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家康が最も恐れた男は誰なのか?


1 :2011/03/11 〜 最終レス :2013/10/22
まあ、信長なんだろうけどさ

2 :
家康 恐怖レベル
LV1 じっと我慢する
LV2 ガタガタと震える
LV3 わざとらしく切腹するぞとわめいて、部下をチラ見する
LV4 ウンコ漏らす

3 :
>>1
誰がどう考えたって信玄に決まってるだろう?
他に今川義元、豊臣秀吉、石田三成、真田昌幸とか。
関ヶ原だって「石田三成じゃ家康に勝てるはずない。格違い」とか思うのは結果論で、
実際には西軍が勝手も全然おかしくなかったはず。
信長には別に臣従もしてないし、敵対もしてないし。
どう考えたって、「最も恐れた男」ではあり得ないだろ。

4 :
家康が最も恐れた男は誰か?
→最も恐れた男は信玄で、異論の余地なし。
で、このスレは終了かな

5 :
鯛のテンプラを勧める奴

6 :
織田信長への態度 無視され、ひどい仕事まわされ、見捨てられてもじっと我慢 信長死去まで属国扱いを受け入れた。
武田信玄への態度 圧倒的兵力で攻められても恭順せず抗戦した。敗北してもなびかずに、織田との同盟を守り続けた。

7 :
今川義元

8 :
ちとうがった見方をする。堺などの商船財界人。
信長とは衝突もあったが現実路線をとり和睦、秀吉とは、航海技術の発展期と
重なり、蜜月といわれる関係をもった。
だが家康とは距離をおき続けた、という。ゆえに大阪の陣では、家康は市中略奪
を許す。徳川幕府とこれらが正常化するのは、紀伊国屋の登場からだった、とき
く。それまでに徳川がうった西国弱体化政策は、枚挙にいとまが無い。

9 :
家康が一番恐れていたのは、本多忠勝、あるいは大久保忠教あたりの家臣だろう。
 信長亡き後、秀吉がやったようなことを、
 秀吉亡き後、自分がやったようなことを、
こいつらは自分が死んだあとにやってのけるかもしれないと、戦々恐々としていたと思うね。
だからこそ、たった2年で息子を将軍に据えたのだ。

10 :
蓋を開けてみてびっくりさせられたのは真田幸村かな?

11 :
>>9
それを言うなら、島津と毛利だろう。
こいつらは幕府創立当初からの仮想敵で、
実際に300年後にこいつらに滅ぼされたわけだし。

12 :
司馬遼太郎若しくはコーエー

13 :
家康が島津をむっちゃ警戒してたのは事実。
仮想敵ってのもその通りだが、
スレタイの内容からすると、>>4でFAだな

14 :
武田か織田か、どちらにつくべきか?
そして最後は天下人。選択を誤って武田についていたら?
織田に滅ぼされていたかも。

15 :
むしろ織田を滅ぼしていただろ

16 :
フェーズによって違うな。
少年期は、今川が一番の脅威
戦国大名時代の脅威は、武田信玄、織田の順、それらが滅んだ後は、豊臣秀吉
天下統一期は、外様大名
外様大名をある程度押さえ込んだ後は、自分の有力家臣が一番の脅威
外様は遠国、家臣団には高禄を与えないことで何とか乗り切ろうとした。
家康は、死ぬまで脅威を内外に抱えた人生を送ったと見るべきだろう。


17 :
築山殿だろう。

18 :
>築山殿だろう。
それで最後まで信長についていこうとしたのか。

19 :
築山殿は女だろ(笑

20 :
伊賀越え中の山賊やら海賊やら。

21 :
豊臣秀吉。
徳川家康が唯一臣従した男。
人質に出されていた今川義元のもとでも、つらい先陣ばかりさせられた織田信長のもとでも、
家康は同盟者という立場を貫き、形の上では臣従しなかった。
しかし、豊臣秀吉に対しては臣下の礼をとり、家臣となった。
明治時代以降、徳川家を臣従させた豊臣秀吉は忠臣であるとされて
徳川家の壊した秀吉を祀る豊国神社があちこちで再建され、
悪臣徳川家康を祀る東照宮においては
家康を唯一臣従させた豊臣秀吉の像を同時に祀るという事態が起こっている。

22 :
晩年、孫たちに戦国時代の話をせがまれた家康は
信玄の話ならば、嬉々として話したが(完全に古き良き思い出化 舐められてるぞ)
信長の話をせがまれた時は、暗い顔をして押し黙るだけであった(死後何年立とうが、どれだけ年食おうが、天下統一しようが、決して消えないトラウマが植え付けられている)

23 :
>>21
明治新政府の後付けの徳川の権威失墜策を根拠に当時を語ってどうすんだよ。

24 :
>>23
おいおい、前半は無視かよw
家康が生きていた当時、豊臣秀吉以外に家康を家臣にした人物がいるのかよ?

25 :
密かに松平元康、信長が命じたから殺したというのは、江戸期に捏造された話
つうか生涯で最も家康を恐れさせたのは、ひょっとしたらまだ家康が竹千代だった
頃、二心を抱き今川ではなく織田家に差し出した御家来衆だったりして、幼少期
のトラウマってのは時として人生を左右するものだしな。

26 :
>>24
信長には正妻と嫡子の処刑を命じられるほど圧迫を受けたたが、
秀吉にはこれでもかと懐柔策を取られ、国を挙げての朝鮮出兵まで
拒否してのけた。
形ばかりの主従関係など、比較には何の意味もない。

27 :
>>26
近年の研究では築山殿と信康を殺害したのは徳川家当主
家康の意思だったといわれている。
信長の命令よって正室と嫡男を殺害したというのは江戸幕府成立後、
江戸末期に書かれた書物にしか登場せず、一次史料にはどれにも載っていない。
江戸幕府創建者である家康は神とされていた時代のもの。
家康は信長が死に、織田家が没落し、織田が徳川家の監視下で暮らす小大名となった後も、
信長の娘である信康の正室五徳に仕送りを続けた。
信長の命による実子殺害ならばその原因になったともされる(信長への密告者だとされる)
五徳にこれほどの温情をみせるとは考え難く、
五徳が武田氏で見られたような徳川家内の嫡男粛清の犠牲になったからだといわれる。

28 :
>>26
徳川家康は豊臣秀吉の後北条攻めにおいて率先して困難な先陣を勤め、
このとき兵も疲弊していた。
秀吉は他の小田原攻めに参加した大名についても朝鮮出兵を免除しており、
家康一人が自分の都合で秀吉の命令を突っぱねて行かなかったわけではない。
家康が自分の都合で朝鮮出兵に行かなかったのならば朝鮮出兵参加兵士が
東軍に味方することもなかっただろうし、どのみちその話は嘘だよ。

29 :
>秀吉は他の小田原攻めに参加した大名についても朝鮮出兵を免除しており、
何言ってんだ??
信雄は改易、蒲生は出陣準備中に死亡、黒田や宇喜多や小早川や細川など主な武将は渡海だ。
お前、この後のレスもその調子で法螺吹くつもりか?

30 :
>家康が自分の都合で朝鮮出兵に行かなかったのならば朝鮮出兵参加兵士が
>東軍に味方することもなかっただろうし
東軍諸将は石田三成が嫌いだったからその敵に回ったわけだろ。おかしなことを言う奴だ。

31 :
>>29
徳川家康は秀吉の居る名護屋城まで出兵しており、
朝鮮出兵を断って関東でのほほんとしてたわけじゃないんだが?
秀吉からその場で渡兵を命じられれば拒絶できるはずもなく、
秀吉からの命令を待っていたというのが正しい。
だいたい、九州にいる秀吉のいるおひざ元まではるばる大軍を率いてきていて、
朝鮮出兵を家康が拒んだとか言っている頭がおかしい。

32 :
「常山紀談」に家康が渡兵を拒否した話として、
「箱根を誰に守らせるのか」といい、全軍を朝鮮に差し向けるのではなく、
万が一国内で反乱が起こった場合に備えて家康が
徳川軍を日本に残すよう言った話があるとしている。
これは江戸時代中期に成立したもので、実際
秀吉の命で九州着陣中の家康が言ったかは定かではない。
北条への先陣や朝鮮出兵の名護屋城守護を家康は拒むことができなかった。
家康が秀吉の命令を自由に拒めるのであれば、わざわざ大軍を出して
遠くから来ないだろう。
いずれにせよ、家康は秀吉に大して形ばかりの主従関係で
秀吉の命令を堂々と無視できたという>>26 は誤りだろう。

33 :
いつもいつも無理難題を吹っかけてくる大口顧客(信長)と、人事権を持っているものの
こっちの立場は十分配慮してくれる上司(秀吉)。
どっちが恐い?

34 :
>>33
なんで同盟者が「顧客」なの?
全然比喩になってないじゃん。

35 :
支配被支配の関係にはなくても、指図には逆らえない関係。
社会経験があれば分かる。

36 :
社会経験ある人なら、そんなアホな譬喩はしないよ。
同盟というのは、少なくとも形式上は対等な関係であって、
そもそもが甲乙の関係にある取引関係に例えるのは、まるで不適切。

37 :
>>22
そりゃあんな基地外好きな奴なんていないだろ
信長を好意的に評価してる奴なんてほとんどいないもんな 無様よのぉ

38 :
信長に関しては、信康の件もあってろくな思い出はないだろうな
信玄に関しては、家康が自分を美化するために持ち上げすぎだろう
三方が原で負けたのは俺が弱かったんじゃなくて、信玄が最強レベルに強すぎたってなw
家康は秀吉や信長に比べれば、ろくすっぽ合戦もせずに天下とっちまった、計略の人だからなあw

39 :
何この1で結論でてるスレw

40 :
直江兼続じゃないの?
国営放送様が大々的に報道してたぜ

41 :
>>38
最近の研究では信康は家康の意志で殺したらしいけどね
武田でも信玄が実の息子に謀反される事件が起こっており
家康も精鋭の息子の謀反に怯えていたらしい
信康は信長の娘婿であったために信長の許可はとったらしいが
江戸時代中期になってから幕府開祖東照宮様の息子殺しの罪を購うため
信長の命で殺したということにしたらしい

42 :
>>39
はぁ?
「4で結論でてる」のまちがいだろう?

43 :
今川義元がスルーされまくってるなww

44 :
各都府県ごとに「家康が最も恐れた男」の候補者を選出し
トーナメントで競わせて白黒を決めるべきだな
とりあえず我が近江代表は石田ミッチーで

45 :
候補
今川義元
織田信長
顕如
武田信玄
豊臣秀吉
前田利家
真田昌幸
伊達政宗

46 :
北海道代表 松前崇廣
沖縄代表 安室尚士巴

47 :
一向宗にキリシタン

48 :
家康たんは俺のデカマラがちょっと怖いみたい
俺が素っ裸で仁王立ちになると、むちむちのヒップをぷるぷると震わせながら四つん這いで逃げるんだ
逃げたお仕置きとしてヒップを叩いて強引に抱きよせてやるんだけどね
羞恥と怯えの入り交じった顔をじっと見つめながら、「絶対優しくするから。大好きだよ」って言うと、ふくよかなほっぺを綻ばせて「信じておるぞ」と頷いてくれる家康たんマジ可愛い

49 :
織田信長

50 :
これからダスキン!

51 :
「ヤッター義元が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター信玄が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター信長が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター秀吉が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター利家が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター清正が死んだよ!ラッキー!」
何という強運
家康が最も恐れたのは家康自身だな

52 :
>>51
義元はともかく、その他の人については
本当に「ただのラッキー」だったのかどうかわからない、というところが
家康の不気味なところでもある。

53 :
独特の戦法を考え付いた徳川家康
http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/43/289_2.html
スパイを使い変則陰謀を組み合わせて敵に食い込んでいった。

54 :
>>52
家康はその辺の戦国武将の中では一番若かった
だから長生きさえすれば天下を取れると言うことで精進したんじゃなかったか
家康が信長や秀吉が死んだのと同じ年で死んでたら間違いなく天下は取れなかった
孫の夫である若い豊臣秀頼をようやく殺したのは70過ぎてからだし

55 :
>>51
あとは大久保長安と大久保忠世がRば、松平は安泰・・・

56 :
>>54
長生きしなかったら天下を取れなかったってのは確かだが
「長生きさえすれば天下を取れる」ってことはないだろう。

57 :
真田幸村に対し、瞬間的に過去最高値の12000オソレパスカル

58 :
>>56
晩年はそれだけだったような気がするが
「秀頼をRまではRない」
実際秀頼を殺したらその翌年に死んでいるから

59 :
鯛のてんぷらを最も恐れるべきだったな。

60 :
>>56
晩年って既に「天下を取った」後だろ。
いずれにせよ、
「長生きさえすれば天下を取れる」なんてことはない。

61 :
一代の夢で散った信長や秀吉を見ていた家康は思った。
(天下を取るのは意外に簡単だな。問題はそれを維持する体制をどう作るかだ)と。

62 :
>>60
家康は秀吉が死ぬのを待っての関ヶ原なんだから
信長や秀吉存命中に天下を取ったわけじゃなし

63 :
62はなんの話してる?
60が言ってるのは、関が原時点で家康の年齢は秀吉の寿命に届いてないのに、長生きすれば云々は変だってことだろ
寿命の長さと死亡時期の比較をごっちゃにしてないか。

64 :
↑くどい

65 :
>>63
関ヶ原の前にRば終わりだったわけだがw

66 :
関ヶ原の後でも大坂の役前に家康がRば秀頼の天下だったよね?
秀頼は関ヶ原後もずっと家康の跡取り秀忠より官位が上だった
秀頼の義姉(淀殿の猶子)の豊臣完子は関ヶ原の後でも
摂家へ正室として嫁入りできるくらい豊臣家にはまだ威玄があったし、
完子の摂家嫁入りは秀頼の関白就任のための布石だったんだろうし。

67 :
官位の頂点の天皇の天下にはならないよね

68 :
> 関ヶ原の後でも大坂の役前に家康がRば秀頼の天下だったよね?
それはない。

69 :
関ヶ原の後、大坂の役以前に既に
徳川家が諸侯を移封する権限を持っていたからね。
既に天下は徳川家のものだったことは明らか。

70 :
>>51
それじゃ神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世じゃねーか

71 :
a

72 :
ho

73 :
ka

74 :
i

75 :
a

76 :


77 :
家康が恐怖のあまり失禁(脱糞)したというのは、
倒幕した明治政府による捏造です。
狸親父の肥満体もまた同様。
(節制による長寿の家康は健康体)
前政権の江戸幕府を貶めるために
故意に歴史を歪めて国民へ教育しました。
その誤った知識は、明治以降から平成に至る現在まで続いています。

78 :
>>77
太ってても血圧と血糖値が低ければ長生きできるぞ
適度な運動してれば血糖値は下がるし
食生活と睡眠時間に気をつければ血圧は下がる
中年以降の肥満は代謝の低下が原因だからあからさまな不摂生の結果である
若年肥満とはわけが違う

