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2012年4月三国志・戦国183: 【諸葛恪】三国時代の呉末期を語るスレ【孫皓】 (318)
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【諸葛恪】三国時代の呉末期を語るスレ【孫皓】
- 1 :09/10/13 〜 最終レス :12/04/08
- 演義関連の小説・漫画作品も含めあまり語られない
夷陵の戦い〜呉滅亡までを語るスレです。
呉と言うと一致団結しているイメージがあるけど
孫権時代末期から中央内部で誅・賜死・皆しの嵐だったんですね。
- 2 :
- 諸葛謹の驢馬
- 3 :
- もともと豪族の力が強かったところに、
二宮の変で孫権が引っかき回しちゃったからねぇ…。
皇族同士が疑心暗鬼状態では、豪族に対処するどころじゃないよね。
- 4 :
- 皆しにしても魏のは謀反がからんでるのが多いけど
呉は皇帝の意見に逆らったとかクーデター関連ばっかだな
- 5 :
- 呉の人物で一番早死にが痛かったのは、
周瑜でも呂蒙でもなく、孫登なんだよな
こいつが生きてれば、くだらん事で呉の内部が分裂する事もなく、それに準じた大量粛清もなく、孫峻、孫チンといった奸臣の台頭による国力の衰退も無かった
まあ孫権が長生きしすぎたってのもあるが
- 6 :
- 呉書でも呉主伝と十五巻だけをみても不服住民や山越の叛乱がいかに多いか
窺い知れる
こんな状態が恒常的に続いて人口密度も高くないんじゃいつまで経っても
江北で大規模で長期の軍事行動なんてとれんのだろうな
- 7 :
- 呉はインフレしまくってたからな。
国としては相当不安定だったんだろう。
- 8 :
- そんな国が防御では鬼畜というのがよく分からん
- 9 :
- 三国鼎立後はほとんどの場合防御側が勝ってるし
呉だけが鬼畜な訳ではない
あと、滅亡直前の呉の一方的なボコられっぷりは酷すぎる
殲滅戦てレベルじゃねーぞ
- 10 :
- 司馬炎も拍子抜けしたかな?
- 11 :
- そんな呉を死ぬまで守り抜いた陸抗は凄すぎる。
- 12 :
- しかし滅ぶわけだからかなしすぎる。
- 13 :
- 呉も陸抗が歿して以降は長江のラインに沿った戦線を統轄する司令官を
置かなかったからな
おかげで晋軍の侵攻に対して大局を見極めて有機的な防衛戦を展開する事も
適わずただ各個に防戦するだけで、僅かに徹底抗戦に努めた城もあったが
それを含めても殆どは脆くも落城・降伏するばかりに
陸抗の頃より前線の兵力不足は指摘されていながら呉の首脳というか孫晧も
増強する等の手配は施さんかった様だし
- 14 :
- 呉主伝の後半の鬱っぷりは異常
家臣がばたばた死んでいく状況と、孫権が徐々に狂っていく過程が淡々と書かれている
麒麟がどうとか白虎がどうとかみたいな記述が更に読む方をゲンナリさせる
- 15 :
- 早死にが惜しまれる人物が多い呉にあって、孫権の長生きのありがたみの無さは異常
- 16 :
- 孫峻って諸葛恪を自分で推薦しておいてしてるのな
- 17 :
- 諸葛恪は何故司馬懿になれなかったのか
- 18 :
- 淮南三叛の残りふたつがよりにもよって孫峻・孫リンがのさばる五年間の
時代に起こるという…
- 19 :
- 南六朝最初の呉の版図と南六朝最後の陳の版図はどちらが広かったのであろうか?
