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2013年05月民俗・神話学72: 「サンカ」の起源 (791)
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「サンカ」の起源
- 1 :2011/02/03 〜 最終レス :2013/04/30
- 「サンカ」の起源は「参河」であり、これは大和朝廷への服従を拒み持統天皇に放逐された「参河」地方の住民達の末裔である。
- 2 :
- 「参河」こと「御河」は出雲勢力が北陸地方、次いで中央高地を経て南下してようやく得た降雪量の少ない温暖の地であった。
古事記の記述から出雲勢力が諏訪に逃れたことが推察されるが、その後の進出ルートは詳らかではない。
「日玉」から山脈の西側を南下した勢力もあるが、この両者が南下した先はに「御河」地方がある。
イセ、オワリから侵入した大和朝廷の勢力と衝突する場所となり、出雲、吉備、東毛とは異なり、こちらは完膚無きまでに歴史上から消された。
穂の国も同様。
- 3 :
- サンカとは山のような天と地を結ぶ自然の流れをいいます。
それを朝廷とすれば、住民への意思や効力のような類になります。
- 4 :
- 仏教用語のサンガから来てるんだよ。
勧進聖の末裔だよ。
- 5 :
- 論破
「参河」も読み方はミカワなので、自らサンカなどと読み替えたりはしないだろう。
よってこの説には凄く無理がある。
が、起源を探るのは面白いから、スレは続行。
- 6 :
- サカ族じゃね
烏帽子とかいうとんがり帽子は明らかに倭のものじゃない、トルコとか中央アジアのサカの文化だし
- 7 :
- サンカの歴史はそんなに古くない。
- 8 :
- 三角のフカシ
- 9 :
- 西日本、特に広島以南の中国圏がその分布の中心地であったと言うのは重要だろう。
山伏や木こりがその正体と言うのならば、紀伊半島や飛騨、立山が中心に言われてもおかしくはない。
狩猟ならば北日本の方が中心だが、明らかにマタギなどとは別種の物として混同される事すら無い。
山深くも宗教や狩猟のの中心地として栄えていたこれらの地域は、
山間生活者の中にある種のテリトリーとコミュニティがあって、
サンカのような人間が入りこむ生活圏が無かったと考えるのが自然だ。
ならば、何故に中国地方なのか。
これは、この地域でずっと行なわれてきた製鉄と大きな関連があるのではないか。
たたら製鉄は非常に多くの労働力を必要とし、また、過酷だ。
この地方で有名な妖怪「一本だたら」は製鉄従事で右足が不倶になった人間の事だとされているほど。
その一本足になるほど酷使された人間とは誰だったのか?
木の運搬にも多くの労働力を必要だ。一度切出した山は20年経たねば使えない。
そのため、瀬戸内海は各地から切出された木の貿易で古墳時代から栄えた。
陸揚げされた木をたたら場まで運ぶのは誰だったのか?
- 10 :
- 「鉄は国なり」
製鉄事業は中国地方の人間にとって最も重要な産業であるとともに
江戸時代では幕府によって厳しく管理され、「御とり潰し」の危険を常にはらむ事業だった。
そのため彼らは大規模な製鉄業を営めず、表向き、小規模な人数しか使用できなかった。
しかし、製鉄の重労働に農民をつぎ込む事は限界があり、そのため季節労働者を大量に使った。
サンカはその、季節労働者達の事であろうと思う。
幕府の顔色もあり、藩は彼らを公認するわけにはいかなかったのだ。
しかし、明治期の廃藩置県と製鉄業の洋式化に伴い、彼ら季節労働者は職を失い
さりとて耕す土地も無く、やむなく川漁や籠の修理、あるいは窃盗などで食をつないだ。
サンカと言う集団がこの時期にクローズアップされ、やがてすぐに消滅するのはそのせいだろう。
アイヌのように彼らが一つの習俗によってまとまった種族で無い事は
その独自性の希薄さ、継続・伝統性のなさからも明かだ。
民族が独自性を保つのは、宗教習俗に連綿と活動する強固な組織が必要だからだ。
その痕跡がいまだ全く観られない以上、彼らの正体は単なる「明治の混乱期における生活困窮者」と捉えるのが妥当であると思う。
- 11 :
- 現実的に彼らの生活形態を観ても、それが太古からの形態ではあり得ない事も解る。
彼らの存在で、最も大きな矛盾点はその人口数だ。
例えば一般的に採集民とみられているアイヌも、農耕も山と民族相手の交易もやっていた。
そして、膨大な遡上鮭と冬季の狩猟が彼らの人口を支えていた。
その総数、全国で3万ないし5万、とみられている。
