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2012年6月中国英雄367: 【劉備】 漢中争奪戦 【曹操】 (267)
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【劉備】 漢中争奪戦 【曹操】
- 1 :07/01/09 〜 最終レス :10/12/28
- 三国志の両雄である劉備と曹操の直接対決が実現した、漢中の争奪戦について語りましょう。
- 2 :
- W爺ちゃんサイコーだお。
- 3 :
- この時点では、もう2人とも老雄って感じだね。
- 4 :
- 劉備の一番全盛期のときだな
補給の諸葛亮
策謀の法正
武勇の張飛、馬超、黄忠、趙雲
など人材もそろってた
その後の没落ぶりと比べると・・・・・・
- 5 :
- いささか板違いな気もするが、三戦板の過去スレから基本的なデータ
【曹操 「鶏肋」】 漢中 【劉備 「生命線」】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1150725214/2,6,10,15
- 6 :
- > 2 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/19(月) 22:54:27
> 215年
> ・7月、曹操、張魯討伐。張魯は巴中に逃亡。
> ・劉備、この事態を聞き、孫権との荊州を巡る争いを中止し和議を結ぶ。
> ・11月、張魯、曹操に降る。
> ・劉備は黄権の進言をいれ、張魯を迎えに黄権を派遣するも時既に遅し。
> ・12月、曹操、漢中に夏侯淵を留めおき、帰途に着く。
> 216年
> ・2月、曹操、鄴に到着。
> ・夏侯淵、下弁の氐族や羌族を討つ。(この辺、時系列がちょっと微妙)
> ・張郃、巴中を荒らすも張飛に撃退される。
> 217年
> ・法正、漢中侵攻を進言。
> ・劉備、張飛・馬超・呉蘭らを下弁に派遣し、曹操はこれに曹洪を当てる。
> 218年
> ・劉備、漢中に進軍。
> ・呉蘭が曹洪に打ち破られ、張飛らは漢中に撤退。
> ・劉備は陽平関に布陣し、張郃は廣石に布陣す。
> ・劉備、張郃の陣に夜襲をかけるも防がれる。
> ・7月、曹操、劉備討伐の為、鄴を出発。
> ・9月、曹操、長安に到着。
> 219年
> ・正月、劉備、高翔を留め置き南進。沔水を渡り、山に沿いつつ前進し定軍山・興勢に布陣。
> ・同月、夏侯淵、定軍山に攻勢をかける。
> ・法正、これを討つべしと進言。劉備、黄忠を高所に配す。
> ・劉備、夏侯淵の陣に火を放つ。東を守る張郃が不利になったので、夏侯淵は兵を分けこれを助成させる。
> ・劉備、黄忠に攻め立てさせ、夏侯淵らを斬る。
> ・夏侯淵の司馬郭淮は敗軍の兵を集め、張郃を立て漢水を挟んで劉備と対峙。
> ・曹真、陽平を守る高翔を破る。
> ・3月、曹操、陽平に到着し劉備と対峙、曹真は下弁の曹洪らを回収。
> ・劉備は山に立てこもりこれに抵抗。
> ・5月、曹操、軍を引き上げ長安に帰還。
> ・秋(7月〜9月)、劉備、漢中王即位。
- 7 :
- > 6 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/19(月) 23:13:02
> 2に補足
>
> ・山に立てこもる劉備は劉封に山を下りて曹操に戦いを挑ませた。
> →上庸侵攻中の孟達のもとに派遣されたのはこの後?
> ・趙雲の黄忠・張著救出、曹操の大軍に対して空城の計などの活躍。
>
> 上二つはいずれも注ながら劉備も単に山に立て篭もっていただけでなく、結構やってたのが窺える?
