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 ショーペンハウエル 「女について」 


1 :2008/08/26 〜 最終レス :2013/09/07
女の姿態を一瞥すれば、すぐさま、わかることだが、女は、精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするのには、
生まれつき、ふさわしくないのである。女は、人生の責任、いわば、負債を、行為によって償うのではなく、
受苦によって、つまり、分娩の苦しみとか、子供の世話とか、夫に対する服従ー夫に対して、妻は、常に、
辛抱強い快活な伴侶でなければならないーなどによって、償うのである。極度に激しい苦悩とか歓喜とか力わざ
などは女性には向いていない。むしろ、その生活は、男性のそれよりも、静かで、平穏に過ごされなければならない。
とはいえ、本質的に、より幸福だとか、また、より不幸だとか、いうわけではないのである。
わたしたちがごく幼い時分、わたしたちを育て、ものを教えこむのに、女が全く適役であるのは、
女というものが、みずからも、子供っぽく愚かしくて、そのうえ、身近の物ごとだけを見ている、
いわば、一生、大きな子供であり、要するに、子供と、真の人間である成年男子とのちょうど中間
に位する段階に属するからである。まあ、一日じゅう、子供と一生になって遊んだり踊ったり歌ったり
している少女の様子をよく観てごらんなさい。そして、考えても見たまえ、一人前のれっきとした男が、
その少女の代役をつとめることになったとしたら、どんなに好意を持って努力してみたところで、
果たして、何が出来ることかを。

2 :
自然は少女に対して、たとえてみれば、芝居でいう場あたりをねらう考えで、何年かの間にかぎり、
爾余の全歳月を犠牲にして、あふれんばかりの美と魅力と豊満さとを与え、特に、この何年かの間に、
或る男の空想をしっかりととらえて、その女の一生の世話を、或る何らかの形で、誠実に引き受けるほど、
夢中になるようにしむける。けだし、男性を動かして、このような段階まで立ち入らせるためには、
単なる理性的熟慮だけでは、どうも充分に確実な保証となり得ないように思われるからであろう。
このように、自然は、女性に、ちょうど他のすべての彼の創造物に対して与えるのと同じく、その生存を
確実ならしめるのに必要な武器と道具とを、それが必要とされる期間だけ、与えておくのだが、この場合にも、
実に、自然は、みずからの常套手段たるつましいやり方に従って、事柄を処理するのである。すなわち、
雌の蟻が、交接の後には、もはや余計なもの、というよりも、産卵経過にとっては危険なものですらある翅を
失うごとく、婦人たちもまた、たいてい一、二回、産褥に就いた後には、その美しさを喪失するが、おそらく、
両者は同一の根拠にもとづくものであろう。
だからこそ、若い娘たちは、自分たちの家事向きや職業上の仕事などを、心の中では、余計なことと思ったり、
ひどいのになると、単なる戯れごとくらいにしか考えておらず、専心に、まじめに打ちこむ勤めとしては、
恋、男子の愛情をかち得ること、およびこれに関連する、たとえば化粧、ダンスなどがあるばかりなのだ。

3 :
およそ、或る物ごとは、それが高尚完全なものであればあるほど、より遅く、より緩慢に成熟
に達するのである。男性にあっては、その理性と精神力とが、二十八歳以前に成熟の域にいたる
ことは、ほとんど見られないのに、女性は早くも十八歳で成熟してしまう。とはいえ、女性の理
性がすこぶる狭隘なることを免れないのも、そのせいである。従って、すべての女性は、一生涯
子供の状態にとどまっており、見るところは常にただ最も手近なものに限られ、とかく現在に執
着して事物の外観を問題にしたり、きわめて重要な事件よりもむしろ些細なことを好んだりする
のだ。理性とは、すなわち、これがあるために、人間が、動物のごとく単に現在のみ生きるこ
となく、過去と未来とを展望し熟慮するようになり、それによって、やがては、人間の先見、心
配、またしばしば煩悶をさえ生ずる、そういうものなのである。これらのことがもたらす利益と
不利とに、女性のあずかる程度は、その理性がより薄弱である結果として、男性に比べるとはる
かに少なく、むしろ、女性は精神的近視である。すなわち、その直覚的悟性は近いところを鋭く
見るけれども、その視野は狭く、そのなかには遠距離のものがはいってこない。従って、過去や
未来の事柄と、すべて目の前に存在しない物ごととの作用は、女性に対し男性に対するよりも著
しく弱く、こんなことから、確かに、女性において一層しばしば見受けられるーそのうえ、往々
にして狂気に近いー濫費癖が起こってくるのだ。女たちは、心の中で、金儲けは男たちの職分で
あり、自分たちの役目は、それを費うこと、出来ることなら亭主の存命中に、また、やむを得な
ければ夫の死後に、なるべく早く蕩尽しなければならぬものと考えている。亭主がかせいだ金を
家計のために女房に手渡すことが、すでに、女たちのかような信念を強めさせるのだ。

4 :
これら全てのことは、なるほど、それだけでも、きわめて多くの不利益をもたらすけれども、一方、
良いところもある。由来、女性は男性に比べて、より多く現在に没頭するから、しのび得るかぎ
り、より楽しく現在を味わう、これが女性に特有の快活さを持たせるもととなる。実に、この快
活さこそ、妻が、心労せる夫に休息を与え、必要ある場合には、これを慰藉するために適している所以である。
古代ゲルマン人たちの風習にならい、むずかしい事件に当たって、婦人にも相談するというこ
とは、一概に斥けるべきではない。というのは、婦人の物ごとを把握する方法が、男子のそれと
は全く異なっており、ことに、女たちは目標への最も短い経路を好み、一般に、最も身近にある
ものを眼中に置くので、男子が、とかく、そのようなものを、かえって、それが自分の鼻先にあ
るために見のがしてしまうといったような場合に、やはり、手近で簡単な見方を得るためには、
婦人と相談することが役に立つからである。そのうえ、女たちは、断然、男子よりも冷静であり、
従って、物ごとについても、現実に存在する以上に、あまり多くを見ないという長所を有つ。と
ころが、男たちは、みずから激情に駆られると、ややもすれば、存在するものを拡大して見たり、
さらに、想像的なものをつけ加えたりしがちになるのだ。

5 :
不幸な人を見た場合、女性は、男性に比べて、より多くの関心をもち、より多くの同情と人間
愛とを示すけれども、反対に、正義とか忠実とか確守とかいう点では、男性に劣るということも、
同一の源泉から演繹すべき事柄である。つまり、女たちの理性が薄弱である結果として、現実の
もの、直観的なもの、直接に実在するものなどは、女たちのうえに一種の強い力を押し及ぼすけ
れども、その反対の、抽象的な思想とか、一定の格率とか、堅く決心したこととか、ないしは、
一般に過去や未来、不在の人や遠方の人に対する顧慮などのはたらきは、おおむね、微々たるも
のにすぎないからである。すなわち、女性は徳にいたる第一次的な、かつ主要なものをあっては
いるが、これを展開させるのにきわめて必要な道具である、第二次的なものを欠いているのだ。
この点で、女性は、肝臓を持ちながら胆嚢を備えていない生物に比べられるであろう。従って、女性の性格
には、根本的欠陥として、「不正」ということが見出される。この欠陥は、まず、上述したように、
理性的な判断や熟慮の乏しさに伴って生ずるのだが、そのうえに、おな、女性が、より弱いもの
として、自然から力の変わりに奸計に頼るように指示されているために、それは、いよいよ大き
なものとなるのである。

6 :
 だから女性の狡猾さは、本能的といってもよく、その嘘つきの傾向を
全然なくしてしまうことは出来ない。けだし、自然は、獅子には爪と歯とを、象には長い牙を、
猪には短い牙を、牛には角を、烏賊には水を濁らす墨汁を与えたように、女性に対しては、自
己防衛のために、「いつわる力」を与えて、武装させたのだ。つまり、自然は、男性に体力ならび
に理性として与えた力のすべてに匹敵するものを、女性には、このような天賦の形で、授けたも
のである。それゆえ、女性は生まれつきいつわるものであり、従って、賢女だろうが毒婦であろ
うが、いつわることにかけては、同じように巧みなのだ。思うに、女性が、あらゆる機会をとら
えて、これを行使するのは、上記の動物が攻撃を受けた場合にすぐさま自分の武器を使用するの
と同様に、ごく自然なことであり、しかも、そのとき、女性は、或る程度まで、自分の権利を行
使するのだと感じているに違いない。というわけで、しんそこから誠実な、いつわりなき女は、
おそらく、あり得まい、まさしく、それゆえに、女性は、他人のいつわりをやすやすと洞察する。
それにつきまとう欠点とから、さらに、虚偽、不貞、裏切り・忘恩などということが生じてくる。
法廷における偽証を、女は、男よりもはるかに度重ねて犯している。いったい、婦人の証言を認
めるべきかどうかということがそもそも問題ではあるまいか。−何の不自由もない貴婦人が、
商店で万引きする実例は、いたるところでしばしば繰り返されているのである。

7 :
男性と男性の間には、おのずから、単に無関心があるに過ぎないけれども、女性と女性との間には、
早くも生まれながらにして、敵意が存在する。だから、いわする商売敵の憎しみは、男たちでは、それぞれ
彼らが属する同業組合にもとづくものに限られているが、女たちにあっては、その憎しみが全女性を包括している。
これは、女性全体が、ただ一つの職業しか有っていないのによるのだ。女たちは、路で行きあった場合ですら、
互いを分け隔てすることを、あたかも、グェルフ党とギベリン党との間柄にもひとしい。
なお、初対面の際、二人の女性は互いに、同じ場合に二人の男性が示すよりも、明らかに、より多くのわざとらしさや、
いつわりの虚飾を表す。だから、二人の女性の間にかわされるお世辞は、男性の間のそれよりも、はるかに滑稽なものとなる。
また、男性は、自分よりずっと目下の者に対してすら、常に、やはりある程度の遠慮と人情味とをもって話するけれども、
高貴の婦人が、身分の低い(しかし、自分の召使ではない)女と話をするとき、一般に、いかにもいばった、そして、
さげすむような態度をとるのは、はたで見ていても我慢がならないくらいである。これは、けだし、女性においては、
階級の相違が、総じて、男性におけるよりも著しく不安定であり、はるかにすみやかに変化したり消失したりすることさえ
あり得るのによるらしい。というのは、男たちの運命には幾百もの事項が関係を有つのに反して、女性にあっては、
ただ一つのこと ーすなわちいかなる男に気に入られたかということー のみで、その運命が決まるからである。
更に女性の仕事が一方的であるために、女性同士は、男たちの間柄よりも、はるかに接近しているから、せめて、
地位による差別だけでも、はっきりさせようと試みることが、またその理由となるのであろう。

8 :
背の低い、肩幅の狭い、臀の大きな、足の短い種族を、美しいものと呼びうるのは、ただ、性欲のために呆けている
男たちの知性だけである。すなわち、女性の美は全く、男性の性欲衝動のうちに包まれているのだ。女性は、これを
美しいものと呼ぶよりも、むしろ、非美学的なものと呼ぶほうが、ずっと正当だろう。音楽に対しても、詩作に対しても、
さらに、造形美術に対しても、女たちは、事実上また本当に、感受性や理解を有ってはいない。もしも、
そのようなもので女たちが感激したふりをするなら、それは女たちが他人に迎合するための単なる模倣に過ぎないのだ。
このことは、女たちには或る事物について純キャ間的な関心を有つ能力がないのによるのだが、わたしの考えるところでは、
その根拠は、次のとおりである。男性は、すべての場合に、物ごとを、直接にー或いは理解すること或いは克服すること
によってー支配しようと努める。しかし、女性は、常にいたるところで、単に間接的にーすなわち男性を仲介者としてー
支配するように定められている、ただし、妻は、ただ、夫だけを直接に支配することができるのだ。それゆえ、女性の天性の
うちにあるのは、すべての事物を、ただ夫を得る手段とみなすことだけであり、従って、何かしら或る他の事物に対する
女たちの関心は、常に、ただの仮装か単なる手管、すなわち、媚態やら模倣やらとなって現れるものに過ぎない。それで、
ルソーも、すでに、言っている。「婦人は、一般に、いかなる芸術をも愛してはおらず、また、理解してもいないし、
そのうえ、何らの天才も有っていない」と(『ダランベールへの書簡』第二十項)
こんなことは、ものの概観にとらわれない人ならだれしも、すでに気がついているであろう。
演奏会、オペラ、劇場などで、女たちの注意を払う向きと具合とを観察するだけでも、わかる。
たとえば、偉大な傑作の最も立派な場面の最中にも、女たちはおしゃべりをやめようとはしない、
その子供らしい、無邪気さを見たら、よくわかるだろう。

9 :
 問題は、個々の部分的な除外例によって、変更されはしない、全体について考えると、女たち
は、最も徹底した、しかも最も度しがたい俗物であり、また、いつまでも俗物としてとどまる。
だから、妻が夫の身分と称号とを共有するというきわめて不合理な社会機構において、妻は夫の
卑しい名誉欲に不断の刺激を与える。そのうえ、女たちがこのような特質をそなえているために、
女たちの采配を振ったり音頭をとったりすることが、現代社会の腐敗を醸すのである。女たちの
社会的地位に関しては、ナポレオン一世の「婦人に階級なし」という言葉を、よく考えてみる
べきであり、その他の点について、シャンフォールが「女性は、われわれの弱点と痴愚とに関係
するために造られてあるが、われわれの理性に関係するようには造られていない。女性と男性との
間には、ただ、表面的な共感が存在するだけで、精神・霊魂・性格などについての教官は、ごく
わずかばかりに過ぎない」といっているのは、全く当たっている。
 女たちは、いわゆる「セクス・セクイオール」〔価値の劣る性、アプレイウス『メタモルフォー
セス』第七巻第八章〕で、どの点から見ても、男性の後ろに立つ第二級の性である。それゆえ、男
性は女性の弱さをいたわってやらねばならぬ、とはいえ、女性に対して尊敬を払うのは、度はず
れに滑稽なことであるし、そんなことをすると、女性みずからが男性を見くだすようになってし
まう。

10 :
 自然が人類を二つに分けたとき、これを真二つに等分したのではなかった。すべて両極に
分かれているものにおいて、陽極と陰極との相違は、単に質的のみならず、同時に量的なものが
ある。−古代ギリシア・ローマの人々および東洋の諸民族は、まさしく、そのような女性観を
有っていたから、従って、彼らは、女たちに適当する地位を、わたしたち現代のヨーロッパ人よ
りもはるかに正当に認識していたのである。これにひきかえ、わたしたちは、このキリスト教=
ゲルマン的愚昧の最上の精華である古代フランス風の慇懃と、ばかげきった女人崇拝とを持って
いるのだ。しかも、このことは、ただ、往々にして、ベナレス〔インドのヒンドゥ教の聖都〕に
おける神聖な猿どもを想起させるほどに、女たちを横柄かつ無遠慮にするのに役立っているばか
りである。それらの猿どもは、自分たちが神聖視され、かつ殺生禁断になっているのを知って、
自分たちの欲することはすべてことごとくが許容されるものと考えているのだ−
西ヨーロッパ諸国の婦人、ことに、いわゆる「淑女」(「独」ダーメ「英」レディ)は、不当な地
位を占めている。なぜなら、古代人から適切にも「セクス・セクイオール」と呼ばれた婦人は、
どのみち、男性の畏敬と崇拝との対象たるに適していないし、男性よりも高く頭をもたげたり、
男性と同等の権利を有つには、ふさわしくないからである。この不当な地位に置かれた結果は、
てきめんに現れている。だから、ヨーロッパでも、人類の第二号たる夫人には、やはり、それ
相応の地位を指定し、また、ただにアジア人全体から笑われるばかりでなく、ギリシア人やロー
マ人にも同じように笑っただろうと創造される「淑女」というあらずもがなのものにも、結果をつ
けることが、ぜひとも願わしいのである。その結果、社交的・公民的ならびに政治的な関係にお
いて、具合のよくなることは、それこそ、はかり知れないほどであろう。そうなると、サリー族
の法典は、余計な自明の理として、全く不必要なものになってしまうに違いない。

11 :
ヨーロッパにおける真の「淑女」は、全く存在すべからざるものであるが、主婦および主婦に
なることを望む少女は存在せねばならぬ。従って、少女は横柄にならぬよう、そして、家事と服
従とに向くように教育されなければならない。ヨーロッパに、いわゆる「淑女」がいるからこそ、
身分の低い女たちーすなわち助成の大多数を占めるものーが、東洋におけるよりも、はるかに不
幸な目にあっているのだ、バイロン卿ですら言っているではないか(トーマス・ムーア編『書簡
および日記』第二巻第三九九ページ)。「古代ギリシア人の間における婦人たちの状態を考えてみ
るとー全く的を得たものであった。騎士および封建時代の野蛮な遺風たる現今の状態はー人
工的であり不自然でもある。女たちは家事に心を配らなければならないーそして、よい食物を
とり、よい衣服をまとう必要はある。しかし、社交のうちにまじらなくともよかろう。なお、
宗教については、充分に教育されなければならない。−けれども詩や政治の書を読む必要はな
くーただ、信心のことや料理に関する本を読んでおれば、よいのだ。音楽をしたり、絵を描い
、ダンスをしたりー時には、少しばかり庭いじりや畑仕事などをやるのも、よかろう。わ
たしは、エピルス〔ギリシアの西部、アルバニアとの国境にまたがる地方〕において、女たちが
道路の修繕をやり立派な成功を収めているのを見たことがある。それゆえ、枯れ草を作ったり乳
を絞ったりするのと同様に、このような仕事を、女たちにやらせてはならぬという理由が、果た
してあるのであろうか?」と。

12 :
一夫一婦制が布かれている、わたしたちのヨーロッパ地区において、『結婚する』ということは、
男性が自己の権利を半減し、かつ、自己の義務を倍化するという意味になる。考えてみると、法
律が女性に男性と同等の権利を与えたときに、当然、法律は、また、女性に対して、男性の有っ
ているような理性をも与えなければならなかったのであろう。ところで、法律が女性に対して承
認する権利と名誉とが、女性の自然的な関係を、より多く超えて高められれば高められるほど、
実際に、この特典にあずかるようになる女性の数は、それだけますます減っていく。そして、法
律は、これら少数者に、その度を超えて与えたのと同僚の自然的な権利を、それ以外のすべての
女たちから奪いとるのだ。なぜなら、一夫一婦制の機構と、それに付随する婚姻法とが、何ら斟
酌するところなく、一般的に、女生徒男性とを全く同等の価値あるものと認めてしまい、これに
もとづいて、女性に賦与されたー反自然的な、しかも女だけに利益のあるー地位は、聡明にして
注意深い男性をして、かように大きな犠牲を払って、しかも、かように不平等な契約を結ぶこと
を、はなはだしばしば躊躇逡巡せしめるからである。それゆえ、一夫多妻制の諸民族にあっ
てはすべての婦人が扶養されているのに、一夫一婦制の民族においては、結婚している婦人の
数は、ほんのわずかばかりに限られ、扶養者を有たぬ婦人が、無数に、取り残されていて、その
上流社会に属するものは、無用の老嬢として坐食しているが、下層社会にあるものは、不適当な
重労働を課されるか、さもなければ、売春婦となるのだ。

13 :
 これらの売春婦たちは、全く喜びも
なく名誉もない生活を送っているとはいえ、このような状況のもとでは、男性を満足させるため
に必要にして欠くことのできないものであるし、それゆえにこそ、すでに夫をもっている、或い
は夫をもつ希望を抱くことを赦されているー幸運に恵まれたー女性を、男性の誘惑に対して保護
するという特殊な目的を有つ、一つの公認された階級として、現れてきたのである。ロンドン
だけでもこの種の婦人は、八万人のお起きにのぼるという。これらの婦人は、一夫一婦制の機構
によって、最も恐ろしい不幸に落とされたものにほかならず、実際、これらの婦人こそ、一夫一
婦制の祭壇に捧げられた人身御供でなくて何であろうか? このような極度に悪い境遇に陥らせ
られた女たちすべては、虚飾と尊大とをかねそなえたヨーロッパの「淑女」に対する避けがた
い埋め合わせ勘定である。だから、女性を全体として見るならば、一夫多妻制のほうが、実際に
は幸福をもたらすことになる。他の麺からいっても、夫は、その妻を慢性病にかかっているとか、
いつまでも子を産まないとか、或いは、だんだんと彼の妻として老いぼれていく場合に、第二の
妻を迎えてはならぬということは、理性的に看過するわけにはいかない。モルモン宗が、あのよ
うに多数の帰依者を獲得したのは、まさしく、反自然的な一夫一婦制の撤廃によるものらしい。

14 :
そのうえ、女に不自然な権利を与えたことは、ひいては、これに不自然な義務を負わせることと
なって、この義務にそむくことが、反対に、女たちを不幸にしているのだ。たいていの男は、地
位や財産に対する顧慮から、結婚をー何らかの輝かしい条件が附帯しない場合にはー不得策なこ
とと思うであろう。そこで、男は、みずからの選択によって、女とやがて生まれる子供たちとの
運命を確保するために、結婚以外の条件のもとで、女を得ようと望むようになる。ところが、こ
の条件は、男にとって、たとえ、そのように公正かつ理性的であり、また、事態に適合している
としても、女としては、結婚によってのみ与えられる不相応な権利を放擲することになるし、や
はり、結婚は市民的社会の基底をなすものであるのだから、この条件に同意するならば、その結
果、或る程度まで自分の名誉を失い、悲しい日陰の生活を送らねばならぬことになる。というの
も、所詮は、人間の天性が、他人の意志のうえに、それに対し全くふさわしからぬ価値を置くと
いうならわしを有っているからである。しかるに、女が、そのような条件に同意しないときには、
やむなく自分の気にいらない男と結婚するか、それとも、老嬢として味気ない一生を過ごすか、
いずれかの危険にさらされる、何と言っても、女性の結婚適齢期は、はなはだしく短いのだから。

15 :
「妾をかかえることは、すべての教養ある民族にあって、また、ルーテル宗教改革にいたる
までは、あらゆる時代において、許されていた、というよりむしろ、ある程度まで法律的にさえ
是認されていた制度で、いかなる不名誉も伴っていなかったのに、この制度が、このような
段階から突き落とされたのは、ひとえに、ルーテルの宗教改革のためであり、しかも、この宗教
改革は、この制度を撤廃することを踏み台として、むしろ、僧侶の妻帯を義証しようとする一つ
の手がかりに、目をつけて行なわれたのである。ことここにいたっては、カトリック側でも、も
ちろん、この点について、おくれをとるわけにはいかなかった」−
 一夫多妻制の是非に関しては、議論する必要などは全くない、これは、いたるところに存在す
る事実として、考えるべきである。ただ、問題は、これをいかに調整するかというにとどまる。
いったい、真の一夫一婦主義者は、どこにいるのか? わたしたちは、すべて、少なくとも或る
期間において、たいていは、しかも、常に、一夫多妻の生活をしているのだ。従って、男にはそ
れぞれ、多くの女が必要なのだから、多くの女を世話するのは、男の自由であり、むしろ、義務
であるというのが、何よりも当然な話である。そうなると、女も、従属的存在者として、その正
当かつ自然的な立場に戻れるし、ヨーロッパ文明とキリスト教=ゲルマン的愚鈍の化け物であり
滑稽にも尊敬と崇拝とを要求する「淑女」は、この世界から姿を消して、ただ、あたりまえの女
たちがいることとなる。そのうえ、今、ヨーロッパに充満している不幸な女は、もはや、一人も
いなくなる。−モルモン宗の連中は、正しいのだ。