中国地方は、北日本のような手つかずの豊かな自然は無い。
農耕も貿易もせずに、狩猟採集だけではアイヌよりもずっと少ない人間しか生きていけない。
しかし、現実には10数万、あるいは30万とまで言われたサンカが存在していたとされる。
それはつまり、それだけの数の人間の生活を支えていた、高収益をもたらす大規模な産業の存在があった事を物語っている。
中国圏では、それは製鉄以外に考えられない。
ならば、なぜ、サンカの人々が製鉄従事者であった事を語らないのか。
そこには幾つかのの理由があると考えられる。
一つは、彼らは一種の奴隷であり、非差別民であった事。
一つは、何ら連携ももたない、各地の民衆や犯罪者の寄せ集めであった事。
一つは、明治期に興った労働者の社会保障/人権問題に過敏になった政府が、
その権力者のお膝元でる山口のサンカ事情に憂慮し
政治的理由からサンカという大失業者の問題を徹底的に隠蔽し、記録を消去し
本人達も弾圧による身の危険や国に対する従属心から表立った活動をしなかった事。
で、あろうと思われる。
- 12 :
- 乱文誤字はスルーの方向で。
でも流石に酷い誤字なので修正。
>農耕も山と民族相手の交易もやっていた。
>彼らは一種の奴隷であり、非差別民であった事。
○大和民族
○被差別民
- 13 :
- お尻wwwwwwww
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1297083037/
- 14 :
- 九州圏にもサンカは数多くいて、サンカ達が定住した集落もあちこちにある
その中の一つ福岡県S区、脊振山の山頂近く標高700メートル付近にIR
(サンカ達がユサバリを棄て家を建てた事を意味する地名)がある
住民は三十名程でほとんどが年寄り、今やバスも来ない絵にかいたような限界集落である
住民のほぼ全員が同じ姓を名乗っており、その姓の由来として
その昔、菅原道真がこの地を通りかかったときに住民に子供を預けたという言い伝えがあるが
自分たちの素性を隠蔽するためにでっちあげた伝説であろうことは想像に難くない
千年以上も前からこの集落があったとはとても思えないし
実際、集落のはずれにある山神社に木彫りの道真の座像が二体安置されているが(北山神社にもある)
雑に彫られた20〜30センチ程の粗末なものでどう古く見積もってもここ百年程度のものだ
しかし、ここで道真が出てくるのが興味深い
サンカ達が所持するというテンジンは「天神」 ウメガイは大宰府名物の「梅ヶ枝餅」(ウメガエモチだが地元の発音的にはウメガイモチに近い)
に聞こえなくもないし
かつて佐賀県の山奥に存在したサンカ集落も「梅ノ葉R」(うめんばR)と呼ばれていて
ここでも「梅」のキーワードが出てくる
道真とサンカの間に何らかの関係があったのではないかと思える・・
たとえば大宰府は国の最前線防衛拠点だったわけだからサンカ達を夷敵に備えるための
山の防人として利用するかわりに朝廷から何らかの特権や庇護を与えられていたのではないだろうか?
神籠石の分布とサンカ集落の分布の不思議な一致も気になるところではある
それと、サンカの語源だが一部の地域で「サンガイ」と呼ばれていることから
不定住者をさす「三界坊」が由来ではないかと思う。
- 15 :
- つまり、人間を粗末にする西日本の風習、弥生人=強盗民族の犠牲になった人達ということか。
「京阪神に核ミサイルを」
北朝鮮の金さんにお願いしたいな。
悪しき日本の根源である関西人を殲滅して溜飲を下げたい。
- 16 :
- なにこれ?
- 17 :
- >>14
福岡市早良区板屋のことを言いたいのだろうけど、
あのあたりは東肥前と大宰府をつなぐ街道筋で
山中でも相当古くから居住者がいたとされてるよ。
あと元春日市市民だけど梅ケ枝餅をウメガイ餅なんて発音する奴見たことないぞ。
でも、>>5が面白いからスレは続行と言っているし、
このまま続けて。
- 18 :
- サンカが定説通り10数万いたとすれば、単純計算して一県あたり数千〜数万人存在した事になる。
明治初期までの人口は現在の10分の1だから、
当時の地方の主要都市と同じ数の人間が山中に隠れ住んでいた事になってしまう。
そんな巨大勢力の事が何の記録にも残っていない現状は、あまりにも不自然。
近隣住民がそれらの勢力に対して特別な措置をとらないわけも無く、各地で大規模な抗争だって起きたはずだ。
考えてみて欲しい。
セブリ、は読んで字のごとく瀬での暮らしだ。何故瀬で暮らすのか?
