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コーカソイドとモンゴロイドの分岐点はどこ?? (578)
弥生人が百越人であることは動かない2 (644)
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日本と紀元前中国王朝の関係性 (411)

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1 :2011/01/06 〜 最終レス :2013/04/28
もっと早く、もっと広く、もっと遠くへ。君に伝えたいことが、あるんだ。

■■■▲▼▲【考古学NEWS速報】▲▼▲■■■
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1067442984/

2 :
「吉野ケ里遺跡はどこでしょう?」考古学検定を創設
ttp://www.asahi.com/national/update/1215/TKY201012150500.html
「吉野ケ里遺跡があるのは何県?」「三内丸山遺跡はいつの時代の大集落?」――。
全国の遺跡や出土品など考古学の知識を問う「考古検定」を日本文化財保護協会(戸田哲也会長)が創設し、
来年2月に入門クラスをインターネットで実施する。
来年度以降、紙の試験による初級、中級、上級、最上級のクラスを加える。「100万人の考古学」を掲げ、
考古学ファンの増加を狙う。
解答は選択式で50問、制限時間は1時間で、100点満点中60点以上が合格。
入門クラスはネット経由のため、参考書を広げても家族に相談してもよい。検定料は1050円。
最上級は大学院修士課程修了レベルを想定する。


3 :
安土城考古博物館に「江」コーナーが登場
ttp://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110108000065
今年のNHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国〜」放映開始に合わせ、織田信長など、
主人公お江ゆかりの人物を紹介する展示コーナーが、近江八幡市の安土城考古博物館に登場した。
肖像画や書状など17点でドラマの世界を史実で伝える。
お江の父・浅井長政、母・お市の方などの肖像画4点が目を引く。
信長公記の写本「安土記」は長政の裏切りを知った信長の様子を記したページを開いて展示し、ドラマ序盤のヤマ場を伝える。

4 :
南国の家老屋敷跡、元親の住まい? 初の学術調査始まる
ttp://mytown.asahi.com/areanews/kochi/OSK201101110112.html
南国市岡豊町八幡の岡豊山(標高97メートル)の南斜面にある「伝家老屋敷跡曲輪(くるわ)」で11日、
市教委による初の考古学調査が始まった。
岡豊山の山頂一帯には、戦国大名・長宗我部元親(1539〜99)の拠点だった国史跡「岡豊城跡」が広がる。
今回の調査地は史跡外だが、県教委文化財課では「今後史跡として保護が必要な範囲の中でも、
元親が居住していた可能性があるコアなエリア」と位置づけ、成果に注目している。

5 :
百余国の一つか…鳥取の遺跡で前漢「星雲文鏡」
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110112-OYT1T01013.htm?from=navlp
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110112-716086-1-L.jpg
鳥取市の弥生集落跡・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で、中国の前漢時代(紀元前1世紀)に作られた
青銅鏡「星雲文鏡(せいうんもんきょう)」の破片が見つかったと、鳥取県埋蔵文化財センターが12日、発表した。
星雲文鏡が弥生遺跡で見つかった例は九州で8例あるが、本州では初。
同センターは「集落が本州でいち早く大陸との交易拠点として栄えていたことを示す」としている。
鏡は直径6・9センチの円形で、見つかったのは全体の約4分の1の扇形(重さ33・2グラム)。
表面に多数の突起があり、雲や星座のような文様が確認できる。断面を磨いた跡があり、割った後に装身具として使われたらしい。
京都大人文科学研究所の岡村秀典教授(考古学)は「集落が、中国の史書『漢書』地理志にある倭(日本)の百余国の一つとして認知されていた可能性が高くなった」としている。

6 :
神様住んでた?出雲・日御碕沖に海底遺跡 階段・参道も
ttp://mytown.asahi.com/areanews/shimane/OSK201101130147.html
島根半島の西端、出雲市大社町の日御碕沖の日本海に「海底遺跡」とも呼ばれる不思議な地形がある。
詳しいことはまだ分かっていないが、地域おこしに生かそうと地元のダイバーらが市民団体「マリンブルー」を設立し、
15日に活動への理解や参加を促す住民説明会を開く。
団体は昨年、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫さん(57)を中心に結成した。
「日御碕海底遺跡調査と地域振興、環境保全」を活動目標に、考古学者や地質研究者、
県内外のダイビング愛好家ら40人が参加して潜水による調査や清掃、海岸での美化などに取り組んでいる。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101130145.jpg
岩を削ったように見える「階段」=出雲市大社町日御碕沖
ttp://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101130144.jpg
タイワにつながる「参道」。勾配は緩やかで歩くことができる=出雲市大社町日御碕沖
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「亀石」(手前)の頭の先には、滝のような痕跡が残る=出雲市大社町日御碕沖

7 :
かながわ考古学財団廃止絶対反対!反対!

8 :
南山遺跡、製鉄の歴史裏付け
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101160067.html
古代の製鉄関連遺構である三次市有原町の南山遺跡が、7世紀中頃から8世紀前半の遺跡とみられることが、三次市教委の調査で分かった。
市教委は「この地域で製鉄が盛んだったことを裏付ける結果」としている。三次地方史研究会と合同で22日に開く発掘調査報告・研究発表会で紹介する。
「ヤツメウナギ」と呼ばれる横口付き木炭窯から出土した木炭の破片を放射性炭素年代測定法で分析。年代を割り出した。
同遺跡がある地域一帯が、税として鉄製品を納めていたとする平安時代の文献の記述をあらためて裏付けた。
市教委は窯の炉壁の分析も進めている。
窯は製鉄時の燃料となる木炭を作る施設。遺跡では2基見つかり天井部分を除き、ほぼ完全な形で出土した。
発表会は、同市十日市東の市生涯学習センターで午後1時半から。市内の大樽(おおだる)池5号古墳の調査報告などもある。無料。
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20110116006701.jpg
【写真説明】7世紀中頃から8世紀前半の遺跡とみられることが分かった南山遺跡

9 :
弥生期の楽浪土器出土 出雲
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101160011.html
島根県埋蔵文化財調査センター(松江市)は、出雲市西林木町、弥生時代の集落跡の山持(ざんもち)遺跡で、
朝鮮半島北部で作られた楽浪土器が出土したと発表した。
楽浪土器は破片を含め、九州北部以外では出雲地方でしか見つかっていない。完成品は九州北部の数点と
松江市鹿島町沖で1980年代に漁船が引き揚げた1点だけ。同センターは「出雲の特殊性が分かる重要な発見」としている。

出土品は2月13日まで出雲市の出雲弥生の森博物館で一般公開されている。
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20110116001101.jpg
山持遺跡で出土した楽浪土器

10 :
幕末の三重津海軍所跡発掘調査、22日に現地説明会
ttp://kyushu.yomiuri.co.jp/local/saga/20110115-OYS1T00259.htm
佐賀市教委は14日、佐賀藩が幕末に築いた三重津海軍所跡(佐賀市川副町・諸富町)の発掘調査で、
ドックの北側護岸は、少なくとも約30メートルの長さがあり、直線状だったことが確認できたと発表した。
市教委は「ドックが船の修理や建造に合理的な構造だったことが分かり、実態の解明に一歩近づいた」としている。
22日に現地説明会を開く。
市教委は昨年11月下旬から、現在は佐野記念公園となっている海軍所跡南端で、ドックや工房があったとされる
区域約900平方メートルを調査している。

これまでの調査で見つかっていた護岸は3段で、木材を枠状に組み込んだ強固な造りだったが、
今回発掘された場所は1段で、工法も簡易だった。市教委は「3段にしたのは崩落を防ぎ、重量物を
置くためと考えられる。ボイラー載せ替えなどの作業場所が特定できる可能性がある」とみて、
さらに調査を進める。調査終了後は埋め戻す予定。
22日の現地説明会は午前9時半、同10時半、同11時半の3回。小雨決行。問い合わせは市教委世界遺産調査室へ。
ttp://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20110115-764831-1-L.jpg
新たに見つかったドックの木製護岸

11 :
現遺跡:古墳時代・竪穴式住居跡4件など発見 多治見で22日に現地説明会 /岐阜
ttp://mainichi.jp/area/gifu/news/20110118ddlk21040014000c.html
多治見市教委文化財保護センターが実施していた同市神戸・栄区の発掘調査で、権現遺跡第3次調査区から古墳時代の
竪穴式住居跡4件と溝状遺構やピット(小穴)などが発見されたことが分かった。古代の須恵器(すえき)、土師器(はじき)
などの遺物も見つかり、同センターは22日午後1時から神戸区の発掘現場で現地説明会を開く。
周辺の遺跡は、07年11月の埋蔵文化財調査で存在が確認された。笠原川左岸の田園地帯に約6ヘクタールにわたって
広がっており、一帯の字名から「権現遺跡」と「砂田・総作遺跡」と命名された。09年1月から土地区画整理事業に伴う
発掘調査が行われ、砂田・総作遺跡では古墳時代の竪穴式住居跡や中世の掘立柱建物跡が見つかった。
権現遺跡は昨年10月から区画整理に伴う第3次発掘調査が始まり、ほぼ終了している。
この結果、古墳時代の竪穴式住居跡が4件見つかった。調査区外にまたがるため、規模など全容は不明だが、人為的に
掘り下げた小穴(ピット)が計8基確認されたほか、約12メートルの範囲で溝状遺構や地盤強化のために設置したとみら
れる太さ約5センチの木杭(きぐい)列などが見つかった。また、古代の須恵器の坏身(つきみ)、小型横瓶(よこべい)、
土師器の甕(かめ)類などが多数発掘された。中世の山茶碗(ちゃわん)や近世の碗、皿などの陶磁器も出土した。
現地説明会は午後1時から約2時間、遺構の公開と発掘状況の説明、出土品の公開が行われる。

12 :
全国4位の巨大古墳、人口激減期に築造
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110118-OYT1T01092.htm
全国4位の規模を誇る岡山市の造山(つくりやま)古墳(5世紀前半、全長約350メートル)が人口の激減期に築かれていたことが、
松木(まつぎ)武彦・岡山大教授(考古学)の研究で分かった。
地域の人口が増加したことで大規模な古墳築造ができたとする定説を覆す成果として注目される。
岡山県の瀬戸内海沿岸で出土した弥生時代末から古墳時代の住居跡1011戸を約70〜100年ごとに細分して、変遷を分析した。
その結果、347戸と最も多かった弥生末〜古墳時代初頭(2世紀後半〜3世紀前半)から、古墳時代前期前半(3世紀後半)には174戸に激減。
同前期後半(4世紀)には47戸と最少になり、造山古墳が築造された同中期前半(5世紀前半)も58戸と低調だった。
3世紀は、ヤマト王権が纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を拠点として、奈良盆地南東部に大型の前方後円墳を築いた時期。
だが4世紀前半に纒向遺跡は急速に衰退、5世紀にかけて岡山のほか大阪や群馬などでも全長200メートルを超える巨大古墳の築造が始まった。

13 :
精華・下馬遺跡:平安時代の集落跡確認 /京都
ttp://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110119ddlk26040435000c.html
府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は18日、精華町下狛の下馬(げば)遺跡から、平安時代の集落跡が見つかったと発表した。
遺跡東側に奈良時代に整備された官道「山陰・山陽道」があったと推定され、同センターは「平安京への遷都後も官道は頻繁に利用
されていたと推定され、一定規模の集落だろう」としている。
府道新設に伴い、昨年11月から約800平方メートルを調査。現場からは、いずれも平安前期の倉庫、住居とみられる2棟の建物跡
(いずれも南北約5メートル、東西約4メートル)と、平安後期の住居とみられる1棟(南北約13メートル、東西約4メートル)の柱跡など
が見つかった。遺跡内を流れる古墳時代前期と奈良時代の河川の流路跡から、古墳時代のつぼや奈良時代の須恵器が見つかり、
古くから集落があったとみられるという。
現地説明会は23日午後2時から。

14 :
京都・上狛北遺跡で溝発見 恭仁京「京域」造営に伴う施設か
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110120/art11012020340051-n1.htm
奈良時代に一時都が置かれた恭仁(くに)京の推定地内にある京都府木津川市の上狛北遺跡で、
同時代の長さ約100メートルの大規模な溝が見つかり、府埋蔵文化財調査研究センターが20日、
発表した。溝は南北方向にまっすぐに伸び、人工的につくられたとみられる。
同センターは、これまで遺構が見つからず謎に包まれている「京域」造営に伴う施設の可能性があるとしている。
溝は長さ約100メートル、最大幅約1メートルで、深さは20〜80センチ。中からは奈良時代の土器が多数出土し、
溝の西側からは同時期の3棟の建物跡も見つかった。
恭仁京は聖武天皇が造営し、740年から744年まで都が置かれた。天皇が住んだ内裏など「宮(きゅう)」の部分の
遺構は調査で確認されているが、京域の様子はまったくわかっていない。
現場は恭仁宮跡の西約5キロ。京都大の足利健亮教授(歴史地理学、故人)らが執筆した「山城町史」による京の
復元プランでは「右京」の中に入る。同センターでは溝が計画的につくられ、恭仁宮と同じ唐草文のある瓦も出土
していることなどから、京造営に伴う施設で、道路の溝や貴族の邸宅に伴う溝の可能性があるとしている。
現地説明会は23日午前10時半から。
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/110120/art11012020340051-p1.jpg
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/110120/art11012020340051-p2.jpg
見つかった奈良時代の溝跡。南北方向にまっすぐに延びている=京都府木津川市

15 :
お姫様の骨を初公開
6世紀後半 船戸山古墳 埋葬時再現
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/wakayama/news/20110120-OYT8T01094.htm
1977年に岩出市船戸の船戸山古墳群から出土した6世紀後半(古墳時代)のものとみられる人骨を初めて展示する
「初公開!古墳時代のお姫様〜船戸山3号墳の人骨展示〜」が22日、和歌山市岩橋の県立紀伊風土記の丘資料館で始まる。2月27日まで。
展示されるのは、県教委などによる同古墳群3号墳での発掘調査で、畳1枚分ほどの竪穴式石室から発見されたもの。
ほぼ全身の骨が見つかり、足元には土師器(はじき)のかめが置かれていた。
当時一帯を治めていた豪族の姫と見られるが、当時の慣習では、女性は家族らと一緒に埋葬されるのが一般的で、
女性が単独で石室に葬られていた例は全国的にも珍しいという。
兵庫医科大(兵庫県西宮市)による鑑定の結果、骨は10代の女性のものとみられ、その後30年以上、同大に保管されていた。
今回、鑑定を担当した同大の研究者が退職することを機に、県教委に戻ってきた。
全身の形状が分かる人骨の出土例は県内では数例しかなく、若い女性のものは唯一という。今回の展示では、
一緒に出土したかめも並べ、埋葬時の様子を再現する。
午前9時〜午後4時半。一般190円、大学生90円、高校生以下、65歳以上は無料。月曜休館。

16 :
飛鳥京跡北部 石組み溝と石敷き出土
飛鳥浄御原宮の一部
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20110120-OYT8T01048.htm
明日香村岡の飛鳥京跡の北部で、7世紀後半の石組み溝と石敷き、塀跡とみられる柱列が出土し、20日、
県立橿原考古学研究所が発表した。天武、持統天皇の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)にあった施設の一部とみられる。
石敷きは、半世紀前、奈良国立文化財研究所(当時)が発掘した遺構とつながり、同宮の北へ広範囲に広がっていたことが明らかになった。
出土した石組み溝(幅40センチ、深さ10センチ)は直角に曲がっており、南北5メートル、東西1メートル分を確認。
石敷きはその周囲など東西、南北各5メートルの範囲であり、20〜30センチ大の石を使っていた。その下層には
小石敷きがあり、さらに下層は、黄色い山土で厚さ20〜30センチに整地していた。

今回の調査は、農業用水「吉野川分水」の改修工事に伴って実施されたが、半世紀前の同分水の整備で、
石敷きや柱跡が壊されていたことが明らかになり、公共事業と文化財保護のあり方が改めて問われている。
吉野川分水の整備は、1952年に始まった。奈良、和歌山両県に総延長652キロ・メートルの水路を張り巡らせ、
両県の悲願であった農業用水の確保に成果を上げた。
だが、当時は文化財保護制度が未整備だったこともあり、飛鳥地域などでの多くの遺構の破壊につながった。
飛鳥京跡では、事前調査をしないまま分水の整備工事が進められ、県立橿原考古学研究所の幹部は
「当時の状況では仕方ない面もあるが、遺構を見るたびに無念さが沸く」と話す。
工事を行う近畿農政局は「文化財保護のルールに従って適切に実施している」と説明する。
しかし、2月末までに急いで改修工事を進めなければならないため、現地見学会などで一般公開することも困難な状況だ。
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110120-868164-1-L.jpg
飛鳥京跡で出土した石組み溝と石敷き(明日香村岡で)

