平家を長続きさせるためにはどうすればよかったの? (346)
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平家を長続きさせるためにはどうすればよかったの?
- 1 :2012/04/02 〜 最終レス :2013/06/05
- なんで平家政権は早く滅びてしまったんでしょうか?
- 2 :
- 2ゲット
- 3 :
- 朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←NHKの社員がよくチカンやヤクで捕まるのはここの工作員
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
- 4 :
- 鎌倉幕府の例から見る限り、
京都から本拠地を移した方がよさそう。
- 5 :
- 都の生活に慣れきってる平家には難しいな
- 6 :
- 蘇我氏を長続きさせるためにはどうすればよかったのかと
一緒。
- 7 :
-
平家の栄華は、外祖父になったことによる。
つまり、摂関家に成り代わっただけだから、
そもそも長続きするものじゃなかった。
でも、滅ぶようなものでもなかった。
富士川と倶利伽羅の敗戦が痛かった。
- 8 :
- 平家の強大な権力の背景として天皇との姻戚関係に頼ったことと、
強引な施策で京の貴族たちの反感を買い、400年にわたって権謀術数を鍛え上げてきた貴族に敗れたからだろ。
前例を挙げると、摂関家最盛期を作り出した藤原道長だけど、
道長の死後、次代の息子・藤原頼道は、うまく天皇との姻戚関係を作れなかったがために、
折り悪く、藤原家を母としない後三条天皇と白河天皇が非常に有能で、院政が始まってしまって、
50年とたたない、あっという間にその栄華は終わってしまったし。
京は本当に恐ろしい所だよ。
その平家没落を反面教師にして、
天皇と姻戚関係を結ばず、平安貴族の陰謀渦巻く京には近寄らなかったのが源頼朝だろ。
- 9 :
- 頼朝は必死に入内工作しただろ
- 10 :
- 安土あたりに拠点を築くべきだったな。
東海からくる鎌倉軍と北陸からくる木曾軍に対抗するため。
比叡山の寝返りで平家は瓦解して京都の防衛もできなかったのだから、
比叡山より東側に防衛拠点が必要だった。
- 11 :
- 安徳天皇と三種の神器を源氏に引き渡す
さすがに平家追討の理由がなくなるし
後白河法皇も無理追いするつもりはなかった
全滅はしなかったはず
- 12 :
- 竹島に韓国軍を置かせるように言ったのも朝鮮人だらけの民主党だからな
未だに勝手に侵犯しているなんて考えの人は居ないよな
もちろんJAL、エルピーダは民主党による国策倒産
ここら辺は新聞読んでちゃ判らない
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【殺された石井こうきの発言から】
そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
すべて繋がっている
- 13 :
- 近畿は最低でも捨てなきゃ。
中国地方と四国九州に絞る。
- 14 :
- >>8
詳しくは知らんが、
道長の政治はあぶれものを出さなかったらしいね。
めぼしい人たちは皆どこかの国司にはなれた、ってことかな。
とにかく皆から反感をもたれないように気遣った、まあ小心者だそうだ。
で、北条氏もだけど平氏も、
全国に領国を持つようになってから滅んでいる。
まわりの恨み妬みを買ったのが不味かったのでは。
- 15 :
- >>8
白河天皇の外戚は藤原氏
ただし頼通ではなく頼通の異母弟能信が外祖父(養祖父)
実祖父は道長の叔父の系統である閑院流だった
続く堀河天皇は頼通の子師実を外祖父(養祖父)とする天皇で
摂関政治が復活したんだが堀河天皇早世であぼん
本当に摂関政治が終焉したのは続く鳥羽天皇即位・白河法皇院政から
- 16 :
- 安徳天皇の返還か退位が不可欠なの?
- 17 :
- 安徳帝を何処かに沈めて、最初から無かったことにしてしまっていたら問題なかったかもしれない。
- 18 :
- 臣籍降下させて平氏にして棟梁に。
- 19 :
- 逆に藤原氏はなぜあんなに長続きしたのか?
- 20 :
- 坂東平氏を冷遇したから、長く続かなかったのだろうな。
千葉・上総とか。
後醍醐天皇が千葉氏を重用したら幕府はあっけなく滅んだ。
- 21 :
- 僅かながら選挙の匂いが漂ってまいりました。
_____________
|| |
|| ちょっと待て . . .|
|| . |
|| その民主党員 . |
|l -――- |
'"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
':.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ______|
/.::.::./.::.::.::.:j.::.::.:|.:ム;ヘ.::.:ハ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,'.::.::.::i.::.::.::.:/|.::.:: l/ `|.::./7
:.::.::.::j:|.:!.:_:/´|_.::_」 くV <|
|:ハ_::_ル'´ /⌒丶 j//V|
|:::::::::i x==ミ _ 〈/.:|.::|
|:::::::::i:'" ´ ゙̄Y}!.::.l.::|
八:::::::圦 、' _ "/_ノ.::,'.::j
/⌒ヽ::::ト{\ _,.ィ__/.::/l:./
/ 丶∧::| 丶 `ニ´ 彡// :厶|∧
{/ 丶ヘ| ノ / |:/ (こ ハ
/ }ヽ、 ∧ / 'x┴〈 }_ゝ、
/ \∨ ∨ / ニW } )
〈 _ノ∧ 厶=7 ,.-、) 人ノ
}⌒ヽ `<__,>イ |__ノ| |/∨
/ ヘ / │ 丶ノ.| | \
/ ヽ \__/ | | ノ
/ >'"⌒\ 〃⌒\| ト、__/
- 22 :
- >>10
そういう所は確かにある。
てか京都にせよ福原京にせよ、極めて守りにくい場所にあるな。
- 23 :
-
京都近辺で守りやすいところとかあるのか?
- 24 :
- >>22
都は基本的に土塁も石垣もなく防御施設が全くない
そういう意味では初めて武家政権が置かれた鎌倉も同じで
鎌倉幕府も結構あっけなく滅ぼされている
- 25 :
- そういう所に都を置くってどうなんだろうな。
京都も動乱に巻き込まれてばかりだし。
- 26 :
- 確かに鎌倉も大軍で守るとかしにくい土地か。
- 27 :
- 安徳天皇など連れて行かず、後白河院を連れて行けば良かった。
行宮で女をあてがえば、いくらでも天皇が製造できる。
そもそも天皇を連れ回せば政権維持が出来るという発想が幼稚。
- 28 :
- 近江京は防衛を考えて造営されたとも言える。
- 29 :
- >>24
鎌倉の場合は、海岸沿いに長く広がった今の鎌倉市域のイメージじゃなくて、
基本的には鶴岡八幡から若宮大路が延びて海岸まで至る地域が想定された都市だったから、
人口城壁はほぼ無かったにせよ、東西北は山、南は海で、
地形そのものを天然の要塞として活用してた面はあるけどね。
現代でも、周辺が山がちの鎌倉市中心部へ出入りする抜け道はさほど多くないから、
鎌倉市周辺の道路は、休日のたびに行楽客が押し寄せて大渋滞する。
それに福原も、或る程度、防衛を想定した地形を応用してた面もあるようだね。
神戸周辺の地形に詳しい人、解説お願いします。
- 30 :
- 詳しくはないが、神戸も大津市西部に似た細長い街だよ。
神戸は六甲山と海、大津は比叡山と琵琶湖に挟まれて船を使わないと、
侵入経路が限られる。そのために義経は険しい道を通って、一の谷を奇襲したわけだし。
- 31 :
- >>24
現代中国語では、日本語で言う「都市」のことを、「城市」という。
「城」っていうのは、基本的に人口の防壁に囲まれた集住領域のことだから、
日本語で言う「しろ」とは、もともとの意味がかなり違う。
イザヤ・ベンダサンこと山本七平は、「日本人とユダヤ人」の文中で、
「水と安全がただの国・日本」と表現したけれども、
これは、日本列島そのものが、海という天然の外堀で囲まれた珍しい地域だった、という意味も含んでる。
西はイベリア半島から東は朝鮮半島に至るまで、ユーラシア大陸でおよそ「都市」というものは「城壁に囲まれた場所」だったわけで、
日本の都市というものは、他国から見ればよほど奇異なものだったと言えるだろう。
「日本人とユダヤ人」の中では、日本の都市を評して「剥き身の牡蠣が平気で生きていた」という表現も使ってあるくらいだ。
他の例で言えば、カエサルがローマの城壁を撤去させた事例というのは、
当時のローマの人々にとっては驚くべき措置だったと言えるし、
日本の近くで「城壁に囲まれた都市」の特にわかりやすい事例を挙げるなら、
韓国の京畿道の水原市に現存する「水原華城」などもそうだろう。
ちなみに、18世紀末にこの華城を建造させたのが、ドラマでおなじみの「イ・サン」すなわち正祖王だった。
(なお、華城はソウルからの遷都を計画して造られた都市だったが、遷都直前に正祖王が亡くなったため、遷都は結局行われなかった)
都市全体が人工城塞であった都市というのは、
ひょっとすると、日本では戦国期の堺くらいだろうか?
- 32 :
- 堺はそうだね。
安土もそれっぽい。
- 33 :
- 後は寺内町とか石山本願寺がそう。
- 34 :
- 秀吉が聚楽第を造った京都もそうだよね
- 35 :
- 福原京は退路の確保が難しい。
海から退却する時、十分な広さが無いから余裕をもって戦いにくい。
荒天時の海の場合、退却する事がさらに難しくなる。
陸で主に想定している2方向から攻められても、陸からでも海からでも退却が難しくなる。
一の谷の合戦の時は3方向から攻められた訳だけど。
退却だけじゃ無く単純に戦うにしても、その狭さは山側から、あるいは海側からの攻撃には弱い事も示している。
- 36 :
- >>31
> 日本の近くで「城壁に囲まれた都市」の特にわかりやすい事例を挙げるなら、
> 韓国の京畿道の水原市に現存する「水原華城」などもそうだろう。
え、初耳だけど?
