2013年07月東北208: 【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】(745) TOP カテ一覧 スレ一覧 まちBBS元 削除依頼

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【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】
1 :2012/01/22 〜 最終レス :2013/05/26
東日本大震災の被災体験を語り繋ごうという、まちBBS東北板のプロジェクトです。
ご自身が体験した大震災を語ってください。

また、書き込む前に「これは墓場まで持っていくものか?」と自問自答し、
その後、深呼吸してから書き込みましょう。

このスレッドのMC:青鹿φ、萌きゅん89φ


下記の話題はそちらでお願いします。

今現在進行中の話題、政治的な話題は↓。
東北大震災スレッド11
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/l50

放射線の話題などの関連スレッドは↓。
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/3

写真添付可、置場としてもどうぞ↓
【MAHALO】 〜東日本大震災〜体験記録@東北別館 【ALOHA】
http://hidebbs.net/bbs/80?n=49707198&s=t&m=10

【書き込み上の注意点】
1、このスレは個人や団体を糾弾したり、恨み事を書くスレッドではありません。
 淡々と体験談を語りましょう。
2、体験は十人十色。
3、文章の上手い下手、事の重さ軽さは気にしない。
4、それとなく、体験した地名をハンドルにするか、または1行目に書き込みをお願いします。
 (@石巻とか)
5、文章が長めとなるときは、分割して書き込みしてください。



2 :
語ってください。

3 :
まあ、淡々と語るよ。

平成23年3月13日。
震災後2日目、おら、確定申告に遅ればせながらいった。
遅れても可、だったけど、、これはしなければと、、。

その帰り、車窓から空を見上げれば、飛行機雲を長く引いて北から南へ一機の旅客機が青空をバックに飛んでいたんだよねー。
あぁ、空の便は、、普通になんだなーと思っていたら・・・・。

急に西の方へ急に進路を変えたんだわ。
今まで見たこともない角度でね・・・・・。


後から、ラジオで知ったよ。
原発が水素爆発したんだ・・・・。

4 :
福島県相馬郡飯舘村。
言わずもがな計画的避難区域です。
この村におらがケン族として崇敬している神社さんがある。

昨年秋、お札を、、と行ってみた。
計画的避難区域は立ち入りは自由にできるから・・。

道筋、意外と多くの村人と出会う。
まだまだ、負けん、、という気持ちが伺えました。

神社さんに到着。
神主さんとそのお母さん(お婆さん)のお二人で立派にご奉仕されていました。
しかし、ご家族は福島市内に避難しているそうで、夕方にはお二人も福島へ・・。

帰り、田植えができなかった田んぼを見る。
ちゃんと草刈りしてあり、、人の手が入っているんだよね。
今年の春には、、なんだろうけど・・、その道は厳しい。

5 :
まあ、おらの震災体験なんて、こんなに小さく軽いものだ。

こんな感じでいいですから、語ってみてください。

6 :
仙台市若林区で震災に遭いました。霞の目自衛隊近く。

書こうと思って、色々と考えたら涙が出てきて書けそうもないです。
まだ時期じゃないのか、時期を逸してしまったか。

津波被害無しです。家も家族も無事でした。友達を亡くしました。
仕事絡みで、たくさんのご遺体とご遺族に会いました。

地震直後、空の上にあり得ないくらい多くの、色んな種類の水鳥が鳴きながら飛んでいきました。
とてもきれいでした。

と思うと同時に、水辺の方面に尋常ではない何かがあったのか?と、感じたことのない恐怖を覚えました。
地震だけだったら、そんなに遠くに逃げる必要が無いんじゃないか?と。

そこから先はまた後で整理して書きたいです。

今はまず、他県の人たちの支援応援に感謝をしたいです。
何かの機会にここに目を通してくれたら幸いです。

色んなことと場所で、助けて頂きました。
ありがとうございます。

7 :
俺は誕生日だったよ

詳細は省くが、停電の中ロウソクの灯りの下で食べたケーキの味は忘れない

8 :
岩手県奥州市在住
被害らしい被害は停電くらいのものだけど翌日の夜には復旧してた
でも普段はお互い無関心でまるで他人同士みたいな家族だが
あの時だけは皆に気をかけていてやっぱり家族なんだなと思った

9 :
3月11日午後2時半過ぎ

東北道下り線、福島飯坂インターチェンジ手前を走っていたらいきなり携帯電話が喚きだした。
あわてて携帯の画面を見ると緊急地震速報の表示『ホントかよ?』と半信半疑でラジオを付けたら
アナウンサーが『走行中の車はすぐに停止して路側帯に車を止めろ!』と叫んでいた。
急いでハザードを点灯して路側帯に車を停めた。
車を止めると同時に大きな揺れが始まり営業車内で滅茶苦茶に揺さぶられ、50m程度先に
停車していたトレーラー(大型トラック?)も転倒しかねないほど揺さぶられていた。

地震後高速道路はすぐに閉鎖され、私は信号が消えて渋滞しているR4を仙台へ北上。
深夜近く余震の続く仙台の自宅にたどり着いたが室内が滅茶苦茶で、家族が一足先へ避難していた
近所の小学校へ着替え後に移動。

遥か彼方に見える仙台港石油タンク火災を見ながら呆然としていたのを覚えている。

あまりにも非現実的な事が連続して起こった為か3月〜4月頃の記憶が薄いような気がする。

10 :
こんばんは。
オラも参加したいと思います。
今日は持ってこないので、あとで僅かながら書きますね。

11 :
東北大震災スレッド11
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/

>>1のリンクは自治スレです。

3月11日午後2時半
仙台の病院からの帰り道、本屋に寄ったときに携帯が地震警報を鳴らした。
ここ2日のM7地震でも鳴らなかったのにな、と思いつつ立ち読みを続けていたら
縦揺れがとんでもなかった。
ヤベエと思い、本を棚に戻した瞬間激しい横揺れ。棚の本は全て吹き飛び、停電した。
仙台駅に着いたが、閉鎖すると言われて追い出された。
コンビニは停電の瞬間に店を閉め、銀行も止まって金はほとんどなし。クレカは使えない。
タクシーで帰ると5万。仕方なく避難所に向かい、そこで1週間寝泊まりする。
小学校の教員の機器対応能力はなかなかよかった。県庁、市役所職員は知的障害者としか思えなかったな。
何が「旅行者」だ。仙台市外在住で、交通機関がないために避難所にいる人を、「旅行者」と呼んでやがった。
あんな知的障害者ばかり囲ってるから、村井県知事は宮城県民はバカだと思われてるんだろ。

12 :
まいね

13 :
>>11
おぉ、わりー、まちごーたわ。
ありがとー。

んで、言葉はもちっと穏やかに頼むわ。

14 :
あれれ

15 :
#1を書き変えたらヘンな表示になって、あせった。
カキコしたら、なおったー。

16 :
まいね

17 :
たぬきが書いたら板違い?

18 :
福島県富岡町在住

3月11日 当時、トラックドライバーだった私は 早朝 新潟県柏崎市へ納品後 帰りの荷物を積み込み 浪江町にある車庫に車を走らせていた
遅めの昼食をと 猪苗代町、国道49号線沿いのラーメン店に・ ・・食券を買い ラーメンを待っていると かかっていたテレビから緊急地震速報!同時に携帯からも
長く激しい揺れの中 店のおばちゃんを連れ店の外に飛び出した
揺れは収まり 急いで浜通りに向け車を走らせる 車窓には混乱する町の光景、ラジオや車載テレビから流れる津波被害の惨状

19 :
福島県郡山市。工場で仕事中でした。
場外に避難したら程無くして強い風に雪。防寒着無しで16時半まで外だったので兎に角寒かった。
流されていたラジオでは、10mを越える津波が来ているから高台に逃げろ、と何度も告げていた。
誤報じゃないのか?と笑っていたあの時は、現実を理解出来てなかったのか、理解しようとしなかったのか。
帰路ではAMラジオを聞いていたが途中で無音に。仕方がないのでFMに切り替え。
道路とコンビニの混雑状況から真っ直ぐに帰宅。後、徒歩で食料確保に出たら近所のスーパーが営業し続けていたので、今日明日をしのげる程度の買い物。菓子類だったか?思い出せない。
その後にごった返すコンビニへ行きタバコの確保。飲食物ほぼ全滅だったがタバコは豊富に残ってた。
夜は地鳴りがする余震の中、即避難出来る格好のまま布団に潜り込んだ。ラジオを聞きながら。

20 :
福島市
3月12日福島原子力発電所1号機の水素爆発をテレビで知って、その日の午後7時
に家族4人で避難を決定。東北道、新幹線、R4号、空路は閉鎖。使える陸路は新潟
に行くR49か山形秋田方面のR13だけ。とりあえず貴重品や家財を満載して山形方面に
出発。途中開いているGSは長蛇の列。その日は南陽市内のイオン駐車場で大きな
余震の中車中泊。翌日福島市内は線量が高くないことを知り帰宅。しかし3号機が
この日爆発。翌日の3月14日R4号が通行可能であること、新幹線が那須塩原まで
運行と情報を得てとりあえず那須まで行こうと、荷物満載で午後7時に車で出発。
途中同じような人満載、荷物満載で西に向かう車が何台もいた。須賀川まで好調
だったが鏡石付近で渋滞。路面が陥没隆起していて片側通行になっていた。那須の
峠を越えて栃木県に入ったとたんコンビニやファミレス、ファストフード店が電気を
煌々とつけて営業していたのには涙が出た。ガソリンもまだあったのでそのまま
東京まで9時間かけて走行した。

21 :
まいね

22 :
俺は内陸の盛岡なんで、大きな被害はなかったけど、当日はちょうど公休日で
犬の餌買いにホーマック(ホムセン)に行く直前だった。
地震直後に真っ先に年末に買ったばかりの20万ほどした液晶テレビをかばうのに必死だったな(笑)
地震後に買い物向かったけど、最初の信号で既に交通混乱してたし、停電してたら買い物も無理だろうと悟り
すぐ引き返して、その日は家に閉じこもったよ。車の帰りのラジオで三陸沖震源の地震なら津波やばいだろうなと
思ったら、やはりその通りになったな。
家は暖房に反射ストーブを常用してたので、暖には困らなかった。電源付かないこたつに毛布でくるまって停電復旧まで過ごしました。
役に立ったのは、仏壇に供えてあったロウソクとノートパソコンのバッテリー、これで携帯やPSPのワンセグ使ってテレビ見ることができました。

23 :
>>17
東日本大震災は広範囲に被害がでた。
関東方面での被災体験も当然OKっす。

大きな直下型余震が発生した長野県北部、静岡県も忘れてはいけない。

また、西日本や北海道へ避難なされている方々も多くいらっしゃる。
避難先での経験談も、よろしければ・・・、と思います。

24 :
良いスレですね。書き込ませていただきます。

病院関連の仕事をしています。当日は仕事場で被災、その後、休みなく働き続けました。
被災地にも行くことが多くありました。ふと我にかえったのは、4月中旬位だったでしょうか。

震災で家族バラバラ、安否不明の中、働き続けるのは予想より精神的に辛かった。
悲しいけれど、仕事の仕方で批判されたりしました。
しかし、こちらも被災しながらの仕事で、1ヶ月は職場からの配給のオニギリ(ないときもあった)で
なんとかしのいでおりました。トイレも流せない日もありました。お風呂も入れませんでした。
恥ずかしいけれど、仕事を放り出して自分の事、家族のために動きたいと思う事も多々もありました。

市の配給等の方式でイライラしたことがありました。ですが、宮城に住む人全てが
被災者だと思うと、その人たちが何を抱えながら働いていたのかと考えると……

25 :
地震後 停電のため町は真っ暗 第一原発から8キロのところにある自宅に着いたのは 18:00過ぎだった
家族は 妻が仕事場の福祉施設で被災したため 施設のお年寄りと避難 小学生の娘は私の母と近くの中学校体育館に避難していた。
とりあえず避難所で無事を確認 乱雑な室内から飼い猫を救出 その晩は トラックの中で余震と原発の状況におびおながら猫と一緒に寝た
翌早朝 防災無線から 福島第一原発が危険な状態にあり 避難してとの放送
消防団の仲間から 住民のためのマイクロバスの運転をたのまれ 被災状況を確認しながら町内を巡回
ほとんどの町民の避難を確認し、富岡町を出る頃には 15時過ぎ その時 少し大きな余震とともに ドーン と 聞いたことのない衝撃音を感じた これは 原発で何かあったなと思い 郡山市方面に向け急いだ
「終わった・・・」 と思った
3時間以上かけてたどり着いた避難所 付いてすぐにもらった 塩むすびが 涙が出る程おいしかった 気づくと その日それが唯一の食事だった

26 :
>>25
消防団員でしたか。おらもです。
あーゆー時って、団員はなんかのスイッチが入るんですよね。。。
(条件反射、、と簡単には言えないスイッチが・・・・。)

今回の震災で多くの消防団員が殉職されました。
ご冥福を心よりお祈りします。

27 :
震災があったあの日僕は仙台市太白区の自宅にいた。仕事が夜からだったのでそれに備えて休もうかと布団に入り携帯をいじっていたら「緊急地震速報」を知らせるR音が鳴り、「えっ、地震が来るのか?」と思いながら隣の茶の間に移動した瞬間、今まで体験したことのない激しい揺れが自宅を襲った。激しい揺れの中でも割と冷静に天井を見ながら「あ〜、この家も終わりかなぁ…。」と思いながら揺れが収まるのを待っていた。

ようやく揺れが収まり辺りを見回すと棚やらタンスやらが倒れていたり外にでると自宅そばのお寺の石碑が真っ二つになっていたり石灯籠が倒れていたりと何か夢でも見ているかのような光景が自分の目に写った。

28 :
>>20
3号機が爆発したのは14日です。

29 :
携帯の地震速報って役に立たないなと思ってたけど、あの日ばかりはあって良かったと思ったよ
どうせ大した事無いんだろう?とは思ったけどさ、揺れに備える心構えみたいなものは持てたしね

30 :
@仙台市太白区
当時は、外出しようとする矢先だった。
揺れ始めたので、怯える犬を抱きかかえてやると、そのまま激しい縦揺れへ。
点けていたテレビが消え、調度品が次々落ちる様子を呆然と見ていた。
揺れが収まると、室内は砕けた調度品の破片などで足の踏み場も無い状況。
液晶テレビも倒れて割れ、寝室は大量の本で埋もれていた。
多分、寝ていたら死んでいた。

プロパンガスだったのでガスは使え、水道も何故か止まっていなかった(隣家は水道停止)。
電気と電話が復旧するまでは、5日ほど。
食料などの備蓄も無く、周辺でポツポツと開いた大小様々な店を回って確保。
スーパーもコンビニも行列だったが、GSの行列もスゴかった。
新道286号線がガラガラになった、あの光景は忘れられないだろう。
11日夜からラジオで津波被害の様子が伝えられたが、亡くなった方の数が多くて
世界の終末を目撃している様な気分にさせられた・・・・・・・・・・・

31 :
27の続きです。

「宮城県北部」震度7、宮城県の太平洋沿岸に大津波警報」とラジオからアナウンサーが伝えたのを聞いて、耳を疑った。地震に対しては近い将来宮城県沖の強いのが来ると何年も前から言われていたので身構えていた部分はあったが「津波」に関しては生で見た事も体験した事もなかったのでいまいちピンと来なかった。

地震から1時間以上たった午後4時頃だったと思うが、自宅近くの名取川に津波が逆流し、河川敷の畑が浸水するのをこの目で見た…。生まれて初めて見た“津波”だった。

この時はこの津波が後に何万・何千人もの死者・行方不明者を出す巨大津波であることと直線で数キロしか離れていないゆりあげが津波で大変なことになっているものだとはこの時知る由もなかった。

32 :
@福島県伊達市
商工会へ確定申告書を持って行く為に家を出ようとしてた・・
今迄感じた事のない大きな揺れ・・
一瞬「酒の飲み杉で、ついに脳溢血になったか!」と思った。

土蔵造りの店のナマコ瓦がガタガタと崩れ落ちた・・
孫達の安否を確認し、家の周りを確認した・・
別の蔵の腰巻きが落ちた・・腰巻き・・蔵って女だったのKAYO

アナログ生活をしてる我が家では、
余震が続く中、一晩中、家族と車の中で待避・・
翌日、コメリに並んで、インバーターを6300円で購入。
井戸水を汲み上げ、風呂水を満杯に・・

石油は運良く3月10日に400Lタンク満杯だった・・
石油バーナーで風呂を沸かし、明るい内に入浴・・
暗くなった茶の間に投光器を設置・
TV電源を差し込み、ニュースを見て愕然とした・・・

最新情報はTVよりネットだった・
今思えば、ネットでスピーディの情報も・(自分には理解できなかった・(^_^;)

ガソリンは何とか確保・・(カマタの某GSが1L200円で・
伊達市H町ではH町笑口貝快調が経営するGSでも1L200円で販売・・
伊達市Y町の某GS(市指定給油所)には、「災害救助」の御印。市役所の伝票で、
試薬書職員が通勤用に給油し、後から、現金持参して、ナンバー削除を頼んだとか

「ひとりはみんなのために・・・みんなはひとりのために」
今、商業者用に「東日本大震災設備等復活支援事業」を活用し、
地震で壊れた事業用試算の修繕費用の4分3を助成し、
残り4分1は無利子で融資するラスイ・・・

兎に角・・今、スベキコトをやろう


閃いた・・・これを4月号に応募して三日・・・
稀熊氏・・・応援してるからガンガレ・・

33 :
>>ALL
男女お二人に、このスレッドのMCとして「聞き役」になってくれるよう依頼しました。

お一人目はご存じ別館管理人の「青鹿φ」さん。
北東北の比較的被害が小さかった地域にお住まいです。
(小さいとはいえ被災者のお一人です。)

もう一人は東北地区外にお住まいの女性です。
イベントキャップ「萌きゅん89φ」をこのスレ限定で使うようにと貸与しました。

お二人に話しかけるように書き込みして頂ければ幸いです。
特に「萌きゅん89φ」さんのような東北以外にお住まいの方に、
あのときの被災状況を伝えましょう。

34 :
>>ALL
男女お二人に、このスレッドのMCとして「聞き役」になってくれるよう依頼しました。

お一人目はご存じ別館管理人の「青鹿φ」さん。
北東北の比較的被害が小さかった地域にお住まいです。
(小さいとはいえ被災者のお一人です。)

もう一人は東北地区外にお住まいの女性です。
イベントキャップ「萌きゅん89φ」をこのスレ限定で使うようにと貸与しました。

お二人に話しかけるように書き込みして頂ければ幸いです。
特に「萌きゅん89φ」さんのような東北以外にお住まいの方に、
あのときの被災状況を伝えましょう。

35 :
大事なことでしたので・・・・・・。..........orz..........

36 :
原町で仕事中地震にあい、子供たちを迎えに行き実家についたのが17時前。
地震が起こるたび実家から飛び出していたら、17時すぎに知人に会った。
「原発の非常用ディーゼルが津波で流され、電源喪失になった。
消防が行ったが水が入らない。電源車の手配はしたが、
道路の状態もわからず5時過ぎで本庁の動きが鈍い。
すぐに子供を連れて逃げろ。そしてこれを出来るだけ人に伝えてくれ」
頭が真っ白になった。
テレビで安全に停止したと流れてると両親にはキチ扱いされたが、
旦那に別れを告げ、毛布だけもって子供と着の身着のまま川俣に逃げた。

飯舘のセブン付近で夜8時時点で外気マイナス6度。
毛布一枚では凍死しそうになったので川俣に移動。
川俣も夜中マイナス5度まで下がり震えていた。

ポーンした後は旦那も会津で合流した。旦那は4月から通常勤務。
自分も新潟から南相馬の仕事場に週3〜4日通ってる。
12月は日帰り可能だったけど、今は雪がひどくて無理。
仕方ないので新潟に静岡の義母よんで子供の世話してもらってる。
通勤時間片道200キロ2.5〜3時間 実労5時間…
朝5時に家を出てなんとか会社にgo。そのうち過労で事故って死ぬかも。

37 :
>>28
>3号機が爆発したのは14日です。

そうだった。14日だった。テレビで爆発を見ていてこれは終わったと思った。
会見する保安院の職員の顔が狼狽しているし、避難区域もどんどん広がってきて、
被害はかなりの範囲になるだろうと思った。
そして4号機も危ない情報を14日に得てさらに遠くに避難しようと思った。

38 :
まいね

39 :
東北板の皆さん、はじめまして。
MCというものが、どのくらい務まるか分かりませんが、よろしくお願いいたします。

皆さんそれぞれ大変な経験をされていて、何とお声を掛けていいのか、なかなか言葉が見つかりません。。
ありきたりなことしか言えませんが、皆さんお疲れさまです、体にだけは気をつけて、ということをお伝えしたいです。

40 :
震災から数日後の停電中、夜聞いていたラジオから仮面ライダーの主題歌が流れてきた
3歳の息子が喜んで、嬉しそうに歌っている顔を見て絶対負けないぞと思った

41 :
青鹿です。
どなたか書かれてましたが、、、被害の大きかった所等のあの日を書くにはまだ早いのかちょうど良かったのか察することは難しいのですが、
できるだけ素直に拝見させて頂きます。
よろしくお願いします。

オラの3.11体験。

花巻市役所に行く用事があり、その運転中オラは地震に遭う。
ほとんどの車は停車したが何台かは通り過ぎて行った。
数回の大きな揺れが治まった後、ひき返すか迷ったがそのまま役所に向かった。
交差点は停電となり、消防署そばと市役所近くは手信号が見られた、けれど多くは無人状態、、、
役所では職員が大勢館外へ出ていて(あるいはヘルメット被った出動体勢の人もいて)、これでは用足し不可と判断、ひき返した。

翌日(12)奥州市の実家へ…なるべく信号のない道を行く。
帰途は国道4号線、、、信号機が動いていたのは1か所だけだった。(もっと後日だったかも?)

電気・電話不通で、ガス・水道は使えた。
地震のあった日気づかなかくて、翌日夕方に車からとるインバーターがあったと思い出す。
やっと震災の映像が見れた、、、しかし県内状況で頭が一杯、この時点は原発事故についての印象が薄い。
翌々日(13)午後に電気復旧だったはず。

42 :
@大船渡市
震災の日は市内の職場にいて、揺れがおさまってから職場の人と車で避難開始。その頃にはもう渋滞が始まってて車が全く進まなくて、目指してた高台の病院を諦めて脇道から近場の少し高い場所に避難しました。
着いて車から降りると下の方から叫び声がして見ると瓦礫と煙みたいな物が坂を登って来るのが見えて走ってもう少し高い場所にある公園に避難し、下を見ると町の中を音をたてて水や家が流れてました。
波は自分のいた場所から30m位手前で止まったので今となっては大袈裟な気もしますが、登って来る津波を見た時は恐怖だったし初めて自分の死を意識しました。
その後最初の目的地である病院に避難して一晩過ごし、翌日自宅のある高田に帰りました。
当日の夜は一睡もできず、慌ただしい病院の中でラジオから流れてくるニュースを聞いてただ絶望的な気持ちでした。

43 :
@秋田市
小さい頃は停電は結構あったけどあんなに長い停電は初めてでさすがに危機感が強かった。
ガスと水道が生きてたからまっとうなメシにありつけたけど、その後の品不足は予想以上だったな。
携帯の電池が不安ですワンセグ見ようという考えは浮かんですらなくただただラジオだけが頼りだった。
3.11が誕生日なんだけど忘れられない誕生日だな。蝋燭が立ってるんだけど吹き消せないっていうw
まるで悪魔の産まれた日のような言われようだが篠田麻里子と大隈重信とカツオと俺の誕生日だ。悼むだけでなくちょっとだけ祝ってくれよ。

44 :
43さん 私も誕生日だったよ
今年、去年の分もケーキ食おうぜ

45 :
@名古屋市
実家が気仙沼。火事や津波で大変だった地域。実家は2階も津波きたけど
なんとか残っている。身内や知り合いも大丈夫だったので良かった。
ちなみに名古屋でもあの時、仕事場が10階だったけど一分近くゆれが続いて
怖かった。震源地を調べて更に怖くなった。津波の映像みてもっと怖くなった。
それから3日間両親と連絡取れないことがもっともっと怖かった。
あの時ほど実家に戻りたいと思ったことはないです。

46 :
体験記、読み返しつつレスしたいと思っています。

先ずは

>>6
しばらく若林区は放映伏せ、、にしてるなと思っていました。

「新港の蒲生海岸」と云えば若林区なのか、、、
昔溺れてしまい、苦竹の病院まで運ばれますたった。^^;

>>7
ケーキは誰かが前もって買ってた(か作った)のかな。

>>8
オラも気になって電話、、、最初は通じて無事確認したけど2回目からはダメだった。
翌日面見に行ったよ。

>>9
揺れが大きいのでオラは歩道に寄って止めたんだが、
そばの電柱が倒れてくるんじゃないかと思ったくらいです。

47 :
669 名前:名無しさん@お腹いっぱい。(福島県)[] 投稿日:2011/05/03(火) 21:07:41.10 ID:1pmkGVVt0
郡山のモールってSCの3階駐車場に停めた車の中でひと眠り。
揺れに気が付いて起きた時は、普通の揺れだと思ってた。
「寝過ぎたかな?何時だ?」と携帯の時計を見ようとしたら徐々に大きくなり、普通に座っていられない。
ドアの内張りに肩をぶつけながら、軽の社用車が横転するんじゃないかと思う程の、横方向からの揺れに恐ろしくなってきた。
ここで、駐車場の吹き抜けから白い物が舞ってるのに気が付いた。雪。しかも前が見えない程の凄い量。

しかし当初は、寝起きで少々寝ぼけてて、安達太良山(福島県のほぼ中央に位置する山)が噴火したと思ってた。雪が火山灰に見えたw

大きな地震と突然の吹雪に、天変地異を描いた映画が重なりプチパニックに。
揺さぶられた車がピョコピョコ横に移動して、隣の車との間隔が極狭になってるのに気が付き、
車を動かそうとした頃にやや揺れが収まってきた。その隙にエンジン掛けて少し移動…した時に最大の揺れが襲ってきた。

目の前のコンクリ壁が上下からの強い入力で、壊れるというよりもバンッ!と弾け飛んで車に当たる。
駐車場の天井にあるケーブルを纏めたハシゴのような器具が隣の車に落下。思わず首を引っ込めた。照明が消えた中で、ビルの警報音が鳴り響く。

やっと揺れが収まった頃には「早くここを出ないと潰れるかも」と出口に向かうも、
先の器具やケーブルがアチコチで落下していて経路がない。何人かでケーブルの束を持ち上げて、なんとか駐車場から脱出。

直接家に向かうも大渋滞。裏道沿いの塀という塀はのきなみ崩れ、電線も垂れ下がっている。家に着いたのが一時間後。普段なら10分足らずの距離。
その頃には既に大津波が来ていたのを後で知った。

48 :
あ、↑は別スレに俺が書いたやつのコピペです。ヘッダ消すの忘っちゃ!

49 :
@南相馬 
震災当日まだ揺れが収まらないなか、
車を貸してほしいという人が来た。
その人は客で家は浜にあり、たぶん自宅付近は壊滅状態。
暗くなってきたから、今は行かないほうがいいといったけど
だめかもしれないけどどうしても家族を探したいといわれ車を貸した。

自分の命のほうが大事なんだからいざとなったら逃げろ
と満タンの車を貸してやった社長。

その後、原発事故で貸した相手は行方不明。
ガソリン不足になりあの車さえあればとうなだれていたのは
秘密っす。

50 :
@北上市 長くなるけどごめんなさい。あの日のことについて他人に断片的には話したことがあるけど、まとめたことはないから…。
自分の整理をさせるためにも書かせてください。

奥州市の職場の会議室で会議をしていた。
その時たまたま目にした広報誌に、海外でも津波はTUNAMIと表記するという記事があり「へぇ〜」と思っているところに揺れがやってきた。

長い揺れでロックをかけてあるはずの机が、かかっていないかのように動いた。部活をしている生徒のことが気になり、室外に出ようとしたが、
揺れがひどくて動くことができなかった。揺れが少しおさまったころ、会議室の外にでると壁にひびが入ったり、天井の資材がポロポロと床に
落ちていた。そして生徒の一人が過呼吸を起こしながら階段を下りてきた。ビニール袋を取りに事務室に飛び込むと、書類が散乱して足の
踏み場もない状態だった。目的のものを手に入れて過呼吸の生徒の手当て?にあたる。校舎にいた生徒達が大勢階段を下りてきたので
外に誘導し、自分たちも外に脱出した。(後で聞いた話だが、この生徒は部活中なんとなく嫌な感じがしていたらしく、移動しようとエレベーター
に乗っていたところエレベーターが止まり、携帯からは緊急地震速報の音がしてエレベーターには地震?だったか緊急?だったかのランプが
点灯したため、まずいのではと思ってエレベーターを降りた直後に地震がきてパニックになったらしい)

駐車場に集合し、人数確認をして全員避難することができたことがわかり、保護者と連絡を取らせながら帰宅させることに。私は過呼吸になった
生徒を車で家に送り届けることになった。いきなり吹雪になって「こんな時に雪まで」と思った。自分の荷物を取りに校舎に戻った時に、
壁にたくさんヒビが入っているのが目に入り、涙が出そうになった。職員室も足の踏み場がないほどものが散乱したり、書棚が倒れたりしていた。
もしあの時間にここにいたら…と今でも思うとぞっとする。会議室という机しかない部屋だったからこそ、誰もけがをしなくて済んだなぁ。

信号は消え、道路は大混雑。みんな出来る限りゆずりあって通行していた。いつもなら30分で着く距離を一時間かけて移動した。
車内で奥州FMを聞きながら運転していたが、緊急時のため、奥州FMは7分?ごとに信号を切り替えながら放送していた。
生徒を無事送り届けた帰り道、四号線のひどい渋滞にはまってしまった。その時にラジオをIBCに切り替えた。
津波が到達した後で、神山アナウンサーの悲鳴のような中継を忘れることができない(神山アナウンサーはたまたま釜石にいたらしい)。

職場に向かって来た道を戻っていると、生徒が一人歩いているのを発見した。車を停めて話を聞くと「連絡したが迎えに来れる状況ではない」とのこと。
そこから歩いても一時間はかかりそうなところだったので、送っていくことにした。途中、ブロック塀が崩れている家が目に入る。
その生徒を送り届けて職場へ。まだ生徒が帰れないでいたらどうしようと駐車場に行ってみると誰もいない。
しかし、校舎の事務室には誰かいるのが見えたので顔を出してみると、事務職員が残って処理をしていた。「生徒は全て学校からは帰りました。
様子を見て月曜日に出勤してください」と言われたので、実家に寄ってから帰ることにした。

51 :
@北上市
実家に向かったのは17時頃だったと思う。今更ながら母に安否確認のメールを送ると「無事だけど、もう少ししないと職場から家に戻れない。
一人で家にいるおばあちゃんが心配だ」ということだったので、急いで実家に戻る。
道路が陥没したりしているので迂回しながら実家に戻る途中、目の前を母の車も走っていた。

同時に家に着き、母は牛舎に向かい私は祖母のところへ!!
「大丈夫だった?!」とドアを開けると「おら怖かった〜」と言いながら近所のおばあちゃんとお茶を飲んでる祖母を発見(笑)
やっぱり、戦争時代を生き抜いている人は違うなと改めて思いました。
停電で薄暗い中、家の中の被害状況を点検。グラスが二つ割れていたのでそれを処理し、無事を確認したし仏壇も拝んだし帰ることに。
(その頃、父は千葉に旅行中でバスの中で地震に遭遇し、二・三日かけて帰ってきたらしい)
実家に泊まることも考えたが、やはり自分のアパートの様子が心配になり、戻ることにした。
母から「食料だ!持ってけ」とバナナやおにぎりをもらって実家を出発。

北上に向かう途中、火災の消火活動をおこなっているところがあった。
信号は消えているし、あたりは暗いし、本当に怖かった。
展勝地からいつもなら見える北上の灯りがなくて、悲しくて涙があふれた。

アパートに着くと花瓶が一つ割れていた。その程度であまり被害はなかった。
懐中電灯がなく、借りてくれば良かったと後悔しながら携帯の灯りを頼りにアロマローソクを探し出して火をつけた。
何度も余震がきて、一人の夜が怖かった。実家にいればよかったと思った。
母からもらった食料を食べ、妹や友達にメールして安否確認をする。
ラジオもないし、停電もすぐ直りそうもないと思ったので「寝るしかない」と思い、早々に眠りについた。
眠るものの寒さと余震で何度か目が覚めた。その度に外に出て車で暖をとりながらラジオを聞いた。

灯りがないため、星がきれいに見える。ラジオからは津波の悲惨な状況が流れてきて、
あまりの甚大な被害に悪寒が止まらなかった。同じように車で暖をとりながらカーナビでテレビを見ている人がいた。
その時ワンセグでテレビを見るということに気付いてなかったなぁ。

52 :
@北上市
「とにかく早く明るくなれ!早く夜が明けて欲しい」と思いながら眠りについた。
時々2ちゃんも見たよ。閲覧だけだったけど、誰かと繋がってる気がしてすごく心強かったよ。
朝の4時くらいに目が覚め、そとも少しずつ明るくなってきていたので早い朝食をとることにした。
幸いなことに水とガスは使えたので、「まずは温かい料理を作って気持ちを強くしよう!」と
冷蔵庫を開けてみると解凍したエビと生クリームを発見!
「地震に負けてられるか!」とエビのクリームパスタを作成。高カロリーの食事をして元気が出てきた。

食事をして元気もでたし、明るくなったので食料や備品のチェック。
家にいても何もすることがないので、また実家に行くことに。
明るくなってから運転してみると、改めてその被害の大きさに驚いた。
紳士服の店の大きなガラスが粉々に割れていたり、道路が陥没していたり…。
「ちょっとスーパーに寄って食料調達しようかな」と思って立ち寄ってみたら、
朝7時だというのにすごい行列だった。携帯の予備電池を手に入れようとドコモショップにも行ったが
(奇跡的に店員がいた)補助充電しかないと言われ、その意味がわからなかったけど

実家に帰る途中で、嫁にいった妹の家に行ってみると、妹は仕事にいったらしく不在で旦那もいない。
せっかく来たのにな〜なんて独り言を言いながら車に乗ると、妹の旦那が坂を上ってきた。
近所の見回りに行ってきたらしい。私が実家に行く旨を伝えると、一緒に行きたいということだったので
車に乗せて一緒に行くことにした。

実家に戻ると、一見いつもどおりの生活をしているように見えた。たぶん薪ストーブがあるからだと思う。
ご飯を炊くのもガス釜なので、食生活に不自由はしていなかった。農家だから自給自足だしね。
ラジオも3個以上あるし、懐中電灯も5個か6個ある。自分用に電灯付きラジオをゲットした。
母が妹の旦那に「墓の雪が地震のせいでえらいことになっているので、雪よけに行こう」と言い出し、
「こんな時に墓の雪よけしなくても!」という言葉も聞かず、妹の旦那のを連れて寺に出発した。

残された私はこのサバイバル生活を生き抜くための食料やグッズを実家で探しながら祖母の相手をし、
昼食を作った。雪よけから帰ってきた二人と合わせて4人で昼食を食べ、北上に帰った。
「一人じゃないって素敵なことなんだな」と感じた瞬間だった。

帰り道、107号線で赤十字のバス何台かとすれ違った。
その度に車の中で「来てくれてありがとう!がんばれ!がんばれ!」と泣き叫んでた。
妹は仕事帰りに電柱に登っている東北電力の人に「頑張ってください!!」と声をかけて
「はい!(電気がくるまで)待っててください!」と言われたらしい。
他にもたくさんの他県からの消防車や救急車とすれ違った。本当にありがたかった。

北上に戻るとまだ停電が続いていて、「今日もまた寒くて暗い夜か」と思いながら手に入れたラジオを
聞きながら靴下をはいて布団の中で丸くなっていると電気がついた。
テレビをつけると、津波の映像が飛び込んできて、予想以上の悲惨さに言葉がでなかった。
そこからはガソリン難民になったり、食料を手に入れるためにスーパーに並ぶ2週間を過ごしたなぁ。
そして募金活動をしたんだけど、その時外で活動している私たちにおばあさんが貴重な牛Rを差し入れて
くれたり、沿岸から来ましたと言って募金をしてくれた老夫婦にその牛Rをあげたりした。
皮肉だけれど、本当に絆というものを感じたり考えたりした体験になった。

長々とスレ汚しごめんなさい。貴重な場所をありがとうございました。

53 :
>>11
駅封鎖は泣きっ面に蜂でした。次からは避難所になりますね。(遭ってはならないのですが)

>>12
岩手では全国からの支援物資が余ったと(昨年秋)、、、どうして余るのか???

