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中国史上の謎の事件人物について語る


1 :07/02/02 〜 最終レス :09/05/16
長い中国の歴史上には、真相が謎に包まれた人物や事件がたくさんあります。
 そんな、中国史上の謎について語りましょう。
(例) 千戴不決の議(宋朝の太祖趙匡胤の死と、弟である太宗趙匡義による帝位継承の真相)

2 :
謎ねえ、やっぱり死の真相に関わる謎が多いかな。

3 :
楽毅が斉を滅ぼさなかった件

4 :
漢の恵帝の後を継いだ皇帝は諱が不明
(一般に「恭」とされるが実は根拠はない。史記・漢書やその注には書かれていない)
彼はまた恵帝の実子ではないと思われがちだが、その根拠もなく、恵帝の実子と思われる
なのに間違いが通用しているのが謎

5 :
中国史上の謎と言えば、
・曹魏明帝(曹叡)の父親は本当に文帝(曹丕)なのか
・北魏孝文帝と馮太后の関係は、義理の祖母と孫ではなく、
 実の母子だったのではないか
とかもあるな。

6 :
>>5
それなら秦始皇帝の出生が一番有名だね
マイナーなところでは漢の昭帝は霍光の子供だって話がある

7 :
近いところで言えば清の順治帝の出家説
乾隆帝の出生についても母親が漢族とかいろいろあるらしい

8 :
出生と言えば晋の元帝もあったね
信憑性は始皇帝や魏の明帝より更に怪しいと思うが

9 :
>>7
乾隆帝漢族説は信憑性はほとんどないようだけど、
順治帝出家伝説はどうなんだろう。
そういや明の建文帝も出家伝説みたいなのがあるね。

10 :
謎といえば老子

11 :
>>9
格別、仏教信者でもない康熙帝が五台山に何度も行幸しているのが不思議ですね。
建文帝に関しては雲南に逃れて、そこの寺廟に隠棲して正統年間まで生きたという説から
泉州経由で東南アジアに渡航した説まで幅広くありますが、仮に生き延びたとしても
永楽帝の東廠・錦衣衛の追求から免れたのかという反論もあります。
>>10
老子が釈迦になったという『化胡説』が後漢からありますな。

12 :
李自成が実は生き延びていたという伝説もあるね。
やはり出家したとか。

13 :
金庸の武侠小説はこういうネタをよく使うな。
李自成が実は生きていた → 雪山飛狐
順治帝出家 → 鹿鼎記
乾隆帝は実は漢人 → 書剣恩仇録

14 :
金の章宗も徽宗の外孫とかいう噂があったけど、
完全にガセ。
異民族でちょっと出来がよかった皇帝を漢人と
言い張るのって伝統的なのか?

15 :
雍正帝の死も暗説とかがあるね。
本当は過労死みたいなもんだったらしいけど。

16 :
雍正帝が親王時代に、少林寺に入って武術修行したって話は、
実際に伝わる伝説なのかな。
それとも映画や小説のネタなのかな。

17 :
不知道你们知不知道秦始皇的身世之迷呢?这在中国是家喻户晓啊!起至吕布韦“奇货可居”的故事。
宋太祖趙匡胤 “烛光斧影”之迷 野史是说被弟弟趙光义联合宦官用斧头杀害的。
顺治出家说是因为爱妃死了,其实是子虚乌有,最大可能是生病早夭。
乾隆的身世说是和海宁陈阁老有关,是雍正皇帝政治斗争的产物,大抵也是意的。
还有明建文皇帝朱允文,被叔叔造了反,战后因为没找到尸体,就有人传说他没死会杀回来的。
还有雍正皇帝说是被吕留良的女儿吕四娘暗杀,连头都被割去了,其实他最大的死因可能是服丹中毒。

18 :
蒲将軍謎じゃね?