17 :
奈良・纒向遺跡から山海の幸、祭祀の供物で並べられたか
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/art11012117300064-n1.htm
邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋めら
れていたことが分かり、桜井市教委が21日、発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた
祭祀(さいし)の状況も浮かび、市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。
土坑(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ80センチ)は大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル南で、3世紀中ごろの穴と推定される。
市教委が土坑内の土嚢(度のう)400個分の土をふるいにかけ、動物の骨や歯と9760点の植物の種を採取。
骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。
結果、動物は魚類のマダイ、ヘダイ、アジ、サバ、コイ科、ほR類のニホンジカ、イノシシ、ネズミ、鳥類のカモ科、
両生類のカエルの10種で、植物は73種類を判別した。植物の約半分は食用で、2765点のモモを筆頭にイネ、
アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタンが多く、果実酒原料のニワトコやサルナシもあった。
また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できるという。
分析で使われた種や骨は桜井市立埋蔵文化財センターで22日〜2月27日に展示される。
和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)の話 「すべてが神(しん)饌(せん)として供えられたのかは検討が必要だが、
各地から色々な食材が集まっているのは面白い。纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことを改めて明らかにしたことが重要だ」
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/110121/art11012117300064-p1.jpg
纏向遺跡からカモやシカ、タイ・アジ・サバなど山海の様々な食材の骨などが出土した。手の上の骨はシカ
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/110121/art11012117300064-p2.jpg
纏向遺跡からカモやシカ、タイ・アジなど山海の様々な食材の骨などが出土した

18 :
http://203.139.202.230/?&nwSrl=269849&nwIW=1&nwVt=knd
香南市野市町西野の「西野遺跡群」を発掘調査している市文化財センターは20日、
弥生時代前期末(紀元前4〜5世紀ごろ)の土器や、
平安時代の官衙(かんが=役所)で発見例が多い緑釉陶器の破片が出土したと発表した。 
2011年01月21日

19 :
遺跡発掘費用を水増し詐取 群馬県渋川市職員と業者社長逮捕
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110122/crm11012222590405-n1.htm
 群馬県渋川市が発注する遺跡発掘調査費を水増し請求し、約150万円をだまし取った
として、群馬県警捜査2課と渋川署は22日、詐欺の疑いで、渋川市教育委員会文化財
保護課副主幹、小林修(42)=同県高崎市=と、前橋文化財研究所社長、折舘伸二
(57)=同県玉村町=の両容疑者を逮捕した。
 県警の調べでは、両容疑者は平成21年9月初旬から22年1月中旬までの間、渋川市
が随意契約で発注した市内の遺跡発掘費用を約42万円水増しした委託業務契約を結
び、2回にわたり請負金計約150万円をだまし取った疑いが持たれている。
 水増し分の約42万円は折舘容疑者から小林容疑者に渡されており、県警の調べに対
し、小林容疑者は「ローンの返済に充てた」、折舘容疑者は「受注業者として断り切れなかっ
た」と供述。両容疑者は余罪についてもほのめかしている。
 県警では贈収賄容疑を視野に入れるとともに、さらに同様の手口で市から数百万円をだま
し取った疑いがあるとみて捜査している。


20 :
古墳時代の用水路発掘 玉城・田丸道遺跡
ttp://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001101220003
県埋蔵文化財センターは、玉城町妙法寺の田丸道遺跡で、約1500年前の古墳時代後期の川跡から木組みの堰(せき)=写真、
同センター提供=が見つかったと発表した。堰は田畑に水を導く役目があり、周辺には水田が広がっていたと推測される。
23日に現地説明会を開く。
現場は、町立有田小学校の通学路の下。川幅約40メートル、水深約2・5メートルの外城田川が流れていた場所とみられる。
見つかった堰は川底にあり、幅2メートル、長さ2・3メートル。直径10センチほどの木の杭を組み合わせて造られていた。
県内では北堀池遺跡(伊賀市)や片部遺跡(松阪市)などで発掘されているという。
2月上旬には通学路の敷設工事が始まるため、担当者は「古墳時代の優れた土木技術を間近にふれてほしい」と話す。
説明会は午前10時から1時間で、参加自由。雨天中止。

21 :
「開発とコスト」優先に疑問の声 未知の古墳発見・破壊
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110123/art11012302010011-n2.htm
貴重な文化遺産でありながら、「開発とコスト」を理由に、石室が失われてしまった。
「石材に絵や文字が描かれているなら、文化財としての価値はあるので大がかりな保存に向けて動けるが、
今回はそこまでの案件ではなかった」。羽曳野市教委は保存を見送った理由をこう“弁明”する。
市教委によると、最初に石室が見つかったのは平成21年2月中旬。現場は戦国武将の畠山氏が築いた高屋城跡で、
城跡の調査が目的だったが、偶然に発見されたという。発掘調査では文化財保護法の規定により、開発前に業者が
提出した文書などで、市教委の所有権は土器や埴輪などの出土遺物のみで、地面に築かれた周濠や石室には所有権が
及ばないことになっていた
市教委は、石室の保存に向けて開発業者と約10回にわたって交渉。その際、石室を避けての住宅開発や、
石室部分に盛り土をして保護した上で住宅を建てるなどの方法を模索した。だが業者側は、調査や保存作業に
伴って開発工事がずれ込めば金銭的負担が増えると難色。市側も、土地(約900平方メートル)の買い取りや、
石室の移築保存には数千万円かかることなどを理由に、保存を断念した。
市教委社会教育課の高野学室長は「世界文化遺産登録に向けて市などが活動しているなかで、石室を残せなかったことは遺憾」
としているが、「開発とコスト」を優先するあまり、貴重な文化財の保存に及び腰の状態が続けば、同様の問題が繰り返される
可能性があり、世界遺産の登録にも黄信号が灯りかねない。
神戸山手大の河上邦彦教授(考古学)は「石室は、1400年の時間を越えて奇跡的に残された国民の財産。
保存のためにあらゆる手段を尽くすべきで、業者に配慮しすぎるのは行政の怠慢だ」と批判している。

22 :
NHKスペシャル ”邪馬台国”を掘る
2011年1月23日(日) 午後9時00分〜9時49分 総合テレビ

一昨年、奈良県の纒向(まきむく)遺跡で邪馬台国の女王・卑弥呼の王宮きょいわれる巨大な建物群が発掘された。
纒向は、東西2キロ/南北1.5キロの巨大遺跡。弥生時代末期の3世紀、突如建設された日本列島の中心都市だった
ことが明らかになり、邪馬台国の最有力候補地とされている。
去年夏、古代史最大の論争に決着をつけるべく建物群の周辺で更なる発掘が行われた。
特に期待されたのが王宮跡のすぐわきで見つかった長さ4メートルの穴。王宮内で使用された貴重品を納めた
“聖なる井戸”と推定されており、邪馬台国の決定的証拠になる中国の魏王から卑弥呼への贈り物を封じた印(封泥)や、
魏との外交木簡が探された。
発掘現場からはここにあった国が諸国の連合国家であったことを示す土器、人為的に破壊された銅鐸、
そして2000個を超える多数の桃の種などが出土した。これらは何を意味する物なのか。
「倭国大乱」と呼ばれる内戦に直面した王たちが、新たな大王を「共立」したという王権誕生の謎、
そして弥生時代の古い宗教を捨て、新たな国家統合のシンボルとなる宗教を創始したことが判明してきた。
果たしてここを卑弥呼の邪馬台国とする決定的な証拠は発掘されるのか?番組では、纒向遺跡の発掘に密着し謎のベールに包まれた実像に迫る。

23 :
卑弥呼?祭りに山海の幸 奈良・纒向遺跡から「タイ」「シカ」「イネ」
2011年1月22日 朝刊
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2011012202000009.html
女王卑弥呼で知られる邪馬台国の有力候補地で、
大和政権発祥地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、祭りの際に大量のモモの実のほか、
タイやイワシの海水魚、シカやイノシシ、アワやウリ類など山海の幸が供えられていたことが分かった。

24 :
天皇陵ゆかり?古墳、宅地開発業者取り壊す
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110124-OYT1T00212.htm
大阪府羽曳野市教委が発掘した6世紀中頃の前方後円墳「城不動坂古墳」(同市古市)で、横穴式石室が民間の宅地開発で
取り壊されていたことが分かった。
市教委によると、同古墳は、世界文化遺産の暫定リスト入りが決まった「古市古墳群」内の安閑天皇陵と同時期に築造された
可能性が高い。同天皇陵の近くにあることから、被葬者は安閑天皇とかかわりが深い人物とみられる。
同古墳は、宅地開発に伴って市教委が別の遺構を調査中、偶然石室の一部が出土した。2009年2月から本格的に調査し、
石室の玄室は縦4・2メートル、横1・6メートルで全長36メートルの前方後円墳の一部だったことが判明した。
市教委は遺構を保存するよう業者に打診したが、交渉は難航。一方、土地の買い取りなどには数千万円の費用が必要なことなどから、
やむなく保存を断念したという。

25 :
城不動坂古墳は最後の築造 石室消滅、研究者ら惜しむ
ttp://www.sankei-kansai.com/2011/01/26/20110126-048824.php
大阪府羽曳野市古市の古市古墳群内で、6世紀中ごろとみられる前方後円墳「城不動坂古墳」(全長36メートル)の石室が
住宅開発によって取り壊されていた問題で、その後の調査で同古墳が古墳群内で最も新しい時期に築造された可能性が
高いことが25日分かった。
大王級の前方後円墳が多数築かれ、この地域を支配した豪族が強大な権力を持っていたと推定されており、「地域の勢力の
盛衰を証明できる一級の資料となるはずだった」と文化財の研究者らから石室の消滅を惜しむ声が相次いでいる。
古市古墳群ではこれまで、第27代安閑天皇が埋葬されたとされる高屋城山古墳(全長122メートル)が、周濠(しゅうごう)から
見つかったペルシャ製ガラス碗などから、6世紀初めの築造とされ、前方後円墳のなかでは最後に築かれたとされてきた。
城不動坂古墳は、副葬された土器や、石室の主室入り口の脇部分「袖部(そでぶ)」に使用された石材などから、6世紀中ごろに
つくられたと考えられるという。周濠からは、盾を持つ人をかたどった埴輪(はにわ)の顔の部分が出土し、同時期にしては珍しい
突起がついた口径約30〜40センチの円筒埴輪片も見つかっている。
市教委社会教育課の井原稔さんは「この時期の埴輪にしては凝ったつくりで、応神天皇陵から出土した埴輪に似ている。小石を
積んだ石室も珍しい。栄華を誇った一族の最後の見栄(みえ)だったのではないか」と分析している。
石室に詳しい神戸山手大の河上邦彦教授は「古市古墳群内で横穴式石室をもつ前方後円墳の発掘例は極めて珍しく貴重な資料。
相当に身分の高い人が埋葬されていたと考えられる。石室を壊すとは残念」と話す。また、大和王権に詳しい府立近つ飛鳥博物館
の白石太一郎館長は「百舌鳥(もず)・古市古墳群の時代は朝鮮半島などから新しい文化や技術を取り入れた時代だった。
百舌鳥古墳群は早くに終焉(しゅうえん)するが、古市古墳群は継体天皇の子、安閑天皇まで続いた。豪族の消長を知る貴重な
手がかりだったのに」と語った。
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【写真説明】城不動坂古墳の周濠から出土した埴輪の顔の一部

26 :
>>6
古代の巨大建造物遺跡の謎
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1284044572/

27 :
向山古墳 国史跡を具申 四国中央市教委
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20110127/news20110127872.html
四国最大級の長方形墳とされる四国中央市金生町下分の県指定史跡・向山(むかいやま)古墳の国史跡指定に向け、
市教育委員会は26日、県を通じて国に意見具申書を送付した。
文化庁によると、文化審議会に諮り、指定の答申が出れば、官報告示により正式指定される。
国史跡に指定されれば市内初で、国から整備費の補助などが受けられる。
市教委文化図書課によると、向山古墳は7世紀前半ごろの築造とみられ、墳丘は東西約70メートル、南北約46メートル。
墳丘内には四国最大級の横穴式石室2基が平行して築かれている。
西側の1号石室(全長10・8メートル、幅2・7メートル、高さ2・5メートル以上)は、ほぼそのままの形で残っている。
東側の2号石室(全長14メートル以上、幅2・8メートル以上、高さ約3・8メートル)は埋没状態で、
一部の石が市内2カ所の碑石に転用されている。
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20110127/photo/pic18723039.jpg

28 :
好きな時にネット受験…初の考古学検定2月実施
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110127/art11012713270042-n1.htm
考古学ファンを増やそうと公益社団法人「日本文化財保護協会」(東京都千代田区)は、考古学に関する知識を
問う「考古検定」を今年初めて実施する。
日本文化財保護協会は、発掘調査に関連する民間会社約80社で平成17年4月に発足。埋蔵文化財調査士など
専門職を養成する資格試験を実施していた。
より多くの人に埋蔵文化財の発掘調査や保護などに対する理解を広げようと、考古検定を企画。昨年から専門家
9人でつくる準備委員会で検討を重ねてきた。
入門、初級、中級、上級、最上級の5クラス。入門クラスを合格すると、2つ上のクラスまで同時受験できる。
最上級クラスは考古学系の大学院修了レベルに設定され、24年度に試験を実施する予定という。
初回は入門クラスのみ実施する。吉野ケ里遺跡(佐賀県)の所在地など、基礎的な知識を問う問題を50問出題し、
100点満点中60点以上を取れば合格となる。受験は、2月1日〜同月28日、受験者が好きな時間にインターネット上で
行う仕組みで、本を参考にしながら答えることもできるという。
専務理事の上野博司さん(63)は「今回はインターネットで実施するので、日本中どこからでも、誰でも受けていただける。
検定をきっかけに全国各地の遺跡に足を運んでいただきたい」と話している。
申し込みは1月30日まで。問い合わせは日本文化財保護協会

29 :
飛鳥全域で出土 10遺跡の157点
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20110128-OYT8T00008.htm
飛鳥地域の最新の発掘成果を紹介する奈良文化財研究所飛鳥資料館の冬期企画展「飛鳥の考古学」が28日、
明日香村奥山の同資料館で始まる。蘇我蝦夷 (えみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅跡とされる
「甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡」など計10遺跡から出土した土師器(はじき)や須恵器など計157点の
出土品が並び、飛鳥全域の調査成果を一度に学べる貴重な機会となっている。
2009年度に奈文研と県立橿原考古学研究所、明日香村教委が実施した発掘調査の概要を56枚のパネルで説明。
渡来系の東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる「檜隈寺周辺」のコーナーでは、出土した煙道(えんどう)が折れ曲がった
「L字形カマドの竪穴建物」(7世紀前半〜中頃)が渡来系文化の特徴であるとし、カマドの支脚とみられる丸瓦や土器
などの遺物も紹介している。
会期は2月27日まで(月曜休館)。入館料大人260円、大学生130円、高校生・18歳以下無料。問い合わせは、同資料館
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檜隈寺周辺で見つかった土師器や須恵器などの出土品(奈良文化財研究所飛鳥資料館で)

30 :
土成丸山古墳県史跡に
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokushima/news/20110127-OYT8T00994.htm?from=nwlb
県教委は27日、阿波市土成町高尾にある古墳時代中期(5世紀半ば)の県内最大規模の古墳「土成丸山古墳」を
史跡に指定することを決めた。
直径44メートルの円墳で、阿波市教委による2006〜09年の発掘調査で円筒埴輪(はにわ)、家や人物などの埴輪を発見。
その後の地中レーダー調査で、竪穴式石室がある可能性が高いことがわかっている。吉野川の中流域にあり、
水陸交通の要衝を支配した当時、阿波最大の勢力者の墳墓とみられる。
県内では、古墳時代前期から後期にかけて古墳が約40基見つかっているが、直径が20メートルを超える円墳はまれ。
県教委は「学術上も価値が高く、県内の歴史を知る上でも貴重」と評価した。
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県史跡に指定される阿波市の土成丸山古墳=県立博物館提供