>>18
直後現地で映像を見れた数少ない人だと思います。

>>19
甚大な災害ショックなのか、思い出せない事がありますね。
オラのとこは町から離れているのでタバコには困らなかった。

>>20
日が経つにつれ品切れ増えたけど、、コンビニ・雑貨屋等お世話になりましたった。

54 :
まいね

55 :
まいね

56 :
>>ALL
えーと、サブタイトルは2つあります。

【3.11あの日】&【絆の足跡】

あの日の出来事だけではなく、「絆の足跡」に関する体験談も歓迎します。

57 :
おらのあの日も書いてみるか。@箱庭

>>9さんとそんなに離れていないところに居た。
爺さんを眼科医に連れて行って、待合の時間中に買い物を、、って時だったよ。
交差点の真ん中、これから右折しようってときだった。

きゃー、なんじゃーー、って感じだったわ。
大きな揺れの中、そろそろと交差点を抜けだし、路肩に寄せたんだけどさ。
この電柱倒れたら、一発だな、、、とか思ったわ。

で、一息ついた後、爺さんを迎えに眼科医へ直行。
爺さんは看護師さん方の誘導で無事、駐車場へ避難していた。
診断の途中だったようだが、了承を経て帰宅することにしたわ。

この辺で、おらの消防団スイッチが入った。
家族には不便をかけてしまったとは、後から気がつく。

58 :
家路、瓦が落ちた家、半壊の家、、、普段と違う風景が一瞬にして、、。
もう、このときから次の行動の準備ができてしまった。

途中、所属部のポンプ車とすれ違う。
大声で「爺さん家に連れて行ったらスグ行く。」。

築50年を越える古家はあの地震にも持ちこたえていた。
おもわず、「よし、がんばったな。」と声が出た。

散らかった部屋を簡単に片づけ、暖をとり、爺さんの居場所を作る。
ここで、ふと、、まちびを思い出し・・・。
スマホで「ナマズ板をあげろ」と書き込んでみた。

その足で屯所に向かう。。。
この時点で、子供たちや妻のことは頭にない。
後に、ちょっと自己嫌悪。

59 :
遠くに聞こえる緊急車両のサイレン、南の方にあり得ない土埃が舞い上がってる。
(後、それはR4に崩れた土砂のものと思った)
火事と思える煙も見える。

屯所には、それぞれ色々な災害情報をもって次々と団員が集まってくる。
例えば○○は液状化現象か水道管か解らないが冠水して通行できない。とか。
4月に引退を予定していた先輩方も集まる、、。
指示があるまで、この場で待機となった。

ここで、小学生の倅が屯所に来たんだわ。
ここまで子供たちのことを考えていなかったことを、、恥じた。

5000円を握らせ、簡単に家の状況を教える。
「何か買って喰え、部屋は自分でかたずけろ。」
心の中で「すまん」といった。

それから、妻や娘と連絡しようとしたが、、もうケータイは繋がりにくい状況だった。

消防団の活動が一旦解除された夕方、、食料を求めて店を回ったが、、もう何もなかった。
こういうときは、出遅れが、、なんですわな。
なぜか、焼き海苔と明太子が売れ残っていたから購入。
しばらくは、メンタイおにぎり定食となる。

娘はコンジョーで徒歩で帰宅していた。
「腹減った」とわめいていたが、、ピザなんてねーよ。
妻は仕事柄、、、帰宅したのは深夜となった。
無事であっただけ、それでいい。
食料や物資が、燃料が、、まあ、家族に迷惑をかけてしまったです。

蝋燭とラジオの夜、思い出したようにスマホでまちびを眺める。
ぁ、バッテリーが・・・・。
残りのバッテリーを使って、全国の管理人さん方に応援を要請した。

明日の消防団は午後からだから、、、午前中になんとか物資を、、
と思いながら毛布にくるまってみたが、、なんとも目が覚めて、、うん。
そんな午後でしたわ。

60 :
まいね

61 :
>>22
反射式ストーブがうちにもあって大助かり。
今シーズンは大量に売れたでしょうね。

>>24
あの日は金曜で、土日を休み月曜からも休業した会社もあったと思います。
その中葛藤しながらの労働、、、が伝わりました。

>>25>>18の続き)
猫ちゃん救出できてよかった。
15時過ぎまでの避難準備経緯がリアルです。

>>27
地震の時は外へ出ろ・机の下にもぐれ、とあってもなかなかできないものですね。

>>29
通信障害のない緊急速報であってほしい。


あと1.5ヶ月で1年になるけど皆さん克明に覚えているなあ、、、という中間感想です。

62 :
>>29
>携帯の地震速報 3.11に入りましたか?
私の(au)は来なくて 3.20 3.22 3.23 と入った
@東京だけど

63 :
仙台市宮城野区。
地震当日の夜、停電で辺りは真っ暗。
見上げた夜空は皮肉なほど星がきれいだった。

遠くの県庁市役所あたりだけ微かに明かりが。

夜が明けて、あちこちの離れた場所からまだ黒煙が上がっていて
自衛隊やマスコミの大型小型のヘリが海のほうに沢山飛んでいく。
その時やっと「本当に大変なことが起きた」と実感がわいた。

64 :
>>>62
揺れてる最中に鳴ったはず。R48で信号待ちしてて、本格的に揺れはじめたときだった。ハンドル握りしめながら聞いたの覚えてる。

65 :
>>64
それが ケータイの記録にも残っていないんですよ
揺れ始めてからずっと手に握っていて 
強くなりかけた瞬間から 子供に連絡をとろうと何度もRュし続けていたせいで
Cメールを受信できなかったのかな

66 :
29です
揺れを体感する前に着信し、一緒に作業してた人に「地震くるみたいですよ」と言いつつ談笑してました
それから、暫くして揺れ始めて「当たりましたね」と言ってる間に揺れが大きくなり、目の前のパーティションが倒れたら危ないなと作業中断して押さえてました
震度6弱の地域ですけど、職場だと作業中は震度3でも気付かない事がある位で、当時は震度5位かなと思ってました
因みにキャリアはドコモです

67 :
そういえば、横浜の友達は鳴らなかったと言ってたような?
友達のキャリアはAUですね

68 :
>>30
管損壊がない自然流下の水道は大丈夫だったようです。
風呂が使えなかったので使用量が少なく、ポンプアップでも貯水槽分はもったと思う。

>>31>>27 の続き)
沿岸の学校の頃少し強い地震あって、早下校の時がありました。
今から思うと海方面へ帰るのは危険だった。

>>32
職権を乱用?した給油の様子はこちらでも、、、。
中にはそのような行為を却下したというGSマンの話を聞きましたった。

69 :
戸棚から食器が盛大に落ちたのはあの2回だけ

窓が丸くなって柱が斜めに見えた時は、このまま押しつぶされて死ぬんだなと本気で思った

70 :
>>68
ああ、そうだったんだ・・・・うちは自然流下だったのかw
でも、地震から3日後くらいに止まった記憶があります。
その前日から、「止まってない水道も止まるらしい」という話を聞いていたので、
水を溜めておいた。

そういえば、一週間近く風呂に入ってなかったんだなぁ。
周りも同じだったので、気にならなかったが。
普段は客入りもボチボチのワゴン焼き鳥屋なんかには、行列出来てましたね。

71 :
北海道十勝地方在住の者です。陸前高田に知人がいます。

震災の11日には知人とは全く連絡がつきませんでした。陸前高田の様子もこの時点では全くの不明でした。
12日の朝になって陸前高田が壊滅状態と知りました。知人の安否が全く不明なので、陸前高田に行って見ることにしました。

水と食料と衣料と毛布などを車に積んで午前中に十勝を出発しました。
苫小牧東港が津波で浸水したので苫小牧東港は利用できないのですが、臨時で小樽から出航するとの情報があったので新日本海フェリーに電話をしたけれど話し中で全く繋がりません。
仕方が無いので函館から青森に渡って行くことにして函館へ向かいました。

函館についてガソリンを入れようとスタンドに行くと、20リットルまでしか入れられないと告げられました。
これはちょっとまずいと思い、ホームセンターでガソリン携行缶を購入しました。ガソリン携行缶は売り切れ寸前でした。
とりあえずガソリン携行缶にもガソリンを入れて、フェリーターミナルへ向かいました。

フェリーは津波警報が出ている間は出航しないとのことでした。
夜の12時頃になって津波警報が注意報に変わり、青森へ向けて出航しました。
早朝のまだ暗いうちに青森へ着いて青森市郊外のコンビニ寄ってみると、食料品等がかなり品薄になっていて通常の状態でないことが感じ取れました。

4号線で盛岡方面に向けて走っていて明るくなってくると、スタンドで車の行列ができています。ただならぬ雰囲気です。
どこのスタンドも行列ができていました。盛岡市の到着してガソリンを入れようとスタンドの行列に並びました。
3時間並んでガソリンを入れました。だけど10リットルまでの給油制限。ガソリンを入れ終わったら昼過ぎでした。
盛岡市周辺の信号機の多くは点灯していませんでした。

ラジオでは被災地域へは通行制限をしていると放送されていたので、陸前高田へ向かうの躊躇し盛岡付近の道の駅で車中泊。
道の駅は停電していました。トイレの水も断水してました。
翌14日早朝の真っ暗な時間に、道の駅の自販機の明かりがいきなり点きました。電気が回復したようです。

被災地域への通行制限は相変わらず続いているようでしたが、とりあえず陸前高田へ向かうことにしました。
花巻あたりから海の方へ向かいます。
東和で検問っぽいのが遠くに見えたので、検問を迂回するルートをナビで探して進みました。難なく検問をパス。

途中の小さなスタンドで行列に並んでガソリンを補給し大船渡経由で三陸道を通って広田半島に行きました。
広田半島に入って広田町方面に向かう途中に津波警報とかで通行止め。消防団の方々が交通整理をしていました。
通行止めの間、小高いその場所から見えた景色は見たこともないような瓦礫の景色。
待つ間、開通を待つ自衛隊の若い人と雑談。その人は半分私用のような形で広田町の実家へ行くということでした。

津波警報が解除され、広田町方面へ向かいます。瓦礫の中の応急的に片付けられてなんとか通行できるようになった道を進みます。
なんとか知人宅の付近まで行きましたが、電柱が倒れて道を塞ぎ、そこから進めません。
そのへんにいた人に知人のことを聞くと、その人は偶然にも知人の従兄弟でした。そして、先ほど会った自衛隊の若い人は、その人の息子のようです。
その人に連れられて山道を歩いて知人宅へ到着。家は無事で、そこには被害にあった親戚の方が10人近く居ました。水は井戸水を利用していました。食料も何とか足りているようでした。石油ファンヒーターしかなかったので暖房に困っていました。反射式石油ストーブを持って来なかったことを少し後悔しました。
少し知人とお話をして広田町を出発。

15日朝に秋田からフェリー乗ろうと思ったら、その日は夜に秋田発だったのでフェリーターミナルで夜まで待って乗船。16日早朝に苫小牧東港到着。午前中に十勝に到着しました。

72 :
>>71
外からの様子というか、臨場感があって興味深いです。
直後は函館すらガソリンだめだったんだ・・・。

ちなみに私は17日の山形〜新潟〜岐阜で、新潟のはずれ辺り〜新潟市内一部でやっとガソリン満タンOKだった。
そこから西日本の親戚宅へ。

また仙台にすぐ戻ったけれど、名古屋の町並みの「普通さ」と東北の惨事とのギャップでしばらく苦しんだ。

73 :
緊急地震速報はドコモもauも届いた@盛岡
携帯が大騒ぎして、5〜7秒くらい後に揺れ始めたね。
はっきり覚えてるから間違いない。

74 :
私は関東在住ですが、本震の時はドコモのエリアメール(緊急地震警報)は来なかった気がします。
色々ありすぎて忘れてしまっただけかもしれないですけど。

余震で何回もエリアメールが来たのは覚えてます。
夜中に来ることが多かった気がします。

75 :
>>74
乙っす。

#1を更新したので、業務書き込みー。

76 :
ラジオは災害時に役経つね。
携帯やネットは停電や回線パンクして使えないだろうし。
あと、テレビだとスポーツの中継など放送時間超えると
打ち切られるし。
皆してスマートフォンとかって馬鹿らしい。
通信障害が多いらしいな。
便利すぎるものもどうかなと・・。
思考力衰えているらしいとか。

77 :
地震時には車使うよなっていうのが、肌でしみた。
その当時から、車手放していたので、ガソリンネタは関係ないが、
道路は大渋滞。
あのような状況・・・・ガソリン待ちしている時間あるなら、
チャリで職場に逝った方が早いって。

78 :
あのガソリン渋滞は、アイドリングした分を給油すんのか?って感じだったなw

79 :
ラジオ福島で「どんぐりころころ」を聞いた時は泣いた。

80 :
>>36
実状と正反対な報道は困ります。
それにしても片道200kを車通勤!?、、、実害が続いてますね。

>>37
安全と強調されるたびに不安が増したあの頃から今に続いて、、、。

>>38
そうですね、1年を機に身近な方法で今を表現できればいい。

>>40
仮面ライダーを歌う子供さんがミラーとなって40さんの心意気を伺えました。


>>70
自然流下でも浄水池でろ過したり殺菌する時電源が必要なのかも、、、。

81 :
ベタだがサイモン&ガーファンクルの明日にかける橋には泣かされると同時に励まされた。

82 :
俺は「You Raise Me Up」を聴いて号泣したよ・・・


When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...to more than I can be

83 :
三日目くらいにラジオから流れてきた「震災後初めて聞いた歌詞のある曲」が「100%勇気」だった。
これかアンパンマンのマーチだろうなと思ってたから、あまりのベタさに笑ってしまいそのあと涙が出た。
まぁがんばるかーと思えた瞬間でした

84 :
こそ・・・こそ・・。


おらは・・

「フラガール〜虹を〜」だったわ。
♪大地に光をぉ〜〜、で涙が出た。

85 :
>>82
「You Raise Me Up」の日本語訳を上げときますね。

落ち込んで そして Oh 魂が とても疲れた時
トラブルが来て ハートに 重荷を背負った時
その時は じっとし そしてここで待とう 静かに
そうすればあなたが来て しばらく座ってくれる 一緒に

あなたが立ち上がらせてくれる そうすれば山の上に立つことができる
あなたが立ち上がらせてくれる 荒れた海の上を歩くために
強くなれるよ あなたの肩につかまれば
あなたが立ち上がらせてくれる... 自分で出来る以上に
:

曲を聴きたい時は http://www.youtube.com/watch?v=aJxrX42WcjQ

86 :
あの日、4才と1才の娘達を乗せて車を運転中にラジオと携帯同時に緊急地震速報が鳴った。@仙台市泉区
ハザードをつけて路肩に停めようとした瞬間、地震が来た。なぜかパーキングに入れずブレーキを力いっぱい踏んで
「大丈夫だよ〜すぐおさまるよ〜」と妙に明るい声で子達をなだめました。
揺れがおさまり、後部座席に移った瞬間、最強クラスの地震。
泣き叫ぶ4才の娘に、大丈夫だよ、お母さんがそばにいるから絶対大丈夫、と何度も叫んでいたのを覚えています。
目の前の図書館からは、泣きながら飛び出してきた学生さんや、利用客の人が沢山出てきた。

自分は震災後ラジオで流れていて初めて元気付けられた曲は、
はっぱ隊のYATTAでした。
「生きているからラッキーだ」って本当にそうだよな、と思った。涙が止まらなかった。
明日はワンダホー、に勇気を貰えた。
それを聴いてから暫くは、心が不安で押しつぶされそうになると、「水飲んだらうめ〜!」と言って家族に「YATTAー!」と返して貰ったり、自分が返したり。
ネットが繋がるようになった頃YoutubeでPV観て、笑いながら泣いてた。

87 :
私は震災からまだ日が浅い頃は、バラエティー番組が再開されても、すぐには楽しむ気持ちになれなくて、音楽番組をよく見て元気をもらっていました。

特に印象深かった歌は、フジテレビのチャリティー特番みたいなやつで森山直太朗さんがアカペラで歌った「さくら」です。ものすごく力を感じました。

88 :

ACの「あいさつの魔法」を聞くと今でも当時を思い出して悲しくなる。

89 :
停電にならなかった地域の人達は、津波が民家道路車を飲み込む映像に人々が流されるところも映り、なんという事態がおこったんだ…
と、絶句したらしい
停電で見てないあたしはそんな惨事がおころうとする危機感もなかった

90 :
鋭意、遠距離恋愛中なのでaveの曲は効きました

あのACの曲、言われるまで忘れてたけど、思い出したら原発爆発の瞬間とかヘリでの水投下とかフラッシュバックして気分悪くなった
軽くトラウマ化してるかも

91 :
当日のラジオで浜に数百人の遺体が〜ってのを聞いて想像しただけでガクブルだったな。

92 :
津波は到達しなかった方面の若林区在住です

地震の瞬間はコンビニにいて、携帯から(その後何度も聴くことになる)緊急地震速報の
音が鳴るのと、ほぼ同時にコンビニの窓が「カタカタカタ」と鳴ったのがはっきり記憶に残ってます
で、「あ、地震かな」と思って外に出た瞬間に大きいのがグラグラっと…

自分で体験した大地震では、'83年の日本海中部地震に弘前市で、'94年の三陸はるか沖地震に
八戸市で遭遇してるのですが、いずれも地震のときは屋内にいたので、一応「外」で揺れを
体験したのは初めてでした
この時は、バス待ちの時間つぶしにコンビニにいたので自宅からそんなに離れておらず、
とにかく家に戻ろうと、揺れに足を取られながら必死で歩いてました

うちの中は家具などがひっくり返って無惨な状態になってましたが、とりあえず家族に人的被害はなし
すぐ近くに住んでいた親族も無事でした

とは言え、ひっきりなしに来る余震に落ちつかず、片付けも進まない中、周囲が暗くなってきたのに
停電は回復せず…(結局、停電は4日くらい続きました)
震災当日の夜、自宅の布団で寝ることができたのだから、他の被災した方々に比べたら贅沢なんて
ものじゃなかったと思いますが、この夜はいくら布団をかぶっても体が温まらない感じで、余震も
激しいし、ほとんど眠れなかったことは覚えています

確かこの時点では、津波で大惨事が起きていることはわかりませんでした
携帯は警報や防災通知メールであっと言う間に電池切れになり、普段使っていないラジオは、この日は
とても探し出せる状態ではなかったし…

93 :
で、翌日からは、とにかく片付け三昧と食糧確保のために走り回っていました
10時開店予定のスーパーに8時ごろから並んだり(それでも買えるものは一家族様10点限定、とかでした)

うちはアパートで、ガスはプロパン方式、断水はなかったので、なんとか震災翌日から煮炊きは
できてました
近所の親族のところが都市ガスだったので1ヶ月ガスが使えず、そっちの食事も差し入れしたりして
いたので、とにかく震災からしばらくの間、食糧問題が差し迫った悩みで…あと、ガスは使えては
いるけれどボンベ内の残量がわからないのが不安で仕方がなかったです
この時期は、つくづく反射式ストーブの有り難みを実感してました(引っ越しのたびに処分を検討しては
保留して押し入れに押し込んでいたのですが、ほんとに処分しなくてよかった)

津波その他、各所の被害については、ラジオではやはり概要くらいしかわからず、停電が回復して、
テレビを見られるようになってからようやく、尋常ではないことが実感できた、という感じです
「ぽぽぽーん」を始めとするACのアレは、1日もしないうちに聴くのも目にするのも苦痛な状態に
なったので、かなり長い間、NHK以外のチャンネルは見てなかったと思います
あと、ニュースなどでは「若林区」全体が津波で壊滅した、的な報道が多かったので、県外の知人からは
かなり安否を心配するメールや電話が来ました
バイパスの内側までは津波は来なかった、という話をしてもいまひとつピンとこなかったようで…

これは心情的なものですが、最初の震災は突然のことだったので、ショックを受けつつもわりと冷静に
対応できていたような気がします
どっちかというと、4月に起きた大きな余震の方で、気持ち的に落ち込んだ感じが…
またあのクラスの余震が来るのでは、という恐怖感とか、その他もろもろ

94 :
地震当日は子供達二人を迎えに行くのが精一杯@青葉区。
下の子は15分程度で到着出来たからクラスでも一番乗りで引き渡してもらえた。
帰り道の生協が屋外販売してたので電池や水、菓子パン等を買い込んだ。
ところが上の子を迎えに行くバイパスが大渋滞で地割れもしてるし結局3時間30分もかかった。
カーラジオからは大津波が沿岸を襲うニュースが続々入り、息子の学校も宮城野区だったので
生きた心地がしなかった。20時を過ぎてやっと引き渡しが済み、幸いにも学校までは津波は
到達してなかったのでとにかく急いでその場を離れた。
帰りはバイパスの下り線はスイスイで自宅までは20分足らずで到着。家に入って散乱した食器や
本が危険なのでその夜は毛布を持ち込んで車中泊。死ぬ程寒かったし余震も頻発して絶望感が
ひしひしと感じられた。その夜の満天の星空は一生忘れないと思う。
深夜遅くダンナが帰宅して窓をゴンゴン叩かれたのには腰抜かした。

95 :
@ひたちなか市
職場にいた。
揺れが長いのでプロパンガスの元栓を閉めようと外へ出たところで地響きがして大きな揺れへと変わった。
漫画や映画で見るように地面が裂けるのでは、と恐怖でいっぱいだった。

周りの家々の瓦が崩れるのが見え、職場に目をやると砂埃が立ち上がっている。
職場は全壊。あの光景は忘れられない。復旧は無理とのことで、結局二ヶ月半無職状態に。

一番苦労したのは断水で、配給の水をもらう列に並ぶのが日課になり、
10日目にようやく通水して入った自宅の風呂の温かさに涙が出そうになったよ。

停電も長かったので、津波や原発事故の映像を見たのも震災後かなり経ってからだった。

96 :
いわき在住ですが
被害もそこまでひどくもなくて、とりあえず普通に生活できていますが
母の言った 

なんで福島ばかりこんな目に合わなければならないの

と言う言葉がずっと頭に残っています

97 :
まいね

98 :
>>42
ググってみると目標は県立病院、30m手前まで迫った公園は北小の近くでしょうか?
(違っていたらごめんなさい)

>>43-44
去年の悲しい日が誕生日、、、今年は穏やかな気持ちで迎えてくださいませ。
「2011年は平成23年、その時自分は○○才」、が焼き付いてしまいました。

>>45
オラも連絡とれない沿岸の姉家族がいて、、、
すぐに行って何か手伝いたい気持ちを抑えたのが、約2週間の交通規制(通行止め)でした。

>>47
立体駐車場からの脱出が目に浮かびます。
信号の消えた交差点渡るのが怖かったですね。

>>49
やめろと止めたけれど、、、どうせ貸すなら油の心配ない車を、、、
社長さん自分を責めないでね。

99 :
連投失礼。

>>97
その種のレスは
東北大震災スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1311125296/l50
原発スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/3
がいいんじゃないか?

100 :
まいね

101 :
>>98
42です。
最初に避難した場所は地の森という地区で路上に車を停めて立っていました、波が見えてそこから走って上の小さい公園みたいな場所に逃げました。30mというのは最初に立っていた場所からです。(なかなか上手く書けなくてすみません。)
その後、消防団の方の誘導に従って45号線に出て私道のような少し細い道から県立病院まであがりました。

102 :
地理的に被害は少なかった青森県上北方面です。

運動施設に勤務。当時はトレーニングルームに3人男性。
温水プールにご年配のご婦人3人と初老の男性2人。

いきなりゆれて、すぐに治まるのかな?考えてる途中から
販売物を入れていたショーケースが尋常じゃない音を立て始めた。
「これはやばい!」と思って急いでプールに行き、大きな声で
「地震が来ています。大きいのであわてずにプールから上がって下さい〜〜!!」
と言っても、入水しているお客様は「???」という顔で私の言っている言葉を
理解していない。

経験してみないと判りにくいのですが、プールを歩いていたり、泳いでいると
地面からの揺れは判らないです。もともと揺れている様な状態で運動している
からです。
「大したことないさ〜」と笑顔のお客様、1秒後と大きくなる揺れ、焦る私。

「とにかく出てください〜〜!!」と言っているとプール施設全体がギシギシと
異音を出し始める。揺れはMAX、私は非常口に走り扉を開け、やっと非常事態に
気がついてプールから上がるおばちゃんたちを誘導。

外は春には未だ早い東北の3月。わずかに雪が残る駐車場に
水着のまま避難する事になりました。
外に出て一番年配のおばさんに抱きつかれながら、大地が大きく揺れる中、
外のピーンと張り詰めた空気を痛いほど頬に感じていました。

大地の怒りって言うのはおかしいのですが、人の力の及ばない
大自然のエネルギーに畏怖を感じた人はこの中にいませんか?

ただ抱きしめあうことしか出来ない駐車場の私達の足元には非常口の
扉の向こうのプールから大揺れによってカクハンされた水が
いつまでもいつまでもいつまでも流れ続けていました。

余震の治まらない中、皆さんを着替えさせ、無事帰宅を確認して一安心。。
職員は通常9時までの勤務でしたが、停電のため5時で営業停止となり自宅待機。

自宅はたいした落下物も無く、ガスはプロパン、ストーブも反射式が3台あり、
食料も蓄えが相当数ありました。
ただガソリンだけは買えず、3月いっぱい自転車や徒歩で通いました。
プール用の重油も被災地優先で買えず、4月までジムだけの営業。
職員も交代で勤務。今でも避難のシュミレーションを毎日脳内でする癖がついた。

こんな感じでした。内海(陸奥湾)側でしたので津波の被害は無かったですが、
テレビを2日見れなかったので初動での映像は全く見れませんでした。
12日、まさか来ないと思っていた朝刊の新聞見開きの津波写真に絶句した事が
昨日の事のように思い出せます。

長くてすいませんでした。
皆さんのご健康を心から祈ります。

103 :
>>102
スイミングウィング三沢 乙

104 :
>>102
被害が少なくてなによりでした。

こちらでは市内のスポーツクラブで一人が亡くなられました。
当時プールに入っていて、天井が落下して犠牲になられたと聞いております。
裸同然の客の誘導は難しいものがありますね。

105 :
>>50-52
停電になっても、薪ストーブが家族団欒に一役買ったような、、、。
いつも在る所にあると落ちつくんだなーと思いました。

>奥州FMは7分?ごとに信号を切り替えながら放送していた
ラジオから流れる信号音のことかな???

>>57-59
大規模停電の中、本部や他分団とのやりとりはどうだったんでしょう?
(発電機とか無線機があるんだね)

>>63
仙台が闇に、、、。
そちらのほうは苦竹・原町近いから自衛隊の動きが見られたのでは。

>>66>>29 の続き)
補足乙です。

>>69
夕方だったら店舗や家庭で火を使ってたでしょうね。


>>101
こちらこそ低読解で、、、ありがとうです。

106 :
>>71
北海道から困難気にせず陸前高田市広田町まで12〜16日。
フェリーストップ・給油制限・被災地域への通行制限、、、よく行けましたね。

>>72
いわき市の伯父が同じ事言ってて、山形でだめ(制限)で新潟まで行って満タン入れた・・・と
(伯父は車がハイブリと言いたかったらしい)

>>76-78
TVはこれから変化しそうラジオは生き残る、と思う。
あの時から(原)チャリ移動を考えています。

107 :
まいね

108 :
>>94
…危険なのでその夜は毛布を持ち込んで車中泊。死ぬ程寒かったし余震も頻発して絶望感がひしひしと感じられた。その夜の満天の星空は一生忘れないと思う。
>>102
…大地の怒りって言うのはおかしいのですが、人の力の及ばない大自然のエネルギーに畏怖を感じた人はこの中にいませんか?

