2011年10月1期孤独な男性愛について語ろう
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人は生まれつきで全てが決まる
退屈な日常と闘う孤男
愛について語ろう
- 1 :11/09/29 〜 最終レス :11/12/04
- 宇多田ヒカル「Goodbye Happiness」から
人は一人になった時に 愛の意味に気づくんだ
谷川俊太郎の詩を引用改造
水に渇いているだけではないのです
言葉に渇いているのです
言葉に渇いているだけではないのです
愛に渇いているのです
愛に渇いているだけではないのです
力に渇いているのです
力に渇いているだけではないのです
真理に渇いているのです
<水ヲクダサイ 水ヲ……>
あの日からずっと渇きつづけているのです
- 2 :
- 愛かあ・・憧れるよねえ
- 3 :
- 自己愛、対象愛、恋愛、親子の愛、兄弟愛、エロース、アガペー、博愛、人類愛
いろいろあるね。
精神分析では、
エーリッヒ・フロム「愛するということ」
香山リカ「<じぶん>を愛するということ」
小此木啓吾「自己愛人間」
あたりは読んだ事がある。
他に持っている本で最初から最後まできっちり読んでないでは、
和田秀樹「<自己愛>の構造」
今道友信「愛について」
ハビエル・ガラルダ「自己愛とエゴイズム」
大渕憲一「満たされない自己愛」
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか」
- 4 :
- 愛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
- 5 :
- 愛なんて俺には関係ないから考えたこともないなぁ
- 6 :
- ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」から
あなたの自分自身に対するうまくいかない愛が、あなたの孤独を牢獄に化しているのだ。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」から
他人にたいする態度と自分自身にたいする態度は、矛盾しているどころか、基本的に連結しているのである。
これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分自身への愛は二者択一のようなものではないという
ことになる。それどころか、自分自身にたいする愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。
ヘッセ「荒野のおおかみ」から
彼の全生涯は、自分自身への愛なくしては隣人愛も不可能だということを示す実例、また自己憎悪は、どぎつい
利己主義とまったくおなじものであり、結局はまったくおなじ恐ろしい孤立と絶望を産み出すものだということ
を示す実例となりました。
村上春樹「1Q84 Book2」から
「僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。
なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛する
ことによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るの
です。僕の言っていることはわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛すること
なんてできません」
姜尚中「悩む力」から
愛とは、そのときどきの相互の問いかけに応えていこうとする意欲のことです。
クリシュナムルティ「自由とは何か」から
愛があるところ、そこには義務的掛かりあいはありません。
水野敬也「夢をかなえるゾウ」から
「『愛の反対は憎しみやない。無関心や』言うやろ」
サン=テグジュペリ「人間の土地」から
道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。道路というものは、人間の欲望のまま
に泉から泉へと行くものなのだ。
- 7 :
- エーリッヒ・フロム「愛するということ」から
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人
とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、
自分の全体性を失わない。
中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」から
『聖書』の中に、カインとアベルの話がある。カインは神様に愛されなかった。アベルは愛された。ゆえに、
カインは嫉妬のあまりアベルをした。その罰として、カインは額に印を帯びて一生孤独に地上をさまよわねば
ならない。簡単すぎる分類かもしれないが、世の中にはカイン型の少年とアベル型の少年がいる。そして、両者
はその後の人生においてまったく生き方を異にする。アベル型の少年が孤独をめざすことは滑稽であり当人に
とって苦痛であるが、カイン型の少年は心して孤独をめざすべきだと言いたい。
ナルシスにはプラスのナルシスとマイナスのナルシスがいる。そして、私はマイナスのナルシスである。自分の
ことだけしか基本的に興味がない。関心が他人や世界に向かってゆかない。それは、水に映るわが身にうっとり
しているからではなく、水に映る自分の姿を見て猛烈な嫌悪を感じているからだ。自分がなぜこれほどまでに
問題児なのか、なぜこれほどまでに生きるのが下手なのか、それにこだわり続けるからだ。そして、それを後悔
してもしかたないと悟るとき、こうした自分を受け入れるほかないと悟るとき、ある人はマイナスのナルシスに
なる。
「自虐」とか「マゾヒズム」という空疎な言葉は慎もう。マイナスのナルシスとは自分が嫌いであるがゆえに好き
であるという構造がくっきり浮かびあがった人のことである。
- 8 :
- 高校倫理用語集から
・自己愛
自分や自分の世界を愛して、それにひたる自己満足や自己陶酔を意味する。ナルシシズム(narcissism)とも
呼ばれ、水に映った自分の姿にあこがれて水死し、水仙に姿を変えたギリシア神話の美少年ナルシスに由来する。
フロイトによれば、愛の欲求は最初は自分自身に向けられてナルシシズムとなるが、やがて外の対象に向けられ
て他者への愛が生まれる。人間は誰でも自己愛を持ち、社会と交流する健全な自己愛は生きる原動力にもなる。
