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2011年10月1期中国英雄【みんなで】中国愚将百選【決めよう】
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韓国英雄板がないのは人種差別ニダ!!
【みんなで】 中国猛将百選 【決めよう】
【中国の】 公主 【お姫様】
【写写】◇用漢語談英雄◇【中文】
【みんなで】中国愚将百選【決めよう】
- 1 :06/12/09 〜 最終レス :10/11/27
- 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろうアホ将軍百名を選ぼうというスレです。
・推挙する武将については、その理由を述べること。
・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。
・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。
以上の三点に留意して、中国愚将百選を決めましょう。
- 2 :
- 項羽
国家経営や戦略では全くといっていいほど良い点がなく、
まだ再起の可能性もあり支持者もいたのに自滅を選ぶ
- 3 :
- 魏豹を是非!
- 4 :
- 武将とは言えないかも知れないが、朱祁鎮
- 5 :
- 曹豹に一票!
- 6 :
- つまり、勝利を痛みわけにし、痛みわけを敗北にし、敗北を総崩れにする男か……
そこまで酷い奴、て本当にいるのか?
- 7 :
- 生兵法さん
- 8 :
- 趙括
長平な戦いの敗将
- 9 :
- ここ1500年間の中華豚全て。
- 10 :
- とりあえず
・大軍を擁しながら為す術もなく大敗、挽回もできていない
・戦略的に著しい欠陥がある
・異常に敗北が多い
このあたりが条件だろうか
- 11 :
- 三国志でいうと
馬ショク(山頂布陣)
キョウ維(無謀な出兵を繰り返し、黄皓と並んで蜀滅亡の元凶)
袁タン(政治、戦略、戦争全てにおいてダメダメ、袁家滅亡の遠因)
張勲(大将軍に任命され、10万の軍を率いながら大敗)
呂布(酒色に溺れて人徳もないバカ)
夏候ボウ(帝族でありながら蜀に大敗、後に解雇)
蔡帽(孫堅相手に意気込むも大敗、後には荊州を混乱に引き込んだうえ降伏)
董卓(黄巾相手に大敗し政界を牛耳ってからは洛陽を焼いて人望失う)
何進(将軍になったのが間違いの肉屋)
袁紹(官僚時代にも戦略眼のなさを露呈、連合軍をまとめられず、後には世紀の大敗)
とりあえずあげてみた。
- 12 :
- おお、麻秋のためにあるようなスレだ!
麻秋(太原出身、?〜350年、後趙の将軍)
対前燕戦:大軍(30,000)擁して慕容恪(7,000)らに惨敗、降格処分
対前涼戦:大軍(80,000)擁して、白面書生の謝艾(30,000)に翻弄される
大軍(120,000+20,000)を擁して、またもや劣勢の謝艾(20,000)に撃破される
苻洪を毒して、勢力を乗っ取ろうとして失敗、配下の兵達にされる
戦略決めてたのは主君の石虎ではあるが、余りにも駄目すぎるぜ!>>麻秋
- 13 :
- その負けっぷりは萌えるな
そんな奴に3回も兵を与える石虎もアレだな
- 14 :
- とりあえず 〜戦国時代であげていこうか
- 15 :
- 宋襄が最高に馬鹿じゃないの?
いらん聖人気取りで勝てる戦を捨ててボロ負けした
宋襄の仁なんていう諺になるぐらいだから
もっとも君主だから将ではないかも
- 16 :
- テンプレ
【名前】
【時代】
【理由】
- 17 :
- 【名前】 殷浩
【時代】 南北朝
【理由】 政変ラッシュで乱れていた北に進軍して勝ち進むものの、配下の名将姚襄が裏切るとさっぱり勝てなくなって、すぐに失脚しました。何をしに出てきたのでしょ?