それは、我々がキャンプする時と同じだ。水や食料の確保の問題よりも、
最大の理由は
「山は所有者がいて、勝手に入って使ってはいけない」からだ。
一方、瀬は公共の場であり、立ち入りは制限されない。
数万規模の大軍が、何故にそんな卑屈な暮らしをせねばならないのか。
太古から山で暮らしていたのなら勝手に山を占有すれば良い。
要するに、サンカの実体は数十万と言うのはほぼあり得ない数字で
瀬で暮らさねばならぬ程脆弱で非力な勢力であった事が解る。
- 19 :
- 彼らが見せ物や占いで生計を立てていた、というのも眉唾だ。
というのも、それらは主にエタの専売業だったからだ。
彼らは政治的に居住地が明確に定められていて、エタ同士で厳しいルールと縄張りがあった。
誰がどの芸でどの辻で商売をする、と言う約束事は厳密に守られていて、上納金を頭に納めねばならない。
サンカと言う流浪の民が、江戸期以後にその商売に参入できたとは思えない。
また、流浪の民は存在そのものが犯罪であるので、地方では武家の浪人すら珍しがられた。
身分が無いと言うだけで、拘束され、時に処刑されていた時代なのだ。
そんな時代に彼らが関所を突破し、里や町に降りてきて商売をするのは命がけであったはずだ。
命をかけてやった仕事が、公衆に身をさらしての、広場での芸というのはあまりにも無理があるのではないか。
竹籠造りやその修理、もおかしい。
田舎に行けば誰でも解るが、今でもおばあさんなどは自分で竹籠を組めるし、その材料は里山に豊富にある。
農村では、農閑期に籠をつくって町で売るのは農家の重要な現金収入だった。要するに、自分達こそがつくって売る側だった。
サンカから買う必要はなかったどころか、商売敵。
三角に始まった一連の「定説」は、あまりにも脆弱であると言わざるをえないのではなかろうか。
- 20 :
- >>18
いわゆるサンカに対する、三角の主張がおかしいのは自明だけどお前の書き込みも変だぞ。
まず明治初頭の日本の人口は三千万以上、1900年時点での人口は四千万人だから、
>明治初期までの人口は現在の10分の1だから、
というのは誤り。
それに同じ書き込みの中で
>サンカが定説通り10数万いたとすれば
>サンカの実体は数十万
と主張する数が変化してる。
文章書いてる間にエキサイトしてきたんだろうけど、落ち着けよ、な。
個人的には三角のサンカは木地師、漆掻きのような山中生活者に発想を得て、
中世の散所、河原者を参考に作った創作だと言うのに同意。
- 21 :
- 説教強盗サンカ説
- 22 :
- まあ、違ったんだけどね。
- 23 :
- 日本各地に実在し、さまざまな呼び名で呼ばれていた(そして生活実態もそれぞれ異なる)非定住生活者を、一まとめに「サンカ」と呼び研究したのがそもそもの間違い。
余計に実態が分からなくなった。
- 24 :
- サンカと呼ばれた人々が昭和中期までいたことは事実。
でも実態は様々で、ひとくくりには出来ない。
私の町にいたサンカと呼ばれた人々は川魚漁師だった。
- 25 :
- サンカと呼ばれた人々がいた、というよりは、
ある種の人を呼ぶのにサンカという用語があった、というほうが
適切かな。
- 26 :
- いまだったら「ホームレス」と呼ぶところだろうな、きっと。
- 27 :
- 私の町に来ていた漂泊職業人は、それぞれの職種(川漁師、竹屋等)で呼ばれており
それらを総称してサンカと言っていた。ただし、乞食とは全くの別者である。
- 28 :
- 戦前も徴兵検査を受けなかったのか?