- 8 :
- > 10 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/20(火) 11:19:24
> 建安二十三〜二十四年にかけての漢中攻防戦における両陣営の参加武将
>
> 劉備側
> ☆確実
> 劉備、法正、黄忠
> ☆まず確実
> 張飛、馬超、呉蘭、任夔→下弁攻略失敗の後、漢中へ。なお呉蘭、任夔は戦死。
> ☆多分
> 劉封→任城威王彰伝注より。
> 趙雲、張著、張翼→趙雲伝注より。
> ☆可能性あり
> 魏延、楊儀、劉巴、黄権、呉懿、呉班
>
> 曹操側
> ☆確実
> 曹操、張郃、郭淮、曹真、徐晃、夏侯淵(戦死)、曹洪、曹休(曹洪と曹休は下弁)
> ☆まず確実
> 張既
> ☆多分
> 楊脩→武帝紀注より。
> ☆可能性あり
> 劉曄、于禁
>
> あとはちょっとわからないので補完よろしく。
>
> 15 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/06/20(火) 15:55:49
> > > 10
> ざっと見たけど、
>
> ・劉備陣営
> 高翔
> 陳式
>
> ・曹操陣営
> 趙顒
> 杜襲
> 夏侯栄(淵・五男)
>
> が抜けてる。
> 可能性としては朱霊も。
- 9 :
- >>6
張魯って、どちらの陣営も勧誘しようとしていたんだね。
- 10 :
- 劉備がその人生の中で一番輝いた時だな。
- 11 :
- これが関中争奪戦だったら、
その後も変わっただろうねぇ。
- 12 :
- 蜀が関中も奪っていたら、その後どうなっただろうか?
魏は何が何でも、関中だけは奪回しようとしたかな。
- 13 :
- >>10
逆に曹操はむーざんなほど衰えが見えて痛々しいね
漢中に残す将の選択といい
- 14 :
- >>12
関中は篭るのに易いから、無理押しはしないんじゃない?
>>13
淵は拠点防御には向かないよね。
- 15 :
- 淵は拠点防衛ではなく、のちに蜀にせめこむために置かれたんじゃないかなあと考えている。
だいたい向き不向きでいったら、騎兵指揮官である張遼が合肥の防衛に向いているとは思えん。
- 16 :
- >>15
張郃は巴中に侵攻してるしな。
- 17 :
- >>13
曹操はまあ死ぬ直前だったしね。
- 18 :
- この戦いで劉備が負けてたらどう状勢は動いただろうか?
- 19 :
- >>18
今度こそ曹操は蜀になだれ込み、
呉は荊州を奪い、
曹操が全土を従えたという勲章を胸に禅譲を受ける
- 20 :
- 【読売新聞1月14日】
自国を高評価
中国人は自ら「中国はアメリカに次ぎ世界で2番目の影響力を持ち、
10年後にアメリカに追いつく」と信じている。日本、アメリカ、
中国、インドの四カ国の6649人を対象にした意識調査で、こんな
結果がでた。
調査は国際経済交流団がシカゴ地球問題評議会と共同でおこなった。
それによると中国人が影響力のあると思う国は、1位:アメリカ
2位:中国 3位:ロシアで日本は8位だという。
なお、中国の影響力について日本人は5位、アメリカ人は3位、
インド人は5位と位置づけていた。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070114i201.htm
↑ソース
- 21 :
- 両軍の軍勢ってどれぐらいだったのだろう?
曹操軍は数十万ってのをどこかで見たな。
- 22 :
- 曹操の軍勢の方が兵力の上で優勢だっただろうけど、
そんなに多くは動員してないんじゃないかな。
- 23 :
- >>15
司馬懿の進言退けたり、漢中に執着しなかったことを考えると、それは・・・・。
>>21
マジレスすると、
魏の蜀討伐の時の動員兵力 二十余万
西晋の呉討伐の時の動員兵力 二十万ほど
曹操の時期は政権が不安定で、「漢朝再興」の大義名分を掲げられる恐れがあるから、
とてもとてもそんなに兵を用意出来たとは思えない。
(関羽の北上で魏王国は戦略的に揺らいでいる。魏諷の反乱未遂なども含めて)
曹爽が、六、七万の兵で蜀討伐を画策したとき、逃亡者が出たというし、
兵站の問題から考えても厳しそう。
- 24 :
- 数万人の範囲内で、
曹操の方が、兵力では劉備よりやや優位といったところかな。
- 25 :
- 蜀は10万が北伐用で漢中あたりに駐屯
残り5万くらいが四川盆地と永安・南蛮あたり
にいる感じ、
魏が対蜀・呉用で20万+20万、内地や北方辺境地域を含め30〜40万
呉はわからんので大体蜀の2倍弱くらいだから
蜀が14万+魏が70〜80万+呉が20〜30万弱くらい、どう考えても
- 26 :
- 全部合わせて100万人以上?