19 :
蒲将軍くらい不明な奴、あの時代にはいくらでもいる
樅公だってあれだけ鮮烈な死に様が記録されてるのに本名不明だぜ

20 :
4000年最大のミステリー張良の膜を破ったのは誰か!?
項伯  ⇒ あのストーカーぶりから見て、超本命といえるだろう。
蒼海公 ⇒ 張良の体が目当てだった可能性高し。
劉邦  ⇒ 宦官の膝で寝ているような人だからねぇ。犯りそうだな。
呂后  ⇒ 女性でありながら巨大なイチモツを持つ烈女

21 :
乾隆帝漢人説は誤解

22 :
>>13
福康安が乾隆帝の私生児というネタも実際にある伝説みたいだね。

23 :
ろうあいの|はどのくらいのサイズだったんだろう?

24 :
始皇帝は本当に呂不韋の子供なのか

25 :
始皇帝が呂不韋の子という話は、当時かなり一般に広く流れた噂らしいね。
六国を滅ぼした秦への恨みから来る中傷の可能性もかなりあると思う。

26 :
でも始皇帝の場合、始皇帝自身もそう思ってたんじゃないのかな、と思う。

27 :
家臣の何某が自身の妻なり愛人を、皇帝などの時の権力の頂点の人物に
譲ったり、奪われたりした場合、その女との間に出来た子は
必ずと言っていいほど、その出生を疑われる。
基本的によくあるパターンだから、あんまり気にしないで良い。

28 :
曹叡も同じパターンだな

29 :
>27
でも史記に書いてあるとおりなら、始皇帝の母親、いろんな意味で無茶苦茶
だからなぁ〜w
あんな母ちゃんなら、出生疑われてもしようがないと思うよ。

30 :
>>29
疑わしいと、事実との差はでかい。
始皇帝の出生に関しての疑惑は、戦国策には記載されておらず、
戦国策を参考にしていることの多い史記が、なぜこの説を記したのか?
その根拠とした資料も分かっていない。
歴史上、悪人とされる人物は、悪意を持って書かれことも多く
始皇帝の場合もその類である可能性は高い。
現状では史記、漢書に書かれている説ぐらいに思うのが賢明だと思う。
早い話は伴野朗はバカだって話。

31 :
お前〜それでも皇帝か〜お前のとーちゃん(元)商人だ〜
いいかげんにしないと本燃やして儒者穴に埋めるぞ!

32 :
始皇帝=大日本帝国
出生の秘密=南京大虐
に変換してみて、それでも始皇帝が呂不韋の子供であると思うなら、
それは各自の信念の問題。
漢成立後、始皇帝の出生に関しての記述を、残せる人物も残せる期間もあったのに
それを裏付ける資料もなく、司馬遷自身が史記において、
呂不韋伝には疑惑を提示し、始皇帝本紀には記しておらず、
出生の秘密に関しては、その回答を得られず、両説明記した可能性もある。
仮に呂不韋が父である確たる証拠があるも、はばかったのであれば、
漢書にはその説が明記されており、定説となっていなければおかしい。
資料が発見されれば確定する話。
南京大虐を信じる人と同じで、信じたければ信じればいい。

33 :
確定する史料なんか出て来ないと思うけどね。
だから未来永劫語られ続けるんだろうな。

34 :
>>33
孫武の兵法書が出土したのはご存知か?
資料がないのなら呂不韋のガキじゃないんだろ。

35 :
>>32
馬鹿ウヨはこの板に来るな。

36 :
>>5
関連するけど、その曹叡が後継として秘密裏(?)に養子にとっていたという曹芳。
一体だれの子供だったのかねえ?

