源頼朝の兄弟が可哀想すぎワロタwww (312)
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源頼朝の兄弟が可哀想すぎワロタwww
- 1 :2012/10/27 〜 最終レス :2013/10/22
- 義平→Uターンして捕えられ、斬首
後にラーイジングサーンダー♪
朝長→逃げる途中で、お父さんかばって怪
我してお父さんに殺される
頼朝→落馬
義門→学者「本当はいないんじゃね?」
希義→清盛「挙兵したろ!」希義「いや、
して無いっすよ〜」→斬首
範頼→お兄ちゃんに散々こき使われた挙
句、失言で疑われ斬首
お兄ちゃんの雛見沢症候群の犠牲者
全成→お兄ちゃんの雛見沢症候群をなんと
か掻い潜ったが、甥に殺される
義円→ちゃっかり夜襲して、ちゃっかり失
敗
義経→お兄ちゃんの雛見沢症候群の第一犠
牲者ひいきされるほど理
不尽な疑惑をかけられ、日本中を逃げ回り、部下に殴られる
- 2 :
- 削除依頼出しとけよ
- 3 :
- 源頼朝の子孫も可哀想すぎワロタwww
- 4 :
- 源頼朝の先祖も可哀想すぎワロタwww
父・義朝 平治の乱に敗れ朝敵となり逃亡中に横死
祖父為義 保元の乱に敗れ朝敵となり降伏するも刑死
曾祖父義親 対馬守として赴任中反乱を起こし朝敵となり討伐の末横死
- 5 :
- 蝦夷の祟りじゃ〜
- 6 :
- 公暁は実朝の猶子になってたみたいだけどあとは継げなかったの?
実朝は28歳で子供居ないし、出来てから行動でもいい気はすんだけど
- 7 :
- 公暁が犯人ではないってことだな
- 8 :
- そらそうよ
- 9 :
- まさこさまにそそのかされる頼朝
- 10 :
- >>6
実朝が死ぬまで待てなかったんじゃないの?
公暁と実朝って8歳違いだし。
- 11 :
- 自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ ←いまココ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
- 12 :
- 病気も完治したことだし
一年ドミノの振り出しに戻って安倍ちゃんでいいよ。
- 13 :
- 頼朝に限らずこの一族は常に兄弟親類親子で殺し合ってる
- 14 :
- 鎌倉幕府って4代目からは確実に
2代目以降でも傀儡といっていいなの
やっぱり、自分の立つ為の基となる地がないとどうしようもないのかね
- 15 :
- 血の気が荒いっていうレベルじゃねーな
- 16 :
- >>14
いいなのよ。
言葉が難しくてよくわからないけど、
たぶん、「(将軍として)自立している」「地に足がついている」という
ことかしら。
やっぱり傀儡だから、どうしようもないと思うわよ。
頼朝も傀儡だったかもね。
わたしはDVD借りてきたら簡単に立つから、それが立つ為の基なのよ。
- 17 :
- 長男;義平→平治の乱で処刑・六条河原で晒し首
次男;朝長→平治の乱で傷を負い父に殺してもらう・首が掘り出され六条河原で晒し首
三男;頼朝→落馬
四男;義門→多分平治の乱で死亡
五男;希義→兄源頼朝の挙兵に応じた疑いで平氏方に殺害される
六男;範頼→兄源頼朝の命で殺害
七男;全成→甥源頼家の命で殺害される
八男;義円→兄源頼朝の挙兵に応じるが討死
九男;義経→兄源頼朝に攻められ自害
長女;坊門姫→難産で死亡
- 18 :
- 厳しい時代だったんだよ
ワロてないで冥福をいのってやれよwww
- 19 :
- これさ、マジ渡来系じゃないかな。
結局北条家(場末の平氏一族)が長者平氏一門を滅ぼすために、源氏という大儀が必要だった。
しかし、義家以降たいした人間はいない。
そこで、渡来系(北方民族出身の騎馬民族系)に源氏を仮冒させ、
戦にたけた渡来人に源氏を名乗らせ、平氏一門を滅ぼさせた。
用済みとなったそれらは、全員皆殺しに。
そして大義名分の必要もなくなった頼朝、そのこまでも根絶やし。
結果、新羅三郎や、義経モンゴル逃亡説、など渡来系疑惑が耐えない。
実際、義経等の当時の戦い方は異常。完全に北方系の戦い方に似てるし。
かなり渡来形が濃厚だと思われるよ。
- 20 :
- >>19
(´・ω・`)
/ `ヽ. お薬増やしておきますねー
__/ ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\
- 21 :
- >>19
妄想がすげー・・・
- 22 :
- ぶっちゃけ、河内源氏の嫡流って本当に為義流だったのだろうか
官位からして、義親の長男義信の気がしてならないんだが
頼朝の実績によって、為義が棟梁であったと推測されてるだけであって、朝廷の認識は違ったんじゃないかなと思う
- 23 :
- 実朝の歌なんてマジでネガティブな歌ばっかだしな…
やっぱり平家の呪いじゃね?
- 24 :
- >>17
実は十男もいるんだが。
八田知家=源朝家
- 25 :
- 息子のほうが有名だろ
事実上源家粛清の一環で政子存命時に暗殺されんだよ。どんなババァだよw
- 26 :
- >>24
一般論では義朝の子じゃないだろ
義朝が死んでから生まれた子だな
- 27 :
- >>24
>>26
十男?八田知家って頼朝より年上なんだけど。
- 28 :
- しかし、
キン●マ握りつぶされ、未曾有の痛みの中殺された頼家って…
キ●タマ握りつぶされ、未曾有の痛みの中殺された頼家って…
- 29 :
- 頼朝の長女もかわいそうだな
大姫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%AB_(%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%A8%98)
6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い
義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち
上がったが実現する事無く20歳で早世した。
- 30 :
- >>29
でも、この人が口走ったせいで、
義高逃げ出して、死んだんじゃん
- 31 :
- 実朝の死後、範頼の子息か阿野全成の子息に鎌倉殿を継がせて欲しかった。
そうすれば清和源氏を主筋とする政権は存続したであろう。
- 32 :
- >>31
どうだろ?
鎌倉のトップに立つには血筋プラス官位と都との人脈が必要だったかも。
右大臣実朝の跡継ぎが
三河守どまりか無位無官の坊さんの子孫じゃ釣り合わない。
つうか、実朝生存中に宮将軍を迎える前提で実朝の官位が上がったんじゃなかったっけ?
- 33 :
- 範頼は、範季が天皇の外祖父になった時点で、ランクが上がっただろ
妹が天皇の実母なんだぜ
- 34 :
- >>15
遡ったら源頼義・義家・義綱・義光と血の気荒いやつ等が
さらに遡ったら清和天皇いくつくんだもん
- 35 :
- >>33
範季が外祖父になったのは範頼の失脚後(その後死亡か?)
ついでに範季本人の死後。
範季範頼がいなくなったあとの範頼遺児たちに範季の娘との間に関係性は薄いと思われ。
それに範頼と範季の子供たちとは血縁関係はないから範頼のランクアップには繋がらない。
範頼は公卿になってないしね。
- 36 :
- >>29
それも「吾妻鏡」の美化で持ち上げられている部分はあるがな
大姫は20歳で父母や兄たちより先に病死した通り体があまり丈夫ではなかった
大姫の体調が悪くなると「吾妻鏡」が亡き婚約者義高を想うが故の心理的なものからくる病で
「貞女の鏡也」と大絶賛している。
静が義経を想う舞を舞ったときも怒る頼朝に
北条政子が「夫をすぐに忘れる女など居てよいものですか。
これこそ貞女です」ととりなした話があるし
「吾妻鏡」(というか鎌倉時代の武士)って、生涯ただ一人の男を想いつづける
「貞女」の話が大好き。
- 37 :
- 源氏の嫡流だけを考えれば、頼朝実弟の子希望が妥当な線だな。
実在の人物ならばだけど
- 38 :
- >>31
阿野全成の実子の阿野時元というのが
実朝の死の一か月後将軍の地位を欲して挙兵してるな
時元の母は北条政子の妹阿波局だったが
外戚であるはずの北条氏に粛清されている
北条政子は27歳になって正室も側室もいるのに実子に恵まれない実朝のために
実朝正室の姉が産んだ後鳥羽上皇の皇子を将軍として貰い受けるよう
卿局(後鳥羽上皇の乳母)に話をつけている(実朝死後、後鳥羽上皇の大反対で実現せず)
武家源氏じゃあ血筋が弱すぎ、実朝に実子がいないのを幸い、
いざとなったら鎌倉に朝廷が開けるよう天皇の皇子を将軍に欲しいというのが
北条氏の希望だったんだろう
- 39 :
- >>36
大姫に兄はいないだろ
頼家も実朝も弟だぞ
- 40 :
- >>2
為義は兄貴組と母親が違うために対馬いなかった
そのため義家夫妻に引き取られその偏愛の結果、
- 41 :
- 完全勝ち組の聖なる地三河国の吉良荘ゆかりの土佐吉良氏かい?w
蒲冠者のあとが希望なら、足利王国は出来ないだろうがw
- 42 :
- 北条氏は皇子や摂家のお子さんを主君に立てるのが好都合だったのだろうが、
他の御家人たちはそれで納得いったのだろうか?
蒲の御曹司・範頼の子孫など、頼朝の近親が存命なのだから、近親者に
継がせるのが筋だという思いはなかったのだろうか?