- 37 :
- まあ狭くても一つの方向からだけ攻められたのなら、
その狭さを活かして戦う事も、いざとなったら退却する事もしやすいけど、
福原京は一方向からだけ攻められる事は考えにくい場所でもある。
- 38 :
-
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【殺された石井こうきの発言から】
そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
そして低視聴率反日大河ドラマ
すべて繋がっている
- 39 :
- 本拠地の位置は関係ないだろう。
平家一門以外に平家を支える有力な一族がいなかったからだろう。
例え、後継者が暗愚でもそれなりに支える家臣がいたらなんとか
なるだろうけど、平家にはそれを支える一族がいなかった。
- 40 :
- >>39
源氏の義朝のように勢力扶植に熱心じゃ無かったよね。
- 41 :
- 当たり前といえば当たり前だけど、
福原京っていうか、戦うなら福原京自体じゃ無くその周辺という事だけど。
と付け加えておこう。
- 42 :
- 平治期に頼朝の首を切っても平家は滅んでいただろう。
武家の棟梁として諸国の源氏にも恩典を保証していればよかった。
源平で左右の近衛中将を取り、日本を東西に分けて住み分ける。
- 43 :
- >>34
いや、京都はそれこそ「城壁の無い都市」の典型例だと思う。
条里制こそ中国の都城の様式を真似てるけど、
あの長方形の京都市外を高層の石壁なり土塁なりでがっちり囲い込んでたんではなかった。
- 44 :
- >>43 訂正
京都市外 → 京都市街
- 45 :
- >>29
福原はただの行宮で本来都の建設が予定されていたのは和田らしいよ。
ただし平家の本拠地付近である神戸は背後が山なので平地が少なく
とてもじゃないがそれまでの平城京・平安京みたいに東西南北十町の平地が確保できず、
3分の1程度の小さな都が計画されていたらしい。
防御のために天皇を神戸に連れてきたんじゃなくて、あくまでも神戸が平氏の本拠地だったから。
土塁や城壁で囲んだ本格的な防御施設を予定していたこともない。
- 46 :
- >>43
北野天満宮に土塁残っているよ
- 47 :
- >>46
あれはずいぶん後、安土桃山時代に豊臣秀吉が作ったんだけどな。
江戸時代にはまた放置されたため土塁は一部を残して取り壊されてしまった。
- 48 :
- 存続するだけなら九州の在地勢力の離反がなかったら筑紫遷都決行で十分に可能
- 49 :
-
-----朝日新聞やNHKが煽る「国の借金」について
日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。
朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。
<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>
数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。
それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
-------そのニュース、核心はデマだ。 長文失礼いたしました。----------
- 50 :
- 朝廷と一体化して生きるルートと地方国家を目指すルート。
- 51 :
- >>50
その二つとも、平氏は失敗しているよね。
- 52 :
-
国外に逃げれれば面白かったんだけど、
壇ノ浦の時点で裏切り食らいまくって逃げ場無くなったみたいなんだよな。
フィリピンあたりまで安徳天皇連れて落ち延びたらとかね。
- 53 :
- 平家の象徴が宗盛
弱すぎて無理
宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。
サテイケドリニセラレヌ。
(『愚管抄』)
- 54 :
-
いや、象徴は二位の尼とか安徳天皇だろ。
武の象徴は知盛で。
宗盛は多分、鳩山よりましな程度で。
つまりもっと安徳を前に押し出して行動すべき。
- 55 :
- 1.朝廷と一体化して、西日本(近畿か日本アルプスまで)を治める。
もちろん安徳天皇を天皇に。
2.神戸など、近畿に拠点を置いて、朝廷とは多少距離を置く。
ゆっくりと朝廷から支配権を奪ってゆく。
3.畿内を捨て、中国地方&九州だけを治める。
朝廷には新しい天皇が立つが、安徳天皇を中国地方に置いて
西国限定の王とする。
- 56 :
- 「国の借金」について
日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。
朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。
<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>
数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。
それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
---そのニュース 核心は”デマ”だ。 長文失礼いたしました。---
- 57 :
- >>54
つうか、安徳天皇が西下した時点で都においては
治天の君後白河法皇の院宣によって後鳥羽天皇が即位、年号も変えてしまった。
朝廷や源氏はすでに安徳天皇は天皇ではなく先帝という認識。
平氏だけが天皇だと言って前面に押し出してもあまり意味はないという事実。
- 58 :
-
都から落ちるにしても、
法王を連れて行かないと全く意味がないと
清盛も言っていたように、日経小説にも書いてあったような。
まあ、
先帝でも幼帝でも、前に出すのと後ろで隠したままなのとでは、
士気に雲泥の差は出ると思うけどね。
- 59 :
- 逆に藤原氏はなんで長続きしたの?
- 60 :
- 存続する術はただひとつ。
麦飯をたべること、これであります
- 61 :
- 同族同士でちまちま争い続けたほうが長続きするんじゃねかに
- 62 :
- >>61
でも、内輪もめの多かった源氏嫡流は、結局3代で終わっちゃったけど。
それに、北条家は自称「平氏の傍流」だし。
もっと言えば、
「鎌倉時代」っていうのは、
「源時代」と「北条時代」に分けたほうがいいんじゃないかな。
- 63 :
-
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【殺された石井こうきの発言から】
そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
すべて繋がっている
- 64 :
- 平頼盛の系統って、せっかく頼朝に取り入ったのに、
堂上にも残れずに3代くらいで終わったよね。
なぜ生き残れなかったんだろう。
- 65 :
- 頼朝子孫が耐えてなくなってみれば、一族を裏切って
生き残ったという風聞が悪いからでしょう。
- 66 :
- もとから平家なんて下賎な武家の血筋を堂上にしておく義理は公家にはないし、
頼盛一族に恩義を感じてた頼朝とその子孫が耐えれば、北条にも優遇しておく
義理はないし、あとは人気の平家物語の華麗なる散華から逃げ出した連中なんて
失笑されるだけ。
- 67 :
- >>58
安徳天皇を戦の最前線に連れ出して射殺されでもしたら
元も子もないと思うが
- 68 :
- 重盛が長生きしていたら
数代くらいは平氏政権続いてたじゃね
- 69 :
-
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←よく痴漢やヤクで捕まるのはここの工作員
- 70 :
- >>68
重盛って宗盛叩きの反動でいい人っぽく平家物語に描かれてあるけど
それほど有能ではなかったんじゃね?
平家の中でも浮いていて清盛も扱いに困っていたし
- 71 :
- >>70
愚管抄を始め同時代の史料での評価高いし、
実際、十八で保元の乱。二十一で平治の乱を経験し、
あの後白河院と清盛の間に立ち、何とか死ぬまでは
院と平家の関係を一応は保ったわけで、優秀ではあったろう。
一門内での孤立も同母弟の基盛の早世に義兄の成親がアレだし
本人の非とは言い難い。
見方によっては父清盛よりキツイ人生だと思う。
まぁ、平家政権の維持は清盛より長生きしても無理とは思うが、
小松家を後世に残す事は可能なんじゃね?
- 72 :
- 要は、永続し得る武士の頂点としての権力の獲得に清盛が失敗したということだろうな。
歌どおり”わが世”を謳歌した藤原家の摂政関白ですら不安定だったのに。
もっとも、頼朝も源氏政権を後の世まで存続は出来なかったけど。
- 73 :
- >>72
足利尊氏も徳川家康も一代では永続しうる武士の頂点とは言えなかったよ
2代目が親父のやったことを踏襲し3代目当たりでようやく「家」が成立する
では重盛が父清盛の偉業を継続できたかといえば疑問としかいいようがない
- 74 :
- >>71
清盛に至っては同母兄弟がはじめから存在せず継母有。
それでも一門をまとめ上げた。
同母弟が早世したから重盛が孤立したのは仕方がないというのは違う。
平家一門次期棟梁の地位を忘れ、平家よりも妻の兄藤原成親を採ったのは重盛本人。
むしろ、重盛自身が平家を捨て、異母弟宗盛に平家一門を投げた原因を作ったような感じだ。
重盛には何一つ非がなかったというのは判官びいきすぎるな。
- 75 :
- 重盛はあの悪名高い殿下乗合事件で常軌を逸した陰湿な仕返しをしたしね
- 76 :
- >>74
清盛は家盛が早世したのが大きいだろ。
叔父の忠正とは元々仲悪かったと言え、バッサリ切り捨てる所は流石。
重盛にはない強さと言えるな。
ただ別に重盛だって平家より成親を取ったわけではあるまい。
成親を切り捨てる事が出来ない甘さに非があると言えばその通りだが、
そういう人物だからこそ殿下乗合事件があっても高い評価を
同時代人から得られたとも言える。
- 77 :
- >>76
さすがに大河ドラマの見過ぎw
家盛が死んでも忠盛と宗子の間には他にも男子があり、
清盛が適任でないとなればいくらでも廃嫡しようとすればできたんだよ。
しかし、清盛は一門をまとめ上げた。
一方、重盛は鹿ヶ谷で自ら失脚、中宮平徳子の後見人も宗盛に代わり、
自ら平家次期棟梁の座を降りた。
重盛を過大評価しすぎ。
- 78 :
- >>77
いや頼盛は年齢的に無理だろ。
家盛は官位でも正四位下の清盛に対し従四位下となってるし
祇園闘乱事件で清盛は立場が危うくなった事もあるし、
池禅尼が崇徳院の皇子、重仁親王の乳母であったりしたわけで、
生きていたら火種となる面が結構ある。
重盛の弱さは認めてるだろ。何度も繰り返さなくても良いよ。
重盛が清盛より長生きてしても政権存続は無理。小松家存続は可能かも。
父と院の間で、死ぬまで一応分裂を抑えた。
乗合事件があっても同時代人からの評価は高い。
別に過大評価とは思えないけど?
- 79 :
- >>78
頼盛は父忠盛が死んだときにすでに21歳だったのだし、年齢的に無理ということはない。
忠盛が清盛を見放せば生前に嫡子の首をすり替えることは十分可能だった。
重盛は鹿ヶ谷の後、平家嫡男としての地位を手放したので、
平家の庶流として一門と手を切り都で細々と生き残れたという議論なら余地はある。
ただし、平家一門や安徳天皇に従って壇ノ浦に一緒に行けば終わっていたが。
- 80 :
- >>78
平家一門よりも成親をとったことが「重盛の弱さ」なのか?
自分の息子が犯した暴力事件の報復を行うなどむしろ重盛は
妻子に有益なことならば上位にある摂関家や父清盛の忠告すらないがしろにし
世間のそしりを一向に恐れない強さを見せる。
逆に言えば、重盛は妻子以外に信じる者がいなかったということ。
平家一門よりも妻の兄弟を取ったことは弱さなどではない。
重盛が平氏の棟梁として行動するのではなく、
妻の一族の一員になっていたという事を意味する。
- 81 :
- >1
鎌倉政権が長続きしたのは、
武士の土地所有権を保護したから。
平家はそうすればよかったのに、
逆に荘園の大所有者になってしまった。
- 82 :
- 頼朝からも厚遇された清盛の異母弟平頼盛すら
息子は公卿になれず家は消滅したからな
小松家が残ったかどうかなんて希望的観測でしかない
- 83 :
- >>79
今年の大河の清盛ならいざ知らず
21歳の頼盛にはキツイだろ。
清盛が黙って従うなら兎も角、流石にそれは許さないだろう。
機会が有れば為義と義朝の様に対立するだろう。
この時期の清盛は、それを可能とする力が一応あるし、
院や摂関家も当然利用するだろうしね。
- 84 :
- >>80
いや庇いはしたが成親を取ってないだろ。
今の学会とかじゃ、そう言う定説になってんの?
でも切り捨ててないだろ?清盛なら切り捨てると思わない?
自分は思うけどなぁ、重盛はそこまで出来ない。
それどころか死にたがっているフシがある。
乗合事件だって、あそこまで怒るのなら、
いっそ武力で失脚まで追い込むくらいすればいいのに、
結局そこまでの非情さはない。清盛にはない弱さだと思うけどねぇ。
頼朝以下の兄弟を助けた事が、清盛の弱さとされる事があるけど、
重盛はそれより、はるかに弱いと思うんだけど…
- 85 :
- >>84
>乗合事件だって、あそこまで怒るのなら、
>いっそ武力で失脚まで追い込むくらいすればいいのに
は?
重盛にそんな力があるとでも?
清盛が必死に娘を摂関家に嫁がせて努力しているのを全部おじゃんにするのか?
強大な権力を持つ重盛が温情であの程度にしてあげたのではなく、
暴力事件を起こす重盛がそもそも非情。
やっぱり過大評価としか言いようがない。
- 86 :
- >>83
忠盛が廃嫡を宣言すれば済むだけのこと
重盛の子維盛は平家の嫡流ではなくなっていたし
廃嫡って意外に簡単なものだよ
- 87 :
- >>84
重盛は右大将を辞任して成親を擁護、
成親の死後は内大臣の地位も返上を求めている
妻の実家のためなら地位も名誉もいらないという思い入れ
平家のために働こうという気力が全くないが
- 88 :
- >>85
わけわからん。
自分は重盛にトコトンまでやろうとする強さがないと言ってるだけなのに、
なんで重盛自体の力がどうと出てくるの?
なんで一個の暴力事件で非情とまで断定するの?
乗合事件で同時代での史料が重盛の人格を非情としたの?
君が当時の史料が過大だとするのなら、もう自分は何も言う事はないけど…
- 89 :
- >>88
わけわからんのはそっちw
重盛に摂関家を失脚に追い込む力があったかと言えば
あきらかにノー。
トコトンまでやろうと思えば失脚に追い込むことができたんだぜ、
と書いたのはそっちなのに、急に「重盛には力がなかった」トーンダウン。
わざと大げさに言う→反論されるとトーンダウンして「そんなこと言ってない」
というのは何とかなんないかな?
慈円も乗合事件を非情としているよ、どこで賞讃してんの?
- 90 :
- >>89
重盛の実際の力がこの議論の論旨なの?
なら無いという君の言い分に肯くよ。それで良いよね。
愚管抄で乗合事件は、わけわからん不可思議な事としているな。
で、重盛の評価を非情の人と一転させたの?