79 :
俺は家康に恐れられたと思う

80 :
最も恐れたのは天ぷら職人

81 :
まあ、後世の歴史家はそれなりに恐れただろうな

82 :
>>66
豊臣完子が摂家に嫁いだというが
あれは江の娘で、徳川家にとっても姻戚だろ。
家康の跡取り秀忠の嫁が生んだ娘なんだから。

83 :
山県昌景でいいじゃん

84 :
家臣団で。

85 :
普通にいって時代によって違う。年代順に家康が恐れた男の名前は、
今川義元、織田信長、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、でしょう。
家康は大阪の陣を無理やりにでも起こしたかった。秀頼に関白になられたら
困るから。

86 :
>>85
秀頼の若さを怖れたのだと思う。将器じゃなくて。
最後の敵にだけは人間誰も勝てない。だから公平でもあるけど。

87 :
>>57
幸村が恐れられたのは実際に襲撃された数時間の、さらに危なかった数十分のみだろうな
嘘か本当か、大阪に入ったのは息子の方と聞いて安心したって逸話があるくらいだし
(そんだけ昌幸を恐れていたなら生死くらい把握してただろうから眉唾だが)
実戦での実績のある親父(言わずもがな)や兄貴(上州方面で北条軍を翻弄)と比べて
幸村は実績ゼロだったし

88 :
カトリック

89 :
家康ってバランスとれてるね。信頼の武将だな。信長の気の使い方も
相当だったと思う。安土城での接待は信長自身が給仕したそうじゃないか。
おれは三成ヲタだが、家康は凄いと同意する。このおっさんが一番おそれた武将か。
ま、一番じゃないが、苦手意識あったんじゃないかと思われるのは、蒲生氏郷
じゃないの?一番じゃないだろうけど。一番は分からんのだよ。家康は何時も危険な
警戒すべき事象を丹念に怠りなく恐れる優等生だっただろうからね。

90 :
家康が討ち死にしかけるほど危険になったの
信玄・幸村・三河一揆の時だけなんで
この3つでいいよ

91 :
海産物を狙った武将だと
甲斐とかだろ

92 :
>>86
別に同じだろw
自分の息子もボンクラなのに将器がどうとかどうでもいいよ

93 :
>>77
しかし1609年駿府城で家康の謁見を受けた
南蛮人ドン・ロドリゴは『日本見聞録』の中で
「家康は中背で肥満し、愉快げな容貌で・・」と書いてるんだけどな

94 :
家康は120Kgオーバーだったんだよな
だから、タヌキと呼ばれたんだよな

95 :
514 :名無し曰く、:2011/09/03(土) 20:23:42.59 ID:TtVgytfA
>>513
薄田隼人は軍事16、木村重成も軍事17。
この二人も華々しい散り際のみで評価されてるよね。
そうそう、秀頼は士気低くてゲンナリ。
幸村が「秀頼公自ら出陣すれば士気も上がり・・・」みたいな
進言をしたはずだけどこれじゃ...orz

515 :名無し曰く、:2011/09/03(土) 21:00:14.16 ID:mGXbPM//
ちがうちがう出陣しなかったからあの士気設定なんだろう
仮に出陣してたら戦果にもよるけど70-80はあっただろうな
一説には太りすぎて馬がつぶれて出陣できなかったという説もあるけど
190cm160kgの超巨漢だったらしいからな


96 :
秀吉は謀臣・黒田如水を恐れていたと小説に書いてあったので
同様に家康は本多正信を一番恐れていたに一票w

97 :
>>82
完子の九条家嫁入りは摂家である豊臣家が決めたことで
徳川家が決めて嫁がせたんじゃないよ
当時の史料にも完子の嫁入り支度は淀殿が行ったとあって
徳川家が関与した形跡はない

98 :
秀頼の存在に一票

99 :
徳川家康は秀頼に孫娘の千姫を娶せ、
久かた振りに再会した時に、ひ弱で世間知らずの青二才に育っていると思っていたところ、
さに非ず。聡明で偉丈夫なのが後々の禍根、脅威となると判断して
豊臣家墜滅を決心(早め)させたともいわれます
この時に前田藩の三代藩主の如くプライドを覆い隠してバカ殿、情弱を決め込んでいたら豊臣家は(逼塞しつつも)存続したかも



100 :
山内一豊だろ

101 :
1信長
2信玄
3昌幸家、島津家
今川や武田じゃなく信長選んだし、あの人には刃向かえないだろ。三方原のうんこで信玄にもかなり萎縮、晩年は真田ファミリーを警戒していたんじゃない、あと島津家も関わりたくなさそうな感じだね

102 :

>>101 かなり正確
家康公は信長以外だと信玄にコンプを抱いていた。
信長公は信玄を甲府の山猿とバカにしていたが織田は上杉謙信を
恐れていたので贈り物が謙信と信玄では相当違う。信玄は過大評価されすぎ
後に徳川家康が天下人と成ったので信玄に、徳川は直接、
謙信と交えていないので謙信の強さ知らないみたい。
後の上杉景勝は本能寺の変が無ければ潰されていただろう。
歴史では戦国最強は上杉謙信のようだ。
徳川は織田の舎弟親戚関係だったので島津は織田信長に恭順していたので
家康公は島津の強さは聞いている。
因みに本能寺(日蓮法華経)によく宿泊していたのは薩摩からの鉄砲のルート。

103 :
前田利家も相当警戒されてたな。
強いって意味じゃなくて声望という意味で秀吉の死後、唯一徳川を潰す戦力を糾合できた存在。

104 :
>>102
包囲網しかれ美濃に攻めこまれ岐阜でブルってたアホ長がどうしたって?

105 :
>>103
前田利家は豊臣秀吉の親友で家康と共に秀頼保護を頼まれ
実際に家康が秀吉死後すぐに有力大名に養女を嫁がせまくって義父として
干渉し始めると文句を言っている
しかし、秀吉時代にも家康の所領の石高は利家の3倍近くあり
前田家が戦って勝てる相手ではなかった
そのため前田利長は家康が前田征討に乗り出すとあっさり降伏して
人質を出し、服従の誓書を提出している

106 :
>>101
1位 豊臣秀吉=ただ一人家康を家来にした男
2位 今川義元=家康19歳までは生かすもRもこの人次第
3位 武田信玄=とにかく怖い隣人だった
織田信長には家康は臣従しておらず「援軍遅れたら武田に寝返るぞ!」
と言っているようにある意味裏切ることも可能な相手だった
家康を家来にした男は豊臣秀吉だけ
そして19歳までの主君だった今川義元も怒らせればいつでも人質の家康は
殺される運命にあった

107 :
>>20の言うとおり。
家康が最も恐れていたのは、伊賀の山中の、名もなき山賊だろ。
神君一番の危機は、このときだったのだから。

108 :
信長。
嫡男と正室を死なせた。

109 :
大河で家康役の西田敏行が秀吉が死んで、フンドシさらけ出して、泣いて、怖いものなくなったってさ、喜んでたけど、やはり、最後は秀吉だったんじゃないかな
団結して、謀反できるほど家臣団、仲良くないしな
ちなみに仲間由紀恵の大河な

110 :
天皇じゃないだろうか。特定の帝個人ではなく、その地位を。
なので、公家諸法度を作ったのだと思う。

111 :
家臣じゃない?
祖父と父親が家臣に殺されているんだし。
敵は身近にいるわけではないけど家臣は身近に存在しているから余計に。
よく家康と家臣の心温まる逸話があるけど、実の所は家康は心底では
猜疑心を常に持っていたけどそれを表面には出さないようにしていたような
気がする。

112 :
とりあえず家康はちょっと戦況が不利になるとすぐ腹切るとか
突撃して死ぬとか言い出す癖があったから
それを「恐れさせた」という理由には出来ない
新規の家臣は殿が動揺してると焦りまくるが、昔からの家臣は
また殿の駄々が始まったと苦笑するだけだったらしいw

113 :
武田も秀吉も一端は家康は戦うことを選んだ。
勝機を見たとまでは言わないが、降るより戦うほうが利が大きいと判断されている。
その点、信長には最後まで同盟を守った。
武田と織田に挟まれては織田を選び、織田の戦力の多くを継いだ秀吉とは戦う事もできた家康が
織田とは対等の関係を築こうとすらしていない。
やはり桶狭間の恩というか衝撃が大きかったのだろうか

114 :
怖いものだらけだったんかも。
三成は手のひらで転がせたけど。

115 :
>>108
信長の命で家康が嫡男を殺したというのは江戸時代末期の徳川方文書にしかないよ
江戸時代には家康は東照大権現という神様だったので家康の息子殺しの罪を
信長になすりつけた可能性がある
また、江戸時代の史料にも築山殿殺害については信長の命ではなく
家康家臣が(家康の意向をくみ取り)勝手にやったこととされている
よって築山殿殺害にはどのみち信長は絡んでいない

116 :
信長の親族で家康が天下人になった後で一番厚遇したのが、その手の文書では
父親に信康のことを誣告したことになってる五徳姫だからなw

117 :
小早川秀秋が有力だな

118 :
いや、豊臣秀吉に擁立されて天皇になれた後陽成天皇だろう。

119 :
浅井長政だろ

120 :
信玄でいいじゃん。ウンコ漏らしたくらいだし。

121 :
土曜の朝っぱらからまじに考えたんだけどー、島津と毛利の連携じゃなくね?
連携さえされなきゃそれほどでもなくね?って思ってたんじゃね?
俺って頭よくね?

122 :
結果的に毛利と島津に崩壊されたもんな

123 :
>>121
「男」って氏じゃなくて、一人の人間のことを指すんだが
そんなこともわからないのか?

124 :
もっとも強烈な恐怖心を抱いたのは誰か?って言えば、
マジで殺されかけた武田信玄に決まってるがな。

125 :
しかしそのような一時的恐怖に惑わされず
家康は信玄と戦い続け、信長都の同盟を守った
最も恐れたのは信玄かもしれないが、
最も畏れたのは信長であろう

126 :
ところで家康は天下取った後も
どうして江戸なんてど田舎にとどまったのだろうか
やっぱ西の連中が怖かったのか

127 :
>>126
当時の「近畿一極集中」がひどかったからだ、という人口学者の説があるよ。
1600年当時、日本の全人口の30%以上が近畿地方在住で、15%以上が京都大坂堺周辺に居住。
これは、驚くべきことに、ほぼ今の首都圏一極集中と同じレベルで、
当時は石油や天然ガスを使うわけではないから、比叡山も東山も六甲山も生駒山も禿山だった。
実際、家康は、幕府所在地を、「伏見」と「江戸」の二択で悩んでいたという説がある。
(まだ大坂には秀頼がいるから、上方の候補地は伏見になる)
結局、「一極集中の弊害打破としての首都移転」の発想で、江戸にしたわけだが、
どうも江戸は、最後まで家康の趣味に合わなかったらしく、
彼は、何かと上方や駿府に滞在し続け、江戸には寄りつかなかった。
真に「江戸政権」が出来たのは、家光以降。

128 :
当時の人間に、そこまで近代的な思考ができるかな?
まあ室町は早々に弱体化したから、京都って選択肢も危ないと言えば危ないな

129 :
いいことあるさ。

130 :
ムラマサの鍛冶職人らしいな

131 :

家康は、「関ヶ原の戦い」で「平将門の乱」
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/39/266_1.html
http://3rd.geocities.jp/jcon_tline/02/c/16.html
家康は、「関ヶ原の戦い」で「平将門の乱」を繰り返した。

132 :
何か今横山光輝の家康読んでるんだけど信康って殺されて当然な奴じゃねーか
影武者家康じゃ、スゲー善人に美化されてんな
坊さん殺したりとか侍女殺したりとかこれ史実でしょ?領民殺したりとか
ありえねーだろこれ、これが頭首に成ったら武田どころじゃ無くあっという間に滅びるわ

133 :
どっちも創作だろアホw

134 :
マジレスすると
伊賀越えのときの名もなき落ち武者狩りの奴らだろう

135 :
若い頃は今田義元、青年期は武田信玄、晩年は豊臣秀頼
豊臣家を滅ぼしたところで、やっと安堵

136 :
家康が最も恐れた女は誰なのか?

137 :
・淀殿
・北政所
・築山殿
・朝日姫
家康は結構女に苦しめられた

138 :
全国の東照宮にはすべて豊臣秀吉が祀られている
東照宮といえばもともとは東照大権現、すなわち徳川家康を祀って江戸時代に造られた社なのだが
明治時代に徳川家康を唯一臣従させた男として明治新政府によって豊臣秀吉が合祀され
徳川家の反乱を神界からも押さえるという処置がとられた
家康がそんなに織田や武田を怖がっていたのならばそっちを祀っただろうに

139 :
家康どころかその子孫の意志すら反映されてない祭祀状態を根拠にするとか、ちょっとどうよ。

140 :
そら、子孫に聞いたら徳川家にとっては
何よりも江戸幕府を終わらせた明治新政府が一番怖かったでしょうよ
危うく一門切腹を命じられるところだったんだから

141 :
子供じみてるなあ。新政府を理屈抜きにR蛮族か何かのように捉えてるのか?

142 :
織田信長やら武田信玄は蛮族だけど、って?

143 :
明治新政府の強硬論者西郷隆盛あたりを
聖天子のように言うのもなあ。
徳川慶喜の切腹を求めてたじゃん。
徳川方の江戸城詰め旗本・譜代たちも新政府が江戸城を攻めるならば
朝廷から徳川に嫁いだ和宮を人質としてRと新政府を脅してるし。

144 :
>>142
江戸末期に戦国時代の感覚で殺しまくれば蛮族。京あたりのろくに統率の取れないDQNどもと同じ。
>>143
>徳川慶喜の切腹を求めてたじゃん。
当主一人と一門では全く状況が違うんだけど。
>朝廷から徳川に嫁いだ和宮を人質としてRと新政府を脅してるし。
島津のジャイ子じゃないのか。なんでかな。

145 :
そりゃ徳川幕府に関ヶ原大獄二度征伐と食らわされてる長州と
日本人の中に入れていいのか疑問がある薩摩が主力なんだから
怖くないわけがない
まあ家康もあの毛利輝元の子孫が逆襲してくるとまでは予想してなかったろうな

146 :
>>144
勝海舟が西郷隆盛にあてた手紙の中で「(江戸城に総攻撃をかけた場合)
和宮様の尊位は保ちがたい」すなわち、暴徒と化した江戸城詰めの武士たちによって
江戸城内の和宮が殺害されると指摘しているよ。
>江戸末期に戦国時代の感覚で殺しまくれば蛮族
幕末に人殺しまくってた新撰組とか勤王党とかは蛮族なわけか。
戊辰戦争で戦った官軍、会津軍、全部蛮族の人殺し集団か。
まあ、官軍のトップは明治天皇なんだがな。
武士も公家も殺人に加担しまくってたし。

147 :
治安維持目的と戦争なら殺しても理由が付くが、政治的事情を考慮せずに
味方に不利になるような殺し方をすれば蛮族。
欧米列強環視の下で敗軍の将皆殺しとか、明らかに蛮族レベル。

148 :
非白人時点で既に蛮族扱いなのはあり得るが
敗北者徳川を殺しまくるから蛮族扱いという理由にはならないだろ
ムハンマドアリーとかオスマン帝国とか清とか李氏朝鮮とかの粛清で
欧米が引いたと言う話もないしな

149 :
>>147
戦国時代でもむやみな殺人ばかりが行われたわけじゃないんだがな。
明治新政府が負将に寛大だったのは、欧米という仮想敵国を前に
日本人をむやみにRべきではないと思ったからだろ。
しかし、治安維持のために徳川家に切腹を申し付けることなどいくらでもできる。

150 :
>戦国時代でもむやみな殺人ばかりが行われたわけじゃないんだがな。
戦国一律で語ってる時点でアウト。権力者個別で語れ。
>日本人をむやみにRべきではないと思ったからだろ。
なんでそう思ったか深く考えたことがないだろ。
>しかし、治安維持のために徳川家に切腹を申し付けることなどいくらでもできる。
そこまで行ってたら慶喜が譲歩するかよ。

151 :
>>150
徳川慶喜が大政奉還、辞官納地をしたのは
そうしなければ殺される恐れがあったからだろ。
そんなことしなくても明治新政府は蛮族ではないので、
絶対に徳川家の人を殺さない確約があったけど、
理由もなく朝廷に政権を返上しました、とか本気で思ってんのか?

