ひと大差が
ありません。
剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の研師のちがひほどの問題で、
剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、し合ふのは当然のことです。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より

303 :
才能や理智や感情なら、早熟といふこともあらうけれど、魂自体には、早熟も晩熟もない。
三島由紀夫「もつとも純粋な『魂』ランボオ」より
日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、強い単純性に還元される
ところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、
又自然へ還つてゆくことだ。生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、
自然の生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。ギリシャ人は
巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人もこの点では同じである。
三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より
表現といふものは、そもそも下劣なぐらゐの「人間的関心」なのであり、クールであることは逆説にすぎない。
個人が組織を倒す、といふのは善である。
三島由紀夫「『サムライ』について」より

304 :
test

305 :
【源氏物語】光源氏と紫の上(8才)とのベッドシーンを描いた「幻の第55巻」が発見される (画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/

306 :
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』

307 :
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。しかしその美しさの
性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。飛行機の美しさは飛行といふ機能にすべてが集中して
ゐるからであり、自動車もさうである。しかし、人体が美しくなくなつたのは、男女の人体が自然の与へた機能を
逸脱し、あるひは文明の進歩によつて、さういふ機能を必要としなくなつたからである。
(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、文明社会では、男でも女でも、
この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸がグロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に
毒された低級な俗見である。
このごろは、しかし、男性ヌードと称して女性的な柔弱な男の体がもてはやされてゐるのも、又別の俗見である。
もちろん、ヘルマフロディット的(男女両性をそなへた)な少年美といふものは存在するが、男の柔弱さだけを
美しいと思ふ今の流行は、単なる末流の風俗現象にすぎないのである。
三島由紀夫「機能と美」より

308 :
美しいヌード写真は、いはば、鍵をかけられた硝子の函の中の性である。
男性の色情が、いつも何らかの節片乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、色情はつねに部分に
かかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも「全体」を表現してゐるものは、色情を
浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に近づけるのである。
動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な環境に置かれて、
女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば強ひられるほど、生まじめな動物の美を
開顕することを知らされる。それから突然、彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。
三島由紀夫「篠山紀信論」より

309 :
政治への熱狂と、芝居への熱狂はひよつとすると、同じものではないだらうか。それはいづれも、幻への熱狂では
ないだらうか。現にここにあるものを否定して、ここにある筈のないものを、今ここにあるかのやうに信じて、
それに酔ふといふ熱狂は。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、自由につながつた生命の本質で
あることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを
忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、日本人の心に与へつづけて来たのであつた。

三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より


電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて動くのはよいが、人間は
疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の
証明なのだ。

三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より

310 :
激情のあとに、突然、ある静かな冷たい受容が生れ、そこから又、新らしい力が湧いてくる。激情は思想である。
力は生である。その二つを最終的に一致させれば、そこに「第一義の道」はひらけるのであるが、そのポジティヴな
一致が「政治」であれば、ネガティヴな一致は「自然」である。

三島由紀夫「解説(『日本の文学40林房雄・武田麟太郎・島木健作』)」より


白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは作家の苦悩だけだと
思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(『日本の文学4尾崎紅葉・泉鏡花』)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(『日本の文学52尾崎一雄・外村繁・上林暁』)」より


ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに
通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より

311 :
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、「核兵器よりもまづ駆け足」といふ
ことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を
持つのである。

三島由紀夫「自衛隊と私」より


世間の全体の傾向は、イデオロギーの終焉といふお題目だの、世界国家への道といふ空疎な世迷ひ言だのに
飾られながら、「何よりも秩序が大切だ」といふ平均的世論の味方をするやうになつてゐる。「平和と安全の
ため」なら、「国益のため」なら、どんなお妾修業でもしよう、といふ保守的感覚と、「平和と秩序のため」なら、
どんなイデオロギーでも呑み込まうといふ民衆感覚とは、政治的には右と左に別れるやうだが、その実、よく
似たメンタリティーに基礎を置いてゐる。大体身の安全しか考へない人間は、どつちへころぶか知れたものでは
ないのである。