山の民の男子は。
- 29 :
- 深山に住み・里の者とはあまり交流せず・独自の習俗を持った者を山の民と呼ぶならば
それとサンカとは全くの別者です。サンカの家は里にあり、生活圏も田園地帯でした。
- 30 :
- 農民⇔サンカ⇔山の民です
農民と山の民が直接交易することはありません
サンカを介します
- 31 :
- そんなことはない。
山の民という表現が曖昧なので具体的に何を指しているのかわからないけど、
漆師、木地師、マタギ、杣工あたりには全く当てはまらない。
輪島塗の塗師は江戸時代以来、漆掻きから直接漆を入手してる。
木地師は惟喬親王伝説を根拠に大皇器地祖神社を通じて朝廷や幕府の免許をえて
全国で活動している。木材の入手、製品の販売は時の権力が認めた伝統的な彼らの権利。
取引の際に介在するのは街の問屋で、わざわざ身元の怪しい被差別民を仲介にする必要はない。
マタギも夏の間に居住、耕作する村がありそこの村を支配する藩が奉行所を作り支配してる。
具体的には鉄砲の所持鑑札を与え狩猟免状を与える代わりに藩が必要とする物資の納入を義務付ける。
熊胆のような薬種や毛皮は専売品となり藩の御用商人が取り扱う。
明治以降も問屋や商人とのつながりは継続しておりそこを通じて物産を売却してる。
杣工は領主や山主許可、指示材木の切り出しはできないので(雑木は切るけど)、
日常の生活は畑作とその不足分を補う炭焼き、紙透きによって成り立っているけど
これらの製品は杣工かその家族かが直接に出て行き町で売る。
有名なところでは大原女とか。
- 32 :
- テレビでもやってたらしいよ
http://www.youtube.com/watch?v=-dmFYtdtn_g
- 33 :
- >>26
確かに、アクティブなホームレスって感じだな
- 34 :
-
山の民を分類すると、キコリ、漆かき、木地屋、マタギ、金堀り等の山
の恵みを金銭に換える移動型職業人と、定住型の山間農耕民がいる。
移動型職業人は商いのため里人と交流するが、定住型の中には里人との
交流を好まぬ者もいて、得体の知れない者というイメージが生まれた。
サンカは田園地帯をホームグラウンドとする移動職業人であり、山の民
ではない。簡単に言えば、竹製品の製造販売や川魚の捕獲販売者である。
決して、ホームレスや乞食などではない。
- 35 :
- RPGの職業設定みたいなヨタ話を書いてもらってもしかたないんだが。
- 36 :
- >>34
意味不明。
たとえばマタギは冬の間は狩猟のため全国各地に出かけるけど
それ以外の時期は定住して農耕してる。
移動型、定住型という区別などできるものではないよ。
おれは>>23に同意。
サンカと称される存在はいたのだろうが、
時代や地域によって示す内容は違うだろう。
川漁師の場合もあるだろうし門付や乞食の類の場合もあると思う。
返す返す、三角の創作のせいで実情が見えにくくなってしまったことが残念。
- 37 :
- >>36
狩猟のため全国各地に出かけるマタギってどこにいるんだ?
- 38 :
- 例えばマタギの母体のアイヌは昔からの風習と宗教から、着衣に拘る。
文様で飾り、身だしなみには気を使う。
しかし、サンカは女性も上半身裸、あるいは腰に布を巻いただけの全裸で、寒くなれば枝をまとう。
この風習は実は朝鮮半島に近代にまで見られた物で
胸を露出することが羞恥ではなく、むしろ女性としての誇りであるという独特の価値観による。
東アジアではこの地域にしかない。
サンカと言う記述が江戸期中期以前に遡れないのも重要だ。
朝鮮半島はこの時期戦乱こそ無かったが、
中国北部からの流入民に支配され、内政は最悪で税が史上最も高く
古来からの民は白丁という奴隷民とされてその困窮と圧迫は凄惨を極めた。
サンカはこの時期、半島を逃れて日本に渡ってきた白丁だろう。
中国地方に分布が集中している事、移動民だと言う事にも意味が在る。
白丁は土地を持たなかったので乞食同然の暮らしをし、都市や農村の外縁部に居て
季節ごとに暖かい地方や食料のある場所にに移動した。
彼らは日本と言う、当時世界有数の安定した政情と豊かな農産物の国の噂を聴きつけ
彼らの行動原理のままに移動してきたにすぎない。
彼らが特殊な名詞をもち、叫び泣いてるような独特の唄を歌い
筵を屋根にし左右の開いた家で集団で暮らすのも、
同様の特徴が朝鮮の風土期などにも見られる事を思い起こさせる。
- 39 :
- オカルト屋さんのこういう妄想力というのは何が原動力なんだろうね。
- 40 :
- >>36
もう一度聞くけど、狩猟のため全国各地に出かけるマタギってどこにいるんだ?
