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2013年17日本近代史11: 【高潔】西郷隆盛とは何だったのか【有徳】 (424)
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【高潔】西郷隆盛とは何だったのか【有徳】
- 1 :2013/08/13 〜 最終レス :2013/09/08
- 以下、テンプレ
Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)
- 2 :
- もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。
市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。
「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」
- 3 :
- Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの?
A :
虚像ってことはありませんが、
大河で西郷が好意的に描かれている
(逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けている)
のは右翼団体や鹿児島人やが抗議してくるからだそうです。
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、
西郷ネタ、薩摩ネタに対する右翼団体と鹿児島人の抗議が一番多いらしい。
史実と違う、という抗議ならよいのですが、
史実通り薩奸的な場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が
執拗にくるらしいです。
反対に幕府方からの抗議はあまり無いらしい。
徳川子孫の方が「我らに後ろめたきことなど何も無し、抗議すること自体がナンセンス」
と語ったとか。
かの司馬遼太郎も抗議を憂慮して、
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話しを読んだことがあります。
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は
そんなところに理由があるのかもしれませんね。
- 4 :
- 司馬の「翔ぶが如く」では大隈が西郷に批判的な人物の例として
あげられてるね。 西郷は大隈が嫌いだったそうだが、大隈のほうも
西郷はひとを見る目がない、猟官狙いの口舌の徒をほいほい
信用してしまう暗愚な面があったという風に西郷を描写してたね。
司馬は「翔ぶが如く」では「肚乃西郷」にかかれた西郷の最後が
どのくらい信憑性あるかについても考察してるね。結論は
「奇説」であり、信憑性が薄いとして退けられてたね。
関羽はただの武将なのに人気絶大って、話が前スレであったが
関羽は当代きって武勇の持ち主で、ただの平凡な武将じゃないよねw
関羽も最後は敵につかまり処刑されるという悲劇的な最後をとげるが
西郷の場合は反乱をおこして最後は敗死したんだから、三国志で
似たようなのをあげるなら、魏延かねw しかし魏延は三国志じゃ
完全な悪役で、人気ぜんぜんないね。中国史だと岳飛あたりが
西郷に近いのかな。味方のはずの政府に裏切り者として殺されて
しまうあたりが。
- 5 :
- 来年の大河、島津義弘の予定だったのが日韓問題で急遽変更になった
朝鮮出兵で活躍した武将を描くのは韓国を刺激するのが理由とか
つまらんこと気にして、NHKはアホかいな
- 6 :
- 「日本人はみんな西郷さんが好きなんです!(マジキチスマイル)」
- 7 :
- テンプレが既にアレな件についてw
- 8 :
- 西郷さんの最期
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く自決した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・・なんとこの人、命乞いしてたんです。
政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が命乞い、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍の山県有朋に助命を断られ、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという始末でした。
- 9 :
- 西郷さんの最期
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に射殺されていた 》
西南の役の最後の日、西郷は足を撃たれたあと自決したことになっているが、
その西郷の足を撃ったのは実は桐野利秋であったという説をご存知ですか?
西郷さん、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、投降派の将兵を連れ山を降りようとした
しかし玉砕派の桐野がこれを発見、激怒して後ろから銃で処刑したというのが真相のようだ
目撃者の証言もある
- 10 :
- 西郷さんの最期
エピソード3≪創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に正座し、東の皇居の方角に深々と頭を下げて切腹、
別府晋介に介錯させたという話し、ここの信者は出典知ってる?