- 43 :
- 義氏が三河守護になった時、息子が豊川市で坊さんやっていた
本人に野心がなかったと言う事だ
- 44 :
- 三河の熱田大宮司家はトコトン面倒見がいいわな
面倒見がいいはすの三河の熱田大宮司家が、希望を庇護した形跡がないのは、やはり存在自体を疑うしかない
- 45 :
- >>42
一つの家に代々仕えるという発想はもっと後の時代の発想。
この時代は自分たちの権益を守ってくれる主にのみ仕えるし、主を変えたりするのも当たり前の時代。
従って幕府が所領の保証をしてくれる限り、だれがトップに立とうが、だれが実権をにぎろうが、御家人はついてくる。
鎌倉殿が頼朝の身内じゃなきゃやだという発想は無かったと思う。
- 46 :
- >>42
庶子だからだめなんじゃ?
- 47 :
- >>42
御家人たちは幕府が存続し、知行が安堵されることが一番大事
東国武士の大部分は頼朝を神輿として担いだだけで
頼朝に個人的な思い入れがある歴代の譜代たちではなかっただろう
皇族や摂家出身の将軍が来ることで幕府が安泰になるなら
そちらのほうがいい
- 48 :
- やはり希望は空気認定か。
- 49 :
- 河内源氏
- 50 :
- >>24
八田さんは頼朝より年上だろう
- 51 :
- >>48
まず、存在が都市伝説
- 52 :
- 頼朝兄弟の墓巡りはだいたい東海道を行けば事足りる(あと親父も)。
ただ、東の義経、西の希義だけは飛び地になっていて、ちょっと可哀相。
もう何年も昔、高知に希義の墓を訪ねて行ったら、役場の人が親切に場所を教えてくれた。
墓標は地元では「希義さん」と呼びならわされ、それなりに親しまれているようで、何だかほっとした。
- 53 :
- 地元での知名度があるのが唯一の救い>希義
- 54 :
- ひぐらしのなく頃に
- 55 :
- >>22
通称や母親からして、義親の嫡子は義信だろうな。
通称も対馬太郎とか対馬次郎とかついているのが正室の子供だろう。
義信は対馬太郎だ。
でも、義親の事件で、義親だけではなくて、その正室の実家も
連座して失脚しているんだよ。
よって、義信の立場も悪くなったのかも。
ただし、もともと母親の出自は確かで嫡男だったので
義信の官位はそこそこ高かった。
為義は母親の出自もあいまいで第4子だったので、義親の後継者から外されていたが
そのおかげで、義親の事件から離れられて、
結果的に祖父の義家やその後妻の正室に育てられて、後々有利になった。
- 56 :
- ただし、義家の子供の中では、母親の出自からみて、
弟の義忠や義国のほうが嫡子ぽいので、義家は早い段階から
義親ではなく、義忠を嫡子と決めていたポイ。
実際に河内源氏の棟梁の地位は、義忠系だったはずで、
義忠の長男は河内源太って通称だったはずで、こっちにが嫡流だったと思われ。
義忠が誅殺された後も、長男は叔父の義国の傘下に入ったけど
その次男が河内の領国を継承していて、ずっと苗字(新田や足利や武田など)を名乗らず
姓の源で通しているのをみると、この系統が頼信以来の河内源氏の嫡流だった。
むしろ、為義、義朝の系統は、河内源氏からの分派で
特に義朝はやり手で、河内源氏から独立して、鎌倉源氏という新しい
派閥を作ったんじゃないの?
河内源氏を継承した義忠系のほうは伊勢平氏の平正盛、忠盛、清盛との婚姻関係を
結んでいて、反平家としての源氏の旗頭にはならなかったので、
武家の棟梁としては、義朝の遺児の頼朝のほうが本流になっていたと思う。
- 57 :
- >>55
為義って義家の第五子とも言われてるが、実際どうなんだろうな。
- 58 :
- >>57
為義は、義親の他の子供(異母兄弟)たちとの接点がないんだよな。
幼いころから、義家とその正室(義忠や義国の生母)の下で育てられて
そういう関係で、叔父か兄かは分からんけど
義忠や義国と親しかったぽい。
通称も、為義は陸奥四郎だから、完全に義家の子供として育てられてきた。
- 59 :
- 義親の子孫って、系図(尊卑分脈)上はやたら人数がいて繁栄しているけど、
それ以外の史料ではほとんど確認されてないよね?
もし知ってる人いたら教えてほしい。
- 60 :
- 義信の子の延朗上人は有名。
- 61 :
- 延朗上人は、頼朝や義経との交流も深い。
むろん、源氏のよしみで。
- 62 :
- 義忠のあと、為義が継いだのが怪しいのだな。
義忠が暗殺されたとき、彼には長男・経国をはじめ数人の男子がいたが、
経国は10歳になるかならぬかくらいで源家棟梁には幼すぎる。
そこで、義家の嫡男であった義親の子にお鉢が回ってくるが、
義親の長男・義信は20歳くらいで後継にふさわしい歳だが、
このころ京都にいなかったのだろうか? 次男三男もなぜか外される。
そして、義親の四男の為義が、義家の遺言を振りかざして後継におさまる。
当時14歳で、能力的にも棟梁に相応しくない為義がなぜ棟梁になれたのだろう?
想像だが、
叔父・義光が、源家の実権を狙い、あえて頼りない為義を神輿として担ぎ上げたのだろう。
能力が低いからこそ、傀儡として扱いやすい。
義光の指導の下、為義は、義忠の仇討ちとして、叔父・義綱を撃つ。
その後、義忠暗殺の真の黒幕が義光であったことが明らかとなり、義光は常陸へ逃亡。
為義は仕事で失敗が続き、平忠盛に出世で追い越され差をつけられ、
源家は低迷し、平家全盛の時代となっていく。
- 63 :
- 義光の弟義綱が義忠殺しの冤罪で殺された後に、義光が真犯人だと発覚したとされてるけど
義綱が殺される頃には義光はとっくに死んでるし、そもそも20年も経ってから討伐されるってのも怪しい。
何で義綱は殺されたんだ?
- 64 :
- >>62
義綱追討の大将は為義で間違いないだろうが
義忠の後目相続とは別問題だったんじゃない?
頼朝があとから出てきたからその祖父が嫡流だったと後世勘違いしただっただけで。
(頼朝があえて嫡流主張した結果もあるだろうが)
- 65 :
- >>63
>義光の弟義綱が
義綱が次男で、義光は三男ね。
為義は義綱を捕縛してその子らを殺したんだったか。
たしか、義綱は朝廷の裁断で島流しだったと。
>>64
>義忠の後目相続とは別問題
関係大有りでしょう。
義忠暗殺の首謀者とみなされた義綱の討伐は、
源家棟梁としての初仕事だっただろう。
>頼朝があとから出てきたからその祖父が嫡流だったと後世勘違いした
河内の領地は義忠の子が相続してるようだが、
京都六条の義家の屋敷は為義が相続してるし、
東国の郎党への指揮権も、弱体化してるが引き継いでいる。
為義は、仕事は失敗続きで能力低いなりに、
源家棟梁であろうと努力していたといえると思う。
義信ら兄弟たち、義忠の子供たちは認めなかっただろうが。
彼らは為義ほど、源家棟梁たろうと努力はしてない。
- 66 :
- 何にしても諸悪の根源は義光
- 67 :
- >>65
>東国の郎党への指揮権も、弱体化してるが引き継いでいる。
これなんだけど、当時の義家ー為義がどの程度東国を重要視いるかというのも問題になるとおもう。
西系の学者はあまり関係ないといってるが、東系の学者は重視している。
>彼らは為義ほど、源家棟梁たろうと努力はしてない。
源氏棟梁を源氏(近親者に限る)をまとめる棟梁という認識が当時あっただろうか?
親が生きている間は、一族としてのまとまりを見せていたが
親が死ぬとそれぞれ勝手にやっている感じ。
一族をまとめてその上に立つという発想が出てくるのは頼朝以降なのではないか?