16 :
ヒンドスタン(インド中央平原地方)では、あらゆる場合に、婦人の独立は認められていない。
マヌ法典第五章一四八節に従って、婦人はだれでも、父か夫か兄弟または息子の監督を受けて
いる。寡婦が亡夫の屍とともに自焚するのは、もちろん、厭うべきことではあるが、夫が子供た
ちのためにとみずから慰めながら、一年の間、休む暇なく働いて獲得した財産を、夫の死後、寡
婦がその情夫たちとともに蕩尽するのも、やはり、忌むべきことではないか。「幸福な人々は、
中庸を保つ」−
 始源的な母性愛は、動物におけると同様に、人間にあっても、純粋に本能的なものであり、従
って、子供たちを肉体的に援助する必要がなくなるとともに、消失する。それから後は、始源的
な母性愛に代わって、週刊と理性とにもとづく母の愛が現れなければならぬはずであるが、往
々にして、ことに、母が父を愛していなかった場合には、それが現れてこない。父のその子供
に対する愛は、母の愛とは種類の異なるもので、それよりもはるかに持久的であり、子供た
ちのうちに、自分に特有の最も深い自我を再認識することにもとづく、つまり、形而上学的な起
源を有つ。−

17 :
男たちが、長い間の勤労と大いなる辛苦をかさねて、やっと築き上げた財産も、女どもの手に渡
ると、その無知のために、またたく間に蕩尽されたり、また、それほどではなくとも、濫費され
るのは、全く見るにたえないーしかも、ざらに見られるーことである。こんな事態は、女子の相
続権を制限することによって、予防されなければならない。それには、女子に、寡婦と娘とを問
わず、男系の後継者が皆無でないかぎり、不動産や資本を相続させることなく、原則として、た
だ、一生涯の間、抵当権の上で保証される利子のみ相続させるのが、最良の制度というものであ
ろうと、わたしには思われる。そうなると、財産の取得者は、男子であって、女子ではなく、従
って、女子には、財産を管理する資格が与えられないと同時に、これを制約なしに所有する権利
も認められず、女子は、けっして、相続した財産そのもの、すなわち資本金・土地・建物などを、
自由に処分してはならない、つまり、つねに、後見人を必要とする、従って、当然、寡婦は、い
かなる場合にも、その子供たちの後見役となってはならないということにもなる。

18 :
女たちの虚栄心は、たとえ、それが男たちの虚栄心より大きくない場合でも、全く物質的な事
物、すなわち、自分を美しく飾ることとか、ついでは、浮華・贅沢、壮麗といった面に熱中する
悪癖があり、従って、女たちの最も好むところは、まさしく、社交ということである。この虚栄
心は、特に、その理性の貧弱なためでもあるが、女たちを浪費に傾かせる。だから、古代人は、
早くも「女たちは、たいてい、生まれながらにして、むだづかいをする」と言っている。(エス・
ブルンク著『ギリシア詩の格言集』第百十五節)。これに反して、男たちの虚栄心は、おおむね、
非物質的な長所ーたとえば、悟性とか教育とか勇気などのようなことーに向けられる。ーアリ
ストテレスは、この『政治学』第二巻第九節で、スパルタでは、女たちが遺産を相続したり持参
金を携える権利を有ち、そのほかにも広範囲にわたって束縛されずにいたほど、女に対して、あま
りにも多くの自由が許されていたので、そのことから、スパルタの男たちにとって、どれほど重
大な不利益が発生し成長したか、また、そのことが、スパルタの没落に、どれほど深い関係を有
っていたかということを、詳しく説明している。−フランスにおいても、ルイ十三世以来、絶
えず増大してきた婦人の勢力が、宮廷と政府とを徐々に腐敗せしめ、ひいては、第一革命を惹き
起こし、その結果、かずかずの政変が続発したことについて、責を負うべきではあるまいか?
いずれにしても、ヨーロッパに淑女というものが存在するということにつけて、その最も鮮明な
証徴を現している女性の誤った地位は、社会状態の根本的な欠陥であり、この欠陥は、その中
心から、すべての部分へと、その不利益な影響をおし及ぼすにちがいない。
 女が、その天性から従順であるように定められているということは、そのひとりびとりが、完
全な独立という、女の天性にとって自然にそむくような地位におかれている場合に、間もなく、その
地位を誘導し、かつ支配してもらえるような一人の男に結びつくということによって、はっきり
と認められる。何といっても、女には主人が必要なのである。その際、女が若ければ、主人は、
すなわち、愛人であり、年老いているならば、それが懺悔聴聞僧ということになる。

19 :
女にサワタ事ないヤシの机上の空論( ´_ゝ`)
女について論議するより向かいあって喋ってみるがヨロシ
百聞は一見にしかずらしいおっおっ

20 :
ショーペンハウアーは一生、独身を通したらしいけど
童貞だったのかな?

21 :
やりまくっていた、事実である。


22 :
ショーペンハウアーには、メドンという、オペラ歌手の愛人がいた。
つか、もてる。

23 :
誰か三行で頼む

24 :
目前に御馳走いっぱい
自殺を肯定賛美
笑い話の種

25 :
八月は夢花火

26 :
女はクズって事か

27 :
哲学板から来ました
ショーペンハウアー 2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1174834660/609
609 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2008/08/27(水) 00:20:28 0
女性板にスレ立てといたぞ
 ショーペンハウエル 「女について」 
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/wom/1219762723/l50

28 :
>>24
彼への知識が
カミュのシーシュポスの神話限定なんだね。

29 :
若い、強壮な、美しい男性は、人類の繁殖のために力を尽くすように、自然から命ぜられてい
るのである。こうして、種族は退化することを免れる。これは、自然の牢固たる意思であって、
この意思の顕現が、すなわち、女性の情熱なのだ。この法則は、古いことでも、その力の強いこ
とでも、他のあらゆる法則を凌駕する。それゆえ、みずからの権利と興味とを、この法則に逆ら
うものに置く人は、必ず、わざわいを受ける。その人が何を言おうと、また、何をなそうと、彼
の権利と興味とは、最初の大切な機縁に際して、たちまち、容赦なく粉砕されるであろう。なぜ
なら、婦人のひそかな、言い表されない、というよりもむしろ自覚されていない、とはいえ、
生まれつきの道徳は、「わたしたちは、個体であるわたしたちのためにわずかばかり尽くしてく
れることによって、種族に対する権利を獲得したように思い誤っている人たちを、裏切る権利を
有っているのです。種族の組成は、従って、その幸福も、わたしたちから生まれる次の世代を媒
介として、わたしたちの手の中に置かれてあるのです。わたしたちは、それを、良心的に管理し
ていきましょう」ということなのだから。しかし、女性は、その最高の原則を、けっして、抽象
的に意識しているのではなく、単に具体的に意識しているばかりであり、だから、この原則に
対して、機会の来たときに、みずから行動を採ることによって発表するほかには、何ら表現手
段も有っていない。

30 :
しかも、この行動を採る際に、両親は、女性に対して、たいていの場合、
わたしたちの想像するよりも、はるかに平静であることを許すのだ。これは、思うに、女性は、
そのっ心を全くうかがい知ることの出来ない奥底において、個体に対する自分の義務をそこないな
がらも、種族に対する義務が一層よく果たされていたということ、それに、種族の権利は個体の
権利よりも無限に大きいことを、自覚しているからである。−このことについては、わたしの
主著『意思と表象としての世界』第二巻第四十四節で、さらに詳しく説明しておいたから、参照
されたい。
究極において、女性は、全く、ただ種族の繁殖のために存在するものであり、女性の天分は、
このことにあってのみ、展開するのであるから、どっちみち、女性は、個体としてよりも、
種族としてより多く生きているのだし、女性の心の中では、種族に関する出来事のほうが、個人
的な事件よりも、はるかにまじめに考えられる。これが、女性の存在ならびに行為のすべてに、
或る軽薄さと、一般に、男性の方針とは根底から異なる方針とを与えるのだ。そして、このよう
な軽薄さと、また、方針の違いなどから、結婚生活においてしばしば見受けられる、否ほとんど普
通のことになっている不和が発生するのである。

31 :
男はもともと恋愛において気が変わりやすい傾向があるが、女は一般に気が変わらない。男の愛は想いを遂げた瞬間から
はっきりと減退する。そうすると彼には他の女であればほとんど誰でもが、すでに今わがものにしている女より、
ずーっと魅力的に見える。彼は変化を切望するからである。これに対して、女の愛はその瞬間から高まる。これは
自然が種族を維持し、できるだけ強力にこれを増加させる事をめざしていることの結果である。つまり男は彼にそれ相当の
数の女があてがわれるならば、一年に百人以上の子供でもつくることができる。ところが女は、いかに多くの男と交わっても
一年に一人の子供しか産む事が出来ない。それゆえ男はつねに他の女に目を移すのである。これに反して女はほとんど
ただ一人の男に執着する。というのは自然は女が本能的にごくふつうに、生まれてくるこの養育者となり、保護者となる男を
つかんで離さぬようしむけるからである。したがって夫婦間の貞節は男には人為的であり、女にとっては自然である。
それゆえ女の姦通は、男性の姦通より遥かに許しがたい。

32 :
この『女について』を発表して以来、ショーペンハウエルは、「女性の敵」をもって目されてい
るといわれる。しかし、ショーペンハウエルによれば、「女性の敵」は、あくまでも女性そのもの
である。つまり、「商売敵の憎しみ・嫉視は、男にあっては、同じ商売に従事している者同士の間
のみに限られているが、女は、この感情を、他のすべての女性に対していだく。というのは、女た
ちは皆、たった一つの商売、種族維持のために男性を獲得するという、たった一つの同じ商売に
従事しているのだから」したがって、ショーペンハウエルにとって、自分に向けられたこの「女
性の敵」という言葉は、おそらく、何の意味をもなさないであろう。しかし、別な意味で、ショ
ーペンハウエルは合点するかもしれない。自分は全く公平に書いたつもりなのだが、考えてみれ
ば、公平ということくらい、女から嫌われるものはなかったんだっけ、女は、自分に有利な不公
平しか好まない、とくに、あの「淑女」という種族は、永久に甘やかされていたいらしく、いち
ど、誰かが「美しい性」なんかと下手なお世辞を使ったものだから、すっかり思い上がり増長し
てしまって、それからというものは、単に、そんなお世辞を繰り返しただけではもの足りず、さ
らにちやほやとさまざまなお世辞をかせねなければならなくなってしまった(しかも、お世辞と
いうやつは、いくら美辞麗句を並び立てても、満足させるわけにはいかないものだし、相手が女
であってみれば、それは、なおさらのことなんだ)。女にかぎったことじゃないが、とくに、女は、
自分のことについて、ちょっぴりでもあからさまに素直に言われると、すぐさま、逆上してしま
うから厄介だ。わたしだって、女の美点は、それ相応に褒めておいたつもりなんだがな、と。

33 :
そして、この『女について』を読んだ「淑女」たちの切歯扼腕ぶりを、無邪気に哄笑するだろう。
彼は真実を語っただけだ。そして、その結果として、「淑女」たちを悩ませたかもしれないが、い
ったい、何ぴとをも悩ませない哲学とは、そもそも何ものだろう。彼には、女たちを正しく位置
づけたという功績こそあれ、けっして、無益に人を傷つけたことはないのである。
 けれども、一方、「淑女」たちが怒るのは、無理も無い。ほかならぬ「淑女」たちこそ、全女性
のなかでもとくに、ショーペンハウエルの手きびしい槍玉に挙げられているのだから。通例、「淑
女」と称されている部類の女たちは、ショーペンハウエルが、女の長所として数え上げているも
ののすべてを欠き、欠点・短所として数え上げているもののすべてを、そなえているのだし、ま
た、ふだんからご機嫌とりに慣れ、それを傲然と受け入れているのが常なのだから、このように
あからさまな言説を聞けば、ことさらに色を作すのも、まさに当然予期されうる反応であるともい
えよう。かくして、「淑女」たちの怒りは、みずからショーペンハウエルの、諷刺の矢の痛さ
に正確に比例して増大する。しかし、ここで悲鳴をあげたり、騒いだりするのは、けっして得策
ではない。怒れば怒るほど、ショーペンハウエルの言説の真実性を強く証拠だてることになるの
だから。そこで、この場合「淑女」たちは、いうまでもなく賢明に振舞い、こうなったら、味方
は多ければ多いほどよいというわけで、日ごろ蔑視していた一般女性をも仲間に引き入れ、「自分
たち……淑女の敵」というかわりに、漠然と、「女性の敵」という概括的な語を、婉曲に用いるこ
とによって、世人の同情を最大限に喚起し、ショーペンハウエルの主張を全面的に否定し去ろう
と試みた次第であろう。

34 :
ところで、これは、世の男性に与えられたーつまり男の読むー随想である。この文章に用いら
れた「わたしたち」という代名詞は、「男性」と同義語であり、ここに現れている「女」は、あ
くまでも、男性の眼から見た「女」なのである。これは、わかりきった話であはるが、しかし、男
の眼から見た「女」を、これほどにまで、まざまざと描き出したものは、ちょっと他に類がない。
これは、すばらしいエスセエの傑作ともいうべく、まったく過不足なく「女」を観ている。男は
みな、この書によって、みずからの偶像「女」に対する認識を改めるべきである。とくに、青年
は。そのうえで、愛するなら、愛したらよい(その結果、恋ができなくなったというなら、そん
な恋なぞ、およそ、なにものでもなかったのであろう)。その結果、女の美点には正当な讃美をも
って、女の欠点には正当な批判をもって、そして万事あだな望みは捨てて女を愛することができ、
女にのぞむことができたら、それこそ公平な態度というべきである。この随想は、その公平な態
度のあり方を実によく教えてくれている。
 もっとも、ショーペンハウエルといえども、すべてにわたって、公平であるとはいえない。彼
は一生、何不自由のない富裕な生活のうちに過ごした。そこからくる盲点が、やはり、見うけら
れるし、そのために推論の誤っているところがある。それは、「一夫多妻」を当然の帰結として
いるくだりだ。彼は、「一夫一婦」の弊害として、無数の売笑婦と老嬢との存在を挙げている。し
かし、トルストイは、「すべての男がソロモンのように千人の妻と宮殿を持つわけにはいかないこ
と、一人の男が千人の妻を持つ場合には、九百九十九人の男が妻を持たずに終わらなければなら
ないことを忘れるのは、その人間の徳性が麻痺しているからだ」と、『懺悔』のなかで、手きびし
く言っている。

35 :
天才だとは思っていたがここまでとは・・・

36 :
女は昔から何も変わらず愚かなんだな

37 :
女は女である

38 :
      ハ,,ハ
     ( ゚ω゚ )  ジャイ子 ジャイ子 ジャイ子ったらジャイ子♪
    /    \
  ((⊂  )   ノ\つ))
     (_⌒ヽ
      ヽ ヘ }
 ε≡Ξ ノノ `J

39 :
沙耶の歌並みの良ゲー教えてください

40 :
え?

41 :
保守

42 :
シュシュ

43 :
 われわれの選択と好みに影響する最も重要な要素は年齢である。大体においてこの年齢は生
理が始まってから終わるまでの期間と考えてよい。しかし十八歳から二十八歳までの期間が最も
よい。これに反してこの年齢以外の場合は、どんな女もわれわれには魅力的ではない。年老いた、
つまり生理の終わった女はわれわれに嫌悪の情をもよおさせるだけである。美しくなくても若
い女はつねになお魅力を有する。しかし美しくても若さがなければ魅力はない。この場合、わ
れわれを無意識に導いている意図が生殖一般の可能性であることは明らかである。それゆえす
べての個体は、生殖あるいは受胎可能な時期から遠ざかるに従って異性に対する魅力を失う。
 それゆえ女がひどく痩せている場合はわれわれにはっきりと拒絶反応を起こさせる。豊満な
女の乳房が男たちに非常に魅力的であるのは、それが女の生殖機能と直接関係があり、新生児
に豊満な栄養を約束するためである。しかしあまりにも肥満しすぎた女はわれわれに嫌悪感を
もたらす。その理由はこのような体質は子宮の萎縮を、つまり不妊を意味するからである。こ
のことは頭でわからなくても本能でわかる。最後に問題となるのが顔の美しさである。ここで
もまた特に骨相が大切である。この点美しい鼻が主として注目され、短く上を向いた団子鼻で
はすべてぶちこわしである。花が少々上向きか下向きかで生涯の幸福を決められ、涙をのんだ
娘たちの数ははかりしれない。

44 :
               ┌┐                                ●●●
    人          ││                              ●\  ●\
   ノ二\  ナ ゝゝ   V                 ●●●        ●\     ●\
     /   / 乙 つ  O               ●\   ●\      ●\       ●\
                  ●●●        ●\     ●\    ●\       ●\
                 ●\   ●\      ●\      ●\    ●\        ●\
       ●●\     ●\     ●\    ●\       ●\   ●\        ●\
        ●\    ●\      ●\    ●\       ●\    ●\       ●\
        ●\    ●\      ●\    ●\      ●\    ●\     ●\
       ●\    ●\       ●\    ●\      ●\      ●\    ●\
       ●\    ●\      ●\    ●\     ●\        ●●● \
      ●\     ●\      ●\      ●\   ●\           \\\
      ●\     ●\     ●\        ●●● \
     ●\      ●\   ●\           \\\
     ●\        ●●● \                              ┌┐ ┌┐
    ●\          \\\      ┣━┳┃┃      ┃          ││ ││
   ●●●\                      ┃   ┃┃┃ ┣┓ ━╋ ━╋  V   V
   \\\\                     ┛     ━┛ ┃   ┏┫ ┏┫  O  O


45 :
これ男社会に女は邪魔って意味だよね?
女が社会を作れば、今度は
性質の違う男が劣ってるって話になるだけじゃないの?
片方を規制すれば、片方がうまく行くし、
その逆も然りじゃね?
喧嘩してねーでどうすればうまく行くか考えるのが一番だべw

46 :
男性と女性 女性がすべて
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/wom/1246193808/l50

47 :
秋生まれの女性は穏やかで付き合いやすい。

48 :
ショーペンハウエル最強伝説
ペシミストの神

49 :
愛読書だな

50 :
パンティの裏はドブ

51 :
え?

52 :
似てるよね

53 :
はい

54 :
ハゲ

55 :
女はくず

56 :
保守

57 :
>>1

58 :
保守

59 :
ブラブラしているオッサンの教育論にウンザリ。

60 :
未だこれ以上の女性論を聞いたことがない

61 :
ニーチェの「ツァラツーストラ」に女について述べた箇所があるけど、
表現変えただけでショーペンハウエルの「女について」のコピーだね。

62 :
鞭持って行けの箇所か?

63 :
>>43
なんか団塊の世代のオヤジ(セクハラ日常)そのものだなw

64 :
>>61
ニーチェは若い頃ショーペンハウエルに心酔してたからね
たしか「反時代的考察」あたりまでかな
それ以降はショーペンハウエルを批判するようになる

65 :
ショーペンハウエルはやはり偉大な哲学者だ。
なんでニーチェの方が有名なのかねえ。

66 :
>>65
ニーチェは「ルサンチマン」「超人」「畜群」などの分かりやすいキャッチコピーを
好んで用いたからだと思う。ヒトラーも都合の良い部分だけ引用してたしね。
ショーペンハウエルの哲学はかなり難解な部分も多いからね。随想録は読みやすいけど。
ちなみにヒトラーは「わが闘争」の中でショーペンハウエルを「人類の最も偉大な精神の
所有者の一人」と形容してる。

67 :
>>19
そういう決め付けしかできないから哲学者に批判されるんだろうね。

68 :
保守

69 :
あげ

70 :
長文うざいよー。
自分(男性側)に都合のいいことばかり時代錯誤も甚だしいね。
戦後60年以上経過して君のお頭は100年前の儘ですね。
直ぐ女性に逃げられますよ。

71 :
この本を出版したのでショーペンハウエルは全世界の女性を敵に回しました。
「意志と表層との世界」が代表作です。
時代によって価値感は変わるものですからね。
ただ人間は変わらないですね。
時代に適応出来るか否かが大事なことですよね。

72 :
私ら女は馬鹿だから長文読めないよー

73 :


74 :
>>70
ショーペンハウエルが死んだのは1860年なんだが。
今年は没後150周年だな。

75 :
>>72
ショーペンハウアー、性格悪くて講義に2人しかこなかったほどだし。
人格歪んでんだよね。

76 :
進化論が発表される少し前か。

77 :
結婚した哲学者は喜劇である byニーチェ

78 :
>>75
同じ時間に満員だったヘーゲルのほうがずっと人格歪んでると思うのは俺だけか?

79 :
>>75
この「随想録」が発表された頃には、新聞に取り上げられて時の人だったんだが。
「随想録」が世間に受けたのは、厭世哲学の範疇から少し外れたからだろう。

80 :
>>79
筒井康隆も愛読してたそうで>随想録
ソースは筒井氏の著書『漂流 本から本へ』(朝日新聞社)のP74〜76

81 :
ロムることもせずに、唐突に自分の言いたい事を言う。
ゆとりだな。

82 :

>女の姿態を一瞥すれば、すぐさま、わかることだが、女は、精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするのには、生まれつき、ふさわしくないのである。

乱暴なくくりで反発を買うことを承知で“女性管理職”について書きたい。
(筆者は女性)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090128/184138/

83 :
>背の低い、肩幅の狭い、臀の大きな、足の短い種族を、美しいものと呼びうるのは、ただ、性欲のために呆けている
男たちの知性だけである。
なぜこれほどの名言が世間に周知されないのだろうか…。

84 :
>>83
口では何とでも言える。
しかし我々の本能はそれを拒絶するのだ。

85 :
自分の周りにいる女性観を叙述しただけ 
自分の男性的な象徴を強調したい背景も見えうる
男性にも男性ホルモン値が低く女性的な方もいますし
その逆もおます。
哲学は空論
主観による言葉の遊び
古い
根拠のない文化が流行した時代
医学が昔は宗教的であったのと同じ


86 :
男性は女性と比べ、生物学的にも全てにおいて能力が上。
だからといって男は女性に優しくする必要はない。
女性に優しい女性優遇国家は成長しないどころか衰退する。

87 :
良スレage

88 :
つーか日本ほど女が権力持ってる国はないんだけどね。
日本の女は男の操縦のスペシャリストだから。

89 :

   
       痴漢冤罪の参考資料に抜粋してほしいな?


90 :
>女たちは、〜中略〜 どの点から見ても、男性の後ろに立つ第二級の性である。それゆえ、男
性は女性の弱さをいたわってやらねばならぬ、とはいえ、女性に対して尊敬を払うのは、度はず
れに滑稽なことであるし、そんなことをすると、女性みずからが男性を見くだすようになってし
まう。

秀逸だなw

91 :
>>88
男が女を敬いすぎただけ

92 :
しにたい

93 :
悲劇のヒロインを演じて自己陶酔してるだけでほんとはしにたいなんて少しも思ってない

94 :
>音楽に対しても、詩作に対しても、
>さらに、造形美術に対しても、女たちは、事実上また本当に、感受性や理解を有ってはいない。もしも、
>そのようなもので女たちが感激したふりをするなら、それは女たちが他人に迎合するための単なる模倣に過ぎないのだ。
>このことは、女たちには或る事物について純客観的な関心を有つ能力がないのによるのだが、わたしの考えるところでは、
>その根拠は、次のとおりである。男性は、すべての場合に、物ごとを、直接にー或いは理解すること或いは克服すること
>によってー支配しようと努める。しかし、女性は、常にいたるところで、単に間接的にーすなわち男性を仲介者としてー
>支配するように定められている、ただし、妻は、ただ、夫だけを直接に支配することができるのだ。それゆえ、女性の天性の
>うちにあるのは、すべての事物を、ただ夫を得る手段とみなすことだけであり、従って、何かしら或る他の事物に対する
>女たちの関心は、常に、ただの仮装か単なる手管、すなわち、媚態やら模倣やらとなって現れるものに過ぎない。それで、
>ルソーも、すでに、言っている。「婦人は、一般に、いかなる芸術をも愛してはおらず、また、理解してもいないし、
>そのうえ、何らの天才も有っていない」と(『ダランベールへの書簡』第二十項)

まったくの正論だと思う。
同じピアノ曲でも男が弾くと芸術的で心地良いのに、女が弾くと途端に怨念と負のオーラの詰まった
雑音と化して心が落ち着かない。芸術というのは世界の描写であり、客観性が求められるのに、
女は主観でしか表現することができない。女友達が言っていたが、ある男が弾くピアノ曲が美しい
のではなく、ピアノを弾く男の姿が美しいのだと。この発言を聞いても芸術を語る資格などないと思った。

95 :
スポーツ観戦でもその選手のプレーがいいかどうかではなく
その選手の顔がどうかしか見てないのが大半だしな

96 :
もう少し読みやすく書けないものかね。
原文が這いつくばってるのか、訳が這いつくばっているのか、どっちだ?