>>38
寒くなれば枝をまとう・・って何のこと?
>>38
もしかして、サンカ=白丁だと思ってる?
- 41 :
- 枝>そういう話が在る。ソースは大正年刊の日本先住民族史。この中では三角の名前は無いが
彼と同様の見解で彼らの生活形態が平安末期までの京都近郊の土蜘蛛と酷似していると言ってる。
サンカ=ハクチョン だからそういってるじゃん。字読めないのか。
- 42 :
- 傀儡子(くぐつ)などの古代〜中世の遊芸民がサンカの源流かもね
彼らも元は大陸からの渡来民
- 43 :
- >>41
日本先住民族史はアイヌのことを書いている本です。アイヌや土蜘蛛と
サンカを混同していませんか。アイヌは民族、サンカは民俗です。
>>41
サンカは江戸時代末期に始まった民俗で白丁とは無関係です。昔、ムー
というオカルト雑誌が面白く書いたので、白丁信者が生まれたようです。
>>42
西日本のサンカが冬期の仕事として門付けを行なっていたのは事実です。
しかし、サンカと渡来民は関係ありません。
サンカの末裔は各地に現存されています。人権センター等に行けば情報
も入手できると思います。
- 44 :
- >>37
青森から新潟、福島辺り。
有名な集落としては青森県下北郡畑とか秋田県仙北郡西木村檜木内、北秋田郡阿仁町打当とか
福島県南会津郡檜枝岐村あたりがある。
狩猟範囲は全国各地と言うか長野以東が中心なんだが、
紀伊半島辺りまで出かけてる記録とかも結構あるらしいので全国各地と書いた。
明治以降は北海道や樺太辺りにも行っているらしいが。
今見直すと紀伊半島以東と書いた方が良かったかも知れんね。訂正。
いずれにせよ34の移動型、定住型という区別はナンセンスだな。
>>38
少なくとも江戸時代に朝鮮からの流民が日本で生活するなんてありえんだろう。
半島の漁民が流れ着いた時には幕府が対馬藩経由で送還してるし。
日本の漁村にしても縁もゆかりもない言葉通じない朝鮮人を匿ういわれはない。
村請制が一般的な当時、下手にかくまえば村ごと処罰される。
>>40
回答遅くてすまん。
基本的に書き込みは夜しかできないので。
- 45 :
- >少なくとも江戸時代に朝鮮からの流民が日本で生活するなんてありえんだろう。
いや?普通に沢山いたよ。
いわゆるエタの何割かは朝鮮からの移住者で、近隣住民とのトラブルが多発していたのは
R問題の文献に多く記載されている。
ただ、多くの流民はRにもはいれず、仮の身分である非人扱いされ
その多くは都市部の河原に市などを立てていたようだ。
その由来も諸説あり、済州島の流刑者、あるいは朝鮮出兵の際に連れてこられた奴隷兼船の重り、
通信船の密航者、銀山労働者(銀山開発の技術は全て朝鮮経由)の連れてきた奴隷の子孫、などなど。
どの文献で読んだか忘れたが、川の河口から上流までびっしりと彼らの小屋が立っていたと言う話もある。
この時代にはサンカは必ずしも「山で暮らす」という定義はなかったらしい。
また、非人はエタと違い指定地域への定住が義務づけられておらず、
金さえ在れば普通に町内で暮らす事も出来た。
しかし現実は厳しく日本人と同じ生活は難しかっただろうから、
盗みを働いたり無断越境し罪人になり、いつしか山に隠れ住んだと考えてもおかしくはない。
>>43
別に土蜘蛛=サンカって話じゃないよ。
だったらペクチョンの話なんか出るわけ無いじゃん。枝が何たらってきかれたからそういう話をしただけ。
ただ、同書は主にアイヌと大和政権の関わりの歴史や、大和民族とアイヌの言語形態の類似点を列挙しているが、
その際に西日本の先住民族に触れ、サンカとは言っていないものの類例が近代にまで存在している事を書いている。
著者のは巻末に柳田と映ってる写真を誇らしげにして、民俗学についても語っている。
同著は民俗についても触れている部分は多いよ。アイヌのだけどね。
ムーの話は知らん。
- 46 :
- ?