31 :
古市古墳群1冊でわかる
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110130-OYT8T00067.htm
世界文化遺産の国内候補地リストに入った古市古墳群について理解を深めてもらおうと、羽曳野、藤井寺両市が
ガイドブック「古市古墳群を歩く」を4800部作製した。
学術的な説明だけでなく、初心者向けに「水鳥が飛来する絶好のバードウオッチングスポット」(岡ミサンザイ古墳、藤井寺市)、
「桜の名所」(野中宮山古墳、同市)などの見所も紹介した。
同リスト対象の44か所をはじめ、墳丘のない古墳を含む64か所を取り上げた。カラー印刷で空撮写真やイラストを多用し、
2009年度までの調査結果を反映させた。また、世界遺産登録に向けて、都市環境とどう調和させるのかといった課題にも触れた。
このほか、誉田(こんだ)御廟山(ごびょうやま)古墳(応神陵、羽曳野市)周辺や、古墳の造営を主導した土木技術者集団・
土師(はじ)氏ゆかりの地を巡るウオーキングコースを記した地図のほか、出土品を展示する施設の一覧表も付けている。
羽曳野市世界遺産登録準備室の高野学室長は「400メートルを超える巨大古墳から10メートル級まで古市古墳群の資料が満載」とPRしている。
A4判62ページ、1部200円。両市教委で販売する。希望者には郵送するが、送料が必要。問い合わせは同準備室

32 :
腰帯の金具に墨片 子どもの成長祈願か 太田・矢部遺跡
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20110131/CK2011013102000095.html
太田市只上(ただかり)町の矢部遺跡で、九世紀後半(平安時代前期)とみられる腰帯(ベルト)の金具に墨片が挟まった状態で
発掘されたことが、県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)の調査で明らかになった。
事業団によると、古代の墨がこうした金具に付いた状態で発見されたのは全国で初めて。墨と金具は当時は役人のステータス。
役人が金具に墨片をはめ込み、風習として子どもの成長や立身出世などを願った可能性がある。 (菅原洋)
事業団によると、北関東自動車道の工事に伴う発掘で、金具などは二〇〇五年に竪穴住居跡で出土した。事業団は金具や墨の
成分分析を進め、一一年度内に報告書を刊行する。
金具は「〓帯(かたい)」と呼ばれ、古代の役人が公式行事などで身に着けた腰帯の装飾品。横四・一センチ、縦二・五センチ、
厚さ約五ミリの銅製で、裏面が大きくえぐれている。
墨片は厚さ約四ミリの板状。状況から偶然挟まったとは考えにくく、使って小さくなったか、切って小さくし、金具裏の中央部分にはめ込まれたらしい。
古代の墨は土中で分解しやすく、発掘されたのは全国で十二件のみ。今回墨片が残ったのは、金具が守ったのが一因とみられる。
全国の十二件のうち七件が「胞衣壺(えなつぼ)」という子どもの健康などを祈願して胎盤を納めた土器に入っていた。
この壺からは、役人を象徴する筆や小刀も見つかっている。
発掘された金具の近くからこの壺や破片は出ていないものの、墨片が金具に意図的に挟んであったとしたら、子どもに関連する
風習行為だったことが連想できるという。
矢部遺跡の約三キロ西に国指定史跡「上野国新田郡庁跡」があり、金具と墨片を残した役人が勤めていた可能性もある。
事業団の綿貫邦男上席専門員は「金具の墨は洗い流されてもおかしくなかったが、保存処理担当の職員が注意深い作業で見つけた。
子どもの幸せを願う親の気持ちは、いつの時代でも変わらないのでは」と想像を膨らませている。
※〓は金へんに夸
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20110131/images/PK2011013102100035_size0.jpg
墨片が挟まった腰帯の金具裏面=渋川市で

33 :
南河内で初 三日市北遺跡から出土 「変わった形...」実は縄文期土偶 9日に考古学講座 発掘の経緯を発表
ttp://www.sankei-kansai.com/2011/02/01/20110201-049098.php
南河内地域で初めて出土したとされる土偶片の発掘の経緯などを説明する考古学講座「縄文時代の人、暮らし、マツリ」
(大阪府河内長野市教委主催)が9日、同市長野町のノバティホールで開かれる。
見つかった土偶片は約6センチの右足部分。同市教委によると、平成21年9月、河内長野市三日市町の「三日市北遺跡」
から出土した。縄文晩期(約3千年前)につくられたと想定される。
同市教委ふるさと文化課の小林和美・技師(37)が、遺物を水洗いしていた際に、土製のかけらを見つけた。
「土器にしては変わった形をしている」と不思議に思い、ほかの遺物と分けて保管。資料を読んで研究したが判然とせず、
1週間後、市教委を訪れた府教委の文化財担当者に見せたところ、土偶の右足であることが分かったという。
土偶は祭祀(さいし)の際に壊して使っていたとされ、右足の部分と特定できる姿で見つかったのは珍しいという。
周辺の同時期の遺跡から出土している土偶の形状から、見つかった土偶は縄文晩期のものとされ、全長18センチくらいだったと推定される。
小林技師は「10年くらい発掘にたずさわっているが、土偶の発見は初めてです」と興奮気味に振り返る。
問い合わせは、市立ふれあい考古館へ。
ttp://www.sankei-kansai.com/newsimage/G20110131DDD0100602G20000001.jpg
【写真説明】出土した縄文時代晩期の6センチの土偶片。右足部分とみられる(河内長野市教委提供)

34 :
芦屋で古墳時代中期の濠発見 有力豪族3代継承か 
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003778896.shtml
芦屋市教育委員会は1日までに、同市若宮町の住宅地で、古墳33 件時代中期(470年前後)に造られたとみられる古墳の濠を新たに発見した。
近くの前方後円墳「金津山古墳」(460年ごろ)や「打出小槌古墳」(490年ごろ)と同時期のものとみられ、市教委は「少なくとも3代にわたり、
有力豪族が芦屋で権力を継承した可能性が高くなった」としている。
市教委によると、発見場所は2基の古墳から南西に数百メートルの距離。昨年10〜11月、宅地造成などに伴う発掘調査で古墳を取り巻く濠の
一部を発見した。
近くで出土した形象埴輪の破片約500点や、壺などの須恵器から築造時期を推定した。2基との関連性から、濠のそばに同様の前方後円墳が
存在する可能性が高いという。
打出小槌古墳33 件(全長約75メートル)の規模などから、この地域には、畿内政権との関係が深く阪神間を広く支配していた有力豪族がいたとされる。
一方、発掘調査では、法隆寺で使われた瓦と類似した文様を持つ瓦の一部も発見。同様の瓦は県内最古級の寺院とみられる「芦屋廃寺」
(同市西山町周辺)でも出土している。
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/03778897.jpg
発見された古墳を取り巻く濠の一部=芦屋市若宮町(芦屋市教委提供)

35 :
縄文の層状堆積遺構 阿南・深瀬遺跡 県内初「極めて重要」
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokushima/news/20110202-OYT8T00952.htm
阿南市深瀬町の深瀬遺跡で、縄文時代前期〜晩期にかけて層状に堆積した遺構が出土し、県埋蔵文化財センターが2日発表した。
県内では初めてで、中四国でも7例目。センターは「那賀川流域の地域史だけでなく、四国の縄文時代研究で極めて重要な発見」としている。
同遺跡は那賀川左岸の段丘上にある縄文〜鎌倉時代の複合遺跡。堤防改修に伴ってセンターが昨年11月から初めて630平方
メートルを調べ、縄文時代以外の時代については集落跡を確認した。
最下層の同時代前期(約7000年前〜)と、その上の中期(約5500〜約4500年前)の層からは、
それぞれの時期で代表的な「大歳山(おおとしやま)式土器」、「鷹(たか)島式土器」が見つかった。
それより上の後期(約4500〜3300年前)の層からは、巻き貝を押し当てるなどして文様を付けた
希少な「宮瀧(たき)式土器」が多数出土。さらに上の晩期(約3300〜2800年前)の層からは、
直径1センチほどの石の丸玉一つが見つかった。縄文時代の装身具としては珍しく、四国では初。
後期〜晩期の層では漁に使うオモリ、ドングリやクルミを割るための「たたき石」も見つかり、
当時は狩猟、採集しながら暮らしたキャンプ地のような場所だったことがわかった。
これら含め、サヌカイト製(讃岐岩)、地元産のチャート製の打製石鏃(せきぞく)など縄文時代の
遺物だけで4000点の土器や石器が見つかった。センターは5日午前10時から現地説明会を開く。
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縄文時代各時期に層状に堆積した遺構面(阿南市の深瀬遺跡で)=県埋蔵文化財センター提供

36 :
椋ノ木遺跡:古墳時代中期の円墳4基を確認−−精華 /京都
ttp://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110203ddlk26040486000c.html
府埋蔵文化財調査研究センターは2日、精華町下狛の椋ノ木遺跡で、古墳時代中期(5世紀末〜6世紀初め)の
円墳4基を確認したと発表した。これまでに調査地西側で2基の古墳が見つかっているほか、約50メートル南で
同時期の住居跡が多数見つかっていることから、同センターは、「集落と墓を分けて計画的に整備された」とみている。
下水処理施設の増築工事に伴って実施され、約2500平方メートルを調査した。今回見つかったのは円墳4基の
外周の溝で、直径は12〜15メートル。地表から約3・3メートル下に埋まっていた。規模から、集落のリーダーの
墓だった可能性が高いという。
30センチ上部の地層からは、平安中期(10世紀中期)の建物2棟の柱跡のほか、同時期の井戸が見つかった。
97年の調査で、遺跡内から中国製の土器類が出土し、約100メートル東に木津川が流れていることから、
同センターは「水運に関連する施設の可能性もある」と推測している。

37 :
土井の塚古墳 5日から測量
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201102040044.html
福山市の歴史愛好家たちでつくる備陽史探訪の会は5日、同市駅家町の土井の塚古墳の測量を始める。
構造が珍しい石室の図面を作り、他の古墳との比較研究に役立てる。
古墳は、横穴式石室で高さ約2メートル、幅約2メートル、奥行き約5メートル。石の積み方などから7世紀
の築造とみられる。
同時期に造られた古墳の石室の大半は、入り口から続く通路「羨道(せんどう)」と遺体を葬る「玄室(げんしつ)」
との境の側壁に左右一対の石柱がある。土井の塚古墳は入り口からみて左側にしか石柱がない。
測量は5、6の両日と11〜13日の計5日間で、いずれも午前9時から。一般参加もできる。無料。
昨夏に現地を視察した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の広瀬和雄教授は「片側だけの石柱は非常に珍しい。
測量図面は律令(りつりょう)国家の成り立ちを探る有力な手掛かりになる」と期待している。
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ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20110204004402.jpg

38 :
県宝の「貝殻状刃器」紛失 県立歴史館1年近く庫内を“捜索” 長野
ttp://sankei.jp.msn.com/region/news/110205/ngn11020502040000-n1.htm
県立歴史館(千曲市)は4日、県宝に指定されている約3万年前の石器「貝殻状刃器(じんき)」1点を紛失したと発表した。
収蔵庫での作業中に紛失したとみられ、判明から1年近く経過した現在も庫内を探しているが見つかっていない。
約3万年前の旧石器時代(後期石器時代前半期)の遺物で「ムラ」の形成過程を知る上でも貴重な資料。
同館の牧野内生義(いくよし)館長は「県民の貴重な財産であり大変申し訳ない」と話している。
紛失した貝殻状刃器は、上信越自動車道の建設に伴って平成5〜7年度に発掘調査が行われた信濃町の野尻湖遺跡群の
日向林B遺跡から出土した。黒曜石を加工したもので縦12ミリ、横7ミリ、重さ0・53グラム。
同遺跡からの出土品総数は9千点。世界最古級とみられる磨製石斧(ませいせきふ)を含む斧(おの)型石器60点が出土
しており、これほど多数の出土は他に例がないという。12年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)事件で後期石器時代より
以前の考古学の成果が覆される中で、「出土年代が明確に特定できる後期石器時代前半期の遺物は、ナイフ型石器など
定型化する以前の石器で考古学上、貴重なもの」(原明芳・同館考古資料課長)と位置づけられる。
同遺跡から出土した遺物のうち202点は19年1月に県宝に指定され、20年3月から同館第1収蔵庫内で木箱への
収納作業を開始。22年3月に貝殻状刃器の行方が分からなくなっていることに気付いた。県宝指定後は同庫内から
貸し出しや展示のために持ち出されたことはなく、盗難の可能性はないという。
紛失判明から1年近くたってからの発表に牧野内館長は「庫内にあるものと思い、探すことに一生懸命になってしまった」としている。
同館は収蔵品目録と指定文化財とを定期的に照合するなどの再発防止策をまとめるとともに、貝殻状刃器が見つからなかった
場合は県宝の指定を取り消す方針だ。

39 :
弥生前期の木材加工場跡 きょう現地説明会 すさみ町立野遺跡 和歌山
ttp://sankei.jp.msn.com/region/news/110205/wky11020502090000-n1.htm
県文化財センターは、すさみ町周参見の立野(たちの)遺跡で弥生時代前期(紀元前3世紀ごろ)の木製品や初期の
弥生土器が大量に見つかったと発表した。県内では例が少ない木材加工場跡とみられるという。5日に現地説明会を行う。
阪和自動車道の整備に伴う発掘調査で、昨年8月ごろから約8500平方メートルを対象に実施。西側の川の跡とみられる
800平方メートルの区域で、丸太材などとともに木材加工用の石斧や弥生土器、未完成の木製品など100点以上が見つかった。
他地域の土や石を含む土器も多いうえ、港が近いことなどから、できた木製品を周辺地域に供給する拠点となっていた
可能性があるという。調査に関わった大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長は「県林業のふるさとかもしれない」としている。
現地説明会は、5日午後1時から約1時間半。同遺跡発掘調査事務所(すさみ町周参見2817の1)に集合。
小雨決行、雨天中止。問い合わせは同事務所

40 :
遊び心くすぐる 宇都宮塚山古墳
ttp://mytown.asahi.com/tochigi/news.php?k_id=09000001102050002
宇都宮市西川田町の塚山古墳で、斜面の植物が美しい模様を作っている=写真。
同古墳は前方後円墳で全長は約98メートル。4月下旬からは、サツキやツツジも咲き始めるという。
斜面の上に登ることもでき、子どもたちの遊び場にもなっている。
友達と一緒だった小3の児童は「古墳ではかくれんぼしたりして遊ぶ。夏は全体が緑になって、もっとキレイになる」と自慢していた。
ttp://mytown.asahi.com/tochigi/k_img_render.php?k_id=09000001102050002&o_id=3008&type=kiji
冬のグラデーションがあらわれている古墳=宇都宮市西川田の塚山古墳

41 :
埴輪のはじまり:430点の資料陳列 きょう開幕−−橿原 /奈良
ttp://mainichi.jp/area/nara/news/20110205ddlk29040543000c.html
埴輪(はにわ)の起源に迫る特別陳列「埴輪のはじまり−大和の特殊器台(きだい)とその背景」(毎日新聞大阪本社など後援)
が5日、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で始まる。2世紀後半の祭祀(さいし)用土器から、5世紀の古墳に
並んだ埴輪までの変遷を約430点の考古資料で紹介する。3月21日まで。
埴輪の原形は、弥生時代後期(2世紀後半)に吉備(岡山県と広島県の一部)で供え物を入れるのに使った土器とされ、
岡山県倉敷市の上東遺跡から出土した壺(つぼ)とそれを載せる器台を展示している。
宮内庁が陵墓として管理し、普段は非公開の箸墓古墳(桜井市)や西殿塚古墳(天理市)から採取された初期の埴輪片など
約160点も並んでいる。月曜休館(3月21日は開館)。入場料は大人400円、高校大学生300円、小中学生200円。

