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2013年06月心と宗教221: 仏教 議論スレッド 69 (975)
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仏教 議論スレッド 69
- 1 :2013/05/17 〜 最終レス :2013/06/16
- 仏教の総合的な議論スレッドです。
仏教に関すること全て扱います。
仏教 質問箱スレッドで議論になったら、
または、議論に発展すると感じたら、
或いは、話題・論点を拡げたい時は、
ここに誘導し、質問箱の機能の確保に御協力ください。
前スレ
仏教 議論スレッド 68
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1367885600/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
Wikipedia ― Category:仏教
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99
論文検索
ttp://ci.nii.ac.jp/
ttp://www.jstage.jst.go.jp/AF13S010Init/-char/ja/
ttp://www.inbuds.net/jpn/index.html
パーリ三蔵
ttp://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
ttp://www.tipitaka.org/romn/
大正蔵経検索
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
- 2 :
- http://www.youtube.com/watch?v=AIt2VHAC2Vk
- 3 :
- 【タンポポ常住論】修正版
昨年タンポポが咲き、同じ場所に今年もタンポポが咲くのでタンポポは常住であるという見解は間違いである。
でも、全く異なる訳でもなく、タンポポの花が桜の花になるわけでもない。
現代の科学知識で見れば、昨年のタンポポの花と種と、今年のタンポポの芽と花は遺伝子(DNA)では同じである。
更に分子レベルで見れば、昨年のタンポポの遺伝子と今年のタンポポの遺伝子とは異なる。
それで昨年のタンポポの遺伝子と今年のタンポポの遺伝子とは異なると断言するのは間違った見解である。
遺伝子という物質的媒体は異なるが、遺伝情報という非物質(質量零)は共通している。
だから昨年のタンポポの遺伝情報と今年のタンポポの遺伝情報とは同じと断言するのは間違った見解である。
昨年に自然環境(経験)と遺伝コピーエラー(業)とを因とする僅かな書き換え差があるからである。
よって昨年のタンポポと今年のタンポポとは「不一不異」である。
【展開】
同様に人間の身体においては、父母の遺伝情報が縁となって子供の遺伝情報が起こっているので親子は「不一不異」である。
また阿頼耶識という媒体(一種の種)に輪廻におけるカルマと知識、記憶が蓄積されており、今世に生まれた時に唯識(認識のみ)が生じる。
よって前世の識と今世の識とは「不一不異」である。
- 4 :
- 遅ぇわ乙 >>1
>>3
それは、タンポポ常住論じゃないだろw
タンポポ常住論の弁護と反駁の並列じゃないか・・・(^^;
お前さんは、どうしていつも、そういうズレた行為をするんだ?w
- 5 :
- スレ容量突破とは気がつかなかった^^;
ごめんなさい^^;
- 6 :
- >>3
まとめるなら↓こうだろ・・・ orz んとに・・・。
〔タンポポ常住論〕
> 昨年タンポポが咲き、同じ場所に今年もタンポポが咲く ・・・@
ので『タンポポ』は常住である
> 昨年のタンポポの花と種と、今年のタンポポの芽と花は遺伝子(DNA)では同じである ・・・A
ので『タンポポ』は常住である
> 遺伝子という物質的媒体は異なるが、「遺伝情報という非物質(質量零)」は共通している ・・・B反駁Tへの反駁
ので『タンポポ』は常住である
〔タンポポ常住論〕への反駁
> 分子レベルで見れば、昨年のタンポポの遺伝子と今年のタンポポの遺伝子とは異なる ・・・@及びAへの反駁T
ので『タンポポ』は常住でない
> 自然環境(経験)と遺伝コピーエラー(業)とを因とする僅かな書き換え差がある ・・・Bへの反駁
ので『タンポポ』は常住でない
(>昨年のタンポポの遺伝情報と今年のタンポポの遺伝情報とは同じと断言するのは間違っ ている。)
〔両者への反駁〕
> でも、全く異なる訳でもなく、タンポポの花が桜の花になるわけでもない。
@・A及びTに > よって昨年のタンポポと今年のタンポポとは「不一不異」である。
- 7 :
- >>6
>まとめるなら↓こうだろ・・・ orz んとに・・・。
やはり最後は親切な貴僧がびしっとしめてくれました。
この書きこは忘れないようにファイルに保存しておきます。
幾世にもわたる対話を真に有り難うございました。
- 8 :
- 爾前の経典では歴劫修行(成仏する為に、長い期間にわたって諸行修すること)の課程を経なけれならないが、法華経如来寿量品第十六には「速成就仏身」と説かれてあり、これは「直達正観」といって、歴劫修行によらず、速やかに仏の境地に達することができるということです。
- 9 :
- 「神様、ダメ。隣の部屋で孫悟空寝てる」
- 10 :
- >>前スレ808>>前スレ810
>心霊科学方面は個人の信念に過ぎずここで論じる意味はないと思います
お話にならないです。
餓鬼が覚知されれば、それはいわゆる幽霊ということになる。
こりゃ〜つのだじろうの『恐怖新聞』『うしろの百太郎』からやり直しだね!
(世界の心霊運動---宗教の信仰レベルから本格的な心霊科学研究へ---の開始を
背後から刺激されたのは、ハイアラキーのヒラリオン覚者_/元・聖パウロによるもの)
>>前スレ819
>中有は最長49日なので。
テキスト主義者-乙!