しかし、他の者を自己愛を満たす手段にしか見ず、世界と自己愛的にしか関われなくなる過度の自己愛は、自己
に閉じこもり、他者とともに生きるうえで障害になる。青年がテレビゲームの仮想現実の世界に没頭して、周囲
に無関心になるのも自己愛の一つである。精神分析学者の小此木啓吾は、幼児的な自己愛のカプセルから抜け
出るために、自分の満足が同時に他者にも満足を与え、相互の欲求を満たす愛のコミュニケーションが必要で
あると説いた。
・「友人は第二の自己」
アリストテレスが『ニコマス倫理学』で、友愛(フィリア)について述べた言葉。友人は第二の自己であり、人間
は自分に対するのと同じように友人に対するものだから、自分の生きることを感じて喜ぶように、友人の生きる
ことを喜ぶ。人生における善きものをともに楽しむために、人は友情によって結ばれて共同の生活をする。この
ようなアリストテレスの解釈の他にも、友人はともに語りあい、議論し、批評しあることをつうじて、自分が
何者かを教えてくれるという意味で、第二の自己であるともいえる。
・恋愛
青年は異性に強い関心を持ち、精神的にも身体的にも異性を求める欲求が高まる。しかし、恋愛はただ好きな
気持ちや自分の性の欲求を相手に一方的に押しつけることではない。性とは立心編(心)に生きると書くように、
自分が好きになった異性だからこそ、相手のことを自分と同じように大切に思う心を持ち、相手の心や体を傷
つけないようたがいに思いやることが大切である。また、妊娠やエイズの問題を考えながら、たがいの性に
しっかりと責任を持つ倫理観が必要である。
- 9 :
- 愛・・・それは性欲の高まりをオブラートに包み表現される便利な言葉
- 10 :
- 高校倫理用語集から
・プラトニック=ラブ platonic love
精神的な愛。プラトンが肉体を離れて永遠の愛の理想(イデア)を求めたことにちなみ、男女が肉体関係を離れて
精神的に愛しあうことをさす。
・『われと汝』
ブーバーの著作。人間はつねに他との関係の中にあるが、それは<われ―汝>と<われ―それ>の関係に分けら
れる。<われ―汝>の関係は自他たがいに人格として認めあい、「われ」と「汝」が対話をとおして人格的存在
として出会う関係である。<われ―それ>は「われ」と物との関係であり、「それ」は非人格化されて「われ」の
欲求を満たす手段と見られる。「われ」は汝に語りかけ、全存在をもって応える<われ―汝>の関係に入ること
によって本来の「われ」となり、すべての真の生はの中にある。現代の社会は、他者を自分の自己愛的な
欲求を満たす「それ」としか見ない人間性の喪失の風潮が広まっており、「われ」と「汝」の人格的の回復
が求められている。
・二次的欲求(社会的欲求)
愛情や集団への帰属、自己の尊重、真・善・美などの価値、自由、創造、自己実現などを求める社会的・文化的
な欲求のこと。人間の精神的な発達、成熟を求める欲求なので、精神的欲求ともいう。マズローによれば、人間
の欲求は生理的なものから精神的なものへと階層をなしており、人間は生理的な一次的欲求が満たされることに
よって、さらに上位の精神的な二次的欲求の充足をめざす。
・アンビヴァレント(両面価値的)ambivalent
同一の対象に愛と憎しみ、好ましさと恐ろしさなど、相反する感情や態度が同時に存在すること。名詞はアンビ
ヴァレンスで、両面性・両面感情とも訳される。ある人に愛情と憎しみを同時にいだいたり、友人の成功を望むと
同時に失敗を願ったりするなど、対立する二つの感情が心に併存して葛藤をおこすと、心理的な不安が生まれる。
- 11 :
- 高校倫理用語集から
・無意識
自我の意識の活動にのぼらず、自覚されていない心の奥底の部分。フロイトは、人間が意識的にコントロール
できない行動をとることに気づき、無意識の存在を発見した。そして、無意識には性の衝動など本能的な欲望が
たくわえられて、行動のエネルギー源になっており、人間は自覚していない無意識の欲望によって動かされて
いると考えた。
・エス(イド)es(id)
精神分析学の用語で、性的衝動を中心とする本能的な欲求のエネルギー(リビドー)がたくわえられた無意識の
部分であり、欲望や衝動の源泉、貯蔵庫である。エスは、ひたすら衝動を満足させて快感を得ようとする。自我は、
無意識のエスからわきあがる欲求の充足をおさえたり、延期したりしながら現実と衝動とを調節しようとする。
エス(ドイツ語)もイド(ラテン語)も中性単数の代名詞で、「それ」を意味する。
・リビドー libido
精神分析学の用語で、心の奥底の無意識の部分(エス・イド)にたくわえられた性の衝動である。リビドーは、
意志による統制がむずかしい原始的な衝動であり、人間の心や行動をあやつる心的なエネルギーである。青年期
においては、リビドーは男女を性的な成熟へと導き、また学問や芸術やスポーツなど文化的に価値あるものに
昇華され、創造的な活動のエネルギーにもなる。
・エディプス=コンプレックス oedipus complex
性の衝動(リビドー)によって自我の発達を説明しようとしたフロイトの用語。5〜6歳くらいの男の子は、母親
にリビドーを向け、母親の愛情を一人占めしようとし、父親をじゃまものと感じる。しかし、このような願望は
満たされないので、母親への愛情と父親への憎しみは無意識の中に抑圧される。フロイトは、このような子ども
の抑圧された心理を、父親をして母親を妻としたギリシア神話のエディプス(オイディプス)王の名をとって、
エディプス=コンプレックスと名づけた。
- 12 :
- 高校倫理用語集から
・性の衝動
フロイトが人間の心の奥底の無意識にひそむ根源的な欲望としたもの。エロス(eros)やリビドー(libido)とも
呼ばれ、自己や種族の保存欲求、自己や他者を愛する欲求などを指す。フロイトの精神分析学によれば、社会的・
道徳的に許されない性的欲求は、無意識の中に抑圧されるが、抑圧された衝動はコンプレックス(無意識に抑圧
された心的内容の集まり)となり、人間の意識をあやつって理由のない不安、強迫症、手足の麻痺などの神経症
をおこす。フロイトは、無意識に抑圧された性的欲求を意識化し、自覚的にコントロールできるようになることで、
神経症は解消すると説いた。また、本能的な性の欲求が、芸術的・文化的など価値ある活動のエネルギーに転換
されて昇華される場合もある。
・死の本能(タナトス) tanatos