- 68 :
- そして一番かわいそうなのは義忠
- 69 :
- >>65
>河内の領地は義忠の子が相続してるようだが、
京都六条の義家の屋敷は為義が相続してるし、
いわゆる分割相続だね。この時代よくあることじゃん。
というか嫡子一人相続はもっと後の時代のことだよね。
- 70 :
- 為義と奥州藤原氏基衡との間に、なにかしらの連携があった可能性は。
- 71 :
- >>67
>当時の義家ー為義がどの程度東国を重要視いるか
為義は、幼少の義朝を関東へ下向させた。
地元にいる郎党に養育を任せようって腹だろうし、
在地の武士団も、「上総御曹司」と呼んで義朝を養育した。
義家以来の主従関係が残っていないとできないだろう。
>棟梁という認識が当時あっただろうか
義家は武士の棟梁と仰がれたらしいし。
清盛だって、平家の棟梁から武士の棟梁に登り詰めたじゃないか。
>>69
>いわゆる分割相続だね。
話し合いで分割というよりも、
勝手に占拠されてしまって、手を出しにくいからそのままになってるっぽい。
- 72 :
- >>62
義忠は義家の4男で、上に義親、義国がいる。
長男は早死に、義親は乱を起こして敗死、義国も事件を起こして関東へ逃亡。
そのために、義忠が家督を継ぐことになった。
また、もともと義忠が正妻の子で、後継者であったという説もある。
義忠が源家棟梁であったころは、まだ羽振りがよく、平家とも良好な関係だった。
妻は平正盛の娘であり、義忠は忠盛の元服親である。
この義忠が暗殺されたことが源家没落のきっかけとなる。
いや、優秀な後継者であればあんなに没落することはなかっただろう。
あとを継いだ為義は、義忠の子供らを屋敷から追い出してしまう。
長男は藤原経実、その他は平忠盛が養育する。
こんな奴が部下から信頼されるわけがないし、仕事がうまくいかないのも当然。
- 73 :
- >>72
他に、後継者になるべき候補が複数いたこともあって、源家はバラバラになっていく。
- 74 :
- 為義のダメダメさは異常
- 75 :
- >>71
義朝は廃嫡されて東国へ行かされたみたいだけどね。
為朝は九州に行かされた。
為朝は摂関家の荘園繋がりで九州に行かされたらしい。
義朝のいった上総国の荘園も(あびる荘)も摂関家領らしい。
棟梁の定義は色々あるよ。
元木説によると「棟梁」というのは
従来の畿内の累代の少数の郎等をしたがえたレベル(実は義家はこのレベル)から脱皮して
広範囲な規模で主従関係を結ぶようになったのを「棟梁」と規定している。
棟梁になったのは清盛、義朝以降というのが元木評価。
- 76 :
- ちなみに頼義、義家の頃の郎等は畿内の累代の家人が中核。
前九年の役の勝利の要因は奥州出羽の豪族を味方につけたことだし。
後三年の役だって義家が変に介入して事態を混乱させただけだった。
それに両乱とも俗に鎌倉御家人の先祖はあまり参加していない。(相模に少しいる程度)
- 77 :
- 義家は東国を中心に広く武士層に支持され、
初めての「武家の棟梁」と仰がれ、
義家にその気があれば、幕府を開くことも可能だったといわれている。
しかし、彼にはその気はなく、藤原・院に臣従する道を選んだ。
義家殿の御子なれば為義殿、為義殿の御子なれば義朝殿、義朝殿の御子なれば・・
と、忠誠を誓った人々もいる。
そうでなければ、10歳そこそこで関東下向した義朝が関東に勢力を伸ばし、
20歳そこそこの義平が関東の諸将を率い、
流人だった頼朝の挙兵に数万の兵が馳せ参じるはずがない。
もちろん、行動の基準は利害が第一だが、一方で、義理人情を重んじたり、
主のために命をかけるのを是とする風潮もあった。
為義、義朝の生き様を見ると、明らかに、
義家当時の源家棟梁の力を復活させようと努力していると見ることができるだろう。
- 78 :
- >>77
>義家は東国を中心に広く武士層に支持され、
実際に義家に従って出陣したのはほとんど相模の武士&畿内重代の郎党ですが。
後三年の役でそれ以外に出陣した武士がいたらおしえていただきたい。
>初めての「武家の棟梁」と仰がれ、
義家にその気があれば、幕府を開くことも可能だったといわれている。
それはだれが言ったんですか?
>義家殿の御子なれば為義殿、為義殿の御子なれば義朝殿、義朝殿の御子なれば・・
と、忠誠を誓った人々もいる。
具体的にどなたでしょうか?
>そうでなければ、10歳そこそこで関東下向した義朝が関東に勢力を伸ばし、
坂東武士は坂東武士の方で当時摂関家に接近していた為義の子という利用価値を見出していたに過ぎない。
それに義朝が実際に従えたのは、房総の一部豪族、相模豪族、武蔵一部豪族、下野一部豪族のみ
しかも武蔵は知行国主が義朝が接近していた藤原信頼、下野は義朝自身が下野守だったという事情がある。
>20歳そこそこの義平が関東の諸将を率い、
それは上記の義朝の事情あってのこと
>流人だった頼朝の挙兵に数万の兵が馳せ参じるはずがない。
当時治承三年の政変などの影響で平氏の家人や平氏方目代に圧迫されて危機感を持っていた
豪族たちが頼朝を担ぎあげただけのこと。
たまたまそこに頼朝がいただけで、担ぎ上げるのは別にだれでもよかった。
それから、反平氏の挙兵をしたのは全国にたくさんいて、頼朝はその中の一つに過ぎない。
(といってももっとも有力なだったけどね)
>為義、義朝の生き様を見ると、明らかに、
義家当時の源家棟梁の力を復活させようと努力していると見ることができるだろう。
具体的にはどんなこと?
- 79 :
- 義忠と義国ならば、義忠が兄貴じゃね?
実際に残っている文献や通称から見て
義忠のほうが10歳近く年上らしい。
ちなみに、この兄弟は母親同じで、たぶん正室の子供。
義忠と子供と義国の子供ならば
義忠の子供のほうが、大分年上だし。
- 80 :
- >>79
確かに義忠と義国は同母だね。(藤原有綱娘)
有綱は義家晩年の正室で義家死後後家権力を持ってた。
義忠相続もこの母の後押しあってのこという説もある。
当時相続は親子間だけでなく兄弟間にもあり得る時代だったから
義国も義忠の同母弟として義家流相続の権利があると思っていたかも知れない。
義忠の実子は幼少、為義は猶子だったしね。
海音寺潮五郎『武将列伝』に義国長男新田義重が
「自分は八幡殿の嫡子義国の長男だから自分こそ八幡殿の嫡流。
頼朝など曾祖父(義親)、祖父(為義)、父(義朝)が全て謀反人として処断されてきた家系ではないか」
と言ったと書いてるが(ネタ元不明)
もし、義重がそう発言したというなら、義国こそ義家、義忠の跡をついでいた筈なのに、という意識があったのかも知れない。
(事実ある時期まで義重は自立してたしね()
- 81 :
- http://www.youtube.com/watch?v=Rqk7mplWaj4
http://www.youtube.com/watch?v=620TThnCjSg
- 82 :
- >>77
>>78
頼朝、義朝、平家
これ初期から身分の低い落人でアルバイト公務員級の貧しい身分だよ。
・当時ぶちを払ったり、給与を払えないほど貧しい貧民帰属階級で落人同然。
そして姓が武士名、地豪名でないことが佐々木、新田よりも身分が低かった事の証明当時名前が普及ネームならまず身分低い
・かつ関東下向前源家は多数、犯罪などで追悼処分受けていて、最下級の罪人だった。
・そして関東下向とかいうけど、殆ど寄生身分として、扱われて、坂東武士団の寄生身分事実上、義朝なんかは上総が主君同然の身分だった。
ここまで利益の合致で身分の低い源家が、武士にほぼ雇用されたのであって、根本的にイニシアチブも握れなければ、主君的位置づけになれない。
上総、坂東武士の傭兵、雇兵
という身分
そして
・頼朝は→白川嬢夫→落人幽閉
という立場で、後見は駒として使えないので、乱雑に坂東武士総合後見とした
- 83 :
- そして
挙兵はもう見ればわかるけど
・白河の連絡番の頼朝が(゚∀゚)「身分低いのに挙兵連絡キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」
で発狂しだしたが、挙兵は完全に坂東武士手動
あの時点でゼネラルリーダーは上総、千葉氏、そして三浦の御三家であり、
ポジション、イニシアチブとして頼朝が吠えても関係ないの。
- 84 :
- そして
権力にでてきたのわクーデター以後だが、あれ完全30年前の武蔵侵入と同じで主君殺し
、しかも以後も「自称」権力であり、せいぜい正式に坂東武士、白河の二重傀儡になった。
そもそも将軍なるあやふやで支離滅裂な、不座位権、あやふや権があるのわ。
「ウルセー駒頼朝を黙らせるだけ」の形だけのイスなんだよ。
- 85 :
- 頼朝って為義のことどう評価してたんだろうな
孫の贔屓目でも肯定的な評価はできそうにないが
- 86 :
- 去年の大河で
わが祖父はって嘆いてたな
- 87 :
- ドラマは糞だったけど
結構心情に近かったりして
- 88 :
- 摂関家との付き合い方で参考にしたとか
反面教師として
- 89 :
- >>85
父義朝→流刑中も読経写経で念入りな供養
鎌倉殿になってからは勝長寿院造営など手厚い供養
母由良→挙兵直後に供養
母菩提のため塔造営
同母弟希義→供養してくれた僧に手厚い保護
土佐に菩提寺設立
同母姉妹坊門姫→死後手厚い供養
為義→供養関係記事一切見当たらず(吾妻鏡)
ただし、縁者には手厚い保護
- 90 :
- >>89
頼朝は10歳で祖父と死別しているし
頼朝は母方一族の邸で育ったんだろうから為義とはもともと疎遠だろ
他の武将を見ても供養しているのはせいぜい親兄弟ぐらいじゃないのか
- 91 :
- 頼朝って、自分の弟たちよりも
何代か前に分かれた源氏一族のほうを重視していた。
- 92 :
- 義経の背後に奥州藤原氏あり、
範頼の背後に藤原範季あり(甲斐源氏との繋がり説もある。)
弟とはいえバックを多少警戒。
一方でいち早く臣下になってくれた源氏はある意味信用できるし
準一族として取り立てる必要もあった。
- 93 :
- 平賀氏に対する処遇は厚すぎる。
源氏の中でも別格。
平賀氏は家系自体は、常陸源氏(義光系)の庶流で、
同じく常陸源氏の庶流だった甲斐源氏の弟分的な立場だったんだけど...