42 :
埴輪づくり、まずは半分の大きさで 和歌山で体験教室
ttp://mytown.asahi.com/areanews/wakayama/OSK201102050128.html
和歌山市岩橋の古墳「大日山35号墳」に並べる埴輪(はにわ)を作るための体験教室が5日、同古墳のある県立紀伊風土記
の丘であり、親子連れら14人が参加した。
古墳に並べるのは、高さ63センチの円筒埴輪。初心者が作るのは難しいため、今回の講座では、ほとんどの人がまず半分の
大きさでの制作に挑戦した。和歌山市在住の陶芸家赤坂宏さん(52)や同丘職員の指導を受けながら、ひも状に引き伸ばした
粘土を円筒状に積み重ねて少しずつ形を整えていった。半分の大きさの埴輪は練習用で、後日参加者に手渡される。
この古墳は6世紀前半の前方後円墳。前と後ろの両面に顔が二つある人物埴輪や、翼を広げた鳥形埴輪などが全国で初めて
出土しており、同丘ではこれらの埴輪群を現地で再現する計画を進めている。円筒埴輪は約200個必要で、現在、約30個出来ている。
この日、参加者の中で1人だけ63センチのサイズに挑戦したのは和歌山市有家、会社員鮫島輝行さん(52)。「これまで教室に
2回参加した。急がず基礎をしっかりつくるのが大事」と話し、「県の重要な史跡に、自分が作った埴輪を残しておきたい」と意気込んでいた。


43 :
吉岡の「神崎遺跡」が国指定に正式決定、ほぼ完全な形で残存も評価/綾瀬
ttp://news.kRoco.jp/localnews/article/1102070054/
文部科学省は7日、綾瀬市吉岡の「神崎遺跡」を、同日付で国指定史跡に指定した。同市内での指定は初めてで、
今後、市は遺跡の活用などを考えていくという。
市生涯学習課によると、広さ約5千平方メートルに及ぶ同遺跡の発掘調査は、1989年から始め、弥生時代後期
(約1800年前)の環(かん)濠(ごう)集落と、竪穴住居の跡が9つ見つかっている。
住居跡などから出土した土器の95%以上は、愛知県東部〜静岡県西部から見つかった同時代のものと酷似しており、
住居跡も東海地方の影響があるとみられている。これらの点から、当時、200キロ以上の集団移動が行われていた
ことを裏付ける貴重な遺跡100 件とされている。
今回、国指定史跡となったのは、全国でも珍しく、環濠集落全体が、ほぼ完全な形で残っている点も評価されたという。
市は、国、県と協議しながら、遺跡100 件の保存や活用などを進めていくという。

44 :
縄文土器にイノシシの顔
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/news/20110209-OYT8T00005.htm
市川・権現原貝塚 1985年出土 
市川市堀之内の権現原貝塚で1985年に出土した縄文土器に、イノシシの顔の線刻画が描かれていたことがわかった。
8日、市立市川考古博物館が発表した。同博物館は、国内で発見されたイノシシの線刻画では最古級とみており、
「縄文人の精神世界を知る上で貴重だ」と説明している。
権現原貝塚は縄文中期〜後期(約4000〜3800年前)の集落跡。同博物館の領塚正浩学芸員によると、竪穴住居跡で
出土した深鉢型土器(高さ31センチ、口径27センチ)のほぼ中央に、長さ35センチ、縦12センチの幅で線刻画が描かれ
ていた。
「C」のような形の左右対称の牙があり、両脇には体毛もある。細い棒状のもので描いたとみられる。
原始絵画に詳しい東大大学院の設楽博己教授は「イノシシの線刻画は弥生時代の土器には見られるが、縄文土器に描か
れた例は聞いたことがない。イノシシは多産なので、豊かさと命のシンボルと考えていたのだろう」と話している。
土器の復元作業の際には線刻画に気付かず、博物館に長年保管されてきたが、2009年秋、市史編集に伴う資料整理に
あたった領塚学芸員が線刻画ではないかと疑問を抱き、設楽教授に鑑定を依頼、線刻画と確認された。市川歴史博物館
で3月5日〜5月29日に開催される企画展「市川出土の縄文土器」で展示される。
縄文土器の線刻画は、県内では船橋市の西の台遺跡で蛇とカエル、佐倉市の吉見台遺跡では水鳥が確認されている。
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110209-224017-1-L.jpg
イノシシの線刻画の描かれた縄文土器(市川考古博物館提供)

45 :
古墳好きな女子大生・藤嵜亜莉沙のファーストDVD
ttp://ascii.jp/elem/000/000/587/587895/
哲学を学ぶ現役女子大生タレントとして活躍している藤嵜亜莉沙さんが、ファーストDVD『それが君の答えなら、私はいいと思う。』
(発売:イーネット・フロンティア/3990円)の発売記念イベントを6日、秋葉原のソフマップアミューズメント館で行なった。
藤嵜さんは昨年、「日テレジェニック2010」の候補生としても活躍。惜しくも選ばれなかったが、その知的なイメージは日テレ系番組
「アイドルの穴 2010 日テレジェニックを探せ!」でも目を引いた。今作のDVDのタイトルも哲学風にしてみたとのこと。

大学生活に関しては、勉強することが好きなのでレポートなどもわくわくしながら取り組めているとのこと。また、特技が古墳をたくさん
言えるというので、好きな古墳を聞いてみると「大仙陵古墳と稲荷山古墳。出土品がいいんですよ」と即答。本当に勉強好きということ
がわかるようなエピソードだった。
2月9日には東銀座のエアースタジオにて、彼女が出演する舞台『PRIDE』がスタート。現在はその稽古の真っ最中。
今年は演技にも力を入れていきたいと抱負を述べていた。
■プロフィール
藤嵜亜莉沙(ふじさき・ありさ)
生年月日:1990年12月30日
出身地:埼玉県
血液型:B型
サイズ:T163、B85、W54、H83
趣味:茶道、古墳を調べること、読書(哲学の評論・デカルト・中村雄二郎など)
特技:書道、古墳をたくさん言える

46 :
蘇我入鹿も通ったかも…飛鳥寺の参道跡発見 奈良県明日香村
ttp://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E2EBE2E0828DE2EBE2E0E0E2E3E39180EAE2E2E2;at=ALL
古代の大豪族、蘇我氏が建立した国内最古の寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)跡の周辺を調査中の奈良県立橿原考古学研究所は9日、
寺跡の西約100メートルで飛鳥時代(7世紀)の石敷き道路の遺構を見つけたと発表した。寺の西門に続く参道跡とみられる。
同研究所は「当時の景観を復元する際の重要史料」としている。
参道跡は東西方向に走っており幅2.4メートル。10〜20センチの石を敷き詰めてあった。過去に寺の南門に続く参道跡も見つかっているが、
幅は2.2メートルで今回の遺構よりやや狭かった。
寺院は通常、南が正面とされるが、同寺跡は西門が南門より大きく、特異な構造として注目されている。
日本書紀によると、寺の西側には広場があり、大化の改新前の644年、蹴鞠(けまり)をしていた中大兄皇子が中臣鎌足と出会ったとされる。
さらに西には蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘がある。

47 :
飛鳥寺西方遺跡で石敷き
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20110209-OYT8T01095.htm
蘇我氏邸方面からの参道か橿考研
飛鳥の重要な歴史の舞台の一つ、「飛鳥寺西の槻樹(つきのき)の広場」があったとされる明日香村飛鳥の飛鳥寺西方遺跡で
石敷きが出土し、9日、県立橿原考古学研究所が発表した。大豪族・蘇我氏が滅ぼされた大化改新前夜、“クーデター”を
主導した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足のRの場。石敷きは遺跡の西端付近に
あたり、寺の参道だった可能性もあり、遺跡の全容解明に近づく成果となる。
「吉野川分水」の支線水路の改修工事に伴い、発掘。飛鳥寺の西門跡の西約100メートルで、20〜30センチ大の石が
南北2・4メートル、東西0・8メートルに敷き詰められているのを確認した。北側に50〜60センチ大の縁石3個があり、
通路とみられる。また、その北55メートルでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6メートル、南北0・9メートル分、出土した。
調査担当の大西貴夫・主任研究員は「南側の石敷きは、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子の邸宅があった甘樫丘方面から
飛鳥寺に向かう参道の可能性がある」とみている。
同遺跡では、村教委が2008年度から5年計画で範囲確認調査を進めている。これまで同研究所や奈良文化財研究所、
村教委の調査で、石敷きや石組み溝は見つかっているが、調査面積が狭いことなどから全容はわかっていない。
飛鳥寺の西限と飛鳥川までの距離は180〜220メートルあり、同遺跡の北側は中大兄皇子の作った国内最初の水時計跡
とされる水落遺跡が広がる。このため、村教委は「飛鳥寺西方遺跡は東西100メートル、南北300メートルの範囲に収まる
のではないか」と想定している。
槻はケヤキの古名で、古代では聖樹として尊ばれた。飛鳥寺の西に生えた樹齢数百年とみられるケヤキの大樹の周囲に
広場があり、「日本書紀」には644年、蹴鞠(けまり)が催された際、中大兄皇子の靴が飛び、拾った中臣鎌足とR、
蘇我氏打倒の謀議を始めたとされる。古代史最大の内乱、壬申の乱では672年、天智天皇の息子、大友皇子の軍勢が軍営
を設けたほか、儀礼の場として度々使われた。
現地説明会は行わない。11日〜3月6日、県立橿原考古学研究所付属博物館で開催する速報展で成果を展示する。無料。月曜休館。
木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話「日本書紀に何度も登場するのは、極めて重要な場所だったから。
単なる広場ではなく、宮殿に付属する政治的な空間だった。こうした調査を続けることによって、どれだけその実態に迫れるかが課題だ」
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110209-242732-1-L.jpg
飛鳥寺西方遺跡で出土した参道とみられる石敷き。奥は飛鳥寺(明日香村飛鳥で)
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110209-242751-1-L.jpg

48 :
象鼻山古墳群:数度にわたり築造 養老町教委「聖地の可能性高い」 /岐阜
ttp://mainichi.jp/area/gifu/news/20110209ddlk21040045000c.html
養老町教育委員会は8日、同町橋爪の象鼻山(ぞうびさん)古墳群が、2世紀中ごろから5世紀後半にかけて300年以上の期間、
数度にわたって築造されてきたことが明らかになったと発表した。新しい墳墓は、過去の墳墓を避けて造られていることも判明。
専門家は「象鼻山は初めて墳墓が築造されて以来、聖地として伝えられてきた可能性が高い」としている。
同古墳群は、濃尾平野の西端にある象鼻山(142メートル)の山頂周辺に70基の古墳が確認されている。今回の調査では、
標高80メートルの二つの古墳を発掘。いずれも直径14メートルの円墳が見つかった。多数の須恵器や土器が出土しており、
いずれも5世紀後半に築造されたもので、これまでの大規模な整地をした後に盛り土して造ったのと違い、地形を利用し土木量を
抑えた方法を採用していた。
同古墳群は、これまでの調査で、2世紀中ごろから後半にかけ、ほとんどの墳墓が築造され、3世紀後半に1号墳が造られた。
今回見つかった円墳は、その約200年後にあたることから、同町教委は、時代時代の節目に築造されていたのではないかとみている。
愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎副センター長は「5世紀後半になっても、過去の場所でなく新たな場所で墳墓を造っていた
のは、代々聖地としての言い伝えがあったのでは」と話している。
町教委は11日午後1時から養老町民会館で象鼻山古墳群シンポジウム「邪馬台国時代の象鼻山〜古墳出現の背景を探る」を開催
するほか、19日午後1時から現地説明会(小雨決行)を行う。

49 :
古墳のひつぎに絹使用を確認
ttp://www.nhk.or.jp/news/html/20110211/k10013997141000.html
飛鳥時代の女帝、斉明天皇が埋葬されたという見方が出ている奈良県明日香村の古墳のひつぎの材料に、
当時、貴重品だった絹が使われていることを、奈良女子大学の研究チームが初めて確認し、埋葬された人物の
地位の高さを示す成果としています。
7世紀後半の飛鳥時代に造られたとみられる牽牛子塚(けんごしづか)古墳から出土したひつぎは、布に漆を
塗って何枚も重ねる当時としては高度な技法で作られています。奈良女子大学の中澤隆教授らのチームは、
ひつぎの繊維に含まれるたんぱく質を取り出して最新の分析装置で調べました。その結果、蚕が作る絹の
たんぱく質と一致することが初めて確認されたということです。牽牛子塚古墳は、飛鳥時代の天皇の墓に
特徴的な八角形で、研究者の間では、斉明天皇が埋葬されたという見方が強まっています。
研究チームのメンバーで、考古学が専門の宮路淳子准教授は「当時、貴重品だった絹がひつぎに使われていたことは、
埋葬された人物の地位の高さを示している」と話しています。

50 :
今城塚古墳、史跡公園に 高槻、4月オープン
ttp://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201102120140.html
継体天皇の墓とされる高槻市の今城塚古墳(国史跡、同市郡家新町)の一帯が4月、史跡公園になる。埴輪(はにわ)など
古墳から出土した貴重な文化財を展示する歴史館も造る。整備を進める同市は、地域の成り立ちを楽しんで学べる拠点に
したいという。
今城塚古墳は6世紀前半に築かれたとされる。墳丘の全長は約190メートルで二重に巡らされた濠(ほり)を含めた面積は
約9ヘクタール。淀川流域では最大の前方後円墳という。大小約500基の古墳からなる「三島古墳群」の代表格で、市は
保存のため、2004年度から整備を進めてきた。公園と歴史館とを合わせた整備事業費は約40億円。
古墳は、地震で形が崩れていた墳丘部分を原生する樹木を生かしながら整備。本来、水が満たされていた濠は、西側を池
にし、東側を芝生広場にする。周囲には複数の出入り口を設け、人々が終日自由に内部を散策できるようにする。市の発掘
調査で、家や人、動物などをかたどった140点以上の埴輪が出土した祭祀(さいし)場も複製品を並べてよみがえらせる。
歴史館は古墳に隣接する。鉄骨2階建てで延べ床面積は約4千平方メートル。出土した遺物をパネルや映像、ジオラマ模型
で解説する常設展示室や、埴輪づくりができる体験学習コーナーなどを設ける。常設展示室では、祭祀場で見つかり、日本
最大級(高さ約1.7メートル)とされる家形埴輪や、武人や巫女(みこ)、馬などの埴輪、復元した石棺などを無料で公開する。
オープン後は有料の特別展も行う予定だ。
市は昨年10〜11月、公園と歴史館をあわせた愛称を公募。愛称は「いましろ大王(だいおう)の杜(もり)」に決まった。
両施設は4月1日から公開予定。市教委文化財課は「三島古墳群は切れ目なく古墳が築かれてきた。地元の歴史の積み重ね
を知ってもらいたい」と話している。問い合わせは市埋蔵文化財調査センターへ。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/OSK201102120139.jpg
4月にオープンする歴史館=高槻市郡家新町

51 :
群馬県渋川市発注の遺跡発掘調査を巡る詐欺事件で県警は12日、別の遺跡でも調査費を
だまし取ったとして渋川市教育委員会文化財保護課副主幹、小林修被告(42)=詐欺罪で
起訴=を詐欺容疑で再逮捕、受注した遺跡発掘調査会社社長ら3人を同容疑で逮捕した。
逮捕されたのは、前橋市粕川町上東田面、「歴史考房まほら」社長、笠原仁史(49)
▽同県伊勢崎市連取町、同社取締役、中里正憲(42)▽同県高崎市中尾町、
事務機器販売業「ビジネスサプライ」代表、斎藤隆夫(60)の3容疑者。
逮捕容疑は09年6月下旬から10月下旬にかけ、渋川市が随意契約で発注した
遺跡発掘調査費を45万円水増し請求し、約116万円をだまし取ったとしている。
県警によると、小林容疑者が、まほら側に見積額を指示して見積書を提出させて発注。
水増し分を架空取引で斎藤容疑者に移し、商品券に替えて受け取っていた。
小林、斎藤の両容疑者は容疑を認めているが、笠原、中里の両容疑者は否認しているという。
*+*+ 毎日jp 2011/02/13[11:54:44] +*+*
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110213k0000m040071000c.html

52 :
>>51
小林修
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/souken/student/kobayashi.html