事物を解体し破壊しようとする死への欲求で、対象への攻撃欲としてあらわれる。フロイトは、破壊的なタナトス
の欲求と、人間を結合し統一するエロスの欲求を、人間の二つの根源的な欲求とした。生あるものは無生物の状態
から生まれたものであるから、死への本能は根源的な無生物の状態にもどろうとする欲求とも考えられる。エロス
(性の欲求)とタナトス(死の本能)は心の中でからみあいながら働き、性愛においては男女が親密に一体化し
ようとするエロスの面と、相手を攻撃して支配しようとするタナトスの面があらわれる。生へと向かうエネルギー
であるエロスは、死へと向かうタナトスの欲求を中和する働きをする。
・代償(補償)
ある欲求が満たされないとき、よく似たかわりのもので欲求を満たすこと。ペットを飼ってもらえない子どもが、
かわりにぬいぐるみをかわいがって欲求を満たすことや、自分の持つある欠点や弱点について劣等感を持つ人が、
ほかの方面で能力や才能をのばしてその苦しみを克服することなどである。
・昇華
性の衝動や攻撃性などの本能的な欲求を、社会的に認められた価値のある目標に向けかえて満たすこと。低い段階
の本能的な欲求を、より高い文化的な価値を持つ学問・研究・芸術・スポーツ・社会団体の活動などに向け、創造
的な活動のエネルギーに転化して発散させることである。フロイトは、芸術や宗教などの文化は本能的な性の欲求
が昇華されて生まれたものであると考えた。
- 13 :
- 松本元「愛は脳を活性化する」から
ラットの情動実験の例でもわかるように、脳が損傷を受けていても「快」の情動を受け入れることは可能である
から、それによって脳の活性が向上し、脳内に入力される情報を処理する回路が作られるのである。この結果、
情動情報が脳活性を制御し、脳が自ら価値を認めた情報を処理する神経回路が脳内に表現される。これが「愛は
脳を活性化する」という意味である。
関係欲求が充足されないと、たとえ生理欲求がよく充足されていても、脳活性は上がらない。外部情報に対し
価値を認めることができず、意欲も上がらないために、脳の発達(神経回路の整備)は不全となってしまう。
脳は、遺伝的な生理欲求と関係欲求を基に、外部情報の価値を判定するところから成長を始め、この価値判定に
基づいて行動規範を決める。それと同時に、価値によって脳内活性を調整し、学習能を制御することで、価値情報
処理回路を形成する。そしてこの処理回路による価値基準に基づき言動出力し、外界からの応答結果を再評価して、
必要とあれば価値情報処理回路を変更、修正する。すなわち、価値情報処理回路も遺伝的な欲求(生理欲求と関係
欲求)をベースにしながら、学習によって脳内に固定化され、外部情報はその回路を活性化することで価値判定
の結果を出力するのである。
「愛」とはこうした関係欲求における価値表現である。つまり、愛とは人との関わりを求め、人の存在をそのまま
受け入れるための価値尺度ということになる。そしてわれわれは、愛をもつためには、自分自身が愛を受けた経験
をもってそれを学習し、脳内にそうした回路を形成していかなくてはならない。
N君の例でもわかるように、愛は脳を活性化し、意欲を向上させて脳を育てる。われわれが、どんな悪い状況に
あるときでも、愛によって支えられることでエネルギーが得られ、問題の解決につながるという経験をするのは
そのためである。そして人は愛なしには生きられない動物であり、愛されることによって安心感を得て、「その
ままの自分をいきいきと生きる」ことができるのである。
困難や苦しみから逃げないで立ち向かう勇気は、愛によってのみ与えられるだろう。愛は人が成長する源であり、
心の活性化エネルギーなのである。脳にとって最大の価値、そして活性化のもとは、関係欲求の充足であり、それ
は愛という概念で表現されるものなのである。
聖書を貫く基本精神は、人はすばらしく時間発展する可能性をもった存在であるということ、そしてすばらしく
発展するための必要かつ十分条件は「愛」である、という二点に要約できると思う。
- 14 :
- 香山リカ「<じぶん>を愛するということ」から
「だれかを愛する」ということの最初は「私を愛する」だということです。しかも、その「私を愛する」は「ダメな
私を愛する」ではなくて、「何でもできる世界一の私を愛する」というかたちで経験されなければならないのです。
斎藤環「ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ」から
人は誰しも、生きていくうえで「自己愛」を必要とします。これは、いわゆる「ナルシスト」という意味ではあり
ません。例えば「自分は自分である」という当たり前の感覚、これが自己愛です。行動や考えの出発点に「自分」が
あること、これも自己愛です。「自己中」ではありません。それは自己愛のいびつな形にすぎません。他者への愛情
も、思いやりも、犠牲的精神も、その出発点はすべて自己愛です。精神分析によれば、あらゆる愛と欲望の出発点が
自己愛ですから、これは当然のことです。
人は自己愛なしでは生きられません。精神病で自が起こりやすいのは、病が自己愛を破壊してしまうためでも
あります。
自己愛のなかでも、特に自分に向かう自己愛は、「自信」、もしくは「プライド」という形を取ります。この二つは、
なかなか一致しません。それどこから、しばしば反比例します。プライドの高い人は往々にして自信がありません。
自信がある人はプライドにあまりこだわりません。
ひきこもりの人は一般に、自信がないのにプライドが高い。いや、自信がもてないからこそプライドにしがみつく
のかもしれません。ひきこもっている人の多くは、自分自身を愛することに失敗しています。
自信とは、自分に対する肯定的感情です。つまり愛の一種です。では、どうすれば自分を愛することができる
でしょうか。がんばって立派な社会的地位を得ること?そうではありません。それは過程にすぎません。自分を
愛せない人が、それでも自分を愛するためには、まず他人から愛されなければなりません。そして他人から愛
されるためには、他人を愛さなければなりません。自分を愛することができない人は、しばしば他人を愛する
こともできない。ならば、どうすれば他人を愛することができるのでしょうか。難しいことですが、決して不可能
ではありません。愛すべき他者とのを遠ざけないようにすることです。他者との親密な関係抜きでは、
なかなか安定した自信は回復できません。
専門家までもが、ひきこもりの自己愛を問題視するたびに、私は「それはちょっと違う」と感じてきました。なる