152 :
>>150
徳川家は武家なんだが。
自分から戊辰戦争起こしておいて部下を見捨て逃げ惑う将軍。
意味不明。

153 :
フランス人だってロシア人だって、
革命のときに王侯貴族を殺しまくってるだろ・・・
それくらいで蛮族扱いとか、ありえない。

154 :
当時の欧米は話が分かる奴が自分達には関係ない
内政で粛清しようがオールOKですよ。
ってか今でもサウジアラビアやクウェート、ブルネイとかは
西側基準の人権無視でも西側は何も言わないし

155 :
>>146
勝らしいはったりだね。
篤姫の命もかな。

156 :
目前に迫る死を恐怖させたのは
三河一向一揆
武田信玄
伊賀の野伏り
真田幸村
自分がどう処分されるか攻めらるかと一定期間潜在的な恐怖でありつづけたのは
今川義元
織田信長
武田信玄
豊臣秀吉
総合的には信玄でいいんじゃないかな

157 :
>>145
正確に言うと輝元じゃなくて秀元の子孫だけどな

158 :
イエズス会だね。

159 :
>>156
金ヶ崎城撤退(浅井・朝倉挟み撃ち)が抜けている

160 :
 
徳川家康と英国ジェームズ1世即位の一致
http://music.geocities.jp/jphope21/0203/37/251.html
征夷大将軍就任とジェームズ1世の即位は同日だが、
ジェームズ1世即位はエリザベス1世の死去により行われた。
だが、これは偶然ではない。
だが、当時、電話や電報ののない時代、どうして日付を合わせたのか。
それには、天皇一族の伝統が役に立つ。
(1)死亡自体が偽装である。目的は日付の語呂合わせ。殺人や自殺を仲間に強制することはできない。
組織が崩壊する。日本史の中には、数多くの切腹、自殺、仇討などがインチキだ。逃亡・変装が簡単にできるのは、
強固な全国的、全世界的ネットワークをもっているからで、他の民族・集団ではまず不可能だった。
(2)計画は数年以上前から練られている。日付の語呂合わせには、場合によっては数百年待つものもある。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p009.html )

161 :
>>1
武田信玄だろJK

162 :
家康が恐れたのは
信長>>>信玄>>今川義元>>秀吉
基本的にはこれらが全部死ぬまで天下構想など微塵もない。
歳も近く元同僚ともいえる秀吉のみ、ちょっと抵抗してみた。
秀吉死後は特に恐れるという存在はいなかったが最終的に天皇家という存在にぶちあたった。
徳川が何代続くかはわからんが、やがては天皇家に政権を返上することになると予見していたろう。
なにかのドラマで見たが慶喜の夢枕に家康の霊が出てきて「15代かぁ、よう続いたのう」というのがあった。
実際、家康にすればそこまで続けば満足だったかもと思った。

163 :
>>162
家康は禁中並公家諸法度を制定して朝廷に公布し、
(一応将軍秀忠の名で出したが、家康が崇伝に命じて起草させたもの)
天皇と公家の政治関与を一切否定、将軍が天皇を支配する体制を確立させたのに
天皇に政権返上なんて考えてるわけないだろ。

164 :
>>162
そうそう信長の命令で妻子を殺しちゃうほど信長を恐れていたよね
本当信長は残虐やで〜

165 :
>>164
>>115


166 :
信長厨必死すぎw
じゃあ信長は恐れられていないってことでいいな?

167 :
別に誰も恐れてないんじゃねえの

168 :
家康さんがもっとも恐れたのは自分(の寿命)と言ってみる

169 :
家康って信長に忍従していたイメージあるけど
信玄と殺りあったり、信長死んだ途端秀吉と殺りあったり、臣従しても上手いこと付き合ったり
結構三河者で野心家だよな 信長だって家康には結構気を使ってたんじゃないか

170 :
【レス抽出】
対象スレ:家康が最も恐れた男は誰なのか?
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対象スレ:家康が最も恐れた男は誰なのか?
キーワード:加藤
検索方法:マルチワード(OR)

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171 :
>>169
そりゃそうだろなにせ信長より強い秀吉を野戦で撃破してるんだから

172 :
>>171
家康って他の戦地へ秀吉が赴いているときの奇襲攻撃で一部の城を落としただけで
あとは膠着状態じゃなかったっけ
日本軍だって真珠湾奇襲攻撃の時にはアメリカ本土に被害を与えてるんだよ

173 :
まぁ秀吉は家康を恐れてたんじゃないかって説はあるよな

174 :
秀吉亡き後、当然秀吉の三成らは突出する家康の力を削ぐ方策を練ったと思う。
家康も豊臣政権内での力のバランス次第では討伐される危険もあることは承知していたはず。
家康側からすれば、天下を取る以外に徳川家を存続させる術がなかったと思う。

175 :
子供のころ怖かった今川義元じゃね?
信長秀吉信玄は大人になってからだし。

176 :
>>173
恐れてたなら秀吉が生前に殺してただろ
家康に秀頼を殺されることが生前からわかってたら
朝鮮出兵なんてやってる場合じゃないし

177 :
秀吉サイドから家康を見て怖くて取り潰せない存在なんだったら、
秀康を重用して、家康の250万石を、
秀康100万石と秀忠150万石に分割するようなことが、
できなかったんだろうか?と思う。
家康を隠居させて、
微妙な仲の2人を互角に戦えるぐらいの規模に分けとけば、
豊臣ももっと安泰だった気がするんだが。

178 :
村正

179 :
>>177
秀吉は家康に「これからは義兄上に甲冑を着せるようなことはいたしません
(私が盾となって出陣します)」と言われて信用しちゃったんだろうなあ。
少なくとも信用してなければ五大老筆頭という筆頭家老の地位に家康を付けんだろう。
秀吉は家康の天下取りの野望を見抜いていたが
徳川は強大で強すぎたために秀吉の手におえず滅ぼせなかったと書く人がいるが
天下統一した時の秀吉の全兵力を持って徳川家を叩けば豊臣が勝ってたと思う。

180 :
実力のある人間に冷や飯を食わせると、不満がある人間を糾合して秀吉存命中に
政権転覆が起こったことだろう。政治外交は軍事よりも力があるからな。
秀吉が大した落ち度のない家康を潰そうとすれば、家康以上に落ち度のある
子飼いを除く全大名が敵に回る。

181 :
>>180
長久手で仮にも秀吉に一度は弓を引いたというのは犯罪だろう。
和睦条件として徳川へ嫁いだ秀吉の妹朝日姫とも不和で、
朝日姫は1年半ほどで秀吉のもとへ逃げ帰り聚楽第で没した。
どうやったら家康が最大の忠臣になるのか分からん。

182 :
家康は秀吉による下克上の最中に、家康は盟友の息子である信雄に加担した。大義があるのは
家康信雄コンビの側だ。アホの信雄が勝手に和睦して講和せざるを得なくなっただけ。
主従関係は江戸期の馬鹿みたいな原理主義でなく、御恩と奉公の関係で成立する。
家康が秀吉によって加増されようが、軽格から大名にまで成り上がった秀吉自身が織田家に
大した御恩を感じていない以上、諸大名が秀吉からの御恩を有り難がるいわれはない。
そういう時代なんだよ。
戦国期の主従関係は、徳川の家中のようなガチガチの譜代なら磐石、秀吉のような一代限りなら
ほんの義理程度の関係だ。

183 :
>>182
北条は秀吉に滅ぼされたのに、家康は滅ぼされなかった。
秀吉が信用していた以外にどんな理由がある?
家康が秀吉を凌ぐ絶対権力者だったのならば
国替えなんて応じる必要なかっただろうに

184 :
勢力が圧倒的でなければ相手は潰せない。秀吉の政治外交的基盤は家康のそれと
かなりオーバーラップしている以上、島津や北条を潰したようにはいかない。

185 :
秀吉の死後に池田その他が家康になびいていったことなどは明確にその状況を表している。

186 :
同時代人の価値観では、秀吉は信長の事業を引き継いだだけ。
豊臣に統治能力がなくなれば、信長の唯一の盟友にして最大勢力の家康が跡を継ぐのは当然。
秀吉もそのような脆弱な基盤に立っていたから、家康に破格の優遇をして懐柔せざるを得なかった。

187 :
徳川幕府が安定政権となったのは、徳川に代わる勢力がなくなったため。
大大名が手を組んで乱世に戻すことはできたが、彼らは既に既得権益層になっていて、
自分たちの基盤をあえて崩して現状以上の利益が得られる可能性は低くなっていた。

188 :
>>186
三成が嫌いな大名が家康についただけだったんじゃ?
秀吉が死んだ途端、「秀頼を殺して家康様について行こう!」
と諸大名が言ったわけじゃないでしょ。
秀頼がトップ、家康ナンバー2を維持したかっただけ。
豊臣恩顧大名の機嫌を取るために関ヶ原後
家康は征夷大将軍就任を叩かれないために孫娘の千姫まで嫁がせてるじゃん

189 :
信長

190 :
三河家臣団

191 :
>>188
関ヶ原は家康にとっていくつもあった選択肢の一つに過ぎない。三成と子飼いの対立が
最も家康にとって利用しやすかっただけ。
もちろん、家康が天下を豊臣から奪ったのは結果的にそうなっただけで、家康は
徳川家が最も力を持てる選択肢を選び続けただけ。別に豊臣政権下の執権のような
立場であっても、それが最善の選択肢であれば無理に政権簒奪には動かなかっただろう。

192 :
>>191
だから、186は間違いじゃん。
秀吉が死んだ途端、「次は家康さまの世ですね」
と諸大名が秀頼から離反したわけじゃない。

193 :
>>186は「豊臣に統治能力がなくなれば」というのが話の前提。
家康が豊臣の統治機構のもとにあるか、独自の統治機構を作る方向にシフトするかは状況次第。
どちらにしろ、家康は最大の重鎮であることに変わりない。

194 :
秀吉亡き後、政治の実権は家康が握った。
もちろん秀頼の名で政治を行うわけだから独裁ではないが。
権力を手にした家康はその権力を他人に渡すわけにはいけない。
渡せば過去の権力者である自分が討伐される側になる可能性があるから。
家康が三成ら反家康派を軍事で抹殺したのは生き残るための必然だと思う。

195 :
>>156 これも追加したらいいかも
死ぬ直前に恐れた
島津義久

196 :
家康が同盟の相手を今川から織田に乗り換えたのが日本史のルビコンだったかな。
それにしても
織田=徳川同盟では家康は信長のポチだったようなイメージがあるな。
ほどんど家臣扱いみたいな感じだ。
そのへんのところはどうだったか
ちょうどいい本が出たのでいま読んでる最中だ。

197 :
>>193
>豊臣に統治能力がなくなれば
秀吉が死んだとき跡取りの秀頼はわずか7歳で政治を執ることができない
そのために秀吉は家康に秀頼が成人するまでの一時的な政治代行を頼んだ
しかし家康は秀吉の遺言に従わずお家乗っ取りを図っただけだろ
秀吉がしんだとき秀頼が成人していれば
秀吉は家康に政治代行を頼むこともなく家康の政権乗っ取りはなかったはずだ

198 :
>>197
>秀吉がしんだとき秀頼が成人していれば
その場合には統治能力があるという話になる。
秀頼が淀のいいなりの暗君で、政権崩壊に進んだ可能性も高いけど。

199 :
家康を脱糞させた武田信玄

200 :
秀頼か秀忠

201 :
小早川秀秋

202 :
>>198
しかし家康が大阪の役前に死んでいれば
徳川政権は潰れてたとも言われているわけで
所詮はifの話
それから淀が政治関与した確実な記録があるのは大坂の役の少し前から
秀吉の死後すぐに淀殿の独裁体制になったわけじゃない

203 :
>>202
>所詮はifの話
豊臣政権が続いた可能性を延々と語る君がこの言葉を持ち出すのはちょっとどうか。
>それから淀が政治関与した確実な記録があるのは大坂の役の少し前から
>秀吉の死後すぐに淀殿の独裁体制になったわけじゃない
それまでは豊臣政権を家康が仕切ってたんだから当然だ。

204 :
>>203
ifの話を語り続けるのであれば、
秀吉が死んだとき豊臣家に成人男子があれば統治が続いただろうよ
関ヶ原だって、秀頼君は幼少のため中立、
家康VS三成だったから家康が有利だっただけで
成人した秀頼VS家康ならば、秀頼が圧倒的に有利だ。

205 :
>ifの話を語り続けるのであれば、
>秀吉が死んだとき豊臣家に成人男子があれば統治が続いただろうよ
自己満足でいいなら、いくらでも自説に都合のいいifを想定してればいいと思うよ。
議論は成立しなくなるけど。

206 :
秀吉が亡くなるまでは明らかに受動的な行動パターンだったと思います。
誰かを恐れていると言うより、自分の力が及ばないので、
強者に従順に従うという至極真っ当な選択をしていたと思います。
ところが権力を手中にした瞬間、急に積極的になり、
前田や上杉などライバルを次々に屈服すべく行動します。
家康と秀吉は似ていて、老獪だとか善悪だとかという人物評を超えて、
政治力学を読み行動することに長けた人物だったと思います。

207 :
>>205
おたくも自語りをやめることだな。
お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
豊臣政権が崩壊したかどうかについて議論するなと言ったり
しろと言ったり、無茶苦茶だな。

208 :
>>207
こっちは>>186で、「豊臣に統治能力がなくなれば、信長の唯一の盟友にして最大勢力の家康が
跡を継ぐのは当然。」と書いた。史実そのものを分析する話だ。
こっちは可能な限り史実をベースにしているのに、君は「家康が政権を簒奪しかなった可能性」というifを
模索するためにどんどん史実とかけ離れたifを設定していった挙句、それに付き合ったこっちが
そのifを持ち出したかのように批判するなら、あとは自己満足でやってればいい。
>お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
たとえば、「秀吉が死んだ段階で秀頼が成人していた」というifは>>197で君が持ち出したものだろうに。
自分で自分のヘマを批判して相手に押し付けていることを本気で自覚できないのかね。

209 :
>お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
ifの話なのに、何故か君の中ではさしたる根拠もなく結論が100%決まっているようだ。
思い込みの激しい子だね。

210 :
>>208
豊臣政権が滅んだら皆家康が跡を継ぐのは当然だと思っていた、
どこが「間違いない史実」なんだw
お前なあ。
日本史板なのだから史実だというのならばまずはその根拠となる史料を引用しろ。
お前の話が妄想だというのが分かる?
お前がいかに自己満足な人間かが分かるかい?