100万人を超す兵力を保持できたかな、あの時代に。
- 27 :
- 少なくとも、最大、動員出来た兵力は
魏−鍾会の蜀討伐から二十余万
呉─諸葛恪の合肥新城攻撃を見るに二十万
蜀─よくわからんが、十万が限界だったと思う。
というか、魏にそんなに兵力あったなら、
孫権が合肥に攻めることも、諸葛亮が北伐することも無かった筈だ。
215年に合肥の兵力が七千で、張遼が奮闘したり、
228年の第二次北伐でカク昭が篭城・奮闘する光景は信じ難い。
- 28 :
- 魏、蜀、呉共、政権としての支配能力が、大きく落ちているからね。
領内の人口を十分に把握できていない。
- 29 :
- これが、漢中じゃなくて関中ならなぁ…
- 30 :
- 関中争奪となると、かなり盛り上がるね。
諸葛亮の代わりに劉備が北伐を行うと考えれば。
- 31 :
- 劉備の北伐かー
なんか大勝するか大敗するかになりそうだな
- 32 :
- >>31
劉備は彼我を良く見極める将軍なので、劣勢と決まればまず撤退する。
(根拠地得るまでは、開戦前に逃亡したことが殆ど)
夷陵が例外なんだよ。
- 33 :
- 超一流には負けてるけど、劉備はかなり強いよ。
- 34 :
- 何だかんだで、三国の一角を形成したわけで、
弱かったら、ああはいかんわねえ。
- 35 :
- 漢中の人口生産力はどんなものかな。
- 36 :
- 漢中は風土的には、関中より蜀に近いんだよね。
でも、関中側の方に付属することが多い地域。
- 37 :
- 漢中を蜀に附属させちまうと独立されるからな
玄関口を関中とセットにしておかないと危険
- 38 :
- 粘り強さは曹操より劉備だと思う
- 39 :
- それ馬鹿でもわかるだろ。
- 40 :
- スペルマの粘り強さはな
- 41 :
- 漢中を押さえると、やっぱり蜀へ攻め込むのに決定的に有利になってしまうのか?
逆に押さえておけば、蜀の安全は一挙に高まるとか。
- 42 :
- >41
そりゃそうだよ。
漢中は物資集積所として機能できるだけのインフラがあるからな。
中原から入蜀するにしてもここを無視して迂回しようとしても後続の輜重が断絶してしまうよ。
- 43 :
- 漢中という地域は、意外と昔から開発が進んでいた地域になるのかな?