- 18 :
- 【名前】王衍
【時代】西晋
【理由】名家のボンボンが、容貌の良さと弁舌の巧みさ、一見すると素晴らしい機転の利き方だけで
政府首脳に取り立てられた結果、西晋の軍事主力を壊滅させる大敗を演じてしまった
あろうことか、敵方である異民族奴隷将軍石勒に媚び諂い命乞いまでする始末
「天下を滅ぼせしは、君にあらずして誰ぞや!」と叱責された上、壁につぶされて害される
合衆国国防長官が、一介のアフガンゲリラあたりに処刑されるぐらいショッキングな事件
血統の良さや、口先三寸、人気といったものだけで人物を要職につけてはいけないという良い見本
- 19 :
- たとえ名将でも、最後に無様な敗戦をして、
みっともない死に方をしたら、それで歴史上の評価は定まっちゃうな。
- 20 :
- 麻秋の宿敵の謝艾が名将100選候補に入ってるね。
これは相手が凄かったのか、それとも…
- 21 :
- 【名前】呉王・夫差
【時代】史記
【理由】伍子胥と孫子を得ながら、アホ宰相を重用して国を滅ぼした。
しかし後の故事に残るのだから、案外凄いのかもしれない
【名前】馬謖
【時代】三国志
【理由】街亭で命令違反し、蜀の最後の命綱を断った。
しかし後の故事に残るのだから、案外凄いのかもしれない
- 22 :
- 【名前】 袁紹
【時代】 後漢
【理由】 名門出身であるため旗揚げ当時から大勢力になり、
配下に曹操にも負けない多数の能臣をそろえながら、
見事なまでの決断力の無さと傲慢で徹底的に機を逃し続け官渡でサヨナラ。
スタート地点が有利だっただけで三国屈指のバカ君主だと思ってる。
- 23 :
- >配下に曹操にも負けない多数の能臣をそろえながら、
んなことはないのでは
- 24 :
- 曹操の配下にも負けない将がいたの間違いじゃ?
まぁ袁紹ヘボってのは同意だが、下を探せばかなり凄いのいそう。
- 25 :
- なんていうか、いつの間に君主を語るスレになったんだよ
- 26 :
- 荀ケか郭嘉あたりに奸臣ばかりとか酷評されてた気が
袁紹自身に問題があるのは確かだが、家柄に惹かれてきた人物が多かっただろうから、
人材面で曹操の負の部分を負わされた、という見方も出来るかもしれない
- 27 :
- 【名前】ケ禹
【時代】後漢
【理由】光武帝の功臣二十八将の筆頭だが、関中の攻略を任された時、主君の命令を無視して戦略的に無意味な行動をとる。
結果、30万という大軍を壊滅させてしまう。もし光武帝が天下を取れず滅亡していた場合、こいつの責任になっていたはず。
- 28 :
- 百人も出すのって大変だな。
- 29 :
-
- 30 :
- 出ると負け軍師
- 31 :
- ホウケンは愚将に入るんでしょうか?
- 32 :
- 愚将が一国の将軍にまで登りつめられないかと。
- 33 :
- 将軍ではなく宦官だが
【名前】王振
【時代】明。
【理由】皇帝英宗の教師だった宦官。皇帝から「王先生」と呼ばれ絶大な権力をふるった。
廷臣の反対を押し切って皇帝親征を強行、五十万の兵と皇帝と廷臣を引き連れオイラート討伐に向うが、
敵に会わずに帰還。帰路、自分の故郷に皇帝を迎えるつもりだったが、故郷の田畑が荒れるのを心配しコースを変更。
そのため明軍は危険地帯を休憩なしで通過する事になり、オイラートの奇襲をうける。
さらに王振は、輜重隊を待つという理由で土木という砦に軍を留めた。土木には水が無く、オイラートに包囲された明軍は
玉砕、王振はされ英宗は捕虜となった。これが史上有名な「土木の変」である。
この戦いで明軍は恭順候呉克忠、弟の呉克勤、成国公朱勇、永順伯薛授、兵部尚書鄺埜、戸部尚書王佐、英国公張輔ら重要人物が多数戦死した。