私も北関東にて、>>94さんと同じ理由で車中泊しました。
絶対津波が来てるはずの実家と連絡が取れない中、ラジオから流れる情報で途方に暮れました。
それでも大地は容赦なく揺さぶり続ける。
ただうろたえるだけの私達を嘲笑っているかのように思えました。
暗闇の中見た星空も翌朝の太陽も我々とは関係なく輝いていて、人間の小ささを思い知らされました。
以上、>>102さんと似たようなことを思ったのでレスしました。

109 :
>>108
大自然の脅威は感じたが、毎晩行列をなして家の前を走って行く自衛隊の車両や
電力会社、ガス会社の車列を見ていると、それに負けない日本人の強さも感じた。
震災後、バス停の前で不定期運行のバス待ってると、通り掛かった車が声を掛けて
乗せてくれる事も少なくなかった。

マクロス7の「LIGHT THE LIGHT」聴いて泣いた。

110 :
まいね

111 :
まいね

112 :
寒さにまして大雪です。このままでは生活にも影響が出てきそう。
凍結に注意、除雪に安全確保しましょう。
(スレ違い)

>>81-84,87-88,90
メロディもちろん、いつもより歌詞のほうが耳に入りました。
なぜか今の自分にぴったりだ、なんて思ったりして。

>>86
≒10分間に大きいのが3つ来ましたからね。
身近な人がいれば不安解消するような、、、。
自分の場合左折ウィンカー停車したのですが、そのあとパーキングに入れたかどうか、忘れてしまった。

>>89,91
新聞はとってないしラジオだけからでしたので、2日後TVを初めて見た時は声が出なかった。

>>92
若林区?の蒲生海岸でしたかあそこは外海もろの砂浜と記憶。
ライフラインとしてプロパンガスは注目ですね。
(あと反射式ストーブ)
TVを見た時のこと、4月余震の頃の落ち込み、、、92さんと同じ気持ちでした。

113 :
>>109さん
私も力強さを感じた事があります

こちらは宮城県北ですが、確か12か13日の夜中におびただしい数のサイレンを聞きました
市内の消防車・ポンプ車・救急車かな?と思ったら
秋田から高速降りて沿岸部に向かう車列だったようです。

電気が消え、人の姿も消えた内陸の田舎町です
高速降りて沿岸方面に向かう道があるんだと思います。
がんばれがんばれ、助けてあげて
ここは大丈夫
そう願って見送りました。
沿岸近くにキャンプを張れない自衛隊の方々もたくさんうちの町に来てました。同じ気持ちで見送ってました。


あと、うちの五歳児は自衛隊さんが大好きになりました
車ですれ違う時に
自衛隊さんを書いた絵を見せてました。
疲れてるのに合図してくれるんです
恥ずかしかったんですが手を振ってくれると嬉しかったですね。
彼らが頑張ってたおかげなんだっていつも思ってます。
子供は自衛隊さんになる!と言ってます
女の子ですが、頑張って欲しいもんです。

114 :
自衛隊、広域消防、警察官の方々には、いくら感謝しても足りないよね。
3日後くらいには、いろいろな地域からの緊急車両が来て頑張ってた。
県が緊急車両用のガソリンを確保してたみたいだけど、それに文句言ってる人が情けなかったよ。
「何であいつらばっかり入れられるんだ!!」
ってね。
「出勤出来ない!!クビになったら責任取れ!!」
とか言ってる奴もいた。
何でこうなのかね・・・

115 :
@東松島
自衛隊の車列にはサンダーバードのテーマ
警察の車列には西部警察のテーマ
消防の車列にはバックドラフトのテーマがそれぞれ頭の中でながれてそのたび涙した。

116 :
>>114
逆に考えると、こういう状況になれば誰が誰なのか分かるという事だろう
品性があるのか無いのか・・・・・・・

ガソリンスタンドでの醜い争いは、わりとよくあったらしいな
スーパーなんかでも人数や品数制限して頑張ってたが、万引きも多かった
被災地の火事場泥棒然り、こういう連中に生きている価値はあるのか
万代に忍び込んだ育英野球部なんかも、実害ないだけで無罪放免
あの有名高校にして、この程度の品性だったわけだ

117 :
毎日ちょっとづつ買い物しても間に合うのに、適当な風評信じてまとめ買いして迷惑かける市民性にはガッカリした。

118 :
@石巻
記憶違いでなければ12日の午前中には長岡ナンバーの救急車を見た
地元の人間が力なく立ちつくしている道路を
数台連なって静かに走って行ったのを憶えている

救急車を見て感動したのは生まれて初めてだった

119 :
13日の早朝、食い物も電気もない中、県庁に行ってみた。
そこだけ電気があってTVが見られたし、ホントはダメなんだろうけど携帯の充電が出来た。
そしたら地下の食堂が営業してたのよ。
白飯、漬け物、味噌汁が300円だったかで食えた。
美味かった・・・

食いながら涙が出てきたよ。
悲惨極まる沿岸の様子、現地で何も出来ない情けなさ、自然の恐ろしさ。
何だかわけのわからない感情が溢れて、涙が止まらなくなった。
あの時の飯は、一生忘れないと思う。

120 :
@いわき
津波が収まって、いわきではめったに降らない雪(粉雪だったかな)が降ってきて、湿った瓦礫の上に落ちてきたのを見て、
ああ、これで何かが終わっちゃうんだな。終わりってあっけないな。つい数時間前まで波を眺めながら一服してたのにな…って特に意味のないことを感じてたら、
津波から逃れた人たちの声が聞こえてきて、オレの脳裏で「ロンリー仮面ライダー」が流れた。
オレは仮面ライダーにゃなれないけど、生き残った人たちを護らなくちゃと気持ちを奮い立たせたっけな。

121 :
3・11を振り返り…思えば直感的に近々ヤバい地震が来るなと思っていました。
金魚を2匹飼っていましたがあの地震がある1ヵ月か半月前か…2匹共ずっと下の隅っこに沈んで身を潜めてました。普段は餌をネダる様に人が通り過ぎると上に浮上しパクパクと激しく口を動かすヤツらが…。地震前日に「そろそろチェストから下に降ろしてた方がいいかな」と、ふと思いました。
それから余震も多かったので金魚の行動に「変だな。近い内、大きな地震でも来るんじゃないか?」って家族で言ってた所でした。

3月10日の夜。いつもみたいに余震が何回か来て「本当にヤバいなぁ。寝室の本棚、移動しよう」と思っていました。

11日は突っ張り棒していた本棚が全壊して布団に降り注いでました…
3月11日。息子を幼稚園にやった後、娘が○歳半検診時で耳の検査に引っかかりヒヤリングセンターへ。

検査まで時間があったので市民広場に寄ると女川等の物産展(?)がやっており、普段は買わないのに何故か女川産食べるラー油「オナラー」や沖アミを4袋も買った。
検査後にミスドに行き、やはり普段そんなに買わないのにドーナツを15個も買ってしまう。
最終的にはアエルの4階で娘と被災しました。
エスカレーターを降りてすぐに緊急地震速報が鳴りました。周りのお客さんのも複数鳴り響き、ただ事では無いと感じました。

…振り返ってみて何かデカい事がある時は普段と違う事をやってしまう&「そろそろ○○しよう」と直感的に思う&飼っている動物の動きに注意かなと思いました。
ちなみに金魚は2匹ともチェストの下敷き&チェストの引き出し内にいました…ごめんね…本当にごめん…。降ろそうかって思った10日の夜に下に降ろして置くべきだった…
…今は5匹飼ってます。子供達が悲しんだので夏祭り等で釣りました。

122 :
121です。長々スイマセン。
何人の方か書いてますが停電が続き、私も新聞で津波の被害を知りました。
「え…嘘でしょ?これ名取?」と頭が真っ青になりました。

友達は母を津波で無くしたり爺婆が行方不明だったり友達無くしたり自宅無くしたり職なくしたり…同じ被災者なのにレベルが違い過ぎて何を言ってあげたら良いか分かりませんでした。

県外からの支援車や隣近所の優しさに改めて暖かさを感じました。
震災は忌むべきもの。でも人の暖かさを再認識出来た。これが人間だ。人間の温もり、力、繋がり。皆ありがとう。

停電中は開き直るしか無かったので皆で酒盛りしたりロウソクの明かりで影絵をして子供と遊んだり…悲しむだけじゃなく前向きになれる様、楽しむ事を考えました。

人知れず涙もしましたけどね。

123 :
>>94
旦那さんの帰宅経路・移動手段なども聞きたかった。
あの日の夜、かなりの数の人が車中で過ごし夜空を見ていたんですね。
そして皆さん星がきれいだったと言っています。

>>95
この大きな揺れはいつ治まるんだろ、と。
岩手(特に内陸部)ではトタン屋根が一般的で、主に瓦葺きの店舗・蔵・住宅に被害ありました。
配給の水は飲料分しかなかったでしょうから、、、最高の風呂でしたね。

>>96
福島県の苦悩について計り知れません。
少しだけ意見を云うと40年廃炉という政府の建て前は、
これからも核エネルギー推進、未来については我関せずとしか思えない。

124 :
>>123
気持ちわかるけど…(傲慢ですまない)

後者は、赤文字で語ってはならない。>>1の趣旨を逸脱。

行きたいけど、行けない。物資を送りたくとも、送れなかった。そんな、半年前を思うと、いま、同じ物資を送ることが、ありがたいか、迷惑かを考える。

具体的に明かせないので、このへんで、退出。


でも、野蒜で育ててもらったうちらは、まだ。惜しみすぎ…

125 :
>>113
同じく
12日のお昼過ぎだったかな
こちらはいわき市ですが、浜松消防隊の車列が50台近く、通行止めの高速から降りて来て津波被害の沿岸部に向かって行ったのを見ました
物凄いサイレンの音が鳴り響いて、何事?と思い、反面、今のいわき市にこんなに動ける緊急車両なんてあるの?って家族と話をしていましたね
浜松消防署の名前が見えて、皆涙流しながら頑張って!ありがとう!って叫んでたのが印象深かったです
原発がヤバイ状況の中、よく来てくれたものです、感謝感謝です

浜松の皆様、この場を借りてお礼申し上げまする

126 :
福島県白河の零細事業主です。
ともかく金が無くて困った。
3/10に、それまで溜まっていた下請けへの支払いと従業員の給与を年度末だからと綺麗さっぱり支払ったら、自分の生活費が無くなってた。
3/20に顧客からまとまった支払いがあるはずなのでそれをアテにしてたけど、連絡もつけようになかった。
原発が爆発して女房子供だけでも避難させようとしたけど、交通費と当座のまとまった資金すら手当て出来なかった。
3/20になにも言わずにきちんと耳を揃えて支払ってくれたお得意様、あなたは神様です。〔感謝〕

127 :
自衛官(航空)の嫁ですが、震災前は旦那の職業を聞かれ、「自衛官」と答えると あ〜(笑)毎日走っているの?ほふく前進してるの?などなど…笑って言われていました。私も結婚する前は自衛官でした。今回の震災では 誰もが家族、知人と連絡が取れない中、不安な日々を過ごしましたね。
私も主人と連絡が取れたのは震災から一週間後です。
連絡が取れても主人が家に帰って来たのは震災から三ヶ月後でした。岩手県に派遣され 毎日 毎日行方不明者捜索、物資の輸送 新聞やラジオで自衛隊の活動が取り上げられていました。
何の職業でも 私たちが生活していく上で必要だから 色々な仕事、職業があります。
はじめて自衛隊が世の中に認められたような…震災では色々な事を今 生きている人々に与えたのですね。忘れかけてた人との繋がり、物の大切さ…色々。

128 :
>>127さんの旦那さんに敬礼(・д・ゞ

129 :
>>126
金と言えば、取引中のネットオークションが2件あった。
震災直後は言うまでも無いが、それからしばらくは東北への配送が大きく
制限されたままだったなぁ。
郵便局が一番早く配達始めてくれたが、それでも沿岸部や福島原発周辺は
配達制限が続いていた。
オークションの取引相手との連絡が付いたのは、震災から5〜6日後。
やっと電話とネットが復旧したんだが、1件は取引の継続も対応もこちらの
都合に合わせていいと言ってくれて、温かい励ましの言葉も嬉しかった。
もう1件は、取引停止&ブラックリストにまで入れられていたので、連絡も
不能だったw

130 :
良いスレなので私も書き込み

東京、世田谷代田駅を越えたあたりの小田急線の中でその時が来てしまいま
した。当日、前日に秋葉原で購入したノートパソコンが不良品だったので交
換するためにノートパソコンの箱を持って秋葉原に向かっていました。
トイレに行きたかったのですが、電車が来たので走ってこの電車に乗りました。
まさか、トイレに行けなくなるなんて思いもしなかったです。
世田谷代田駅を2両目ぐらいが越えたあたりで電車が急停車しました。
その後、女車掌の声で「緊急停車いたします」との車内放送があった直後に車
内一斉に携帯電話の地震警報が鳴り響きました。その後、すぐに大きなゆれがきました。
車両が世田谷代田駅にかかっていたので駅に立っている人も座り込むぐらいの揺れ
でした。ちょうどこのあたりは複々線化工事のため工事中で重機が止まっていたので
すが、工事の人達が走って逃げていきます。重機を運転している人が急ぎアームを倒し、
重機の中から走って逃げていました。
その後何度も何度も大きく揺れました。車内放送では「電車内は安全なので外に出ないよ
うに」と放送していますが外にはだしてくれません。
結局2時間ほどたってから車両から出ることができました。
車両からでてから、急ぎトイレへ。それからコンビニでペットボトルのお茶とパンを買い
ノートパソコンの箱を抱えて家まで歩きとなりました。約18km。
家についてからノートパソコンをコインロッカーに入れてくりゃぁよかったと思いました
がそれまでパソコンの箱を抱えて歩いているなんて全然気がつきませんでした。
家のあたりは停電で真っ暗でした。あんな闇を見たのは初めてでした。
この日を境に人生感が大き変わった一日となりました。

131 :
まいね

132 :
まいね

133 :
仙台市若林区つ○といのマンション住まいです。
震災直後、水が全く出なくなりました。コンビニも
閉まって困ってしまいましたが、地域の酒販店が、
外の上水道を開放してくれたので助かりました。
水の量も制限しなかったので、長蛇の列になりました
が、本当に助かりました。お酒買ったこと無い店で
したので、水だけもらって申し訳け無かったです。
(酒屋さんは3日後、開いたので買いに行きました)

134 :
@塩釜
地震後、最初の津波の高さが6メートルと言われ、会社の屋上に避難していたけれど、数分後15メートルに訂正される。
確実にその高さでは命がないと思い、子供の学校に走って行った。
走っている後ろから放送で現在水位が上昇しています。早く避難して下さい!!ってむっちゃくちゃ焦って行ってるおっちゃんの声が耳に残っています。
急に危機感や恐怖心が高まりおなかが痛くなる始末。
ちょっとまってと我慢せずトイレに入ったらさよならだった…

135 :
>>133
大規模停電起きると飲料水途絶えるのは深刻だったね。
うちのは、市の水道と地下水備えてて
市の水道は料金かかるので、普段、地下水使ってるんだけど
これもモーターで汲み上げてるものだから使えなくなった。
私は盛岡在住ですが、近場に湧水の出る神社があったので
以前、アウトドアでホムセンで買ってあった20Lの
飲料用タンクを軽トラックに積んで、15キロほど南下した
紫波町にある水分神社まで汲みに行ったよ。
地震直後の影響で湧水も少し濁ってたけどね。

136 :
@石巻
半分まで読みました。
涙を流しながら読みました。
後で私も書きますね。

137 :
岩手から、神奈川に単身赴任してます。
震災直前、施設にある地震速報が東北で大地震を感知したと電話が鳴った。
「うわっ大変だ」と思った直後、自分の場所も気持ち悪い程の横揺れを受け。
目の前のビルが見た事も無い程揺れ、倒れるんではないかと思った。
揺れの後、建屋確認と人員確認に奔走。
岩手の家族は心配だったが、遠く離れた自分には何も出来ないのは分かっていた為、目の前の仕事に集中しました。
早い段階で災害メールで家族の安全は確認できましたが、ラジオから聞こえる沿岸部の情報に、悲しみとやり場の無い怒りが込み上げました。
再び家族が心配だったのと、どうか沿岸の人達が生き延びてくれますようにと願っていました。
会社の前の、停電で暗闇になった幹線道路を、蟻の行列のように徒歩で帰宅している様子は、今も覚えています。
私が仕事から解放され帰宅したのは、2日後。
妻と電話できたのがそれよりも後。
岩手に帰省できたのは一月以上後でした。

138 :
>>102
>大自然のエネルギーに畏怖
恥かしながら自分は水に溺れ救急車のお世話になったことがありまして、、、
今では、日々の天候・四季の移り変わりさえ大いに敬服。
海に向かって拝んだのは、慰霊鎮魂の祈りと静寂への願いでした。

>>104
ですか、、浮かぶのは当面の寒さ対策ですね。

>>108
人は自然に対し小さく弱いと思います。
人間がつくった社会・機械(車も含め)に犠牲となった人達もまた見逃せないと思う。

>>109
ガソリン給油列の必死形相にはあきれましたが、黙々と仕事に向かう人達へ感謝でした。


>>124
確かに、、、
赤ハンドルにするのは他にも目的があるんで、でもキャップ被る数を減らしてみますね。

139 :
まいね

140 :
岩手県大船渡市在住です。 あの日から人生激変しました。やり直しです。とても疲れましたね。ただ、11月まで滞在していた海外の方が多数おられたボランティア団体さんだけにはとても助けられました。
その他は口ばかり。なにが絆だよ。よく言うよ。人間の嫌な部分ばかり見えました。

141 :
福島県白河市在住

親知らずを抜いたのが3/8
このときは地震がくるなんて思いもよらず
ちょっと無茶かなとおもいつつ、二本をいっぺんに抜いてもらった
一本はなんともなかったが片側だけ腫れて結構痛かった

3/11は午前中に抜糸に歯科医院へ行った
今思えばこのとき抜糸しておいてよかった
地震のあとは電話も通じなかったし、食料の確保とかガソリンの確保が大変で
それどころじゃなかった
(歯科医院が再開したと連絡があったのは地震から一月たってからだった)

その日の午後、こたつでうたたねをしていたら
地震警報がなった

家具がたおれて食器が床に落ちてたくさん割れた
電子レンジが棚から落ちて床に穴をあけていた

まだ頻繁に余震が続くなか片付けをして眠れる場所を確保
ざっと片づけして何か食べようと思ったときはもう外が真っ暗になっていた

そのときになって飼い猫がいないことに気づいた
家の中をさがしたら、ベランダで固まって震えていた
いつもなら名前を呼ぶと返事をしながら飛んでくるのだが
地震がよっぽどこわかったのか鳴きもしないしそこから
動こうとしなかった
逃げるときすりむいたらしくておでこにちょっと怪我していた

地震のあと何時間も忘れていてごめんね、猫
あのときは夢中で頭のなかから存在が抜けちゃったんだ

そのあと猫は地震警報が鳴ったら
私と一緒に机にもぐるようになった

142 :
都内在住、石巻にて地震に遭遇。

朝新幹線で仙台に向かう。
会わなきゃいけない人が石巻にいて、仙台に移動出来ないとのことでこちらから向かう。
仙台でお昼をして、仙台の人に石巻まで車で連れていってもらう。
そこから一人になって、会う時間の4時まで市内をうろつこうと考えてた。
街を知らないからどこ行ったら何があるかわからない、どうしようかと考えてたら地震が来た。
尋常じゃない揺れに右往左往し、収まったあととりあえず駅に向かうつもりでいた。
歩いてたらサイレンが鳴り、どこからか津波が来るとの人の声。しばらくしてたら水が流れてきた。
ありえない状況にもう訳もわからず近くのビルに逃げ込んだ。

階段が見えた時には足首はもう水に浸かってた。

階段を登りだした時に女性が流れてきて(おそらく水位は腰くらい)水に少し浸かって引き揚げた。
流れは緩やかだったけどその後どんどん水位は増えて、近くでいろんな人が流されていく光景を見た。
津波が収まったあと誰もいないビルで女性と2人夜を明かすことに。
夜はかなり寒く、火もなく暖をとれない上女性の服が一部凍ったりしたため抱き合って過ごした。
翌日お互いビルを出て、こちらは駅へと向かい東京に帰る手段を考えた。

あんなに感謝されたことは初めてだった。
東京に何とか帰って体験談話してもやっぱりあの状況はちゃんと伝わらない。

東京であの地震、津波が起きたらどうなるんだろう。

143 :
>>123
94です。あの夜ダンナは深夜遅くもう日付がとっくに替わった頃徒歩で帰宅しました。
家の中を確認して誰も居なかったので車を覗いたそうです。
それから朝になるまで仮眠をとったんだけどいかんせん寒いし、これからどうなるんだろうと
いった不安感が大きくて私は殆ど眠れませんでした。
夜が明け始まって空が白々として来た頃新聞が配達されました。こんな時も新聞が来るとは
夢にも思わなかったです。5時過ぎにダンナと二人で家の中を確認し、ポリタンク等を引っ張りだして
午前中に近所の交番で水を分けてもらえたので汲んできました。
我が家の近くには高校があって其所の貯水タンクの水も限定的だけどもらえたし、交番の隣の
リフォーム屋さんが井戸水を無制限で提供してくれたので本当に助かりました。
其所の社長さんは震災当日閖上にいてあと一分でのまれる所だったと話してました。
人間何処で生死を分けるか分からないです。

144 :
>>113
高速道は3月24日から通れるようになったけど、それまでは
道路の補修・自衛隊警察の移動・物資の輸送などに使われてましたか。
彼らに力を借り、通り道に感謝の旗や札が見受けられ、、、
5才娘さんの絵は逆に自衛隊の人へ活力を与えたのでは。

>>114
自衛隊の給油班で間に合わなかっただろうし、GSは緊急車を優先させて当然です。
せっかく列んでも10か15Lまででしたか、、、
今思えば僅かな不便でした。

>>115
被災地での活動はtvでしか見れなかったが、
移動してる車、道の駅では隊員さん達のトイレ・食料補充を見かけました。
すれ違う時「頼むよ」と言葉に出さず願ったものです。

>>116-117
最初文句言う人も、2回目3回目には現実を受け入れ慣れるでしょう。
が、火事場泥棒は許せません。
あと信条がないのか、まとめ買いして自分からミイラになる人困ります。

>>118
警察や救急隊が寝泊まりした所が(岩手の場合)内陸でして、
駐車場に様々ナンバーが見られました。
「よくきたなあ」「荷物少しだけ持ってきたのかな?」とか思いましたった。


>>143
追記乙です。
草木も眠る頃に帰宅(ダンナさん)、、徒歩だったんですね。

145 :
まいね

146 :
まいね

147 :
まいね

148 :
東北道が再開通した翌日。
東京から実家に帰るのに夜運転していたら、ごみ収集車がゆっくり走っていた。
まだガソリン不足の頃だったし節約してるのかなと思っていたら
ごみ収集車が何台も続いていたので??と思い車のナンバーをみたら「鹿児島」ナンバー。
被災地に向けて、20台近い車が鹿児島から走っていたと分かった瞬間、涙が出そうになった。心の中で「頑張ってください!」と思った。
あの頃は日本全体が気持ちがひとつになっていたと思う。

149 :
148です。
携帯からの書き込みだったので読みにくくてすみません。

150 :
立春から1.5ヶ月で春分の日ですか、、早く温かくなって彼岸を迎えたいものです。

>>119
混乱の中、食堂はまず水道光熱を整えて後方支援、、、対応で帰れない職員がいたでしょうから。
(3/11(金)、12(土)、13日(日))
もの凄い力に打ちひしがれた沿岸と、普通に食事してる自分がいて、、、複雑な気持ちでしたね。

>>120
>津波から逃れた人たちの声が聞こえてきて
無事を喜び元気が出てきた様子、、、
そこにいた人の生の言葉だと思いました。

>>121-122
そうそう、3.11の2、3日前から予震?ありましたね。
降ろさなかった事を悔やむでしょうが、チェストや金魚が家族の代りになってくれた、と、、、。

>>125
報道されたのはほんの一部で、
地味にも昼夜惜しまず動いた救援隊があったのですね。

151 :
岩手県 大船渡町の者です。 あの日崩壊した私の自宅に空き巣に入った奴は許せない。
仮設住宅のお茶の会なんていうのをNPO団体がやってるがまったく必要ない。無駄なNPO団体がたくさんいる。補助金目当てなんだろうな。 被災者は上げ膳据え膳、自立しろ。俺の人生はあの日で終わった。学者や教授どもが、卓上で計算して作った防波堤は役立たず。防波堤の意味を広辞苑で見てみろ。都合が悪くなれば、想定外だって。なんだよその想定外という薄っぺらな言葉は。想定外と絆という言葉ほど薄っぺらな言葉はない。

152 :
まいね

153 :
まいね

154 :
>>71
知人の安否確認のため震災直後に自ら被災地に向かうなんてすごい度胸だけど、危険を犯して結局なにしに行ったの?物資を届けた訳でもなくすぐ引き返してるし。貴重な体験談だからその辺の事も反省点などもあれば詳しく教えて下さい。お願いします。

155 :
仙台の深沼に知り合いが数人いたんだけど、震災でもう家も跡形もなくなっている。
消息がわからないので、いつも、どうなったんだろうと気になっている。
これからも、ずっと気になって生きていかなければならないと思うとつらいな。

156 :
>>155
旧住所から今の住まいに転送届が出てるかもしれないから、
ハガキで安否確認を出して見るのも手だと思う

157 :
>>155
ネットに死亡者の名前があったりするから、検索すると吉

158 :
場所を確認したい時は↓を参考にしてください。
東北の市町村地図 http://tohoku-bbs.info/wiki/images/7/78/12022512.gif

"区"などさらに詳しく知りたい場合は↓などで。
仙台市 http://www.mapion.co.jp/map/admi04.html

159 :
3.11から331日経ちます。

>>126
会社が流されたり金融機関が機能しなくなった所では、3
.11以降の決済をどのようにしたか気になります。
♪難局に 入金ありて 資金繰り

>>127-128
自衛隊の派遣は確か106,000人規模でしたか。
活動姿をみて、やるせなさを拭った人がいたはず、、、。
ほふく前進の最低速が1時間1mと聞いたことあり、これには精神力がいるのでは。

>>129
特別な場合は、人が介在するかソフトの例外処理をするかしないかで変わってきますね。

>>130
2時間のトイレがまんは大変でした。
18km徒歩だって4時間はかかったんじゃないかと、、、。
コインロッカーに預けるのもとっさに決めかねたんでしょね。

160 :
岩手県内陸南部
妙に冷静に、職場のいちばん丈夫な作業用机を選んで下にもぐりこんだ。
帰宅して、カセットコンロと土鍋でご飯を炊いた。
なぜか、なにがあっても夫にはちゃんとごはんを食べさせなければ!とばかり考えていた。
ガソリン節約のために、自転車で15km先の実家へ行って米をもらってきた。
義理母も同じことを考えていたらしく、やはり自転車で米を運んできてくれた。
冷凍庫の中のものは半分解凍されてしまっていたけれど、
優先的に食べたり、二世代三世代同居の親戚にゆずったりして無駄にしないですんだ。
手元の食べ物が、なによりもありがたいと思い知った。

161 :
盛岡在住飲食店勤務

3・11 携帯の緊急地震速報とほぼ同時に揺れを感じました、
私の記憶だと終始横揺れだったような気がします。
盛岡という土地は地震が起きても地盤が固いなと感じるので
この時も揺れの強さに対してはさほど怖くなかったのですが
この時は治まる気配のない長い揺れに対し恐怖心が出てきました
すべり落ちる食器の音や家のきしむ音、地鳴りそして停電・・
このままドンと縦揺れがきて家がつぶれるのではないかと感じました。
揺れが収まり勤務先に向かいました。
勤務先周辺は停電以外大きな被害も無く
12日に停電復旧後、店は通常に営業しました。
こんな時にこんなに普通に営業していいのか?
営業してもお客さんなんか来ないんじゃないか?
と疑問を感じながら・・
でもお店は初日から混みました・・

出張で帰れなく駅や避難所にいるがどこも開いてないとか
ホテルに宿泊してるが食堂が機能していないとか
これから被災地に行くのでスタッフ達のお弁当を作ってくれとか
何日かしてからは
何も無かったように騒いで飲む若者や知人の安否が確認でき乾杯している
サラリーマン、
また献杯と静かにグラスを傾ける常連客、
「家流されちゃってこっちに非難してきたよ!今日ぐらい酔っ払って
いいよね?」と明るく振舞ってるおじさん、
いつもはどんな人だろう?などあまり気にしなかったんですが
この時ばかりは色々な人を意識して感じました。
いろんな地方からいろんな人達が被災地の為に来てました
関西、九州、関東・・・

感謝の気持ちと何も出来ない自分の不甲斐無い気持ちでいっぱいでした。
その後も
いつか炊き出しに行こうと思いながらも出来ずじまいでした。
でも
たまにあの日のお客さん達が
「あの時お店が開いてて助かったよ」
「ホントに食い物無かったもんな」とか言われると救われます。

162 :
石巻
地震発生時は会社にいた、家が気になったので向かったが、渋滞で車が動かず一旦戻り自転車でいった
途中、避難している人の(10mの津波が来る)の話が耳に入ったが、まさかという感じだった
家に着くと中はぐちゃぐちゃで取りつくしまもないような感じ、妻と明日片づけようと、
とりあえず暗くなった時の灯りをだしていた時だった、開けていた窓から見える庭に水が入り込んで
きたのが見えた、逃げろと妻とひざぐらいまでの水の中を歩き、通りの方みたらものすごい勢いの流れ
仕方なく脚立を探し屋根の上にのぼった、ヘリが飛び緊急車両のサイレンがすごかった、火事の煙が見えた
隣近所の方に、うちに来いと声をかけられましたが、水の勢いが凄いので最終手段にした
17時30分あまりに寒くて、屋根から降り家の中に入る事に、この頃は水の高さは1m80cmくらいあった
胸までつかり平屋の家の中に、畳ごと浮かされたベットは妻と二人乗っても沈むことはなかった
濡れた服を脱ぎ、浮いていた衣装ケースの中の乾いた服を二人で適当に着て、天袋の戸を外しその中に入った
シュラフを入れてあったので2枚重ねにしてもぐりこんだ
つづく

163 :
まいね

164 :
Make Your Own Kind Of Music (1969)
http://www.youtube.com/watch?v=nC7zSY5O6FU&feature=related

誰も口には出さないけど
歌う価値のある曲は一つだけ 
誰も教えてはくれないのよ 
あなたの様な人を見てるのは辛いから

あなただけの音楽を作りなさい       
歌うのよ あなただけの特別な歌を
あなただけの特別な歌を作ればいい
一緒に歌う人がいなくても

何処にも居場所がなくて
すごく寂しくて
辛いことばかりかも知れない               
思い通りに生きるのは難しいものね         

*それでもあなただけの音楽を作りなさい
歌うのよ あなただけの特別な歌を              
あなただけの音楽を作ればいい
一緒に歌う人がいなくても

私を置き去りにしても
あなたの道を行きなさい
私は分かってるつもりよ

165 :
警察官出向の結団式、岩手でもありました。
http://news24.jp/nnn/movie/news8852764.html

>>133
電気で動く物の代用品はあるけれど、水にはないし、、、。
自分ができる事、を実践してくれたありがたい酒屋さんですね。

>>134
オラもこれから何かしようとすると腹の虫が騒ぐ?ほうなんで、なんとなくわかります・腹痛。
トイレに寄らないで走れ、と判断したのは、今も耳に残ってるおっちゃんの声だったと、。

>>135
水道と井戸水の併用ですね。
(水分神社というと矢巾?)
飲料用タンクが無く湧水もないからって、灯油携行缶に沢水汲んで凌いでいる家も多かったのでは。

>>137
今回故郷を離れていた人は、言いようのない気持ちに陥ったと思います。
家族は無事か友達は大丈夫かとか、、同時に自分は故郷をこう想っていたんだ、なと。

166 :
まいね

167 :
まいね

168 :
職場にいた時 携帯の地震警報が鳴ったと同時に揺れた
ロッカーが倒れた
全然 恐くなかった

携帯で2ch見たら○○市が壊滅

169 :
まいね

170 :
昨日今日温かく、
へばりついてた雪が我慢できなくなって屋根から落ちてきました。
この雪を片づけるのが大変→重い→春近しです。

>>140
これも知りたい事でした。
自分が助けられる立場になったとしたら同じことを感じるのでは、、、。
助けてくれる人にあまり求めない気を遣わない、とも思います。

>>141
1日に2本抜歯して具合悪くしたことあり。(小さい時)
落下・転倒、、、これらの防止対策をしなくちゃならないな、と思いました。
ネコちゃんとのやりとり読んでほっこり。

>>142
救助隊は通過しなかったのか、その女性とは多生の縁だったんだろうか、、、
いろいろ想像してしまう数奇な一夜でしたね。
翌日無事帰れたでしょうか?

171 :
>>164

力強いええ曲や(;ω;)

172 :
いわき市
地震から1時間前。仕事が早く終わり、帰宅。30分前、翌日の仕事のため、資材を積みに会社へ向かう。
地震発生時、会社へ向かう途中、携帯の緊急地震速報が鳴るが、すでに大きな揺れ。

しばらく揺れは、収まらずクルマから出ると、ランニング中のお姉さんが自分の車にしがみつき、震えていた。
揺れが収まり、お姉さんに早く帰ったほうがいいと伝え、自分も会社には、行かず、慌てて、自宅へ引き返す。

通常なら、30分の距離だが、道路は破損、信号は停止、津波警報などにより、大渋滞。

ワンセグを見ながら、むかし見た、救命病棟24時パート3を思い出す。
この時、水が無くなるかもしれないと、考え、嫁に連絡するが、地震発生自分から、一向に繋がらないので、通りにある自販機から、お茶、水、スポーツ飲料を買い漁る。

自宅に着いたのは、2時間後。家族はみな無事でよかった。
実家は、津波で半壊。

173 :
@岩手県奥州市
震災から数日経ってからでしょうか(正確な日は失念)、私の住んでいる
岩手県奥州市は高速自動車道を使って被災地の陸前高田や大船渡に行く際の
経由地点かと思われますが、奥州市四丑橋近辺にて何台(十数台?)もの
バキュームカーが沿岸方面に向けてグングン進んでいくのを目撃しました。
聞こえるわけも無いが「今行くから待ってろよー!」と言いながらグングン
走っている感じでした。ナンバーを見ると秋田ナンバーでした。
私は沿岸に住んでいる訳では無いのですが見たときは、心の底から
「ありがとう」と思いました。

あんなにかっこいい車を私は今まで見た事がありません。

昨晩このスレを発見して普段2chに書き込む事は無いのですが
思い切って書き込んでみました。震災時の様子の体験談でなくて
申し訳ありません。

今日高速で盛岡から水沢まで帰ってくる時に、
あの時見たバキュームカーを思い出し、なぜか涙が出てきました。

174 :
まいね

175 :
ハワイアンズ観ながら、、の書き込みでした。

>>148
翌朝から動けるよう前夜めざして移動したのかな。
だいじょうぶ、愛国や愛郷心は誰にでもあるはず。
しかし、自分の事で精一杯だったことと、残念ながら有事の際にしか見えてこないものなのかも、、、。

>>151
補給のための損傷自販機荒しはしょうがないと思ったけど、あの夜から個人宅侵入とは許せない。
あらゆる立場の人が逃げに使った、、、想定外。
これから構築するものは、予算もあるだろうから、想定と仕様のギャップを明確にするべきですね。

>>153
そうそう、、、うちらでもわかる程度のものだ。
しかも異口同音だから困ります。

176 :
まいね

177 :
@青森県八戸市
勤務中に長い揺れが続く。何度も何度も。そして停電。沿岸部に近い職場だった為、避難しようと動くものの度々くる地震に足をとられながらも皆で必要な物を持ち、車には、いつまで続くかわからない地震・停電の為、各自、布団や灯りになる物と食料をとにかく詰め込んで避難所に向かう。どの道路も渋滞。避難所も停電。小さなストーブ数台しかなかった為、お互い様だね、と見知らぬ人々と声を掛け合って暖をとりあう。
避難所には食料も毛布も何も支給されないまま2日目に。2日目の深夜に少しずつ支給され始めてきたが遅い対応にイライラし始めてした人が数人。
幸いにも職場には水がこなかったが道路1本向こうは水浸しだったらしい。
あの日、自分はトイレに行きたいと思いながら、この仕事が片付いたらトイレに、って思った矢先の地震。しばらく我慢する状況になってしまうとは思わずいつも通り過ごし、あの地震でトイレに行っておけば良かった、と後悔。
今はトイレは我慢せず、日持ち出来る食料は少しだけ非常食に回し、お風呂も入れるうちに入り、ガソリンも明日でいいか、と思わない様にしてなるべくこまめに詰める様にし、いままでの「後ででいいか」をせず、常にいつまたくるかわからない災害に備える様に心掛けてます。
避難所で見た号外の新聞に驚愕し涙したあの瞬間は忘れられません。そして電気が復旧して付けたテレビから流れる各地の映像。本当に涙が止まりませんでした。
テレビ等の報道では青森県は被災地扱いされてない様に感じますが、津波で被害があり家を無くされた方、ご家族を亡くされた方、いらっしゃいます。大きくは報道されなくても、その地域にいる自分達が後世に伝えていかなくては、と思いました。

178 :
まいね

179 :
>>142
いつだったか忘れたけど自然災害板の方ですよね。
多数の書き込みの中でも強烈に覚えていますし伝わってると思う。
もしかすると、文字の方が伝わるのかも知れません。
そういう意味では、このスレッドの意義は大きい。

180 :
宮城県名取市。仕事中でした。
ユラ…ユラ…から、グラグラ、ガタガタ、ドドドド!!!
あれ?地震?あ、強い、これやばいよ、わーわーわー!!!
バリバリバリバリ!!ガッシャン!!(ガラスが割れる)
天井からはエアコンの吹き出し口の部分がどっかんどっかんと落ちてきた。

という感じだった記憶。(古い、広い建物内にいました)
その後1時間くらい、屋外で様子見。シャツ一枚だったから超寒かった。
そして携帯でTV見てたら、仙台空港に津波がというニュース。
信じられなかった…で、うちは閖上。
海岸線からの距離的に…空港に津波が来ているってことは、うちにも来てるの?!