させてないよね嘘はいけない。
- 91 :
- >>86
そう言う意味ならそれはそうだな。
- 92 :
- >>90
重盛は実際に力がないことは同意する、
しかし、それでも武力で摂関家を失脚に追い込めばよかったって?
できないことをやれと言ってどうする。
重盛存命中は院と上手く行っていたというのも父清盛や建春門院の努力だろう。
「サル不思議有シカド世ニ沙汰モナシ」 これが賛美に解釈できる?
乗合事件に関しては重盛が「深クネタク思」た結果だと非難してるよ。
- 93 :
- >>92
>それでも武力で摂関家を失脚に追い込めばよかったって?
>>84での要旨はあくまでも重盛に清盛みたいに、やり遂げる気力がないって事。
だから、自分は重盛に実際その力がないと認め、君の論に肯いた。
謝罪を求めるのなら謝罪をするよ。
建春門院は多くの学者も認めるが、清盛の努力とは…
いや、自分が知らないだけで、そう言う説があるのかもな。
誰か乗合事件を賛美したの、自分はしてないけど?
自分は事件が「あっても」と主張してるし、
実際、慈円は乗合事件があっても重盛を非情の人とはしていないし
高評価は変わらないそれだけ。
- 94 :
- >>93
>清盛みたいにやり遂げる気力がない
清盛が摂関家を失脚させるような無茶をしたか?
重盛は目上の摂関家を憚らず、報復をやり遂げる気力が十分あり、
実際に実行したが、あれ以上は力がなくできなかったんだろ。
慈円の高評化も、重盛が「父清盛が法皇さまに反旗を翻すようなことがあれば
早く死ななければならない(愚管抄)」という皇室擁護の人であったという理由から。
重盛が摂関家に取り替わった清盛政権の維持を願うならば慈円は酷評しただろう。
天皇家と摂関家の家来としての分をわきまえていたという意味での高評価。
- 95 :
- >>94
>慈円の高評化も、ry
あっそ、悪いけどその類の論には乗らないよ。
- 96 :
- Λ_Λ
<=( ´∀`)
( ) 朝鮮人は宇宙一ニダ
| | |
〈_フ__フ
Λ_Λ
< ;`Д´> あ…
( )ポロ
| | | ヽヽ
(__フ_フ =( ´∀`)
朝鮮人だらけの東京のテレビ局が日夜流す、デマや歪曲に騙されないようにしましょう。
- 97 :
- >>95
愚管抄に書かれていることを完全否定?
自分に都合のいいところだけ抜粋してたのになw
都合の悪いところは「その類の論には載らない」と言って
愚管抄を否定するわけか。
- 98 :
- >>1
源氏の頼朝政権だって3代で潰れたんだから
しかも世継ぎは実権なしの傀儡将軍で2人とも
暗殺されてしまう
平家よりも酷い有様だろう
- 99 :
-
平家の弱点は地方の豪族を味方に引き入れられなかったこと
清盛の子供を大量に地方に出向させればよかったんだ
- 100 :
- >>99
清盛は息子たちに地方の知行国を与えてるけどな
ただし息子たちは実際には赴任せず現地の在官国人に任せきりだった
源頼朝も守護地頭は配したが自分の息子は鎌倉に置いて地方にやっていない
あまり関係ないかも
- 101 :
- 源平の戦いって実際は坂東平氏連合軍(源氏方)VS伊勢平氏(平家方)みたいなもんだった
将門討伐以降平貞盛の子孫の平家に対して将門軍の残党の坂東平氏の積年の恨みが頼朝と以仁王の令旨という大義名分を得て爆発して
平家は滅んだんだから源氏みたいに早めに坂東の平氏と和解しとけば良かったんじゃね?
ついでに奥州藤原氏も平貞盛と将門を討った藤原秀郷に対する恨みで義経もろとも滅ぼされて
残った頼朝の子孫は用済みになったから消されて結局鎌倉幕府は北条氏を中心に坂東平氏が実権握ったんだろ
- 102 :
- 640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『かんさほうじん (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
大河の画面が汚いのも、役者が大根なのも、衣装がぼろぼろなのも、役者の下品な立ち回りも、
画面が薄暗いのも、役者が汚いのも全ての原因は
NHKが汚れているから
史実うんぬんの話ではないのですよ。あの大河は役者、セット、演出等が、いまのNHK内部の汚れ具合を見事に反映しているのです。
薄汚れた空間内で繰り広げられる捏造・妄想(=今年の大河)は、反日・在日の脳内を表しているのだ。
- 103 :
- >>101
北条氏の系譜は不詳
坂東平氏だった確証はない
- 104 :
- >>101
実は北条氏の祖って言われてる平維時って貞盛の孫だったんだろ
なのに政子の実家なだけで大した軍事力も無かったのに何食わぬ顔で執権の座についた北条氏は勝ち組過ぎるな
- 105 :
- >>104
日本は長らく母系社会
子を養育する義務が母方一族にあったから
子が天皇や将軍になれば母方一族が政治の第一線に出る
摂関政治も同じようなもの
- 106 :
- >>104
北条氏の系譜って徳川家康の系譜ぐらい眉唾ものだよ
- 107 :
- 実際の北条氏の出自てなんだろうね?
- 108 :
- 北条氏は時政の父のあたりですでにあやふや。
伊豆の土豪北条時方の系統とはされているけど
時方は時政の父にだった祖父だったり。
時方より前の系図になると更に信憑性が・・・
- 109 :
- 実力や実績や家格から言ったら上総氏や千葉氏が鎌倉幕府の要職を占めても良かったのに上総氏なんか逆に滅ぼされちゃってるもんな
日本史上ほとんど例のない錦の御旗を掲げた上皇軍の撃退にも成功してるし、実際当時の北条氏の政治手腕は大したもんだったと思う
- 110 :
- 「国の借金」について
日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。
朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。
<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>
数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。
それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
実質中国の広報機関であるNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
---そのニュース 核心はヤラセだ 長文失礼いたしました。---
- 111 :
- 後白河法皇が源氏と平氏による連立政権を模索してたことがあるって本当なの?
例えば東国を源氏が支配して西国は平氏が支配するとか・・・
- 112 :
- >>109
千葉氏はあまり巷間でしられてないだけで、幕府内で非常に高い地位を占めていたよ。
北条氏はとびぬけてるわけではなく、あくまで同格ながら頼朝の姻戚という地位を最大限に利用した。
幕府成立後、坂東平氏(千葉氏・三浦氏など)の中核氏族に政治力で互していったといってよい。
たまに云われる「北条氏は平直方子孫だから云々」は違うよね。
- 113 :
- あひゃ
- 114 :
- >>111
一の谷の時点で平家はさっくり切ってたんじゃないかね
- 115 :
- >>111
後白河法皇は朝廷権力維持のために平氏と源氏の共倒れを願っていたのであって
平氏と源氏を両方存続させようなんて思ってなかったと思うよ
- 116 :
- 後白河院の政治手法=既得権を少しずつ手放して妥協
- 117 :
-
メディアは全部抑えてある。教団名を出したり逆らえばどうなるかわかってるだろうな?
< _-=≡:: ;; ヾ\ >
< / ヾ:::\ >
< | |::::::| >
< ミ|-=≡、 ミ≡==- 、 |;;;;;/ >
< || <●>| ̄| <◎> |── /\ >
< |ヽ_/ \_/ > / >
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< \ \ ̄ ̄ /ヽ / / >
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/ ー\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウ
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.| (@) ⌒)\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッ
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\ |_/ / ////゙l゙l; ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
\ _ノ l .i .! | ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
/´ 公明 `\ │ | .| ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
- 118 :
- @平治の乱後、頼朝、義経らを皆殺し
A鹿ケ谷の陰謀露見後、後白河を流罪に
- 119 :
- 後白河を流罪になんてしたら後醍醐みたいになるかもしれず
法皇を幽閉して院政を停止してからおかしくなってきたので
多少のことはがまんしてあくまでも法皇をたてる
- 120 :
- 勝者だったはずの源頼朝の系統が絶えてしまったことを見ると、
平家が一定の勢力を保って存続するのは無理だったような気がする。
源氏・平家ともに軍事貴族は武家棟梁として一定の役割を果たした後、
淘汰されて消滅する運命にあったのではないか。
- 121 :
- 幕府を開く
- 122 :
- >>120
頼朝は元々関東武士団に担がれただけの御輿だったが、
平家は一族だけでも力を持っていたから鎌倉幕府とは全く違う形になったんじゃないか
- 123 :
- 頼朝、義経、義仲のビッグ3を消しておけばよかった。
- 124 :
- >>122
頼朝は北条氏と婚姻、嫡子頼家は比企氏と婚姻するなど
源氏は関東武士団と姻戚関係を持ったからこそ幕府が開けた。
それに比べて平氏の姻戚は公家ばかり。
正直、幕府を開けたかどうかも分からない。
- 125 :
- 北条政子もな。
- 126 :
- 地方の平氏勢力が
弱すぎたのが原因だろ。
- 127 :
- 軍事力では源氏に負ける運命にあったから
一族もろともに琉球まで
落ち延びてそこに
王国を作ればよかった。
- 128 :
- 頼朝など、悪源太義平以外の義朝の息子をことごとく生かした清盛が甘すぎ。
皆殺しにして、あと坂東平氏を同族として厚遇して手なずければ、少なくとも
あんなすぐに滅ぶようなことはなかったろう。
- 129 :
- 義朝を倒したときに幼い頼朝と義経も殺しとけばよかった。
それが出来なかったのが平家の限界だろ。
伊豆なんかに流しても、温泉入って元気になっちゃうんだから、伊豆も間違い。
- 130 :
- やっぱ各地方に探題となる平家一門を据えるべきだったんだが
まだそんな時代じゃないか
- 131 :
- >>127
だめだめ、源氏の八郎ちゃんが先客でいらっしゃいますんで。
- 132 :
- 豊臣秀吉は平氏の流れだったから幕府開けなかったんじゃなかったっけ?
それなら途絶えてないじゃん?
- 133 :
- >>128
そうだろうな。
坂東平氏を厚遇していれば、頼朝公が石橋山で負けて房総に逃げたとき、
常胤は助けるどころか生け捕りにして首を京におくっただろうね。
- 134 :
- 平家は、源氏に対する牽制のために一部の公家勢力に祭り上げられた連中だから、
元々、武士層の支持基盤は弱かった。
平家は、公家勢力あっての平家である事を忘れ、太政大臣になったり、一族で官職を
占めてしまったりと、自らの寄って立つところを自分で切り崩してしまった。
平家は、公家になり切らず、武士と公家の二面性を保ちながら、朝廷で二番手ぐらいの
ポジションにいたら、もっと繁栄が長続きしていたと思う。
- 135 :
- >>134
清盛は朝廷のトップじゃなくて4番手だったじゃん
後白河法皇ー高倉天皇ー関白近衛基実ー太政大臣平清盛
- 136 :
- >135
武力を加味した実力では、清盛は法王や公家たちを完全に凌駕していた。
そうでなければ、朝廷の美味しい官職を平家一門で独占は出来ないだろう。
平家は、傀儡の天皇家と摂関家の間ぐらいのポジションで、おとなしく悪さをしていた方が良かった。
後代の武家政権は、名目的には天皇家を上に立てて、摂関家を家来同然にするぐらいの
力関係の時に一番安定していた。
- 137 :
- >>136
清盛は若年の高倉天皇と関白近衛基実をいずれも娘婿とし
義父という立場で大いに婿たちに口出しをした
武力だけで凌駕していたわけでもない
高倉天皇と近衛基実がいずれも早世した後には
源氏決起という事態を招いたわけだし
- 138 :
- >>134
俺もそう思う
- 139 :
- >>134
なるほどな。
棟梁の極官が参議くらいで、一族に数人受領を出すくらいの家格で、
西日本の所領と貿易の売上で経済的繁栄を満喫しながら家を存続させるのが
いちばんうまみがあったように思う。
- 140 :
- 頼朝との和議を受け入れてればよかった。
頼朝は早く反乱軍の親玉から脱出したくて必死だったんだし
- 141 :
- なんで頼朝を伊豆に流したの?