211 :
>>210
思い込みの激しさはお前のほう。
ifと史実の区別ができない。

212 :
>>208
史料にないことを推測することがifなんだよ。
お前は史料もないことをを語りながら「俺の言っていることは史実」だという。
どうしようもない馬鹿すぎて話にならん。

213 :
>>211さんが代わりに指摘してくれてるから、私はこの子供にレスするのをやめておこう。
社会経験がなく政治闘争の実感が湧かない子供には政治など語れない。
小説やゲームの設定をそのまま鵜呑みにして思い込みを語るから厄介だ。

214 :
>>213
子供はお前ねw
史料は結局出せないわけね

215 :
>>213
史料を出せない=負けを認めたわけだね。
お前の説は史実などではなく妄想。

216 :
>>213
209へのレスの間違い。
どう考えてもお前の説がおかしい。
210は正しいだろ。
どっちの言ってることもifだ。

217 :
双方ifの話をしているのに208みたいな馬鹿がいるんだなあ。
日本史板なんだから馬鹿爺は引退しろよ

218 :
よく吠える子供だなあ。

219 :
>史料にないことを推測することがifなんだよ。
史料にないことを史実に則って推測するのは仮説。歴史研究の手段。
「秀吉が死んだ段階で秀頼が成人だったら」などと史実と異なる状況設定をするのはif。フィクション小説や子供の妄想。

220 :
メジャーな人のスレは
どうしても痛いのが沸いてくる

221 :
>>219
お前の説がフィクション小説や子供の妄想。
史料にないことを史実に則って推測などしていない。
秀吉の死後即、「家康政権を」とのぞんだ史料はないだろ?
どこか「俺のは正しい史実によるものだ」になるんだ

222 :
>>218
良く吠える爺だな
話し相手いないんだな

223 :
教育すべきことは書いてやったから、その上で馬鹿な子供が理解できなくても、
またあのアホ嬢ちゃんかと呆れるしかない。
馬鹿な子だ。

224 :
>どこか「俺のは正しい史実によるものだ」になるんだ
実際に家康が征夷大将軍となって政権を奪ってるんだから、周囲が望まなかったわけがない。
将軍は自ら名乗ってなれるものではなく朝廷が与えるものだし、武家のコンセンサスもなく
武力を持たない朝廷が勝手なことをすることなどできないからな。

225 :
>>219
仮説とifの区別はそれでいいとして、
その上で君のは仮説でもifでもなくね?
史料に則ってもないし、史料に反してもない。

226 :
>>223
定期的に話し相手のいない馬鹿が現れるな。
爺じゃなくてお前、10代不登校児だろ。
>>224
信長が内大臣になったのは周囲が望んだからとか?
家康が関ヶ原勝利の恩賞をくれと朝廷を脅したからだろw
馬鹿者。

227 :
子供も爺も両方消えてもらえないだろうか

228 :
>>225
馬鹿な子供のif話に反論するのに、無理に仮説ばかりを持ち出す必要はないじゃん。

229 :
>>226
>爺じゃなくてお前、10代不登校児だろ。
自己紹介乙。
>家康が関ヶ原勝利の恩賞をくれと朝廷を脅したからだろw
とことん政治が理解できない阿呆な子供だな。
>>227
そうだね。新たに教育してやることもないから、私は消えるよ。
アホな子供が騒ぐかもしれないけど、そこまでは責任持たないよ。

230 :
>>228 >>229
しつこい引きこもりニート、引き際悪いなあ。
政治も経済もしらない知ったかのいつかの淀アンチ家康大好きホモヲタだよな?
225に反論できず。
自分で史料読解一つもできないことをさらけ出しただけ。
負け犬ニート、二度と来るなよw


231 :
子供は早く消えてね。

232 :
>>231
負け犬ニートもなw

233 :
>>196
自分もルビコンだったと思います。
当たり前ですが戦国時代は勝ち馬に乗ることが何より重要で、
家康は織田という勝ち馬に乗り、豊臣政権に好条件で参加できました。
黒田、藤堂らが家康を担いだのも勝ち馬に乗るためでしょうし。
ただ徳川政権は親藩譜代に守られ、力比べの時代を終わらせてしまいましたが。

234 :
>>233
織徳同盟は、織田にもメリットが大きかったろう。
背後を気にせずに、西上できたのは、徳川を味方につけたから。
今川ー徳川連合に背後を脅かされていたら、ああはいかなかった。

235 :
そういや桶狭間って大勝利だけど
領土的には三河を家康にやって、今川の旧領は武田と家康が切り取ったから
尾張より三河の家康のほうが広いじゃん 信長は美濃に行けるって以外に利益ないじゃん
あれで美濃落とせなかったらいいとこなしじゃん

236 :
家康が臣従の意を表したから信長も応じて見せただけで
そうでなければ家康を滅ぼしてただろ
信長にとって家康は自分の家臣よりも危険な戦地へ向かわせる
手駒にすぎない

237 :
>>236
もちろん対等だとは思いませんが、
信長と家康の間に個人的な信頼関係がなければ
あれほど長期に成立しえなかった同盟だと思います。
>>235
そこが信長の凄い所で、当初から美濃だけを目指していたと思います。
美濃を取れば天下を望める。東は家康に任せておく。
選択と集中ですね。

238 :
だよなぁ 普通なら総大将ぶっ殺したら
そのまま今川領をぶんどりに行くだろうに
さっさと他人にやって北に行こうってんだから

239 :
斎藤龍興が死に今なら美濃を取れると確信したから
駿河なんかどうでもよかったんだろ

240 :
龍興()

241 :
1560年時点で尾張内の一地方領主でしかない信長に、今川領に攻め込む実力なんかないよ。
義元を殺しただけで、今川家を滅ぼしたわけじゃないし。
その後に今川家が弱体化するのは結果としてわかったことで、桶狭間直後では未知数なんだから。
下手に攻め込んでも、尾張国内の対抗勢力に背後突かれるのが確実。
まして、仮に今川領に攻め込むことはできても、継続支配できるかはまったくの別問題なわけで。
三河に有効勢力見つけて後援し、今川領内の混乱を尾張に波及させず、同時に今川家に対する防波堤と尾張統一の足場固めにもする。
当時の信長の実力を考えれば、戦後処理の外交として見事すぎるほどでしょう。

242 :
>>235
義元を討ち取ったといっても桶狭間の合戦は尾張領内で起きた防衛戦だし
今川の領地をとるには三河侵攻からはじめて駿河までいく体力がなかったんじゃないかなあ
美濃を制圧するのにも何年間かかけてるし
あと、みんな京に登りたいのに北陸、関東東、海東の有力大名が小競り合いで領地から動けないのは凄い馬鹿げた状況に見えただろうし
信長と家康の強固な同盟関係っていうのは織田にとっては望むべくもない状況だったのだろう


243 :
豊臣秀次
昨日テレビで名君だったと知った。
秀次が秀吉を後継してたら末代まで豊臣に臣従するところだった。

244 :
>>243
なんのテレビ?

245 :
近江八幡城主時代の評価は高いんだよな

246 :
有りえないが秀次事件が徳川の陰謀だったら凄いなw

247 :
秀次の代になったら権力を失う人=三成らの陰謀かな

248 :
豊臣政権下の派閥
文治派(三成、行長ら対朝鮮・明和平派)
武断派(清正、正則ら北政所に近い武将たち)
隠れ徳川派(藤堂、黒田、伊達ら)
ってとこなんだろうか

249 :
結局のところ、
豊臣政権は秀吉を盟主とする全国の有力大名の連立政権だろう

豊臣家の派閥としてはよく言われるのは、近江衆と美濃衆だよね
徳川家は豊臣政権の一派閥と言うよりも、
豊臣政権の成立に貢献している「連立政党」の有力党って感じかな
ほかに尾張衆として前田家、そして毛利なども政権を支える与党の一

250 :
>>249
確かに成立条件とすればその通りだと思うのですが、
朝鮮征伐、秀次事件を経て対立が先鋭化して行ったのではないでしょうか。
ついては関ヶ原へと繋がるように。

251 :
>>249
それをいいだしたら室町幕府は足利将軍を盟主とする全国守護大名連立政権、
江戸幕府は徳川将軍を盟主とする全国大名連立政権だけどね
秀頼が幼くなければ豊臣政権に五大老制度を作ったかどうかも怪しい

252 :
家康に対抗する勢力として三成らは毛利を担いだが器量がなかった。
やはり家康しかないというのが東軍を形成したということでしょうか。

253 :
>>235-242
信長から見ると、東にはあんまり旨味が無かったんだよ。
慶長度(16世紀末)の検地の数字を見ると、
尾張国≒伊勢国≒美濃国≒「三河国+遠江国」(≒50万石台中盤)
つまり、三河と遠江を足し合わせて、やっと狭い尾張一国と同じ生産力を確保できるレベルに達する。
信長としては、東から変な奴が来る事態が無くなることが重要で、
あとは美濃伊勢近江と、生産力の高い美味しい土地へ突き進むことになる。東はどうでもいい。
他方、三河の弱小大名だった家康から見れば、三河と遠江を押さえることは、これはなかなか美味しい。
これで、尾張以西における国持大名と対等に渡り合える50万石台の生産力を確保出来る。
実際には武田が中部山岳方面から、場合によっては北条が関東方面から切り崩してくるから、
実効支配30万石台の可能性もあるわけだが、それでも悪くない。

254 :
昔コンプティークで東へまっしぐらに攻め込む信長の小説があったなぁ。
あの小説での家康はどうなってたんだか・・・

255 :
>>253
家康的には三河湾から信州に続く塩の道の完全確保ができるだけでも大きいからな

256 :
信長家臣の中には家康との同盟に反対するものは大勢いたと思うよ
松平や今川との抗争で親兄弟を亡くした者も大勢いたわけだから・・・
義元亡き今、積年の恨みを晴らせってね
信長個人の野心や損得勘定でそういった奴等を引っ張っていくわけだから、
その当時からリーダーシップは並外れていたんだろ

257 :
リーダーシップというか、
まあ、問答無用の独裁だよな

258 :
逆らったら死あるのみだもんなw
>>256
まぁ最終的には岐阜城を攻め落として織田家を滅ぼしたんだから心情的な部分だけに限らず
反対するのも分からんではないかもね
戦国時代だから同盟といってもあくまでも利害の一致で一時的に結びつこうってだけだし

259 :
>>257
織田家と言えど戦国時代に独裁はないと言われてます

260 :
一応家臣団による合議制だろうな
最終意思決定するのは信長だろうが
家来に意見を言わせないということはまずない

261 :
>>256
臣従ではなく同盟っていう形は織田家の本意ではないかもしれないけど
三河との国境線の安定っていうのは信秀の代からの路線踏襲じゃないかな
重臣達はそれほど反対しなかったと思う

262 :
信秀時代後期は道三と結んでいました。

263 :
信秀の時代には松平って今川の配下だったよな
家康は今川の人質だった

264 :
米の生産高、貿易量、地理的条件、資源の産出量だけを比べてコンピューターでシミュレーションしたら誰が天下を取るんだろ?毛利あたりか?まぁ馬鹿な意見なのはわかってるから、批判しないでね。

265 :
そんな条件なら、毛利はそもそも勢力を拡大できんだろ。

266 :
結局秀吉の晩年の失策の余波を悪く受けたのが石田で
利用したのが家康なんだよな

267 :
信玄は結局同盟相手にせず戦った事と家康自信尊敬の念を抱いていた為一番
ない。
やはり信玄を敵に回してまで同盟を守った信長以外無い。
あと真田は当然論外。

268 :
服部半蔵やろ普通に考えて

269 :
信長が本能寺で殺されなかったら家康はどうなってたの?
明智は四国から外されたけどいずれ九州まで転戦しただろうし、秀吉もそんな感じでしょ。
滝川も関東の最前線に飛ばされてる。
家康は領国から動かされることはないにしても、今度は北条攻めの最前線に立つわけよね。
それが終わったら?国替えとか命ぜられないんだろうか

270 :
>>267
まあ、仮に信長より信玄のほうが強ければ家康は信長との同盟を保護にして
間違いなく信玄に同盟と庇護をもとめただろうからな
家康も信玄が都まで勝ち上って天下を執るとはさらさら見通してなかったんだろ
信玄が死ぬ間際に立った時点でも信長最強だった

271 :
>>269
最終的に殺してるか蟄居

272 :
いや、家康を慕う三河武士団の頑迷さを考えれば、
Rことはまずあり得ないし、蟄居させる意味が第一分からない
家康との力関係は遙かに信長が強いわけだが、
あくまで軍事同盟の相手だし、織田軍団の高級幕僚に編入することも難しい
そうなると、「お市」の存在が際立ってくる
市を家康に嫁がせ、浅井長政的に織田「王家」の門閥的存在として
組み込む可能性は考えられたのではないか?