「49日」(そんな日数)など、ただ一つの象徴的な目安にしか過ぎないから。
(まっ、幽霊も次の生存という捉え方も可能かもしれませんが・・・)
>>前スレ823
>やはり証果の多いと聞くチベットでは不成仏霊にも対応済みですか。
>原始仏教さながらに実践的ですね。
大乗の中でも密教の特徴といえるのが、
これら心霊に対処する理解と能力を保持するところ。
バラモン秘教の継承なのだから、それくらいは当たり前でしょうね。
でないと、密教の意味がない。
- 11 :
- >>8
偽経(勝手デタラメ)。
>>前スレ821
> 【「アートマンは無い」と言われていないから、アートマンはあるんだ!】
> 【「飛行機で」と言われていないから、飛行機ではないんだ!】
いえ、(私は)そうはいってませんから。
私は、
仏教では「アートマンはない」などとは説かれていないといってるだけです。
なのにこのスレでは、伝統的な正統仏教では「(アートマンはないから)
アートマンを否定している」ものとしているので、その間違いを指摘しているのです。
しかし、仏教の摂った態度は無記それだけです。
アートマンが覚知できないのは、この現象界(一切)だけに限定された話です。
私はたまたま、
アートマン体験に基く伝統を学んできた者でありますが
本来であれば、アートマン否定をする筈のない仏教なのにも関らず、
案の定、誤解して伝えられている無我の理解から勝手に「ない」ことにしているので、
「それはないでしょうよ!」といってるのです。
けれども、ここの頑固な人たちはそれを頑なに認めようとしないのです(ご自由なのですけれど・・・)。
尚、「アートマンを(肯定的に)説くことが仏教である」などとは、
この私はまったく主張していないので、その辺については誤解の無きように。
- 12 :
- >>前スレ865
>いやぁ、宝珠さんの解釈も字面だけみると気持ちはわかるけど、
>涅槃を寂滅や滅諦で表現することと整合がやっぱりとれないねぇ---中略---
>十二縁起の逆観で、「これ滅すれば、かれ滅す…すると、なんと最後に真実在が生じる!」とか言われてないしw
>最後は生じちゃうんかい、みたいな。論理的にも飛躍が出てきて、まずいことになる。
仏教の説く“滅する”という表現は、一切における現象界の非実体性に対する認識を示すものです。“自己と
自己のもの”として覚知されていた実体性についての崩壊です---つまり、これが「無我」ということ。
無我は一切(現象界)に限定されたものです。その性質が空性ということ(水野氏の解説を参照のこと)。アー
トマンは一切(内)には存在しないので、この一切における縁起の教えの中でアートマンが登場することはありま
せん(一切ではない、一切外においては無記)。
>あと、アートマンを説く外道や常識と何が違うのかも分からんし
ゴータマ時代のバラモンたちは皆、アートマンではないものをアートマンと勘違いした境地を説くものばかりでし
た(これが『梵網経』の真義)。つまり、アートマンを実現してみせたバラモンは当時、皆無だったのです。
そして真実は、アートマンを実現してみせたゴータマがそれらの間違ったバラモンたちとの混同を避けるべく、
アートマンを説く手法を自らは摂らなかったのだということ(ヴェーダも使用せず)。---これがすべての総てです。
いずれ(の近しい未来で)は、この私の主張の正しさが確認されるだろうと強く確信しています。
尚、現状では仏教学の成果により、仏教のアートマン否定は間違いであり、無我の理解にも誤解が生じていた、
ということまでは殆ど論証されたという段階といっていいでしょう。
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
- 13 :
- 勿論仏教は中二病だと思うよ。
- 14 :
- >>宝珠
アートマンはもういいから、ブラフマンについて語って。
- 15 :
- >>14
もう語んなくていいよ
要するに仏教じゃなく神智学を信じてるだけだから
- 16 :
- >>11 宝珠氏
>アートマンが覚知できないのは、この現象界(一切)だけに限定された話です。
>>15
>要するに仏教じゃなく神智学を信じてるだけだから
神智学ではなく仏教徒、仏教学者の中村元先生も宝珠氏と似たことを述べておられますよ。
「仏教のこころ」中村元、P78、無我説−無霊魂説ではない
客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない(非我)ということを主張したのです。
アートマンが実在するか否かはということについては、まったく沈黙を守っていました。
このことから仏教を無霊魂説と解するのは誤りです。仏教はむしろ人間の行為の依りどころとしてのアートマンを承認しました。
「仏教要語の基礎知識」水野弘元、P164、霊魂について
外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、人格の主体として業を保持している
霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。
それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。
唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。
本スレにて両先生の解説は度々紹介しておりますが、未だに誤解されておられる方々が散見されます。
- 17 :
- 「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから
、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、
あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。
そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤですが、世尊の、この簡略なる法(教え)の説示によって、
まさしく、ただちに、〔何ものをも〕執取せずして、心は、諸々の煩悩から解脱しました
ウダーナ
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
- 18 :
- >>16
中村先生は論じるに足りないんで措いて、
水野先生はキッチリ有為法って言ってるってみんな言ってるのになあ
有為法ってのは無常で無我、実体なく仮設されるだけのものって意味ね。
アラヤ識も仮設されるだけで本来実体ないんで
それは水野先生の『要語』全体を読めば明らかなことなんだが、
本体論実在論が明らかに遮断されている。
例えば旧版32, 130, 132, 146 に明らか。
その霊魂については旧版149で、重要でない細字の細目で、
しかも146以下の諸法無我、つまり無我、実体・本質がないという解説を受けてのものであり、
無我といっても言い習わしでいう仮設としての「我」「私」「本質」は言い習わし通り用いるという意味で、その意味の我も否定するような虚無主義、ニヒリズムではないという意味なんだが。
つまり、誤解してるのはいつものように在家とか宝珠に他ならない。
何度指摘されても繰り返すのが腹黒いと言われる由縁で、オイラも確信した。
- 19 :
- 神智学は外道神崇拝なんだろ。
ヒンズーの影響が大きいという話だな。
- 20 :
- >>18
>有為法ってのは無常で無我、実体なく仮設されるだけのものって意味ね。
アラヤ識も仮設されるだけで本来実体ないんで
>つまり、誤解してるのはいつものように在家とか宝珠に他ならない。
何度指摘されても繰り返すのが腹黒いと言われる由縁で、オイラも確信した。
>>3 一在家
>また阿頼耶識という媒体(一種の種)に輪廻におけるカルマと知識、記憶が蓄積されており、今世に生まれた時に唯識(認識のみ)が生じる。
よって前世の識と今世の識とは「不一不異」である。
仮設されるアラヤ識が運ぶ「カルマと知識、記憶」は実体なき非物質で「識」も変化すると直近にまとめております。
オイラ氏の確信も空性だと宜しいのですが。
- 21 :
- >>20
全然分かってないんだから、まとめないで
あといつもながら、誤解していたことについて何も言わないよね
空性に決まってるでしょ
そういう発言は空性が分かってない証拠
ほんと全く分かってないって自覚してくれよん
じゃなきゃ、仏教を理解しようとするのやめるか
誤解を産むだけだから
- 22 :
- 仏教では三善趣と三悪趣に六道輪廻は分かれる。ってことはその善と悪の間があるということである。
輪廻という言葉で表されている何とも言えないカオス的なところが間なのだろう。
睡眠による夢も一種のカオスであると思う。もしその一種のカオスである夢が、
何らかの意味をなしているとするならば、意志疎通のためだとか、良くも悪くも知識知恵を
得る役割を果たすためのものだったりとか、いろいろである。
しかし人間はしょせん人間なのであって、五蘊を持つ者なのである。
しかし五蘊の法則が、いろいろな人間界があるので、違ってくるだろう。
そこが重要点だと思っている。睡眠の夢とはいろいろな人間界にいろいろな
法則に従属することは承知の上で生まれたきたいろいろな個性を持つ人間が
想念体で接しているのだろうと思う。しかし所詮人間であるため、堕落することもあるだろう。
私も堕落しかけた。でもその堕落からなんとか這い上がって、毎日の夢見という
恩恵を受けるようになった。
自分は一人じゃないんだと分かった気がする。自分は何の役割があるのだろう?
たぶん、一人間としてパソコンを死ぬまで投稿するということが私の使命であるのだろう。
というわけで私は一人間として死ぬまで投稿します。
- 23 :
- >>10
オイラ氏が出したのはチベット仏教においてのことで
それも神通力のある餓鬼のことです
宝珠さんが考える幽霊とは違いますね
また上座部の国々でも精霊ピーなどのたたりを信じる風習があるけど
それは土俗信仰でしょ
宝珠氏が考える霊障 幽霊のたたりなども日本の祖霊信仰 精霊信仰が
仏教の一部に混淆された結果に過ぎませんね
チベット仏教の一部もボン教などとミックスされていると思われるのですが
どうなのでしょうね
- 24 :
- >>23
いやいや、幽霊と餓鬼は同じですよ
チベットの先生も日本でもよく見る方がいます。
もちろん、49日以内の意成身も霊と呼ばれると思いますが、
いわゆる悪霊、怨霊とかは49日以降のもので餓鬼に相当するという意味です
- 25 :
- 意成身(心からなる存在)も執着が強いと49日以降は、チベットでも日本でも厄介そうですね。
- 26 :
- >>24
参考までにそれに関する経典など 教えていただけませんか?