源氏の影響力の低い西国に流せばよかったのに。
- 142 :
- >>135
制度上は清盛より上位が4人いただろうが
高倉上皇・関白近衛基実はいずれも平清盛を義父として崇める立場にあった
清盛は後白河法皇の次に力はあっただろうがな
- 143 :
- >>141
伊豆はもともと配流地
田史名倉や仁寛、日蓮もここに流されたほか
頼朝の叔父源為朝も伊豆に流されたんだよね
頼朝も為朝も河内源氏でもともと本拠地は畿内のはず
- 144 :
- 頼朝の同母弟の希義は土佐に流されて、兵を挙げたが討たれている
為朝は伊豆は伊豆でも伊豆大島だ
河内源氏だけど頼朝が天下を取った時に、河内の武士たちが熱心に奉公した
とは聞かない
源行家が河内・和泉に勢力を張っていたようだが
- 145 :
- 源行家は義朝を裏切ったがのちに
三井寺で平家打倒の兵を挙げた。でOK?
- 146 :
- それは源頼政だろ
源行家は義朝の末弟だ
- 147 :
- 行家はとにかく戦が下手。何度も平家と戦うが、一度も勝ったことがない。墨俣の戦いでは一緒に戦った義経の兄も戦死している。
- 148 :
- >>144
頼朝は伊豆大島に流されたという伝承もあるらしい
鎌倉幕府成立後も畿内は朝廷の支配下にあり河内も朝廷に従っていた
鎌倉幕府は東国武士団の自治政府ではあったが
旗印はなにも河内源氏でなくてもよかっただろ
頼朝が祭り上げられたのはただの成り行き
源氏ですらなくてよく摂家将軍でも親王将軍でもなんら問題なかった
- 149 :
- >>134
>> 元々、武士層の支持基盤は弱かった。
のは事実だが、
> 平家は、源氏に対する牽制のために一部の公家勢力に祭り上げられた連中だから
ここら辺はもうちょっと検討が必要な問題だと思う。
> 平家は、公家勢力あっての平家である事を忘れ、太政大臣になったり、一族で官職を
> 占めてしまったりと、自らの寄って立つところを自分で切り崩してしまった。
最後の高倉院政の擁立や安徳天皇の即位などの強引なやり方を除けば、
むしろそれまでは、上層公家同士が争い合って自滅していった結果、有力な上層公家がいなくなってタナボタ的に清盛に権力が転がり込んできたという側面の方が強いんではないか?
- 150 :
- >>130
これはそう思う。
平家がやったのは既存の軍制のトップに自らが立っていくというやり方で、独自の軍制を築けなかった点は確かに弱点として大きい。
けど「独自」のものを築くって言うのは、その必要性があって初めて具体的に検討されていくものだからねえ。
清盛にとってそうさせる程の切迫感は存在しなかったとも言えるんでないかな。
- 151 :
- >なんで平家政権は早く滅びてしまったんでしょうか?
一族の勇者将門を滅ぼすため源氏はおろか藤原とも手を組んで
将門潰しやった報い。
- 152 :
- >>150
国司は置いてたんだけどね
あちこちの国司を平家一門で押さえていた
ただし平氏一門は都で政治に当たり地方へ赴任しなかった
(いわゆる遙任国司で地方には代官を派遣)
この代官たちが平氏に逆らったもんだから太刀打ちできなくなった
鎌倉幕府でいえば諸国に赴任させた守護地頭が言うこと聞かなくなった
みたいなもんか
- 153 :
- >>148
それは結果論だろ
北条が勢力を伸ばしただけじゃねえか
北条の執権政治が東国武士団の総意とは思えん(面従腹背だろう)
- 154 :
- >>153
東国武士団の総意だろ
承久の乱で東国武士団は北条義時のもとに結集して後鳥羽上皇と戦ったんだから
すでに源氏将軍は滅んでいるにもかかわらず
(3歳の三寅(後の九条頼経)が鎌倉に下されていたがまだ征夷大将軍になっておらず
当時は将軍不在)
朝廷の支配下に置かれるくらいなら北条氏が実権を握る
鎌倉幕府のほうがいいと思ったんだから
- 155 :
- それは朝廷の支配よりマシってだけじゃん
足利も三浦も北条執権政治を快くは思っていない
- 156 :
- 特に三浦はこの後に将軍に接近している
あと将軍不在といっても鎌倉殿は三寅だよ
二代将軍頼家だって頼朝死後3年して将軍になったんだから
- 157 :
- >>155
鎌倉幕府創設期の足利家当主(義兼)は北条政子の実妹を正室に迎えて
北条家一門のような顔をしてただろ
承久の乱のときの足利家当主義氏(義兼の子)は母親は北条氏、
正室も北条氏でこれまたほとんど北条家一門みたいなもんだった
- 158 :
- >>156
三浦盛時は母親が北条泰時先室だったことから北条氏による登用だよ
三浦氏嫡流の三浦義村は公暁を北条義時に差し出して恩を売り
鎌倉幕府内部で出世してるし
- 159 :
- 足利尊氏も妻が執権の妹だから北条一門のようなもんだな
あとは北条義時の妻は比企朝宗の娘で赤橋重時の母だったな
- 160 :
- そう考えれば足利と北条って血縁やべえな。
てかスレチだろ。
- 161 :
- やっぱりみんな、同じ考えだったな
平家の天下は頼朝に攻め滅ぼされて終わったが、源氏の天下は短期間で、すぐに北条氏が実権を握った
つまり伊勢平氏から武家平氏の北条氏と坂東平氏に移っただけの話で、平氏の天下は続いたんだよね
また、源氏の視点で見た場合
尊氏の時に権力を再掌握するも、実態は諸侯連合で力は弱く、その全盛期は三代義満であり
すぐに京周辺の地方武家政権に力を落とし、権力はあってないようなものだったし
次に幕府を開いた将軍家は徳川は偽源氏、実態は系図を持たない庶民の家系で、現実と縁もゆかりもない
こう見てくると、源氏って結局、まともに世の頂点に立った時期が殆どない
- 162 :
- 室町時代は諸侯連合と言っても、その諸侯の大部分が源氏だろ
細川、山名、畠山、斯波、京極、鎌倉公方 みな源氏だ
- 163 :
- 流れ戻すが
なんで頼朝を助けたのか?
- 164 :
- コンクリートで補強すれば、平家も長持ち。
- 165 :
- >>163
頼朝と何の縁もない池禅尼が助命嘆願したというのも俄かに信じがたいし、
もし、清盛にすら影響を与える助命嘆願があったとすれば
源頼朝が蔵人を勤めていた上西門院ぐらいだな。
頼朝のおば達(由良の姉妹)が当時上西門院に女房として仕えていたらしいし。
しかし、上西門院も平治の乱で一時期源氏に監禁されていたとも言うし、
源氏に怒ってなかったのかといえばな。
- 166 :
- 義平を斬首にして嫡子の頼朝を流罪ってのが分からん。
- 167 :
- ただ平治の乱で義朝は従たる地位にあることくらいは上西門院も分かってたのでは
さらに言えば信頼だけでなくクーデタに参画した二条天皇派の罪不問に付す手打ちが成立したことも
なら頼朝の助命くらいは飲んでよと言った可能性もあるな
- 168 :
- >>161
伊勢氏が桓武平氏だというのは疑わしいとされてるようだがな。
- 169 :
- >>166
義平は平治の乱以前から関東で暴れて武勇の人として知られていた
平治の乱でも当然活躍した
しかし頼朝は平治の乱が初陣で始終父義朝の傍らにいただけで
大した働きがなかったんじゃないかなあ
源氏はこれまでも成人してから兄弟同士が殺しあって嫡男の座を奪い取ってきた歴史があるので
母親の出自が良いから頼朝は絶対的な嫡男という保証もなかったし
- 170 :
- 自分、名前などさっぱり出てこないが、
青年の源頼朝を、平家の女性親族が、罪も無い若者を殺さないで
と清盛に嘆願したというのは、できすぎている。
後に起こる、頼朝挙兵、平家滅亡の歴史展開に、
予感的な破局のストーリーを付与する様に。
・・・要するに、後世のつくり話では。
もう1つ、真実を暴くべきは、義経がどうやら
粗暴な性格があったこと。色々と嫌われて当然のところがあったのか・・?
それが、ひたすら哀れな人物に仕立て上げられた?
- 171 :
- >>169
頼朝は平治の乱でも活躍してたよ。義平の足元にも及ばないけど。
頼朝は母の身分高い&院とのコネもある&官位ももらってずっと京暮らしだから
義朝の嫡男には内定してたと思う。
仮に平治の乱で義朝が勝ったとしても
源氏は内部での争いで滅茶苦茶になりそうな気がするけど。
- 172 :
- >>171
義平があそこまで頑張ったのは父義朝に認められて
嫡男認定してもらおうという気概があったからでは?
父義朝の命令で叔父まで殺している
都で女院さまの傍に仕え貴族然としている異母弟頼朝に
臣下として仕えるために死闘をしていたわけじゃないと思う
- 173 :
- >平家を長続きさせるためにはどうすればよかったの?
源義朝の遺児を全員斬首
奥州藤原氏を滅ぼして陸奥を平家の知行国にする
- 174 :
- なんで頼朝を伊豆に流したの?
源氏の影響力の弱い西国に流せばよかったのに。
- 175 :
- >>173
史実の清盛が温厚で穏やかな性格の持ち主だったというのは
そういう処分などにも表れてるんだろうね
それに対して頼朝は清々しい程に陰鬱で残忍な性格してるけどw
結局、善人には政治はやれないって事なのかもね
とはいえ頼朝も権力の確立に成功したとは言い難いものがあるけど
- 176 :
- >>1-163
>>164
>>165-
- 177 :
- >>175
頼朝らの助命から清盛は子供には甘かったとはいえると思うが
清盛=温厚で穏やかな性格
頼朝=陰鬱で残忍
というのも言い過ぎかとは思うが
清盛は敵をそれなりに残忍に処刑したりもしてるしね
頼朝が処刑したのは少なくとも武家男子だけだったが
清盛は武家だけでなく公家も処刑しているから
- 178 :
- 自分らのような子供を助けてしまったのが、平家滅亡の原因と考えた
頼朝は、清盛の轍は踏むまいと考えたわけだろうな。
- 179 :
- >>178
それが原因で源氏の力が弱くなるんだがな。
- 180 :
- 福原に幕府でも開けばよかった
- 181 :
- >>178
俺の中で頼朝と魏の文帝がかぶる
両方一問を粛清したがため家臣に乗っ取られる
- 182 :
- >>180
実際平氏政権のことを福原幕府、あるいは六波羅幕府という考え方もある。
- 183 :
- 清盛が頼朝等を助命しちゃったから、後年、敵の子供は粛清しないと
後々いずれ自らに災いが起こるという、前例を作ってしまったというところか
- 184 :
- 滋子が二条帝に入内していれば
- 185 :
- 平氏の基盤がある西日本が飢饉でズタボロ状態だったからじゃね?
大体日本の政権移行は飢饉とかがかかわってるってよく言うよね!
兵士が飯を食えなかったから戦えなかったんじゃないの?
- 186 :
- >>179
え、そうなの? 平家皆殺ししたのはやりすぎって、陰で非難されてたの?