ほど、確かに彼らの多くは、家族に対して自己中心的に振る舞うことがあります。しかし、「世間」や「社会」を前に
するときは、彼らはひどく自信なさげな態度を示すことが多いのです。むしろ彼らは、自己愛が弱すぎるがゆえに
追い込まれているのではないか。これが私の、偽らざる感想でもあるのです。
同じ「ひきこもり」について、まったく相反する見解があるわけです。しかし私にいわせれば、ひきこもりの自己愛
を問題視する人は、しばしばあることを忘れているように思えます。つまり、「プライド」と「自信」は決定的に異
なる、という事実を。
もったいぶらずに言い切ってしまいましょう。ひきこもっている人の心は、一言でいえば、「プライドは高いが自信
はない」という状態にあるのです。
奇妙な表現と思われるでしょうか。自信とプライドは同じことではないのか?と疑問に感じられた方もいるでしょう
か。しかし、例えば「むやみに威張っている人」の姿を想像してみてください。わたかりやすく威張る人に限って、
本当は自信がないので、バカにされることを恐れてびくびくしています。つまり虚勢は自信のなさの裏返しなのです。
- 15 :
- 村上龍「誰にでもできる恋愛」から
恋愛はコミュニケーションの一種だ。
結論から言うと、誰にでもできる恋愛などというものはありません。男も女も同じです。
威張るという行為のほとんどは甘えだから、むしろ誇りというのは、甘えずにすむために、すなわち威張ったり
しなくてすむために必要なのだ。そして誇りが自信を生む。本当に自信のある人は決して他人に威張らない。
必要がないからだ。自信があるときは誰にも甘えずにすむ。しかも金銭的な余裕だけでは自信は生まれない。
自信は、困難だが充実したコミュニケーションを成立させたときにも発生する。困難で充実したコミュニケーション
の成立というのは、自分が属す集団の外との関係性においてのみ成し遂げられるものだ。
名乗り出る、という言葉があるように、名前を名乗ることには大きな意味がある。それは、自分の全存在をかけて
相手と対峙するという覚悟の表れだからだ。
匿名による訴えにどの程度の信憑性があるのかわたしにはよくわからない。もちろん匿名でなければできない
訴えというものがあるのは理解できる。
- 16 :
- 愛なんてのは持ってない奴が声高に叫ぶものだ
持ってる奴は空気のように当たり前のものなので、イチイチ持っているなどと言わない
例えるなら俺は二足歩行が出来るんだぜと威張っているようなもの
- 17 :
- 著名人の言葉や上手い言葉が絶対の答えじゃないだろ、あれは無限に出て来る愛の一端だ。
- 18 :
- 自分を愛せなきゃゴートゥーヘルなんだよベイベー!
- 19 :
- 高校倫理用語集から
・神の愛(アガペー)
アガペーは、ギリシア語で愛を意味するが、キリスト教においては神がすべての人間に平等に与える無差別の
愛、無条件の愛をさす。イエスは、天にいます父なる神は悪人にも善人にも日をのぼらせ、正しき者にも不義
の者にも雨を降らせて、すべての人を平等に愛する愛の神であると説いている。神の愛(アガペー)は、神に
そむいた罪人である人間をも救う神の無償の愛、つまり見返りとしての対価を求めない、恵みとしての与える
愛である。神の愛に生かされた人間は、その神の愛にこたえるために神を愛し、隣人を愛するべきである。
キリスト教の教義においては、神の愛は人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架上で犠牲になったイエス
の贖罪の行為において、明らかに示されている。
・隣人愛
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という、イエスの説いた愛。神の愛(アガペー)に生かされた
人間は、その愛にこたえるために、神の愛にならっておのれの敵をも含めて、すべての人を平等に愛するべき
である。隣人愛は、人生で出会った人の呼びかけに応じて、救いの手をさしのべ、その愛によってすべての人
をみずからの隣人へと変えていくものである。キリスト教では、神の人への愛、人の神への愛、人びとの愛など、
無差別で無償の愛はすべてアガペーと呼ばれる。
- 20 :
- 高校倫理用語集から
・慈悲
仏教における普遍的な命への愛のこと。慈(マイトリー)とは、いつくしみであり、他者に楽しみを与えること。
悲(カルナー)とは、あわれみであり、他者の苦しみを取り除くこと。人間に限らず、動物や草木に到るまで、
生きとし生けるものすべての幸福と平和を願う心。仏陀は我執やものにとらわれる心を捨て、進んですべての
生命を愛することを力説した。
- 21 :
- マザー・テレサの言葉
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/lds/teresa.htm
もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして
私が、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったから
です。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、
もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。
この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。自分が誰からも必要とされないと感じることです。
そして、今日の世界における最悪の病は、そういう人に対する愛が足りないことです。
この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
西欧で、今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、愛しあわず、互いに心配しないという病です。この病
を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです。
恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識
なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させる
ことこそが、愛を教えることなのです。