そのうち帰宅していいことになり、どうしようか迷った。
閖上の現状が全く分からなかったから…
ま、念のため…なんて思いで仙台の実家へ。大渋滞でいつもの10倍以上時間かかった。
実家は内陸だから津波の心配はなかった。
到着してみたら、暗闇の中両親が迎えてくれた。無事で安心した。建物もほとんど被害なし。
真っ暗闇で寒い中、余震も怖いし、茶の間に三人で厚着して毛布かぶって丸まって寝た。

翌日だったか、実家に新聞が届いた。驚いた。
一面にでかでかと閖上方面の写真。
水と火とがれきに覆われていて、見覚えのある老人ホームの一部分が残っているのが分かった。
うちはその老人ホームのすぐそば。湖のようになっていた。
ほんとに、驚いた…。

数日後、閖上に行ってみた。
たどり着くまでに…田んぼに船や車が…建物内に車が…なんていうか、茫然。
途中で進入禁止かけられたけど、歩道橋に上れたから、上ってみた。
しばらく動けなかった。がらくた(がれき)の山だった。

また数日後、行ってみた。徒歩でなら町の中まで入ることができた。
がれきでめちゃくちゃで、泥でどろどろ。
町は町じゃなくなってた。
なんとか自分の住んでたあたりまでたどり着いたけど、
だいたい家の基礎の部分しか残ってないから、「ここがどこかいまいち分からない…」状態。
同じように様子を見に来ていた人に「どのあたりだったの?」と聞かれ、「○丁目です」というと、
「あー、何にもないね…」
密かに、何かが残っていたら…って思って行ってみたんだけど、
なーーんにもなかった。

それからは実家に居候。
水が止まらなかったのは本当に助かった。
電気は1週間くらい止まった。
ガスは1か月くらい止まって、週に一回ペースで温泉に行った。

7月まで実家で世話になって、ようやく引っ越せた。
それは、支援物資を送って下さった方、義援金を募金して下さった方、
行政、個人の方、お友達、両親、色んな方に助けて頂いたおかげ。
本当に、色んな面でたくさん助けて頂いた。
心から感謝致しております。

たくさんの方、助けて頂いて、本当にありがとうございました。

181 :
震災直後「がんばれ東北!!」「がんばれ○○!}と言われるのが辛かった。

今は連日テレビやネットで連呼されている「絆」
いい言葉だけど、あまりにも安易に使われるようになってきてちょっと引き気味。
とりあえず絆、きずな、kizuna って言っとけばいいみたいな風潮。

182 :
まいね

183 :
>>155-157
家族親戚と違い、未だ連絡をとっていない知人友人は多いと思います。
春になれば状況が変わるし、もっと気持ち高まればいいアイデア浮かんでくるかも。

>>160
日頃のリズムが狂うと冷静じゃなくなるし体力も出ない、、
女性軍の生活の知恵に一本とられます。
そういえば自転車に乗る人が増えましたったね。

>>161
12日から開店、、、早い。
まだまだ電池・懐中電灯・ロウソク・が欲しい時で、食材など売ってなかったはず。
皆喜んだでしょう。
誰もクダまかないですよね、ああいう時は。

>>162
生々しい体験記ありがとう。
会社から自宅に帰った人・戻った人の被災が多かった、と聞いています。
庭に水来たのが見えてから脚立で屋根に上がるまでの時間、、、とっさの判断。
後半安心して読めました。

184 :
自分は「ふるさと」聞くのがいやになりました

185 :
>>183
自転車の需要は、スゴかったみたいですね
ラジオや懐中電灯も品切れ続出、電池もかなり品薄になっていた

186 :
162つづき
津波の水は、手を伸ばせば届くところまで来ていた、少し気持ちが落ち着いたと思ったら突然
歯がガチガチ鳴り震えがとまらなくなった、妻が使い捨てカイロを、箱ごと持っていて
それで暖を取ることができた、水の量は20時ころから下がり始めた、外の様子はあまり
わからなかったが、水の流れる音 家の軋む音 時折来る揺れ強い余震 (おーい)と叫ぶ声
サイレンの音 ヘリの音 下がった水位が23時頃また上がり始めた、不安になった妻は、
泣きながら、泳いで隣の家に助けてもらおう言った しかし、もし掴まる物とかがなくて
30mも流されてしまえば、強い流れの中に引きこまれ、命はないだろうと考え妻にはサッシ窓の
あそこまで水がきたら、脱出しようと言っていたが、これ以上水位が上がってくることはなかった
長い一夜となったが朝には、だいぶ水が引き8時にふともも位の水の中をシュラフとすこしだけの
衣類をバッグに詰めて運河の土手にむかって歩いた
運河の土手を歩きながら見た光景はほんとうに、この世のものとは思えない悲惨な光景でした
泥だらけの避難してきた人々があちこちで火を燃やし暖をとっていた、流された車 点いていない信号機
何処を目的に歩いてゆくのか うつろな顔をした人々の流れ 私達はとりあえず自分の会社まで歩いて行くことにした
会社も水がきていたが、自分の車はマフラーに水が入った程度で動いた、とりあえず内陸の方に食料を調達にうごいた
途中、父の会社の従業員に合い親の安否の聞くと事務所の2階に避難して無事とのこと、食い物もってけと
お菓子をコンビニのふくろ一つもらった これはかなり助かった
つづく

187 :
@南相馬
ちょっとうつ気味だった身内が、津波で近くの畑に流されてきた
介護施設の年寄りを多数泥の中から助け出した。
救急車も来るあてなく困ってた施設の人に好意で車を貸してやった。
その後の原発事故で車が行方不明になってしまった。
東海地方住みなのでスタットレスを履いてなかったため
3月下旬やっと車を発見したときは、新車で買って一年半の愛車が
満身創痍で傷だらけに変わり果てていた。

墓ネタかもしれないので割愛するけど、
災害時の対応って人間性が出るんだなとつくづく感じた。

188 :
まいね

189 :
>>164,171
既製品を選ぶより自分で作れ、と解しました。

>>168
自分は無事となると年とった親が心配になり電話、、人の常です。
固定電話は、ACコンセント差し込みタイプが停電しても、
局側の電源が切れるまで使えることを今回知りました。

>>172
あれだけの激震あれば、誰かと話してショックをやわらげたい。
こちらは回線オーバーフローですか。
この前はパケットの容量見積りが想定外だったと通信障害、せめてダウンする前に迂回路を、、、。

>>173
大型車両と大量物資・大人数の移動、ほんと力強かったですね。
私の知る限り2、3騎ながら1台車両で沿岸部応援に向かったグループも多いです。

190 :
@石巻
あと1ヶ月で、一年か…
私もあとで書き込ませてください。

191 :
>>179>>142です。
はい私です。
覚えてくれててありがとう。

192 :
まいね

193 :
まいね

194 :
前半少し良くも、再び週末に向かって寒くなりそうな週間天気です。

>>177
青森県、縁がないと被害規模を知らない人が多いと思います。
報道側も疎く、どこかの局では岩手沿岸部地図に釜石が入ってなかった頃がありました。

腹が減る、トイレに行けない、寒い、、、はできれば避けたい。
皆さんの話を聞くと、新聞は(号外と)翌朝まで届いたようですね。

遠くの話より、地元で起こった話を優先的に残すべきでは、。

>>179
レコーダーやカメラがなくても情景・心の中を描けるからね。

>>180
このまま読んでいったらとんでもない結末になるのかと、、、
ご家族無事でなにより。

>なーーんにもなかった
そのせいなのか、片づけが他の地区よりも早かったと聞いてます。

>>181
場面は違いますが、「基本的に」「多々」「癒し」が流行ってましたね。

195 :
他県民の者ですがお邪魔させて頂きます。
地震板の方に書こうと思ったのですがあちらはなんか心ない人が荒らしているようで・・。
くだらないチラ裏なので余計に書きにくいのですが。

私と子供が歌手の趣味が似ていて、大体いつも
Acid Black Cherry(元Janne Da ArcのヴォーカリストでYasuという人のソロプロジェクト)
の曲を聴いているのですが、今日なにげなく車の中でこのグループの「シャングリラ」
という曲を流していました。
この曲はあの日の大災害以降にYasuが書いたものですが、特に大々的に宣伝もしてなくて、
(所属がavaxなのでかの国の売り出しに全力なので国内の歌手はほっとかれてますしね)
押し付けでもなく、被災地のファンの人がたまたま聴いてくれたらいいな・・と思って作ったそうです。
いかにも被災地の為に!みたいなのはウザいとご本人も十分認識してるみたいで。

それを聴いてた時に子供が突然「分かった!」と。 何の事?と聞いてみると、この歌詞の中の
『シャングリラ 輝いて 奇跡の風が吹く島へ』の部分は=奇跡の風が福島へ
『シャングリラ 目を閉じて 願いは空に愛は手に』の部分は=願いは空に岩手に、という事じゃない?と。
それを聞いた途端なんだか分からないけど涙がぶわっと出てきました。
ほんとなんだか理屈ではなくダラダラ涙が出てきました。
他県の名称も盛り込みたかったけど歌詞的に難しかったのかなと思うのですけど。
もし、機会があれば聴いてみて頂けたら・・・と思いました。

長い上に皆さんの苦労も知らない他県民のくせに書きにきてすみません。
気に障った方がいましたらごめんなさい。

196 :
まいね

197 :
まいね

198 :
まいね

199 :
震災後に励まされた歌については、ほかにも書き込みされてましたし、問題ないんではないかと思います。

200 :
体験も、励まされた歌も十人十色だからね。

201 :
@岩手釜石

釜石小学校校歌
いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

状況と歌詞がそのまま。
4月の卒業式に立ち会ったけど、子供達の合唱に泣けた。
親と離れて、避難所で夜を明かしたんだものな。
無論親を亡くした子もいた。
子供達、生きていてくれてありがとうと思ったよ。

202 :
まいね

203 :
>>201
朝、歌詞読んで泣きそうになりました。以前からこの歌詞なんですよね。
海と製鉄で生きるまちの子供にぴったりのまっすぐな歌ですね。

204 :
まいね

205 :
まいね

206 :
まいね

207 :
>>184
10数年前父親が他界して一時それ風な唄を歌えなくなった。

>>185
4月頃かパナ○ニックが乾電池増産のニュースを思い出した。
福島から「乾電池送れ」メールが来たけれど、、、無理でした。

>>186
カイロがあって、、暗い中を再び水が増えなくて、、良かった。
運河の土手の光景は目(脳裏)に焼きついたと、、、。
避難所へ向かわず独自に動いたんですね。

>>187
なんと書いていいのやら、、、
津波で助かったけれども、その後の原発事故により、、
もし一部始終を知ってるなら詳しく知りたい、と思いました。

208 :
186続き
どこにいってもコンビニは人の列 30分程並んで買えた食料はお菓子類のみ、その日はそれをたべて
16時くらいには車のなかで寝た 13日朝もっと遠くにと思い大崎市方面に、停電で作動していない
信号機がほとんどで走行には、かなり注意した 大崎市内も店は、ほとんどあいていない
途中ホームセンターに人の列をみつけ、ここなら生活用品も食料品も買えるかな、と並んだが入口に置いて
ある食料品の販売だけだった 停電で真っ暗で棚は崩れ危険という事だったが、店長さんに訳を言うと
店員にライト持たせて中に入って必要なもの何でもどうぞと言ってくれた さらに支払の時には大変だからと
値引きまでしてくれた 店長さんをはじめ、お店の方々あの時はほんとうにありがとうございました
店から出ると、列の前にいたご婦人が家に寄ってくださいと待っていてくれた
お茶をごちそうになり、衣類や野菜などたくさんいただいた こちらのご家族とは時々連絡を取り合い
親交が続いています この後、山形県は電気が復旧したとの情報があり新庄市に向かった
つづく

209 :
八戸の新聞社も同じような募集してるね。

人それぞれ311には思うところあるからなぁ。

ttp://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/form/sinsaiepi/sinsaiepi.htm

210 :
まいね

211 :
>>203
おう、自分も涙がでた。
ありがとう。

212 :
石巻大川小学校のことを、思うと、言葉にならない。あと5名…教員、子供たちが早く見つかりますように、祈っています。

213 :
岩手県内陸
異常な縦揺れに立っていられず、普段なら机の下に入るところだが外へ出た。
いつもの横揺れではなく突き上げる揺れに怖くなり、2時間は家に入れなかった。

こんな強く異常な揺れなのに、どうして沿岸部では逃げてくれなかったのか、と暗澹たる気持ちになる。

だが、震源地から離れたところのほうが瓦が落ちたりものが崩れたりと「見える異常」があるので、
案外沿岸のほうは地震だけなら被害は少なかったのか?とも思う。
沿岸の人はあまり異常さを感じなかったのだろうか?

震災前の非難訓練で半数近くが参加してなかったという記事を見ていたから嫌な予感はしていたが
当たって欲しくなかった。逃げて欲しかった。

214 :
まいね

215 :
まいね

216 :
宮城県岩沼市
地震の時はだだっ広い駐車場にいたので、物が落ちたり倒れたりの室内よりは恐怖感は薄かった。
それどころか、一種の興奮状態になり、知らない人に話し掛けたりした。そして何故かラジオを聴くとかワンセグを見る事に気が廻らなかった。
母と家に帰り、余震の恐怖の中、明るい今のうちにと家内外の片付け、そして買い出しに忙しく動く。
暗くなり、もうする事も無い中ようやく落ち着いてラジオを聴く。
各地の津波被害に初めて触れ、ようやく妙なテンションが醒め、事の重大さに気付くのはこの頃。
そして、この頃既に山元町の叔父と従兄弟は津波で亡くなっていた。
後日、夫と息子の死を知らせに来た叔母を前に母と私もぼろぼろ泣いた。

217 :
元気が出たり心が安らいだ曲、は皆さんからありました。
歌がこんなに励みになるとは思いませんでした。

>>195
紹介ありがとう。
お住まいのあの日の様子をもう少し聞きたかったと、、、・

>>196
生きていれば病気・ケガあり得るわけで、、、めったに無いことですが。
「ひとえに風の前の塵に同じ」

>>201
どの親も泣いて、子供たちは小さいながらも噛みしめて歌ったんじゃないかと、。
わかりやすい詩がいいです。

218 :
まいね

219 :
まいね

220 :
まいね

221 :
まいね

222 :
まいね

223 :
まいね

224 :
歌っていえば、ぽぽぽ〜んをたまに聞くと
当時を思い出してうつになるのは俺だけ?

225 :
私は地震があって、テレビにL字情報が出るとウツになります。
5月頃まででしたっけ?テレビに出続けていたのを思い出す。
ポポポはアニメだったせいかあまりに奇妙な感じのせいか、トラウマにはなってないみたい。
雑談スマソ

226 :
私も、ぽぽぽぽ〜んを聞くと、当時の異様な雰囲気を思い出します。

227 :
ぽぽん"だけ"のネタはこの辺にしてください。

(続けますと趣旨違いの勘違いさんがお見えになっちゃいます)

体験スレですから、それを絡めたご自身の体験を語っていただけると幸いです。

228 :
@東京足立区
移住先の広野町から前日の10日に6号海岸線沿いを通って
一旦、東京にもどっていました。
さあ残りの荷物を運んでしまおうって感じで…。

地震の時は国会中継を見てました。(今も見て怒りに燃えてます。)
12階のマンションは信じられない揺れで…
両隣の住民もあわてて廊下にでてきて久しぶりにご挨拶しました(笑

その後はテレビの津波の映像に固まって…
でも福島県浜通り、いわき方面の事が全く報じられず…
あげく、原発事故…ず〜っと起きてた気がします。

家は大丈夫か…隣のおばあちゃん大丈夫か…
心配で心配でたまりませんでした。
約1月後、常磐道が四倉まで開通した日に
やっと様子を見に行くことができました。

マスクにレインコートに帽子の完全武装、
車の窓なんてぜったい開けない…
自宅に行くのに水や食料かかえて…それも日帰りだけど(笑)
開通したとはいえ、あちこちガタガタしていて
ジェットコースターっぽい常磐道を降りると警察の検問があった。
他県の警察で地震被害の状況、岩とか落ちて通行止めなってないか聞いたけど
あんまりわかってなかった…地理がわかんないから、仕方ないね…

それから月一で日帰り重ねてますけど
田植えの季節に涸れた田んぼ、
だれも取らない柿の実
関連企業の事務所になったスーパー
作業員の町になってる…

広野は避難解除になったから帰れるというけど
原発は本当に…もうこれ以上暴れない?
余震があったら…壊滅しない???
温度が上がったってニュースや、浜通りに地震があるたび
ものすごく不安で泣きたくなります。

命の犠牲にくらべたら、どーって事ないって自分に言い聞かせてるけど…

229 :
岩手一関に住んでます。一関も地震の多い所で、30年以内に宮城県沖地震が来ると
いうのは常に頭にありました。
あの日は国会中継中にTVの緊急地震速報が出て、「あ、地震来るんだ・・・。」と
思ってるうちに揺れがきて、その辺で携帯(au)の地震メールが鳴っていたと
記憶してます。
家は一関ICにわりと近いのでひっきりなしにパトカーや消防車などのサイレンが
聞こえてきて「この先どうなっちゃうんだろう」と不安になったりもしました。
一関ICからは気仙沼や陸前高田に向かう緊急車両がたくさんあったでしょうから
ガソリンスタンドでなかなかガソリンが入れられませんでしたが県外ナンバーの
緊急車両や警視庁の車、自衛隊の車などをみると「ホントに遠くから来てくれて
ありがとうございます(涙)」って感じでした。
停電して余震が酷いので車中泊が3日続きました。車の中で寝ていると窓が凍ってきて
寒かったです。でも月がきれいでしたね・・・。
14日だかに電気が通った時は泣きたいくらい嬉しかったですね。

230 :
>>208 (>>162,186 のつづき)
HCの臨機応変な計らいで揃えることができた、、役所も見習って欲しいところ。
「家に寄って」と声をかけてくれた方は神様だね。
ガソリンまだ心配なかったのかな?

>>209
tvやラジオの震災関連から一時期逃れたい気持ちがあったが、
(あれは興味をそそるような番組制作側が悪い)
続けてもらいたいと思っています。

>>212
1年で一番川の水が少ない時期らしいし、3月からは釣り解禁にも、、、。

>>213
訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。

>>216
家に帰ってきて後片付け、灯り・暖房の準備、夕飯、、
家族それぞれの出来事を聞いたりして、それからラジオに耳傾けるといい時間、。
自分も重大さを知るまでは時間がかかりました。

231 :
>>229
おととしまで一関に住んでいました。

2008年の岩手宮城内陸地震もそちらで体験して、人生で体験した中で最大の揺れだと当時は思いましたが、
東日本大震災はまるで比べものにはなりませんでした。

去年の五月に一関を通って気仙沼に行きましたが、
普段なら軽トラやトラクターがのんびり走る国道284号線を
自衛隊の車輪が次々と通る光景は頼もしくもあり悲しくもあり…。
気仙沼や陸前高田の知り合いも何人か亡くなりました。
新聞に名前を見つけた時の衝撃は、一生忘れられないと思います。

232 :
まいね

233 :
まいね

234 :
まいね

235 :
まいね

236 :
@仙台市
地震後の数日間は生きるための行動≠ェ続いたなぁ。
停電断水情報ナシのうえ余震多発で寝る気にもなれず、
早朝の薄暗いうちから自転車で給水所やスーパーやホームセンター回り、
飲食物得るためにとりあえず並ぶ。
一箇所に並んだら物資を得られるまで半日かかり、
待ち時間は前後にいる人たちと情報交換、どこのスーパーは自由に買える、
どこのコンビには入れ替え制で10品制限、納豆があった豆腐があっただの、
そのうち店員が出てきて「トイレットペーパー乾電池は売り切れました!
水はお一人2本まで!次の入荷は未定です!」とメガホンで言い出す。
それでもみんな、何か買えるならと並び続けてた。
書いていたら、ついこの前のように思い出されてきた。
3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそうと思う。

237 :
21世紀の日本で、食い物やガソリンを手に入れるために行列が出来るとは思わなかった。
今になって思うと、
「ホントにガソリンは足りなかったのか?」
「食料はどこに行ったのか?」
という検証は必要かもしれない。
供給が滞ったのは事実だと思うが、需要は適正だったのだろうか。
ないない、ということに煽られて、不必要な需要を生んでなかったのか。
今後、このような事態になった時、この経験は活かされるのだろうか。

なんてことを考えてみる。

238 :
>203

http://www.youtube.com/watch?v=BFo6p90dJko

239 :
宮城県仙台市若林区荒浜から数十キロ。

うちの家では少しでも揺れを感じたら外に出る習慣を付けていた。
あの日は早朝勤務だけして家でくつろいでたんだ。
少しの揺れを感知し、母と婆さんに声を掛け家を出た。
出て間もなく激しく歪む地面。
アパートが崩れるんじゃないかと思った。

!!

母と婆さんが家から出て来ない。
まだ揺れる中アパートへまた戻ると、母は廊下に座っていた。
婆さんは家具に挟まれていた。
必死の思いで助けおんぶして外へ連れ出した。

ヘリが飛んでいる。
「津波が来ます。」
逃げる手段がないうちら。
知らない人にマンションに招かれる。
助かる。

徐々に家を元通りにし、普段の生活に戻ったのもつかの間。
婆さんは震災の疲れで亡くなった。

240 :
>>237
必要だったよ。次の予震に備える為にも。

水を汲むにしても、食料を確保しに行くにしても車が必須だったから。
水は1ヶ月出なかったし、給水所は何人家族だろうがならんだ人の分しかくれなかった(6L/人)
買物も一人5点とか、とにかく一家総出で動かなきゃなかった。
先が見えない中で、移動手段を確保する為に必死だったよ。
避難所は飽和状態で頼れそうもなかったし。
TVで放送された仙台や女川石巻にどんどん物資が届く中、町の半分が浸水した
うちの町は町民に物資提供を何回も呼び掛けていたよ。
報道から漏れた知名度低い町では何もかもが足りてなかった。

241 :
>>237
地震やそのあとの津波で住むところを失って、着のみ着のまま避難所へたどりついた
被災者の方々が一番大変だった、というのは大前提として、ですが…

避難するほどの直接的な被害がなくて、自宅にとどまった人たちというのも、
最初の一週間くらいはかなり大変だったんですよね
ほとんどのところでガスが停まったし、停電も回復までに数日かかったし、さらに
水まで停まって完全に詰んだところもあったし
あっちこっちのスーパーやコンビニ、ホームセンターなどを駆け回って、なんとか
食料や燃料などを確保することで頭がいっぱいになってましたっけ
スーパーはどこも長蛇の列、買えるものは数量制限あり…状況が状況だから、
火を使わずに食べられるものが欲しかったけれど、選択の余地はほとんどなく…

うちはすぐ近くに小学校があって、そこが避難所になっていたので、町内で開いてる
店を探して自転車で走り回りつつ、避難所近隣の住人にも食料配布があれば
とても助かるんだけど、と(ないものねだりとわかってはいますが)思ったこともありましたよ

242 :
ライフラインに関しては地域によって激しく温度差がありますね。
大震災後、奥山仙台市長が唯一やったのが「ガスの復旧に1ヶ月かかる宣言」
うちは、キャンプ用ガスコンロや食料の備蓄で温かい食べ物にははさほど不自由しなかった。

でも電気と電話が復旧するまで1ヶ月、水道が復旧するまで2ヶ月。
ガソリン、灯油が通常の値に戻り、生活物資が手に入るようになるまで3ヶ月かかった。
つまり6月、凍死する心配がなくなるまでは、灯油は10l2000円のままだった。
石油の供給が安定するまでは半年かかったかな?

いまだにテント暮らしのハイチの苦労を思えば、半年で2chできるまで復旧しただけでも十分。

243 :
まいね

244 :
下着姿で非難する女性がかわいそうだった
仙台のアーケード前でゴルフボール程度の
大きさのおにぎりを3個で1000円で売ってたR
人間のクズだと思った

245 :
>>224-226
携帯からの緊急地震速報が苦手。
tv・ラジオからのアラームにも弱いです。

>>228
12Fならば揺れがより強かったでしょう。
地元沿岸のニュースだけ見ていたもので、深刻な原発を知ったのは1週間近くなってからでした。
家畜ばかりか手塩にかけた田畑まで荒れてしまって、、、せつないですね。

>>229
せいぜい2、3時間はあっても、日単位の停電は近頃ありませんでした。
電気に全部頼らないよう、他エネルギーへ分散しておくか、代替え発電を備えたいですね。
(とその時思うのですが… orz)

>>231
>岩手宮城内陸地震
2008年6月に落橋した祭畤大橋が再建開通したのは2010年12月とあります。
今回の大震災で失った莫大なものを取り戻す時間、、、長い道のりですね。

246 :
地震当日はトラックの運転手をしてました
地震のとき塩釜で荷卸の最中で激しい揺れにあいました
揺れがおさまり急いで多賀城の会社に戻ろうとしたが渋滞で進まず
いつもなら10分程度で着くはずが1時間近くかかった記憶が
その時ラジオは聞いていたがあまりの揺れのため頭がパニックになってて
あまり憶えてなかった ただ憶えてたのは大津波警報が出てた事くらい
やっとの思い会社の目の前に来たところ目の前から真っ黒い津波が来ました
ヤバイと思い急いでUタウンして逃げたがすぐにトラックは津波に飲まれた
運転席まですぐに浸かり窓を開けて荷台に上がりそのまま流された
そこから見た景色は地獄絵図でした 流されてる人々 あちらこちらで助けを求める人々
本当に地獄でした 夜になって近くのコンビナートの爆発の炎が凄まじい物でした
夜が明けてから歩いて太白区の自宅に戻った
本当にこの様な震災はもう来ないでほしい沢山です
今でも揺れると心臓がドキドキして焦ります

247 :
>>246
太白区って仙台の人か。流される人々を見たんだね。すごいな。

248 :
私は宮城野区の高砂橋の上で地震に合いました。
高砂橋は、仙台で一番海よりの橋です。「どん、どん、どん」と
なんども橋の上なので、バウンドして、車ごと転倒するかと思いました。
しかしどうにか持ちこたえ、橋から降りることが出来ました。
しかし、橋の上だから異様に揺れたのだろうとあまい考えをしていました。
そして最初にいつもいくカワチに行きました。
カワチの人が、「津波がくるから45号線を越えなければいけない」といいます。
そう聞いても信じられません。川沿いには子供がいっている学校もあります。
そこで東京インテリアとスポーツデポの間の道で様子を見ることにしました。
45号線に向かう道は渋滞していて、私がいたところには6台ほどの普通車と
大型トラックが様子見をしていました。
そしてなんども来る余震を感じながら、知らないおじさんと
大丈夫だろうかと話し合ってました。
おじさんの娘さんは新港でフェリーに乗ることになっていたそうで心配していました。
そして、おじさんが、「ちょっと見てくると」車を海の方へ走らせました。
そして慌てて戻ってきて「津波きたよ」といいました。
そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。娘さんを気にしたのでしょうか?
その時、私はいつも給油している太陽石油にパシャっと水が当たるのが見えました。
高さ50cmくらいに見えました。慌てて車に乗ると
さっきまで渋滞していた産業道路を逆行して岩切に抜ける45号線を超える大きな
橋を登りました。それを超えたとき私は生き残ったと思いました。
そのあと、そこから近い小学校に避難し子供の学校に電話しました。
非常時でも学校同士はつながるんですね。
そして津波が来ているので今は迎えにこないようにと言われました。
そこで実家に戻り次の日の昼頃子供を迎えにいきました。
すると学校には避難した人、慌てて迎えていった人のたくさんの車が累々と
浸水した状態でありました。
そして子供を探し出し、車で実家に連れて行きました。
家は床上20cmの浸水でした。

249 :
>>そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。
自己レスですが、産業道路を海よりのほうへの間違えです。
どう考えても津波の来る方へ曲がったのでえっと思ったのを覚えています。

250 :
>>236
飲料以外にも水は不可欠ですね。
毎年雨水をタンクに貯めて使おう、と構想するのですがまだとりかかっていません。

>3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそう
これ、わが家でも採用したいと思います。

>>237,240
会合でも、「(飲み食いする物が)こんなにあるからね」というとゆっくりするが、
「これだけだから」と云うと我先に飲んでる人がいて、、、報道側も難しいと思う。
そして、食べ物が公平に回らない事実は人災だと思います。

>>238
どうりで、、井上ひさしさんでしたか。
乙です。

>>239
私は帰ったら婆さんが外にいて「こわくて(家に)入れない」と言っていました。
助かったけれども心体が摩耗していて、、、。
お力落としのなきようお祈りします。

>>241
食料物資配布のことなんですが、避難所に泊まらず自宅避難していた方々への待遇、
避難所暮らしの人と同じ
避難所とは多少ならずとも差別された
ここいら辺の状況を掴んでいません。
二度と起こっていけない災害ですが、対応ははっきりしておくべきですね。

251 :
>>250
俺も雨水を貯めようと思っていたけど、
考えてみると雨樋をガイガーカウンターで測るとものすごい数字が出るよね。
雨水は危険。濾過、除染しなければトイレにも使えない。
放射性廃棄物となった濾過材の処分にも困る。

252 :
>>249
おじさんと娘さんの無事を祈りたいです。
報道ステーションでだったか、震災後初めてのフェリー入港を見ました。
地震後、大津波から逃れるためにフェリーは沖に出て、そのまま苫小牧へ。仙台港が再開されて北海道から物資を運んで来たそうです。
復旧後第1便目の船長は津波の時にも船に乗っていた方。お互いの安全を気遣い別れた仙台支店長との涙ながらの再会にテレビを見ているこちらも泣きそうになりました。

253 :
>>242
うちはプロパンなのでガスはokでした。
灯油が10リットルで2,000円だったということですか?
こちらでは確かリッター100円でしたね。

>>244
夜までに毛布とか支給されたか気になりました。
>ゴルフボール程度のおにぎり3個で1000円
お布施並みの値段だね。

>>246-247
内陸でラジオによると、最初は津波3mと、、大津波警報に変わったのは直前だったと思います。
あの初動が気象庁をオオカミ少年化したとしか思えません。
速報のアラーム音が嫌ですね。
助かって良かった。

254 :
>>253
最初の警報は、NHKを見返してみると14時50分過ぎくらいで、大津波警報が岩手(3m)宮城(6m)福島(3m)ですね。
10m以上に変更になったのは、15時15分過ぎくらいみたいだけど、画面上だけの表示でアナウンサーは話してないので、NHKラジオを聴いてる人には情報が伝わるのが遅れたとは思います。

255 :
私は東京で勤務している山形県出身者です。

当日は出張で午前中に札幌から飛行機で仙台へ入りました。
会社は泉中央にあり、地震直後は会社の会議室で会議中でした。
地震が起き、それが長くなるにつれて揺れが大きくなり立っているのも、
やっとだったと記憶しています。

その後は情報がまったくない状況で、とりあえず地下鉄の駅まで行きましたが、
地下鉄は当然動いておらず仙台駅まで歩くことにしました。
台原の労災病院でトイレに入ったところ、TVで津波などの情報を得ました。
それから東北電力本店ビルがロビーを開放してくれてて、
そこで休憩をしていたら会社の先輩から、区役所で避難するから迎えに行くと連絡がありました。
区役所でもらったワカメご飯がおいしかったです。
区役所のロビーで寝ていたところ、夜中に寒さで目が覚め震えが止まらず、
ストーブの前で震えが収まるまで温まりました。

翌日は仙台市内に住むいとこと連絡がつき、山形に戻るから迎えに行くと連絡があり、
いとこの車で実家に帰り、翌日は新潟経由で東京に戻りました。

今でも長いタイプの地震があると、3月11日の地震を思い出し身構えてしまいます。

256 :
山形市。子供たちを幼稚園から連れて帰って来た後でした。
持ち帰ってきたクッキーをテーブルを囲んで楽しく食べていたときに揺れ。
ちょっとやそっとの地震では揺れない山形が揺れてる=やばいとそのままテーブル下に。
揺れる中、玄関に掛けたジャンパーからかすかに携帯のアラームが鳴り響いていた。
収まってきたころに急いでテレビをオン。震源は宮城県沖と聞こえたとたんに停電。
終わったと思った。

とりあえずこの後はどうする?と自問自答。
旦那の実家には反射式ストーブがあるから暖がとれる。でもオール電化。
ここはプロパンなので、電気以外は生きている。どっちを取る?
悩みながらも部屋を片付け、避難する準備。
帰ってくる旦那のために懐中電灯などを用意。
結婚式に使ったキャンドルサービスのろうそくを発掘。
動いている間にも何度も余震。そのたびに子供たちがおびえる。
二男は頭にクッションを乗せ、テーブルの下から1時間は出てこなかった。
ちびちゃんは怖がって私の足につかまったまま。
それを引きずりながらもくもくと準備。
幸い暖かいまま残っていた羽釜のご飯をおにぎりにして分ける。

悩んだ結果、旦那の実家へ避難することに決定。
玄関に「実家に行きます。」と張り紙して出発。
車の中で初めてテレビを見る。そこは津波と火災の地獄。
信号の止まった道路を慎重に譲り合いながら進む。
大きな交差点では警察官が交通整理。心から感謝。

暗くなり始めたころに実家へ到着。
持参したおにぎりとおばあちゃんが日中に作っていた煮物で意外と豪華な食事。
暗くなると長男が再び発熱。ストーブのあるところに来て良かった。
24時間経っても熱が下がらず、市民病院へ。結果インフルエンザ。
診察が終わって車を出すころに電気再開。

山を越えただけのすぐ隣で、ほんのちょっとの不便だけで済んでいることに
申し訳無く思いながら過ごしていました。
今は地震直後に無駄に買い込まないように普段からゆっくり備蓄&使用しています。
シーチキンは普段もよく使えるので重宝しています。

257 :
まいね

258 :
あの日地震直後に七ヶ浜の母と携帯で連絡が取れた@青葉区
両親宅は七ヶ浜でも高台にあるので津波の事は念頭になく取りあえず無事を確認してTELを切る。
そうこうしてるうちに私も息子二人を迎えに行ったり買い出しに行ったりして帰宅は20時過ぎ。
まさか沿岸部があんな悲惨な事になっているなんて思いもよらなかった。
夫が深夜帰宅して『ママはTV見てないかもしれないけど本当に酷い事になってるから
電気ついたら覚悟して見て。』と真剣な顔で言われたので正直動揺した。

携帯もあれっきり繋がらないし連絡もつかないのでひたすら心配するのみだったけど
3日ほどしてやっと母と2度目の安否確認が出来た。
あの日の夜実家までは津波は到達しなかったけど仙台新港の石油コンビナート火災で
避難勧告が出て近所の避難所を回ったけど何処も満杯で断られ、結局自宅に戻って
父と二人でまんじりもしないで夜を明かしたらしい。
でも両親揃って楽天家なので避難所の土手に生えてたふきのとうを摘んで天ぷらにして
食べたそうだw