どうせ知らないだろう
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本
編纂者と出版元はわけのわからない右翼団体w
まるで見てきたように書いているが、
西南の生き残りが書いたわけでもないし、誰それの証言であるなどのソースの提示は一切無しw
はっきり言って資料価値ゼロの与太本なんだよ。
だいたい極度の肥満なうえに、寄生虫で睾丸が人の頭ほどの大きさもあった西郷が「正座」できるわけありません。
- 11 :
- 西郷さんの最期
エピソード4 ≪目撃者≫
桐野による西郷射殺を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二
城川の証言によると、西郷がどんどん城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に降伏するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った、というものだ(出典「肚乃西郷」)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体の与太本よりよほど信憑性があるんだな
しかし「跳ぶが如く」(昭和47〜51年連載)の著者司馬遼太郎は城川なる人物の実在が証明されていないとし、
この説を奇説として退けた
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(自称西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野射殺説はいったん否定された
- 12 :
- 西郷さんの最期
エピソード5 ≪わが眼で見た話し≫
ところが、その数日後に同じ南日本新聞で入江俊興氏が昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として別府晋介附従卒城川市二、同小杉恒右衛門との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのだ
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
何事か話しをしていた。
城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
”今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
”わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐している
- 13 :
- 司馬が「肚之西郷」を奇説として退けたのは、単に城川の実在性が
証明されてないって理由だけでなく、もっと他の理由も挙げてたはずだなぁw
該当部分を立ち読みしただけから、詳しい理由はいま詳らかには
しないが。
- 14 :
- 司馬は昭和52年の対談でこう語っている。
「城山の最期の日に桐野利秋が西郷を殺したという説がある。
この根拠はあいまいで資料も無い(中略)
むろん私は奇説を信じない立場だからこの説を信じないが、状況としてはありえる」
司馬はこの説については勉強不足であったと思われるので、司馬の見解には価値は無いと思うが、
司馬の話題が出たのでいちおう。
- 15 :
- 司馬は昭和52年の時点で、「翔ぶが如く」を書き上げてるので
「肚之西郷」についても検討をくわえたあとの話だな。
世人は司馬の評価にくみして、「肚之西郷」は奇説扱い
価値なしといまだに判断してるね。 衆寡敵せずだw
黒龍会の「西南紀伝」は西郷没後10年にしてでたというが
「肚之西郷」は1942年にでたので、西郷没後実に60年以上
たってから、世にでたわけだ。 死後十年以上たって出版
された伝記が信用できないということなら、六十年以上
たってから世にでた話はもっと信用できないとなるが
世の道理というものだなw
- 16 :
- 西南戦争の最後は桐野が実質的に指揮をとってたというのも
西郷の部下が官軍の下へ助命嘆願にいったのも事実で
そこから司馬は、戦争の終局では、桐野と西郷のあいだに
意思疎通がもはやなかった可能性について検討してたね確か。
まあ官軍のほうは西郷を助命するつもりはもともとなかったので
助命嘆願の使者がもちかえったのは、西郷に自裁をすすめる
山県の手紙だったという。西郷も部下が西郷の助命を願った
ところで官軍がそれをいれる可能性は全然ないということは
山県の手紙を読んだ時点でわかっていたろう。
- 17 :
- 以下、テンプレ
Q :西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
行き場所を失った士族たちとともに、日本のため自ら滅ぶつもりの戦いだったんですよね?
A :
西郷はかねて回りの者に、
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞)
と気持ち良さそうに語っていた。
またこうも語った。「自分は陸軍大将である。たとえ全国の兵を率いても
陛下の許されるところであり心配無用 」(「新編西南戦史」)
桐野利秋は六尺ばかりの青竹を携え、
「徴兵(鎮台軍)を挫くにはこの竹にて事足れり、この竹のまだ折れざるうちに東京に達すべし! 」
(「鹿児島討征録」)
結果はみなさんご存知の通り、熊本城政府軍の徹底抗戦に遭った西郷軍は
緒戦から消耗し、戦わずして東上するつもりでいた西郷軍の敗色はこの時点で決定的になった。
↓つづく
- 18 :
- 西郷軍はその後も「勝ち戦」と称して、兵卒を募集する一方、田原坂戦以後、戦列を離脱した者の所在を調べていた。
飯野士族のうち西郷の決起に呼応したのは370名だったが、離脱者も少なくなく、離脱した者たちは身の危険を感じ、
山中の社などに隠れ、家族と密かに連絡を取りあっていた。
飯野の戸長松形祐高は離脱者の身を案じ、蔭で離脱者の相談に乗っていた。
松形戸長は学問のある公徳者で、政府組織の戸長だったため、西郷軍から狙われていた。
二月に西郷が決起したとき、松形戸長が決起に参加する麓の士族に、
「この出陣は陛下に銃口を向けることになるので、遠慮してもらいたい」と言ったのが、
敗走してきた西郷軍の幹部に伝わり、松形戸長は政府軍に味方しているとされ捕えられた。
↓つづく
- 19 :
- 8月29日の午後、松形戸長は吉松の川内川の河原に引き出され、18歳の少年兵に斬首された。
享年54だった。
西郷軍は松形戸長の遺体の横に札を立て、その下に竹のノコギリを置き、札に、
「この者は官に通じた敵である。ここを通る者は、このノコギリで一度づつ引いて通るべし。」と記していた。
ちなみに松形祐高戸長は、松形祐堯元宮崎県知事の曽祖父で、祐堯氏の自叙伝に処刑のことが詳しく記されている。
『真幸院の歴史探訪集』は、吉松の河原で西郷軍が松形戸長を処刑したときの、
西郷ら西郷軍幹部の様子を併記している。
西郷ら将校は、みな駕籠に乗り、華美な絹織物の桐野の服装が人目を引き、
従兵は二列縦隊で西郷に従い、全員が抜刀していた。
- 20 :
- Q : 西郷さんは神のように庶民から慕われていたんですよね?