53 :
あーあー知ってる人が次々と捕まっちゃうなぁ・・・

54 :
現在、誰でも自由に意見を書き込める掲示板がセットになったニュースサイトが日常生活に欠かせなくなりました。既存マスメディアによる一方通行の情報に身を委ねていた方々へ。目からうろこが落ちる納得の毎日を約束します。
2NN - 2ちゃんねるニュース速報+ナビゲーター
http://www.2nn.jp/
記者記事に特化したニュース勢いランキング ※2ちゃんねるトップページにリンク有り。Twitter・RSSもどうぞ。
2ちゃんねる全板縦断勢いランキング
http://2ch-ranking.net/
記者記事以外で勢い良く書き込まれている話題もわかります。このサイトと同じ表示になる2ch専用ブラウザもあるようです。 ※時間帯や曜日などによりランクインするスレのジャンルが全く異なったりもします。

55 :

象鼻山古墳群:数度にわたり築造 養老町教委「聖地の可能性高い」 /岐阜
http://mainichi.jp/area/gifu/news/20110209ddlk21040045000c.html
養老町教育委員会は8日、同町橋爪の象鼻山(ぞうびさん)古墳群が、
2世紀中ごろから5世紀後半にかけて300年以上の期間、
数度にわたって築造されてきたことが明らかになったと発表した。

56 :
中国で初の日本考古展
ttp://www.nara-np.co.jp/20110217110925.html
県は16日、平成23年度中の締結を目指す中国・陝西省との友好提携を記念して、同省の陝西歴博物館で
「日本考古展」(10月初旬〜11月中旬)を開催すると発表した。当初予算案に2600万円を計上。
中国で日本の考古展が開かれるのは初めて。
昨年、県立橿原考古学研究所で開かれた大唐皇帝陵展で、中国国家文物局や陝西省考古研究院から
受けた支援への感謝を込めて開催が決まった。
考古資料から見た奈良の歴史▽日中交流史▽現在の奈良に見る隋唐文化の遺風―の3部構成。
天理市の下池山古墳で出土した古墳時代前期の内行花文鏡(ないこうかもんきょう、直径37.6センチ)や
葛城市の三ツ塚古墳で見つかった飛鳥時代の革製ポシェットなど、県内の考古遺物約90件を展示する。
陝西省との友好提携は昨年秋に締結する予定だったが、日中関係の変化で延期、県は23年度内の締結
を目指している。
ttp://www.nara-np.co.jp/photo/7bb22250932d13c0ad497558aea56d13.jpg
【右】三宅町の石見遺跡で出土したいすに座る男性の埴輪、
【左】葛城市の三ツ塚古墳で出土した革製ポシェット(県立橿原考古学研究所提供)

57 :
天皇陵に初の立ち入り調査へ 応神陵、内壕外側のみ
ttp://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021801000290.html
宮内庁は18日までに、日本で2番目に大きい応神天皇陵(誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳、
大阪府羽曳野市)への立ち入り調査を許可したと日本考古学協会に伝えた。考古学、歴史学の
学会計16団体は24日午後に調査する。
陵墓の立ち入り調査は2008年の神功皇后陵(五社神(ごさし)古墳、奈良市)以来、今回で5件目だが、
天皇陵は初めて。調査は内壕を取り囲む土手部分を約2時間かけて実施する予定で、墳丘本体には入らない。
応神天皇陵は古市古墳群の一つで、5世紀前半の築造とされ全長約425メートルの前方後円墳。
二重の周濠を持ち、明治時代に宮内省(当時)が内壕のしゅんせつをした際に水鳥の埴輪などが出土した。
応神天皇は中国の史書に登場する「倭の五王」の一人とみられ、被葬者は応神天皇本人とみる研究者もいる。

58 :
宮内庁、応神陵古墳への立ち入り許可
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110218-OYT1T00409.htm
宮内庁は17日、応神(おうじん)天皇の陵墓に指定している大阪府羽曳野(はびきの)市の応神陵古墳
(誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳)への日本考古学協会などによる立ち入り調査を認めたと発表した。
24日に調査が行われるが、宮内庁が指定する古墳時代の天皇陵への立ち入り許可は初めて。
応神陵古墳は5世紀前半の前方後円墳。墳丘は全長約425メートルで、仁徳陵古墳(堺市)に次ぐ
第2位の規模。立ち入りは墳丘ではなく、濠(ほり)の外側の内堤(ないてい)のみ。日本考古学協会など
考古・歴史系16学会の研究者が全周約2・2キロを歩き、現状を観察する。発掘や遺物の採集は行わない。
陵墓の立ち入り調査は、2008年の奈良市の神功(じんぐう)皇后陵古墳(五社神(ごさし)古墳)から毎年行われており、今回で5か所目。

59 :
R幼児埋葬?壺棺5基―香南・東野土居遺跡
ttp://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000001102190001
香南市野市町土居の「東野土居遺跡」の発掘調査で、R幼児が葬られたとみられる弥生時代終末期の「壷棺(つぼ・かん)」=写真=
5基が出土したと、県教委と県文化財団埋蔵文化財センターが18日に発表した。同時期と古墳時代初頭、古墳時代後期の竪穴建物跡
も約80棟見つかっており、同時代の遺跡では県内で最も多い発見数という。現地説明会は20日午前10時半から。
南国安芸道路建設工事のため、同センターが昨年5月から約1万4千平方メートルの範囲で調べていた。
壷棺は竪穴建物跡が密集している場所の東側から見つかった。大きさからR幼児が葬られた可能性が高いという。鉢形の土器で
ふたをされたものや、県内では初めて胴部に「鋸歯(きょ・し)文」と呼ばれる文様が入ったものも出土した。担当者は「この時期の
子どもの墓は住居域のすぐそばに営まれることが多く、今回もそうした事例の一つ」とみる。
ほかに弥生時代前期終わりごろの「沈線」と呼ばれる模様入りの土器、網漁に使われたとみられる同時代終末期の土製おもり、
ハスの花の文様などが入った8世紀の軒丸瓦(直径約18センチ)、掘っ立て柱建物跡10棟も見つかった。以前の調査ですずり
も発見されており、古代寺院や役所があった可能性があるという。
担当者は「弥生時代終末期から古墳時代初頭に大きな集落があったことが再確認され、この地が古代にも重要な位置を占めて
いたことが分かった」と説明している。
ttp://mytown.asahi.com/kochi/k_img_render.php?k_id=40000001102190001&o_id=10649&type=kiji
東野土居遺跡から出土した「壷棺」=香南市野市町土居

60 :
高岡新山遺跡:副葬品の白鳥の骨出土 8世紀後半の蔵骨器から−−佐倉 /千葉
ttp://mainichi.jp/area/chiba/news/20110219ddlk12040245000c.html
◇「人骨と埋葬」確認は全国初
佐倉市白銀1の「高岡新山遺跡」から過去に出土していた8世紀後半の蔵骨器(骨つぼ)に、火葬された人骨と一緒に
白鳥の骨が交ざっていたことが、同市の調査でわかった。人骨と鳥骨の同時埋葬が確認されたのは全国初で、当時の
生活や宗教文化をひもとく新たな発見として注目される。
同市が18日に公表した。蔵骨器はふた付きで1984年ごろに出土し、壮年男子(寿命50歳として30〜40歳)の骨が
納められていた。新たに発見されたのは白鳥の左の翼の骨の一部。
市の調査によると、骨や蔵骨器は共に奈良時代の750〜775年ごろのものとみられる。すべての骨を鑑定しても白鳥
の一体分の骨は見つからず、翼の一部が一緒に火葬されたか、道具として使用していた骨を一緒に埋葬した可能性が
高いという。
当時は土葬が一般的で、火葬は中央政権の高い身分の人物に限られていた。また、遺骨を蔵骨器に納めるのも一握り
の支配者層に限定され、出土した蔵骨器は愛知県産の高級なものだったことなどから、人骨は地域の首長など有力者
だったと推測されるという。
ちなみに、中央政権で白い生き物が縁起の良いものとして崇拝され、献上されていた様子が「日本書紀」に記されており、
権力者の証しとして一緒に埋葬されたとみられる。また、当時の畿内の宗教文化がすでに佐倉に伝来していたことを裏付け
るものとなった。
佐倉市は市史編さん事業の一環として、同市の国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授(動物考古学)に再鑑定を依頼。
西本教授は「全国で例を見ないすごい結果が出た」と驚いたという。市総務部市史編さん担当の内田理彦副主幹は
「白鳥が吉祥の証しであることを佐倉が裏付けたと思う。また、中央の仏教意識が地方にもすでに伝わっていたと考えられる」と話した。

61 :
日中韓は8000年前から交易? 韓国での出土品が証明
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110219-00000016-scn-cn
韓国の釜山市で8000年前のものと推測される共同墓地が発見され、
韓国の専門家は、「墓地からの出土品は8000年前にはすでに東北地区で交易が行われていたことが明らかになった」と述べた。
中国の環球時報は18日、「朝鮮半島の人びとは8000年前には日本や中国と交易していた」と報じた。
韓国文物研究院鄭義道院長は「大型の玉器を身につけた例は韓国の新石器遺跡全体でも珍しいケースで、
死者は特殊な地位にあった可能性がある」と指摘した。
報道によると、これらは韓国で発見された玉器の中でもっとも古い部類で、
ほかにも墓地全体から300以上の黒曜石が出土した。
韓国東アジア大学の李東朱教授は「これらの玉は中国東北地方のもので、
黒曜石は日本から来たものと思われる。これらは8000年前には東北地区にすでに、
広域での特産物交易が行われていたことの重要な資料となる」と述べた。

62 :
弥生期山城に定住!? 高地性集落四国最大級
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20110217-OYT8T00981.htm
いの・バーガ森北斜面遺跡
いの町是友の丘陵地で見つかった弥生時代中期末(1世紀前半〜2世紀)の「バーガ森北斜面遺跡」で、新たに竪穴建物跡
6棟や周囲に巡らした柵跡などが出土し、高地性集落としては四国最大規模となることが分かったと、県埋蔵文化財センター
が17日、発表した。急斜面の上に築かれた高地性集落は、有事の際に立てこもる軍事的な〈山城〉だったというのが通説だが、
今回は武器とともに、煮炊きの炉や斧(おの)など生活遺物も見つかっており、同センターは「集落間の争いが絶えず、平野に
住めなくなった人々が恒常的に住み始めたのではないか」としている。
同遺跡は仁淀川支流の宇治川左岸の標高約40〜80メートルに広がり、1957年に見つかって以来、県教委などが断続的に
調査してきた。これまで竪穴建物跡は4棟だったが、昨年5月以降の調査で、標高42〜58メートルに建物跡6棟と柵などの
柱穴314基が出土。集落の範囲が東西450メートル、南北300メートル、13万5000平方メートルあることが分かった。
四国の高地性集落では最大級の紫雲出山(しうでやま)遺跡(香川県)などに匹敵するという。
斜度約40度ある急斜面が、4段に造成され、4棟の竪穴建物跡が出土。1区画は奥行き約5メートル、幅約20メートルあり、
のろしを上げるための炉、石や鉄の矢尻、敵に投げるため丸く加工した石「投弾(とうだん)」などが見つかった。同時に、煮炊き
用とみられる炉や約1万点の土器片が出土し、日常的に人々が生活していたことが分かった。農具とみられる鉄斧(てっぷ)も
見つかった。尾根上の竪穴建物跡では、砥石(といし)や石材などが見つかり、工房とみられる。
鉄の生産技術は弥生時代中期に大陸から伝わったとされるが、鉄斧は国産品の形で、近くに鉄製品を作る工房があった
可能性も出てきた。土器の9割は四国南部特有のへらで装飾したものだったが、瀬戸内地方の甕(かめ)などもあり、他地域
との交流をうかがわせた。
同センターの吉成承三・調査第2班長は「仁淀川流域を代表する集落と言える。東の山には同時期の朝倉遺跡(高知市)など
があり、山伝いに集落が広がっていったことが考えられる」と話した。
現地説明会は19日午後1時半〜3時(小雨決行)。
高地性集落 見晴らしが良く、稲作に不向きな山や丘陵に築かれた集落。のろし台、矢尻などが出土し、厳重な堀を備えた例
もあり、軍事施設とみられてきた。弥生時代中期以降、畿内や瀬戸内海沿岸に多い。中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀
の日本で「倭国大乱」があったと記され、争いに備えるために造られたとされている。ただ近年、会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県)
のように住居跡が出土する例もあり、臨時の軍事拠点というよりも、人々が日常的に生活していたことが分かってきた。
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110217-377892-1-L.jpg
急斜面に築かれ、生活で使われた土器などが見つかったバーガ森北斜面遺跡
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110217-377902-1-L.jpg
国産とみられる鉄斧

63 :
これは盗難確実だな

64 :
茨城県内初 古墳時代前期、鏡の模造品
ttp://sankei.jp.msn.com/region/news/110223/ibr11022301200002-n1.htm
■つくば市「高須賀中台東遺跡」
県教育財団は22日、つくば市高須賀の「高須賀中台東遺跡」から、鏡の土製模造品が出土したと発表した。
古墳時代前期(4世紀ごろ)のものとしては県内で初めてで、関東地方でも3例目。住居を集団で移転する際
の祭礼に使われたとみられ、当時の祭礼の一端を垣間見ることができる貴重な発見という。

調査は圏央道建設に伴い同遺跡を記録保存するため昨年4月〜今年3月に実施。これまでの調査で縄文時代
前期(約6千年前)と古墳時代前期を中心とする竪穴住居跡32軒、土坑、溝跡などを確認した。
古墳時代前期の住居跡25軒のうち14軒から焼けた土や炭化材が出土しており、住居を集団移転する際、
意図的に焼いた形跡と認められるという。
住居の炉跡からは直径3センチほどの鏡の土製模造品と糸巻き状の土製模造品が見つかっており、同財団では
「住居を離れる際の祭礼に使ったと考えられ、具体的な儀礼の様子を語る貴重な遺物」としている。
さらに別の住居からは炭化したノビルのようなネギ類と大豆やムカゴ、コメなど約1100点がまとまった状態で出土
した。住居内で保存していたとみられ、当時の食糧事情をうかがう貴重な資料という。
同財団は26日午前10時半から同遺跡を一般公開する。問い合わせは同財団つくば高須賀事務所

65 :
埴輪のはじまり:埴輪の起源など、学芸員らが講演−−橿考研講堂で27日 /奈良
ttp://mainichi.jp/area/nara/news/20110222ddlk29040612000c.html
県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で開催中の特別陳列「埴輪のはじまり−大和の特殊器台
とその背景」(毎日新聞大阪本社など後援)の研究講座が27日午後1時半から、橿考研1階講堂で行われる。
学芸員らが埴輪の起源について講演する。無料。
同博物館の安原貴之・学芸員と天理市教委文化財課の青木勘時・係長が講演。安原さんは、古代の吉備
(岡山県と広島県の一部)で、収穫物を供えるための壺とそれを載せた器台(きだい)が、葬送儀礼に使うために
墓に持ち込まれ、埴輪の起源となったことなどを話す。
青木さんは、古墳時代前期に大型前方後円墳などが集中的に造られた天理市の大和(おおやまと)古墳群で、
吉備から伝わった特殊器台が初期の埴輪へと発展していった状況について説明する。
また同日午前10時半から、博物館で学芸員による特別陳列の解説がある。