- 27 :
- >>25
だから、49日以降は意成身ではなく餓鬼と解釈されると、
アナタの説はこれも誤解だと何度いっても取り合いませんね
>>26
え、既に示しましたよね
サロメさんはどうも示した時は読んでくれないようですね。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%AD%E6%9C%89%E3%80%80%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B9%9D%E6%97%A5&mode=search&uop=1
有名な所ではバルド・ソドルではなく『バルド・トゥードゥル』 もですね。
川崎さんの訳もまあまあだけどゴンパを瞑想と訳したり、ナーローの六法で解釈するなど、問題が多い
カルマチャクメの要約とかドゥジョム・リンポチェの要約とか、
以下ギュルメー・ドルジェの英訳がいいと思う。
http://ja.scribd.com/doc/80948194/
でもこれも読めばサマヤが発生するように思います。
因みに平岡宏一がゲルク派版死者の書というのを翻訳しているが、
あれは別の論書で、ゲルク派版死者の書というものではないです。
明らかに売るためのこじつけに他ならならないでしょう。
- 28 :
- >>27
すみません
漢訳なので^^;
翻訳かけてもわかりにくいし^^;
『バルド・トゥードゥル』のしっかりした翻訳を探したほうがいいですね
- 29 :
- >>27 オイラ氏
>だから、49日以降は意成身ではなく餓鬼と解釈されると、
名称、呼称の違いということで。。納得しております。
もし、49日以降は存在が異なるのであれば、ただ私が知らないということです。
- 30 :
- 生霊と死霊と幽霊て何がちがうん
- 31 :
- >>28
ではリンク先のギュルメー・ドルジェ英訳をお勧めします
中有のことを確認するだけなら川崎訳で充分でしょう
文庫版113に明記されてます。
>>29
これは呼称、記号の問題ではありません。
そもそも中有というのは、ある生から次の生までの中間的あり方という意味なので、
北伝系では一貫してそう捉えています。
これは文献的問題ではなく、行者もそう認識してます。
こういう点も明らかなのに自説に都合悪いから改めないだけでしょう。
だから、アナタなどの自説に仏教を権威づけたい人たちは困るんですよ。
- 32 :
- >>30
>生霊と死霊と幽霊て何がちがうん
生霊は幽体離脱した際の幽体のこと。
死霊と幽霊とはほぼ同じ意味かと思います。
死霊にも成仏した霊、浮遊霊、地縛霊、憑依霊と色々と分類されております。
よく心霊写真に映るのは浮遊霊、地縛霊。
霊動現象で出てくるのは憑依霊、新約聖書ではイエスや使徒達が除霊されました。
以上、心霊科学上での普通の分類だったと記憶します。(元心霊科学協会会員)
目下、この板では、死霊も49日以内は意成体で49日以降は餓鬼と解釈されるとオイラ氏より指摘がございました。
確かに49日以内にあの世に赴く(成仏)のルール違反は良くないことは異教でも伺っております。
- 33 :
- >>31
>そもそも中有というのは、ある生から次の生までの中間的あり方という意味なので、
>北伝系では一貫してそう捉えています。
その定義ですと、天、地獄は次の生までの中間的あり方なので中有でしゅうか。
畜生は地獄の畜生道の場合と、次の性が畜生の場合もあり注意を要します。
- 34 :
- >>15
あなたは都合の悪い内容(伝統仏教とやらの不条理や間違いの指摘)は、
いつも私の神智学信奉のせいにして逃げるのです。
いい逃げ道があって良かったですよね!
>>18
そうではなくて、本体論実在論の遮断というのは“無記としてこれを説かない”という意味。
>無我といっても言い習わしでいう仮設としての「我」「私」「本質」は
>言い習わし通り用いるという意味で、その意味の我も否定するような虚無主義、
>ニヒリズムではないという意味なんだが。
そんなことは百も承知。
- 35 :
- >>33
いやもう止めるはとにかく分かってないし
分かろうという気もないようですから
- 36 :
- >>19
いえ、特定の神の信奉や聖典の偏愛はしません。
>>29
一代はテキスト主義者だから。
>>23
餓鬼の救済を説いてきた仏教において、幽霊問題の救済も同様に僧侶の勤めだと思いますよ。
あなたは幽霊問題を低レベルな土着の民族信仰による迷信の類いにしようとしています。あなた
のような者が一家の主だと霊障に苦しむその家庭は救われずに崩壊する。
在家さんのいう通り、事故多発の踏み切りや道路に潜む地縛霊を救済すれば、その日から嘘の
ように異常な多発事故は解消します。今、テレビを賑わせている突然変異の理由無き無差別殺人
の主な原因は凶悪な霊存在による憑依です。治癒無きままに何年〜何十年も精神科の牢獄にぶ
ち込まれている患者の何割かは霊障害です。これら精神科医がお手上げした患者が霊障を起して
いる霊を救済することで、その日から別人のように直った事例は少なくない。
真実を---あなたが知らないだけ。
サロメさん、あなたは一代にソックリ(のテキスト主義者)です。
Aの宗教とBの宗教で異なる表現になっていたら、それはもう別物です。これが同じことを指している
かどうかを自分で考える智慧がなく、正統とみなされている聖典や文献で、これらが同じものだとの
明確な説明文がない限りは認めることができない人です。
- 37 :
- >>35
>分かろうという気もないようですから
如来の法身は自性か無自性かで見解が分かれるようです。
オイラ氏を始め過半数の仏教徒は「無自性」との理解でしょうか。
私は「自性」か否かは分かりませんが「意思」があると思います。
報身や応身の如来の「衆生済度」の本願が根拠です。
- 38 :
- >>37
>私は「自性」か否かは分かりませんが「意思」があると思います。
>報身や応身の如来の「衆生済度」の本願が根拠です。
意思、意欲があったら戯論寂滅してないでしょ
受用身・報身が誓願の果として現れ、無功用(意図せず自然)に化身が生じる
というのが大乗一般説で『入中論』にも書いてあるんだけどな
- 39 :
- >>36
だから同じ手かざしでもャoカボンと真光系統では違うでしょと在家さんにお話しましたし^^
仏教における餓鬼の概念と民間習俗の心霊とは分けて論じましょう^^
あのー憑依霊とか地縛霊とかいい加減にしてください^^
仏教の概念に基づいて議論しましょう
- 40 :
- >>33
在家さん。
一代の解釈は六道輪廻のことですよ。
六道のいずれかに赴けば、それは次の転生(生存)ということ。
餓鬼(幽霊)はすでに六道の一つである「餓鬼界」に転生した姿だという意味。
つまり、最長49日以内でこの六道のいずれかに人は転生するというもの。
まっ、私からいわせれば、この六道そのものも後代の付加解釈(本当は違うが)なのですが・・・。
- 41 :
- >>36 宝珠氏
>一代はテキスト主義者だから。
70%はそうかも知れませんね、でも残りの30%はどうでしょうか?
チベット仏教はもちろんのこと真言宗は実践重視だと思いますので、実際に餓鬼の
影響(霊障)を受けた人々とそれに対応した僧侶達の事例はこのスレの誰よりも
よくご存じではないかと思料します。
多分、議論板では「テキスト一代」のスタンスを保たれたいだけかと推察します。
- 42 :
- >>38 オイラ氏
>意思、意欲があったら戯論寂滅してないでしょ
>受用身・報身が誓願の果として現れ、無功用(意図せず自然)に化身が生じる
>というのが大乗一般説で『入中論』にも書いてあるんだけどな
(参考)「全訳 入中論」P76
12-42 世尊よ! 貴方は大悲により寂静から戻られた。だから貴方は涅槃されない。
大乗一般説はどうだか知りませんが、報身の如来も同様に涅槃に入らず無住処涅槃かと存じます。
- 43 :
- >>41
私の解釈ではテキストとなんの矛盾もないけど
弘法大師や『入中論』『スッタニパータ』などなどと
矛盾すると思うのはアナタがたが勝手な解釈を入れるからでしょう
- 44 :
- >>43
いわゆる『霊障』についてはどうお考えですか?