三島由紀夫「秩序の方が大切か――学生問題私見」より

312 :
人間性を十全に解放したらどうなるか。こはいことになるんだよ。紙くづだらけはまだしも、泥棒、強盗、強姦、
人……獣に立ち返る可能性を人間はいつももつてゐる。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 核兵器だつて使ふだらう」より


未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないといふ生活をしてゐる奴が何人ゐるか。
現在ただいましかないといふのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思ふ。
小説家にとつては今日書く一行が、テメへの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、
どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中に集合的無意識に連綿と続いてきた“文化”が
体を通してあらはれ、定着する。その一行に自分が“成就”する。それが“創造”といふものの、本当の意味だよ。
未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 未来を信ずる奴はダメ」より

313 :
「ぜいたくを言ふもんぢやない」
などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが
芸術(革命)を生むと信じられてゐる。

三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より


日本の文化は何度も何度もフィルターにかけられて、一つのものが、時代が下るにつれて極度に理想化された。
世阿弥の能の時にはすでに新古今集のフィルターをかけた王朝文化がその理想で、これはあこがれの産物とも言へる。
このあこがれはずつと武家階級に続き、禅的な文化へと尾を引いてますます美化されていつた。世阿弥のところで、
十四世紀までの文化は全部ダムになつてゐて、あそこから電気が出てゐるやうな感じがする。ところで日本の
近代文化といふものは、さういふことを一度もやつてゐない。つまり古代文化を一度われわれの時代のフィルターに
かけて、それを大きな電力を生ずるやうなダムにするといふことをだれもやつてゐない。

三島由紀夫「世阿弥に思ふ――鼎談に参加して」より

314 :
年のはじめだけに、なぜ伝統が意識され、古い日本がいかにも美しく感じられるのであらうか。思ふに、日本といふ
泉が、そのときだけ心の底から、澄んだ水をほとばしらせるのは、われわれが新らしい年に直面する不安と恐怖を、
過去にくりかへされてきたおめでたい伝承の復活でふりはらはうとするときに、その泉の水の澄んだ生命の力の
持続性にたよらうとするからであらう。本当のところ、新らしいものは怖い。新らしい年は怖い。未来は怖い。
未来が全然怖くないのなら、その人は人間ではない。怖いからこそ、われわれはその未知に、自分の一番大切な
ものである希望を懸けるのである。

三島由紀夫「月々の心 伝承について」より


人間にとつての悲劇は、もう若くないといふことではなくて、心ばかりがいつまでも若いといふところにあるやうに、
夏が去つたあとも我々の心に夏が燃えつきないのが悲劇なのだ。

三島由紀夫「月々の心 夏のをはり」より

315 :
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的鉄則であるやうに思はれる。
そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。


ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、爽やかさ、晴れやかさが、
彼には徹底的に欠けてゐた。ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。

三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より


「しがらみ」からの解放といふことが、一体男性的なことであるか大いに疑はしい。自由が人を男性的にするか
どうかは甚だ疑はしい。

三島由紀夫「鶴田浩二論――『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの」より


ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つて
ゐる手合ひを野次馬といふ。私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、
交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ! 三島由紀夫??』」より

316 :
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。日本の戦後も占領軍による
武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道を
ふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。

三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より


刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、そのまま精神のあらはれに
なるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、といふ要請から生れた言葉であらう。道具が
生体の一部になればなるほど、道具はただの道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の
一本の枝になつて、そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。

三島由紀夫「空手の秘義」より

317 :
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、情報を蒐集し、
これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の上つ面を撫でるだけの、究極的には
ニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感する
ところであるが、この複雑多岐な、矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな
不毛の現代社会に於て、真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに
思はれる。

三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より


もつとも美しい男の服装は剣道着である。手に藍のつくやうな、匂ふやうな濃い藍の稽古着、袴に、黒胴と垂れを
つけた姿ほど、日本男児の美しさを見せるものはない。

三島由紀夫「男らしさの美学」より


正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、汚ない水は
人を病気にさせるのに似てゐる。

三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より

318 :
羞恥心は微妙なパラドキシカルな感情である。自分について羞恥心を抱いてゐるとき、人は又、ひそかに、
あたかも罪悪感のやうなナルシシズムを抱いてゐるかもしれず、憎悪と愛とのアンビヴァレンツを隠してゐるかも
しれない。それだけ羞恥心は、自分の内部の深いものとインティメートな感情の、隠れ家であつたかもしれない。
日本人が日本の古い習俗を「蛮風」として恥ぢてゐたときには、どこかで心の一部がその蛮風に支配されて
ゐたときかもしれない。心のみならず、自分の生活感情や社会意識に、ひそかに、そんな蛮風が影を落してゐた時
かもしれない。