A :
西郷が右翼団体により神格化されていったのは西南戦争で死んだ後のことで、
生前は薩摩士族だけの名士であり、世間一般の庶民はせいぜい陸軍大将として知るだけであった。
薩摩ですら百姓層は西郷を尊崇する気持ちなど無く、城山陥落の日も
吉野実方(桐野利秋の出身地)辺りの百姓たちは木の上から見物しており、
戦いが終わると、しかばねとなった薩摩将兵から身ぐるみを剥いだ。
それゆえ薩摩将兵の遺体はみな裸であったという。
- 21 :
- 西南戦争末期、西郷星とか江戸の庶民の間でも流行していたというから、
すでに生前から世間一般の庶民の間で人気があったよ
アンチお疲れ
- 22 :
- そうそう、生存説やロシアにいるとか、最初からレジェンドだったのは疑い様の無い事実。どうもアンチ西郷の奇説、珍説には無理が多すぎる。
- 23 :
- 生存説を言うとアンチ扱いになるのか。
- 24 :
- 錦絵だっけか?幕末から明治にかけての活躍等を絵にしてってやつ
あれの影響も大きかったような?
まー昔っから「そういうものw」に乗せられるという民族性ってのかなw
- 25 :
- >>023
生存説やロシア説を例にだしたのは、それだけ人気があったって言うことを呈示しただけのこと。
- 26 :
- 高杉晋作が死んだとき、その死を惜しみ3千人もの百姓町人たちが田舎の村の葬式に参列した。
これこそレジェンドだろう。人気というのはこういうことを言うんだよ。
西郷さんはどうですか?
死んだあと、身に付けていた軍服や貴重品ぜんぶ百姓に持っていかれ、巨大金玉でようやく本人確認取れたんだってね。
搾取されていた百姓はもちろん、城下士から見下されていた郷士たちも西郷の死に対し冷ややかだったとか。
- 27 :
- マジレスするが、西郷さんの本人確認が遅れたのは隠された首がすぐに見つからなかったから。
西郷さんの死亡にたいして冷ややかだったのは、ほんの一部。
当時の新聞にしろ世論にしろ、ましてや明治天皇など大きなショックを受けた記録は膨大にある。
城山陥落の日に木の上から百姓が見物していたという、取るに足らないーしかも真偽のほどもあやしいー微々たる根拠をもとに、世論が冷ややかだったというには、いささか飛躍しすぎでは無いですか?
- 28 :
- Q:西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ?
A:
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの
象徴であったにすぎないのではないのか。
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。
これは西郷という人間像の一コマではあるが、
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。
- 29 :
- 旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照)
- 30 :
- Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
- 31 :
- この西郷コピペつまらん。
- 32 :
- 西郷はつまらん。
- 33 :
- ここのコピペ、うそくさ。
- 34 :
- 西郷隆盛が近代化を推し進めたとか、西南戦争は武士階層を日本から消滅させるための
最初から負けるための戦だったとか、なぜこのような幻想が広く語られるのか?