66 :
天皇陵の「初調査」24日に実施 成果は限定的?
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110224/imp11022400030000-n1.htm
宮内庁が応神天皇陵として管理する誉(こん)田(だ)御(ご)廟(びょう)山(やま)古墳(大阪府羽曳野市)への
立ち入り調査が24日に行われる。日本考古学協会など16団体に宮内庁が許可したもので、同庁によると、
学術調査を申し入れた民間の研究団体が天皇陵の古墳に入るのは、明治時代以降初めて。研究者からは
「画期的な一歩」との声も上がるが、墳丘には入れず、成果は限定的になる見通しだ。
応神天皇陵は5世紀の築造とされ、全長約420メートルで仁徳天皇陵に次ぐ大きさの前方後円墳。
今回立ち入れるのは、墳丘を囲む内堀の外側にある内堤(土手)のみだ。
宮内庁が学術調査のため陵墓(歴代天皇、皇族の埋葬地)の立ち入りを民間団体に許可したのは、平成20年の
奈良市の神功皇后陵(五(ご)社(さ)神(し)古墳)以降5カ所目で、天皇陵では初めて。宮内庁は19年に決めた
内部規定を基に、古墳は墳丘の1段目まで立ち入ることを許可してきた。
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110224/imp11022400030000-n2.htm
宮内庁陵墓課は「堀を渡る安全性が確保できれば、墳丘の調査を認める可能性がある」としている。だが、
“核心”部分の墳丘中心部については、「ほかの天皇陵を含め、今後も学術調査の許可は考えていない」
(宮内庁幹部)という。
日本考古学協会の陵墓担当理事を務める山田邦和同志社女子大教授(考古学)は「協会としては、
将来的には上まで登らせてほしいとお願いしている。墳丘の1段目までというのは、宮内庁と協会の
『妥協の産物』といえる」と話す。一方、「日本第2の巨大な古墳に少しでも近づける、大きな一歩と
前向きにとらえている」と期待を込める。
調査時間は3時間。発掘や遺物の持ち帰りは禁じられ、徒歩で1周約2・2キロの内堤を回り、形状や
遺物を目で確認する程度にとどまる見通しだ。
神功皇后陵の調査が行われた20年当時、日本考古学協会会長だった西谷正・九州歴史資料館長は
「当時の結果は、古墳の形の復元などに役立った。専門家が近くで見れば発見は多く、入ること自体に
意義がある。『お墓』であることを尊重しながら、今後も調査の積み重ねが大切だ」と話す。

67 :
【滋賀】
縄文晩期に農耕か 下羽田遺跡に竪穴住居、掘っ立て柱建物併存
ttp://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110224/CK2011022402000097.html
◆27日に現地説明会
東近江市上平木町の下羽田遺跡を発掘している県文化財保護協会は23日、縄文晩期末(2400年前)の
竪穴住居跡と掘っ立て柱建物が同時に存在した遺構が近畿地方で初めて見つかったと発表した。この時期
に農耕が始まった北九州で両方が存在した集落があり、掘っ立て柱建物は穀物の貯蔵庫とみられている。
専門家は「縄文晩期末から近畿でも農耕が始まっていた可能性があり、定説を数十年さかのぼることになる」
と評価している。
竪穴住居跡は直径が1〜5メートルの6棟。地面を半地下式に掘りくぼめた底に炭化物が出土し、炉を備えた
住居だったと判断した。
掘っ立て柱建物跡は、4〜6本の柱跡が一辺2〜4メートルの長方形に位置するよう5棟見つかった。柱穴が
竪穴住居の柱穴よりも数十センチ太く、倉庫として使われていた可能性が高い。地面を床とした平地建物とみられる。
縄文晩期は立地条件で建物形態が異なるのが一般的。立命館大の矢野健一教授(考古学)は農耕が始まった
地域では竪穴住居と掘っ立て柱建物の両方が存在した集落があることを踏まえ「弥生時代が始まる直前に、
近畿や瀬戸内地方まで稲作文化が広がっていても不思議ではない。今後、水田のあぜや米粒が見つかるかも
しれない」と期待する。
竪穴住居跡に近接して、地面を楕円(だえん)形や長方形に掘り遺体を埋めた土坑墓(最大長さ1・6メートル)が
12カ所、人骨を高さ50センチほどの土器に入れて埋葬した土器棺墓が2カ所見つかった。竪穴住居、掘っ立て柱
建物2〜3棟と墓10数基で、小規模な集落を形成していたとみられる。
現地説明会は27日午後1時半から。問い合わせは県文化財保護協会
ttp://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110224/images/PK2011022402100056_size0.jpg
縄文晩期末の竪穴住居と掘っ立て柱建物の両方が見つかった下羽田遺跡=東近江市上平木町の下羽田遺跡で

68 :
奈良県桜井市で最古の人物埴輪 4世紀末の茅原大墓古墳
ttp://www.47news.jp/CN/201102/CN2011022401000511.html
奈良県桜井市の帆立て貝形の前方後円墳・茅原大墓古墳(4世紀末、国史跡)で、盾を持った最古の人物埴輪が
見つかり、市教育委員会が24日、発表した。「盾持ち人」と呼ばれるタイプで、古墳を守護する役割があったとされる。
口元は笑っているようにも見える。
3世紀に誕生した初期の埴輪は円筒形で、人物埴輪は墓山古墳(5世紀前半、大阪府)などでの出土例が最古と
されていた。「埴輪研究最大の謎」と言われる人物埴輪の起源が数十年さかのぼることになり、今後の研究に影響しそうだ。
市教委によると、埴輪は壊れていて、数百点の破片で見つかった。復元できた大きさで幅50センチ、高さ67センチ。
同じ古墳から見つかった別の埴輪の特徴から年代を特定した。
円筒形の埴輪の上部を首のように細くし、前が編みがさのような形のかぶとをかぶった人物の顔を取り付けていた。
口は半円状に開き、頬は赤く塗られ、顎には入れ墨のような縦線があった。鼻は取れていたが、黒ずんだ三角形の
接着面が残っていた。笑顔には邪悪なものを威圧する意図があったという説もある。
盾は埴輪の前面を平らに加工し、その両側に張り出す形で四角い板を付けて表現。きれいなひし形や三角形の
模様をあしらっていた。
古墳の前方部と後円部の境目付近の周濠跡から見つかった。
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茅原大墓古墳から出土した最古の人物埴輪=24日、奈良県桜井市

69 :
つくば・高須賀中台東遺跡から県内初「鏡の土製模造品」
古墳前期、祭祀用か 県教育財団調査
ttp://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12984612821915
県教育財団は22日、つくば市高良田の高須賀中台東遺跡の発掘調査結果を発表した。竪穴住居跡25軒を含む
古墳時代前期の集落跡から、祭(さい)祀(し)用と見られる鏡の土製模造品などが出土。古墳時代前期の鏡の
土製模造品は県内初出土で、県内最古となる。
同遺跡は、同市西端に位置し、西側に小貝川が流れ、小さな谷津に囲まれた標高約19〜21メートルの島状の台地
にある。首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設事業に伴い、昨年7月から3月までの予定で調査している。
調査面積は約11942平方メートル。
鏡の土製模造品は竪穴住居内の炉跡の上から出土した。直径約3センチで、上部に三つの突起があり、一つには
ひもを通すと思われる穴がある。長さ約2センチの糸巻き状の土製模造品も見つかった。他の住居跡からは、食用
と思われるノビルや豆類、ムカゴ、米などの炭化した種子類1万1000点以上、高(たか)坏 (つき)などの土器類が
確認された。竪穴住居跡25軒のうち14軒が、意図的に焼かれてあった。
同財団は「鏡や糸巻き状の土製模造品などは、移住時の住居廃絶に関わる祭祀用と思われる。炉の上での出土
も県内初で、当時の具体的な祭祀方法の一端がうかがえる」と話している。
26日午前10時30分から一般公開される。問い合わせは同財団つくば高須賀事務所
ttp://www.ibaraki-np.co.jp/photo/12984612821915_1.jpg
古墳時代前期の鏡の土製模造品(右)と、糸巻き状の土製模造品=つくば市高良田の高須賀中台東遺跡

70 :
内堤に2列の円筒埴輪列 応神陵、初の立ち入り調査
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110224/art11022420200007-n1.htm
国内2番目の巨大前方後円墳で世界文化遺産暫定リストに入っている大阪府羽曳野市の応神天皇陵
(5世紀前半、全長約420メートル)で24日、日本考古学協会などの研究者が立ち入り調査を行った。
古代の天皇陵では初めて。墳丘を囲む堤(内堤)には円筒埴輪列が2列にわたって築かれた可能性が
高いことが分かった。
調査では、同協会などの考古学者ら16人が内堤部分を視察。内堤の前方部側で、円筒埴輪数本分の
底部が築造当時に据えられた状態で1列に並んでいたのを確認した。
さらに、別の場所では円筒埴輪の破片が散らばった状態で見つかったことから、内堤には2列にわたって
円筒埴輪が並べられた可能性が高いという。
天皇陵などの立ち入り調査は、宮内庁が平成20年から考古学者らを対象に許可。これまでに実施された
神功皇后陵(奈良市)などでは、墳丘の縁辺部分まで入ることができたが、今回は墳丘に行くには水を
たたえた周濠があるため、安全上の理由で内堤部分の調査となった。
調査を行った山田邦和同志社女子大教授(文化史学)は「古墳の巨大さを改めて実感した。今後、墳丘へ
の立ち入りも期待したい」と話した。
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/110224/art11022420200007-p1.jpg
応神天皇陵で、墳丘(左奥)の対岸にある堤部分を立ち入り調査する研究者ら=24日、大阪府羽曳野市(宮内庁提供)

71 :
東野土居遺跡:県内初、鋸歯文彫り壺棺 弥生末期、幼児の墓か−−香南 /高知
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20110219ddlk39040603000c.html
香南市野市町の東野土居遺跡から、弥生時代末期(3世紀)とみられる壺棺5基などが発見されたと、
県埋蔵文化財センターが18日発表した。そのうちの1基には
銅鐸などによく使用されるノコギリ状の模様「鋸歯文(きょしもん)」が
彫られており、こういった模様の壺棺が見つかるのは県内では初めてという。
同センターによると、壺棺は最も大きいもので高さ約70センチ、幅約60センチ。
竪穴建物跡が密集する区域の東側近くで見つかった。どれも1歳前後の子供の墓と見られるという。
最も一般的な弥生土器を使用しており、鋸歯文は上胴部に描かれていた。
同センターは「(鋸歯文は)まじないのような意味合いが強く、
それだけ子供を大切にしていたのではないか」とみている。
南国安芸道路の建設工事に伴い約1万4000平方メートルを調査していた。
 また、弥生時代末期−古墳時代初頭(3世紀)と古墳時代後期(6世紀ごろ)
とみられる竪穴建物跡22軒を新たに確認した。総数が80軒を超え、
県内で最も大きい集落地の可能性が強まった。

72 :
鎧、埋蔵銭が出土 鎌倉の下馬遺跡3月5日に見学会
ttp://sankei.jp.msn.com/region/news/110225/kng11022522180006-n1.htm
神奈川県鎌倉市下馬(げば)周辺遺跡(同市由比ガ浜2)で中世の鎧(よろい)や埋蔵銭などが見つかり、
発掘調査を手掛ける「かながわ考古学財団」が3月5日、現地で見学会を開催する。
鎧は、竪穴(たてあな)遺構の床面に掘られた穴(直径約80センチ)から出土した。埋められた状態で発見され、
全体の形状は判明していないが、歩兵用とみられる。腰を覆う草摺(くさずり)や、胸板と考えられる部分など
大半が残った珍しいケースという。
鎌倉時代から戦国時代にかけて地中に大量に埋められた銭を埋蔵銭と呼び、同遺跡では竪穴遺構の床面の穴
(直径約30センチ)からひもでつづった状態で出土した。
下馬周辺遺跡は、主に鎌倉時代から室町時代にかけての遺跡。同財団が昨年6月から発掘調査を実施し、
これまでに竪穴遺構36軒と土坑(どこう)250基、井戸址(いどし)3基と土器や陶磁器などを発見した。
見学会では、出土した遺物と竪穴遺構や土坑などが見られる。
開催時間は午前10〜11時と午後1時半〜2時半の2回。小雨決行。荒天の場合は6日に実施する。
前日までの問い合わせは同財団野庭出土品整理室
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鎌倉市下馬周辺遺跡から見つかった中世の鎧(かながわ考古学財団提供)

73 :
象鼻山「聖地の可能性高まる」 古墳群調査結果発表
ttp://mytown.asahi.com/areanews/gifu/NGY201102260025.html
養老町北部にある象鼻山古墳群の調査を進めている同町教育委員会が、51、53号墳の調査結果を発表した。
2基の古墳は5世紀後半(古墳時代中期)の築造とわかり、これまで調査した古墳の築造期から見て、「300年
以上の期間、同じ場所に過去の墓を避けるように築造されており、象鼻山が聖地として認識されていた可能性が
高まった」という。
51、53号墳は、象鼻山の東端に位置する。ともに直径約14メートルの円墳で、筒形器台といわれる大型の
須恵器などが出土した。山頂部や周辺のほかの古墳が、造成をして盛り土をしているのに対し、斜面の一部を
削るという土木量を抑えた築造法をとっているのが特徴という。
過去に調査した古墳の築造は2世紀中ごろから3世紀後半だったが、今回の51、53号墳が5世紀後半だった
ことで、「3世紀後半以後にも造墓があったことがわかった。伊勢湾周辺地域で弥生時代から古墳時代にかけ、
同じ場所に造墓が集中するのは珍しい」という。
象鼻山古墳群では、70基の古墳が確認されている。そのうち、今回の2基を含め10基について発掘調査をしてきている。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/NGY201102260024.jpg
調査が進められる象鼻山53号古墳=養老町橋爪

74 :
松田遺跡:竪穴式住居跡や土坑確認 古墳時代「大規模な集落が存在か」 /京都
ttp://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110226ddlk26040626000c.html
◇大山崎
府埋蔵文化財調査研究センターは、大山崎町円明寺松田、下植野一丁田の松田遺跡で、古墳時代の竪穴式住居跡
5基や土坑などが見つかったと発表した。古墳時代の竪穴式住居跡はこれまでの周辺の調査でも見つかっており、
同センターは「この付近に大規模な集落が存在したことをうかがわせる成果」としている。
調査は府道新設改良工事に先立って実施された。昨年の調査地の東側の1トレンチ(試掘溝)650平方メートルと、
その南に位置する2トレンチ500平方メートルの計約1150平方メートルを調査した。
1トレンチの竪穴式住居跡は5メートル×6・2メートル、深さ0・8メートルと大型で、北東隅には貯蔵穴と見られる跡が
あった。また幅1・7メートル、深さ0・5メートルの溝からは13世紀の中国の陶磁器の一部なども見つかった。2トレンチ
でも古墳時代の竪穴式住居跡4基が見つかった。
現地説明会は26日午前10時半から開かれる。問い合わせは現地事務所

75 :
かめ棺墓列交差、クニへの過程 吉野ケ里遺跡で確認
ttp://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1841938.article.html
国指定特別史跡「吉野ケ里遺跡」(神埼市郡)で、北側丘陵の尾根に沿って南北に走る甕棺(かめかん)墓列に、
別の墓列が斜めに交差していることが確認された。墓列の交差は全国的にも極めて異例で、斜めの墓列は先に
形成されていた南北の墓列を避け、またぐように配置されていた。このため佐賀県教委は「二つの墓列を整備
したのは、共存か友好関係にある集団だった」と推定。斜めに走る墓列が形成されたころは北墳丘墓ができた
時期と重なることから、地域の中心的なムラと衛星集落が神聖な墓域の共有を通じて結束を深め、クニに拡大
していく過程を示す貴重な史料とみて調査を進めている。
今回確認された墓列は遺跡北側の「北墳丘墓」から北北西約500メートルの丘陵部。南東から北西方向に
約2メートルの幅で約130メートル伸び、大小96基の甕棺が埋まっていた。甕棺の形式などから紀元前2世紀
から同1世紀に形成されたとみられ、同3世紀ごろから形成された南北約600メートル連なる甕棺墓列と、南東
から約40メートルの地点で交差している。
墓列は親族や社会階層などクニやムラの同じ集団で構成され、埋葬場所はあらかじめ決められていた。
交差した理由は判然としないが、南東から北西方向に伸びる墓列がいったん途絶え、南北の墓列をまたぎ、
再び延びている。交差地点では先に形成された墓列の甕棺を破壊した形跡もないことから、両勢力が友好関係
にあった周辺のムラや共存していた同じクニの人々を埋葬したと推測される。
墓列の形成と、当時の支配者が埋葬されていた北墳丘墓の築造は同じ時代とみられ、吉野ケ里遺跡がムラから
クニへ発展していく時期と符号するという。同教委では甕棺の形式や人骨の形質などを精査、墓列が交差した意味
などの解明を進める。
■九州大学大学院の溝口孝司准教授(考古学)の話 
今回確認された墓列は、吉野ケ里集落外に伸びる道沿いに作られているようで、周辺から墓参に訪れていたことが
うかがえる。墓列の交差は極めて珍しく、墓地と地域社会の構造、当時の精神世界の研究発展につながると期待される。