97 :
この程度を読みづらいとか言ってる奴は、明治文学を読んだことないだろ。

98 :
ネットの文章は行間が詰まっているから読みにくいのである。それだけ。
本で読めば平易な文章である。

99 :
ショーペンハウエルの文章は平易な美文として戦前のドイツ語の教科書に
採用されていたぞ。いかに戦後教育で日本人がだめになったかがわかるな。

100 :
明治の頃は武士が教師だった。武士がインテリ、知識階層だったから。
戦後はどんな凡人でも先生になれる。これで日本人が良くなるわけがない。
われわれの世代は親や先生と親しく口をきいたことはない。
ニューファミリーと呼ばれる親子が出現してきたころから、
子供と親、生徒と先生が友達のようになってしまった。
その頃から、ああ日本はもうダメだなと思っていた。

101 :
ショーペンハウアーもしかし四十歳の頃に十七歳くらいの少女に求婚するという愚行を演じている。
世俗の凡人と同じような考えも少しはあったようだ。そこがまた人間味があると言えば言えるのだが。

102 :
恋愛とは個体の意思ではなく、種族の意思の顕現であり、
それゆえ個体の幸福を損なうことも往々にしてあると彼は言ってる。
恋愛とは個人の幸福のためにあるのではなく、次の世代の幸福のために
あるのであって、生きる意欲によって仕掛けれてた巧みな罠であると結論づけた。
彼は死の間際に親しい友人に「死によって恋愛騒ぎにけりがついて嬉しい」と
語っている。彼が亡くなった部屋には黄金の仏像があり、「葬儀には仏教の経を唱えて
ほしいと」いう遺言を遺していた。

103 :
ショーペンハウアーの哲学は、哲学としてはまちがいである、残念だが。

104 :
せめて根拠を書き込んでくれ、お前の願望にしか見えない

105 :
今は書けないが、たとえばショーペンハウアー『意志と表象としての世界』のスレの156を読んでください。
ショーペンハウアーの哲学では道徳の存在理由が説明できない。

106 :
けだし、って何?毛出し?

107 :
蓋しのことかな? 国語辞典を引けば分かるよ。蓋然性の蓋だね。

108 :
うわべだけ飾っても、とりつくろっても、人間の「本性」は変わらない。自分の「始末」ができない女は「醜い」ということに気付いていない。そういう女が増えている。まったく可愛そうです。
したい放題だった女たちは、社会人になって母になって、同じようなことをするのでしょうか。きっとするのだと思います。会社では、仕事のミスは、同僚に尻拭いさせ、
子どもが言うことを聞かなければ、延々と子どもを叱り。自分の始末ができない母が、夫や子どもに物申すなんて、悪い冗談ですよね。
http://www.excite.co.jp/News/laurier/column/E1320655941717.html

109 :
>>71
「表象」ぐらいただしく打ってくれよ。
表象=Vorstellungってことぐらい知ってるでしょ?

110 :
>>106はおつむが残念すぎる・・・・

111 :
 ∞∞∞   女性犯罪   ∞∞∞ 
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/wom/1323485113/

112 :
保守

113 :
このスレ使って議論してる
http://alfalfalfa.com/archives/1979410.html

114 :
あのー、今は平成。大昔の事かたられてもなー。ダリー。

115 :
雌雄の生物学的な差異は昔も今も変わらんと思うけどね。
ショーペンハウエルはその本質を鋭く見抜いている。
時代精神とか抜かすヤツはヘーゲル主義者を装ったマルクス主義者。

116 :
この本を、ハウアーの思想を全国の無能日本女に配布したい
いかにお前らは劣等種族かを理解させてやらなければならぬ
正しすぎて思わず拍手喝采、再版しないかね、この本……

117 :
女の姿態を一瞥すれば、すぐさま、わかることだが、女は、精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするのには、
生まれつき、ふさわしくないのである。女は、人生の責任、いわば、負債を、行為によって償うのではなく、
受苦によって、つまり、分娩の苦しみとか、子供の世話とか、夫に対する服従ー夫に対して、妻は、常に、
辛抱強い快活な伴侶でなければならないーなどによって、償うのである。極度に激しい苦悩とか歓喜とか力わざ
などは女性には向いていない。むしろ、その生活は、男性のそれよりも、静かで、平穏に過ごされなければならない。
とはいえ、本質的に、より幸福だとか、また、より不幸だとか、いうわけではないのである。
わたしたちがごく幼い時分、わたしたちを育て、ものを教えこむのに、女が全く適役であるのは、
女というものが、みずからも、子供っぽく愚かしくて、そのうえ、身近の物ごとだけを見ている、
いわば、一生、大きな子供であり、要するに、子供と、真の人間である成年男子とのちょうど中間
に位する段階に属するからである。まあ、一日じゅう、子供と一生になって遊んだり踊ったり歌ったり
している少女の様子をよく観てごらんなさい。そして、考えても見たまえ、一人前のれっきとした男が、
その少女の代役をつとめることになったとしたら、どんなに好意を持って努力してみたところで、
果たして、何が出来ることかを。

118 :
男は能力に長けているが
生命維持に関係ない事を突き詰め
政治的にも文化的にも経済的にも
枝葉を追っていくところが
女から見て無駄なんだろう
女は将来自分の生殖に関わらないどんな重要な仕事をこなす男よりも
自分を守るために常に勝ち続ける男に種を植え付けさせる。
自分の子宮が世界の中心なのだ。
実際男自身も成功した枝葉にたどり着けば英雄
外れれば用無し生物だ
オスが人口が多くなるのもそんな仕組みの帳尻あわせ

119 :
ショーンパウエルは仕組みは分かってるが女に理解させる気は無かったんだろう
きっと女に心底ウンザリしてイライラしてたんだw

120 :
ハウエルごめんパウエルって・・・w

121 :
>>119
どうかいても女が理解する事は無理
おばかさんだからwww

122 :
女は馬鹿だ
馬鹿でも生きていけるという事はそれだけ身分がいいという事
結局男は女の奴隷
男らしさとは奴隷らしさ

123 :
女性板に書き込んでしまう男は馬鹿じゃないとでも言うのだろうか

124 :
「恋愛とは生きる意欲によって仕掛けられた巧みな罠なのだ」
これ以上の名言はない。
ショーペンハワーは偉大な哲学者だ。プラトンを超えた。

125 :
ショーペンハワーよ、永遠なれ!

126 :
この地上を過ぎて行った最も偉大な、夢の破壊者…。醒めた享楽者たる彼は、信仰、希望、詩情、空想
をくつがえし、憧憬を打ち砕き、霊魂に対する信頼に荒廃をもたらし、愛を殺し、女性崇拝の理想をうち毀し、
心情への幻想をうち破り、かつてなされた最も巨大な懐疑論の労作を完成した。彼はすべてを嘲笑で貫き通
し、すべてを空虚にした。
モーパッサンはショーペンハワーを『ある死者の傍らで』でこう評した。

127 :
骨相学
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1328085527/

128 :
>>116
>再版しないかね、この本……
世界最悪の女尊主義国家・日本では無理。「嫌韓流」は出版できても、「女について」は出版できない。
この国の最大のタブーは在日でも同和でもなく、フェミニズム。これを批判する者は社会的に抹殺される。
>>126
かっちょえー

129 :
Arthur Schopenhauer
http://toolserver.org/~apper/pd/person/Arthur_Schopenhauer

130 :
http://panse.livedoor.biz/archives/52032359.html
でも女性嫌悪者が女に人気があったりするらしいぞ。三島由紀夫然り。

131 :
求めるから逃げられる。拒絶すればおびき出せる。

132 :
西尾幹二先生の翻訳にはお世話になったな
意志と表象としての世界

133 :
わたしは、一もとの野の花を見つけ、その美しさ、あらゆる部分におけるその完璧さに驚嘆し
て、「ああ、この美しさと完璧さとは、この花と、この花と同じ種類の幾千の花とのうちにあるだ
けで、すべてが、だれからも、つくづくと眺められもせず、いや、それどころか、だれの眼にも
触れることさえなくて、いたずらに、咲きかがやき、そして、そのまま萎れてゆくのか」と叫ん
だ。−ところが、花は、答えて、「あなたは、おばかさんね!あなたは、わたくしが、見られ
ようとして咲いていると、お思いになるの? わたくしは、わたくしのために咲いているので、
けっして、ほかの人たちのために咲いているのではありません。わたくしは、咲くのが好きだか
ら、咲いているだけ。わたくしが咲いて、そして、生きていることのうちに、わたくしの喜びと
わたくしの楽しみとが、湧きおこるのです」と言った。−

134 :
人の生は その芽生え
女の胸の乳房から湧いてあふれてきたものを……
おまえの稚ない片言は 女の口から教えられ
おまえが初めて流す涙は 女に優しくなだめられ
おまえの最後の吐息でさえ 女ひとりに吐かれることがしばしばです
かつて自分を導いた人の臨終を看取るいやしいつとめを
男がためらって なさぬときには……
バイロン著 『サルダナパアル』第一幕第二場

135 :
ショーペンハウエルはショパンが大嫌いでまったく聞かなかったそうだ。

136 :
ショーペンハウエルはロッシーニ信者
自身を評価してくれたワグナーをまったく評価しなかった



137 :
ショーペンハウエルは幼少期に、満杯の牛乳桶に頻りに靴を投げ込み、
「出てこい!」と怒鳴っていたという。妹のアデーレとニーチェは
接点があった。これで両者の反ユダヤ主義が繋がった。

138 :
小便ハウエル

139 :
age

140 :
一八五九年に、フランクフルトの<英国ホテル>の食卓で、初めて彼[ショーペンハウエル]に会ったと
き、、彼はすでに、生き生きとして澄んだ眼をして、やや皮肉な感じの薄い唇にかすかな微笑を浮かべた、ひ
とりの老人だった。その広い額は、両端に白髪が二筋おぼろげにかかっていたが、貴族的な風貌と、才気に
あふれ、茶目っ気たっぷりな容貌に特徴を際立たせていた。彼の燕尾服、レースのシャツ、白いネクタイは、
ルイ1一五世統治時代末期の唐人を髣髴とさせ、その物腰は育ちのよい人のものだった。普段は慎み深く、猜
疑心とまで言えるほど用心深い性質の彼は、極く親しい友人たちか、フランクフルトに立ち寄る外国人たち
としか、打ち解けることがなかたった。彼の動作は活発で、会話の際には、常にない意気込みとなって表れた。
彼は議論や空虚な言い争いを避けたが、しかし、それは親密な談笑の魅力をよりいっそう楽しむためだっ
た。彼は四つの言語―フランス語・英語・ドイツ語・イタリア語―に同じように完璧に精通し、話すこ
とができたし、スペイン語にもかなり通じていた。彼がしゃべるときには、この老人の才気がドイツ語とい
うやや重苦しい布地に、ギリシャ語、ラテン語、英語、イタリア語などの華々しいアラベスク模様を刺繍し
て行くのだった。その活気、溢れ出る才知、豊富な引用、細部の確かさは、淀みなく、時の流れを進んで行
く。ときとして、親しい友人たちの小さな会合で、夜更けまで、彼の話に聴き入ったことがあったが、一瞬
たりとも彼の表情に疲れの色がよぎることはなく、彼の眼差しの輝きが束の間といえども翳りを見せること
もなかった。

141 :
女性を全体として見るならば、
一夫多妻制のほうが、実際には幸福をもたらすことになる。

142 :
ショーペンハウアー『幸福について』、突然のブレイク
http://www.shinchosha.co.jp/news/blog/2012/03/15.html
きっかけは2月29日、テレビ 「ワールドビジネスサテライト」の「スミスの本棚」でした。
出演した作家の本谷有希子さんが「何度も繰り返し読んで、救われた」と紹介。
これを受け、放送直後から本書はアマゾンの文庫ランキングで一気にトップに。
一時的に品切れ状態となるほどの急展開でした。


143 :
「女性がヤリマンになるべき!不特定多数の男とセックスし、むしろセックスした男の数を誇ろう!」
という趣旨のことを提唱するフェミニストがいるが、果たしてそれで本当に
女性が幸せになれるとでも思ってるのか。
実際問題として、女は不特定多数の男と性行為や恋愛をするようになはなっていないのであって
ヤリマンになることはむしろ「無理をしている」に過ぎない。
事実、そのような生き方をした女性はほぼ例外なく不幸になっている。
フェミニストの言っていることは、生物学的本能的な性差を全く考慮せず、
上辺の形式的な部分だけ男と同じになろうと無理をしているだけに過ぎない。
そんなものは平等でも女性の解放でもなんでもない。

144 :
風が吹くとき

145 :
愛知県豊川市小坂井の在日北朝鮮人、森下友○(30代男)は、女性を長年ストーカーし呪いをかけているキチガイ。

146 :
有吉にバカにされてたw

147 :
人相鑑定術によせて
外面は、内部を、描いたように写し出すものだ、そして、容貌が人間の全本質を発表し顕現す
るということは、一つの仮説ではあるが、その先験性ならびに確実さは善にもあれ、悪にもあ
れ、とにかく、何事かによって―余人の及ばぬ行ないをなしたか、または、なみはずれた仕事を
やり遂げた―或る人物を見たいという、あらゆる機会に―湧きおこる一般的な渇望のうちに、明白
に現われている。だから、一方では、そのような人物がいると推測される場所に人々が押し寄せ
るのであり、他方では、日刊新聞―とくにイギリスの新聞―では、そういう人物を詳細かつ適切
に記述するのに、いろいろと骨を折っているのだし、やがては、画家や銅版師が彼の肖像をはっ
きりと描いてくれるとしても、ダゲールがついに写真術を発見したことは、このような要求を最
も完全に充たすものとしても、きわめて高く評価されている次第である。同じように、日常生活に
おいても、人々は、それぞれに、自分の前に現われる人々の人相を鑑定して、ひそかに、その人
たちの容貌から、その道徳的および知性的な本質を、あらかじめ探り知ろうと努めるものである。
もしも、若干の愚者の言うように、精神と肉体とは全く別なもので、躯が心に対する関係は、人
がその衣服に対すると同じだから、人間の容貌には何らの意味をも有たせるわけにはいかないもの
ならば、上述したすべての事実は、あのように起こり得ないであろう。
 むしろ、すべての人間の顔は、或る象形文字であり、しかも、確かに解読し得るものであって、
そのアルファベットは、もはや、わたしたちに了解されているのである。のみならず、或る人間
の顔は、通常、その口よりも、はるかに多く、さらに興味深いことを言う。すなわち、顔は、い
つかは口が言うようになることのすべての摘要を示す、言いかえると、それは、この人間のあら
ゆる思想と意図との組み合わせ文字なのだから。なお、口は単に人間の或る思想を語るだけだが、
顔は自然の或る考えを発表するのである。

148 :
 従って、すべての人は、だれにでも相手かまわず話し
かけてみる必要はないにしても、すべての人を注意深く観察してみる価値はあるのだ。―さて、
それぞれの個体が、すでに、自然の個々の或る考えを表すものとして、観察するに足る価値を
有っているとすれあ、その価値を最高度に有するものが「美」であるということになる。なぜな
ら、美は、自然のより高い、より普遍的な概念であり、美は、「種」について「自然」が示す思想
なのであるから。それだからこそ、美は、あれほどにまで力強く、わたしたちの眼をとらえるの
だ。美は、まさしく、自然の根本的な、そして、主要な思想であり、これに反し、個体は、ただ、
一つの副次的な思想、いわば「系」に過ぎない。
 すべての人は、口に出して言わないまでも、内心には「おのおのの人は、見える通りのもので
ある」という原則を持っていて、これを拠りどころとして、他人を見ている。この原則は、どこ
までも、正しいのであるが、その適用に困難な点があるのだ。適用に対する能力を、一部分は、
だれでも生まれつきにそなえているけれども、その他に経験を積んで獲得せねばならぬ部分があ
る。しかし、何ぴとも、これを完全に修得しつくすわけにはいかず、最も熟練した人ですら、な
お、鑑定の誤りを免れ得ない。とはいえ、顔が嘘をつくことは、けっして、無いのだ、―こん
なことは、フィガロでさえ言っているだろう、―そこに現われていないことを、読みとるのは、
わたしたちなのである。
 いずれにせよ、容貌を解読することは、一つの重大な、そしてむずかしい技術であって、こ
の技術の原理を抽象的に修得することは、とても出来ない。これに達する第一の条件は、その人
を純客観的な見方で把握することなのだが、この純客観的に見るということが、そもそも、容易
ならぬ業である。というのは、もしも、嫌うとか、好むとか、恐ろしいとか、希望を有つとかい
う気持が、ほんの少しでも起こるならば、或いは、自分が今どのような印象を相手に与えている
かなどと考えるだけでも、つまり、何かしら或る主観的な因子が混入すると、たちまち、象形文
字は紛らわしくなって誤読されるからである。

149 :
 或る国語の音調を聴きわけ得るのは、その国語の
意味を理解していない人に限られる―そうでないと、示されたもの〔意味〕が、示すもの〔音調〕を
すぐさま意識の外におし除けてしまう―のと同様に、或る人の人相を鑑定しうるのは、ただ、そ
の人といまだ親しくなっていない人、言いかえると、その人と度々会ったり話したりして、その
顔に慣れるようなことの全く無かった人だけということになる。そういう人なら、或る顔につい
て純客観的な印象がつかめるし、それによって、容貌を解読する可能性を有てるのだから、厳密
に考えると、人相の鑑定は初対面の際に限るといわねばなるまい。匂いは初めて嗅いだときにだ
け感じられ、葡萄酒の味は一杯目にのみ真に味わえるのと同様に、やはり、顔が、その完全な印
象を与えるのは、ただ第一回目にかぎられる。それゆえ、最初の印象を注意深く見きわめて、こ
の印象を記憶しておかねばならない。さらに、個人的に重要な関係を有つ人物である場合に
は、その印象を書きとめておくがよい。とりわけ、人相の鑑定について自分の感じを信頼できる
ならば。その後、交際して知り合いになると、以前の印象は、とかく消え失せていくが、いつか
は、その第一印象を証拠立てるような結果が現われるであろう。

150 :
 しかしながら、わたしたちは、この場合、その第一印象なるものが、おおかた、はなはだしく
不愉快なものであるということを、自分に対して、つつみ隠そうと思ってはなるまい。―とに
かく、人が大勢いるなかでも、まあ合格といえるのは、どんなにか少ないことだろう!―例外
として、美しい、善良な、聡明な顔は、―ほんの時たま、ごくまれに、あるにはあるけれども、
―感覚の繊細な人々にとって、たいていの新しい顔は、おおむね、或る―驚きに近い―感じを
起こさせるであろう、というのは、たいていの顔がいまさらながら吃驚せられるようなものの
組み合わせで出来あがっていて、要するに、不愉快きわまる印象を与えるものなのだから、とわ
たしには信じられるのだ。実際、そのような顔は、通例、全く、がっかりさせる光景(英語でい
う a sorry sight)である。しかも、それらの顔のうえには、心構えの卑俗さ低劣さが、むきだし
に現われているばかりでなく、よくも、あんな面をしていながら外出することができるなあ、な
んだって、わざわざ仮面をかぶらずにいるのかしらと、怪訝の思いにたえられないほど―人間ば
なれのした―悟性の狭さ浅はかささえ、はっきりと刻みつけられている。実に、たった一と目見
たばかりでも、こちらまで汚されてしまいそうな感じのする顔もあるのだ。従って、特殊な地位
にいる人々が、いつも「新しい顔を見る」ことの苦々しい感じを全く回避するために、隠遁生活
にはいり面会を拒絶するとしても、これを一概に、曲解してはなるまい。

151 :
 この事柄を形而上
学的に解釈すると、人それぞれの個性というものは、まさしく、彼の存在そのものによってとり
戻し、訂正せねばならぬものであるという考えへと立ちいたる。これに反して、心理学的な説明
だけで満足しようと欲するならば、みずからに問うてみるがよかろう、けだし、長い一生を通じ
て、心の中に、ちっぽけな、低級の、けちくさい考えや、卑しい、利己的な、羨ましがりの、間
違った、そのうえ性の悪い願望のほかには、ほとんど何物をも思い浮かべてもみなかったような
人間の顔に、果たして、どういう人相が期待されるであろうか、と。そのような願望や考えは、
それぞれに、それが今ある間は、顔面に、その表現を浮かびあがらせるし、その痕跡のすべては、
しばしば反復されることにより、時間の経過するにつれて、容貌に深い皺となって刻みつけ
られて、これをすっかり凸凹にしてしまう。だから、たいていの人は、初めて見たときに、びっく
りさせられるような容貌をしているのである。しかし、そんなような顔でも、だんだんと、慣れ
るに従って、言いかえると、その印象に対して鈍感になってしまうと、それはもはや何らの作用
をも及ぼさないようになるのだ。
 聡明な容貌は、長い歳月の間に徐々に出来あがるもので、しかも、老齢に及んで、初めて、そ
の高貴な表情に達するのであるが、若い時代の肖像画には、ただ、かかる表情のほんの片影しか
認められないということの理由は、まさしく、永続する容貌の形成過程が、特徴を示す緊張の現
われては消えながらも数限りなく反復することによって、ゆるゆると行われていくことで説明
されるだろう。また、反対に、前に述べたごとく、人が、初めて見た顔に対して、驚愕を感ずる
所以は、或る人の顔が、十分に正しい印象を与えるのは、最初の時だけであるという、前記の意
見と、ぴったり相応するのである。また繰り返すようだが、かかる印象を、純粋に客観的に、か
つ、誤りなく受けいれるためには、その人とほんの少しでも関係があってはならない、そのうえ、
出来ることならあ、その人と、一度も話し合わないことが必要である。

152 :
 というのは、どんな会話で
あっても、言葉を交わすというだけで、すでに、双方を或る程度まで親しくする、つまり、或る
種の因縁を導き入れ、相互の主観的な関係が生ずる、と同時に、この関係によって、把握の客観
性は傷つけられてしまう。そのうえ、だれしも相手から尊敬されたいとか友情を得たいとか努め
るものだし、観察されていると思えば、その人は、すぐさま、すでに自分で心得ている一切の偽
装術を応用するようになり、その顔つきによって善人ぶるやら、へつらうやらして、わたしたち
を惑わすであろうから、初めて見たときには、はっきりと現われていたものも、やがて、もはや
判明せぬようになってしまうのだ。こういった見地からすると、一般に、「たいがいの人は、く
わしく知り合うほど、わたしたちをだますものだ」というほうが、正しかろう。しかも、後にな
って、悪い状況が現われてくると、おおむね、初めて見たときに下した判断が、その正しさを獲得
し、また、往々にして、その判断が嘲笑的にその正しさを主張する。そして、「親しいつきあい」
が、逆に、すぐさま、敵対しあう関係となり、同時に、親しくつきあうことによって人々は得る
ところがあるという説は、認められないことになってしまう。だが、親しくつきあえば得るとこ
ろがあるといわれることの、もう一つ月の原因は、初めて会った時に、わたしたちに警戒の念を
起こさせた人物も、話し合ってみると、もはや、単に、彼の独自な本質や性格が表われるばかり
でなく、彼の有する教義も現われてくる、言いなおすと、彼が実際に天性によって具備している
ものばかりでなくて、彼自身が全人類の共有財産から自分のものにしてしまったものまで現われ
てくるということに存する。