- 20 :
- >>15
孫権よりも長生きした呂岱のありがたみの無さは微妙
- 21 :
- >>19
呉の方は版図の面積のわりに使える面積が少なかったと思う
呉代から領土整備が進められたけどね
- 22 :
- 孫登の早死にが一番キツいというのには同意。
次は朱拠かも、とも思う(賜死だけど)。
朱拠みたいなうるさ型の重鎮がいれば
諸葛恪暴走〜孫家傍流の台頭は無かったかなとも思う。
でも250年代の政争のせいで滅んだわけじゃないから関係ないか。
孫登の早死を回避不可とするなら、
孫和即位が一番マシだったと思う。
孫和が継いだら結局は孫皓に行くじゃんという意見もあるが
孫和が長生きして、さらに後継を別の皇子に指名すれば問題ない。
あるいは孫皓をスパルタ教育。
- 23 :
- 孫皓はエピソードの端々を見る限り有能だったんだと思うよ。
あの暴虐ぶりが自暴自棄のなせる業だったのか、持って生まれた気性だったのか…
- 24 :
- 孫権死後の呉の酷さは中国の王朝の歴史でも最悪クラスに思える
特に奸臣の暴れっぷりは北斉や劉宋と比べても遜色無いくらい酷い
- 25 :
- そういや呉征服の時、一般的にはドヨが総司令官とか言われてるよね
でも大元帥はカジュウが務めてて、ドヨは6路の遠征軍の一路を指揮しただけに見えるんだけど
何でドヨが総司令官扱いなの?
- 26 :
- そういや孫皓には父親孫権説があった気が…
- 27 :
- >>24
さすがに北斉よりは酷くないだろう
- 28 :
- 北斉は唯一他国より優れていた軍事力を自ら潰したので滅びた
孫呉は何一つ魏(晋)より優れていた点が無かったのでジリ貧になって滅びた
皇帝は北斉の方が圧倒的に酷いが‥‥
- 29 :
- age
- 30 :
- 皇帝が早死にし過ぎて衰退した魏
皇帝が長生きし過ぎて衰退した呉
バランスが大事って事ですね
>>22
朱拠が死ななければおそらく丞相にはなれただろうから、その後の流れも変わって滅亡も遅れたかも知れんね
まあ二宮が起こらない事が大前提な訳だから結局は孫登か…
- 31 :
- 孫登の死因は?
- 32 :
- 病死
せめて孫登の息子が生きてれば孫皓即位は避けれたかもね
- 33 :
- 孫璠・孫英・孫希は早死に?
- 34 :
- 皆しじゃなかったっけ
- 35 :
- 建業血まみれじゃん
- 36 :
- ageとく
- 37 :
- ナイスレス
- 38 :
- 孫皓って
知能は高いが知性的ではない
- 39 :
- 連環画の孫皓はいかにも暴君って感じの風貌だったな
- 40 :
- 日本で一番有名な三国志関連人物は孟宗
三国志に興味ないうちの婆さんでも知ってる
- 41 :
- 何この、語れば語るほどウツになりそうなスレ
- 42 :
- >>40に究極の真理をみた
- 43 :
- 確かに孟宗は日本で一番有名な三国志関連人物
しかし三国志マニアにはあまり知られていないという逆転現象
- 44 :
- >>23
呉は豪族の連合政権という色合いが強い。
そういう意味では、最も「後漢の後継王朝」と言えるかもしれない。
孫家自体は張陸朱顧などの豪族内の第一人者に過ぎず、皇帝権力は比較的弱かった。
豪族たちも、国家より自家の安泰を優先する傾向にあった。
孫皓は皇帝権力の絶対化を目指したんだと思う。彼の数々のワガママは、臣下どもに皇帝のエラさを認識させるため。
ただ孫皓の時代にはそれを言語化して臣下に伝える理論がなかったのと、ちょっぴりオイタが過ぎた。
北斉末期のぐだぐだっぷりとは、全然質が異なると思う。
孫皓は(あくまで彼なりにだが)「あるべき国家の姿」を目指して孤軍奮闘していたんだと思う。
その空回りぶりは、どちらかと言えば、明末の崇禎帝に似かよう。と思う。
- 45 :
- なんだよこのお通夜王朝…
前どっかで見た「破竹の勢いっていうけど、割られる竹はたまったもんじゃねぇ」って言葉に正直泣いた
- 46 :
- 自分を擁立してくれた連中まで皆しにする孫皓は高緯以下のクズ
- 47 :
- でもその擁立した当事者、濮陽興と張布は即位たった三か月で、孫皓廃位を考えたんだぞ。
主も主なら臣も臣。
- 48 :
- >>44
またニワカが湧いてるのか。
張陸朱顧の朱と張は誰?