- 44 :
- 曹操の代で漢中と江陵をしっかり維持出来ていれば、曹操の寿命が足りなくても統一が早まったかもね。
漢中の夏侯淵や江陵の曹仁が合肥の張遼くらい頑張ってればって思うことがある。
どれも南方への橋頭堡なんで、バックアップを含め維持するのが困難なんだけど、それが出来るか出来ないかで地方政権か統一政権かに別れるね。
- 45 :
- ただ漢中は曹操が支配したあと住民数万を強制移住させたから劉備が取ったあとは不毛の地になってたとどこかで聞いた
- 46 :
- 生産力による収益より、戦略上の要地としての意味合いが強かったのかな。
- 47 :
- 例え無人の土地でも、漢中確保は四川の安全保障に直結する。
魏に漢中経営の旨みは無くても、劉備たちにとっては四川の味を引き出す為の出汁として使える。
まさに鶏肋。曹操の指摘は実に正鵠を得ている。
- 48 :
- 正鵠を得るという言葉遣いは正しい。
簡略化で、正鵠が的に変化したなら、
的を得るって言葉遣いも
あながち間違いじゃないと思うんだ、おれは。
- 49 :
- 学研M文庫「世界戦史〜歴史を動かした7つの戦い〜(著:有坂純)」
Y 漢中争奪戦 P209~210より引用
>三国鼎立を生んだ劉備会心の戦い
>魏呉蜀三国鼎立の戦乱時代が到来した。
>蜀(益州)の制圧を狙う曹操に対し、軍師諸葛亮に兵站指揮を委ね、要地漢中へと進軍する劉備。
>主力を率いて、勇躍出陣した。
>後漢帝国の事実上の崩壊の後、魏・蜀・呉三国によって争われた約一世紀にも及ぶ戦乱の時代は、
>羅貫中が完成させた偉大な創作『三国志演義』のおかげで、
>あるいは関羽、趙雲、張遼を始めとする豪傑たちが干戈を交え、
>あるいは諸葛亮、司馬懿、周瑜らの軍師たちが智略を搾る、
>言ってみればはなはだ個人的な英雄の戦いであったかような印象が一般には浅くないであろう。
>しかしながら、三国時代の戦争の根幹は、他のほとんど全ての戦争においてそうであったように、戦略と兵站であった。
>ことに、社会経済の崩壊と戦禍によって荒廃した広大な漢帝国領内に、
>数万規模の兵力を作戦せしめるためには、きわめて入念な兵站計画が必須であった。
>例えば官渡の戦役(一九九〜二〇〇年)では、
>曹操軍に対して兵力に優る袁紹軍は、後背を衝かれ集積所を破壊されたことで、全軍がたちまち総崩れとなった。
>逆に赤壁の戦役(二〇八〜九年)においては、
>給養の欠乏と気候風土の違いにより、北方人である魏軍の将兵の間には疫病が蔓延した。
>補給線の関係から、曹操は兵力を長江沿いに広く分散させざるを得ず、
>そこを蜀・呉連合軍に急襲され、水軍を撃滅され危うく脱出生還路まで失うところであった。
>今回、物語られることになる漢中の戦役(二一八〜九年)は、
>劉備の蜀による益州の確保と荊州の喪失という二つの重大な事件を時系列的につなぐのみならず、
>それら両事件の戦略的な背景を説明する上で欠かすことの出来ない戦いである。
>そしてこの戦いにおいても、終始、戦場を支配していたのは個人的な武勇や智略ではなく、
>冷たい兵站の論理に他ならなかったのである。
- 50 :
- 良書だが全てを転載する必要ある?
- 51 :
- >>50
有る
読んでみたい
- 52 :
- >>51
そうか。じゃあ自分で買ってくれ。
紹介のつもりで、さわりの部分だけ転載した。
結論を簡潔に言うと、
劉備は曹操に匹敵する指導者。
法正と諸葛亮はそのポテンシャルを完全に引き出す最良の両翼。
この両名が揃っていた時期の蜀軍は、
劉備本来の統率力に、法正が戦術的な柔軟性を加え、孔明が戦略的な持続性と直接的な大兵力を与えた最強布陣(テラモエス
漢中戦役は「戦争で戦争に勝つ」孔明戦略の白眉。(つまりマトモに蜀軍が魏に対してやった最後の戦争ってことだろう)
また関羽は先鋒や留守番としては優秀だけど、(あの当時の荊州の)司令官としては武骨一点張りでは失格。
荊州失陥〜夷陵の敗戦以後の孔明は「戦闘で戦争に負けない」型の戦争指導を強いられた。
何故なら、半年で天下三分が崩壊し、主力の大半が夷陵で戦死したので、北伐は最初から成功する訳ない。
機動防御としての戦争を企画し、準備し、実行出来るだけで既に神、という孔明を称える内容。
戦術面はともかく、戦略面、兵站面、外交面(赤壁の前後での対呉同盟の成立など)は最高の評を孔明に与えている。
余談だが曹操は漢中戦役の一年後に死んでいる。(劉備が夷陵で敗れて一年後に病死している様に)
という内容だった。
- 53 :
- 付け加えておくと、荊州という出城と関羽の部隊があった為に、
曹操は往還の手間で軍隊が機能不全に陥るのを恐れて、
宛洛周辺の軍隊を漢中戦役に投入出来なかった。
だから力を出し切れなかったので負けて、天下統一を諦めざるを得なかった。
消え方があっさりすぎるが、
兵站拠点を電撃的に衝いて関羽の部隊を無力化した呂蒙が優れているのであって、
過大評価でも何でもなく当時の魏呉にとって関羽は脅威の対象だった。
このことからやはり関羽は天下三分における必要不可欠な一上将と言わざるを得ないだろう。
適切な判断力を持った補佐を欠いていたのが惜しまれる。
- 54 :
- 上げ
- 55 :
- 目に付く資料だけをみると果たして補佐の意見を聞き入れる力があったのかどうなのか判断できないからね
- 56 :
- そうかもしれないけど
法正の意見には耳を傾けていたのではないでしょうか?