153 :
長文ウザイw

154 :
すなわち、この場合、彼が話すことの四分の三は、もともと彼自身
に属するものではなく、外部から取りいれられたものなのである。そうだ、わたしたちは、或る
そのような怪物が、きわめて人間らしく話しているのを聞いて、びっくりすることもしばしばあ
るのだ。
 しかも、「親しつきあい」から、さらに一歩進めて、なおも近づいていくならば、やがて、
「野獣性」が、彼の容貌から予言していた通り、「全く支配的であったことを現わす」であろう。
―それゆえ、人相を鑑定する能力を賦与されている人は、全く近づきにならなかった前に
下した―従って少しも誤りのない―鑑定判断を、よくよく尊重しなければならない。なぜなら、
或る人の顔は、直截に、その人が何物であるかを言い表しているからである。そして、もしも、
それがわたしたちを欺くならば、欺かれることは、容貌の罪ではなくて、わたしたち自身に責任
があるのだ。ところで、或る人の言葉は、単に、その人の考えていることだけを言うか、いや、
それよりも往々にして、ただ自分の学んだことばかりを語り、さらに進んでは、何かしら考え
ているような振りをして、喋っているのに過ぎないことさえある。そのうえ、なお、次のような
ことも起きる。すなわち、わたしたちは、みずから或る人と話すとき、もしくは、彼が他の人に
話しているのを聞くときにでも、とかく、その人の真の人相を見のがしてしまうのである。これ
は、わたしたちが、主要構成基質―つまり、そのまま与えられたもの―としての人相を、そっち
のけにして、もっぱら、顔面に現われる感情の判断に関する方面、すなわち、談話の際における
その人の表情の動きばかり、気を取られているからである。しかし、この場合、その人は、よ
い顔ばかりを外部に向けるように心がけているものなのだ。

155 :
 さて、ソクラテスが、或る青年の能力を検査するために、これと対坐したときに、この青年に
向かって、「話しておくれ、それによって、わたしは君を見るから」と言ったのは、(この場合、
ソクラテスは見るという語を単に「聞く」という意味で使ったのではなかった、と仮定するな
らば)、条件づきながら、とにかく、正当な言葉である。その条件というのは、話すときにのみ、
動きとなって現われてくるから、それによって、わたしたちは、直ちに、その人の知性の程度と
包容力とを、さしあたり評価し得るということだが、ソクラテスの目的も、まさしく、この点に
あったといえようしかし、立場を変えてみると、反対に、次のような議論も成り立つであろう。
第一に、この方法は、人間の―ごく深いところに存在する―道徳的特質を検するために適用する
ことは出来ない。第二に、人は、話をする際に、その表情の動きによって、その容貌を一層はっ
きりと展開させるが、この展開に即して、客観的に知り得るものを、わたしたちは、間もなく、
その人とわたしたちの間に生ずる個人的関係によって、主観的に、またもや失うようになる。
というのは、この個人的な関係が惹きおこす能力は、はなはだ軽微なものだとしても、やはり、
すでに説明しておいたように、私たちのとらわれない判断を、かき乱すからである。従って、
この最後の観点より推論するならば、むしろ、「話をせずにいておくれ、わたしが君を見さだめる
ために」と言ったほうが、より正しいのではあるまいか。

156 :
 そうだ、或る人物の真の人相を、純粋に、かつ、深く把握するためには、その人が何もせずに、
ひとりっきりですわっているとき、これを観察しなければならない。あらゆる会合や、他人との
談話は、すでに、その人の上に他人の反映を投げかけるものであり、これが、たいがいの場合、
その人に有利になる。というのは、彼が、みずからも働きかけ、まあ、他人から働きかけられな
がら、動いていることによって高められるからである。しかるに、何もせずに、ひとりっきりで、
自分自身の考えや感じにひたっている、―ただ、その時にのみ、彼は全く彼自身なのである。
こういう時に、人相の鑑定にかけて深く見抜くだけの眼力をそなえた人ならば、その人の本質を、
全般にわたって、いっぺんに補足することが出来る。なぜならその人の顔の上には、おのずか
ら〔即向自に〕、その人のあらゆる思想と努力との基調―すなわちその人が将来そうならねばな
らぬものおよびその人がひとりっきりでいるときにのみそっくりみずから感じることについての、
取り消しがたき判断―が、刻みつけられたように、はっきりと現われ出るからである。
 ところで、狭い意味での、人相は、人々のいかなる変装技術も、そこまでは手の届かぬ唯一の
ものであるから、この理由だけでも、人相鑑定法は、確かに、人間を知るための重要な手段とい
える。けだし、変装技術の応用できる範囲内には、単に、感情の表わし方を変える、すなわち表
情擬態による方法だけがあるにすぎないのだから。それゆえ、誰でも、或る人物の本質を知ろう
とするならば、相手がひとりっきりで自分のことばかり考えているときを選び、なお、その人と話
をしないうちに、相手の人相を見きわめてしまうよう、せつに、わたしは、奨めるのである。そ
の一つの理由としては、そのような場合にのみ、人々は、純粋ないつわりのない人相を示すけれ
ども、会話が始まると、たちまち、表情の動きに影響されたり、そのうちに、相手はみずから習
得したもろもろの変装技術を行使するということが考えられるし、もう一つの理由として、あら
ゆる個人的な関係は、ほんの一時的なものであっても、多少とも、わたしたちを拘束するもので、
それによって、わたしたちの判断が主観的に不純なものとなるおそれもあるのだ。

157 :
 なお、わたしは、一般に、人相の鑑定法では、或る人間の知性的な能力のほうが、その人の道
徳的な性格よりも、はるかに、よくわかるものだということを、注意しておかなければならない。
つまり、知性的な能力は、道徳的な性格に比して、ずっと著しく外部へと滲み出てくる。それは、
ただ、顔や表情の動きに現われるのみならず、歩き方にも、さらに、すべての運動に、ごく些細
な所作にさえ、現われてくる。おそらく、だれでも、愚物か、痴呆か、才能人かは、後姿だけか
らも、判別しうるであろう。船のように鈍重な動作は、すべて、愚物の特徴だし、痴呆は、その
徴候を、あらゆる身振りに示すが、才能や思慮も、やはり同様に、動作や身振りによって認めら
れる。このことにもとづいて、ラ・ブリュイエールは「どれほど巧妙に、どれほど無造作に、ま
たどれほど気づかれぬように行なわれようとも、その中に、わたしたちの本性を示す或る挙動が
少しも現われていないことは、全く無い。頭の鈍い者は、はいるにしても、出るにしても、すわ
っても、立っても、黙っていようが、つっ立っていればなおさら、才能のある人と同じように振
る舞うことなど、とても出来はしない」と記述している。
 エルヴェシウスによると、月並みの頭脳を有つ常人は、才能ある人を見つけたり避けたりす
るために、精確かつ敏捷な本能を有っているそうだが、これも、上述のことによって、説明でき
る。もっとも、これは、いささか余談にわたるかもしれない。
 とにかく、そのような事柄のもとづくところは、まず第一に、脳髄がより大きくて、その発育
が良ければ良いほど、また、脳髄に対する比例において、脳髄と神経とが、より細ければ細いほ
ど、知性ばかりでなく、同時に、四肢の動きかたや柔順さも、それだけ増大するわけだし、何と
いっても、この場合、四肢は脳髄から、より直接に、より截然と支配され、その結果、すべてが、
より多く、ただ一本の糸によってあやつられることになり、従って、あらゆる運動のうちに、そ
の意図が精密に表わされるからである。

158 :
 なお、これはすべて、動物が、生物としての段階をよ
り高く昇るにつれて、一層たやすく、或る唯一の場所だけを傷つけることによって、これをR
ことができるという事実に類似している、というよりもむしろこの事実と関連しているのだ。実
例を、蝦蟇類にとってみると、彼らの運動が鈍重で怠慢で緩慢であるがごとく、彼らは愚昧でもあ
り、と同時に、きわめて粘りづよい生活力を有っているが、これらすべての事柄は、彼らが、は
なはだわずかばかりの脳髄に対して、著しく太い脊髄と神経とをそなえていることから、説明が
つく。しかも、一般に歩行と腕の運動とは、主として、脳髄の佐用によるものである。詳しく
いえば、外部に出ている四肢でも、脳髄から神経を介して、その運動とそれらのあらゆる変更と
の―ごく微細な修正にいたるまで―支配を受けるのである。それゆえ、随意運動をすると、わた
したちは疲れを覚えるのだが、この疲労感は、ちょうど痛みの感じと同様に、その座は脳髄の中
にあるので、わたしたちが思い違いしているように、手足のうちにあるのではない。だから。疲
れると眠気を催すのである。これに反して、有機的生活の運動で、脳髄によって喚起されないも
の、すなわち、不随意運動、たとえば、心臓・肺臓などの運動は、疲れることなく継続している
のだ。さて、思考と四肢の管理とは、ともに同じ脳髄の任務であるから、個人の素質の如何に
従って、脳髄の働きかたの性格は、その両方にひとしく現われることとなり、そこで、愚鈍な人
間は、あたかも、あやつり人形のごとくに運動するが、才能豊かな人々では、あらゆる関節が、
きびきびと動くのだ。―しかしながら、精神的な特質は、態度や動作からよりも、はるかによ
く、容貌から認められる。詳しくいえば、それは、額の形と大きさ、顔のあらゆる道具の緊張と
運動、とりわけ、眼から認知される。―だが、眼にも、いろいろの種類があって、豚の眼のよ
うに、小さく鈍くぼんやり見ているのから、あらゆる中間の段階を経て、天才の光り輝き電の射
るがごとき眼にまで昇りつめる。

159 :
 悧巧者の眼つきは、その最も巧妙なものでさえ、天才のま
なざしと異なる所以は、前者が意志に奉仕していることの歴然たる証拠を示すのに反して、後者
はそのようなものの片影さえとどめていないというところに存するのだ。(『パレルガ・ウント・
パラリポメナ』第二巻六四ページ〔『哲学入門』第三章〕で「天才の容貌」について述べた条を
参照せられよ)―それゆえ、スクァルツァフィキィが、その著『ペトラルカ伝』のなかで、彼
がペトラルカと同時代にいたヨセフ・プリヴィウスから伝え聞いた話にもとづいて記述した逸話
は、そっくり信じてもよかろう。それによると、或る時、ペトラルカが、多くの紳士や貴族の間
に立ちまじって、ヴィスコンティの宮廷に同候していた時に、ガレアッツォ・ヴィスコンティは、
当時まだ少年であった―ミラノの第一公爵となった―息子を顧みて、その場にい合わせてい
た人々の中から、最も賢明な人を探し出せという課題を与えた。少年は、すべての人たちを、し
ばらく眺めていたが、やがて、ペトラルカの手を握って、父のもとへ連れていったので、列席者
一同は非常に驚嘆したという。そうだ。自然は、人間の中でも特に傑出している人には、その品
位の印章を、少年でさえも認め得るほど、明瞭に捺しておくものなのである。そこで、わたしは、
ふたたび、ひとりの平凡人を三十年間も、偉大なる思想家として吹聴してみいたくなったとしても、
その折には、どうぞ、ヘーゲルみたいなビヤホールの親爺然たる人相の持主を、そのために択び
出さないようにお願いする。自然は、この男の顔に、読みやすい書体で、その得意とする「平凡
人」という文字を、はっきりと記しておいてくれたではないか。

160 :
さて、しかし、人間の知性的な面に関することを、その道徳的な面、すなわち人間の性格に関
して、そのままあてはめるわけにはいかない。人相の上から、その人の道徳的な性格を察知す
ることは、知性の程度を知るのと比べて、はるかに困難である。というのは道徳的な性格は、
形而上学的なものとして、知性とは比較にならぬほど、より深いところに潜んでいるし、なるほ
ど、体質や生活機能と関係はあるけれども、知性のように、これと直接に結びついてはおらず、
また、その或る一定の部分や系統と関連しているものではないのだから。のみならず、たいてい
の人は、自分の悟性に、通常、はなはだしく満足しているらしく、これを公然と示しているし、
なお、あらゆる『機会に、認められようと努めるけれども、道徳的な性格を、そっくり、あけっぴ
ろげて、さらけ出すことは、はなはだ稀である、というよりむしろ、たいていの場合、故意に隠
匿する、そして長い間の練習は、この隠匿方法をきわめて巧妙なものにまで仕上げるからでも
ある。しかしながら、すでに述べた通り、下劣な思想と没義道な努力とは、徐々に、顔面に、そ
の痕跡を刻みつけていくが、特に、それは眼に現われてくる。それゆえ、わたしたちは、或る人
を、人相鑑定の上から判断して、、その人がけっして不朽の業績を発表し得ないということを保証
することは、たやすく出来るけれども、その人がけっして大罪を犯さぬであろうという保証を与
えることは、けだし、全く不可能であろう。

161 :
長すぎるんだよ、3行でまとめろ

162 :
噪音と雑音について
 カントは、生き生きとしているもろもろの力について、一つの論文を書いたが、わたしは、反
対に、このような力について、一つの悼辞ないしは挽歌をつづってみようと思う。というのは、
叩音、槌音、打音などで、生き生きとしているもろもろの力が余りにしばしば使用されるために、
わたしは、一生涯を通じて、毎日のように、苦しめられてきたからである。もちろん、世間には、
雑音に対して無感覚でいるため、わたしがこう言うのを聞くと、嘲笑する人がいるだろう、いや、
いるだろうどころか、きっと大勢いるにちがいない。しかし、これらの人々は、論証・思想・詩
文、また、芸術作品に対し、つまり、あらゆる種類の精神的印象に対しても、やはり、無感覚な
人たちである。この原因は、彼らの脳髄の材質が粘りづよい組成と手堅い織り方で出来あがって
いることに存する。これに反して、わたしは、噪音が思索する人々に与える苦痛についての愁訴
を、ほとんどすべての偉大なる著述家の伝記や、或いは、その他みずから書いたもろもろの作
品のうちで発見する。たとえば、カント、ゲエテ、リヒテンベルグ、ジャン=パウルなど、いず
れも、このことを嘆いている。たまたま、この方面に言及していない人があったにしても、それは、
ただ、文章の前後の関係が、著述の筆を、この方面に導いていかなかったのによるだけであろう。
わたしは、この問題を、次のように解説する。ちょうど、一つの大きなダイヤモンドを、いくつ
かに切断すると、その価格は、これらの小さな砕片の総和以上に出ないと同じく、まあ、一つ
の軍隊が、小さい部隊に分けられると、もはや何らの力をも保ち得ないのと同様に、或る偉大な
る才能も、それが中断され、攪乱され、分散され、転換されると、もはや、普通の才能以上には、
何ごとも成し遂げ得られないようになる。何と言っても、彼のすぐれた性質は、みずからのあら
ゆる力を、あたかも凹面鏡がすべえの光線を一点に集中するごとく、一個の対象に手中すること
を必要条件としているので、これが噪音によって中断されることは、精神の働きを妨害するから
である。

163 :
 それゆえ、すぐれた思想家は、常に、あらゆる攪乱・中断・転換などを忌み、とりわけ
噪音による暴力的な分散を、最もはなはだしくきらった。もっとも普通の人々は、こんなこと
で特に悩まされはしないけれども。すべてのヨーロッパ諸民族の中で最も悟性的であり最も精神
的な国民は、never interrupt という規則―「けっして邪魔するな」ということ―を、かねてより、
モーゼの十戒に次ぐ、第十一番目の戒律と呼んでいる。しかも、噪音は、わたしたち自身の思索
を中断する、というよりむしろ、粉砕してしまうから、あらゆる邪魔の中で最も不作法なものと
いわねばならない。しかし、中断されるものが全く無い場合に、噪音が、取り立てて感じられな
いのは当たりまえなことであろう。―往々にして或る―あまり強くはないが持続的な―雑音が、
わたしのはっきりとこれを意識する前に、しばらくの間、わたしを苦しめかつ妨げていることが
ある。この場合、わたしは、それが何であるかわかるまで、ちょうど足の先に石ころを乗せたよ
うに、わたしの思索の歩みが困難になっているのを絶えず感じるばかりである。―
 しかし、いまや、「属」から「種」に移って、わたしは、まず、最も許しがたき、かう最も罪深
い噪音として、都市の反響する狭い街路で打ち鳴らされる、真にいまいましい鞭の音を弾劾しな
ければならない。この音は、まさしく、人生から、一切の安静とすべての思慮とを、奪うもので
ある。鞭を打ち鳴らすことが許されているということぐらい、人類の鈍感と無分別とについて、
きわめて明瞭な概念を、わたしに与えるものは、またとあるまい。この突如として起こる、鋭い―
脳髄をしびれさせ一切の思慮を裁りきざみかつ思索をR―響きは、いやしくも、思考に類似す
る何ものかを脳髄のうちに持ちまわっている人なら、だれしも、苦痛を感じさせられずにはいら
れないはずである。従って、このような響きは、そのたびごとに、行く百の人々の精神の働きを、
たとえ、その働きがいかに低級な種類のものであるにしても、常にかき乱すに相違なく、いわん
や、思索家の瞑想裡に闖入するならば、首斬り刀が頭と胴体との間を通るごとく、苦痛と破壊と
が頭脳に及ぼす影響は、ちょうど、ねむり草に何かがさわった時と同様に、かなり長い時間にわ
たって消えずに残る。

164 :
 実益という最も神聖なことに対して、わたしあ、充分に尊敬を払っている
けれども、一車の砂または肥料を運んでいく男が、(街路を三十分ほど通過する間に)次々に、一
万ほどの頭脳のうちに浮かびあがろうとする或る思想を、その萌芽のうちに枯死せしめていくよ
うな特権を、運搬という若干の実益ある行為によって獲得せねばならぬとは、どうしても納得す
るわけにはいかない。なるほど、槌で打つ音、犬のほえる声、それに、子供たちの泣き叫ぶのも、
身の毛のよだつほどいやなものだが、まさに、思索を殺戮するものは、ただ、鞭の響きばかり。
或る人がやっと、時たま、よい思いつきの浮かんだ大切な瞬間を、まるっきり、台なしにして
しまうのが、この響きの使命である。車をひく動物を駆るために、あらゆる音のうちで最も忌ま
わしい鞭の響きを使用するほかに、何らの方法もない時だけは、余儀ないこととして、堪忍されも
しようが、しかも、事実は全く反対なのだ。こののろわしい鞭を鳴らす音は、馬に及ぼす心理的な作
用を主眼としたことであるが、この音を不断に濫用したために、もはや習慣になて、その作用
も、すっかり鈍くなり、ほとんど失われ、馬は、鞭の音を聞いても、歩みを早めはしないのだか
ら。その証拠には、空の辻馬車が、乗客を捜しつつ、特にゆっくり行きながらも、馭者は絶えず
鞭を鳴らしているではないか。実際には鞭を鳴らすよりも、むしろ、ほんの軽く鞭を馬の体に
触れさせたほうが、ずっと多くの効き目があるのだ。また、もし、この響きによって、鞭のあるこ
とを絶えず馬に思い起こさせておくことが、どうしても必要だと仮定しても、その目的のために
は、普通に出す響きの、百分の一ほどの弱い音で、充分であろう。だれしも知っている通り、動
物というものは、聴覚的にも、また、視覚的にも、きわめて軽微な―それこそわたしたち人間が
ほとんど気のつかないくらいの―合図にすら、注意を払う。この事実については、すでに、調教
された犬や、カナリヤが、驚嘆に値する適例を示している。それゆえ、鞭を鳴らすことは、純然
たる悪戯である、のみならず、腕で働く連中が、頭脳で仕事をする者に対して加える一種の厚かま
しい嘲笑だとも思える。

165 :
 かかる破廉恥な行ないが都市において許されていることは、大なる野蛮
であり不正である。これは、警察から、すべての鞭のくびれた末端に一つの結び目を取りつける
ように命令を出してくれさえすれば、きわめて容易に除き得ることなのだから、なおさら、そう
感じるのだ。プロレタリアをして、彼らの上に立つ階級の頭脳作業に対して注意させるのは、少
しも悪いことではあるまい。なぜなら、彼らは、すべての頭脳作業に対し、非常ななおそれをいだ
いているのだから。しかし、非番の郵便馬を連れたり、車輛から放した輓馬に乗ったりして、一
尋もある長い鞭を力いっぱいに振り鳴らしながら、人口稠密な都市の狭い街路を通行する男は、
直ちに馬からおろされて、杖で五つも性根にこたえるほどなぐられるがよい。たとえ、世界中の
博愛論者が、筋道立った理由から体刑を全廃しようとする立法団体とともに、鉾先をそろえて、
この処罰を非難したとて、わたしは説服されないつもりだ。しかも、もっとひどい実例さえ、あ
まりにもたびかさねて目にすることが出来る、それは、馬を連れずにひとりっきりで往来を通
る馬丁が、絶えず、鞭を鳴らしていることだ。不都合な寛大さのおかげで、この男には、鞭を鳴
らすことが、これほど身についた習慣になってしまったのである。何だって、肉体のため、また、
すべて肉体を満足させるためには、一般に、きわめて人情深い取扱いがなされているにもかかわ
らず、ひとり、思索する精神だけが、尊敬を受けるなどはさておき、最もわずかな顧慮をも保護
をも与えられずにいて、果たして、よいものだろうか? 荷車の馭者・荷揚人足・立ちん坊など
は、いわば、人間の社会の駄馬であるが、なるほど、彼らとしても、全く人間的に、正義・公正・
寛大・慎重な取り扱いを受けなければならない。とはいえ、ほしいままに噪音を立てて、人類の
高尚な努力を邪魔することは、けっして、許されてあってはあらない。この鞭を鳴らす音が、す
でに、どれほど多くの寛大な、また、美しい思想を、この世の中から追い払ったかを、わたしは
知りたい。もしも、わたしが命令する権限を有っていたなら、わたしは、馭者たちの頭に、鞭を
鳴らす音と、笞刑との間には、切り離し得ざる観念連合のあることを、とくと滲みこませてや
るだろう。

166 :
 ―知性のよりすぐれている、かつ、感情のより繊細な諸国民が、この点においても、
規範を示してくれ、ついて、その先例にならって、ドイツ人も同様なところまで進歩するように
なることを、わたしたちとしても希望しようではないか。
   一八五八年十二月の『ミュンヘン動物保護協会の告示』によると、ニュールンベルグでは、
  必要以上に鞭で打つことおよび鞭を鳴らすことを、厳重に禁止されているそうだ。
 ところで、トーマス=フッドは、(その著『ライン河のぼり』のなかで)ドイツ人について、
「音楽的な国民としては、わたしが今まで逢ったうちで、彼らは最も騒々しい国民である」と
述べている。
 ドイツ人が、こんなことを言われるのは、彼らが、他の国民よりも、特に騒々しいのを好むか
らではなくて、騒々しい音を、年中、聞かされなければならない人たちの魯鈍さから生まれてく
るときも、噪音によって妨げされはしないのだ。なにしろ、彼らは、めったに考えごとなどせず、
いつも煙草ばかり吸っていて、喫煙が、彼らにとって、思索の代用物になっているのだから。不
必要な噪音―たとえば、きわめて不作法な扉のあけたて、ぞんざいに投げとばす「バタンという響
き―に対する一般的な辛抱強さ、これこそ、彼らの頭脳が一般に魯鈍でかつ考え無しであること
の一証徴なのだ。ドイツでは、なんぴとも、噪音を気にかけないように―たとえば目的も無しに
太鼓を打ち鳴らすように―躾けられているらしく思われる。
 さて、最後に、この章で論じられた問題に関する適切な文献として、わたしは、推薦せねばな
らぬたった一冊の―とはいえ、立派な―詩的作品を有っている。それは、すなわち、有名な画家
ブロンツィーノが、三韻脚法で作った書簡体の詩で、『騒音について―ルカ=マルティニ氏へ』と
いう表題の本である。これには、イタリアの或る町の種々さまざまな噪音のために、人々のなめ
た苦しみが、悲喜劇的な方法で、詳細にかつはなはだおもしろく描かれている。この書簡体の詩
は、『ベルニ、アレティノおよびその他の人の滑稽な行ない』第二巻二五八頁にも出ているが、
そこに一七七一年作と記載されているのは誤りである。