76 :
1300年前のうんちも展示 平城宮・京跡発掘速報展
ttp://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201103010121.html
平城宮・京跡の2009、10年度の発掘調査で出土した瓦や木簡などを展示する「発掘速報展」が、
奈良市の平城宮跡資料館で開かれている。5月8日まで。
中からカサゴの一種の魚の骨が見つかって話題になった興福寺南大門跡出土の鎮壇具のつぼや、
トイレットペーパー代わりの細長い板「籌木(ちゅうぎ)」とともに平城宮跡で見つかった1300年前の
うんちなど、珍しい遺物も盛りだくさん。発掘現場の風景が大型スクリーンに次々に映し出され、
臨場感もたっぷりだ。毎週金曜午後2時半から、発掘担当者による解説がある。
午前9時半〜午後4時半。月曜休み。入場無料。問い合わせは奈良文化財研究所連携推進課へ。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/OSK201103010120.jpg
平城宮跡で見つかった1300年前のうんちとトイレットペーパー代わりの籌木=奈良市の平城宮跡資料館

77 :
慶大新校舎予定地で弥生の大集落跡発掘か/横浜
 慶応大学矢上キャンパス(横浜市港北区日吉)の新校舎建設予定地にある矢上台遺跡から、弥生〜奈良時代に
建てられた竪穴住居跡60軒が見つかったと、発掘に当たった同大矢上地区文化財調査室が3日、発表した。
このうち弥生時代のものは30軒近くあり、副室長の安藤広道准教授(考古学)は「弥生の集落遺跡としては
全国的にも非常に大規模で、全体で千軒以上が密集していたと推定できる」としている。
 発掘されたのは弥生後期から奈良時代(1〜8世紀)にかけた竪穴住居群。新校舎建設予定地の南斜面で、
広さは矢上台遺跡(約9万平方メートル)の一部に当たる約1500平方メートル。かねて遺跡の存在は予想
されていたが、校舎建設の前に記録に残そうと、調査は2010年4月から行われていた。
 矢上台遺跡は多摩川と鶴見川に挟まれた高台にあり、東京湾にも近い場所にある。「卑弥呼が活躍した
弥生終末期のこの地は、水運など交通の便が良く生活しやすい場所で、多くの人が集まりました」と安藤准教授。
 竪穴住居群は幾層にも重なっている。数百年の時代を経て建て替えられ、加えられた跡があり「(この発掘で)
巨大集落ができる過程の一端が明らかになりつつあります。南関東地域では珍しい史料」。
 一方、ひときわ大きい住居跡も発掘された。安藤准教授は「広さは約100平方メートル。10平方メートルから
20平方メートルが平均だった時代に、大きな家を造ることができる有力者が生まれ始めたこともうかがえます」と話す。
 このほか、青銅製の指輪や弥生式土器、土師(はじ)器(き)、須恵器などが出土した。5日午前10時から、
同キャンパスで現地説明会が行われる(雨天中止)。問い合わせは、矢上キャンパス警備室電話045(566)1474。
矢上台遺跡の発掘調査をする学生たち=横浜市港北区の慶応大学矢上キャンパス
http://news.kRoco.jp/common/user/news/photo/1/110304/7_000200.jpeg
http://news.kRoco.jp/localnews/article/1103040001/

78 :
水鳥形埴輪 また8体/朝来・池田古墳
ttp://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001103030001
県立考古博物館は2日、朝来市和田山町平野の池田古墳(5世紀前半)で、祭祀(さい・し)に使われたとみられる
水鳥形埴輪(はに・わ)8体が見つかった、と発表した。同古墳ではこれまでに計15体の水鳥形埴輪が出土。
応神陵(大阪府羽曳野市)と並んでいたが、今回の8体で全国最多となった。
水鳥形埴輪は、古墳東側の周濠の底や葺石の裾付近から見つかった。ほぼ完全な形のものも初めて見つかり、
台座を含めた高さ48センチ、幅21センチ、長さ44センチ。羽根の部分などが細かく表現されているほか、他の
埴輪とは色や土の質が違い、奈良県広陵町の巣山古墳で見つかったものと似ているという。
他に出土した船形や家形などの埴輪の造形も優れているといい、埴輪に詳しい花園大学の高橋克寿教授(考古学)
は「水鳥、家、船などの埴輪は一流のもので、直接運ばれるか大和や河内の工人が携わったものに間違いなく、
池田古墳の重要性は高い」と話している。
池田古墳は全長141メートルの前方後円墳で、但馬や丹波、丹後地方を治めた有力者の墓とされる。水鳥形埴輪を
使った祭祀は、大和や河内の大型古墳と共通していることから、被葬者は大和朝廷から派遣されて但馬などを治めて
いた人物だった可能性もあるという。
現地説明会は5日午後1時半から。現場はJR和田山駅の南西。問い合わせは現場事務所へ。

79 :
全国初、完全な形の水鳥形埴輪 朝来の池田古墳
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003839800.shtml
庫県立考古博物館(播磨町大中)は2日、朝来市和田山町平野にある県内で4番目に大きい前方後円墳「池田古墳」
(全長141メートル)で、完全な形の水鳥形埴輪1体が全国で初めて見つかった、と発表した。これまでに発掘された
鳥形の埴輪は計23体となり、一つの古墳から見つかった数としては全国最多。
完全形の埴輪は高さ48センチ、幅21センチ、長さ44センチ。土台の上に作られており、土台部分を埋めて飾って
いたらしい。くちばしの鼻の穴や羽毛の線、折りたたんだ翼の形状まで、極めて精巧に作られており、ほかの埴輪と
一線を画している。また、土の色が円筒埴輪や家形埴輪と違って茶色っぽい。
発掘に当たった同博物館の渡辺昇学芸委員は「黒雲母などが含まれていることなどから、但馬で作られたものではない。
巣山古墳(奈良県広陵町)で見つかった水鳥形の埴輪とよく似ており、中央で作って但馬に運んだのでは」と推測している。
■高橋克寿花園大学文学部教授の話
水鳥や家、盾、船などの埴輪は一流のもの。大和河内から直接運ばれたか、そこの技術者が携わったものに違いなく、
池田古墳の重要性は高い。
完全な状態で見つかった水鳥形埴輪=朝来市和田山町平野
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/03840711.jpg
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/03840712.jpg

80 :
                           
■中国語と呉系倭語の関係
                           
 中国語の中に、倭語の残影が見える。
 中国語で、夜をイェ(YE)と発音するが、 古代 日本語(倭語)では、夜(よる)をヨ(YO)とか、
ヤ(YA)と発音。 音が似ている。
 中国語では泥をニィ(NI)と発音するが、古代日本語では土をニ(NI)と言った。
また、中国語では気をチィ(CHI)と発音するが、古代日本語では霊をチ(CHI)と言った。
 中国語では土をトゥ(TU)と発音するが、古代日本語では処をト(TO)と言った。
 また、中国語では「良い」という意味の『好』の字をハオ(HAO)と発音するが、古代日本語では「優れている」
「他よりも立派だ」「特別に良い」という意味の『秀』の字をホ(HO)と言った。
 これらの言葉の音と意味の類似は、もちろん偶然ではない。中国語の中に大陸南部や山東半島で使われていた
倭語の単語が残っているのである。
 中国語の気(チィ)と古代日本語の霊(チ)は、漢字は異なるが意味は近い。古代シナの倭人が語った気(チィ)を、
古代日本人は霊(チ)として理解したのだ。
 もちろん、中国語と日本語はまったく系統が異なる言語である。中国語は北方遊牧民の言葉である漢語が発展したものであり、
日本語は、古代シナ大陸南部の農耕民族の間で話されていた『倭語』が発展した言語である。
 しかし、3世紀から10世紀にかけて、シナ北部の漢人・鮮卑勢力が南下して、大陸南部の倭人勢力を支配下に置いた。
そして北方遊牧民と南方農耕民=倭人(呉人)が混血することで、現在の中国人の原型となる民族が形成されたわけであるが、
その過程において、倭人が話していた倭語の単語の一部も漢語の中に吸収されていき、それにより中国語の基本型が生まれたのだ。
 そのため、漢語と倭語は異なる言語ではあるけれども、中国語の中に古代倭語の言葉がわずかに残っているのだ。


81 :
平城宮朱雀門近く、六角形の井戸発見…儀式用か
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110306-OYT1T00427.htm?from=navlp
平城宮(奈良市)の正門・朱雀門近くで、奈良時代(8世紀)の井戸跡(約2・4メートル四方)が見つかったと、
奈良文化財研究所が3日、発表した。
宮内を除く平城京で出土した井戸としては最大で、石を敷いて装飾する豪華な造り。同研究所は「非常に大切な
場所にあり、平城宮に入る前、水を使った儀式が行われていた可能性もある」としている。
井戸跡は、門の南東約130メートルで、ヒノキ材とみられる枠や横板が出土した。上段が正方形、下段が1辺
約1メートルの六角形の2段構造で推定の深さは3・1メートル。上段と下段の境目には、拳大の石を敷き詰めていた。
井戸内で見つかった土器などから、奈良時代末には埋められたらしい。
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110306-696857-1-L.jpg
平城宮朱雀門の近くで見つかった木製井戸跡

82 :
遺跡見学会:橿考研が12日 箸墓や東殿塚古墳など、学芸員の解説で歩く /奈良
ttp://mainichi.jp/area/nara/news/20110308ddlk29040662000c.html
◇箸墓や東殿塚古墳など10基
県立橿原考古学研究付属博物館(橿原市畝傍町)で開催中の特別陳列「埴輪のはじまり」(毎日新聞大阪本社など後援)
の関連イベント「遺跡見学会」が12日に開かれる。箸墓(はしはか)古墳(桜井市)や東殿塚古墳(天理市)など10基の古墳
を学芸員の解説を聞きながら約9キロを歩く。無料。
集落の祭祀(さいし)で使われた土器が、葬送儀礼に使うために墓へ持ち込まれたことが埴輪の起源とされる。見学する古墳
では、祭祀土器の面影を残す「特殊器台(きだい)」や、最も古く出現した「円筒埴輪」が出土している。
集合は午前10時、JR長柄駅(天理市兵庫町)。波多子塚古墳(全長140メートル、3世紀後半)↓西殿塚古墳(同230メートル、
3世紀後半)↓東殿塚古墳(同139メートル、同)↓中山大塚古墳(同132メートル、同)↓行燈山古墳(同242メートル、
4世紀前半)↓渋谷向山古墳(同300メートル、4世紀後半)↓箸墓古墳(同280メートル、3世紀後半)などを巡り、午後4時半
ごろJR巻向駅(桜井市辻)で解散。
申し込み不要。少雨決行で昼食持参。問い合わせは同博物館

83 :
キトラ古墳の極彩色壁画、デジタル画像に
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110309-OYT1T00945.htm?from=navlp
文化庁は9日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の壁画のはぎ取り前に、石室内を撮影した
デジタル画像を収めた「キトラ古墳壁画フォトマップ資料」(A4判・51ページ)が完成したと発表した。
極彩色壁画の全容を後世に残すための記録。非売品で、近く都道府県立図書館などで閲覧できる。
奈良文化財研究所が2004年にデジタルカメラで撮影した約1200カットを合成、レンズのゆがみが出ないよう
コンピューター処理した壁画の画像計26点を収録した。資料には石室内を撮影した動画(17分間)入りの
ブルーレイディスクも添付。奈良県橿原市の同研究所都城発掘調査部で10日〜5月末の平日午前9時〜午後4時半、上映する。
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110309-759359-1-L.jpg
キトラ古墳の極彩色壁画を収録したフォトマップ資料

84 :
大型の甕棺墓出土 大刀洗の高樋辻遺跡
ttp://mytown.asahi.com/areanews/fukuoka/SEB201103090068.html
大刀洗町高樋の高樋辻遺跡(弥生時代中期)で、大きな土器を使った甕棺墓(かめかんぼ)など共同墓地が
新たに見つかり、町教委が9日、報道陣に公開した。12日午前10時半から一般向けの現地説明会を開く。
遺跡は大刀洗川左岸の丘にある。2009年度の調査で、2千年以上前の甕棺墓28基などが密集して出土した。
今年度は2地点計260平方メートルを調査。新たに甕棺墓26基や木棺墓などの墓を少なくとも14基確認した。
最大のものは長さ3.5メートル、幅2メートル、深さ1.5メートルの穴の中に、高さ80センチ、直径80センチの
素焼き甕二つの口を合わせて埋められていた。高さ40センチほどの子ども用の甕も出土した。
町教委のこれまでの調査で150基ほどの墓が一帯にあるとみられる。副葬品などは見つかっておらず、支配層
ではない民衆の共同墓地の可能性が高いという。
町教委生涯学習課の赤川正秀文化財係長は「歴史は教科書の中にだけあるのではない。多くの人に見てもらい、
郷土の歴史を目に焼き付けてほしい」と話す。現地説明会の問い合わせは町教委の文化財係へ。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/SEB201103090067.jpg
甕棺について説明する職員=大刀洗町高樋

85 :
>>1

86 :
千足古墳の装飾石材取り出しへ 岡山市教委保存委が方針
ttp://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011031200262494/
国史跡・千足(せんぞく)古墳(岡山市北区新庄下)の全国的にも貴重な石室装飾の劣化が進んでいる問題で、
岡山市教委の同古墳保存整備委員会(座長・間壁葭子(よしこ)同市文化財保護審議会長)は11日、装飾が
彫刻された石材を石室から取り出す方針を決めた。石室装飾を保存処理のために古墳から切り離すのは、
奈良県の高松塚古墳、キトラ古墳に次ぐ全国3例目の異例の事態となる。
同古墳は、吉備最大の造(つくり)山(やま)古墳を盟主とする造山古墳群の一つで、石室内の砂岩製の切り石
(幅1・5メートル、高さ0・5メートル)に古代文様・直弧文(ちょっこもん)が刻まれている。2009年10月、石室内
にたまった水などの影響で、石材の表面がはがれて装飾が一部破損したことが判明。市教委は昨年7月、
同委を設置し対策を検討していた。
同委の会合は岡山市内であり、考古学や保存科学の専門家ら委員8人と、オブザーバーとして文化庁の調査官
2人が出席。市教委側は石材の風化が急速に進んでおり、最悪の場合、装飾全体が一度にはがれ落ちることも
考えられる危険な状態にあると報告した。
ttp://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2011/03/12/2011031200262494-1.jpg
貴重な装飾文様がはく落した千足古墳石室。現在も劣化は進んでいるという=2009年10月

87 :
古墳時代のひつぎ、ほぼ完全な形で出土 奈良
ttp://www.asahi.com/culture/update/0310/OSK201103100126.html
奈良市西大寺赤田(あこだ)町の病院敷地で、古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀中頃)の陶製のひつぎ(陶棺)2点が
ほぼ完全な形のまま並んで出土したと、市埋蔵文化財調査センターが10日発表した。
陶棺は、長さ2メートル〜2メートル10センチ、幅45センチ〜60センチ、高さ60センチ。側面には格子状の模様があり、
底部に円筒形の脚が数十個付いていた。棺は土で埋まり、副葬品の土器やつぼ計15点がそばにあった。大和朝廷で
埴輪(はにわ)作りをした土師氏(はじし)一族の夫婦や兄弟姉妹の墓の可能性が高いという。
土師氏は天皇家の古墳造営もした技術者集団で、近隣は土師氏の居住地のひとつ。
現地説明会は13日午前10時から。近鉄大和西大寺駅の北西約1.2キロ。問い合わせはセンターへ。
ttp://www.asahi.com/culture/update/0310/images/OSK201103100146.jpg
公開された赤田横穴墓群内にある5号墓の陶棺。並んで出土するのは大変珍しいという=10日午後、奈良市
ttp://www.asahi.com/culture/update/0310/images/OSK201103100147.jpg
公開された赤田横穴墓群内にある5号墓の陶棺。並んで出土するのは大変珍しいという=10日午後、奈良市
ttp://www.asahi.com/culture/update/0310/images/OSK201103100144.jpg
公開された赤田横穴墓群=10日午後、奈良市西大寺赤田町