まあ、それで得する集団や精神の均衡を保てる人間がいるからなのだろう。
西南では前途有為の人材を多数戦死させ、九州中で町を焼き払い、財産を奪い、
西郷札とかいうニセ札で九州経済を滅茶苦茶にしたあげく、
西郷などは歩きもせず駕籠に乗って鹿児島に帰り助命嘆願とは「敬天愛人」が聞いてあきれる。
殿様でもなんでもないはずの西郷を鹿児島に返すためにどれだけの兵士・民間人が犠牲になったか。
西郷がほんとうに徳のある高潔な人なら、田原坂で敗れたとき熊本城の前で自刃し、この戦いを終わらすべきだった。
- 35 :
- >>34
>西郷隆盛が近代化を推し進めたとか、西南戦争は武士階層を日本から消滅させるための 最初から負けるための戦だったとか、なぜこのような幻想が広く語られるのか?
廃藩置県をはじめとする、種々の革命的改革は西郷なしでは到底不可能であり、近代化、民主化を成し遂げた第一人者であることは明白な事実。
「西南戦争は武士階級をを消滅させるための最初から負けるための戦い」というのは非常に無理がある考え方で、あなたがおっしゃる様に広く語られておりません。もう少し勉学に勤しまれてください。
>西郷がほんとうに徳のある高潔な人なら、田原坂で敗れたとき熊本城の前で自刃し、この戦いを終わらすべきだった。
結果論ありきの論説ですね。130年経っての後出しじゃんけんに勝って、偉人を酷評して何が嬉しいのですか?
- 36 :
- >>35
廃藩置県は西郷が深く関わったほとんど唯一の近代化項目だったと思いますが、
その廃藩置県にしても西郷の役割は、非近代的な体制に固執する薩摩軍を率い上京し、全国の武士団に睨みを効かす
というなんだか滑稽な役回りでしたね。
また、後の西郷下野後の鹿児島の非近代ぶりを考えると、西郷がほんとうに近代を正しく理解していたか甚だ怪しい。
山縣有朋におだてられ乗せられただけなんじゃないですか?
まあ、倒幕の時に西郷大久保に乗せられ薩摩軍を供出した島津久光程度には近代化に貢献したと言えるでしょうから
そこは認めていきたいと思います。
- 37 :
- >>35
それと
「西南戦争は武士階級をを消滅させるための最初から負けるための戦い」という幻想
が広く語られていないとのことですが、
西郷軍の強制徴兵(従わない者は処刑)、民間からの強奪、西郷助命嘆願などのネガティブ史実などよりも、
よほど語る人が多いと思いますよ。西郷が出てくる歴史ドラマでもそういう描写ありますよね。
「おいどんたちで古か世を終りにしもんそ」などと西郷が言う。
(今年の大河はどんな演出なのか楽しみですが)
まあ、鹿児島県の敬天愛人会とかそう人たちの、それこそ西郷礼賛ありきの幻想と
それを真に受けた人たちが語っているだけで、学術的には誰にも相手にされていない幻想ですが。
あなたの主張も「偉人」を酷評するななどと理不尽かつ盲目的な西郷擁護ありきの幻想ではないですか?
現実をしっかり見ましょうよ。
- 38 :
- 敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり 其の二》
大島商社を廃止して砂糖の「自由販売制」にして貰うように県庁に
嘆願しに来た大島の人々を、西南戦争に強制的に従軍させ、6人を戦死させた。
その嘆願団の中には、西郷の奄美妻アイカナの実家の龍家の末弟や甥、西郷の釣り仲間や
相撲相手もおり、「西郷さんに取り成してもらおう」という西郷びいき
ばかりだった。
「従軍中は大島人として差別され、無念の歯がみをした」と西郷に絶望したという。
- 39 :
- 敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり 其の四》
奄美のアンゴ(島妻)愛加那は、1898年(明治31年)西郷流刑の地奄美に
記念碑が建立される際、まだ地面に横たわっていた記念碑を踏みにじり、
何度も唾を吐きかけた。
記念碑写真
http://livedoor.blogimg.jp/kk7822/imgs/1/f/1fe4fa9d.jpg
- 40 :
- 当時は島の女を本土に連れて行くことは許されていなかったか。
それを許すと、人身売買で島の女が島外に売り飛ばされて行くからだ。
- 41 :
- >>1
重野はどうやって女を本土に持ち帰ろうとしたのか?
上に書いてる様に禁止されていたはずだが、
あやしい逸話だな。
西郷を疎む久光の御用達歴史学者、公金横領の罪で島流しの重野
- 42 :
- >>41
「〜はず」とか「あやしい」とか頼りねえな。
島の女を連れ出してはならないという藩法はあってもおかしくないが、
藩庁に許可をとればおかまいなしということもありそうだが、ダメなのか?