文明人がプリミティヴィズムを内部に蔵してゐるのは、何と素敵なことであらう。蒼ざめた都市生活者であること
よりも、noble savage であるといふことは、現代人として何と誇らしいことであらう。一国の文化の底の底を
掘り起しても、何ら原始的な生命の根に触れえないやうな「文明国民」とは、何と十九世紀的で、何と時代おくれな
ことであらう!

三島由紀夫「序(矢頭保写真集『裸祭り』)」より

319 :
不思議なことに色気の感じられる女は、昔から単に陰性な、内気一方の女ではなく、どこかに凜とした男まさりの
ところがなければならない。


性的魅力において自分よりすぐれてゐると思はれる女を、男に紹介するバカな女はゐないのである。


ひたすら男性の嗜好に合はせて長い訓練を経て形成された色気といふものに対して、女はある本能的な敵意を
持つてゐるものであるらしい。


多くの女に色気があると言はれてゐる男は、概して男の世界では顰蹙と軽蔑の対象である。もちろんその中には
羨望や嫉妬がまじつてゐないとは言へないが、そのやうな男は概して男の理想的なイメージとはなりにくいのである。
なぜならば、男がみづから克服したいと思つてゐる欠陥を女は愛するからである。勝利者にあこがれる女よりも
敗北者にあこがれる女のはうが圧倒的に多い。

三島由紀夫「女の色気と男の色気」より

320 :
家庭にはひりこんでくるテレビの威力の前に、子どもたちを守らうとしても、もうむだです。よい言葉やよい
しつけについては、おとなでさへ忘れてしまつてゐる時代です。何がよいことで、何がわるいことか、子どもたちは
わかりやすい簡単な基準を与へてほしがつてゐるのですが、それを与へることのできない親たちは、子どもたちを
しかる資格さへ失つてゐるのです。


ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘ひ出します。一つの美しさは
別の美しさと照応し、一つの美しさによつて別の美しさが誘ひ出される。これが美の法則でもあり、道徳の法則でも
あります。美しさは「誘ひ出される」のです。もしこれが確信を持たぬ不完全な美なら心をうちますまいし、
またもしこれが風土に根ざさぬ抽象的な高遠な人類愛のお話なら心をたのしませないでせう。遠い歴史と風土の
中に咲く花であつても、小さく咲いた完全なえにしだは、日本の可憐な夕顔の親せきになり、われわれの心に、
忘れてゐた夕顔の美しさを誘ひ出すのです。
三島由紀夫「序(セギュール夫人作 松原文子・平岡瑤子訳『ちっちゃな淑女たち』)」より

321 :
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から何ものかを汲まねば
ならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであらう。

三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より


政治に暗く、経済に暗く、社会に暗く、しかしその暗い全景の一部分に、丁度ルネッサンスの風景画のやうに、
啓示のやうな光りを強く浴びてゐる部分がある。そこだけ草が輝き、羊の背が光つてゐる。そこだけ木立は光りに
あふれた籠のやうに見え、そこだけ流れは光彩を放つてゐる。そここそは、女だけに特権的な、不可侵の情念の
領域なのだ。

三島由紀夫「詩集『わが手に消えし霰』序文」より


まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで
非良心的といふ思想もある。

三島由紀夫「あとがき(『行動学入門』)」より

322 :
偉大な作家には、おもてむきの傑作と、裏側の傑作があるらしい。顕教的顕仏的傑作と、密教的秘仏的傑作と
言ひかへてもよい。

三島由紀夫「『眠れる美女』論」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の諸特質や、その後
発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(『新潮日本文学6谷崎潤一郎集』)」より