ガソリンが確保出来てから何度も差し入れに行ったけど母校の小学校の前の田んぼが一面瓦礫の
山となって海岸線の松林がパラパラとまばらになり、海から母校が見えるようになったのは
本当にショックだった。海水浴場にはコンテナが打ち上げられ、セブンイレブンが看板を残して
跡形も無くなり、友人宅は門柱のみ残っていた。
東北有数の海水浴場とサーフスポットが無惨な姿になったのを見て故郷を離れて初めて泣いた。

259 :
良スレ

あとで私も書き込みます

260 :
>>258
私も七ヶ浜在住です。
あの日は、娘の中学校の卒業式から帰って一息ついたところでした。
その後の生活は皆さんが書かれている通りですが、一つだけ嬉しいことがあったので書き込ませて下さい。
それは、卒業式が終わった娘と中1の娘が友達同士で毎日ボランティア活動に頑張っていたことです。
最初は給水の列整理から始まり、写真や位牌の掃除、お年寄りへのマッサージ等々毎日頑張っていました。
いつの間にか、親が気付かない位成長していたんだな!と嬉しく思ったものでした。
大変な時だからこそ、子供たちの行動に勇気をもらったような気がします。

261 :
>>260
258です。本当に大変でしたね。報道では南三陸や石巻、気仙沼等が流れていたけど
七ヶ浜や塩釜の情報はほとんど無く、実際地元に行って余りの惨状に信じられない
思いで一杯でした。主人と町内一周してみたけど菖蒲田海岸は勿論、他の浜も酷い
状態で復興するにはいったい何年掛かるのか見当もつきませんでした。
でもお嬢さんを始め地元の若い子達が頑張っていてくれたのは本当に勇気つけられます。

最近帰ったら小豆浜もサーファーが戻り、汐見台の瓦礫もすっかり無くなって思ったより
ずっと早く昔の姿を取り戻せるような気がして嬉しくなりました。

262 :
>>248-249,252
おじさんが見に行かなければ危ういところ。
おじさんは娘さんのこと、248さんはお子さんが気になってる様子を感じます。
まさか海水が床上まで浸るとは思わなかったでしょうね。

>>251
雨水タンクは無理だとして、、、効果的な除染方法が見つかってほしいす。

>>254
レストンです。
3mも10m以上も大津波警報でしたね、勘違いしてました。

>>255
東北電力本店というと二番町でしたか、、そこまで歩いたと。
腹が減ってたんでしょうね。
新潟経由の東京は小1日がかりだったのでは。

263 :
福島県いわき市の海沿い。
二日前の大きな地震は出張先の仙台で遭遇。
偶然が重なって休みになりいわきに戻った。

最初は二日前の地震の余震かと思ったけど、テレビで速報が流れたんで、
ベッドの下に愛犬と隠れた。
部屋の中のもの全て倒れて、家の外壁も内壁も倒れた。
津波警報とか、サイレンがずっと鳴ってたけど、ベッドの下から出れなくて
愛犬も震えてた

色々省くけど、30分くらいかけてようやくベランダに出たら、もう近所に誰もいない
まさかと思ったけど、津波がきた
あの速さに「これで死ぬ」と諦めたけど、抱いてる愛犬を見て、逃げる決意をして、
無我夢中で山に走った
寒くて震えが止まらなくて、愛犬が本当に温かくて・・・
こんな冷たい手で抱っこしてごめんって思いながら暖まった。
その後雪降って「日本沈没かぁ」と思ったのは覚えてるのに、
あとはあまり覚えてない
とりあえず、愛犬の命を守るために家にいた気がする

沢山のもの、人を亡くし、避難所転々として
それでも頑張ろうと決意し、4月10日にいわきに帰ってきた。
4月11日、12日の余震で、心が折れた。

長くなった、ごめんね

264 :
まいね

265 :
まいね

266 :
まいね

267 :
>>9の続き
その日は会社に『直帰します』と連絡を入れて深夜に自宅着。
なんとか家にたどり着いたもののマンションの中は家財道具が散乱して滅茶苦茶
着替えをした後、妻と子供達が先に避難していた近所の小学校体育館へ移動して
なんとか家族と合流。
子供達は妻が持ち込んだ毛布にくるまって寝ていたが上の男の子が『どうしても
雑魚寝では寝られない』と訴えるので止むを得ず自宅から自家用車を持ってきて
校庭に停めてエンジンをかけて暖房を入れながらシートを倒して横になる。
カーナビワンセグでNHKを見て凄まじい災害が発生した事を再認識。
次の日は1日かけて自宅の散乱した家具をどけてなんとか寝る場所だけ確保。
(停電中だったので掃除機が使えずガラスの破片を取り除くのに苦労した)
月曜日からはなんとか出社したがしばらくの間は営業としての稼働は不可能で
(配送センターの損壊&燃料欠乏による配送不可能による)
1週間は半ば自宅待機、徐々に仕事ができるようになったのは震災から2週間
程度たってからだった。
近所のコンビニもスーパーもあっという間に品切れとなり、自家用車を使って
遠くの遠くのホームセンターやスーパーに行き、何時間も行列して食料や雑貨
を購入したりの日がしばらく続いて、本当に品不足が完全に解消したのは5月
になってからだった。
自宅と近所のマンションはタイルが剥がれたりエレベーターが故障したりドア
が歪んで開かなくなったりベランダに亀裂が入ったり惨憺たる有様だった。
マンション全般の修理が大体終わったのは12月。

268 :
南部鉄器が欲しくて情報を得ようとまちBBSに来たらたまたま目にしたので書いていきます。
長いけどお付き合いください。

あの日は…息子を出産してあと2日で1ヶ月。何を作ってお祝いしよう…と、夕飯用の炊き込みご飯の元を作って冷やしていた時だった。

ご飯、旦那が帰ってきてから炊こうかな?今炊いて少し食べようかな?……息子が寝てるうちに炊いちゃおう(笑)

なんて、腰を上げた時、カタカタカタカタカタっと揺れが来た。

地震には慣れてるけど、最近大きい地震が続いてたし、あまり遠くない未来、宮城県沖がくると思ってたから、一瞬体が固まった。

窓の外からガタガタガタという、今まで聞いたことがない音が大きくなりながら近づいてきた。今思えば家鳴りってやつだったと思う。

テレビで音が鳴り、強い揺れに注意してくださいという表示が出て、携帯の地震警報が鳴った。

とともに、強い揺れに襲われた。
「これだ!」瞬間的に宮城県沖地震だと思った。

強い縦揺れと横揺れ。
どっちに揺られてるか分からず必死だった。

269 :
>>268

その時頭をよぎったのは、
こうやって、人はあっという間に死んじゃうんだ…
床が崩れて落ちて死ぬのかな…天井が落ちてきて死ぬのかな…
一瞬、神戸の震災の映像がよぎった。

どっちにしろ、自分がクッションになれるようにと、ベッドの上で息子を抱いて丸まった。

体ごと揺さぶられる中、台所からは皿が落ちて割れる音が聞こえる。

部屋に取り付けられてるクローゼットは扉が開き、服や荷物が外に飛び出してきた。

テレビは後ろに倒れ、電気が消えた。

揺れが少しおさまってきて頭をあげる…長くも、短くも感じた時間だった。

しばし呆然とする。

部屋を見渡すと、小さい頃から学校や家庭で地震が絶対来ると言われてたので高さのある家具は置いて無かったから、テレビの被害とクローゼットの雪崩れだけで済んでいた。

シーンとした部屋に時おり余震がきて何度も揺れた。

家にいた方が安全かな…崩れないかな?火事になるかな?
外に出た方が安全?
…でもお婆ちゃんが昔の宮城県沖で塀や電信柱が倒れて人がたくさん亡くなったって言ってたし…

…余震が少しおさまるまでは家にいよう…それまでに、避難経路を確保しよう。

そう決心して、玄関までの通路にある台所に行こうとクローゼットの雪崩を掘り掘り……だけどドアが開かない…

270 :
>>269

正確に言うと、ドアの向こうにあるクローゼットが開いて、その奥にある冷蔵庫の中身が飛び出し、冷蔵庫本体も前に飛び出し、クローゼットの扉を向こうから押さえてる状態になっていた。


とにかく隙間から荷物を押したりして少しずつスペースを広げる。

隙間からなんとか向こう側に行くも、電気がない廊下は真っ暗…

手探りの状態で冷蔵庫を元の位置に戻して、足元に散らばったものをよける。
時おり足にグニャって感触や冷たい感触があり、なんだか分からなくて怖かった。

クローゼットの扉を閉めたら、少し光が差し込んできた。
それでも暗いので携帯で照らしてみた。

変な感触だったのは、冷蔵庫から飛び出したブルガリアヨーグルトと、肉だった。

冷やしてた炊き込みご飯の元も水に浸してた米も散らばっていた。
最後に隠し味でバターを入れるんじゃなかったーと、ギタギタになった床を見てうなだれる。

皿は、私は地震を意識して100円ショップのプラスチックの皿をメインにしてたから無事だった。
が、捨てろって言ったのに、旦那が一人暮らしの時に使ってた皿を取っており、足元に割れて散らばって全滅して危険な状態に…
正直「アイツめ…!」と思ったのは内緒。

とりあえず外に出られる状態にはしたが、暗くて片付けはできないから、汚れた靴下を脱いで、サンダルをはいて室内に戻った。

これからどうしよう…
携帯も、この日に限って充電し忘れてて、残り三本しかなかった。

窓から外を見ると、たくさんの人が外に出ていた。

…情報を得よう。

着込めるだけ着こんで、息子を抱いてマンションの前に出た。
ふわりとガスの臭いがした。


行き交う人はみな、大丈夫?地震大きかったねって声を掛け合っていた。

ふと目線をうつすと、マンションの玄関わきに、妊婦さんがクッションを持って丸まっていた。

「大丈夫?」

声をかけると、怖くて部屋に入れないと泣きそうになっていた。

聞けばうちの2〜3個隣の部屋だった。
うちも入れる状態じゃないし…

…そうだ!

271 :
>>270

実は震災前から、旦那と車で通るたびに、「地震があったら、この小学校に避難するね!」って言ってた小学校があったから、そこに連れていこう!
旦那には携帯が繋がらないから、メールを何度もトライして「あの小学校にいます。電池あまりなし。」とだけ送信した。

子供の荷物を取りに行きたいけど妊婦さんが無理っぽいし…また取りに戻ってこよう。
と、軽い気持ちで出発したのが失敗でした。

意外と歩いてみると坂もあれば距離もある〜!

ゼーゼー言いながら休み休み小学校へ。
歩いてると時おり、誰かがラジオを大音量で流してて、震度とか津波に注意してとか聞こえてきた。

小学校に着いたが避難所はまた開設されてなかったから、隣の児童館で待機させてもらった。

ラジオからは大きな地震の情報と、津波に気を付けろという放送が流れている。

息子が寝てる間に…
と、妊婦さんと児童館の方に息子を頼んで荷物を取りに戻った。


ミルク、オムツ…おしりふき。
哺R瓶に消毒容器と消毒液。
寝かせるためのクッション、毛布、肌着に着替えに防寒着。
飲み物、食べ物を持って、電気が切れたポットから保温機能がついた水筒にお湯をありったけ詰めた。

すごい荷物で児童館を目指すも、玄関を出たらすごい雪。

行き交うタクシーはみなお客を乗せていて空車がない。

よくテレビで見る雪の中チマチマ歩くペンギンのような状態で目的地に向かった。

幸か不幸か、目的地直前の心臓破りの坂でタクシーがつかまり、なんとか児童館へ。

ラジオからは「5mの大きい津波が到達したという情報がある」と流れ出した。

272 :
まいね

273 :
>>271
「5m!?」
5mの津波なんて想像つかなかった。
大きな地震があるたびに海面の中継されてたけど、変動なんか数p、数十pだったし…

でもお婆ちゃんが、大きな地震が来たら津波がくるから、高いところに逃げるんだってよく言ってたけど…
これは想像つかないよ…

続いてラジオから
「多数の死傷者が出ています。目視しただけで200〜300体の遺体が打ち上げられているとの情報もあります」

と、聞こえてきた。
でもこの規模なら、200〜300人の死傷者は出ておかしくないよな…

なんて、耳に入る情報がまるでドラマのように現実味がなくて…
唖然として聞いていた気がする。

避難所が開設され
私たちは体育館に移動した。
ステージ前には長テーブルが並べられ、民生委員の本部になっていた。
真ん中は運動用のマットとブルーシートが敷かれ、入り口前にはストーブが4つ置かれていた。

ストーブの周りにはすでに人が陣取ってて、マットのあたりはかなり寒かった。

夜になるにつれ、人が溢れかえった…ストーブの灯りだけの暗くなった体育館では、懐中電灯の灯りを頼りに何度もプールからトイレまで一列に並び、バケツリレーをした。

中にはペットを連れてきてる人もいた。

籠に入れてる人や抱いてる人…迷惑になるからとペットと外で過ごす人。
紐でつないで散歩のように体育館内をペットと一緒に歩き回る人…
旦那のような動物アレルギーがある人がいたら大変だな〜と思いました。

その旦那が体育館に着いたのは夜の11時を超えてました。

274 :
>>273

旦那は市内から車で20分くらいの場所に勤めていたけど、信号がついてなくて渋滞して、所々家が倒壊して引き返したりして…結局到着まで8時間かかり、ガソリンもなくなってしまったとのこと。
送ったメールはさっき届いたが、小学校に行くって前に聞いてたから、ちゃんと向かってきたらしい。

ただ、会社の車でテレビを見たが、大変な事がおきた。
津波で大変なことになってる。

と、青ざめていた。
私は想像がつかなくて…
まだ実感がわかずにいた。

その夜は毛布が足りず、自分達にまわってこなかったから、私が運んできた毛布二枚を、旦那と子供、私と妊婦さんで半分こして眠りについた。

でも寒くてあまり長くは眠れなかった…


朝…
炊き出しで、備蓄されてたアルファ米が出た。

袋に入った乾燥した米に、ワカメと塩を入れて、水を入れて一時間。お湯だと15分くらいで出来る保存食だ。

妊婦さんの旦那さんは朝になってから避難所にきていた。

奥さんと山形の実家に行くらしい。
良かった…と胸をなでおろした。

275 :
>>274
その日の朝、
避難所には2ページの河北新報が配られた。

【 宮城 震度7 大津波 】

見出しには大きくこう書かれていた。
今新聞を見直してたら、この時点でM8.8と記載されている。

写真を見て、私は最初、なんだか分からなかった…川のゴミ?

よく見たら、今まで見たこともない広い、広い海。
浮かんでいるゴミらしきものをよくよく見ると、小さな小さな家や車たち。

水に浮かんで 燃える家。

言葉にならなかった。

その時も今も思うのは、何故、その時、私は知らなかったのだろう…
なぜ助けられる距離にいて、避難しかできなかったんだろう…
なんて自分がのんきだったか…
同じ県同じ国に住む人たちがこんなに大変な思いして苦しんでたのに…

もっとできる事があったのではないか?
その気持ちは今も変わりません。


それから2日後
民生委員が「自分達でやって。面倒みれません」と避難所を避難民に明け渡し、避難民だけでの管理となった。

その言葉で半分くらいの人が体育館から消えた。

276 :
>>275
人が減った体育館では、なんとなくリーダー、副リーダー、炊き出し班、水汲み班ができた。

お互い会話もするようになった。


ある家族は海に近い場所で働いていた父親に連絡がつかず、あるカップルの女性は南三陸町に住むいとこと連絡がつかず不安らしかった。

旦那も実家が気仙沼にあり、旦那の前の奥さんの実家も女川にあるらしく、子供の心配をしていた。

夕方、ボロボロの男性が体育館にやってきた。
連絡がつかなかった家族の父親だった。

津波で逃げたが携帯は水没し
近くでコンビナートが爆発、炎上したので、みんなで離れたビルに泳いで難を逃れたが油まみれ。

水が引くのを待って、多賀城まで歩いてヒッチハイクで仙台駅へついたが、市内は何事もなさそうなのに自分はボロボロ…

なにがあったんだって言って座り込んでいた。


一週間くらいすると、物資も豊富になり、電気が復活し、テレビが見れるようになったり、不明者を検索するためのインターネットがひかれた。

パソコンを打てる人があまりいなかったので、頼まれて私が代わりに検索したりして過ごしていた。

277 :
>>276
自衛隊の方も入るようになり、物流もよくなった。
運んできてもらった支援物資の中には、送ってくれた人からのメッセージが書いてあった。

「一人じゃない。頑張れ!」
みんなで集まってメッセージを読んだ。みんな笑顔になっていた。


情報も入ってくるようになった。
旦那の実家は海からかなり離れてたのに水没。けどみんな逃げて無事だった。車に乗っていたら危なかったらしい。

旦那の前の結婚の時の子供さんの行方は分からなかった…友達からは死亡者リストに同姓同名があると言われて、「こんなに大きな震災だったから、仕方ない」となかば諦めていた。

けど、色んな方向性を探って検索かけたところ、義理のお父さんの経営してた旅館名から、家族全員の無事が分かった。

旦那は「そっか…」とそっけなかったけど、隠れて友達に報告してたから、嬉しかったに違いない。

よかったよかった。
と、思っていたら、カップルの女の子の携帯が鳴った。

278 :
>>277

体育館の外に出て、
しばらく帰ってこなかった。

帰ってきた女の子は目が腫れていた。
みんな何もいわず寄り添った。



テレビからは、判明した人の名前が淡々と読み上げられていた。

中には0歳…1歳…息子と同じくらいの子がたくさんいて、胸が痛んだ。

ただただ読まれる名前だけれど、一人一人に人生があり、家族がいるのだ…。

みんながしんみりしていると、見知らぬ若者が入ってきた。

体育館内、避難民をパシャパシャ写真を撮っている。
声をかけたら、「ネットに載せるため」だそうだ。

もちろんデータは消してもらい、帰っていただいた。

「こんな事よりあなたは大丈夫なの?」
「はい俺は…」
「よかった。気をつけて帰りなよ」

青年、声が震えてたけどゴメンね。


震災一週間を超えると、ガソリンも並べば1〜2時間で買えるようになっていた。

私の実家が県南にあるので、4号バイパスを南に向かって走った。

279 :
>>278
市内から抜けるとき、大阪ガス、四国ガスさんのトラックとすれ違った。

遠くから来てくれたんだな〜
ここまで来るのに何時間かかったのだろうか…
トラックの向こうに、たくさんの人が見えた。

頑張れ!頑張れ!一人じゃない!
大丈夫だ!

なんだかそう言われてるみたいで涙が出た。


夜になり、仙台へ帰宅するとき、昔行ったことがある空港ボウルが遺体安置所になってることに気づいた。

薄暗い灯りが灯り、入り口には警備員、駐車場にあったコンビニには一面に遺体の顔写真が貼り出されていた。

ハッキリは見えなかったけど、透けてなんとなく分かった。

ふと…友達が勤めていた仙台空港が気になり、近くまで行ってみた。

途中から通行止めだから、そこまで車を走らせる…しかしかなり手前の田んぼが、月明かりで溜まった海水がキラキラしていた。

空港にいた友達の話だと、一旦みんな外に避難したが、津波が来るという声が聞こえて二階に避難して助かった。けど空港はもうダメだ…と言っていた。

だからあんなに早く空港が復活した時は驚いたけど、見捨てずに復旧に尽力してくれたアメリカの方たちと自衛隊に感謝だった。

それからは格段に復旧が進み…

ガスが復旧した時は、温かいお湯が出る!と感動したのを覚えている。

280 :
>>279
生後1ヶ月の息子を、心配しながらも、入れないよりはいいからと、垢だらけの温泉に入れたのもいい思い出。

あの時はシャワーのお湯が沸かせずどこの温泉も水しか出なくて大変でしたね。

首が据わってなくて、寝てばかりいた息子も今月13日に無事1歳をむかえ、大人と同じようなご飯を食べ、一人で歩けるまでに成長しました。

ちょっと最近我が強いけど元気です。
苦労したんだぞ!と、いつか見せようと避難所のみんなの写真と避難所で配られてた新聞は宝物にしてます。

なんだかまだ昨日のことのように思い出せる…あっという間の一年でした。

たくさんの人のおかげで今がある。

本当に本当に、
ありがとうございました。

3月11日は、避難所で初めて食べた温かい食べ物…思い出深いどん兵衛(うどん)を食べようと思ってます。
いつまでも感謝の気持ちは忘れません。

ぽぽぽぽーんは、辛い気持ちを思い出すからもう少し時間が経ったら見てみようかな…笑

長々失礼しました。
お付き合いしてくれてありがとうございました!

281 :
>>268-280
おー、なんか溜りに溜ってた思いの丈を一気に吐き出した感じだねぇ
それで少しでも気持ちが軽くなったなら、ここは良スレだね

282 :
>>281
長いのに読んでくれてありがとうございました。

ブログに書こう書こうと思ってたのに、何故か書けずに一年、胸にしまっていた思い出です。

簡単に書こうと始めたら、すべて溢れ出てしまいました。

書いていたら、空港で被災した友達の話や、新港あたりで被災して遺体がたくさんある中でサンダルにビニール袋巻いて歩いて帰宅した友達の話…津波に流されて助かった知り合いや、避難所にいた観光客の話を思い出してしまいました。

いつか同じような内容でブログに書くかもしれませんw


気仙沼に行った時見た、車より高い位置にある水位の跡や、南三陸町に帰ったカップルの女の子に差し入れに行った時見た、山の方まである津波の跡…。
左右から挟む形で高台までのぼった津波の跡など…

後世に見て感じたことを伝えたいと思いました。

あれからもうすぐ一年。
いいきっかけを与えてくれてありがとうございました。

283 :
もうすぐ一年、初めはただただ頑張ろうと必死で震災時の事を振り返ろうともしなかったけど、今になって色んな事を思い出す。

色々ありすぎてまとめられない…

そのうち書き込ませてもらいます。

284 :
もうすぐかっつぐ、と思ってたら離されました。

>>256
広範囲に信号機が停電したし暗くなってきては、送電線の鉄塔が倒れたか
変電所がやられたのか、と思いましたね。

腹が減っては不安も増すのでしょうか、、食べることによって気持ちが落ち着きます。

あの頃は普段の暮らしがもう少し不便でも、十分生活できるんだなと思いました。

>>258
直後は携帯も固定も電話できました。
避難所の受容量が超えて二次災害を憂慮したからなんでしょうか?
まあ自宅でなんとか凌ぐことができて良かったと思います。

初めて映像を見た時はその場から動けなかった、、、。

>>260-261
私のボランティアはスポットものでした。
ずーっと続けることで周りに認められ頼りにされるんですよね。
今回、シルバー・シニア世代の底力を発見?した少年少女もいるのではないかと、、。

>>263
「津波てんでんこ」と言われますが、「俺は無事逃げたからね。安心して」と受け取っています。
家族を心配しながらも決断しなくてはなりません。
263さんの愛犬が早く一緒に逃げよう、と促してくれたんでしょうね。

285 :
>>283
ここでは、まとめる必要はないし思いついた時に思いついた分だけ書いてもいいんじゃないでしょうか。
勿論、ご自身でまとめようと思ったならまとめた方がいい。
一気に書いても良いし細切れで何度にも分けて書いても書いても良いだろうし、後でブログ等に書く為の下書き代わりでもいいと思います。

表現する事や伝える事が重要であり、その方法や体裁につてエネルギーを一切使わない方が伝わり易い場合もあると思う。

286 :
みなさんの記録を読んで、涙が出そうです。私は、今東京に住んでますが、実家は仙台市内(幸い山沿いなので、実被害はあまりありませんでしたが)で、なかなか連絡が取れず。テレビに映し出される映像、ニュースの内容は時間が経つに連れ、悪くなる一方で。宮城沖地震は実際に体験しましたが、それ以上なんだろうなぁ…と思ってましたが。正直、まさか…という気持ちでした。
東京も近い内に、震度7クラスの直下型地震が来ると言われてますが、半信半疑というか、あまり気にしていない…と言うのが本音じゃないかなと思います。
テレビで見た映像、実家の両親、地元の友達からの情報等、私なりに311をまとめ、後世に伝えていきたいと思っています。
場違いな投稿で、すいません

287 :
>>278>>279
県南のご実家は無事だったのでしょうか

288 :
多賀城、地震が来た時は仕事中。

2日前に地震があったから、揺れ始めた時「またか…」と思いながら目の前にあった棚を押さえた。

すぐに、立っていられないくらいの物凄い揺れ。あまりの長さに「もうやめて」と泣きそうになった。

揺れが落ち着いた頃、同僚がワンセグを見て悲鳴。「津波が来る!」

289 :
よく覚えていないけど、私が見た時は宮城県6メートル、とあったような気がする。

でも、それって三陸の方でしょ?
ここは、大丈夫なんじゃない?
でも、この尋常じゃない揺れ…津波が来るのかも…


よく覚えていない。多分パニックになっていた。
子供を迎えに行かないと、と職場を後にする。
信号は全部止まり、大渋滞。道路も所々陥没していた。

学校に行くのに車は邪魔になるなぁ…渋滞もひどいし、と思い一度自宅に帰り車は置いてきた。

まさか自宅まで津波が来るとは思ってもいなかったから。

しばらくは車を置いてきた事、かなり後悔した。

290 :
幸い旦那とメールで連絡がつき、旦那は下の子を保育所に迎えに行き、上の子の学校で合流する事に。

学校に着き、全員の無事を確認。


しばらくして、「水が来た!」と叫び声。

高台の学校のすぐ下のあたりまで浸水していた。

これはもう、車もダメだし家にも帰れない…

絶望的になった。

291 :
その日の夜、本当に寒かった。

備蓄の毛布は全然足りなくて子供達と体をくっつけて横になった。


仙台港コンビナートで火災発生。物凄い爆発音。

よくその日の夜は星が綺麗だったと聞くけど、私は真っ赤に染まった空しか覚えていない。


ラジオから流れて来る
「荒浜で200〜300の遺体」「陸前高田は壊滅的」壊滅って何?
そんな言葉、今まで聞いた事がない。
信じられなかった。

292 :
その日からもうすぐ一年、無我夢中でした。


子供の思い出の品、大事にしていた家具、何もかも駄目になった。
全部、泣きながら捨てた。すごく辛かった。


でも、家が流された人、家族を亡くした人がたくさんいるのにこの位で辛いとは言ってはいけないような気がして…
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて頑張った。

家の改修は秋に終わり、普通に生活できるようになった。

でも…震災前とは仕事の事など色々状況が変わり、私の心がついていかない。
辛い。すごく辛い。
もう頑張るの、疲れた。

293 :
ダラダラと長く書いてスミマセンでした。
読んでくれた方はありがとう。

少し、心の整理がついたような気がします。


また何かあったら書き込みます。

294 :
まいね

295 :
>>267
あの晩は、避難所でいくらも眠れなかった人が多かったんでしょうね。
停電が身にしみて、翌日店から一番に乾電池がなくなった、、。
盆前までの仮設住宅引き渡し、
これが終わってから一般の建物補修に入ったんだね。

>>268-282
ご自宅を離れる時のガスの臭いが気になったけど、、
避難所での出来事が興味深く読めました。

まあ、避難所といっても校舎とか体育館、施設で最初何もない。
自治会ができたり、逃げてきた人のこと、、、体育館でいろいろな人にRましたね。

だんだん、負けないぞっていう気持ちになっていったと思いました。

>>283,285
浮かんできた時にでも、、、どぞ。
285さんトン。

296 :
まいね

297 :
まいね

298 :
まいね

299 :
まいね

300 :
まいね

301 :
地震後、職場から家に戻って、留守番していた高校卒業したばかりの子供と
非難用品をもって外へ出たが、どこへ行けばよいのか分からず途方に
くれたっけ・・・。
何日か名取駅近くのビール工場でお世話になった。
工場の方が飲み物やお菓子を配布してくれたり、トイレの水が出なくなってからは
どこからか大きなケースで水を運んでくれたりしてくれた。
感謝してます。

地震後一番悩んだのは子供のメンタル面。
非難中は食事もほとんど食べないし、毎日出てたお通じ(汚くてすいません)も
ぴたっと出なくなった。
「頼むから食べて」と赤ちゃんに食べさせるようにスプーンで自分が
食べさせた時もあったよ。

302 :
「がんばろう」は、辛い言葉でしたね。

某アイドルのブログに
「がんばろう」より
「ふんばろう」

とあって、少し楽になったのを覚えています。

303 :
301だけど「非難」は「避難」の間違いです。

304 :
>>286
「可能性」とか言って、地震の確率を述べる研究者は何かを根拠にしてるのでしょうが、、、
一方、地震が来ても大丈夫、という研究者がいるけど、、、共に慎んで欲しいですね。

>>288-293,302
思ってもいなかった自宅まで浸水、、でも
車を使わなかったのは冷静な判断だったと思いました。

思い出の品を片づけ、、家の改修までたどり着き
辛い辛い、の内に強い精神力を感じます。

>>301,303
大地震は誰にも何かしら落ち込ませました。
症状がそれぞれで、一時的なものであれば幸いではないかと、、。

工場を開放してくれてたんですね。

305 :
まいね

306 :
岩手県北内陸部
一昨年の大晦日から去年の元旦にかけての大雪で停電の直撃をくらった。
このあとに、LED使用の電池(懐中電灯をこう表現します。)とラジオと
電池をやや多めに購入していた。

地震の時は車で、ちょうどでこぼこ道(減速しないと危険なくらいでこぼこ)を
走行中で地震自体に何の恐怖も感じることはなかった・・・

家から人が飛び出してくるのと電線が無茶苦茶ゆれてるのとラジオの
アナウンサーが怒鳴って?いるので・・・

ん・・・地震か?大きいのか?ってな感じだった・・・

しばらくいくと・・・信号は消えていた・・・停電だな・・・

ド田舎なもんで、汲み取り便所にプロパンガスに反射式ストーブ?に
マキストーブ。水は今回は止まらなかった。

一番苦労がガソリンの入手、あとは他とは比べ物にならないほど
被害無し・・・だろうな。

死んだ婆さんが、何かあったら、米、そして味噌の順番で持ち出すこと・・・
鍋?釜?水?マキ?・・・そんなんはなんとかなる。って言ってたな・・・

307 :
14:46分になれば352日経ちます。
あと2週間で1年になりますね。

あっという間でも忘れることのない毎日でした。
私は、当日電気を使わない1日を送ってみようと思っています。
(全部は無理かも知れない…)
星のきれいな夜になればいいですね。

         日  月  火  水  木  金  土
去年3月  6  7  8  9 10 11 12
今年3月 11 12 13 14 15 16 17

308 :
>>306
んだ。
米、味噌、醤油さえあれば、なんとかなっからな。

309 :
各自治体 追悼式典関連
http://blog.livedoor.jp/hukkogannen2012/

310 :
仙台近郊内陸部

会社がメチャクチャで足の踏み場もなくなり、鍵も閉まらない事務所を無理矢理
閉鎖して自宅に向けて出発したものの、普段20分の道が5時間以上かかった。
家についたのは日が変わった頃だったけど、奇跡的に自宅は食器や置物等の
落下も殆どなく、拍子抜けしたのが印象的だった。

ライフラインは全滅だったものの、反射式ストーブで作った鍋で息をついた。
翌日からはとにかく毎日給水と食料確保に走り回った。
幸い翌日から待ち時間最大20分で3日後からは待ち時間・制限なしだった給水所や
ホームタンクで備蓄していた灯油、複数の車にガソリン満タンだったために
GSの行列とは無縁だったり、米や麺も大量に備蓄していたので苦労はしなかった。


しかし4/7の余震で家屋にかなりの被害が出て、帳尻が合ってしまった感が・・・

311 :
ROMっておりましたが、青鹿さん、いつも乙でありまする!
機微のわかる、お優しい方ですね・・・

そのうち私もあの日を語ってみたいと思います。
そのときはよろしくおながいしますね!!

312 :
まいね

313 :
まいね

314 :
>>305
かたや地震特約ですし、、。
風による高潮ならいいが津波は免責になる、と聞いた覚えが、、、。

>>306,308
>ちょうどでこぼこ道
揺れは感じたけれど恐怖はなかった、、、とすれば未舗装の砂利道だったのかな?

普段快適な生活ほど有事に不便を味わうような。
農家やってれば軽油など常備してそうですね。

>>309
参考にさせてもらいます。

>>310
4/7の南より震源のほうが310さん家では強かったんですね。
反射式ストーブは鍋・やかんをかけれるのがいい。
カップ麺もだけど普通の麺類備蓄も大事、と思いました。

>>311
ROM歓迎です。
こちらこそよろしくお願いしますね。

315 :
岩手、内陸。

その時は会社でした。

地震速報が携帯からなり響き、同僚と話していたところ、いままでにない揺れ。

外に避難したあとは不安がる女性達に対し気丈に振る舞ってはいましたが、
ワンセグで確認した大津波警報に、
沿岸にすむ片想いの子のことで
不安で一杯でした。

停電の中、ラジオから告知される被害者を聞いた数日。
彼女の生存を知らされたとき、初めて涙が止まりました。
本来は逆なのかもしれませんが。
不安で泣くなど初めてでした。

その後、
彼女の一番にはなれず、辛い状況に全然頼りになれませんでしたが、
いまでも大好きです。幸せを祈っています。

316 :
当時臨月の妊婦で、福島の双葉郡から出産のために
宮城県の実家に里帰り中。
昼寝をしていたらすごい揺れに見舞われる。

実家は屋根瓦が盛大に落ちて壁に亀裂が入り食器が多数割れたものの
水・食料の備蓄があったので避難所には行かずにすみました。

それからラジオ等で情報収集しつつ、
せめて水が出るまでは出産したくない!と寝転んで安静な生活を送ろうと誓う。
寝転んで窓から沿岸方面を眺めていると津波被害の航空写真を
撮影しているであろう飛行機がぐるぐると弧を描きながら飛んでいるのが
印象的でした。

317 :
しかし5日程経ったら陣痛が。
病院に行ったらまだ水が普通で食事もほんのわずか。
トイレすら使いない状況で、一泊で退院でした。

さらに病院の入り口には
「原子力発電所の方から来た方は放射能汚染の可能性があるため
しかるべき場所で測定して場合によっては除染してから立ち入れ」
的な張り紙が…

これって医療機関なのに風評被害を助長してるよな〜、と
感じつつも、自分の持つ母子手帳の市町村名が周囲の人に
見られないように微妙に気をつかいました。

318 :
結局水道が使えるようになったのが
出産後1週間近く経ってからだったので
その間赤ちゃんは産湯にも入れられず体をお湯で拭くだけでしたが
かぶれたりすることもなく、元気に育ってくれました。

その後双葉郡の家には戻れず、一時帰宅もR飲み子がいるからと
夫にだけ行ってもらったのでかなり気になっています…

何よりも連絡先を聞いていなくて散り散りになってしまった人が
たくさんいるのが辛い。。。

319 :
まいね

320 :
まいね

321 :
まいね

322 :
まいね

323 :
まいね

324 :
まいね

325 :
西暦が4で割り切れれば閏年、
しかし、100で割り切れれば平年、さらに400で割り切れれば閏年、、なそうで今年は1日儲かりました。

>>315
気になることがあると落ち着かなく深刻な事を考えてしまう、
のは誰も同じじゃないでしょうか。
うーーん、行動に移した、、、結果なのね。

>>316-318
不自由な状況での出産、、過敏にならざるを得ぬ変化の中で、、
無事の出産、おめでとう!