調べて教えてくれ。「〜はず」とかじゃなくてソース付きで。
- 43 :
- >>40
その理由、あなたの創作じゃねえのか?
なぜなら西郷がアイカナを奄美に置き捨てにした理由は史料からは判然としないからだ。
分かっているのは、西郷は三冊の本になるほど大量の手紙を残しているが、アイカナ宛のものは一通も無いということ。
文字は読めずとも、アイカナの家は奄美では上層の家。誰かが読んでくれたろうに。
西郷家が引きとった二人の子供もアイカナの墓参りに行った形跡はない。
二人の子供と引き離されたアイカナは寂しい一人暮らしだった。
農作業中に畑で倒れ、明治35年に66歳で死亡。みじめな死に際だったという。(「愛加那記」)
西郷の「敬天愛人」精神とやらは奄美には適用されなかったようだな。
- 44 :
- なぜかIDが変わっているが、上二つのレスは同じ人間です。
- 45 :
- >>1
重野安繹って、楠木正成も否定するなど、
元祖左翼自虐歴史家。
しかし、別れた女に金持って行くなどチョット、ピュア過ぎてキモくないか。
島流しになるまで、Rだった可能性大。
新しい男が出来ていた島の女はチョー迷惑だったろうな。
- 46 :
- 大体都合が悪くなると、個人批判に走るからねぇ
歴史に残る大業を残したのは変わらないよ
そりゃ現代だったらその辺も気を使わないとならないだろうけど
- 47 :
- >>42
そんなにヒステリーをおこすなよ。
島の外に女を連れて行くのは厳しく禁じられていたのは有名な史実だぜ。そんなことも知らねーのか。
- 48 :
- 西郷はヒステリー男
- 49 :
- 西郷を批判して悦にいる、現代のしょぼヒステリー男って感じかw
そんな暇あったら日本を何とかしてくれよw
- 50 :
- 明治のしょぼヒステリー男、西郷。
- 51 :
- >>18
>>19
戦時に反逆者、敵前逃亡者は現代でも極刑なのは当然だろ。
- 52 :
- >>48
>>50
しょぼいコメントだな。
- 53 :
- しょぼいコメント男、西郷。
- 54 :
- 故三宅壮一氏が、昭和30年に来鹿したときの話しがある。
市内の知名士の家には、どこにいっても敬天愛人の額か、西郷の肖像画を飾られていた。
某青年団長に、郷土の尊敬する人物の名を問えば、「西郷、大山、東郷」との
答えが返ってくる。「ほかにはないのか」と聞くと、「あとは知らん」という。
これに驚き、鹿児島の人は郷土の素晴らしい政治、文化、経済に活躍した人々をなぜあげないのか、
と余りのお粗末さに慨嘆したという。
これ、まさにこのスレの信者のことだな。
重野安繹という日本の歴史学の祖といってもいい同郷人を貶めてまで、
西郷の小さなめんつにこだわる田舎者根性。
- 55 :
- ×三宅壮一氏
○大宅壮一氏
- 56 :
- >>54
そうじゃないだろう、
重野に関しては同郷人であるというだけで、えこひいきせずしっかりと人物評価をするということだ。田舎根性とは正反対の姿勢だ。
- 57 :
- >>54
大業は語らず個人攻撃は納得いかんなと言ったら
鹿児島人判定かよw残念でした関東ですぅ
小さなめんつ言う割りにはそっちの方が小さいんじゃね
西郷のファンなんて全国にいるだろうにwあふぉかw
- 58 :
- 城山の洞くつで、ある日西郷は「開戦以来何人が死んだのか」と独り言のように云い、
もうよい、と云うように首を振ったという。
西郷の「もうよい」という一言が、熊本や人吉あるいは宮崎で出されていたらどうであったろうか。
おそらく西南戦争は、もっと違った展開をみていたであろう。
西郷が最前線に出て行って戦場を自分で見たらどうであっただろうか。
累々たる死体、骨がくだけ肉が飛び散った死体の山。西郷が一度として見たことのない、近代