- 34 :
- >>23
人材面ではほぼ互角でしょう。負けた陣営にいたから評価がひくいだけで。
官渡はどっちに転んでもおかしくない戦いだったし、
逆の結果になっていれば曹操側にロクな人材がいなかったからという評価になったはず。
それに本人もそれほど無能とは思えないな。
- 35 :
- 人生最大の好機をアホな理由で見逃し→一大決戦き大敗し転落→失意の中アボン→袁家滅亡は
これまでの全てを無に帰す、いやマイナス
まぁ袁紹より愚将は探せば沢山いそーだけどな
- 36 :
- 【名前】童貫
【時代】北宋
【理由】金に圧迫される遼を見て大群を擁し失地回復を図るも失敗
金に泣きつき、密かに賄賂を送って攻めて貰い、金軍によって略奪された後の空城に
入城、「建国以来の大功」と主張する。宋と金が戦端を開くとあっさり逃亡
北宋の六賊の一人。宦官
- 37 :
- >>20
相手が凄かったと思うよ
慕容恪はあの時代でも一、二を争う名将だし、
ただ段遼にも負けてる>麻秋・・・
- 38 :
- 符堅だって1回の大敗で滅んだけどそれまでは名将だった
袁紹だって河北を制したんだし愚将とは思えない。
- 39 :
- ちょっと長いけど、テンプレに沿って>>8を書き直してみた。
【名前】趙括
【時代】春秋戦国
【理由】
秦は紀元前262年、遠征軍を趙に差し向け、上党を占領した。
上党の人々は長平に逃げ込み、王?軍はこれを追い趙にそのまま
攻め入る。
これに対し趙は廉頗を総大将とし持久戦に持ち込み、そのまま2年
の歳月が過ぎた。
秦の宰相・范雎は趙の国内にスパイを送り、「秦は趙括が趙軍の指
揮を取るのを恐れている。廉頗であれば組しやすい」というデマを流した。
これを信用した孝成王は、、趙括に総大将に交代させる。
趙括は趙の名将趙奢の子だが、彼は机上の兵法家に過ぎなかった。
それを父親である趙奢も見抜いていた。
着任した趙括は大軍を頼んで、秦の本陣に向かって突撃した。
白起は趙軍を誘い出し、伏兵をもって趙軍を分断、趙括を戦死させる。
残る趙兵四十万はそれにより降伏した。
白起は兵糧が足らず捕虜が反乱を起こすことを恐れ、生き埋めにした。
この戦いでの趙の戦死者・処刑者は四十五万に登るという。
- 40 :
- 父、趙奢は王から貰った褒美を家臣に与え、存分にねぎらった
子、趙括は王から貰った前金?で自分の欲を満たした
母はこれを嘆き、国王に「うちの子は必ず失敗しますが、その際の責任は取りません」と王に願い出た
こんな感じのエピソードもあった気が
しかしこの母もなんか投げやりだなぁ…「自分の子は無能だから将軍になどなるわけがない」と思ってたんだろうか
- 41 :
- 母は、旦那=趙奢から息子を国の存亡を握るような職につくことの
無いように遺言されていたのかと。
息子の失敗で一族に累が及ばないようにということでしょうね。
- 42 :
- でも愚母だよな、息子を御する為に何か必死にしたのかい?って感じ。
この母にしてこの息子あり
- 43 :
- 藺相如が孝成王を諫めても駄目だったのだから、仕方なく
息子を切り捨てて、せめて一族には被害が出ないようにした
のが愚かだと?
- 44 :
- そこは一族総出で馬鹿息子を止めるくらいの気概が欲しい
国より自分たちが大事ですってのをあからさまにやられると萎える
- 45 :
- 趙括・馬ショクは確定でいいと思う
- 46 :
- 本人の資質の問題もあるが、
使う側が人を誤ったという事でしょうかね。
- 47 :
- 名将百選だと絞るのが大変だけど、
愚将百選だと、まず百人の名前出すのが大変だなあw
- 48 :
- でもさ、大敗した奴って結構いるんじゃない?