273 :
家康は信康切腹の際に正室築山殿を自らの命で殺害、
徳姫も織田家に返され織田家との婚姻関係は途切れたにもかかわらず
信長から新たな徳川との婚姻を言い出されることは二度となかった
信長のお家騒動を起こした家康に対する待遇もかなり落ちたものになっている
この期に及んで信長が新たな婚姻関係を求めることはなかっただろう
正室不在の家康に織田家の息女を娶らせることは可能であったにもかかわらず
そうしていないことからも明らかだ

274 :
>>272
信長は家康を信用していなかったからこそ家臣団に入れなかったともいえる
家臣でもないのに家康の扱いは家臣より酷く(死ぬ可能性の高い先陣ばかり)
とてもじゃないが義弟浅井長政に対するような厚遇は与えてないぞ

275 :
上杉謙信
異論は認めry

276 :
>>267>>270
家康が中部山岳の武田ではなく、濃尾の織田との同盟を死守し続けたのは、
地政学的な問題が大きいんじゃないかなあ?
「静岡県は東西交通の要衝である」という、世間一般の常識を一度疑いながら、日本地図を眺めると、
「東部伊豆を除く静岡県&愛知県東半分(三河国)」は、
南の太平洋(フィリピン海)に突き出た、半島状の地形になっていることが分かる。
名古屋市と富士市を結ぶラインから、南側に突き出ている地形なんだ。
この「浜松半島(仮称)」こそ、関東転封までずっと、家康の根拠地だった。
そして、この浜松半島に対して、中部山岳の武田がいわば「大陸勢力」として、強い圧迫を加える。
武田に本当に負けたら、脱糞するどころでは済まされない。家臣団まるごと、遠州灘の鮫の餌になってしまう。
これでは、武田にどんなに張り合っても、対等な関係は結べない。常に、李氏朝鮮のような絶望的な属国になる。
ところが、織田は浜松半島の西側に勢力を持っていて、地政学的な従属関係にならないから、
曲がりなりにも対等な関係を結ぶことが出来る。しかも、「西側に同盟国」を持てば、
家康は浜松半島からの脱出路を確保して、浜松半島を東西から塞がれることを免れることが出来る。
信玄上洛企図から、長篠の戦いにかけての武田の動きは、結局、武田の「浜松半島封鎖戦」の一環だった。
浜松半島で、家康の防衛網の一番鎖の弱い東三河に、信玄も勝頼も執着したのは、
ここを塞げば地政学的に徳川は、豊橋と静岡を塞がれ、完全にオワコンになるから。

277 :
>>276
武田信玄が都へ攻め上って天下に大号令をかけるとなれば話は別。
信玄は晩年、甲斐を出、都を目指した。
しかし、家康はこのときですら信長との同盟を死守した。
つまり、信玄は都へ登ることができないと見越してたってこと。

278 :
>>277
いやいや、何も変わらないよ。
武田が、京都どころか豊橋に抜ければ、その時点で、戦国武将としての徳川家康の命運は尽きる。
故地の西三河を分断されることより、自動的に「浜松半島の先端部に監禁された状態」になることが致命的。
武田の、それも隷属的な下級家臣になるしか道は無くなる。
家康には、「信長を頼り、何がなんでも武田に渥美湾を見せない」という以外の選択肢は、
実は全く無かったんだよ。
選んだんじゃない。これしか選択肢が無かったんだ。地政学というのはこの帰結の説明として持ち出した。
しかも、東三河というのは、地勢的にも中央構造線の凹部で、山岳勢力としては「出やすい」ところ。
ずっと草刈り場だったから、地元勢は西三河とは別世界で、
いくら豊橋を預かる酒井が締め上げても、本来は、徳川に対する忠誠心は無い。
長篠のあの鳥居伝令磔伝説は、西三河的な徳川への絶対忠誠ではないからね。

279 :
>>278
家康が信長に武田への内通を疑われたというのは嘘だったのかw
武田が三河へ攻め込まなかったのだって地理的な優位性がなかったからだろ
つまり信長も信玄も家康を従属させるのは簡単だが三河に興味がなかった

280 :
>>279
信長から見れば、内通を疑うのも普通のこと。
つまり、地政学的に構造的に追い詰められてしまう「半島勢力」は、それがゆえに、
「既に大陸勢に取り込まれてんじゃね?」と、傍からは常に思われてしまう。
N速の連中が、中韓関係ネタが出るたびに、韓国政府がどんな態度を取ろうが(←ここ重要)
「宗主国中国に支配して貰え」だの「ニダー、叩頭礼の時間アルヨ」と揶揄したりするのと同じ感覚。
信康事件は、俺は通説通り、誤解からの悲劇とみてよいと思う。
あと、三河国は、西半分と東半分で、
地理的な位置づけも、地元国人の文化的体質も全然違うので、ざっくり括るのは危険。
西三河は、徳川家臣団以外にはどうでもいいところだったんだろうけど、
武田から見れば、今の豊橋を抜いて海に出ることは、隠れた重要課題として、信玄と勝頼に共有されていたように見える。
そう考えないと、信玄最晩年の奇妙な動き(静岡県二俣まで出ておきながら、なぜか死んだのは愛知県内野田城)や、
勝頼の、高天神とはちょっと違う長篠への執着はみえてこない。

281 :
>>280
てか信玄としては海ゲットして
あとは信長を適度にいじめられればおkだったんじゃないか?

282 :
まあそのあたりがアレですよ。
焦ったのが結核の進行の為、と。
そりゃ信玄にあと20年寿命があれば楽勝だったんだろうけどね。

283 :
浜松半島とやらを仮定して、それを隣の大陸の事情に当てはめるなら、徳川は武田に従属するのが自然のはず。
西で別勢力(織田)と繋がってれば大丈夫とか、別な方角で別勢力と陸で繋がってる時点で、それは半島じゃない。
豊橋を落とされての封鎖状況は半島と言う地形となんの関係もない。ついでに言えば、家康の根拠地を西三河にするだけで回避可能。
>278で言う以上に優先する問題と有利な条件があるからこそ、家康は浜松に居続けた。
正直他にもつっこみどころありすぎ。
「半島は云々」の結論が先にありきで、都合良く史実を当てはめて解釈してるだけにしか読めなかった。
あと地政学は一つの要素でしかない。それだけで全てが決まるわけではない。
申し訳ないが、このレベルで地政学云々はしないほうがいいと思う。かなり勘違いされてます。

284 :
>>282
信玄は無理でそ
「あの江戸幕府初代将軍徳川家康を蹴散らした」
ということで英雄扱いされてるだけ

285 :
信玄の従来の戦略からしても真剣に天下を取ろうとしていたとは思えないな
美濃や遠江を切り取る都合の良い口実ぐらいにしか考えてなかっただろう>信長包囲網

286 :
>>283
地政学なんて、道具立てが大きすぎましたかねw
俺は、そんなに突っ込まれるような説をぶち上げているわけじゃないよ。
ごくごく平凡な、通説的な見解を、地勢・地理的な観点から、説明し直しただけ。
要するに、武田が滅びるまで、家康は「地理的に逼塞した状況」に置かれていて、
史実(織田と不均衡な同盟を結びながら、武田の猛攻を必死で耐える)以外の他の選択肢は、
事実上何も無かったに等しかったのだ、ということ。
「家康は、地理的に逼塞状態におかれていた」
これが俺の言いたい話。これに尽きる。
これは何に対する反論かというと、>>276の最初に戻る。「静岡県は東西交通の要衝であるという常識から離れて」
ここなんだよ。
三河・遠州・富士川以西の駿河というのは、実は、「南に凸状になったどんづまり」なんだ。
「東海道の要衝を押さえる神君家康公は、偉大なる慧眼を以て、山岳から出られない武田の命運を見限り、
将来性溢れる織田信長公との同盟を主体的に選択した」
というのが、誤りだろうということ。
あと細かな話、家康がgkbrだったことも、勝頼がおそらく豊橋まで抜くつもりで長篠攻めをやったことも、
まあ常識的な話だと俺は思うけどね。

287 :
だから上杉だと
信長もパニクった軍神

288 :
>>286
いや十分突っ込みどころありすぎです。
「静岡県は東西交通の要衝」では無いのなら、他のどこが要衝だったの?
これ、戦国期どころか、他の時代全部見直す必要が出るほどの新説だってことに気がついてます?
まさか、武田と徳川が争った時期だけ要衝じゃなかったとか、変なこと言いだしませんよね?
要衝じゃない土地で武田は徳川と10年以上もなんで戦い続けたの?もっと重要な土地攻めた方がよくない?
京を目指すのが目的だったとしたら、それこそ要衝でもない土地は放置でいいでしょ。
しかも史実では結局徳川を滅ぼせなかったわけで、これじゃ武田が愚かすぎますよ。
家康が浜松に居たのは誰からの指図でもなく、家康自身の判断です。
安全だけ考えるなら西の岡崎にいれば済む話でしょ。少なくとも豊橋落とされて孤立する危険は無いのだから。
>286が言うような、要衝の土地でもなく、簡単に逼塞させられる危険のある遠州に、家康自らが乗り込んで守り続けた理由は何?
gkbrしてたと言う家康と、浜松に居続けた家康。この両者に整合性が無さすぎます。
豊橋を抜くもなにも、史実では抜かれてないわけで、一度として逼塞した状況になどなってないでしょう。織田との通交が途絶えた史実ありましたっけ?
他にも多すぎて書ききれません。
とりあえず、武田家を擁護したい人なんだろうなぁと思ったけど、あなたの説だと武田家は余計に報われてません。
徳川と織田との同盟は地理的な問題以上に、政治や経済面、家康と信長当人同士の関係などで推し量るべきです。
神君とか慧眼とか、それこそ関係ない。
追記しておくと、遠州・三州の地形条件で重要なのは、それが南端にあるとかではありません。
山岳部が海に近く、平地部が東西に細長い帯になっていることです。豊橋を落とされる危険性は、それだけで説明できます。
他にも重要な地理的用件はいくらでもあり、半島とか要衝とかの思考は、正直無用だと思います。
これ、そろそろスレチだよな・・・失礼しました

289 :
>>288
桶狭間後の家康の東進の理由については、既に論じられていたから省略したんだけど。
この理由は簡単で、当時の武将にとっては、支配領域は原則として大きい方がいいから。
「半島の一部より、半島の全部のほうがマシ」これは当たり前。
「ボクは半島勢になるのが怖いから、半島の一部に小さくなってます」なんて国は歴史上一つも無い。
つうか、今川亜盆後の権力空白に対しては、家康は全力で埋められるだけ埋める以外の選択肢は無い。
放って置いたら、それこそ遠州全部を武田が押えてしまう。
そして、目出度く三河+遠州の領主となった家康は、遠州支配のため、本拠地も東進させざるを得ない。
西三河では西過ぎる。東三河は、地勢的に致命的な難がある。遠州しか無い。
ただ、それは、どんづまりの奥へ奥へ入り込むことになるから、危険性も伴う。
実際、家康は第一候補が磐田だったが、逡巡して浜松に「引っ込んだ」
磐田では水が出なかったとされているが、奥に突っ込みすぎる前進守備に危険性を感じたという説もある。
「浜松半島」って、異常な感覚だと思うだろ?
みんな、東海道新幹線は東京大阪間を「まっすぐ走っている」ように、脳内補正で騙されているんだよ。
よーく地図をみてみ?東海道新幹線は、逆S字型に大きく迂回蛇行している。
関ヶ原の迂回は、冬場に雪で酷い目にあうことがあるので、多くの人が気付いているが、
浜松付近を頂点に、南側に大きく迂回蛇行していることは、
「中央リニア」構想が現実化するまで、ほとんどの人が気付かなかった。
蛇行しているということは、そこが凸部になっているということ。
そして、海岸沿いをなぞらなければならないということは、「半島としての条件が厳しい」ということ。

290 :
続き。静岡が、日本の地形の中でもちょっと特異な場所で、
「国土軸上の単純な回廊」ではないということは、分かってもらえませんかね。
細長い日本列島で、ここだけ「分厚く」、かつ「脊梁山脈と国土軸線がほぼ垂直に交わっている」ので、
ここだけは単純に軸線の考え方では語れない要素を持っている。
そして、日本海側は、「回廊が狭隘」なだけで済んでいる(親不知)が、
太平洋側は、中部山岳が、「山塊まるごと凸状に南へせり出している」形になっている。
(別に、プレートテクトニクスの話をするつもりはないので、そこは突っ込まないで欲しいw)
そして、まさにそこに、家康の本拠地があった。
かなり地理的制約が強くかかる、しかも特異にかかるところで、それが武田との関係に深く響いている。
ということで、>>1の結論としては、
「徳川家康が一番恐ろしかったのは、甲信の覇者であった甲斐武田氏であった。
しかし、人間武田信玄が恐ろしかったのかどうかは分からない。これは、地理的な問題が生み出す勢力の地政学的不均衡だから。」
というのが俺の考え方になる。だから、武田を実は馬鹿にしてね?というのは、ある意味で正しいw

291 :
山地と平地というものがあるんだか。。。

292 :
>>289
つまり・・・
武田は駿遠三という半島先端の要衝でもない土地を得るために10年以上攻め続けたあげく、
gkbrしてた徳川家を滅ぼすことも降伏させることもできず、最後は自分が滅ぼされたと。
一方の徳川は、遠州という半島先端の要衝でもない土地を必死で守るために、家康自ら浜松に乗り込んだら逼塞させられて
gkbrしていたら、武田が先に滅んでくれたと。
スレ趣旨に沿って語るなら、恐れるほうも恐れられた方もお粗末の一言だな。そりゃ信長が強くなるわけだ。
こんなお粗末な武将が「誰を最も恐れてたのか?」とか、スレ立てて語る価値あるのかな?
半島云々は、スレ趣旨ともそれるし、いい加減突っ込むの疲れたんだけど、一つだけ。
「わかってもらえませんかね」と言うなら、中部日本の太平洋から日本海の間で、東西交通の要衝だった場所と道路を教えてください
たぶんそれがわかれば一発で理解できますから。
具体的には、駿河吉原から尾張鳴海までの区間の東海道を上回る交通量と輸送量と人口と経済力のある土地と道路がどこなのか、教えてください。
よろしくお願いします。

293 :
>>279
あれは信長の外部圧力説ではなく、
岡崎家臣団−信康と浜松家臣団−家康の対立で説明する説が出てるでしょ。
武田家が三河を分断してしまえば家康は降伏せざるを得なくなるのは確か。
長篠も、信長は後詰が間に合わず落ちてしまえば引き上げたんじゃないかと藤本正行は言ってるね。
信長も本願寺戦争があったとはいえ、相当、家康を窮地に追い込んでるな…

294 :
家康が天下取りを意識したのはいつ頃なのだろうな
信長がブイブイ言わせていた頃は、天下統一後の徳川の立ち位置を確保するのが目標だったのかな
北条や武田の領地をしきりに切り取っていったのは、どういう展望故だったのやら
秀吉に喧嘩売ってころにはすでに、わし天下とったるわ!って野望があったのだろうか


295 :
やっぱ、秀吉が幼児を残して、問題を山積みにして死にそうな頃からじゃない?
小牧・長久手の頃はどうかな?
正直あの時家康が勝っても彼が天下統一出来たかはわからないと思う。

296 :
確か対武田で功績を立てやすい岡崎派に対して後方なだけでもあれなのに評価されずらくて不満を持ってた浜松派が信康や奥さんを煽ったりしたんだっけ?
あと五徳が父親に信康関連で言いがかりの手紙かなんかもあった気がする

297 :
>>282
確かに今川・北条・上杉に囲まれて本領を発揮できなくて今川勢瓦解でようやく南侵出来たけど
信玄が小大名以外で勝って進行できたのって三河が初めてじゃね?

298 :
>>295
信長や秀吉と違って天下統一のプランがそもそもなさそうだね

299 :
案外、三河の一大名だった頃から野心満々だったかもな。
あの武田に喧嘩売りまくってた位だから。
でも、信長に悟られるとやばいから隠していた。史書でも忍従を強調しすぎてるきらいがあるし。
やっぱ本能寺の主犯なんじゃね?