37 :
>>36
あと、なんで年上の秦王が立てられなかったんだろうね

38 :
>>32
そうは言うが、呂不韋が始皇帝の父である、なんて証拠は古代ではどうしようもない気がするな。
南京大虐の問題に例えるのはちと無理があるのではないかと。
現代の話ならば両親の血液型との不一致とか、
DNA鑑定とかで親子かそうでないか物証ができるけども。
曹叡みたいに始皇帝の誕生日(月)とかからでも明快に否定が出来ん以上はまさにどうしようもないと思うなぁ。

39 :
誕生日って言ってもマジで早産って場合もあるからなあ。

40 :
あれ?
始皇帝って腹の中に12〜13ヶ月いたんじゃなかったっけ?
漢方の秘薬で。
・・・まあ、そんな薬が実際にあるかどうかは知らんが。

41 :
でも出世の疑惑があるなら、そもそも秦王になれなかった気もするな

42 :
>>22
異常なほど寵愛の度合いが深かったからね。

43 :
>>38
あのなぁ……古代がどうの、DNAがどうのの話じゃないんだよ。
史記を書くときに司馬遷が、参考にしたとされる資料は分かっている。
そこには呂不韋が父であるとは記されていない。
だから必ず、知られてない資料があったはずなんだ。
だが、ならば何故、始皇帝の出生だけその資料を採用したのか?
その疑問にも答えがない。
史書に明記されており、本来ならその説は確定していておかしくない。
なのに疑惑止まりなのは、それなりの理由があるわけだ。
古代のことだから――というならば、じゃ、
なんでその時代のことが現代に伝わってるんだ?
それなりの証明が、できるものがあるからだろ?
ある出来事に対して、信頼できる資料や証言を無視し、
憶測や、本人にとって都合の良い話だけを集めて、ナニかを構築しても
客観的な事実にはならない。

44 :
>>36
曹芳に関しては曹彰の孫という説が有力らしい
なんにしろ前王朝の隠しだねとかどこから拾ったとかではなく皇族ということで異論はないらしい

45 :
>>18>>19
「鍾離昧=蒲将軍」説
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E9%9B%A2%E6%98%A7

46 :

蒲将軍について何か確定した訳でもないし
鍾離「昧」の名前や出身地がさらに謎になってしまった・・・

47 :
明末三大怪案

48 :
甘夫人の父。
劉禅の外祖父として、権勢を
ほしいままにしたはずなのに……
未だ姓名不詳なのはなぜなんだ?

49 :
その時点で一族が耐えてたか蜀の領内にいなかっただけじゃね

50 :
沛の人間だからな
一族が同行してたとしても長坂等で脱落していても不思議ではない
そもそも妾だったし、一族は同行してなかったかもしれん

51 :
>>47
紅丸って結局何だったんだろうな。

52 :
宋の太祖の死と太宗の即位
千載不決の疑い

53 :
>>10
確かにそうだな。
老子が実在の人物ではなかったという説もあるみたいだし。

54 :
>>47
挺撃案は、やっぱり鄭貴妃一派の陰謀なんじゃない?
紅丸案は、泰昌帝が死んで誰が得をするか・・・・・・

55 :
案外、紅丸は関係なかったのかもね。

56 :
オイラは徐福だな…

57 :
虫し髯公

58 :
始皇帝が秦の王族の血を引いていないと言う説があるのは、
>歴史上、悪人とされる人物は、悪意を持って書かれことも多く
だけでなく、あんな優秀な人間が単なる王族だと言うだけの
凡庸な人間から生まれるはずがないと言うのも入っていると思うな。
エカテリナ二世も実はプロイセンのフリードリッヒ大王の隠し子だという説もあるらしい。
あれだけの女傑が、あんな凡庸な両親から生まれるわけがないと言う点から。
二人は相当仲が悪かったがね。

59 :
平凡な歴史的事実よりおもしろい虚構のほうが民間に流布しやすいからね。
始皇帝に関しては、もしかしたら顔が呂不韋そっくりだったのかも。
誰が見ても「あ、こいつ呂不韋の隠し子じゃねえか!」とか。

60 :
>>59
なら、そのことが記述されるだろ、常考。

61 :
幼帝の死ってのも結構怪しい事案が多そうな気がする。

62 :
劉備軍閥と孫権軍閥とが同盟を結んだとき、
孫権の妹が劉備の嫁になったということだが、
その女人の名前。
つーか、名前が明らかな女性って少ないよな。
日本においてもだけどさ。

63 :
日本とか中国は名前についての迷信みたいなのがあるし。
特に中国なんて苗字と姉妹の順で呼べば本名なんかわからなくても
十分通じるしな。

64 :
>>62
特に漢代以前は、男とも女とも分からないような名前が多かった。
近世以降なら、明らかに女と分かる名前がほとんどになるけど。

65 :
謎と言えば漢の恵帝の後を継いだ少帝の名前

66 :
>>54
魏忠賢か!