>>181
源氏も二代将軍、三代将軍、どちらも悲惨な死に方して、ついには
家臣に政権を乗っ取られたねw 頼朝も不審な死に方してるし。
これも滅ぼされた平家の怨念のなせるわざか、因果なのか。
- 187 :
- >>186
平家のというより全て北条氏(平氏)の陰謀だろ。
- 188 :
- 滋子が後白河より長生きしてれば
- 189 :
- >>186
平家に限らずね。
奥州藤原氏、義経、清水義高、範頼などね。
- 190 :
- 頼朝が平家皆殺しっていうけど大抵は壇ノ浦で自ら入水してるじゃんか
- 191 :
- はっきりしてるのは、頼朝は無間地獄に落ちただろうって事だな
あれだけ大勢の人間達を無残にも殺しまくったら、天国なんて絶対に行けない
- 192 :
- >>187
北条が平氏? 北条市の先祖は平直方っていう話か。直方から
時政までの系図ははっきりしてないようだし、当時権力をふるっていた
伊勢平氏、平家とのかかわりはとても薄いでしょ。薄くなかったら
平家ともども滅ぼされてるよね。
>>189
あとは木曾義仲か。同門の処分についても容赦が無いね。
>>190
源氏に追い詰められて入水したんだから、源氏がやったようなもんだw
- 193 :
- 壇ノ浦の後の掃討戦というか平家狩りはかなりエグい。
平家の隠れ里と呼ばれるところは、かなり辺鄙なとこにこじんまりある。
- 194 :
- >>189 >>192
義仲と義経、ついでに行家は公然と敵対したんだから仕方なかろう。
義高についてはかつての頼朝状態か…
範頼はちょっとややこしいが、当時の彼と後鳥羽上皇の関係を思えば
放置するのは難しいんじゃないか?
- 195 :
- 平家一門が遙任国司として都で遊んで暮らしていたのが最大の原因では。
貴族が在庁官人を制御できずに武士の台頭を招いたのと全く同じ構図。
目代を派遣するだけでは不十分で、実際に赴任するなり
在地の豪族と血縁を結ぶなり、もっと地力を固めるべきだった。
国司になるだけで満足してたから、源平合戦ではろくに兵力を動員できないどころか
簡単に裏切りを受けてかつての栄華もどこへやらの壊滅状態。
実際に大宰府に赴任した頼盛が生き残り、家盛の娘を押し込めておいた原田種直が
最後の最後まで平家に味方して戦ったのが運命的。
- 196 :
- >>195
源頼朝は一門はほぼ鎌倉在住で地方へ赴任させていないんだが
それでも統治に成功してるよね?
- 197 :
- 平氏って一門の繁栄しか考えなくて他の武士の反感買って、最期は仲良く滅亡するよね
平家しかり鎌倉の北条しかり
- 198 :
- >>195
頼盛は池の禅尼の息子だから生き残ったんじゃないの?
>>196
よく分からんが平家と違って敵対勢力なで斬りにしたから?
- 199 :
- 東国の武士たちが平家滅亡に際して西国に領地を貰って
下向したからな ちょっとした民族大移動があった
- 200 :
- >>198
池禅尼が頼朝助命の恩人というのは眉唾ものなんじゃ?
それに鎌倉幕府は源氏一門がほろんでも存続してたから
源頼朝が敵対勢力一掃したとかあまり関係がない
- 201 :
- 源頼朝は源頼政が三井寺で死なず生き残っていたら
親の敵と追跡したかな?
- 202 :
- そんな昔のこと蒸しかえさんだろ。
- 203 :
- ttp://www.hikoshima.com/heike-akiko/akiko_24.htm
母方が平家の子孫とか言って愛知県に出てきたけど
母親に常識がなく自分が愛知県の昔の管理教育に適応できず
社会的にひきこもってる
落ち武者の子孫だから永遠に落ち続ける
- 204 :
- >>202
直接手を下した長田忠致には美濃尾張を賜ったが‥
頼政は別に義朝の下にで信頼についてく筋合いはなかったからな
- 205 :
- >>203は運営臭いなw
- 206 :
- >>203
運営って何よ
ここ行ったことないけどなんなの?
母親がなんかおかしいんだよ!
- 207 :
- 源光保も平治の乱で清盛方についた。
源頼政は三井寺でなく宇治平等院に立てこもった。
- 208 :
- 都落ち後の総崩れをなんとか食い止めて東西勢力分割で
膠着状態を長引かせることはできなかったのか
- 209 :
- 倶利伽羅峠の合戦で大敗して、多くの将兵を失ったのが痛かった。
美濃源氏と連携して、美濃を防衛線にして、木曽勢を深追いしないで、
京都の防衛を第一にするのがよかった。
- 210 :
- >>209
歴史上、京都を守りきって勝利した事例ってあったっけ?
- 211 :
- >>210
鳥羽伏見
- 212 :
- まあ大半は京都守備してる奴らが負けてるけど。
- 213 :
- >>208
1184年年初の段階では、その方向で、かなりのところまで行けていた。
この勢力圏で、ガッチリ地歩を固められれば、「瀬戸内海海洋帝国」のラインもあった。
だが、一ノ谷合戦で(現在の)神戸を失って潰えた。(屋島より一の谷だろうと思う)
神戸というのは、律令制上は畿内なのだが、事実上西国の入口であって、
ここを押さえきれずに、中四国だけでローカル勢力を築くのは、地政学的に無理なんだろうな。
- 214 :
- 保元の乱では、源氏・平氏入り乱れての戦いでしたが、
平治の乱以降が源氏・平氏の対立になります。
平氏は貴族化してしまって軍事的に弱体化して義仲に
掃討されてしまいます。
源氏は義仲・頼朝・行家・頼政等分岐していたのだから、
平氏が立ち回って、どこかの源氏と連合できていたかも
しれないという期待を持ちます。義経も軍事的には天才
的でしたが単純で、もし彼が政治的に動いておれば平氏と
連合しておれば頼朝を放逐することも出来たのではないかな。
義経は何時までも子どもの頃の平家への恨み・復讐心に
こだわり過ぎました。平家もまた、相手の力を利用していく
力に欠けていました。
義経は3度にも渡って奇襲作戦を取りますが、これはとても
王者の手法とは言えない。後世の信長は、奇襲作戦は1回
だけにしたのは、とても賢明だと思います。
平家には人がいなくて、清濁併せのんで敵方と結ぶ度量を
持った人がいなかったという事です。義仲に責められて
都落ちした時点で負けです。坂を転がるようなもので義経
の奇襲作戦を待つまでもなく、平家は滅亡しています。
当時で、義仲と頼朝の間は緊張していたのだから、平家は
義仲と組む事は出来なかったのかな。一緒に反転して鎌倉
を攻撃出来なかったのだろうか。
- 215 :
- >>213
たまにお前みたいなアホなことを言い出すのがいるけど、日本で貿易も銭経済も船舶交易も盛んになったのは
鎌倉時代だからな。
- 216 :
- まあ おごらないことよね
- 217 :
- クソ藤原を隅に追いやることができたんだからそれだけでも立派な功績
相手がルール無用の源氏だったのがすべての原因やろ
- 218 :
- >>217
藤原は院政期に既に主導権を失ってるんですが
- 219 :
- 後白河院という日本一の大天狗をなんとかしないと
- 220 :
- 平家は清盛の悪行のゆえに必然的に滅びたので
人力ではどうしようもなかった。因果応報、積悪家有余殃だ。
平家物語がすべてを語っている。
- 221 :
- 殿下の乗合事件での清盛の暴挙を聞いた重盛は「当家の滅亡は近い」と泣いたんだよね。
そして、「わが生命を縮めて一門の繁栄を永らえさせたまえ」と神仏に祈って、そのとおりに
早世しちゃった。義人だね。
- 222 :
- 平家が滅んだのも義仲が滅んだのも義経がほろんだのも元をたどれば後白河法皇ゆえだよな
- 223 :
- (~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・`) 北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
/ >‐ 、-ヽ すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
/丶ノ、_。.ノ ._。) その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
. 〈 、〈Y ,ーiー〈ト 頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
\_ξ ~~~~~~Y せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
|__/__|
|、,ノ | 、_ノ
- 224 :
- 平家は本拠が都だったのだから、関東にも「鎌倉将軍府」のような出先機関を
置いて、関東の武士を牽制したほうがよかった。
鎌倉公方…平知盛
関東管領…悪七兵衛景清
あたりでどうだろうか。
- 225 :
- 平家の拠点は摂津・播磨なんだが
- 226 :
- 関東から攻め込まれて、その摂津・播磨もあえなく失陥してしまった。
- 227 :
- >>222
義経が滅んだのは逆艪の一件を根に持った梶原が頼朝に讒言したからだ。義経は腰越状を
送って真情を訴えたが大江広元が握りつぶしてしまった。後白河法皇の策謀ではない。
- 228 :
- 源義仲と和解して同盟する道はなかったか。
頼朝と不和になった義経も味方に引き入れることはできなかったか。
関東政権ではなく、朝廷に仕える軍事貴族として生きるほうが向いていた
義経とは、平家は仲良くできたように見える。
- 229 :
-
国連憲章にある第14章第93条第94条に
ある当事国(者)で加盟国は自国が当事者であるいかなる事件においても
国際司法裁判所の裁判に従うことを約束している。
五輪憲章の次は国連憲章まで破ろうとしてるのかw
- 230 :
- >>228
一時なら地位を高めたかも知れないけど、公家の策略に嵌まって殿上から追放されるだろね。
- 231 :
- >>230
流石に清盛クラスまで独占すれば無理。
菅原道真、橘逸勢、伴義男、平貞盛、源高明などは、いずれも自分以外の一族が
貧弱だったから追い落とし可能だった。
- 232 :
- 義経・範頼は北条氏が殺したといってもいい。
- 233 :
- >>1
平家の血を継いでいるから、と十二単でケコーン式挙げた
藤原紀香に聞け
- 234 :
- 平家と名づけられたせいで人気がなくて保護活動もないヘイケボタルが哀れ
- 235 :
- 頼朝に帰順した頼盛の系統は「平家」とは呼ばれなかったの?
- 236 :
- >>235
平氏はなんぼでも居たがな
- 237 :
- 元は皇族だしね。
- 238 :
- >>227
頼朝に無断で義経を検非違使に任じたのは後白河の策謀
頼朝追討の院宣を義経に与えたのも他ならぬ後白河
- 239 :
- 本拠を平家の本拠の福原か伊勢・伊賀に移して京都から離れて、法皇や朝廷・貴族・寺社
から距離を置けばよかった。日本のハルノートの要求を呑むんじゃないが、平家は保元・平治の
乱以前の状況に戻ったら生き延びられたんじゃなかろうか?
- 240 :
- >>239
史実でも、一応講和の働きかけはあったのだっけ?
- 241 :
- あったよ。あったけど宗盛が強硬に反対して反故になったけどwww
- 242 :
- 西国に「幕府」を開くという方法はなかったのだろうか。
厳島神社のある安芸、大宰府を拠点として、九州・中四国・畿内に
またがる地域を、陸軍と水軍で制圧し、奥州藤原氏と軍事同盟を結ぶ。
安徳天皇の御座所を大宰府に置いて、強大な防塁を築けば、
政権を維持できたのではないか。
- 243 :
- 平氏政権を「六波羅幕府」と呼ぶ学説もある
- 244 :
- 奥州の藤原秀衡が背後から鎌倉にちょっかいをだしてくれてたらな
平家がいなくなったら自分らも詰みなんだから
- 245 :
- 242が言うのは三国志の董卓みたいなwww
- 246 :
- 太政大臣になったあたりで清盛が死んで重盛が継いでたら平家の繁栄はもっと続いただろう。
平家の急速な滅亡は清盛の悪行の結果だからね。重盛なら一門を奢り高ぶらせず、摂関家や
院との協調していっただろう。
- 247 :
- 今の価値観から見たら清盛のした事は悪行というより、革新的だけど、当時からしたら
悪行だわな。人間というのは、天才か、秀才、あるいは権力を握ったら自分のしたい事を
周囲の声関係なしに独断で進める所あるからなあ。頭の良いインテリタイプは自分の妄想を実行に、
権力を握った独裁者タイプは自分の夢・理想郷を実現するためにするんだろうな。もう一つ平家が滅んだ一つの
要因としては後白河法皇の存在が大きかったな。
- 248 :
- 隋と唐みたいなもんか。
- 249 :
- 清盛亡きあとは後白河にいいようにあしらわれた印象
- 250 :
- >>221
釣りか?やり返したのは重盛だけどな
清盛やり返しは平家物語の印象がでかいだろ
そもそも昔は武家以外でなくても家人使って
やられたらやり返すはよくある事
殴りあう貴族達見てみろ
- 251 :
- >>241
頼朝折角生かしてあげてたのに以仁王の令旨があるとはいえ裏切ったし
平治の乱後からの関東御家人たちも続々裏切ったからそりゃ怒るだろ
その後の鎌倉での内ゲバは自業自得だけど
少なくとも娘を後宮に入れるのはやり過ぎだったと思うな
過去の藤原の他氏排斥では菅原道真も源高明もあれで付け込まれて失脚してる
- 252 :
- >>250
「平家物語」を読んだことがないならこのスレに書き込まないほうがいい。
重盛は常に父の悪行を諌めていた義人だ。頼山陽も「日本外史」に書いている。
マンガやゲームで歴史を知ったつもりにならないで書物を読みなさい。
- 253 :
- >>252
平家物語=史実ではないしなあ。
殿下乗合事件で摂関家に無礼を働いたのは史実では重盛だが平家物語は清盛にねつ造している。
「平家物語」の重盛は受領出身なのに太政大臣にまでなった父清盛の大出世こそ過ちであったと悔い、
政権を法皇にお返しし、摂関家を敬い、平家は身分相応の受領に戻ろうとした偉人として讃えられている。
これが史実だと思ってんの?