300 :
>>296
浜松衆は家康直属
岡崎衆は信康付き
逆だ逆w
>言いがかりの手紙
そんなもんないよ
だから今は信康排除は家康の意志による物という説が強くなってる

301 :
信長>秀吉>光成>秀頼
じゃね?
@このまま行けば信長に殺されるのは分かってたはず
  だからと言ってどうしようもできない 自分の息子を斬るほどの恐怖
A晩年の自分が据えた一門の関白すら大粛正する
  独裁キチガイっぷりには本気で恐怖してただろ
Bあのタイミングで予想していたか否か
  いずれにせよ分の悪い賭けをすることになる
C後の処遇的な意味で恐怖
合戦の瞬間最大風速は信玄。
後に武田贔屓してることからも分かる。

302 :
秀吉じゃない?
信長→普通に怖い人
信玄・信繁・勝永→殺されかけた
三成・光秀→関ヶ原や伊賀越えとか苦労させられた
秀吉→やだ・・・もしかして基地外?こわい・・・・
・秀次抹殺
・ついでに駒姫とか虐殺
・朝鮮出兵→無茶な要求をして再戦
etc

303 :
そりゃ苦汁をなめさせられた真田真之。存命中に大坂の陣が起きてりゃ、九度山で練った作戦が採用され、第二の楠木正成以上になってただろう。

304 :
三方ヶ原の戦いの時の武田信玄だろ  これで鉄板!
よく生きて帰れたわなあ

305 :
武田信玄は偶発的な災難だよね
家康も追わなければ攻められなかったのに
信長に後で怒られるのが怖くて追いかけたら蹴散らされた
301さんが言うように本能寺の変で信長が死ななければ
家康は信長に討たれていたと思う
明智光秀が信長の命で家康を討つと言って軍を本能寺に向かわせたことでも明らか
伊賀越えも創作入ってるし家康は明智縁者を悪いようにはしてないしね

306 :
織田信秀だろ。
殺されて当然の立場で抵抗する力も無かったわけで。

307 :
>>303
過大評価もいいところ。むしろ真田のせいで牢人諸将間と譜代家臣の対立が激化し、大阪は自滅に突っ走った
家康が恐れたのは信長、信玄、秀吉。この3人以外になし

308 :
孕石元泰

309 :
>>308
たかだか主家の家臣の分際では属国とはいえ三河最大の国人領主にできることは嫌がらせ程度でしょ。

310 :
信長が最も恐れた男は誰なのか?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1342669094/

311 :
家康は案外恐れたのは国内より
スペイン国王フェリベ2世とか外国勢力じゃないの?
急激にカトリック禁止、スペイン船来航禁止したし。
海外の日本人町を通じてコステロ、ピサロの中南米虐殺侵略情報を
得ていたのではないか?

312 :
当時の日本に
マゼラン船団が日本に到達しなかった事は
幸運だった。

313 :
家康は長生きしただけ。

314 :
そりゃ信長だろ
命令とはいえ嫡男と正室の命を奪うって

315 :
あれはどうみても娘の婿をRのに舅に確認取っただけ。
家康がR気満々。だから信長も承認するしかなかった。
嫁と長男本当に憎かったんだろうな。
家康は家族への情は妙に薄いよ。
養子にやった秀康苛めたり、秀忠も駒でしかなかった。
逆に信長は家族に甘かったりする。イメージとは逆に。
弟殺したのも、二度も反逆した奴殺さないのは示しがつかないし、
反逆されたのも弟甘やかしたからだし、弟の子はマジに可愛がった。
子供も大事にして武将として物にしようとしてた。

316 :
今川義元でしょう。家康が人質の時には、いつ殺されてもおかしくなかったから。

317 :
天ぷら職人

318 :
忘れられがちだけど今川義元だろ

319 :
殺されるなら、織田信秀。
義元にとっては、家康は、戦をして人質交換してまで手にいれた大事な人質(三河衆統率に必要)。殺したら元も子もない。

320 :
今川義元にとって家康は三河を支配下に置くキーパーソンなんだから、そうそうRわけがないじゃん。

321 :
家康にとって駿河時代は良い思い出。
だから、駿河の地を隠居に選んだくらい。
今川義元は、自分の姪を家康の正室にして、
今川一門の準じるぐらいの扱いしているし。
三河の国は20万石以上あって、今川の駿河遠江50万石と大差がない。
その三河に18松平と言って強力な基盤を構築していた松平宗家の若当主が
家康なんだから、義元は家康を大切にするわな。
家康も晩年、今川氏真の世話もして、
その子孫は高家にしているし。

322 :
>松平宗家の若当主が 家康
家康の家と松平郷の松平家とはそれぞれどう呼ばれる関係なんだ?

323 :
家康 恐怖レベル
LV1 じっと我慢する →豊臣秀吉
LV2 ガタガタと震える →織田信長
LV3 わざとらしく切腹するぞとわめいて、部下をチラ見する →真田幸村、明智光秀
LV4 ウンコ漏らす →武田信玄

324 :
>>315
あれは江戸時代で言うところの御家騒動みたいなもので、
家臣団の信康排除の総意に信長が裁定出して、家康が抵抗できなくなったものだと思うが。
家康の意思にしては信康切腹までの段取りが悪いし、家臣が信康を逃がすこともできたのに
誰一人そういう行動には出なかったし、信長の意思にしてはあの政治状況で同盟国の嫡男を排除するのは危険すぎる。
様々な状況証拠から、家臣が信長に訴えて信長が信康の始末を家康に命じたと考えられる。
この状況なら家康が信康断罪を拒否すれば信長の機嫌を損ねるだけでなく家臣団が離れていき、
家康が自滅することになるので、家康には殆ど選択肢がなかった。
史書では大概「信長が全部悪い」ことになってるが江戸時代に成立した史書に「信康排除は家臣の総意」
なんてことが書いてあったら、その子孫の譜代大名達がマズいことになるからねw

325 :
家康って実は家臣たちの傀儡なんじゃね?

326 :
宗教
http://www.youtube.com/watch?v=EyrbvZia164

327 :
>>325
つうか、戦国時代は家康に限らず大名は絶対君主ではない。
宿老以下有力家臣の扱いを間違えると、知行地の城に立て籠られて内乱になるし、
それをネタにして隣国の大名がちょっかい出してくるからね。
戦国時代後期から江戸時代にかけて知行制から蔵米制に移行していくんだけど、
そのメリットは教科書的な「軍事力を一カ所に集中できる」ことよりも、
むしろ「誅殺がやりやすくなって家中の統制が容易」な方が大きいと思う。

328 :
>>325
随分と優秀な家臣だな。主君を操って天下取りか。

329 :
>家康って実は家臣たちの傀儡なんじゃね?
田舎武者ぞろいなのにか。

330 :
実は家康にとって今川に人質に出されたのは幸運だったかもな。
爺さんも親父も暗殺されてるんだから、幼年の領主が三河にいたら殺される可能性は非常に高い。
現実には今川に保護されて擁立されたってのが真相だろ。

331 :
当時の駿府は、文化水準が高かったのも幸いした。
雪斎からかは別にしても、禅僧から学問、兵法の手解きも受けた。
家康の学問好きは駿府で基礎が作られた。

332 :
>>1
そんなことより凄いタイミングでスレ立てしたのなww

333 :
311の夕方に徳川家康とか…

334 :
戦国板の家康スレの有名コテハン(たぶん仙台在住)は、津波で,,,,

335 :
仙台藩百姓ってコテだよね
かわいそうに

336 :
家康が最も恐れた男 真田幸村だか信繁
といっても、結局首取ってないなら意味ないじゃん

337 :
うんこ漏らしたのは山県昌景のせい
ってことや山県昌景

338 :
>>307
よく嫁
まあ誤字だけどw

339 :
>>325
傀儡は言い過ぎだか、君主ではなく盟主に近かったのは確か
家康が真の専制君主となったのは関東移封が契機だよ
三河武士達は専業農民になるか伝来の土地を離れて家康について行くかの二者択一を迫られた
豊臣政権は九州征伐時の混乱の今日喰うから大名の移封時に「武士」が元の土地に残る事を争いの元
と厳禁したからね
地縁を失い、あらたに家康から土地を与えられた彼らは全員が忠勝・康政らの旗本と同じ立場になった
>>329
それこそが良くも悪くも後世創作イメージ

340 :
今日喰うってなんだよw
教訓な
ちなみにそれまでは旗本として腹心ではあるが石高か低かった徳川四天王のうち三人が
一躍家中トップ3の大名並みの封土を与えられ
旗本からいわば方面部隊長へと栄転ししたのもこの時のどさくさ

341 :
なんか三方原の敗北を持って
家康は信玄を異常に恐れた
ってイメージがあるが
家康は若い頃からずっと武田とは喧嘩腰だったろ
西を織田に任せて東に活路を求めてた

織田が武田と仲良くしたいから、我慢してたようにすら見える
家康は三方原で敗北から大いに学び、反省したが
その後も武田とは敵対を続けている


342 :
幸村と書くとにわかと言われる

343 :

★ こちらも、よろしくお願いします ↓

秀吉の死〜関ヶ原〜大坂の陣、について語り合おう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349929455/
1 :日本@名無史さん:2012/10/11(木) 13:24:15.08
秀吉の死〜関ヶ原年表
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/seki-nen.htm
関ヶ原〜大坂の陣・歴史年表
http://tikugo.com/osaka/sonota-os/nenpyou.html
関ヶ原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
大坂の陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3


344 :
今川義元でしょう

345 :
普通に武田信玄では素人臭いのか

346 :
家康は、武田勝頼と互角、ないしやや押され気味のレベル
当然、信玄は怖い
しかし
その信玄と信長が戦った場合、最終的に信長が勝つと判断してた
だから、信長を裏切れない
こき使われても、必死で信長について行く
それが、若き日の家康の姿
結論。家康が最も怖れたのは、信長

347 :
今川義元に決まってんだろ

348 :
ぶっちゃけ、家康の度胸はすごいと思う
戦国時代を生き抜いただけのことはある
以下、家康が戦った相手
織田信長
北条氏康
武田信玄
浅井長政
朝倉義景
豊臣秀吉
上杉景勝
毛利輝元
真田幸村

並みの大名ならば、上記の全部と戦いは避けたいところ

349 :
自分の影武者。
家康は今川に人質となっていた時、ペニスを切り落とされている。戦国
時代の人質は、男はペニスを切り落とされ、女は犯されて子供を生まさ
れるのが普通だった。家康も同じ。築山殿の生んだ信康も実際は今川義
元の子だった。
それでも家を保つために影武者をたくさん備え、一人ずつ女をあてがっ
て生まれた子はすべて自分の子とした。家康が側室を大勢持ち、子が多
かったのはこの理由による。家康は毎夜毎夜、影武者が女を抱き子を孕
ますのを憎悪を持って見ていたのだ。

350 :
>>348
織田信長相手は負け戦だし(桶狭間で今川義元軍として参加して敗北、もう少しで切腹するところだった)
武田信玄にも敗れてる
浅井長政 、朝倉義景、北条氏康は、織田信長や豊臣秀吉を総大将とする軍に武将として参加しただけ
徳川家康が総大将の勝ち戦は関ヶ原が初めてなんだから

351 :
実は親族が一番信用できなかったとかw
三河一向一揆鎮圧までは暗殺や追放の恐怖はあったんじゃないの?

352 :
>>348
家康に気骨を持って戦おうしたのは真田幸村ぐらいだろ
ところで何で少なからず雑魚男まで入れてるんだ?

353 :
家康は西国の大名、とくに毛利と島津を恐れ、死後も日光から西国の方角に睨みをきかせうんぬん・・・
という話しは、なんか根拠があるんでしょうか?
家康が生きていた時代は、毛利はともかく島津が大軍で攻めてくるなど地理的に無理と思われていたと思いますが。
徳川が薩摩まで行けなかったように。

354 :
睨みを効かせなきゃならないのは朝廷のことです

355 :
>>353
家康が臨終する間際、自分の頭を西に向けろって
側近に命じた話を専門雑誌が何かで読んだ事あるよ

356 :
それはよく聞くけど、伝説レベルの話しではないかな
天下への野心は無さそうな島津は放置でいいだろうし、
毛利のことも、恐れるどころか、可哀想なんで減封で済ましてあげたとも言えるし

357 :
>>348
真田幸村より毛利勝長のほうが手こずらせただろ、あほ
そもそも、1武将を信長秀吉と並べてるのがおかしい
お前幸村好きなだけだろw

358 :
一筋縄でいかない複雑な日本の歴史や
方学が大衆に重要な意味を持つ日本地理学など
複層構造物のような体系になってる日本は
謎が多ければ多いほど合理的に解きがいがあるしね

359 :
>>352の言う雑魚男って誰?

360 :
今川義元

361 :
>>360
桶狭間があまりにも呆気なさ過ぎて馬鹿殿扱いの今川義元だが
あれはあれで三国同盟成立させたり徳川家康を人質にし幼主の岡崎を統治したり
武田信玄の姉を正室に迎え武田家からも一目置かれてた人物
家康は19歳までこの人を主君として仕えてたぞ

362 :
まあでも、武田や秀吉に喧嘩売る度胸はすごいよな
三成などと対比され、後半の横綱相撲巧者みたいに語られるけど
長いものに巻かれた連中とは格が違う

363 :
>>362
家康はずっと長いものに巻かれてただろ
武田に喧嘩売ったというが織田信長の後ろ盾あってこそで(何かあれば信長が助けてくれる)
単独で喧嘩売ったことは一度もない
小牧長久手も織田信雄という神輿を得たから秀吉に盾ついただけだ(何かあれば信雄が責任とってくれる)
秀吉に媚びて秀頼後見人の座を勝ち得てからはやりたい放題だったというだけ

364 :
小牧長久手で、織田信雄を神輿に担いだけど、信雄は、単独講和して責任なんか取らなかった。
その後の、秀吉との駆け引きで、自分を高く売り込むのに成功したのはさすが。
天下人秀吉が、家康を臣従させるために母と妹を人質に出してる。他の大名でここまでされたのはいない。

365 :
>>364
旗印が信雄だった以上、信雄を生かして、家康をRという選択肢は秀吉になかったはず。
秀吉はどうも家康をえらく好いていた、そのために妹を与え嫡子に養女を与え
何度も姻戚関係を結び前田利家を差し置いて筆頭大老とした。
家康は秀吉をけして好きになれなかったようだが(世話になったのに墓を破壊するくらいに)。
まあ、家康は血統好きだからね。

366 :
>>364
家康と朝日姫の婚姻は人質とは違うw
関ヶ原後の徳川家は千姫を人質として豊臣家に差し出したことになるぞ?
なかも家康上洛時の命の担保にすぎず、家康が生きて領国に帰ったときには
秀吉に返還している。

367 :
借金まみれの自転車操業の町工場で生まれた家康
借金の肩に人質として連れてこられたとこが、借金取り今川義元の家
何年もの間、誘拐状態となるが、借金取りが逮捕され、ようやく人質から開放された家康
町工場の若社長に就任するが、隣町の織田信長という新進の会社と提携する
その新進の会社は大きく飛躍する、そしていつしか子会社扱いにされてしまう
隣の家にヤクザが住んでいた。その名は武田信玄
あまり関わりたくなかったけど、やたらちょっかいされる
そのヤクザが仲間を引き連れ殴りこんで来た。しかし玄関先でヤクザがポックリと死んだ
その後信長社長から色々と無理難題を押し付けられるようになる、新たな苦渋となるが信長社長が部下に殺され一安心
社長を引き継いだ秀吉から社員になれ!と脅かされる。色々あったけど重役待遇で社員になる
秀吉社長が死に、その子供が後継ぎとなるも社内は混沌、秘書の石田三成との社内バトルが勃発
苦戦もしたが副社長と秘書の戦い、難なく勝利して実質的に社長の座に座る
気がかりだった元社長の一人息子が成人した。これを倒さねば自分の子供達に社長を継続できない
最後の戦いが始った。前回の社内バトルでリストラされた真田幸村達のふんばりで苦戦
幸村の自爆テロ攻撃もあったが、最後の戦いを終えた
病床に臥せり長かった自分の人生を振り返り、最も恐かったのは誰か?と考えてみた
いつ殺されてもおかしくなかった借金取りやヤクザ、築き上げたものを壊そうとしてきた輩
しかしやっぱり恐かったのは、あいつだよな。。。と名前を出す瞬間、彼は息を引き取った

368 :
今川義元だろ
その気になればいつでも殺せたんだから

369 :
家康は、今川家の三川統治のキーだから、Rわけがない。
わざわざ織田家の城を攻めて、信長の兄を捕虜にして、捕虜交換で家康を手中にして駿河に連れてきた(雪斎の作戦)。
元手もかかってるんだ。殺したら元も子もない。

370 :
信長は「三河の王」をRメリットがあったのか

371 :
>>349
by柴田錬三郎

372 :
まあ、人質は生きていてこそ価値がある。
義元在世中は、家康の人質としての価値が存続していたということ。
家康が成長してきたら、配下の武将として使えそうだったので、姪を与えて一門扱いにして懐柔しようとした。

373 :
信長だろ。駿河、遠 江、三河と功績にして少ない領地で
反乱しなかったからな。それでも80万石ぐらいはあった
んだろ。から謀反は簡単なはずだが。

374 :
>>369
人質ほときにに価値を置きすぎだ。
家康を今川が殺したらどうなる?
三河国人が大挙して今川を攻めてきて義元の息の根を止めるか?
そんな力ないだろう、ないから当主が人質になってたんだ。
逆に人質に取られた幼主の代わりに今川が三河国人を養ってたのに。
せいぜい武田に雇ってくれと志願するくらい?