病院とはいえ独立ライフラインを設けてない所、ほとんど機能しなかったのでは?

住所のことまで気を遣ったんですね。

>>319
日本列島の形成を帰納すればどこでも起きますね。

>>322-324
先がわかってるのに作付けしなければならない、という現実ですか?
後手々々に回る役人かな。

326 :
ここに書くと特定されるから詳しくは書きませんが。

出来ることはいままでにないほどしました。
直後から自負できるほど体に負担かけて。

けど、妥協なくお互いに思いあ
う関係になるのは、
そういった努力だけじゃないんですよ。

ただ、震災後にあった際に約束した、精一杯生きる事、一生忘れません

327 :
まいね

328 :
地震発生時、パRをしていて、大当たりが四回の確変当たり中に外に避難した。

戻ってきたら大当たりが六回になっていたorz

329 :
>>328
三陸はるか沖地震の時は、それで(ほぼ唯一の)死人が出たから…
パR屋の構造とか考えても、地震の時は逃げるのが一番ですぜ

330 :
@仙台市宮城野区
読んで、当日の記憶があるうちにまとめようとおもいました。

11日当日。次の日からの会社の50周年の式典のため、東京に行く予定。
出張で、何の準備もしてなかったし、それようにネットで買ったスーツケースも届いている予定だったので、昼には切り上げて家に向う。
2時40分頃家に帰ると、佐川の不在伝票が何枚か入っていて、電話をかける。
佐川のドライバーと話し出したら、急に揺れ出して、最初は立ってられる位だったが、とんでもない縦揺れに。とっさに片手でテレビを押さえ、佐川に掛け直します!と伝え、電話を切る。
テレビもついていて、地震です、津波がどうのこうのと言っていた気もするが、停電になり何も聞こえなくなる。
その間もパソコン、プリンター、棚、キッキンがガラガラと全て倒れ、ただただテレビを押さえながら見ているだけだった。
揺れが収まり、外を見ると何人かが道路に出ていた。向かいにある瓦屋根の家の瓦が崩れていた。
まず盛岡に里帰りしている妻に電話をと思い、携帯を探す。足の踏み場がなくなった床から携帯を見つけ電話するも繋がらず。メールも何もダメ。
その時はこんな大事になるとは思わず、このぐちゃぐちゃな部屋で明日の準備するの大変だな。
新幹線動くのかな?
位にしか思ってなかった。
取り敢えず、電話繋がらないから会社に行くかと思い、ブレーカー落として会社に。向かう途中で、家が崩れていたり、道に穴が空いてたりした。45号に出る交差点の信号がついてなかったので迂回。
会社に着くと、事務さんが1人で車に乗ってナビのテレビを観ていた。
津波がきてるらしいと聞く。
事務さんと二人で会社に入ると社内は停電で薄暗く、棚が倒れ、ストーブ上のタライが落ち水浸し。
セコムのピーピーという音だけが聞こえる。
何から手をつければいいか分からず、唖然。

331 :
事務さんの車に乗り、テレビを見ていた。太平洋側は津波警報で真っ赤。
荒浜で津波というアナウンサー。
何分一緒にいたかわからないが、事務さんも家が心配だからと松島に帰宅。1人になる。
待てば誰か来るだろうと、車で待つことに。疲れていたので少し寝たり、電気ついたか確認しに家に帰ったりする。お腹も空いたので、食糧確保しようと空いているお店を探す。近くのファミマに人が並んでいたので、車を停め列に並ぶ。もちろん電気はついてない。たまにつく非常用?防犯用の電気と、おそらく強盗が入った時用の赤色灯が回っていた。
20分位並んだか。中には弁当などはほぼ無く、お菓子やカロリーメイト、コーヒー、飲み物を買う。
3000円位か。これで数日はしのげると思った。当日はコンビニもほぼ閉まっていた。電卓叩きながら計算していた。
ありがたかった。
公衆電話で妻にかけるも繋がらない。矢巾の実家もダメ。盛岡も停電だったと後で知る。
会社に行くも誰も帰って来た様子はない。
少し時差はあるがメールが送受信出来るようになり、連絡が取れた。妻、矢巾の実家みんな無事とわかり一安心。
その後、21時位か。後輩が石巻から帰ってきた。流れてくる大木を車で避けながら危機一髪だった模様。
会社内に入って中をみる。
車の中でさっき買ったお菓子とジュースを分ける。
先輩が郡山から帰って来る。ひたすら四号線で8時間かかったとのこと。会社に非常用の乾パンと、水があるということでそれを分ける。
その夜は後輩の家にお世話になる事。もちろん停電。夜は寒かった。
朝ゆっくり起きて家に帰る。
家に帰るも電気はダメ。昨日出た水も出なくなっていた。取り敢えず布団に入り寝直す。携帯は圏外。
起きてカメラを持って会社へ。誰か来た様子はない。屋根に登ってみる。仙台港の方から何かが燃えている火が見える。写真を撮る。仙台港のアウトレット方面に行ってみると、産業道路は段差がひどく、徐行でなければ通れない。アウトレットは流された車がいっぱい。2m位の木の上に車がある。写真を撮るのをためらうがシャッターを押す。多賀城市方面に向かうが、片側二車線を行き交う状況。道路は泥でひどい。先に行くと、バスやトラックが横転し先に行けない。引き返す。
家には居たくなかったので、近くの公衆電話が近くにある駐車場で待機。数十分に一度電話をかけにいくが、一向に繋がらない。
そのうち夜になる。辺りは真っ暗。前の家には少し明かりが。ロウソクか、懐中電灯か。
孤独すぎて淋しくなる。

332 :
仙台駅の方面に行ってみる。駅前は電気がついている。携帯を見ると電波がある。仙台港付近がはいらなかった模様。
妻に電話し、盛岡に帰る旨伝える。盛岡に向けて出発する。
23時位だった記憶。
四号線は以外にスムーズ。というか車はいない。道路は所々ひどい。
信号ついている所もあれば、ついてない所もあった。ほぼノーストップで向かう。
朝方矢巾の実家に着く。5時頃か。
両親起きていて、電気がついている。久々の灯りと、あったかいコタツ。あったかいおにぎりとお茶、味噌汁がとても美味しかった。矢巾まで来たことを妻に伝え、少し休む。
仙台に戻るにもガソリンが無く帰れない。盛岡の営業所に自転車で通勤。
ガソリンは辛かった。ボアコート着込み、夜が明ける前から何回並んだか。
当日は辛かったが、今思えば自分なんていい方だ。
自宅の隣りと、会社の隣りは仮設住宅になった。毎日見る光景だ。
仮設が無くなれば忘れるわけではないが、
家が失くなり、家族が亡くなった人もいるだろう。
忘れてはいけない。

333 :
まいね

334 :
まいね

335 :
まいね

336 :
まいね

337 :
まいね

338 :
>>326
続きを書いてもらってなんとなくわかりました。
326さんの想いが届いててよかった。
どういう形になったせよ、また会える。

>>327
29日は息子さんの誕生日でしたか。
4年ぶんのプレゼントを要求されたのでは?

>>328-329
停電にならなかったの?
当日の景品交換は無事できたのかな、と思いました。

>>330-332
地震のあった日は一人でいられない感じでした。
330さんは奥さんに電話したり、職場の人と連絡とろうとしたり、、
実家の親御さんは有り難いですね。
刻々と書いている内側に330さんが見えてきます。

339 :
まいね

340 :
ひたすらに
戻らぬ一人
待つ家族
おかずは今日も

五人分つくるよ

341 :
まいね

342 :
まいね

343 :
まいね

344 :
>>339-340,343
後妻の倅さんかなと思ったりしたけど、成人式された息子さんでしたか。
340の字余り川柳、、、今もそうしてる家あると、、、。


3.11には各自治体・団体等で追悼式が行われます。
(309さんが紹介しています。 >>309

私自身、自分が行動したある時間帯に記憶がなくなっていたりしますが、
あの時の気持ちを思い出したり、これからこうやってみようとか、、、
そういう一週間にします。

345 :
@岩手

津波で職場も家も流され父親も犠牲になって亡くなった。
バカ正直に相続手続きしたら義援金や生活支援金はもちろん自分の預金もほとんど国にとられて文無し。
相続した土地も行政から暗黙の建築制限かけられて使えず仕事もはじめられない。
年末には止まってた住民税の請求書…。
どう考えても被災者喰いものにしてるとしか思えない。
申告の延期とか頼んだけど税務署は一切聞く耳もたずに納付しろ!の一点張り。
相続手続きとか放置してる人多いと思うけどやるとバカみるぞ!

346 :
まいね

347 :
まいね

348 :
あと1週間で、1年。早いものですね。

私と母、兄は、もう少しで出かけようと準備をしていました。
その時に地震が来ました。
母は、ドアが閉まらないように踏ん張っていました。
私は、少し障害のある兄を守ろうとテーブルの下に一緒入りました。
周りは全く見えませんでした。どのくらい揺れていたかもわかりませんでした。
夜は、何回も余震が来る上家の中も整理できなかったので
車の中で過ごしました。夜の星は綺麗で、私たちを励ましているようでした。
津波の被害を知ったのは数日後新聞ででした。
載っていた写真は非現実的すぎて、全く信じられなかった。

地震のエネルギーを電気等のエネルギーに変換できる装置ができたらいいなぁ

349 :
>>348
原発の事故を知ったのも数日後のその新聞でですか?

350 :
>>345
先祖代々の土地(や資産)を子孫に残す、、至難の業と聞いています。
地目や評価額は震災前と同じなんでしょうか?
ばら撒きのあとにきちんと回収されますからね。

>>348-349
地震を1週間とか1ヶ月の範囲で予知できるようになればいいですね。
震源地が特定できれば、エネルギー変換も夢でなくなるような、、、。

3日目に電気が復旧した時映像見れたのですが、原発事故に注目したのは2、3日あとです。
(自分の場合)

351 :
まいね

352 :
まいね

353 :
まいね

354 :
まいね

355 :
>>351-354
震災後の税に関する話題は、大震災スレで語ってください。
これの元となった書き込みは「本人の体験」だと思いますので残します。
体験、それに対する感情は人それぞれ、十人十色っすよ。

356 :
まいね

357 :
まいね

358 :
まいね

359 :
親友の屍なれば 寧に 髪刈りやりぬ 理容師吾は

んだが?
一年だが?早ぇ〜なや

360 :
まいね

361 :
>>ALL
え〜〜と、このスレが一足先に"春"なので一言申し上げます。

>>1をよ〜〜〜く理解して書き込みください。


また、このスレッドは特別な方針で管理しております。

http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1311125296/358

まもなく、1周年ですなー。

362 :
まいね

363 :
まいね

364 :
>>359
前九年の役の正史・陸奥話記になぜかこんな話が記録されてます。

やっと京に入るというので、貞任の首を担いてきた者が顔や髪を洗った。
将校に「髪が乱れてるのでどうぞ櫛をお貸しください」と願ったが憮然とされる、、。
担夫は自分の櫛で髪をけずりながらつぶやいた。
「天日のごとく仰いでいた主君の髪を、私如き者の汚い櫛でけずるとは、、、」
とりまいていた群衆は思わずもらい泣きしたという。

>>360
うん、最初の2行に賛同します。

365 :
まいね

366 :
まいね

367 :
>>364
貞任を持ち出すか

貞任のときと同じように東北は
>>360の最初の2行にあるようなどうしようもない無念さを抱えている
なんて、東北以外の人は分からんよw

今度も我慢するんだね・・・今度も・・・

368 :
311の14時半ごろミヤネ屋を見ながらカップラーメンを食べていて手が滑ってカップを落としてしまった。
汚れた服を洗濯機に入れて回して、RとTシャツ状態で床掃除をしている時に揺れが始まった。
震度2程度のいつもの地震と思っていたが1分程しても収まらず、緊急地震速報は出ていないが異様な感じがしたので、
東海地震がついに来たかと思い家を出て駐車場に移動した。
その後だんだんと揺れが強くなり5分経過したあたりで大きな地鳴りとともに足下をすくわれるような揺れが30秒程続き、
立てかけてある物がバタバタ倒れた。
その後揺れは小さくなったが3分程待っても収まらず、しょうがないので家の中に戻ったらいろいろ倒れていた。
10分以上しても揺れは収まらなかったが大きくはないので倒れた物を戻し始めた。
するとまた強くなって来たので今度は庭に出た。再度足下がすくわれえるような揺れになった。
すこし揺れが小さくなったので家の中に戻り、そっぽを向いていた付けっぱなしのテレビを戻して見ると、
宮古の今まで見た事も無い映像が映り、うぎゃ〜と何度も言ったと思う。
ちなみに洗濯機は地震の最中回り続け、気が付いたら完了していたので、余震が頻繁にある中外に干した。

369 :
まいね

370 :
>>369
ここに書き込まないこと。
自治スレなどにどぞ。

371 :
>>368
千葉は何気に大地震の重なる地域だから大変そうだなぁ
東北の被害が大きすぎたから報道少なかったが、ライフラインの復旧も
相当遅れたと聞いたんだ
俺もミヤネ屋見てたが、ピークの揺れと共に電源切れてそれっきりだw

372 :
まいね

373 :

泉区在住です、ハッキリ言って何も出来ませんでした。
しかしまぁ、取りあえず翌々日
チャリで近くのホームセンターに行きガスのカセット3pを20個確保しました。ムサシが営業していたのです。あと、一番大きいヤカン。事情を話して購入しました。
自分、床屋なんでコレさえあれば仕事はできます。
それで最低限の仕事道具持って何回か避難所行って、頭刈って・・・
責めて、責めてこの人達のアタマだけでも気持ち良くサッパリと・・・

皆さんに喜ばれたけれど


ハッキリ言って

自分、使えるのは鋏と櫛と剃刀だけだ

自衛隊の人たちはすごかった。なんでも出来る
突然泣きわめく人とかモノ投げる人とかに
しっかりと対応してた、

かと思えば翌々日は公園でコンサートしてた。
星条旗よ永遠なれ・・・
なんでなのかはワカランが。

霙落つ
水面は腰の
上なるも
レスキュー健児は
少女抱ぐる

すごい人達です

374 :
まいね

375 :
>>373
本当にありがとう

 仙台・石巻に妻の身内が@都民より

376 :
今年も高校入試の日に地震あったな

377 :
>>368,371
あれ程の揺れだから家の中には居られなかった、、、。
温かい格好して外に出たのか気になりました。

停電は免れたのか、と思ったらその後切れたのですね。

>>373
ガスのカセット3pは普段300円、あの時は600円位だったと思う。
被災地へ向かったんですね。
私から見れば、一人で最初から仕上げまでする床屋さんを頼もしく思います。

378 :
仙台駅が結構内陸にあったのが幸いだったね。仙台駅まで津波来たら犠牲者は凄まじい数になったよな。
仙台駅で被災したけど周りの人は冷静だった。昭和53年の地震とか今まで大きな地震を何回も経験してるから耐性ついてるんだな。

379 :
まいね

380 :
まいね

381 :
まいね

382 :
今回の津波で、神奈川と静岡はかなりショックですよ。
津波はみんなで噂でしかなったし、話すと変な人?に思われかねなかったし。
鎌倉の大仏の所まで津波が来るなんて聞いても単なる噂にしか思わなかった。
小田原城も崩れ落ちたなんて半信半疑。

鎌倉の長谷寺にある無数の地蔵の意味がわかった気がします。

383 :
>>380-381

ここは体験を淡々と語るスレでなんだから。
↓で存分にどうぞ。

東北大震災スレッド11
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/l50

スレチと判断した書き込みはもれなくまいねしますよ。

384 :
あの日と同じ金曜日(´・ω・`)
会社では黙祷もしました(´・ω・`)

目を瞑っている間に、あの揺れが目に浮かんできました。・゜・(ノД`)・゜・。

385 :
まいね

386 :
まいね

387 :
>>386
大震災スレへ転載した。

388 :
まいね

389 :
まいね

390 :
大震災で逝った方々は、去年の今日まで生きて居ました、そう思うと胃が痛い。・゜・(ノД`)・゜・。

391 :
(今夜から)明日1日は今までにはない特別の日に思えてくる。

392 :
自分、
あの頃の様に、今
ガソリン大切に使ってるだろうか・・・勿体なく思っているだろうか
お米一粒水言一滴
有り難く思っているだろうか???
バスの中でお年寄りやマタニティさんを思いやっているんだろうか???
全ての物事に
あの頃ほど、感謝出来てるんだろうか?

そんな思いが込み上げます

393 :
1年前の今日、家族揃って食べた最後の夕食。
1年前の今日、当たり前に入っていた我が家のお風呂
1年前の今日、コーヒー飲みながら見たテレビ
1年前の今日、最後の『おやすみなさい』を交わした祖父母や父
1年前には当たり前にあった先祖代々の我が家はありません。
1年前には元気だった祖父母や父はいません。
1年前には当たり前にあった生まれ育った街はありません。
でも、祖父母も父も家も街も私や母や弟たちの頭の中には一生存在します。
天国から見ていて下さい。
これから新しい街、新しい我が家を作ります。

394 :
>>393

(つд`)

395 :
>>393

そか。

396 :
そか・・・うん
なんにも言えんでごめんな

397 :
あの日は、確か会社から16時頃帰宅してアパートのほかの
部屋の人と一緒に隣の空き地に車を止めて、ひとまず一晩
過ごす事に(結局3日間過ごした)。
カーラジオ聞きながらとにかく何が起きたのかだけを把握しようと
していた自分に「悲しみ」などといった感情は無かった。
それを一気に湧き上がらせたのが、NHKの相馬宏男アナ(たぶん・・)。
「武田さん(東京は武田真一アナ)。アナウンサーとしてこういう
ときにこそ取り乱してはいけないんですが・・・、宮城の
海沿いは・・本当に温かい人たちで、魚もおいしくって・・・本当に
いいところなんですよ。それなのに・・・何で・・・こんなことに・・・(泣)」
のコメントを聞いて、初めてとんでもなく悲しい現実を認識した。

今日の大崎市はあの日と同じ曇りのち雪。
特に予定もないので自室で静かに黙祷をささげます。
(いくら黙祷しても足りないよね・・)

398 :
一年経つけれど、こういう時って、
気負ったほうがいいのか、気負わないほうがいいのか、わからなくなるよね。


@東京
東京という街には、東北の関係の人が結構多く住んでいるのですよ。

状況の断片はTVで見えてた。
携帯は都内同士でもなかなか繋がらない。携帯端末でのメールも。
幸いにしてTVやラジオ、wwwは生きている。一方的に情報が流れてくる。
だからって、
福島以北、特に被災地には連絡が取れない。
そりゃそうだ。現地のインフラが停止してるんだから。
「連絡が取れない」
一昔前なら当たり前のことなのに、
現代では慣れっこになっていた通信連絡手段の利便性が全部停止。
じゃあ直接行く、と思っても鉄路も道路もアウト。
というか直後って「人」を増やしていい段階じゃない。
電話をリダイヤルしたり、メールを打ちまくったとしても、
それが逆に、インフラの回復の妨害になる。
ただ、想うしかない。

TVで呆然と、というよりもはや漠然と津波の映像を見送り、
夕方、都内は街灯が間引かれて灯り薄暗く、人々は歩いて帰宅。
帰宅の人の”大群”は終わりが見えない。本当にどこまでもどこまでも続いている。
みんなそれでも、家を目指している。我が家、を。
余震続く中だから外出も控えている。
トラックに頼り、無駄という名前のストックを持たない効率的な近代物流は、
だから余剰商品が無くなって、おまけにガソリン不足。商品棚から一瞬で品物が消えた。
買い占め?それもあったろうけど、「効率的なロジスティック」の副作用だと思う。

それでも犬の散歩には行かなきゃいけない。日常を回せ、と言われているように。
歩きながら想う。
あの町の知り合いの家は、多分海の底だ。
別の人は少し内陸部だけど医療関係だから、今頃大変だ。
あの時旅した町は、もうないのだ。
ひとつひとつ思いながら公園に向かう途中、知り合いに遭った。
数人で、急いでいた。
「行くのですか?」と問うた。「はい」と答えた。
この人は、自衛隊員。多分、周りの人たちも。
自分はなんと言って送り出していいやらわからないので「戸締りはしてきた?」なんて聞いてみた。
後顧の憂いを持つな。ちゃんと無事に帰って来てよ、という意味だったんだけど、
全員が略敬礼で応えてくれた。
無力な私と犬は、知り合いの高齢独居世帯を数件回って、帰宅した。
お話するだけなんだけど。それしかできないんで。

数日後に医療関係の知り合いとは連絡がついた。
入院患者が多いのに病院半壊&食料と医療用の酸素が尽きる、本当にヤバい、とのことだった。
あまり公言できないコネルートを使ってねじ込んでみたら、物資が翌日届いたそうな。
これをしかし、やっていいことだったのか?今でも自分を責めている。
放置すれば平均的に、平等に届いたかもしれないのじゃない?
それを少し曲げたことになるから。
さらにこの一件だけじゃなく、他にも沢山やったことがある。
でもそれらが、実はなにかの足手まといになってはしなかったか?という疑念。
現在の自分が悩んでいること。


それから数日後、やはり犬の散歩中に、犬飼いの知り合いに逢った。
この方は”とても美しい男性”なのだけれど、芯のしっかりした医療関係の人。
だから、当たり前のように「一旦?」と聞いたらその通り、
「はい、行ってきました。一旦帰還です」と。
石巻赤十字病院に派遣され、でも建物内でやってられるような状況じゃなく、
建物外の野戦病院みたいなブースで医療活動したと。そもそも実家も津波被災の町だと。
あれ、じゃあその間、あなたの犬はどうしてたん?と聞けば、
やはり公園の犬の知り合いの、
強面だわ喧嘩っ早いわTATOOは入ってるし、しかしとんでもなく気のいい兄ちゃんが、毎日面倒見てくれてた、と。
もう一回は多分行く、と言っていたので、多分また例の兄ちゃんが面倒見てくれたのだろう。

吉田茂じゃないけれど、なにもないほうがいいに決まってる。
でも仮定として、次に何かが起きた時、
自衛隊員でも医療関係者でもない自分は、じゃあどうしたらいいんだろう、
ということを具体的に考えられずにいる。
一年経って決まらない。


追記:直後に、長野県栄村であった6クラスの地震も忘れないであげてね。

399 :
397さんと同じだ。私もそのラジオを聴いていた。初めてnhkのアナウンサーが泣いたのを聴いて 眠れなくなったな…。

400 :
>>349
遅レスすみません。
新聞には津波の写真が大きく載っていて、原発の写真はなかった気がします。
原発の事を知ったのは電気がやっと通った、地震発生の10日後、テレビでです。
(携帯が使えなかったので、それまでに来ていた原発関連のチェーンメール等は見られませんでした。)

401 :
閖上の魚が…と言って泣いていたのは杉尾アナだよ
相馬さんも泣いたみたいだけど

402 :
>>397
関東から地元の様子を知りたくてラジオを聞いていました。私が初めて相馬さんの声を聞いた時は普通にお話されていましたが、変わらぬお声にものすごくほっとしました。

403 :
まいね

404 :
@福島 いわき
最初、学校に居た
グラウンドに避難したら、ちょうどサッカーチームが練習試合してて
余所から来たチームを運んできた大型バスがゆっさゆっさ揺れてたのが印象的

その日はコンビニのアルバイトのシフト入ってて
家に帰る前に寄ったら、酒の棚が酷いことになってた
酒の匂いが酷くて、酒好きの俺でも吐きそうになった
ある程度片づけを手伝った後、アパートに戻る。
アパートは全くの無事だった

午後15時半に勤務開始
カップ麺、弁当、お菓子、飲料水…全部消えた
バックヤードに置いてあるのも全部出したが、全部売れた
それでもやってくる客
午後10時ごろに停電。それでも客は来る。
愚民共め…もう売るもんねーよ、近くのマルト(スーパー)に行けって…と思いながら、停電の中ライトを頼りに客の持ってきた商品の値を
陳列棚でいちいち確認して、手書きの領収書を作る。
午前2時。やっと勤務終了。

アパートに帰ってクタクタになりながら、ラジオを付けネットを開く
つべで初めて見た震災の現状は…気仙沼が燃える映像、何も言えなかった…
電話も通じないメールも送れない。実家の家族とも連絡は取れない。
しかもネットで調べていくうちに「原発がヤバい」との情報が
だが、三時回ったところで体力限界。就寝。

405 :
朝起きたら反射式ストーブは良いとして家族はtvを見てる、、
自分はこうしてpcを起動、、、電気を使わない一日城は簡単に落ちた。
(継続中の人はいるだろうね)

早い昼飯にして、午後から拝んできます。

406 :
千葉県在住ですが父と親戚が宮城県福島県に住んでいます。3月11日私は職場である保育園にいました。全く状況がわからない私達が知ったのはワンセグでみた東北の被害の現状。
津波で流される街を見て頭が真っ白になりました。
全く連絡とれない親族の安否が不安になりながらもテレビで流れる映像は岩手県宮城県福島県の被害の現状でしたが衝撃的で見ていられなかった。
しばらくして親族と連絡がとれ宮城県に住む親戚が一人津波の犠牲になってしまったけど後はみんな無事だった。
連絡とれたと思ったら千葉の工場が爆発した件(家が近いため)や液状化の心配をすごくする親戚や父親。
千葉に住む私達が励まされた。
その後、東北のために何か小さな事でもできないか回りと一つになって考え出来る事はやりました。
まだまだ大変な状況が続いていると思いますが、みんな応援しています。
本当に東北の方々の強さにかなりパワーをもらいました。
これからも日本国民として東北の復興に向けて力になっていきたいと思います。
関東在住なのに失礼しました…

407 :
>>406
いえいえ。

>〜父と親戚が宮城県福島県に住んでいます。
こういうのがないと、どこか他人事のように思う部分ってあると思うんですよ。

1年経った今でも、そのように想いを寄せていただけるだけでも
心強く思いますよ。

408 :
まいね

409 :
まいね

410 :
まいね

411 :
まいね

412 :
まいね

413 :
まいね

414 :
今日の2:46たまたま仙台駅前の商店街にいました。
突然時報がなって、黙祷
1分ぐらいやるのかと思いきや、10秒ぐらい?で終わりでした。
意外とあっさりした印象。

415 :
今日で震災から一周年か…。黙祷。

416 :
まいね

417 :
まいね

418 :
まいね

419 :
まいね

420 :
まいね

421 :
まいね

422 :
まいね

423 :
>>420
削除基準は示されてないけど、このスレの成立経緯や>>1、そしてスレタイを一読されることをお勧めいたします

424 :
まいね

425 :
昨日の追悼式によって一区切りついた、と一部報道解説がみられるが、
なおも避難生活している34万以上の人達には、
ここまでが長かったのか短かったのか、、など考えられない心境の人がたくさんいる。

ガレキについても同じ。
何倍ものコストがかかる遠方への処理期待よりも、近くに限りなく処理場を造ったほうがいい。
(その支援は喜んで受けるし、一時的にも雇用が増え、10年も使えば償却できる)

とりあえず昨日の感想でした。

426 :
まいね

427 :
まいね

428 :
まいね

429 :
まいね

430 :
まいね

431 :
まいね

432 :
まいね

433 :
関東民もいいのか@茨城
震災時、矢祭町のそば(大子)にいた。
長い揺れ・台所の母を呼ぶ自分、ドアを開ける父。
すぐ停電した。情報が全くなく、電話もダメ。
2chが頼りになった。

近所のばーちゃんが兄貴(看護士)に助けを求めてきて、
救急車も呼べず急遽車で矢祭町の病院へ。
矢祭がライフライン無事であることを知り、驚き。
大子はしばらくライフラインダメな状況が続き、
矢祭や塙町の温泉施設でお風呂入ったりしてた。

自分はその後水戸まで帰るが、TVの情報は東北しかなく
やはりネットに頼るしかなかった。
スーパー行っても物無くて、支援物資のトラックが
東北方面に向かうのを悲しく見てた。
東北の方が大変のは仕方ないけど、少しだけこちらに分けてくれと。
震災から一年経つけど、茨城の被害って「ないこと」にされてる。
東北の皆さんの復興は願うけど、本当に困ってる人には支援をして欲しい。
こちらは「関東だから」という理由で、支援が受けられない方が沢山いる。

434 :
まいね

435 :
ちなみに自分はその後、住んでいたところがダメになり
引越しました。
矢祭の方には、沢山助けてもらった。ありがとう。

436 :
あの日、福島市のサティ(現イオン)の屋上駐車場で遅い昼食を営業車の中で取っていました。次の納品まで時間があるので少し仮眠を取ろうとシートを倒した時に携帯からあの音が。
この着信音は誰だっけ?と寝ぼけていると下から突き上げる様な揺れが来ました。窓ガラスに何回かアタマを打ちつけられてるうちに我に帰りましたが、ハンドルを握って体を支えなければ空間感覚を失ってしまいかねない程の揺られ方でした。
クルマの中で5分程シェイクされてパニックに陥りかけましたが、揺れが収まって1番に考えたのは次の納品でした。辺りを見回すと区画内に整然と並んでいたクルマ達は各々あちこちを向いており、揺れの激しさを実感しました。サティの内部からは報知器のサイレンと合成された声で火災発生を知らせるアナウンスが繰り返されており、この場所からの退避の必要性を知りました。屋上駐車場から西道路に出ると信号は消えており渋滞が始まっていました。納品先に着くと(病院です)激しい吹雪の中で入院患者が屋外避難しており、寒さに震えていました。自分の納品が無意味な事を知り、違う病院に向かいました。そこでは既に患者避難が終了しており空になった院内でテレビを見て津波の被害をリアルタイムで見ていました。

あの震災から1年

被害に遭われた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

437 :
去年の今頃はまだTVはぽぽぽぽーんばっかだったんだな…。

438 :
>>436
車で移動したのですか?

439 :
>>438
横レス。
福島市内は主要道路(R4、R13)が渋滞していた位で、抜け道等は普通に通行出来た。(瓦を踏みながら)

440 :
まいね

441 :
まいね

442 :
まいね

443 :
まいね

444 :
如何すれば良いんだろう
救援で行ったアメリカ兵が居るのだが・・・フラッシュバックが酷くて。
「自分は”スーパーマン”だ」と出て行って、ぼろぼろで帰ってきやがった。
 ”敵の死体はなんとも思わないけど、味方の遺体(特に子供)は耐えられ無い”と

こんな愛すべき馬鹿野郎に如何接すれば良いのだろうか。

445 :
その兵隊さんは最善のことをしてくれたのだからもう辛く思わないで欲しい。どうもありがとう、本当にありがとう。

446 :
まいね

447 :
>>439
いや、停電中に出庫できたのか聴きたかったんです。

448 :
>>447
サティ屋上からはゲートが無いので
停電は関係無かったです
ちなみに吹雪の中で稲荷神社の横の駐車場に停めた時はゲートは開放されており
チケットも出てこなかったので一時的な駐車は可能でした

449 :
まいね

450 :
まいね

451 :
まいね

452 :
1 @仙台市若林区 <実家でもある職場で>

前回の宮城県沖前の建物だから「次のが来たら、OUTかなぁ」と
普段の地震でも、あわてずに外に出るのが習慣。

印象深い事は、揺れてる時間の長さと
アスファルトの「下」の地面が体感できたこと。
立っていられないから、かなり広めの足幅だったけど
右足と左足の高さが違く、波打ってるのが分かった。

外に出ていない近隣住民の安否だけ確認し
(大声で呼びかけ、返事がないと「入るよぉ!」って勝手に中に…
ゴチャゴチャになってしまった部屋に、おジィちゃんが呆然としゃがみこんでた)
職場の片付けは両親に頼み、車で20分の息子の小学校へ

453 :
2

危惧していたバイパスの横断も、信号が消えているための大渋滞で
スムーズ(?)に渡れた。
運転中に、宮城野区(町寄り)が職場の妻に安否メール。

揺れはじめから、パニックにもならず、慌てもせず
冷静だと自己分析しながら行動していたが
ラジオやワンセグをつけるという事すら思いつかず
ひたすら「安全に、早く、息子の元へ」以外のことは考えられず
たぶん、脳が「この容量じゃぁ、これが限度」って他の思考を停止させてたのかな。
後から思うに、2〜3日の間、自ら情報を遠ざけてた。

454 :
3

実は4/7も怖かった。
3/11は、自分の身の安全だけでよかったが
あの時間は家族一緒にいて、妻と息子にすがられて
「皆を守らねば!」の緊張感の急激な上昇に、後からどっと疲れた。
激しく揺れるアラジン式ストーブにかけられたヤカンを下げる為
動こうとした妻を引き止めた直後、ヤカンが転落。
あれだけは正しい判断だったと、今でも思う。

455 :
4月7日の揺れは3月11日より酷かったように思います。
短時間の揺れだったけど被害は311より酷かったと感じます。
洗濯機の中ででぶんまわされたような揺れって感じでした・・・。
皆さんはどう感じられましたか?