貧しい人々が一番求めているのは、哀れみではなく、愛なのです。
愛の反対は憎しみではなく無関心です。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近な
ところから始まります。
人間にとって最も大切なのは、人間としての尊厳を持つことです。パンがなくて飢えるより、心や愛の飢えの
ほうが重病です。豊かな日本にも貧しい人はいると思いますが、それに気づいていない人もいるでしょう。
豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されてい
ないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢え
よりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。
神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つことがことができます。
国と国の間に大きな違いはありません。どこへ行っても出会うのは人々ですから。異なった外見、異なった服装、
異なった教育や異なった地位であっても、みな同じです。どの人もみんな愛すべき人です。みんな愛に飢えて
いるのです。
- 22 :
- 無関心の反対は興味であって
愛にはならないと思うんだがな
- 23 :
- 万人は平等だという観念を持っていても、
愛が欠けているのならばその人は無にひとしい。
あらゆる機会を与えられ健康な体を与えられても、
人を愛さなければ無にひとしい。
人々は人間の平等を口にしながらも、知性に優れない者を軽んじている。
その一方で、賢者たちを重く見ている。
人々が実際に愛しているのは魅力のある人たちだけではないだろうか。
魅力の薄い人を愛していないのではないか。
そういうふうに人に差別をつけるのは、世の常に他ならない。
本当に愛情から行動に出るのなら、よい言葉を贈る。
その言葉はどんな豪華な贈り物よりも貴いものなのだから。
- 24 :
- 言葉は愛とともにある。
言葉が愛自体である。
言葉によって、人の文化が創造されたのである。
創造された文化で、何一つとして言葉以外によってつくられたものはない。
この愛には知性があった。
人の光となる知性である。
この光は闇の中で輝いていた。
思いがあれば、それだけで救いとなるのだろうか。
思いさえあれば、何もかも救われるというのだろうか。
たとえば、誰かが愛と言葉に飢えているときに、
「安心せよ。どこかで暖まり、どこかでもらえ。おまえは一人ではない」
と言うだけでいいのだろうか。
「私には信仰がある」「人間は平等だ」といくら言い張ったところで、
愛と言葉を与える行いがないのならば何の意味もないのではないか。
- 25 :
- 小谷野敦「友達がいないということ」から
一般には、西洋ではキリスト教によって同性愛は弾圧された、とされているが、これも、英国の歴史学者ジョン・
ボズウェルの『キリスト教と同性愛』によると、そうでもなく、むしろルネッサンス朝から16世紀ころにかけて、
同性愛に対する非寛容が広まった、とされている。
森岡正博という倫理学者も、「無条件の愛」などと言っているが、恋愛関係であろうと友達関係であろうと、
相手を選んでいるのだから、無条件などということはありえない。
そもそも「愛」という言葉は、間違って使われている、と私は考えていて、それは西洋でも同じこだが。本来、
「愛」であれラヴであれ、博愛とか人類愛といった、排他的でない感情や態度に使われるべきものであって、
恋愛や家族愛などという、相手を限定したもに使われるべきではないのである。
恋愛の場合は特にそうだが、1人の相手を選んだ時に、相手も自分も、それ以外の誰かを排斥していることが
多いのでありそれは「愛」とはいえない。恋愛というのは差別的なものなのである。
それは友達関係でも同じであり、誰かを友達として選ぶ場合に、人はそれ以外の人間を排除し、差別している
のである。そんなところで公正さなどを求めるのは、間違いである。
- 26 :
- マゾヒズム、罪悪感、神への愛、隣人愛、無差別の愛
- 27 :
- 今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
社会関係のなかで生きながら、承認欲望を否定することなどは不可能である。「生きること」と「承認欲望」
とは同じことなのである。仮に承認欲望がないとすれば、社会関係もなくなり、人間であることそれ自体が
消失するであろう。
中山元「思考の用語辞典―生きた哲学のために」から
お前を俺達のメンバーとして認めない。ここから出ていけ。排除する(exclude)とは、ある共同体からこんな
ふうに放逐することだ。たとえば日本という国から排除する。たとえば仲間うちのサークルから排除する。
暴力はぼくたちにとってもごく身近なものである。知らず知らずのうちに他者に暴力をふるっているかもしれ
ないからだ。たとえばぼくたちは学校で、親しい友人たちとグループを作る。そのときそのグループから排除
された他の人々がいる。親しいグループを作るという友愛の行為の背後で、知らないうちに他者を排除し否定
する暴力を行使しているかもしれないのだ。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」から
孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないという
ことである。
人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の
達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人
とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、
自分の全体性を失わない。
- 28 :
- 反応や承認をもらえない環境で自己表現を続けていると、感受性はミイラのように乾き、人間らしい感情に
富んだ表現が減るように思う。これは他者への愛の問題とも関係しているように思う。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」
人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れている