- 254 :
- >>246
それを言うなら重盛は太政大臣にならなかっただろ。
院や貴族と強調するなら太政大臣の座は清華家にお返ししないと。
ついでに武家平氏の娘ごときが高倉天皇の中宮になるなどおこがましいから、
徳子の入内も中止、安徳天皇も生まれない。
- 255 :
- 源氏が生き残る訳でもないので、却下。しかし、文化、芸術は平安から派生。
金閣寺など。
逆説的にいうと、「永き世が、語られつつも、強き世に、まかれるかも、いとおかし。」
- 256 :
- 後白河が悪いわ。アイツは基準と言うものがねえんだから。
付き合ったらデタラメな人事されてボコボコにされる
- 257 :
- >>246
無理だよ。重盛が冷や飯食ったから成親=重盛同盟が成立して清盛が一門分裂を憂慮する事態になった
で成親を排除したら重盛が絶望して病没
平氏一門との協調なんて発想がねーんだから
- 258 :
- >>257
鹿ヶ谷は清盛と時子系の平氏一門たちだけやっつけて
同じ平氏でも重盛系は成親の妹婿であることを持って助命
重盛にとっては邪魔な親父と父の正室時子腹の異母弟たちを一掃して
自分の息子を平家の棟梁に出来る
まさに一石二鳥だったのかな(鹿ヶ谷の失敗で重盛系は平家嫡流から脱落)
- 259 :
- 頼朝からの和睦の打診をなぜ宗盛が退けたのかだよね。
あれは大失策でしょ。
後白河の院政を復活させたのなら、和睦を飲んでおけば頼朝と東国武士団の結合を破壊できた可能性があるのに
- 260 :
- 北条は関東平氏な
- 261 :
- >>259
あの時点では宗盛は平氏が勝てると信じてたから
- 262 :
- いや、東国はほぼ頼朝の手中に入って平家の家人系が頼朝の家人に組み込まれていってるんだよ
しかも信濃・越後は義仲の影響力が及び始めて地盤だった北陸道も、あと鎮西も紀州も不穏
意地張ってる場合じゃなかったと思うが
- 263 :
- >>262
宗盛が頼朝に勝てば頼朝の家人たちも平家のものになるよ
宗盛が頼朝と和睦すれば頼朝の関東支配権容認が条件だから
関東武士団の頼朝配属を平家棟梁が認めなければならなくなる
- 264 :
- 後付けで考えれば、結構いい条件なんだけど、宗盛には、思うところがあったんだろうね。
この時代でも、またかなり後の時代になっても、
源頼朝というのは、1190年代に入るまでは、「関東東海の太平洋沿岸の、ローカル勢力」でしかない。
井沢元彦の命名「伊豆頼朝」というのは、本当に蓋し名言だと思う。
奥羽は、奥州藤原のゆるやかな統制下にあり、日本海側の北国筋は、また別の動きをしている。
この和睦案の基本は、ざっくり「畿内を中心線にして、東西に2分割する」というものだから、
宗盛としては、「机上の和睦だけでも、かなり失うものが大きい」と考えたんじゃなかろうか。
- 265 :
- 『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww
- 266 :
- そもそも兵力的にも経済力も平家のほうが圧倒的に優位だった。
だからこそ頼朝は関東の利権だけでも認めてもらおうと、和平を提案した。
そんな都合のいい話平家が受けるわけがないが。
平家の誤算は機内周辺の平定の過程で、圧倒できるはずだった木曾義仲に敗れてしまったこと。
これで対東国のための平氏の重要な基盤であった北陸を失い、平氏は西に撤退せざるを得ない状況になった。
- 267 :
- その北陸道での敗戦の理由として侍大将どうしの不和が記録されているでしょ。
通盛・経正・維盛つまり小松家、門脇家、あと経盛のところ
この御三家は重盛の存命中にタッグを組んでいて、時子腹が主流になると同時に非主流派に転落したところ
鎮西の貞能を除いてこの人たちの所の戦果ははかばかしくないんだ。
頼朝は後白河のために「義兵」を挙げたと認識され、実際の行動も後白河の忠臣としてかなりの信頼を得ているわけだし、
後白河院政を復活させた宗盛がこの和議提案を蹴っ飛ばしたのは色んな意味でリスキーな行動だったよ。
一門を纏めるためには対鎌倉で妥協は許されず、かといって後白河とは協調路線を取らざるを得ず、と言う中途半端な発想が結局は破滅を招いた
- 268 :
- それと養和の飢饉のおかげで大規模な軍事行動がとれないほどの打撃を受けてるわけだから、
平氏一門の足元は盤石だったなんてとても言えない。
昔の戦争は現代戦と違ってラッキーパンチ1発食らえば引っ繰り返るレベルだもの。
とくに後白河のあっせんを拒絶した事実は重いよ。だったら自分らの責任でやれよなと言う話になる。
- 269 :
- >>268
後白河が頼朝との和睦案を出した頃の源氏だって一枚岩ではない。
北陸道を攻めのぼる木曽義仲、尾張で反乱を起こした源行家、
いずれも頼朝の指揮命令を受けていたわけではなく、独自判断で動いている。
宗盛が頼朝と日本を二分して和睦したところで頼朝以外の源氏にメリットはないので
他源氏の反乱が収まるわけではない。
うまくいけば源氏同士がぶつかって自滅することもあった中で
宗盛が頼朝とだけ和睦するメリットはなかっただろう。
頼朝が鎌倉幕府を開いた結果論から、頼朝とだけ和睦すれば平氏は都落ちせず、
と思っているかもしれないが。
- 270 :
- 幸運に賭けるのは愚か者の行為
- 271 :
- >>270
幸運に賭けたのは頼朝も一緒。
常識で考えればキで高官を独占し安徳天皇を擁した平氏が
無位無官の流人に負けるとは考え難い。
- 272 :
- 頼朝の場合は@頼政の挙兵とその失敗により討伐が予想されたこと
A事前に平氏の支配で存亡の危機に立たされていた相模、伊豆、房総の豪族たちとの共謀が成立していた
B挙兵が「義兵」と認識されていた
などの事情があり、単純な反乱軍とは一線を画すんだよ
安徳を擁するたって、治天である後白河との協調体制を懇請したのは宗盛だぜ
おまけに平氏の軍制は、それまで歴戦の家人や東国の家人を組織してきた小松家の嫡流転落で
富士川合戦の時点でかなりほころびが出た状態になってる
宗盛は、後白河の扱いに関しては清盛の意向とはまるで逆の路線を取っておきながら、
パートナーシップを組む後白河の仲介に関しては拒否して戦闘続行と言う完全に矛盾した態度を示してるんだよ
ラッキーパンチ1発食らった時に、後白河が付き合わなきゃいけない義理はまったくない
- 273 :
- いずれにせよ、平氏一門の内部が@宗盛を惣領とする時子腹、A清盛の弟たち&小松家、B頼盛
など様々な分裂要因を抱えてるのは清盛時代からの現象であって、
北陸に向けられた討伐軍の構成を見る限り、不一致を起こして敗北する可能性は十二分にあったと言わざるを得ない
- 274 :
- >>266
圧倒的にと言えるほどの優位なんてないよ
頼朝の挙兵の際には東国の大庭氏ら先手の家人たちが多勢に無勢で壊滅した後で、
駆武者も含む本隊が到着し、その駆武者もろくに集まらないで圧倒的な兵力差が発生している
- 275 :
- >>273
あの段階で平氏が内部瓦解した様子はない。
だいたい小松家が宗盛から離れたことはない。
重盛の遺児たち、維盛・資盛・清経たちはいずれも宗盛を棟梁とする
平氏宗家に従って共に都落ちし、最期まで運命を共にした。
清盛の異母弟たち(教盛・経盛・忠度)も宗盛に従って平氏宗家と最期まで運命を共にしている。
結局その中で最終的に宗盛と別行動をしたのは唯一頼盛だけだ。
しかも後白河の和平交渉時点では頼盛は宗盛の指示で源氏と戦っており、別行動するに至っていない。
大河の見すぎかしらんが、時子系がよほど平家一門の中で孤立していたと妄想しすぎ。
- 276 :
- >>272
あの時点では木曽義仲も生きている。源行家も生きている。
そんな中に会って頼朝は遠い東国にあってまだ平家追討軍を差し向けていない。
そのような状態にあって宗盛が「頼朝には負ける。和睦しよう」と思わないのは当然。
あの時点で最も都に迫っていたのは木曽義仲であり、こちらを差し置いて
なぜ頼朝と平家が日本を二分なのか。
義仲も行家も死んだ一の谷のあたりになれば宗盛は和平案に乗り出しているのだし
最終的に頼朝が鎌倉幕府を開いたことから時代を先読みしすぎだ。
- 277 :
- >>272
1と3はともかく、問題は2なんだよなあ。これは量的に、頼朝を特別視する理由付けにならない。
この時点で、関東地方南部の一部の土豪を味方につけても、それは、小さなローカルネタでしかない。
この事情が特別視されるのは、ひとえに、頼朝が勝ったからであって、要するに、後付け論理なんだ。
これは、本質的には、その400年後の戦国末の評価における、「名古屋まつり『郷土三英傑』史観」と同じ。
その後、江戸時代の「大名&家臣の大半」に座ったからといって、
織田・豊臣・徳川と、その家臣だけを特別視して、
中京地方を、大量の特別な英雄を生んだ地のように理解する、あの「味噌作史観」と、
頼朝ゆかりの関東の武士だけを最初から特別視して、平安末の南関東を、英雄生まれる地のように語る
「鎌倉関東武士史観」は、あんまり大差ない。
南関東の土豪は、「『伊豆頼朝』が、源平争乱の最終勝者だったから、特別な地位を得られた」のであって、
「最初から特別に強い偉大な武士団だったから、源頼朝が勝った」わけではないんだ。
- 278 :
- >>275
いや、表面化してる。頼盛は言うに及ばず、小松家の資盛や忠清・貞能らの都落ち時の行動を見てみるといい
維盛だって一ノ谷のあたりで屋島を戦線離脱してる。平氏の軍制で重代の家人を纏めてた小松家はボロボロになってるよ
平氏方の拠点だった武蔵の東国家人たちが崩れたのも重盛の嫡流転落と無関係とは言えないよ。
実際は殿下乗合事件の前から重盛と時子系の確執は始まってる。
>>276
頼朝と後白河の関係は別格で、かつ頼朝はこの間反乱軍としての位置づけの早期解消を望んでいたわけだが、
それはさておくとして宗盛は清盛の没後直ちに後白河との協力体制の全面復活を模索してるんだよ
で、後白河サイドはさっそく東国勢に鎮静を命ずる院宣を下すことを検討して宗盛に伝達してる
これを拒否して征伐の意思を事実上表明してるんだから。宗盛はいったいなに考えてんだと思われても仕方ない。
蹴るなら蹴るでいいけど、だったらなぜ清盛没後に後白河に従うなんて言って見せたのか?と言う疑問が残る
- 279 :
- >>277
いや、房総豆相の武士団との共謀は、「鎌倉関東武士史観」とはまるで関係なく成立してるんだよ
事前にそれだけの共謀が成立してたのは確かなんだ。
それはもちろん源氏累代の家人が立ち上がったなんてあやしい伝承ではなく、