戦争の惨劇がそこにあったはずである。「もうよい」という西郷の声が聞えて来そうである。
過剰な護衛に守られ、もっぱら後方の寺院に潜在していただけの元”陸軍大将”西郷隆盛は死の間際何を思ったか・・
- 59 :
- 故鹿大名誉教授原口虎雄氏は西南戦争での西郷軍を評し、
「独善的傲慢さにはあきれて物が言えない。
これは『西郷一個人の価値が日本国家より重い』という価値観である」と厳しい。
熊本城下の七割を戦災で焼いた。さらに人吉では、哀れ700年来の古都全部を焼亡した。
また都城近くの飯野などの戦災もひどかった。
九州焦土戦の無残さには、西郷美談の「江戸無血開城」なんぞは小学生でも疑問を持つであろう。
熊本の田原坂で勝敗は決したのに、その後長い無益な流血の抵抗をした。
その間西郷は陣中で愛犬と遊猟に興じ、「三月ごろには大阪に達しているでしょう」などとノンキな手紙を出している。
- 60 :
- <西郷どんのちょっといい話し>
西郷隆盛は大隈重信に「西郷くん」と呼ばれていた。
大隈は西郷より10歳年下である。
- 61 :
- <西郷どんのちょっといい話し>
西郷が鹿児島で外出する時は、「地上での土下座では恐れ多い」と百姓たちを道のわき溝の中に飛びこませ、
水から首だけ出して西郷一行を出迎えさせていた。
- 62 :
- <西郷どんのちょっといい話し>
西郷リスペクトを広言している最近の政財界人
小沢一郎 (民主党 → 国民の生活が第一 → 日本未来の党 → 生活の党 参院選当選ゼロ)
鳩山邦夫 (ルーピーの弟 パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー)
渡辺美樹 (ワタミ社長 「365日24時間、死ぬまで働け。」)
- 63 :
- >>60
それがどうした。
どちらかというと、大隈の問題だろ。w
- 64 :
- >>61
これもよくある作り話。
- 65 :
- >>62
それで?
もう、支離滅裂だな。w
- 66 :
- >>59
熊本城下は官軍、谷干城が薩摩軍が到達する前に火をつけたのもしらないのか、w
- 67 :
- 征韓論はただの武器ブローカーの役割
のだったとは
- 68 :
- ただのおだてて言う事聞くみこしですた
- 69 :
- http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1286023489/13-113
- 70 :
- > >>61
> これもよくある作り話。
>>64
「昔はお殿様のお通りの際は、わき溝にかがんで迎えたものですが、
加治木では西郷さんが通る時も同じようでした。」
(西郷夫人イトの実家の嫁の証言 昭和27年6月録音)
- 71 :
- <西郷どんのちょっといい話し>
西南戦争”熊本攻城戦”で苦戦していた西郷隆盛の戦局分析は
「敵の大将は土佐の谷干城だが、参謀の樺山資紀が薩摩出だから、城は容易に落ちないのだ」
「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」というものでした・・・
数で圧倒していた西郷軍でしたが、3日間の激戦の末、一兵も城内に入ることができませんでした。
これにより「西郷軍弱し」の風評が全国の士族団に伝わり、西郷軍の孤立化はますます深まったといいます。
- 72 :
- どこがちょっといい話なのか説明してくれ
- 73 :
- 嵐だからほっとけ
- 74 :
- せごどん
- 75 :
- >>8
助命嘆願て、徳川慶喜や松平容保みたいな貴人なら分かるが、
西郷さん助命てなんか違うわな
西郷さんが自分と桐乃が腹切るから、周りの若いもんは死罪免じてくれ、ぐらい言えなかったか
- 76 :
- >>75
もともとそれが西郷という人物の実像じゃないの?