のである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手
の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
- 29 :
- 反応や承認が得られない環境に置かれると、自己表現の豊かさが削られる。
- 30 :
- 自我理想となるような立派な権威ある他者の表現の模倣を行なうのは、
自己愛の傷つきが原因で、周りにいる自分より偉そうにしていて傷つけて
くるヤツらより、上位の存在を持ちだして周りを低く見ようとする意志も
含まれているのかな
- 31 :
- 人間の表現は言語的行為であり愛である。
子どもの頃に親から愛され、自分を愛する事を知った人は、他人を愛する事ができ、
他人を愛する事で自分も愛される、自分が愛される事でさらにもっと他人も愛する
事ができる、という安定した相互承認関係を築くことができる。
- 32 :
- 愛(笑)
- 33 :
- 「論語」から引用改造
富と高い知性は、人の欲するものであり、貧と低い知性は人の嫌がるものだ。
友と敵の間に境界線を引き、友と親しく付き合い、敵を排除するなら、それも広く考えれば政治をしている
ことである。官職に就くことばかりが政治ではない。
管理者にとって耳の痛いことを言えば、罰を受けやすい。魅力や人との繋がりの薄い人は排除されやすい。
私は美人を好むように徳を好む人を見たことがない。
名声があり中身もある人は、正直で正義を愛し、人の言葉の奥を読み取り、配慮して控え目にしている者だ。
有名だが中身のない人は、うわべは耳に心地よい言葉を発するが、内容を伴わず、そんな実のないあり方に
安住してるくせに、評判だけは良くするようにしている者だ。
口のうまい者に乗せられると、善悪の区別があいまいになり、徳が乱れる。
人は生まれたときから資質や気性に違いがあり、学びと規律訓練の有無と受けた愛によって、さらに互いに
遠くへだたる。
周りの人がこちらへの権利侵害を容認しているのであれば、武ではなく文の徳でこちらに引き寄せ、情報を
引き出すのが道理にかなったことではないだろうか。今、「植民地化された交換の閉域」にいながら、わざ
わざ行き先に足を運んでくれた人と意志疎通もできていない。想定している権利侵害の状況で生命の危機を
感じることもあるのに、助けを求めることもできていない。
- 34 :
- 神山健治がツイッターで、アインシュタインの言葉から「力は常に道徳に劣る人間を惹きつける」という引用
を行なっているけど、生徒が教師のような知識を得たい、スポーツ選手がオリンピックの映像を見てあんな
能力を得たい、素晴らしい演奏を聴いて自分も上手く楽器を演奏できるようになりたい、とか思うのも非道徳
的な人間の思いなのだろうか。
知識、知力、能力、熟練した技術、どれも「力」だと思うんだが。権力を持った人に近づいて「自分も特別扱い
を受けたり、周囲の人に凄い人と思われたい」と思う権威主義的性格の人にはモラルが欠如している人が多い、
とかいうのなら理解できるが。
- 35 :
- >>34
お前は頭が悪いって事が判った
- 36 :
- >>35
じゃあ、あなたの優れた知性を示してください。
こういうレスって、「俺の方がお前より上だ!」って、サルのマウンティング
のような行為に思えるんだが。
- 37 :
- 女にとって、愛は男と同じじゃないんだよ。知ってる?
女が愛する男は、実益と利用価値のある男だけ。
他にもっといい男が現れたら、簡単に心変わりして男をポイ捨てする。
だから女は愛していない事を男に悟られぬよう、猫を被るという特殊能力を持っている。
愛していなくても、男に悟らせずに愛しているふりを続けられるのが女。
男女関係の法律に、女を守る物が圧倒的に多いのは知っているかな?
女はそれを最大限に利用する。迂闊に結婚などしようものなら、恰好の餌食だ。
DV法でガチガチに守られているから、男は女に一切手を出す事が出来ない。当然女は増長する。
だから、夫が妻の尻の下に敷かれるという図式は、既に結婚をする上で前提となっている。
浮気などしようものなら、慰謝料に財産の半分、子供の養育費と、徹底的に毟られてあっさり捨てられるぞ。
そしてまた女は新たな「財布」を探す。女にとって男などその程度の価値しか無いんだ。
女が男を尻に敷く。この図式だけでも、既に愛などというものは幻想だとわかるだろう。
女は男を愛さない。自分にとってより有益な雄を求めているだけ。一生添い遂げるなんてとんでもない。
退職金貰った時点で、熟年離婚でまた毟られる。女は男から搾取する事しか考えない。
その証拠に、女は自分の為に男が金を使う事を異常なほどに求めるが、
男が自分自身の為に金を使おうとすると、節約しろ節約しろとうるさい。
抵抗は無意味だ一たび抗おうものなら、たちまちDV法の餌食になるぞ。
男女間の愛など、現実には存在しない。愛は二次元に求める物だ。
愛なんてものは、女の本能には組み込まれていない。御伽噺の中の幻想だ。
愛は男だけの物。男だけが、真に人を愛する事が出来る。
聖人と呼ばれる御仁を除けば、人を愛する事の出来る女などいない。
- 38 :
- >>37
で、君は男なの?女なの?
女の真実とやらを男が語っているのは変だし、女だとしたらこの板に書き込むのは
禁止されているはずだが。
君が描いている女の真実は何に基づいて書いているの?
- 39 :
- >>37
感動した
よく言った!!
- 40 :
- そういえば宮台真司の「中学生からの愛の授業」積読のままだ。
- 41 :
- 積読と自己愛とひきこもりの関係は、私以外で言及しているのを見た事がないんだけど、
誰か他の人で言及しているのを知っている人いるかな。
- 42 :
- ラカンの対象aと永井均の<私>は、似た概念に思えるけど、言及している人を見た事がない。
誰か他の人で言及しているのを知っている人いるかな。
あとネットの学術系コミュニティは自分がその学者の名前を知っているという、ファッション
というか、知的装いの為に参加している人ばかりの為なのか、有益な情報があまり流れないのは
なんでだろう。政府の方針でネットを勉強のために使わせないようにしていて、国民もそれに
従っているとか?
- 43 :
- >>36
俺、自分より馬鹿相手に話するの苦手なんだよ
馬鹿にもわかりやすく説明できるようになりたいと常日頃から思ってるんだけど
ごめんな
- 44 :
- >>43
じゃあなんで話しかけてきたの?