それと孫権の暴れっぷりを見ても皇帝権力は弱いなんてとても言えない。
群臣が反対を押し切って遼東と手を組んだり、功臣を粛清したり。
豪族じゃなくて権臣・功臣と皇帝が綱引きしたというなら、まだしも。
張昭も諸葛親子も歩シツも、地元の豪族じゃないよ。
- 49 :
- 東漢が豪族連合というのもホンマ?
- 50 :
- 張陸朱顧というのは呉の四姓といって、呉でも最も有力だった四つの氏族のことを指すんだが
- 51 :
- 呉県の四姓
呉郡の四姓
呉王朝の四姓
のどれ?
- 52 :
- >>50
呉書見聞というサイトで色々と考察されているが、
呉の四姓というのは呉郡の呉県の四姓というのが正解っぽいよ。
呉王朝で有力だったとするなら
張氏(張昭)・全氏・諸葛氏・歩氏・朱氏(朱治)・呂氏(呂範)なんかもいるし。
- 53 :
- >>51
東晋王朝の膝元四姓
- 54 :
- 東晋なら賀が入るんじゃないの?
- 55 :
- 陸…陸遜、陸瑁、陸凱、陸胤、陸抗、陸機、陸景
朱…朱桓
張…張温
顧…顧雍、顧譚
- 56 :
- なんか陸遜とオマケたちって感じだな
- 57 :
- 陸抗や陸凱がオマケなんてとんでもないよ
二人とも後期呉の主柱みたいなもんだ
- 58 :
- 孫皓じゃなくて孫奉が即位していれば
- 59 :
- 孫皓は糞だが、孫皓を廃せなかったその他大勢も無能すぎる
- 60 :
- 孫休が孫皓はだめっていってたのに
- 61 :
- 陸雲が入ってないぞ
- 62 :
- 孫皓も即位当時はやる気満々で、改革やら減税やらで部下や民衆の支持を得ていたんだがな
すぐに政務に飽きて化けの皮が剥がれた
- 63 :
- 陸雲よりも陸績だな
この時代から唯一二十四孝に選ばれてるし
- 64 :
- >>63
孟宗がいるじゃん
- 65 :
- ちょっと前に話題に出てたのに忘れてた
ゴメンね
- 66 :
- あと王祥もだな。
駱統の話も好きだ。
未亡人になって他家に嫁ぐことになった母を気遣って
別れ際にわざと振り返らなかったって奴。
あれは孝行とは違うんだろうけど、すごい話だと思う。8歳だぜ?