- 94 :
- >>91
そら、足利とかは先祖伝来の土地と兵を持ってたからな
無視できない
弟たちに関しては嫡子相続が原則だから
嫡子である頼朝が独り占めして自分の息子の邪魔にならぬよう適当配分で構わない
- 95 :
- 源頼隆は厚遇されまくったのにその子孫はぱっとしなかったな。
- 96 :
- >>93
平賀義信は平治の乱の敗走の時最後近くまで義朝についていったし、
いち早く頼朝に臣従した可能性も高い。
武蔵守になったがその国司としての能力の高さが評価されている。
尚且つ、(頼朝の差配だろうが)比企尼の娘婿になっている。
不遇な時期を共に行動した信頼感と能力の高さという
平賀義信個人への評価であって、平賀氏に対する評価の結果ではないと思う。
- 97 :
- >>95
頼隆もその父が義朝の身代わりになって死んでくれた
という頼朝の個人的問題が主眼だったと思う。
- 98 :
- >>91
義経に対しては当初は頼朝は「父子の契り」を結んで
それなりに遇してたけどね。
- 99 :
- >>89
曽祖父の義親に至っては頼朝にとって黒歴史になってそうだな。
義親、為義、義朝、頼家、実朝、公暁と
頼朝の近親者は誰一人まともな死に方してない。
- 100 :
- >>91
足利→母方従兄弟。頼朝に従順ではない藤姓足利の牽制にも必要。
平賀→地理的に甲斐源氏、義仲牽制に必要な場所にいる。義信有能。
加賀美→甲斐源氏切り崩しの為厚遇必要。
山名→新田切り崩しの為厚遇必要。
- 101 :
- >>99
兄弟や叔父、従兄弟連中もそうだけど、頼朝自身の粛清によるものも多いからな。
- 102 :
- 義親・為義・為朝・義平・義経・義仲と続く家系(悪く言えばDQN、荒々しい家系)の中で
頼朝みたいな大政治家がでてきた方が、むしろ異例な気もするな
- 103 :
- >>99
いざとなったら泣きつくことのできるボスがいる都の貴族に仕える時代と違って
頼朝の時代は自分たちがボスになろうとしてた時代だった。
しかもそのボスレースに負けたら死ぬ確率高いからみんな生き残るのに必死。
特に頼朝は流人スタートで何も持ってないから、他の源氏と違って、
領地郎等付で他の源氏に従うという選択肢はなかったから
よりドライにならざるを得ない。
- 104 :
- この自力救済の時代、利害を巡って
兄弟親族間で殺しあいするほどの争いするのは
別に源氏だけではなかったけどね。
当時、成人すると各々に独立した行動をして、兄弟といえども一族としてまとまった活動はしたとは限らないし(経済活動は各人独立採算制度)
親が死ぬと一族としての纏まりは自然消滅になることが多い。
- 105 :
- 元木信者があらゆる日本史12世紀関連スレで暴れ廻るのは何故だろう?
- 106 :
- 元木さん本人が2ちゃんをやってるとは思えない(思いたくない)。
たぶん京大閥かその弟子の院生の犯行。
- 107 :
- >>101
頼朝兄弟殺しのイメージが強いけど実際には大したことがない。
頼朝が殺した兄弟は義経のみ。殺した疑惑のある範頼を入れても
男九人兄弟のうちの2/9。
他の歴史上人物と比べると
足利尊氏 同母弟直義を殺害 (三人兄弟のうちの一人 殺害確率1/3)
徳川家光 同母弟忠長を殺害 (四人兄弟のうちの一人 殺害確率1/4)
で兄弟殺害率は意外と低い。
- 108 :
- >>99>>102
義親ー為義ー義朝と三代続いて「謀反人で死亡」した家系で
「鎌倉殿兼右大将兼日本国惣追捕使」になった頼朝って何気にすごいよ。
しかも本人も「元流人」
実朝は横死したものの右大臣になって
後継者として皇族を迎えるプランまでできたって
謀反人家系としてはすごすぎるかも。
- 109 :
- >>101
叔父さんの件に関して少なくとも義広は
先に自分の方から反旗翻して、反撃食らっただけだもんな。
- 110 :
- >>108
由良御前−頼朝
と八条院さまに仕えてたのが大きいのでは。
- 111 :
- >>110
上西門院の間違いでは?
- 112 :
- >>110
由良御前が宮仕えしていた記録はないよ
由良の姉妹に待賢門院女房と上西門院女房がいたのは事実だけど
(大河清盛で由良自身が上西門院に仕えていたのは創作)
- 113 :
- >>109
反旗というか義広にしてみれば坂東では自分が先輩という意識があったんじゃないの?義朝?頼朝は謀叛人という位置づけだし。
平治物語では義広も上京して義朝に加担したという記述もあるが、信憑性は薄いし。
- 114 :
- 希義の息子とされる希望て本当に存在したのかな?
伝承見る土佐吉良氏が権威付のために作った人物臭い
- 115 :
- 希望ってなんか今のDQN親がつけそうな名前だな。めちゃくちゃな読み方にして。
- 116 :
- >>95
森可成など輩出した
森氏がいるぞ
- 117 :
- >>113
義広は次兄義賢と同母兄弟で仲がよかった。
義賢を殺した義朝・義平とは敵対関係。
したがって、頼朝よりも、義仲のほうに親近感があったのでは。
- 118 :
- >>112
角田文衛は由良自身も上西門院に仕えた可能性はある
といってる。
いずれにせよ頼朝は母方の人脈で後白河院ー上西門院に近づいた可能性は大きいようだ。
- 119 :
- >>117
志田荘は八条院領。義仲兄も八条院に仕えていた。
>>117の理由に加えてこの八条院人脈もあったかも。
ちなみに、野木宮合戦で負けると義広はすぐ義仲陣営に合流した。
これが頼朝と義仲対立の発火元になるんだよな。
- 120 :
- 義平が生きてたら頼朝は義平に従ってのかな?内輪もめしか想像できないが。
- 121 :
- 義平は専用スレがあるから
- 122 :
- >>119
八条院人脈スゲえな。行家も彼女のパシリだし、頼賢の遺児が行家の養子になったのもその繋がり臭い。
- 123 :
- >>120
義平が東国で生きていたら、頼朝が伊豆に流されることはなかっただろう。佐渡とかね。
- 124 :
- >>109,>>113
義広は元々頼朝と仲が悪かった。というか、保元の乱で義広は勝者の兄義朝によって
自らの妻子も含む親類縁者を殆ど皆殺しにされ、義広自体が20年以上姿をくらました
尋ね者状態だったからな。(要は福田和子みたいな存在だった。当然だが、義広も
本来は処刑されるはずだった。)
これを考慮すると、義広と頼朝が仲が悪いなどということ自体が愚問。
>>117
義広、義仲とも、頼朝は親族の敵同様で、最初から共に戦える相手ではなかった。
- 125 :
- >>124
>保元の乱で義広は勝者の兄義朝によって自らの妻子も含む親類縁者を殆ど皆殺しにされ
義広自身は、保元の乱に参戦していないのに?
- 126 :
- >>124>>125
義広(義憲)は保元三年(1158年)に河内国で活動していたことが確認されている。
保元平治の後も志田荘が没収された形跡はない。
- 127 :
- ちなみに志田荘は
本所 八条院
領家 池禅尼
現地管理者 志田義広
立荘は保元の乱以前で(当時の本所は美福門院か?)
立荘斡旋に関わったのは当時常陸介だった平頼盛と見られている。
- 128 :
- >>122
以仁王の命旨は八条院の息のかかった(平氏に近いのは除外)武士を
中心に出されたとも言われてるからね。
- 129 :
- ・面積最大の八条院は、三河国加茂郡高橋荘、高橋新荘
・寄進者は頼朝曾祖父の藤原季兼(三河四郎大夫)、荘司は季兼の妹の息子、高橋惟康(小田原城築城の大森氏の祖)
・後に高橋荘荘司の足助重長の娘は、頼家に嫁ぎ、生まれた子供が公暁
- 130 :
- >>124
妻子も皆殺しってどこ情報よ?
あと、追討も所領没収もされなかった理由は?
- 131 :
- 単に間違えたんだろ
- 132 :
- 小山氏が味方してくれると考え、そして見事釣られちゃうだなんて
志田先生はおっちょこちょいだな
- 133 :
- 志田義広が常陸から下野に出たのは、藤姓足利氏や義仲との合流を策したんだろうな。
途中の野木宮で小山氏に敗北し、進軍予定ルートがそのまま逃走路になった。
- 134 :
- しっかし、小山朝政って大胆だよな。
志田と藤姓足利に挟まれたエリアで
「志田に味方します」と言ってだましていきなり返り討ち。
弟の長沼宗政の突入で敵を蹴散らしたからいいものの
朝政が負傷するほどの苦戦だったんだよね。
結果オーライだったけど、
実はかなり負け率の高かった戦いだったんじゃないかという気もするんだが。
- 135 :
- >小山朝政って大胆
これが若さか
このとき、朝政・宗政兄弟は20代前半なんだぜ
あと野木宮の戦いは小山党しか出陣してないから
仮に敗れても頼朝としては余裕でリカバリー効く戦だったり
- 136 :
- そう言えば範頼も野木宮合戦に参戦してたんだよね。
かなり終盤になってからだけど。
- 137 :
- 源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表
【1150年】父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
【1155年】藤原季範(初代熱田大宮司)死去
【1157年】由良御前(源頼朝の母)死去
【1159年】父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
【1161年】藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
【1161年頃】藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
【1180年】以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
【1183年】野木宮合戦に援軍
【1184年】木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
【1184年】三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
【1184年】九州進軍の大将として九州平定
【1185〜1187年】吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
【1185〜90年】上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
【1193年】伊豆に幽閉、暗殺される
- 138 :
- 源範頼と小山氏
・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)
■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
創建年:建久2年(1191年)
開基:宇都宮頼綱
八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
- 139 :
- 志田義広って長年常陸にいた割には、北関東の情勢に疎くないか?