- 47 :
- 余談だが、俺の実家の隣にはRの村があって
昔は祭りが有ると彼らがやってきて振る舞いを飲み食いしたり屋台を建てた。
不思議と女にモテる奴らも多くて、端っこでヤりまくった。
それが気にくわない青年団みたいなのが祭りの最後には必ずR民を襲撃して大乱闘になり
向こうも普段の鬱憤を晴らすべく大暴れする。
彼らは大柄で強く、自分たちで朝鮮系である事を自負していた。
最も、直接の渡来ではなく平氏の落ち武者としての朝鮮系だと言っていたが。
(源氏が有名だが、平氏も新羅系を自称する氏は多い)
まあ、一種の定例会みたいなもんで毎年必ず繰り返されたらしい。
そんな昔の話でもなく、戦後もしばらくはあったそうだよ。
彼らのRは山間の狭隘な谷の中にあって田畑は少なく、
正直どうやってこれで生きていたのか不思議に思う。
恐らく、彼らはこちらの町と行き来して何らかの生計を立てていたはずで
「サンカ」はそういう人間も含んでの総称だったのは間違いないのだろうね。
- 48 :
- 落ち武者かよ
- 49 :
- >>48
その可能性もあるな。
- 50 :
-
古代の乞食集団
- 51 :
- 落ち武者を自称するといえば、弾左衛門
- 52 :
- 弾左衛門じゃなくて車善七だろ
- 53 :
- >>37
マタギは驚くべきスピードで山野を歩き回る。
戦後すぐの事件で秋田市で盗み(強盗?)が行われた事件があった。目撃証言から真犯人はマタギだということになった。
ところが、そのマタギにはアリバイがあった。秋田市からかなり離れた地元、阿仁町根子集落(マタギ村として有名)で目撃されているのだ。
でも、やはりそのマタギが真犯人だった。その男は、夜中林道すらない山中を延々秋田市まで歩き、事件を起こして引き返したというわけだ。
- 54 :
- >>41
すごいな。
土蜘蛛の生活形態なんかが記録に残ってるなんて初めて聞いた。
- 55 :
- 思いつきを並べただけのものを「記録」とは普通呼ばない。
- 56 :
- >>45
江戸期に朝鮮からの流入は皆無とはいわんがやはりごくごく少数だろ。
妙な言葉を使うのがいたらしょっぴかれるだろ。
筋目、由来が朝鮮というのならわかるが。
- 57 :
- >>45
回答兼刷還使も知らんのか?
徳川政権は朝鮮との国交を回復する際に捕虜の返還をしてる。
朝鮮としては荒廃した国土を回復するのに人口の回復は不可欠、
日本としては、大半の特に技術を持たない朝鮮人を帰還させることにデメリットはない。
有田焼の陶工のように特に保護された場合にしても帰化するので、
朝鮮人のコミュニティーを維持するのは不可能。
だから浮浪化した朝鮮人が川原に大挙して生活する事態は江戸時代にはありえない。
- 58 :
- 家康の出身地、愛知の三河となんか関係ある
の?
- 59 :
- 人に聞く前に少しは自分で調べるべきだよ。
思いつきを書きなぐるだけじゃ全く生産的な話にはならないぞ。
- 60 :
- >>57
それは建前に決まってるだろ。
何でも文書が正しいと思うなよ。現実見ろよ。
実際、勝手に入り込んで来た連中をどうにも出来ないのは今でも同じ。
捕まえたら捕まえたで金ばっかりかかる。
輸送コストが現在と比較にならない時代にいちいち送還なんかするわけないだろ。
政治亡命者と流民を一緒にするなよ。
- 61 :
- 江戸時代後半にあった飢饉で、田畠を捨てざるをえず
(年貢も納められない、食うものもない)
食いつなぐために山に入った人達であって、
それ以前はサンカと呼ばれた集団は居なかった、
て説についてはどのように考えておられますか?
- 62 :
- 山へ入ったら焼畑やってしまうんじゃね?
- 63 :
- 以前山口のの人に聞いた話で、
長州征伐の時の酷い話を沢山きかされたと言ってたよ。
寄せて来た幕府軍が女を犯したり田畑を焼いたり接収したり、長州側も絞れるだけ搾り取った。
嫌になって逃げた農民は相当居たんじゃないか。
実際、会津戦争では政府軍は凄惨の限りを尽くしたが、
あれはその時の仕返しだと言って、誇ることはあれど恥じる様子は微塵も無かったらしいし。
- 64 :
- だから?
- 65 :
- >>32
福島県のサンカは逃げれたんだろうか?