375 :
>>374
家康が殺されたら一応三河を押さえてる国人領主宗家が断絶する。
松平一族による大乱戦が始まるわな。
桜井家みたいに家康が生きてるのに反乱を起こす家があるんだぜ。
中には尾張と手を組んで三河統一を狙う家なんかもあるだろ。
一族以外の国人領主の去就も分からん。
属国の安定を考えるなら若年の人質をR意味は全くない。

376 :
>>375
今川家が三河を併合してしまえばよい。
桜井家とやらは今川家をつぶせるほどの大勢力なの?
今川に従い人質を出していた松平家に更に臣従するような土豪なんでしょ?

377 :
強引に併呑しようとすると織田についちゃうやからが出て泥沼が深くなるから
織田を叩く準備ができないうちは柔らかくいかんと

378 :
>>376
それをすると宗家に近い一族は再興を期して織田を頼るだろうな。
東三河は織田家に侵食されてたんだから岡崎が織田に味方すると
三河のほとんどは織田家支配になるだろ。
織田・三河連合を敵に回すと武田・北条との関係が難しくなるな。

379 :
>>378
さあね。
今川についたか織田についたかなんて五分五分なんでは?
信長は暴君と言われていたから今川についたかも。

380 :
この時代は、国人領主の勢力を侮れないからね。
鉢植えでサラリーマン化した武士とはわけが違う。
他国を従えるのは、結局、国人を掌握すること。武力で押すだけではダメだな。

381 :
>>380
家康の親父も祖父も家臣の謀反で殺されている。
松平家が三河国人の心身を完全に掌握し
三河人が松平家に絶対服従を誓っていたなどとんでもないw
最終的に家康が天下をとったことから
三河武士の忠誠心最強みたいに言われているだけ。

382 :
>>378
東三河というより、田原の戸田氏が握る、渥美半島と、三河湾奥部の制海権。
東三河は、なぜか統一支配がされないところで、
「海の戸田」「川の牧野」「山の菅沼」の、ミニ地政学的な三分状態が、戦国期を通して続いている。
戸田が寝返ったこと自体は、尾張の織田から見れば大金星だが、駿河の今川から見れば、案外微妙。
東三河に関しては、山岳の菅沼が、徐々に武田に吸い取られていくのが、
松平からみても、織田から見ても、今川からみても、かなり痛いことだった。
長篠合戦に至る経緯は、大きく見ればここに関わる。

383 :
やはり恐れていたのは薩摩などの地方勢力では・
横槍スマソ

384 :
事情はどうあれ若年の家康にとって今川義元は相当恐ろしかったんじゃないかな

385 :
>海の戸田
そういえば渥美半島の田原藩は貧乏だったようだけど、あいつら廻船で儲けようという発想はなかったのか?
港が作れなかったのか?

386 :
水がないから無理

387 :
所領は海に面しているし、渥美半島にも廻船業を営むものはいたよ。

388 :
>>372
つーかそもそも家康の親父の広康自体が
清康の横死後まだ幼かったので三河が混乱して
逃避行してたのを義元が後ろ盾になって三河に戻してやった
家康は親の代からの今川与党なんだよ

389 :
家康の父は広忠
家康が完全に三河を掌握したのは西郷の局(秀忠生母)を側室にした時からだと思うんだがどう?西郷の局は名家の出自で三河では見逃せない影響力があったとか

390 :
信長の命令で息子と嫁を殺した。
これがすべてだろ。

391 :
正室と長男は天下とっても粗末な墓のまま改葬すらせず
一方、信長に密告ったはずの嫁は信長死後も終生化粧料を給付する厚遇
これで信長の命令だと言われてもw

392 :
>>389
西郷家に大した力はないよ
もともと今川家に仕えていたんだが今川義元の敗戦で混乱し、
あわてて織田信長と同盟を結んで今川家から独立した徳川家康に服属、
出戻り未亡人だった西郷局を側室に献上した

393 :
豊臣秀吉よな。
家康から見れば、完璧に屈服させられ、
かつて日本の歴史ではあり得なかった大権力・支配秩序の完成形を作り上げる過程とその具体像を
眼の前で見せつけられたわけで。
で、そういう歴史的な事実を、後に自身が天下を奪った後に塗りつぶし、捏造してまでもみ消すことになった。

394 :
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし

395 :
そりゃあ三方ヶ原の武田信玄だろ
糞漏らして逃げ帰ってきたんだからな

396 :
戦いを挑むことすらできず人質に甘んじざるを得なかった今川義元

397 :
義元生存なら家康の独り立ちはなかったかもね。桶狭間という大事件が起きたからこそ独立できた

398 :
家康が敵わないと思ったのは、
義元、信長、信玄、勝頼、秀吉、真田昌幸、高台院、島津などかな。
手ごわそうな相手とはガチでぶつからず、適当にいなす。
家康のこういった強かさこそが天下人になれた要因だろう。

399 :
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし

400 :
秀吉は家康はおろか織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に7.5倍の兵力で短期決戦挑んで1万人ぶち殺された上に
高木や吉村・木造など1000貫そこそこの雑魚領主に撃退され会戦当初から寝返りだらけで
徳政連発・崩壊状態の信雄領国を1年一杯&135000の大軍使って尾張半国すら切り取れなかった。

401 :
◎秀吉失態集
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる

402 :
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

403 :
家康は信長より遥かに戦上手だろ
姉川の戦いで徳川は大軍朝倉に圧勝
織田は寡兵の浅井に苦戦

404 :
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川

405 :
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

406 :
政治が絡めば秀吉は強いけど、ガチでぶつかれば弱い。毛利や島津がこけたのは
膨張中の織豊の勢いで、在地勢力が乗り換えまくった結果だろう。
大陸に近くて利害が読める西国に対して、東国は後先考えずに突っ走る土地だから、
北条は大コケするまで抵抗して、そこまでアホとは思ってなかった秀吉はてこずった。
結局はちゃんと屠ったけどな。

407 :
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚

408 :
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

409 :
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

410 :
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

411 :
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書

412 :
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

413 :
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw

414 :
まあ同じ土俵の上にすら立たせてもらえなかった今川義元だろうな

415 :
別にゆっくりでいいからと秀吉に言われていたのに、
秀忠の上洛(小田原攻めに当たっての人質)を急いだ家康
秀吉、凄ぇ〜

416 :
元々10倍以上国力差があり木曽小笠原石川水野真田が離反して軍事機密露見した上に天正大地震と天正11年からの徳政連発で
めちゃめちゃになった徳川に対して侵攻計画進めまくっていざとなったらビビリまくって信雄・顕如に取り成しやってもらって
母と妹人質に出したのが秀吉
ヘタレにもほどがある。直接対決で家康はおろか信雄相手に1万人ぶち殺された上に
戸木浜田松ノ木神戸蟹江河波東駒野二重堀と各城郭で蹴散らされまくって寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を7.5倍の兵力で
尾張半国すら切り取れないヘタレっぷりだから当たり前だが

417 :
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

418 :
信玄と信長はまだしも他の連中恐れたとかないわ
アンチ徳川は馬鹿堀の糞歪曲史観に毒されすぎじゃねぇの

419 :
>>418
信玄や信長もおそれていたとは思うが義元ほどではないだろ
人質にされてたんだぞ

420 :
小牧・長久手の家康勝利こそ捏造。岩崎砦を抑えられ、全体像からみて秀吉快勝!

421 :
義元を「恐れる」ってのはちょっと違くね?
敵じゃなくて主君だよ?
信長みたいに、大人しく臣従しても用済みになったらポイ捨てされそうな可能性があるならわかるけど

422 :
そんなもの情勢次第で待遇は変わる。
義元の姪を娶ってるから間違いはないと思うが…

423 :
>>420
無知すぎてワロタwwwww
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

424 :
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である

425 :
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない

426 :
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

427 :
小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる

428 :
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

429 :
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ

430 :
秀吉は、意外に謙虚なところがあったようだよな。
小牧・長久手合戦も総体ではきちんと勝利しているのに「ワシの負けや〜orz」と項垂れたり、
人質長丸上洛についても「いいよいいよ、幼少だし遠路大変だから」なんて猶予してあげたり。
家康の方が怖気づいて、下手に出ていたわな。
こういうことも、山本・堀らの研究会の成果として感謝したいね。
あ、それから、関ヶ原合戦も毛利・石田らが完全に政府与党として優位に進めていたわけで、
最後の最後でいろいろねじれて反乱軍の大逆転勝利なわけよね。
これら、全部、徳川史観が誤って伝え、国民教育をしてきた。酷過ぎるわな。

431 :
>>小牧・長久手合戦も総体ではきちんと勝利しているのに
小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる

432 :
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。
織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。
松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折
夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却
弱いにも程があると思う

433 :
後家康に出したおぎ丸が人質だったなんて事実はない(佐々成政あて書状で秀康は人質として扱っていないと信雄が言ってるし
ただ和睦条件だっただけで、その証拠に翌年は秀吉家康とも対戦に向けて軍備整えまくっている)

434 :
秀吉は織田家で最も無能な織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に7.5倍の兵力で挑みかかって1万人ぶち殺された上に
木造・高木・吉村など千貫そこそこの雑魚領主に敗北した。

435 :
堀の糞本は史料ほとんどなしで妄言だけで書き連ねている糞本だからな

436 :
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

437 :
>>433
>>430が言っているのは、小田原攻め直前の妻子在京令に関わる長丸(のち秀忠)の話
あれは、確かに、清華成大名豊臣家康の方が相当気を遣っている。
山本・堀・矢部・曽根氏らの研究により相当面白い事になってるで。

438 :
家康が豊臣姓とかほとんど一時しか名乗ってないのに本名で清華成大名とか
馬鹿堀の影響受けすぎててワロタw

439 :
>>432
信雄が秀吉に勝っていたならなぜ秀吉の臣下になるの?
秀吉は中国にも四国にも出兵していて東海にばかり兵を集中させられなかったために
秀吉一人を狙って奇襲攻撃をかけた信雄=家康は一時的に優位にたった
戦が長引けば負けることは分かっていたからこそなるだけ奇襲攻撃の段階で
優位な条件で和睦したんだろ

440 :
>>秀吉は中国にも四国にも出兵していて東海にばかり兵を集中させられなかったために
お前は余りに無知だからスレにこなくていいよ
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

441 :
秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

442 :
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山から
おびき出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日
にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している。

443 :
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である
京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編

444 :
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

445 :
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、駿河と相模の境の
長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の
水野忠重等信雄の兵。したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も
遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

446 :
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。

447 :
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている

448 :
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw

449 :
>>信雄が秀吉に勝っていたならなぜ秀吉の臣下になるの?
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる。
完全に秀吉の苅田の応酬やらにビビッて信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。また浜田・桑名・長島・東駒野など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。さらに信雄方は敗戦直前期に長久保城も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。秀吉方はどうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本・八重羽・富田など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ

450 :
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

451 :
何せ長久手合戦後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である

452 :
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない

453 :
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条

454 :
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

455 :
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後。すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に
至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ。わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから 戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上
戦上手だろーな

456 :
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな.秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢は
ずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>453
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後。すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのに。軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、
本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

457 :
長文連投馬鹿

458 :
フェリペ2世とウィレム1世

459 :
この長文連投には狂気を感じる

460 :
小牧・長久手合戦後から、急速に秀吉が出世(任官していく)。
天正12年10月には、四位・大将に推任の動き(秀吉が謙譲の精神を発揮して五位・少将に)。
これぞ、まさしく総体でみれば、秀吉の勝利というのが公的な認識であった証左

461 :
全く逆もありうるんだが。
小牧・長久手の戦いで家康と信雄を武力制圧できなかったから
朝廷の権威を背負うことで天下支配を正当化しようとした。
急激な官位上昇はそのため。

462 :
頼朝を関東に流したら北条と組まれて幕府作られた
尊氏が鎌倉に行ったら京都に攻めこまれて九州で再起されて幕府作られた
家康を江戸に遠ざけたら、関ヶ原で勝たれて幕府作られた

463 :
猟官運動していないからね。
(天正14年の関白は、近衛家に運動していったけれど)
正御町が秀吉の力を正当に評価しての任官でしょう。

464 :
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです。長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって
武力平定諦めたため各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊。豊臣滅亡で完全に負け犬
>>463
はい?? 小牧長久手の戦いは8.5倍もの圧倒的兵力差がありながら短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと。長久保奪われ神戸も奪われ浜田も奪回され蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却。秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に
苅田や放火の応酬を行って示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に朝廷への急速な接近をしていくのは
近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる。近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造
秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会、池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」、立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

465 :
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになる。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚,秀吉⇒誠仁親王 銀50枚、秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十、⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊、⇒和仁親王  太刀、⇒若御方   料紙
と献品しまくりまた寺社衆への所領安堵もしまくっている。長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

466 :
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ

467 :
>>466
そら江戸時代に作られた漫談は家康ヲタの長文連投馬鹿に
都合のいいことばかりが書き連ねられているからなあ
で、長文連投馬鹿は小牧・長久手の戦いは家康の勝ちで
家康はそのまま秀吉を攻め滅ぼし天下を取れていたとでもいうのか?
家康ヲタの夢は壮大だな。

468 :
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので講和について同心した。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回。ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけ。ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。 そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

469 :
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな。織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ。謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利。前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田・戦い当初から尾張では毛利、
伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条