- 57 :
- 孔明(荊州強奪)は無視して法正(蜀強奪)の意見には耳を傾けたのは、劉備。
関羽は逆に、孔明の意見には耳を貸しそうな気はする。
ただ、戦略・戦術面での進言を劉備が無視したように、
関羽もその方面では無視するかも知れないが。
- 58 :
- 劉備は黄権にも耳かすよね
- 59 :
- 曹操が劉備に敗退した後、作戦を考えたのが法正だと聞いて「劉備があんな作戦を思いつくとはオレも思ってなかった」とのたまわった
これは負け惜しみなのか、それとも劉備本人の作戦能力はその程度だったのか?
- 60 :
- 曹操は、劉備は私と同じだが考えるのが遅いと言っているようだからじゃないか?
- 61 :
- 自分と同じ思考だが行動が鈍いと思ってたやつが、
その時に限っては何もかも先手を取って、
今までどおりなら崩れて逃げてたような劣勢を跳ね返す粘り腰を見せたのだから当然だろう。
その時の曹操の評価は「作戦立案:誰某(法正)>曹操≧劉備>>他」の模様。
それくらい振り回し方が違う。
- 62 :
- そう考えると法正ってなかなかの策士だね
そのわりにはマイナー
- 63 :
- 法正は作戦だけ、劉備は指揮だけ、曹操はその両方。
だが法正の作戦を採択できるくらいには劉備も優秀なので素晴らしいコンビが出来上がる。
- 64 :
- 劉備も法正と同じ作戦を考える事はできる。
ただし法正の方が遥かに速く具体的に立案できる。
劉備は法正の進言とその時点では漠然とした自分の考えを照合し速やかに決断できる。
法正からすれば劉備に進言すると即座に自説を完璧に理解してくれるので大変嬉しいだろう。
- 65 :
- そうだな。大いにそう思う。
しかし、法正の立案の異常な速度は益州限定かもしれん。
情報収集の手間が無いのだから(あるいはそれまで用意していたか)、
劉備や曹操より先手を取れるのも当たり前だろう。
だからもう少し法正が長生きしていたとしても、曹操を直接倒すまでは至らなかったかもしれない。
- 66 :
- 法正が長生きしていたら、諸葛亮と並んで蜀の双璧になったかな
対立して権力闘争が勃発したかな
- 67 :
- 無理だろ
蜀科制定時も諸葛亮に一喝されて意見曲げてるし
諸葛亮の派閥の領袖に納まって番頭やってるんじゃないか?
- 68 :
- 法正が私怨から報復を始めてそのことを諸葛亮に言ったら
「オレじゃ止めらんね」
と答えた、というのは?
- 69 :
- その諸葛亮の言を聞いて法正は報復を止めたというエピソードの方が重要だろうな。
- 70 :
- 漢中の戦いにおいての孔明の補給能力もなかなかすごいな。曹操軍が途中で脱走兵が出ていたのと比べると劉備軍はそんな様子をみじんと見してないな
- 71 :
- 楊洪さんも褒めてください
- 72 :
- 孔明はショウカみたいな役割に徹する事ができれば最高だったんだろうけどね
- 73 :
- 万が一、劉備なり孔明なりが関中切り取れてたら
長安に遷都したのだろうか
- 74 :
- 史記で漢の高祖劉邦が項羽により、関中王ではなく漢中王とされたとあるのを見た時、
俺はなるほど、関中じゃなく漢中ね、項羽って中々うまいなあと思ってしまった。
俺がその誤りに気づいたのは後日のことである。
- 75 :
- >>72
美味い瓜も自分で作れそうだしな。
- 76 :
- 五虎大将軍が漢中に揃ってたらなんて良い画を妄想。
- 77 :
- >>73
当時の長安はかなり荒れていたんだよね。
都市としては、長安と成都だったら、どちらが人口が多かったのかな?