67 :
李文忠の死因

68 :
作者不明の老子

69 :
>>67
> 李文忠の死因
普通、徐達と劉基も含めないか?
この2人の死因にも疑惑がある。何故に李文忠だけ?
って思ったが、劉基スレで李文忠のみ名前が挙がっていたからかw

70 :
北宋の靖康の変後の、欽宗の最後も気になる。
はっきりしたことは分かっていないし、
野史では、完顔亮に処刑されたなんて説もあるらしいし。

71 :
>>69
朱元璋の周辺は、明確に粛清された分を除いても、
怪しい死に方をした奴が多そうw

72 :
漢の文帝の周りに怪しい人死に多いよね

73 :
徐達や劉基に至っては疑惑じゃないでしょ。
疑う余地がないくらい。

74 :

75 :
長安を攻撃した馬超も謎。

76 :
>>73
なんで、あの時期に劉基を粛正したんだ?あの時にやるメリットがない。
後年の大粛正の時に、言いがかりをつけるのに役立ったぐらい。
その為だけにしたのか?

77 :
「馬鹿ウヨ」が「馬謖ウヨ」に見えた俺が来ましたよ

78 :
>>70
遼の最後の皇帝と一緒に処刑されたなんて話になっているね。

79 :
>>76
ちゃうわw
劉基は病死だからだよ。疑う余地なく病死!

80 :
靖難の変事における建文帝生存の可能性

81 :
>>80
海外に逃げたとかいう噂があって、その真偽を探るために、
それで鄭和の艦隊を派遣したとかいう俗説があるな。

82 :
>>79
劉基は病死だけど、徐達は?

83 :
漢の文帝の正妻と子供4人が次々死んでいるのも謎の事件だと思う

84 :
でも、昔って次々にばたばた死ぬって珍しくないからなあ

85 :
>>84
皇帝に即位する直前ってのがね
あと皇帝の有力候補だった斉王、その弟で呂氏打倒した劉章、劉氏で自分を支持した劉沢、叔父の劉交、呂氏打倒の首謀者陳平がみんな即位から3年以内に死んでるのも偶然なんだろうな

86 :
徐達は重い病を得て臥せてたのだから、病死でも不思議じゃない。
明祖からの見舞い品に毒が盛られていたと疑う余地はあるかもしれないが、
むしろ明祖のことだから粛清ということにしたいという願望が反映されて、
そんな話になったのでは、と。

87 :
秦檜も結構謎だよな。
金軍に北方まで連れて行かれる以前は硬骨漢みたいなのに・・・。

88 :
>>87
秦檜には自分内での行動規範みたいなものがある気がする。
最初は他の主戦派と同じようにどっちかっつーと机上の空論的な論理で徹底抗戦主張してたけど、
実際に金国内に行ったら、これを完全に撃退するなんて無理って現実に気づいて、
宋朝をできるだけ残す方面で動いたとか。
実際宋金戦争が長引いたら、秦檜を売国奴呼ばわりする余裕もないぐらい国土が疲弊してっただろうし。
岳飛の動きは「せっかく和平交渉してるのに、空気嫁DQN」て感じだったろうなと。

89 :
>>88
俺も和議締結までなら弁護できるんだが
その後はちょっと弁護できない。

90 :
そこまで秦檜が自分の意思で能動的に政治を左右できるもんじゃない。
当然、誰かの意向が影響しているのだろう。
皇帝にとっては、岳飛も秦檜もトカゲの尻尾だよ。