167 :
電マをオRとアナルに根元まで突っ込んだら
二本とも抜けなくなりました。
抜き方を教えてください。
あ゛ぁ〜♥ あ゛ぁ〜〜♥♥ あ゛ぁ〜〜〜♥♥♥ あ゛ぁ〜〜〜〜 ♥♥♥♥

168 :
なんかすごいね

169 :
長文がウザイだけの糞スレ

170 :
 性質の遺伝性
 生殖のさいに結合される両親の種が、種族の特質のみならず個人の特質まで伝えるということは、身
体の(客観的、外面的な)特質について言えば、つね日ごろ経験の教えるところであり、また昔から承
認されてきたことでもある。
 人はそれぞれ、自然が彼に与えた素質に従う。 (カルトゥス)
 ところでこのことが精神上の(主観的、内面的な)特質についても同じように言えるかどうか、した
がってこの精神上の特質もまた両親から子供に遺伝されるかどうかということも、これまですでに再三
にわたって提起され、まず一般には肯定されてきた問題である。ところがこの場合に、父親に属するも
のと母親に属するものとが分けられるかどうか、父親と母親からそれぞれわれわれが受け継ぐ遺伝の部
分が何であるかという問題になると、これはかなり難しくなる。意志が人間における本質そのものであ
り、核心であり、根本であるのにたいし、知性はかかる実体における第二次的なもの、外来的なもの、
偶有性であるというのがわれわれの根本的な認識であったが、われわれがこの認識の光によって前述の
問題を照らすならば、生殖にあたって父親が価値の優れた性、産み授ける原理として新たな生命の基盤
であり根本であるもの、つまり意志を授けるのにたいし、母親は価値の劣った性、単に受けいれる原理
として第二次的なもの、つまり知性を授けるのであり、したがって人間はおのれの道徳性や性格、好悪
心や心情を父親から受け継ぎ、これにたいしおのれの知能の程度や質、傾向を母親から受け継ぐと規定
しても、この規定は少なくともあまりまちがってはいないということを、疑問に問う以前にわれわれは
認めるであろう。ところでこういう規定は実際に経験によって確証されるものであるが、ただこの場合、
これを物理的な実験によって机上で決定することは不可能で、一部は多年にわたる最新で綿密な観察か
ら、一部は歴史上の事実から確証されるのである。

171 :
 自分自身の経験には、完全に確実できわめて独特なものであるという長所があり、この長所は、この
ような経験の範囲が限られたものでありそこに示される実例が周知のものではないということから生ず
る不利な点を補って余りがある。そこでわたしは、すべての人にそれぞれまず自分の経験に訴えるよう
に薦めたい。まず第一に、自分自身を観察し、自分の好悪の念〔傾向性〕や激情、精確上の欠点や弱点、
また悪徳を、それにもし自分にそれがあれば長所や美徳をもみずから認め、つぎに自分の父親を顧みる
がよい。そうすればかならず、これらの性格上の特徴を父親にも認めるであろう。ところが母親を見る
と性格がまったく違っており、母親と道徳的に一致するものはきわめてまれである。つまりこの一致は、
両親の性格がたまたま等しいという特殊な事情によってのみ生ずるのである。たとえば、こういう検査
を、怒りっぽいとか、忍耐、貪欲、あるいは浪費とか、淫欲、暴飲暴食癖、賭博癖、酷薄、あるいは慈
悲とか正直、あるいは欺瞞とか高慢、あるいは愛想よさとか勇気、あるいは臆病とか温和、あるいはけ
んか好きとか協調性、あるいは怨みっぽい等々について行なってみることだ。つぎにわれわれがその人
の性格と両親をよく知っているすべての人びとに同じ検査を行なってみればよい。正確に判断し、注意
深く真面目にこれを行なえば、われわれの主張はかならず確証されるであろう。たとえば、虚言癖はか
なり多くの人に固有な独特なものであるが、これも兄弟二人に同じように存在することがわかる。それ
は、彼らがこの癖を父親から受け継いだからである。したがって『詐欺師とその息子』という喜劇も心
理学的に正当なことである。――しかしこの場合二つのやむをえない制限のあることは銘記しておかね
ばなるまい。この制限を逃げ口上だと言うなら、それは明らかな曲解以外のなにものでもなかろう。す
なわちまず第一に、父親というものはつねに不確かである、ということである。父親との身体上の相似
が決定的である場合にのみ、この制限は除かれるが、表面的な相似では不十分である。

172 :
というのは、以前の受胎のなごりというものがあり、そのため往々にして、再婚してできた子供でも先夫
と、また姦通 で生まれた子供が正式の夫と、わずかながらも似ていることがあるからである。動物の場合、
このなごりはもっとはっきり認められている。第二の制限は、息子には父親の道徳上の性格がたしかに現
われるが、しかしそれは、しばしば非常に違った別の知性(母親からの遺伝分)によって変化して現われ、
そのため観察を修正する必要があるということである。この変化は、知性の相違に応じて顕著なこともあ
れば、些々たるものであることもある。しかし、この変化はあまり大きくはないので、こういう変化の
もとでも依然として父親の性格の根本的な特徴はじゅうぶん見分けられる程度には現われる。それは
まったく違った衣装とかつらとひげで仮装した人間のようなものである。たとえば、母親から遺伝され
た部分のおかげでひとりの人間の優れた知性、すなわち、反省し熟慮する能力をそなえている場合に
は、父親から遺伝された激情は、この能力によって制御されるものもあれば隠蔽されるものもあり、そ
のため意図的・計画的に、あるいはひそかにしか現われない。そこで父親がたとえばまったく偏狭な頭
しかもたない場合には、父親と非常に違った現象が現われることになる。これと同様に逆の場合も起こ
りうる。――ところが母親の好悪や激情が再度子供に見いだされることはけっしてない。しばしば母親
と反対の好悪や激情が現われることさえある。

173 :
 天分の豊かな息子なのにその母親が優れた精神の持ち主ではなかった例がときとして見られるとすれ
ば、それは次の事情から説明されるであろう。すなわち、この母親自身その父親が粘液質であり、その
ため彼女の頭脳はもともと異常に発達していたにもかかわらず、この頭脳がこれにふさわしい血液循環
の力でしかるべく刺激せられなかったということである。―この要件は、わたしがまえに第三十一章で
述べておいたものである。ところが、それにもかかわらず彼女の非常に完全な神経組織と脳髄組織が息
子に遺伝されたのであるが、これは、息子の父親が活発で情熱に富み、心臓の鼓動も強力であったとい
う事情が加わり、そのためここにようやく偉大な精神力を生みだすもうひとつの身体的な条件が生じた
からである。おそらくバイロンの例がこれであったと思われる。というのは、どこにも彼の母親の精神
上の長所について言及されていないからである。――天才的な息子自身の母親は衆にすぐれた天分の持
主であるのに、彼女の母親はべつだん才女でもなかったという例の場合も同じように説明されるであろ
う。つまり、彼女の母親の父が粘液質だったのである。
 たいていの人間は性格が調和を欠き、むらがあり、動揺しやすいが、これはおそらく次の事情にもと
づくものであろう。すなわち、個人の出生の起源が単純なものではなく、父親から意思を、母親から知
性を受け継ぐということである。両親がたがいに異質的で肌が合わなければ合わないほど、この不調和
と内的な分裂はますます大きくなるであろう。心情で卓越している者もあれば、頭脳で卓越している者
もあるのにたいし、さらにその長所がもっぱら人柄全体の或る種の調和と統一にある人たちもいるが、
これは、次の事情から生ずる。すなわち、彼らの場合には心情と頭脳がたがいにきわめて調和を保って
おり、たがいに支えあい、高めあっているということである。この場合に想像されるのは、彼らの両親
がさぞかし琴瑟あい和していたろう、ということである。

174 :
 ただいま述べた理論の生理学的な面に関しては、次の点だけをあげておこう。ブースダッハは、同一
の精神的特質が父親から来ることもあれば母親から来ることもあると誤って想定しているが、それでも
(『経験科学としての生理学』第一巻・第三〇六節で)、「全体として見れば、男性的要素は発動的な生活
の規定に影響し、女性的要素は感受性に影響する」と付言しているということである。――さらにリン
ネが『自然の体系』第一巻八頁で述べていることもここであげるべきであろう。いわく、「子を孕んだ
母親は、出産以前に、この新しく生まれる動物の生きた、髄質の原型を生みだすが、この原型は母親に
酷似しており、マルピーギの龍骨と称されるもので、植物の幼茎に似ている。出産後にこれに心臓が加
わり、この原型を分岐させて身体を形成する。というのは、鳥が孵化する卵のなかの跳点のなかに、ま
ず骨髄とともに、鼓動する心臓と脳髄が現われるからである。この小さな心臓が、寒気のために静止し
ているが、暖気に刺激されて動きはじめ、しだいにひろがる気泡によって体液をその輸送管に沿って圧
迫するのである。生物のなかの生命力の根源となる点は、いわば、髄質が分岐する生命運動であって、
これが当初の生殖いらい継続して行なわれるのである。というのは、卵は母親のなかのこれから花を開
くつぼみたる髄質であって、それが独自の花を営むのは、父親から心臓が授けられてからであるが、も
ともと最初から生きているからである」と。
 われわれはまえに、自然が道徳の点でもまた知能の点でも人間と人間とのあいだに設けた巨大な距離
を考察し、また、性格と精神能力がまったく不変であることを知ったのであるが、これに、性格は父親
から知性は母親から遺伝されるというここで獲得した確信を結びつけるならば、われわれは、人類を根
本的に真に純化するには、外部からよりはむしろ内部から、すなわち、説教や薫陶よりはむしろ生殖と
いう方法によらねばならないという見解に達するであろう。

175 :
 性愛の形而上学

    なんじら、学高く、識深き賢者たちよ、
    そのいわれに思いをめぐらし、これを悟りたる賢者たちよ、
    いかにして、いずこで、またいつ、すべてのものが結びあわされるのか、
    なぜすべてのものが愛しあい、口づけするのか、
    なんじら、気高き賢者たちよ、そのいわれをわれに告げよ。
    いざ示せ、なにごとのわれに起こりしかを。
    いずこで、いかにして、またいつ、なにゆえに、われにかかることの起こりしかを、
    いざわれに示せ。
               (ビュルガー〔『愛らしきスーゼ』第五節〕
 本章をその最後の章となるこれまでの四章は、たがいに関係し合う点が多く、そのためいわば、渾然
ととは言えないまでもともかく一つにまとまっていることは、わたしがわざわざこの講述を中断して引
証したり参考の個所を注意したりするまでもなく、賢明な読者ならばそのことを悟られるであろう。
 詩人が主として従事するのが性愛の描写であることは、普通ひとのよく見るところである。すべての
劇作品は、悲劇的なものでも喜劇的なものでも、ロマンティックなものでもクラシックなものでも、通
例この性愛がその主要なテーマである。抒情詩や叙事詩も同様で、性愛を題材にするものが圧倒的に多い。

176 :
 とくにヨーロッパのすべての文明国ですべて数世紀以前から大地の産物のように毎年規則的に産み
だす膨大な量の小説をこれに加えるなら、もちろんのことである。これらの作品はすべてその主たる内
容から見れば、いま問題にしている激情をさまざまな面から簡単に、あるいは詳細に叙述したものにほ
かならない。さらにこの激情の描写で最も成功したもの、たとえば『ロメオとジュリエット』、『新エロ
イーズ』、『ヴェルテル』などは、不滅の誉をえたのである。それにもかかわらずロシュフコーは、愛の
激情などは幽霊と同じで、だれでも口にはするが見た者はいないのだ、と言っており、また、リヒテン
ベルクも『恋愛の力について』という論文のなかでこういう激情が実際に存在し自然なものであること
に異議をとなえ、これを否定しているが、これは大きな誤りである。というのは、人間の本性とは無縁
でこれに矛盾するもの、すなわち、愚にもつかぬ絵空事が、あらゆる時代にわたり天才的な詩人によっ
て飽きもせずに描かれ、人類によって変わらぬ関心をもって迎えられるなどということは、不可能だから
である。それというのも、真実のないところに芸術の美もまたありえないからである。
  真実よりも美しいものはない。真実のみが愛すべきものなのだ。  (ボワロー)
しかしながらこれは日常の経験ではないまでもともかく経験によって確証されていることでもあるが、
激しいがそれでもまだ抑制することのできる好悪の感情として普通は現われるにすぎないものでも事情
によってひとつの激情にまで高まり、しかもその激情が激烈さにおいて他のいかなる激情をも凌ぎ、
そのためいっさいの顧慮をかなぐり捨て、すべての障害を信じがたいほどの力と忍耐をもって克服し、
この愛情を満足させるためにはためらうことなく命を賭け、いやそれどころか、満足があくまでえられ
ない場合は、あえて命を捨てることもある。ヴェルテルやヤコポ・オルティスのような人間は小説のな
かにだけいるのではなく、ヨーロッパでそういう人間は、少なくとも半ダースはあげることができる。

177 :
「されど彼らの死について知る者はなかりき」、である。というのは、彼らの苦悩は官庁の調査係か新
聞の報道記者以外記録する者がいないからである。それでも、イギリスやフランスの日刊新聞で刑事裁
判の記事を読む者は、わたしの述べていることを証言してくれるだろう。しかしこの激情のため精神病
院へ送られる者の数は、もっと多い。最後に、愛しあいながら外部の事情で仲を裂かれた男女の心中事
件は、毎年一つや二つはあげることができる。しかしこの場合わたしはどうしても説明できないのは、
おたがいの愛を確かめ、この愛を楽しむことに最高の幸福を見いだすことを期待している者たちが、こ
れ以上の大きな幸福は考えられないほどの幸福を命もろとも捨て去るよりは、むしろ非常手段に訴えて
でもいっさいの関係からのがれ、すべての苦労を耐え忍ぼうとなぜしないか、ということである。――
しかし、この熱情の低度のものや単なるきざしに関するかぎり、これはだれでも日々眼にするものであ
り、年をとらぬかぎり、たいていは自分の心のなかにも見いだすのである。
 さて、ここで指摘した事実を見ても、事柄の現実性と重要性は疑うまでもなく明らかであり、した
がって、あらゆる詩人が絶えず扱ったこの主題を哲学者までがあえて取りあげ主題にするのをいぶかる
かわりに、人間生活のいたるところでかくも重要な役割を演じている事柄が従来哲学者にほとんど顧み
られず、手のはいらぬ素材のまま捨ておかれていることをむしろいぶかるべきであろう。この問題をい
ままでに最も多く論じた者はプラトンで、それはとくに『饗宴』と『パイドロス』でなされている。し
かし彼がこの問題について述べたてていることは、神話や寓話、それに洒落の範囲にとどまり、それに
大部分はギリシアの男色のみを扱っている。ルソーは『不平等起源論』(ビポンティウム版九六頁)で
このテーマについてわずかに述べているが、これはまちがいであり不十分である。カントは『美と崇高
の感情について』という論文(ローゼンクランツ版四三五頁以下)の第三章でこの問題を論議している
が、これははなはだ表面的で事実にうとく、そのため部分的には不正確でもある。

178 :
最後にプラートナー の『人類学』(第一三四七節以下)におけるこの問題の論述は、だれが読んでも平
板浅薄に見える。ところがスピノザの定義はあまりにも素朴なものであるから、お笑いぐさに引用するだ
けの価値はある。 いわく、「愛とは、外的な原因をともなっている一種の快感である」と(『エティカ』
第四部・定理四四の証明)。だからわたしにはおよそ先輩などというものは、利用する価値もなければ、
反駁する価値もない。この問題は客観的にわたしに迫ってきたのであって、おのずからわたしの世界観の
関連のなかへはいってきたのである。―ついでながら、ほかならぬその人自身が現在のこの熱情にとり憑
かれているため彼らの満ちあふれた感情をこの世のものならぬきわめて崇高な姿で表現しようと試みる人
びとからは、わたしはいささかの喝采も期待していない。わたしの見解は根本においては形而上学・超越
的であるにもかかわらず、彼らにはあまりにも形而下的でありあまりにも物質的に見えるからである。し
かし彼らにまえもって考えてもらいたいのは、彼らが現在熱狂してマドリガルやソネットを捧げている相
手が十八年も早く生まれていたら、おそあく彼らから見向きもされなかったであろうということである。
 というのはあらゆる恋愛は、いかに崇高な姿を装っても、もっぱら性的衝動にもとづくものであ
り、いやそれどころか徹頭徹尾それは性的衝動のいっそう限定され特殊化されあ、まさに最も厳密な意
味で個別化されたものにすぎないからである。さて、このことを固く心にとめて、性的衝動が、その色
合いや陰影はじつにさまざまであるが、演劇や小説にかぎらず、実生活においても演じている重要な役
割を考察してみよう。

179 :
 実生活でも性的衝動は、生にたいする愛に次いであらゆる動機のうちでも最も強
力で激烈なものとして現われ、人類の若年層の精力と心の半ばは絶えずこのために奪い去られ、人間の
ほとんどすべての努力の究極の目的がこれであり、最も重大な要件にも不利な影響を及ぼす力をもち、
最も真剣な仕事をいつなんどきでも中断させ、ときには最も偉大な頭脳をも一時混乱させることがあ
り、政治家の談合や学者の研究をこういうくだらない色恋ざたで妨害し、恋文や縮れ毛を大臣の折りか
ばんや哲学者の原稿のなかげ忍びこませるすべも心得ており、さらに最も込みいった厄介な事件を日々
たくらみ、最も大事な関係をもぶちこわし、最も強固な絆をも引きちぎり、ときには命や健康を、とき
には富や地位や幸福を犠牲にさせることがある。いやそれどころか、普段は正直な人に良心を失わせた
り、これまで忠実であった人を裏切り者にしたりする。こういうわけでこの性愛というくせものはだい
たいにおいて、あらゆるものをひっくり返し、混乱させ、ぶち倒すことにこれ努めている悪意のあるダ
イモンとして現われる。――このように見てくると、いったいこの騒ぎはなんのためであるか、この狼
藉狂乱、この不安、この困厄はなんのためであるか、それは単に、ハンスが自分のグレーテを見つける
〔どんな人間にもそれぞれ相手がいる〕ということにすぎないではないか、なぜこのような些細なことがか
くも重大な役割を演じ、規律のよい人間生活のなかへ絶えず妨害と混乱をもちこむのであろうか、と人
は叫びたくなるであろう。――しかし真剣に探究すれば、真理の精がおもむろにその答えを明かしてく
れるだろう。ここで問題になっているのは些細なことではなく、むしろ事の重要性は、熱中して真剣
に騒ぎまくるのにまったくふさわしいものである。あらゆる恋愛ざたの究極の目的は、その恋愛ざたが
低い靴をはいて〔喜劇俳優によって〕演ぜられようと、高い半長靴をはいて〔悲劇俳優によって〕演ぜられ
ようと、人間生活におけるあらゆる他の目的よりも実際に重要であり、したがって、人がそれぞれ
この目的をきわめて真剣に追求してみる価値はじゅうぶんにある。というのは、このことによって次の世
代の構成が決定されるからである。

180 :
 われわれが退場したのちに登場する芝居の人物は、ここでは、彼
らの存在も彼らの性質もこのはなはだ取るに足らぬように見える恋愛ざたによって規定されるのであ
る。これらの未来の人間の存在がわれわれの性的衝動一般によって制約されているというように、彼ら
の本質は、この性的衝動を満足させるさいの個人的な選択、すなわち、性愛によって徹頭徹尾制約
されており、そのため、すべての点でもはや変更すべくもないように確定される。ここにこの問題の鍵
がある。われわれはこの鍵を実地に応用し、かりそめの愛から最も激烈な熱情に至るまでさまざまな恋
愛の程度を吟味してゆけば、問題の鍵となる事実にいっそう詳しく通ずるものであろうし、そのさい、こ
れらの程度の相違は選択が個別化される度合いから生ずるものであることを悟るであろう。
 それゆえ現世代の恋愛事件は、総体としてみれば、将来の世代の構成にたいする真剣な思念であり、
将来の無数の世代がまたその構成に左右されるのである。恋愛事件では、その他すべての事件のよう
に個人の幸不幸が問題なのではなく、将来における人類の生存と特定の性質が問題であり、そこで個人
の意思は、いまや強力な権能を与えられ、種族の意思として現われる。ここに恋愛事件のきわめて重要
な意義があり、この重要性が恋愛事件の激烈さと崇高さ、またその歓喜と苦痛の超越的な性格のよって
きたるゆえんであり、数千年このかた詩人が無数の例で倦むことなくこれを描いてきたのも、関心を呼
ぶ点でこれに比肩する主題がないからであって、それというのも、この関心は種族の幸不幸に関するも
のであるため、個人の幸福にのみ関するほかのすべての関心と比較すれば、あたかも平面に対する立体
のごとき観があるからである。だからこそ、恋愛事件のない劇を面白いものにするのは至難のことであ
り、他面、この主題をふんだんに利用しても、そのためそれが使い古されるようなことはけっしてない
のだ。

181 :
 個人の意識に、性的衝動一般として、異性である特定の個人に向けられることなく現われるものは、
それ自体としては、また現象面は別とすれば、生への意思そのものに他ならない。ところが特定の個
人に向けられた性衝動として意識に現れるものは、それ自体としては、まったく特定の個人として生
きようとする意志である。ところでこの場合には性的衝動は、それ自体は主観的欲求〔我欲〕であるに
もかかわらず、欲望を離れた客観的な嘆美という仮面をかぶってじつに巧妙に意識を欺くすべを心得て
いる。というのは、自然は目的を達するにはこういう術策を必要とするからである。しかしながら、こ
の嘆美がいかに客観的に見え崇高な趣を呈しようとも、性的衝動がどんな恋愛の場合でも目ざしている
のは、やはり、特定の政情をそなえた個人を生むことだけである。このことは、まず次のことから確証
される。すなわち重要なのは、愛に応えることなどではなくて、わがものにすること、すなわち、肉体
の享楽だということである。前者が確実だからといって後者を欠いていることの慰めにはけっしてなら
ない。むしろこういう場合にはいままでに自殺した者が多いのである。これに反し、激しく恋している
者は、愛に応えてもらえない場合、相手をわがものにすること、すなわち、その肉体を享楽することを
選ぶ。その例証は、すべての強制結婚や、また相手が嫌っているにもかかわらず莫大な贈り物やその他
の捧げ物で女性の歓心を買うことがきわめてよくあるということ、いやそれどころか、暴力で自由にす
ることすらあるということである。特定のこの子供が生みだされるということが、当事者は知らないで
あろうが恋愛物語全篇の真の目的であって、この目的がどのような方法で達成せられるかは、枝葉末節
にすぎない。こういうわたしの見解に接して、気高い多感な心の者たちが、しかしとくに恋に憑かれた
者たちが、これこそ俗悪な現実主義だといかに大声疾呼しようとも、彼らのほうがやはりまちがっている。