- 66 :
- >>64
想像力の無い奴だねえ。
- 67 :
- 自分の説明能力の低さを相手の理解力のせいにしないこと
- 68 :
- いや、俺
他人だけど
- 69 :
- >>65
もういい歳だろうから、いわき市程度の線量じゃほぼ影響なしだろw
もっとも、箕直しのお客が逃げてたら、収入なくなるだろうけど。
- 70 :
- サンカなんてそんな人いませんよ
- 71 :
- 泥棒と呼ばれる人間がいるのと同じで、サンカと呼ばれた人間はいた。
なんらかの社会集団だと妄想するのがまちがい。
- 72 :
- サンカとは失われた民、真ユダヤだと主張する人達がいる。
「サンカとは古コプト語で民、を表します。失われた10支族の最下層に位置する。」
教授の弁は熱を帯びる
「SANKAは重大なメッセージを含むアナグラムになっている。
これをを組み替えるとNASAK,ここで余計なKを取るとなんとNASAになります!
つまり有史以来人類を支配して来た爬虫類型宇
- 73 :
- >>54
はい?何言ってんの?風土記とかに普通に載ってるだろ。
- 74 :
- サンカーシャの鏡文字
- 75 :
- >>74
風土記にせよ古事記、日本書紀にせよ土蜘蛛と呼ばれる連中は登場こそすれ
その具体的な生活形態はほとんど記述されていないんだが。
せいぜい山に住むとか洞窟にすむとかいう記述があるくらい。
まさかその程度の記述だけで土蜘蛛とサンカが酷似してるとか言ってるのかい?
- 76 :
- >>75
いや、見当違いのレスしてる。俺自身は、土蜘蛛とサンカが酷似しているとは、全く言って無い。
それから常陸国風土記は、もう少し詳しく描写しており、性格まで描写している。
- 77 :
- >>76
いや、>>54は>>41に対する書き込みだろ。>>41は
>彼らの生活形態が平安末期までの京都近郊の土蜘蛛と酷似していると言ってる
と明言してる。
だから土蜘蛛の生活形態に関する記述がないなら根拠がないというのは筋が通ってると思うよ。
たとえ性格について記述があろうと生活形態の記述がないなら>>73の方が的外れかと。
- 78 :
-
古代の乞食について深く考えるなよ
- 79 :
- >>17
>ウメガイ餅
言うよそーとも@熊本
- 80 :
- >>17間違えたウメガエ餅だったすまん
- 81 :
- 古代じゃなくて近世以降の乞食だろ
- 82 :
- こどもとニートはだまっていろ。
- 83 :
- ニートと呼ばれる人間がいるからといって、そいつらが古代からつながる
部族だと妄想するのはよほどのバカだけだろう。「サンカ」も同じこと。
- 84 :
- 実際サンカ文字って言われてるのってあれ文字じゃなくて
記号とか符丁の類だよね
今で言えば窃盗どもが表札にタギングするみたいな感じで
- 85 :
- 江戸後期から顕著に、しかも全国的に確認されることを考えると、
お伊勢参り(特に、抜け参り)との絡みで考えるのが自然に思うなぁ。
日本人口の1割以上が、当時の移動規制のくびきを外されて長旅をした。
ロードムービー的な体験を経て元の社会に戻れなくなる奴が、
そのうちの1%くらいでてきたとしても、全然不思議じゃないと思うんだ。
(アメリカでは今でもヒッピー崩れが人里はなれて方々にコミュニティつくってる。)
柳田の頃には三世くらいになってて、その由来が忘れられてしまったのでは?
仮説名「サンカ=参家?」。ちょっと無理あるかな・・・へへ。
- 86 :
- 無理です。
- 87 :
- >>32 希少且つ貴重な物を見させていただいた、ありがとう。
>>38 >寒くなれば枝をまとう
ツングース系の人々は、古来寒い季節には樹皮を身体に巻いたらしい。
動画中の女性、ヒロさんの顔立ちなんだが、日本人とは少し違う雰囲気があった。
現在の中国東北部、ロシア極東地域に住む、ウィルタ、エベンキ等の
ツングース系の女性に似ている(独特の吊り目と厚いマブタ)なと。
婚姻が狭い社会で繰り返されてきたのなら、祖先の顔立ちの特徴がかなり純粋に
受け継がれてきているはず。
高句麗系抜いた渤海(靺鞨)人の末裔だったら個人的に嬉しいんだが。
- 88 :
- ようは浮浪者だろ?