小山は寒河尼が頼朝の乳母だし、藤姓足利とはかなり仲悪いだろ
- 140 :
- >>139
小山も親頼朝とはいい切れないんだ。
1180年から1182年当時
当主 政光→在京中で平氏の軍事指揮下にいる。
嫡子 朝政→本領に籠って動かない。
宗政→不明
寒河尼、朝光→頼朝の元に参上
一族をうまく振り分けてどう転んでもいいように様子見している。
1183年2月の段階で宗政は鎌倉にいてそこから出陣しているんだけど
同時に鎌倉から出陣した関政平は途中で志田方についた。
小山氏も八条院領を預かっているから、義広も八条院人脈で
味方してくれると踏んだかも知れない。
- 141 :
- 志田先生って夕陽ヶ丘の総理大臣みたいな熱血先生だったのかな?
- 142 :
- >>141
志田先生は熱血過ぎて当時の空気を読めなかったんだよ。
- 143 :
- 帯刀先生は?
- 144 :
- 銃刀法違反の暴力教師じゃね?
- 145 :
- 宗教から歴史、哲学、超常現象、政治経済まで
あらゆる情報の宝庫「中杉弘のブログ」です。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
- 146 :
- 文治元年(1185年)頼朝の父義朝の納骨堂南御堂勝長寿院供養
■供奉
・星野範信(頼朝叔父、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信(初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
■参列者
・源頼朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
・平賀義信(甲斐源氏)
・大内惟義(甲斐源氏、平賀義信の息)
・源頼隆
- 147 :
- 頼朝は伊豆に流されて幸運だったな
四国に流された希義は挙兵に失敗してるし
- 148 :
- 土佐は逃げ場もないよな
島は追討受けたときに詰む
- 149 :
- >>114>>147
ただの悲劇の人で終わった印象の強い希義に子孫がいた、と知った時は、何とも言えず救われた気がしたもんだ。
まあ客観的に考えれば信憑性は低いと思うけどね。
『系図纂要』では希望の名はなく、土佐吉良氏は、希義−隆盛−貞義−貞範−……と続く系統の子孫ということになっているが、彼に希望という名の子息がいてその子孫が続いたと考える方が、気分的に何となく嬉しい気はする。
- 150 :
- >>148
伊豆も似たようなものだろう。半島に押し込まれているから。
石橋山で生き延びたのがあまりにも強運なだけで。
他の幸運は坂東で平氏方豪族や新知行国主に対する反感が蔓延していて
頼朝が逃げ込んだ先で同意者が多かったことと
甲斐源氏が同時期に挙兵してくれていたことかな。
- 151 :
- 希望という名前は実朝と公暁の死で没落してしまった義朝系源氏の
文字通り「希望」だったんだろうな。
- 152 :
- >>149
救いといえば、平成6年になってから頼朝の墓と
希義の墓の土と石を交換した
という話があるね。
墓自体が後世ものだけど
なんとか再会させてあげたい
と願ってた人が850年後にいた
というのはある意味ほっとする。
- 153 :
- 伊豆には、伊勢平氏に対して苦々しく思っていた
直方の子孫がいたからな。
- 154 :
- >>153
その系譜信憑性あるの?
- 155 :
- >>152
鎌倉に行って驚いたことの一つだよね。まあ高知側の人から提案したんだろうけど。
- 156 :
- >>152
そんな美談があったのか
討たれた直後は平家の目を恐れてろくに
葬儀もできなかったらしいね
- 157 :
- 吉良なんだから三河を調べろよ
兄弟がいて、嫡流は土佐を、希望は三河の領地を貰ったんだろ
高知とかアホか
- 158 :
- >>156
そんな状態で希義を弔った土佐の僧侶に対して頼朝は深く感謝して
色々と恩賞をあたえたらしい。
- 159 :
- 同母弟の息子だから三河なんだろ
分からない事があったら、三河を調べなければ駄目じゃないか
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官(伊勢権守令)として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
- 160 :
- >>158
頼朝って意外と身内思いな逸話あるよね
なごむ
- 161 :
- >>160
義門はどうか知らんが、近い肉親でいうと、頼朝は同母弟である希義には凄く優しいよな
- 162 :
- >>160
そうか?
死んだ身内は良い身内なんじゃね?
- 163 :
- 同母姉妹の坊門姫とその家族にも厚遇してる。
坊門姫が死んだ後の頼朝の供養はかなり手厚いもので
ダンナの一条能保はそれに深く感謝してるし
坊門姫の息子の元服や娘の結婚には
かなりのお祝いの品を送ったりしている。
- 164 :
- 身内じゃないけど、石橋山で死んだ真田余市の事を思って泣いたり
義朝の乳母だった90才くらいの女性と語り合って涙流したり
頼朝って結構涙もろいところもある。
- 165 :
- 異母弟の全成、義経と会ったときも泣いたようだ。
政子に亀の前を追い出されたときも泣いただろう。
- 166 :
- 貞暁と生涯一度の父子対面をした時はどうだったんだろう。
- 167 :
- >>154
系統が正しかったので
頼朝は、頼義のこと崇拝していて
自分の息子に頼家と名乗らせたのであろう。
- 168 :
- >>167
いや、逆に信憑性がないからこそ
あえて強調した部分があるかもしれないぞ。
第一時政の父親の名前が系図によって違うくらいなんだから
系譜が本物だったとしても坂東武士には受け入れられなかったんじゃないか?
- 169 :
- >>168
話はそれるけど、北条政子の母親もはっきりしないんだよね
血統重視の社会ではけっこうなハンデだわ
- 170 :
- 北条氏は桓武平氏とかいっても、
坂東八平氏ではないだろう?
- 171 :
- 義経はともかく範頼まで殺したのは余計だったな
- 172 :
- >>171
範頼の場合、追放までは記録に残ってれけど
その後の消息は信憑性のうすいものに「殺された」とあるだけなんだよね。
殺された可能性は限りなく大きいけど。
- 173 :
- 義経の戦功を陰ながら支えたのが範頼
温厚で思慮深く義経とは正反対のタイプなんだよな
- 174 :
- そういえば縁戚処分義経と範頼じゃ全然ちがうよな。
義経→舅の河越重頼死亡。 静が生んだ男子殺害。
範頼→舅の安達盛長生存。頼朝死後十三人の合議メンバーになる。
妻生存。息子も生存。
- 175 :
- 三河だからだろw三河には甘いんだよ
頼朝の寝室に忍び込んだ範頼家人の当麻太郎、薩摩に島流しの大甘処分だった
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→勘解由丞季成(藤原季成))→当麻貞稔→当麻太郎
- 176 :
- 公然と反乱した人と、言いがかりをつけられただけの人の差かも。
- 177 :
- 範頼には曽我兄弟の仇打ち事件への関与
もしくは巻き込まれ説もあるよね。
範頼は養父藤原範季の存在や甲斐源氏との関係の深さ
というあたりが警戒されたのかも知れない。
- 178 :
- >>177
曾我兄弟仇討ち事件は後白河法皇薨去後、1年かそこらで起きているよね。
藤原範季の向こうには、治天の君となった後鳥羽院が透けて見えているわけだから…。
- 179 :
- 源希望の親族 藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望(三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫)
■源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶
藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼→源範円
■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季
■足利義兼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼
■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清
■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝
■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲
■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
- 180 :
- >>174
義経の件でも河越重頼と嫡男・重房は粛清されたけど、
本領は妻の河越尼に安堵されてるし、次男・重時以下の一族は健在
それでも重い処分だけどね
頼朝はけっこう粛清するけど基本的に族滅まではしないスタンス
- 181 :
- 個人的には義経と最期まで共にしたのにまったくといっていいほど無名な郷御前が不憫
静御前なみに評価されるべきじゃね?
- 182 :
- 河越重頼って秩父氏系だな。
坂東八平氏の嫡流。
- 183 :
- 源希望(吉良希望、三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫) の親族
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源希義→源希望
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望
父系
■公暁
・源義家→源義親→源為義→源義朝源頼朝→源頼家→公暁
・源義家→源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
■愛智義成(尾張国愛智郡郡司)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源義円→愛智義成
- 184 :
- 源希望(吉良希望、三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫) の親族
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源希義→源希望
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望
父系
■源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源範頼→源範円
■公暁(母は足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源頼朝→源頼家→公暁
・源義家→源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
■愛智義成(尾張国愛智郡郡司)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源義円→愛智義成
- 185 :
- 母系
■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季
■足利義兼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼
■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清
■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝
■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲
- 186 :
- >>182
坂東八平氏の間で嫡流庶流の区別は明確についてないんじゃなかった?
河越氏はあくまで坂東八平氏のひとつ、秩父氏の嫡流
- 187 :
- ああ藤の呪い
- 188 :
- 壷を壺を 藤壺を持って参れ
- 189 :
- >>19 渡来系とか言い出したら藤原 物部 平家 橘 秦氏だって渡来系になる。
物部が百済からの渡来人とかいう記事は藤原のデマで、藤原が百済系。物部は秦氏側。
天皇さんはヤストルファンだと信じてるけどね。源氏はアーリアとか騎馬系だろう。
縄文人こそ日本列島古来の住人。
- 190 :
- それにしても武蔵の大豪族河越氏が
頼朝が流刑になった後に都から移り住んでばかりと
言われてる
比企氏と婚姻関係むすんだのはなんでだろ?