182 :
 思うに、次の世代のもろもろの個性を厳密に規定することのほうが、彼らのあの感情過多や非現実
的な蜃気楼よりもはるかに高遠で尊厳な目的ではなかろうか。いやそれどころか、この地上の目的のな
かでこれにまさる重要かつ偉大な目的がありうるであろうか。恋愛の激情が深く人の心を動かし、それ
が現われるときいかにも真剣であり、この激情の動機とか、またこの激情がひき起こすもろもろの事柄
とかこうした些末な事柄さえきわめえ重要なものとなるのも、この目的があればこそである。この目的を
真の目的として認めるかぎり、そのかぎりにおいてのみ、恋の相手を手に入れるための煩雑さや果てし
ない努力や苦労もその事柄にふさわしいものと見えるのである。というのは、こういうあがきと苦労を
介して生まれでるものこそ、個人として徹頭徹尾くまなく規定されたきたるべき世代だからである。い
やそれどころかこのきたるべき世代は、性的衝動を満足させるためのきわめて慎重で明確な、しかもわ
がままな選択のなかにすでに胎動しているのであって、この選択がすなわち、恋愛と呼ばれるものであ
る。愛しあう二人のいやます恋情は本来すでに、彼らが生みだすことができ、また、生みだしたいと願
う新たな個体の生存意思である。いやむしろ、彼らの憧憬に満ちた眼がたがいに交わされあうとき、す
でにそこに、個体の新たな生命の火が点ぜられたのであり、この生命が、適切に構成された調和のある
未来の個性として告示されているのである。彼らは、真に融合合体することによって一つのものとな
り、もはやただかかるものとしてのみ生きつづけようとする憧憬を感じる。この憧憬は、彼らによって
生みだされた者のうちに実現されるであって、この者のうちに、彼ら両人から遺伝される性質が融合
合体して一つのものとなり生きつづける。逆に、男性と娘が〔結婚前〕たあいに憎みあい、その憎悪が
決定的で永久的なものであれば、これはすでに、彼らが生むことのできるものが出来の悪い、それ自体
不調和で不幸な存在となる予告である。それゆえカルデロンはあの恐ろしいセミラミスを大気の娘とよ
んではいるが、のちに夫殺しの因縁を作る強姦による娘として描いており、そこにも深い意味が宿って
いる。

183 :
 ところで最後に、このように激しい力で性の異なった二つの個体を他のものには目もくれずたがいに
牽きあわせるものは、全種族のうちに具現されている生への意思であって、この意思が両者を生みだす
ことのできる個体のうちにおのれの目的にかなったおのれ自身の本質の客観化を予想しているのであ
る。すなわち、この個体は父親からは意思つまり性格を、母親からは知性を、両者からは体格を受け継
ぐことになる。しかしたいてい容姿は父親のほうに、体の大きさは母親のほうに似るものであって――
これは動物が雑種を生む場合に現われる法則に従っており、この法則は、胎児の大きさは子宮の大きさ
に従わねばならないということにもとづいている。人それぞれのまったく特殊な、彼にのみ固有な個性
は説明しがたいものであるが、愛しあっている二人のまったく特殊な個性的な激情もまたこれと同様で
ある。――いやそれどころか、この両者は根本においては同一であり、前者は、後者に潜在していた
ものの顕現にほかならない。まことに、両親がたがいに見染めあう――イギリスではこれをいみじく
も「たがいに思い染める」〔相手をこうと思い込む〕to fancy each otherと言っているが、―この瞬間こ
そ、新しい個体の出現する端初であり、その生命の真の跳躍点であると見るべきであり、まえにも言っ
たように、彼らの憧憬に満ちた眼がたがいに交わされ見つめあうとき、新たな生命の最初の萌芽が、も
ちろんこれもすべての萌芽と同様にたいてい踏みにじられるのであるが、生じるのである。この新たな
個体は、いわば新たな(プラトン的な)イデアである。ところで、すべてのイデアが猛烈きわまる勢い
でこの世に現象しようとあがき、因果律がそのためにこれらのイデアのすべてに配分する物質を貪婪に
つかみとるように、人間の個性というまさにこの特殊なイデアもまあ、現象界におのれを実現させよう
と猛烈きわまる勢いと貪欲さであがくのである。この貪婪さと烈しさがすなわち、将来の両親たる二人
のあいだの情熱なのである。この情熱には無数の度合いがあり、その両極端は、現世のアプロディテと
天つアプロディテとよぶこともできよう。しかしいずれにせよ、本質においてつねに同一である。

184 :
これに反し情熱の強さの度合いとなると、情熱が個性的になればなるほど、すなわち、愛されている個人
が その容姿のはしばしや性質やこれらすべてのおかげで、愛している個人の希望と独自の個性によるぬ
きさしならぬ欲望とを満足させるのに適した唯一の者であればあるほど、ますます大きくなる。ところで
このさい何が重要であるかは、われわれにこれから順次明らかになろう。恋愛の執着心は、まず第一に
そして本質的に健康と力と美に、したがってまた若さに向けられている。というのは、意思はまっさき
にすべての個性の基礎である人類の種族的性格を具現することを要求するからである。卑俗な色恋ざた
はそれ以上には出ない。つぎにいっそう特殊な要求がこれに結びつく。われわれはあとでこれらの要求
を詳細に研究しようと思うが、情熱は、これらの要求が満足される見込みのあるときに高まるのである。
しかし熱情のなかで最も激しいものは、二人の個性がたがいに調和しており、そのために父親の意思す
なわち性格と母親の知性とがその結合によってほかならぬもの、意思が憧憬を感じている個体を完成し
うる場合に生ずるのであって、その個体こそ、全種族のうちに具現されている生への意思一般が種族の
規模にふさわしい、したがって死すべき人の子の心情の規模を超えた憧憬を覚える当のものであり、ま
たこの憧憬の動機も個人の知性の範囲を超えている。これがすなわち、真の偉大な熱情の魂である。
――ところで、二つの個体相互の調和が、のちに考察すべきじつにさまざまな点のどの点においても完
全なものであればあるほど、彼らのあいだの熱情はますます強くなる。まったく同等な個体というもの
は存在しないから、特定の男性にたいしてはそれぞれ特定の女性が――つねに生まれるべき者に関して
――最も完全に適応していなければならない。こういう男女が出会う偶然というものが非常にまれであ
るように、真に情熱的な恋愛も非常にまれである。しかしこういう恋愛の可能性はだれのうちにも存在
しているのであって、だからこそ詩人の作品における恋愛の描写がわれわれにも理解されるのである。

185 :
 ―ほんらい恋愛の熱情は生みだされるべき者とその性質が中心問題であり、ここにその核心があるの
であって、まさにそのために二人の若い、教養のある男女のあいだに、彼らの志操や性格、心ばえの一
致によって性愛をまじえず友情が成立することがある。いやそれどころか、彼らのあいだには性愛とい
う点ではある種の嫌悪が存在することがあるが、その原因は次の点に求めるべきである。すなわち、彼
らが子供を生むとしたら、その子供は肉体的か精神的に不調和な性質をもつだろうということ、要する
に、彼の生存と性質が、種族のうちに具現されている生への意思の目的に適応しないだろうということ
である。これと逆の場合には、志操や性格、心ばえが異なっていながら、しかもそのためたがいに嫌い
あいながら、いや憎みあいながらも、それでも性愛が生じ、この性愛が以上すべての事柄にたいして盲
目にする場合にはそれが存続することがある。ここで性愛が結婚へ誤って導くようなことがあれば、そ
れは〔当事者たる個人にとっては〕非常に不幸なものになるであろう。―
 さて、問題をいっそう根本的に検討してみよう。エゴイズムは一般にあらゆる個性に非常に深く根ざ
している特質であって、そのため、個人の活動を触発するには利己的な目的は、確実にその効果を期待
することのできる唯一の目的である。たしかに種族の個体にたいする権利は、はかない個性よりもさら
に以前のものであり、さらに直接的で、さらに大きなものである。しかし、個体が種族の存続とその性
情のために働かせられ、犠牲まで捧げさせられる場合、単に個人的な目的のみを目ざしているその知性
にたいし、事の重要性を理解させ、事が事だけにそれがいかに重要か、ということを感じさせることが
できない。そこでこういう場合に自然がその目的を達成するために取りうるただ一つの方法は、自然が
個人に或る種の妄想を植え付けることであって、この妄想のため、ほんとうは単に種族にとって善であ
るものが彼には自分自身にとって善であるように見え、そこで彼が自分自身のためにつくしていると妄
想しているのに、じつは種族のためにつくすことになる。

186 :
 こういうわけで、あとでただちに消えてしま
う幻想が彼のまえに浮かび、これが動機として現実の代わりに働くことになる。この妄想がすなわち本
能である。本能はたいていの場合、種族の感覚と見なされるべきであって、種族に役立つことをこれが
意思に描いて見せる。ところが意思は、ここでは個体的になっているため錯覚を起こし、種族の感覚が
彼のまえに掲げてみせるものを個体の感覚をつうじて知覚せざるをえない、すなわち、単に全体の(こ
の言葉を最も本来の意味に解釈して)目的を追求しているのに、個人的な目的を追求しているように妄
想せざるをえない。本能の外面的な現象は、動物で最もよく観察することができる。というのは、本能
の役割は動物の場合に最も明瞭だからである。ところが本能の内面的な経過は、あらゆる内面的なもの
と同様、われわれがわれわれ自身に即してのみ知ることのできるものである。ところで、人間は本能と
いうものをほとんどもたない、たかだか、生まれたばかりの赤子が母親の乳房を求めてつかむぐらいの
本能しかもたないと考えられているのはたしかであるが、しかし実際は、或るひとつの非常に確実で明
瞭な、いや非常に複雑な本能、すなわち、性的満足のために異性をきわめて微妙かつ真剣に、しかも気
ままに選択する本能をわれわれはそなえているのである。異性の美醜は、この満足それ自体からすれば、
すなわち、それが個体の切実な欲求にもとづく感覚的な享楽であるかぎり、この満足とはほとんどなん
の関係もない。したがって、それにもかかわらず美醜にあくまで拘泥し、またそのために慎重な選択が
なされるというのは、選択する者はそのように妄想はしているけれども、明らかに選択する者自身とは
関係がなく、真の目的、すなわち生みだされるべき者に関係がある。というのは、種族の典型をこの生
みだされるべき者にできるだけ純粋に正確に獲得させようと思うからである。

187 :
すなわち、無数の身体上の事故や精神上の不幸によって、人間の形態に実にさまざまな変種が生ずるが、
それでも種族の純正な典型がそのあらゆる部分にわたってまたしても作りだされるのであって、これは、
性的衝動をあらゆる場合に先導する美的感覚の指導のもとになされるのであり、この美的感覚がなければ、
性的衝動は吐き気を催すような欲望に堕落するのである。そこでだれでもまず第一に、最も美しい個体を、
すなわち、種族の性格が最も純粋に現われているような個体を断固として選び、これを激しく熱望する。
しかし彼は第二に、相手にたいし自分に欠けている完全性をとくに要求する。いやそれどころか、自分の
欠点と反対の欠点を美しいと思うことさえある。たとえば、小柄な男性が大柄な女性を求め、金髪の者が
黒髪の者を好むのもそのためである。――男性が自分にふさわしい美女を見て惑乱し、そのため、この美
と一体になることが最高善だと思いこむのは、これがまさに種族の感覚であって、この感覚が、明らかに
示されている種族の刻印を見てとり永久にこの刻印を種族が失わぬようにさせたいと思うからである。
種族の種族たるゆえんの典型が維持されるのは、美にたいするこの断固たる執着のためである。だから
こそこの執着はじつに強力に作用するのである。この執着心がどういう点を顧慮するかは、あとでとく
に観察することにする。それゆえ、この場合人間を導いているのは実際は本能であって、この本能が種
族の最善のものを目ざしているのであるが、人間自身はこれを単におのれの享楽を高めるための努力に
すぎないと妄想している。――じじつ、あらゆる本能はほとんど例外なく、人間の場合と同様に種族の
幸福のために個体を動かすものだという本能のこの本質を明らかに示す有益な教訓がここにある。

188 :
というのは、昆虫が特定の花や果実、あるいは汚物や腐肉を、また姫蜂のようにほかの昆虫の死骸をさ
がす場合じつに慎重であるが、これも自分の卵を産みつけるのに適切なただ一つの場所を求めるためで
あり、これを見つけだすための苦労も危険もあえて厭わないが、これは、男性が性的満足のために彼の個
人的な好みに合った特定の性質をそなえた女性を慎重に選択し、彼女を獲得しようと熱心に努力し、こ
の目的を達成するためにしばしば理性のいかなる言葉にも耳をかさず、財産や名誉や命にもかかわる愚
かな結婚や情事、はては姦通や強姦などの犯罪によって生涯の幸福を犠牲にするのとよく似ている。こ
れらすべてはただ、個体を犠牲にしても、つねに主権者たる自然の意思に服して最も有効に種族に奉仕
するためにすぎない。すなわち、本能とはいかなる場合でも、目的概念に従っているかのように見えな
がら、実際はまったく目的概念をもたずに働くことである。自然が本能を植え付けるのは、行動する個
体が目的を理解することができないか、あるいは目的を追求することを欲しないような場合である。そ
れゆえ本能はふつう動物にのみ、しかも最も下等な動物にとくに与えられる。というのは、これらの動
物はきわめてわずかな悟性しかもたぬからである。しかし、ここで観察してきた場合にほとんどかぎら
れるが、人間にも本能が与えられている。というのは、人間はたしかに目的を理解するが、しかしその
目的を必要なだけの熱心さで、すなわち彼の個人的な幸福を犠牲にしてまで追求しようとはしないか
らである。したがってここでも、あらゆる本能の場合と同様、心理は意思に働きかけるために妄想とい
う形態をとる。好色な妄想が彼にふさわしい美しさをそなえた女性の腕にいだかれることが他のどの女
性の腕にいだかれるよりも大きな快楽だと男性に思いこませるのである。あるいはこの妄想がただ一人
の個人にのみ向けられ、この女をわがものにさえすればそれこそ幸福で有頂天になるだろうと固く信じ
ているが、これもじつは種族の純正な典型の維持のために、いやむしろ、この両親からのみ生まれる
まったく特定の個性を生みだすために行われるのである。

189 :
 この場合、本能というものの性格、すなわ
ち、目的概念に従っているかのように見えながら、じつは目的概念をもたずに行動しているというこの
性格がきわめて完全に保持されており、かの妄想にかりたてられる者は、彼を導く唯一のものである目
的すなわち生殖を忌避したり、妨げたりすることさえある。つまり道ならぬ恋の場合がほとんどすべて
そうである。事柄の性格が以上述べたとおりのものであるため、恋人たちはすべて、ようやくのことで
想いをとげると奇妙な失望感を覚え、これほどまでにあこがれ望んでいたことが他のすべての性的満足
より格別ましなものでなかったことに驚き、そこで、そのためたいして得もしなかったことを悟るので
ある。すなわち、かの願望とその他のあらゆる願望との関係は、種族と個体、つまり、無限なるものと
有限なるものとの関係のようなものである。ところが満足はほんらい種族のためのみのものであり、そ
のため個体には意識されない。というのは、個体は、この場合種族の意思に鼓舞され、自分の目的では
まったくなかった目的にいかなる犠牲を払っても仕えるからである。そこですべての恋人たちは、この
大仕事をついにしとげたのちに、瞞着されたことを悟るのである。というのは、この場合は妄想によっ
て個体は種族にだまされていたのであるが、この妄想が消えうせたからである。したがって、快楽にま
さるほら吹きはいないというプラトンの言葉はまことに至言である。
 ところでこれらのことは逆にまた動物の本能とその工作衝動を明らかにする。動物もまた明らかに一
種の妄想にとらわれ自分自身の快楽のためだと錯覚しているが、じつは種族のために営々と献身的に働
いているのである。たとえば鳥が自分の巣をつくり、昆虫が産卵に適したかけがえのない場所を求めた
り、あるいは、自分が食うためではなく将来の幼虫の飼として卵のかたわらに添えておかねばならない
獲物をあさるようなことまでしたり、蜜蜂や雀蜂や蟻が巧妙な巣づくりやきわめて複雑な営みに従事し
たりするのも、みなそうである。

190 :
 一種の妄想がたしかに彼らすべてを導いているのであって、この妄想
が、種族にたいする奉仕にエゴイスティックな目的という仮面を被らせるのである。おそらくこれが、
本能のさまざまな現われの根底にある内面的な、すなわち主観的な経過をわれわれが理解する唯一の方
法であろう。しかし本能によって強く支配された動物、ことに昆虫の場合に、外面的に、すなわち客観
的にわれわれに示されるのは、客観的な組織、すなわち脳髄組織、にたいする神経節組織、すなわち主
観的な神経組織の優位である。ここから推察されるように、これらの動物をかりたてるのは、客観的な、
正確な把握であるというよりはむしろ願望をかきたてる主観的な表象、すなわち、脳髄にたいする神経
節組織の影響によって起こる表象であり、したがって、或る種の妄想であって、これがあらゆる本能に
おける生理学的な経過である。――このことを例証するためにわたしは、本能が人間にいささか微弱で
はあるが存在することの他の例として妊婦の食物にたいする気まぐれな嗜好をあげよう。こういう嗜好
が生ずる原因と思われるのは、胎児の栄養のために胎児に流入する血液が特殊な、つまり一定の変化を
受ける必要が生じ、その必要に応じてこのような変化をひき起こす食物がただちに妊婦にたいし熱望の
対象となって現われるということ、すんわち、ここでもひとつの妄想が生ずるということである。こう
いうわけで女性は男性よりも本能を一つ余計にそなえている。事実また神経節組織は女性のほうが男性
よりもはるかに発達している。――人間のそなえている本能は動物よりも数が少なく、その数少ない本
能さえとかく道を誤らされがちであるということも、人間の場合脳髄が非常に優勢であるということか
ら説明できる。すなわち、性的満足のための選択を本能的に導く美的感覚が男色などという堕落した病
癖に陥るのも、この感覚が道を誤らされたのである。あおばえ(ムスカ・ウォミットーリア)がその卵
を本能の命ずるように腐肉のなかに生みつけないで、天南星の花に、この植物の死臭に惑わされて産み
つけるというようなことも、これに似ている。

191 :
 ところで生まれるべき者を徹頭徹尾目的とする本能があらゆる性愛の根底にあるということは、本能
をいっそう詳細に分析すれば、完全に確証されることであるから、ここでぜひともこれを行なっておき
たい。――まず第一にとりあげねばならないのは、一般的な傾向として男性は生来恋愛では気が変わり
やすいが、女性は気が変わらないということである。男性の愛情は、想いをとげた瞬間から、いちじる
しく減退する。他の女性ならほとんどどの女性でも、彼がすでにわがものにしている女性よりは彼に
とって魅力がある。彼は変化を切望するからである。ところが女性の愛情はまさにその瞬間から高ま
る。これは、自然が種族を維持し、できるだけこれを増加させることを目ざしているというこの自然が
追求する目的の結果である。すなわち、男性は一年に百人の子供でも平気で生むことができる、彼にそ
れと同数の女性を提供するならば。ところが女性は、いかに多くの男性を与えられても一年に一人の子供し
か(双生児は別であるが)生むことができない。だから男性はつねに他の女性をさがし求めるのであ
る。これに反し女性はほとんどただ一人に執着する。というのは、自然は女性を動かして、本能的に、
反省を伴わずとも未来の子供の養育者であり保護者である男性をわが手から失わぬようにさせるからで
ある。したがって夫婦間の貞節は、男性にとっては努めてなすことであり、女性にとっては自然であ
る。それゆえ女性の姦通は、客観的に、すなわちその結果から見ても、主観的に、すなわち、それが自
然に反するという点から見ても、男性の姦通よりもはるかに許しがたい。
 しかしながら、異性に接して覚える満足は、われわれにはそれがいかに客観的なものであるように見
えても、単に本能が仮装したもの、すなわち、種族の典型を維持しようと努力している種族の感覚であ
るが、このことを根本的に洞察し完全に確信するためにはさらに、この満足を覚えるさいにわれわれを
導いているもろもろの顧慮にいたるまでいっそう詳細に検討し、その細目にまで立ち入らなければなら
ない。

192 :
もっとも、ここでこういう細目にまでわたって述べるということは、哲学の著作ではいかにも奇妙に見
えるであろうが。これらの顧慮は、直接種族の典型に、すなわち美に関するもの、および、精神上の特
質に向けられているもの、最後に、単に相対的にすぎないものとに分かれる。この最後のものは、両個
体の一面性や畸形を相互に修正し相殺しあう必要から生ずる。われわれはこれらの顧慮を個々に検討し
てみよう。
 われわれの選択と好みを導く最も重要な顧慮は年齢である。だいたいにおいて、この年齢は月経が始
まってから終わるまでの年齢と考えてよい。しかし、十八歳から二十八歳までの時期が断然優先する。
これに反し、女性はこの年齢からはずれると、われわれに魅力を感じさせない。年老いた、すなわち月
経の終わった女性はわれわれに嫌悪を起こさせるだけである。年が若ければ美しくなくてもつねに魅力
がある。美しくても若さがなければ魅力はない。――この場合われわれを無意識に導いている意図は明
らかに生殖一般の可能性である。それゆえどの個体も、生殖、あるいは受胎可能な時期から離れるにし
たがって、異性に対する魅力を失う。――第二の顧慮は健康にたいする顧慮である。急性の病気は一
時妨害となるにすぎないが慢性の病気やあるいは単に病弱であるというだけでも人を恐れさせるのは、
これが子供に遺伝するからである。――第三の顧慮は骨格であるが、それは、骨格が種族の典型の基礎
だからである。年をとっていることや病気についで、畸形ほどわれわれを嫌悪させるものはない。どれ
ほど容貌が美しくてもそれの埋め合わせにはけっしてならない。むしろ体つきが正常ならば、どんなに
容貌が醜くても絶対にこのほうを選ぶだろう。さらに体格が不均衡なものはそれがどういうものであっ
てもわれわれは最も鋭敏にこれを感じる。たとえば、発育が未熟だったり、ずんぐりしているとか、足
が短いとか等々であるが、びっこも、それが外部の事故の結果でない場合は、同様である。

193 :
これに反し、容貌が人目に立つほど美しければすべての欠点を補って余りがある。それがわれわれを魅惑
するからである。これもここで注目すべきことのひとつであるが、すべての人が足が小さいことを尊重す
るのは、足が小さいということが種族の重要な特徴だからであり、どんな動物でも跗骨と蹠骨とを合わせ
ると人間のように小さいものはおらず、これは直立して歩行することと関係があり、人間は蹠骨動物だか
らである。そこでイエズス=シーラハもまた(二六の二三、クラウスの改訂訳による)、「容姿がすらり
として足の美しい女性は、銀の台座の上に立っている黄金の柱のようである」と言っている。歯もわれ
われには重要である。というのは、歯は栄養にとって重要であり、とくに遺伝しやすいからである。
――第四の顧慮は、或る程度の肉づきの豊かさ、すなわち、植物性機能、つまり造形力が優勢なことで
ある。これが胎児に豊富な栄養を約束するからである。そこで、ひどくやせている場合われわれは非常
に不快を感じる。豊満な女性の胸が男性にとって非常な魅力があるのは、それが女性の生殖機能と直接
関係があり、新生児に豊富な栄養を約束するからである、ところが肥満しすぎた女性はわれわれに嫌悪
を感じさせる。その理由は、こういう体質は子宮の委縮を、すなわち不妊を暗示するからである、これ
は、頭でわかるのではなくて本能でわかる。――容貌の美しさを顧慮するのは、最後になってからのこ
とである。ここでもとくに問題になるのは骨相である。そこで美しい鼻が主として注目され、団子鼻で
はすべて台なしである。鼻が少々上向きか下向きかで生涯の幸福を決められた娘は数知れぬほど多い
が、それもけだし当然のことである。というのは、種族の型がまさに問題だからである。顎骨が小さ
く、そのため口が小さくできているのは、動物の口と対照的で、これは人間の容貌の特徴として非常に
重要である。いわば削りとられたように引っ込んだ顎は、とくにいやがられる。それは顎の張ってい
るのがわれわれ人類のみに見る特徴だからである。最後に登場するのが、美しい眼と額にたいする顧慮
である。それは精神上の特質、母親から遺伝される知的な特質と関係あるからである。