こういう奴が孫権晩年〜孫登まで長生きすれば良かったのに。
- 67 :
- 駱統は張温の擁護をしてるんだが、孫権は聴き入れなかったんだっけ
張温にしろ陸績にしろ、孫権は下らん理由で優秀な人材を手放しすぎ
- 68 :
- 朱拠とか吾粲みたいなうるさ型が処刑されてしまっていたから
諸葛恪の暴走を誰も止められなかった。
張休・顧譚・陳表のうち一人でも生き残っていたらなぁ
- 69 :
- 孫権だけでなく、それに乗っかって暴れてた奴が山ほどいたのがタチが悪い
二宮〜孫チンの台頭位までの流れはマジで狂ってるぜ…
- 70 :
- http://d.hatena.ne.jp/mujin/20091227
>ときおり「二宮の変は孫権晩年の失策」という前提で語られているのを聞くと、ちょっと待ってよーと思ってしまう。
>あれは太子にたかり私党を形成した呉の四姓を初めとする重臣を粛正するために孫権が意図的に起こした事件でしょ。
>孫権は若いころから重臣の放縦を警戒してことあるごとに牽制してきてるので、その延長線上のできごとだと片付けていい。
この人は通ぶって、たまにマヌケなこと書くよなー
- 71 :
- 霊帝晩年の治世でさえ皇帝集権と軍制改革の面から再評価されている現在だから、
孫権晩年や孫皓の「暴走」も類似の視点から再検討が必要になってきてはいるだろう。
しかし、息子二人を犠牲にして幼少の息子に帝位を継がせるはめになる事件を
「意図的に起こした」とするにはちょっと大きな飛躍が必要だろうね。
孫呉期の呉四姓の実力については
「呉県出身の陸機のお国自慢」>>52でアンサーだろうし。
- 72 :
- 孫休よりも幼い孫亮をあえて皇太子にしたのはどういう意図があったのかね
孫奮は論外としても
- 73 :
- つ全夫人伝
魯班の差し金。
- 74 :
- >>71
全てが孫権の意図どおりとは限らないからな
大姓の勢力を削ぐことは目論見どおりだとしても、息子を犠牲にするのまでは計算外だったのかもしれない
- 75 :
- 権力と名声を持つ外戚二人を排除出来たのは計算通りだったのかも知れん。
- 76 :
- 孫峻変死から呂拠と滕胤の自滅の流れを見ると、孫?って手際いいなぁとは思う
危機感があるときだけは高い能力を発揮できるタイプなのかな
- 77 :
- 実は孫亮に継がせるつもりでした…計画通りってか?
- 78 :
- 孫休は孫チンを排除するところまでは格好良かったが、
その後はプチ万暦帝化しちゃったのがなあ
- 79 :
- 孫休がもっとしっかりしていれば、
蜀方面の魏からの保持はできたのではと思う。
- 80 :
- がっかり豪族連合の末路は哀れだな
- 81 :
- むじん氏のブログ、コメントついたが…
当初は「孫権がけしかけた」と言っていたのが、いつの間にか「派閥争い」になってる。
その二つは全然違うでしょ。
後宮の話にも触れてるけど、魯班の意見に左右されたのだとしたら
それこそ孫権の愚を示すことにしかならないと思うんだけど。
さらに、まだ四姓という言葉に頼って説明してるのも残念だけど
>そしてその抗争が次世代の陸抗、歩闡の内訌につながっていくわけです。
え?陸抗と歩闡の戦いって派閥争いだったの?と、これはちょっと唖然。
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20070903/p1
過去記事では楊脩と全奇・楊竺を比較してるけど
どちらが太子になるか争った曹丕兄弟と太子が立てられた後の孫和兄弟とじゃ全然違うと思うんだけどな。
そもそも、「孫和派」言うけど、これって変なんだよ。すでに太子なんだから。
群臣が太子に取り入っても、太子を守っても、何の問題もない。
逆に、太子を蔑ろにして諸王を支持する奴が出てくる状況が狂ってるわけで。
「孫和派vs孫覇派」というフレームで眺めてる限り、それこそ「お話にならない。」
- 82 :
- >>81
直接ブログに書いてくればいいのに
むじんも喜ぶよ
それはそれとして、
>群臣が太子に取り入っても、太子を守っても、何の問題もない。