- 191 :
- 義経の戦功を陰ながら支えたというよりも
範頼自体かなりの名将だからな
何故か凡将扱いされてるけど
- 192 :
- >>191
中途半端かもしれないが、相当有能なことは間違いない。
だからこそ、頼朝に目を付けられ、いちゃもんを付けられ自分の血筋を残せなかった。
- 193 :
- あの疑り深い頼朝も、流石に無能な阿野全成は放置だったしな。
同母弟の義門、希義も生きていたらどうなったか判らない。
- 194 :
- >>193
放置どころか実朝の乳母夫になってましたがwww
- 195 :
- >>192
男子三人残して子孫がいたらしいことは確認されてますが。
- 196 :
- >>190
比企掃部允は郡司とはいえ、都下りの貴族だから中央とのネットワークに魅力を感じたのかも
それに頼朝という貴種との接点を確保しておくのは悪くない
- 197 :
- >>193
阿野全成は悪禅師と呼ばれた男。
無能ならば、真っ先に頼朝に馳せ参じはしない。
- 198 :
- >>197
全成は石橋山の後、山中で敗走中の佐々木一族と落ち合って
その後頼朝と面会するまで佐々木一族と行動を共にしている。
佐々木一族が全成だとわかったのは前から面識があったからだろうか?
(石橋山山中の話はどこまで信じていいか解らんが)
- 199 :
- >>198
わからんけど、
敗走中の佐々木と行動を共にするなら、このときが初対面ではない。
むしろ、かなり親密な間柄と想像できると思う。
- 200 :
- 頼朝の兄弟の子孫たちが有力御家人として幕府中枢に残っていたら
足利氏などは源氏末流あつかいされていただろう
- 201 :
- 『吾妻鏡』で治承4年(1180年)の参入から建仁3年(1203年)の誅殺まで
阿野全成の所見を調べてみたけど、以下の記事くらいしか見つからなかった。
文治元年(1185年)12月7日条 「阿野公佐は全成の娘婿」(本人登場せず)
建久3年(1192年)8月9日条 「阿波局は全成の妻」(本人登場せず)
全然表に出てこないので、何をしていたのか謎とさえいえる。
- 202 :
- >>200
武田・小笠原と扱いが変わらないレベルだったかもね。
頼朝の義兄弟として多少は優遇されたかもしれんが。
- 203 :
- >>200>>202
「吾妻鏡」の儀式の序列を見ると
平賀義信>安田義定≧源範頼>足利義兼
だね。
範頼はいい位置にいたけど
御門葉一位は平賀義信。
- 204 :
- >>201
治承四年(1180年)11月19日武蔵国長尾寺を頼朝が全成に譲渡し安堵した記事がある。
吾妻鏡における人物の空白で興味深いのが
北条時政が1182年12月に亀の前事件で怒って伊豆に帰ってから
1185年5月に時政が義経を酒匂川で足止めさせるまで時政は吾妻鏡に一切登場しない。
一応時政が書状を出しという記事はあるが、
時政発行推定の元になる文書の署名「平」は時政以外の平氏の文官が発行したのを
時政発行に付け替えたのではないかとの説がある。
あとは、一の谷直後の1183年3月に頼朝が伊豆北条に言った記事があるが時政は登場しない。
時政何やってたんだろ?
- 205 :
- >>204
伊豆でふてくされてたんじゃないのw?
- 206 :
- >>189
もう、おまえのトンデモには興味ない。
- 207 :
- >>205
しかしまあ、空白の1183年は仕方ないとして
治承寿永の乱のクライマックスの義仲戦、一の谷、西国攻め
屋島、壇の浦という時期に
完全スルーされていた時政って一体・・・
鎌倉ではあまり重要人物じゃなかったのかね?
- 208 :
- 地道に事務仕事とか豪族間の調整してましただと
歴史書には残れないのかも。
- 209 :
- 吾妻鏡なんだからそれでも何らかの記述がありそうなもんだが
なにせ「北条殿」だし。
…ひょっとして時政ハブられてた?
- 210 :
- 流人時代の頼朝に賭けて平家に反旗を翻し
最後は牧の方と共謀事件を起こし追放された
波乱に富んだ人物
- 211 :
- >>210
娘が頼朝と結婚したから、仕方なく引っ張り込まれただけの小人物かもしれない。
- 212 :
- 石橋山の後の時政の行動
「吾妻鏡」
頼朝と前後して安房に上陸して
頼朝の使者として甲斐源氏の元に赴く
延慶本「平家物語」
負けたら誰にも(勿論頼朝にも)言わず、石橋山から甲斐に直行で逃げる。
もし「平家物語」の行動の方が本当なら、
時政が頼朝から信用されないのも納得。
- 213 :
- 時政は相当過大評価されていると思う。
頼朝も後を託したのは梶原景時と比企能員だしね。
梶原景時も比企能員も三族皆殺しになっているが、御家人の集団リンチで必ずしも時政の
意思が一方的に通ったわけではない。
ライバルを滅ぼし、北条氏の繁栄の礎を築いたのは、義時なんだけどね。
- 214 :
- 子孫からもまさかの黒歴史あつかい
それが北条時政
- 215 :
- >>211
反対したら駆け落ちされてしょうがないから認めてやった訳だしな。
- 216 :
- 敵を皆殺しって日本だと鎌倉期だけじゃね?といつも思うんだが
- 217 :
- 皆殺しというより集団自決が派手
という感じ。
梶原氏にしても女性は無事だし
梶原の妻たちが夫の遺領の一部を安堵されたりしている。
- 218 :
- >>217
なる
諦めが良すぎるのかw
- 219 :
- >>216
有岡城、伊丹城
秀次事件
九戸城
天狗党事件
まあ、それ以外にも探せば山ほどあるわな、敵の容赦ない皆殺し。
実際に、皆殺しにしないと、秀次事件で逃げ延びた藤堂高虎がやったような仁義なき
徹底的な復讐が待っている。
そもそも、日本人は楚人の末裔だから、伍子胥や項羽みたいな、粘着質で敵は
徹底的に皆殺し、ということは平気でする。
あと、比企能員の乱だが、比企氏の血を引くということで北条義時の正妻とその間に
生まれた子も殺されている。その影響で、庶子の北条泰時が後を継いでいる。
- 220 :
- >>219
北条義時と比企娘姫の前の間に生まれた子って
朝時だけど
比企の乱の後もきちんと生存してるし
「名越流」という子孫まで残しているよ。
- 221 :
- >>219みたいなことをしてるしと
足利二代将軍義詮も北条の血を引いているから殺されたことになるし(義満以降も存在しなくなる)
平家の女系の血を引く公家も存在しなくなるから
公家の多数も存在しなくなる。
奥州藤原氏も泰衡以外の多くの一族が流刑ですんだのも>>219はご存知ないと見えるし
奥州安定統治の為に頼朝が秀衡未亡人を保護したのも
ご存知ないと見える。
- 222 :
- >>220
殺されたどころか、
承久の乱で朝時は北陸道軍を率いていたんだが。
日本の政権交代の時、フランス革命のような大混乱が起きない要因の一つが
旧勢力の一部を新勢力が取り込むこともあるんだよな。
鎌倉幕府は行政のノウハウを持つ文官を京都から呼び寄せたし、
室町幕府は鎌倉幕府の行政官を登用したし
明治政府は幕府役人を官僚に取り立てた。しかも慶喜を生かして最後は公爵にまでするし。
戦国大名も滅ぼした大名の家族を保護したり側室にしたりして、滅ぼした相手の領地統治に利用したりしている。
- 223 :
- だよね
統治を考えた場合、旧勢力を根絶やしにするとデメリットの方が大きい
(統治機構の消滅、情報の散逸、人材不足、残党の蜂起etc.)
旧勢力の統治期間が長いほどそれは顕著になる
よって、普通はトップのすげ替えと旧臣の取り込みで済む
逆説的に、徹底的な皆殺しがあると珍しいもんだから目立つ
- 224 :
- 源実朝暗殺に関しては黒幕が北条義時とか
三浦義村とか言われてるがどっちなんだ
- 225 :
- 黒幕は全員
鎌倉武士全ての総意かも知れない
- 226 :
- ああ、確かに
事件の経過とか謎が多すぎる
- 227 :
- 頼家の男子も一幡、公暁、某と全てころころされたよね。唯一残った女子の竹御所も流産で脂肪だか
これで頼朝の子と孫は全滅、清和源氏八幡太郎義家の嫡流は断絶
- 228 :
- たださあ、北条の場合将軍の身内であることが
他御家人を抑えて実権を握る要件だったから実朝Rメリットないんだよなあ。
三浦の場合も担ぎ上げる予定の公暁を実朝殺害の実行犯にすると
リスクとデメリットが大きすぎるんだよね。
- 229 :
- >>213
比企能員は
独裁的で反感を買っていた源頼家の乳母父として
権勢を振るっていたからね
- 230 :
- >>201
義仲が都にいる間に一条能保が鎌倉に来ている。
その能保が鎌倉にいる間の宿泊先が「玉葉」によると全成の邸だったらしい。
ちなみに同時期に鎌倉に来ていた平頼盛の宿泊先は相模国府。
彼等の鎌倉下向は義仲からの圧迫からの亡命だけでなく
後白河法皇からの政治的密命を帯びた使者という意味合いもあった。
当然頼朝は頼盛、能保を厚遇する必要がある。
そんな能保の滞在先になるのだから、能保の妻の異母兄弟の家だから
という理由だけで能保の宿泊先に選ばれた訳ではないかも。
- 231 :
- >>230
「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」
『玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条だから『吾妻鏡』の欠文期間か。
これは見逃してた。情報ありがとう。
- 232 :
- 『吾妻鏡』に足利義兼と政子の妹の結婚記事はあるけど、
全成と阿波局の結婚記事は見当たらない。推測になって
しまうけど、二人の結婚は空白の寿永2年(1183年)かな?