- 49 :
- >>44
本人が自信もやる気も満々だし、一族の中には趙括支持派もいるだろうから難しいでそ。
人事権握ってるトップが無能だしね。
- 50 :
- 【名前】騎却
【時代】春秋戦国
【理由】 燕は、楽毅は総大将とした五国連合軍を率いて斉軍を
打ち破った。
その後、楽毅は燕軍を率いて斉の首都臨?を占領する。
続いて、楽毅は斉の70余の都市を次々と落とし、残るは即墨と
?の二つとなった。
しかし、斉の存亡を賭けて抵抗したため数年間も落とせなかった。
そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位した。斉の田
単は離間策を用いた。
恵王は楽毅を解任し、騎却を代わりの将軍として送った。
騎却が総大将となると田単は反攻に転じ、騎却を破り奪われた
都市を全て取り返した。
- 51 :
- 騎劫のこと?
- 52 :
- >>51
うん
字探すのめんどくさかったから手抜きした
- 53 :
- オレは「おっくう」を変換して劫の字を出した。
- 54 :
- 【名前】杜松
【時代】明
【理由】サルフの戦いで抜け駆けするが、ヌルハチの作戦によって部隊は全滅、
自身も戦死する。この敗北が引き金になり明軍は敗走した。
杜松はなにかあると裸になり、体についている無数の傷を自慢したがる男で、
自らの武勇のみで戦争に勝てると考えていた一騎駆けの武将に過ぎず、
指揮官として失格といえる人物だった。
- 55 :
- アヘン戦争で、英軍の砲撃が正確なのは魔法のせいで
それを防ぐには女性の尿だとかなんとか占い師にアドバイスされて
着任早々尿桶を集めさせた人がいるらしいじゃないかw
- 56 :
- >>54
明の武官登用試験はかなりいい加減だったらしいからなあ
- 57 :
- >>楊芳だね。
この人の若いころのエピソードも一発の矢で敵の小船を転覆させたとか、
一撃で十数人したとか胡散臭い話ばっかりだよ。
- 58 :
- 1本の矢で2匹のトラをしたとかいうヤシ
- 59 :
- 【名前】王邑
【時代】新
【理由】王莽の従兄弟で大司空の地位にあった人物。
更始帝を討つため、大司徒・王尋と共に四十二万の大軍を率いるて出陣。
二人は同格だが実戦経験のある王邑が事実上の司令官である。
宛を目指し進軍の途中、八千ほどの敵が立てこもる昆陽を囲む。
「昆陽は小城だが、防御が堅いので無視するか、包囲を緩めて敗残兵として
本隊と合流させ士気を下げるのが良い」という参謀の意見も、城からの降服の申し出も
無視して完全包囲する。
昆陽を脱出した劉秀(光武帝)が兵を集め救援に来ると、
みずから迎撃に出て敗れ、味方の士気を大いに下げる。
結局三千の劉秀軍に本陣に攻め込まれ、昆陽の兵も呼応し王尋は戦死、王邑は洛陽へ逃げ込み、
将兵は四散した。
四散した兵は故郷へ逃げ帰り敗戦の模様を伝えたため新の威信は地に落ち、
王莽は側近にまで背かれる有様となったが、そのため頼れるのは王邑のみという状況になり、
大敗の責任を取ることも無く大司馬となり、さらに王莽の後継者の地位まで約束された。
そのためか王邑は最後まで王莽に忠節を尽くし、最後は王莽を守って戦死している。
王邑はかつて翟義の反乱の鎮圧に従軍し、将軍としての能力があると思われていたが、
戦略・戦術共に稚拙で部下の将兵の心理にも無頓着なことから、それはただの勘違いで
実は将としての能力は低かった。
- 60 :
- 王邑は勿論のことだが、王尋も愚将と言えるんじゃなかろうか
- 61 :
- 【名前】呂布
【時代】後漢
189年、霊帝死亡後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓の誘いに乗って主君丁原を害し、董卓に仕えた。
呂布は腕力が常人よりもはるかに強く、弓術・馬術にも秀でていたために飛将と呼ばれた。
呂布は董卓の侍女と密通し、その露顕を恐れていた。
192年、呂布はその手で董卓を害した。しかし董卓の軍事力の基礎であった郭、李?ら涼州の軍勢が復讐の名の下に首都長安(董卓によって洛陽から遷都)に侵入、呂布はしばらく応戦するものの支えきれず、数百騎とともに武関から逃亡した。
その後呂布は袁術を頼ろうとするが、拒否された。さらに張燕ら黒山賊と戦う河北の袁紹に助太刀した。呂布の軍は強く、精強を誇った黒山賊を撃破した。しかし呂布はその後袁紹に兵力の補充を要求し、彼の引き連れる兵も略奪などを行った。
これが袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れた。
- 62 :
- 麻秋は愚将というか、ちょっと頭の足りない猛将じゃないか?