実弟の従道は西南戦争が勃発すると妻の清子に、
「私学校の奴らが、戦いをはじめたよ」と他人ごとのように言ったそうだ。
一緒に育った従道には西郷という”人物”が分かっていたのだろう。
- 77 :
- >>75
西郷は助命嘆願などしてい無い。ネットでしか情報を得ないやつは、このスレに散らかされている珍説の吹き溜まりが、どれほど普遍性から乖離した情報かということも考えずに信じるからな。
- 78 :
- 釣り糸で可杉。
- 79 :
- 藤林丈司
- 80 :
- >>76
従道は最初西郷さんについていこうとしたんだけど、お前は残れといわれて
残ったんだよ。
- 81 :
- 東郷平八郎も「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言ってたな
兄貴は西郷軍にいて城山で戦死してるし
ほかにも兄弟・親子で敵味方に別れて戦った例は多いんだろな
- 82 :
- それらは典型的な捏造美談ですよ
- 83 :
- >>82
何言ってんだ。
しっかりした記録が残っている。
- 84 :
- 「もし〜たら〜だろう」の話しでしっかりした記録もなにもないだろうw
それに、大河ドラマや海音寺潮五郎のマンセー小説は「記録」とは言わないからなw
- 85 :
- アンチは東郷の兄が城山で死んだことも捏造だと言ってるの?
美談でも何でもなく事実だと思うが、否定したい理由がわからん
- 86 :
- 幼稚な話題すり替えだなw
で、平八郎発言のたしかな記録は?
- 87 :
- お好み焼き屋で山芋短冊とか納豆ばっかり頼んでたら通扱いされた。
ただ腹にたまらないもの食べてただけなのに…。
- 88 :
- 兄が西郷軍に身を投じたのなら、弟の平八郎も可能なら西郷軍に
参加したろうというのは、常識的な思考力があればおもいつく話だよね。
山県が西郷あての手紙でいってるとうり、肉親も敵味方にわかれて
戦った例がおおかったわけだな。「骨肉相殺し、朋友相食む」だ。
- 89 :
- いやはやこれはもはや宗教だな
西郷原理教
- 90 :
- 西郷を褒めるレスがあると宗教かぃ。
だったら明治天皇も西郷教ですなぁ。
- 91 :
- 敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり 其の六》
西郷は、坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いたことがある。
当時の西郷家は非常に粗末なつくりであったため、雨洩りがしていた。
耐えかねた夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。
雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と西郷にお願いをしたところ、
西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱った。
この話を隣室で聞いていた坂本龍馬は感心したと伝えられている。
いい話しですね。出典不明(笑)ですが。
西郷家(維新後)の詳細が分かりましたのでさらに解説します。
鹿児島の自宅は千百坪の超大邸宅で20人以上の使用人がおり、
犬も20匹も飼っていたそうです。
西郷さんのモットーは
「ケチと呼ばれては世上の聞こえも悪いから、毎月少なくとも百円(現在の130万円)は使え」でした。
(出典:西郷従道夫人清子談話)
- 92 :
- 敬天愛人シリーズ
《 西郷隆盛の人となり 其の七 》
「子孫のために美田を買わず」で有名な西郷さん。
鹿児島武岡山麓に1100坪の大邸宅を買っていたことはすでに述べた。
それ以外にも東京日本橋の大名屋敷500坪。
一族の従道は東京目黒に14万坪。
従道とこれまた一族の大山巌が共同で栃木県に150万坪。
しめて西郷一族が買い漁った土地の広さなんと東京ドーム117個分。
しかもこれらは政府から格安で払い下げられていたそうです。
なんともうらやましい話しですね。
- 93 :
- 敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり 其の五》
西郷さんが財政家の井上馨を「三井の番頭さん」と罵倒したことは有名ですね。
では清貧の義人西郷さんはどんなお金の遣り繰りをしていたのでしょうか?
政府から西郷さんに支払われていた給金ですが、
月給千五百円、現在価値で2千万円。年俸2億4千万です。
政府と喧嘩して鹿児島に帰り実質無職になったあとも、どんな特権か知りませんが
給金はしっかり鹿児島に送られていたそうです。
- 94 :
- 同じコピペをマルチポストで何百かいも、、年中無休。
自己嫌悪に陥らないのか?
- 95 :
- 効いてる効いてるw
- 96 :
- 西郷さんが嫌いで嫌いで仕方が無いんでしょう。
- 97 :
- >>93
無職ではない。
西郷隆盛の申し出で、参議辞職は受理されたが、陸軍元帥の辞職は受理されていない。
マジレスするのも馬鹿らしいが、こんな調子でアンチによるコピペは嘘に塗り固められている。
- 98 :
- 元帥、参議であり、維新での命を張った功績など考慮すると年収2億なんて安すぎ。
- 99 :
- 効いてる効いてるw
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