平氏の国衙支配から締め出されて存亡の危機に陥った坂東武士団のゼネストみたいなもんだよ。だから新田みたいに従わないやつも当然いた
頼朝はゼネストの指導者として担ぎ出されたの。
だから頼朝が富士川合戦のあとで追撃を主張した時に断念させられたでしょ。
- 280 :
- まあ少なくとも院御所の連中がいちおう鎮撫を考えてた対象に対して、
征討に固執した時点で宗盛はリスキーな選択肢を取ってるよ。
木曽や行家、さらに鎮西など多方面作戦を余儀なくされているからこそ、
後白河サイドが一応鎮撫の対象としてチョイスした頼朝との停戦はきわめて重要だった。
結果的に、頼朝は和議を拒否ってた間に、養和飢饉をしり目に東国で勢力を盤石なものにし、
寿永2年にはその義仲と和睦して彼の勢力が上洛する羽目になったじゃんか。
宗盛が懐柔しようとした奥州藤原氏は動かず、城氏は完敗。まったく計算が外れてるんだって。
- 281 :
- >>279
そんな意味付けをしても、あんまり意味は無いなあ。
蜂起というのは、たまにみかける、謎の「ネトウヨの1人駅前デモ」みたいに、
独り孤独に立ち上がるもんじゃないよ。
必ず、一定の広さの地域の土豪を味方につけて、その上で立ち上がる。
それは、義仲だって同じで、木曾谷だけでなく、
長野県のかなり広い地域の土豪を、原始メンバーとして旗揚げしたことが、明らかになっている。
この時点で、南関東は、数ある田舎の一地域にすぎない。
ただ、後白河が、数ある源氏のなかでも、若干「頼朝推し」だったことは、否定しない。
よくみれば「若干」なのだが、この推しの有無が、いくつかの場面で効いてくる。
しかし、この後白河の態度の裏にあるのは、おそらく「義朝へのノスタルジア」であって、
南関東に対する、特別な意味合いではない。
- 282 :
- だから、公家はしたたかで 謀略、策略何重にも策を施してる武士は太刀打ちできないよ
後白河とその側近達わ
- 283 :
- >>282
本能寺の変、秀次事件では全く無力だったがな。
明智光秀、豊臣秀次と関連した多くの公家と三族が、明智光秀、豊臣秀次、
蒲生氏郷などの三族とともに秀吉によって六条河原の露に消え去っている。
ただ、ここまでなるのに時間はかかった。
- 284 :
- >>280
後白河は鎮撫の対象として頼朝との仲直りを勧めたんじゃない。、
後白河は頼朝の提案通り、宗盛と頼朝で日本を二分させることで、
源氏と平氏が共倒れして弱体化し、結果的に朝廷の地位が高まることを狙っただけ。
宗盛と頼朝が仲直りしてもどうせ戦いは起こっただろうし、
後白河は頼朝の征夷大将軍就任を最期まで認めておらず
頼朝に異常な高評価を与えていたわけでもない。
- 285 :
- 後白河暗君説ってもう定説化してるでしょ。大天狗なんかじゃないって。人の好き嫌いも激しく、
頼朝は八条院繋がりで「義兵」を挙げた諸将の中では贔屓もされていたし、
彼自身も後白河に対しては忠臣だったんだけどね。さすがに義経に院宣が下った時だけは激怒したらしいが、あとは普通に
ちなみに征夷大将軍就任を認めず対立関係にあったというのは俗説。
- 286 :
- >>281
後白河との関係はさておき、信濃・越後と坂東8か国の国力を比較してみたら分かるけれども、
明らかに大規模な地域領主連合の組織に成功したのは頼朝だよ。
義仲は上信方面での対立を回避して北陸道に全力を挙げるほかなかった。
- 287 :
- >>285
日本で三族皆殺しを初めてやったのは後白河。藤原頼長、平頼盛、平忠正、
平家弘の系譜は完全に根絶やしにした。源為義(義朝を除く)は義仲、仲家、
義広、行家らに逃亡されているが。為朝も一時的に逃亡に成功。
- 288 :
- >>287
お前、三族皆殺しって言葉が好きなだけだろ。
頼長も頼盛も息子は長生きしてるじゃないか。
勝手に子孫が絶えたのを後白河のせいにするな。
忠正・家弘の処刑は武家の意見が絡んでる。
- 289 :
- >>285
頼朝は後白河に近い関白近衛基通を辞めさせ自分の息のかかった九条兼実を関白にしたり、
後白河を怒らせるようなことを平気でしてるよ。
上洛した際、頼朝の権大納言就任に尽力した関白九条兼実に面会した頼朝は、
「(老齢の)法皇が亡くなった後には2人で天下をとりましょう」と語り合い、
後白河への敵対心をあらわにしている。
勿論頼朝は朝廷へのあこがれは強くて後白河が死ぬと後鳥羽天皇に自分の娘を入内させるべく
奔走した挙句に公家たちに舐められるわけだが。
- 290 :
- >>287
蘇我氏とかも根絶やしじゃねーの?
- 291 :
- >>290
蘇我は蝦夷と入鹿の2人が殺されただけだろ
蝦夷の兄弟の系統は生き残ってる
(孝徳朝の右大臣蘇我山田石川麻呂や
天智朝の左大臣蘇我赤兄は蝦夷の兄の子で蘇我馬子の孫)
- 292 :
- >>289
でも征夷大将軍を警戒して与えなかった説はとっくに破綻してるよね?
- 293 :
- >>292
鎌倉幕府成立が1185年の頼朝の守護・地頭設置にあったとすることから
頼朝は征夷大将軍にならなくても幕府が開けた=後白河の幕府拒否のための征夷大将軍拒否は嘘
という説が出ただけだろ
頼朝が大将軍の地位を欲したのことは事実であり
後白河の没後頼朝が擁立した関白九条兼実のもとでこの地位に就いたことも事実
- 294 :
- >>293
じゃなぜ義仲討伐後の恩賞に後白河が将軍号を与えようとしたのに辞退してるんだよ
玉葉と吾妻鏡の記述から明らかじゃないか。辞退したのは頼朝の側だぞ
さらに東国支配権や全国の統治権については寿永二年宣旨や文治勅許で充分担保されている
征夷大将軍はいわば国民栄誉賞みたいなもんで当時実質的な意味はほとんどない
義仲だって大将軍号を貰ってる
しかも当初は辞退したのも頼朝
あと建久元年には近衛右大将に任ぜられ、この時期は頼朝の「王朝の侍大将」としての性格が極度に表れた時期
後白河が頼朝を敵視してたらこんな事態あり得ないよ
辞任したのは頼朝の在京が不可能だったからに過ぎないしこの時点を持って開幕とする学説すらある
現に吾妻鏡の段階で政子は頼朝を右大将家と称してるじゃないか
征夷大将軍号に関しては関東・奥羽を統治し基盤とする必要上、@鎮守府将軍の要素を吸収し、Aかつ義仲と同等以上の「大将軍」
であることが重要だったにすぎず、頼朝自身も任命後ほどなく辞官の意向を漏らしている
何より息子の頼家も征夷大将軍宣下は家督相続から4年も経過した建仁2年になってから
さらに吾妻鏡を見たらこれも明らかな通り、頼家重病や承久の乱で地位の分与が問題になってるのは
「惣追捕使」だぞ
単純に近衛右大将に加えて何か東国の惣領に相応しい称号を選んでおいてねと検討させて、
それが征夷大将軍になったのが偶然、もう老人だった後白河の没後だったというだけの話だわ
- 295 :
- たぶん頼朝と後白河の深刻な対立を想定する論者がよりどころにするのは
@まったく根拠のない後白河シタタカ伝説
A義経問題を巡って義経に強請されて与えた院宣
この2つくらいしかない。後白河と頼朝の対立関係なんて、幽閉した清盛なんかと比較にならない
よって宗盛が取るべき選択肢は後白河の院政復活を出来る限り阻止する父清盛の戦略を踏襲して、官許を得ての東国討伐戦にまい進するか、
さもなくば後白河と父の没後すぐに宥和するくらいならその調停を利用するかのどちらかしかないが、
現実には宗盛はどっちも徹底してない結果、北陸の大敗で1発パンチを食らって以後、坂道を転げ落ちていったんだよ
そして平氏の伊賀伊勢累代の家人は小松家の指揮下に組み込まれておりそれが急激に解体されていて、
小松家と協力関係にあった門脇ら傍流が前線に出ると必ず侍大将たちの不和やサボタージュが記録されている
まともに働いたのは時子の直系の重衡や知盛が出た時だけ
そういうリスクは既に富士川合戦の忠清の例で明らかになってる
だいたい鎮西から戻ってきた貞能が京での決戦を主張したように鎮西だって安泰とは言えない
平氏一門内部の事情から見るに、宗盛がおとなしく和平優先で利確しておくか、
しからずんば清盛が没した直後にその意に背いての後白河の復活なんて論外だ
- 296 :
- どもっ☆揚羽会の会主の野崎です(..)
先日、「EXILE」の「ふたつの唇」のCDを買い。。。
連日、鬼のように歌ってるわけですが。。。
しかし とても難しく。。。 ま 年のせいか。。年々
歌詞が おぼえられないという事なのかもしれませんけど。。。
よく 考えれば。。。 1人で「EXILE」の楽曲を歌うというのは無理がありますよね。。。
「EXILE」を完璧に歌うには2人。。(ボーカル無しのトラックにはコーラスも入っていないので)
コーラスパートの部分を入れると数名は必要という事です。。
それは 全国平家会福岡県支部揚羽会においても同じ事で。。。
会主が1人で会の事に一生懸命になっても。。。
会員さんが賛同してくれなければ。。。
ただの独りよがりになってしまいます。。。
幸いにも 当会の 副会主さんをはじめ 会員さんたちは とても 個性的。。。
いえいえ 素晴らしい方たちばかりなので。。。
私のような会主でも 会主として 頑張る事ができるわけです〓
全国平家会は全国的組織であります
ま もとを申せば
平家一門という絆は DNAとして受け継がれ 壇之浦合戦より825年を迎えようとする今日。。。
こうして共に先祖に心よせる事ができるのですからね('_')
それはとても凄い事なのだと日々実感致しております。。。
ですから ようするに。。。
私1人で「EXILE」の「ふたつの唇」を歌うという事は。。。間違いなく限界があり。。。
絶対 無理っ! という事なのです。。。
(o_ _)o http://blog.goo.ne.jp/agehakai/e/9d2133411c9d0832e268d8d8a23b04ff
- 297 :
- >>294
「吾妻鏡」には頼朝が後白河の死後、念願だった征夷大将軍に付けたと書かれてある。
やはり「吾妻鏡」では源頼朝は木曽義仲追討の恩賞として大将軍の地位を与える議論があったものの、
結局は朝廷から叙位のみが示されて頼朝はこれを受けたと記される。
「玉葉」では源頼朝からの要求によって九条兼実が大将軍の地位を与えるよう
後鳥羽天皇に働きかけており、頼朝が大将軍就任を断った事実はない。
- 298 :
- 後白河をどこぞの島にでも流してしまえばよかった
- 299 :
- 戦に勝てばよかった
- 300 :
- 関東における反乱を防止するため、相模の国府あたりに平家の出先機関として
「関東将軍府」を置けばよかったのでは?