餓鬼の範囲内で対処するのでしょうか?
- 45 :
- >>40 宝珠氏
>餓鬼(幽霊)はすでに六道の一つである「餓鬼界」に転生した姿だという意味。
>つまり、最長49日以内でこの六道のいずれかに人は転生するというもの。
なるほど、そういう定義だったということで分かりました。
次の問題は餓鬼が憑依した事例が仏教テキストにあるか否かでしょうか。
一般に餓鬼に憑依されると食べても食べてもお腹が空いて太らないとも伺います。
- 46 :
- >>42
なんでそう断章だけ抜いて勝手な解釈するでしょうね
>>44
事例によって個別ですね。
>>45
この場合の餓鬼は神通のある悪霊みたいなヤツで、
日本で言う怨霊や天狗などに相当するでしょう。
言葉の対象は一義的ではないんです
特に仏教の場合は縁起・空なんで、全く当たり前なんですが
- 47 :
- >>45
だから、仏教の文脈で理解しないとダメなんですよ
あらゆる面で言葉切り取ってきて自分の見方を押し付けては
すべてのことが分からないでしょう。
それが妄想を産む要因ですね
- 48 :
- >>46
子孫や敵 怨む相手に祟る餓鬼も存在はするのですね
- 49 :
- >>48
そうです。その典型がシュンデンだったりするわけです。
ただ、だからといって何でもかんでも霊障というのもないです
一般には世俗の合理的な因果関係に従って行動する。
その中で霊障も否定はしませんが、その影響力は一般に低いと思います。
ですから霊障を大きく謳う宗教は怪しいと思います。
- 50 :
- >>49
あRほど^^
例えがわかりやすいですね アレはそういう存在なのですね^^;
- 51 :
- >>46
>なんでそう断章だけ抜いて勝手な解釈するでしょうね
それでは、訳者解説、註、本文の順に紹介します。
(参考)「全訳 チャンドラキールティ 入中論」
P9
慈悲の完成は仏において見られるが、そこでは衆生が救われない限り、完全な涅槃には入らないという無住処涅槃に展開する。
仏は慈悲そのものであるから、起居動作はいうに及ばず、たとえ呼吸さえも全て利他の為にある。
それは仏が三有の衆生を全て一子のように愛するからである。 (中略)
この慈悲が根本となって全ての人々を救おうとする決意が生ずる。これが菩提心であって、
P26
入中論12-40:仏の未来の寿量は世間の人が全て成仏しない限り存する。
入中論12-42:慈悲の心ある仏は涅槃に向かう心を退ける。
P76
12-42 世尊よ! 貴方は大悲により寂静から戻られた。だから貴方は涅槃されない。
以上、勝手な解釈と言われましても。。
- 52 :
- 「在家に長部」→「在家に大智度論」→「在家に入中論」と無常ですね。
大智度論と入中論を紹介して下さった貴僧に感謝しております。
次は→「在家に入中論の正しい解釈」の順番かと予想します。
- 53 :
- >>41
一代にとっては、自身の体験とテキストとは矛盾するものではないです(よ)。
>>48
横レスですが、
霊障を生じている霊というのは、必ずしも相手を怨んでいるわけではありませんから
(怨みが霊障害のすべての根本ではない)。
「苦しい」とか「欲しい」という強い思いの想念がそのまま残存しているような状態であり、
この意識波動そのものが負のエネルギーであり、これが家族なり周囲(及び共振した霊媒体質の者)に
自己の苦しい思いをぶつけてくる状態(救済を求める)が実際的な悪影響となっているものをいいます。
よく云うような、先祖が子孫を怨んだり呪う筈はないからという解釈で霊障を否定する人がいますが、
まったくり誤解そのものです。
>>49
>その中で霊障も否定はしませんが、その影響力は一般に低いと思います。
>ですから霊障を大きく謳う宗教は怪しいと思います。
横レスですが、同意。
霊障を過剰を煽る宗教は金取り詐欺(宗教ビジネス)が多いから
(当人は大真面目で真剣にそう信じている場合はあるが・・・)。
- 54 :
- >>14
アートマンもブラフマンもその特質においては同じものです。
単に、その現われが違うだけです。
海洋の海水がブラフマンで、これをコップで汲み取ったらアートマンです。
ゴータマとブラフマンとの仏教学的理解についてはこちらを
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1335715003/640-641
仏教では一貫して無記の姿勢にて、もちろんブラフマンについても説かずです。
梵天勧請の逸話(経文)はゴータマがバラモンの神々を平伏させたことにしたい神格化です。
つまり、後代の付加挿入です
- 55 :
- >>54
それだと、釈迦はバラモンやヒンドゥーの正統派だったと言うことになる。
非正統派たる今の仏教は全て間違っていると主張したいの?
- 56 :
- >>54
>梵天勧請の逸話(経文)はゴータマがバラモンの神々を平伏させたことにしたい神格化です。
>つまり、後代の付加挿入です
私も長部経典を読む前はそう考えておりました。
・ゴータマは梵天界から下生した・・・長部「大善見王経」、「典尊経」
・梵天界のことも梵天のこともよく知っている・・・長部「三明経」
・大梵天の中の一方に強く懇願されて釈尊は初転法輪を行った・・・長部「大本経」
人間社会で譬えますと、進退に困っていた時に旧友がやって来てそのアドバイスに従った、
という時々あることで神格化ではないでしょう。
換言しますと、「大本経」だけ読むと神格化ともとれますが、長部経典の34経を俯瞰しますと
釈尊と大梵天、梵天達との関係が明白で親密さがよく分かるかと存じます。
- 57 :
- >>56
旧友や昔からの知人を平伏させたという解釈はかなり変です。
大乗仏教で創作されたのかも知れませんね。
- 58 :
- 法話例集
http://ncode.syosetu.com/n4361bq/
連載始めました。ツッコミ、激励、ばんばんください。
- 59 :
- >>53
>霊障を生じている霊というのは、必ずしも相手を怨んでいるわけではありませんから
>(怨みが霊障害のすべての根本ではない)。
おっしゃる通りです。
祖母が亡くなって可愛がっていた孫に憑依した事例も結構あります。
でも祖母が結核の場合は、孫もよく似た症状になりますので悲惨です。もし祖母が癌だったら。。。
ご霊は「孫を助けて下さい。」と泣きながら出て参りますが、「貴女が執着を断ってあの世へ行って下さい。」と対話しております。
以上、霊障ネタは尽きませんが、スレ違いなので止めておきましょう。>宝珠氏
- 60 :
- 仏教でいう法身てのは、空や無我そのもののようなもんだよ
決して、我を認めるもんじゃないです。
例えば、
この世にこれが正しいっていう真実なんて存在しない
と言ったとする。
じゃあ、それが真実であるとしたら、上の文章そのものも真実じゃないのか?って問題が起こるでしょ
法身というのは、上の文章のように逆説的に浮き上がってくるもので、空でないとか我があるという意味じゃない。
まあ、そうやって法身てもんを仮設すること自体危険であるのだけれど
あくまで説明の弁として用いられている。
だから、実際にはいろもかたちもましまさずとか、悟りを得たものにしか分からないとか言われるんだよ
ところで、ダライラマの智慧の目を開くにも同じようなことが書かれてあったよ
ここには自性身というカテゴリーがあると書かれているが
厳密には、客塵清浄法身と自性清浄法身とがあるようだ。
前者は、煩悩を断滅しつくした後の心の状態、つまり煩悩を引いたあとに残るであろうという間接的な表現
後者は、それ自体法身であるという、直截的な表現
であろう。
- 61 :
- >>60
>仏教でいう法身てのは、空や無我そのもののようなもんだよ
>決して、我を認めるもんじゃないです。
「衆生済度」を応身の如来は発願します。意志があるので涅槃に入らず。
「衆生済度」を報身の如来は発願します。意志があるので涅槃に入らず。
法身の如来は意志が無い空や無我そのものですか。
では何が因で報身や応身の如来の「衆生済度」の本願が起こったのでしょうか?