性の拒否が最高の性のよろこびに到達する大詰の童話の結婚式は、あらゆる童話における、
「それから王子様と王女様は世界でいちばん倖せに暮しました」
といふ決り文句の、ほとんど猥褻なひびきを伝へるものでなければならない。至福の猥褻さは、死の猥褻さに
似てゐる。現世離脱は、同時に、自己からの離脱である。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より

323 :
男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の女性化とは、男性の
自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようとすることを意味します。
三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より
私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはないといふ自信がある。
これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。
三島由紀夫「『尚武のこころ』あとがき」より
言葉で表現する必要のない或るきはめて重大な事柄に関はり合ひ、そのために研鑽してゐるといふ名人の自負こそ、
名人をして名人たらしめるものだが、さういふ人に論理的なわかりやすさなどを期待してはいけないのである。
三島由紀夫「あとがき(『源泉の感情』)」より

324 :


325 :
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は一刻の油断もゆるさず、
たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、どんな豊饒がもたらされるか、自ら占ふことができない。
書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ。どれだけ
烈しい夜、どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されてゐたら、気が狂ふに
ちがひない。……しかし、今日も亦、次の一行、次の一行と書き進めてゆくほかに、生きる道はないのだ。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 書物の河)」より


にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、人々を動かし富ます
かもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の美しさは、やはり私の心の奥底にある
「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 舞台の河)」より

326 :
私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのさまざまなドライヴへ私を誘ひ、今まで
見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私は
この宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされて
ゐるのである。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 肉体の河)」より


この河と書物の河とは正面衝突する。いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、
死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を
介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。
この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和ももたらさない。安息も与へない。……ただ、
男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 行動の河)」より

327 :
作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだといふ考へが、
終始一貫私の頭を離れない。つまり一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示で
あるならば、それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは文体とはいへない。
文体の特徴は、精神や知性のめざす特徴とひとしく、個性的であるよりも普遍的であらうとすることである。
ある作品で採用されてゐる文体は、彼のゾルレンの表現であり、未到達なものへの知的努力の表現であるが故に、
その作品の主題と関はりを持つことができるのだ。何故なら文学作品の主題とは、常に未到達なものだからだ。
さういふ考へに従つて、私の文体は、現在あるところの私をありのままに表現しようといふ意図とは関係がなく、
文体そのものが、私の意志や憧れや、自己改造の試みから出てゐる。

三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より

328 :
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て留保したものが日本の天皇制である。
天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき
東洋文化の現代文化へのかけはし、その最後の理解の橋も失はれるのである。

三島由紀夫「偶感」より

329 :
サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして
有名になりたいものだと思つてゐる。
三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より

330 :
日本で一等いけないのは、政治家よりも、全学連よりも、新聞だと思ひます。
三島由紀夫
ドナルド・キーンへの書簡より

331 :
「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。
フィクションとはいひながら、意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的
真実である。
三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」より

332 :
試写会の雰囲気といふものはあまり好きでない。ふだんはちつとも笑はないくせに、オリジナル版だつたりすると、
わざと面白さうに笑つたりする。皆より早く見られるのと、必ず坐つてみられるのと、この二つが試写会の利点で、
入場料を倹約したやうな気にはなれない。芝居だつてさうで、入場料を自分で払つてみれば、つまらない芝居も
面白く見られるものである。
三島由紀夫「私の洋画経歴」より

333 :
映画も芸術の一種と仮定すると、人間の芸術的感受性が、映画のおかげで低下するといふものでもないので、
むしろこのごろの若い人は、われわれが少年時代に、小説の耽溺に際して働らかせた分量の感受性を、映画に
向けてゐるとも云へるのであるから、十代のお客だつて、たとひ小学生のお客だつて、ジャリなどと呼んで甘く
見るべきではない。このあひだ「恋人たち」のカットに積極的に賛成したといはれる某映画批評家などより、
かういふジャリのはうが、よつぽどコンモン・センスに富んでゐる筈だ。
三島由紀夫「映画見るべからず」より

334 :
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは後退的であると思ひ込んで
ゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。又、進歩主義者の民族主義が、目前の
政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この
民族主義は東南アジアでは怖るべき力になる。