はそこまで単純とは思わないよ
なぜなら、群臣が太子に接近することは、それだけ皇帝との距離が離れることになるから
皇太子は皇帝にとって潜在的なライバルだから、もし「群臣が太子に取り入る」ような状況になってくれば、皇帝は何らかの手を打たないといけない
それと、
>どちらが太子になるか争った曹丕兄弟と太子が立てられた後の孫和兄弟とじゃ全然違うと思うんだけどな。
だけど、もちろん同一じゃないけど、曹丕は曹操が魏公になる前から公式に世子とされているし、副丞相の職にもあったからね
実質は太子と変わらないでしょう
- 83 :
- 曹操の場合は正式に太子とするのが遅れたから
曹丕派と曹植派が対立したけど
二宮の変は孫和を太子に立てた後に起きたから
余計にダメージが大きかったのではないかと
あと孫権は陸遜に孫登の輔佐をさせてるのだから
派閥云々いうならこの時から問題にしないといけないのでは
- 84 :
- >皇太子は皇帝にとって潜在的なライバルだから、もし「群臣が太子に取り入る」ような状況になってくれば、皇帝は何らかの手を打たないといけない
それはかなり後代の話。
しかも皇帝は皇太子に対して勉学を命じて交際を絶つようにも出来る。なんらかの手を打つとしても対抗馬として兄弟の待遇を上げるというのは無い。
ライバルが二人に増えるだけ。
単純に、孫権は孫和を太子に立てたものの、孫覇の方を気に入っていた(いつからかは不明だが)ので、
二人の待遇を同じくし、宮殿に出入りさせて高官たちと交流させ、名を通らせておいて、頃合を見て孫和を廃嫡するつもりだったのだろう。
だから初中期に粛清されたのは太子派ばかり。
しかし陸遜らの反発が目論見以上に強く、陸遜は死んだものの却って朝政維持に支障をきたすようになった。
そのため喧嘩両成敗の形で手を打ったというわけだろう。
- 85 :
- それから
>実質は太子と変わらないでしょう
問題は立太子の儀を経ているか否か。
厳格な礼教によって維持されたこの時代の国政にとって、礼制上の拘束力は極めて大きい。
- 86 :
- 後宮も一枚岩じゃなくて、孫和の母親の王夫人は寵愛を受けてるし
孫和を擁護した朱拠の嫁は歩氏の生んだ魯育なんだよな。
派閥争いにしても、もともとあった派閥によって孫和派と孫覇派に分かれたんじゃなく、
二宮の変によって派閥が出来上がったと見るほうが自然だと思う。
もちろん241年の北伐の論功行賞を発端とした全氏と顧氏の諍いはあったが、
陸遜と全ソウが険悪になるのは二宮の変以後のことだと陸遜伝に書いてある。
- 87 :
- 曹丕が五官中郎将になると賓客が雲のごとく集ったが
ヘイ原だけはそれに与しなかったという。
君主の後継ぎに人が集まるのは自然なことなんだ。
だが曹操はその後、後継ぎを迷って、二子の資質を諸将に尋ねるようになり
これによって曹植の派閥が出来上がっていく。(派閥というより支持派と言ったほうが正確か)
そしてそれは曹丕が太子になることで終息する。
二宮の変を色々と解釈する人は、口には出さないものの
「孫和派を忠臣と言っていいのか。むしろこちらこそ佞臣じゃないのか?」という意識があると思う。
だけどそれは是儀の言った「太子と王の区別をせよ」というのが正論なんだから、当たらない。
あと、「孫権は愚かじゃない。呉の弱い君主権を強化しようと頑張ったんだ」という意識もどこかにあるんだろう。
それもちょっと変で、呉の君主権が弱いと言えるのかどうか。
曹叡は宮殿造営を盛んに諌められたけど、やめなかった。
孫権は遼東との同盟を盛んに諌められたけど、やめなかった。
孫権はトータルとしては名君だし、若い頃は非常に優秀だったが、ポカも時々ある。
その時に臣下が諌めるのは当然で、諌められたから君主権が弱いなどということはあり得ない。
- 88 :
- 太子派に野心のある者は状況を利用しようとする者がいなかったわけではなかろうし、
孫覇派が佞臣だったと一方的に断定することはできないし、
呉志は孫和の子の孫晧が編纂を命じた呉書を引き写して書かれたとされているし
陸議らが晋に仕えているわけだから、孫和派が実態以上に「善玉」に書かれてはいるのだろう。