91 :
>>90
>>89でも書いたけどその後の独裁体制を敷いたことが不可解

92 :
叩かれるかも知れんけど、
日本の終戦にも似てる気がするんだよね。
あそこで岳飛みたいなヤツが出てきて、上の意思にも従わずに
下を煽って徹底抗戦主張した場合どうなったかと思うと、ちっとは弁護してもいいかなと。

93 :
皇帝にとっても後ろめたいことが多く、あまり掣肘できなかった、などという話は多い。
皇帝の信任を得て、その黒い部分を担っていたのならば、後々それを有効利用することも
まぁ、政治にかかわる者なら、大なり小なりやるんじゃないのかな。
それほど不可解なこととも思えないけど。弱みを握っちゃえば、より能動的に動きやすいからねぇ。
だからといって、それが為政者の当然あるべき姿、などととは口が腐っても言えないが。
これは諦観で、為政者とはしょせんその程度のもの、ということ。弁護しているわけではないよ。
実は自分は逆に、和議締結までの方が、より弁護できない。する気も無いけど。

94 :
今の時代の感覚で言ってしまえばそんな感じだろうけど
宋は徹底した皇帝への集権体制とその支配下での文民統制と言う特色があって
靖康の変の後に高宗がなんだかんだ言ってもある程度の主導権を持っていたのは
そうした意識が文官たちに浸透していたからことが理由だと思う。
実際に金との国境が定まりかけてから南宋の政治責任者たちは
財政的にも軍事的にも中央集権体制を目指す方針を一貫して取っていた。
そんな中でかつて社稷の臣とも言える言動をしていた秦檜が
皇帝を差し置いて独裁するということは非常に理解しがたいと思う。

95 :
>>94
なるほど。
でもどうだろう。そこまで、高宗の皇帝権力が強化できていたかどうか。
一旦崩壊の憂き目にあった国は、大義や名分や制度よりまずちからが重きをなす場合が多い。
高宗はたしかに、あるていど自ら戦を監督する親征はしても、前線はほとんど
崩壊から各地で抗戦していた衆をもってしている。
制度はどうあれ、人民の意識のなかに、絶対者たる皇帝の重みが若干薄らいでいたとは
思えないだろうか。
神宗の時代でさえも、皇帝の一言が臣下を掣肘できなかったのだから、高宗が自ら
その実力と存在感を示さなければ、皇帝といえども発言力は相対的に低くなるものだ。
それに秦檜は権勢を維持するのに、なかなか周到だったから、根の深いそういうものは
制度上では独裁君主ではあれど、なかなか抑えにくいものじゃないかと。

96 :
>>92
叩く気はないけど、
終戦時の日本とアメリカほどの国力差が宋と金の間にあったかっていうと……。

97 :
>>96
そもそも岳飛には、旧帝国陸軍のように天皇の意向すらも曲げる、というほどの権力は
なかったので、そういう対比は愚かしいと思うんだよね。
それに日本の場合、一億総玉砕を提唱しており、また南宋軍とは真逆に負け続けていた。
南宋は曲がりなりにも、河南に食い込むほど勢力を盛り返していたのだから。
それもこれも、各々の局地勝利の賜物なんだろう。
と言っても、金といえども、なにも雲霞のごとき大軍、というわけではなかったんだけどね。
ま、その辺りが両国の最大戦線で折り合いのつくあたりだったのだろう。

98 :
ごめん、>>96じゃないな、>>92さんのほう。

99 :
往生際悪くてスマソ
実力伯仲だからこそ戦争が長引くって事だと思うから。
和平と独裁のお陰?で結局モンゴルが出てくるまで、
南宋は金に対して政治的には負けだったけど、文化と経済は結果的に勝ちだったんだよ。
あえて主戦派を切ったという事で意味あるとは思う。奸臣、売国奴って言い切れないと思う。

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