194 :
 他方、女性の好みからなされ無意識な顧慮となると、もちろんわれわれは男性の場合ほど詳しく示
すことができない。ただ次のことだけは、だいたいにおいて主張することができる。女性は、青年が
元来人間の最高の美を示すものであるにもかかわらず、主としてこの年頃よりは、三十歳から三十五歳
までの年齢の男性のほうを好むものである。その理由は、女性を導くのは趣味ではなくて、この年齢を
生殖力の全盛期と見る本能だということである。一般に女性は、美にたいしては、とくに容貌の美しさ
にたいしては注目しない。まるで子供に美を授ける仕事を引き受けるのは自分たちだけだと言わんばか
りである。女性の心をとらえるのは主として男性の力であり、この力から生まれる勇気である。という
のは、この力と勇気が、強壮な子供と、それと同時に子供の勇敢な保護者を約束するからである。男性
にどういう肉体上の欠点があっても、また典型から逸れた点があっても、女性自身がこれらの点で欠点
がなく、というよりむしろ反対に人並み以上であれば、そのことによって女性は、子供に関するかぎり
生殖によってこれらの欠点を解消することができる。ただ男性側の性質で、男性に固有の、したがって
母親が子供に授けることのできないものは別である。男らしい骨格、肩幅の広さ、しまった腰、まっす
ぐな足、筋肉の力、勇気、ひげ等々がこれである。女性が醜い男性を愛することはしばしばあるが、男
らしくない男はけっして愛さないのも、このためである。それは、こういう男性の欠点を女性は相R
ることができないからである。
 性愛の根底にある顧慮で第二の種類は、精神上の特質に関するものである。ここでわれわれが発見
するのは、女性は例外なく男性における心情、或るい性格の特質にひかれるということである。――と
いうのは、これらの特質は父親から遺伝するからである。女性を魅するのは、堅忍不抜の意思、決然と
事を断行する勇気、それにまたおそらくは誠実さと親切なことであろう。ところが知的な長所は、女性
にたいし直接の、まあ本能的な影響力をもたない。それはつまり、知的な長所は父親から遺伝しないか
らである。相手の無知は女性の場合どうでもよいことである。

195 :
 卓越した精神力とか、あるいは天才となると、一種の変態としてむしろ不利な印象を与える。醜くて、
愚かで、粗野な男が教養も才気もある好ましい男を押しのけて女性の愛をうるのは、そのためである。じ
じつまた、精神的に異質の男女のあいだにしばしば恋愛結婚が成立することがある。たとえば、彼のほう
は粗野で、腕っぷしが強く、頑迷なのに、彼女のほうは多感で、思慮深く、教養もあり、情操が豊かだと
か、あるいは彼のほうはまったく天才的な学者なのに、彼女のほうは馬鹿だというような場合など。
  これぞヴィーナスの女神のしわざ、
  身も心も似ざる者に青銅のくびきをかけて
  笑いはやすは
その理由は、ここでは知的な顧慮よりもまったく別の顧慮が――すなわち、本能の顧慮が優先している
からである。結婚の目的は、才気煥発な会話ではなくて、子供を生むことである。それは、心と心の結
びつきであって、頭と頭の結びつきではない。女性が男性の精神にほれこんだなどと言い張るのは、根
も歯もない笑止千万な嘘っぱちか、さもなければ、変質が昂じたものである。――ところが男性は、本
能的な恋愛を女性の性格上の特質によって決めたりはしない。だからこそ、じつに多くのソクラテスが
彼らのクサンティッペを見いだしたのであって、たとえば、シェークスピア、アルブレヒト・デューラ
ー、バイロン等々みなしかりである。しかしこの場合〔女性の〕知的な特質は〔選択に〕影響する。それ
が母親から遺伝するからである。しかしこの知的な特質の影響よりもだんぜん優勢なのは、肉体美の影
響である。このほうがより本質的な点でいっそう端的に作用するからである。ところで、母親が娘と男
性にとって魅力のあるものにするために、彼女たちに美術や語学等々を習得させるのも、かの知的な特
質が男性に与える影響を感得しているか、あるいは経験しているためになされることである。彼らはこ
の場合、人為的な手段で知性を補強しようとしているので、必要な場合に腰や胸にたいしてとる措置の
ようなものである。――

196 :
 ここで注意を要するのは、真の恋愛を芽生えさせる唯一の魅力であるまったく
直接的な、本能的な魅力がもっぱらここで問題になっているのだということである。聡明で教養のある
女性が男性の知性や精神を尊重したり、男性が理性的な思慮によって花嫁の性格を調べこれを参考にし
たりすることがあるが、これは、ここで問題にしている事柄とはなんの関係もない。このようなことは、
結婚する倍の理性的な選択の基礎とはなっても、われわれの主題である激情的な恋愛の基礎にはならない。
 これまでは、わたしは絶対的な、すなわち、だれにでも通用する顧慮のみを考察してきた。こんどは
相対的な顧慮を扱うことになるが、これは個人的なものである。というのは、これらの顧慮の目的は、
すでに現われている種族の型の欠陥を修正し、選択する個人自身がすでに身に帯びている型の歪みを訂
正し、こうして典型の純粋な表現に帰らせることだからである。それゆえここではだれも、自分に欠け
ているものを好む。このような相対的な顧慮から生ずる選択は、個人的な性情から生じ、個人的な性情
に向けられているため、単に絶対的な顧慮から生ずる選択よりもはるかに明確で決定的であり、排他的
である。それゆえ、真に激情的な恋愛の根源は普通これらの相対的な顧慮のなかにあり、通常の比較的
弱い愛情だけが絶対的な顧慮にもとづく。したがって、偉大な熱情に火を点ずるのは、つねに端正で完
全無欠な美であるとはかぎらない。このように真に激情的な愛情を生じさせるには、或るなにものかが
必要であって、これは科学的な比喩によってのみ表すことができる、すなわち、ふたりは、酸とアル
カリが中和して中性塩となるように、たがいに中和しなければならない。それに必要な規定は主として
次のようなことである。

197 :
 第一に、男らしいとか女らしいとかいう性的能力というものはすべて偏ぱであ
るということである。この偏ぱな一面性は或る個人には他の個人よりもいっそう決定的に現われ、より
高度に存在しており、そこでそれぞれの個人におけるこの一面性は、異性のうちの或るものよりも他の
ものによっていっそうよく補完され中和されることがある。それは、すべての個人は、新たに生みださ
れるべき者の性質がすべてのものの帰趨するところであるから、この生まれるべき者における種族の典
型を補完するために、おのれの一面性と反対の一面が必要だからである。生理学者のよく知るところで
あるが、男らしさと女らしさには無数の度合いが許されており、前者がこれらの段階を下降すると、か
の胸の悪くなるというようなギュナンダーやヒュポスパドイスとなり、後者がその段階を上昇すると、
あの優美なアンドロギュネーとなる。どちらかの側から出発しても完全なヘルマフロディテイスムスに
達することができ、この段階にある個人は、両性のまさに中間を保ち、両性のいずれにも属さず、した
がって生殖には無能力である。そこで、いま問題にしている男女両性の二つの個体の作用を中和するた
めに必要なのは、この両個体の一面性がたがいに過不足なく相殺されるように、男性がそなえている男
らしさの一定の度合いが女性がそなえている女らしさの一定の度合いと完全に一致するということであ
る。したがって男らしい男性は女らしい女性を求め、またその逆にもなる。まさにこのようにして各個
体は、性の度合いが自分に等しい相手を求めるのである。ところで二人のあいだにこの点に関し必要な
釣合がどの程度とれているかということは、彼らによって感知され、他の相対的な顧慮とならんで、恋
愛の熱度を高める基礎となる。それゆえ、相愛の男女が自分たちの魂の調和を感激して語るけれども、
問題の核心は、ここで明らかにした調和、すなわち、生みだされるべき者とその完全性とにかかわる調
和であり、明らかにこの調和のほうが、彼らの魂の調和よりもはるかに重要である。

198 :
―魂の調和などといっても。結婚してまもないうちに破れてしまい、はなはだしい不調和の生ずることが
しばしばある。さて、これにつづくのがさらに次に述べる相対的な顧慮で、これらの顧慮は、自分の弱点
や欠点、また典型の歪みなどが生みだされるべき子供のうちに永久化されたり、それどころか完全な変態
になってしまったりしないように、各人がこれらを相手によって解消しようと努めることにもとづくもの
である。男性が筋肉の力が弱ければ弱いほど、それだけますます強壮な女性を求めるであろうし、女性の
ほうもまた同様である。ところで、筋肉の力が弱いのは女性には自然で普通のことであるから、女性はふ
つう力の強い男のほうを好むものである。―さらに、身長も重要な顧慮である。小柄な男性は大柄な女性
を断然好むものであり、その逆も同様である。ただし小柄な男性が、彼自身は大柄な父親のたねで生まれ
たのに、ただ母親の影響で大きくなれなかっただけの場合には、大柄な女性にたいする好みはいっそう
激しくなる。というのは、彼は父親から血管組織と、大きな身体に血液を供給することのできるそのエ
ネルギーを受け継いでいるからである。ところが男性と祖父がすでに小柄だった場合は、大柄な女性に
たいするこの執着はそれほど強くは感ぜられないだろう。大柄な男性にたいする大柄な女性の嫌悪の根
底には、あまり大きすぎる人種を避けようとする自然の意思が働いており、それは、大きすぎると、こ
ういう女性が与えうる力では、長く生きるには弱すぎるからである。それにもかかわらず、こういう女
性がたとえば社交界で見ばえをよくするために大柄な男性を選んだりすると、たいてい子孫がこういう
愚行の償いをするはめになる。さらに、色つやにたいする顧慮も非常に決定的である。金髪の者はあく
まで黒髪か褐色の髪の者を要求するが、後者が前者を要求するのはまれにしかない。その理由は、金髪
と青い眼自体がすでに変種であり、というより一種の変態ともいうべきものであって、白ねずみか、少
なくとも白馬と似たようなものである。

199 :
 彼らの住みつくのはヨーロッパのみで、世界のその他の地域で
は、たとえ極地の近くでも住みつかず、その祖先は明らかにスカンディナヴィアから出たものである。
ここでついでに私見を述べさせてもらえば、皮膚の色が白いのは人間にとって自然なことではなく、人
間は元来、われわれの祖先であるインド人のように皮膚は黒色か褐色であり、したがって白人などとい
うものはけっして自然の腹から生まれたものではなく、白色人種などとよく言われるけれども、そうい
うものは現実に存在しないのであって、白人というものはすべて褪色した人間である。なじめない北方の
土地へ追いこまれ、その土地で異国の植物のように冬になれば温室が必要になるような生存をひたすら
つづけるだけで、こうして数千年のあいだに人間は白色になったのである。ジプシーはインド人の一種
で、約四世紀後にはじめてヨーロッパに移住してきた者であるが、彼らは、インド人の皮膚の色がわれ
われのそれに変わろうとする過渡期な状態を示している。自然が性愛において原型としての黒髪と褐色
の眼に復帰しようと努力するのはそのためである。ところが、インド人の褐色の皮膚に特別嫌悪するほ
どではないまでも、皮膚の白色が第二の天性となってしまったのである。――最後に、人はすべて身体
の個々の部分においても自分の欠陥と歪みを修正するものを求めるもので、その部分が重要であればあ
るほど、その要求はますます断固たるものになる。そこで団子鼻の人間はわし鼻やおうむのような顔に
えも言われぬ満足を覚えるということになる。その他すべての部分についても同様である。胴体や手
足があまりほっそりして、ひょろ長い人間は、以上にずんぐりして小柄な人間でもけっこう美しいと思
うものである。――気質にたいする顧慮も同様である。だれでも自分と反対の気質のほうを好むもので
ある。ただし、これはただ、自分の気質がどれほど決定的であるかによるのであるが。――本人自身が
なんらかの点で非常に完全な者は、なるほど、この点において不完全なものを格別好んだり求めたりは
しないが、それでも他の人びとよりはこの不完全性と妥協することが容易である。

200 :
 というのは、彼自身がこの点における大きな不完全性から子供を守っているからである。たとえば、本
人自身が非常に色の白い者は、顔の色が黄色くてもあまり嫌悪を感じないが、顔の色の黄色い者は、輝く
ばかり顔の白いのを見ると、神々しいほど美しいと思うのであろう。――男性が決定的に醜い女性に惚れ
こむということがまれにあるが、こういう場合に起こるのは、前述したように性の度合いが厳密に調和し
ていて、彼女のすべての異常性が彼の異常性とまさに正反対のもの、すなわち、それを修正するものであ
るときである。ふつう恋愛の熱が上がるのはこういうときである。
 われわれは女性の身体となるとどの個所でもさぐるように眺め、女性は女性で同じようにやるが、そ
のさいの非常な真剣さ、また、好意を覚えはじめた女性を検査するときに品定めでもするかのようにい
かにも綿密周到であることや、われわれの選択が気ままなこと、花婿が花嫁を観察するさいに集中する
注意、どんな部分についても欺かれまいとする用心深さ、また彼が重要な部分においてはどのような程
度の相違でもこれを非常に重視するということ、――これらはすべて、目的の重要さにまったくふさわ
しいことである。というのは、新たに生みだされるべきものは、一生涯、これと似た部分を持ってまわ
らねばならぬからである。たとえば、女性が少々背中が曲がっているだけで、子供がせむしになること
もとかくありがちであり、その他すべてのことも同様である。――もちろん、これらのことが意識され
ているわけではない。むしろ人はすべて自分自身の快楽のためにあの困難な選択を行なっているのだ
(自分の快楽はじつはこのさいなんの関係もないのに)と妄想している。しかし彼は、彼自身の体質の
前提のもとに種族の利益に正確に合致するように選択を行なっているのであって、この種族の典型を純
粋に維持することがその隠れた使命なのである。

201 :
 このさい個体は、それとは知らずに、より高いもの、
すなわち種族の委託のもとに行動する。そこで、彼自身にとってはどうでもよいかもしれない事柄、い
な、どうでもよいにきまっている事柄が重視される。はじめて会う二人の若い男女がたがいに相手を観
察するさいのあの深い、無意識な真剣さとか、たがいに相手に向かって投げるあのさぐるような、底の
底まで見ぬかぬにはおかぬといった視線、また両人の人品骨柄のあらゆる特徴や部分が受けねばならぬ
入念な検査などには或るまったく独特なものがある。すなわち、この探究や検査は、彼ら両人によって
可能な個体とこの個体のもろもろの性質の組合せとについてなされる種族の霊の瞑想なのである。そ
の結論いかんによって、彼らがたがいに相手に覚える満足と相手を熱望する度合いが決定する。この
熱望は、すでにかなりの度合いに達したのちでも、突然消えうせることがあるが、それはいままで気づ
かずにいたなにか或るものを発見するからである。――種族の霊はこのように、生殖能力のあるすべて
の者のうちにあってきたるべき世代を瞑想するのである。このきたるべき世代の素質こそ、恋愛の神ク
ピドー〔キューピッド〕が一心不乱に、瞑想と思念にふけりながら取り組んでいる大仕事である。種族
とすべてのきたるべき世代にかかわるキューピッドのこの重大な仕事の重要性と比較すれば、どれもこ
れもおしなべて蜻蛉のごとくはかない存在である個体の仕事などは取るに足らぬものである。だからこ
そキューピッドは、仮借なく個体を犠牲にすることをつねに覚悟しているのである。というのは、彼が
個体にたいする関係は、不死なるものが死すべきものにたいする関係と同様であり、彼の利害が彼らの
利害にたいする関係は、無限の利害が有害な利害にたいする関係と同様だからである。それゆえ彼は、
単に個体の幸不幸にかかわるだけの仕事と比べてより高遠な種類の仕事をつかさどっているということ
を自覚することによって、戦乱のただなかにあっても、仕事に追いまくられ右往左往している生活のな
かでも、また、疫病が荒れ狂っているあいだでもこの仕事を超然とやってのけ、仕事をやりとげるため
なら、浮世を離れた僧院のなかまでも踏みこむのである。

202 :
 種族の典型をできるだけ回復するために、一方の個体が他方の個体のまったくかけがえのない特別の
完全な補足である場合には、この他方の個体がもっぱらその一方の個体のみを熱望するのであるが、二
つの個体の身体上の素質がまさにかかるものである場合があることを示すことによって、恋愛の強度が
その個体化ととも増加することを、われわれはこれまで見てきたのである。この場合すでにそうとうな
熱情が生ずるが、この熱情は、唯一の相手に、しかしただその相手にのみ向けられることによって、し
たがっていわば種族の特別な委託を受けて現われるというまさにそのことによって、いっそう高貴な、
崇高な趣を帯びるのである。単なる性的衝動が下劣なのは、これと反対の理由からであって、こういう
衝動は個性化されずにすべての人に向けられ、種族の質はほとんど顧慮せず、ただ量の点でのみ種族を
維持しようと努めるからである。ところが恋愛の個性化と、またそれとともにその強度が高度なものに
なると、もしこの想いがとげられない場合は、この世のあらゆる財宝、いや、生命すらその価値を失う
ことがある。こうなると恋愛という願望は、他のいかなる願望にも及ばぬほど激しいものになり、その
ためいかなる犠牲をもあえて辞せず、これがいつまでも遂げられないとなると、狂気か、それとも自殺
にまでかりたてることがある。このような極端な激情の根底にある無意識な顧慮は、以上示したものの
ほかに、われわれがこのように眼前に見ることのできない別のものがあるにちがいない。そこでわれわ
れは、この場合体質だけではなく、男性の意思と女性の知性がとくにおたがいに適応しており、そのお
かげで、種族の霊がここで意図している或る特定の個体が彼らによってのみ生みだされうるのであり、
その理由は、物自体の本質のうちにあるため、われわれのうかがい知ることのできないものであると考
えざるをえない。さらに端的に言えば、生への意思はここで、この父親とこの母親とのみから生みださ
れることのできる或る特定の個体のうちに客観化されることを要求しているのである。

203 :
 意思そのもののこの形而上的な要求は、さしあたっては、未来の両親の心以外もろもろの存在者のう
ちに活動する舞台をもたない。そのため彼らの心がこの衝動にとらわれ、その目的がいまのところはま
だ純粋に形而上的でいっさいの現実に存在する事物とは別のところにあるものを、彼ら自身のために願
望しているかのように妄想する。それゆえ、ここにはじめて可能となった未来の個体の生まれ出ようと
する衝動は万物の根源から生ずるものであるが、この衝動こそ、未来の両親がたがいに相手に向かって
いだくあのおのれ以外いっさいのものを眼中におかぬ烈しい熱情となって現象のうちに現われるもので
あり、実際これこそ比類なき妄想であって、そのため、このように恋にかかった男性は、他のどんな女
性と寝ようと実際はたいして変わりはないのに、この女性と寝るためならこの世のあらゆる財宝を捧げ
ても惜しくはない気持になるのである。それにもかかわらず、目的が単に女と寝るためにすぎないこと
は、この烈しい激情も他のすべての激情と同様享楽と同時に消えうせることから明らかである。――こ
れには当の本人も大いに驚くのであるが。たまたま女が不妊(フーRントによれば、これは十九の
体質上の欠陥から生ずる)で、本来の形而上的な目的がむなしくなった場合にも、同様にこの激情は消
失する。この目的はまた、いく百万の数知れぬものがそのなかにも同一の形而上的な生命力が生まれ出
ようと努力しているにもかかわらず萌芽のままに踏みにじられることによって、日々むなしくされてい
るのであるが、そのさいただ一つの慰めといえば、無限の空間と時間と物質が、したがって尽きること
のない回帰の機会が生への意思に開放されているということである。

204 :
 テオフラストゥス・パラケルススは、このような主題を取り扱ったこともなく、まあわたしとは考え
方がまったく違っているが、それでもここで述べたような考えが、つかのまではあっても、一度は念頭
に浮かんだにちがいない。というのは、まったく別の事柄に関してではあるが彼一流の雑駁な言い方で
次のような注目すべき意見を書きとめているからである。すなわち、「これらの人びとこそ、神の結び
給うたものである。たとえば、ウリヤの妻である女とダヴィデのごとき。この関係は、少なくとも人間
の精神はそのように確信していたのであるが、正しい合法的な結婚にまったく反対するものではあったけ
れども。――しかし、ソロモンは、姦通によるとはいえ、バテシバとダヴィデの裔以外からは生まれえ
なかったのであって、このソロモンのためにこそ神は二人を結び給うたのである」と(『長命について』
一の五)
 ヒメロス、愛のあこがれは、あらゆる時代の詩人が無数の言いまわしで表現しようと絶えず努めては
いるが、この対象を描きつくすことはできず、いな、満足な表現すら与ええないでいるのであるが、ま
た、或る特定の女性をわがものにすればこれを無限の幸福と思わせ、また、手に入れることがかなわぬ
と知れば言語に絶した苦痛を覚えさせるのもこの愛のあこがれである。――愛のこのあこがれと苦痛
は、はかない個体の欲求からそのたねをうるのは不可能であって、むしろそれは、種族の霊のあげる
嘆息であり、種族の霊は、その女性を手に入れるかいなかは、これこそ、おのれの目的を実現するため
のかけがえのない手段を獲得するか、それとも失うかそのいずれかにほかならぬと見、そこで深い嘆息
をあげるのである。

205 :
 種族のみが無限の生命をもち、それゆえ、無限の願望と無限の満足、および無限の
苦痛を受け入れることができるのである。ところがこれらのものがここでは死すべき人の子の狭い胸の
なかに幽閉されており、それゆえ、胸もはりさけんばかりに思われたり、無限の歓喜、あるいは無限の
嘆きの予感が胸を満たすのをなんと表現すべきかそのすべを知らぬのも、怪しむには足りないのであ
る。つまりこの予感が卓越した種類のあらゆる恋愛詩に題材を提供するのであって、これらの詩が地上
のいっさいのものを越えた超越的な比喩に高まるのは、そのためである。これがペトラルカの主題であ
り、サン・プルーやヴェルテルやヤコポ・オルティスの主題であって、さもなければこれらは理解する
ことも説明することもできないであろう。というのは、愛している女性をあのようにかぎりなく尊重す
ることがその女性のなにか精神的な長所、一般に客観的で実在的な長所にもとづくなどということはあ
りえぬことだからである。まず第一に、ペトラルカがそうであったように、彼女は愛する人にこれほど
正確に知られていないからである。種族の霊のみが、彼女がおのれにとって、またおのれの目的のため
にどういう価値をもっているかを一目で見ぬく能力をそなえているのである。じじつまた、激しい熱情
は通常、一目見たときに生ずるものである。
  真に恋し者にして、ただ一目見て恋せざりし者のあるべきや 
                     (シェークスピア『お気に召すまま』第三幕・第五場)
この点で注目すべきものは、二百五十年も昔から有名なマテオ・アレマンの小説『グスマン・デ・アル
ファラーチェ』の次の個所である。「人が恋をするには、多くの時が過ぎゆくことも、思案をしたり選
択したりすることも必要ではない。必要なのはただ、あの一目惚れの瞬間、たがいに琴瑟あい和すこと
であり、あるいは、こういう場合よく下世話に”虫が好く〔血の共感〕”と言われているものであり、星
の特殊な影響が通常そこへ導くのである」第二部・第三巻・第五章。したがってまた、愛する女性を恋
がたきや死によって奪われることは、恋愛の激情にかられた者にとって他のいかなるものにもまさる苦
痛なのである。