456 :
3/11は船に乗ってゆっさゆっさと揺られているような感じ
4/7はもっと小刻みな激しい揺れ、三陸はるか沖地震の時と似た感じ
自分はそう感じましたが。
三陸はるか沖を経験した方は同じように感じたのではないでしょうか?
@岩手県北

457 :
>>455
宮城ですが同感です。
3月から一月かけて片付けた家具たちが、
デジャブのように同じ姿で倒れいくのがスローモーションみたいに見えて、揺れながら呆然と見つめてた。
揺れの中で、ああ〜もう福島原発はこれで終わったな…と絶望したのを鮮明に覚えてます。
やがて電気が消えて真っ暗になり、冷蔵庫から飛び出して飛び散ったシチューや落ちた電子レンジを踏み越えて外へ出ると、
同じく飛び出してきた近所の人で道路があふれ、コンビニとGSには早速行列が出来てました。
電気が復旧したのは翌日夜で、思ったより早かったけれど、
結局あれで止めをさされた形になって解体した家はすごく多かったですね。

458 :
まいね

459 :
>>448

447です。どうもありがとう。

460 :
>>458
こちらのスレッドへどうぞ。
 ↓
スレたてるまでもない質問・雑談・情報交換スレ《PART10》
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1310822072/l50

461 :
こんな世の中じゃどっちが天国なんだか・・・

462 :
まいね

463 :
…津軽はまだまだ寒さが厳しいんでしょうね。ご自愛下さいませ。

464 :
>>455
そう、ですねえぇぇ・・・

何もかもが不自由な中で、取りあえず最低限の生活が出来る様になったところで
もう一回、やられたんで

激しく、へこんだ。

465 :
私が住んでいるところは一回津波が来たところだったので
もう一度の津波警報、しかも真夜中で本当に怖かった。
うちはそれから一週間は電気が止まりました。
停電で夜中逃げるには、靴を揃えてぬぐとかとても大切だと思いました。
暗いところで靴を探していては時間がかかります。
そのあと家の観葉植物が急に枯れて磁場が変わったのではと感じました。

水もままならない電気もこないと米をガスのコンロで炊くので、テフロンの鍋は役に
たちました。あまりくっつく鍋だと水も大量に使うからです。

466 :
普通はそうでしょね
炊飯器に、計量したお米を入れて
メモリ通りに水を入れれば、で、スイッチ入れれば
お米が御飯になります。

アルマイトが、実は最強なんですよ
飯盒ならテフロンよりも
遥かに役立ちます
そのためだけに設計された先人の知恵なんです
あの形は

467 :
まいね

468 :
まいね

469 :
3月15日に仙台から青森まで4号を使って避難したんだけど
吹雪の中、荷物満載の自転車で北に向かって走る若い夫婦とか
カブのおじさんを見たなあ。
走っている車はほんとに少なくて、見事にエコカーばかり。
あとなぜか893さんが好む車が何台もかっとばしていった。

470 :
3月15日に仙台から青森まで4号を使って避難したんだけど
吹雪の中、荷物満載の自転車で北に向かって走る若い夫婦とか
カブのおじさんを見たなあ。
走っている車はほんとに少なくて、見事にエコカーばかり。
あとなぜかヤーさんが好む車が何台もかっとばしていった。

471 :
まいね

472 :
まいね

473 :
>>444
んん
んだな・・・
バカ野郎ども、

すごかったな素晴らしかったよな

474 :
去年の今ごろは、やっと物が普通に買えるようになったきたところ。

もう少し経ったころに、、修行僧らしき若い坊さんに遭った。
震災直後、日本橋から(沿岸沿いに?)青森の実家まで歩いたとい言う。
その小庵から岩手沿岸まで再び南下して、、、話した時はその帰りだった。

陸前高田の一本松のことをその時聞いた。
寝泊まりに使ったシェラフはジャンケン勝者にくれてきた、といった話を思い出す。

475 :
去年は多賀城のアパートまで泳いで帰った。
それからドラックストアに入っていく泥棒さんを、乾麺食いながら観察してたな。

476 :
まいね

477 :
まいね

478 :
まいね

479 :
まいね

480 :
ただ揺れるだけなのに風評被害ハンパねぇの西東北

481 :
忘れていましたが、、、別館にこちらと並行した画像版スレがあり、
何名様か投稿されています。

【MAHALO】 〜東日本大震災〜体験記録@東北別館 【ALOHA】
http://hidebbs.net/bbs/80?no=49707198&sw=t4&s=t

482 :
>>1
午後3時過ぎに起きた、
最大余震 茨城県沖・M7.9が起きた直後、
家を飛び出してしまい、
さらに、スマホを落して、パニくっていた。

483 :
@名取
古本屋で立ち読みしてら震災発生
奇跡的に自分がいたところは本が落ちてこず「妙に長い揺れだな」
と思って自転車で家に帰宅。
その途中で窓ガラス割れてるは小学生らしき子供は泣いてるはで、
「ただごとじゃない」と揺れの大きさに気づく。
帰宅した家は案の定物が散乱してたが家族は外出していた弟を除き家にいて無事だった。
家の片付けがある程度終わると非番であったがバイト先のコンビニへ制服と
小型ラジオを持って自転車をこきだした。
道路は信号が点灯しておらず渋滞してる旧四号線を渡りガラス破片に注意して、
30分程かけてバイト先に着いた。
着いた時には既に人だかりの山。
平日午後で人数がいないところに店の買い物カゴが無くなるほど人が入ってるのだから、
当番の人はレジ打ちに専念していてカゴを戻す時間もなかった。
そこでレジの対応をしてたオーナーに「制服持ってきたんで手伝いましょうか?」
と声をかけたら「頼む。商品補充が追いついてないからそれから」
とひたすら補充に専念してた。

484 :
補充は水をまとめ買いする客が多かったが、在庫が切れた順に、
2L、1.5L、..500mlと大容量から無くなったのを覚えてる。
ペットボトルの水を卸してる最中に本部のマネージャーと他のバイトのメンバーが着て、
カップ?やホッカイロを手分けして補充していった。
日没になり一旦閉めて私とマネージャー、オーナーが夜通し店で
待機することになり一旦家に帰って両親にその旨を伝えに行ったら、
唯一連絡の取れなかった弟が帰ってきていた。
懐中電灯持って又戻りラジオを聴きながら晩をしてると、次々と震災の規模が伝わり、
「これは阪神を越えるかもしれない」とオーナーが漏らした。
私の生家は石巻の門脇にあり、父の仕事の都合で名取の海岸から離れた場所に移り住んでいたのだが、
津波の怖さは石巻時代に叩き込まれていたので、生家と近所の知人の安否が心配になった。
その晩は仙台市街やもっと北から歩いてきた人へ「おにぎりやパンはありませんか?」
と声を「申し訳ございません。もう既に売り切れて何時入るか分からないんです。」
と一度断ることを何度もした。
ただ市街から岩沼の家まで帰ると言った年配の男性は「ずっと歩き通しで、食べ物では無く、
何でも良いから飲み物を」と言われ「どうします?飲み物なら水以外ならいくつか残ってますが・・」
と残る2人にお伺いを立てたら何とかジュースを売る許可を得れた。
次の日から残った品を日中売り、日没と共に一旦閉店するのを3日目まで続けた。

485 :
@気仙沼

誰も書きこんでないか?
停電して真っ暗のときに、海があったところが真っ赤だった。
あの時は知らなかったが、油が漏れてずっと燃えてたんだな…。
全く写真をとってなかったことに後悔してる。
今あの日に戻ったら、写真とりまくると思う。
あと、お母さんを絶対仕事に行かせない。

486 :
A県北部
停電のことしか頭になかった。
ラジオは電池切れで情報なし。
車のラジオを聞くことは考えもしなかった。
やっと思い出して聞いたラジオで「津波が・・・」
「2〜300人が海岸に・・・」って聞いても
山生まれの山育ちなもんでピンとこなかった。スマン。
翌日はプロパンガスでメシ炊いて食ったよ。
水道が無事で助かった。
電気復旧は翌日土曜22時ごろ。
津波の映像に愕然とした。

487 :
>>483
×割れてるは 泣いてるは
○割れてるわ 泣いてるわ

488 :
今、まさに目の前で津波が襲って屋根ごと家が流されてるというのに
ラジオでは「津波の来る恐れがあります。」とか連呼してた。
首都直下で起きてもこのくらいの時差というか
距離感があるかもしれません。

489 :
F空港で被災!
3Fにいたが、揺れが収まるまで柱につかまっていました。
空港職員は、誰も誘導しなかった。
それどころか、職員は外に避難。

それを、3Fからみていた。

危機管理能力0と、談判したが効果なし!

さすが、原発許可した知事が社長つとめるF空港w

490 :
去年の今頃は福島第一原発での復旧作業をしていた。
現在とは状況も違うので孫請け作業員でも金額は良かったけど正直行きたくはなかったな・・・。

会津若松から向かったが、磐越道はガタガタで途中の風景も地震の爪痕が生々しく残ってる
前線基地のJヴィレッジで装備を整え、検問の先は文字通りゴーストタウン
ガレキの山や見る度に緊張感が高まり、フクイチに到着した時にはもうお腹一杯w

フクイチ構内はゴジラの襲撃の後の様な容赦無い破壊だらけ
第一印象は「これ、本当に収束させられるの?無理だろ」だったな
免震重要棟に入り先発隊と会うが、みんな顔が疲労と悲壮が入り混じった顔で廊下に所狭しと座り込んでいる
現場の人間の表情で大方の進捗予測が付くが「こりゃダメだな」マジでそう思ってたが
先発隊と作業の打ち合わせをすると、意外にみんな元気で目が死んでない
「とにかくスピード勝負だからな」「車から降りたら移動は全部走るぞ」「コケたら置いてくからなw」
軽い笑いや冗談も出てるし先ほどの予測が間違いだったと思い直す。
ただ、連絡体制やら統率やらがメタメタで無駄に間誤付く事が多く
並みの突貫工事ではない事がわかる。

いよいよ個人線量計を渡され先発隊と東電の放射線管理員と一緒に作業箇所に向かう
車が原子炉建屋に近づくにつれ警告音の鳴る間隔が早まる
やることは理解してるし、シミュレーションもしてきた。
車を降りると全員小走りで走り出したw我々も雰囲気にのまれ走り出す
シミュレーションよりもかなり早いペースで資材を運び作業に取り掛かる
放管員がサーベィメータを片手に「ここは15分以内です」
作業箇所事にタイムリミットを告げられる
見たことも無い長いブームのコンクリート圧送車で放水されモクモクと蒸気を上げる建屋を尻目に
異常なハイペースで作業を進め、無我夢中過ぎて体を動かしている実感が無い不思議な感覚
作業を終え免震棟に帰り付いた時には先ほどの先発隊と同じ様に疲れきった表情で狭い廊下に座り込んでいたw

私自身は会社独自の放射線規定量を超えたのでもう行くことはないが、今でもあの頃の感覚は憶えている
何か化け物の元にでも向かうような何とも言い難い感覚と纏わり付くような恐怖感
こんな事は二度と体験したくないし、誰にも体験させたくないね。

491 :
ごくろうさん

492 :
>>490 本当にお疲れさまでした!

493 :
陸曹候補生として自衛官入隊が決まっていた息子だけど、
多賀城での教育が不可能だったため近江方面隊滋賀県に入隊していた
準備していた下着やジョギングシューズ、トレーニングウェアは津波被災地に差し入れしたあとだから
ろくな準備もしてあげれないまま
三月下旬、山形からバスで金沢抜けて、北陸線で京都いりという強行手段で送り出していた。

4月はじめ、入隊式をみたいがため、まだ混乱の仙台あとに夜行バスで京都へ。
本来観光客で賑わってる はずの桜満開の京都は原発の影響で閑古鳥鳴いてる状態。

総力あげて被災地復興のため公的交通機関の技術者、電車やバスのパーツも被災地へ送り届けてるので、ダイヤがみだれがちなの了承してみたいなアナウンスが流れてた。

寺社仏閣も被災地復興祈願祈祷をおおがかりで行っていたし、
賽銭も義援金になっているところも多数あった。

桜並木の色を映す美しい琵琶湖で行われた入隊式。
沢山の仲間が被災地で眠ることもままならぬまま活動し、命をかけている。命をおとしたものもいる。
滋賀県で教育に携わることに罪悪感もあったと語る班長さん。

見違えるようにキビキビ動き、かえって被災地にいる家族を心配している息子。
思う以上にみんな被災地を思ってくれていて、沢山の人の協力あっての今なんだなあと思う。

あんなに大勢で啜り泣くすごい式典最初で最後だろうな。

494 :
>>490
本当に本当にお疲れさまでした。

495 :
まいね

496 :
まいね

497 :
まいね

498 :
まいね

499 :
>>493
お子さんも素晴らしい陸曹に、きっと
なって下さるでしょう。

私は床屋なので、責めてもの奉仕と考え
避難所に通っては、みなさんのアタマを刈っていた昨年の今頃・・・
つくずく思いました。自分には、他に出来ることがない、何一つない

自衛隊、本当に凄かったです。
日々の重労働の他に、調理もする。湯気の立つ白いおにぎりは
一瞬にして皆を笑顔にしてしまった、魔法の様でした。
茫然とした、うつろな目の婆さんの背中に手を当てがい、ゆっくり、ゆっくりと話を聞いていく。

またある時は外で
コンサート・・・何故かは解らんのですが「星条旗よ永遠なれ」
ピッコロ隊の音色は今も、多分一生、耳に残ります。美しかった

500 :
ひとときは 神をも恨みし人々の
数多集へり 塩釜様元朝

501 :
>塩釜
どうして今"塩竃"になったのかわからない。

502 :
今さらかもしれませんが…岩手県北部なもんで、地震=津波、という感覚はなかったです。
宮古や久慈の親戚訪ねて、津波の現状や恐ろしさはわかってたつもりでした。(漁具を流された程度で人災はなかった)

ただ、会社をやめた方がその後大船渡にいて、一旦避難したがなんかを取りにまた海辺に行って行方不明、というのをついこの間聞きました。(そんなに親しくはなかったけど、知ってる人が死んだのかと思ったら泣けました。)
内陸の人間でも防災教育は大事なのかも、と感じましたよ。内陸の人間は地震=津波じゃないです。でもいつ何時どこで遭遇するかわからないから、普段の気持ちが大事なのかなぁと。

503 :
>>499さん

あの頃
理容、美容の方々のボランティアありがたかったよ

頭べたべただと病気になりそうだった(実際不健康らしい)
シャンプーやさっぱりカットでかなり元気でた

504 :
>>502
母の実家が宮城県の沿岸部です。
そちらでは代々漁師をしておりますが、それでも地震=津波の意識はそんなに高くなかったようで。
地震のあとも逃げることなく家の片付けを始めたとかで津波が来てから焦ったとのことでした。
意識の持ちようの部分もありますが、無事だったとはいえ代々漁師をした家の人間ですらこういうことがあるので、
内陸沿岸を問わず普段の意識は高く持っていなければなと、502さんの書き込みを見て思いました。

505 :
あのとき、全国の赤キャップ諸氏が東北板に終結したのを覚えているかい?
ある程度、非常時対応は考えてはいたのだけど、、、。

いざとなったとき、本当にありがたかった。


今だから、言おう。
去年の今頃、仕事上どうしてもアルカリ単1電池が20本必要だったんですよ。
でも、どこに行っても売っていない・・・・。

そんなおり、近畿板の管理人「近畿雀」さんがミミをそろえて20本用意してくれたんです。
まじ、うれしかったですわ。

「はたはた君φ」さんも、「これしか・・」といいつつも用意してくれました。
改めて、ありがとーです。

ちょっと、管理人間の絆を感じましたですよ。

506 :
あら、誤字ったな。
喘息のせいにしてちょ。

集結ね、集結。

507 :
初めて書き込みます

@宮城県大崎市
いずれ来ると言われていたけれど、地震に対して何の備えもない状態の被災はほんとに切羽詰まってた。

3月11日は夫が13日から長期出張があったため、岩手は花巻市実家に、夫帰宅後向かうはずだった。
少しの作り置きおかずと豚汁、ご飯。
それを残して空っぽだった冷蔵庫。それがのちに、後悔のもととなる。

地震がきた時は、2階寝室で子供達の寝かしつけをしていた。前日にも大きめの地震があったし、以前にも大きな地震は経験していたので「ああ、またか…」と、のんきに構えてたら、激しい揺れに立ち上がれず動揺してしまった。
「う、動かないで!」と、叫ぶのが精一杯で、床に伏せた身体はゆれのままに動く。生まれて初めて地震でいのちの危険を感じた。
揺れが収まったと同時に、階下和室に避難した。寒くて仕方なかったが、ふとんで子供らをくるんだらあったかさと安心からか、長男と次女は眠ってしまった。
長女は余震のたびに怯えていたので背中にくくりつけ、外に出たら雪が降っていた。

508 :
>>507 つづきです

前後して、子供達を避難させた直後外に出たら、隣家の給湯器が倒れて水が吹き上げていたので、慌てて伝えに走った。
その時、4号線を眺めたらものすごい渋滞。夫は帰ってこれるか、不安になる。
そのあと、子供達が眠り、あたりを見るために外に出た時、アスファルトに見慣れぬ亀裂が走っていた。

近所の人たちは、外に出て呆然としていて私も立ちすくんでしまっていた。
見知らぬかたに何度か声をかけてもらい、励まされて中に戻ったら長女も眠っていた。
その時にようやくラジオの存在を思い出し、リビングダイニングに。
キッチンは割れた食器が散乱していたが、思ったよりひどくはなかった。L字金具で固定してた棚も倒れずにいた。
ラジオを抱え、和室でスイッチを入れると津波10m超到達、と聞こえてきた。
夫の実家は海から近くはないが高い波が到達している状況に心配になった。

辺りが暗くなり始めた頃、夫が帰宅。裏道を使ったら渋滞には巻き込まれずに済んだようだった。
当然ながら停電して辺りは本当に暗く、我々は 結婚式に使った特大キャンドルを明かりにした。
夕食は、ほぼ空の冷蔵庫にあったひやご飯にお湯とケチャップをかけて娘たちに、菓子パンを長男に、大人は味付けが途中だった豚汁を食べた。
子供らがアレルギーがあり、かなり限定された食料もなくなってしまい、明日はどうなるのかわからず、体を寄せ合って眠りについた。

509 :
>>508 続きです

翌朝は5時に目が覚めた。
食べ物や情報を求めて、近くの公民館に夫がいくと、暖かなおにぎりを家族分もらって帰ってきた。うちは非常用の調理器がなくオール電化だったため、暖かい食事は本当に有難いものだった。海苔と塩のおにぎり、空腹だった子供達はあっという間に食べ切ってしまった。

公民館で得てきた情報は、
国道は混んでいて移動が難しいだろうという事と公民館の非常用貯水池が半分ダメになったということ、近所のコンビニは開いていたが多分もう品物はないだろうということ。

たくさんのアレルギーがあり、食べ物が限られた娘たちを考えるとここでこのまま避難生活は難しいと判断。北上して岩手に行くことに。
その旨を区長さんに伝え、残っていた塩や海苔、砂糖、米を渡し、「気をつけて」と送り出されて岩手へ向かう。

途中、動いている信号があったがほとんどが止まっていた。そのために4号線はほぼハイウエイ状態。信号が動かない場所では車が混雑、国道に入りにくい状態。道中、ガソリンスタンドでも混雑していた。
所々、アスファルトは盛り上がっていたり、酷いところは段差があったり。早々に補修もされた場所もあった。

ガソリンスタンド渋滞を除けば、予想より移動はスムースに思えた。
移動中、一関付近で高速と並走している箇所で何台も消防車が走っているのを見た。埼玉、千葉…たくさん。
ワンセグでは、気仙沼の火災や津波で水浸しの宮城沿岸の地域が映っていた。

岩手、水沢金ヶ崎あたりになると車が少なく感じられた。ガソリンスタンドやコンビニ、大型量販店には車や人は見たけれど宮城県県北より少ない感じだったのは片側二車線だったから?

実家には昼過ぎについた。
停電して暗かったけれど、田舎も田舎なので当面の米や野菜の蓄えはあって、ガスも電気とは別につないだガスコンロがあって調理は大丈夫だったという。
祖母が早速、暖かな味噌汁や作り置きのおかず、なぜか赤飯を作っていたので娘たちは大喜びで食べた。長男は、食べながら地震怖かった、と身振り手振りで祖母に話していた。

510 :
>>509 続きです。長々すみません。

実家では、弟たちの勤め先の話を聞いた。
上の弟の勤め先では、釣り上げていた材料が落ちてきたらしい。けが人はなく、電気が使えないうちは休業らしかった。
下の弟の勤め先は食品加工で、やはり電気がないと仕事ができないので、しばらく休業となった。
上の弟のお嫁さんは、勤め先から出たあとに職場の天井が落ちたといっていた。

妹は4月から仙台の専門学校に行くことになっていたが、この状況で読めなくなってしまっていた。

母は、揺れのあと、職場の冷蔵庫が止まったので残り材料すべてを炊き出しにして、その後は震災支援のくる人の炊き出しに加わっていた。

夫は、岩手について翌日、出張先に連絡を取るため、自宅に戻る。
祖母が赤飯をたくさん詰めたパック
を4つ、おにぎりにドリンク剤を20本持たせて送り出した。

***

先日、
実家に帰省したら赤飯を作って食べさせてくれた祖母。

食べた夫は「地震の時を思い出す」と、呟きながら食べていました。

あのあともいろいろとありましたが
3月11日12日のできごとは忘れられません。

p.s.
12日は親友の誕生でした。彼女も元気です。地震直後電話がつながった時、「明日、誕生日どころじゃないね」と、言っていたのが何故か頭に残ってます。

今年も祝い忘れててごめんなさい。

511 :
>>510
最後の一行ワロタ

512 :
まいね

513 :
ばあさんは
必至で、んんWWW
大切なおばあちゃんだな

514 :
作業現場を抱える職場にいた時に地震発生
ライフライン寸断で現場はあえなく停止するも
現場職員の懸命の復旧作業で1週間で部分再開
普段ダラダラしている現場職員が頼もしく見えた

一方で
普段から重度の精神疾患が疑われていた
事務方の管理職が暴走
現場復旧に関する職場の会議に一切参加せず
全て独断で勝手な行動を開始
上司の厳重な注意も黙殺し
混乱している職場に更なるマイナスの要素を撒き散らした
本人はこれで
自身は職場でただひとりの役立つ人間だと信じて疑わず行動
交通遮断の中苦労して職場に出てきた職員に対し
遊びに来る奴は邪魔だからとっとと帰れと延々と罵倒
ある意味地震以上の戦慄を覚えた
有事の備えというのは組織の人事にも当てはまると痛感した
それと
普段からおかしい人は決して有事に役立つことはなく
むしろ普段以上に狂うということも思い知らされた

515 :
ハロワにて地震遭遇
次は俺の番だと番号札持って座ってたら強い揺れ
机の下に潜れとの職員の言葉があったが机が無いので諦める
目の前で若い女が怯えていた
それを見ていた俺は半笑いしてたと思う
いまだに無職

516 :
まいね

517 :
まいね

518 :
高田マイヤの屋上にいたけど親子が流されてるのはきつかった

519 :
一生忘れられない光景だな

520 :
まいね

521 :
自衛隊の皆さんが救世主に見えた
実際そうだったけどね

522 :
自衛隊のジープに乗って大浴場へ行った。
助手の隊員さんが歌うたって踊ってくれて
車内を和ませてくれた。ありがとう

523 :
いやあひどかったなああのとき@大槌

524 :
まいね

525 :
まいね

526 :
まいね

527 :
まいね

528 :
まいね

529 :
>>514  同意

普段から真面目な人は、より真面目になったし、
普段からいい加減な人は、よりいい加減になった。

余震があるたび、連絡が取れなくなってサボってる奴いて困った。
こっちは安否確認出来なければ探しに行かないといけない。

530 :
まいね

531 :
遅いレスですが

>>213
> 訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
> 「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。

非難するような書き方になってた。ごめん。
そういうつもりはなかった。
逃げなかったのを責めるんじゃなくて、逃げてくれなくてくやしい、って気持ちなんだ。


友人が亡くなった後、友人が無事だった夢を見て
「俺はバカだなぁ、葬式なんかしちゃったよ!早くみんなに生きてたって知らせなきゃ!」
ってはしゃいで、目を覚ました後落ち込んだりしたもので。

馬鹿な夢を見た。
けど、夢を見られるだけ幸せなのかも、と思ったりもする。

532 :
間違えました。
531は>>230へのレスです。

533 :
>友人が亡くなった後、友人が無事だった夢を見て
同じような夢を何度か見たよ。
うなされて「早く逃げろっ!」って叫んで目が醒めるんだわ。
震災から一年、無意識に気持ちを精一杯張り詰めて耐えてきたらしい。。心が疲れてる。
正直疲れた。休みたい。
PTSDなんだろうね。

534 :
まいね

535 :
まいね

536 :
@宮城県石巻市(旧北上川東岸)

仕事が夜勤なので、自宅の茶の間にて遅い昼食を取った直後に地震に遭遇。
不気味な地鳴り(初期微動)の後、激しく長い揺れが起こる。
とっさに母親(70代)の上に覆いかぶさり「大丈夫、大丈夫」と話しかけながら揺れが収まるのを待った。
やっと収まってきたと思ったら、更に大きな揺れがやってきたので最悪の事態が頭をよぎる。

何とか揺れが収まり一安心した所で、とりあえず家の被害状況を確認してみようと外に出た所、
防災無線から「大津波警報」の放送が聞こえてくる。
すでに他界している父から、昭和35年の「チリ地震津波」の時は道路が濡れた程度で被害はなかったが、
津波が北上川を遡上して家の前まで到達したがと聞かされていたので、一応避難する事を即決。
家の中の母親に状況の説明と、片付けは後回しにして避難所に行って警報が解除されるまで待機する事を伝え、
(あくまでも津波の被害はないという前提だったので)貴重品等は持たずに防寒着を羽織っただけという
身軽な格好で家を出る。


537 :
続き(かなり長くなりそうです。よろしかったらお付き合いください)

幸いな事に自宅から数分の所に避難所が2ヶ所あり(しかも国道を挟んで向かい合わせ)
畳敷きの部屋がある市立の幼稚園兼保育所が併設されている福祉会館へ行ったところ、
会館の前で館長さんが「6メートルの津波が予想されているので二階建ての当館では対応できません。
向かいの小学校(四階建て)の三階以上に避難してください。」と指示をしていたので、それに従い小学校へ向かう。

小学校で先生に三階の教室に案内されると結構な人数が既に避難しており、ラジオから被害情報が流れていた。
ラジオの持ち主から岩手県に津波が到達した事(高さ等はこの時点では不明)を教えてもらい、同じ教室にいた
近所の方々と情報交換をしながら200メートルほど先の北上川を眺めていた。
(川岸からの道路が向かいの幼稚園の園庭前まで続いており、小学校から直視できる)

地震からおよそ1時間が経過したあたりで川岸から「波」というより「浸水」という表現がふさわしいくらい穏やかに
水が溢れてきた。「どこまで到達するかな?」と、あくまでも津波の被害はないだろうという前提で気軽に眺めていたが
浸水が止まる気配は全くなく、幼稚園の園庭と国道を越えて遂に小学校の校庭まで流れこんできた。

538 :
その3

「ちょっとこれはまずいんじゃない?」と思ったのも束の間、目の前の国道では渋滞で動けなくなっていた車が浮き上がり、
人を乗せたまま次々と流れていった。誰も車から降りようとはしてなかった。
幼稚園の隣にある消防団の車庫前で待機していた消防車も流れていく。消防団員は目の前の歩道橋に登って無事のようだった。
水位は更に上昇し、3分も経たないうちに小学校の一階部分は完全に水没した。(後に計測したら約3.5メートルでした)
遂に一部の家も流され始め、船も国道に流れて来ているのだが自分の心は現実を受け入れる事ができず
リアルな特撮映画をながめているかのごとく、何も考えられない、考えてもいない状態がしばらく続いた。(と思う)

その後、多少の変動はあるものの、水位が安定してきたので「命の危険はなくなったかな?」と考え始める。
そこで初めて我に返り「我が家は?」と視線を自宅へ移した。(自宅は消防団車庫の裏)
自宅は二階部分しか見えないが動いている様子はなく「とりあえず建っているけど中はダメだな」と思った。
とりあえずは水が引かないと、どうにもならないことだけは理解できた。

539 :
そいで?

水が引いてからはどうしたの?
家の中の様子は?

540 :
まいね

541 :
あの時は、山の中で炭作っている人、最強だと思いながら生活していた。
津波はこないし、湧き水飲んで、暖かい。そして米を野菜作っていれば
怖いものなしだって。そういうことを何度も思いながら
長いスーパーの列に並んだ。

542 :
まいね

543 :
まいね

544 :
まいね

545 :
まいね

546 :
まいね

547 :
まいね

548 :
まいね

549 :
まいね

550 :
まいね

551 :
まいね

552 :
まいね

553 :
まいね

554 :
石油ストーブで米を炊いた
親父には驚いた

555 :
こんなのあった
震災復興 応援ソング 【さくら咲け】 http://www.youtube.com/watch?v=pYLGGLeOfok

556 :
>>555
もうこう言うのいいよ・・・
と言うわけでこのレスも前レスも「まいね」

557 :
一人暮らしのアパート住まいで地震くる一年前に古い反射式ストーブからヒーターに買い換えて古い反射式を家電店で引き取ってもらうつもりでいた
微妙に歳喰った店員に引き取り頼んだら「学生の一人暮らしなら壊れてない限り役に立つ事もあるよ」と言われて何となく持ってたそれが地震で停電してた時にとても重宝した
後で聞くと「冬にガス止められた時の命綱」的に言ったらしいんだがあの時に周りの住民達と暖かい食事をとれたのはあの店員のおかげだと思う

558 :
まいね

559 :
>>557
私は50ですが、微妙に歳くった?
つうのはオレら世代の事でしょうかW

その店員は、単純に「モノを大切にしろ(←感謝を忘れるな)」
って言ってたんだろな
たぶん

560 :
スタンド長蛇の列

561 :
まいね

562 :
まいね

563 :
まいね

564 :
まいね

565 :
まいね

566 :
まいね

567 :
まいね

568 :
まいね

569 :
まいね

570 :
まいねってなんやねん。

571 :
まいね

572 :
まいね

573 :
@仙台市泉区
電気もガスもなく水も出ない中
ガソリンも危うかった中
何もかもが不自由な中
ホームセンタームサシが店頭営業していた
ついにお酒もなくなってしまい
ムサシの中の食品館イトーの店長に頼んで焼酎25℃
4Lを売ってもらったアル中な俺

あの一本は一生忘れない

574 :
まいね

575 :
あなたにも平等に増税されますが。

576 :
まいね

577 :
>>574
AAが似てないから削除w

578 :
いやあ
アル中は・・・
税金払い過ぎてっからW
マジ勘弁

579 :
原発が次々爆発してとうとう海外移住しなきゃいけないのかと思ってたよ

580 :
>>573
いやぁ、全く同じ状況。

近くの老舗の酒屋で倉庫に眠っていた、いつの物か判らないニッカウイスキー2Lをゲット。
自宅近所限らず、酒パワーのおかげで救援動き回ったっす。

飲みすぎはいけませんが、適量で車運転なしなら飲まい?

火事場のくそ力といいますが、俺の場合酒でくそ力な「酔拳」なみのアル中だな。

あんときの酒屋さん、どもっす。

おれもあの時の一本は忘れない。

581 :
そう思っていただけるならスーパーや安売り店で買わずに常に買ってあげてくださいね

582 :
結局ことばだけ

583 :
阪神淡路大震災のときに自腹を切って飯をふるまった食堂に
「ありがとう、再建したら絶対に行くね」と助けられた人は言うが
再建後数年でその店は潰れた

そんな心温まるエピソードを思い出した

584 :

そりゃそうだろが
人の心を温めれば
てめえが
しなびるのがから

585 :
ことばだけ
これが事実

きれいごと
これが事実

586 :
ついこの間、女川に観光バスが止まってて…
見物してた。
写真とって笑ってた。
被災地は観光スポットになりますか?

587 :
>>586
私は先月、石巻で写真撮ってきたけど
観光とか笑いとかとは無縁だわ
むしろ軽くトラウマ。

588 :
>>587
失礼というか…
凄くバカにされた感じで悔しくなりました。

589 :
近くのコンビニに大型バスが停まってた。
買い物客は特亜かな?
言葉は日本語じゃなかった。
なんかマナー悪かったよ。
今はコンビニで休憩取るんだね。
たぶん被災地観光巡りだったと思う。

590 :
出来るだけ外の人たちに現実の被災地を見てもらいたい
と積極的に「観光客」を呼んでいる被災者もいる

訪れた人たちが一様に涙を浮かべ眉間にしわを寄せて
いつまでも「かわいそうな人たち」扱いをすることに
辟易している被災者もいるだろう

物事の一面だけを見て「いい・悪い」を単純に判断するべきではないと思う

591 :
被災地訪れて東京で買い物してお金落とすのかな?

592 :
まいね

593 :
どこだっけ?南三陸のどこかで、瓦礫でつくったガレキーホルダー売ってるけど、なんか微妙なとこですね。ネーミングも。
利益なし配布ならわかるけど。

ボランティアに行った後に見つけてなんともいえない気分になったな。

雇用のこと考えたらしょうがないんだけど。

594 :
まいね

595 :
まいね

596 :
まいね

597 :
>>593
ググりました。わりとポップなのね

なんか、ベルリンの壁の破片を売ってたのを連想した

598 :
まいね

599 :
まいね

600 :
>>597
そうですポップでしたー!
ベルリンの壁w
確かにー
そんな感じー
持ってても、本質を忘れてしまいそうなー
拾いあつめたものに値打ちつける具合が全く一緒かもー。
でも、瓦礫の中から拾ってる人が居ること考えたら笑えないけど(汗

601 :
21日の宮城県中部を震源とする地震が12回。
俺2004年からの過去の履歴も全部見てるけど、これ異常すぎ。
これほど連続で起きてるのは東北が起きる2日前と同じ。
23日あたり気を付けとけよ。一応な。

602 :
http://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/earthquake/
これ見るとわかる

603 :
いわき市、
3.11の他 4.11(直下) 4.12(直下)と震度6弱を三回経験。

604 :
まいね

605 :
まいね

606 :
【絆の足跡】かぁ
絆って押し売り過ぎない?
絆=柵 って感じる今日この頃。

607 :
単語は単に単語でしかない
それを押し売りと感じるかどうかは受け取り手の問題であって
話したり書いたりする側の問題ではない

そう感じるようになったのが「今日この頃」なら
>>606の精神状態が「今日この頃」変わったということだろう

608 :
まいね

609 :
>>607
そんなことはないと思う。
「絆」と言えばなんでも許される的な使われ方は異常

610 :
絆って聞くと居酒屋だとおもう。仙台にあるんだけど。

611 :
そして、絆って聞くたび、居酒屋で被災者同士で飲んでいるイメージが
頭から離れない。

612 :
もう国会中継を今日も見たけど震災など話題にもならず原発事故あえて知らんぷり
民主は完全にニセモノ集団だし自民は60年利権集団の実績アリ
キャーこわーいおどろきの日本のシステム

613 :
あっちの世界とこっちの世界、異次元のようだね@告解

614 :
「絣(かすり)}
つう小料理やさんなら
黒川郡大和町にあったけど
たぶん
絆という言葉は、今となれば重すぎて
時にはあまりにも軽薄で

自分的には
この一年と少し

いろんな人達といろんな形で接し
励まし合い
慰め合い
喧嘩し合い
「絆」も感じ
しかしこれも「縁(よすが)」
と思っています

615 :
>>609
「絆」乱発は震災直後からずっとの話で別に昨日今日始まったことではないし
別に途中から言葉の意味や扱いが変わった訳でもない。

俺自身は一つの言葉を出しとけばオッケー的なマスゴミの
「キャッチフレーズ化」発想は最初からひどく胡散臭く感じてたが
>>606>>609もそう感じてたの?
もし最初は違ってたのだとしたら、というのが >>607

616 :
あの日、消防団として活動していた人たちが命を亡くした事に
ご冥福をお祈りいたします。

なぜ?これほど民間の消防団員が命を亡くして、
職業である消防署員や警察官は、少ない被害ですんだのか?