尚、法身の如来が大慈悲にて「衆生済度」の本願をされたのであれば論理は整合します。
- 62 :
- >>52
いや、もっと清らかな人かと思ってたんだけど、真っ黒ですね。
以下はエゴまみれ、自分スキーなのは遊びやカラスと同じですね。
>「在家に長部」→「在家に大智度論」→「在家に入中論」と無常ですね。
別にアナタだけ特別にそう説いたわけじゃないよ。
長部ではなく『梵網経』でしょ。『梵網経』が仏教と他の見解との関係と
戒・定・慧の段階との対応が分かり、断見・常見・中道(縁起・空・仮設)の位置がよく分かるからですよ。
『大智度論』を説明した経緯は忘れたけど、『入中論』を勧めたのではなく
『全訳入中論』の評釈を勧めたんですよ。
なぜなら、私に連続して質問するからで、私の仏教全体に対する体系的な見方が評釈に表されているからです。
それはログに明らかでしょう。評釈では『梵網経』から説き起こしてますよ。
そして『梵網経』が『中論』にどう関わっているかも明解に書いたつもり。
- 63 :
- >>51
しょうがないから説明しましょう『全訳入中論』の科段をみてください。
12-42がどこに位置づけられているか。
224. B12. 仏地の功徳、つまり道を歩んだ結果どうなるかを説く中で、
以下の四仏身が説かれ、
229. C5. 仏身
230. D1. 法身
231. D2. 受用身
232. D3. 等流身
245. D4. 化身
その補足として
246. C6. 一乗
247. C7. 無住処涅槃 が説かれた中での話。
230. D1. 法身:認識対象という乾いた薪を残らず燃やし尽くしたので寂静。
つまり、諸仏の法身は、その時、不生不滅で、かの心の止滅を身体によって現前なさる。12-8
いつもいうように法身は寂静。だから意思などない。
231. D2. 受用身:、如意樹のように明らかで寂静な身体で、如意宝珠のように無分別。
世界が解脱するまで世間を満たすために恒常である。これは戯論を離れたものに現れる。12-9
- 64 :
- これが誓願の報いとしての身体で、自註で以下のように註釈され「意思などない」ことが明言されいる。
>「如意樹のように明らかで、如意宝珠のように無分別」という。
> つまり、これは無分別であっても、如意樹や如意宝珠のように望み求める事が叶う因そのものという意味である。
> この身体は輪廻がある限り世間を満たすために存続するものでもある。
> この「恒常」という言葉で、悠久に存続することを示す。
> それ故、世間があるかぎり、虚空が続くかぎり、諸仏はこのあり方で有情利益だけをなされて居られると理解すべきである。
これが無住処涅槃の意味。これが普賢行の誓願の果で、有名なところではアミダの誓願がある。アミダ仏も法身は寂静、受用身もしくは化身が無住処涅槃するのですよ。
で、上にあるように凡人には法身はもちろん受用身も知覚不可能で、
化身しか知覚できません。どういうことか、凡人の因果では仏の働きは考えられないということ。
なんで業とか仏とかそういう不可思議とわれることばかり云々するのか?
だから、誤解なんだって。
- 65 :
- >>61
うーん、君ほんと基本的なことが分からないんだね
応身、報身は、いわば衆生に理解できる形でレベルを落としたものだよ
良い例が阿弥陀仏。これは報身。
何が原因て、大聖釈迦牟尼世尊に決まっとるがな
釈尊いまさずば、化身をも化身と思えず、報身をも報身と思えなかったんだよ、衆生は。
あと、本願つーのは、菩薩のときに起こすもんだからな
本てのは因と同じ。因願とも言われる。
仏が仏になっていないときに立てられるから本であり、因。
あと真宗では弥陀は、本師本仏と言われ、5劫前の菩薩の姿はあくまで
衆生を救うための方便だよ。つまり、五劫以前から仏。
- 66 :
- 在家、いいかげん仏教がちっとも分かってないって自覚してくれよ
だから、仏教知りたいなら一旦、おじいちゃんとかマヒカリとかの教義を措いて、仏教の言う通りに読む聞くしてよ
それができないなら、仏教は知りませんって言った方がいいと思うよ
- 67 :
- 「カーシュパよ、スメールほどの量の我見はまだしも、
おごれる者達の空見はまったくいただけない。」
大宝積経 迦葉品
空見の徒で、しかもそれを自慢する者達、彼等にとっては、この教えに於いて、
その空性という解脱への門に於いて、空性に酔い痴れて、空性そのものがひとつのとらわれた見方となっている。
宝性論より
全ての人はいかなる菩薩であっても我見が出発点だったわけで、
ですから我見の人にも諦めることなく優しくしてあげて下さい(>_<)
- 68 :
- >>55
つまり、バラモン教(といっても内容は広い)、及び当時のバラモンたちの間違いを正した方
(指摘された方)ということでしょうね。かといって、もちろんヴェーダやウパニシャッドをそのま
ま説くことはされなかった。ヴェーダにも迷信を含むし、ウパニシャッドのような覚知できない形
而上の追求という手法はゴータマは摂らなかった。
全部ということではないですが、今の仏教(伝統仏教といっておきます)が説く幾つかの部分
的な範囲がゴータマのものとは違っています。
まず、無我の誤解(アートマンはないという解釈の間違い)、空の誤解(涅槃も仏も空などとい
うのは根本的誤解)、六道輪廻や畜生道の誤解(後代の間違った解釈や道徳的方便の無理
解による迷信)、仏に対する無意味な神格化の付加挿入・・・等々による結果が、現代に伝わっ
ている伝統仏教というものです。
少なくとも、この私はそういう理解にあります。これらは私個人の独りよがりの偏見というもの
ではなく、仏教学的にそう認められている学者はいますから。いずれ、もっとハッキリとしてくる
でしょう。
- 69 :
- >>61
法身というのは、単なる象徴と解した方がいいですよ。
この現象界の生じ在りて在るものとその背後にある根源的な力(作用)と法則、
及び非現象界におけるすべての総ての総計的なものに対する尊称が法身仏というものです。
この法身仏が慈悲を以って云々・・・とすると、おかしな流れになっていきます。
元々、“法身仏”などといって「仏」に分類されているから誤解されるのです。
- 70 :
- >>61 一在家
>法身の如来は意志が無い空や無我そのものですか。
>では何が因で報身や応身の如来の「衆生済度」の本願が起こったのでしょうか?