載記ではなく太平広記には、麻秋が「麻胡」と呼ばれて涼州の人々に
恐れられていたと書かれてあるし。
麻秋が本当に愚将なら、そこまで恐れられはしないでしょう。
一方面の司令官を任される器量はあるが、相手がよりにもよって国を
代表する名将ばかりだったのが不運というか…。
- 63 :
- 呂布は愚将という割には、戦に強すぎる気がしないでもない。
- 64 :
- 戦争で勝ってもそれ以外の部分で害出まくってる
間違っても配下にはしたくないし
- 65 :
- 趙奢の子孫が馬姓を名乗ったのは、長平の敗戦が原因なのかな?
- 66 :
- まさか趙括に子孫が馬ショ(ry
- 67 :
- 趙奢は閼与の戦いの後に馬服君に封ぜられる。
将軍馬援の馬氏は趙奢の末裔であり、その称号である
馬服君の馬をとって氏としたと言われる。
まあ、長平の敗戦が契機であってもおかしくないけど。
- 68 :
- >>66
馬ショクでなく馬超の先祖になる。
- 69 :
- まあ、劉備のように
勝手に馬氏の子孫を名乗ってるだけかもしれんがな
- 70 :
- 待て
何進と袁紹は過小評価されすぎだろ
何進本人の実力は無能だったかもしれんが宦官の言いなりにならんだけマシ
そして黄巾の乱での大将軍としての人物起用も的確だったし人を見る目は悪くない
董卓を持ち出したのは大失敗だったが、元が肉屋だった割にはよくやっただろ
袁紹は三国終わって晋の時代になっても冀州じゃ袁紹時代の統治を惜しまれてたっていうし
まあ生まれてくる時代が悪かったな、もう100年ぐらい前だったら名官僚だったと思う
- 71 :
- 三国志の時代はそこまで無能って奴はいないんじゃないか?
- 72 :
- 【名前】劉礼・徐
【時代】前漢
【理由】匈奴の攻撃の際、周亜夫と共に将軍となったが、
ろくろく警備もせず、皇帝がねぎらいに来ると
すぐに出迎えて中へ入れるというヘタレっぷり。
彼いわく「あんなものはガキの遊び。こっちが
攻撃して捕虜にしてやりたい!」と。
- 73 :
- 彼って周亜夫?
- 74 :
- 劉備の愚息の劉禅は入りませんかね?
武将じゃないからダメかもですけど。
ダメっぷりは、なかなかのものだと思うんですが。
- 75 :
- アイツは平凡なだけだろ
- 76 :
- 劉ぜんは有能 傾いた会社を綺麗にたたんだじゃないか。あんなボロ会社を長年維持したしなかなかだと思う
- 77 :
- 超マイナーだが、朱元璋の同僚だった
郭子興配下の任(名は不詳)って武将はどうだ?
郭子興がジョ州に本拠を置いて、元軍の攻撃を受けた際、
元軍を迎え撃つために迎撃するも、
矢を射られた事に驚いて十歩も進まないうちに逃亡したってへたれだ。
更に情けないことに、
こいつは朱元璋の事を力を尽くして戦おうとしない
卑怯者と常々謗っていたそうだから、
本当に救いようがない。
任が逃亡した後、朱元璋が変わって出撃し、
元軍を退けたため、
郭子興は今まで任の讒言を信じ、
朱元璋を冷遇していた事を恥じたという。
でも、これは明実録からの引用だから、
任って武将は朱元璋を持ち上げるために作り出された
架空の(もしくは貧乏くじを引かされた)人物である可能性もある。
- 78 :
- すまん、テンプレ貼り忘れてた。
【名前】任某
【時代】元末
【理由】>>77
- 79 :
- >>73
文帝
- 80 :
- 実際どういった人物が将軍として定義されるの?