そもそも三国時代の都市人口とは?
- 78 :
- 昔蒼天航路連載中に途中から読んでたけどここが一番面白かったなあ
法正スゲーとおもって読んでたわ
- 79 :
- しかし盛り上げるだけ盛り上げて曹操が逃げて終わっちゃったけどね
漢中の戦いをうまく書けてたのは北方かな
重要な戦いなのに解説書でもさらっと流されることが多いよ
- 80 :
- >漢中の戦いをうまく書けてたのは北方かな
小説かよ
- 81 :
- 概説書でもとばされることが多いかわいそうな漢中の戦い
だいたいショクをとったらすぐに関羽戦死にいってしまう
- 82 :
- 漢中戦が劉備の人生最高の勝ち戦なのになぁ
残念だ
- 83 :
- 劉備の輝やしき白星
- 84 :
- あげ
- 85 :
- 8万もの人間を漢中から引き抜いた時点で、漢中の失陥は決まったようなものだと思う。
策源として機能しない上、関中からの輸送も厳しい場所に軍を置いても、
防衛なんぞできるわけが無い。
司令官が韓浩だろうが張郃だろうが、結果は変わらなかったと思う。
司令官の敗死があるかないか、程度の差しか無いだろう。
陽平関以北に押し込められて、史実同様に曹操が来て、鶏肋と言って撤退するだけの事だろう。
- 86 :
- >>85
だとすると初めから曹操の重大な失態だったということか。
- 87 :
- >>86
失態は失態なんだけど、仕方ないと言えば仕方ないとは思う。
漢中の住民は五斗米道にどっぷりだっただろうから、
鄴や洛陽などの、監視の容易な土地に置いて、且つ張魯から切り離す必要があっただろうし。
後年、司馬懿が冀州から上邽に徙民を行ったように、
近い内に関東から漢中に民を連れて来るつもりだったんじゃないかと思う。
張郃がわざわざ巴西まで出て住民を連行したのも、その一環じゃないかと。
劉備の侵攻のタイミングが絶妙だったんだと思うよ。
- 88 :
- >>87
だとしたらその時の漢中防衛軍にできることは、「勝ち目はないから撤退する」しかないということか?
絶妙というが、劉備が漢中を攻めないわけがないんだから、勝ち目のない軍を置いておくなんてそれこそ失態だな
- 89 :
- >>88
「山陽公戴記」の記述ではあるけど、曹操は劉備の事を、
智謀はあっても策を考え付くのが遅い、と評しているから、
漢中に進むのももう少し時間が掛かると思ってたんじゃないかな。
漢中に来た時の曹操の負け惜しみもあるし。
1,2年遅れてくれれば、ある程度の体制は整っただろうから。
もう一つの問題として、劉備が武都方面に陽攻を行った事だね。
真っ直ぐ漢中に進んでくれりゃ、なんとか抑えようもあっただろうけど、
呉蘭らが下弁に入ったものだから、最も優良な故道が押さえられてしまった為、
漢中に入られる隙を作ってしまっている。
故道が押さえられ、険しい桟道しか輸送に使えないとなると、いよいよ策源として機能しなくなる。
曹操の方も、曹洪と曹休に対応はさせているけど、下弁に入られた事に変わりはないしね。
曹操のが後手に回ってるのは確かだね。
- 90 :
- 「山陽公載記」ね。間違えた。
- 91 :
- 進行方向は逆だが、王平は援軍が来るまで持ち堪えてる
守将と本体が優秀なら防衛できなくもない
- 92 :
- >>91
劉備が奪って以来、漢中は策源化が推し進められ、
諸葛亮の時代には数万規模の遠征を支えられるだけの基地になったのだから、
奪ってばかりで徙民も行ったこの時とは比較できないと思うが。
曹洪の派遣がもうちょい早くて、張飛らを下弁に寄せ付けなかったら分からないけどね。
- 93 :
- 淵を残したのは人選ミス。
速攻で逃げてこいって意味だったのかな?