>尚、法身の如来が大慈悲にて「衆生済度」の本願をされたのであれば論理は整合します。
>>64 オイラ氏
>これが無住処涅槃の意味。これが普賢行の誓願の果で、有名なところではアミダの誓願がある。アミダ仏も法身は寂静、受用身もしくは化身が無住処涅槃するのですよ。
>で、上にあるように凡人には法身はもちろん受用身も知覚不可能で、化身しか知覚できません。
>>65
>あと、本願つーのは、菩薩のときに起こすもんだからな
>本てのは因と同じ。因願とも言われる。
>仏が仏になっていないときに立てられるから本であり、因。
何か話がかみ合っていないようなので、言葉を換えて整理してみます。
法身の如来の化身や報身がおられます。
化身(応身仏?)の前世は菩薩でした。
菩薩の時に彼は本願を起こしました。「我汝を救わずは正覚をとらじ」と。
では何が因でこの菩薩の「衆生済度」の本願が起こったのでしょうか?
尚、法身の如来が大慈悲にて「衆生済度」を願われたならば論理は整合します。
法身が因で応身仏及び前世の菩薩が現れます。
法身の大慈悲が無くして応身の前世の「衆生済度」の本願が現れるでしょうか?
>しょうがないから説明しましょう『全訳入中論』の科段をみてください。
ここは貴僧の誤解が多少ございます。
私の手元の「全訳 入中論」には、 229. C5. 仏身 〜230. D1. 法身247. C7〜247. C7. 無住処涅槃まで
赤線がびっしりと引かれております。前からの文脈も見て、上記の問いが生じておりますので、あしからず。
- 71 :
- >>67
>ですから我見の人にも諦めることなく優しくしてあげて下さい(>_<)
大層慈悲深いお言葉を有り難うございます。
我見の私もめげずに釈尊の本来の教えを勉強して参ります。
- 72 :
- なんつーかね・・・。
三馬鹿トリオに共通してるのは、
所縁のものであり、実体なく、実在でなく、無常なるものなので却下された「A」の代わりに
『SP「A」』を新設するトコ
なんだけどね・・。
仏教の骨格、本質の上では、「A」だろうが『SP「A」』だろうが関係なく却下なのに・・・。
ここが判ってない。彼らが声高に掲げる『SP「A」』の性質、在り様、要素等もまた、
至極単純明解な形で却下対象なのに・・。
「A」は確かに所縁のものであり、無常であり、真実在ではない。
が、
『SP「A」』は、所縁のものでなく、常住であり、真実在であり、これが無いとは説かれていない。
と。
説く必要もないくらい、却下当然な内容なのに・・・。
つか、
涅槃を実体的に見てる時点でアウトか・・。
彼等三人の言い分は、すべて《涅槃を具体的に【対象化】している姿勢》に他ならないのに・・。
で、結局「梵我一如」そのものなわけで、
お釈迦さんがわざわざ新たに説き直す(修正する)必要なんてどこにもないwwwww
涅槃とはそういうものではない、というのがウダーナ8では言われているというのに。
- 73 :
- >>69 宝珠氏
>この現象界の生じ在りて在るものとその背後にある根源的な力(作用)と法則、
>及び非現象界におけるすべての総ての総計的なものに対する尊称が法身仏というものです。
法身を「現象界及び非現象界の法則」と解釈するのですね。
太陽の周りを地球が万有引力(自然界の法則)にて廻っております。
この法が少しでも異なれば、人類を含めて万生は生存できません。
遠い宇宙劫の頃から、諸々の「自然界の法則」を設定された「大慈悲」こそ「法身の如来」だと仮設しております。
そして「大慈悲」を因として幾多の化身、報身が起こってきたと次に仮設しております。
- 74 :
- あー、あと、
『第一原因の希求(≒それへの合一)を最終目標とする』とことか。
或いはまた、
『必ず、根源としての主体があって、すべては、その主体の行為(或いは意図・意思・意志・誓願)から始まる』
『主体の外の世界は、主体が見る対象であり、主体とは別』
『世界(外界)或いは主体が収まっている器は滅びても主体は滅びない』とか。
全部『反縁起』『反涅槃』なのにね・・・。
- 75 :
- >>72 多分、セブン氏
>『SP「A」』は、所縁のものでなく、常住であり、真実在であり、これが無いとは説かれていない。
>と。
>説く必要もないくらい、却下当然な内容なのに・・・。
過去世(ログ)でも紹介しましたが、庭野先生は法華経「如来寿量品第十六」を以下のように訳されました。
その時も議論板住人からは「酷い訳だ」とブーイングでしたが。
すべてのものは、生まれ、かつ死に、必ず変化するものでありますが、それはただ現象の上だけのことであって、
如来の眼をもってすべてのものごとの実相を見れば、全ては消え去ることもなく、現れることもありません。
また、この世に在るとか、世を去るとかいうことは、本来ないのであります。
目の前に物事が現実に『在る』と見るのも間違いであれば、『無い』と断定するのも誤りです。
また、物事が常住するもののように考えるのも迷いでありますが、現象面だけ見て、常住するものがないと考えるのも浅い見方です。
(中略)
仏の目から見た本当の世界は、このように不滅・常住であるにもかかわらず、衆生の目にはこの世界は大火に焼き尽くされているように見える。
(参考)「現代語の法華経」庭野
末法の世に「王様は裸だ。」と叫ぶ仏教徒はおりませんか。
王様:伝統的な仏典解釈
- 76 :
- >>61
法身というのは、単なる象徴と解した方がいいですよ。
この現象界の生じ在りて在るものとその背後にある根源的な力(作用)と法則、
及び非現象界におけるすべての総ての総計的なものに対する尊称が法身仏というものです。
この法身仏が慈悲を以って云々・・・とすると、おかしな流れになっていきます。
元々、“法身仏”などといって「仏」に分類されているから誤解されるのです。
>>73
確かに、在家さんのおっしゃる通り“意志は在る”んだけど、しかし、仏教ではそういうことは説かれ
ておらず、またゴータマもそう説いたかどうかは確認できていない、というのが現状ですから。
従って、法身そのものを以って慈悲へと結び付けても、議論としてはあまり意義はないかと思います。
ただいえる確かなこととは、下位にある者は上位の者に救いを求め、そして、上方に位置する者は自
分よりも下位にある者が不憫に見えて自然と手を差し出す、というのはものの道理です。
ましてや、完成者である如来にとっては、衆生に対して自然と慈悲心が湧き上がるであろうことは想
像に難くないでしょう(かつては自分もそうであったという同情と共感から)。
それと、法身の変化身としての如来という意味での「応身」「報身」というのは、いわば大乗の身勝手
論理というものなのです。つまり、法身の慈悲から使わされた仏である的な意味合いの無意味さ。これ
は、大日如来の教輪身としての不動明王という教義の無意味さも、また同様だということ。
- 77 :
- >>72
>というのがウダーナ8では言われているというのに。
誤読-乙
>>74
>全部『反縁起』『反涅槃』なのにね・・・。
では、「縁起」は何故あるのか?これを仏教的に説明しなさいな。
それが出来ないなら、“第一原因の希求”などという尤もらしい批判は如何なものでしょうか?