文官・宦官肌の高級官僚でも兵を動かしたことがあれば将軍?
- 81 :
- 名将っぽく見せかけて実は軍人としては?の賈似道などはいかがでしょうか?
撤退中のモンゴル軍を破ったと報告して栄達したり、自分の身分を守るために
援軍を送らないとか色々ありますが。
- 82 :
- それは政治家であって軍人じゃないと思うんだけど。
- 83 :
- でもモンケの侵攻時は前線の責任者として出てるでしょ?
- 84 :
- 責任者というには貴族的なポジションかと。
- 85 :
- アヘン戦争でイギリスの軍艦に
おまるで突撃した武将
- 86 :
- 乱期になると、武人に地方政治権力も与えて、前線に追いやることがおおいので、政治家肌のひとでも武将となりえる場合がある。
実際に役職としての将軍(あるいは招討使とか都統とか)を将ととるか、実戦時武器を振るって陣頭指揮した人を将とするか。
広義おいて、前者とすべきだと思う。
だから、楊国忠も、将としてはおもくそ「愚将」とする。
- 87 :
- 従軍して采配を取っていれば対象としていい。
- 88 :
- 水滸伝とかの人物もあり?
- 89 :
- 泣いて斬られた奴
- 90 :
- >>88
水滸伝も実在の人物なら良いでしょ。
- 91 :
- 【名前】李元吉
【時代】唐
【理由】唐の高祖の四男、つまり太宗李世民の弟。乱暴で有名な人物。
武勇は優れていたようだが、将として活躍した記録は無い。
唐初の記録は太宗によって改竄されているが、よく調べると兄である建成は
地味ながら世民に劣らぬ武功があることがわかる。しかし元吉の功績はわからない。
これは彼が将として無能だった証拠だと考えられる。
彼は挙兵の地である大原を任されていたが、敵に攻められて逃走し、その責任を補佐役に擦り付けた。
また自分の罪を父親に知らせた人物をそうとして少数の兵で大軍に向かわせたり、
召使を使って模擬戦をやって死傷者を出し、それを諌めた母をしている。
李世民に敗れた劉黒闥にとどめをさす役割をあたえられたが、弱体化している劉軍に苦戦した。
- 92 :
- 【名前】李広利
【時代】前漢
【理由】武帝に寵愛された李夫人の兄だったため将軍として登用された。
大宛遠征で司令官を務めたが敗れ退却、このとき敦煌まで戻れた兵は1〜2割だったという。
再度の遠征で大宛を下したが、匈奴との戦いでも敗れ単于に降服するもされた。
- 93 :
- あーダメだ
専門の時代以外も知っておかんときつい
- 94 :
- 【名前】范文虎
【時代】南宋
【理由】元との戦いにおいて出兵拒否や消極的な姿勢が目立つ。度重なる出兵命令によって水陸両軍を率いてしぶしぶ出撃したが明けえなく破れた。
襄陽の呂文煥はこれに絶望して元に降伏。南宋崩壊の原因を作った。
その後元に降伏し、弘安の役の時江南軍副将として博多に侵攻するも鎌倉幕府に破れる。
- 95 :
- 楚の将軍の嚢瓦と子常って、どっちが貪欲で人望がない方なんだっけ?
- 96 :
- オレは嚢瓦だと思う。
- 97 :
- >>96
そうなのか?
本によって片方の名前だけしか出てない物もあるから、
ひょっとして同一人物なのか?って、思ってたけど。
どっちも貪欲って書いてあるし。
- 98 :
- 嚢瓦って字は子嚢じゃなかったっけ。読みが一緒だから同一?
- 99 :
- >>95
同一人物やん。
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