- 94 :
- >>93
夏侯淵は馬超ら関中諸侯との戦いの後始末係りとして西方侵攻の総司令官になったから
漢中に残って劉備と戦ったのはその名残か、異民族慰撫兼監視だったんじゃない?
征西将軍だったし。
それにしてもこの頃の張郃が晩年とは違って名将に見えない。
北伐時の蜀陣営がこの頃より凋落しまくったからかな?
- 95 :
- 漢中戦がらみで張郃伝のおもな記述
・トウキョまで軍を進めたが、張飛に抵抗されて引き上げた
・広石に駐屯しているとき、劉備に夜襲をかけられたが、劉備は勝つことが出来なかった。
・夏候淵死後、その司馬であった郭淮の推薦で総大将になった。
・劉備は夏候淵より張郃を警戒していた
こんなものかな。
具体的な実績が結局劉備に破られなかったことくらい。
蜀側の記述に詳しいのはどんなのがあるのだろう?
- 96 :
- >>95
> ・トウキョまで軍を進めたが、張飛に抵抗されて引き上げた
郃別督諸軍下巴西、欲徙其民於漢中、進軍宕渠・蒙頭・盪石、與飛相拒五十餘日。
飛率精卒萬餘人、從他道邀郃軍交戰、山道迮狹、前後不得相救、飛遂破郃。
郃棄馬緣山、獨與麾下十餘人從問道退、引軍還南鄭、巴土獲安。【張飛伝】
これを見る限り、抵抗されて引き上げたという穏便なもんじゃなく、狭い土地におびき出されたところを散々に討ち破られて命からがら逃げ出したって感じだけどね。
つうか>>6を見ればいい。
>>95で言えば2番目と3番目の間に
> ・劉備、夏侯淵の陣に火を放つ。東を守る張郃が不利になったので、夏侯淵は兵を分けこれを助成させる。
が入るくらいかな?
- 97 :
- 宕渠の戦いもよく分からんねぇ。
宕渠は巴西南部だから、ここまで進出された時点で結構押し込まれてる事になる。
張飛は当時安漢かロウ中に駐屯してただろうから、張郃に四川盆地に入られた時点で、
これを防御するのに動いても良さそうだが。
それに、地図で見ると宕渠の辺りならある程度開けてるから、
狭い道を通らなければならない状況に簡単に追い込まれなさそうだ。
張飛がどういう機動を採ったのかちょっと分からんな。
- 98 :
- 張郃の目的は、魏書にあるように巴西の住民を漢中に移送する事。
張飛との対陣が50日余りに及んだって事は、ある程度は達成できたのだろう。
んで、張郃の戦略だけど、宕渠水左岸には、数百mの山が南北に連なっているから、
これを以って左翼の防御にし、蒙頭辺りまで進む事で、宕渠、漢昌、宣漢の三県から張飛を遠ざけ、
防御に徹して対陣を長引かせる事で移送する時間を稼ぐってものだろう。
張飛としても早々に突破したかったんだけど、河川と山に正面と翼を依託してるから、
ちょっとやそっとじゃ突破できない。
効果的に敵を撤退させ、或いは破るには、後方に回り込むのが良い、それも、
できるだけ自身の機動を秘匿しつつ。
とするならば、張郃が左翼の防御に使ってる山が、逆に利用できる。
恐らく張飛は、右翼側から山を越えて敵を迂回し、
まず宣漢、次いで漢昌への道を塞いだ。
張郃が米倉道を通って帰還するには、漢昌方面へ出なければならず、
漢昌へ進む道は途中から険しくなってくる。
そこを張飛は突いたんだろう。
- 99 :
- >>98
なにを言っているのか
よく分からんが納得
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