- 78 :
- >>72
>三馬鹿トリオに共通してるのは、
私、カラスさん、在家さんの三人に共通するのは、
“仏教以外では輪廻から免れず、従って、外道外教での救いはない”
という伝統仏教による理解の愚かさ(間違い)への指摘ですよ。
「この宗教だけが唯一の真理なので、他はすべてダメ」
などと説く宗教にはロクなところなし。
そういうことをいう宗教は例外なく低次元です。
自らコレを晒すのは愚かしい限り---実に恥ずかしいこと
- 79 :
- >>75
>末法の世に「王様は裸だ。」と叫ぶ仏教徒はおりませんか。
>王様:伝統的な仏典解釈
いつも言葉足らずで誤解されることも多いし、慇懃無礼にもならないように、もう少し補足致します。
数年前に正法の世から末法の世へ移り変わった理由を考えてあれこれ仮説を立てました。
@釈尊が説かれた教え以外の教えが増えた
A原始仏典の解釈が段々変ってきてしまった
B正しく実践する者が少なくなった
@は、原始仏典以外の大乗経典で創作性の高いものはその可能性があります。また原始仏典でも後の世の追加や翻訳時の改竄はあり得ます。
Aは、もし原始仏典が原初の物とほぼ同じであったとしても、伝統的解釈が異なってきている場合です。
Bは、もし原始仏典が原初の物とほぼ同じであり、かつ解釈も原初とほぼ同じであっても、良き師の下で学ぶ機会が少ない場合です。
兎に角、「末法の世」という果を見て、その因を落ち着いて着実に見ることも重要かと存じます。
まずは原始仏典のテキストの検証から進めております。
もし庭野氏の訳に違和感がある仏教徒が多いとしたら、あの方が「王様は裸だ。」と叫ばれたのかも知れません。
何故多くの法華経訳の中で庭野日敬氏の訳かと申しますと、ただ師があの方と対談されたと伺ったことが縁です。
- 80 :
- >>78 宝珠氏
>私、カラスさん、在家さんの三人に共通するのは、
>“仏教以外では輪廻から免れず、従って、外道外教での救いはない”
>という伝統仏教による理解の愚かさ(間違い)への指摘ですよ。
補足しますと「伝統仏教的解釈」とか「中論では」とかを上段に掲げられると??と思うことが多いです。
根拠は釈尊の最後の言葉が「自分と法を洲とせよ」だったからです。
「我見」は当然偏頗ですが、同様に「伝統仏教的解釈」も偏頗でしょう。
ここでむかっとくる方は、「正統のカトリック教会の解釈だから」と貴方が言われた場合にどう感じるかを
少しだけイメージすれば分かるかと存じます。
それと同じことを異教と仏教初心者に行っているかも知れませんので。
- 81 :
- >>70
>化身(応身仏?)の前世は菩薩でした。
分かってないな。
化身ってのは、法身、あるいは受用身(報身)から誓願によって
無功用(意図せず自然)に化した身体なんですよ
これでも分からなければ、無理なんで自分が分かってないと自覚すればいいだけのことなんだけと
それと完全に誤解してた部分について訂正の発言が毎度ないってのもね
いっつも誤解でしょ。
- 82 :
- >>72
それが有身見、我見だから
なんらかの基体(アルケー、元素)がなくてはならない、といった
これは「ライプニッツの問い」とおんなじことだと思うんだけど
なかなか抜け難い考えだとは思います
- 83 :
- >>79
そりゃ自分の誤解を正当化するためのマヌケな理屈だって
やっぱ付き合えない、もう好きにしたらいいよ
随分、真面目に付き合ったのはマヌケだったと思う
もうオイラに聞くの止めてね
- 84 :
- >>78
さすがに我田引水だろ。三人に共通しているのはスピリチュアルを実証しようとしていること。
それなら次から、バラモン、ヒンドゥーついでにエルカンターレスレにでもすればいい。
仏典の誤解と迷信で全ての説明がつくだろうし。
kkが入ると自説の権威付けに失敗するから反対?
それともスレに人が来なくjなるから反対?
ついでに他宗に対する恥ずかしい偏見が暴露するから反対?
- 85 :
- >>83 オイラ氏
>随分、真面目に付き合ったのはマヌケだったと思う
>もうオイラに聞くの止めてね
それは大変残念です。これまで親切なコメントを有難うございました。
「自分を洲」として、もっと「入中論」を勉強して、今後も引用させていただきます。
- 86 :
- >>72
>結局「梵我一如」そのものなわけで、
>お釈迦さんがわざわざ新たに説き直す(修正する)必要なんてどこにもないwwwww
釈尊以前に「輪廻」は説かれてましたが、釈尊も説かれました。
釈尊以前に「梵天界」は説かれてましたが、釈尊も説かれました。
釈尊以外の聖者が説かれていた法の中で間違いではないものはそのまま利用し、衆生済度の為に
輪廻からの解脱(涅槃入り)の法を新たに(オリジナルで)釈尊は説かれたという見方もございます。
根拠は長部19経「典尊経」におきまして、釈尊は前世でバラモンであり弟子達を梵天界へ再生させる法
までは説いたとご自身で述べておられますので。
- 87 :
- >>84
まあ、死んだ時、分かるでしょ。
- 88 :
- >>72 セブンさん
さすがです。とても分かりやすいと思います。
そして、その「SP A」は外道だけではなく、
無宗教で特定の教義に依存していない、と思っている方々も、抱いているものなんだろうね
- 89 :
- >>70 一在家さん
>尚、法身の如来が大慈悲にて「衆生済度」を願われたならば論理は整合します。
それを理由に如来に意志があるというならば、
砂塵を向かい風に向かって投げて、痛い目をみたとき、
「自業自得を教えてくれたとは、風と砂塵は慈悲深く私に法を説いたのだ、
だから、風と砂塵には意志があるのだ」
という論も、同様に認めることになる気がするよ
つまり、結局はこの一切に意志をもたないものはものはない=すべて平等
ということになる。
もちろん、意志という言葉を導くための方便として使うなら、この言い方も1つアリだとは思うけどね
- 90 :
- >>84
「スピリチュアル」や「チャネリング」とか「ニューエージ」の主張が全面的に正しいわけじゃないから。
彼らに共通するものは、物質(肉体)次元を超越したところの存在(霊界や宇宙)、及び通信は何でも
高次高度である、という思い込みと決めつけによる誤解を持つこと。
確かに、ある程度の意識の高い存在か働いていたり、関与しているケースはあるけれども、少し詳
細をいえば、神智学的には1.5段階とか2段階程度(2段階は神通を発揮する)までのイニシエート存在
ばかりです。これらはすべてアストラル界(7界層在る)のレベルにしか過ぎず、そこからの情報では歪
曲は免れない(真実を知ることはできない)。本物の覚者方というのは、アストラル界層からコンタクト
をとってくることは決してないから(メンタル界層しか通信に使用しない)。
よって、そういうところと組することは、自らも似たもの同士を主張するようなもので愚かしいことです。
もちろん、真面目にやっているところもあるだろうから、そういう意味での評価はしますが・・・。
尚、KKというのは、教祖による自己満と権威意識を満たすための単なるビジネス商法にしか過ぎま
せんよ。元々、トーメン社で働いていたけれども、総理大臣になりたいとか、会社のトップに君臨したい
とかいう野心があって、もっといいビジネスに気付いたから始めたものです。
とにかく、本物を見抜く目を養うことが自分自身の修行の基本というものです。
たぶんセブン?かと思うけれども、
被災地にでも出向いて、供養がてらに心霊体験にでもトライしてみたらどう?