http://www.geocities.jp/toku2501/buddha.html
- 45 :
- ここまでのお馬鹿さんだとは流石に予想外だったからさ
それすらも解らないとかやっぱ半端ねぇな
- 46 :
- なんかまともな意見も言わず「俺の方が上!俺の方が上!」ってやたら示そうとする人は、
自分か仲間が傷つけられた人なのかな。それも自分より下と思っている人に。
- 47 :
- Ao1FNs0t0、あなたは相当学のある人だよ、それは確か。
だからこそ意地悪はよくない、あなたにふさわしくない。他人を許すくらいの自信は持っても罪にはならないはずだよ。
- 48 :
- 私が人にバカにされると傷つくのは、
手に傷がありそこに毒をぬると毒が体に回り苦しむようなものであり、
傷のない人は毒(侮辱など)に触れても苦しまないのかな。
- 49 :
- つまりそれは人にバカにされると脳がやたら過敏に反応してしまってこんなこと大したことではない笑ってやり過ごしてやるんだとか考えようとしても
なんであのときバカにされなくちゃならなかったんだろう自分の発言は何ら矛盾したところはないのにどうしてどうしてってイライラが募りそいつがどんどん膨らんでいく
といったことなのだろうか、そうだとしたら毒に苦しまない人はいるはず。例えばどんなに自分に非があっても無意識的に責任転換ができる人。
どんなに問題の原因がその人にあってもその人にとっては自分は悪くないのであり、よってどんなにバカにされようと自分は正しいのだと思っていられる。
それは毒に苦しまないということにならないだろうか。
そして思うんだけど、傷がないとはつまり自信があるというとこではないだろうか。自信がないから毒がよく回る。そしてその自信とは案外根拠のないものかもしれないという考えが頭をかすめたけど、
もう混乱してきたから終わりにする。
- 50 :
- ↑混乱気味なのは良く判った。
まぁ、痛みを辛いと思わなければいいんですよ。
「幸福感」も「不幸感」全部捨てて、ヘラヘラしてれば。
でも>>48なら俺みたくバカじゃないから、幸せになれそうな気がする。
- 51 :
- 自演すんなよ
- 52 :
- ?
- 53 :
- 綿矢りさ「亜美ちゃんは美人」から引用改造
人間の基準なんて、ほかの人間との比較がすべて。人々は二人をさっとながめ、瞬時に品定めをして優劣を
つけて、Aを上等、孤男をニセモノの粗悪品だと判定する。いままでも、ネットで、孤男はさんざんそういう
目で見られてきたのだろう。ただはっきり言う人が少なかっただけ。匿名だと言いやすいから2ちゃんねる
では警察右翼がのさばり、孤男をバカにしているんだろう。
「孤男のような人は、知人はいても友達はいないものです。たとえネットの匿名の場でも、人の気持ちや場の
空気を読めない人は、元来孤独なものですからね。でもそんな孤男でも丁寧に扱ってくれる人格者がいるおか
げで、特定の常連の書き込みがほとんどを占める、ネットの掲示板というコミュニケーション能力が必要な場
にも入ることができた。ネット外だと、孤男は年齢もかなり違う人たちの大学生活には馴染めていなかった
でしょう。きっとうまく人間関係が築けなかったでしょう。孤男は天然なところがあるし、自分から人に話し
かけるのも苦手だし」
孤男を愛してくれる脳内人物でしか、孤男の心にぽっかり空いている部分は埋められない。孤男はだれからも
愛されないという究極のさびしさを知ってしまっている。孤男は自分を愛してくれる脳内人物の存在という
幻想を見ている。やっぱりその程度か、やはりバカ、それでこそブサイク。みんな口々にそう言って、孤男の
知性や人格を見下し安心してきた。孤男は無意識のうちにそうした体験を反復するような言動をしてつらく
なっていった。自分を囲う見えない警察右翼の幻影と交換の閉域から抜き出すために、孤男は自分の世界の
外側にいる脳内人物と本の中の言葉を選んだ。つまり、自分を無視する人ではなく、自分を見つめてくれる人を。
強い軽蔑と無関心。他人のそんな感情に、孤男はずっとさらされてきた。男女問わず、孤男はいつでも蔑まれ、
誰もが直接コミュニケーションしたがらず、誰にとってもいらない存在だった。
- 54 :
- 綿矢りさ「亜美ちゃんは美人」から引用改造
みんなEとは話したくないんだ。文章がブサイクだしバカだから友達にしたくない、自分のグループに引き込み
たくない、義務と礼儀として以外は関わりたくない。Eは対等な人間ではないんだ。ネットにおいて文章の美醜
はその人の価値そのものとイコールで直結する。性格が極悪でも文章から魅力が感じられる人はとびきり高い
点数をつけてもらい、ネット論壇に君臨し、のさばり、その逆の人は早い段階で、掲示板管理者と常連でいつ
別の場所に追い出すか何度も話し合うほどネットの隅に追いつめられる。
在日を見下し対等に扱わない警察右翼になれば、ネット生活、安泰かも、とBは判断しているのだろうか。
http://www.geocities.jp/toku2501/amichan.html
サン=テグジュペリ「人間の土地」から
道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。道路というものは、人間の欲望の
ままに泉から泉へと行くものなのだ。
ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」から
この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、
消費しえないものなのである。アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態(手にふれられるような形や体)
をとることもなく、またいかなる形象(眼に見えるような姿や形)をなすこともなしに存在していたその時に、
この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。この死には、モデルがないわけ
ではない。
この主体は、固定した一定の自己同一性(身元)をもたない奇妙な主体である。この主体は、器官なき身体の
上をさまよい、常に欲望する諸機械の傍にあって、生産されたものからいかなる取り分を吸収するかによって
自分が誰であるかを明確にしてゆくものなのだ。
- 55 :
- 日記帳じゃないんだからチラシの裏に書いてろ
- 56 :
- 死の本能、死の欲動、タナトス、って「愛の欠如」と解釈しているけど、ok?