470 :
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

471 :
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで
和議がなっただけ。11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、
信雄より種種懇望があったので講和について同心した。ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中。戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけ。ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ

472 :
秀吉は織田家で最も無能な織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に8.5倍の兵力で挑みかかって1万人ぶち殺された上に
木造・高木・吉村など千貫そこそこの雑魚領主に敗北した。

473 :
城攻めの名人だの墨俣一夜城だの農民出身だの中国大返しだの太閤記の糞講談が世にまかり通ってるからな

474 :
またまたアンチ秀吉・家康厨の基地外コピペ連投
5連投して規制に引っ掛かり2時間後にまた自己レス

475 :
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

476 :
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。

477 :
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

478 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

479 :
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

480 :
家康がどう思っていたかなんて、どうでもいいだろ。
実力があって何らかの理由で発揮できなかった人物を議論すべき。

481 :
秀吉が関白になる随分前、
つまり天正11・12年頃から、秀吉の代弁者として前田玄以が活躍していた。
よく知られる正親町の譲位問題も含め、
玄以が菊亭や勧修寺・三条西・中山ら主要公家たちと会合を重ね、その中で指示を出していた。
それはまさに、秀吉の力を物語るわけだが、
その記録(日記類)を、徳川政権はわざと捨てたり、除いて写しを取らせたり。
ま、酷過ぎるわ。

482 :
>>464 秀吉の朝廷への接近は、小牧・長久手の合戦前からやで。
正確に言うと、朝廷の方が早くから秀吉を次期武家の最高権力者と見定め、
接近(公家衆の秀吉居所への参集や天皇使節の派遣)を図っている。
山崎合戦1か月後&賤ヶ岳合戦1か月後の秀吉上洛時(後者は信長1周忌)の見舞い、
両合戦後には当然正親町帝からの戦勝祝賀使節(勧修寺・吉田)派遣があるし、
上洛見舞いの使節も初見は天正11年11月(万里小路)やし。

483 :
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記>>464>>465と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

484 :
>>それはまさに、秀吉の力を物語るわけだが、
>>その記録(日記類)を、徳川政権はわざと捨てたり、除いて写しを取らせたり。
>>ま、酷過ぎるわ。
アンチ徳川の馬鹿堀を盲信した妄想乙

485 :
相変わらずアホ堀信者馬鹿が暴れまわってるな

486 :
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

487 :
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし

488 :
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ

489 :
秀長でしょ、恐れたのは。
一揆の件でも恩があるし。
九州系の大名は秀長派だし。

490 :
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力相手に母と妹さしだす雑魚ってそうそういないよな

491 :
名古屋城の、大天守‐小天守の連結構造、それらに隣接(大阪寄りの北西)する御深井丸の、
過剰とも思える臨戦態勢と、度重なる設計変更。
そして、本丸は「住まうところじゃない」との発言。
実は家康は、屁っ放り腰の臆病者だよな。
ホンマに豊臣勢力が怖かったんやなw 
あの慶長15年前後の頃は、豊臣も、もうどうしようもなかったのだがw

492 :
家康は秀長が長生きしてたら何も出来なかったよ。
尾張派だって秀長につくし、秀秋・秀家・毛利・九州の大名・チョウソカベ
だって秀長系。こんなの相手にして勝てる相手なんかいないだろ。

493 :
とりあえず福島正則は違うな
確実に違う

494 :
え!誰か言ってみろや!秀長の勢力に対抗できそうなやつを!いねーだろうが!
秀吉は自分より早く死ぬが秀長はまだ若いからっていう理由で秀吉より秀長を
恐れるのが普通だろうが。
これで秀次も生きててみろや。伊達も付くだろう。最上もつくだろ。細川だって
借金してんだからつくだろ。ええ?秀長なんだよ、一番恐れられてるのは!

495 :
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな

496 :
結構、ここの議論は楽しいな。今後ともよろしく。
ただ、コピペはもちろん、固有名詞等をたくさん使った長文は厳禁にしよう。
読みにくいし、議論の焦点が定まらなく。では、今日はこれでお休み。

497 :
家康にとっちゃまだ秀吉より氏直や三成のが手ごわい相手だったな
氏直は天正壬午で諏訪高島・乙骨の陣とかあわや負けるかというとこだったし
三成も18万兵集めてやばいことになってたけど
秀吉は135000も集めながらわずか16000程度の雑魚信雄に勝手に蹴散らされてたし

498 :
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

499 :
一番家康が恐れたのは信玄と勝頼だろ
信玄相手に蹴散らされまくり勝頼にも連戦連敗で滅亡寸前においこまれたし
長篠後ですらかなり苦戦してたし

500 :
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ

501 :
城攻めの名人だの墨俣一夜城だの農民出身だの中国大返しだの太閤記の糞講談が世にまかり通ってるからな

502 :
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。

503 :
今川義元でしょ
義元が生きてる間はずっと臣従
桶狭間で死んだ途端に手のひらを返すように織田と同盟し反旗を翻す

504 :
 信玄はこう考えていた。
 「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九)

505 :
その武田信玄も恐れていたのが今川義元

506 :
一番怖いのはお母さん。

507 :
|ω・`)チラッ
|ω・`)漏れ様だろ
|彡サッ

508 :
どう考えても小早川秀秋

509 :
終生頭が上がらなかった今川義元だろうな
信長は建前上は対等の同盟者だし

510 :
マジびびった思うは

511 :
ビビリスト家康

512 :
結局、豊臣秀吉に臣従して三河から関東に飛ばされた上で豊臣政権五大老の一人になっているから、家康が恐れたのは秀吉しかいない

513 :
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

514 :
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし

515 :
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

516 :
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

517 :
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

518 :
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

519 :
家康厨が日本史板のあちこちで暴れてるんだが
>>514
自分に都合のいい史料だけ持ちだすなよ。
家康は秀吉や秀頼に対する従属の血判書を何回も提出している。
秀吉が好意で家康からの人質を養子としたり、
家康が秀吉の大坂城に挨拶に行く間のみ限定で母を預けたことを持ちだして
「家康は秀吉に従軍していない」とは馬鹿げている。
あと、朝日姫は家康の人質ではなく正室。正室は権力の強い側が弱い側に押し付ける。
家康は娘を自分の家臣に与えているが、家康は家臣に従属したのか?
関ヶ原後、徳川家は豊臣家に千姫を嫁がせたが、これは徳川が豊臣に従属した証だと思ってる馬鹿なのか。

520 :
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
>>家康が秀吉の大坂城に挨拶に行く間のみ限定で母を預けた
ソースを頼む。母は初めから返還される予定で家康の元にいったのか?
>>朝日姫は家康の人質ではなく正室。正室は権力の強い側が弱い側に押し付ける
それこそ後ろ付けの論法じゃん。
秀吉厨からみて秀康を秀吉の行為で養子にしたとかのと同じ論法で朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも取れる。
>>関ヶ原後、徳川家は豊臣家に千姫を嫁がせた
これは秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけって話じゃん

521 :
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

522 :
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。

523 :
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

524 :
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

525 :
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

526 :
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>524-525のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録はほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる

527 :
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主がRば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる

528 :
衆道趣味がハードすぎる信長をもっとも怖れていただろう

529 :
>>520
>母は初めから返還される予定で家康の元にいったのか?
その通り。大政所は「見舞い」に行っただけ。
大政所は家康の人質になったと書いてある一次史料を求む。
>朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも
朝日姫が家康の人質に行ったという一次史料を求む。
あと、朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきているんだが。
>秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけ
秀吉が生前、秀頼と千姫の婚姻の約束をしていたという一次史料はどこにもない。
家康が秀吉の死後、後付で太閤の遺言として千姫を押し付けただけ。
秀吉生前の一次史料の提示を願う。

530 :
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
>>朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきてる
一次資料は?

531 :
>>530
こっちも早く、早くw
>朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも
朝日姫が家康の人質に行ったという一次史料を求む。
あと、朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきているんだが。
>秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけ
秀吉が生前、秀頼と千姫の婚姻の約束をしていたという一次史料はどこにもない。
家康が秀吉の死後、後付で太閤の遺言として千姫を押し付けただけ。
秀吉生前の一次史料の提示を願う。

532 :
>>531
お前は文盲かw
>>530の下部を読めw

533 :
>>532
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。

534 :
>>532
文盲はそっちw
529の下2つに答えなさい。
できないなら、日本史板のコピペ訂正しなおしね。

535 :
>>530
あらら、都合が悪いところ削っちゃって…家康の上洛の文字の部分
一次史料は正確に引用しましょう。
捏造してもばれないという脳みそが狂ってるw
 
「秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候(「家忠日記」天正14年10月17日」
ほらほら。大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったんです。
初めからすぐに戻す予定。>>520の答えね。

536 :
>>535
それのどこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所はずっと岡崎にいるんだろうがボケw

537 :
>>536
「御上洛候人質ニ」
君、戦国板で暴れて嫌われて追い出された有名人(アンチ秀吉の朝鮮人)だけど、
向こうでも意図的に史料抜いたりしてたんだってね。

538 :
>>536
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板・戦国板・ゲーム板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。

539 :
>>537
秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候
お前は馬鹿だな。上記の文では上洛時限定の人質なんてどこにも解釈できねーよクズw

540 :
つーか大政所は10/26に家康と秀吉が大阪に対面した後
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
というように三河にいるのが基本なのに家康上洛限定なわけねーだろボケ

541 :
>>536>>540
もの凄い文盲だなあ。いや、酷過ぎる。
まともな通説の類も読んだことがないらしい。
果たして歴史を語って理解できる脳味噌があるのかためらうw
都合の悪いことは黙って史料を抜き、それを指摘されると
「解釈できない(=お前の頭では理解できない)」と嘘つくのがお前の特技だからな。
だから史料読解が専門の戦国板を追い出されたんだ。
天正16年6月23日に大政所は京の聚楽第にいる。
家康が正室の朝日姫とともに上洛して、義母の大政所を見舞ったんだよ。
これ以降、家康が三河に戻った記事はあるが、一緒に聚楽第に来たはずの
朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
朝日姫は天正18年正月14日聚楽第で没し、京都の東福寺南明院に葬られており、
これ以降家康のところへ戻ることなく聚楽第で没したとみられている。
>>530の質問の答えだね。

542 :
>>541
お前の妄想には全く興味がないのでそれが書いてる史料と原文と日付を書いてくれ。

543 :
どうせ太閤記だろ。

544 :
>>542
「家忠日記」。
史料が解読できない馬鹿は引っ込んでろ。

545 :
>>542
朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板・戦国板・ゲーム板・三戦板・歴史難民板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。

546 :
>>544
ハイハイ捏造乙
家忠日記にそんな事書いてねーよクズw

547 :
>>朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
9/9家忠日記 朝日姫がお迎えににしの野迄こし候
会下へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候

548 :
>>546
そうか、史料が読めないもんなあ。
>>547
朝日姫なんて書いてないだろ。
なぜ嘘を書くw
あと天正18年に大政所はまだ三河で人質になっていたという
一次史料も提示しようw

549 :
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて

550 :
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候

551 :
>>549->>550
それのどこにも大政所が三河でまだ家康の人質になっていると
書いてない。

552 :
顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる

553 :
どこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
曲解ばっかしてねーでまともに史料だしてみろよクズw

554 :
秀吉厨の脳味噌の腐りっぷりは神レベル

555 :
個人的には今川義元のことは恐れてたよりも尊敬してたんじゃないかなと思う

556 :
>>553
はい、屑はお前ね。
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」
家忠日記、多聞日記、ともに家康の上洛のために大政所が三河へ来たと
明記されてある。

557 :
>>553
家康は天正14年10月27日、家康は大坂城で秀吉に臣従し、めでたく秀吉の家臣になりましたので、
「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。
大政所を送って行ったのは井伊政直ですね。
お前の目は節穴ですか?

558 :
>>>549>552
「家忠日記」天正16年6月22日条で、大政所の病気の報告が届いているが、
大政所の居る場所は「大坂」であるとはっきり書いてある。
「大坂大政所様御煩」←なぜこれが読めない?
そして、同じく「家忠日記」天正16年7月2日条で、
今度は大政所の病の報告が京都から来ている。
いずれも天正16年の大政所の居場所は秀吉の大坂城、もしくは秀吉の聚楽第であって、
大政所が三河にいるはずもない。
(だいたい天正14年11月12日に大政所は帰っている。大政所が三河にいたのは天正14年10月半ば〜11月半ばの1ヶ月足らず)。
お前が繰り返し引用している「家忠日記」天正16年6月23日条の家康が岡崎へ来たという記事だが、
そもそも大政所のことが一言も出てきておらず、家康がまだ大政所を人質として岡崎に幽閉しており
大政所の病気見舞いのために来たというのはただのお前の曲解。
史料読解が全然できてない。
お前のコピペは全部書き直しだな。

559 :
>>「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
>>「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
>>御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」
これのどこにも家康の上洛のために大政所が三河へ来たなんてかかれてねーよクズ
「上洛のための」とか「上洛時限定の」とか書かれてもない情報つけたしてんじゃねーよハゲw

>>「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。
原文読んでないのが丸分かりでワロタwwwww
家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候
と書いてて大政所が大阪から三河まで帰ったといってるだけなんだがw
最初の約束ってなんだよアホwどこにそんな事書かれてんだよバーカ

560 :
家忠日記6/22殿様大阪大政所様御煩以外ニ
というくだりは家康が大政所の病気を見かねて大阪から三河に行ったって意味だろ。
なぜなら6/23条で殿様迎ニ岡崎へこし候、大ひら迄にて御目にかかり候、ふかうそ帰候などと
大政所と三河の大ひらで会見して深溝に家康は帰ってる。
つうか大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
大阪や京にいたわけねーだろw

561 :
>>559
お前が史料読めねえから馬鹿にも分かるように書いてやっただけなのに
あいかわらず我流の曲解で押し切る馬鹿w
「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日)
はい、どうやって訳しますか?
ふかうすの主語は大政所じゃないだろ。
どこまで馬鹿なんだ。

562 :
>>560
天正16年6月22日条の現代語訳が滅茶苦茶。
大坂にいるのが家康なわけないだろ。
前後の家康の動向を読んでいないのが丸わかり。
「大阪」なんて原文にはどこにも書いて無くて「大坂」だし。
繰り返し貼ってある天正16年6月23日条から大政所という言葉を抜き出せ。
一言も大政所のことに触れてないじゃないかw

563 :
>>560
あと、天正16年7月2日に大政所の病気の知らせが
なぜ京都から来ているかについても説明しろ。

564 :
>>560
で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。

565 :
>>559
「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
現代訳してご覧。
お前がそんなこと書いてないと曲解連投のために嘘ついてるのか
本当に馬鹿なのか見極めてあげる。

566 :
>>559
家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて

また嘘つくwどこまで原文読んでないんだ。
あの条で大政所について書いてあるのは
「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
それ以降の文章は別の人物の動向。
「大政所御帰候」の現代語訳待ってるからな。

567 :
最も恐れたのは秀吉だろう
何しでかすか分からない暴君が一番怖い

568 :
人質にとってた今川義元じゃないの

569 :2013/10/22
アンチ秀吉のキチガイ在日完全論破されててワロタw
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