特に、警察官は国民の生命財産を守る使命を忘れ、
安全地帯から、わが身を守るために危険な現場には行かなかった。

震災後、警察官はお造り美談が放映されているが、信実は・・・?

たんなる交通整理しかしなかったのが現実・・・
自衛隊!ボランティアが一番活躍したと今思う!

617 :
消防署員や警察官は全員死んでしまえばよかったのに、という話?
んでもって、生き残りの消防団員は逃げた腰抜けだ、って話?
もしかして、その場にいたら自衛隊員も全員死ぬまで頑張るべきだったと?

それ本気で言ってるの?
それを言ってるお前さんはどうして生き残ってるの?
人の命を一体何だと思ってるんだ。

618 :
今、絆って居酒屋で清濁呑み込んでいるところ

619 :
>>616
ニュースぐらい、見なさいよ。
装備の差が原因だったこと、報道されているよ。

消防署員や警察官は、ちゃんとした通信機器を持っていた。
だから、巨大な津波が来ること、避難しなければならないことが、
事前に分っていた。

これに対し、消防団員にはそれがなかった。
そのため、避難すべき状況と分らなかった。
結果、多くの犠牲を出してしまった。



根本的には、消防団のあり方自体が間違っていたんだな。
消防団にも、きちんと金をかけて装備を整えておくべきだった。
団員に対しても、前もってきちんと訓練が施されているべきだった。

しかし、震災から1年以上が経過しているのに、
ここが改善されたというニュースは聞かない。
震災の教訓は、果たして生かされているんだろうか?

620 :
>>619

>>616さんの言いたい事は、
危険を承知しても、向かって行った自衛隊の人は感謝だけど、
確かに・・・消防署、警察官は、当時は何もしなかったような気がする。
例外はあると思うが。

被災者は、感謝しているよ。自衛隊の人達に。 それ以外の警察消防は感謝する場面を見た事がない
人もいるのかもしれないってことかな。

ただ、落ち着いた後では、日本中の「県警」から、けいさつの人がきて、うれしかったけどね。

621 :
>>619
ドキュメンタリー番組で見たが、どこの地区だったか忘れたけれど、

 過去の経験から、地震後約30分で津波は来る
 だから救助その他の行動は15分間のみ
 それを過ぎたらどんな状況であっても各自高台に逃げること

この「15分ルール」を事前に申し合わせていたおかげで消防団員の被害を抑えられたとか。
(数字等の細部は違うかも)

>>616はこういうのも非難するのかな。

622 :
プロとボランティアの一番の違いは緊急時の判断基準が明確かどうかの差だと思う。
「できるだけ頑張る」「危険を感じたら逃げる」的な曖昧さは判断を遅らさせる。
なまじ地元のボランティアだけに目の前の人見捨てても割りきって逃げる
というのは仲々難しいところもあるだろうけど。

日本全国の消防団の装備や訓練をプロ並みにってのは無理があるんで
それらが足りてないなら足りてないなりのシンプルで明解なルール作りってのが必要なのでは。
基本的な発想は「津波てんでんこ」だと思う。

623 :
まいね

624 :
まいね

625 :
まいね

626 :
口先だけで何もかわらない被災地。絆?復興?もうこの言葉には虚しさしか感じない。そしてこの国の人命軽視の異常さに呆れる。

627 :
まいね

628 :
まいね

629 :
まいね

630 :
まいね

631 :
>>620
>>621
私は単に、「>>616氏は事実を誤認している」と指摘したかっただけです。


>>622
見解の相違でしょうけど、
>日本全国の消防団の装備や訓練をプロ並みにってのは無理があるんで
というのには、私は不同意。
もちろん本職と完全に同じには出来ないだろうけど、改善は可能かと。

まあもっとも、この先、少子高齢化が進んでいけば、
どのみち消防団なんて維持できなくなるでしょうね。

また、高台への移転が実現すれば、それでこの問題は解決ですけど。

632 :
>>626
もし前向きな批判がしたいなら、もっと具体的な事を書きましょうよ。

633 :
>>632
漠然とした不満不湾は認めないんだな

634 :
まいね

635 :
>>631
理想論は分からんでもないけど時間も金も莫大に掛かるでしょ。
プロ並みの訓練の時間をボランティアの人たちに強要できないし。

見解の相違つか
実現の可能性が薄い理想論よりも
確実に危険を減らせる「対策」をまずやった方がいいんじゃないか?
という話だよ >>622 は。

636 :
>>626
人の命軽かったね。
人命は地球より重いとか、サーズ騒ぎで外国から到着する飛行機に防護服着た係が乗り込んで機内とか人を消毒して、乗り合わせた外国人に
「クレイジーだ」と言われたのは一体なんなんだって思う。
放射線量高いのにそれを告げられず避難が遅れた飯館村の人達とかさ。失望というかもうね家畜以下なんだと思ったよ。
国にとって国民は。

637 :
まいね

638 :
まいね

639 :
まいね

640 :
まいね

641 :
まいね

642 :
まいね

643 :
まいね

644 :
まいね

645 :
地元は仙台、当時は新宿に居て、家は戸田のアパート住まいでした。
職場で地震にあったのですが、東京も凄い揺れ。会社で棚の上に設置してある大型のモニタを後輩と押さえました。
余震が続くため、いったん外の指定避難場所に避難。寒いので避難が解除となり定時まで社内に居るように。とのアホな指示。
帰宅出来ない埼玉の遠方の人らの為にコンビニに行くが、弁当類は全て無し。カップ麺等を買って帰った。
電気は普通に来ていたので、お湯を沸かした。
ここで、帰宅できる奴は帰宅してよい。との事だったので、20km弱だし、歩けるな。って事で帰宅開始が1900時。
途中は徒歩の人が大勢居た。私は明治通りまで出て、途中で国道17号に出れば道には迷わないと確信していた。
途中は人が多すぎて裏道を歩いたりしていた。多分、帰宅したりしても飯は食えないだろうから、途中で弁当があったら買おう。
と大久保を通り過ぎるところで、大量の焼肉弁当を作っている韓国系の人の店を発見。
買ってもいいの?と聞くとOKとの事。値段は300円だったかでえらい安い。
2つ買った。
やはり、途中から腹が減りだし、裏道の誰も居ない公園(異様に静かで今も覚えている)で飯。
大通りの長蛇の列と、裏通りの閑散さの差が凄い。
途中では自転車屋が大繁盛。コンビニはスッカラカン、運動用品屋ではヒールの靴から運動靴に買い換えてる人がいっぱい。
この時点では、ガススタも人がいっぱいで、車は渋滞で全く動いていない。
板橋まで来て、国道17号に出る。

646 :
凄い人の波で、一部の人は話しながら「まだ3分の1も来てない」などと嘆く。
沿道では、あきらめて営業している居酒屋に入る人、地震など関係なく飲んでる人も居る。

ちなみに、俺が前勤めてた会社では、社員寮が茨城の取手にあったため、列車が運休な時点で帰宅できなくなる。
地震の直後に、近所のコンビニで酒を買って飲んでたそうだ。また、社内にある防寒服類をかき集めて眠ったらしい。

国道沿いのディーラーのTVがつけっ放しになっており、それを見ると会社のテレビで見た津波の映像、緊迫感ある中継を続けている。
板橋では、踏切が鳴りっぱなしで警察が出て誘導をしている。
板橋で2100過ぎだっただろうか。相変わらず道路は凄い人だ。
ようやく志村(埼玉県境近く)まで来た。子供を連れている人、ヒールの女性は辛そうだ。へたり込んでいる人もちらほら出始める。
さらに進み、埼玉県境の荒川を渡る戸田橋へ行く。車と歩行者は別れて進む所なはずが、皆車道側を行く。
車は全く動いていない。
埼玉に入って23時くらいだった。戸田橋を渡っても人の列は多い。
ここで国道17号と別れ、戸田公園駅前のコンビニに寄ろうと駅へ向かう。
周りの人は、「まだ半分も行ってない!!」と国道の青い距離表示板を見て愕然としている。
戸田橋から一番近いセブンでは、何人もの人がへたり込んでいる。女性が中心だ。
人はやはり激減して、妙に静かな郊外の街になっている。
駅前に行くと、当然列車は動いてないがちらほら様子を見に来ている人がいる。
そして、疲れきって途方にくれてベンチで飲み物を飲む人が大勢いる。
俺は飲み物を買ってアパートに帰宅した。
幸い、転勤が多く家具は一切無く、家財も殆ど無い家は、被害はゼロ。冷蔵庫の上のレンジがだいぶ動いたくらいだった。
しかし、オール電化の貯湯タンクの固定が甘く、配管が破断したため、風呂には入れなかった。
大家さんが隣接なので、どうやら各部屋をまわって閉栓した模様。
ふと、外を見ると、新幹線の高架で、新幹線が止まったままだった。これは1ヶ月くらいそのままだったように思う。

647 :
被災地の方には申し訳ないが、すぐに実家に支援物資を持っていこうと思ったが疲れきっており、やめることにした。
行っても、迷惑なだけなので、結果正解だったようだが。
翌日は、家で寝ていたところ風呂の修理が来て、昼ぐらいに修繕が終わった。
実家は連絡がつかないが、山の方なので多分大丈夫だろう。という事で。
実家の両親は携帯などを持っておらず、あとで妹から無事のメールが来た。

とりあえず、東京での出来事の報告。
恐ろしいのは、東京ではさしたる被害も無かったのに、列車がとまっただけでこの混乱。
もし、東京で本当に直下型の地震が起きて、大きな被害が出た場合、「人」がどのように行動するのか
「人」に対する被害がどれ程に及ぶのか。そして「平常な生活」が果たしてどれくらいで戻るのか。
が想像がつかない。
数千万の人が暮らし、巨大な消費を行う東京でもし、大きな災害が起きたら?
と考えると、恐ろしいものがある。今は田舎に転勤となったが、東京でもいずれは起こるといわれる直下型地震。
おそらく、人が多すぎて公的機関が幾ら物を備蓄しても全く足らないと思う。
やはり、個々の自分や家族、会社が、自分の体力等を考慮のうえ「食う」「温まる」「用を足す」ことが出来るように備えるしか無いと思う。

648 :
まいね

649 :
岩手放送と東北放送が制作した震災DVD見て激しくへこんだ。

650 :
信号が消えたのは怖かったな

651 :
天災はガマン出来ても人災となると…

652 :
まいね

653 :
まいね

654 :
まいねって誰が削除するの?
読んで不快だと思ったら削除OKなの?

655 :
まいね

656 :
都内に逃げた腰抜けです。政府が国民を家畜同然に扱うこの国に失望しました。
自身も息子もたぶん被曝しているでしょうが余生を家族団らんで過ごすつもりです。
私の勝手な持論ですが住んでいた場所が原発からわりと近い場所だったので多分余命は10年程度でしょう。
ただ落ち込んでもしょうがないですし、現実逃避しても何も解決しないので妻と話し合って皆で保険に入りました。
来週から1週間イタリアに思い出づくりに行きます。
欧州は放射能に敏感だと聞いていたので駄目もとでホテルに問い合わせたら快く受け付けてもらえました。
ありがとうイタリア。

657 :
>>656

宇宙飛行士が1日宇宙に滞在するとどの位被曝するかご存知か
1ミリグレンだよ!
14日宇宙に滞在した日本の女性宇宙飛行士は子供まで生んでるんだよ
当然その子供にはこれといった以上は見られない。
 訳の分からない学者崩れの話を信用するより事実だよ!

658 :
>>657
ありがと。
確かに死なないこともありえるから仕事もしているし無理な出費はしていない。
だけど被曝者手帳渡されてハイさよなら!という役場の対応は鬼だと感じた。
被曝者手帳渡すってことは被曝してると言うことだろうし。
毎月数万円もらっても住めない家のローンに消えてしまう。
政府が被曝による影響はないと言いながら被曝者手帳を渡す矛盾を考えると恐ろしくて。
家の辺りはみんな被曝者手帳わたされて街から追い出されたよ。
こう言うことはテレビで一切やらないから分からないかも知れないが。

659 :
まいね

660 :
まいね

661 :
被爆者手帳もらえるだけいいじゃん。
中通りなんて‥。

662 :
まいね

663 :
まいね

664 :
まいね

665 :
まいね

666 :
まいね

667 :
まいね

668 :
まいね

669 :
>>657
やっぱり”マイネ”でしたね、管理人さんご迷惑をお掛けして済みませんm(__)m

670 :
>>656
WBCの結果はどのくらいでしたか?
イタリアまで飛行機で行くと往復でおよそ100μSvの機内被曝をします。
被曝は原発事故以前から意外と身近な事で例を挙げればキリがありません。
もちろんこれで被曝の影響もありませんし、こんな事を気にしてたら旅行も行けないし。
ストレスもかなり大きいです。

あまり気になさらないほうがいいですよ。
ストレスで体調を崩すほうが心配です。

私は去年の4月から7月までの間に福島第一原発復旧作業で60mSv超の被爆をしてますが
体調も良いし、WBCの結果でも現在では未検出(作業終了直後でも1.6mSv)
90歳までは生きてフクイチの行く末を見届けるつもりですw

671 :
>>670
WBCってホウルボディカウンタの略かい?

672 :
>>671
はいそうです。
略したらわかりにくかったですね。ごめんなさい。

673 :
ワールドベースボールクラシックじゃないの

674 :
今良くても、将来がなどうなるか誰もわからないからね。
実績がないからね。なにもないかもしれないし、
取り返しがつかないかも知れない。

とくに内部はやばい。外部はそれほどえもねーべ。

675 :
被曝に敏感な癖にイタリア旅行ってw
わからないってのは確かだが大凡見当は付いてるでしょ。
百歩譲って甲状腺に異常が出たりなんらかの影響が出たとしても
10年以内にバタバタくたばることはないから。

676 :
被爆手帳て…
どこの町村だよ

677 :
浪江だよ

678 :
まいね

679 :
まいね

680 :
宮城県名取市閖上地区にて、以下の張り紙有。

【今年は今のゆりあげで、お盆を迎えられる最後の年です。
”お帰りなさい”を閖上でもう一度。】

*今年秋口には、復興計画に基Tづいた、区画整理により、
閖上の立ち入りが出来なくなると、予想されます・・・・云々

迎え火 8月12日午後6時から

681 :
まいね

682 :
まいね

683 :
まいね

684 :
まいね

685 :
まいね

686 :
まいね

687 :
まいね

688 :
まいね

689 :
>>686-688

http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/l50
↑へ転載、移動よろ。

690 :
まいね

691 :
まいね ばっかりじゃ解らんだろが!
夏の甲子園
福島は聖光がい

あそこもなあぁ・・・
懸命の頑張りを見せてホスイ
今、日本一苦しい、日本一辛い県の代表として
買っても負けても

大暴れして来て欲しい

692 :
>>658
役所の対応は鬼ではないし、
放射線を受けたからバタバタ死ぬ訳でもない。
仮に被曝した人を入国させたからとその国が汚染される訳でもない。
もう少し冷静に考えてみる必要があります。

693 :
>>692
鬼じゃないけど
メンドイことはにげるよね

694 :
まいね

695 :
まいね

696 :
3.11かあ
あの日は仕事で、原発から10.5kmにいたなあ。
午後に工事の片付けして、ちょっと早い休憩してたな。
何気にグリー開いていたら、いきなり地震!!
ものすごい揺れだった!グリー開いていたから地震速報が無かった・・・・・・
一旦収まったので、外へ出て工場内部の様子を確認しようと急いでいたら、また地震!!
建物の鍵が掛かっているのに、扉がバタバタと開いていた!
揺れが収まらないけど、走って工場内へ
まっすぐに走れない・・・
いざ、工場内に入ると、作業者がそのまま設備を動かしている・・・・・・
いいから逃げろと叫び、そのまま中にまだ残っている人が居ないか確認して、建物の外へ!
とりあえず、工場周辺をぐるっと見回る。
作業長が居たので、声をかけ、作業者の安否確認をしろと言ったが、上の空で、こりゃすごいな〜と抜かしている。
とりあえず、作業者を一箇所に集めるように声をかけていると、責任者が戻ってきた。
ようやく、集合がかかって、人数確認。
自分は設備の確認へ。
特に設備に異常は無い。
そんな中、大きな余震が続く。
工場内への立ち入りを制限し、各自荷物を取ってくるように指示が飛んでいた。
30分位で、大きな余震がなくなったので、工場内から上司へ電話。
本部も配管割れ等で、ドタバタしているのか、上司からの支持は、
『こっちも忙しい、何とかやっておけ』
それだけ・・・・・・・
唖然とするも、了解し、再度、設備点検に周る。
その時、誰かが
『津波がきた〜』
え、と思い、海が見える場所に行く。
現場は高台。
見える位置に着くと、田んぼの中をどす黒い波が、勢い良く国道に向って迫っていく!
大型のトラックが橋の上で行く手を阻まれて、戻っていく。
国道の方では、消防団が津波が来るから、逃げろと呼びかけている!
しかし、車の連中は一向に避難しようとしない。。。
その時誰かの声が聞こえた
『停電だ』
え、と思い、工場内に戻る。
非常照明が弱弱しく点灯している。
こうなると、本部との連絡も取れなくなってしまう。
受電設備を確認する前に、再度、高台へ。
よくよく見ると、送電線が、津波で倒壊している。
その中で、先ほどのトラックの変わりに、白い軽自動車が、橋の上で前後を津波で立ち往生していたのが見えた。
大分時間が過ぎ、5時頃に本部に向けて帰社するも、道路は大渋滞。
本来であれば、30分あれば帰れる所を1時間半掛かった。
何とか、上司に携帯で連絡が取れて、言われたのは、
『明日出勤して』
本部は3時で解散したらしかった・・・・・・

697 :
フジの震災特集を見てたら津波注意報が右下に。
地震のあと2日後ぐらいにやっと電気が復旧して、
テレビを付けた時みたいだわ。

698 :
9月6日、鳥の海からてくてくと時宗の僧侶が念仏行脚に参ります。
山元町の東光寺と言う寺まで歩く予定です。

見かけたら、つべやニコニコにageてください。
写真撮ってブログにageてください

699 :
見つけたら握手求めていい?

700 :
>>698
たいした距離じゃないのに
よくそこまで言うな。
何者だ、お前。

701 :
やらせ震災医療をみた
気分的に嫌な思いをしました。

震災のときわれわれの気仙沼の避難所にヘリコプターで往診に来た眼科医がいた。
震災後一ヶ月半もたってから

しかもすぐ近くの地元宮城の眼科医というおまけ付き。

ヘリコプターから降りる白衣姿をTV局が打ち合わせ通りにか撮影してました。
われわれ避難被災者は、眼科と聞いてびっくり。『なにしにきたの?空から』
その医者は『眼科でーす。目の調子いかがですかあ?』と体育館を一巡り。
あまりにも暇で
でっかい眼科のバスの運転手と立ち話ばっかり。
そのあと
でっかい眼科のバスのドキュメンタリー番組に
バッチリその男も写ってました。
ドキュメンタリーとるために被災者を利用してる
気がした。

702 :
ボランティアで無資格で医者の真似事してて発覚直前にとんずらした奴が話題になってたが(石巻だったか)、何故メディアに騒がれたかっつーと数百万の医療報酬受け取ってたから。

つーか短期間で数百万とかボランティアじゃねえじゃん。

703 :
福島児童一人はガンを判明の報道がない。

704 :
震災後の一年目ならともかく、一年半って何の記念意味あんの?

705 :
何かにかこつけてアピールしたいんだろ
そろそろ要らないな

706 :
>>702
ボランティアもお金は必要
大事なのは気持ちと行動だ!
日本財団からの助成金100万円ですよ
でもみんなが言うほど石巻で悪いことしていない
毎日ボランティア向けに温かい食事炊き出ししたり
ボランティアからは感謝されてた
前科があったのと報道の仕方が悪い

俺は支援活動していて宮城県民の支援者の少なさのほうが落胆した

707 :
仙石線乗車中に被災
電車の揺れがすごいのかと慌てると車内の電気が暗くなる
知らないおばあちゃんにしがみつかれる
余震の間はずっと車内
おばあちゃんと手を繋いで駅構内から地上に出ると毛布にくるまった人、公衆電話への行列
おばあちゃんを仙台駅まで送り届けるのに駅の連絡通路が使えない為X橋を使って遠回りをし無事に送り届ける
携帯電話はWILLCOMだけ繋がった
安否を伝え、少し落ち着くと駅前に自衛隊やらパトカーやらで大騒ぎ
現状の理解をしていなかったが仙台駅の近くに一人暮らしの高齢の親戚がボロボロのアパートに住んでいる為
大丈夫かどうか見に行く、怯えていたのでタクシーを拾い一番安全な新築の祖母宅へ移動しようと考える
だがタクシーは全く捕まらないし、車も進まない
祖母宅まで一人で歩いて一時間程度だが親戚と一緒だと何時間かかかるし体力かが持つか心配だった
だが一緒に行くと言って聞かないので大事なものだけ持ち出し一緒に歩き出す、途中何回かバス停のベンチなどで休憩しながら祖母宅に到着

708 :
休む間もなく、 某タバコメーカーの工場近くに住んでいる友人の家がやばい!!とskypeで連絡が入る
そこにはK家が住んでおり身体的障害をもつAがいたため連絡を取ろうとするも取れない
いつまで続くか分からないからその日はカップラーメン一つを大人3人で過ごした


2日目
K家から昼過ぎに連絡が入る
家の押し入れの2段目にいるとのことだったので、すぐに救助に向かうも自衛隊に足止めされる
なので自衛隊と一緒に川に入り、目的のK家へ
押し入れの中で震えているAとAの祖母、Aの父が見つかるもAの母の姿がない
まず祖母宅まで3人とともに帰る。Aの母の職場に連絡するも不通の為、A宅と職場近くと通勤経路にある避難所を自転車で一つ一つ回るも有効な手がかりは一切ない
A父にA母の職場から連絡→みんなで避難所に行ったのですがA母だけ子供が心配だからろタクシーで家に帰ると言い出し反対を押し切り我が家へタクシーで向かっていったとのこと
誰も諦めずA母のことを探し回る(会社の方がすごく協力的だった)
Googleに出来ていた検索ページにも載せたが依然としてA母のケータイも繋がらない

709 :
3日目 Aの病気特有の発作が始まるも薬は吸入器と一緒に流されたとのことで国立まで運ぶ
事情をわかってくれている先生がいたとのことで適切な治療を受けられたようで、ぐっすり眠っていて安心した
この日に祖母宅の電気が復旧した、お水は2日目から復旧してました
オール電化のため、お湯が使えるのでみんなで暖かいお湯で体を拭きました
この日A母を探しにいっていたのはA祖父とA父でしたが収穫もなく帰ってきました

710 :
4日目 わたしと母以外が避難所を探すという名目で誰にもばれないように遺体安置所へ行きました
受付をして、しばらくまたされたように記憶してます
今回は本当にすごい量の方が亡くなっていることを彷彿とさせるようなファイルの数をみて身体が震えていました
順番になり警察の方とお話を進めていきました
いつもしているアクセサリーや特徴的な体の傷、あの日に着ていった服…
様々な質問をされ最終的にお写真を見せられました
生前と何も変わらず綺麗なままの彼女がそこにいました
ずーっと生きてると思っていたのに信じられなくてパニックになり母の手をつかみました
A、A父A祖母A祖父A姉妹に報告をしなくてはいけないのに指がゆうことを聞かず何度も床に落としながらも
どうにか伝えてご遺体対面は一回のみとのことなので、みんなが揃ってからにしようという母の提案で4台の車を出し
警察方には少しお時間をいただくことの了承をいただき、みんなが揃いました
わたしはAを一人にしておけないのもあり、Aと車の中で待っていましたが、帰ってきた家族が口を揃えて「どこも取れてるとこなんてなかったしキレイに化粧してもらってよかった」ということでした

711 :
今Aの家族はAママを偲びつつ、幸せに暮らしています
自分語り+長文+乱文申し訳ありませんでした。
そしてスレ汚し失礼いたしました
ここにいらっしゃる方に、今よりもっと幸せになる呪いをかけてドロン!します

712 :
はんだやでは中と豚汁だな。俺は

713 :
3.11は、国民の休日にして欲しいなあ。
静かに過ごしたい。

714 :
311にはテレビはつけない。嫌なものを見そうだから

715 :
まいね

716 :
携帯の電池は常に満タン
車のガソリンも常に満タン

3.11の後は常に心がけていたんだけど
だんだんルーズになってきている

717 :
震災の前の年は9月に雪虫をみた。あれちょっとはやいんじゃと思ったのはおぼえている

718 :
気にしすぎw

719 :
いまだに懐中電灯すらねえや

720 :
機能の地震で少し思い出したので。
今更だがあの時のことをとりあえず書き込む。
みんなの災害時のアドバイスになればいいな。

3/11
あの日は中学の卒業式があった。
卒業式が終わり、昼過ぎから近くの結婚式場を借りてクラス全員とその保護者の食事会があった。
皆で食事をしていると、学校での用事が済んだ担任の先生たちも来た。
先生が一人一人挨拶をしていると揺れ始めるテーブル。
どうやら地震が来たようだ、念のためテーブルの下へと数人の声。
直後、今まで体験したことのない揺れに襲われる会場。
自分はテーブルの下で多少驚きつつも、今できる行動を考え、実行した。
まずは皆への呼びかけ。「テーブルの脚を抑えろ!」「テーブルに入れなかったのか、なら壁によって少しでも頭隠しとけ!」
と、あの轟音の中でも聞こえるように声を上げた。
揺れが収まるのもあとは時間の問題。
同じテーブルに隠れた女友達がパニックになり泣いていたので落ち着かせようと声をかけたり、周りを確認して危険を少しでも早く知らせようとしたり。
できることはやった。

揺れが収まり、皆を外へ安全に誘導する。
パニックになってる人たちを落ち着かせながら。
外に出て、皆が落ち着き始めたので母を探す。
すると友人の親に介抱されている母がいた。
パニックで完全に怯えていて、車すら運転できないようだ。
そんな親を介抱しながら友人の親の車で帰宅。
色々と疲れた。

震災で学んだこと。
災害の時、冷静でいられる人は少ないだろう。
だからこそ、そんな人たちがパニックになってる人を少しでも落ち着かせることが大切。
逆に、パニックになってしまう人は、そんな冷静な人の指示に素直に従うべき。

その他、役立つこと。
園芸用のソーラーライトがあるだろう?
あれは停電の時にすごく役に立った。オヌヌメ。
最近は安いしね。
あとまぁ、3/11の夜は従妹の家に皆が集まって寝泊りしたんだが、自室にあったボトルのウェットティッシュを持っていったら役に立った。
食事前とかの手洗いに。断水しちゃってたから。
お部屋に常備しておいても邪魔にならないよ。

長分&スレ汚し失礼しますた。

721 :
まいね

722 :
テスト成功につき、他府県から支援に入った話を。
3.11は大阪でも震度4を観測。「えらいゆれたなぁ」と同業の連中と話した一時間後、
「おい!テレビ見てみぃ!!!えらいこっちゃぞ!」
映っていたのは、静かにしかしすざましいとしかいえない破壊力を持って襲ってきた津波のリアルタイム映像
桟橋が、船舶がなすすべもなく流され、漁港の加工場から引き潮と共に大量に流出する箱。
ただ、無言で眺めているしかない我々。
そんな中、携帯で実家に奇跡的に連絡がとれた仲間(宮城中部出身)が、
「すまん、仕事どころじゃなくなった。悪いけど…」
そこに仲間のひとり(阪神淡路震災経験者)が、
「ちょう待て、急いで行ってもよう着ききらんぞ。それより、今からいるもん段取りして夜に走ったほうがましやぞ」
と、アドバイス。その場で居残りと、応援に分かれて即席のボランティア(つうほどたいしたもんでもない)
が、できた。
…ごめん、続きは夜に書き込みます。

723 :
>>722
あの当時、大阪からの移動ができたのか?、、続きお願いしまする。

724 :
まいね

725 :
>>723
コピペだと思うけど、、、
車で片道特攻?であれば可能。

726 :
年末ですので、このスレッドを上げておきます。

=注意=
このスレッドは特別なルールがあります。

純粋に震災体験を書き込み願います。
それ以外は削除対象となります。

政治ネタなどは↓へお願いします。

東北大震災スレッド12
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1349579748/l50

727 :
721じゃないけど、同じ大阪から支援に入ったから…
>大阪から行けたのか?
時間は掛かったけど、国道一号経由で途中から高速が使える様になったので、
東京まではほぼすんなり行けた。ガソリンに関しては、携行用の鉄製缶を周りからあるだけ貸してもらって
出発時に全車満タンにして、携行缶にも満タンにして出発。途中でマメに給油して、とにかくある内に補充して
被災地入りできた。ちなみに、車両5台(1BOX3台、軽バン一台、二トントラック一台)
で、携行缶一ダース…分散して積んでいたとはいえ、240リットルも運んでたんだな。
あの時は、とにかく自力で活動できる様に態勢を整えてから動いたから、
今やったら、なんかの違反に問われるかなぁ
ちなみに、仙台に転勤した親友一家の支援に入るつもりがご近所さんも難儀している(集会所で避難しているのでその時点では物資が入ってこない)
事情を話して、付き合いのある連中ですぐ動ける者に協力してもらった。
問屋やってる奴には、とにかく水と生活物資を押さえてもらい小さい子がいるのでオムツとウエットティッシュも
あと石油ストーブ(昔ながらのヤカンを天に乗っけれる奴)を五台と灯油をポリタンクに6本満タンで差し入れてくれた奴もいた。
実働部隊にも、アマ無線の資格者が車載の無線機を車ごと出してくれて携帯がろくに繋がらない中大阪との連絡にものすごい威力を発揮したのはびっくりした。
あと、嫁さんのつてで看護師資格を持つ女性三名も参加。旦那も一緒に参加。
で、彼女らの助言でドライシャンプーと沐浴液つうのも持って行った。
これは、子持ちの女性陣にむっちゃ感謝された。
>片道特攻
にはならなかった。荷物降ろしたあと早々に二台東京に移動させて、そこで待機させたからとりあえず動けない事態は回避できた。
ただ、一般車が走行できるルートがほとんどなくて渋滞の中移動したのは後で聞いた。
その二台には、ツレに貸してもらったアパートに避難する親友んちの妻子とご近所のチビを抱えた奥さんと年寄りが一緒に乗って避難して行った。
被災地から抜けるのは大変だったけど、そこで動けなくなる事はなかったね。
具体的には、日本海側に抜けそこから西へ進路を取って再度太平洋側へ。
宮城県から山形・秋田県、そこから新潟、石川、福井、ここから舞鶴若狭道に乗って、あとは高速で大阪まで。
多分、東京移動組が一番難儀したと思う。
…こんな感じだけど、参考になった?

728 :
ごめん。追加で
東京に乗っていった避難組は東京から新幹線で大阪に移ってもらったから。
日本海側から帰ったのは後から出た自分達三台だよ。
読み直したら、そこらへんが何もフォローされてないので追加した。
これも合わせて読んでもらえたら有り難いです。

729 :
年賀状の文面、おめでとうとかお慶びとかまだ慎んだ方がいいですか?
去年は新年のご挨拶を申し上げますってちょっと自粛したんだけど

730 :
もう大丈夫だよ! 一歩踏み出したし、気持ちの切り替えも出来た。

731 :
まいね

732 :
ひとときは
神をも恨みしひとびとの
あまた集いし
塩竈様元朝

733 :
いやゴメン
あまた集へり
の方が良かった

734 :
About the Japan Great Earthquake and Tsunami (11 March 2011): http://youtu.be/kA9t9Hiz5C8 @youtubeさんから

735 :
まいね

736 :
まいね

737 :
漢字の書き取りか。精神病院へいけ。

738 :
まいね

739 :
まいね

740 :
まいね

741 :
まいね

742 :
皆さん大変な思いしたんですね。

743 :
>>742
大なり小なり誰もが大変だったよ(´・ω・`)

744 :
麻生区には居住者が最後には収監されるような物質が水と空気に含まれている。

麻生区の娘達は必ず婚約を解消されるようにDNAが化学変化を起こし、

麻生区の息子達は必ず内定を取り消されるように仕組まれている。

この区内の破廉恥な物質が区民を犯罪の構成要件に該当するように誘導する成分が多く含まれている。

蠅野建三君は韮山県知事とその住民らに巨額の懲罰的賠償請求訴訟を提訴されて破産するようDNAが噤まれている。

蠅野建三君にのこされた助かる道はただひとつ。石井七三一部隊の人体実験に自らの身体と生命を提供することだけ。

阪和興業中川洋一君も自宅待機が解除されて電報により「シュッシャニオヨバズ」と強制労働から解放された。

日経Who’sWhoに氏名が掲載されない平らな肩書きの平松功君ももう間もなく橋の下で生活する前兆がポスティングされた。

745 :2013/05/26
岡山大学農業学部へ合格するセンター試験の合格ラインは500点。
中央大学法学部法律学科へスベリ止め入学するために東京大学文科一類を不合格になる
最低得点点数は800点以下の必要がある。

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