しかしそれでも、太子という政治的正当性を有したことは、政治の世界ではほとんど決定的な
価値を持つだろうね。
- 89 :
- 太子派・孫覇派の顔並びを見ても、後者は佞臣が多かったと思うけどな。
前者は功臣が多く、位階も高い。
後者の楊竺だの呉安だの全寄だのは佞臣の可能性は高い。
顧承や張休が流されたのは誣告と見て不自然ではないし。
>呉志は孫和の子の孫晧が編纂を命じた呉書を引き写して書かれたとされているし
呉書については、偏見を持って見られすぎな気もする。
孫和が本紀に立てられたこともなかったようだし、三国志の全ソウ伝なども悪く書かれてはいない。
>陸議らが晋に仕えているわけだから、孫和派が実態以上に「善玉」に書かれてはいるのだろう。
三国志の編纂時期を考えても、それはないだろう。
- 90 :
- あ
- 91 :
- い
- 92 :
- >>88
呉書の編纂は孫権時代の末期に始まっているから
もともと孫和(や孫覇)がよく書かれていたとは思えない
元部下の韋昭が潤色した可能性はあるけど
ただ孫和が後継者としてふさわしくない
とする記事は他の史書にもないから
太子として立てられた時点で>>87の言うとおり
群臣が集まるのは自然なことだと思う
- 93 :
- もし孫覇やその系譜の人間が帝位に付いていたとしたら、
顧譚や吾粲のような行動を誣告と表記されていた可能性があるわけだ。
同時代史というのは前代の皇帝までの事績を編纂するもののようで、
ならば孫権時代に孫和や孫覇の記述が行われていないことになる。
だから「一方的に断定することはできない」。
孫覇派に佞臣がいなかったとは言っていない。
ついでに、群臣による太子和の「不安之議」というのは行われており、
武昌に駐屯していた陸遜が看過できないものだった。
孫権の「逡巡」によって生まれた派閥構造がかなりの規模に至っていたことを
示すだろう。その辺は>>87の曹丕派曹植派の対立の発生と重なるね。
- 94 :
- どれだけ部下が一致して推薦しようとも
断固として張昭を丞相に就けなかったように
孫登が死んだ時点で孫覇を太子にしてしまっていれば
ここまで大騒ぎにはならなかっただろうけどね
- 95 :
- >>94
そんなことしたら「佞臣」は孫和を皇太子にするよう働きかけるだろ
陸遜が死んでも孫覇を皇太子に立てず、孫和を廃位した時にも孫覇も自させてるから、孫権は孫覇をぜひとも皇太子にしたい、というわけでもなかったんだと思う
つまり孫覇派や孫権にとっては、孫和以外になることが重要であって孫覇になることは二の次だった
孫覇の能力や父の寵愛ありきの皇太子廃立じゃなくて、それ以外の要素による廃立ということだろう
- 96 :
- 孫権にとってはともかく、「孫覇派」にとって「孫覇でなくてもいい」というのはないだろう。
孫権が生んだ政情に乗じて派閥を形成したのだから。
- 97 :
- >>93
>顧譚や吾粲のような行動を誣告と表記されていた可能性があるわけだ。
魯班が「孫和が張休と謀議してる」「王夫人は孫権の病を喜んでる」と告げたり
全ソウ父子が北伐の論功行賞で癒着があったとしたりというのは誣告の可能性があるが、
吾粲らが主張していたのは「嫡子と庶子の区別」という「論理」なので
誣告と見なす材料にはならないと思う。
彼らは陸遜と連絡していたが、丞相と連絡すること自体は問題とは思えない。
>>95
>孫権は孫覇をぜひとも皇太子にしたい、というわけでもなかったんだと思う
その優柔不断が問題だが、それだけでなく孫権が潘夫人(孫亮母)を寵愛し始めたことも大きいだろう。
>孫覇の能力や父の寵愛ありきの皇太子廃立じゃなくて、それ以外の要素による廃立ということだろう
孫覇が父の寵愛を受けていたのは大きいだろ
- 98 :
- そういえばなんで楊竺の企みが失敗してされるのはいいとしてなんで孫覇まで自させられるんだろう
寵愛してたんじゃないのか?
- 99 :
- あ
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