まずは行動を起こさないと、
いつまでも“物質レベルがすべて”などという低次元の視野から抜け出せないから。
どんな伝統諸宗教の聖人聖者も唯物主義であったことはなく、もちろん諸仏も同様ですからね
- 91 :
- >>75 一在家さん
衆生が、生じる、滅する、来る、去る、同じ、異なる、常住、無常
といった見解(=行)を起こすのは、「自性・基底がある」という無明にあるからなんだろうね
逆に、無明を滅すると、そういった諸々の見解・行がおさまる
これは、哲学的にも当たってると思う
というのも、「生じる、滅する、来る、去る、同じ、異なる、常住、無常」
ということは、そのモノに自性を認めて初めて成り立つことだから
「仏教は自性を認めない」ということが強調されすぎて見落とされている気がするんだけど、
無明から起こる「その自性はあるんだ」といった諸々の行を筏として、
涅槃に向かうってこと。見解を利用して見解を滅するの。
で、筏の使い方とか、いくべき方角を教えてくれるのが「法」ね
- 92 :
- >>91
いいですね。
その場合、勝義が不生、無自性。世俗あるいは仮設が生、自性。
世俗の言い習わしとして生や自性(本質)という諸法が幻のように仮設され、
幻のように対象作用としての因果を持つと。
輪廻の瀑流のなかで自洲法洲という道としての乗り物にのって、
彼岸という戯論寂滅へ渡った時、それら道としての諸法も寂滅すると
諸法も戯論に他ならないから。
- 93 :
- >>92 一代さん
ですね〜。
勝義においては不生なるも、衆生世間の諦に随順する故に仮に生と名づく!みたいな
- 94 :
- >>10
>お話にならないです。
信仰・世界観上の機能や表現が被っているからといって混淆させても無意味ということだと思います。
>餓鬼が覚知されれば、それはいわゆる幽霊ということになる。
日本の通俗的心霊観での「幽霊」に近いのはプータやピトリでしょうか。
混ぜても無意味だと思うので「比較」はしても「同定」はしません。やっても
理解に益することは何もなく、「実は○○だった」設定の量が頭の中で多少増えるだけでしょう。
実際これまでも、グノーシス主義においてヤハウェがいわゆるアルコーンとされたり、
一在家氏によっていわゆる梵天の一柱だろうか、と言われたところで
当人たちにしか意味を持ち得なかったわけです。
他所の人達の信仰内容を、自分の信仰で処理しているだけです。
- 95 :
- >>12
>ゴータマ時代のバラモンたちは皆、
梵網経に最近の、と時代を限定する文句はありません。釈迦が
過去において「真のアートマン」に目覚めたリシやバラモンを挙げたこともありません。
彼が自分の悟りと、他の伝統・宗教の悟りを同定したこともありません。
たとえていうなら
キリスト教の聖者が見た「至聖三者」道教の聖者が見た「三清」
ヒンドゥーの聖者が見た「トリムールティ」を表現が似通っているからと
勝手に「同定」しているだけです。それを補完するために
梵網経の扱いに代表されるようなストーリーの追加を行う。
>ゴータマがそれらの間違ったバラモンたちとの混同を避けるべく、
>アートマンを説く手法を自らは摂らなかったのだということ(ヴェーダも使用せず)。---
筋が通ってないですね。「勝手に誤解」したのは単に「同時代のバラモン」だったはずです。
「本来の教え」を語るのなら、それだけで区別になるのであり、むしろ
混同を避け「誤謬との峻別」が可能です。イスラームや神智学がイエスの個人名をあげ、
キリスト教を誤解されたものだと言うように。
- 96 :
- >>90
いや、残念ながらいろいろ違う。
kkが可笑しいのは、霊界にヒエラルキーを作っていいように人々を操ろうとしているから。
その点では、大川を非難しても、類似団体にとっては悔い改めにならない。
昔、学会員が空中浮遊について、真実だったとしても民衆の役には立たないと言っていた。
その学会にしても、GDPが20年間停滞している中で功徳が起こったとしても、それは搾取に当たることを思い浮かばない。
霊障にしてもそう、中世と現代、対策は中世のほうが行われていたはずなのに、現代は2倍の平均寿命を誇る。
この資本主義のご時勢、実際役に立てば、もっと皆が飛びつくはず。それが霊感商法位しか使われていないのはおかしいと思わないの?
- 97 :
- 前回こういう話があったとき、どう言われたんでしたっけ。
「実際、釈迦はそうしたんだからしゃあないでしょ!」
だったでしょうか。
別に区別せんでもいい、それで問題ない。それに違和感も感じないためには、
万教帰一的な物の見方(どの宗教も「本来」目指すもの、行き着く先は同じ)、
それと伝統宗教みたくゴリゴリにやらなくても、
師子相承の場でやるような「真理」に対する厳密な前提の教示がなくても(「要点」が重なってればいい)、
なんかまあメソッドを一生懸命やればいつか行き着くだろう、という価値観が必要です。
要するに近代的な物の見方です。
そして特定の人間を、「開明的な自分たち」の側につける発想です。
彼らと同時代の他の人々と異なり、時代と文化を超えて自分達と同質である、という好意的な偏見です。
- 98 :
- ・団塊の世代の前後に生まれた者たちの時代を私はぶち壊す
彼らの築き上げてきたものは、団塊という言葉にあるように、塊なんだよ!
塊ってのはようは物質だね。物質でしかないね。つまり多種多様な物質を
作るために生まれてきた人々なんだよ。だからね、物質的な考えしか持っていない。
よって霊なんて分かるわけないんだよ。それなのに公然と霊を言っている。
そこに違和感を感じる。しかし若者は騙されやすいのはいつの世でも同じこと。
でも僕は絶対に騙されないからね。ちょっとの当て付けでも明確な目を以て反論するからね。
もうお気づきの方もおられると思われますが、哲学板と宗教板とオカルト板の内で、
もうこのスレッドと本家であるあっちの悟りスレッドしか生き残ってないってこと
が分かるよね?そう、後はこのスレッドをクリアーにすればもう2ちゃんは
一掃される。僕が明らかにする毎に、獣の刻印、闇の住人、魔、なんて表現しても
いいが、そのような輩はもういなくなる。でもね、自分を守っているそのような
類の連中はまだうじゃうじゃいるよ(爆笑)。あなた方が思っているほど、
娑婆は甘くない。このスレッドが一掃されても、また新たな視点を持った
というか即急に作った者たちが、またうじゃうじゃと出て来ると言っているのだよ私は。
- 99 :
- でも彼ら団塊の世代の前後に生まれた者たちは、若者をある型にはめようと
躍起になる。それは恵まれた環境を持った次世代に対する僻み根性である。
つまり団塊の世代というのは、イイ物を作ろうという一致団結によって
出来たグループである。
まあね、僕のじいちゃんよりの家系図は平安末期まであって、それ以降は焼失して
なかったらしいんだけどね。僕のじいちゃんなんかは、一代で寺築いたんだけど、
だから僕が住職になったら三代目なんだけどね、じいちゃんは足が悪くてねー、
兵隊さんに連れていかれなかったんだ。そんでね、死ぬほど努力して、今の僕の
住むでっかい寺作ったんだけどね。
僕が言いたいことは団塊の世代の前の時代つまりじいちゃんの頃の時代の中では
御坊さんは凄い人いっぱいいたんだ。団塊の後、つまり父さんの頃の時代になると
ただ団塊の世代のレールに歩むだけの時代なんだよ。その悶々とした時に
いろいろな偏屈者が出てきたんだと思うよ。ここにいる人々は何歳が多いのかな?
偏屈者と革命家は違うよ。偏屈者が革命家であるという気持ちの悪い風潮が
もしまかり通る世の中ならば、僕はそれをぶち壊したい。もう僕らに老人中年は
引導を渡すべきだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ただ悶々とした中で生まれた偏屈者たちは時代の産物なんだよ。だからその産物を
美味しく頂くか、まずいと思い、ぺっぺっぺと唾を吐くかはキミたち次第なんだよ。
若者はいないのか?
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