- 57 :
- 孤独だし読書しようぜ十三冊目
821 :名前は誰も知らない:2011/07/20(水) 23:37:01.95 ID:xzhWVHhM0
百頭の羊のうちの一頭が群れを離れて、どこかにいなくなってしまったら、
多くの羊飼いは九十九頭の為に一頭を捨てる。
迷っている一頭は誰からも声をかけられず、本の世界に助言を求める。
822 :名前は誰も知らない:2011/07/21(木) 00:00:47.24 ID:igFBhCkm0
なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、
九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。
ルカ15:4
823 :名前は誰も知らない:2011/07/21(木) 02:35:10.99 ID:UBA25LMm0
羊は羊飼いへの服従している事に耐え切れず、群れから飛び出し、
本当の自由を手に入れ、日増しに野生化し、なんとその羊は皮を被っていた事に
気づき羊の皮を脱ぎ捨て、狼になりましたとさ。 おわり。
832 :名前は誰も知らない:2011/07/21(木) 22:07:24.42 ID:g+yPNb2m0
羊飼いの言うことをきかない一頭の羊は、
九十九頭の羊と羊飼いによって辱められ群れから追放され、
傷ついた羊は書庫にひきこもり、大量の本のテクストの断片の組み合わせで、
自分のモノガタリを書き記す。
837 名前:名前は誰も知らない :2011/07/21(木) 22:55:07.45 ID:g+yPNb2m0
恥の多い生涯を送ってきました。
自分は真っ白な羊の群れの中に、ぽつんと入りこんだ黒い羊のようでした。
他の羊たちと同じものをこなす事ができず、
同じように友達をつくる事ができず、
同じ羊飼いに従う事ができず、
他の羊たちが常に感じるもの――場の空気や距離感や孤独のきまずさ
を感じることができない惨めな黒羊にできることは、
黒い毛皮に白い粉をまぶし、白い羊のフリをすることだけでした。
そうして、自分は今も、仮面をかぶり、白い羊を演じ続けています。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/alone/1304217710/l50
- 58 :
- ありのままで生きていけたらいいよね
- 59 :
- アキレスと亀のパラドックスで、私は亀のような存在で、
警察の言動予測により、外から見ると亀は追い抜かれているのが確認できるが、
亀である私は無限後退しているつもりでいる。
- 60 :
- 他者にとっての(言語としての)自分、これを他者はその人の実質という。
自分にとっての自分、これを他者はその人の自惚れという。
神の恩寵から見放された無力な受難の中にいる、寄る辺なき孤独な存在は、
過去における他者の語らいの中に埋もれ、言葉を発さずまなざしのみを自己
表現の手段としている。
- 61 :
- 警察右翼の在日に対する盗聴に関する反応は、魅力の差異、親密な対人関係の有無、監視対象者の在日の
持つ知識、その他多くの要因によって異なる。政治難民として人権やプライバシーや通信の秘密を希望する在日
に対して、言語表現から知性が感じられないとして「ここはお前の日記帳じゃないんだ、チラシの裏に書いてろ」
と排除し、反日工作員として犯罪者扱いされ、警察右翼の加害者を拉致被害者として警察に保護されている事
を問題視する声は、在日が確認できる環境では聞いた事がない。
- 62 :
- 32 :名前は誰も知らない:2011/10/07(金) 14:16:29.29 ID:8+Y1Fnqg0
小谷野敦「友達がいないということ」から
精神分析とかカウンセリングとかいうのは、科学的根拠に乏しく、つまりそれで治るという見込みは薄い。
日本では精神分析医というのはあまりいないが、米国では一時期大流行していた。とはいえ、いずれも、友達
とか、個人的なことを相談できる相手がいない場合の話し相手にしているのが実情ではないかと思う。といって
も、もちろん、カネはとられる。の相手がいない相手に、カネで相手をするのが娼婦なら、友達がい
ない相手に、カネで話し相手になるのが精神分析医やカウンセラーである。こんなことを書くと、侮辱だと言っ
て怒る人がいるかもしれないが、それは娼婦に対する侮辱である。
40 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 01:30:21.49 ID:2iJv0OSXO
>>32
娼婦を侮辱して何が悪いんだ?
41 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 02:52:19.83 ID:uiV2a9pb0
>>40
職業に貴賤なし!人間は平等だ!
42 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 05:07:51.49 ID:2iJv0OSXO
>>41
あるだろ
頭イカれてんのか?
43 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 06:15:35.48 ID:uiV2a9pb0
>>42
もし人間が平等でなく職業に貴賤があるなら、あなたはだいたいどの辺に位置しているんですか?
44 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 07:03:11.19 ID:2iJv0OSXO
>>43
デタラメな文章だな
そんなことより職業に貴賤が無いのは何故か弁明してみろよ
45 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 07:38:52.54 ID:uiV2a9pb0
>>44
差別をしない人に、なぜ差別しないのか聞いても意味ないと思うけど
差をつけるから意味が生まれるわけで
あなたは職業に貴賤があると思っているなら、
自分が賤しい身分の職業に就いているのか、高貴な身分の職業に就いているのか、
何をもって人を上下に分類して、その分類体系の中では自分はどのへんなのか、
答えれるよね
49 :名前は誰も知らない:2011/10/10(月) 00:37:18.54 ID:IZF/Z0tx0
職業に貴賎はある。賎しい仕事なんぞいくらでもある。たとえば金融とか
たとえばギャンブルとか。
ついでに貴賎とは隣くらいだが、地位の差や世間体も確実にある
通常それが貴賎と言われてるかも知れん
- 63 :
- 言語とは、その人間の表現であるとともに、人間そのものを形成してゆく。
ゆえに表現の価値をにないえぬ言語は、すなわち偽りの言語であり、それ自身、弱さである。
言語とイメージは、相互媒介的なものである。
集団心理は個人心理に支持され、個人心理は集団心理に支持される。
個人を取り巻く人間環境は、その人の心を映す鏡である。
心理と行為が一致して善い行ないを継続すれば、善い結果が返ってくる。
- 64 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」から
小説が、ぼくに教えてくれたものは、生活の基礎としての愛、人間が存立しうる基礎としての愛だ。ぼくの
生活の空虚さは、かかる愛の喪失だ。それならば、どのようにしたら、この愛が取り戻せるというのだ。
- 65 :
- お前のメモ帳じゃないんだ
駄文でーかよ
- 66 :
- やってるだけだな。
- 67 :11/12/04
- >>65-66
愛について語ろうぜ!
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退屈な日常と闘う孤男