- 89 :
- >ようは浮浪者だろ(キリッ
したり顔で何言ってんだこいつw
- 90 :
-
サンカとは江戸末期に生まれた民俗で、大陸の民族とは無関係です。
- 91 :
- >>87
中国のエベンキ族はモンゴル語が通じることから
東南の蒙古族と通婚している考えられる。
実際に戸籍調査すると、蒙古族に親類がいない家はものすごく希少。
ツングースでも、エベンキやオロチョンは、「婚姻が狭い社会で繰り返され」という
事情はなさそう。
- 92 :
- サンカのルーツは、大和王権との戦に敗れ、律令の枠の外、すなわち山野に隠れた
鍛治王。
サンカは反体制的な鍛治・鉱山師、すなわち鬼の一類。
サンカの証である鉄器ウメガイやテンジンは、産鉄と鍛治の技術がなければ作れない。
サンカが暮らしていた瀬は、砂鉄の採取場。
>>42
傀儡子とサンカは民族が異なる。
大陸北方にルーツがある騎馬民族系の傀儡子は、源氏の武士団と近しい、親しい。
by「日本のまつろわぬ民」(新人物往来社刊)
- 93 :
- 製鉄の神説
先の、多賀城跡近くにあるアラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であるという。
先のアラハバキを客人神として祀る氷川神社であるが、出雲の流れを汲むという(出雲の斐川にあった杵築神社から移った)。
出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことである。
氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、
氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。
この大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)は
オリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。
さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社に
おいて一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。
氷川神社が延喜式に掲載されている古社であり、かつ、氷川神社の主祭神がスサノオになった(=元々主祭神であったアラハバキ神が客人神になった)
のは江戸幕府の政治的意図によるものであることからすれば、出雲と氷川の繋がりの話は、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配の一過程であると捉えたほうがよさそうである。
近江雅和によると、アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。片目は製鉄神の特徴とされている。
近江は、「アラ」は鉄の古語であるということと、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、
「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していったと述べている。
真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、「塞の神」と製鉄の神がここで結びついてくる。
↑ウィキペヂア(アラハバキ)より。
- 94 :
- 幕末に没落し、野非人にすらなれなかった「山非人」とでも呼ぶべき存在ではない?
- 95 :
- >>94
当たらずとも遠からじ、ですかね。
サンカの人たちは、時にケンシ、もしくはショケンシと自称することがあります。
これは世間師り略で、言い換えると道中師、すなわち街道を渡り歩き、詐欺や盗みで生活している悪党のことです。
サンカはフトコロが深く、寛容であり、表の世界にいられなくなった人たちをも、拒まず受け入れてきました。
だから、サンカの中には近現代になっても、悪党の系譜があります。
その一方で、奨学制度を立ち上げ、学者、政治家、軍人など、立派な人たちを輩出してきました……サンカのネットワークが
崩壊する終戦までのことですが。
サンカの起源については、>>92が妥当かと思います。
- 96 :
- そういえば福岡県の田川市にあったっていう泥棒村の長老も
自分達は大分の山から来たサンカだって名乗ってたらしいね
- 97 :
- たたらと銀山の奴隷だよ。
洋式製鉄の導入ででたたらが衰退した時期、石見銀山がとれなくなり始めた時期と
サンカが各地で問題化した時期は見事に重なる。
中国地方は石高が少なく、毛利家に代表されるように税が他の地方より高い。
そのため農家の次男坊以下は子供の頃に製鉄や銀山に売られた。
サンカが作る独特のカゴメ編みの竹籠は砂鉄を取る時に使う掬い笊と同じ。
(普通に編むより砂鉄を選り分け易い)
彼らが歌う歌は鉱山内での労働歌と韻が同じと言う話もある。
- 98 :
- >田川市にあったっていう泥棒村
川○町ですか?「白昼堂々」で有名な。
サンカは「サンカ墓」ってのがないらしい。
農村で欠所になったり村八分になった人は、
道中師と言うか渡世人、よくて町へ出て人足、
悪くて乞食野非人になったろう。
でも平地での暮らしになれていない、
山民や樵、猟師が没落したらどうなったろう。
またはわけあって、平地から山へ逃げ込んだ人たちとか。
そう言うのがサンカになっていったのでは?
無論突然、山での放浪生活はじめられるはずもなく、
彼らを「指導」するネットワークあったと思う。
それが古来、支配をきらって山の中でたつきを立てていた、
いわば先住民の集落だった可能性はある。
- 99 :
-
サンカは田園地帯を漂泊する者で、山奥で暮らしてなどおりません。
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