常備軍は1万人程度とし、将軍には中納言知盛、管領には能登守教経あたりを任命する。
行政事務を管掌させるため、大江氏・中原氏あたりの官人を下向させればよいだろう。
- 301 :
- そんな余裕ないで
- 302 :
- 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww
- 303 :
- >>300
一万の兵力を上方から送り込むの? 在地武士を動員するのでは、そいつらが反乱したら意味ないし。
そうなると史上空前の職業軍人軍団になりそうだが……食わせるのが大変だ。
- 304 :
- 上方から軍勢を送り込むのは、兵糧や維持費が高くついて無理だろう。
平家に近い在地武士がふだんは将軍御所・府庁を警護するようにして、
合戦になったら、北条・三浦・千葉・畠山などの有力豪族を動員する
ようにするのが適切だ。
- 305 :
- 平家一門は京近辺に偏りすぎ。一門を関東や要所に土着させておけば
- 306 :
- せやな、要所に飛ばされた人の恨みが返ってきても
平家には変わりないからな
- 307 :
- >>281
1181年時点の頼朝の支配
確実 上総、下総、安房、相模、武蔵 の五か国
微妙な国
下野→源姓足利は味方、小山は寒河尼朝光母子以外は日和見(はっきり味方するのは1183年野木山合戦以降)、藤姓足利は支配下にいない。
上野→新田は味方、藤姓足利は支配下にいない
西上野の豪族は義仲に従った者が多い。
伊豆→頼朝の御家人が多いが甲斐源氏の影響力も強い
支配下にない
常陸→志田義広はまだ独立勢力、常陸大じょう一族も分裂中、佐竹が失地回復画策中
吾妻鏡で1184年に頼朝の本領安堵記事が出る頃まで頼朝の力は浸透しきっていない。
- 308 :
- 1181年東国割拠状況
頼朝 上総、下総、安房、相模、武蔵、(伊豆)、(下野の一部)、(上野の一部)の5〜8か国
義仲 信濃の一部、西上野、越後(横田河原以降)
志田義広 南常陸
常陸大じょう 北常陸
藤姓足利 上野、下野
武田信義 甲斐、駿河、信濃の一部
安田義定 甲斐、遠江
こうしてみると頼朝が少しだけ広さ的にリードしてるけど都に繋がる西側は他勢力に塞がれ、北坂東には力が及びきっていない。
しかも義仲上洛の時には頼朝の御家人だったのに、義仲上洛についていった武蔵の御家人もいて(by吾妻鏡)頼朝の支配も磐石だったわけではなく、情勢によっては御家人がだれにつくかわかったものでは無かった。
- 309 :
- >>281
玉葉に出てくる反乱者(当時)の名前の頻度
頼朝>>>>>>>>>武田信義、安田義定、近江、美濃源氏>>義仲(倶利伽羅峠の戦いまで名前が出てこない)
玉葉やその他日記だけで判断するのは危険だが
都において頼朝が一番知名度のある反乱者だったのではないだろうか?
そのあたりが後々の都との折衝に大きく影響したと思われ。
- 310 :
- >>304
伊藤忠清(かその代官)を送り込んで上総をなんとかしようと思ったら、上総介広常と悶着起こして、逆に平家への反感買って、頼朝につく要因になった訳だが。
つまりそれだけ東国武士を従わせるというのは、むずかいことなわけで。
- 311 :
- 富士河に鎧はすてつ墨染の衣ただきよ後の世のため
- 312 :
- >>300
平氏政権は、もう少し地政学的な方法を考えていた。
北国を押さえ、特に越後の城氏を重用する。
そして、奥州藤原氏とは宥和的に接して、北の押さえとする。
関東甲信東海が、反平氏感情がくすぶる中心地であったことは、六波羅もよく知っていた。
この地域は、よくみると、「南東に突き出た半島」に近い形をしている。
だから、日本海側と東北を、畿内勢に近い勢力で固め、
反政府地域を、「本州の南東の端に封じ込めて」しまえば、地政学的優位に立てる、はずだった。
実際は、史実の通り。越後を落とされ、北陸を抜かれて包囲網が崩壊し、最後に関東勢が上洛する。
ちなみに、このパターンは、400年後に再び繰り返される。
豊臣秀吉は、会津に上杉景勝を転封し、400年前の城氏と奥州藤原氏の役割を期待した。
さらに、石田三成が、平清盛とほぼ同じ地政学的方法で、徳川家康を関東に封鎖しようとし、
そして、徳川家康が、腕力と策略双方を駆使して破った。
ここでも、新潟周辺が落ちることと、北陸が関東側に立つことが、関が原東軍勝利の大きな要因になっている。
- 313 :
- 頼朝の配流先を須磨から福山辺りの何処かにしてきっちり監視しながらモヤシ源氏宗家を永続させて蜂起できない様にするべきだった。
- 314 :
- >>313
頼朝以外にも蜂起した源氏はたくさんいたけどね。
ただ頼朝ほど上手に武士団をまとめて朝廷と折衝できる武士はいない。
義朝の血筋というより頼朝の能力の問題。
てか現在の年齢で小学校卒業するくらいのお坊ちゃんの将来指導力交渉力を
それまで接触のなかった大人に見抜けというのがムリ
- 315 :
- 元木泰雄「治承・寿永の内乱と平氏」読むと、致命傷は治承3年の政変で後白河院の所領を没収したことにより、
地方の後白河院系所領を管理していた武士が抑圧され猛烈な反発を起こしたこと。
そして基本的に分裂傾向の強い伊勢平氏の体質そのものが没落の原因だったとなっている。
- 316 :
- 平家を関東に置いたら平将門や足利直義みたいになるんじゃね?
- 317 :
- 平家全盛期に武田とか佐竹みたいな地方の実力者を国司とかにして、
早々に家人層に組み込んでいればよかったんじゃないの。
越後城氏や奥州藤原氏を国司にしたみたいに。
- 318 :
- 地方の実力者にいちいち利権を分配していったらきりがないし、相対的に平家の弱体化を招く
おこぼれに与れない連中は必ず出るが、そういう連中が刃向かう気を起こさないほどの力を一族に集中させるのも一つの手だと思う
まぁ平家は独占しすぎたせいで潰されちゃったけど
- 319 :
- 粕チン公達
- 320 :
- >>317
それをやったから反乱が…
- 321 :
- 武士たちの権益をきちんと守る仕組みを作ればよかったんだよ
- 322 :
- やはり宗盛が和睦提案を受け入れるべきだったと考えています。
- 323 :
- 権力を独占しすぎると反感を買って滅びるんだよ
鎌倉末期の北条もまた然り
- 324 :
- 平家政権はいくつもの教訓を後世に残している
一つ、権益は独占しすぎるな
一つ、急激な改革は失敗する
一つ、人の嫉妬は恐ろしい
一つ、敵に情けをかけるな
- 325 :
- 貴族とばっか縁組しないで地方の有力武家と婚姻関係を結んで取り込んでおくべきだった。
- 326 :
- >>325
下総の千田氏が清盛や重盛の姻戚だったんだが
その千田氏が千葉氏を圧迫した。それが千葉氏が頼朝につく原因の一つになったんだよ。
- 327 :
- >>324
敵に情けはかけるな
は少し違うかな?
平治の乱は清盛と義朝の争いで起きたものではなかったからね。
清盛は当初中立。二条親政派が接近したから信頼とそれに従属的立場だった義朝を討っただけ。
実際に戦ったけど源平の戦いとは言えるものではない。
治承寿永の乱にしても、頼朝による源氏復興でもましてや平氏に対する報復などではない。
頼朝は東国武士の一部と利害が一致した&自身に危険が迫っていたから挙兵しただけだし、場合によっては平氏との和睦もあり得た。
それに反平氏で挙兵したものは頼朝だけでないし(畿内や西国にも挙兵はあった)、彼らが全て平氏に深い個人的遺恨を抱いていたわけではない。
- 328 :
- >>327
頼朝の件は結果論に過ぎないから同意
頼朝が挙兵するまでは清盛も存在を忘れていたと思う
朝廷にとってはそのくらい過去の人
問題は藤原成親
身内だからと甘い顔を見せたら二度もやりやがった
- 329 :
- 頼朝の中央志向の性格を考えたら、やっぱり和議の斡旋は受け入れておくべきだったのでは?
早い段階で頼朝と坂東武士団の結合を破壊すると言う意味でも。
- 330 :
- >>329
結果論でいえば和議受け入れてれば良かったかもね。
第一回和議の頃は東国では頼朝の他にも甲斐源氏や(中央には無名だったが)義仲などが割拠してたから頼朝とだけ和議するメリットは薄かったと思う。
鎮西の反乱は継続中だったし。
それに畿内、美濃、尾張の反乱を鎮圧して平氏もまだまだ自信を持ってただろうし。
- 331 :
- 武士の棟梁でありながら公家貴族かぶれだったのが駄目だった。
足利将軍家も同様だわな。
福原遷都という発想も悪いと言われるが、源氏が鎌倉に幕府を置いたように
福原に平家の武家政治拠点を築くというのは悪い話では無かったのだがな。
本当の意味で周辺武士の信頼を得られなかったのが残念な結果を生んだね。
- 332 :
- >>328
成親も頼朝も後白河の手下な点で同じ
- 333 :
- >>332
成親は平家の一員といえなくもないんだけどね
- 334 :
- どうせ拠点を置くなら後代の大内みたいに九州北部から長門あたりじゃねえの。
大宰府と関門海峡、博多を掌握してここらを本拠にすべきだったんじゃ。
- 335 :
- 福原遷都の際、上皇や公卿をお連れするのではなく、平家だけが地方政権を作って、
京都から距離を置くのがよかったと思う。
できれば、関東にも出先機関を置いて、関東の武士を牽制するのがよかった。
- 336 :
- 何の為の地方政権か正当性がないと討伐対象になるだけ
- 337 :
- 伊勢平氏
自分たちだけで栄耀栄華を独占し、田舎にのこしてきた親戚(坂東平氏)に冷や飯を食わした。
結果、そいつらに裏切られた。
足利氏
自分たち足利一族は勿論、義家流にとどまらず、義光流やあげくのはてには摂津源氏まで厚遇。
結果、カオス。
- 338 :
- 平家は一門の繁栄だけを考えて、武士たちを置き去りにした
それが源氏傘下の坂東武者だけでなく、
平氏傘下の西国武士まで置き去りになってしまった
- 339 :
- 結局、奥州藤原氏方式を中央でやるべきだったのではないか。
奥州藤原氏は朝廷が派遣した国司に奥州の第一人者として協力、
という形式でいわばスポンサーみたいな立場で影響力を行使すべきだった。
2、3人を公卿に入れる程度に控えつつ、全国武士団の利益を
できるだけ確保すべく朝廷に工作をする。
フィクサーとして武士と公家の利害調整を心がけつつ、地方武士たちを
家人化してじわじわと朝廷の力を奪っていく。
- 340 :
- >>331
平穏な世の将軍が公家かぶれするのはいつの時代も同じ
徳川将軍だって歴代の肖像画は公家の正装である束帯姿で描かせ
馬にも乗れない虚弱な奴が将軍になったりしてる
- 341 :
- >>300
常備軍1万とか、あの時代の誰が実現可能なんだよ。
奥州でも無理なんじゃないか?
- 342 :
- 奥州が凄かったってのも史料の拡大解釈の過大評価だわな
- 343 :
- >>339
奥州藤原氏も、鎌倉幕府も、キから離れた遠いところで
形式的には地方官として朝廷に服従することで存続していた
奥州藤原氏は朝廷から代々押領使を拝領した地方官
平家は地方官出身でありながらたった一代でキの高級官僚となる道を進む
その立役者は勿論、後白河法皇
後白河法皇という特異な一人の帝王の寵愛により清盛はあっという間に取り立てられ
その特異な帝王の心変わりによりあっという間に捨てられたのが平家
- 344 :
- 平家の軍は、僧兵対策にはなったが、地方の侍相手だと弱かったもんな。
- 345 :
- 平治の乱自体、タナボタみたいなもん
これが勘違いの始まりじゃないの
- 346 :2013/06/05
- >>344
頼朝の反乱に関しては、先手を在地の平家の家人が務め、その後で増援が到着して掃討する
と言うパターンが完全に覆った。武蔵の秩父氏系が頼朝に雪崩れたのが決定打になったかと。
読み違いと言ってもいいと思う。結果的に各個撃破になってしまった。
北陸道に関しては侍大将の不和などで軍議が統一されなかった。東海道は忠清のサボタージュか不和か不明
頼朝討伐も、木曽討伐も、傍流(小松、門脇、経盛)だけで出陣した時は負けてる。
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