その場合『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月7日条には
藤原公佐は全成と阿波局の間に生まれた娘の婿とあるので
二人は生まれたばかりの娘を公佐と結婚させたことになる。
能保が全成宅に滞在中に、話をまとめたのだろうか?
能保と公佐は、勝長寿院の供養に一緒に列席していて
親しい間柄に見えるけど。
- 233 :
- >>232
能保へ頼朝の庶子貞暁が出家の為に上洛した際も貞暁の身元引受人になっている。
頼朝からみれば都に身内を出す際の身元引受人として
同母姉妹の夫で身分もある能保がもっともふさわしいと考えていたのではないかと推測する。
だから、この娘も都では義理のおじ能保が後ろ盾になっていたのではないだろうか。
この婚姻は全成発起か能保発起か頼朝発起かわからない。
ただ、公佐の養父の滋野井実国とその嫡子公時の系譜を見ると
実国ー上西門院から叙爵される
公時ー妻が吉田経房娘
とあって上西門院と縁があり、頼朝と親しい吉田経房とも縁がある。
能保も上西門院の乳母の孫であり、吉田経房も上西門院に仕えていた。
公佐が能保と親しくてもおかしくはないし、
頼朝か能保が結婚を取り持ってもおかしくはない。
- 234 :
- なるほど。上西門院関係者を中心に朝廷内に親頼朝派を
形成する試みか。ところで、滋野井公時の子に実宣という
名があるけど、これってひょっとして時政の娘婿の実宣?
それなら、時政も一枚噛んでいる可能性が濃厚かも。
- 235 :
- 鎌倉は時代としては華やかなイメージだが、源家三代は非業の最期だな。
平家の祟りか義経の無念か?
- 236 :
- >>234
時政婿の実宣の可能性大きいね。
ただ時政娘と実宣の婚姻はもっと後だと思われる。
wiki情報で申し訳ないんだがそこには1203年に実宣は時政娘との婚姻の為平維盛娘を離縁したとある。
この情報が不確なものだとしても時政が都の貴族と縁を結び始めるのは
義経問題の交渉などの為に上洛した後だと思われる。上洛したのは11月25日。
上洛してばかりの頃の時政は「北条丸」扱い。
この年の12月7日には既に公佐は全成の婿になっている事が確認される。
この婚姻に絡むのはまだ無理だったのではないだろうか?
- 237 :
- 黒澤の『乱』のイメージはそういう感じか?
戦国時代の設定ではあると思ったが。
- 238 :
- >>235
鎌倉は質実剛健なイメージだろ
それと幕府内の陰湿な権力闘争の繰り返し
梶原景時の変
比企能員の変
頼家暗殺
畠山重忠の乱
牧氏事件
和田合戦
実朝暗殺
…
- 239 :
- 興味深いのは実宣の前妻平維盛娘の母(つまり維盛元妻)は
吉田経房と再婚しているんだ。
吉田経房は1200年に死去。
で、1203年鎌倉で政変が起きて将軍が頼家から実朝に代わり
時政が将軍外祖父として実権を握りつつあった。
もし1203年に実宣の妻交代があったとしたならば
大納言としてそれなりの実力を持ってた義父を失った前妻より
鎌倉の実力者となった時政娘に乗り換えたというように見ることができるかも。
- 240 :
- >>238
>鎌倉は質実剛健なイメージだろ
そうだよな。平安時代の貴族文化に対して武家の質実剛健な文化。
仏教も禅宗だし。鎌倉のお寺は何処も黒い。
- 241 :
- >>238
だから質実剛健と陰湿さが折り合わないから困る。
- 242 :
- 鎌倉は源平合戦のイメージで英雄時代とも言われるし、
文化的遺産も多いからな。
- 243 :
- >>241
そうか?質実剛健と陰湿って合わないもんなのか?
細川センセがいうには「ユルさと残酷さが同居していた時代」
不条理とも言えるかもしれんな。
>>242
残念ながら鎌倉時代にあった建造物は現在の鎌倉にはあまり無いと言われてますが。
軍記物も成立が都だったみたいだし。
- 244 :
- 叛乱分子となり得る御家人を次々と屠っていったからね
得宗家の力が強まるに対して名越光時の乱のような一族内の
抗争もあったわけだし
英雄時代でもあったし色々なクーデターがあって面白い
始まりも華やかでラストも壮絶極まりないのが鎌倉時代
- 245 :
- 平家物語口上の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す」
とは、釈迦入滅の時に祇園精舎の沙羅双樹の林が真っ白に花
咲いて、鶴が舞い降りたような様になったという故事を指す
のだな。これを鶴林と言う。
黒澤の『乱』の終わりはそれを踏まえて
るのか、俺は学が足りなくて分からん。
- 246 :
- 本当残酷な時代だよな一幡なんか祖母の実家に殺されちゃうし
- 247 :
- 比企能員も叛乱自体が北条氏のでっち上げとも
言われてるね
- 248 :
- >>245
>沙羅双樹の林が真っ白に花
双樹だから林じゃなくて二本だと思ったけど。
- 249 :
- >>238
陰湿さにかけては北条親子が一番だけど、他の鎌倉武士と違い武功らしい武功もないしな
勇将の畠山や三浦とは人種が違うんじゃないかってくらい違う
梶原にしても陰湿なイメージはあるけど同時に勇猛果敢な武人でもあるから
- 250 :
- >>249
北条は確かに武の人というイメージは無いな
でも外戚だからといって無能低能が壟断を繰り返すという感じでもなくて
歴代それぞれに出来る人なんだよね
元々が小豪族だったわりになかなか頑張った感じ
- 251 :
- 承久の乱や和田合戦のせいか
政略、特に煽動と挑発が上手い一族というイメージがある
- 252 :
- >>248
俺も長いことそう思っていたけど、「沙羅双樹」で木の種類名らしい
- 253 :
- >>250
そして高時というアホが出たらやっぱりあっけなく滅んだ
- 254 :
- 権謀術数に長けているイメージ
元々が小豪族だったからこそ成り上がりで
根性を見せたな
- 255 :
- >>252
マジかよ。wikipedia見たら「釈迦がクシナガラで入滅(死去)したとき、臥床の四辺にあったという、
4双8本の沙羅樹。時じくの花を咲かせ、たちまちに枯れ、白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくで
あったという(「鶴林」の出典)。」とあるから二本ずつ四組って事じゃね。
- 256 :
- 高時は御内人の長崎高資の始末すら満足にできなかったくらいだからなw
- 257 :
- 北条時宗が偉大だったからより一層比べられてしまうんだよね
ただ恩賞問題や身内優遇などが積み重なって腐敗が進んでおり
一概に高時一人が悪かったとはいえないような
- 258 :
- 時頼以降の得宗は早死したからな、そういうのも関係あると思う
- 259 :
- 代々若死にだと統制効きにくくなるよね
幼少の当主とか普通なら傀儡フラグ
- 260 :
- 室町時代の足利義勝とかね
スレチだけど
- 261 :
- 北条殿は天皇も関白も逆らえない日本の最高権力者だけど私生活は地味
- 262 :
- >>261
末期になると、内管領に逆らえなくなり、政務も顧みず闘犬や田楽三昧
- 263 :
- 源氏も平氏もこの辺りで本家筋は途絶えたのか。
- 264 :
- >>263
河内源氏為義流と伊勢平氏は本家筋というより最も有力な一派
- 265 :
- 清和源氏の主流は室町時代は足利家だけど江戸時代はどこだ?
まさか徳川家じゃないだろうし
- 266 :
- 江戸時代は徳川家が源氏の長者だったような。
- 267 :
- 源氏長者は清和源氏だけが対象じゃないからな。
江戸時代の清和源氏の主流は本来なら明治維新後、足利姓に復す事になる高家旗本の喜連川家になんだろうけど、主君たる徳川家が源氏を仮冒してしまった事で清和源氏の主流と言う概念は事実上なくなってしまったんじゃないか?
でなければそもそも足利の名を捨て喜連川なんて名乗る必要も無かったはずだし。
- 268 :
- Wikipediaの源氏嫡流の記事もそうだが清和源氏の主流なんて同時代に無い概念を
後世の物好きが勝手に造作して議論しても意味が無い
- 269 :
- >>268
頼朝も、義朝も、為義も、嫡流を意識していたことは相違あるまい。
- 270 :
- >>269
嫡流とは何の嫡流なのか
意識していたことが疑いないとする論拠は何か
彼らは義家からの嫡流であって清和源氏全体の嫡流ではないだろうし
血統的な嫡流という意識より観念的な武門の棟梁という意識の方が強かったと思えるんだが
- 271 :
- 争ってる間はそれぞれが我こそが嫡流って言い張ってて、最終的に勝者が嫡流とみなされるようになった
そんな所だろ
- 272 :
- 八幡太郎義家の跡目争いからしてぐっちゃぐちゃ
義朝も長兄・義賢を殺害し、保元の乱により結果的に「そして誰もいなくなった」で一本化
はじめから庶嫡が明確に定まっていたら、ここまでひどくはならないよな
- 273 :
- >>272訂正
義賢は異母弟
- 274 :
- まあでも朝廷の貴族からみたら、河内源氏自体傍流だけどな
- 275 :
- >>267
それは間違い
喜連川家は高家旗本ではなく知行高五千石ながら十万石格大名。
さらに主君は徳川家ではなく、徳川将軍家の客分。
- 276 :
- >>272
義家の跡目は、義家の指名ですんなり義忠に。
ぐちゃぐちゃではない。
義忠の後が疑惑満載だけど。
保元の後、弟たちを処刑したのは朝廷の命令であって、
義朝の意思ではない。
義朝が嫡男だったかは疑問でてるけど、
それが明確でなかったからそうなったということではない。
- 277 :
- そうだな。むしろ義朝以外全員為義の味方をしたから、ああなった。
義朝は鬼っ子か?