206 :
 というのは、この苦痛が超越的なものであり、これが単に個体としての彼をとらえるだ
けではなく、彼の永遠の本質たる種族の生命を襲うからにほかならない。ところで、この種族の特殊
な意思と委託に応えるために彼はここに召されているのである。したがて嫉妬は、非常に苦しく、ま
た恐ろしいものであり、愛する女性を人の手に渡すことは、あらゆる犠牲のうちで最大のものである。
――勇者たるものはおよそ嘆くことを恥とするが、恋の嘆きだけは恥としない。それは、ここで愁訴し
ているのは彼ではなくて、種族だからである。――カルデロンの『偉大なるゼノビア』第二幕の或る
場面でデキウスがゼノビアに向かってこう言っている。
  なんと、それならおまえはわたしを愛してくれるのか。
  そのためなら、百千の勝利を棄てても、
  わたしは帰ってこよい。
 ここでは、これまであらゆる利害を圧していた名誉も、性愛、すなわち種族の利害が勝負に加わり、
利益をうることが決定的だと見てとれば、たちまちにして撃退されるのである。というのは、種族の利
害は、単なる個人の利害がどれほど重要であってもこれらすべての利害に比して無限にまさっているか
らである。したがって、名誉や義務や誠実も、他のあらゆる誘惑、いや死の脅威にすらみごとに抵抗し
おわせていながら、これにだけは屈服する。私生活において見られることもこれと同様で、良心を守る
ということが恋愛に関するほどまれなことはなく、ここでは良心は、その他の点では正直で公正な人び
とによってすらときには無視され、姦通すらはばかることなく行なわれることがあるが、それは、恋愛
の激情、すなわち、種族の利害が彼らを捕えるときである。それはあたかも、そのさい彼らは、個人の
利害によってはとうてい与えられることのできない高い機能を自覚していると信じているかのようであ
る。

207 :
 それはつまり、彼らは種族の利害によって行動しているからである。この点で注目に値するのは、
シャンフォールの次の言葉である。「男と女がたがいに烈しい熱情を燃やすときは、彼らの仲を割く障
害が、夫であろうと両親であろうと、その他なんであれ、あたかも愛しあうふたりは、自然によってた
がいに結ばれ、法律や人の世の掟がなんと言おうと、ふたりの仲は神の法によって定められているよう
にわたしには思われるのである。」もしこれを言語道断だと怒る者があれば、福音書のイエスがここにい
る者もすべて同じ罪を犯しているのではないかと断じ、姦通を犯した女を赦してやるあの思いも寄らぬ寛
容な態度を考えてみればよかろう。――デカメロンの大部分は、この観点から見れば、種族の霊が、
みずから踏みにじった個体の権利と利害ににたいして浴びせる嘲笑と侮蔑にすぎないかのように見える。
身分の違いやこれと似たすべての関係も、これらが烈しく愛し合うふたりの結合を妨害する場合には、
これまた種族の霊によって簡単に排除され、無効の宣告を受ける。種族の霊は、無限の世代にかかわる
おのれの目的を追求し、このような人間の掟や考慮をもみがらのように吹き飛ばしてしまうからであ
る。烈しい恋愛の目的が問題になる場合には、どのような危険にもすすんで身をさらし、平素は臆病な
人間でもこのような場合には勇敢になるのは、それと同じ深い理由からである。――演劇や小説でもわ
れわれは若い人たちが彼らは恋愛事件、すなわち種族の利害を擁護し、個人の幸福のことのみを考え
る老人たちを打ち負かすのを見ると、よろこばしい共感を覚えるのである。というのは、種族が個体よ
り重要であればあるほどそれに応じて、愛しあう人びとの努力は、その努力を妨げようとするすべての
努力酔いもはるかに重要で崇高であり、それゆえまた正当であるように見えるからである。そこでほと
んどあらゆる喜劇の主題は、そこに描かれる個人の一身上の利害と矛盾するため彼らの幸福を破滅させ
かねない独自の目的をもった種族の霊が登場することである。通例、種族の霊は、志したとおりにやり
とげるが、じれが詩的正義にかなったものとして観客を満足させるのである。

208 :
というのは、観客は、種族の目的が個人の目的にはるかに優先することを感得してしるからである。そこ
で観客が、幕が下りて勝利の栄冠に輝く恋人たちをあとにして立ち去るさいになんの不安も感じないのは、
彼らは彼ら自身の幸福をきずいたのだという妄想を彼らと同じようにいだいているからである。ところが
彼らはむしろ彼らの幸福を、用心深い老人たちの意思にそむき、種族の幸福のために犠牲に供したのであ
る。風変わりな二、三の喜劇では、事態を逆転させ、種族の目的を犠牲にして個人の幸福を達成させよう
と試みたものがあるが、しかしこの場合には、観客は種族の霊がこうむる苦痛を感じとり、このようにし
て個人の利益が確保せられてもそのために心を安んずることができないのである。この種の例として思い
つくものに、非常に有名な小篇が二、三ある。たとえば、『十六歳の女王』や『理性の結婚』など。恋愛
事件を扱った悲劇では、たいてい、種族の目的が達せられなくなるために、その道具であった個体も同時
に破滅することになる。たとえば『ロメオとジュリエット』、『タンクレード』、『ドン・カルロス』、
『ヴァレンシュタイン』、『メッシーナの花嫁』等々。
 人が恋におちいっていると、しばしば喜劇的な、またときとすると悲劇的な現象が生ずる。どちら
も、彼が種族の霊のとりこになり、これに支配され、もはやその身がおのれ自身のものでなくなってい
るからである。彼の行動が個人にふさわしくないものになるのは、そのためである。恋愛の熱がいっそ
う高まってくると、彼の思想は非常に詩的な、崇高な趣を呈するだけではなく、超越的で超自然的な傾
向を帯び、そのため彼が彼ほんらいのきわめて形而下的な目的を見失うようにみえるのであるが、これ
は根本において次の理由によるものである。

209 :
すなわち、彼はいまや、単なる個体にかかわる事柄よりも
はるかに重要な事柄にたずさわっている種族の霊に鼓舞され、その特別の委託を受けて、おのれが父と
なり恋人が母となってはじめて授けうるこの特定の個性を子々孫々永世にわたって伝えるためにここに
その基礎をきずこうとしているのであって、しかも子孫がそれ以外にはかかるものとして生まれ出るこ
とが不可能であるにもかかわらず、生への意思の客観化がかかる子孫の誕生を断固として要求している
からである。かくも超越的な重要性をもった問題のために行動しているのだということを感得すればこ
そ、恋におちいった男は地上のいっさいのもの、いな、おのれ自身すらを軽視するにいたるのであり、
彼のはなはだ形而下的な願望もきわめて超自然的な衣をまとうのである。そのため恋愛は、いかに散文
的な人間であってもその生涯における詩的なエピソードとなるのであるが、ただしこの場合には、事態
はときとして喜劇的な趣を呈することがある。――種族のうちに客観化される意思のかの委託は、恋に
おちいった男の意識のなかでは、この女性といっしょになることが彼にとって無限の幸福であるという
期待の仮面をかぶって現われる。恋愛の熱が最高度に達すると、この幻影はますますその輝きを増し、
もしそれを達成することができなければ、生きること自体がいっさいの魅力を失い、いまやなんの喜び
もなく、味気のない、楽しみのないもののように思われるため、生きていくことがいやになり、死の恐
怖さえ消えうせ、ときとしてみずからすすんで命を縮めることがある。このような人間の場合には彼の
意思が種族の意思の渦のなかに巻きこまれたのであって、すなわち、種族の意思が個体の意思よりはる
かに優勢となったのであって、もしその人間が前者の資格で働くことができなければ、後者の資格で働
くことを拒否するのである。この場合は個体は、種族の意思が或る一定の対象にたいして集中する無限
のあこがれを受け入れる容器としてはあまりにも弱いのである。

210 :
 そこでこの場合には結末は自殺か、ときとしては恋人どうしの心中である。ただし自然が命を救うた
めに人を狂気にし、この狂気がそのヴェールでかの絶望的な状態の自覚を覆うなら、別であるが。――
じじつまた年ごとにあらゆるこの種の事件がいくつか生じており、いま述べたことの真実性を証明して
いるのである。
 しかしながら、満たされない恋の激情が悲劇的な結果に終わるだけではなく、満たされた場合も幸福
よりは不幸をまねく場合のほうが多い。というのは、この激情の要求は、当事者のその他の事情と一致
せず、それにもとづいて立てられた生活設計を破壊するため、その人間の個人的な幸福を破滅させるほ
どにこれと衝突するからである。いやそれどころか、恋愛は外的な事情と矛盾するだけではなく、自分
自身の個性とすら矛盾することがある。それは、性的な関係は別とすれば、恋する者自身が憎み、軽蔑
し、いやそれどころかおぞ気のする者にさえ恋が向けられることがあるからである。しかし種族の意思
は個体の意思よりもはるかに強く、そのため、恋する男は自分がきらっている性質にはすべて眼をつむ
り、すべてを見逃し、すべてを見そこなって、恋の相手といつまでも腐れ縁をつづける。かの妄想なる
ものがこれほど完全に彼を盲目にしているのであって、この妄想は、種族の意思が満足させられるやい
なや消失し、そのあとに残るのは、にくにくしい連れ合いだけである。非常に分別のある、いや、人並
み以上にすぐれた人物ががみがみ女や悪妻といっしょになているのを見、どうして彼らがこういう女を
選んだのか理解に苦しむことがしばしばあるが、これもこのことから説明がつく。だから古人も愛の神
を盲目に描いたのである。それどころか、恋におちいった男はそのために自分が一生苦しまねばならな
い花嫁の気質や性格の耐えがたい欠点を明らかに認識し痛切に感じておりながら、それでも諦めきれな
いことがある。
  おまえに罪があろうとなかろうと、
  わたしはそれを問いもせぬ、気にもせぬ。
  わたしの知っていることは、おまえが愛しいということだけだ。
  たとえおまえがなんであろうと。

211 :
というのは、根本において彼が求めているのは彼自身に関する事柄ではなく、これから生まれてくる第
三者に関する事柄だからである。ところが彼は、彼が求めているのは彼自身に関する事柄であるかのよ
うな妄想にとらわれているのである。しかしながら、おのれ自身のことを求めないというまさにこのこ
とが、いかなる場合でも偉大さのしるしであって、これが恋愛の激情にも崇高な趣を与え、これを詩の
好個の題材たらしめるのである。――最後に性愛は、相手にたいする極度の憎悪とさえ矛盾しないこと
がある。すでにプラトンがこれを羊にたいする狼の愛にたとえたのもそのためである。このようなこと
が起こるのは、激しい恋におちいった男がいかに努力し哀願しても、どうしても自分の乞いが容れられ
ないときである。
  愛しいことも愛しいが、憎いことも憎い。
                       (シェークスピア『シンビリーン』第三幕・第五場)
こういうときに愛する女にたいする憎悪が燃えたつと、相手を殺しそのあとで自分も死ぬということに
ときとしてはなりかねない。この種の例がいくつかは毎年起こるのがつねで、イギリスやフランスの新
聞でよく見ることである。だからゲーテの言っているのはまったくそのとおりである。
  ひじ鉄砲はおろか、地獄の火もこれよりましだ。
  ええ、なんとも腹の虫が納まらぬ。
恋をしている男が恋人の冷淡さと、彼の苦悩を見て虚栄心を満足させて喜ぶのを残酷というのは、じっ
さい誇張ではない。というのは、彼は、昆虫の本能のように、理性の説くあらゆる道理に逆らって自分
の目的を是が非でも追求し、その他のいっさいのものを無視するように強制する衝動の影響に支配され
ており、彼はこの影響から逃れることができないからである。満たされぬ焦心の思いを、鎖や鉄塊を足
かせにひきずるように、生涯抱きつづけねばならず、人知れぬ森のなかで嘆息をもらした者は、ひとり
ペトラルカだけではなく、世に数多かったのである。しかし同時に詩才に恵まれてたのはひとりペト
ラルカのみであって、ゲーテの美しい次の詩句は彼にこそふさわしい。
  人が悩みのあまり黙すとき、
  神はわたしに、悩みを語るすべを授けた給うた。

212 :
 じっさい、種族の霊はいたるところで個人の守護神と戦いをまじえ、その迫害者であり敵であって、
おのれの目的を貫徹するためには、ついでも個人の幸福を容赦なく破壊する覚悟をしている。いやそれ
どころか、国民全体の幸福がときとして種族の霊の犠牲にされたことさえある。シェークスピアはこの
種の例を、『ヘンリー六世』の第三部・第三幕・第二場および第三場でわれわれに提示している。これ
らすべては、種族がわれわれの本質の根底であり、個体よりもいっそう直接に、いっそう以前にわれわ
れにたいして権利をもっているということにもとづくのであって、またそれだからこそ種族の仕事が優
先するのである。古代の人びともこのことを感じており、そのため彼らが種族の霊をを擬人化したキュー
ピッドは、見た眼にはあどけないが、そのくせ敵対的で残酷な、そのため人にきらわれる神であり、ま
た気のむらな、専制的なダイモーンであるが、それでも神々と人間の支配者なのである。
  神々と人間の暴君たるなんじ、エロスよ
人を殺める弓矢、盲目と翼が彼の属性である。翼は無常を暗示しており、これは通常、満たされたあと
に起こる幻滅とともにはじめて現われる。
 すなわち、激情は、種族にとってのみ価値のあるものを個体にとっても価値があるように瞞着してみ
せる妄想にもとづくものであるため、種族の目的が達せられれば、錯覚は消えうせざるをえない。個体
をとらえていた種族の霊は、ふたたび個体を解放するのである。種族の霊に見棄てられると、個体はふ
たたび元来の偏狭貧寒な状態にまいもどり、あのように崇高で英雄的な、無限の努力を捧げたにもかか
わらず、そのあとにおのれの楽しみとして得たものといえば、どんな性的満足によってもざらに与えら
れるものにすぎなかったことを知って驚くのである。個体は。期待に反し、以前よりもかくべつ幸福でも
ないことを発見し、おのれが種族の意思に欺かれたものであることに気づく。それゆえ、しあわせを得
たあとは、テセウスはアリアドネのもとを立ち去るのがつねである。もしペトラルカの激情が満たされ
ていたら、鳥が卵を産むやいなやさえずるのをやめるように、その瞬間から彼の歌はとだえたであろう。

213 :
 ここでついでに注意をしておくが、わたしの愛の形而上学がほかならぬこの熱情に巻きこまれた人び
とにどれほど意にそわぬものであろうと、理性的な考察がこれらの人びとにたいしておよそなにごとか
をなしうるとすれば、それはわたしが明らかにした根本真理がなによりもまずこの熱情の克服を可能に
するにちがいないということである。しかし古代の喜劇作家の述べた言葉にわれわれはひとまず敬意を
払おう。「それ自身理性も節度ももたぬものを理性によって制御することは不可能である。」
 恋愛結婚は、種族の利害のために行なわれるので、個人の利害のためではない。なるほど当事者は自
分自身の幸福を増すためだと思っているが、しかしその真の目的は、彼ら自身には無縁なものである。
というのは、目的が彼らによってのみ可能な個体を生みだすことにあるからである。彼らは、この目的
によって結ばれた以上、今後ともたがいにできるだけ協調していくように努めねばならない。ところ
が、恋愛の激情の本質をなすかの本能的な妄想によって結ばれたふたりが、その他の点でははなはだそ
りの合わぬ性情の持ち主である場合がきわめて多い。このことは、この妄想が、いきおいそうならざるを
えないのであるが、消えうせるとき、ただちに明らかになる。したがって恋愛で結ばれた結婚は不幸な
結果に終わるのが通例である。というのは、恋愛結婚は現在の世代を犠牲にして未来の世代のためには
かるものだからである。スペインの諺も「恋愛によって結婚する者は、苦しみながら生きねばならな
い」と言っている。――多くは両親の選択によるものであるが、便宜上結ばれた結婚は、これと逆であ
る。この場合に行なわれる顧慮は少なくとも、それがどういう種類のものであっても、自然に消え去る
ようなことのありえない現実的な顧慮である。これらの顧慮が思んぱかるのは現存する人びとの幸福で
あって、未来の人びとにはもちろん不利益である。ところが現存する人びとの幸福もやはり問題なので
ある。結婚のさいに自分の愛欲を満足させることよりも金を目あてにする者は、種族として生きるより
も個体として生きているのであて、このことは心理にまっこうから反し、そのため反自然なものに見
られ、或る種の軽蔑をまねく。

214 :
 両親の忠告を聞かず、金持でしかも老人でもない男の求婚を拒絶し、便
宜上の顧慮をすべて無視してひたすら自分の個人的な好みにしたがって選択する少女は、自分個人の幸
福を種族の犠牲にするのである。しかしまさにそのためにわれわれは、この少女に或る種の喝采を送ら
ないではおれないのである。というのは、彼女はより重要なものを選んだのであり、自然の(さらに的
確に言えば種族の)意を体して行動したのだからである。ところが両親の忠告は、個人的なエゴイズム
を旨とするものであった。――以上のように見てくると、婚約を結ぶさいに個人かそれとも種族の利害
かそのどちらかが損をせざるをえないかのように思われる。しかしたいていはそうなるものである。と
いうのは、生活上の便宜と激しい恋愛が両立するなどというのは、きわめてまれな幸運だからである。
大部分の人間の身体や道徳、あるいは知性における憐れむべき劣悪な素質は、結婚が通常純粋な選択と
好みからではなく、さまざまな外面的な顧慮から、また偶然の事情にしたがって結ばれるという点に一
部はその原因がある。それでも便宜とあわせて、好みも或るていど顧慮されるならば、これは、いわば
種族の霊との妥協である。幸福な結婚というものは、周知のようにまれである。それはつまり、結婚の
主たる目的が現代の世代ではなく、未来の世代にあるということが、まさに結婚の本質だからである。
しかし恋をしている繊細な心の人びとを慰めるためになおつけ加えておきたいことは、ときとして激し
い性愛に、まったく別の起源から生じる感情、すなわち、心情の一致にもとづく真の友情が加わるとい
うことである。しかしこの友情はたいてい、本来の性愛が満足させられて消えうせたときにはじめて現
われるものである。この場合友情は、ふたりの肉体的な素質と道徳的な素質、それに知性的な素質がた
がいに満足しあい、たがいにふさわしいものであって、そこから、生みだされるべきものを顧慮して性
愛が生ずるのであるが、これらの素質がまたまさに本人自身に関してもあい反する気質や精神上の長所
としてたがいに補足的な関係に立ち、そのことによって心情の調和を基礎づけるということから生ずる
のである。

215 :
 ここで論じた愛の形而上学全体は、わたしの形而上学一般と密接に結びついており、これがわたしの
形而上学一般を逆に解明してくれる光を与えるのであるが、その点について要約すれば次のとおりであ
る。
 明らかにされたことは、性愛を満足させるために行なわれるのは無数の段階を経て強烈な線愛にまで
高まる慎重な選択であるが、この選択が、人間がきたるべき世代の特殊な、個人的な素質にたいして払
うきわめて真剣な関心にもとづくものであるということである。ところでこのきわめて注目すべき関心
は、まえの諸章で明らかにせられた二つの真理を確証する。一、人間の本質自体の不壊性であって、こ
の本質は、かのきたるべき世代のうちに生きつづける。というのは、反省やもくろみからではなく、わ
れわれの本質の最も内奥に潜む傾向と衝動から生ずるあのように激しい、熱心な関心は、もし人間が絶
体にはかないものであり、この人間と実際にまた徹底的に異なった世代があだ時間的に彼のあとにつづ
くものであるとしたら、これほどまでに執拗に存在し、人間にたいしこれほど強力な威力をふるうこと
もできないであろうからである。ニ、人間の本質自体は個体よりも種族のうちに宿るということである。
というのは、種族の特殊な素質に寄せるあの関心は、ごく移り気な好みからきわめて真剣な激情にまで
及ぶすべての恋愛事件の根底をなすものであるが、この関心が、だれにとってもほんらい最も重要な事
柄であり、その成否が最も敏感に人の心を動かすからである。だからこそ、それはとくに心情の問題と
よばれるのである。じじつまたこの関心が強く決定的に表明せられた場合には、単に自己一身にかかわ
るものであることを証明するのである。

216 :
 ――では、恋をしている男が全身全霊を捧げてみずから選んだ
女の眼つきに執心し、彼女のためにいかなる犠牲を捧げてもあえて悔いないのはなぜであるか。――そ
れは、彼女を求めるのは、彼の不滅の部分であり、なんであれそれ以外のものを求めるのはつねに、や
がては滅びゆくべき部分にすぎないからである。それゆえ特定の女性に向けられた強烈な、いや、熱火
のごとく燃えさかりさえするあの要求は、われわれの本質の核心が不壊であること、また種族において
その本質が永続することにたいする直接の担保である。この永続を取るに足らぬ不十分なものと考える
のは誤っており、この誤りは、われわれが種族の永続ということを、われわれに似てはいるがいかなる
点でもわれわれと同一でないものが未来に生存することとしか考えないために生ずるのであり、またこ
のように考えるのも、われわれが外部に向けられた認識から出発し、われわれが直観的に把握する種族
の外面的な形態のみを考慮し、種族の内面的な本質を考慮しないからである。しかしこの内面的な本質
こそ、われわれ自身の意識の根底にその核心として潜むものであり、したがってこの意識そのものより
いっそう直接的でさえあり、物自体として個体化の原理より解放され、あらゆる個体のうちにありなが
ら、たとえこれらのものがたがいに併存し、あるいは継起しようとも、本来まったく同一なものなので
ある。ところでこれがすなわち生への意思であり、つまり生命と存続をかくも痛切に要求する当のもの
にほかならない。それゆえこれがつまり、死を免れたもの、死にわずらわされないものなのである。し
かしながらまた、このものも現在の状態以上には出ることができない。したがってこのものも、生命が
ある以上個体としての苦悩と死も免れないことは確実である。このものもこの苦痛と死から解放するこ
とは、生への意思の否定に保留された任務であり、この否定によって個体の意思は種族の幹から解き離
され、種族のうちに生存することを放棄するのである。そのとき個体の意思がどうなるかということに
関しては、われわれにこれを理解する概念が欠けており、いやそれどころか、われわれはこれらの概念
を得る材料をいっさい持ちあわせていないのである。

217 :
 われわれはこれを、生への意思であるかいなかを
選択する自由をもったものとしか言いようがないのである。後者の場合、仏教はこれを涅槃とよんで
いるが、この言葉の由来は〔本巻の〕第四十一章の終わりの注に示しておいた。これは、およそ人間の認
識が、それがまさに人間の認識であるかぎり永久に達することのできない点である。――
 ところでわれわれがこの最後に考察した見地に立って人生の紛乱へ眼をやるならば、そこに見るの
は、すべての者が生の逼迫と困苦に忙殺され、力のかぎりをつくして無限の欲求を満足させ、さまざま
な苦悩を防ぐために努力しながら、しかもその報いとして得るものは、この困苦に満ちた個体的生存を
わずかつかのまのあいだ維持するにすぎないという情景である。しかし、そのつかのまのあいだで、こ
の紛乱のただなかでわれわれが目にするのは、愛しあう男女が慕わしげにたがいに眼と眼をかわしてい
る情景である。――しかしなぜ彼らはこのようにひそかに人目を恐れ忍びながら会わねばならないので
あろうか。――それは、この愛しあう男女は反逆者であり、これらの反逆者はさもなければやがて終焉
するこの逼迫と困苦を永続させようとひそかに努力しているのであって、彼らが妨げようと欲している
ものが、彼らと同類のものがかつて妨げようと欲したもののように、ほかならぬこの逼迫と困苦の終焉
だからである。――ただいま考察した問題は、次章でさらに論ぜられるはずである。

218 :
ションベンハウエル

219 :
age

220 :
女嫌いなのは、女に嫌われてるだけだろハゲチャビン

221 :
ショーペンハウエルは馬鹿

222 :
金でしか女が寄ってこない性悪ハゲ

223 :
こいつはサイコパスだと思う

224 :
アスペっぽい

225 :
肖像画見るとアスペくさい顔してるよね
気持ち悪い

226 :
たしかに半分きちがいみたいな人だったが、しかし、彼は当時としてはめずらしく「独我論」には陥らなかった。

227 :
女に対する態度は独裁的

228 :2013/09/07
ひたすらどっかからコピペしただけだろw
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