88 :
日向遺跡:墨書き土器出土 底に「日奈田」の文字−−常陸太田 /茨城
ttp://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20110310ddlk08040102000c.html
県教育財団は9日、常陸太田市亀作町日向(ひなた)の「日向遺跡」を発掘調査した結果、遺跡名にもなっている
字名「日向」を意味する「日奈田」と墨書きされた平安時代の土器が出土したと発表した。県内3例目で、同財団は
「一番大きな成果」と話した。
遺跡は、昨年6月から調査が続いており、面積は7550平方メートル。古墳時代前期から平安時代の遺跡と見られ、
今回調査で古墳時代中期の古墳1基と、140軒余りが重なり合う竪穴住居跡を確認。周溝の一部も見つかり、
同財団は「当地は人々の交流が密な拠点集落だった」と分析する。古墳は墳丘部は直径30メートルにも及ぶ大型で、
円墳か前方後円墳と想定される。横穴式石室を持つ古墳1基の存在も明らかとなり、遺跡周辺にいくつかの古墳が
築かれていた可能性があるという。
「日奈田」の文字は、墨書土器の底の部分に赤外線カメラでくっきり確認された。外部から持ち寄られたと思われる
「緑釉(りょくゆう)陶器」なども多数見つかった。
12日午前10時半から現地説明会を開く。問い合わせは同財団常陸太田事務所へ。

89 :
443 名前:出土地不明 [sage] 投稿日:2009/04/22(水) 18:25:59 ID:vj1H1ki6
実際には「与那国島海底遺跡」と呼称される海底地形からは
《それが人工のものであることを示す証拠はいっさい見つかっていない。》
階段状の地形にしても溝や縦穴にしてもその成因は自然の風化や潮流の影響で説明できるものばかりである。
・・・「与那国島海底遺跡」の表面は平坦でなく東南方向に10度から15度傾いている。
地上であれば坂と判断される地形である。
またこの傾斜は与那国島の下を通る八重山断層群に沿って形成されており
その地質学的年代は《200万年以上前(現世人類は存在していない)》にさかのぼる。
・・・「与那国島海底遺跡」が自然の風化の産物であることを示す傍証はその近くにある。
それは与那国島の海岸沿いに延々と続くサンニヌ台という崖だ。
『謎解き超常現象―ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)』彩図社より抜粋

90 :
造山古墳の周濠跡、墳丘全体に 岡山大チームが確認
ttp://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011031723141177/
吉備最大の前方後円墳、造山(つくりやま)(岡山市北区新庄下、国史跡)の周辺部を発掘調査している岡山大考古学研究室は
17日、墳丘を巡る周濠(ごう)跡を新たに確認したと発表した。
同古墳は5世紀前半の築造で墳長約350メートル。同研究室の前年度の調査で、後円部東側と前方部南側の2カ所から周濠が
初めて確認されていた。
今回は前方部東側の試掘溝から、人工的に掘りくぼめた濠(ほり)跡が出土。現存する深さは約40センチで、推定幅は約30メートル
になるという。調査を指揮する新納(にいろ)泉教授は「周濠は墳丘全体に巡ることがほぼ確定し、畿内の大王墓と遜色ない規格だと
再確認した」と話している。
19日午後1時から同4時まで、現地説明会を開く。問い合わせは同大吉備文化共同利用施設

91 :
立烏帽子姿の木製「形代」
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tottori/news/20110316-OYT8T00927.htm
鳥取の高住平田遺跡
鳥取市の湖山池南側にある高住平田遺跡で、立烏帽子(たてえぼし)姿の貴族の横顔をかたどった木製の
厄払い用人形「形代(かたしろ)」(縦12センチ、横5センチ)が見つかり、県教育文化財団が16日発表した。
烏帽子の特徴から平安後期(12世紀後半)〜鎌倉時代(14世紀前半)に使われたとみられる。同財団は
「立烏帽子姿の形代は珍しく、ここまで丁寧に表情が刻まれたのも例がない。かなりの権力者が使用した
のでは」としている。
山陰道整備に伴って飛鳥〜鎌倉にかけての水路の跡など約3100平方メートルを昨年に調査。首から
下が欠けた形代1体が見つかった。
形代は、7世紀後半から厄払いに使われ、息を吹きかけたり体にこすりつけたりした後に川に流していたという。
立烏帽子は、天皇に会うことが許された殿上人(てんじょうびと)以上の位にある貴族だけが着用していた。
鋤柄(すきがら)俊夫・同志社大教授(中世考古学)の話「宮中に通じるほどの高官がまじないに使ったと考える
のが妥当。朝廷が日本海に開けた湖山池を海外交易の拠点として、重要人物を配置していたことがうかがえる」
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20110316-875607-1-L.jpg
鳥取市の高住平田遺跡で出土した烏帽子姿の形代

92 :
本高弓ノ木遺跡:国内最古の土のう出土 古墳時代前期−−鳥取 /鳥取
ttp://mainichi.jp/area/tottori/news/20110319ddlk31040707000c.html
県教育文化財団は18日、鳥取市本高の本高弓ノ木遺跡で古墳時代前期(4世紀)の「土のう」が出土したと発表した。
土のうの痕跡は3世紀後半ごろの発掘例があるが、そのものの出土では国内最古という。財団は「古墳時代前期の
土木技術の水準の高さを示している。これだけ保存状態が良いものは希少」としている。
約10個が南北に離れた2カ所で斜面に積み上げられる形で発見された。最大のもので長さ75センチ、幅35〜40センチ、
厚さ6〜8センチ。イネ科植物をむしろのように編み、中に土を入れてひもで縛っていたこともみてとれるという。
水利施設の一角から出土した。引き入れた水の量や流れを調整するため、あるいは施設の基礎を築くために
使われたと考えられるという。
古代土木に詳しい大阪府立狭山池博物館の小山田宏一学芸員は「土の包み方など全体像がキッチリと分かるものは
珍しく、極めて貴重。当時既に完成された土木技術が存在していたことが垣間見える」と話している。
最も保存状態が良かった土のうが29日から5月29日まで県立博物館で一般公開される。問い合わせは同館へ。

93 :
大田原・下侍塚古墳 地震で数本の亀裂
ttp://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110328/484004
【大田原】東日本大震災で、国指定史跡の湯津上の下侍塚古墳76 件の墳頂付近の一角に、数本の亀裂が入っている
ことが28日までに、同古墳の保全活動に取り組む「松守会」の調査で分かった。約320年前の江戸時代前期に調査した
際、出土品を埋め戻した部分とされる。現在はビニールシートで覆っているが、今後修復を迫られるのは必至だ。
5世紀初頭に築造された下侍塚古墳は湯津上、佐良土地区にある古墳群(8基)の一つで、全長84メートルの前方後方墳。
古墳全体を130本ほどのアカマツが覆うように植栽され、「日本一美しい古墳」ともいわれる。
亀裂が見つかったのは、高さ9・4メートルの後方墳頂のほぼ中央で、約5メートル四方に数本の亀裂が入った。
長いものは10メートル以上に及び、深さも最深部で80センチ前後とされる。
この部分は1692年、水戸光圀が地元の庄屋らに命じて国内で初の学術的な発掘、調査を行った場所とみられる。
貴重な鏡や大刀柄頭などが出土。記録保存した後、箱に納めて埋め戻したほか、墳丘の崩落を防ぐため樹木を植樹した。
だが300年以上経過し、墳頂一帯はくぼみが目立っていたという。
ボランティアで古墳76 件の清掃やこも巻き作業をしている同会の平野精一会長は「余震が収まってから、行政など
関係団体と対応策を相談しなければならないだろう」と話している。

94 :
被葬者論争、世界遺産登録…岐路に立つ天皇陵調査
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/110308/art11030821000006-n1.htm
古代の天皇陵として初めて2月に研究者の立ち入り調査が行われた応神(おうじん)天皇陵(大阪府羽曳野市)など、
皇室の先祖の陵墓調査が大きな転換期を迎えている。世界文化遺産暫定リスト入りした応神天皇陵を含む百舌鳥
(もず)・古市(ふるいち)古墳群(大阪府)は、今後、ユネスコ側の調査をどこまで認めるのかが焦点に。一方、昨年末
の牽牛子(けんごし)塚古墳(奈良県明日香村)の発掘調査では、斉明(さいめい)天皇陵(同県高取町)の被葬者の
信憑(しんびょう)性が揺らぐ結果になった。
■初の調査
「古代史を考える上で巨大前方後円墳の調査は極めて重要。宮内庁の管理に抵触しない範囲で、貴重な情報が得られた」。
日本考古学協会などによる2月24日の応神天皇陵の立ち入り調査で、山田邦和同志社女子大教授は意義を強調。発掘や
測量はできなかったものの、墳丘を囲む堤(つつみ)部分で埴輪(はにわ)などを確認した。
墳丘調査は、周濠(しゅうごう)を渡る小舟が老朽化し安全性に問題があるとの理由で見送られたが、宮内庁は「さらに検討する」
としており、研究者が天皇陵本体に立ち入ることも現実味を帯びている。
■調査の限界
ただ、天皇陵調査が“解禁”されたとはいえ、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に正式登録されるには、ユネスコの諮問機関の
イコモス(国際記念物遺跡会議)担当者が現地を調査する必要がある。しかし、宮内庁は「(石室のある)墳丘の上までは受け
入れられない」とする。
文化庁によると、ユネスコ側は条件付き調査に一定の理解を示しているというが、正式には何も決まっておらず、皇室の祖先の
墓としての尊厳が守られるか不安も残る。宮内庁陵墓課の福尾正彦陵墓調査官は「皇室が継続しておまつりをし、尊厳と静謐
(せいひつ)、安寧(あんねい)が損なわれないよう管理するのが役目」と強調。現在研究者への立ち入りを認めている墳丘最下段
までを基準とする意向を示した。
■信憑性に疑問
一方、宮内庁管理の斉明天皇陵については、約2・5キロ北東にある牽牛子塚古墳の発掘を機に、被葬者への疑問が強まった。
日本書紀の記述通り、墳丘の前から斉明天皇の孫娘、大田皇女(ひめみこ)の墓とみられる石室が見つかったためだ。
「これだけ発掘成果と日本書紀がぴったり合うとは。宮内庁も思い切って斉明天皇陵の指定を見直した方がいい」。森浩一・
同志社大名誉教授(考古学)は指摘する。 
宮内庁が管理する斉明天皇陵は現在、墳丘の前に玉砂利が敷かれ、正面の鳥居が厳粛さを保つ。「毎日巡回し、落ち葉が
あれば清掃しています」と同庁職員。斉明天皇と、合葬された娘の間人(はしひとの)皇女のそれぞれの命日にあたる8月27日
と3月19日には、正辰(しょうしん)祭が営まれ職員らが参列する。
福尾陵墓調査官は、日本書紀の記述などをもとに斉明天皇陵の正当性を指摘する。「万民をあわれむために、石槨(いわき)の
役(えだち)=石室造営の労役=は起こさない」と記された斉明天皇の遺言に着目し、「牽牛子塚古墳の巨大な石室(推定70トン)
は、人民に大きな負担を強いたはず」と話し、牽牛子塚古墳が斉明天皇の墓だったとの説を否定する。
ただ「百%と言えないまでも、被葬者名を記した墓誌など確実にこれ以外にあり得ないものが出てきたときは見直しも検討する」と
述べ、今後に含みを持たせた。

陵墓と陵墓参考地 全国に896あり、現在の場所に指定されたのは大半が江戸時代末。幕府が尊皇機運の高まりを受け、
日本書紀や伝承をもとに定めた。ただし、天武・持統天皇陵は、当初は奈良県橿原市の丸山古墳だったが、明治時代に
野口王墓(同県明日香村)の盗掘記録が見つかり、記載内容が両天皇を葬った状況と合致したため、明治14年に現在の
野口王墓に変更された。

95 :
昔の天皇の墓が多少間違えていても大多数の国民にとってどうでもいいことだよな。

96 :
古墳2基を発見 勾玉や管玉副葬品/淡路
ttp://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001104010004
南あわじ市湊里の丘陵地から、古墳時代後期(7世紀前半)の大小2基の古墳が見つかり、同市教委が31日に発表した。
2基とも横穴式石室があり、中から被葬者が身につけていたと見られるガラス玉や勾玉(まが・たま)、管玉(くだ・たま)など
の副葬品が見つかった。市教委は、当時この地域を治めていた首長一族の墳墓と見ている。
圃場(ほ・じょう)整備に伴い、市教委が2月から約200平方メートルを発掘調査して見つけた。市教委は、地名から北側の
大きめの古墳を「里丸山(さと・まる・やま)1号墳」、南側に隣接する一回り小さい古墳を「里丸山2号墳」と名付けた。
2基とも墳丘は削り取られていたが、1号墳は墳丘を取り囲む溝の形などから直径7〜8メートルの円墳か四角い方墳、
2号墳は直径5〜6メートルの円墳らしい。2基とも、壁面に50センチ前後の石を「コの字」に並べた横穴式石室があった。
石室の大きさは確認できているだけで、1号墳が幅約90センチ、長さ約4メートル、2号墳は幅約90センチ、長さ約2・9
メートルある。
1号墳の石室からは、直径3〜5ミリのガラス玉約20個と勾玉(長さ約3センチ)1個、円筒形の管玉(直径約3ミリ)の破片
などが見つかった。2号墳からは須恵器や鉄製品が出土した。
さらに1号墳からは、板状の石を組み合わせてつくった埋葬施設と見られる小石室(幅約40センチ、長さ約1・5メートル)も
あった。北側部分が壊されていることから、2号墳を新しく造った際に削られたらしい。
2日午後1時半から、現地説明会が開かれる(雨天の場合は翌日に順延)。問い合わせは市埋蔵文化財調査事務所へ。


97 :
砂沢遺跡の土偶 奇跡の復元/弘前
ttp://www.mutusinpou.co.jp/news/2011/04/15760.html
弘前市三和にある砂沢遺跡で、2000年に発見された上半身部分の接合部分と、09年に発見された土偶の下半身部分が
一致し、1体の土偶であることが4日、明らかになった。土偶は今年2月に弘前市に寄付され、3月には10年の時を経て復元された。
弘前市教育委員会は、この土偶が完全体のものとしては東北最大級のものであり、学術的・美術的にも貴重として、今後、国の
重要文化財である砂沢遺跡出土品への追加指定を目指す。
砂沢遺跡は、日本最北の弥生時代の水田跡が発見され、00年には出土品230点が国の重要文化財に指定されている。
今回接合された土偶の上半身部分は、弘前市の工藤雄太さん(21)が文京小学校4年生時の00年8月に学校の考古学クラブの
活動で、下半身部分は、09年10月に日本考古学が専門の弘前大学人文学部教授(当時准教授)の関根達人さん(45)が見つけた。
関根さんは発見後、「青森県史資料編考古3弥生〜古代」で土偶の上半身の写真を見て接合するのではないかと思い、工藤さんから
寄託を受け藤田記念庭園考古館で展示されていた上半身部分の割れ口を見て確信。10年6月に研究室で両者を合わせたところ、
接合するものであることが分かった。
ttp://www.mutusinpou.co.jp/wp-content/uploads/image/1%2825%29.jpg
【写真説明】別々に見つかった上半身と下半身が接合された土偶=弘前市教育委員会提供

98 :
>>97
なんだって!!

99 :
飛鳥の幹線道路? 明日香・水落遺跡で出土
ttp://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201104070058.html
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)が皇太子時代の660年に造った、日本初の水時計跡とされる
明日香村の水落(みずおち)遺跡(国史跡)で、7世紀中ごろの石敷きの道路が見つかった。調査した奈良文化財研究所は
「飛鳥の重要施設を結んだ幹線道路の可能性が高い」とみている。
昨秋に水を流すための銅管や木樋(もくひ)の跡が見つかった場所の西側について、1月から約340平方メートルを調べた。
20センチ前後の平らな石を敷き詰めた東西方向の道路が、長さ12メートル、幅4.5メートルにわたって出土した。
道路南側からは、幅80センチ、深さ35センチの側溝も見つかった。過去の調査で道路北側が見つかっており、今回の調査で
本来の幅が5.6メートルだったことが判明した。
道路は、水落遺跡と北側にある飛鳥時代の迎賓館跡、石神遺跡を区切っていたほか、飛鳥寺や豊浦寺をつなぐ当時の
重要な幹線道路だったとみられるという。奈文研の黒坂貴裕研究員は「遺構がよく残っていることを確認できた意義は大きい」と話す。
現地説明会は予定されていない。
ttp://www.asahi.com/areanews/images/OSK201104070057.jpg
水落遺跡で見つかった7世紀中ごろの石敷き道路=明日香村

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