多くのアジア後進諸国は、未開拓の豊富な天然資源をもち、将来国内市場が拡張されれば、日本のやうな高度に
海外市場に依存した危険な経済に進まずともよい利点がある。或る国は経済の多角化に成功し、或る国は単一生産に
とどまりながらも、相互の経済協力が必須のものとなつて来てゐるのである。


資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、必ず政策の成功があり、
政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。

三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より

335 :
デボラ・カーといふ女優は、つくづく良い女優だ。この映画では映画で役者の芸をゆつくり詳細に見てゐる余裕を
味はつて、デュヴィヴィエのやうに監督一人えらがつてゐるやうな作品とちがつて、こつちのはうがよほど
人間的だと思つた。私は「映画的だからよい」といふ映画批評家の常套句が一向呑み込めず、とにかく人間が
寄つてたかつて作る映画が人間くさくなくてはおかしいと思ふはうである。
三島由紀夫「『情事の終り』」より

336 :
私立探偵の息子役の子供に、ほとんど一語も喋らせてゐないのは賢明だ。子役の喋る映画が私は大きらひだ。
子役には決して喋らせてはならない、といふ私の持論が証明されて愉快である。
三島由紀夫「『情事の終り』10の指摘」より

337 :
ある人物と決定的な出会をして、それから終生離れられなくなるずつと以前に、むかうもこちらに気づかず、
こちらもほとんど無意識な状態で、その大切な人物にどこかでちらと出会つてゐることがあるものだ。私と太陽との
出会もさうであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

338 :
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。

三島由紀夫
ヘンリー・スコット=ストークス宅の食事会での発言より

339 :


340 :
私の西洋式生活は見かけであつて、文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふ
この「生つ粋の日本」にあり、これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。
三島由紀夫「日本への信条」より

341 :
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。
三島由紀夫「日本への信条」より

342 :
記者クラブのバルコニーから、さまざまな政治的スローガンをかかげたプラカードを見まはしながら、私は、
日本語の極度の混乱を目のあたりに見る思ひがした。歴史的概念はゆがめられ、変形され、一つの言葉が正反対の
意味を含んでゐる。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より

343 :


344 :


345 :


346 :
保守

347 :

TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
【とある魔術の禁書目録】新たなる光 2【N∴L∴】 (249)
【僕は友達が少ない】 高山マリア (163)
【涼宮ハルヒの憂鬱】吉村美代子ことミヨキチ※カワイイ (165)
【涼宮ハルヒの驚愕】渡橋ヤスミに萌えるスレ (324)
【涼宮ハルヒの驚愕】渡橋ヤスミに萌えるスレ (324)
【涼宮ハルヒの憂鬱】阪中佳実 Part12.1【なのね】 (129)
--log9.info------------------
AKBの整形してる人って誰だ? (323)
アスペルガーっぽい芸能人 (231)
    芸能界一キモイ女『おかもとまり』     (928)
最近見かけない芸能人情報交換所 16thシーズン (592)
【自称】三十路大根女優広末涼子【大女優】 (425)
枕営業してない芸能人っているの?Part2 (298)
遠藤時代 (820)
媚韓芸能人と嫌韓芸能人 (313)
【わたしので】小野真弓Part10【目一杯抜いて!】 (411)
小向美奈子の復帰を支援する会のスレッド (328)
【わたしので】川村ゆきえ【目一杯抜いて!】 (278)
【わたしので】水野裕子Part17【目一杯抜いて!】 (805)
腹黒い芸能人 (779)
【茨城】磯山さやか24【いばらき】 (418)
【こっチャン】坂下千里子ファンスレpart54【チポ大好き】 (348)
矢田亜希子と沢尻エリカ (136)
--log55.com------------------
487●ダメプ★憩い場 パチンコ屋終了のお知らせ、ざまあw
【乞食詐欺】 むるおか Part 7 【月収200万】
【義援金も捏造ぜよ】谷村ひとし【インチキ嘘詐欺捏造】 Part.91
488●ダメプ★憩い場 ジジイになる前に、もっとクンニしとくんだった
【藤商事】 P地獄少女四 おとうふ9丁目
宣言以降も営業しているパチンコ屋
P G1DREAM ROAD MH【サンセイ】
ぱちんこAKB48ワンツースリーフェスティバルpart12【京楽】