- 278 :
- >>277
義朝 東国が院知行国化した影響で院ー美福門院に接近路線を選ぶ
為義 長年摂関家と結びついていたので摂関家から離れることは考えられない
息子たちも父の縁故と引き継いで摂関家に近い
他の息子たち
義広 保元の乱以前に池禅尼ー頼盛の斡旋で美福門院領志田荘を立荘
父とも義朝とも独立路線
行家 バックに熊野あり。独立路線を歩める地歩あり。
- 279 :
- >>276
義朝は為義の長男で、その母方の祖父は白川院の側近で実力者。
祖父が頼りがいのある存在だったので、幼少時は嫡男あつかいされた。
しかし、その祖父が死んだので、為義は次男を嫡男にして、
義朝を関東へ追っ払った。
庇護者を失った義朝は出世の見込みがなく、
出世しそうな次男を嫡男にしたほうが、家全体の発展に繋がるからだ。
そのとき義朝は11か12歳くらい。関東へ向かう足取りは、
心細く、哀しく、そして悔しかっただろう。
そんな境遇にもかかわらず、義朝はたくましく育ち、
関東の荒くれ武士どもを率いて勢力を拡張していった。
しかしその心には、父に対する憤りや反感が満ちていたのであった・・・。
- 280 :
- 大蔵合戦で源義朝に父の義賢を殺されたから
義仲も鎌倉の頼朝に対しては複雑な感情を抱き続けて
いたんだろうな
- 281 :
- 大蔵合戦は義平ね。
- 282 :
- 源氏みな仇
- 283 :
- >>279
貴族の日記に、『父子仲わるし』と書かれてるね。
- 284 :
- 源義光がとんでもない元凶だったな
源義忠暗殺事件といい
この人の暴走に一門が大いに巻き込まれた
- 285 :
- 義経とかやってること最低だから報いが来たんだろ
壇ノ浦では非戦闘員の漕ぎ手を殺したりしてるし
- 286 :
- >>285
頼朝は義経以外の弟も殺しているから
義経が武士の戦術さえ無視してなければ
滅ぼされてなかったというのは言い過ぎ
まあ、正攻法で攻めていたら
平家滅亡にもっと時間がかかってたかもね。
- 287 :
- 戦功がある上に思慮深く細かな対応をしていた
源範頼も嫌疑をかけられて殺されてるからね
- 288 :
- 義経が駄目だったのは外道戦法よりむしろ兄貴の政略をまったく理解してなかったこと
- 289 :
- もともと越権行為が目立った上に
勝手な官位の受諾や平時忠の娘との婚姻は
頼朝を差し置いて平家に代わる立場に立とうとする
野心があると見て取られても仕方がない
- 290 :
- >>287
範頼については、Rまでやるかはともかく失脚させるのは政治的に必要でしょう。
後鳥羽院と近すぎる。
- 291 :
- 義経の非戦闘員射殺については
戦闘のどさくさで双方ありがちなことという見方もある。
- 292 :
- ついでに書くと
一ノ谷は多田行綱の中央突破が決定的
屋島は平氏方に反感を持った豪族の与力も影響
壇の浦は追い詰められて武具等もつきかけていた
平氏に元々勝利の可能性が薄かった
という見方もある。
- 293 :
- 『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、
大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、
水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれている。
義経が戦の作法を無視して水手と梶取を射殺した話は安田元久氏が
『日本の武将7 源義経』(1966年)で仮説として提起してるけど
実際の所はどうなんだろう?
- 294 :
- 義経びいきの平家物語が殺害自体をスルーせずに、>>293氏ご紹介のような描写を
行ったのは、当時の聞き手には義経の虐殺行為は周知の事実だったのを
義経の命ではないと言い訳しているかもしれないな。
- 295 :
- 大将の承諾なしにそんな掟破りするわけないじゃん
- 296 :
- >>293
とりあえず手持ちの本での見解を
上杉和彦
『平家物語』によると漕ぎ手虐殺は平氏敗戦濃厚になってからなので
勝敗には関係ない(『源平の争乱』吉川弘文館)
金指正三
安田説に対して
源氏が水主・梶取を攻撃したならば平家方も同様に応戦したはず
(菱沼一憲氏が『源義経の合戦と戦略』(角川選書)で紹介)
元木泰雄
水主・梶取の殺害は勝敗が決してから、勢い余った源氏軍が邪魔な
彼らを船に乗り移ってから殺害(『源義経』吉川弘文館)
- 297 :
- 壇ノ浦の勝敗の要因
上杉和彦
義経の周到な準備、阿波民部の裏切り、平氏方の士気の低さ
菱沼一憲
軍備十分だった義経軍と比べて
補給もままならなかった平氏軍の軍備が貧弱で(矢の数など)
なのが主要因。
漕ぎ手が殺されたのも彼らに十分な装備を与えられなかったのも原因
元木泰雄
軍勢の数は源氏方が勝っていた。
海峡が狭いので側面から攻撃などができず数が勝敗を決した
地形の関係で陸上の範頼軍の援護もあった
川合康
四国中国の武士たちが雪崩を打って鎌倉方に味方をしたのが最大の要因
- 298 :
- >>294
平家物語では義経の容姿をかなり悪いものとして描いている。
かならずしも義経びいきだったとは思えんが。
- 299 :
- 上杉は元木は平家びいきの学者だよな
川合は論外w
- 300 :
- >>299
他の学者の見解のUPもお願いします。
- 301 :
- 安田氏は阿波民部成良の裏切りを否定して、水主・梶取の射殺が
壇ノ浦の戦局を決定づけた最大の要因と推測している。
『平家物語』を読む限りでは、非戦闘員の射殺が義経の命令か
兵の暴走か確定できないけど、世間的には安田説が何となく
受け入れられている感があるかな。
- 302 :
- >>301
安田説が出たころ
「義経政治音痴論」が出て世間では義経sage時代だったと思う。
司馬遼太郎の「義経」は義経sageモノだったし
永井路子も義経政治音痴説をとっていた。
で、テレビでも義経政治音痴路線を(今でも)とっている。
そんな義経sage路線も安田説受け入れに一役買っている気もする。
あと、東の学者ってわりと義経sageな人が多いような気もするがどうだろうか?
(過去の義経ageは異常だったとは個人的に思っているが)
- 303 :
- 希義も夜須七郎と合流できたら助かっただろうに
- 304 :
- 希義は蓮池に軍事行動を察知されたのが敗因
一方で、頼朝は石橋山の戦いで敗戦するも
梶原景時が寝返ってくれたおかげで九死に
一生を得るというラッキーな人
- 305 :
- >>304
というか、頼朝の強運が並外れすぎ!
平治の乱
戦闘中&逃走中死亡せず(義隆、朝長負傷→死亡)
戦闘参加者なのに処刑されず(義平処刑)
石橋山
ボロ負けの大将なのに死亡せず脱出
房総北上中
途中で襲われるも辛くも撃退、そのうち味方が増える
野木宮合戦
小山兄弟の活躍で反頼朝勢力撃退(小山兄弟も危なかった)
数回の暗殺未遂
事前に暗殺者が発見されて事なきを得る
通常ならば上記のどれかで死亡している。特に上二つ。
希義並みの運勢が通常人の運勢といったところだろう。
- 306 :
- 近親者の運勢吸い尽くしたんじゃないかという程の強運だわな
- 307 :
- 強運だが幸運とは言い切れないだろう。
平治の乱では八甲田山並みの経験の逃亡をした上、
捕まったらいつ処刑されるかわからない長時間の精神的拷問にさらされ
石橋山では数日間の飲まず食わずの生活しながら
敵の捜索かわして逃亡。
きつい状況乗り越えての強運だよな。
精神的に強くないと生存できないだろうな。
- 308 :
- >>307
20年間読経しながら何を考えていたかだよね。
去年のドラマでは描かれなかったところだけど。
- 309 :
- >>308
頼朝が何を考えていたかは本当に想像に任せるしかないんだが
治承寿永の乱直前までは挙兵の意思はまるっきり無かったんじやないかな?
治承三年の政変に伴う変動で挙兵に引きずり込まれたって感じだし。
- 310 :
- >>307
頼朝は女たらしだから伊豆でそこそこ楽しくやってたんじゃね?
伊豆に流された14歳から32歳の挙兵まで一日も欠かすことなく
長時間の精神的拷問にさらされてたようにも見えない。
乳母の一族である比企一族やら、
頼朝の母方が付けてくれた従者たちがいつも傍にいて、けして孤独でもなかったし。
- 311 :
- 伊東祐親の娘にも手出してたからな
- 312 :2013/10/22
- >>307の長時間の精神的拷問って2月9日の捕縛から流刑決定までの意味で書いたんだが。
長くても1ヶ月未満だが
処刑が決定的な中、何日も処分保留で放置というのは辛かったと思う。
伊豆時代は家族を失った孤独を除くと結構気楽にやっていたと思う。
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